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●叔父風、叔母風
親風どころか、叔父風、叔母風を吹かす人がいる。
福井県O町に住んでいるX氏(45歳)から、こんなメールが、届いた。
「私の住む地域は、古臭いところです。
はやし先生は、よく親風を問題にしますが、
このあたりでは、親どころか、親の兄弟たちまで、
甥や姪の家の中にまで、ズカズカと入り込んできて、
遠慮なく、干渉してきます。
先日は、『お前は、ちゃんと、親父を大切にしているか?』と
言ってきました。
あるいは、『KK(=私の父親)は、心配ないな。
お前のような、親孝行のいい息子をもっているからな』
と言いました。
どこか、いつも、イヤミに聞こえます。
こんなことは、私の地域だけでしょうか。
それとも全国的なことなのでしょうか」と。
マガジンへの掲載を許してもらえなかったので、私のほうで少し内容を要約、改変した。
まあ、全体としてみれば、親風を吹かす人(=悪玉親意識をもっている人)は、それ自体が、
基本的な人生観になっているため、あらゆる方面で、権威主義的なものの考え方をする。
それがときに、叔父風、叔母風にもなる。自分の息子や娘どころか、甥や姪まで、自分のモノ
(配下)のように、扱う。もともと上下意識が強く、「親は絶対」「家は絶対」「先祖は絶対」という ような考え方をする。
このタイプの人は、それ以外の考え方ができないので、説得してもムダ。こうした権威主義的
なものの考え方を否定するということは、その人の人生を否定することに等しい。だから、どん な言い方をしても、猛烈に反発する。
だから適当にあしらいながら、つきあうしかない。
しかし私も、親風までは考えたことはあるが、叔父風、叔母風までは考えたことがなかった。
なるほど!
(はやし浩司 親風 叔父風 叔母風)
●「長男だから……」という『ダカラ論』
カナダ在住の女性(日本人。夫はカナダ人)が、以前、こう書いてきた。
「日本では、いまだに、長男だから……と、ダカラ論だけでものを考える人がいるのには、驚
きました」と。
一方、フランスに住んでいる女性からは、こんなメールが届いた。
「夫の母親(フランス人)の家に遊びに行くと、夫の母親が、私たちに、『私の家を買ってくれな
い?』と言います」と。
日本では、あまり聞かれない言い方なので、新鮮な感じがした。実の母親が、実の息子夫婦
に、「(私も歳をとったから、町の中のアパートに引っ越したい。ついては)、私の家を買ってくれ ない?」と言うというのだ。
親が、息子夫婦に、家を売るというのである。「あげる」とか、「渡す」ではなく、「売る」と言って
いる、と。
何でもないことのようだが、ここに日本と欧米の親子観のちがいが、集約されているように思
う。つまりこういう発想は、日本人にはない。
むしろ日本では、逆に考える。どう逆に考えるかは、ここで改めて説明するまでもない。
が、問題は、その先。
今の今でも、「長男だから」という、意味のない『ダカラ論』にしばられて、悶々とした人生を送
っている人は、少なくない。人生のほとんどを「家」にしばられたままの人である。
親子関係がそれなりにうまくいき、それなりに生活の保障された「家」なら、まだ納得できる。
しかし親子関係は、メチャメチャ。その上、それほどの家でもない(失礼!)。そういう家にし
ばられ、長男だからという『ダカラ論』にしばられている人の、欲求不満は、相当なものである。
友人のY氏(56歳)もそうだ。両親は、H市の郊外に、畑をもっていた。家の横には、8世帯
分のアパートも所有していた。父親は、Y氏が35歳くらいのとき、他界。最近、母親が死んだの で、自由になったとはいえ、心が晴れない。
そのY氏は、会うたび、いつもこう言う。
「ぼくも、林君のように、若いときは、外国を飛びまわりたかった」と。
Y氏がもつ不完全燃焼感は、恐らくY氏でないとわからないだろう。そこで私が、「じゃあ、土
地と家を売って、今、したいことをすればいいじゃない。まだ人生は長いから……」と言うと、Y 氏は、こう言った。
「それができれば、文句はないよ。土地を売るといえば、叔父や叔母が黙っていないよ。親の
墓守りをしなければ、土地と家は、すべて返せと言われるよ」と。
そういうY氏のような例もある。事情は、それぞれ、複雑なようだ。
私自身も、若いころは、何度も、外国への移住を考えた。しかしそのつど、母に泣きつかれ、
それを断念したという経験がある。Y氏ほどではないが、その不完全燃焼感が、ないわけでは ない。
しかし江戸時代ではあるまいし……。21世紀にもなった今、「家」だとか、「長男」だとか言っ
ているほうがおかしい。いつになったら、日本人は、そのおかしさに気づくのか。
……というのは、言い過ぎかもしれない。ただ現在は、日本も大きな過渡期すぎ、つぎの新し
い時代に入りつつあるときと言える。こうした過去の亡霊にこだわっている人は、地方に住む、 古い世代にかぎられてきている。私の姉が嫁いだ家も、昔からの農家だが、姉夫婦は、こう言 っている。
「息子や娘には、自分の人生があるから、自分の人生を生きればいい」と。
そういう考え方が、今、日本の主流になりつつある。
●子どもの机
近所のRさん(母親)が、二人の息子(小学生)のために、家の内装を変えた。たまたまRさんと
通りで会うと、Rさんは、うれしそうに、「見てください」と言った。それで、ほんの5、6分程度だ ったが、部屋の中を、見せてもらった。
今まで壁で二つに分かれていた部屋を、大きな一つの部屋にした。そして中央に、ソファ、一
つの学習机は、壁に向って、もう一つの学習机は、窓に向っておいてあった。が、二つとも、前 に高い棚のある、閉鎖式の学習机。せっかくの窓も、半分以上、その棚で隠れてしまってい た。
私は、「これでは子どもは、勉強嫌いになる」と思ったが、何も言わなかった。説明するにも、
時間がない。どこからどう説明しようかと考えているうちに、時間がきてしまった。「仕事があり ますから」と、その場を去った。
【ポイント1】
学習机は、勉強するためのものではない。休むためのものである。
子どもが勉強をしていて疲れたとき、そのまま休めるような机がよい。休めない机だと、子ど
もは、その場を離れる。つまりその瞬間、勉強は中断する。一度、中断した勉強は、なかなもと に、もどらない。
【ポイント2】
机は、スミから、部屋の中央、出入り口のドアが見える位置に配置する。
【ポイント3】
机の前に棚のある閉鎖式の机は、一時的に子どもをひきつける効果はあるが、長つづきし
ない。その圧迫感が、長い時間をかけて、子どもを勉強嫌いにする。
子どもの学習机は、広くて、何もない、開放式の机にする。
【ポイント4】
意外と盲点なのが、イス。イスは、広くてゆったりとした、ヒジかけのあるものを選ぶ。
【ポイント5】
机の前にはできるだけ広い空間を用意する。本棚など、圧迫感のあるものは、背中側に配
置する。窓は、座った位置からみて、左側にあるように配置するのがよい(右利き児のばあ い。)
学習机を安易に考えてはいけない。長い時間をかけて、子どもを勉強嫌いにする可能性(危
険性)がある。
……というようなことは、実は、もう何度も、あちこちで書いてきた。Rさんの子どもの部屋を
見たときも、あああと思っただけで、声が出なかった。「何度説明しても、新しい母親は、同じよ うな失敗を繰りかえすのだあ」と、心のどこかで思った。
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以前、書いた原稿を、そのまま転載する。
あちこちの雑誌や、本に書いた原稿を、
そのまま転載します。内容的にダブる部分
もありますが、お許しください。
これはあなたの子どもを勉強嫌いにしない
ためです。
++++++++++++++++++
●机は、購入後三か月で、物置台
子どもの学習机は、勉強するためにあるのではなく、休むためにある。
どんな勉強でもしばらくすると、疲れる。問題はその疲れたとき。そのとき、そのまま机に座っ
て休めればよし。そうでなければ、子どもは机から離れる……イコール、そこで勉強は中断す る。
一度、中断した勉強は、なかなかもとに戻らない。そこで机を選ぶときは、そのまま休める机で
あるかどうかを考えながら、選ぶ。
最近では前に棚のある、棚式の学習机が主流だ。しかしこのタイプの机は、機能的にはできて
いるが、圧迫感があって、長く使っていると抑うつ感が生まれる。へたをすれば、勉強嫌いの 遠因ともなりうる。
実際、私が調査したところ、この棚式の机は、購入後三か月で、約八〇%強が物置台になっ
ていることがわかった(小学一年生、三〇名について調査)。
そこであなたの子どもと学習机の相性を調べてみよう。方法は次のようにする。まず子ども
が好きそうな食べものを用意する。そしてそれをそれとなく、子どもの机の上に置いてみる。そ のとき子どもがそのまま机に座って、それを食べればよし。しかし子どもがそれを机から別の 場所へ移して食べるようであれば、相性はかなり悪いとみる。
あるいはあなたの子どもが学校から帰ってきたとき、最初にどこに座り、体を休めるかを観
察してみる。そのとき子どもが、自分の机に座って体を休めるようであれば、その机との相性 は、きわめてよいとみる。
結論から先に言えば、学習机のポイントは、
(1)平机であること。
(2)机の前にはできるだけ広い空間を用意すること。
(3)棚など、圧迫感のあるものは、背部に置くこと。
(4)机に座った位置から、ドアが見えるように配置すること。
背中側にドアがあると、心理的に落ち着かない。
(5)窓の位置も重要である。窓は机に座った位置から、向かって左側にあるとよい。これは採
光のため(約一〇〇名について調査)。
しかしもっと重要なのが、実は、椅子である。机を選ぶときは、椅子の座りごごちをみること。
椅子は座る部分が平らで、かためのもの。窮屈なものより、広めなものがよい。腕を休めるこ とができるひじかけがあれば、なおよい。
ふかぶかとした、やわらかい椅子は、一見座りごこちがよさそうにみえるが、実際には疲れや
すいことがわかっている。
また、わざと前かがみになって学習する椅子がある。椅子自体が、前へ傾くようになっている。
しかしあの椅子は、学習中は能率があがるものの、座った状態で休むことができない。つま り、そこで学習が中断する。
なお小学校の低学年児についてみると、大半の子どもは、台所のテーブルなどを利用して勉
強している。子どもというのは、無意識のうちにも、一番居ごこちのよい場所を選んで、勉強す る。
もしそうであれば、テーブルを積極的に学習机にしてみるという手もある。子どもは進んで、勉
強するようになるかもしれない。少なくとも勉強は学習机でするものという考え方は、この時期 には当てはまらない。
要するに、ものには相性というものがある。その相性が悪いと、長い時間をかけて、子どもを
マイナスの方向に引っぱってしまう。子どもの学習環境を考えるときは、機能ではなく、その相 性をみながら判断する。
+++++++++++++++++++++++
●机は平机
以前、小学一年生について調べたところ、前に棚のある棚式机のばあい、購入後三か月で、
約八〇%の子どもが机を、物置にしていることがわかった。
いろいろな附属品ついいる棚は、一時的に子どもの関心を引くことはできても、あくまでも一時
的。棚式の机は長く使っていると、圧迫感が生まれる。その圧迫感が子どもを勉強から遠ざけ る。
あなたも一度、カベに机を向けて置き、その机でしばらく作業をしてみるとよい。圧迫感がどう
いうものか、理解できる。そんなわけで机は買うとしても、長い目で見て、平机が好ましい。ある いはこの時期、まだ机はいらない。
まず第一に、「勉強は学習机」という誤った固定概念は捨てる。日本人はどうしても型にはま
りやすい民族。型を決めないと落ちつかない。学習机その延長線上にある。
小学校の低学年児の場合、大半の子どもは、台所のテーブルなど利用して学習している。もし
そうであれば、それでよい。この時期、あまり勉強を意識する必要はない。「勉強は楽しい」と いう思いを子どもがもつようにするのが大切。そこであなたの子どもと机の相性テスト。
子どもが好きそうな食べ物などをそっと机の上に置いてみてほしい。そのとき子どもがそれを
そのまま机に向かって座って食べればよし。そうでなく、その食べ物を別の場所に移して食べ るようであれば、机との相性はよくないとみる。長く使っていると、それが勉強嫌いの遠因にな ることもある。
よく誤解されるが、子どもの学習机は、勉強するためにあるのではなく、休むためにある。ど
んな勉強でも、一〇〜三〇分もすれば疲れてくる。問題はその疲れたときだ。子どもがそのま ま机に向かって休めればよし。そうでないと子どもは机から離れ、そこで勉強が中断する。
勉強というのは、一度中断すると、なかなかもとに戻らない。だから机は休むためにある。が、
それでもなかなか勉強しないというのであれば、奥の手を使う。
あなたの子どもが学校から帰ってきたら、どこでどのようにして体を休めるかを観察してみ
る。たいては台所のテーブルとか、居間のソファだが、そういうところを思いきって勉強部屋に する。あなたの子どもは進んで勉強するようになるかもしれない。
ものごとには相性というものがある。その相性があえばことはうまくいく。そうでなければ失敗
する。
++++++++++++++++++++++
●勉強部屋は開放感がポイント
以前、高校の図書室で、どの席が一番人気があるかを調べたことがある。結果、ドアから一
番離れた、一番うしろの窓側の席ということがわかった。
子どもというのは無意識のうちにも、居心地のよい場所を求める。その席からは、入り口と図
書室全体が見渡せた。このことから、子ども部屋について、つぎのようなことに注意するとよ い。
H机に座った位置から、できるだけ広い空間を見渡せるようにする。ドアが見えればなおよ
い。ドアが背中側にあると、落ち着かない。
棚など、圧迫感のあるものは、できるだけ背中側に配置する。
I光は、右利き児のばあい、向かって左側から入るようにする。窓につけて机を置く方法もあ
るが、窓の外の景色に気をとられ過ぎるようであれば、窓から机をはずす。
J机の上には原則としてものを置かないように指導する。そのため大きめのゴミ箱、物入れな
どを用意する。
多くの親は机をカベにくつけて置くが、この方法は避ける。長く使っていると圧迫感が生じ、そ
れが子どもを勉強嫌いにすることもある。
また机と同じように注意したいのが、イス。イスはかためのもので、ひじかけがあるとよい。フ
ワフワしたイスは、一見座りごこちがよく見えるが、長く使っているとかえって疲れる。また座る と前に傾斜するイスがあるが、たしかに勉強中は能率があがるかもしれない。しかしそのイス では、休むことができないため、勉強が中断したとき、そのまま子どもは机から離れてしまう。 一度中断した勉強はなかなかもとに戻らない。子どもの学習机は、勉強するためではなく、休 むためにある。それを忘れてはならない。
子どもは小学三〜四年生ごろ、親離れをし始める。このころ子どもは自分だけの部屋を求め
るようになる。部屋を与えるとしたら、そのころを見計らって用意するとよい。それ以前につい ては、ケースバイケースで考える。
+++++++++++++++++++++
●机は休む場所
学習机は、勉強するためにあるのではない。休むためにある。どんな勉強でも、しばらくすると
疲れてくる。問題はその疲れたとき。そのとき子どもがその机の前に座ったまま休むことがで きれば、よし。そうでなければ子どもは、学習机から離れる。勉強というのは一度中断すると、 なかなかもとに戻らない。
そこであなたの子どもと学習机の相性テスト。子どもの好きそうな食べ物を、そっと学習机の
上に置いてみてほしい。そのとき子どもがそのまま机の前に座ってそれを食べれば、よし。もし その食べ物を別のところに移して食べるようであれば、相性はかなり悪いとみる。反対に自分 の好きなことを、何でも自分の机に持っていってするようであれば、相性は合っているというこ とになる。相性の悪い机を長く使っていると、勉強嫌いの原因ともなりかねない。
学習机というと、前に棚のある棚式の机が主流になっている。しかし棚式の机は長く使ってい
ると圧迫感が生まれる。日本人は机を暗い壁に向けて置く習性があるが、このばあいも、長く 使っていると圧迫感が生まれる。数か月程度なら問題ないかもしれないが、一年二年となる と、弊害が現れてくる。
で、その棚式の机だが、もう一五年ほども前になるが、小学一年生について調査したことがあ
る。結果、棚式の机のばあい、購入後三か月で約八〇%の子どもが物置にしていることがわ かった。
最近の机にはいろいろな機能がついているが、子どもを一時的にひきつける効果はあるかも
しれないが、あくまでも一時的。そんなわけで机は買うとしても、棚のない平机をすすめる。
あるいは低学年児のばあい、机はまだいらない。たいていの子どもは台所のテーブルなどを
利用して勉強している。この時期は勉強を意識するのではなく、「勉強は楽しい」という思いを 育てる。親子のふれあいを大切にする。子どもに向かっては、「勉強しなさい」と命令するので はなく、「一緒にやろうか?」と話しかけるなど。これを動機づけというが、こうした動機づけをこ の時期は大切にする。
++++++++++++++++++
●学習机 Q 子どもの好きなおやつを、そっと子どもの学習机の上に置いてみてください。あ
るいは何か、子どもの興味をひくようなものでもよいです。するとあなたの子どもは…… (1) そのものを、ほかの場所へ移して、食べたり遊んだりする。 (2)机の上は物置きになることが 多く、いつも雑然としている。 (3)そのまま自分の机の前に座り、それを食べたり、それで遊ん だりする。
A よく誤解されるが、子どもの学習机は、勉強するためにあるのではない。休むためにある。
どんな勉強でも、一〇〜三〇分もすれば疲れてくる。問題はその疲れたとき。子どもがそのま
ま机に向かって休むことができればよし。そうでないと子どもは机から離れ、そこで勉強が中断 する。勉強というのは、一度中断すると、なかなかもとに戻らない。だから机は休むためにあ る。
以前、小学一年生について調べたところ、前に棚のある棚式机のばあい、購入後三か月で、
約八〇%の子どもが机を、物置にしていることがわかった。いろいろな附属品がついた机は、 一時的に子どもの関心を引くことはできるが、あくまでも一時的。
棚式の机は長く使っていると、圧迫感が生まれる。その圧迫感が子どもを勉強から遠ざける。
あなたも一度、カベに机を向けて置き、その机でしばらく作業をしてみるとよい。圧迫感がどう いうものか、わかるはず。そんなわけで机は買うとしても、長い目で見て、平机が好ましい。あ るいは小学校の低学年児には、机はまだいらない。
(1)や(2)のようであれば、机との相性はよくないとみる。長く使っていると、それが勉強嫌い
の遠因になることもある。ものごとには相性というものがある。その相性があえばことはうまくい く。そうでなければ失敗する。(正解(3)) +++++++++++++++++++++ ++
●机は休む場所と考えろ!
子どもが学習机から離れるとき
●机は休むためにある
学習机は、勉強するためにあるのではない。休むためにある。どんな勉強でも、しばらくする
と疲れてくる。問題はその疲れたとき。そのとき子どもがその机の前に座ったまま休むことがで きれば、よし。そうでなければ子どもは、学習机から離れる。勉強というのは一度中断すると、 なかなかもとに戻らない。
そこであなたの子どもと学習机の相性テスト。子どもの好きそうな食べ物を、そっと学習机の
上に置いてみてほしい。そのとき子どもがそのまま机の前に座ってそれを食べれば、よし。
もしその食べ物を別のところに移して食べるようであれば、相性はかなり悪いとみる。反対に
自分の好きなことを、何でも自分の机に持っていってするようであれば、相性は合っているとい うことになる。相性の悪い机を長く使っていると、勉強嫌いの原因ともなりかねない。
●机は棚のない平机
学習机というと、前に棚のある棚式の机が主流になっている。しかし棚式の机は長く使ってい
ると圧迫感が生まれる。もう一五年ほども前になるが、小学一年生について調査したことがあ る。結果、棚式の机のばあい、購入後三か月で約八〇%の子どもが物置にしていることがわ かった。
最近の机にはいろいろな機能がついているが、子どもを一時的にひきつける効果はあるかも
しれないが、あくまでも一時的。そんなわけで机は買うとしても、棚のない平机をすすめる。あ るいは低学年児のばあい、机はまだいらない。たいていの子どもは台所のテーブルなどを利 用して勉強している。この時期は勉強を意識するのではなく、「勉強は楽しい」という思いを育て る。親子のふれあいを大切にする。子どもに向かっては、「勉強しなさい」と命令するのではな く、「一緒にやろうか?」と話しかけるなど。
●学習机を置くポイント
学習机にはいくつかのポイントがある。
(1)机の前には、できるだけ広い空間を用意する。
(2)棚や本棚など、圧迫感のあるものは背中側に配置する。
(3)座った位置からドアが見えるようにする。
(4)光は左側からくるようにする(右利き児のばあい)。
(5)イスは広く、たいらなもの。かためのイスで、机と同じ高さのひじかけがあるとよい。
(6)窓に向けて机を置くというのが一般的だが、あまり見晴らしがよすぎると、気が散って勉強
できないということもあるので注意する。
机の前に広い空間があると、開放感が生まれる。またドアが背中側にあると、心理的に落ち
つかないことがわかっている。意外と盲点なのが、イス。深々としたイスはかえって疲れる。ひ じかけがあると、作業が格段と楽になる。ひじかけがないと、腕を机の上に置こうとするため、 どうしても体が前かがみになり、姿勢が悪くなる。
中に全体が前に倒れるようになっているイスがある。確かに勉強するときは能率があがるかも
しれないが、このタイプのイスでは体を休めることができない。
さらに学習机をどこに置くかだが、子どもが学校から帰ってきたら、どこでどのようにして体を
休めるかを観察してみるとよい。好きなマンガなどを、どこで読んでいるかをみるのもよい。た いていは台所のイスとか、居間のソファの上だが、もしそうであれば、思い切って、そういうとこ ろを勉強場所にしてみるという手もある。子どもは進んで勉強するようになるかもしれない。
●相性を見極める
ものごとには相性というものがある。子どもの勉強をみるときは、何かにつけ、その相性を大
切にする。相性が合えば、子どもは進んで勉強するようになる。相性が合わなければ、子ども は何かにつけ、逃げ腰になる。無理をすれば、子どもの学習意欲そのものをつぶしてしまうこ ともある。
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今回は、しつこくも、子どもの学習机についての記事をまとめてみた。今では、「小学校入学」
というと、迷わず、家具屋で、子どもの学習机を購入するのが、当たり前になってしまった。
しかしそれがいかに、おかしなことであるか、それを少しでも理解してもらえれば、うれしい。
「勉強というのは、机に向ってするもの」という、日本独特の固定観念が、その背景にあるもの と思われる。
それがまちがっているとは思わないが、もう少し、子どもの視点(原点)に立ちかえって、学習
机を考えてみる必要があるのではないだろうか。
それがわからなければ、これらの原稿のどこかにも書いたが、あなたも一度、壁に向って自
分の机を置き、本でも何でも読んでみることだ。あなたは10分もしないうちに、本を読むのを やめてしまうだろう。
私は、本や雑誌を読むときは、いつも、ソファの上に寝転んで読む。机ではない。多分、あな
たもそうではないか。そういう視点から、子どもの学習机はどうあるべきか、もう一度、考えなお してみてほしい。
(はやし浩司 子どもの学習机 子供の学習机 部屋の配置 子ども部屋 子供部屋)
(040626)
●世間体
●Mさんへ
今でも、世間体だけで生きている人は、少なくありません。近くの家で、こんな事件がありまし
た。
ある知人の家に、夜中に、隣に住む老人(80歳くらい、男性)から、電話がかかってきまし
た。「家の中で倒れたから、助けてほしい」と。
知人がかけつけてみると、その老人は、玄関先まではってきたらしく、そこで倒れていまし
た。そこで知人が、「救急車を呼びましょうか?」と声をかけると、「それだけはやめくれ。あん たたちが、病院へ連れていってくれないか?」と。
その老人は、「救急車を呼ぶことを、恥ずかしい」と言うのですね。
そうした心情を、私には理解できませんが、あとから知人に話を聞くと、こう話してくれました。
「その老人は、いつも、病気やケガになった人を、バチが当たった、ザマーミロと笑うようなタ
イプの人です。それで自分のこととなると、隠そうという意思が働くのではないでしょうか。だれ もその老人のことなど、気にしていないのですが……」と。
話は大きくそれますが、隣のK国。今、日本はそのK国の核兵器開発問題で、頭を悩ませて
いますが、今年も、食糧不足。推定で100万トンも不足するそうです(韓国・国情院。需要量は 640万トン。K国生産量が、425万トン。援助が約100万トン)。
そのK国の配給事情が、数か月前、写真でレポートされました。その写真を見て、私は驚き
ました。配給を受ける幼児たちが、みな、一張羅(いっちょうら)の服を着て、頬に、あきらかに 紅とわかる、化粧をほどこしていたからです。「ここまで、神経を使うか!」とです。
こうした世間体を気にする人の特徴としては、
(1)人格の中の、核形成(コア・アイデンテティ)の遅れ(未完成さ)
(2)日本独特の文化的後遺症
の2つを、とりあえず、私は考えます。
(1)のことは、子どもたちの成育過程をながめているとわかります。
(自分をさらけ出せない)→(相手に受け入れられるか不安)ということから、(私らしさ)(=ア
イデンテティ)を形成する前に、相手の目を通した自分をつくりあげていきます。
「こうすれば、親にほめられる」「こうすれば、先生に認められる」「こうすれば、友だちに尊敬
され、居心地がよくなる」と。俗に仮面をかぶる状態になります。(ひどいばあいには、人格の 遊離、分裂が観察されることもあります。)
もともとは、基本的には、良好な人間関係が結べない人とみてよいのでは、ないでしょうか。
(2)の日本独特の文化的後遺症というのは、まさに封建時代の亡霊のことをいいます。
私の親類でも、そのほとんどが、「親の悪口を言うヤツは、地獄へ落ちる」とか言って、何ごと
につけ、親を絶対視する傾向があります。それはもう信仰と言うより、カルト(英語では、Sect) に近いものです。
こういうケースがあります。
J氏(42歳)は、母親(70歳)の依頼で、母親の兄(J氏の伯父、母親の実家)の山林を、80
0万円で購入しました。母親の兄の家計を助けるためでした。たまたま兄の長女が結婚する前 で、何かとたいへんだったということもありました。
しかしその山林は、当時の相場でも、100万円にもならないような山林でした。地元の森林
組合の人の話では、50万円でもいい値段だったということでした。
そのことを知ったJ氏が、母親に何度も抗議をしました。「お母さんが、買ってやってくれと頼
んだから買ってやったが、とんでもない値段だ。お母さんのほうから、伯父に文句を言ってくれ」 と。
しかしそうしたJ氏の抗議を、J氏の母親は、ことごとく黙殺してしまいました。
ふつうなら……という言い方が通用しないのが、カルトであるというゆえんですが、ふつうな
ら、J氏の母親は、自分の兄(J氏の伯父)に、文句を言ったはずです。
「どうして、息子に、そんな高い値段で買わせたのか!」とです。
しかしJ氏の母親にしてみれば、実家は絶対。自分の息子が犠牲になっても、実家に向って
文句を言うことはできません。つまり、このタイプの人たちは、そういうものの考え方をするよう ですね。
この私たち常人に理解できない部分が、大きな摩擦を生み出します。ついで葛藤を生み、そ
れがトラブルの原因となります。
子どものころ、私の父は、ある倫理研究団体の信者でした。その団体は、まさに「忠孝」を最善
の美徳と説くような団体でした。私も、よくその会合に連れていかれました。そして耳にタコがで きるほど、「親は絶対だ」「どんな親でも、子は従うべき」という説法を聞かされました。
(今から思うと、まことにもって、親にはつごうのよい団体だったということになります。そのため
に、私はいつも連れていかれたのかもしれません。もともとどこか親不孝のできそこないのよう なところがありましたから。ハハハ)
私の郷里には、少し離れたところですが、かの有名な『養老の滝』というのもあって、いつもそ
の話を聞かされました。ご存知ですか? あの話?
孝行息子の念がかなって、滝の水が、酒に変ったという、あの話です。
で、こうしたカルトを信奉していても、それなりに親子関係がうまくいけば、問題はないのです
が、問題は、そうでないときに起こります。
第一に、そのカルト抜きがたいへん。これは一般のカルト信仰と似ています。カルトにハマっ
た信者を、そのカルト教団から離れさせるのは、容易ではありません。本人から、そのカルトを 抜くのは、さらにたいへんです。
つぎに、抜いたら抜いたで、今度は、その人は、ハシゴをはずされたような状態になってしま
います。同じような現象は、カルト教団から離れた信者にも、よく見られます。思考の中に空白 部分ができてしまいます。信仰をやめた人が、よく無気力状態から虚脱状態になってしまうとい うのは、そういう理由によるものです。
三つ目に、中途半端な抜き方をすると、自責の念から、深い罪悪感を覚える人もいます。さら
に自ら、ダメ人間のレッテルを張ってしまい、人間失格と思いこんでしまう人もいます。「ぼく は、親の死に目にも会えなかった。だからぼくは、失格だ」と。
この問題は、それくらい根が深いということです。ただ単なる、マザコンとか、そういう問題と
は、まったく異質のものです。
本来なら、親自身が、子どもをそういう状態に追いこまないように、子どもをして、じょうずに
親離れできるようにしむけなければならないのですが、その時点で、親は、自分の老後の利益 を優先させてしまうのですね。
日本には、少し前まで、老人福祉という言葉すら、ありませんでした。そういう社会的な不整
備もあります。『老いては子に従え』式に、子どもに老後のめんどうをみてもらうのが、当たり前 になっていました。
Mさんのおかれた状況、立場、そして今のMさんのお気持ちが、たいへんよく理解できます。
私もMさんと同じような家庭環境に育ちました。
しかしこの問題だけは、世代ごとに、世代の中で消していくしかないように思います。それぞ
れの人が、それがカルトであれ、何であれ、それでハッピーなら、私たちはそれについてとやか く言う必要はないし、また言ってはなりません。
「そうだね」「そうだね」と、理解してやることこそ、まあ、思いやりというものではないでしょう
か。へたに反論したりすれば、かえって不要な波風をたてるだけです。実は、私は、子どものこ ろから、それを知っていました。
ただ自分はそうであっても、自分の息子たちにだけは、そうは思わせたくありません。だか
ら、こうした悪習というか、因縁は、私の代で断ち切りたいと思っています。だからいつも私の 息子たちには、こう言って、子育てをしてきました。
「たった一度しかない人生だから、思う存分、お前たちの好きなことをして、生きてみろ。世界
は広い。思い切って、この世界をはばたいてみろ。親孝行なんて、アホなことは考えなくてもい い。家の心配もしなくてもいい。あとのことは、私たちで何とかするから!」と。
(そのせいか、三男は大学を中退。今度はパイロットになるための大学へ転校してしました。
本気で、空を飛ぶようです。喜んでよいのか、悲しんでよいのか……。)
で、おとといも、その三男とワイフで食事に行ってきました。そのとき、足が痛くて、本当は、ど
こかヨボヨボと歩きたかったのですが、息子がいたこともあり、つまりそういうみじめな歩き方を 見せたくなかったものですから、わざとはりきって、歩いてみせました。
親心というのは、そういうものですね。どこか切なく、どこかわびしく、どこかさみしい。
メール、ありがとうございました。
長い返事になってすみませんでした。またよろしかったら、事情をお知らせください。
はやし浩司
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
【世間体】
●世間体で生きる人たち
世間体を、おかしいほど、気にする人たちがいる。何かにつけて、「世間が……」「世間が…
…」という。
子どもの成長過程でも、ある時期、子どもは、家族という束縛、さらには社会という束縛から
離れて、自立を求めるようになる。これを「個人化」という。
世間体を気にする人は、何らかの理由で、その個人化の遅れた人とみてよい。あるいは個
人化そのものを、確立することができなかった人とみてよい。
心理学の世界にも、「コア(核)・アイデンティティ」という言葉がある。わかりやすく言えば、自
分らしさ(アイデンティティ)の核(コア)をいう。このコア・アイデンティティをいかに確立するか も、子育ての場では、大きなテーマである。
個人化イコール、コア・アイデンティティの確立とみてよい。
その世間体を気にする人は、常に、自分が他人にどう見られているか、どう思われているか
を気にする。あるいはどうすれば、他人によい人に見られるか、よい人に思われるかを気にす る。
子どもで言えば、仮面をかぶる。あるいは俗にいう、『ぶりっ子』と呼ばれる子どもが、このタ
イプの子どもである。他人の視線を気にしたとたん、別人のように行動し始める。
少し前、ある中学生とこんな議論をしたことがある。私が、「道路を歩いていたら、サイフが落
ちているのがわかった。あなたはどうするか?」という質問をしたときのこと。その中学生は、 臆面もなく、こう言った。
「交番へ届けます!」と。
そこですかさず、私は、その中学生にこう言った。
「君は、そういうふうに言えば、先生がほめるとでも思ったのか」「先生が喜ぶとでも思ったの
か」と。
そしてつづいて、こう叱った。「サイフを拾ったら、うれしいと思わないのか。そのサイフをほし
いと思わないのか」と。
するとその中学生は、またこう言った。「そんなことをすれば、サイフを落した人が困ります」
と。
私「では聞くが、君は、サイフを落して、困ったことがあるのか?」
中学生「ないです」
私「落したこともない君が、どうしてサイフを落して困っている人の気持ちがわかるのか」
中「じゃあ、先生は、そのサイフをどうしろと言うのですか?」
私「ぼくは、そういうふうに、自分を偽って、きれいごとを言うのが、嫌いだ。ほしかったら、ほし
いと言えばよい。サイフを、もらってしまうなら、『もらうよ』と言えばよい。その上で、そのサイフ をどうすればいいかを、考えればいい。議論も、そこから始まる」と。
(仮に、その子どもが、「ぼく、もらっちゃうよ」とでも言ってくれれば、そこから議論が始まると
いうこと。「それはいけないよ」とか。私は、それを言った。決して、「もらってしまえ」と言ってい るのではない。誤解のないように!)
こうして子どもは、人は、自分を偽ることを覚える。そしてそれがどこかで、他人の目を気にし
た生きザマをつくる。言うまでもなく、他人の目を気にすればするほど、個人化が遅れる。「私 は私」という生き方が、できなくなる。
いろいろな母親がいた。
「うちは本家です。ですから息子には、それなりの大学へ入ってもらわねば、なりません」
「近所の人に、『うちの娘は、国立大学へ入ります』と言ってしまった。だからうちの娘には、
国立大学へ入ってもらわねば困ります」ほか。
しかしこれは子どもの問題というより、私たち自身の問題である。
●他人の視線
だれもいない、山の中で、ゴミを拾って歩いてみよう。私も、ときどきそうしている。
大きな袋と、カニばさみをもって歩く。そしてゴミ(空き缶や、農薬の入っていたビニール袋な
ど)を拾って、袋に入れる。
そのとき、遠くから、一台の車がやってきたとする。地元の農家の人が運転する、軽トラック
だ。
そのときのこと。私の心の中で、複雑な心理的変化が起きるのがわかる。
「私は、いいことをしている。ゴミを拾っている私を見て、農家の人は、私に対して、いい印象
をもつにちがいない」と、まず、そう考える。
しかしそのあとすぐに、「何も、私は、そのために、ゴミを拾っているのではない。かえってわ
ざとらしく思われるのもいやだ」とか、「せっかく、純粋なボランティア精神で、ゴミを集めている のに、何だかじゃまされるみたいでいやだ」とか、思いなおす。
そして最後に、「だれの目も気にしないで、私は私がすべきことをすればいい」というふうに考
えて、自分を納得させる。
こうした現象は、日常的に経験する。こんなこともあった。
Nさん(40歳、母親)は、自分の息子(小5)を、虐待していた。そのことを私は、その周囲の
人たちから聞いて、知っていた。
が、ある日のこと。Nさんの息子が、足を骨折して入院した。原因は、どうやら母親の虐待ら
しい。……ということで、病院へ見舞いに行ってみると、ベッドの横に、その母親が座っていた。
私は、しばらくNさんと話をしたが、Nさんは、始終、柔和な笑みを欠かさなかった。そればか
りか、時折、体を起こして座っている息子の背中を、わざとらしく撫でてみせたり、骨折していな い別の足のほうを、マッサージしてみせたりしていた。
息子のほうは、それをとくに喜ぶといったふうでもなく、無視したように、無表情のままだっ
た。
Nさんは、明らかに、私の視線を気にして、そうしていたようである。
……というような例は、多い。このNさんのような話は別にして、だれしも、ある程度は、他人
の視線を気にする。気にするのはしかたないことかもしれない。気にしながら、自分であって自 分でない行動を、する。
それが悪いというのではない。他人の視線を感じながら、自分の行動を律するということは、
よくある。が、程度というものがある。つまりその程度を超えて、私を見失ってしまってはいけな い。
私も、少し前まで、家の近くのゴミ集めをするとき、いつもどこかで他人の目を気にしていたよ
うに思う。しかし今は、できるだけだれもいない日を選んで、ゴミ集めをするようにしている。他 人の視線が、わずらわしいからだ。
たとえばゴミ集めをしていて、だれかが通りかかったりすると、わざと、それをやめてしまう。
他人の視線が、やはり、わずらわしいからだ。
……と考えてみると、私自身も、結構、他人の視線を気にしている、つまり、世間体を気にし
ている人間ということがわかる。
●世間体を気にする人たち
世間体を気にする人には、一定の特徴がある。
その中でも、第一の特徴といえば、相対的な幸福観、相対的な価値観である。
このタイプの人は、「となりの人より、いい生活をしているから、自分は幸福」「となりの人より
悪い生活をしているから、自分は不幸」というような考え方をする。
そのため、他人の幸福をことさらねたんでみたり、反対に、他人の不幸を、ことさら喜んでみ
せたりする。
20年ほど前だが、こんなことがあった。
Gさん(女性、母親)が、私のところにやってきて、こう言った。「Xさんは、かわいそうですね。
本当にかわいそうですね。いえね、あのXさんの息子さん(中2)が、今度、万引きをして、補導 されてしまったようですよ。私、Xさんが、かわいそうでなりません」と。
Gさんは、一見、Xさんに同情しながら、その実、何も、同情などしていない。同情したフリをし
ながら、Xさんの息子が万引きしたのを、みなに、言いふらしていた!
GさんとXさんは、ライバル関係にあった。が、Gさんは、別れぎわ、私にこう言った。
「先生、この話は、どうか、内緒にしておいてくださいよ。Xさんが、かわいそうですから。Gさん
は、ひとり息子に、すべてをかけているような人ですから……」と。
●作られる世間体
こうした世間体は、いつごろ、どういう形で作られるのか? それを教えてくれた事件にこうい
うことがあった。
ある日のこと。教え子だった、S君(高校3年生)が、私の家に遊びにきて、こう言った。(今ま
で、この話を何度か書いたことがある。そのときは、アルファベットで、「M大学」「H大学」と、伏 せ字にしたが、今回は、あえて実名を書く。)
S君は、しばらくすると、私にこう聞いた。
「先生、明治大学と、法政大学、どっちがかっこいいですかね?」と。
私「かっこいいって?」
S「どっちの大学の名前のほうが、かっこいいですかね?」
私「有名……ということか?」
S「そう。結婚式の披露宴でのこともありますからね」と。
まだ恋人もいないような高校生が、結婚式での見てくれを気にしていた!
私「あのね、そういうふうにして、大学を選ぶのはよくないよ」
S「どうしてですか?」
私「かっこいいとか、よくないとか、そういう問題ではない」
S「でもね、披露宴で、『明治大学を卒業した』というのと、『法政大学を卒業した』というのは、
ちがうような気がします。先生なら、どちらが、バリューがあると思いますか」
私「……」と。
このS君だけではないが、私は、結論として、こうした生きザマは、親から受ける影響が大き
いのではないかと思う。
親、とくに母親が、世間体を気にした生きザマをもっていると、その子どもも、やはり世間体を
気にした生きザマを求めるようになる。(あるいはその反動から、かえって世間体を否定するよ うになるかもしれないが……。)
生きザマというのは、そういうもので、無意識のまま、親から子へと、代々と引き継がれる。S
君の母親は、まさに世間体だけで生きているような人だった。
(このつづきは、別の機会にまた考えてみる。つづく……。)
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
【世間体意識】
●世間体で生きる人たち
世間体を、おかしいほど、気にする人たちがいる。何かにつけて、「世間が……」「世間が…
…」という。具体的には、「そんなことをすると、世間が許さない」「世間が笑う」「世間体が悪い」 などという言い方をする。
子どもの成長過程でも、ある時期、子どもは、家族という束縛、さらには社会という束縛から
離れて、自立を求めるようになる。これを「個人化」という。
世間体を気にする人は、何らかの理由で、その個人化の遅れた人とみてよい。あるいは個
人化そのものを、確立することができなかった人とみてよい。
心理学の世界にも、「コア(核)・アイデンティティ」という言葉がある。わかりやすく言えば、自
分らしさ(アイデンティティ)の核(コア)をいう。このコア・アイデンティティをいかに確立するか も、子育ての場では、大きなテーマである。
個人化イコール、コア・アイデンティティの確立とみてよい。
その、世間体を気にする人は、常に、自分が他人にどう見られているか、どう思われている
かを気にする。あるいはどうすれば、他人によい人に見られるか、よい人に思われるかを気に する。
子どもで言えば、仮面をかぶる。あるいは俗にいう、『ぶりっ子』と呼ばれる子どもが、このタ
イプの子どもである。他人の視線を気にしたとたん、別人のように行動し始める。
●ある中学生との会話
少し前、ある子どもとこんな議論をしたことがある。私が、「道路を歩いていたら、サイフが落
ちているのがわかった。あなたはどうするか?」という質問をしたときのこと。その中学生は、 臆面もなく、こう言った。
「交番へ届けます!」と。
そこですかさず、私は、その中学生にこう言った。
「君は、そういうふうに言えば、先生がほめるとでも思ったのか」「先生が喜ぶとでも思ったの
か」と。
そしてつづいて、こう叱った。「サイフを拾ったら、うれしいと思わないのか。そのサイフをほし
いと思わないのか」と。
するとその中学生は、またこう言った。「そんなことをすれば、サイフを落した人が困ります」
と。
私「では聞くが、君は、サイフを落して、困ったことがあるのか?」
中学生「ないです」
私「落したこともない君が、どうしてサイフを落して困っている人の気持ちがわかるのか」
中「じゃあ、先生は、そのサイフをどうしろと言うのですか?」
私「ぼくは、そういうふうに、自分を偽って、きれいごとを言う子どもが、嫌いだ。ほしかったら、
ほしいと言えばよい。サイフを、もらってしまうなら、『もらうよ』と言えばよい。その上で、そのサ イフをどうすればいいかを、みんなで考えればいい。議論も、そこから始まる」と。
こうして子どもは、人は、自分を偽ることを覚える。そしてそれがどこかで、他人の目を気にし
た生きザマをつくる。言うまでもなく、他人の目を気にすればするほど、個人化が遅れる。「私 は私」という生き方が、できなくなる。
いろいろな母親がいた。
「うちは本家です。ですから息子には、それなりの大学へ入ってもらわねば、なりません」
「近所の人に、『うちの娘は、国立大学へ入ります』と言ってしまった。だから国立大学へ入っ
てもらわねば困ります」ほか。
しかしこれは子どもの問題というより、私たち自身の問題である。
●他人の視線
だれもいない、山の中で、ゴミを拾って歩いてみよう。私も、ときどきそうしている。
大きな袋と、カニばさみをもって歩く。そしてゴミ(空き缶や、農薬の入っていたビニール袋な
ど)が落ちていれば、それを拾って、袋に入れる。
そのとき、遠くから、一台の車がやってきたとする。地元の農家の人が運転する、軽トラック
だ。
そのときのこと。私の心の中で、複雑な心理的変化が起きるのがわかる。
「私は、いいことをしている。ゴミを拾っている私を見て、農家の人は、私に対して、いい印象
をもつにちがいない」と、まず、そう考える。
しかしそのあとすぐに、「何も、私は、そのために、ゴミを拾っているのではない。かえってわ
ざとらしく思われるのもいやだ」とか、「せっかく、純粋なボランティア精神で、ゴミを集めている のに、何だかじゃまされるみたいでいやだ」とか、思いなおす。
そして最後に、「だれの目も気にしないで、私は私がすべきことをすればいい」というふうに考
えて、自分を納得させる。
こうした現象は、日常的に経験する。こんなこともあった。
Nさん(40歳、母親)は、自分の息子(小5)を、虐待していた。そのことを私は、その周囲の
人たちから聞いて、知っていた。
が、ある日のこと。Nさんの息子が、足を骨折して入院した。原因は、どうやら母親の虐待ら
しい。……ということで、病院へ見舞いに行ってみると、ベッドの横に、その母親が座っていた。
私は、しばらくNさんと話をしたが、Nさんは、始終、柔和な笑みを崩さなかった。そればかり
か、座っている息子の背中を、時折、わざとらしく撫でてみせたり、骨折していない別の足のほ うを、マッサージしてみせたりした。
息子のほうは、それをとくに喜ぶといったふうでもなく、無視したように、無表情のままだっ
た。
Nさんは、明らかに、私の視線を気にして、そうしていたようである。
……というような例は、多い。このNさんは別にして、だれしも、ある程度は、他人の視線を気
にする。気にするのはしかたないことかもしれない。気にしながら、自分であって自分でない行 動を、する。
それが悪いというのではない。他人の視線を感じながら、自分の行動を律するということは、
よくある。が、程度というものがある。つまりその程度を超えて、私を見失ってしまってはいけな い。
私も、少し前まで、家の近くのゴミ集めをするとき、いつもどこかで他人の目を気にしていたよ
うなところがある。しかし今は、できるだけだれもいない日を選んで、ゴミ集めをするようにして いる。他人の視線が、わずらわしいからだ。
たとえばゴミ集めをしていて、だれかが通りかかったりすると、わざと、それをやめてしまう。
他人の視線が、やはり、わずらわしいからだ。
……と考えてみると、私自身も、結構、他人の視線を気にしているのがわかる。つまり、世間
体を気にしている。
●世間体を気にする人たち
世間体を気にする人には、一定の特徴がある。
その中でも、第一のあげる特徴といえば、相対的な幸福観、相対的な価値観である。
このタイプの人は、「となりの人より、いい生活をしているから、自分は幸福」「となりの人より
悪い生活をしているから、自分は不幸」というような考え方をする。
そのため、他人の幸福をことさらねたんでみたり、反対に、他人の不幸を、ことさら喜んでみ
せたりする。
15年ほど前だが、こんなことがあった。
Gさん(女性、母親)が、私のところにやってきて、こう言った。「Xさんは、かわいそうですね。
本当にかわいそうですね。いえね、あのXさんの息子さん(中2)が、今度、万引きをして、補導 されたようですよ。私、Xさんが、かわいそうでなりません」と。
Gさんは、一見、Xさんに同情しながら、その実、何も、同情などしていない。同情したフリをし
ながら、Xさんの息子が万引きしたのを、みなに、言いふらしていただけである。
GさんとXさんは、ライバル関係にあった。が、Gさんは、別れぎわ、私にこう言った。
「先生、この話は、どうか、内緒にしておいてくださいよ。Xさんが、かわいそうですから。ひとり
息子に、すべてをかけているような人ですから……」と。
もう一つの特徴としては、当然の結果なのかもしれないが、世間を基準とした価値観をつくる
ということ。他人の目の中で生きるということは、それを意味する。
処世術としては、たいへん楽な生き方ということになる。自分で考えて、自分で責任をとるま
えに、「他人はどうだ?」というようなものの見方をする。
前例主義、復古主義、保守主義、追従主義など、それから生まれる生きザマは、いろいろあ
る。
しかしこうした主義をもてばもつほど、ノーブレイン(思考力ゼロ)の状態になる。自分では、
自主的な行動が、できなくなる。
●世間体との決別
今、世間体を気にしている人は、多い。あなた自身もそうかもしれないし、あなたの夫や妻
も、そうかもしれない。
あなたの親戚の中には、ひょっとしたら、世間体だけで生きている人がいるかもしれない。
しかし一度、世間体にとらわれると、それと決別するのは、容易なことではない。このことは、
子どもたちの世界をのぞいてみると、わかる。
たとえば先にも書いた、「ぶりっ子」の問題がある。このタイプの子どもは、あらかじめ、「こう
いうことをすれば、みなに、いい子に思われるだろう」、「こういうことを言ったり、したりすれば、 先生にほめられるだろう」ということを、計算しながら、行動する。
それ自体が、その子どもの自己主張の場になっているから、それを改めさせるのは、簡単な
ことではない。つまりこうした生きザマは、子どものときから始まっている。それだけ「根」が深 い。それに気づいたからといって、明日やあさってに、改められる問題ではない。
それに他人の目、つまり世間体をまったく否定してしまうと、かえって問題が起きることがあ
る。人は、周囲の社会生活とうまくなじんでこそ、人である。そのために、世間体が、人間関係 を、スムーズにすることもある。
あまり深く考えなくてもよい問題については、それなりに世間体に身を任すことによって、より
楽に解決できる。とくに冠婚葬祭の世界においては、そうである。私も結婚式の祝儀、あるい は葬式の香典などは、そのつど、世間体に相談しながら、決めている。
ただ、ここで言えることは、そんなわけで、世間体がもつ問題は、まさに10年単位の問題で
あるということ。一朝一夕(いっちょういっせき)に、生きザマを確立することができないように、 自分の中に潜む世間体と戦うことは、簡単なことではない。
むしろ年齢とともに、多くの人は、ますますがんこになり、世間体に固執するようになる。世間
体の上に、さらに世間体を塗り重ね、独特の価値観を築くことも少なくない。ある女性(80歳く らい)は、会う人ごとに、いつもこう頼んでいた。
「私は何も望みません。ただ私が死んだら、どうか葬式に来て、線香の一本だけでも立ててく
ださい。どうか、どうか、さみしい葬式だけはしないでください。よろしくお願いします」と。
その女性は、最後のしあげとして、自分の葬式のあり方に、こだわっていた。
【付記】
この原稿を読みかえしてみて、私は、「仮面」と、「世間体」を混同していることに気づいた。
「他人の目を気にして生きる」という点で、共通点を私は、求めた。が、無理があるようだ。少し おかしなところはあるが、このまま収録し、後日、また書き改めることにする。
(はやし浩司 世間体論 世間体)
(040703)
【親・絶対教】
++++++++++++++++++++++++
「親は絶対」と思っている人は、多いですね。
これを私は、勝手に、親・絶対教と呼んでいます。
どこかカルト的だから、宗教になぞらえました。
今夜は、それについて考えてみます。
まだ、未完成な原稿ですが、これから先、この原稿を
土台にして、親のあり方を考えていきたいと
思っています。
6月27日
++++++++++++++++++++++++
●親が絶対!
あなたは、親に産んでもらったのです。
その恩は、忘れてはいけません。
親があったからこそ、今、あなたがいるのです。
産んでもらっただけではなく、育ててもらいました。
学校にも通わせてもらいました。
言葉が話せるようになったのも、あなたの親のおかげです。
親の恩は、山より高く、海よりも深いものです。
その恩を決して忘れてはいけません。
親は、あなたにとって、絶対的な存在なのです。
……というのが、親・絶対教の考え方の基本になっている。
●カルト
親・絶対教というのは、根が深い。親から子へと、代々と引き継がれている。しかも、その人
が乳幼児のときから、徹底的に、叩きこまれている。叩きこまれるというより、脳の奥深くに、し みこまされている。青年期になってから、何かの宗教に走るのとは、わけがちがう。
そもそも「基底」そのものものが、ちがう。
子どもは、母親の胎内で、10か月近く宿る。生まれたあとも、母親の乳を得て、成長する。
何もしなくても、つまり放っておいても、子どもは、親・絶対教にハマりやすい。あるいはほんの 少しの指導で、子どもは、そのまま親・絶対教の信者となっていく。
が、親・絶対教には、もともと根拠などない。「産んでやった」という言葉を口にする親は多
い。しかしそれはあくまでも結果でしかない。生まれる予定の子どもが、幽霊か何かの姿で、親 の前に出てきて、「私を産んでくれ」と頼んだというのなら、話は別。しかしそういうことはありえ ない。
少し話が飛躍してしまったが、親・絶対教の基底には、「親がいたから、子どもが生まれた」と
いう概念がある。親あっての、子どもということになる。その概念が基礎になって、親は子ども に向かって、「産んでやった」「育ててやった」と言うようになる。
それを受けて子どもは、「産んでいただきました」「育てていただきました」と言うようになる。
「恩」「孝行」という概念も、そこから生まれる。
●親は、絶対!
親・絶対教の信者たちは、子どもが親にさからうことを許さない。口答えなど、もってのほか。
親自身が、子どもは、親のために犠牲になって当然、と考える。そして自分のために犠牲にな っている、あるいは献身的につくす子どもをみながら、「親孝行のいい息子(娘)」と、それを誇 る。
いろいろな例がある。
父親が、脳内出血で倒れた夜、九州に住んでいたKさん(女性、その父親の長女)は、神奈
川県の実家の近くにある病院まで、電車でかけつけた。
で、夜の9時ごろ、完全看護ということもあり、またほかにとくにすることもなかったので、Kさ
んは、実家に帰って、その夜は、そこで泊まった。
が、それについて、妹の義理の父親(義理の父親だぞ!)が、激怒した。あとで、Kさんにこう
言ったという。「娘なら、その夜は、寝ずの看病をすべきだ。自分が死んでも、病院にとどまっ て、父親の容態を心配するのが、娘の務めではないのか!」と。
この言葉に、Kさんは、ひどく傷ついた。そして数か月たった今も、その言葉に苦しんでいる。
もう一つ、こんな例がある。一人娘が、嫁いで家を出たことについて、その母親は、「娘は、親
を捨てた」「家をメチャメチャにした」と騒いだという。「こんなことでは、近所の人たちに恥ずか しくて、外も歩けない」と。
そうした親の心情は、常人には、理解できない。その理解できないところが、どこかカルト的
である。親・絶対教には、そういう側面がある。
●子が先か、親が先か
親・絶対教では、「親あっての、子ども」と考える。
これに対して、実存主義的な立場では、つぎのように考える。
「私は生まれた」「生まれてみたら、そこに親がいた」「私がいるから、親を認識できる」と。あく
までも「私」という視点を中心にして、親をみる。
親を見る方向が、まったく逆。だから、ものの考え方も、180度、変ってくる。
たとえば今度は、自分の子どもをみるばあいでも、親・絶対教の人たちは、「産んでやった」
「育ててやった」と言う。しかし実存主義的な考え方をする人は、「お前のおかげで、人生を楽し く過ごすことができた」「有意義に過ごすことができた」というふうに、考える。子育てそのもの を、自分のためととらえる。
こうしたちがいは、結局は、親が先か、子どもが先かという議論に集約される。さらにもう少し
言うなら、「産んでやった」と言う親は、心のどこかに、ある種の犠牲心をともなう?
たとえばNさんは、どこか不本意な結婚をした。俗にいう「腹いせ婚」というのかもしれない。好
きな男性がほかにいたが、その男性が結婚してしまった。それで、今の夫と、結婚した。
そして、今の子どもが生まれた。その子どもどこか不本意な子どもだった。生まれたときから、
何かにつけて発育が遅れた。Nさんには、当然のことながら、子育てが重荷だった。子どもを 好きになれなかった。
そのNさんは、そんなわけで、子どもには、いつも、「産んでやった」「育ててやった」と言うように
なった。その背景にあるのは、「私が、子どものために犠牲になってやった」という思いである。
しかし親にとっても、子どもにとっても、それほど、不幸な関係はない。……と、私は思うが、
ここで一つのカベにぶつかる。
親が、親・絶対教の信者であり、その子どももまた、親・絶対教であれば、その親子関係は、
それなりにうまくいくということ。子どもに犠牲を求めて平気な親と、親のために平気で犠牲にな る子ども。こうした関係でも、親子関係は、それなりにうまく、いく。
問題は、たとえば結婚などにより、そういう親子関係をもつ、夫なり、妻の間に、他人が入っ
てくるばあいである。
●夫婦のキレツ
ある男性(55歳)は、こう言った。「私には、10歳、年上の姉がいます。しかしその姉は、は
やし先生が言うところの、親・絶対教の信者なのですね。父は今でも、元気で生きていますが、 父の批判をしただけで、狂ったように、反論します。『お父さんの悪口を言う人は、たとえ弟でも 許さない』とです」と。
兄弟ならまだしも、夫婦でも、こうした問題をかかえている人は多い。
よくある例は、夫が、親・絶対教で、妻が、そうでないケース。ある女性(40歳くらい)は、昔、
こう言った。
「私が夫の母親(義理の母親)と少しでも対立しようものなら、私の夫は、私に向って、こう言
います。『ぼくの母とうまくできないようなら、お前のほうが、この家を出て行け』とです。妻の私 より、母のほうが大切だというのですね」と。
今でこそ少なくなったが、少し前まで、農家に嫁いだ嫁というのは、嫁というより、家政婦に近
いものであった。ある女性(70歳くらい)は、こう言った。
「私なんか、今の家に嫁いできたときは、召使いのようなものでした。夫の姉たちにすら、あご
で使われました」と。
●親・絶対教の特徴
親・絶対教の人たちが決まってもちだすのが、「先祖」という言葉である。そしてそれがそのま
ま、先祖崇拝につながっていく。親、つまり親の親、さらにその親は、絶対という考え方が、積も りにつもって、「先祖崇拝」へと進む。
先祖あっての子孫と考えるわけである。どこか、アメリカのインディアン的? アフリカの土着
民的?
しかし本当のことを言えば、それは先祖のためというよりは、自分自身のためである。自分と
いう親自身を絶対化するために、また絶対化してほしいがために、親・絶対教の信者たちは、 先祖という言葉をよく使う。
ある男性(60歳くらい)は、いつも息子や息子の嫁たちに向って、こう言っている。「今の若い
ものたちは、先祖を粗末にする!」と。
その男性がいうところの先祖というのは、結局は、自分自身のことをいう。まさか「自分を大
切にしろ」とは、言えない。だから、少し的をはずして、「先祖」という言葉を使う。
こうした例は、このH市でも見られる。21世紀にもなった今。しかも人口が60万人もいる、大
都市でも、である。
中には、先祖崇拝を、教育理念の根幹に置いている評論家もいる。さらにこれは本当にあった
話だが、(こうして断らねばならないほど、ありえない話に思われるかもしれないが……)、こん なことがあった。
ある日の午後、一人の女性が、私の教室に飛びこんできて、こう叫んだ。「あんたは、先祖を
粗末にしているようだが、そういう教育者は、教育者と失格である。あちこちで講演活動をして いるようだが、即刻、そういった活動をやめなさい」と。
まだ30歳そこそこの女性だったから、私は、むしろ、そちらのほうに驚いた。彼女もまた、
親・絶対教の信者であった。
しかしこうした言い方は、どこか卑怯(失礼!)ではないのか。
数年前、ある寺で、説法を聞いたときのこと、終わりがけに、その寺の住職が私たちのこう言
った。
「お志(こころざし)のある方は、どうか仏様を供養(くよう)してください」と。その寺では、「供
養」というのは、「お布施」つまり、マネーのことをいう。まさか「自分に金を出せ」とは言えない。 だから、(自分)を、(仏様)に、(お金)を、(供養)に置きかえて、そう言う。
親・絶対教の信者たちが、息子や娘に向って、「お前たちのかわりにご先祖様を祭ってやる
からな」と言いつつ、金を取る言い方に、よく似ている。
実際、ある母親は、息子の財産を横取りして、使いこんでしまった。それについてその息子
が、泣きながら抗議すると、その母親は、こう言い放ったという。
「親が、先祖を守るため、自分の息子の金を使って。何が悪い!」と。
世の中には、そういう親もいる。
●親・絶対教信者との戦い
「戦い」といっても、その戦いは、やめたほうがよい。それはまさしく、カルト教団の信者との戦
いに似ている。親・絶対教が、その人の哲学的信条になっていることが多く、戦うといっても容 易ではない。
それこそ、10年単位の戦いということになる。
先にも書いたように、親・絶対教の信者であっても、それなりにハッピーな人たちに向って、
「あなたはおかしい」とか、「まちがっている」などと言っても、意味はない。
人、それぞれ。
それに仮に、戦ったとしても、結局は、その人からハシゴをはずすことで終わってしまう。「あ
なたはまちがっている」と言う以上は、それにかわる新しい思想を用意してやらねばならない。 ハシゴだけはずして、あとは知りませんでは、通らない。
しかしその新しい思想を用意してやるのは、簡単なことではない。その人に、それだけの学
習意欲があれば、まだ話は別だが、そうでないときは、そうでない。時間もかかる。
だから、そういう人たちは、そういう人たちで、そっとしておいてあげるのも、私たちの役目と
いうことになる。
たとえば、私の生まれ故郷には、親・絶対教の信者たちが多い。そのほかの考え方ができな
い……というより、そのほかの考え方をしたことがない人たちばかりである。そういう世界で、 私一人だけが反目しても、意味はない。へたに反目すれば、反対に、私のほうがはじき飛ばさ れてしまう。
まさにカルト。その団結力には、ものすごいものがある。
つまり、この問題は、冒頭にも書いたように、それくらい、「根」が深い。
で、この文章を読んでいるあなたはともかくも、あなたの夫(妻)や、親(義理の親)たちが、
親・絶対教であるときも、今、しばらくは、それに同調するしかない。私が言う「10年単位の戦 い」というのは、そういう意味である。
●自分の子どもに対して……
参考になるかどうかはわからないが、私は、自分の子どもたちを育てながら、「産んでやっ
た」とか、「育ててやった」とか、そういうふうに考えたことは一度もない。いや、ときどき、子ども たちが生意気な態度を見せたとき、そういうふうに、ふと思うことはある。
しかし少なくとも、子どもたちに向かって、言葉として、それを言ったことはない。
「お前たちのおかげで、人生が楽しかったよ」と言うことはある。「つらいときも、がんばること
ができたよ」と言うことはある。「お前たちのために、80歳まで、がんばってみるよ」と言うこと はある。しかし、そこまで。
子どもたちがまだ幼いころ、私は毎日、何かのおもちゃを買って帰るのが、日課になってい
た。そういうとき、自転車のカゴの中の箱や袋を見ながら、どれだけ家路を急いだことか。
そして家に帰ると、3人の子どもたちが、「パパ、お帰り!」と叫んで、玄関まで走ってきてくれ
た。飛びついてきてくれた。
それに今でも、子どもたちがいなければ、私は、こうまで、がんばらなかったと思う。寒い夜
も、なぜ自転車に乗って体を鍛えるかといえば、子どもたちがいるからにほかならない。
そういう子どもたちに向かって、どうして「育ててやった」という言葉が出てくるのか? 私はむ
しろ逆で、子どもたちに感謝しこそすれ、恩を着せるなどということは、ありえない。
今も、たまたま三男が、オーストラリアから帰ってきている。そういう三男が、夜、昼となく、ダ
ラダラと体を休めているのを見ると、「これでいいのだ」と思う。
私たち夫婦が、親としてなすべきことは、そういう場所を用意することでしかない。「疲れた
ら、いつでも家にもどっておいで。家にもどって、羽を休めなよ」と。
そして子どもたちの前では、カラ元気をふりしぼって、明るく振るまって見せる。
●対等の人間関係をめざして
親であるという、『デアル論』に決して、甘えてはいけない。
親であるということは、それ自体、たいへんきびしいことである。そのきびしさを忘れたら、親
は親でなくなってしまう。
いつかあなたという親も、子どもに、人間として評価されるときがやってくる。対等の人間とし
て、だ。
そういうときのために、あなたはあなたで、自分をみがかねばならない。みがいて、子どもの
前で、それを示すことができるようにしておかなければならない。
結論から先に言えば、そういう意味でも、親・絶対教の信者たちは、どこか、ずるい。「親は絶
対である」という考え方を、子どもに押しつけて、自分は、その努力から逃げてしまう。自ら成長 することを、避けてしまう。
昔、私のオーストラリアの友人は、こう言った。
「ヒロシ、親には三つの役目がある。一つは、子どもの前を歩く。ガイドとして。もう一つは、子
どものうしろを歩く。保護者(プロテクター)として。そしてもう一つは、子どもの横を歩く。子ども の友として」と。
親・絶対教の親たちは、この中の一番目と二番目は得意。しかし三番目がとくに、苦手。友と
して、子どもの横に立つことができない。だから子どもの心をつかめない。そして多くのばあ い、よき親子関係をつくるのに、失敗する。
そうならないためにも、親・絶対教というのは、害こそあれ、よいことは、何もない。
【追記】
親・絶対教の信者というのは、それだけ自己中心的なものの見方をする人と考えてよい。子
どもを自分の(モノ)というふうに、とらえる。そういう意味では、精神の完成度の低い人とみる。
たとえば乳幼児は、自己中心的なものの考え方をすることが、よく知られている。そして不思
議なことがあったり、自分には理解できないことがあったりすると、すべて親のせいにする。
こうした乳幼児特有の心理状態を、「幼児の人工論」という。
子どもは親によって作られるという考え方は、まさにその人工論の延長線上にあると考えて
よい。つまり親・絶対教の人たちは、こうした幼稚な自己中心性を残したまま、おとなになったと 考えられる。
そこでこう考えたらどうだろうか。
子どもといっても、私という人間を超えた、大きな生命の流れの中で、生まれる、と。
私もあるとき、自分の子どもの手先を見つめながら、「この子どもたちは、私をこえた、もっと
大きな生命の流れの中で、作られた」と感じたことがある。
「親が子どもをつくるとは言うが、私には、指一本、つくったという自覚がない」と。
私がしたことと言えば、ワイフとセックスをして、その一しずくを、ワイフの体内に射精しただけ
である。ワイフにしても、自分の意思を超えた、はるかに大きな力によって、子どもを宿し、そし て出産した。
そういうことを考えていくと、「親が子どもを作る」などという話は、どこかへ吹っ飛んでしまう。
たしかに子どもは、あなたという親から生まれる。しかし生まれると同時に、子どもといえで
も、一人の独立した人間である。現実には、なかなかそう思うのも簡単なことではないが、しか し心のどこかでいつも、そういうものの考えた方をすることは、大切なことではないのか。
【補足】
だからといって、親を粗末にしてよいとか、大切にしなくてよいと言っているのではない。どう
か、誤解しないでほしい。
私がここで言いたいのは、あなたがあなたの親に対して、どう思うおうとも、それはあなたの
勝手ということ。あなたが親・絶対教の信者であっても、まったくかまわない。
重要なことは、あなたがあなたの子どもに、その親・絶対教を押しつけてはいけないこと。強
要してはいけないこと。私は、それが結論として、言いたかった。
(はやし浩司 親絶対教 親は絶対 乳幼児の人工論 人工論)
+++++++++++++++++++++++
以前、こんな原稿を書いたことがあります。
内容が少しダブりますが、どうか、参考に
してください。
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●かわいい子、かわいがる
日本語で、「子どもをかわいがる」と言うときは、「子どもにいい思いをさせること」「子どもに楽
をさせること」を意味する。
一方、日本語で「かわいい子ども」と言うときは、「親にベタベタと甘える子ども」を意味する。反
対に親を親とも思わないような子どもを、「かわいげのない子ども」と言う。地方によっては、独 立心の旺盛な子どもを、「鬼っ子」として嫌う。
この「かわいい」という単語を、英語の中にさがしてみたが、それにあたる単語すらない。あえ
て言うなら、「チャーミング」「キュート」ということになるが、これは「容姿がかわいい」という意味 であって、ここでいう日本語の「かわいい」とは、ニュアンスが違う。もっともこんなことは、調べ るまでもない。「かわいがる」にせよ、「かわいい」にせよ、日本という風土の中で生まれた、日 本独特の言葉と考えてよい。
ところでこんな母親(七六歳)がいるという。横浜市に住む読者から届いたものだが、内容
を、まとめると、こうなる。
その男性(四三歳)は、その母親(七六歳)に溺愛されて育ったという。だからある時期まで
は、ベタベタの親子関係で、それなりにうまくいっていた。が、いつしか不協和音が目立つよう になった。きっかけは、結婚だったという。
その男性が自分でフィアンセを見つけ、結婚を宣言したときのこと。もちろん母親に報告した
のだが、その母親は、息子の結婚の話を聞いて、「くやしくて、くやしくて、その夜は泣き明かし た」(男性の伯父の言葉)そうだ。
そしてことあるごとに、「息子は、横浜の嫁に取られてしまいました」「親なんて、さみしいもので
すわ」「息子なんて、育てるもんじゃない」と言い始めたという。
それでもその男性は、ことあるごとに、母親を大切にした。が、やがて自分のマザコン性に気
づくときがやってきた。と、いうより、一つの事件が起きた。いきさつはともかくも、そのときその 男性は、「母親を取るか、妻を取るか」という、択一に迫られた。
結果、その男性は、妻を取ったのだが、母親は、とたんその男性を、面と向かって、ののしり始
めたというのだ。「親を粗末にする子どもは、地獄へ落ちるからな」とか、「親の悪口を言う息子 とは、縁を切るからな」とか。その前には、「あんな嫁、離婚してしまえ」と、何度も電話がかかっ てきたという。
その母親が、口グセのように使っていた言葉が、「かわいがる」であった。その男性に対して
は、「あれだけかわいがってやったのに、恩知らず」と。「かわいい」という言葉は、そういうふう にも使われる。
その男性は、こう言う。
「私はたしかに溺愛されました。しかし母が言う『かわいがってやった』というのは、そういう意味
です。しかし結局は、それは母自身の自己満足のためではなかったかと思うのです。
たとえば今でも、『孫はかわいい』とよく言いますが、その実、私の子どものためには、ただの
一度も遊戯会にも、遠足にも来てくれたことがありません。母にしてみれば、『おばあちゃん、 おばあちゃん』と子どもたちが甘えるときだけ、かわいいのです。
たとえば長男は、あまり母(=祖母)が好きではないようです。あまり母には、甘えません。だか
ら母は、長男のことを、何かにつけて、よく批判します。私の子どもに対する母の態度を見てい ると、『ああ、私も、同じようにされたのだな』ということが、よくわかります」と。
さて、あなたは、「かわいい子ども」という言葉を聞いたとき、そこにどんな子どもを思い浮か
べるだろうか。子どもらしいしぐさのある子どもだろうか。表情が、愛くるしい子どもだろうか。そ れとも、親にベタベタと甘える子どもだろうか。一度だけ、自問してみるとよい。
(02−12−30)
●独立の気力な者は、人に依頼して悪事をなすことあり。(福沢諭吉「学問のすゝめ」)
+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩
司
●親風、親像、親意識
親は、どこまで親であるべきか。また親であるべきでないか。
「私は親だ」というのを、親意識という。この親意識には、二種類ある。善玉親意識と、悪玉親
意識である。
「私は親だから、しっかりと子どもを育てよう」というのは、善玉親意識。しかし「私は親だか
ら、子どもは、親に従うべき」と、親風を吹かすのは、悪玉親意識。悪玉親意識が強ければ強 いほど、(子どもがそれを受け入れればよいが、そうでなければ)、親子の間は、ギクシャクして くる。
ここでいう「親像」というのは、親としての素養と考えればよい。人は、自分が親に育てられた
という経験があってはじめて、自分が親になったとき、子育てができる。そういう意味では、子 育てができる、できないは、本能ではなく、学習によって決まる。その身についた素養を、親像 という。
この親像が満足にない人は、子育てをしていても、どこかギクシャクしてくる。あるいは「いい
親であろう」「いい家庭をつくろう」という気負いばかりが強くなる。一般論として、極端に甘い 親、反対に極端にきびしい親というのは、親像のない親とみる。不幸にして不幸な家庭に育っ た親ほど、その親像がない。あるいは親像が、ゆがんでいる。
……というような話は、前にも書いたので、ここでは話を一歩、先に進める。
どんな親であっても、親は親。だいたいにおいて、完ぺきな親など、いない。それぞれがそれ
ぞれの立場で、懸命に生きている。そしてそれぞれの立場で、懸命に、子育てをしている。そ の「懸命さ」を少しでも感じたら、他人がとやかく言ってはいけない。また言う必要はない。
ただその先で、親は、賢い親と、そうでない親に分かれる。(こういう言い方も、たいへん失礼
な言い方になるかもしれないが……。)私の言葉ではない。法句経の中に、こんな一節があ る。
『もし愚者にして愚かなりと知らば、すなわち賢者なり。愚者にして賢者と思える者こそ、愚者と
いうべし』と。つまり「私はバカな親だ」「不完全で、未熟な親だ」と謙虚になれる親ほど、賢い親 だということ。そうでない親ほど、そうでないということ。
一般論として、悪玉親意識の強い人ほど、他人の言葉に耳を傾けない。子どもの言うことに
も、耳を傾けない。「私は正しい」と思う一方で、「相手はまちがっている」と切りかえす。
子どもが親に向かって反論でもしようものなら、「何だ、親に向かって!」とそれを押さえつけて
しまう。ものの考え方が、何かにつけて、権威主義的。いつも頭の中で、「親だから」「子どもだ から」という、上下関係を意識している。
もっとも、子どもがそれに納得しているなら、それはそれでよい。要は、どんな形であれ、また
どんな親子であれ、たがいにうまくいけばよい。しかし今のように、価値観の変動期というか、 混乱期というか、こういう時代になると、親と子が、うまくいっているケースは、本当に少ない。
一見うまくいっているように見える親子でも、「うまくいっている」と思っているのは、親だけという
ケースも、多い。たいていどこの家庭でも、旧世代的な考え方をする親と、それを受け入れるこ とができない子どもの間で、さまざまな摩擦(まさつ)が起きている。
では、どうするか? こういうときは、親が、子どもたちの声に耳を傾けるしかない。いつの時
代でも、価値観の変動は、若い世代から始まる。そして旧世代と新生代が対立したとき、旧世 代が勝ったためしは、一度もない。言いかえると、賢い親というのは、バカな親のフリをしなが ら、子どもの声に耳を傾ける親ということになる。
親として自分の限界を認めるのは、つらいこと。しかし気負うことはない。もっと言えば、「私
は親だ」と思う必要など、どこにもない。冒頭に書いたように、「どこまで親であるべきか」とか、 「どこまで親であるべきではないか」ということなど、考えなくてもよい。無論、親風を吹かした り、悪玉親意識をもったりする必要もない。ひとりの友として、子どもを受け入れ、あとは自然 体で考えればよい。
なお「親像」に関しては、それ自体が大きなテーマなので、また別の機会に考える。
●親子の確執
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北海道に住む、Mさん(女性)という方から、
メールをもらいました。
母親との葛藤(かっとう)に苦しんでいると
いうのです。
母親にしてみれば、納得できない結婚をした
ということで、「お前は、家の中をめちゃめち
ゃにした」と言われているというのです。
Mさんの母親は、人一倍、世間体を気にする
人のようです。
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【Mさんへ……】
メール、ありがとうございました。
内容が内容だけに、転載の許可はいただけそうもありませんでしたので、このような形で、返
事を書きます。どうか、お許しください。
目下、1000号まで電子マガジンを発行するという目標を立てています。1000号ですよ。
今、約450号ですから、あと550号です。
毎回、A4サイズの原稿で、20枚前後を目標にして書いています。それを週3回です。
で、個人的に返事を書きたいと思いつつ、時間がなくて、どうしてもこのような形、つまり半
分、マガジン用にという形になってしまいます。Mサさんのメールを、利用しているようで、つら いですが、どうか、お許しください。
Mさんが、「私は人に自分の知識を伝えることが好きです。生徒たちに今まで考えたことのな
かったことを考えさせるのが好きです。『あ、だからか!』と、論理がまとまったときの感動を、 生徒たちが自分で発見するのを見るとうれしくなります」と書いておられる部分。
このことは、メールの内容とは直接関係ありませんが、読んでいて、一番、心がひかれまし
た。
私も、こうして文章を書きながら、そのどこかで、新しい事実を発見したりすると、心底、うれし
くなります。広い荒野で、小さな宝石を見つけたような気分です。(実際に、宝石を見つけたこと はありませんが……。)
もっとも私のばあいは、自分で発見して、自分で喜んでいるだけですが……。(笑い)
で、本題ですが、今、現在進行形の形で、Mさんが過去に経験なさったような経験をしている
親子は、多いですよ。ステレオタイプ(典型的)な事例としては、こんな形です。これはMさんの ケースではありません。よくあるタイプを、まとめたものです。
母親の問題として……
(1)不本意な夫との、不本意な結婚。加えてどこか不本意な出産。
(2)どこか犠牲的な結婚生活。子育てをしながら、被害者意識をもちやすい。
(3)世間体を気にする。見栄っ張りで、虚栄心が強く、プライドが高い。
(4)その反面、そうした妻の望みを満足させることができない夫。
(5)できのよい息子、あるいは娘。仮面をかぶる息子、あるいは娘。
(6)子どもの教育に、没頭する。生きがいをそこに求める。
(7)情緒的欠陥、精神的未熟性がみられる。子どもを溺愛する。
(8)強度の自己中心性がみられ、精神の完成度が、低い。
(9)親の思いどおりにならない子ども。親子関係にキレツが入り、断絶する。
愛と憎は、両面感情です。愛が転じて、憎しみに変ることは、よくありますが、親子とて例外で
はありません。
Mさんには信じられない話かもしれませんが、(私も、この話を聞いたときは、耳を疑ったほ
どですが)、結婚して家を出た娘に、「お前を、私が死んだあとも、墓の中から、呪い殺してや る」と、実の娘を脅迫している母親だっています。
まあ、親にもいろいろあるということです。が、どうしても日本人は、「親」というものに対して、
幻想をいだきやすいですね。昨日、「親・絶対教」という原稿を少しまとめましたが、半ばカルト 的に、親を絶対視する傾向が強い。
そういう親・絶対教の中で、親は子どもに対して、甘え、子どもはそれに服従する。あるいは
子どもが親に反発することもありますが、今度は、世間から、「親不孝者」とののしられる。ある いは、自責の念から、自己否定をしてしまう。
このタイプの親子は、親子でも、一対一の人間関係で決まるということが、どうしても理解でき
ないのです。
Mさんのばあいも、Mさんのお母さんは、どこか権威主義的ですね。それに住んでいる世界
が、とても小さいように思います。わがままで、独断的(?)。子どもの立場で、子どもに同調し て考えることができないという意味では、自己中心的なのかもしれません。
しかしね、今のMさんと、Mさんのお母さんとでは、住んでいる世界の広さがちがいます。もう
お気づきかと思いますが、今のMさんが住んでおられる世界から、Mさんのお母さんを見ると、 まるで、井戸の中のカxxのように見えませんか? (失礼!)
Mさん自身も、「親だから……」という幻想をもって、親を見てしまっている。しかしね、特別な
努力や進歩がないかぎり、親という人間も、30〜40歳前後で、成長が止まるものです。
もちろん個人差もあります。その人の努力もあります。しかし幻想をもつのは正しくありませ
ん。中には、むしろそのあたりの年齢を境にして、退化していく人もいます。
ある男性(50歳くらい)は、少し前、こう言いました。「まるで、赤ん坊のように私に甘え、依存
してくる母親を見ると、ときに怒れたこともありましたが、母とて、ただの女なんだと思ったとた ん、『母』という虚像が崩れました」と。
私の印象では、つまりいただいたメールを読むかぎり、とっくの昔に、Mさんは、Mさんの母
親を超えていまっています。恐らく、今のMさんのお母さんには、Mさんのことなど、理解できな いでしょう。
高い山からは、低い山がよく見える。しかし低い山からは、高い山がわからない。それとよく
似た現象が、心の世界でもよく起きます。人間的に一歩、先に出ると、愚かな人がよくわかりま す。しかし愚かな人には、賢い人がわかりません。そもそもそれを理解するだけの知力がない からです。
いえね、先日も、幼児の前で、「3足す5は……」と、電卓をたたいてみせたら、真顔で私に向
って、「あんた、それでも先生!」と怒った子どもがいましたよ。幼児の特徴の一つは、こうした 自己中心性です。
もう少しすると、もっとはっきりと、母親の実像というか、そういうものが見えてきます。そうな
ると、もう怒りを通りこして、あわれみさえ覚えるようになります。私の印象では、あと一歩だと 思います。
どちらにせよ、つまりこれから先、あなたの母親と反目するにせよ、しないにせよ、中途半端
な心理状態というのは、長つづきしません。心理学の世界にも、『フリップ・フロップ理論』という のがあります。人間はどちらかに転ばないと、落ちつかないという理論です。中途半端だと、緊 張感から解放されません。
Mさんの立場でいうなら、(1)決別してしまうか、(2)さもなければ、あわれな親を受け入れる
かの、択一にやがて迫られるということです。
ただここで注意しなければならないのは、同時に、私たちもいつか、子どもに、一人の人間と
して評価されるときがやってくるということです。そのとき、子どものそういう評価に耐えられるよ うになっておかねばならないということです。
親というのは、そういう意味で、きびしいものです。決して、「親」という座に安住してはいけま
せん。そのために、日々に精進。ただひたすら精進。精進、あるのみです。
Mさんのような方に、たいへん失礼なことを書いたかもしれませんが、どうかお許しください。
Mさんのメールを読みながら、私もいくつか重要な発見をしました。とても参考になりました。そ れについては、また別のところで、別の形で、報告してみたいと思っています。
ありがとうございました。
+++++++++++++++++++++++
以下、少し、原稿をまとめてみました。
参考にしていただければ、うれしいです。
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●親との葛藤
親との確執(かくしつ)で、苦しんでいる息子や、娘は、多い。親子という関係であるがゆえに、
その確執も、深い。大きい。
刑法の世界にも、「尊属殺」(親殺し罪)というのがある。親を殺したりすると、一般の殺人より
も、刑がワンランク、重くなる。
しかしあるとき、私の刑法の教授が、こう言った。
「親を殺すというのは、よほどのことがあるからだ。それゆえに、刑を重くするのは、かえって
おかしい」と。
そういう意見もある。他人なら、蹴とばして、「はい、さようなら!」と別れることができる。しか
し親子では、それができない。親が悩むというよりは、関係が一度、こじれると、息子や娘のほ うが、悩む。悶々と、悩む。
今朝、北海道に住む、Mさんという女性から、こんなメールをもらった。Mさんが、母親からみ
て、不本意な結婚をしたため、Mさんの母親は、Mさんに、こう言っているという。
「お前が着ている洋服代、お前にかけた学費、お前が食べた食費など、すべて返せ!」と。
Mさんは、大学を出たあと、フリーターの男性と結婚した。そんなわけで生活費のほとんど
は、Mさんが、稼いでいる。それがMさんの母親には、納得できないのかもしれない。
●確執
こうした親子の確執は、ここにも書いたように、親子であるという、特殊な関係であるがため、
長くつづく。一生、つづく人も、珍しくない。ある男性(60歳くらい)は、枯れの母親が死んだ夜、 こう言った。
「やっと、母の重圧から、解放されました」と。
また別の男性(60歳くらい)も、こう言った。「親の世話なんて、こりごり。葬式の間も、何で、
こんなことをしなければならないのかと、そればかりを考えていた。本当は、バンザーイと叫び たかったのに、みなの前では、悲しそうな顔をしてみせねばならなかった」と。
一方、親は親で、子どもに対して、復讐心を燃やす親もいる。「復讐心」だ。
「あんたを、のろってやる!」「地獄へ落ちるのを楽しみにしてやる!」とか、実の娘に言いつ
づけている母親がいる。息子から容赦なく、生活費を取りあげている母親もいる。
もちろん大半は、実際には、約半数程度だが、よい親であり、よい息子や娘である。しかしそ
ういう幸運な人たちが、自分たちを基準にして、「親とは、こういうもの」「息子や娘とは、こうい うもの」と、そうでない人たちに、自分たちの基準を押しつけるのは、正しくない。
親にも、いろいろある。もちろん息子や娘にも、いろいろある。
だから『親だから……』『子どもだから……』という、『ダカラ論』だけで、ものごとを考えてはい
けない。決めつけてはいけない。
親子といえども、そこは、一対一の人間関係である。もちろん、親子関係が良好であるに越し
たことはない。何よりも、それがよい。しかしこじれてしまったら……。切るに切れない関係であ るがゆえに、その苦しみも、倍加する。
●親の責任論
親子の関係が、おかしくなったら、それは親の責任と考える。
たいていは、親側に、精神的未熟性、情緒的な欠陥、さらには、人格的な未完成性があると
みてよい。
ただ悲劇的なのは、そうした問題に、親自身が気づいていないこと。このタイプの親にかぎっ
て、「私はすばらしい親」と思いこんでいる。そうした傲慢(ごうまん)性というか、盲目性が、親 子の間にキレツを入れ、それが断絶へと、長い時間をかけて、つながっていく。
しかし子どものほうは、その罪悪感で悩む。心理学でいうところの、「家族自我群」(ボーエン)
の呪縛の中で、もがく、苦しむ。そればかりではない。
こうした親の一連の否定的態度によって、「幻惑」(クーパー)さえもつことがある。自らにダメ
人間のレッテルを張ってしまう。さらには、自らを、「人間として、失格」という烙印を押してしま う。(こうした一連の作用を、クーパーは、「幻惑作用」と呼んだ。)
わかりやすく言えば、親が、親側の問題を棚にあげ、一方的に、子どもを責める。子どもの
非をとらえ、それを非難する。しかしもともとの原因は、親にある。理由は、簡単である。
親子は、決して、対等ではない。そういう関係からスタートする。肉体的にも、精神的にも、当
初、子どもは、親にはかなわない。親は、当初から、子どもに対して、優越的な立場に立ち、一 方、子どもは、隷属的な立場に置かれる。
そもそも親子関係がおかしくなるというのは、親の責任である。子どもの側が、クーパーが言
うところの、「幻惑作用」に苦しむということ自体、おかしいのである。
こんな例がある。
●母の裏切り
Y氏は、今年60歳をこえた。しかし今でも、母の葬儀に出なかったことを、悔やんでいる。親戚
にも非難され、何かにつけて、のけ者にされている。「親不孝者!」「恩知らず!」「お前など、 村八分!」と。
しかしY氏には、人には言えない苦しみがあった。Y氏は、父親の子どもではなかった。母と
祖父(つまり父親の父親)との間に、できた子どもだった。
Y氏は、こう言った。
「私が母と父との間にできた子どもでないことは、ある日、いとこたちの顔と見比べていて気
がつきました。私の顔にだけ、祖父の面影が強く残っている反面、祖母の面影が、どこにもな いのです。
そこで血液型を調べてみて、私には、祖母の血が流れていないことを知りました。
実はそのこと、つまり母と祖父の不倫関係を、父は知っていたのではないかと思います。父
は、よく酒を飲んで、私の目の前で母をなぐったりしていましたが、その父が、それらしいことを 叫んでいたのを、記憶のどこかで覚えています」と。
Y氏は、30歳をすぎるころから、母をうらむようになったという。そしてY氏が、50歳くらいのと
きに、Y氏の母親は、死んだ。(父親は、Y氏が25歳くらいのときに、脳梗塞で死んでいる。)
Y氏は、当時、どうしても母を許せなかったという。だから葬儀には出なかった。
「私が葬儀に出なかったのは、それだけが理由ではありません。私と母の関係は、積もりつ
もった原因で、すでにそのとき、こなごなに破壊されていました」と。
●親子関係の修復
親子関係の修復は、容易なことではない。結論から先に言えば、親側がまず先に、折れるしか
ない。しかし親側が先に折れたところで、息子や娘が、それに応ずるかどうかは、これまた、別 の問題。修復するにしても、親子が越えなければならないハードルは、いくつもある。そしてど れも、高い。
しかし方法がないわけではない。
距離をおく。時間をおく。親の立場、子どもの立場、それぞれを別に考えてみる。
【親の立場】
要するに子どもなど、相手にしないこと。今ある関係をみながら、「子育てに失敗した」とか、
そういうふうに、思わないこと。
子どもの巣立ちは、必ずしも、美しいものではない。ほとんどが、本当にそうだが、そのほと
んどが、たがいにののしりあいながら、子どもは、親から巣立っていく。
昔の東映映画のように、「お父様、お母様、私をこれまで育ててくださって、ありがとうございま
した」と、深々と頭をさげて、巣立っていく子どもなど、いない。またそういう子どもを、期待しな いこと。
親は親で、前向きに、自分の人生を生きる。残り少ない人生だ。自分のために生きる。
【子どもの立場】
まず自分自身を、クーパーが言う、『幻惑作用』から、解放すること。今そうであるからと言っ
て、それはあなたの責任ではない。100%、親の責任である。仮にあなたが、(できそこないの 息子や娘)であるとしても、そういう息子や娘にしたのは、親である。あなたでは、ない。
罪の意識など、クソ食らえ!
そういうあなたであるとして、親戚や近所の人に、白い目で見られたとしても、気にすることは
ない。もし気になるようなら、それは親子の問題というよりは、あなた自身の内部に潜む、ベタ ベタの人間関係が原因であるとみてよい。もっとはっきり言えば、依存性の問題。
ボーエンの説く(家族自我群)からの脱却は、容易ではない。もともと日本人は、「家」意識が
強く、欧米と比較しても、この(家族自我群)による結束力が強い。農村によっては、一つの村 全体が、こうした(自我群)を形成しているところもある。日本でいう、「ムラ社会」というのは、そ れをさす。
一方、その(家族自我群)に、身を寄せることは、楽なことである。ベタベタの人間関係をつく
り、たがいに甘えながら生きていく。連帯感ももてる。その中では、孤独感もいやされる。
つまりあなたの悩みというのは、つきつめれば、そういう(家族自我群)との戦いということに
なる。もっと言えば、個人として、あなたを確立するか否かという問題まで、進む。それができる 人は、これから先も、たくましくひとりで、生きていけばよい。それができない人は、(家族自我 群)の中に身をおき、ある意味で、楽な生活を送ればよい。
+++++++++++++++++++++++
【改めてMさんへ……】
Mさんは、となりのK国のことを書いておられましたが、あのK国は、一つの国全体として、き
わめて人格の完成度が低い国とみてよいようですね。
世間体や、見栄、メンツばかりを気にしている。
最近はやたらと「同胞」という言葉を使います。これも家族にたとえるなら、「同族意識」という
ことになります。個人化(=社会的、人間的な自立)の遅れた人が、よく使う言葉です。つまりそ ういう面でも、精神の完成度の低い国とみます。
加えて虚栄心も強い。国民のほとんどが飢えているのに、「先軍政治の大勝利」(6月29日)
と報道しています。本当に困った国です。世界中を核兵器でおどし、「大勝利」とは!
K国を見ていると、いろいろ考えさせられます。ホント!
では、今日は、これで失礼します。長いメールになってすみませんでした。これからもよろしく
お願いします。よき友を得たようで、喜んでいます。+うれしいです。
(はやし浩司 クーパー ボーエン 家族自我群 個人化 幻惑 幻惑作用
【追記】
あなたも親として、子どもには、過剰期待をしないこと。子育てに夢をもつことは、大切なこと
だが、それを子どもに求めたり、強要してはいけない。
中には、自分が果たせなかった夢を、子どもに求める親がいる。さらには、こんなことを子ど
もに言った親もいた。
「パパは、学歴がなくて、苦労しているのよ。あなたはパパのようには、ならないでね」と。
子育てを生きがいにすること自体は、まちがっていない。しかしそこには、一定の限界があ
る。自分の生きる目的や、意義まで、そこに放りこんではいけない。心のどこかで、「私は私」 「子どもは子ども」という一線を引かないと、ここでいうMさんの母親のようになる。
自分の思いどおりにいかなくなった息子や娘を、「裏切り者」ととらえるようになる。「親の苦労
を裏切って、好き勝手なことをしている!」と。
この問題については、もう少し、あとに考えてみたい。
●幼児の心理
●実念論
乳幼児の心理の特徴の一つに、「実念論」がある。聞きなれない言葉だが、要するに、乳幼
児は、「念力」を信じているということ。
実念論……どこか「?」な言葉だが、最初に、外国の論文を翻訳した学者が、そういう訳語を
つけたのだろう。「念じて、ものごとを実現させる」という意味である。
私も幼児のとき、クリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザがほしくて、心の中で何度も念じ
たことがある。ほかにもいろいろ念じたことがあるが、それについては、あまりよく覚えていな い。
つまり、乳幼児は、現実と幻想の世界の区別が、あまりつかないということ。
しかし問題は、このあとに起こる。
こうした実念論は、やがて修正され、成長とともに、思考パターン(回路)の中でも、マイナー
な領域へと追いやられる。子どもは、より現実的なものの見方を身につけていく。
しかしその実念論が、子どもの中に必要以上に残ることがある。あるいは、その実念論が、
かえって、増幅されることがある。
少しくだらないことだが、こんなことがあった。
まだ私が幼稚園で働いていたときのこと。ある日、あるところへ行ったら、そこでばったりと、
幼稚園の同僚の先生(若い女性)に出会った。「こんなところで何をしているの?」と聞くと、そ の先生は、恥ずかしげもなく、こう言った。
「ここで私の運勢を、占ってもらっていたんです」と。
見ると、その一角が、ボックスで仕切られたブースになっていた。そして小さいが、そこには、
看板がかけられていた。「○○占星術研究会」と。
私はそのとき、ほんの瞬間だが、「こんな先生に指導される子どもたちは、かわいそうだ」と
思った。体はおとなだが、心は、乳幼児のまま(?)。
もちろんそのころには、私は、実念論という言葉は知らなかった。(まだそういう言葉は、なか
ったように思う。)が、乳幼児が、ときどき空想と現実を混濁するという現象は、経験していた。
イギリスの格言にも、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせて
はならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世 界にハマるようであれば、注意せよという意味である。この格言を、私はすでに25年前に知っ ていた。
が、今は、念力ブーム。現象としては、あの『ポケモンブーム』のときから、加速されたように
思う。自分の願いごとを、スーパー・パワー(超能力)のようなもので実現させようとする。こんな ことがあった。
ある中学生が、何やら真剣な表情で、ビルの一角をじっとにらんでいた。「何をしているの?」
と声をかけると、その中学生は、こう言った。
「先生、ぼくね、念力で、あのビルを吹っ飛ばしてみたい」と。
そのポケモンブーム全盛期のころのことである(99年)。私は、こう言った。「吹っ飛ばしたい
と思うのは、君の勝手だが、吹っ飛ばされる人たちの立場で、少しはものを考えなよ」と。
乳幼児の実念論。こうした現象が、どうして乳幼児にあるかは別にして、できるだけ、そうした
実念論からは、子どもを遠ざけていく。あるいはそれにかわる思考パターンを、植えこんでい く。
これは幼児教育においては、とても重要なことだと思う。
つまり、先生が、占いや、まじないを信じていたのでは、話にならない!、ということ。
●物活論
この実念論と並んで、よく知られている乳幼児の心理に、「物活論」がある。乳幼児が、ありと
あらゆるもの、無生物も含めて、すべてのものは、生きている」と考える現象をいう。
人形やおもちゃは言うにおよばず、風にそよぐカーテン、点滅する電気、自動車、石ころ、本
など。
ある子どもは、姉が本を何かで叩いたとき、「本が痛がっているから、やめて」と言った。反対
に、飼っていたモルモットが死んだとき、「乾電池をかえれば、また動く」と主張した子どももい た。
物活論の特徴は、(1)すべてのものは、生きている。(2)すべてのものには、感情がある、と
考えるところにある。
これも広い意味では、現実と空想の混濁。乳幼児の視点に立ってみると、それがよくわか
る。つまり乳幼児には、まだ生物と無生物を区別するだけの知力や経験が、ない。
が、こうした物活論を修正していくのも、幼児教育の重要なポイントということになる。わかり
やすく言えば、「生物」と、「無生物」の区別を指導する。
私には、こんな経験がある。
10年ほど前、たまごっちというゲームが流行したことがある。そのときこと、私は不注意で、
その中の生き物(?)を殺してしまったことがある。スイッチの押し方をまちがえてしまった。
とたん、その女の子(年長児)は、「先生が、殺してしまったア!」と、おお泣きした。で、「私
が、死んではいないよ。これはゲームだから」と何度も言って聞かせたが、結局は、ダメだっ た。私を責めつづけた。
(反対に、生物を無生物と思いこんでしまうこともある。これはたいへん危険な現象と考えて
よい。これについては、また別のところで、考えてみる。当時、ちょうど同じころ、死んでミイラ化 した死体を、『まだ生きている』と主張した、おかしなカルト教団が現れたのを覚えている。
無生物を生物と思いこむ子ども。死んだ人を生きていると思いこむ信者。現象としては、正反
対だが、これら両者は、一本の糸でつながっている。)
風でそよぐカーテンを、「生きている」と思うのは、どこかロマンチックな感じがしないでもな
い。しかし子どもは、さまざまな経験をとおして、やがて生物と無生物を区別する知力を身につ ける。
それを指導していく、つまり論理的(ロジカル)なものの考え方を教えていくのも、幼児教育の
一つということになる。
【付記】
そういう意味では、乳幼児期の教師(先生)の選択には、きわめて慎重でなければならない。
思想性はもちろんのこと、とくに宗教性には、慎重でなければならない。この時期の教師とし
ては、論理的で知的な教師であればあるほど、よい。社会的に認知されていない、「?」的なカ ルト教団に染まっているような教師は、好ましくない。(当然だが!)
(はやし浩司 実念論 物活論 乳幼児の心理)
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以前、こんな原稿を書いた。(中日新聞投稿済み)
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教師が宗教を語るとき
●宗教論はタブー
教育の場で、宗教の話は、タブー中のタブー。こんな失敗をしたことがある。一人の子ども
(小三男児)がやってきて、こう言った。
「先週、遠足の日に雨が降ったのは、バチが当たったからだ」と。そこで私はこう言った。
「バチなんてものは、ないのだよ。それにこのところの水不足で、農家の人は雨が降って喜ん
だはずだ」と。
翌日、その子どもの祖父が、私のところへ怒鳴り込んできた。「貴様はうちの孫に、何てことを
教えるのだ! 余計なこと、言うな!」と。その一家は、ある仏教系の宗教教団の熱心な信者 だった。
また別の日。一人の母親が深刻な顔つきでやってきて、こう言った。
「先生、うちの主人には、シンリが理解できないのです」と。
私は「真理」のことだと思ってしまった。そこで「真理というのは、そういうものかもしれません
ね。実のところ、この私も教えてほしいと思っているところです」と。
その母親は喜んで、あれこれ得意気に説明してくれた。が、どうも会話がかみ合わない。そこ
で確かめてみると、「シンリ」というのは「神理」のことだとわかった。
さらに別の日。一人の女の子(小五)が、首にひもをぶらさげていた。夏の暑い日で、それが
汗にまみれて、半分肩の上に飛び出していた。そこで私が「これは何?」とそのひもに手をか けると、その女の子は、びっくりするような大声で、「ギャアーッ!」と叫んだ。叫んで、「汚れる から、さわらないで!」と、私を押し倒した。その女の子の一家も、ある宗教教団の熱心な信者 だった。
●宗教と人間のドラマ
人はそれぞれの思いをもって、宗教に身を寄せる。そういう人たちを、とやかく言うことは許さ
れない。
よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。宗教を求める信者がいるから、
宗教がある。だから宗教を否定しても意味がない。
それに仮に、一つの宗教が否定されたとしても、その団体とともに生きてきた人間、なかんずく
人間のドラマまで否定されるものではない。
今、この時点においても、日本だけで二三万団体もの宗教団体がある。その数は、全国の
美容院の数(二〇万)より多い(二〇〇〇年)。それだけの宗教団体があるということは、それ だけの信者がいるということ。そしてそれぞれの人たちは、何かを求めて懸命に信仰してい る。その懸命さこそが、まさに人間のドラマなのだ。
●「さあ、ぼくにはわからない」
子どもたちはよく、こう言って話しかけてくる。「先生、神様って、いるの?」と。私はそういうと
き「さあね、ぼくにはわからない。おうちの人に聞いてごらん」と逃げる。あるいは「あの世はあ るの?」と聞いてくる。そういうときも、「さあ、ぼくにはわからない」と逃げる。霊魂や幽霊につ いても、そうだ。
ただ念のため申し添えるなら、私自身は、まったくの無神論者。「無神論」という言い方には、
少し抵抗があるが、要するに、手相、家相、占い、予言、運命、運勢、姓名判断、さらに心霊、 前世来世論、カルト、迷信のたぐいは、一切、信じていない。信じていないというより、もとから 考えの中に入っていない。
私と女房が籍を入れたのは、仏滅の日。「私の誕生日に合わせたほうが忘れないだろう」とい
うことで、その日にした。いや、それとて、つまり籍を入れたその日が仏滅の日だったということ も、あとから母に言われて、はじめて知った。
●赤ちゃん言葉
●H幼稚園に在園児をもつ、SSさんからの相談
先日、市内のH幼稚園で、講演をした。その幼稚園に園児を通わせているSSさんという方よ
り、相談をもらった。
【SSより……】
小1の娘と、年少の息子をもつ、母親です。
下の息子が、いまだに赤ちゃん言葉を話します。まわりの人たちも、年少ということで、甘や
かしています。
私もあれこれ手をかけてしまいます。
このままでは、だいじょうぶかと心配です。上の娘とは、いつもままごとをして遊んでいます。
このままでは、息子が女性化するのではないかと、心配です。
また下の息子が生まれたときは、夫婦げんかばかりをしていました。心に何かきずが残って
いるのではないかと、心配です。
その一方で、私の趣味や、上の姉の習いごとなどで、ひとり遊びをさせることが多く、「これで
いいのか」と、悩んでいます。よいアドバイスをお願いします。
【はやし浩司からSSさんへ】
心配先行型の子育てのようです。お子さんへの不信感が、根底にあるものと思われます。さ
らに言えば、出産時の夫婦げんかが、心の中の(わだかまり)になっていることも考えられま す。
あなたの心配だ、不安だという思いが、下の弟さんの心理に微妙な影響を与えていること
は、じゅうぶん、考えられます。
下の弟が、赤ちゃんがえりを起こす例も、なくはありませんが、多分、赤ちゃんがえりではな
いと思います。心身(神経)症もしくは、欲求不満による退行症状ではないかと思われます。あ なたの不安感や心配感を、お子さんが、そのまま反映していることが、じゅうぶん考えられま す。
まず、あなた自身の心の安定を、第一に考えられることです。
順に考えていきましょう。
手のかけすぎが、子どもによくないことは言うまでもりません。しかしその背景には、子どもを
人格者として認めるのではなく、子どもを、ペットのように考える、日本独特の子育て観があり ます。
もしそうなら、こうした子育て観を改めます。友として、子どもの側に立ちます。
あなたは女性ですから、男の子の育て方に大きなとまどいがあるのは、しかたのないことで
す。が、同時に、そのとまどいが大きいようであれば、あなたと、あなたの父親との関係を疑っ てみてください。
多分、あなたの中には、(父親像)が、じゅうぶん、ないのではないかと心配されます。不幸に
して、不幸な家庭に育ったとか、あるいはいつもあなた自身の父親を拒絶して、大きくなったと か。
この問題は、根が深いですから、そのあたりまで、あなたの心にメスを入れてください。
なお、だからといって、心配することはありません。この問題は、それに気づくだけでも、問題
のほとんどは、解決したものとみます。あとは時間が解決してくれます。
つぎに、ままごとについてですが、「ままごとをするから、女性化する」というのは、偏見でしか
ありません。男児と女児の遊びをコントロールするのは、ある特殊なホルモンであることは、よ く知られています。
そのホルモンが、女児を男性化するということは、あります。が、男児の女性化は、それだけ
では説明できない部分があります。
そこで(お父さんの登場)ということになります。
お手紙によれば、どこか(お父さん不在的)であるのが、気になります。男児(もちろん女児
も)の子育てを受けもつのは、お父さんの役目です。お父さんが、「男」というものは、どういうも のかを教えていきます。ともすれば、濃厚な母子関係で、マザコン化しがちな子育てを、修正し ていくのが、お父さんの役目ということになります。
行動の限界や、社会的なルールを教えていくのが、お父さんの役目ということです。
むしろ心配されるのが、母親中心型家庭における、子どものマザコン化です。
女性化するというのと、マザコン化するというのは、別の問題です。どうか混同しないでくださ
い。
お母さんが、そのかわいさに負けて、子育てに溺れてしまうと、子どもはマザコン化すること
があります。どうか、気をつけてください。
この際、重要なことは、お父さんを、もっと子育ての場に、引き出すことです。方法としては、
(1)お父さんを、立てる、です。
重要な決定は、お父さんに任す。なにごとにつけ、「あなたのお父さんは、すばらしい」と子ど
もに教える。お父さんの立場で、「ぼくがいないと、何も進まない」という雰囲気をつくりだしま す。
まずいのは、子どもの前で、お父さんをけなしたり、批判したりするような行為です。これを心
理学でも、「三角関係」と呼びます。子どもの情緒が不安定になるばかりか、家庭教育そのも のが、崩壊します。「夫婦げんかばかりをしていた」ということだそうですので、この点が、強く心 配されます。だいじょうぶですか?
SSさんの問題は、広く、多くのお母さんたちが、平等でかかえる問題です。このアンサーだけ
では、じゅうぶん答えられたとは思っていません。これからも、マガジンのほうで、いろいろな角 度から考えていきたいと思っています。
どうか、マガジンの購読を、お願いします。(このところ、低調で、かなり腐っています。ハハ
ハ!)
お手紙、ありがとうございました。ところで、H幼稚園の、原N園長先生は、すばらしい先生で
すね。今回、お会いして、本当に驚きました。この浜松市にも、ああいう園長先生がいるという ことは、誇るべきことです。少子化の中で、H幼稚園だけは、園児の入園を断っているというの は、驚きでしかありません。何かの機会がありましたら、くれぐれも、原N先生に、よろしくお伝 えください。
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参考までに、「男らしさVS女らしさ」について
書いた原稿を、添付しておきます。
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●男らしさ、女らしさ
男らしさ、女らしさを決めるのが、「アンドロゲン」というホルモンであることは、よく知られてい
る。
男性はこのアンドロゲンが多く分泌され、女性には少ない。さらに脳の構造そのものにも、ある
程度の性差があることも知られている。
そのため男は、より男性的な遊びを求め、女はより女性的な遊びを求めるということらしい。
(ここでどういう遊びが男性的で、どういう遊びが男性的でないとは書けない。それ自体が、偏 見を生む。)
男と女というのは、外観ばかりでなく、脳の構造においても、ある程度の違いはあるようだ。た
とえば以前、オーストラリアの友人がこう教えてくれた。
その友人には二人の娘がいたのだが、その娘たち(幼児)が、「いつもピンク色のものばかり
ほしがる」と。そこでその友人は、「男と女というのは、生まれながらにして違う部分もあるので はないか」と。
が、それはそれとして、「男らしく」「女らしく」という考え方はまちがっている。またそういう差別
をしてはならない。とくに子どもに対して、「男らしさ」「女らしさ」を強要してはいけない。しかしこ んなことはある。ごく最近、あった事件だ。
私はこの世界へ入ってから、一つだけかたく守っている大鉄則がある。それは男児はからか
っても、女児はからかわない。男児とはふざけて抱いたり、つかまえたりしても、女児には頭や 肩以外は触れないなど。(頭というのはほめるときに、頭をなでるこという。肩というのは、背中 のことだが、姿勢が悪いときなど、肩をぐいともちあげて姿勢をなおすことをいう。)
が、女児の中には、相手から私にスキンシップを求めてくるときがある。体を私にすりよせてく
るのだ。しかしそういうときでも、私はていねいにそれをつき放すようにしている。こういう行為 は誤解を生む。その女の子(小三)もそうだった。
何かにつけて私にスキンシップを求めてきた。私がイスに座って休んでいると、平気でそのひ
ざの中に入ってこようとした。しかし私はそれをいつもかわした。が、ところが、である。その女 の子が学校で、彼女の友だちに、「あのはやしは、私にヘンなことをする」と言いふらしていると いうのだ。
私が彼女を相手にしないのを、どうも彼女は、ゆがんでとらえたようである。しかしこういう噂(う
わさ)は決定的にまずい。親に言うべきかどうか、かなり迷った。で、女房に相談すると、「無視 しなさい」と。
この問題も、アンドロゲンのなせるわざなのか? 男と女は平等とは言いながら、その間には
微妙なニュアンスの違いがある。それを越えてまで平等とは、私にも言いがたいが、しかしそ の微妙な違いを、決して「すべての違い」にしてはいけない。
昔の日本人はそう考えたが、あくまでもマイナーな違いでしかない。やがてこの日本でも、「男
らしく」「女らしく」と言うだけで、差別あるいは偏見ととらえるようになるだろう。そういう時代は すぐそこまできている。そういう前提で、この問題は考えたらよい。
●聖職論
●教師は聖職者か?
知性(大脳新新皮質)と、生命維持(間脳の視床下部ほか)とは、つねに対立する。いざとな
ったら、どちらが優位にたつのか。また優位なのか。わかりやすい例で言えば、性欲がある。
この性欲をコントロールすることは、不可能?
よく聖職者や出家者は、禁欲生活をするというが、禁欲などできるものではないし、またそれを
したところで、あまり意味はない。知性(大脳新新皮質)の活動が、すばらしくなるということは ない。もともと脳の中でも、機能する部分が違う。(性行動そのものは、ホルモン、つまり男性 はアンドロゲンで、女性はエストロゲンとプロゲステロンによって、コントロールされている。)
あるいはホルモンをコントロールすれば、性行動そのものもコントロールできることになるが、
それは可能なのか。いや、可能かどうかを論ずるよりも、コントロールなどする必要はない。性 欲があるから、聖職者や出家者として失格だとか、性欲がないから失格でないと考えるほう が、おかしい。
私はよく生徒たちに、「先生はスケベか?」と聞かれる。そういうとき私は、「君たちのお父さ
んと同じだよ。お父さんに聞いてみな」と言うようにしている。同性愛者でないことは事実だが、 性欲はたぶんふつうの人程度にはあると思う。
が、大切なことは、ここから先。その性欲を、日常生活の中でうまくコントロールできるかどうか
ということ。これについては、まさに「知性」がからんでくる。もっと言えば、「性的衝動」と、「行 動」の間には、一定の距離がある。この距離こそが、知性ということになる。
ひとつの例だが、夏場になると、あらわな服装で教室へやってくる女子高校生がいる。(最近
は高校生をほとんど教えていないが、以前は教えていた。)そういう女生徒が、これまた無頓着 に、胸元を広げて見せたり、あるいは目の前で大きくかがんだりする。
そういうとき目のやり場に困る。で、ある日、そのとき私より三〇歳くらい年上の教師にそれを
相談すると、その教師はこう言った。「いやあ、そういうのは見ておけばいいのですよ」と。
一見、クソまじめに見える私ですらそうなのだから、いわんや……。この先は書けないが、と
もかくも、私は過去において、性欲は自分なりにコントロールしてきた。だからといって知性が あるということにはならないが、しかしこんなことはある。
私は二〇代のころは、幼稚園という職場で母親恐怖症になってしまった。また職場はもちろ
んのこと、講演にしても九九%近くは女性ばかりである。そういう環境で三〇年以上も仕事をし てきたため、多分、今の私なら、平気で混浴風呂でも入れると思う。つまり平常心で、風呂の 中で世間話ができると思う。(実際にはしたことがないが……。)
とくに相手を、「母親」と意識したとき、その人から「女」が消える。これは自分でも、おもしろい
現象だと思う。長い前置きになったが、よく「教師は聖職者か」ということが話題になるが、私は こうした議論そのものが、ナンセンスだと思う。
●男女平等論
●男女平等
若いころ、いろいろな人の通訳として、全国を回った。その中でもとくに印象に残っているの
が、ベッテルグレン女史という女性だった。スウェーデン性教育協会の会長をしていた。そのベ ッテルグレン女史はこう言った。
「フリーセックスとは、自由にセックスをすることではない。フリーセックスとは、性にまつわる偏
見や誤解、差別から、男女を解放することだ」
「とくに女性であるからという理由だけで、不利益を受けてはならない」と。
それからほぼ三〇年。日本もやっとベッテルグレン女史が言ったことを理解できる国になっ
た。
実は私も、先に述べたような環境で育ったため、生まれながらにして、「男は……、女は…
…」というものの考え方を日常的にしていた。高校を卒業するまで洗濯や料理など、したことが ない。
たとえば私が小学生のころは、男が女と一緒に遊ぶことすら考えられなかった。遊べば遊んだ
で、「女たらし」とバカにされた。そのせいか私の記憶の中にも、女の子と遊んだ思い出がまっ たくない。が、その後、いろいろな経験を通して、私がまちがっていたことを思い知らされた。そ の中でも決定的に私を変えたのは、次のような事実を知ったときだ。
つまり人間は男も女も、母親の胎内では一度、皆、女だったという事実だ。このことは何人もの
ドクターに確かめたが、どのドクターも、「知らなかったのですか?」と笑った。正確には、「妊娠 後三か月くらいまでは胎児は皆、女で、それ以後、Y遺伝子をもった胎児は、Y遺伝子の刺激 を受けて、睾丸が形成され、女から分化する形で男になっていく。分化しなければ、胎児はそ のまま成長し、女として生まれる」(浜松医科大学O氏)ということらしい。
このことを女房に話すと、女房は「あなたは単純ね」と笑ったが、以後、女性を見る目が、一八
〇度変わった。「ああ、ぼくも昔は女だったのだ」と。と同時に、偏見も誤解も消えた。言いかえ ると、「男だから」「女だから」という考え方そのものが、まちがっている。「男らしく」「女らしく」と いう考え方も、まちがっている。ベッテルグレン女史は、それを言った。
これに対して、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と答えた女性は、七六・七%いる
が、その反面、「反対だ」と答えた女性も二三・三%もいる。
つまり「昔のままでいい」と。男性側の意識改革だけではなく、女性側の意識改革も必要なよう
だ。ちなみに「結婚後、夫は外で働き、妻は主婦業に専念すべきだ」と答えた女性は、半数以 上の五二・三%もいる(厚生省の国立問題研究所が発表した「第二回、全国家庭動向調査」・ 九八年)。こうした現状の中、夫に不満をもつ妻もふえている。
「家事、育児で夫に満足している」と答えた妻は、五一・七%しかいない。この数値は、前回一
九九三年のときよりも、約一〇ポイントも低くなっている(九三年度は、六〇・六%)。「(夫の家 事や育児を)もともと期待していない」と答えた妻も、五二・五%もいた。
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家庭とは、本当に天国か?
世の男たちは、そう思っているかもしれないが、
家庭に閉じ込められた女性たちの重圧感は、
相当なものである。それについて書いたのが
つぎの原稿です。
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●家庭は兵舎
「家庭は、心休まる場所」と考えるのは、ひょっとしたら、男性だけ? 家庭に閉じ込められた
女性たちの重圧感は、相当なものである。
心的外傷論についての第一人者である、J・ハーマン(Herman)は、こう書いている。
「男は軍隊、女は家庭という、拘禁された環境の中で、虐待、そして心的外傷を経験する」
と。
つまり「家庭」というのは、女性にとっては、軍隊生活における、「兵舎」と同じというわけであ
る。実際、家庭に閉じ込められた女性たちの、悲痛な叫び声には、深刻なものが多い。
「育児で、自分の可能性がつぶされた」「仕事をしたい」「夫が、家庭を私に押しつける」など。
が、最大の問題は、そういう女性たちの苦痛を、夫である男性が理解していないということ。あ る男性は、妻にこう言った。「何不自由なく、生活できるではないか。お前は、何が不満なの か」と。
話は少しそれるが、私は山荘をつくるとき、いつも友だちを招待することばかり考えていた。
で、山荘が完成したころには、毎週のように、親戚や友人たちを呼んで、料理などをしてみせ た。が、やがて、すぐ、それに疲れてしまった。私は、「家事は、重労働」という事実を、改めて、 思い知らされた。
その一。客人でやってきた友人たちは、まさに客人。(当然だが……。)こうした友人たちは、
何も手伝ってくれない。そこで私ひとりが、料理、配膳、接待、あと片づけ、風呂と寝具の用 意、ふとん敷き、戸締まり、消灯などなど、すべてをしなければならない。その間に、お茶を出し たり、あちこちを案内したり……。朝は朝で、一時間は早く起きて、朝食の用意をしなければな らない。加えて友人を見送ったあとは、部屋の片づけ、洗いものがある。シーツの洗濯もある。
で、一、二年もすると、もうだれにも山荘の話はしなくなった。たいへんかたいへんでないかと
いうことになれば、たいへんに決まっている。その上、土日が接待でつぶれてしまうため、つぎ の月曜日からの仕事が、できなくなることもあった。そんなわけで今は、「民宿の亭主だけに は、ぜったい、なりたくない」と思っている。
さて、家庭に入った女性には、その上にもう一つ、たいへんな重労働が重なる。育児である。
この育児が、いかに重労働であるかは、もうたびたび書いてきたので、ここでは省略する。が、 本当に重労働。とくに子どもが乳幼児のときは、そうだ。
これも私の経験だが、私も若いころは、生徒たち(幼児、四〇〜一〇〇人)を連れて、季節ごと
に、キャンプをしたり、クリスマス会を開いたりした。今から思うと、若いからできたのだろう。 が、三五歳を過ぎるころから、それができなくなってしまった。体力、気力が、もたない。
さて、「女性は、家庭で、心的外傷を経験する」(ハーマン)の意見について。「家庭」というの
は、その温もりのある言葉とは裏腹に、まさに兵舎。兵舎そのもの。そしてその家庭から発す る、閉塞感、窒息感が、女性たちの心をむしばむ。
たとえばフロイトは、軍隊という拘禁状態の中における、自己愛の喪失を例にあげている。つ
まり一般世間から、隔離された状態に長くいると、自己愛を喪失し、ついで自己保存本能を喪 失するという。
家庭に閉じ込められた女性にも、同じようなことが起きる。たとえば、その結果として、子育て
本能すら、喪失することもある。子どもを育てようとする意欲すらなくす。ひどくなると、子どもを 虐待したり、子どもに暴力を振るったりするようになる。その前の段階として、冷淡、無視、育 児拒否などもある。東京都精神医学総合研究所の調査によっても、約四〇%の母親たちが、 子どもを虐待、もしくは、それに近い行為をしているのがわかっている。
東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏らの調査によると、約四〇%弱の母親が、虐待も
しくは虐待に近い行為をしているという。妹尾氏らは虐待の診断基準を作成し、虐待の度合を 数字で示している。
妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」などの一七項目を作
成し、それぞれについて、「まったくない……〇点」「ときどきある……一点」「しばしばある…… 二点」の三段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待あり」が、有効回答(四 九四人)のうちの九%、「虐待傾向」が、三〇%、「虐待なし」が、六一%であったという。
今まさに、家庭に入った女性たちの心にメスが入れられたばかりで、この分野の研究は、こ
れから先、急速に進むと思われる。ただここで言えることは、「家庭に入った女性たちよ、もっ と声をあげろ!」ということ。
ほとんどの女性たちは、「母である」「妻である」という重圧感の中で、「おかしいのは私だけ」
「私は妻として、失格である」「母親らしくない」というような悩み方をする。そして自分で自分を 責める。
しかし家庭という兵舎の中で、行き場もなく苦しんでいるのは、決して、あなただけではない。
むしろ、もがき苦しむあなたのほうが、当たり前なのだ。もともと家庭というのは、J・ハーマンも 言っているように、女性にとっては、そういうものなのだ。大切なことは、そういう状態であること を認め、その上で、解決策を考えること。
一言、つけ加えるなら、世の男性たちよ、夫たちよ、家事や育児が、重労働であることを、理
解してやろうではないか。男の私がこんなことを言うのもおかしいが、しかし私のところに集まっ てくる情報を集めると、結局は、そういう結論になる。今、あなたの妻は、家事や育児という重 圧感の中で、あなたが想像する以上に、苦しんでいる。
●「男は仕事、女は家庭」という、悪しき偏見が、まだこの日本には、根強く残っている。だから
大半の女性は、結婚と同時に、それまでの仕事をやめ、家庭に入る。子どもができれば、なお さらである。しかし「自分の可能性を、途中でへし折られる」というのは、たいへんな苦痛であ る。
Aさん(三四歳)は、ある企画会社で、責任ある仕事をしていた。結婚し、子どもが生まれてから
も、何とか、自分の仕事を守りつづけた。しかしそんなとき、夫の転勤問題が起きた。Aさん は、泣く泣く、本当に泣く泣く、企画会社での仕事をやめ、夫とともに、転勤先へ引っ越した。今 は夫の転勤先で、主婦業に専念しているが、Aさんは、こう言う。「欲求不満ばかりがたまって、 どうしようもない」と。こういうAさんのようなケースは、本当に、多い。
私もときどき、こんなことを考える。もしだれかが、「林、文筆の仕事やめ、家庭に入って育児を
しろ」と言ったら、私は、それに従うだろうか、と。育児と文筆の仕事は、まだ両立できるが、Aさ んのように、仕事そのものをやめろと言われたらどうだろうか。Aさんは、今、こう言っている。 「子どもがある程度大きくなったら、私は必ず、仕事に復帰します」と。がんばれ、Aさん!
(はやし浩司 心的外傷論 J・ハーマン(Herman))
●日本VSアメリカ
++++++++++++++++++++++++++
少し前、アメリカの教育について書いた。
それについて、少女時代をアメリカで過ごした
経験のあるSKさんという方から、メールを
もらった。
まず、SKさんの意見より……
++++++++++++++++++++++++++
【SKより……】
(前略)
……歴史教育、国としての意識というのは、どうしても教育現場で密接な
関係を持つものなので、「国のつごうのよいように、子どもを教育しては
いけない」という、先生の指摘されたスタンスはとても大事だな、と
思いました。
簡単に「都合のよいような教育」をしてしまう恐れがある
ものだから、良識の範囲で上手にブレーキをかけていくことが必要
ですよね。
私が住んでいた町では「米国史」だけしか、高校生でも学んでいません。
選択科目に世界史があったかもしれませんが。で、教科書には
太平洋戦争なんかは「ある日、日本軍がパールハーバーを襲撃してきた」
で始まり、2行だけ「長崎、広島に原爆を落として戦争は無事に終了しました」
と書いてあるのです。
アメリカから見た、アメリカ人教育の授業なのだから当然なのかもしれませんが。
12月7日は、在米の日本人はとても肩身が狭いのは今も変わらないと思います。
(特に車の工場地帯であるシカゴ、デトロイトなどでは。)生たまごを投げられたり
とか、罵声を浴びせられたり。
アメリカでは原爆は「全てを終わりにしたヒーロー」なのですから、
スミソニアン博物館でエノラゲイの展示はされて当然なんですよね。
国が違い、歴史観と意識が違うのだから、そのあとの国際理解は遠い
ですよね。せいぜい、ゲイシャ、フジヤマ、ポケモンなんですから。
Kill Billも、ここに入りますか。
SATというのも、数学能力と英語運用能力だけを問うテストだから、
歴史や社会科のもろもろはテストには必要がないんですよね。
で、知ってしまわれると、世論に影響もでるから教えたくないというのが
アメリカの、学校側の言い分なのではないかな、と思うぐらいです。
自分の居場所が大事だから、自分の国を擁護したいし守りたいから、
大人は都合のいいように理解をし、子どもに与えていく。それが
空気のように「常識」としてみなに浸透していくものだから、断ち切るのが
難しい。意識って、怖いですね。
かといって、歴史教育は、年表を覚えるだけでは意味をなさないのは
長年の日本での教育現場で立証済みですが。
(メルマガより)
「昨年も、アメリカの大学を訪れた、東大のある教授が、こう言って驚いていました。
『休み時間になると、学生たちが列をつくって、教授室の前に並ぶんですね。みな、質
問だの、相談だのを、教授にするためです。日本では見たことがない光景だけに、驚きま
した』」と。
はやし先生の、この話についてですが、
私のいた学校では、教室の黒板の片隅に必ず Extra Helpの時間が書いてありま
した。
わからないところがあれば、先生に聞きにいける放課後の時間です。(これは7
年生以上の全教室に書いてありました。)
先生に提出した課題でも、できが悪いと、先生の方から Please come for
extra help.と書かれて戻されました。
小学校の頃からでも「知る権利」を子ども達は持っていて、それを先生にぶつけ
ていくシステムになっているんですよね。
そうやって、debate力も、小さい頃からつけ
ていく。だから、大学生になっても、教授はつかまえる対象なんです。
日本の子どもたち、大学生たちが「私には知る権利がある!」なんて吠えることは
まずないでしょう。ほっておいても、教育が受けられると思っているでしょうから、
獲ってくるハングリー精神はないんですよね。
アメリカだと、1人でも多くを出し抜くためには、どれだけ「奪ってくるか」は
本人にかかってます。これも、「待ってても知識はこない」ことを、知ってる人
たちだからです。
「自由」「平等」「権利」 日本にはまだまだ、身にしみていない概念なのかも
しれません。しみていなくても十分生活ができるのですよね。
(メルマガより)
昨夜、ビデオショップの宣伝につられて、『Kxxx Bxxx』という、和製、アメリ
カ映画を見ました。
一人の若いアメリカ人女性が、自分の夫や子どもを殺されたことを復讐するため、単身、
日本へ乗りこんできて、日本刀で、バサバサとギャングを切りまくるという映画です。
これは、クゥエンティン・タランティーノ監督のKxxx Bxxxのことですよね。あ
れは、ハリウッド映画です。
タランティーノ監督は、PFという映画も撮っています。(これは評価
が高かったようですが)
タランティーノ監督は、日本のやくざ映画などがお好きらしいですね。
日本映画もよくご存知のようで、そのモチーフや内容の多くを
Kxxx Bxxxでも、織り込んでいるときいてます。
(私はみていないのでなんともいえませんが。)
で、Kxxx Bxxx の第一作はあまりに評判が悪かったので、第二作はしっとりま
とまってるらしいというのも聞いています。
Kxxx Bxxxも PFも、構成はバラバラ、らしいです。そういう手法
の監督なんでしょう。
でも、「日本映画に関心がある」監督が、ハリウッドを意識したら、こういう映画に
仕上げてしまうところに怖さを覚えます。「奇異な国」を演出するのに都合の
いい映画になったことでしょう。
と、アメリカにとって、日本は今、とても気になる無気味な国なんだと思います。
いろんな作品を手がけ、映画やアニメなどのソフトが大量に流れ出て、
でも、アメリカの根底を揺るがす力を「持ってしまっている」「理解できない
国」なんだと思います。
そんな不安が Kill Billにも出ていたのではないでしょうか。
その不安を、日本人映画ファンたちはどう理解したのでしょうか。
+++++++++++++++++++++
【SKさんへ……】
いろいろご指摘、ありがとうございました。
●Kxxx Bxxxについて、
「Kxxx Bxxx」について、和製ハリウッド映画というのは、私のまちがいでした。(ごめんなさ
い)
実は、あの原稿を書いた直後に、それに気づき、訂正しなければならないと思いつつ、忘れ
てしまいました。
しかし改めて言います。「意味のない映画です」と。突発的にキレては、無表情なまま、人間
をバサバサ切っていく。その繰りかえしの映画です。
●Extra Helpについて
SKさんからいただいたメールの一部を、あとで、その教授に送っておきます。その教授は、
自分のHPのほうでも、それについて書いています。「驚いた」と。
くだらないことですが、私は学生で、オーストラリアへ言ったとき、最初、この「extra」という単
語が、よく理解できませんでした。辞書をひくと、「余分の」とある。そこである日、友人に、使い 方を聞いたら、こう教えてくれました。
「一人、4個ずつクッキーを渡された。みんな4個ずつ、平等に食べた。しかし1個だけあまっ
た。そこでその家のホステス(家長)が、その1個を、自分にくれた。その1個が、extra oneに なる」と。
extra helpが、あるとは、私も知りませんでした。ご指摘、ありがとうございました。
アメリカでも、オーストラリアでも、大学での講座は、ちょうど私たちがデパートで、ものを買う
ように、1講座ずつ買うのですね。(実際には、目的とする学位取得のために、まとめて買うこと が多いようですが……。もちろん1講座ずつ買うこともできます。)
この「買う」という意識は、日本の学生には、ない意識なので、私も、当初、とまどいました。学
生課へ相談に行くと、「君は、どの講座とどの講座を、選ぶのかね」と聞かれたのを覚えていま す。
だから向こうの学生は、シビアですね。
このことは幼稚園教育でも、学校教育でも同じです。
日本では、行政(県市町村)は、私立学校、私立幼稚園という法人に対して、補助金を支給し
て、財政的支援をしますね。
アメリカでは、直接、子どもをもつ親に、現金を渡します。「バウチャー」と呼ばれる、クーポン
券を渡すこともあります。
つまり一度、親たちが、現金をにぎるわけです。そしてその現金をもって、親たちは、つぎに
幼稚園や学校の選択にかかるわけです。だから親もシビアなら、それに答える幼稚園や学校 もシビアになります。
「教育は与えられるものではなく、自分たちで買うもの」という意識が強い、……というより、こ
の意識は、日本人の私たちにはないものです。このあたりの意識のちがいを理解しないと、ア メリカ人やオーストラリア人の考え方を理解できないのかもしれません。
●「奪ってくるもの」という意識
私も、よくボランティアで、メルボルン大学の教室で、日本語を教えていました。そのときのこ
と。
一人の学生が、「助詞の『わ』と、『は』の使い方を教えてほしい。どういうときに、『私が』とな
り、どういうときに、『私は』となるのか」と。
私が、「わからない」と、とまどっていると、その学生は、つづけて、私にこう言いました。
「あなたは、この講座で、金を受け取っているのか?(Are you getting paid for this l
ecture?)」と。
そこで私が、「いいや、受け取っていない。ボランティアだ」と答えると、その学生は、そっけな
く、「それならいい」と。
「金を受け取っているなら、容赦しない」というような雰囲気でした。
SKさんの「うばってくる」という部分を読んで、私の体験を思いだしました。と、同時に、競争
主義社会のきびしさというか、それを改めて、思い知らされました。いえ、私もアメリカ社会のこ のきびしさを知っているのですが、日本の中で長く暮らしていて、そのきびしさを、忘れかかっ ていました。
10年ほど前ですか、どこかの大学で研究生をしている女性が、こう言っていました。「アメリ
カでは、新しい分析機器が入っても、その使い方を、だれも教えてくれない。『知りたかったら、 自分で勉強しろ』という雰囲気です」と。
あるいは、Yさんという日系のアメリカ人は、こう話してくれました。アメリカで、公的機関で、福
祉介護の指導員の仕事をしています。日本でいえば、公務員ですが、それでも、「どんどん新し いアイデアを出していかないと、すぐクビになってしまう」と。
さらに大学の講師として、1年契約制をとっているところが多い。ヘタな講義をして、学生が集
まらなかったりすると、その講座は、容赦なく、閉鎖される。と、同時に、その講師は、クビ。
……いろいろありますが、そういうアメリカというか、外国の現状を知れば知るほど、日本の
社会が、ぬるま湯に見えてきます。
そのぬるま湯に、どっぷりとつかって、「やはり、日本はいいなあ」と思っている人も多いわけ
ですが、しかし日本全体の未来を考えると、そうであってはいけないのではないでしょうか。
●アメリカ史
アメリカでは、パールハーバーと、広島、長崎の原爆しか教えていないという指摘についてで
すが、私は、「そういうものだろうな」と思っています。
地図で、日本と同じくらいの大きさの国を、さがしてみました。
たとえばエチオピア。あるいは、ソマリアなど。アメリカから見れば、日本も、エチオピアもソマ
リアも、同じなんですね。アメリカでは、中南部あたりへ行くと、大学生でも、日本がどこにある かさえ知らない。
だからといって、アメリカ人を責めてはいけない。日本の高校生でも、アメリカがどこにあるか
さえ、知らないのが、推定でも約40%はいる! ホント!
アメリカから見た日本は、日本から見た、ホンジュラスのようなもの? ホンジュラスがどこに
あるか、地図でそれを正確に指摘できる日本人は、まずいないと思います。
……何とも意味のない話になってきましたが、それだけに、アメリカ人にとっては、日本は、
「異質な国」なのでしょうね。70年代から80年代にかけては、「奇異な国(strange countr y)」と呼ばれていました。
今でも、その印象は変わっていないと思います。ただ悲劇的なのは、こうした外国から見た、
日本の印象について、当の日本人の私たちが、それに気づいていないということです。「私たち は、まともだ」と思いこんでいる?
私がオーストラリアにいたころ、よく日本の政治家がやってきて、ハウス(カレッジ)で食事をし
ていきました。
しかし日本の政治家で、食後、スピーチをして帰ったのは、一人もいない。みんな、何を聞か
れても、ニヤニヤと、笑っているだけ。「すべてわかっています」というような雰囲気で、です。
ほかの国の政治家は、みな、堂々とスピーチをして帰りました。韓国の金外務大臣(当時)で
すら、英語で、スピーチをして帰りましたよ。
今でも、この状態は、変わっていないと思います。SKさんもお気づきかと思いますが、国連
大使ですら、へたくそな英語で、原稿を棒読みにしているだけ。見ている私のほうが、つらくな ることも、しばしばです。
何かが、おかしいのです。この国は……。ホント! そのおかしさに、まず気がつくこと。すべ
ては、ここから始まります。
……と、長い前置きになりましたが、日本と欧米では、歴史の教え方がちがうということは、
私も、最近、知りました。(社会科教育には、ほとんど関心を払ったことがありませんので… …。これは弁解。)
日本のように、ダラダラと年表に応じて、歴史を教えるというよりは、一つのテーマを決めて、
その部分を徹底的に教え、学ぶというのが、欧米の歴史教育のし方みたいですね。先日、スペ インに在住の、Iさんという方から、そう教えてもらいました。たとえば数か月をかけて、フランス 革命について、勉強するとか、など。
このあたりで日本式教育の常識についても、考えなおしてみる必要があるようです。もちろん
すべてが悪いわけではない。しかし、改めるべきは、改める。
東大の元教授の田丸先生(田丸謙二・元日本化学会会長)も、こう書いています。
「アメリカなどではこの激動する時代に適応すべ、15年前頃から教育改革に乗り出し、例え
ば、理科教育など、それまでは鯨の種類など理科的知識を教えていたのから、理科的知識が 生まれる過程を重視して、物事を探求的に考える考え方に重点を置くように切り替え、その考 え方が,歴史や社会など、すべての学科の基本になるという。
この改革の過程では関係団体とも連絡を取りながら、実に150回以上の公開討論会を行な
い,最後には4万冊の原案を各方面に配布して意見を集めて決めている。
我が国の教育改革のように文部科学省の密室の中で原案を作って、今回の「ゆとり教育」のよ
うにいざ始まってから、あまりの不評に取り繕いを余儀なくされる無責任体制とは余りにも違っ ている」と。
要するに、アメリカは、「知識教育」から、「自ら考える子ども教育」への転換をはかったという
ことですが、こうした傾向が、あらゆる科目に浸透しているということでしょうか。
●広島、長崎の原爆
ちょうどこの原稿をマガジンで発表するころは、広島、長崎の原爆記念日のころですね。(予
定では、8月4日号)。
私がいつも疑問に思うことは、こういうことです。
広島に原爆が投下され、日本は敗戦した。しかしその約1週間後には、アメリカの原爆調査
団が、広島に入っている。
そのときのこと。アメリカの原爆調査団は、各地で歓迎され、手厚いもてなしを受けていると
いうことです。アメリカの原爆調査団に対して、ただの一発も、抵抗運動がなかったということで す。
もともとあの戦争には、戦うべき、正義がなかったのですね。正義があれば、フランスのレジ
スタンス活動のようなものがあったはずです。あるいは、今のイラクのような抵抗運動でもよ い。
このあたりが、外国人には、理解できないところのようです。
つい先日も、パキスタン人の男性(35歳くらい)と話しあったのですが、彼は私にこう聞きまし
た。
「日本人は、アメリカ人に、ひどいめにあっているではないか。広島、長崎の原爆を見れば、
それがわかるだろ。どうしてその日本人が、こうまでアメリカに追従するのか」と。
どうしてでしょうね? 私なら、原爆調査団に、こう言って食ってかかっていったでしょうね。
「どうして、こんなひどい爆弾を投下したのか! バカヤロー!」と。
当時の日本人は、自分で考えて行動し、意見を言うということができなかったのかもしれませ
ん。何でもかんでも、「上」の言いなり。まさに国民全体が、ロボット化していた? 私には、そう としか思えません。
で、その結果が、SKさんが、おっしゃる、「アメリカでは原爆は、全てを終わりにしたヒーロ
ー」ということになるのでしょうか。
アメリカ人の友人(元高校教師)は、こう言いました。
「ヒロシ、もしあのとき、アメリカが、日本に原爆を落としていなかったら、日本は、スターリン・
ソ連の占領下に入っていただろうね。あの原爆を見て、スターリンは、北海道侵攻を思いとど まったんだよ」と。
彼は戦時中、水兵として、地中海で船に乗っていたそうです。そしてアメリカへ帰ったところ
で、日本の原爆投下を知ったそうです。
当時の日本にしてみれば、ルーズベルト・アメリカでも、スターリン・ソ連でも同じようなもの。
しかし結果的にみると、ソ連でなくてよかったと、心のどこかで思います。もしソ連だったら、今 ごろは、K国のようになっていたかもしれません。
長い返事になってしまいましたが、最後まで(多分)、読んでくださって、ありがとうございまし
た。
またどうか、ご意見などあれば、お寄せください。たいへん(x100倍)、参考になりました。あ
りがとうございました。
また、いただきましたメールの掲載など、どうかご許可ください。よろしくお願いします。
はやし浩司
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
【みなさんの意見から……】
当然のことながら、マガジンを発行していると、賛否両論、いろいろな意見をもらう。今週も、
あった。
(国旗について……)「日本は、そもそも単一民族だから、国旗や国歌にこだわる必要はない
のではないか。国旗や国歌が必要なのは、多民族国家である。そういう国では、国をまとめる ために、国旗や国歌が必要である。しかし日本には、そもそも、その必要性がない。なりゆき に任せればいい」(53歳・男性)
(先生と親とのトラブルについて……)「今は、スクールカウンセラーが、担当することになって
いる。トラブルがこじれそうになったら、カウンセラーが、その間に入ることになっている。その ため、もっとスクールカウンセラーを、学校でふやしてほしい。ちなみに、私の子どもの通う中 学校では、週1回しかきてくれない」(40歳・女性)
(父親を立てろという意見に対して……)「今は、父親が、なおざりになっている時代と言ってい
い。母親と話していても、母親が、『主人が賛成してくれません。どうか主人を説得してください』 などと言う。そういう家庭が多い」(45歳・教師)
(注、かっこ内の年齢については、お子さんの年齢などから、推定でつけました。)
++++++++++++++++++
SKさんが、こんな返事をくれた。
SKさんは、少女時代を、アメリカで
すごしている。
++++++++++++++++++
【SKより……】
●プロ意識
プロはお金を代償としてもらうもの。そうなんですよね。
これは、アメリカの子どもたちが町中でレモネードを夏場に
売って小銭を稼ぐのと共通するかもしれません。
そういえば、こんなことも思い出しました。中学校のときに
友人が新聞配達のアルバイトをしていました。で、一週間の
夏休み中、私が代わりに仕事をしたことがありました。
もちろん、親の協力がないとできないバイトなのですが、
まずは新聞販売店に行って、自分の担当個所の分の新聞を
自分で先に全て「買い取って」くるのです。担当個所といっても、
20件ほど。それも、向こう(アメリカ)の新聞は分厚くて大きい。
最初に買い取ってきて、自転車にくくりつけて、自分で一軒
一軒配達にいく。で、配達先と事前に話をつけておいた日に
「集金」に行くのです。中学生が、自分で。集金できなければ
自分のふところが痛んだままなんです。
支払いをしぶる人とどう交渉するか。犬のいる家ではどんな
ふうにすり抜けるか。小切手で支払われたら銀行に行って
現金化してこないといけない。雨で濡れて台無しにしたら
その分の「収入」はないんです。それに、謝ってまわらないと
いけない。どんなに怒鳴られるかも分からない。
子どもながらに、責任が問われて、その分の代償が手に
入るようになっているのです。で、ボーイスカウトをやってる
ような子なら、こういう集金のときに、ついでに、ボーイスカウト
のクッキーを売って歩いたりするのです。
"Are you getting paid for this?" (お金を受け取っているか?)(注1)
とても大きなファクターになっていますね。逆に、"not getting
paid"なら、だれも構ってくれないぐらいで。
夏の一週間の新聞配達と集金を思い出しました。
(注1)これは、私(はやし浩司)が、ボランティアで
英語をオーストラリアの学生に教えているとき、彼らの
質問に答えられなかったことに対して、ひとりの学生が、私に
言った言葉。「お金を受け取っているなら、質問に答え
れないのを許さない」という意味で、その学生は、
そう言った。
●歴史
日本人は「国際社会に参加してる」と思っていますよね。ヨーロッパで、
アメリカで、「アジア人」という枠でどれだけ蔑まれているかを
知らないですよね。
それも、理由も、あるのだか、ないのだか分からない差別を。
でも、日本人は「アジア人である」という自覚もない。だからちょっとの
海外旅行でも不快な経験をされた方は少なくないのではないでしょうか。
もっと「アジア人」で、「日本人」であっていいと思うのです、この国民は。
でも、なんとなく「英語がしゃべれたほうがかっこいい」って具合に
会話の決り文句ばかりを覚えていくのですよね。
それじゃ、内容のある話はついてこないのに。どうして英語教育の
低年齢化ばかり進むのでしょうね。
文科省のみなさまには、もう少し現場を見つめてもらいたいものですね。
生徒達、先生方、父兄、みながこんなに悲鳴をあげているのに。
●原爆
アメリカの人たちに、原爆の話をしても、「パールハーバーを攻撃しなきゃ
よかったんだろ」という具合に話を転嫁してしまいます。
私が中2のときの社会科の授業で、「日本から見た」太平洋戦争の
一部分を、レポート提出した事がありました。もっとも、私の母が
知っている程度の知識を、英語で表現しただけでしたが。
私の社会科の先生はそのレポートをクラスで朗読しました。
金目のものは全部アメリカ軍に持っていかれた、だの、松やにをあつめて
燃料にした、だの。そういう話です。
クラスの仲間が、びっくりして、泣き出したのを今でも覚えています。
授業が終わってから、私に謝りにきたクラスメイトも数人いました。
知らないだけ、なんですよね。
歴史。日本人は、渡航すれば日本の代表です。1人でも多くの人が、
ほんのわずかでも、日本のことを語っていく必要がある。自覚をもって
「日本人」にならないといけないですよね。
ルーズベルト・アメリカか、スターリン・ソ連か。当時の日本にしてみれば
同じようなもの、だったでしょうね。同感です。そして朝鮮半島は
地理的に、分断されやすい場所にあったといえるのでしょうね。皮肉な
話です。
また長くなってしまいました。先生もお忙しいことでしょうから、
返信は不要です。またメルマガで思うところがあったら
メールします。
【SKさんへ……】
いつも鋭い、ご指摘、ありがとうございます。実際の体験者であるだけに、ご意見には、ほか
にはない迫力があります。たいへん参考になりました。
昨夜(7・5)は、10時ごろ床についたのですが、あれこれ考えているうちに、頭がサエてしま
い、1時間ほど、眠れませんでした。
「このまま地球は、どうなってしまうんだろう」とか、そんなことを考えてしまいました。中国の広
東省の広州市では、熱波で、39人もの人が、死んだそうです(「北京青年報」)。
いわく、「(気温が39度をこえ)、広州市救急センターの救急車出動件数は、7月1日が331
件、2日は277件で、例年平均を大幅に突破。一日の出動件数は『この10年間で最高記録』 (同センター)という。同市政府は、特に高齢者に対し不必要な長時間の外出を控え、水分を 十分に取るよう注意を呼び掛けている」と。
あのメルボルン市では、今年の1月、気温がやはり、40度近くにまでなったそうです。私が学
生代のころには、世界一、温暖な気候で知られていた、あのメルボルン市で、です。
たまたま火星探査機の計画が、話題になっていますね。どこか「地球も火星のようになるぞ」
と、そんなふうに脅されているかのようにも思えます。これから先、この日本も、熱波に襲われ そうですね。
ただ日本は、四方を海に囲まれていますから、ラッキーと言えば、ラッキーですが……。だから
こそ、世界という場で、リーダーシップを発揮しなければならないのですが……。いろいろ考え てしまいます。
このマガジンが配信される、8月6日は、広島の原爆記念日の日です。(今日は、7月6日で
す。ちょうど1か月先の原稿を書いています。まぐまぐプレミアのほうは、有料マガジンで、発行 を忘れたりすると、ペナルティーを科せられたりするからです。)
今年も、どこかの小学生が、群集の前で、声高らかに、平和宣言をするのでしょうが、私はあ
あいうことを、平気でさせる、主催者の意図が理解できません。アルカイダの連中が、少年に、 自爆攻撃をさせるのと、どこがどうちがうというのでしょうか。
つぎの世代の子どもたちのために平和を用意してあげるのは、私たち、おとなの役目です。
「戦争はいやだ」という理由で、逃げまわるのは、平和主義でも何でもありません。「いざとなっ たら、平和を守るためには、戦争をも辞さない」という、強い気がまえがあってはじめて、平和 は守れるのですね。しかしそんな宣言を、子どもたちにさせるわけにはいかない……。
「戦前の日本のように、もう外国を侵略しません」とでも、宣言するのなら、まだ話はわかりま
す。しかしそんなことは当たり前のことではないでしょうか。どちらにせよ、子ども自身が自分で 考えてそう宣言するならまだしも、おとなの操(あやつ)り人形のように、子どもを利用するの は、許されないことです。
……と、まあ、いろいろ考えてしまいます。
地球環境、戦争と平和、そして教育、日本の未来などなど。今、私たちがもっと真剣に考えな
ければならないテーマは、多いですね。ただとても残念なのは、私の周囲でさえ、こうした問題 を考えている人たちが、少なくなってきているということです。地球温暖化にしても、このまま、 あれよあれよと思っている間に、どんどんと進んでいくのでしょうね。たいへん、こわいことです が……。
ご意見をいただいたことについて、改めて、お礼申しあげます。ありがとうございました。また
どうか、どうか、ご意見をお寄せください。お待ちしています。
はやし浩司
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●SKさん(女性・2児の母親)よりのメール
【SKより、はやし先生へ……】
今日(8月6日は朝のサイレンがなり、それがきっかけで、
娘に「広島」について話をする
機会がありました。もう、来年で60周年。今の国際情勢を
考えると、広島の原爆も、昔話になってしまうのでしょうか。
さて、メルマガにあった文章で、気になったことについて
書き添えたいと思います。
<国旗、国歌について>
(国旗について……)「日本は、そもそも単一民族だから、国旗や国歌にこだわる必要はない
のではないか。国旗や国歌が必要なのは、多民族国家である。そういう国では、国をまとめる ために、国旗や国歌が必要である。しかし日本には、そもそも、その必要性がない。なりゆき に任せればいい」(53歳・男性)
この意見を読んで、日本人は、単一民族である、
という発想がまだまだ強いところがこわいなぁ、と
思いました。
国旗、国歌が必要になってくるのは、自分の国にいるときではなく、
「外国にでた」ときだと私は考えます。自分が「どこの」所属かを
相手に明確にするためのものですよね。
浜松で、浜松祭りで、どこの町の法被を着ているか、のように。
だからこそ、自分の国から一歩もでない、鎖国状態の人には
「必要が無い」で済むのかもしれません。
アメリカで、高校の英語の授業でも、歌舞伎や能を扱うことが
あります。イギリスの作家でも、能の影響を受けて劇を書いている
人もいますし。(アイルランドのイエイツ、ノーベル賞作歌もそのひとり)
授業で、「能について、知っていることを教えてください」と
問いかけを先生からされたときに、答えることができない日本人と
しての所在のなさ! 今でも忘れません。
日本に帰ってきてから、能について、勉強をしていないところに私の
怠慢がありますが……。
国旗を、国旗といえない国には、どうしても問題があると思うのです。
幼稚園でも小学校でも「ひのまるのうた」を歌ってきます。じゃ、
どうして「国旗」と言わずに、「ひのまる」というのでしょう。
国歌も、「きみがよ」という別名をもうけてあります。
主人が柔道を趣味でしているので、彼の恩師に警察大学校で教壇に
立っている方がいます。主人が会話の流れで「日の丸」と言ったときに、
先生は毅然と、「ひのまるではない! 国旗だ!」と言ったそうです。
会話の流れとはいえ、選ぶ言葉は「意識」の問題である、と。
国の、国民としての、自覚の問題ですね。考え方は十人十色かも
しれません。
国旗の扱いについても、日本人は自覚がなさすぎることはよく
指摘されていることです。主人の手伝いで、かれこれ10年ぐらい前に
千葉の幕張で行われた柔道世界選手権の舞台裏を覗いたことがあります。
国旗の扱いはどこまでも丁重に。日本人だと、たたむときに、床に
べろーーん、と広げてから畳んだりしてしまいます。もう、こんな
ことが相手国の人々の目にとまれば、大政治問題です。
降ろすときも、畳むときも、複数の人間が各角をもち、角をあわせて
畳みます。決して床にはついてはいけない。
国旗を重ねてしまう事があろうものなら、その順序(どちらが上、
どちらが下)も、神経質になります。あくまでアルファベット順に徹する
などの工夫が必要です。
しまうときも、「くっつかないように」ひとつひとつビニール袋に入れて
しまいます。国旗そのものが、お互いにくっつかないように。
レプリカをつくって、シャツのデザインにしたり、なんていうのは
「相手国に対する冒涜」なんです。こういう視点で国旗を考えた
ときに、小学校の運動会でかかっている「万国旗」には、つい、
意味を考えたくなってしまいます。
国旗、国歌の議論が必要がない、とおっしゃる方は、くれぐれも
渡航中にトラブルに巻き込まれないようにお気をつけいただきたい
ものです。
日本人、国旗、国歌。日本をでれば、みなが日本の代表ですので。
ふと、サッカーアジアカップの、日本・中国の決勝が頭をよぎります。
とても、とても、恐ろしい政治の問題です。
<平和宣言>
私が大学生のとき、大学生協の平和活動に参加をしていました。
全国津々浦々の大学生協から、学生達が集まって平和アピールを
するという主旨のものです。
東京だと、江戸川区にある、第五福竜丸のおいてあるところから
平和アピールが始まります。8月6日の、広島の式典にあわせて
行進をし、たすきをつないでいくというものです。ピースウォークという
名称のものでした。
それに参加するほど根性はなかった私は、6日に広島入りをしました。
で、大学生どうしで、ひたすら「平和ってなあに?」という話し合いを
して、「ほら、平和って大事だよね。」と言い合って終わるのです。
完全に、自己満足の世界です。「ふつうの大学生とちがって」、自分は
「平和のことを考えている」というのをお互いに認め合うための会合
です。それも、広島で、大集会と化して。大声で平和をイメージした
歌を歌ってみたりして。
大学生協だけでもかなりの規模ですし、各地生協、平和団体などなど
集まってきます。海外からも、水素爆弾禁止運動をしているフランス人
やら、いろんな人がいました。それはそれは、8月6日だけは、きっと
残り364日の広島の景色とは違ってしまうのでしょう。
朝の式典は、原爆の投下された時間の黙祷で始まります。そのために
平和公園に集まるために、寝ぼけ眼で、大学生達がタクシーに
乗って「すべりこみセーフ」で式典に、参加するのです。(と、集会の
人ごみにまぎれているだけなのですが。)
タクシーの運転手さんがつぶやいてました。「今日だけはね、どこも
かしこも、馬鹿騒ぎでね。ほんとに広島の人とか、戦争関係の
人なんていないだろうよ」って。広島に来た自分が、おろかだったなと、
痛感した瞬間でした。
8月6日の広島。それは、青空の広がる暑い夏だったはずです。
今年は、台風やらの影響での独特な湿気。こうやって感覚がずれて
いくのでしょうか。
<マガジンについて>
先生のマガジンを通して、日常の忙しさにかまけて、考えないような
話題がたくさん提示されています。ほんとに、たくさん。思うことが
あっても、返信できないほどです。
今年の暑さは、例年とは明らかに違います。どうぞ、お身体を第一に
なさってください。このうえで、楽しいマガジンの配信をお願します。
<読書感想文>
娘の宿題の読書感想文を眺めながら、ふと思ったことがあります。
そういえば、私がアメリカでいたときの5年間、読書感想文って
書いただろうか? 書いてない!(そうか、だから娘に指導できない
んだ!って開き直ったほどです。)
日本は識字率が高いので、こういう宿題が可能だと思いますが、
それだけが理由なのでしょうか。
私が過ごした5年間でこなした作文課題といえば…。
ショートストーリーを書く、詩を書く、俳句を書く、などでした。
いわゆる creative writingです。
エッセーといっても、レポートと同じように「批評する」文章でした。
日本の、いわゆる読書感想文の、「○○に感動しました。☆☆が
面白かったです。私にもこういう経験があります。この本を読んで
とても心が打たれました」的なものではなかったです。
本について書く文書といえば、ブックレビューでした。これも、
本の批評です。critical writingといわれていました。それこそ、
作品の中の、フレーズや単語ひとつを、とことん批評するという
ような主旨のもの。または、作品の歴史背景等を鑑みた批評など。
アメリカの、私が住んでいた町だけ読書感想文の指導がなかった
のでしょうか。よその国でも、日本の読書感想文にあたるような
もの(原稿用紙3枚ぐらいの分量のもの)があるのでしょうか。
ふと、気になってしまいました。
とてもとても長くなりました。適当に読み流していただけると
幸いです。
SKでした。
【はやし浩司よりSKさんへ……】
昨夜(8・7)は、アジアカップの決勝戦が、ペキンでありました。私の教室の父親が、2人、出
場しているということで、ふつうでない緊張感を覚えました。(いつもなら、菓子をポリポリ食べな がら、気楽に観戦していたと思いますが……。)
中国の人たちのもつ、根深い反日感情を知るにつけ、改めて、「国とは何か」を、考えさせら
れました。選手の人たちは、若い人ばかりです。戦前の日本とは、関係のない人ばかりです。
それが、戦後60年近くもたった今、ペキンで、反日攻撃の矢面に立たされている!
私も、1967年に、UNESCOの交換学生で、韓国に行きましたが、歓迎されたのは、当初
の1日だけ。あとはどこへ行っても、日本攻撃の矢面に立たされました。戦後生まれの、私が、 です。
国歌斉唱のとき、またまた大ブーイング。それを見ていたとき、何もしてこなかった私たちの
世代。それを知り、申し訳ない気持ちにかられました。多分、選手の奥さんたちや、生徒たちも 観客席にいるでしょう。何か、ものを投げつけられなければよいがと、どこかハラハラして見て いました。
あんな気持ちで、サッカーの試合を観戦したのは、はじめてです。
で、日本が優勝。何ごともなかったようです。(もし2対1なら、大抗議が起きていたかもしれま
せんね。うち日本の1点は、どこかファウルゴールぽかったですから……。しかし実際には、3 対1で、勝った! これなら中国側も文句を言えない!)
よかった!
広島の原爆について、「小学生に平和宣言などさせるものではない」と書いた私の意見に、
やはり反論してきた人がいました。
わかります。
私は平和宣言に反対しているのでは、ありません。「平和を、つぎの世代のための子どもた
ちのために用意するのは、私たち、おとなの役目だ」と書いたのです。「そのために、子どもを 利用してはいけない」と。
同じようなテーマに、環境問題があります。おとなの私たちが、さんざん、環境をよごし放題よ
ごしておいて、子どもたちに向かって、「環境を守れ」はないとと思います。
それともSKさんは、アメリカで、子どもが、平和宣言しているような光景を見たことがあります
か? 子どもが自分で考えて、そう言うならまだしも、子どもを操り人形のように、操ってはいけ ない。それが私の意見です。(何なら、幼児に平和宣言させてみればよいのです。どうしても、 子どもにさせたいのなら……。)
平和の問題は、高度に政治の問題であり、それゆえに、それは純粋に、おとなの問題なので
す。たとえば今、天然ガスの採掘をめぐって、日中関係がギクシャクしています。たがいに、ま さに(やられたら、やり返す)の応報を繰りかえしています。こうした応報が、やがて戦争につな がらないとは、いったい、だれに言えるでしょうか。
「平和を守ります」と、子どもに宣言させて、それで平和を守ることにはならないのです。
私は、こうした、つまりおとなたちの責任をタナにあげ、子どもを利用する行為が、どうにもこ
うにも、許せないのです。プラス、どうにもこうにも、理解できないのです。
そうそう、その「日本人には、国旗はいらない」と言ってきた人は、現在、インドネシア在住の
男性(50歳)です。前後を少し省略しましたが、彼が言うのは、こういう意見です。
「インドネシアは、いろいろな民族でなりたっている。そういう国を一つにまとめるには、国旗
が必要だ。しかし日本は、そもそもそういふうに、一つにまとめる必要はない。少なくとも、イン ドネシアのようにはない」と。
それで冒頭のような意見を書いてくれました。少し、誤解があったかもしれません。
「能」で思い出しましたが、私が学生時代、2年間だけですが、その能(私は声を出す、謡)を
しました。加賀宝生流です。京都の能舞台で、うなったこともありますよ。
外国へ行くたびに、何かの場で、披露しています。ああいうのを、何か一つ、得意芸として、
身につけておくと、よいですね。「これがジャパンだ」と、誇ることができます。
またアメリカには、(ライブラリー)という授業があります。週1回程度、図書室で、指導を受け
るというものです。ご存知のように、アメリカでは、読書指導が、教育の柱になっています。
驚いたのは、(ライブラリー)の指導だけは、修士号をもった教師でないと、できないということ
です。(ほかの教科は、学士号で、教壇に立つことができますが……。)
「図書館の司書」というと、日本では、どうしても「下」に見られますが、欧米では逆のようです
ね。オーストラリア人の友人も、オーストラリアのM大学の図書館で、司書をしていますが、教 授と同じあつかいです。あらゆる教授の相談にのるという意味で、重要な仕事と考えられてい るようです。
SKさんのメールを読みながら、改めて、ナットクしたというわけです。ありがとうございまし
た。
言うまでもなく、(作文)が、文字、言葉教育の目標であり、要(かなめ)ですね。本を読んで、
作文を書く。これから日本でも、もっと重要になってくると思います。
メール、ありがとうございました。またまたマガジンへの掲載を、許可していただければ、うれ
しいです。(すでに発行予約してしまいましたので、事後承諾になります。どうか、お許しくださ い。9月6日号に、掲載します。よろしかったでしょうか。)
そうそう、きのう、「スパイダーマン」を見ました。ああいう映画は、肩がこらなくて、よいです
ね。ハハハと笑って見ました。
(040808)
●子ども3態
●自己中心的な子ども
わがままで、自分勝手。少しでも気にいらないことがあると、ワーワーと叫ぶ。が、そのくせ、
がまんができない。
精神の完成度は、いかに利他的であるかで知ることができる。つまり自己中心的であればあ
るほど、その人の人格の完成度は、低いということになる。子どもとて、例外ではない。幼児と て、例外ではない。
その幼児のばあい、ていねいに観察すると、その「芽」を知ることができる。人格の完成度の
高い子どもになるか、どうかを、その段階で知ることができる。
が、ここで大きな問題にぶつかる。
たとえば今、ここにきわめてわがままで、自分勝手な子どもがいたとする。頭も悪くない。そ
の上、もの知り。親も、子どもの教育に、熱心。手間をかけている。時間も、金もかけている。 が、典型的なドラ息子。ドラ娘。
そういう子どもをもつ親に、子どもの問題点を指摘しても、意味がない。親自身が、その自覚
がないというより、私のもっている尺度と、ちがった尺度をもっている。むしろそういう子どもほ ど、できのよい子どもと思っている。……思い込んでいる。
そこで私は、そういう子どもを、教えたくないと思う。「知恵をつけるにしても、その知恵をつけ
るのは、私でありたくない」と思う。若いころなら、もう少しフレキシブルに考え、「お金のため」と 割り切ることができた。しかし、今は、もうそういう妥協ができなくなった。
ワイフに言わせると、「あなたも、融通がきかなくなったわね」ということか。
たしかにそうだ。そうかもしれない。脳が老化し始めたのかもしれない。あるいはアルツハイ
マー病の初期症状かもしれない。が、私は、そうは思わない。
私の人生も、いよいよカウントダウンの段階に入ってきた。平均寿命からすれば、まだ20年
は生きられるかもしれない。しかし幼児教育は、実にハード。どうハードかは、恐らくやっていな い人には、理解できないだろう。1時間、幼児に接すると、それだけで、体も心も、ヘトヘトにな る。
あと、3年か。あるいは5年か。そういうことを考えると、教えたくない子どもは、教えたくない。
私がここでいう、「大きな問題」というのは、それをいう。が、それだけではない。
ここ10年、若い母親たちと、女子高校生たちの区別が、つかなくなってきた。同じように見え
る。若い母親たちは、「私は高校生たちとはちがう」と思っているかもしれない。しかしそれほ ど、差があるわけではない。
ドラ息子、ドラ娘とは言うが、もし母親が、そのドラ娘だったら、どうするのか。つまり子どもの
人格の完成など、求めるほうが、無理。期待するほうが、無理。そういう母親の子どもである。
「お宅のお子さんですが……」と言い出しても、そのとき、パタリと、自分の口が閉じてしまう。
もし、あなたの子どもが、わがままで、自分勝手なら……、いや、まず、親自身が、それに気
づかねばならない。それに気がつかない親に、いくら子どもの人格の完成度を説いても、意味 はない。
10年ほど前だが、こんな子どもがいた。中日新聞に発表した原稿を、そのまま掲載する。
++++++++++++++++++++++
●生意気な子どもたち
子「くだらねエ、授業だな。こんなの、簡単にわかるよ」
私「うるさいから、静かに」
子「うるせえのは、テメエだろうがア」
私「何だ、その言い方は」
子「テメエこそ、うるせえって、言ってんだヨ」
私「勉強したくないなら、外へ出て行け」
子「何で、オレが、出て行かなきゃ、ならんのだヨ。貴様こそ、出て行け。貴様、ちゃんと、金、も
らっているんだろオ!」と。そう言って机を、足で蹴っ飛ばす……。
中学生や高校生との会話ではない。小学生だ。しかも小学三年生だ。もの知りで、勉強だけ
は、よくできる。彼が通う進学塾でも、一年、飛び級をしているという。しかしおとなをおとなとも 思わない。先生を先生とも思わない。今、こういう子どもが、ふえている。
問題は、こういう子どもをどう教えるかではなく、いかにして自分自身の中の怒りをおさえるか、
である。あるいはあなたなら、こういう子どもを、一体、どうするだろうか。
子どもの前で、学校の批判や、先生の悪口は、タブー。言えば言ったで、あなたの子どもは
先生の指導に従わなくなる。冒頭に書いた子どものケースでも、母親に問題があった。
彼が幼稚園児のとき、彼の問題点を告げようとしたときのことである。その母親は私にこう言っ
た。
「あなたは黙って、息子の勉強だけをみていてくれればいい」と。つまり「よけいなことは言うな」
と。
母親自身が、先生を先生とも思っていない。彼女の夫は、ある総合病院の医師だった。ほか
にも、私はいろいろな経験をした。こんなこともあった。
教材代金の入った袋を、爪先でポンとはじいて、「おい、あんたのほしいのは、これだろ。取
っておきナ」と。彼は市内でも一番という進学校に通う、高校一年生だった。
あるいは面と向かって私に、「あんたも、こんなくだらネエ仕事、よくやってんネ。私ゃネ、おとな
になったら、あんたより、もう少しマシな仕事をスッカラ」と言った子ども(小六女児)もいた。や はりクラスでは、一、二を争うほど、勉強がよくできる子どもだった。
皮肉なことに、子どもは使えば使うほど、苦労がわかる子どもになる。そしてものごしが低くな
り、性格も穏やかになる。しかしこのタイプの子どもは、そういう苦労をほとんどといってよいほ ど、していない。
具体的には、家事の手伝いを、ほとんどしていない。言いかえると、親も勉強しか、させていな
い。また勉強だけをみて、子どもを評価している。子ども自身も、「自分は優秀だ」と、錯覚して いる。
こういう子どもがおとなになると、どうなるか……。サンプルにはこと欠かない。日本でエリート
と言われる人は、たいてい、このタイプの人間と思ってよい。官庁にも銀行にも、そして政治家 のなかにも、ゴロゴロしている。都会で受験勉強だけをして、出世した(?)ような人たちだ。見 かけの人間味にだまされてはいけない。
いや、ふつうの人はだませても、私たち教育者はだませない。彼らは頭がよいから、いかにす
れば自分がよい人間に見えるか、また見せることができるか、それだけを毎日、研究してい る。
教育にはいろいろな使命があるが、こういう子どもだけは作ってはいけない。日本全体の将
来にはマイナスにこそなれ、プラスになることは、何もない。
++++++++++++++++++++
念のため申し添えるなら、こうして自分が一度でも教えた子どもの悪口を書くのは、私の本意
ではない。しかしあえて、現実を知ってほしいから、私は書いた。と、同時に、あなたの子どもに は、そうなってほしくないから、私は書いた。
そこで改めて人格の完成度。
仮にたとえば今、ある幼児の母親が、私に、「あなたは黙って、息子の勉強だけをみていてく
れればいい」と言ったとする。あるいはそれに近い態度を、見せたとする。
子どもは、放っておけば、まちがいなく、ドラ息子、ドラ娘になる。そういうとき、あなたなら、ど
うするだろうか。
お金のため……と、割り切って、仕事をつづけるか。それとも、……?
もう一つの選択として、こうした親を説得して、親や子どものもつ問題点を理解してもらうとい
う方法もないわけではない。しかしそれには、ものすごい時間と労力がかかる。それに今、この タイプの親は、ゴマンといる。決して、一人や二人ではない。
一方、心のやさしい親や子どももいる。人格の完成度の高い人たちである。いきなりこういう
結論を書くと、どこか青年の主張のような、歯が浮いたような言い方になるが、今、私は、こう 思う。
私がすべきことは、そういう親や子どもが、将来、少しでも住みやすい環境をつくってあげる
こと、と。それが今の私の、人生最後の仕事のような気がする。
●エリート意識
エリート意識にも、善玉と悪玉がある。
生きる誇りというか、プライドというか、そういうエリート意識を、善玉エリート意識という。
昔、アルゼンチンのブエノスアイレスでタクシーに乗ったときのこと。そのホテル直属のタクシ
ーだったが、その運転手の身のこなし方が、外交官以上に外交官のようであったことに驚い た。
見るからに、その運転手は、自分の仕事に誇りを感じているようだった。そういうのが、善玉
エリート意識という。
一方、悪玉エリート意識というのもある。
ある市の役人は、堂々と(ヌケヌケと)私にこう言った。
「林さん、このH市は工員の町ですよ。いいですか、工員を働かすためには、工員には、金
(マネー)をもたせないことですよ。そのために、市には、たくさん娯楽施設を作って、工員に金 を使わせるようにするのです」と。
50歳を過ぎた、エリート職員だった。私は「30年も役人をしていると、こういう発想をするよう
になるのか」と驚いた。
が、こうした悪玉エリート意識は、その仕事の中で、作られていくものらしい。そしていつか、
それが常識になってしまい、そのおかしさが、自分でも、それがわからなくなってしまう。
こんなことを言う人もいた。彼はある都市銀行で、部長職にある人だった。
「私は、道路工事で、旗を振っている人にもですね、頭をさげることにしています」と。
つまり自分は、それだけ弱者の立場でものを考えることができる人間だと言いたかったのだ
ろう。しかし、その発想そのものが、悪玉エリート的。
どうして道路工事で、旗を振っている人が、弱者なのか? 実は、そういう職種の人を「下」に
見ているのは、その人自身に、ほかならない。頭をさげることなど、当たり前のことではないの か。あるいは、そういうふうに気をつかうこと自体、失礼というもの。
……実は、こう書きながら、こうした悪玉エリート意識は、子どもの世界にもある。子どもは、
受験戦争というあの戦争を通りぬける過程で、それを身につける。何を隠そう、私自身も、か なり長い期間、その悪玉エリート意識をもっていた。30歳くらいまでか。それとも35歳くらいま でか。
その悪玉エリート意識と、自分の中で戦うために、かなり苦労をした。そんな記憶が、心のど
こかに残っている。
当時は、大学は、一期校と二期校に分かれていた。さらに旧帝大と旧高校との差もあった。
私が卒業した金沢大学は、その一期校だった。旧第4高等学校が、その前身だった。私はい つしか、(当時のほとんどの学生がそうであったと思うが……)、「私はエリートだ」と思うように なってしまった。
つまり同じ大学生でも、そうでない大学の学生を、「下」に見るようになってしまった。
しかしこんなエリート意識、「カエルのヘ」にもならない。そのことは、50歳を過ぎても、60歳
を過ぎても、学歴にしがみついている愚かな人たちを見ると、よくわかる。くだらないというより は、かわいそうにすら思う。
大切なことは、それぞれの人が、それぞれの立場で、生きる誇りというか、プライドというか、
それをもって、前向きに仕事をしていくこと。と、同時に、そういう人たちの、生きる誇りという か、プライドを理解すること。
それはちょうど、紙の表と裏の関係ではないのか。
自分自身の善玉エリート意識を支えるためには、同時に、相手の善玉エリート意識を認めな
ければならない。
アメリカに住む、二男が、こんなエッセーを書いている。少し話がそれるが、参考になる。
++++++++++++++++++++
【林 宗市より】
シャワーの蛇口からポタポタと水滴が落ちていたのでその修理をした。例の水の元栓を止めて
(この元栓との戦いは以前詳しく書いた)、蛇口を取り外し、パッキング、ボールベアリングを分 解した。
家のシャワーの水道管にはシャットオフバルブがついていなかったので元栓をとめなければい
けなかったのだけど、この季節、芝生の草が勢いよく元栓の周りまで成長していて、そう簡単な ものではなかった。
以前から思うことだけれど、アメリカの家というのはメンテナンスが実に簡単だ。消耗するで
あろう、ほとんどのものがみな簡単に取り外し、取替えできるようになっている。ロウズという大 きなお店があって、Home Depotにおなじみの人は知っているかも知れないが、ここへ行くと家 の建築、配管、配線、電気、大型家電、木材、カーペット、建築道具など、とにかく家を建てる のに必要なものがすべて手に入る。
みんなアメリカに住んでいる人は「Do It Yourself」的な人が多いんだね、って言う人が多いけ
れども、上に書いたとおり、基本的な家の修理って言うのはみなそこに住んでいる人がするも のであるという哲学みたいなのがあって、普通の人でも修理できるようにデザインされているも のなのだ。プロに頼めばやってくれるけれども、待たないといけないし、ちょっとした修理でも数 百$とらされる。
僕は配管工に関する知識はないし、蛇口の構造がどうなっているかも知識はない。では皆ど
うやって修理をするのに必要な知識をみにつけるのか?
ここに住むようになって初めはかなり感動したものだが、ロウズなどのお店へ行くと、実は店員
がもと配管工だったり、電気技師だったりするのだ。だから壊れた部品を持っていって、彼らに 見せれば、必要な部品、道具、そしてその構造や修理方法を、聞けば事細かに何でも教えてく れるのだ。
日本ではどうなのだろう?
だから今日も僕は壊れたシャワーのボールベアリングを持って配管セクションへ行き、そこら
辺を歩き回っている店員にどうすれば(一番安く簡単に)修理できるかを教えてもらったのだ。 テフロンテープだとか、グリップレンチだとか、以前の修理で必要になった道具はみな持ってい るので、$20ほどの投資で、ものの見事に蛇口、パッキングの取替え工事は終わった。
++++++++++++++++++
これからは、プロの時代。みなが、プロ意識をもって、前向きに仕事をする。またそれができ
る世界をつくる。
私の近所に、もう70歳を過ぎたというのに、東京のS大学の出身であることを誇っている男
がいる。地元のS大学OB会には、必ず顔を出し、寮歌を歌ったりしているという。ものの考え 方が、超権威的。つまり近所でも、威張り放題、威張っている。
いつか自治会の人も、こう言っていた。「ああいう人は、つきあいにくいですね。自分を、みな
が大切にあつかうべきだという態度をしてみせますから」と。
バカめ! 大バカめ! こういうバカがいなくならないかぎり、日本の教育は、よくならない!
【悪玉エリート意識・補足】
今は、70歳をすぎたという、その男。以前、自治会の仕事で回っていたとき、私にこう言っ
た。
私が、幼稚園で働いていますと言ったときのこと、「君は、学生運動か何かをしていて、どうせ
ロクな仕事には、つけなかったんだろ」と。
それで私のウラミを買った。(ハハハ。冗談! 私は、もとからあんな男など、相手にしていな
い。ホント!)
しかし、このタイプの人間は、独特の人生観をもっている。独特の考え方をする。ここに書い
た、超権威主義的というのも、その一つ。「私は偉い。だから、お前たち、従え」というような態 度を平気で、とる。
家族に対しては、「オレは、お前たちを食わせてやっている」というような、態度をとる。仕事
第一主義人間で、「仕事さえしていれば、男は、一人前」というような考え方をする。
そのせいか、何かの会合があっても、あとからやってきて、デンと、席の中央に座る。平気で
座る。お茶を出されても、そのあと始末すら、しない。そういう姿を見て、いつだったか、ワイフ がこう言った。「ああいうダンナだと、奥さんも、苦労するわね」と。
いやだね、ああいう男。ホント!
しかし今は、ああいう男も少なくなった。よいことだ。が、いないわけではない。もう少し話を先
に進めよう。
【仮面型・善玉エリート意識】
人間関係をうまく結べない人は、その段階で、(1)攻撃型、(2)服従型、(3)同情型、(4)依
存型の4つのパターンのどれかをとる。
このことは、前にも書いた。
そこで悪玉エリート意識をもっている人は、そのエリート意識だけでは、世の中を渡り歩くこと
ができないことを知る。わかりやすく言えば、だれにも相手にされないことを知る。
そこでこのタイプの人は、上の(1)〜(4)のどれかのパターンをとり始める。
よくあるケースは、いかにも私はよくできた人間でございますというような態度をしてみせるこ
と。謙虚で、礼儀正しく、穏やか。時に、相手に服従的になったり、相手の同情を求めたりす る。
が、ベース(基本)は、そんなに変るわけではない。ささいなことで、そのエリート意識をキズつ
けられたりすると、激怒してみせたり、反対に復讐的な行動に出たりする。
このタイプの、つまりは、仮面型の人も多いから、注意する。
(040709)
●好意の返報性
●義母との確執
義母との折りあいが悪くて、悩んでいる女性(35歳・福井県在住)がいる。「どうしても、うま
く、交際ができない」という。
夫は、義母との同居を望んでいるらしい。が、その女性は、それができない。そのため、夫の
実家の近くに、アパートを借りて住んでいる。「義母との同居をはっきりと断るときというのは、 離婚するとき」と。
義父母との折りあいがうまくできないと悩んでいる女性は、多い。実の父母とすら、うまくでき
ないと悩んでいる人さえ、多い。
が、この日本では、それを許さない。「嫁」意識が、まだ残っている。「嫁というのは、家の付
随物にすぎない」と。そういう日本的な、どこまでも日本的な常識が、こうした女性たちを、かぎ りなく苦しめる。その女性も、こう書いている。
「何ごとにつけ、長男、長男と、夫に仕事を押しつけてくる」と。その女性の夫は、その長男で
ある。
もちろんアメリカにも、オーストラリアにも、こうした長男、長女意識はない。まったく、ない。な
いものはないのであって、どうしようもない。この種の話題について、会話すらできない。へた に、「長男だから……」という『だから論』を口にしようものなら、それだけで、彼らは首をかしげ てしまう。
が、義母との折りあいが悪かったら、どうするか?
鉄則は、ただ一つ。
妥協する。落語にも、こんな話がある。
「義母を殺したいと憎んでいた嫁がいた。そこである人のところに相談に行くと、その人が、そ
の嫁に、毒薬を渡しながら、こう言った。
『この毒薬をのませれば、あなたの義母は死ぬ。しかし今すぐ、毒をもってはいけない。今、
もれば、殺したのは、あなただと、すぐバレてしまう。
1年、がまんしなさい。その間、あなたはいい嫁のフリをして、義母に尽くしなさい。そうすれ
ば、あなたが殺したと、バレないから』と。
それからというもの、その嫁は、義母の前では、努めていい嫁のフリをした。『お母様、お母
様』と、義母の世話をした。
で、予定の1年がたった。その1年が過ぎたときのこと。毒をくれたある人が、その嫁にこう言
った。
『1年たちましたから、もう義母を殺してもいいでしょう。今なら、だれも、あなたを疑わないか
ら』と。
すると、嫁は、こう答えたという。『いいえ、もう殺す必要はなくなりました。今、私たちはとて
も、いい関係です』と」と。
心理学にも、「好意の返報性」という言葉がある。あなたがAさんならAさんを、よい人だと思
っていると、そのAさんも、あなたのことをいい人だと思うようになる。好意というのは、相互に 反応するという意味である。
この相談の女性のばあいも、「義母はいやな人だ」と思っているが、そう思うということは、そ
の義母も、その女性のことを、いやな嫁だと思っているもの。こうした現象は、教育の場でも、 しばしば経験する。
それについて書いた原稿を、このあとに添付しておく。
もっとも、実際には、こうした問題は、頭の中で考えるほど、単純なものではない。傷口にでき
た、かさぶたのように、しっかりと心の中に、くいついている。そうしたかさぶたを溶かすのは、 容易なことではない。
そこでもう一つの方法は、その義母を人間的に、はるかに超越して、無視できるようにするこ
と。どこかに対等意識がある間は、こうした問題は、解決しない。それについては、また別の機 会に考えてみたい。
++++++++++++++++++++
好意の返報性
内容的にダブるところがありますが、
今まで、「好意の返報性」について
書いた原稿を集めてみました。
++++++++++++++++++++
●好意の返報性
心理学の世界に、「好意の返報性」という言葉がある。あなたに好意をもっている人には、あ
なたはよい印象をもち、反対に自分に反感をもっている人には、悪い印象をもつようになる。つ まり相手の心の状態が、こちらがもつ印象に影響を与える。それを好意の返報性という。
こうした好意の返報性は、子どもには、とくに強く現れる。「この子はいい子だ」と、親や教師
が思っていると、子どもも、その親や教師に、よい印象をもつようになる。反対に、そうでないと きは、そうでない。この性質をうまく利用すると、子どもを伸ばすことができる。
私も若いころ、初対面で、「この子は、教えにくい子どもだ」と思ったことがある。そういう子ど
もはたいてい、半年、一年もすると、「林先生なんて、嫌い」「幼稚園へ行きたくない」と言い出し た。
そこで私は、初対面のとき、仮にそういう思いが心の中を横切っても、それを打ち消すように
している。そして心底から、「この子はいい子だ」と思いなおすようにしている。すると子どもの ほうも、やがて私に対してよい印象をもつようになり、「林先生が、好き」と言い出す。しかしそ れはその子どものためというよりは、私自身のためでもある。私はそうすることで、自分の仕事 をしやすくする。
そこで教訓。もしあなたが自分の子どもに対して、「うちの子はダメ」「うちの子は心配」と思っ
ているなら、そういう思いは、今すぐ、改める。そして最初はウソでも構わないから、「うちの子 は、すばらしい」「うちの子は、いい子」と思うようにする。これはあなたの子どものためというよ りは、あなた自身のためである。
+++++++++++++++++++
●好意の返報性(2)
あなたが周囲の人を嫌ったり、批判したりすると、そのときはあなたに同調する人も現れるか
もしれないが、やがてあなた自身も、嫌われたり、批判されたりするようになる。こうした現象 も、好意の返報性で、説明される。
たとえばあなたが園や学校の先生を、嫌ったり、批判したりしたとする。あるいは先生の悪口
を言ったとする。その人があなたと親しい人なら、あなたの意見にそのときは、耳を傾けるかも しれない。しかしやがて、今度は、あなたが嫌われたり、批判されたりするようになる。
そこであなたが皆に、好かれるためには、この反対のことをすればよい。あなたがあなたの
周囲の人を好きなったり、ほめたりすればよい。そのときは多少、反発する人もいるかもしれ ないが、やがてあなたは、皆に好かれるようになる。
家庭では、こんなことを注意する。
あなたは子どもの前では、夫や家族を、ほめる。楽しいできごとだけを口にして、それを喜
ぶ。そして夫や家族の前では、子どもをほめる。子どものすばらしい面だけにスポットをあて、 それを皆で、たたえる。こうした相互作用が、あなたの評価を高める。それだけではない。家庭 全体が、温もりのある家庭になる。
++++++++++++++++++++
●好意の返報性(3)
英語の格言に、『友を責めるな、行為を責めろ』というのがある。仮にあなたの子どもが、あな
たからみて好ましくない友だちと交際していても、その友だちを責めてはいけない。名前を出し てはいけない。その友だちの行為の、どこがどう悪いかだけを指摘して、あとは子どもの判断 に任せる。
それについて以前、こんな原稿(中日新聞発表済み)を書いたので、ここに転載する。この中
で書いた、「遠隔操作」も、好意の返報性の一つと考えてよい。
++++++++++++++++++++
●友を責めるな、行為を責めよ
あなたの子どもが、あなたから見て好ましくない友人とつきあい始めたら、あなたはどうする
だろうか。しかもその友人から、どうもよくない遊びを覚え始めたとしたら……。こういうときの 鉄則はただ一つ。『友を責めるな、行為を責めよ』、である。これはイギリスの格言だが、こうい うことだ。
こういうケースで、「A君は悪い子だから、つきあってはダメ」と子どもに言うのは、子どもに、
「友を取るか、親を取るか」の二者択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなたを取ればよ し。しかしそうでなければ、あなたと子どもの間には大きな亀裂が入ることになる。
友だちというのは、その子どもにとっては、子どもの人格そのもの。友を捨てろというのは、子
どもの人格を否定することに等しい。あなたが友だちを責めれば責めるほど、あなたの子ども は窮地に立たされる。そういう状態に子どもを追い込むことは、たいへんまずい。ではどうする か。
こういうケースでは、行為を責める。またその範囲でおさめる。「タバコは体に悪い」「夜ふか
しすれば、健康によくない」「バイクで夜騒音をたてると、眠れなくて困る人がいる」とか、など。 コツは、決して友だちの名前を出さないようにすること。子ども自身に判断させるようにしむけ る。そしてあとは時を待つ。
……と書くだけだと、イギリスの格言の受け売りで終わってしまう。そこで私はもう一歩、この
格言を前に進める。そしてこんな格言を作った。『行為を責めて、友をほめろ』と。
子どもというのは自分を信じてくれる人の前では、よい自分を見せようとする。そういう子ども
の性質を利用して、まず相手の友だちをほめる。「あなたの友だちのB君、あの子はユーモア があっておもしろい子ね」とか。「あなたの友だちのB君って、いい子ね。このプレゼントをもっ ていってあげてね」とか。
そういう言葉はあなたの子どもを介して、必ず相手の子どもに伝わる。そしてそれを知った相
手の子どもは、あなたの期待にこたえようと、あなたの前ではよい自分を演ずるようになる。つ まりあなたは相手の子どもを、あなたの子どもを通して遠隔操作するわけだが、これは子育て の中でも高等技術に属する。ただし一言。
よく「うちの子は悪くない。友だちが悪いだけだ。友だちに誘われただけだ」と言う親がいる。
しかし『類は友を呼ぶ』の諺どおり、こういうケースではまず自分の子どもを疑ってみること。祭 で酒を飲んで補導された中学生がいた。
親は「誘われただけだ」と泣いて弁解していたが、調べてみると、その子どもが主犯格だった。
……というようなケースは、よくある。自分の子どもを疑うのはつらいことだが、「友が悪い」と思 ったら、「原因は自分の子ども」と思うこと。だからよけいに、友を責めても意味がない。何でも ない格言のようだが、さすが教育先進国イギリス!、と思わせるような、名格言である。
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●好意の返報性(4)
子育ての要(かなめ)は、こういうわけで、子どもの叱り方にあるということになる。これについ
ても、以前、こんな原稿(中日新聞発表済)を書いたので、ここに転載する。
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●子どもの叱り方、ほめ方
子どもを叱(しか)るとき、最も大切なことは、恐怖心を与えないこと。『威圧で閉じる子どもの
耳』と覚えておく。中に親に叱られながら、しおらしくしている子どもがいる。が、反省しているか ら、そうしているのではない。怖いからそうしているだけ。親が叱るほどには、効果はない。叱 るときは、次のことを守る。
(1)人がいるところでは、叱らない(子どもの自尊心を守るため)
(2)大声で怒鳴らない。そのかわり言うべきことは、繰り返し言う。「子どもの脳は耳から遠い」
と覚えておく。説教が脳に届くには時間がかかる
(3)相手が幼児の場合は、幼児の目線にまで、おとなの体を低くする(威圧感を与えないた
め)。視線を外さない(真剣であることを示すため)。子どもの体を、しっかりと親の両手で固定 し、きちんとした言い方で話す。にらむのはよいが、体罰は避ける。特に頭部への体罰は、タブ ー。体罰は与えるとしても「お尻」と決めておく
(4)子どもが興奮状態になったら、手をひく。あきらめる。そしてここが重要だが、
(5)叱ったことについて、子どもが守れるようになったら「ほら、できるわね」とほめてあげる。
次に子どものほめ方。古代ローマの劇作家のシルスも『忠告は秘(ひそ)かに、賞賛は公(お
おやけ)に』と書いている。子どもをほめるときは、少しおおげさにほめる。そのとき頭をなで る、抱くなどのスキンシップを併用するとよい。そしてあとは繰り返しほめる。特に子どものやさ しさ、努力については、遠慮なくほめる。
が、顔やスタイルについては、ほめないほうがよい。幼児期に一度、そちらのほうに関心が向く
と、見てくれや、かっこうばかりを気にするようになる。実際、休み時間になると、化粧ばかりし ていた女子中学生がいた。
また「頭」については、ほめてよいときと、そうでないときがあるので慎重にする。頭をほめすぎ
て子どもがうぬぼれてしまったケースは、いくらでもある。
叱り方、ほめ方と並んで重要なのが、励まし方。すでに悩んだり、苦しんだり、さらには頑張っ
ている子どもに向かって、「がんばれ!」はタブー。意味がないばかりか、かえって子どもから、 やる気を奪ってしまう。「やればできる」式の励まし、「こんなことでは!」式の脅しもタブー。結 果が悪く、子どもが落ち込んでいるようなときはなおさら「あなたはよく頑張った」式の前向きの 理解を示してあげる。
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好意の返報性(5)
「好意」といっても、それがいつも好ましいものとはかぎらない。好意をもたれることで、かえっ
てその人に嫌悪感を覚えることだってある。
たとえばあなたが財産家であったとする。そういうあなたに、何かのセールスマンが近寄って
きて、あれこれあなたをほめたとする。しかしそういうときあなたは、そのセールスマンの言うこ となど、信じないだろう。あるいは反対に、そのセールスマンを毛嫌いするかもしれない。この ばあい、あなたは、セールスマンの行為に、下心があるのを知るからである。
好意が好意として、返報性をもつためには、同調性が必要である。「同調性」というのは、こ
ちら側もまた、相手の好意に対して、同調するということ。もう少しわかりやすく説明してみよ う。
たとえばあなたが、絵を描いて、何かの賞をもらったとする。そのときまったく絵のことを知ら
ないAさんが、その絵を見て、「あなたの絵はすばらしい」と言ったとする。するとあなたは、 「何、言ってるのよ!」と思うかもしれない。
あるいは日ごろからあなたの悪口ばかり言っているBさんが、同じようにほめたとする。すると
そのときも、あなたは、「何、言ってるのよ!」と思うかもしれない。つまり同調性がないことにな る。
ほかにたとえば、ここでいう下心を、ほめられたほうが感ずると、同調性が消える。つまりそう
いう状態で、相手が、いくら好意を表現しても、効果がない。ないばかりか、かえって逆効果に なることもある。子どもも、また同じ。
子どもをほめるときは、それなりに、ほめる側にも、同調性がなければならない。そこでつぎ
のことに注意するとよい。
○おせじ的なほめ方はしない。へつらわない。機嫌をとらない。
○子どもに同調するために、こちら側のレベルもあげる。子どもをほめるときには、なぜほめ
るかという理由を、はっきりともつ。「レベルをあげる」というのは、ほめる側も、それなりの知識 をもつということ。具体的には、なぜほめるか、その理由を、しっかりと子どもに伝えられるよう にするとよい。「あなたの絵は、見る人をほっとさせるような、やさしさがあるわ。そういうところ が、審査員の先生たちの心をとらえたのね」と。
○好意には、下心をもたない。心底、無の状態で、子どもをほめる。親にとっては、なかなかむ
ずかしいことかもしれないだが、努めて、そうする。
このように「好意の返報性」といっても、奥が深い。家庭で子どもを指導するときの、一つのコツ
として覚えておくと、役にたつ。
●自己効力感
「自分でできた」「自分でやった」という達成感が、子どもを伸ばす。これを自己効力感という。
子どもを伸ばすコツは、この自己効力感をうまく利用すること。
反対に、この自己効力感を、阻害(じゃま)するようなことがあると、子どもは(1)それに大きく
反発するようになり、(2)ついで、心が極度の緊張状態におかれるようになることが知られてい る。
それを阻害するものに対して、反抗するようになる。
が、それだけではない。子どもは、ますます、そのものに固執するようになる。こんなことがあ
る。
A君(小4)は、サッカークラブで、やっとレギュラー選手になることができた。A君はA君なり
に、努力をした。
が、小5になるとき、母親は、A君を、進学塾へ入れた。そしてそれまで週3回だったサッカー
の練習を、週2回に減らすように言った。当然、そうなると、A君は、レギュラー選手からはずさ れる。
A君は、猛烈にそれに反発した。が、やがてその反発は、母親への反抗となって現れた。す
さんだ目つき、母親への突発的な暴力行為など。
もうそうなると、進学塾どころではなくなってしまう。あわてた母親は、進学塾をやめ、再び、
サッカークラブにA君をもどした。が、今度は、A君は、そのサッカーにすら、興味を示さなくなっ てしまった。母親はこう言う。
「あれほど、毎晩、サッカーをさせろと暴れていたのに、サッカークラブへ再び入ったとたん、
サッカーへの興味をなくすなんて……」と。
子どもの心理というのは、そういうもの。A君の母親は、それを知らなかっただけである。A君
が母親に反抗したのは、サッカーをしたいからではなかった。自分の自己効力感(達成感)を、 阻害されたからである。そのことに対して、A君は、反抗したのである。
少し話がちがうかもしれないが、こんな例もある。
若い男女が、恋愛をした。しかし周囲のものが、猛反対。そこでその男女は、お決まりの駆け
おち。そして子どもをもうけた。
やがて周囲のものが、あきらめ、それを受け入れた。とたん、たがいの恋愛感情が消えてし
まった。
この例でも、若い男女が駆けおちしたのは、それだけたがいの恋愛感情が強かったからで
はない。周囲のものに反対されることによって、より結婚に固執したからである。だから、結婚 を認められたとたん、恋愛感情が消えてしまった。
【教訓】
子どもの得意芸、生きがいは、聖域と考えて、決して、土足で踏み荒らすようなことはしては
いけない。へたに阻害したりすると、かえって子どもは、それに固執するようになる。最悪のば あいには、親子関係も、それで破壊される。
(はやし浩司 自己効力感 自己達成感 一芸論)
●高度な欲求不満
欲求不満といっても、決して一様ではない。心理学の世界には、欲求不満段階説(マズロー
ほか)さえある。このことは、子どもの発達過程を観察していると、わかる。
【原始的欲求不満】
愛情飢餓、愛情不足など。飢餓感や不足感が、欲求不満につながる。この欲求不満感が、
子どもの心をゆがめる。よく知られているのは、赤ちゃんがえり。下の子どもが生まれたことな どにより、飢餓感をもち、それが上の子どもの心をゆがめる。
生命におよぶ危機感、安心感の欠如から生まれる欲求不満も、これに含まれる。
【人間的欲求不満】
人に認められたい、人より優位に立ちたい、目立ちたいという欲求が、満たされないとき、そ
れがそのまま欲求不満へとつながる。「自尊の欲求」(マズロー)ともいう。この人間的欲求は、 自分がよりすぐれた人間であろうとする欲求であると同時に、それ自体が、社会全体を、前向 きに引っ張っていく原動力になることがある。
が、子どもの世界では、こうした人間的欲求は、変質しやすい。
ある子ども(中2男子)は、私にある日、こう言った。「ぼくは、スーパーマンになれるなら、30
歳で死んでもいい。世の中の悪人をすべて退治してから死ぬ」と。
こうした人間的欲求は、幼児にも見られる。みなの前でその子どもをほめたりすると、その子
どもは、さも誇らしそうな顔をして、母親のほうを見たりする。
子どもの中に、そうした人間的欲求を感じたら、静かにそれをはぐくむようにする。これは子
育ての大鉄則の一つと考えてよい。
(はやし浩司 マズロー 自尊欲求 自尊の欲求 人間的欲求)
●緩慢行動
●幼児の緩慢行動
心理的抑圧状態(欲求不満を含む)が、日常的につづくと、子どもはさまざまな、心身症によ
る症状を示すことがある。が、その症状は、子どもによって、千差万別。定型がない。
「どうもうちの子、おかしい?」と感じたら、その心身症を疑ってみる。
その中のいくつかが、緩慢行動(動作)であったり、吃音(どもり)であったりする。神奈川県に
住む、Uさん(母親)から、多分、緩慢行動ではないか(?)と思われる相談をもらった。
ここでは、それについて、考えてみたい。
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【Uより、はやし浩司へ】
私には、4歳(年少)の娘、M子(姉)と、1歳8ヶ月の息子S夫(弟)がいます。
先日、娘の幼稚園の個人懇談がありました。
そこで、先生に言われたのが
「M子(姉)ちゃんはいつもマイペースで、マイペースすぎてもうちょっとスピードアップして欲しい
んですけどね」でした。
「急がないと行けない時にもマイペースでね、今(年少)はあまりする事も少なくて、他の子と差
は出てこないと思いますけど、これから先、年中、年長となるにつれてその差は広がっていき ますからね」
「急がないといけない時に、急げるようなボタンがあればいいんですけどねー(笑)。そこを押せ
ば、急いでくれるっていう風に・・・・(笑)」と冗談まじりではあったのですが、最後に夏休み中に お母さんから、M子ちゃんに急ぐって事を教えてあげておいてくださいと言われました。
「急ぐという事を教えるといわれても・・・・先生どうしたらいいんでしょう?」って聞いたのです
が、イマイチよく分かる回答がなかったような気がします。
怒って「急いで!急いで!急いで!」とまくし立てるのも良くないと思いますし、言った所で出来
るわけでもないですし。
普段、出来るだけ怒らないように大声をあげないように、出来たら大げさに誉めてあげて、を
心がけているのですが今の私のやり方では、夏休みあけても同じだろうし・・・・どうしたらいい のだろう?、と考えこんでしまいます。
何がどうマイペースか具体的に言うと、給食の時間になって先生が、「後に給食の袋を取りに
いって準備して下さい」って言っても、上の方を見てボーッと椅子に座っていることが時々あっ て、「M子ちゃん、準備よー急いでー!」って言っても、とりわけ急ぐ様子もなくゆっくりらしいで す。
又、今メロディオンの練習をしているようなのですが、M子(姉)は指でドレミファソを弾く事は出
来るみたいなのですが、ホースを口にあてて息を吹く事が分からなかったみたいで、一人だけ 音が出なかったみたいです。
先生が側で、「M子ちゃん吹くんですよー」って言っても分からなくて、挙句の果てには、ホース
に口をあててホースに向かって、ドレミファソを言いながら、けん盤を弾いていたようです。
先生も??、だったみたいで、「違うよM子ちゃん! 吹くのよ!!」って言うと今度は、何でそ
んなに先生は私に怒ってるの?、っていう反応だったようです。
あと、空想にふけっていたりするみたいです。
他にも日々の行動で色々あるようです。
M子(姉)は私に似ているのか、よく言えばおっとりで悪く言えば、どこかのろい所があって入園
の際、私もそれが少し気にはなっていました。
のびのび保育の幼稚園を選べば、そんな事を考えなくて良かったのかもしれませんが、私的に
は、小学校でお勉強を始めるより、幼稚園で少しでも触れていれば気遅れなく、M子(姉)もや っていけるのではと考えたのですが、やはりその分要求される事も多いんですね・・・。
今は、本人は幼稚園が大好きでお歌の時間もプリントの時間も体操の時間も楽しいとは話して
います。
楽しく通ってくれれば、私はそれで大満足なのですが年中、年長になった時、まわりの早さにつ
いて行けなくなって幼稚園が楽しくなくなったら、やはり園を変えた方がいいんでしょうか?
また、もっとスピードアップさせるにはどうしたらいいのでしょうか?
また、M子(姉)には、時々どもりがあります。ほとんど指摘しないように聞きながしているので
すが、ちょっと気になっています。
はっきりとした原因は分かりませんが、下の子を出産する際引き裂かれるように、私と離れ離
れになってしまって、10日間ほど離れて暮らしていたのが悪かったのかな?、と反省していま す。
長々と下手な文章で好きな事を綴ってしまいましたが、アドバイス頂けますようお願い申し上げ
ます。
これからもまぐまぐプレミアをずっと購読していこと思っています。毎日暑いですが、どうぞお体
にお気をつけ下さい。
【はやし浩司より、Uさんへ】
まぐまぐプレミアのご購読、ありがとうございます。感謝しています。
ご相談の件ですが、最初に疑ってみるべきは、緩慢行動(動作)です。原因の多くは、親の過
干渉、過関心です。子どもの側から見て、過負担。それが重なって、子どもは、気うつ症的な症 状を見せるようになり、緩慢行動を引き起こします。
ほかに日常的な欲求不満が、脳の活動に変調をきたすことがあります。私は、下の子どもが
生まれたことによる、赤ちゃんがえり(欲求不満)の変形したものではないかと思っています。
逆算すると、M子さんが、2歳4か月のときに、下のS夫君が生まれたことになります。年齢
的には、赤ちゃんがえりが起きても、まったく、おかしくない時期です。とくに「下の子を出産す る際引き裂かれるように、私と離れ離れになってしまって、10日間ほど離れて暮らしていたの が悪かったのかな?」と書いているところが気になります。
たった数日で、別人のようにおかしくなってしまう子どもすらいます。たった一度、母親に強く
叱られたことが原因で、自閉傾向(一人二役のひとり言)を示すようになってしまった子ども(2 歳・女児)もいます。決して、安易に考えてはいけません。
で、その緩慢行動ですが、4歳児でも、ときどき見られます。症状の軽重もありますが、10〜
20人に1人くらいには、その傾向がみられます。どこか動作がノロノロし、緊急な場面で、とっ さの行動ができないのが、特徴です。
こうした症状が見られたら、(1)まず家庭環境を猛省する、です。
幸いなことに、Uさんの子育てには、問題はないように思います。そこで一般の赤ちゃんがえ
りの症状に準じて、濃密な愛情表現を、もう一度、M子さんにしてみてください。
手つなぎ、抱っこ、添い寝、いっしょの入浴など。少し下のS夫君には、がまんしてもらいま
す。
つぎに(2)こうした症状で重要なことは、「今の症状を、今以上に悪化させないことだけを考
えながら、半年単位で様子をみる」です。
あせってなおそう(?)とすればするほど、逆効果で、かえって深みにはまってしまいます。子
どもの心というのは、そういうものです。
とくに気をつけなければいけないのは、子どもに対する否定的育児姿勢が、子どもの自信を
うばってしまうことです。何がなんだかわけがわからないまま、いつも、「遅い」「早く」と叱れてい ると、子どもは、自分の行動に自信がもてなくなってしまいます。
自信喪失から、自己否定。さらには役割混乱を起こす子どももいます。そうなると、子どもの
心はいつも緊張状態におかれ、情緒も、きわめて不安定になります。そのまま無気力になって いく子どももいます。
「私はダメ人間だ」という、レッテルを、自ら張るようになってしまいます。もしそうなれば、それ
こそ、教育の大失敗というものです。
そこで(3)子どもの自己意識が育つのを静かに見守りながら、前向きの暗示をかけていきま
す。
「遅い」ではなく、「あら、あなた、この前より早くなったわね」「じょうずにできるようになったわ
ね」と。最初は、ウソでよいですから、それだけを繰りかえします。
「先生もほめていたよ」「お母さん、うれしいわよ」と言うのも、よいでしょう。
ここでいう「自己意識」というのは、自分で自分を客観的にみつめ、自分の置かれた立場を、
第三者の目で判断する意識というふうに考えてください。
しかし4歳児では、無理です。こうした意識が育ってくるのは、小学2、3年生以後。ですから、
それまでに、今以上に、症状をこじらせないことだけを考えてください。
とても残念なことですが、幼稚園の先生は、せっかちですね。その子どものリズムに合わせ
て、子どもをみるという、保育者に一番大切な教育姿勢をもっていないような気がします。
おまけに、「年長になったら……」と、親をおどしている? ある一定の理想的(?)な子ども
像を頭の中に描き、それにあわせて子どもをつくるという、教育観をもっているようです。旧来 型の保育者が、そういうものの考え方を、よくします。(今は、もうそういう時代ではないのです が……。)
M子さんに、ほかに心身症による症状(「はやし浩司 神経症」で、グーグルで検索してみてく
ださい。ヒットするはずです。
あるいは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page080.html)が出てくれば、この時期は、がま
んしてその幼稚園にいる必要は、まったくありません。
子どもの心に与える重大性を考えるなら、転園も、解決策の一つとして、考えてください。
そして(4)「うちの子を守るのは、私しかいない」と、あなたが子どもの盾(たて)になります。
先生から苦情があれば、「すみません」と一応は謙虚に出ながらも、子どもに向かっては、「あ なたはよくがんばっているのよ」「すばらしい子なのよ」と言います。そういう形で子どもの心を 守ります。
まちがっても、そこらの保育者(失礼!)がもっている理想像(?)に合わせた子どもづくりを、
してはいけません。
子育てもいつか終わりになるときがやってきます。そういうとき、あなたの子育ての思い出
を、光り輝かせるものは、「私は、子どもを守りきった」「私は、子どもを信じきった」という、親と しての達成感です。
今が、そのときです。その第一歩です。
最後に(5)M子さんに合わせた、行動形態にすることです。「のろい」と感ずるなら、あなた
も、もう一歩、自分の歩く早さを、のろくすればよいのです。どこかに子育てリズム論を書いて おきましたので、また参考にしてください。
とても幸いなことに、Uさんは、たいへん愛情豊かな方だと思います。それに自分の子育てを
客観的にみつめておられる。とてもすばらしいことです。(プラス、私のマガジンを読んでい る!)
子どもといっしょに、子どもの友として、子どもの横を歩いてみてください。楽しいですよ。セカ
セカと歩いていたときには気づかなかったものが、たくさん見えてきますよ。
そうそう、最後に一言。
こうした緩慢行動(動作)は、子どもの自己意識が育ってくると、自然に消えていくものです。
子どもが自分で判断して、自分で行動をコントロールするようになるからです。どうか、安心して ください。
私の経験でも、乳幼児期の緩慢行動(動作)が、そのまま、小学5、6年生まで残ったというケ
ースを知りません。小学3、4年生ごろには消えます。(ただしこじらせると、回復が遅れます が、そのときは、もっと別の、ある意味で深刻な、心身症、神経症による症状が出てきます。
また親は「のろい」「のろい」と心配しますが、第三者から見ると、そうでないというケースも、
たいへん多いです。これは親子のリズムがあっていないだけと考えます。)
吃音(どもり)については、ここ1〜3年は、症状が残るかもしれません。環境が大きく変わっ
ても、クセとして定着することもあるからです。吃音については、あきらめて、濃密な愛情をそそ いであげてください。これも時期がくれば、症状は消えます。
どんな子どもでも、一つや二つ、三つや四つ、そうした問題をかかえています。全体としてみ
れば、マイナーな、何でもない問題です。
あまり深刻にならず、ここは、おおらかに! なお先取り教育は、失敗しますので、注意してく
ださい。それについては、またマガジンのほうで取りあげてみます。
なおこの原稿は、(いただいたメールの転載も含めて)、8月13日号で掲載する予定です。ど
うか転載のご承諾をお願いします。不都合な点があれば、書き改めます。至急、お知らせくだ さい。
まぐまぐプレミアのご購読、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
はやし浩司
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【子育てリズム論】
●子どもの心を大切に
●子どものうしろを歩こう
子育てはリズム。親子でそのリズムが合っていれば、それでよし。しかし親が四拍子で、子ど
もが三拍子では、リズムは合わない。いくら名曲でも、二つの曲を同時に演奏すれば、それは 騒音でしかない。そこでテスト。
あなたが子どもと通りをあるいている姿を、思い浮かべてみてほしい。そのとき、(1)あなた
が、子どもの横か、うしろに立ってゆっくりと歩いていれば、よし。しかし(2)子どもの前に立っ て、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩いているようであれば、要注意。
今は、小さな亀裂かもしれないが、やがて断絶…ということにもなりかねない。このタイプの親
ほど、親意識が強い。「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」と豪語する。
へたに子どもが口答えでもしようものなら、「何だ、親に向かって!」と、それを叱る。そしてお
けいこごとでも何でも、親が勝手に決める。やめるときも、親が勝手に決める。子どもは子ども で、親の前では従順に従う。そういう子どもを見ながら、「うちの子は、できのよい子」と錯覚す る。が、仮面は仮面。長くは続かない。
ところでアメリカでは、親子の間でも、こんな会話をする。
父「お前は、パパに何をしてほしいのか」
子「パパは、ぼくに何をしてほしいのか」と。
この段階で、互いにあいまいなことを言うのを許されない。それだけに、実際そのように聞かれ
ると、聞かれたほうは、ハッとする。緊張する。それはあるが、しかし日本人よりは、ずっと相手 の気持ちを確かめながら行動している。
このリズムのこわいところは、子どもが乳幼児のときに始まり、おとなになるまで続くというこ
と。その途中で変わるということは、まず、ない。ある女性(32歳)は、こう言った。
「今でも、実家の親を前にすると、緊張します」と。
別の男性(40歳)も、父親と同居しているが、親子の会話はほとんど、ない。どこかでそのリズ
ムを変えなければならないが、リズムは、その人の人生観と深くからんでいるため、変えるの は容易ではない。しかし変えるなら、早いほうがよい。早ければ早いほどよい。
もしあなたが子どもの手を引きながら、子どもの前を歩いているようなら、今日からでも、子ど
もの歩調に合わせて、うしろを歩く。たったそれだけのことだが、あなたは子育てのリズムを変 えることができる。いつかやがて、すばらしい親子関係を築くことができる。
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【補記】
旧来型の保育者は、よく「遅れる」(昔は「後れる」と書いた)という言葉を使う。
しかしいったい、何が、どう遅れるのか?
このタイプの保育者は、ある一定の幼児像(=コース)を頭の中に想定し、その幼児像にあ
わせて、子どもを作ろうとする。
子どもを一人の人間としてみているのではなく、子どもを、モノ、あるいは、ペットとしてみてい
る(?) ……そう決めてかかるのは、言い過ぎかもしれないが、子どもを、一人の人間として みたことがない人には、この感覚は、理解できない。
つまりこうした旧来型の保育者でも、口では、いっぱしに、「私は子どもを一人の人間としてみ
ています」などと、言う。そして世話をするのが、保育。めんどうをみるのが、保育。しつけるの が、保育と考えている。
その保育のし方をみていると、あたかも家畜の飼育小屋で、家畜にエサを与えている姿勢に
似ている。どこか、おかしい? どこか、まちがっている?
たとえばNHKの「お母さんとxx」という番組がある。
私もときどきあの番組をみるが、少なくとも私がしている幼児教育とは、明らかにちがう。あ
の番組の中の幼児には、個性がない。子どもたちは、ペットでもしないような、アホな踊りをさ せられているだけ。
「♪お手々が、ブラブラブラ……」と。
そこで、一度、年中児の子どもたちにこう聞いたことがある。
「君たちは、ああいう踊りをさせられて、自分たちが、バカにされていると思わないか?」と。
すると子どもたちは、(年中児の子どもたちが、だぞ!)、こう答えた。
「思う」「思う」と。「バカにされていると思う」と言うのだ。
私はよく「子どもの人権」という言葉を使う。しかしこの日本では、本当に子どもの人権は、確
立されているのか?
それがわからなければ、もう一度、「遅れる」という言葉の意味を考えてみたらよい。「後れ
る」でもよい。
いったい、子どもは、何から、どう遅れるのか?
(はやし浩司 子どもの人権 遅れる 後れる リズム論 子育てリズム論)
(040713)
●親子の確執
【親子の確執】
************************
現在、東京都F市にお住まいの、NEさんという
方から、親子の問題についてのメールをいただき
ました。
転載を許可していただけましたので、みなさんに
紹介します。
このメールの中でのポイントは、2つあります。
子離れできない、未熟な母親。
家族自我群の束縛に苦しむ娘、です。
旧来型の親意識をもつ、親と、人間的な解放を
求める娘。この両者が、真正面からぶつかって
いるのがわかります。
NEさんの事例は、私たちが、子どもに対して、
どういう親であるべきか、それを示唆しているように
思います。
みなさんといっしょに、NEさんの問題を
考えてみましょう。
***********************
【NEより、はやし浩司へ】
はやし浩司さま
突然のメールで、失礼します。
暑いですが、いかがお過ごしですか?
今回のメールは、悩み相談の形をとってはいますが、ただ単に自分の気持ちを整理するため
に書いているものです。返信を求めているものではないので、どうかご安心ください。
結婚後、三重県S市で生活していた私たち夫婦は、主人が東京都の環境保護検査師採用試
験に合格したこともあり、今春から東京で生活することになりました。実は、そのことをめぐって 私の両親と大衝突しています。
嫁姑問題ならまだしも、実の親子関係でこじれて悩んでいるなんて、当事者以外にはなかなか
理解できない話かもしれません。このような身内の恥は、あまり誰にも相談もできません。人生 経験の浅い同年代の友人ではわからない部分も多いと感じ、人生の先輩である方のご意見を 聞かせていただけたら…(今すぐにということではなく、やはり問題解決に至らなくて、どうにも ならなくなったときに、いつか…)と思い、メールを出させていただきました。
まずはざっと話させていただきます。
事の発端は、私たち夫婦が東京に住むことになったことです。
表面上は…。
私の実家は、和歌山市にあります。夫の実家は、東京都のH市にあります。東京へ移る前は、
三重県のS市に住んでいました。
けれども、日頃積もり積もった不満が、たまたま今回爆発してしまったというほうが正確なのか
もしれません。
母は、私たちが三重県のS市を離れるとき、こう言いました。
「結婚後しばらくは三重県勤務だが、(私の実家のある)和歌山県の採用試験を受験しなおす
と言っていたではないか。都道府県どうしの検査師の交換制度に申し込んで、三重県から和歌 山県に移るとかして、いつかは和歌山市にくるチャンスがあれば…と、待っていた。それがだ めでも、三重県なら隣の県で、まあまあ近いからとあきらめて結婚を許した。それが突然、東 京に行くと聞いて驚いた。同居できなくてもいいが、できれば、親元近くにいてほしかった。あな たに見棄てられたという気分だ」と。
親の不安と孤独を、あらためて痛感させられた一件でした。「いつか和歌山市にくるかもしれな
い」というのは、あくまで両親の希望的観測であり、私たちが約束したことではありません。母も 体が丈夫なほうではないので、確かにその思いは強かったかも知れませんが…。
ですので、いちいち明言化しなくても、娘なら両親の気持ちを察して、親元近くに住むのが当然
だろう、という思いが、母には強かったようです。
しかし、最初からどんな条件をクリアしようと、結婚に賛成だったかといえば疑問です。昔風の
理想像を、娘の私に押しつけるきらいがありました。
たとえ社会的地位や財産のある(彼らの基準でみて)申し分ない結婚相手であっても、相手を
自分たちの理想像に押し込めようとするのをやめない限り、いつかは結局、同様の問題が噴 き出していたと思うのです。
配偶者(夫)に対して、貧乏ゆすりが気に入らないだとか、食べ物の好き嫌いがあるのがイヤ
だなどと…。配偶者(夫)と結婚したのか、親と結婚したのかわからないほど、結婚当初は、親 の顔色をうかがってばかりいました。両親の言い分を尊重しすぎて、つまらぬ夫婦喧嘩に発展 したこともしばしばありました。
いつまでも頑固に、私の夫を「気に入らない!」と、わだかまりを抱えているようでは、近くに住
んでもうまくいくとは思えません。両親にとって、娘という私の結婚は、越えられないハードルだ ったのかもしれませんね。
結婚後、実家を離れ、三重県で生活していても、「そんな田舎なんかに住んで」とバカにして電
話の一本もくれませんでした。私が妊娠しても「誰が喜ぶと思ってるんだ」という調子。結局、流 産してしまったときも「私が言った(暴言)せいじゃない(←それはそうかもしれませんが、ひどい ことを言ってしまって謝るという気持ちがみられない)」と。
出産後も頼れるのは、夫の母親、つまり義母だけでした。実の母は「バカなあんたの子どもだ
から、バカにきまってる」「いまは紙おむつなんかあるからバカでも子育てできていいね」などな ど。なんでそんなことまでいわれなければならないのかと、夢にまでうなされ夜中に叫んで目が さめたこともしばしば…
そんな調子ですから、結婚後、実家にかえったことも、数えるほどしかありません。行くたびに
面とむかってさらに罵詈雑言を浴びせられ、必要以上に緊張してしまうことの繰り返しです。
このまま三重県生活を続けていてもいいと考えたのですが、子どもが生まれると近くに親兄弟
の誰もいない土地での生活は大変な苦労の連続。私の実家のある和歌山市と、旦那の実家 のある東京のそれぞれに帰省するのも負担で、盆正月からずらして休みをとってやっと帰る… などをくりかえしていました。そのためお彼岸のお墓参りのときには、何もせずに家にいるだけ というふうでした。
さらに子どもの将来の進路・進学の選択肢の多さ少なさを比較すると、このまま三重県で暮ら
していていいのだろうかと思い、それで夫婦ではなしあった結果、今回思いきって旦那が東京 を受験しました。ただでさえ少子化の今の時代ですから、近くに義父母や親戚、兄弟が住んで いる街で、多くの目や手に支えられた環境の中で子育てしていこう!、との結論にいたったの でした。
このことについて実の母に相談をしませんでした。事後報告だったので、(といっても相談なん
てできるような関係ではなかったですし)、和歌山市の両親を激怒させたことは悪かったとは思 います。しかし、これが発端となり、母や父からも猛攻撃が始まりました。
「親孝行だなんて、東京に遠く離れて、一体何ができるっていうの? 調子いいこと言わない
で!」
「孫は無条件にかわいいだろうなんて、馬鹿にしないで! もう孫の写真なんか送ってこなくて
いいから」
「偽善者ぶって母の日に花なんかよこさないで!」
「言っとくけど東京人なんて世間の嫌われ者だからね」云々…。
電話は怖くて鳴っただけで体のふるえがとまらなくなり、いつ三重までおしかけてこられるかと
恐怖でカーテンをしめきったまま、部屋にとじこもる日々でした。それでも子どもをつれて散歩 にいかなければならないと外出すれば、路上で和歌山の両親の車と同じ車種の車とでくわした りすると、足がすくんでうごけなくなってしまい、職場にいる主人に助けをもとめて電話する…そ んな日々がしばらく続きました。
いつしか『親棄て』などと感情的な言葉をあびせかけられ、話が大上段で感情的な応酬になっ
てしまっています。親の気持ちも決して理解できないわけではないのですが…。
ふりかえると、両親も、夫婦仲が悪く、弟も進学・就職で家を離れ、私がまるで一人っ娘状態と
なり、過剰な期待に圧迫されて共依存関係が強まり、「一卵性母娘」関係になりかけた時期が ありました。
もしかするとその頃から、親子関係にほころびが生じてしまったのかもしれません。こちらの言
い分があっても、パラサイト生活の状態だったので、最後には「上げ膳据え膳の身で、何を生 意気言ってるの!」とピシャリ! 何も反論できませんでした。
親が憎いとか、断絶するとか、そんな気持ちはこちらにはないのです。実の親子なのですか
ら、ケンカしても、必ず関係修復できることはわかっています。でも、うまく距離がとれず、ちょっ と苦しくなってしまったというだけ。
「おまえは楽なほうに逃げるためにあんな男つれてきて、仕事もやめて田舎にひっこんで結婚
しようとしてるんだ」
「連中はこっちが金持ちだとおもってウハウハしてるんだ」
「人間はいつのまにか染まっていくもの。あんたもあんな汚らしい長家に住んでる人間たちと一
緒になりたければ、出て行けばいい」などなどと、吐かれた暴言は、心にくいとなってつきささ り、ひどく傷つきました。
結婚に反対され、家をとびだし一人暮らしを始めたのも、「このままの関係ではまずい」と思っ
たことがきっかけでした。ついに一人ではそんな暴言の嵐を消化しきれず、旦那や義父母に泣 いてすがると、私の両親は「お前が何も言わなければ、そんなことあっちには伝わらなかった のに。余計なことしゃべりやがって。あっちの親ばっかりたてて、自分の親は責めてこきおろし て…。よくもそんなに人バカにしてくれたね。もう私達の立場はないじゃないか。親が地獄のよ うな日々おくっているのに、自分だけが幸せになれるなんて思うなよ」と。
そんな我が家の場合、もう一度、適切な親子の距離をとり直すために、もめるだけもめて、こ
れまでの膿を全部出し切っていくという、痛みをともなうプロセスを、避けて通れないようです。
本や雑誌で、家族や親子の問題を扱った記事を目にすると、子ども側だけが一方的に悪いわ
けではないようだと知り安心するものの、それは所詮こじつけではないか?、と堂々巡りに迷 いこみ、訳がわからなくなってしまいます。
娘の幸せに嫉妬してしまう母、愛情が抑圧に転じてしまう親、アダルトチルドレン、心理学用語
でいう「癒着」、育ててもらった恩に縛られすぎて、自分の意思で生きていけない子ども…など など。そんな事例もあるのだなーと飽くまで参考にする程度ですが、どこかしらあてはまる話に は、共感させられることも多いです。
世間一般には、「スープの冷めない距離」に住むことが親孝行だとされています。私の母は、
「近所のだれそれさんはちゃんと親近くに住んでいる。いい子だね」という調子で、それにあて はまらない子は、「ヘンな子ね、いやだわ」で終わり。スープの冷めない距離に住めなかった私 は「親不孝者だ…」と己を責め、自分そのものを肯定できなくなることもあります。
こんな親不孝者には、子育ても人間関係も仕事もうまくいくわけがないのだ。親を棄てて、幸せ
だなんて自己満足で、いつか必ずしっぺ返しをくらって当然だ。父母の理想から外れた人生を 選び、それによってますます彼らを傷つけている私に、存在価値なんてあるのだろうか…など と。
子どもは24時間待ったなしで愛情もとめてすりよってきますが、東大に入れて外交官にして、お
まけにプロのピアニスト&バイオリニストなどにでもしなければ、子育てを認めないような、かた よった価値観の両親のものさしを前に、無気力感でいっぱいになってしまいます。よってくる我 が子をたきしめることもできずに、ただただ涙…そんな日々もあります。
実はこの親子関係がらみの問題は、私の弟の問題でもあります。
彼は転職する際、両親と大衝突し、罵詈雑言の矛先が選択そのものにではなく、人格にまで
向けられたことに対して、相当トラウマを感じているようです。(事実、1年近く、実家との一切の 関わりを断ち切った時期もあったほどです)。
結局、転職先は両親の許容範囲におさまり、表層は解決したように見えるのですが、本質的な
信頼の回復には至っていません。子の人生を受け入れることができない両親の狭量さを、彼 はいまだに許していません。
弟は「親は親の人生、子は子の人生。親の期待に子が応えるという、狭い了見から脱して、成
人した子どもとの関係を築こうとしない限り、両親が子どもの生き方にストレスをためる悪循環 からは抜け出せないよ」と、両親を諭そうとした経験があります(もちろん人間そう簡単には変 わりませんが…)。
今回の私の件も、問題の根本は同じであると受け止め、(今後、彼の人生にもあれこれ影響が
出てくるのは必至なので)、「他人事ではない」と味方についてくれました。
まだ人生経験が浅い私には、親が遠距離にいるという事実が、将来的に、今は予想もつかな
いどんな事態を覚悟しておかねばならないのか、具体的なシミュレーションすらできていませ ん。(せめて今後の参考に…と思い、ある方が書いた、「親と離れて暮らす長男長女のための 本」を借りてきて、眺めたりしています。)
親の不安と孤独を軽減するには、一にも二にも顔を見せることですね。夫の実家に子どもを預
けて、和歌山市にどんどん帰省しようと思います。そういう面では、親戚など誰も頼る人のいな い三重県S市在住の今よりも、ずっと帰省しやすくなるはずです。あとはお互いの気持ちの問 題です。そう前向きに思うようにはしたいのですが…
人は誰にも遠慮することなく、幸せをつかむ権利があり、そうした自己完結的な充足の中に、
ある面では躊躇を感じる気質も持ち合わせていて、そこに人間の心の美しさがあるのかもしれ ない…そんなことを言っている人がいました。
私はこれまで両親から受けた恩に限りない感謝を覚えていますし、折に触れてその感謝を形
に表していきたいと思っています。が、今はそんな思いは看過ごされ、けんかばかり。「親棄て」 の感情論のみ先行してしまっていることが残念です。
我が家の親子関係再構築の闘いは、まだまだ続きそうです。でも性急さは何の解決も生み出
しません。まずは悲観的にならず、感情的にならず、静かに思慮深く、自分の子どもにしっかり 愛情注いで過ごしていくしかないと思います。
そして、原因を親にばかりなすりつけるのではなく、これまで育ててもらった愛情に限りない感
謝の気持ちを忘れずに、折々に言葉や態度で示しつつ、前進していかなければ…と思ってい ます。
理想の親子関係って何でしょうね?
親孝行って何でしょうね?
勝手なおしゃべりで失礼しました。
誰かの助言ですぐに好転する問題ではないので、急ぎの回答など気にしないでください!こう
して打ち明けることで、もう既にカウンセリング効果を得たようなものですから。(と、言っている 間にも、状況はどんどん変わりつつあり、解決しているといいのですが…)
ただ、私が最近思うことは、私の両親の意識改革も必要なのではないかということです。彼ら
の親戚も、数少ない友人もほとんどつきあいのない隣り近所も誰も、彼らのかたよった親意識 にメスを入れることのできる人はいない状況です。
先日は父の還暦祝いに…と、弟と二人でだしあって送った旅行券もうけとってもらえず、ふだん
ご無沙汰している弟が、母の日や父の日にひとことだけ電話をいれたときにも話したくなさそう に、さも、めんどくさそうに、短く応答してすぐブツリときられてしまったそうです。
彼らはパソコン世代ではありません。親の心に染入るような書物を紹介する読書案内のダイレ
クトメールですとか、講演会のお知らせなどを、(私がしむけているなどとは決してわからないよ うに)、ある日突然郵送で何度か、繰り返し送っていただくことはできませんでしょうか?
そのハガキに目がとまるかどうかが、彼らが意識を改革できるかどうかの最後のきっかけであ
るような気がしてならないのです。
そういうふうに、相手にかわってくれ!、と望んでいる私の姿勢も無駄なんですよね。
はやしさんのHPにあった親離れの事例などは、うちよりもさらに深刻な実の母親のストーカー
の話でしたから、最近の世の中には増えてきていることなのだろうと思いました。
友達に相談しても、早くから親元はなれてそういう衝突したことのない人からみれば、まったく
わからない話ですし、「あなたを今まで育ててくれたご両親に対する、そういう態度みてあきれ た」と、去っていった友人もいました。また、あまり親しくない人たちのまえでは、実の親子なん ですからもちろんうまくいっているかのようにとりつくろわなければならず、非常に疲れます。
時間はかかるでしょうが、両親があきらめてくれるかもしれないきっかけとしては、いろいろや
るべきことがあるようです。たとえば両親の家は、新築したばかりの家ですので、和歌山市に 帰って年老いた両親のかわりに、家の掃除や手入れなどをひきうけること。私が仕事(検査助 手)に復帰し、英検・通検などを取得すること。小さい頃から習い続けてきて途中で放棄された ままのピアノも、もういちど始めること(和歌山市の実家に置き去りになっているアップライトの ピアノがある)。母の着物一式をゆずりうけるために気付など着物の知識をしっかり勉強するこ と。同じく母の花器をつかって玄関先に生けてもはずかしくないくらいのいけばなができるよう になること。梅干やおせち料理、郷土料理など母から(TVや雑誌などでは学べない)母の味を しっかり受け継ぐこと…などなどが考えられます。
東京で勤務し続ける弟とは、両親に何かあればひきとる考えでいることを話し合っています(実
際にはかなり難しいでしょうが…)。弟も私が和歌山市に戻り、ここまでこじれても一言子どもの 立場から折れて謝罪すれば、ずいぶん状況が違うだろうといってくれてはいるのですが、ほん とうに謝る気もないのにくちさきだけ謝ったとしても、いつかは親の枕もとに包丁をもって立って いた…なんてことにもなりかねません。謝ってしまうと親のねじまがった価値観を認めることに なりそうでそれは絶対にできません。
万一のときには実家に駆けつけるつもりですが、正直、今の気持ちとしては何があろうと親の
顔も見たくありません。
すみません。長くなりました。
急ぎではありませんので、多くの事例をご覧になってきたはやしさんの立場から何かご意見が
ございましたら、いつかお時間に余裕ができましたときにお聞かせいただければと思いました。
HPでは現在ご多忙中につき、相談おことわり…とありましたのに、それを承知でお便りしてしま
いまして、勢いでまとまらない文章におつきあいくださいましてありがとうございました。
暑さはこれからが本番です。
どうぞお体ご自愛なさってお過ごしください。
現在は東京都F市に住んでいます。 NEより
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【ああ親意識! されど親意識!】
●子どもの幸福に、嫉妬する親
子どもの幸福に嫉妬する親は、少なくない。「親をさておいて、自分だけ、幸福になるとは、何
ごとか」と。「親不孝者は、地獄へ落ちる」と、子どもを脅す親もいる。
もともと精神的に未熟な、依存性の強い親とみる。そういった未熟性に、日本に古来から伝
わる、独特の親意識が重なる。私が「悪玉親意識」と呼んでいるのが、それである。
この嫉妬は、さまざまな形に、姿を変える。
息子や娘に対して、攻撃的になる親。弱々しい親を演じ、同情を求める親。子どもにベタベタ
と依存しようとする親。そして子どもに対して、逆に服従的になり、言外に子どもに、「私(親)の めんどうをみろ」と迫る親、など。
これらのパターンが、複合化して現れることもある。貧しいフリをして、息子の同情をかい、そ
ういう方法で、いつも息子の財産(マネー)を、まきあげるなど。
息子が、「母さん、生活はだいじょうぶか?」と、心配して電話をかけると、「心配しなくていい
よ。冷蔵庫には、先日買った、魚の缶詰が、まだ残っているからね」と。
●「産んでやった」と言う母親。「産んでいただきました」と答える子ども
依存性の強い母親は、いつもどこかで、恩着せがましい子育てをする。無意識のうちにという
か、伝統的な子育て法を、そのまま踏襲する。
このタイプの母親(父親も)は、子どもに対して、「産んでやった」「育ててやった」を、日常的に
口にすることで、子どもを束縛しようとする。
一方、子どもは子どもで、それに答えて、「産んでいただきました」「育てていただきました」
と、言うようになる。
相互にこうした依存関係ができたときには、親子関係も、それなりにうまくいく。たがいにベタ
ベタの親子関係をつづけながら、親は息子(娘)を、「できのいい孝行息子(娘)」と思うようにな る。息子(娘)は、「私の母親(父親)は、すばらしい人だ」と思うようになる。
が、もともとそれを支える人間的基盤は、弱い。軟弱。わかりやすく言えば、たがいに自立で
きない人間どうしが、たがいになぐさめあって生きているにすぎない。ちょっとしたことで、この 人間関係は、崩れやすい。
●親・絶対教
「親は絶対である」と、考える人は、多い。だれかが、ほんの少しだけ、その人の親を批判した
だけで、「(オレの)親の悪口を言うヤツは許さない」と、絶叫してみせたりする。
それがどこかカルト的であるから、私は「親・絶対教」と呼んでいる。
カルトだから、理由など、ない。根拠もない。「偉いから、偉い」というような考え方をする。そ
れに日本古来の先祖崇拝意識が重なることもある。
このタイプの人に、そのカルト性を指摘しても、意味はない。反対に、「お前の考え方のほう
がおかしい」と、排斥されてしまう。相手の意見を聞く耳すら、もたない。と、同時に、それがそ の人の人生観や哲学になっていることも多い。
親・絶対教を否定するということは、その人の人生を否定することにもなる。だから、このタイ
プの人は、猛烈に反発する。
「親の悪口を言うヤツは、許さない!」と。「お前ら、人間の道を踏みはずしている」と言った
人もいる。
あたかもそう叫ぶことが、子どもとしての努めであるというような、行動をとる。
●犠牲心
こうした親・絶対教の信者に共通するのは、「子育ては、親の犠牲の上に成りたっている」と
いう考え方である。「産んでやった」「育ててやった」という言い方は、そういうところから生まれ る。
さらにストレートに、「お前を大学へ出してやった」「高い月謝を払って、ピアノ教室へ通わせて
やった」と言う親さえいる。
そこで問題は、なぜ、こうした犠牲心が生まれるかということ。もう少し正確には、犠牲的子育
て観が生れるかということ。
本来、子どもというのは、一組の夫婦の愛の結晶として生れる。そしてその子どもが生れてき
た以上、その子どもを育て、最終的には、その子どもを自立させるのは、親の義務である。
義務だ!
その義務を放棄して、「産んでやった」「育ててやった」と言う。つまり、ここに日本型の子育て
の(おかしさ)が、集約されている。事実、英語には、そういう言い方、そのものがない。ないも のは、ないのであって、どうしようも、ない。
●不幸な家族観
日本独特の「家」制度は、同時に、個人の自立を、いつもどこかで犠牲にする。またその犠牲
の上に、「家」制度が、成りたっている。
このことは、その「家」の跡取りとなった、長男をみれば、わかる。今でも、この日本には、「長
男だから……」「長女だから……」という、『ダカラ論』が、色濃く残っている。そのため、そのダ カラ論にしばられ、悶々と過ごしている長男、長女は、いくらでもいる。
こうした意識の背景にあるのは、親にしても、自分たちの愛の結晶としての子どもを産むとい
うよりは、自分を離れた(他者)、つまり(家)のために、子どもを作るという意識である。
「本当は、産みたくなかったが、家のためにしかたないから、産んだ」と。
ここまで極端なケースは、少ないかもしれないが、まったくないわけではない。が、中には、不
本意な結婚、不本意な出産をした人も多い。このタイプの人は、どうしても、ここでいう犠牲心 をもちやすい。
「私は子どものために、自分の人生をムダにしている」「したいことも、できず、犠牲になって
いる」と。
その理由は、人それぞれ。しかし結果として、親は、心のどこかで犠牲心をもってしまう。そし
てそれが、冒頭に書いた、嫉妬へと、いつしか変質する。
●父親の役割
母子関係と、父子関係は、基本的には、同一ではない。それは母親は、子どもを妊娠し、出
産し、そのあと、乳を与え、命をはぐくむという特殊性のちがいといってもよい。
一方、父親と子どもの関係は、あくまでも(精液一しずくの関係)でしかない。
そこでどうしても母子関係は、特殊なものになりやすい。が、特殊であることがまちがっている
というのではない。たとえば人間が原点としてもつ基本的信頼関係は、良好な母子関係がって はじめて、はぐくまれる。
この母子関係が不全になると、子どもは、生涯にわたって、その後遺症をひきずることにな
る。
こうした特殊な母子関係を修正し、調整していくのが、父親の役割ということになる。放ってお
くと、母子関係は、ベタベタの関係になってしまう。子どもは、ひ弱で、自立できない人間になっ てしまう。
父親は、そこで、子どもに狩のし方を教え、社会的ルールを教える。こうした操作を繰りかえ
しながら、子どもを、濃密な母子関係から切り離していく。
この父親の役割があいまいになったとき、えてして母親は子どもを溺愛するようになる。それ
が相互依存関係をつくり、やがてベタベタの人間関係へと、発展していく。
●演歌歌手のK氏
いつだったか、NHKのテレビ番組に、「母を語る」というのがあった。
その中で、演歌歌手のK氏は、涙まじりに、こう語っていた。
「私の母は、女手一つで、私を育ててくれました。私は、その恩に報いたくて、東京に出て、歌
手になりました」と。
K氏は、さかんに、「産んでいただきました」「育てていただきました」と言っていた。それはそ
れだが、私は最初、「Kさんの母親は、すばらしい母親だ」と思った。しかし5〜10分も見てい ると、ふと、心のどこかで疑念がわいてくるのがわかった。
「待てよ」と。
「本当にK氏の母親は、すばらしい母親だったのか?」と。
K氏は「すばらしい母親だ」と言っている。それはわかる。しかし、「産んでいただきました」「育
てていただきました」と、思わせたのは、実は、母親自身ではなかったのか、と。
心理学でいう、「家族自我群」による束縛で、K氏をしばりあげたのは、実は母親自身であ
る、と。
「女手ひとつ」だったということだから、苦労もあったのだろう。それはわかる。が、K氏の母親
は、そうした恩を、K氏に日常的に着せることで、母親としての自分の役目を果たそうとした (?)。
こうした例は、決して、珍しくない。日本人は、ごく当たり前のこととして、それを受けいれてし
まっている。よい例が、窪田聡という人が作詞した、あの『かあさんの歌』である。
あれほどまでに、お涙ちょうだい、恩着せがましい歌はないと、私は思うのだが、日本人は、
こうした歌を、名曲として、受けいれてしまっている。
●家族自我群からの自立
こうした問題を考えるとき、私たちは、どうしても親という立場だけで、ものを考えやすい。しか
し本当の問題は、このあと、子どもの側に起きる。
「産んでいただきました」「育てていただきました」と、子どもの側が、それなりに、親に呼応し
ている間は、たがいの人間関係は、うまくいく。
しかしその成長過程においても、子どもは、こうした家族自我群からの自立を目ざす。これを
「個人化」という。
よく誤解されるが、個人化は、家族の否定ではない。家族との調和をいう。
が、この個人化が、うまく進まないときがある。親の溺愛にはじまって、過干渉、過関心、そし
て過保護など。親の否定的な育児姿勢が、個人化を阻害することもある。家庭崩壊、育児拒 否、冷淡、無視、暴力、虐待なども、個人化を阻害する。
この個人化が、うまく進まないとき、さまざまな弊害が起きる。
その一つが「幻惑」(ボーエン)という現象である。
●幻惑
本来、子どもが自立し始めたら、親は、自分自身も子離れを始めると同時に、子どももまたじ
ょうずに、親離れできるように仕向けなければならない。
子離れということは、子ども自身に親離れさせることを意味する。
「あなたは、あなたよ。あなたの人生は一度しかないから、思う存分、この広い世界をはばた
いてみなさい」と。
子どもは、こうした親の姿勢を感じてはじめて、自分自身を自立させることができる。が、そ
れがないと、子どもは、その「幻惑」に苦しむことになる。
親離れすることを、罪悪と考えるようになり、家族自我群の束縛と、個人化のはざまで、悩み
苦しむようになる。
さらにその幻惑が進むと、自らにダメ人間というレッテルを張ってしまい、さらには、自己否定
するようになってしまう。
親自身が、息子や娘に、このレッテルを張ってしまうこともある。「このできそこない! 親不
孝者め!」と。
●伝統的子育て観
子育ては本能ではなく、学習によって、決まる。そういう意味でも、子育ては、代々と、親から
子へと繰りかえされやすい。
そこで日本型の子育ての特徴はといえば、常に子どもが、親、先祖、家に対して犠牲的にな
ることを、美徳としてきたところにある。
ある母親は、息子夫婦が海外へ赴任している間に、息子の財産(土地)を、勝手に売却して
しまった。
それについて息子が母親に抗議すると、その母親は、こう答えたという。
「親が、先祖を守るために、息子の財産を使って、何が悪い!」と。
こういうケースでは、親が口にする「先祖」というのは、「親」という自分自身のことをいう。まさ
か「親が、自分の息子の財産を使って、何が悪い!」とは言えない。だから「先祖」という言葉を もちだす。
それはそれとして、こうした伝統的子育て観が一方にあって、親は、子どもに犠牲を強いるよ
うになる。あるいはそれを強いながら、強いているという意識がないまま、強いる。
こうして日本独特の子育て観は、代々と、親から子へと受け継がれる。今も、受け継がれて
いる。
●親子の確執
親子といえども、その関係は、一対一の人間関係で決まる。人間と人間の関係である。
が、この親子関係が特殊性をおびるのは、ひとえに、文化でしかない。その文化が、親子関
係を特殊なものにする。
だからといって、それが悪いと言うのではない。人間生活そのものが、その「文化」の上に成
りたっている。文化を否定すれば、人間は、原始の世界の動物に、逆戻りする。
大切なことは、そういう人間関係に、どういう文化を乗せるかである。あるいはその基礎に、
どういう文化を置くかである。
その文化に、ズレが生じたとき、親子の間に緊張感が高まり、それが、確執へとつながって
いく。しかも、親子であるがゆえに、その確執のミゾも深くなる。他人なら、たがいに、「はい、さ ようなら」と別れることができる。しかし親子では、それができない。できないから、もがき、苦し む。
たとえば、日本人の多くは、「産んでもらった」、だから、「親のめんどうをみるのが当然」とい
う、相互依存関係をつくりやすい。
しかしなぜそうなったかといえば、先に書いたように、そこには「家」制度がある。さらには、社
会保障制度の不備もある。最近になって、老人介護という言葉が使われるようになったが、私 が若いころには、そんな言葉すらなかった。
子どもは親なしでは生きていかれない存在だが、老人もまた、子どもなしでは生きていかれ
ない存在であった。が、問題は、さらにつづく。
●欧米の例
オーストラリアでもアメリカでも、親が老後の苦労を、子どもにかけないという姿勢が、社会制
度の中で定着している。またそういう社会的制度も、充実している。
オーストラリアの南オーストラリア州でも、平均的なオーストラリア人は、つぎのような過程を
経て、人生を終える。
結婚→子育て→子どもの独立→老後は市内のアパート(自分の家)→老人ホーム→死去、
と。
日本の家族のように、複数世代が、同居するということは、まず、ない。興味深いのは、子ど
もが高校生くらいになると、親自身が、子どもの自立をうながすこと。同じ敷地の中に、バンガ ローを建てて、そこへ子どもを住まわせる親も、少なくない。
こうして親は親で、死ぬまで、自分の生活と、その生活する場(人生)を確保する。こどものた
めに自分の人生を犠牲にすることは、まず、ない。
たとえば大学生にしても、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、さがさなければならな
いほど、少ない。たいていは奨学金を得たり、自ら借金をして通う。
が、それでいて、人間関係が希薄かというと、そういうことはない。むしろいろいろな統計結果
をみても、手をかけ、金をかける日本の親子関係より、濃密なばあいが多い。
●親自身の自立性
あなたと親の関係はともかくも、今度は、あなたと子どもの関係において、あなたという親は、
いつも人間として自立することを念頭に置かねばならない。結局は、そこへすべての結論が、 行きつく。
親としてではなく、一人の人間として、どう生きるかという問題である。
その(生きる)部分に、(親意識)を混在させてしまうと、人生そのものが、わけのわからない
ものになってしまう。よくある例が、自分の生きがいを、子どもに託してしまう親である。
明けても暮れても、考えることは、子育てのことばかり。自分の人生のすべてを、子育てにか
けてしまう。
一度、こういう状態になると、そこから抜け出るのは、容易なことではない。それなりに親子関
係が順調なときは、それほど問題にはならない。しかしひとたびそれが崩れると、自己犠牲心 は、被害妄想に。愛情は、憎悪へと変身する。……しやすい。
「親をさておいて、自分だけいい生活をしやがってエ!」と、息子に叫んだ母親がいた。
「あんたは、だれのおかげで、日本語がしゃべれるようになったか、わかっているの!」と、娘
に叫んだ母親もいた。
息子が家を新築したことに対して、「親の家を改築するのが、先だろう」と怒った、母親すら、
いた。
ほかにも、息子が結婚して、郷里を離れたことについて、「悔しい」「悔しい」と泣き明かした母
親もいる。「息子を、嫁に取られてしまった。息子なんて、育てるもんじゃない」と、会う人ごとに こぼしていた母親もいる。
こうした親たちに共通する点はといえば、つまりは、自立できない、精神的に未完成な人間性
である。
●では、どうするか?
今まで、こうしたケースを、私はたくさん経験している。経験したというよりは、多くの相談を受
けてきている。
その結果というか、結論を先に言えば、こうした親たちを説得するのは、不可能ということ。
先にも書いたように、カルト化している。さらにそういった生きザマ自体が、その人の人生観の 骨格にもなっている。
それを否定することは、その人自身の人生を否定することに等しい。だからそもそも、別の考
え方を受けいれようとしない。
で、こういうケースでは、あきらめて、納得し、その上で、妥協して生きるしかない。
そして自分の問題としては、心理学でいう「幻惑」から、できるだけはやく自分を解放する。
親が子どもに対して、冷たく「縁を切る」とか、それに類することを口にしたときには、それを
悩むのではなく、「はい、そうですか」と割りきる。この割りきりが、あなた自身を幻惑から解放 する。
幻惑にとりつかれ、悶々と悩むということは、あなた自身が、すでに親がもつ親意識を、引き
継いでいることを意味する。つまりあなた自身も、すでにマザコンであるということ。そのマザコ ン性に気がつくことである。
なぜ幻惑に苦しむかといえば、自分自身の中のマザコン性を、処理できないためと考えてよ
い。
【NEさんへ……】
長い前置きになりましたが、回答のいくつかは、すでにこの前置きの中に書いたと思います。
あなたは(いい娘)でいようとしています。そのために、たとえばあなたは、
「両親の家は、新築したばかりの家ですので、和歌山市に帰って年老いた両親のかわりに、家
の掃除や手入れなどをひきうけること。
私が仕事(検査助手)に復帰し、英検・通検などを取得すること。
小さい頃から習い続けてきて途中で放棄されたままのピアノも、もういちど始めること(和歌山
市の実家に置き去りになっているアップライトのピアノがある)。
母の着物一式をゆずりうけるために気付など着物の知識をしっかり勉強すること。
同じく母の花器をつかって玄関先に生けてもはずかしくないくらいのいけばなができるようにな
ること。梅干やおせち料理、郷土料理など母から(TVや雑誌などでは学べない)母の味をしっ かり受け継ぐこと…などなどが考えられます」と書いています。
はっきり言いましょう。
あなたはここでいう「幻惑」に苦しみながら、その一方で、自分自身の中のマザコン性に気が
ついていないのではないでしょうか。あるいは、親離れできていない?
どうしてそうまで、あなたは親に対して、(いい子)で、かつ親に好かれなければならないので
しょうか。あなたが今、一番大切にすべき人は、あなたの夫です。それに子どもです。視点を、 親からはずして、そちらに向けなさい。
あなたの母親が、「孫の写真など、送ってくれなくてもいい」と言ったら、そのとおりにすればよ
いのです。それを、旅行券などを送って、どこかで無理をする。そういうあなたを見て、一番困 っているのは、ひょっとしたら、あなたの夫(配偶者)かもしれません。
あなたはあなたで、堂々と、前を向いて生きなさい。あなたが言うように、いざとなったら、そ
のときは、助けに入ればよいのです。それまでは、そっとしておいてあげるのも、あなたの務め かもしれません。
そしてあえて言うなら、あなたも、親に対してもっている、「親である」という幻想を捨てなさい。
メールから読み取るかぎり、あなたの母親は、つまらない、ただの「女」です。多分、あなたの 母親は私と同年齢かと思いますが、私から見ても、つまらない人です(失礼!)。
そう、実につまらない。
「親だから、そんなはずはない」とあなたは思いたいのでしょうが、人間というのは、そういうも
の。30歳過ぎたら、よほどのことがないかぎり、進歩はないものと思ってください。今では、あ なたのほうが、人間的にも、あなたの母親より、はるかに「上」を進んでいます。つまり、つまら ない母親など、本気に相手にしないこと。
適当につきあって、適当にすませば、それでよいのです。つまらない人を本気で相手にしてい
ると、あなた自身も、つまらない人になってしまいますよ。
そして今、あなたの心の中でウズを巻いている幻惑から、できるだけはやく、あなた自身を解
放することです。
あなたは何も悪いことはしていません。罪の意識に悩むことは、まったく、ないのです。あなた
はできるだけのことは、してきた。今も、している。それでよいのです。
ただあなたの子どもにだけは、同じ思いをさせてはいけません。私自身も、親(とくに母親)
に、「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」と、さんざん言われて育った経験 があります。
だから自分の子どもをもったとき、それだけは、口に出して言わないように、心に誓いまし
た。
そして今、ほとんど子育てが終わった今、子どもたちに感謝することはあっても、子どもたち
に何かを求めることは、まったくありません。「お前たちのおかげで、人生を楽しむことができ た。ありがとう」と、です。
残りの人生は、どちらかひとりになるまで、夫婦で楽しく生きようと言いあっています。励まし
あっています。もちろん子どもたちの世話になることなどは、考えていません。まったく考えてい ません。そのうち、土地と家を売って、老人ホームへ入ることを、考えています。
そこで残りの人生を、有意義に過ごします。
これからは、望むと望まざるとにかかわらず、そういう方向に向って、日本も進むと思いま
す。それが国際的な常識だからです。
今、多いですよ。本当に多いですよ。親子の確執の中で、もがき苦しんでいる人は、多いで
す。
数年前、母親教室で、ふとその話題に触れたとき、「私も……」「私も……」と声をあげた人
(若い母親)が、30%近くもいたのには、驚きました。
みんなどの人も、人知れず、悶々と悩んでいたのですね。「自分は、人間として失格者なの
だ」と。
しかし、反対に考えてみたらどうでしょうか。つまり、良好な(?)親子関係を結んでいる人の
ほうが、少ないのだ、と。ここでいう「良好」というのは、あくまでも、旧来型の親子観でみたばあ い、という意味ですが……。
が、これからはもう、そういう時代ではないし、またあってはいけないのです。現代と言う時代
は、その二つの価値観が激突している過渡期ということになるのかもしれません。
最後にメールの転載許可、ありがとうございました。ほとんどの方が断っておいでになるとい
う現状の中で、読者の方の大きな参考になると思います。より多くの読者の方が、あなたのメ ールを読み、自分の子育てを見なおすきっかけになればと願っています。
ありがとうございました。
●ドラ息子論
●ドラ息子
******************
子どものドラ息子(娘)の兆候が現れると、
親は、子どもをなおそうとする。
しかし本当の問題は、親や親側にある。
親の育児姿勢にある。
大切なことは、その兆候をできるだけ
早い段階でつかむこと。
自分の子育ての問題点を、できるだけ
早い段階で知り、それをなおすこと。
******************
【現象】
何でもかんでも、無摂生に、子どもを楽しませてしまう。子どもが望む前に、あるいは、子ども
が興味をもつ前に、「さあ、どうだ」「これでもか」と、楽しませてしまう。
子どもがほしがりそうなものがあると、先に買い与えてしまう。子どもが食べたそうなものがあ
ると、先に買い与えてしまう。
子どもはより刺激的な楽しみを求めるようになり、またそれがないと、満足しなくなる。より享
楽的になり、ものの考え方がせつな的になる。欲望を満足できれば、それでよい(享楽的)。そ の場だけを楽しめれば、それでよい(せつな的)。そういう生きザマになる。
子育てに無責任で、無関心な父親。その反面、子どもを溺愛する母親。それなりに経済的に
は、余裕がある。幼児に、2万円、3万円もするおもちゃを、ホイホイと買い与えてしまう。また それで親の努めを果たしたと思う。
大きな誤解がある。
子どもを楽しませれば楽しませるほど、また子どもに楽をさせればさせるほど、親子のパイプ
は、太くなったと考える。あるいは、子どもは、親に感謝しているはずと考える。
しかしこれは誤解。大きな誤解。誤解というより、実際には、逆効果。親子のパイプを太くす
るというよりは、やがて破壊する。
こういう家庭環境の中で、子どもは、ドラ息子化する。ドラ娘化する。
やがて子どもは、小学3、4年生を迎える。この時期を境に、その子どもがドラ息子(娘)にな
るかどうかが、だれの目にも、はっきりしてくる。
おとなをおとなとも思わない、ぞんざいな態度。横柄なものの言い方。約束など、あってない
ようなもの。目的や目標もない。お金が入れば、その場で、ほしいものを買ってしまう。
しかしこの段階で、それに気づいても、もう手遅れ。ほとんどの親は、マユをひそめ、口を汚く
して、子どもを叱る。しかし叱れば叱るほど、あとは底なしの悪循環。
ずいぶんと前のことだが、D君(小3・男児)という子どもがいた。ひょうきんで、明るく、笑わせ
名人だった。頭も悪くなかった。しかし自分がいやだと思うことは、まったくしなかった。
私はそのD君の中に、すでに小学1、2年生のときに、ドラ息子の「芽」を見た。いや、実際に
は、幼稚園の年中児でも、ていねいにみれば、それがわかる。
しかしこの段階で、いつも迷う。親に言うべきか、どうかで、である。理由は、いくつかある。
まず、親自身にそれだけの問題意識があるかどうか、ということ。その問題意識のない親
に、いくら説明しても、意味はない。
つぎに見た目には、親子関係は悪くない。子どももそれなりに楽しいそうだし、生き生きしてい
る。多少、生意気な点はあるが、大きな問題を起こすといったふうでもない。
それにまちがったことを言ってしまったら、どうしようかという迷いもある。親に不要な心配を
与える。
が、何よりも大きな理由は、子どもをなおす以上に、その子どもを包む環境をなおすのは、む
ずかしいということ。わかりやすく言えば、これは子どもの問題ではない。親の育児姿勢の問題 である。子どもをなおす以上に、親の育児姿勢をなおすのは、むずかしい。
何か問題が起きてから、それを指摘するというのは、簡単なこと。たとえていうなら、肺がん
になってから、タバコの害を説明するのは、簡単なこと。しかし今のところ健康な人に、タバコ の害を説明しても、意味がない。(たとえがあまりよくないかもしれないが……。)
「お宅の子どもは、このままでは、やがて手に負えなくなりますよ」と言うことが、はたして正し
いのかどうか。あるいは、そこまで親に伝える義務が、はたして私にはあるのか。
もちろん親の側から、質問があれば、話は別である。そのときは、私は、ていねいに説明す
るようにしている。しかし親が求めていないことにまで、クビをつっこむ必要はない。こういうケ ースでは、親に大きな不安を与えたりすると、ほとんどのばあい、親は、子どもの手を引いて、 そのまま教室をやめてしまう。
「うちの子は、先生に嫌われた」と判断するためである。あるいは「うちの子は、この教室にあ
わない」と判断するためである。中には、「いらぬお節介」と、怒ってしまう親もいる。以前だが、 「あんたは、だまって、息子の勉強だけをみてくれればいい」と言った親すらいた。
適切な言葉がないので、ストレートに表現するなら、「さわらぬ神にたたりなし」ということにな
る。あえて火中のクリを拾うことはない。
こうして私は、だまる。だまって、与えられた仕事だけを、そこそこにこなす。
……と書いただけなら、子育てエッセーにならない。では、どうしたらよいのか。
【対策】
一番よいのは、ここに私が書いたようなエッセーを、子どもがまだ小さいうちに読むこと。そし
て問題意識を、もつこと。その問題意識がないと、いくらドラ息子(娘)論を説いても、意味がな い。
つぎに子どもをドラ息子(娘)にすれば、それ自体が、家庭教育の失敗であることを、認識す
ること。将来、苦労するのは、結局は、子ども自身ということになる。親ではない、子ども自身 だ。
ここに書いたD君の、つづきの話をしよう。
そういうD君でも、私との間に、一対一の人間関係ができているときは、それなりにうまくいく。
私とD君の間には、親子ほどではないが、教師と私という人間関係ができている。
つまりは、私が、D君を支える、最後の防波堤ということになる。父親や母親の言うことを聞
かなくなっても、私の言うことは聞く。そういう関係を利用して、私は、D君を指導する。
が、そういう親だから、その(価値)に気づかない。D君がいよいよ4年生になるというある日
のこと。母親が私のところにやってきて、こう言った。「4年生になりますから、そろそろ進学塾 のほうへ、移ろうと思います。長い間、お世話になりました」と。
異変が起きたのは、その日からだった。D君は、私にも裏切られたと感じたのかもしれない。
私の言うことさえ、まったく聞かなくなってしまった。ぞんざいな態度、投げやりな学習姿勢。プリ ントを渡しても、いつも白紙のまま。ふてぶてしい言い方で、「疲れたなあ」と。
もうこうなると、私にできることは何もない。私は私で、D君を無視して、レッスンを進めるしか
ない。そのためますますD君の態度は、横柄になっていった。
この時点で、私とD君の関係を切ることは、たいへんまずい。私はD君を、年中児のときから
教えている。たがいに気心がよくわかっている。それがわかっていても、私のほうから、親の意 向にさからうことはできない。
このあとD君が、どうなるか? 結末は、火を見るより、明らかである。しかし私には、何も言
えない。何もできない。
親というのは、自分で失敗してみて、それが失敗だと気づく。そしてやがて、行き着くところま
で、行く。また行き着くところまで行かないと、失敗だったと気づかない。これは子育てにまつわ る宿命のようなもので、どうしようもない。
で、あと残りのレッスンが、3、4回というときのこと。D君の母親が、ニコニコ笑いながら、教
室へ入ってきた。が、私は、正直にこう言った。
「お母さん、D君ですが、まったく何もしなくなってしまいました。鉛筆を手にもとうともしません」
と。
とたん、母親の顔が、けわしくなった。引きつったというのが、正しいかもしれない。突然、金
切り声でこう叫んだ。「D! ちょっときなさい!」と。そのときすでにD君は、廊下の向こうへ逃 げていったところだった。
それ以来、D君には、私は、一度も会っていない。
【付記】
私は、自分の信念として、私のほうから、経営上の理由で、生徒にやめてもらったことは、一
度もない。ほかの子どもたちが進学塾に移動したあとも、たとえ生徒が、数人になっても、その ままつづける。
部屋代、労力を考えたら、赤字というより、損失である。それは私とその生徒との間に、人間
関係ができているからである。「もう経営できなくなりましたから、クラスを閉鎖します」と言うこと はできる。しかしそれは、その子どもを、外の世界に、突き放すことを意味する。
それは、私には、できない。
が、今どき、こんな善意に、どれほどの意味があるというのだろうか。ほとんどの親は、口に
こそ出さないが、こう思っている。「あんたは、いらぬことは教えなくていい。だまってうちの子の 勉強だけをみていてくれればいい」と。
私は、もともとその程度の立場の人間だし、その程度しか、期待されていない。それがわかっ
ているから、何もすることができない。与えられた時間の間、黙々と、何も考えず、楽しく過ごす しかない。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
【ドラ息子、ドラ娘】
●甘やかしと、きびしさ
+++++++++++++
甘やかしと、きびしさ。一貫性の
ない親の育児姿勢が、子どもを
ドラ息子、ドラ娘にする。
甘やかしで、規範そのものが
崩れる。一方、アンバランスな
きびしさが、子どもを反抗的に
する。
わがままで、自分勝手。
思うようにことが運ばないと、
キレる……。
+++++++++++++
一方で甘やかす。しかしその甘やかしに手を焼き、ときとして、きびしく接する。はじめは、小
さな
すき間だが、それが繰りかえされるうち、やがてすき間が広がる。(甘やかす)→(ますますきび
し
く接する)→(甘やかす)の悪循環の中で、親の手に負えなくなる。一貫性のない親の育児姿勢
が、
子どもをして、ドラ息子、ドラ娘にする。
このタイプの親には、共通点がある。
(1)溺愛性(生活のすべてが、子ども中心)
(2)育児観の欠落(どういう子どもに育てたいのか、その教育観が希薄)
(3)飽食とぜいたく(どちらかというと、余裕のある裕福な家庭)
(4)視野が狭い(目先のことしか、考えていない)
(5)見栄っ張り(世間体や外見を重んじる)
(6)代償的過保護(子どもを自分の思いどおりにしたい)
(7)親自身も、ドラ息子、ドラ娘的(自分がドラ息子、ドラ娘的であることに気づかない)
これらの特徴と併せて、(8)一貫性がない。そのときの気分で、子どもに甘く接したり、きびし
く接
したりする。A君(6歳、架空の子ども)を例にあげて、考えてみよう。
A君の父親は、もの静かな人だった。一方、母親は派手好き。裕福な家庭で、生まれ育っ
た。ほ
しいものは、何でも買い与えられた。
A君は、生まれたときから、両親の愛情に恵まれた。近くに祖父母もいて、A君の世話をし
た。A
君は、まさに「蝶よ、花よ」と育てられた。
母親は、A君に楽をさせること、楽しい思いをさせることが、親の愛の証(あかし)と考えてい
た。
A君は、その年齢になっても、家の手伝いは、ほとんどしなかった。いや、するにはしたが、とて
も
手伝いとは言えないような手伝いをしただけで、みなが、おおげさに喜んでみせたり、ほめたり
し
た。「ほら、Aが、クツを並べた!」「ほら、Aが、花に水をやった」と。
が、やがて、A君のわがままが目立つようになった。あと片づけをしない、ほしいものが手に
入ら
ないと、怒りを露骨に表現するなど。母親は、そのつど、A君をはげしく叱った。A君は、それに
泣
いて抗議した。
A君は、幼稚園へ入る前から、バイオリン教室、水泳教室、体操教室に通った。夫の収入だ
けで
は足りなかった。A君の母親は、実家の両親から、毎月、5〜8万円程度の援助を受けてい
た。夫
には内緒、ということだった。
A君は、そこそこに伸びたが、しかしそれほど力のある子どもではなかった。そのためA君の
母
親は、ますますA君の教育にのめりこんでいった。そのころすでにA君は、オーバーヒート気味
だ
ったが、母親は、それに気づかなかった。「やればできるはず」式に、A君に、いろいろさせた。
A君がだれの目にもドラ息子とわかるようになったのは、年長児になったころである。好き嫌
い
がはげしく、先にも書いたように、自分勝手でわがまま。簡単なゲームをさせても、ルールを守
ら
なかった。そのゲームで負けると、大泣きしたり、あるいはまわりの人に乱暴を繰りかえしたり
し
た。
人格の完成度が遅れた。他人の心が理解できない。自己中心的。ほかの子どもたちとの協
調性
に欠けた。幼稚園の先生が何か仕事を頼んでも、A君は、機嫌のよいときはそれをしたが、そ
うで
ないときは、いろいろ口実を並べて、それをしなかった。
小学2、3年生になるころには、母親でも、手に負えなくなった。そのころになると、母親にも
乱暴
を繰りかえすようになった。母親を蹴る、殴るは、日常茶飯事。ものを投げつけることも重なっ
た。
が、A君は、自分では、何もしようとしなかった。学校の宿題をするだけで、精一杯。その宿題
す
ら、
母親に、手伝ってしてもらっていた。
……という例は、多い。今では、10人のうち、何人かがそうであると言ってよいほど、多い。
が、
何よりも悲劇的なのは、そういう子どもでありながらも、母親が、それに気づくことがないという
こ
と。
『溺愛は、親を盲目にする』。A君の母親は、ますます献身的に(?)、A君に仕えた。
こういうとき母親がそれに気づき、私のようなものに相談でもあれば、私もそれなりに対処で
き
る。
アドバイスもできる。しかしそれに気づいていない親に向かって、「あなたのお子さんには、問
題が
あります」とは、現実には、言えない。言ったところで、そのリズム、つまり子育てのリズムを変
える
ことは、不可能。親にとっても、容易なことではない。そのリズムは、子どもを妊娠したときか
ら、は
じまっている。そんなわけで、わかっていても、知らぬフリをする。
が、やがて行き着くところまで、行き着く。親自身が、袋小路に入り、にっちもさっちも行かなく
な
る。が、そのときでも、子どもに問題があると気づく親は少ない。「うちの子にかぎって……」「そ
ん
なはずはない……」と、親は親で、がんばる。
A君のドラ息子性は、さらにはげしくなった。小学5、6年になるころには、まさに王様。食事
も、ソ
ファに寝そべって食べるようになった。母親が、そこまで盆にのせて、A君に食事を届けた。母
親
は、A君のほしがるものを、一度は拒(こば)んではみせるものの、結局は、買い与えていた。
「機
嫌をそこねたら、塾へも行かなくなる」と。
本来なら、こうした異常な母子関係を調整するのは、父親の役目ということになる。が、A君
の父
親は、静かで、やさしい人だった。家庭のことには、ほとんど関心を示さなかった。仕事から帰
って
くると、自分の部屋で、ひとりでビデオの編集をして時間をつぶしていた。
……というわけで、子どものドラ息子性、ドラ娘性の問題は、いかに早い段階で、親がそれに
気
づくか、それが大切。早ければ早いほど、よい。できれば3、4歳ごろには、気づく。(それでも
遅い
かもしれない。)
というのも、この問題は、家庭がもつ(子育てのリズム)に、深く関係している。そのリズムを
変え
るのは、容易なことではない。1年や2年はかかる。あるいは、もっと、かかる。さらに親自身が
も
つ、
子育て観を変えるのは、ほぼ不可能とみてよい。それこそ行き着くところまで行き、絶望のどん
底
にたたき落とされないかぎり、親も、それに気づかない。
ある母親は、自分の子ども(中3男子)が、万引き事件を起こしたとき、一晩で、事件そのも
のを、
もみ消してしまった。あちこちを回り、お金で解決してしまった。また別の子ども(高1男子)は、
無
免許で車を運転し、隣家の塀を壊してしまった。そのときも、母親が、一晩で、事件そのものを
もみ
消してしまった。
こういうことを繰りかえしながら、親はドン底にたたき落とされる。で、やっとそのころになると、
自分の(まちがい)に気づく。それまでは、気づかない。ひょっとしたら、この文章を読んでいる
あ
なた自身も、その1人かもしれない。が、ほとんどの人は、こういう文章を読んでも、「私には関
係ない」と、無視する。これは子育てがもつ、宿命のようなもの。
そこで教訓。
あなたの子どもが、わがままで自分勝手なら、子どもを責めても意味はない。責めるべきは、
あ
なた自身。反省すべきは、家庭環境そのもの。あなたの育児姿勢。家庭のリズム。あなたの人
生
観、それに子育て観。
子どもだけを見て、子どもだけをなおそうと考えても、ぜったいになおらない。なおるはずもな
い。
この問題は、そういう問題である。
+++++++++++++++
ドラ息子、ドラ娘について書いた
原稿を、いくつか添付します。
+++++++++++++++
子どもをよい子にしたいとき
●どうすれば、うちの子は、いい子になるの?
「どうすれば、うちの子どもを、いい子にすることができるのか。それを一口で言って
くれ。私は、そのとおりにするから」と言ってきた、強引な(?)父親がいた。「あんたの
本を、何冊も読む時間など、ない」と。私はしばらく間をおいて、こう言った。「使うこと
です。使って使って、使いまくることです」と。
そのとおり。子どもは使えば使うほど、よくなる。使うことで、子どもは生活力を身に
つける。自立心を養う。それだけではない。忍耐力や、さらに根性も、そこから生まれる。
この忍耐力や根性が、やがて子どもを伸ばす原動力になる。
●100%スポイルされている日本の子ども?
ところでこんなことを言ったアメリカ人の友人がいた。「日本の子どもたちは、100%、
スポイルされている」と。わかりやすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。そこ
で私が、「君は、日本の子どものどんなところを見て、そう言うのか」と聞くと、彼は、こ
う教えてくれた。
「ときどきホームステイをさせてやるのだが、料理の手伝いはしない、食事のあと、食
器を洗わない。片づけない。シャワーを浴びても、あわを洗い流さない。朝、起きても、
ベッドをなおさない」などなど。つまり、「日本の子どもは何もしない」と。反対に夏休
みの間、アメリカでホームステイをしてきた高校生が、こう言って驚いていた。「向こう
では、明らかにできそこないと思われるような高校生ですら、家事だけはしっかりと手
伝っている」と。ちなみにドラ息子の症状としては、次のようなものがある。
●ドラ息子症候群
(1)ものの考え方が自己中心的。自分のことはするが他人のことはしない。他人は自分
を喜ばせるためにいると考える。ゲームなどで負けたりすると、泣いたり怒ったり
する。自分の思いどおりにならないと、不機嫌になる。あるいは自分より先に行く
ものを許さない。いつも自分が皆の中心にいないと、気がすまない。
(2)ものの考え方が退行的。約束やルールが守れない。目標を定めることができず、目
標を定めても、それを達成することができない。あれこれ理由をつけては、目標を
放棄してしまう。ほしいものにブレーキをかけることができない。生活習慣そのも
のがだらしなくなる。その場を楽しめばそれでよいという考え方が強くなり、享楽的
かつ消費的な行動が多くなる。
(3)ものの考え方が無責任。他人に対して無礼、無作法になる。依存心が強い割には、
自分勝手。わがままな割には、幼児性が残るなどのアンバランスさが目立つ。
(4)バランス感覚が消える。ものごとを静かに考えて、正しく判断し、その判断に従って
(5)行動することができない、など。
●原因は家庭教育に
こうした症状は、早い子どもで、年中児の中ごろ(4・5歳)前後で表れてくる。しか
し一度この時期にこういう症状が出てくると、それ以後、それをなおすのは容易ではない。
ドラ息子、ドラ娘というのは、その子どもに問題があるというよりは、家庭のあり方そ
のものに原因があるからである。また私のようなものがそれを指摘したりすると、家庭
のあり方を反省する前に、叱って子どもをなおそうとする。あるいは私に向かって、「内
政干渉しないでほしい」とか言って、それをはねのけてしまう。あるいは言い方をまち
がえると、家庭騒動の原因をつくってしまう。
●子どもは使えば使うほどよい子に
日本の親は、子どもを使わない。本当に使わない。「子どもに楽な思いをさせるのが、親
の愛だ」と誤解しているようなところがある。だから子どもにも生活感がない。「水はどこ
からくるか」と聞くと、年長児たちは「水道の蛇口」と答える。「ゴミはどうなるか」と聞
くと、「どこかのおじさんが捨ててくれる」と。
あるいは「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、「お父さんが
いるから、いい」と答えたりする。生活への耐性そのものがなくなることもある。友だ
ちの家からタクシーで、あわてて帰ってきた子ども(小6女児)がいた。話を聞くと、「ト
イレが汚れていて、そこで用をたすことができなかったからだ」と。そういう子どもに
しないためにも、子どもにはどんどん家事を分担させる。子どもが二〜四歳のときが勝
負で、それ以後になると、このしつけはできなくなる。
●いやなことをする力、それが忍耐力
で、その忍耐力。よく「うちの子はサッカーだと、一日中しています。そういう力を勉
強に向けてくれたらいいのですが……」と言う親がいる。しかしそういうのは忍耐力とは
言わない。好きなことをしているだけ。
幼児にとって、忍耐力というのは、「いやなことをする力」のことをいう。たとえば台所
の生ゴミを始末できる。寒い日に隣の家へ、回覧板を届けることができる。風呂場の排
水口にたまった毛玉を始末できる。そういうことができる力のことを、忍耐力という。
こんな子ども(年中女児)がいた。その子どもの家には、病気がちのおばあさんがいた。
そのおばあさんのめんどうをみるのが、その女の子の役目だというのだ。その子どもの
お母さんは、こう話してくれた。「おばあさんが口から食べ物を吐き出すと、娘がタオル
で、口をぬぐってくれるのです」と。こういう子どもは、学習面でも伸びる。なぜか。
●学習面でも伸びる
もともと勉強にはある種の苦痛がともなう。漢字を覚えるにしても、計算ドリルをする
にしても、大半の子どもにとっては、じっと座っていること自体が苦痛なのだ。その苦痛
を乗り越える力が、ここでいう忍耐力だからである。反対に、その力がないと、(いやだ)
→(しない)→(できない)→……の悪循環の中で、子どもは伸び悩む。
……こう書くと、決まって、こういう親が出てくる。「何をやらせればいいのですか」と。
話を聞くと、「掃除は、掃除機でものの10分もあればすんでしまう。買物といっても、食
材は、食材屋さんが毎日、届けてくれる。洗濯も今では全自動。料理のときも、キッチン
の周囲でうろうろされると、かえってじゃま。テレビでも見ていてくれたほうがいい」と。
●家庭の緊張感に巻き込む
子どもを使うということは、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。親が寝そべってテレ
ビを見ながら、「玄関の掃除をしなさい」は、ない。子どもを使うということは、親がキビ
キビと動き回り、子どももそれに合わせて、すべきことをすることをいう。たとえば……。
あなた(親)が重い買い物袋をさげて、家の近くまでやってきた。そしてそれをあなた
の子どもが見つけたとする。そのときさっと子どもが走ってきて、あなたを助ければ、そ
れでよし。
しかし知らぬ顔で、自分のしたいことをしているようであれば、家庭教育のあり方をか
なり反省したほうがよい。やらせることがないのではない。その気になればいくらでも
ある。食事が終わったら、食器を台所のシンクのところまで持ってこさせる。そこで洗
わせる。フキンで拭かせる。さらに食器を食器棚へしまわせる、など。
子どもを使うということは、ここに書いたように、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。
たとえば親が、何かのことで電話に出られないようなとき、子どものほうからサッと電話
に出る。庭の草むしりをしていたら、やはり子どものほうからサッと手伝いにくる。そう
いう雰囲気で包むことをいう。何をどれだけさせればよいという問題ではない。要はそう
いう子どもにすること。それが、「いい子にする条件」ということになる。
●バランスのある生活を大切に
ついでに……。子どもをドラ息子、ドラ娘にしないためには、次の点に注意する。(1)
生活感のある生活に心がける。ふつうの寝起きをするだけでも、それにはある程度の苦労
がともなうことをわからせる。あるいは子どもに「あなたが家事を手伝わなければ、家族
のみんなが困るのだ」という意識をもたせる。(2)質素な生活を旨とし、子ども中心の生
活を改める。(3)忍耐力をつけさせるため、家事の分担をさせる。(4)生活のルールを
守らせる。(5)不自由であることが、生活の基本であることをわからせる。そしてここが
重要だが、(6)バランスのある生活に心がける。
ここでいう「バランスのある生活」というのは、きびしさと甘さが、ほどよく調和した
生活をいう。ガミガミと子どもにきびしい反面、結局は子どもの言いなりになってしまう
ような甘い生活。あるいは極端にきびしい父親と、極端に甘い母親が、それぞれ子どもの
接し方でチグハグになっている生活は、子どもにとっては、決して好ましい環境とは言え
ない。チグハグになればなるほど、子どもはバランス感覚をなくす。ものの考え方がかた
よったり、極端になったりする。
子どもがドラ息子やドラ娘になればなったで、将来苦労するのは、結局は子ども自身。
それを忘れてはならない。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●子どもの金銭感覚
年長(6歳)から小学2年(8歳)ぐらいの間に、子どもの金銭感覚は完成する。その
金銭感覚は、おとなのそれと、ほぼ同じになるとみてよい。が、それだけではない。子ど
もはこの時期を通して、お金によって物欲を満たす、その満たし方まで覚えてしまう。そ
してそれがそれから先、子どものものの考え方に、大きな影響を与える。
この時期の子どものお金は、100倍して考えるとよい。たとえば子どもの100円は、
おとなの1万円に相当する。1000円は、10万円に相当する。
親は安易に子どもにものを買い与えるが、それから子どもが得る満足感は、おとなにな
ってからの、1万円、10万円に相当する。「与えられること」に慣れた子どもや、「お
金によって欲望を満足すること」に慣れた子どもが、将来どうなるか。もう、言べくも
ない。
さすがにバブル経済がはじけて、そういう傾向は小さくなったが、それでも「高価なも
のを買ってあげること」イコール、親の愛と誤解している人は多い。より高価なものを
買い与えることで、親は「子どもの心をつかんだはず」と考える。
あるいは「子どもは親に感謝しているはず」と考える。が、これはまったくの誤解。実
際には、逆効果。それだけではない。ゆがんだ金銭感覚が、子どもの価値観そのものを
狂わす。ある子ども(小2男児)は、こう言った。「明日、新しいゲームソフトが発売に
なるから、ママに買いに行ってもらう」と。そこで私が、「どんなものか、見てから買っ
てはどう?」と言うと、「それではおくれてしまう」と。その子どもは、「おくれる」と
言うのだ。
最近の子どもたちは、他人よりも、より手に入りにくいものを、より早くもつことによ
って、自分のステイタス(地位)を守ろうとする。物欲の内容そのものが、昔とは違う。
変質している。……というようなことを考えていたら、たまたまテレビにこんなシーン
が出てきた。
援助交際をしている女子高校生たちが、「お金がほしいから」と答えていた。「どうして
そういうことをするのか」という質問に対して、である。しかも金銭感覚そのものが、
マヒしている。もっているものが、10万円、20万円という、ブランド品ばかり!
さて、誕生日。さて、クリスマス。あなたは子どもに、どんなものを買い与えるだろう
か。1000円のものだろうか。それとも1万円のものだろうか。お年玉には、いくら与
えるだろうか。与えるとしても、それでほしいものを買わせるだろうか。それとも、貯金
をさせるだろうか。いや、その前に、それを与えるにふさわしいだけの苦労を、子どもに
させているだろうか。
どちらにせよ、しかしこれだけは覚えておくとよい。5、6歳の子どもに、1万、2万
円のプレゼントをホイホイと買い与えていると、子どもが高校生や大学生になったとき、
あなたは100万円、200万円のものを買い与えなくてはならなくなる。
つまりそれくらいのことをしないと、子どもは満足しなくなる。あなたにそれだけの財
力と度量があれば話は別だが、そうでないなら、子どものために、やめたほうがよい。
やがてあなたの子どもは、ドラ息子やドラ娘になり、手がつけられなくなる。そうなれ
ばなったで、苦労するのはあなたではなく、結局は子ども自身なのだ。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●ドラ息子症候群
英語の諺に、『あなたは自分の作ったベッドの上でしか、寝られない』というのがある。
要するにものごとには結果があり、その結果の責任はあなたが負うということ。こういう
例は、教育の世界には多い。
子どもをさんざん過保護にしておきながら、「うちの子は社会性がなくて困ります」は、
ない。あるいはさんざん過干渉で子どもを萎縮させておきながら、「どうしてうちの子はハ
キハキしないのでしょうか」は、ない。もう少しやっかいなケースでは、ドラ息子という
のがいる。M君(小3)は、そんなタイプの子どもだった。
口グセはいつも同じ。「何かナ〜イ?」、あるいは「何かほシ〜イ」と。何でもよいのだ。
その場の自分の欲望を満たせば。しかもそれがうるさいほど、続く。そして自分の意にか
なわないと、「つまんナ〜イ」「たいくツ〜ウ」と。約束は守れないし、ルールなど、彼に
とっては、あってないようなもの。他人は皆、自分のために動くべきと考えているような
ところがある。
そのM君が高校生になったとき、彼はこう言った。「ホームレスの連中は、人間のゴミだ」
と。そこで私が、「誰だって、ほんの少し人生の歯車が狂うと、そうなる」と言うと、「ぼ
くはならない。バカじゃないから」とか、「自分で自分の生活を守れないヤツは、生きる資
格などない」とか。こうも言った。
「うちにはお金がたくさんあるから、生活には困らない」と。M君の家は昔からの地主
で、そのときは祖父母の寵愛を一身に集めて育てられていた。
いろいろな生徒に出会うが、こういう生徒に出会うと、自分が情けなくなる。教えるこ
とそのものが、むなしくなる。「こういう子どもには知恵をつけさせたくない」とか、「も
っとほかに学ぶべきことがある」というところまで、考えてしまう。そうそうこんなこと
もあった。
受験を控えた中3のときのこと。M君が数人の仲間とともに万引きをして、補導されて
しまったのである。悪質な万引きだった。それを知ったM君の母親は、「内申書に影響す
るから」という理由で、猛烈な裏工作をし、その夜のうちに、事件そのものを、もみ消
してしまった。そして彼が高校二2生になったある日、私との間に大事件が起きた。
その日私が、買ったばかりの万年筆を大切そうにもっていると、「ヒロシ(私のことをそ
う呼んでいた)、その万年筆のペン先を折ってやろうか。折ったら、ヒロシはどうする?」
と。
そこで私は、「そんなことをしたら、お前を殴る」と宣言したが、彼は何を思ったか、私
からその万年筆を取りあげると、目の前でグイと、そのペン先を本当に折ってしまった!
とたん私は彼に飛びかかっていった。結果、彼は目の横を数針も縫う大けがをしたが、
M君の母親は、私を狂ったように責めた。(私も全身に打撲を負った。念のため。)
「ああ、これで私の教師生命は断たれた」と、そのときは覚悟した。が、M君の父親が、
私を救ってくれた。うなだれて床に正座している私のところへきて、父親はこう言った。
「先生、よくやってくれました。ありがとう。心から感謝しています。本当にありがと
う」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ドラ息
子
ドラ息子症候群 スポイルされる子どもたち)
●両面感情
少し前、両面感情についての原稿を書いた。それについて、今日の午後、ある人(女性)と、
こんな話をした。
愛と憎の関係については、よく知られている。その人への愛情が、何かのことで、憎しみに変
わるということは、よくある。
これは「愛」という感情が、「憎しみ」という感情と、ペアになっていることを示す。
それについて、その女性は、「こうした両面感情は、ほかにもある」と。
たとえば、期待感と落胆感、安心感と不安感など。
考えてみれば、あらゆる感情には、両面性がある。東洋医学でも、相克(そうこく)論を利用し
て、感情の両面性を説明している。
だから感情をもつことは、人間だから、しかたないことだが、しかしその感情のとりこになって
いると、自分でも、わけがわからなくなってしまうことがある。夢や希望に胸をふくらませていて も、その夢や希望がつぶされたりすると、それが一挙に、落胆から絶望感になってしまう。
両面感情というのは、そういうもので、一つの感情の裏には、必ずといってよいほど、その反
対の感情がある。
そこで重要なことは、要するに、それがよい感情であるにせよ、それに振り回されないという
こと。でないと、取り越し苦労や、ぬか喜びばかりを繰りかえすようになる。
仏教にも、『縁にふんどうされる』という言葉がある。そのときどきの感情に押し流されるま
ま、押し流されることをいう。そういう状態では、真理にたどりつくことはできないらしい。
言いかえると、感情の起伏は、必要最小限のほうがよい。『平常心』という言葉もあるが、い
つも平常心を保つ。
どこか、その女性の言った言葉を、そのまま利用したようなエッセーになってしまった。その
女性はこう言った。「人間は、感情的になったら、おしまいね」と。
私もそう思う。
ついでながら、東洋医学でいう、感情の関係は、つぎのようになっている。
【7つの感情(七情論)】(霊枢・本神論篇)
怒、恐、喜、驚、悲、思、憂の7つの感情を、七情という。
これらの七情は、「気」の作用によって、起こるとされる。たとえば、「気が逆上して、怒となる」
など。
ほかに、
気が下降する……気が抜ける→恐れる
気がゆるむ→喜ぶ
気が動転する→驚く
気が消える→悲しむ
気がふさぐ→思う
気をもむ→憂う。
こうした気の流れは、精神面だけではなく、当然のことながら、健康面にも影響を与える。健
康になるためには、気の流れを整える、つまり感情面での安定を大切にする。
(はやし浩司著「目で見る漢方診断」(飛鳥新社)より)
●親絶対教
【GR氏(33歳・男性)からの相談より】
名古屋に住んでいるGR氏(33歳・男性)から、こんな相談が届いた。
ここで、改めて、親・絶対教という、カルトについて、考えてみたい。
今、GR氏は、結婚生活半年あまりで、妻と離婚すべきかどうかで、
悩んでいる。
日本の社会に深く根ざした、親・絶対教。そのカルト性に気づき、そ
れを改めるのは、容易なことではないようだ。
メールの内容は、大筋で、本題からはずれないよう、私のほうで許可※
を得て、改変した。
++++++++++++++++++++++++++
【GRより、はやし浩司へ】
私は、現在、名古屋にある、医療器械設計メーカーで、研究員をしています。近くの大学で、
講師の仕事もしています。私は、目下、妻と、離婚すべきかどうかで、悩んでいます。
ことのいきさつは、こうです。
私と現在の妻とは、昨年(03年)の終わりに結婚する予定でした。いっしょにいると楽しかっ
たので、そのまま結婚話へと進みました。
が、その直前、妻の父親(義父)が、内臓のがんで倒れました。一時は結婚を延期しようと考
えましたが、義父のたっての希望で、今年(04年)の1月に結婚式をあげました。
で、2月に、就職先(現在、住んでいる名古屋)が決まりましたので、私と妻は、それまで住ん
でいた富山を引き払い、名古屋に移り住んできました。その直後、義父は、手術中に帰らぬ人 となりました。
が、ここで、大きな問題が起きました。妻の母親(義母)と妻の姉(義姉)を、富山に残してお
けないと、妻が言い出したのです。そこで一時は、義母と義姉を、名古屋に呼び寄せることも 考えました。
が、義姉には、仕事があり、どうしても、富山を離れることができないと言い出しました。
妻は、義父の死で、かなりのショックを受けたようです。それはわかります。名古屋の家に住
むようになってからも、ほとんど、私とは、口をきかない毎日が、つづきました。
が、今年の4月になってから、何かと富山に帰ることが多くなり、事件が起きました。
妻が、富山に、家を買って、義母と姉といっしょに、暮らすと言い出したのです。
で、私が富山まで行くと、すでに不動産屋とは話がついていて、私があとは、契約をするだけ
の段取りになっていました。5月の連休あけの日のことでした。
しかし総額、4500万円です。35年の長期ローンになります。
義母と義姉は、今、住んでいるマンションを売って、頭金にする。義姉の収入の何割かを、ロ
ーンにあてると言い出しました。
そして私には、名古屋で、学生が住むような安いアパートに住めばいい、と。
しかし、ときどき富山へ帰って、義母の世話をするのと、35年ローンを組むのとでは、中身が
まったくちがいます。
私も、どこかぶ然とした態度であったことは事実です。で、そのときは、契約をしないで、私
は、名古屋へもどってきました。
が、その翌日のこと。富山にいた妻から電話がかかってきて、「何だ、あの態度は」「あなた
は、私と母の夢をこなごなに破壊した」「私の家をめちゃめちゃにした」「男なら、もっと男らしくし てよ」「妻の親に、孝行するのは、夫の義務」と。
横に義母と義姉がいて、いっしょに、ワーワーとわめく声が聞こえてきました。「もう、やめ
て!」と、義姉が叫んだほどです。で、そのとき義母も、倒れてしまったそうです。
で、今は、妻は、「もう私は、実家にも帰れない」「しかしあなたのように冷たい男とも、いっしょ
に暮らせない」と言っています。
妻は、富山の実家(マンション)に帰ったままです。
このまま離婚すべきでしょうか。どうしたらいいでしょうか。
++++++++++++++++++++++++++++
●親孝行論
GRさんは、妻の一連の行動を、親孝行の一つとして理解すべきかどうかで、迷っている。
(妻は、親孝行だと信じている。そして夫の生活が犠牲になっても、親孝行のためなら、当然と
考えている。)
が、ここで登場するのが、親・絶対教という、カルトである。
このカルトは、親から子へと、代々と引き継がれているため、その流れの中にいる人には、
それがわからない。特徴としては、
(1)親は絶対であると考える。
(2)親のめんどうをみるのは、子どもの義務と考える。
(3)親のためなら、子どもの生活が犠牲になっても、当然と考える。
この親・絶対教には、双方向性がある。
(1)親自身が、自分は絶対だと思う。
(2)子どもも、親が絶対だと思う。
つまり親は親で、自分は絶対だから、子どもには、親に従えと教える。子どもは子どもで、親
のために犠牲になるのは、当然と考える。
一方的な見方は、さしひかえたいが、GRさんの妻は、どうやら、親は絶対であると考えてい
るようである。
●ある事例
10年ほど前だが、こんな事件があった。
ある母親だが、息子が、外国へ行っている間に、預かっていた息子の財産を売りはらい、そ
のお金で、家を改築してしまった。
息子は、その母親に、自分で買った土地の権利書を預けておいた。ゆくゆくは、そこに自分
の家を建てるつもりでいた。が、母親は、それを「処分を任された」と、勝手に判断してしまった らしい。
そこでその息子は、中国のS市から帰ってきたあと、母親に泣きながら、抗議したが、母親
は、こう言い放ったという。
「親が、先祖を守るために、息子の財産を使って、何が悪い!」と。
この事例でも、その母親には、罪の意識は、まったくない。自分がしてはいけないことをしたと
いう意識すら、ない。ないものは、ないのであって、どうしようもない。
つまり、ここにカルト性がある。
その母親にしてみれば、息子が、たとえ半年でも、日本を離れ、中国のS市で生活するように
なったことは、「親を捨てた」ということになる。その母親は、息子が結婚したことについても、そ れ以前から、「息子を嫁に取られた」と言っていた。
(ここまで書いて気づいたが、その母親にしてみれば、実家を離れて、息子が家を建てるの
が、許せなかったのかもしれない。だから土地を売ってしまったとも考えられる。)
こうした事例は、多い。この日本では、本当に、多い。
●だれと結婚したのか
カルトは、それ自体が、その人の価値観になっている。そしてそれがそのまま人生観の柱に
なっている。だからそれを否定すると、その人は、猛烈に反発する。ときには、命をかけること もある。
それ以外の考え方を受けつけない。価値も認めない。同時に、それ以外の考え方を、排斥す
る。
たとえばGRさんの事例でも、キーパーソンは、義母である。こういうケースでは、義母が、娘
夫婦の幸福を最優先に考えなければならない。
私がその義母なら、(と言っても、そういう考え方そのものが、その義母には理解できないだ
ろうが)、GRさんの妻である娘にこう言う。
「私たちは、どんなことがあっても、あなたたちには、迷惑をかけたくない。私たちのために富
山へ帰ってこなくていい。高額なローンを組んで、苦労してほしくない。あなたたちは、あなたた ちで、幸福になってね」と。
しかしもし、母親自身が、その親・絶対教の信者だったら、どうなるか。
GRさんの義母は、娘の横で、泣き叫んだという。そのまま倒れてしまったという。妻の言葉を
借りるなら、「夢を、こなごなに破壊したからだ」という。
となると、そもそもその結婚は、何だったのかということになる。
義母や妻が描いた、理想の結婚生活(?)とは、義母と同居し、夫は、研究者としての道を歩
み……ということになる。いいかえると、そもそも妻は、夫と結婚するために結婚したのではな く、心の何割かで、親のめんどうをみるために、夫と結婚したことになる。
義母にしてみれば、娘として、それは当然のことということにもなる。
●喪失の苦しみ
ただ妻は、少し前、実の父親をなくしている。そのショックは、それまでの親子関係にもよる
が、相当なものであったと推察される。
父親をなくしたあと、精神を病む息子や、娘は、少なくない。知人の女性の中には、父親をな
くしたあと、そのままキリスト教団に入信してしまった人もいる。
その悲しみや、苦しみは、いかばかりなものか。私やあなたがそうでないからといって、そう
いう人たちの受けるショックを、軽くみてはいけない。
GRさんの妻は、相当なショックを受けた。そのあとの母子関係をみていると、その関係が、
いかに濃密なものであったかが、容易に想像がつく。
だからそういうショック状態にある妻の今の状況だけをみて、すべてを判断してはいけない。
またそのときの妻の判断が、正しいと思ってはいけない。妻は、ショックから、混乱状態にな り、さらにパニック状態になっている可能性がある。
私なら、今は、結論を出さないだろう。少なくとも、もう少し妻が冷静になるまで、様子をみる。
ひょっとしたら、しばらく時間をおけば、妻も今の自分の考え方が、おかしいと気がつくかもしれ ない。
喪失の悲しみや苦しみは、それ自体が、心理学の世界でも、大きなテーマになっているほど
である。
そう言えば、もう一人、男性だが、妻をなくしたあと、そのまま、勤めていた雑誌社をやめてしま
い、放浪の旅に出た人もいる。そのとき、その男性は、49歳。しばらくしてから、その男性の動 静を聞くと、周囲の人は、こう言った。「おかしくなってしまいました」と。
(もっともこの男性は、それから2年後、また別の出版社で、編集の仕事に復帰したから、私は
安心したが……。)
この状態では、妻の悲しみや苦しみを理解することも、問題の解決のためには、重要なポイ
ントとなる。
●説得は、不可能
あなたもどこかのカルト教団の本部の前で、「息子を返せ」「娘を返せ」と、泣き叫んでいる親
の姿を、何かで見たことがあるだろうと思う。
ある男性は、妻が、ある仏教系のカルト教団に入信してしまったことが原因で、離婚してしま
った。
しかしここで忘れてはならないことが、二つ、ある。
ひとつは、カルト教団があるから、信者がいるのではないということ。それを求める信者がい
るから、カルト教団があるということ。だから、カルト教団をたたいても、意味はない。このこと は、あの忌まわしいサリン事件を起こした、O教団を見ればわかる。
理性も分別もある、大学を出たようなエリートが、愚にもつかないような指導(?)に従ってしま
った。
もうひとつは、夫にせよ、息子にせよ、だれであるにせよ、カルト教団に身を寄せたという段
階で、すでに、たがいの人間関係は、崩壊しているということ。その離婚した男性にしても、彼 は、「妻がその教団で、洗脳されてしまったため、離婚した」と言っていたが、妻が入信した段 階で、すでに、夫婦関係は、崩壊していたとみる。
同じように、こうしたケースでは、つまりGRさんのケースでは、妻の親・絶対教が、夫婦関係
をおかしくしたとみやすいが、それは正しくないということ。すでにその原因は、別のところの、 どこかにあったとみる。
カルトの最大の特徴は、その信者どうしの世界では、たいへん居心地がよいということ。信者
どうしが、親子以上の親子、兄弟以上の兄弟になる。この居心地のよさが、信者どうしの結束 を強くする。
GRさんの妻は、母と姉との世界で、夫との世界以上の居心地のよさを、感じている。つまり
それを否定することは、自分自身を否定することになる。
あなたの妻は、命がけで、母や姉を守ろうとするかもしれない。つまりこの時点で、それを理
解しない夫は、そのカルトの外にいる、異端者でしかない。ある男性は、妻に向って、こう言っ たという。
「オレの母に不満があるなら、お前こそ、この家から出て行け」と。そういう例もある。
●理解して、時を待つ
親・絶対教の人に向って、それを否定しても、意味はない。またこの問題だけは、簡単には
解決しない。
もともと道理や理屈の通ずる世界ではない。しかもなおタチのわるいことに、それがそのまま
日本の風土や、文化になっている。
だからこの問題に気づいた人は、相手を理解して、引きさがるしかない。争っても意味はない。
かえって、人間関係そのものまで、破壊してしまう。
私も、もともとは、古風な世界に生まれ育った。そのため、親類というより、その地域の人たち
は、そのほとんどが、親・絶対教の信者たちばかりである。
親の批判、批評すら許さない人も多い。そういう世界で、親・絶対教を否定したら、私のほう
が、はじき飛ばされてしまう。だから、それを知りつつも、それにあわせて、生活するしかない. 大切なことは、それぞれの人が、それぞれの世界で、それなりに平和で、幸福な家庭を築くこ とである。
「親孝行が、家庭教育の要(かなめ)です」とだれかが言えば、「そうですね」と答えればよい。
カルトというものは、そういうもの。相手に向って、「あなたはまちがっている」と言うこと自体、ま
ちがっている。この世界では、そういう行為を、「ハシゴをはずす」と言う。ハシゴをはずすの は、簡単なこと。しかしハシゴをはずされた相手は、そのあと、どうすればよいのか。
そこでそういう人たちには、別の考え方があることを教えてやらねばならない。しかしそれは、
実にたいへんな作業である。時間と努力の問題といってもよい。
GRさんのばあいも、そうで、GRさんの妻が、今の悲しみから立ちなおり、自分自身のカルト性
に気づくまでに、長い時間がかかる。決して、あせってはいけない。
【GRさんへ……】
夫婦の間には、いろいろな問題が起きます。
私の印象では、GRさんが現在かかえている問題は、それほど、大きな問題ではないと思いま
す。
こういう問題で、重要なことは、あなた自身の心だけは、決して、偽ってはいけないということで
す。飾ったり、ごまかしたりしてはいけません。すべてをさらけ出します。
あなたの本心は、どこにありますか?
あなたは妻を愛していますか? もしそうなら、まだまにあいますから、「好きだ」「別れたくな
い」と言えばよいのです。
へんな意地は張らないこと。私たち夫婦も、何度か、離婚の危機に立たされたことがあります。
夫婦というのは、そういうものです。
そういう危機を乗り越えていくのも、結婚生活ではないかと思うのです。
親・絶対教は、たしかにカルトです。が、夫婦を別れさせるほどの力はありません。現に私の友
人の中には、夫は、熱心なクリスチャン、妻は、無関心。反対に夫は、無関心、妻は、土日は 毎日、布教活動という夫婦がいます。
しかし、みんな、それなりにうまくやっています。
ですから、妻が親を絶対と思っているならいるで、「そういう考え方もある」と理解した上で、あ
なたはあなたで、それを超えた考え方や思想をもつしかありません。「ぼくも、お前の母さんを、 大切にするよ」「努力するよ」「安心してよ」とです。
幸いにも、私のマガジンを購読してくださっているということですので、この問題については、こ
れからもテーマとして、みんなで考えていきたいと思っています。
で、もう一度、繰りかえしますが、あなたは今、あなたの妻を愛していますか。もしそうなら、プラ
イドを捨て、「好きだ!」「別れたくない!」と、すなおな気持で、大声で叫んでみてください。
そういう前提に立つなら、今の問題は、小さな問題となりますよ。そしてそれでも、万が一、本
当に離婚ということになっても、あなたは後悔しないはずです。すがすがしい気持で、離婚でき ますよ。
一度、あなた自身はどうなのか、冷静に、静かに、判断してみてください。あとは、それをすな
おにさらけ出し、相手の判断を待てばよいのです。
++++++++++++++++++++++
こうした問題は、いかにして未練を完全燃焼させるかということに行きつきます。別れるにし
ても、妻への未練を、完全に燃焼させておくということです。
そのためにも、心を偽らないということです。あるがままの自分を、静かにみつめ、あとはそ
れに従って行動するということです。
それには、あとで後悔しないためという意味も含まれます。あとで後悔するようなら、別れなけ
ればよいのです。
とことん「好きだ」と言い、とことん「別れたくない」と言う。それでも相手が去っていくなら、あきら
めもつきます。ここでいうように、すがすがしい気持で、新しい人生を歩むことができます。
幸いにも(?)、子どもがまだいないということですので、今のあなたは、自分の心だけを見つ
めて、行動できます。子どもがいたら、そうはいかないと思います。
今日はたまたま休みで、家にいました。一日中、扇風機にあたって、昼寝をしていたという感じ
です。
どうか、お体を大切に。今日は、これで失礼します。
マガジンのご購読、感謝しています。 はやし浩司
●反動形成
長い間、自分を偽っていると、いつしか、自然な形で(?)、まったく正反対の自分を演ずるよう
になることがある。これを「反動形成」という。
よく知られた例としては、長男や長女が、下の子思いの、やさしいできのよい兄や姉を演ずる
のがある。
長男や長女は、そうすることによって、自分の立場を、とりつくろおうとする。心の内では、親の
愛情を半分取られたことによって、下の弟や妹に、はげしい憎悪の念をもっている。しかしそれ を外に出せば、自分の立場がなくなる。
「あなたはいいお兄ちゃんね」「やさしいお姉さんね」と言われているうちに、それにふさわしい
自分を演ずるようになる。
同じような例としては、教職者や聖職者が、おかしな聖職者意識をもつことがある。ことさら、セ
ックスの話を嫌ってみせたりする。聖人ぶったりする。
しかし仮面は、仮面。演技は、演技。反動形成を長くつづけていると、人格そのものがバラバラ
になってしまう。当然である。
が、この反動形成が、親に現れることもある。
Sさん(40歳)は、近所では、やさしく、おだやかな母親として、通っていた。だれに会っても、柔
和な笑みを絶やさなかった。
が、その裏で、Sさんは、中学生になったばかりの長男を、虐待していた。どんな虐待をしてい
たかは、私には知る由もなかったが、そのため長男は、毎月のように胃潰瘍(かいよう)で病院 へ通っていた。
しかしSさんが、そうした母親を演ずるようになったのは、もっとずっと前からだった。Sさんが、
今の夫と結婚してからだと言う人もいる。もともと不本意な結婚だったらしい。Sさんは、よい妻 を演じ、よい嫁を演じ、その延長線上で、よい母親を演じていた。
が、さらにそのルーツはといえば、ひょっとしたら、Sさんが生まれ育った、家庭環境にあったか
もしれない。
Sさんは、3人兄弟の長女として生まれた。そしてSさんが、2歳のとき、妹の二女が生まれ、さ
らにその3年後に、弟の長男が生まれた。
そういうところから生ずる、愛情飢餓感が、欲求不満になり、やがてSさんに反動形成が生ま
れるようになった。Sさんは、その時点でも、よい姉という評判で通っていた。
このように一度、反動形成を経験すると、その人は、あらゆる場面で、その反動形成を、繰り
かえすようになる。
こうした例は、ほかにもある。
これは私の例だが、私は一度、飛行機事故を経験している。そのときは、飛行機恐怖症で終
わったが、それがいつしか、スピード恐怖症になったり、高所恐怖症になったりした。頭の中 に、一定の思考回路ができるためと考えてよい。
その回路の中に、そのときどきにおいて、いろいろなものが、入ってくる。
そういう意味でも、心を偽るということは、こわいことである。こんな例もある。
B子さん(5歳)は、ふだんは、弟のめんどうをよく見、よい姉ということになっていた。しかしある
日のこと。母親が、弟を叱って、お尻をたたいたときのこと。そのB子さんが、手をたたいて、そ れを喜んでいたという。
母親は、B子さんの、心のゆがんだ部分を見せつけられたような思いで、ぞっとしたという。
そこであなたの子どもは、だいじょうぶか?
あなたの前で、ありのままを、そのまま表現しているか。
そういうことを、自然な形でできる子どもを、すなおな子どもという。一度、そんな目で、あなた
の子どもを観察してみるとよい。
【追記】
よく学校の教師が、ハレンチ事件を起こしたりする。つい先日も愛知県の教師が、同僚の女
性教師の部屋を天井裏からのぞいて、逮捕されるという事件が起きた。
分別もある、49歳のベテラン男性教師である。
こういう事件が起きると、決まって周囲の人たちは、「教育熱心で、まじめな先生でした」と言
う。
そう言わざる面もあるのかとは思うが、実際、そうだったのかもしれない。よい教師を演ず
る、その裏で、その教師は、自分の中のもう一人の自分を偽っていたのかもしれない。
そこで改めて、本当の自分とは何か、それを考えてみる。
大切なことは、日ごろから、本当の自分をさらけ出すことではないか。教師というのは、どうし
ても、自分をつくってしまう。飾ってしまう。
「教師」と言うだけで、人生の先輩、人格者と思われがちだが、むしろ、実態は、その逆では
ないのか。(だからといって、私は教師という職業を軽蔑しているのではない。私自身も、含め て、そうだと思うから、そう書く。)
人格者になるためには、それなりの苦労をしなければならない。幾多の苦労を経験して、は
じめて、人格者になることができる。教師には、教師なりのいろいろな苦労はあるだろう。しか し全体としてみると、今の教師たちが、ほかの民間企業に出たサラリ−マンより、苦労をしてい るかといえば、それは疑わしい。
そういう教師が、教壇に立ったとたん、聖職者と祭りあげられてしまう。つまりこの段階で、す
でに反動形成をつくりあげる要因が、完成していることになる。
親に向って、「バカヤロー!」と言いたくなるときも、あるだろう。「家庭教育の失敗を、押しつ
けやがって!」と、叫びたくなるときも、あるだろう。
しかしそういうときでも、にこやかな笑みを浮かべ、人格者ぽく振るまわねばならない。そうい
うところから、別の人間を演ずるようになってしまう。
しかしそれにしても、教師によるハレンチ事件が、多すぎる? その理由の一つが、ここでい
う反動形成によるものではないかと思う。
●スキンシップ
+++++++++++++++++
とんでもない育児論が、
堂々とまかり通っている!
赤ちゃんを抱くと、抱き癖がつくから、
抱いてはダメだ、と!
さらに「抱き癖がつくと、子どもに
依存性がつく」と教える育児書もある。
「抱き癖」と「依存性」は、まったく
別のもの。
そんな区別もつかない人が、
空想だけでモノを書いている?
????
+++++++++++++++++
母子間のスキンシップが、いかに重要なものであるかは、今さら、言うまでもない。このスキン
シップが、子どもの豊かな心を育てる基礎になる。
が、中に、「抱き癖がつくから、ダメ」「依存性がつくから、ダメ」というような、「?」な理由によ
り、子どもを抱かない親がいる。とんでもない誤解である。
スキンシップには、未解明の不思議な力がある。魔法のパワーと言ってもよい。「未解明」と
いうのは、経験的にはわかっているが、科学的には、まだ証明されていないという意味である。 そのことは、反対に、そのスキンシップが不足している子どもを見れば、わかる。
もう20年ほど前になるだろうか。大阪に住む小児科医の柳沢医師が、「サイレント・ベイビ
ー」という言葉を使った。
(1)笑わない、(2)泣かない、(3)目を合わせない、(4)赤ちゃんらしさがない子どものこと
を、サイレント・ベイビーという(「心理学用語辞典」かんき出版)。
幼児教育の世界にも、表情のない子どもが、目立ち始めている。喜怒哀楽という「情」の表現
ができない子どもである。特徴としては、顔に膜がかかったようになる。中には能面のように無 表情な子どもさえいる。
軽重もあるが、私の印象では、約20%前後の子どもが、そうではないか。
印象に残っている女児に、Sさん(年長児)がいた。Sさんは、いつも、ここでいう能面のように
無表情な子どもだった。うれしいときも、悲しいときも、表情は、そのまま。そのままというより、 こわばったまま。涙がスーッと流れているのを見てはじめて、私はSさんが、泣いていることが わかったこともある。
Sさんの両親に会って話を聞くと、こう教えてくれた。
「うちは、水商売(市内でバーを経営)でしょ。だから、生まれたときからすぐ、保育園へ預け
ました。夜も相手をしてやることができませんでした」と。
わかりやすく言えば、スキンシップらしいスキンシップなしで、Sさんは、育てられたということ
になる。
子ども、とくに乳児は、泣くことによって、自分の意思を表現する。その泣くことすらしないとし
たら、乳児は、どうやって、自分の意思を表現することができるというのか。それだけではな い。
母子間の濃密なスキンシップが、乳児の免疫機能を高めることも、最近の研究でわかってき
た。これを「免疫応答」というが、それによって、乳児の血中の、TおよびBリンパ球、大食細胞 を活性化させるという。
さらに乳児のみならず、母親にも大きな影響を与えることがわかってきた。たとえば乳児が、母
親に甘えたり、泣いたりすることによって、母親の乳を出すホルモン(プロラクチンなど)が刺激 され、より乳が出るようになるという。
こうした一連の相互作用を、「母子相互作用(Maternal infant bond)」という。
まだ、ある。
私も経験しているが、子どもを抱いているとき、しばらくすると、子どもの呼吸と心拍数が、自
分のそれと同調(シンクロナイズ)することがある。呼吸のほうは無意識に親のほうが、子ども に合わせているのかもしれないが、心拍数となると、そうはいかない。何か別の作用が働いて いると考えるのが、妥当である。
が、そこまで極端ではなくても、母子の間では、体や心の動きが、同調するという現象が、よく
見られる。母子が、同じように体を動かしたり、同じように思ったりする。たとえば母親が体を丸 めて、右を向いて眠っていたりすると、乳児のほうも、体を丸めて、右を向いて眠っていたりす る。こうした現象を、「体動同期現象」という言葉を使って説明する学者もいる。
こうした人間が、生物としてもっている性質というのは、あるべき関係の中で、あるべきように
育てたとき、子どもの中から、引き出される。たとえば赤ちゃんが泣いたとする。するとそのと き、そのかわいさに心を動かされ、母親は、赤ちゃんを抱いたりする。それがスキンシップであ る。
もちろん抱き癖の問題もある。しかしそういうときは、こう覚えておくとよい。『求めてきたとき
が、与えどき』『求めてきたら、すかさず応ずる』と。親のほうからベタベタとするのはよくないが (※)、しかし子どものほうから求めてきたら、すかさず、それに応じてやる。間を置かない。そ してぐいと力を入れて抱く。
しばらくすると、子どものほうから体を離すしぐさを見せる。そうしたら、水の中に小魚を放す
要領で、そっと体を離す。
なお母乳を与えるという行為は、そのスキンシップの第一と考えてよい。いろいろと事情があ
る母親もいるだろうが、できるだけ母乳で、子どもは育てる。それが子どもの豊かな心をはぐく む。
(はやし浩司 抱き癖 抱きグセ サイレント・ベイビー 子どもの表情 無表情な子供 母子相
互作用 免疫応答 プロラクチン はやし浩司 体動同調 子供の抱き方 スキンシップ)
【補記※】
母親のほうが、自分の情緒不安を解消する手だてとして、子どもにベタベタするケースもあ
る。でき愛ママと言われる母親が、よく、そうする。そういうのは、ここでいうスキンシップとは、 分けて考える。
【生の源泉論】
【生の源泉】
●生(なま)のエネルギー(Raw Energy from Hypothalamus)
In the middle of the brain, there is hypothalamus, which is estimated as the center of the
brain. This part of the brain shows the directions of other parts of the brain. But it is not all. I understand the hypothalamus is the source of life itself.
++++++++++++++++++++
おおざっぱに言えば、こうだ。
(あるいは、はやし浩司の仮説とでも、思ってもらえばよい。)
脳の奥深くに視床下部というところがある。
視床下部は、いわば脳全体の指令センターと考えるとわかりやすい。
会社にたとえるなら、取締役会のようなもの。
そこで会社の方針や、営業の方向が決定される。
たとえば最近の研究によれば、視床下部の中の弓状核(ARC)が、人間の食欲を
コントロールしていることがわかってきた(ハーバード大学・J・S・フライヤーほか)。
満腹中枢も摂食中枢も、この部分にあるという。
たとえば脳梗塞か何かで、この部分が損傷を受けると、損傷を受けた位置によって、
太ったり、やせたりするという(同)。
ほかにも視床下部は、生存に不可欠な行動、つまり成長や繁殖に関する行動を、
コントロールしていることがわかっている。
が、それだけではない。
コントロールしているというよりは、常に強力なシグナルを、
脳の各部に発しているのではないかと、私は考えている。
「生きろ!」「生きろ!」と。
これを「生(なま)のエネルギー」とする。
つまり、この生のエネルギーが(欲望の根源)ということになる。(仮説1)
フロイトが説いた(イド)、つまり「性的エネルギー」、さらには、ユングが説いた、
「生的エネルギー」は、この視床下部から生まれる。(仮説2)
こうした欲望は、人間が生存していく上で、欠かせない。
言いかえると、こうした強力な欲望があるからこそ、人間は、生きていくことができる。
繁殖を繰りかえすことが、できる。
そうでなければ、人間は、(もちろんほかのあらゆる動物は)、絶滅していたことになる。
こうしたエネルギー(仏教的に言えば、「煩悩」)を、悪と決めてかかってはいけない。
しかしそのままでは、人間は、まさに野獣そのもの。
一次的には、辺縁系でフィルターにかけられる。
二次的には、大脳の前頭前野でこうした欲望は、コントロールされる。(仮説3)
性欲を例にあげて考えてみよう。
女性の美しい裸体を見たとき、男性の視床下部は、猛烈なシグナルを外に向かって、
発する。
脳全体が、いわば、興奮状態になる。
(実際には、脳の中にある「線状体」という領域で、ドーパミンがふえることが、
確認されている。)
その信号を真っ先に受けとめるのが、辺縁系の中にある、「帯状回」と呼ばれている
組織である。
もろもろの「やる気」は、そこから生まれる。
もし、何らかの事故で、この帯状回が損傷を受けたりすると、やる気そのものを喪失する。
たとえばアルツハイマー病の患者は、この部分の血流が著しく低下することが、
わかっている。
で、その(やる気)が、その男性を動かす。
もう少し正確に言えば、視床下部から送られてきた信号の中身を、フィルターにかける。
そしてその中から、目的にかなったものを選び、つぎの(やる気)へとつなげていく。
「セックスしたい」と。
それ以前に、条件づけされていれば、こうした反応は、即座に起こる。
性欲のほか、食欲などの快楽刺激については、とくにそうである。
パブロフの条件反射論を例にあげるまでもない。
しかしそれに「待った!」をかけるのが、大脳の前頭前野。
前頭前野は、人間の理性のコントロール・センターということになる。
会社にたとえるなら、取締役会の決定を監視する、監査役ということになる。
「相手の了解もなしに、女性に抱きついては、いけない」
「こんなところで、セックスをしてはいけない」と。
しかし前頭前野のコントロールする力は、それほど強くない。
(これも取締役会と監査役の関係に似ている?
いくら監査役ががんばっても、取締役会のほうで何か決まれば、
それに従うしかない。)
(理性)と(欲望)が、対立したときには、たいてい理性のほうが、負ける。
依存性ができているばあいには、なおさらである。
タバコ依存症、アルコール依存症などが、そうである。
タバコ依存症の人は、タバコの臭いをかいただけで、即座に、自分も吸いたくなる。
つまり、ここに人間の(弱さ)の原点がある。
(悪)の原点といってもよい。
さらに皮肉なことに、視床下部からの強力な信号は、言うなれば「生(なま)の信号」。
その生の信号は、さまざまな姿に形を変える。(仮説4)
(生きる力)の強い人は、それだけまた、(欲望)の力も強い。
昔から『英雄、色を好む』というが、英雄になるような、生命力の強い人は、
それだけ性欲も強いということになる。
地位や名誉もあり、人の上に立つような政治家が、ワイロに手を染めるのも、
その一例かもしれない。
つまり相対的に理性によるコントロールの力が弱くなる分だけ、欲望に負けやすく、
悪の道に走りやすいということになる。
もちろん(欲望)イコール、(性欲)ではない。
(あのフロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使って、性欲を、心理学の中心に
置いたが……。)
ここにも書いたように、生の信号は、さまざまな姿に変える。
その過程で、さまざまなバリエーションをともなって、その人を動かす。
スポーツ選手がスポーツでがんばるのも、また研究者が、研究で
がんばるのも、そのバリエーションのひとつということになる。
さらに言えば、女性が化粧をしたり、身なりを気にしたり、美しい服を着たがるのも、
そのバリエーションのひとつということになる。
ほかにも清涼飲料会社のC社が、それまでのズン胴の形をした瓶から、
なまめかしい女性の形をした瓶に、形を変えただけで、
現在のC社のような大会社になったという話は、よく知られている。
あるいは映画にしても、ビデオにしても、現在のインターネットにしても、
それらが急速に普及した背景に、性的エネルギーがあったという説もある。
話がこみ入ってきたので、ここで私の仮説を、チャート化してみる。
(視床下部から発せられる、強力な生のシグナル)
↓
(一次的に辺縁系各部で、フィルターにかけられる)
↓
(二次的に大脳の前頭前野で、コントロールされる)
こう考えていくと、人間の行動の原理がどういうものであるか、それがよくわかる。
わかるだけではなく、ではどうすれば人間の行動をコントロールすることができるか、
それもよくわかる。
が、ここで、「それがわかったから、どうなの?」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分の心というのは、わかっているのと、わからないのでは、対処のし方が、
まるでちがう。
たとえば食欲を例にあげて、考えてみよう。
たとえば血中の血糖値がさがったとする。
(実際には、食物の分解物であるグルコースや、インスリンなどの消化器系ホルモン
などが、食欲中枢を刺激する。)
すると視床下部は、それを敏感に関知して、「ものを食べろ!」というシグナルを
発する。
食欲は、人間の生存そのものに関する欲望であるだけに、そのシグナルも強力である。
そのシグナルに応じて、脳全体が、さまざまな生理反応を起こす。
「今、運動をすると、エネルギー消費がはげしくなる。だから動くな」
「脂肪内のたくわえられたエネルギーを放出しろ」
「性欲など、当座の生命活動に必要ないものは、抑制しろ」と。
しかしレストラン街までの距離は、かなりある。
遠くても、そこへ行くしかない。
あなたは辺縁系の中にある帯状回の命ずるまま、前に向かって歩き出した。
そしてレストラン街まで、やってきた。
そこには何軒かの店があった。
1軒は、値段は安いが、衛生状態があまりよくなさそうな店。それに、まずそう?
もう1軒は。値段が高く、自分が食べたいものを並べている。
ここであなたは前頭前野を使って、あれこれ考える。
「安い店で、とにかく腹をいっぱいにしようか」
「それとも、お金を出して、おいしいものを食べようか」と。
つまりそのつど、「これは視床下部からの命令だ」「帯状回の命令だ」、さらには、
「今、前頭前野が、あれこれ判断をくだそうとしている」と、知ることができる。
それがわかれば、わかった分だけ、自分をコントロールしやすくなる。
もちろん性欲についても同じ。
……こうして、あなたは(私も)、自分の中にあって、自分でないものを、
適確により分けることができる、イコール、より自分が何であるかを知ることが、
できる。
まずいのは、視床下部の命ずるまま、それに振り回されること。
手鏡を使って、女性のスカートの下をのぞいてみたり、トイレにビデオカメラを
設置してみたりする。
当の本人は、「自分の意思で、したい」と思って、それをしているつもりなのかも
しれないが、実際には、自分であって、自分でないものに、振り回されているだけ。
それがわかれば、そういう自分を、理性の力で、よりコントロールしやすくなる。
以上、ここに書いたことは、あくまでも私のおおざっぱな仮説によるものである。
しかし自分をよりよく知るためには、たいへん役に立つと思う。
一度、この仮説を利用して、自分の心の中をのぞいてみてはどうだろうか?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 視床下部 辺縁系 やる気)
Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司
●仮説(Hypothesis)
In the middle of the brain, there may be a center which gives orders to the whole brains.
The limbic system filters these orders to the one, which may be understood by other brains. Then brains give orders to each part of the body. The orders are controlled by the frontal part of the brain. This is my hypothesis. …sorry about my improper use of words )
+++++++++++++++++
電車の中。
春うららかな、白い光。
その白い光の中で、1人の若い女性が
化粧を始めた。
小さな鏡をのぞきこみ、
口紅を塗っていた。
私はその光景を見ながら、
ふと、こう思った。
「彼女は、自分の意思で化粧をしているのか?」と。
私がその女性にそう聞けば、100%、その女性は、
こう答えるにちがいない。
「もちろん、そうです。私の意思で、化粧をしています」と。
しかしほんとうに、そうか?
そう言い切ってよいのか?
ひょっとしたら、その女性は、
「私でない、私」によって、操られているだけ。
+++++++++++++++
昨日、新しい仮説を組み立てた。
人間の生命と行動に関する仮説ということになる。
それについては、昨日、書いた。
仮説(1)
人間の脳みその奥深くに、(生命力)の中枢となるような部分がある。
最近の研究によれば、視床下部あたりにそれがあるらしいということが、わかってきた。
視床下部というは、脳みその、ちょうど中心部にある。
仮説(2)
その(生命力の根源)となるような部分から、脳みそ全体に、常に、
強力なシグナルが発せられている。
「生きろ!」「生きろ!」と。
生命維持に欠かせない、たとえば食欲、生存欲、性欲、支配欲、闘争欲などが、
そのシグナルに含まれる。
これらのシグナルは、きわめて漠然としたもので、私は、「生(なま)の
エネルギー」と呼んでいる。
仮説(3)
この生のエネルギーは、一次的には、辺縁系という組織で、フィルターに
かけられる。
つまり漠然としたエネルギーが、ある程度、形をともなったシグナルへと
変換される。
やる気を司る帯状回、善悪の判断を司る扁桃核、記憶を司る海馬などが、
辺縁系を構成する。
つまりこの辺縁系で一度フィルターにかけられた生のエネルギーは、志向性を
もったエネルギーへと、変換される。
このエネルギーを、私は、「志向性エネルギー」と呼んでいる。
仮説(4)
この志向性エネルギーは、大脳へと送信され、そこで人間の思考や行動を決定する。
ただそのままでは、人間は野獣的な行動を繰りかえすことになる。
そこで大脳の前頭前野が、志向性エネルギーをコントロールする。
この前頭前野は、人間の脳のばあい、全体の28%も占めるほど、大きな
ものである。
以上が、私の仮説である。
具体的に考えてみよう。
たとえばしばらく食べ物を口にしていないでいたとする。
が、そのままでは、エネルギー不足になってしまう。
自動車にたとえるなら、ガス欠状態になってしまう。
具体的には、血中の血糖値がさがる。
それを視床下部のセンサーが感知する。
「このままでは、ガス欠になってしまうぞ」
「死んでしまうぞ」と。
そこで視床下部は、さまざまな、生のシグナルを中心部から外に向かって発する。
そのシグナルを、一次的には、視床下部を包む辺縁系が、整理する。
(これはあくまでも、仮説。こうした機能を受けもつ器官は、ほかに
あるかもしれない。)
「食事行動を取れ」
「運動量を減らせ」
「脂肪細胞内の脂肪を放出せよ」と。
その命令に従って、脳みそは、具体的に何をするかを決定する。
その判断を具体的にするのが、前頭前野ということになる。
前頭前野は、脳みそからの命令を、分析、判断する。
「店から盗んで食べろ」「いや、それをしてはいけない」
「あのリンゴを食べろ」「いや、あのリンゴは腐っている」
「近くのレストランへ行こう」「それがいい」と。
そしてその分析と判断に応じて、人間は、つぎの行動を決める。
これは食欲についての仮説だが、性欲、さらには生存欲、支配欲、所有欲
についても、同じように考えることができる。
こうした仮説を立てるメリットは、いくつか、ある。
その(1)……「私」の中から、「私であって私である部分」と、
「私であって私でない部分」を、分けて考えることができるようになる。
たとえば性欲で考えてみよう。
男性のばあい、(女性も同じだろうと思うが)、射精(オルガスムス)の
前とあととでは、異性観が、まったくちがう。
180度変わることも珍しくない。
たとえば射精する前に、男性には、女性の肉体は、狂おしいほどまでに魅力的に見える。
女性の性器にしても、一晩中でもなめていたいような衝動にかられることもある。
しかしひとたび射精してしまうと、そこにあるのは、ただの肉体。
女性器を目の前にして、「どうしてこんなものを、なめたかったのだろう」とさえ思う。
つまり射精前、男性は、性欲というエネルギーに支配されるまま、「私で
あって私でない」部分に、操られていたことになる。
では、どこからどこまでが「私」であり、どこから先が、「私であって
私でない」部分かということになる。
私の仮説を応用することによって、それを区別し、知ることができるようになる。
こうして(2)「私であって私である」部分と、「私であって私でない」部分を
分けることによって、つぎに、「私」の追求が、より楽になる。
さらに踏み込んで考えてみよう。
たとえばここに1人の女性がいる。
朝、起きると、シャワーを浴びたあと、毎日1〜2時間ほどもかけて化粧をする。
その化粧が終わると、洋服ダンスから、何枚かの衣服を取りだし、そのときの自分に
合ったものを選ぶ。
装飾品を身につけ、香水を吹きかける……。
こうした一連の行為は、実のところ「私であって私でない」部分が、
その女性をウラから操っているために、なされるものと考えられる。
もちろんその女性には、その意識はない。化粧をしながらも、「化粧を
するのは、私の意思によるもの」と思っている。
いわんや本能によって操られているなどとは、けっして、思っていない。
しかしやはり、その女性は、女性内部の、「私であって私でない」部分に操られている。
それを意識することはないかもしれないが、操られるまま、化粧をしている。
++++++++++++++++++
こう考えていくと、「私」の中に、「私であって私」という部分は、
きわめて少ないということがわかってくる。
たいはんは、「私であって私でない」部分ということになる。
あえて言うなら、若い女性が口紅を塗りながら、「春らしいピンク色にしようか、
それとも若々しい赤色にしようか?」と悩む部分に、かろうじて「私」があることに
なる。
しかしその程度のことを、「私」とはたして言ってよいのだろうか?
「ピンク色にしようか、赤色にしようか」と悩む部分だけが、「私」というのも、
少しさみしい気がする。
さらにたとえばこの私を見てみたばあい、私という人間は、こうして
懸命にものを考え、文章を書いている。
この「私」とて、生存欲に支配されて、ものを書いているだけなのかもしれない。
つまり、私の脳みその中心部から発せられる、生のエネルギーに操られているだけ?
……と考えていくと、「私」というものが、ますますわからなくなってくる。
しかしこれが、「私」を知るための第一歩。
私はやっと、その(ふもと)にたどりついたような気がする。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私論 私で会って私でない部分 視床下部 大脳前頭前野)
Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司※
【私とは?】(What is "Me"?)
At last I have come to an conclusion or I just feel it that I have come. Here is what I have
found in these ten years.
●いよいよ核心?
++++++++++++++++++
「私」の中には、(私であって、私でない部分)と、
(私であって、私である部分)がある。
大半の「私」は、(私であって、私でない部分)と
考えてよい。
食事をするのも、眠るのも、仕事をするのも、
また恋をして、結婚して、子どもをもうけるのも、
結局は、視床下部の奥深くから発せられる、強力な
シグナルによって、そう操作されているだけ。
それを「本能」と呼ぶなら、本能という名称でも、
構わない。
では、(私であって、私である部分)は、どこに
あるのか。
実は、こうしたシグナルに逆らうところに、
「私」がある。
こんな例で考えてみよう。
毎年、その時期になると、私の家の庭には、2羽の
ドバトがやってくる。
巣をつくり、雛(ひな)をかえす。
そのときのこと。
ドバトは、たいてい2羽の雛をかえす。
が、そのうち雛が大きくなると、
より強い雛が、より弱い雛を、巣から押し出して、
下へ落としてしまう。
つまり1羽だけが、生き残る。
(たまに2羽とも生き残ることがあるが……。)
雛は、雛なりに、生存をかけて、もう一羽の
雛を、巣から落とす。
が、それはその雛自身の意思というよりは、
雛自身の、生まれもった、本能によるものと
考えるのが正しい。
もしその雛が、人間と会話ができるなら、
きっとこんなふうに言うにちがいない。
私「君は、どうして、もう一羽の雛を、巣から
落としたのだ?」
雛「親が、エサをじゅうぶんにくれないからだ」
私「君の意思で、そうしたのか?」
雛「もちろん。やむをえず、私は、そうした」と。
が、雛は、自分の意思で、そうしたのではない。
もう少し正確には、これはあくまでも私の
仮説だが、こうなる。
「生きたい」という強力なシグナルが、雛の
視床下部から発せられる。
そのシグナルは、雛の辺縁系と呼ばれる部分で、
「形」のあるシグナルに変換される。
このばあい、「嫉妬」という感情に変換される。
つまりそこで2羽の雛は、たがいに嫉妬し、
巣の中で、闘争を開始する。
「出て行け!」「お前こそ、出て行け!」と。
結果的に、より力の強い雛が、弱い雛を、巣から
追い出して、落とす。
落とされた雛は、野犬などに襲われて、そのまま死ぬ。
わかりやすく言えば、雛は、こうした一連の行為を
しながら、(私であって、私でない部分)に操られた
だけということになる。
では、その雛が、(私であって私である部分)をつかむ
ためには、どうすればよいのか。
ここから先は、人間を例にあげて考えてみよう。
2人の人がいる。
砂漠かどこか、それに近いところを歩いていた。
2人も、もう数日間、何も食べていない。
空腹である。
で、2人が歩いていると、目の前に、パンが一個、
落ちていた。
1人分の空腹感を満たすにも足りない量である。
もしそのとき、2人が、一個のパンを取りあって、
喧嘩を始めれば、それはドバトの雛のした行為と
同じということになる。
基本的には、視床下部から発せられたシグナルに
操られただけ、ということになる。
が、2人の人は、こう話しあった。
「仲よく、分けて食べよう」
「いや、ぼくはいいから、君のほうが、食べろよ」
「そんなわけにはいかない。君のほうが、体も細いし、
元気がない……」と。
もう、おわかりのことと思う。
(私であって、私である部分)というのは、
(私であって、私でない部分)を、否定した
部分にあるということ。
もっとわかりやすく言えば、先に書いた、「本能」を
否定したところに、「私」がある。
さらに言えば、一度(私であって、私でない部分)から、
抜けでたところに、「私」がある。
その究極的なものは何かと問われれば、それが「愛」
であり、「慈悲」ということになる!
「愛」の深さは、「どこまで、相手を許し、忘れるか」、その
度量の深さで、決まる。
「慈悲」については、英語で、「as you like」と訳した
人がいる。
けだし名訳! 「あなたのいいように」という意味である。
つまり「慈悲」の深さは、どこまで相手の立場で、「相手に
いいようにしてやる」か、その度量の深さで、決まる。
たとえば殺したいほど、憎い相手が、そこにいる。
しかしそこで相手を殺してしまえば、あなたは、
視床下部から発せられるシグナルに操られただけ、
ということになる。
が、そこであなたは、あなた自身の(私であって、
私でない部分)と闘う。闘って、その相手を、
許して忘れたとする。
相手の安穏を第一に考えて、行動したとする。
つまりその相手を、愛や慈悲で包んだとする。
そのときあなたは、(私であって、私である部分)を、
手にしたことになる!
「私」とは何か?
つまるところ、(私であって、私でない部分)を否定し、
その反対のことをするのが、「私」ということになる。
もちろん、人間は生きていかねばならない。
視床下部から発せられるシグナルを、すべて否定したのでは
生きていかれない。
しかし、そのシグナルの奴隷になってはいけない。
シグナルの命ずるまま、行動してはいけない。
闘って、闘って、闘いぬく。
その闘うところに、「私」がある。
そのあとに残るのが、「私」ということになる。
繰りかえすが、その究極的なものが、「愛」であり、
「慈悲」ということになる!
さらに言えば、「私」とは、「愛」であり、「慈悲」
ということになる。
言いかえると、「愛」や「慈悲」の中に、(私であって、
私である部分)が存在する、ということになる!
+++++++++++++++++
【補記】
ここに書いたのは、私の仮説に基づいた、ひとつの意見のすぎない。
しかし、おぼろげならも、やっと私は、「私」にたどりついた。
「私」とは何か、その糸口をつかんだ。
長い道のりだった。
遠い道のりだった。
書いた原稿は、数万枚!
ここまでたどりつくために、ほぼ10年の月日を費やした。
(10年だぞ!)
先ほど、ドライブをしながら、ワイフにこの仮説について説明した。
ワイフは、そのつど、私の仮説に同意してくれた。
で、それを説明し終えたとき、私の口から、長い、ため息が出た。
ホ〜〜〜〜〜ッ、と。
うれしかった。
涙がこぼれた。
この先は、私の仮説を、もう少し、心理学、大脳生理学、教育論の
3つの分野から、同時に掘りさげ、補強してみたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私とは 私論 愛 慈悲 愛論 慈悲論 仮説 視床下部 辺縁系 はやし浩司の私論)
●子どもとゲーム(Children & their TV Games)
TV games apparently affect children badly. The English Government has submitted a report,
regarding TV games and its possible dangerousness to children.)
+++++++++++++++++
「ゲームは安全だ」と、がんばっている、愚か者どもよ、
少しは、世界に目を開き、世界の人の意見を聞け!
イギリス政府は、つぎのような報告書を提出した。
まず、それをそのまま紹介する。
+++++++++++++++++
【ロンドン27日・時事通信】
イギリス政府は3月27日(2008)、ビデオゲームやインターネットが、子どもに及ぼす影響に
関する報告書を公表、産業界や家庭と協力して対策に取り組む方針を明らかにした。
ゲームのパッケージに「子どもの健康を害する恐れがある」といった警告文が印刷される可能
性もありそうだ。
報告書は政府の委託を受けた臨床心理学者が作成。ゲームによって子供は暴力に対して鈍
感になるなどと結論づけた。また、英国では性と極端な暴力描写を含むゲームについてのみ、 年齢制限が設けられているが、制限の拡大を求めた。(ヤフー・ニュースより抜粋)
+++++++++++++++++
この日本でも、「ゲーム脳」という言葉を使って、
その危険性を説いた教授がいた。
が、その直後から、その教授のところには、抗議の
嵐!
どうして?
一方、「ゲーム脳というのは、ない」「安全です」と
説く教授も現れた。
こちらの教授は、ゲームの世界では、今、神様の
ような存在になっている。
どうして?
危険か、危険でないか、そんなことは、ゲームに
夢中になっている子どもを見れば、わかる。
(もちろんゲームの内容にもよるが……。)
明らかに、どこかヘン。おかしい。
様子もおかしいが、目つきもおかしい。
そうなる。
あるいはあなた自身が、あのテレビゲームを
してみればよい。
数分もしないうちに、頭の中がクラクラしてくるはず。
「殺せ!」「やっつけろ!」と騒ぐ子どもは、まだよいほう。
ほとんどは、無表情のまま。
無表情のまま、うつろな目つきで、指先だけを動かしている。
隣の韓国では、その中毒性が問題になり、各学校に、
カウンセラーまで配置される状況になっている。
(知っているか?)
が、この日本では、野放し! まったくの野放し!
私が書いた「ポケモン・カルト」(三一書房)にしても、
書いてから9年にもなるのに、いまだに、抗議の書き込みが
あとを絶たない。
どうして?
いったい、この日本は、どうなっているのだ!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ゲーム脳 子どもとゲーム 子 供とゲーム ゲームの危険性 テレビゲーム)
【愛国心】
【君主官僚主義国家(Royal Bureaucratic Country)】
Japan has been originally a royal bureaucratic country since the Nara Period and still now it
is. From now on children at schools would be forced to sing an anthem to worship the Emperor's Family.
●愛国心?
++++++++++++++++++
中央教育審議会のある委員は、こう
言った。
「今までの議論は、何だったんだ。
非常に気分が悪い」(中日新聞・3月28日
朝刊)と。
最後の最後の土壇場になって、突然、
文科省は「字句修正」(?)を行った。
そしてそこに「我が国を…愛し」という文言を
挿入し、「(君が代を)歌えるよう指導する
こと」とした。
文科省は、「政治家の圧力」を臭わせて
いるが、審議会そのものがもつ性質上、
それはありえない。
自分たちのよいように審議会を誘導し、
それがうまくいかなくなると、今度は、
外部の圧力を理由にする。
いつもの常套手段である。
国際基督教大学のFH教授も、
「愛国心重視の文言を最後の修正で
加える手法はけしからん。
改正教育基本法は強行採決で成立した。
パブコメ(=パブリック・コメント)は
民意を代表していない。
こんな形で、国が心を支配する方向に踏み出すのは
まちがっている」(同)とコメントを寄せている。
まったく、……100%、同感である!
++++++++++++++++++
日本の中央教育審議会の答申は、海外ではどのように受け取られているか。
まず、韓国の朝鮮N報の記事を紹介しよう。
『日本の文部科学省は28日、義務教育の小中学校での教育内容に直接影響を与える学習指
導要領を、愛国心を強調する方向で見直し、正式に発表した。
政界の圧力を受け、新指導要領には総則に、「我が国と郷土を愛し」という文言が新たに加え
られ、音楽の教育方針には「(君が代は)いずれの学年においても歌えるよう指導する」と明記 した。
2月に発表された改訂案には、「愛国心」に関する記述はなかった。また、(君が代)をめぐって
は「指導する」としただけで、「歌えるようにする」との文言はなかった。朝日新聞は「保守系の 国会議員らから改訂案への不満が出ていたこともあり、文科省は異例の修正に踏み切った」 と伝えた。
一方、渡海紀三朗文部科学相は、27日、国公立小中学校の生徒たちの靖国神社訪問などを
禁じた1949年の政府通達について、「既に失効している」と明言した。靖国神社は太平洋戦 争の戦死者を祭る宗教施設で、日本の戦争史を正当化する戦争博物館(遊就館)が境内にあ る』(東京発、N報特派員・朝鮮N報・3月29日)と。
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もう少し修正内容を、詳しく見てみよう。
(小中学校総則)では、
【改正案】「道徳教育は…伝統と文化を継承し、発展させ、…道徳性を養うことを目標とする」。
【修正案】「道徳教育は…伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛し、
…道徳性を養うことを目標とする」。
(小・国語)では、
【改正案】「昔話や伝説などの本や文章の読み聞かせを聞いたり、発表し合ったりすること」。
【修正案】「昔話や神話・伝承などの本や文章の読み聞かせを聞いたり、発表し合ったりするこ
と」。
(小・音楽)では、
【改正案】「君が代」は、いずれの学年においても指導する。
【修正案】「君が代」は、いずれの学年においても、歌えるように指導する。
(中・社会)では、
【改正案】「日本列島における農耕の広まりと生活の変化を…理解させる」。
【修正案】「日本列島における農耕の広まりと生活の変化や当時の人々の信仰…を理解させ
る」など。(以上、中日新聞・08・3月28日より)
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これだけ並べてみてもわかるように、修正案なるものは、全体として、「天皇中心の神話国家」
を目指していることがわかる。
その意図が、見え見え。
つまり「国を愛する」という言葉を使いながら、何とかして、それを「天皇家を愛する」ことにもっ
ていこうとしている。
が、どうして(君が代)を歌うことが、愛国心につながるのか?
(君が代)を歌うから、愛国心があるということにもならないし、反対に(君が代)を歌わないか
ら、愛国心がないということにもならない。
たかが、ひとつの(歌)ではないか。
もしそれほどまでに国民の愛国心なるものを確かめたかったら、北朝鮮のように、バッジ制に
すればよい。
階級、功績、レベルに応じて、色分けするのもよい。何度も繰りかえすが、(君が代)の「君」
は、「天皇」を指す。
だったら、思い切って、改正案をこう修正すればよい。
「バッジは、いずれの学年においても、胸に着けるように指導する」と。
そのほうが、よほどわかりやすいし、いずれ、日本もそうなるだろう。
で、かつてあの小泉首相は、「君が代の(君)は、(国民)をさす」と説明したが、私はこれほどま
での珍解釈を、聞いたことがない。
そこで(君が代)を擁護する人たちは、「君が代は、日本独特の古典音階を使用している、世界
に類のない曲である」と主張する。
それは私も認める。
世界の国家を並べて聞いても、日本の(君が代)には、独自性がある。
すばらしい!
しかし私たちが問題にしているのは、(曲)ではない!
(歌詞)である!
つまり(君が代)を擁護する人たちは、こうして巧みに、(曲)と(歌詞)を混同させながら、私た
ちを煙に巻いている、などなど。
さらに憲法を改正して、天皇を現行の(象徴)から、(元首)にするという動きも、目立ってきてい
る。
それが「国としての品格である」と説く人もいる。
しかし21世紀の今、どうしてこの日本で、王政復古(Restoration)なのか?
その必要はあるのか?
どうして(象徴)であっては、いけないのか?
その前に、天皇家の人たちが、それを望んでいるのか?
その了解を取っているのか?
日本が民主主義国家だと思っているのは、悲しいかな、私たち日本人だけ。
ウソだと思うなら、外国の人たちに聞いてみることだ。
日本は、奈良時代の昔から、君主官僚主義国家(Royal Bureaucratic Country)。
今の今も、君主官僚主義国家。
あの北朝鮮だって、一応、「民主主義国家」ということになっている。
(北朝鮮の正式国名は、「朝鮮民主主義人民共和国」だぞ!)
「審議会」なるものは、彼らの行動を正当化するための、道具。方便。
だいたいどういう基準でメンバーが選ばれるか、それすら明確ではない。
たいていのばあい、YES・MANだけを集め、自分たちにとって都合のよいように、結論を出さ
せる。
これを「答申」というが、あとはその答申に基づいて、好き勝手なことをする。
そのためにも、答申の文言は、おおざっぱであればあるほど、また抽象的であればあるほど、
よい。
いかようにも解釈できる。
あとはその答申に基づいて、「控えおろう!」と。
が、今回は、そんな審議会から出された答申ですら、さらに修正した!
……というわけで、たかが【修正案】と、あなどっていてはいけない。
文科省は、こうした答申が出たことをよいことに、これから先、矢継ぎ早に、(君が代)の強制
を、全国津々浦々の学校にまでしてくるはず。
ついでに靖国神社参拝を、修学旅行の日程に入れるよう強要してくるはず。
各学校では、「天照大神」の神話が、堂々と語られるようになるはず。
徐々に徐々に、少しずつ、しかし長い時間をかけて、日本という国は、そういう方向に導かれて
いく。
もちろんその目的は、ただひとつ
天皇を頂点にいだく、官僚主義国家の完成!
もう一度、国際基督教大学のFH教授の言葉を、かみしめてみよう。
「こんな形で、国が心を支配する方向に踏み出すのは、まちがっている」と。
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●日本の神話
(修正案)の中に出てくる「神話」とは何か。
ウィキペディア百科事典から、そのまま抜粋、引用させてもらう。
+++++++(以下、ウィキペディア百科事典より)++++++++++
『古事記』においては、イザナキがイザナミの居る黄泉の国から生還し、黄泉の穢れを洗い流
した際に、左目を洗ったときに化生したとしている。このとき右目から生まれたツクヨミ、鼻から 生まれたスサノオと共に、三貴子と呼ばれる。このときイザナキは天照大御神に高天原を治め るように指示した。
海原を委任されたスサノオは、イザナミのいる根の国に行きたいと言って泣き続けたため、イ
ザナキによって追放された。スサノオは根の国へ行く前に姉の天照大御神に会おうと高天原に 上ったが、天照大御神は弟が高天原を奪いに来たものと思い、武装して待ち受けた。スサノオ の潔白を証明するために誓約をし、天照大御神の物実から五柱の男神、スサノオの物実から 三柱の女神が生まれ、スサノオは勝利を宣言する。
天照大神の物実から生まれ、天照大御神の子とされたのは、以下の五柱の神である。
アメノオシホミミ
アメノホヒ
アマツヒコネ
イクツヒコネ
クマノクスビ
これで気を良くしたスサノオは高天原で乱暴を働き、その結果天照大御神は天岩戸に隠れて
しまった。世の中は闇になり、様々な禍が発生した。(知恵の神様の秩父の神様天の八意思 金命(やごころおもいかねのみこと)と天の児屋根命など八百万の神々は天照大御神を岩戸 から出す事に成功し、スサノオは高天原から追放された。
葦原中国に子のアメノオシホミミを降臨させることにし、天つ神を派遣した。葦原中国が平定さ
れ、いよいよアメノオシホミミが降臨することになったが、その間にニニギが生まれたので、孫 に当たるニニギを降臨させた。
+++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++
こうした神話をもとに、紀元後645年の大化の改新以後、天皇家は、天照大神をまつるように
なる(ウィキペディア百科事典)。
「……ちなみに、男神アマテルとは、アマテラスの孫のアメノホアカリの別名で、アメノホアカリ
は尾張氏・津守氏・海部氏の始祖でもある。また、このアメノホアカリの弟がニニギで、神武天 皇の曽祖父にあたる」と。
やがてすぐ、小学校で、こうした神話について、読み聞かせが始まることになる。
子どもの受験勉強に熱心な親たちは、今から、しっかりと予習しておいたほうがよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 中央教育審議会 愛国心 国歌 国歌論 神話 神話教育 官僚主義 官僚主義国家)
●言葉を反復する子ども(子どものひとり言)
+++++++++++++++
こちらの言ったことが、即座には
理解できず、いちいちそれを反復
する子どもがいる。
たとえば、
「りんごが3個ありました。
また4個、買ってきました。
あわせていくつですか?」と
質問すると、
「りんごが3個……。また4個
……」と。
そしてこちらの言った言葉を、あたかも
頭の中で反芻(はんすう)するかの
ように、少し考えた様子を見せた
あと、
「……3足す4で、7だあ」と
言ったりする。
様子を観察してみると、言葉そのものが、
即座には、大脳で処理されていかない
といったふう。
算数の問題にかぎらない。
何かの指示を与えても、同じように
反復する。
私「机の上の分度器を片づけて、
それを箱に入れてください」
子「分度器……、箱……」と。
高学年になるからといって、症状が
消えるわけではない。
私「1・5分というのは、何分と何秒の
ことかな」
子「1・5分……だからあ、ええと、……」と。
脳のどの部分に、どのような問題(失礼!)
があるのかは、私にはわからない。
しかし(音声で得た情報を処理する段階)で、
何か問題があるということは、推察される。
そのため、学習能力に影響が出る。
全体に反応が鈍く、その分だけ、時間が
かかる。
似たような症状に、何でも、ものごとを
音声化する子どもがいる。
それについては、以前に書いた原稿が
あるので、そのまま、紹介する。
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●子どものひとり言(内言)
「5歳の子ども(女児)のひとり言が多いです。意味のないひとり言です。どうしたらいいです
か」(滋賀県・Rさん)という相談をもらった。
子ども(乳幼児)が発する言葉は、大きく、つぎの2つに分けて考える。
(1)自分の思考をまとめるために使う言葉。これを内言(ないげん)という。
(2)他人に、自分の考えや意思を表示するための言葉。これを外言(がいげん)という。
たとえばクレヨンが、机の下に落ちたとき、「アッ、クレヨンが落ちた。ぼく、拾うよ」というの
が、内言。先生や、親に向かって、「落ちたから、拾って」と言うのが、外言ということになる。
こうした内言は、おとなのばあいは、口に出さないで使うが、幼児のばあい、ある時期、それ
を音声として、口に出して言うことがある。一般的には4歳くらいがピークで、5、6歳で内言は、 無声化すると言われている。
が、子どもによっては、内言の音声化が、その時期を過ぎても残ることがある。
そこで5歳前後になってからも、無意味なひとり言が多いようであれば、「口を閉じて考えよう
ね」と、指導する。
この音声化が残ると、子どものものの考え方に影響を与えることがある。子ども自身がその
言葉に左右されてしまい、瞬間的で、機敏な考え方ができなくなる。どこかまだるっこい、のん びりとした、ものの考え方をするようになる。
もしRさんの子どもが、つぎのような話し方をしていたら、「口を閉じて、考えようね」と、指導し
てみてほしい。
「これからお食事。それが終わったら、私、これからお外に行こう」(行動の内言)
「どちらの花がきれいかな。白かな、赤かな……?」(迷いの内言)
「お花を、○○さんに、もっていくと、どうなるかな。喜ぶかな」(思考の内言)
「風が吹いた……カーテンが揺れた……お日様が光っている……」(描写の内言)
ピアジェは、こうした内言のうち、集団内で使うものを、「集団内独語」と呼んでいる。他人の
反応を気にしていないという点で、自己中心的なものととらえている。
しかし実際には、言葉の発達の時期に、よく見られる現象で、内言イコール、自己中心性の
表れとは、私は思わない。
Rさんの子どもは4歳ということだから、そろそろ、「口を閉じて考えようね」と指導すべきころ
かもしれない。この時期を過ぎて、クセとして定着すると、ここにも書いたように、思考力そのも のが、影響を受けることがある。
ほかにひとり言としては、つぎのようなものがある。
(1)自閉傾向のあるひとり言……こちらからの話しかけには、まったく応じない。1人2役、3役
のひとり言を言うこともある。
(2)ADHD児のひとり言……騒々しく、おさえがきかない。ひとり言というより、勝手に、かつ一
方的に、こちらに話しかけてくるといったふう。
(3)内閉児、萎縮児のひとり言……元気なく、ボソボソと、自分に話しかけるように言う。グズ
グズ言うこともある。
(はやし浩司 子どもの独り言、ひとり言 外言 内言 子供の独り言 子供 独り言 集団内
独語 ピアジェ ピアジエ はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子 育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 反復 反復 児)
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言葉を反復する子どもは、内言という
幼児期のクセが、そのまま残ったとも
考えられる。
相手の言ったことを反復しながら、
自分の考えを、まとめようとする。
しかしさらによく観察してみると、
ひとり言をやめさせてしまうと、問題の
意味そのものが、理解できなくなって
しまう。
私「りんごが5個あって、2個食べました。
残りは、いくつかな?」
子「りんごがア……」
私「口を閉じて考えようね」
子「……? 5個でしょ……?」
私「口を閉じて、考えようね」
子「……? ……?」と。
全体としてみると、10人に1人前後の
割合で、見られる。
年齢には関係なく、小学生でも、中学生でも、
ほぼ同じ割合で、見られる。
で、指導法ということになるが、脳の
機能そのものに問題があるように推察される
ため、注意したり、叱ったりしても意味はない。
またそれで(なおる)という問題ではないように思う。
その子どもは、そういう子どもであると
認めた上で、つまりそういう前提で、指導
する。
軽く注意はしても、あとは子どものリズム
に任せるしかない。
その言葉が適切であるかどうかは知らないが、
私は、このタイプの子どもを、「反復児」
と呼んでいる。
同じような内容だが、以前書いた
記録を、そのまま掲載する。
++++++++++++++++++
●言葉を反復する子ども
++++++++++++++
いちいちこちらの言った言葉を
反復する子どもがいる。
反復しないと、こちらの言った
ことが、理解できないといった
ふう。
原因は、脳の中で、情報の伝達が
適切になされないためではないか。
教えていると、そんな印象をもつ。
++++++++++++++
そのつど、こちらの言った言葉を、いちいち言葉を反復する子どもがいる。年齢を問わない。
たとえば先生との間では、こんな会話をする。
私「うさぎさんが、6匹いました。そこで……」
子「うさぎさんが、6匹?」
私「そうだよ、6匹だよ」
子「6匹、ね」
私「そこで、みんなに、帽子を1個ずつあげることにしました」
子「みんなに……?」「帽子……?」
私「そうだよ。みんなに、帽子だよ」
子「何個ずつあげるの?」
私「1個ずつだよ」
子「1個ずつ?」と。
もう少し年齢が大きくなると、言葉の混乱が起きることがある。
私「1リットルのガソリンで、10キロ走る車があります」
子「何んだったけ? 10リットルで、1キロ?」
私「そうじゃなくて、1リットルのガソリンで、10キロ走る車だよ」
子「1リットルの車で、10キロ走る、ガソリン?」
私「そうじゃなくて、1リットルで……」と。
このタイプの子どもは、少なくない。私の経験では、10人中、1人前後、みられる。特徴として
は、つぎのような点が観察される。
(1)こちらの言ったことがすぐ言葉として、理解できない。
(2)そのためこちらの言ったことを、そのつど、オウム返しに反復する。
(3)こちらの言った言葉に、すぐ反応することができない。
(4)全体に、軽度もしくは、かなりの学習遅進性が見られることが多い、など。
私の印象としては、音声として入った情報を、そのまま理解することができず、それを理解す
るため、もう一度、自分の言葉として反復しているかのように見える。あるいは音声として入っ た情報が、脳の中の適切な部分で、適切に処理できず、そのままどこかへ消えてしまうかのよ うに見えることもある。脳の中における情報の伝達に問題があるためと考えられる。
このタイプの子どもは、もちろん叱ったり、注意したりして指導しても、意味がない。またその
症状は、幼児期からみられ、中学生になっても残ることが多い。脳の機能的な問題がからんで いると考えるのが正しい。
ほかに、こんな会話をしたこともある。相手は、小2の子どもである。
私「帰るとき、スリッパを並べておいてね」
子「帰るとき?」
私「そうだよ。帰るときだよ」
子「スリッパをどうするの?」
私「スリッパを並べるんだよ」
子「スリッパを並べるの?」
私「そうだよ」
子「帰るとき、スリッパを並べるんだね、わかった」と。
このタイプの子どもは、今のところ、そういうタイプの子どもであると認めた上で、根気よく指
導するしかほかに、方法がないように思われる。
(はやし浩司 言葉を反復する子ども 言葉を反復する子供 言葉がすぐ理解できない子ども
言葉の反復、反復児 内言 幼児の独り言 ひとり言 言葉を反復 はやし浩司)
検索文字(以下、順次、収録予定)
BWきょうしつ BWこどもクラブ 教育評論 教育評論家 子育て格言 幼児の心 幼児の心理 幼児心理 子育て講演会 育児講演会
教育講演会 講師 講演会講師 母親講演会 はやし浩司 林浩司 林浩 子供の悩み 幼児教育 幼児心理 心理学 はやし浩司 親 子の問題 子供 心理 子供の心 親子関係 反抗期 はやし浩司 育児診断 育児評論 育児評論家 幼児教育家 教育評論家 子育 て評論家 子育ての悩みはやし浩司 教育評論 育児論 幼児教育論 育児論 子育て論 はやし浩司 林浩司 教育評論家 評論家 子供の心理 幼児の心理 幼児心理 幼児心理学 子供の心理 子育て問題 はやし浩司 子育ての悩み 子供の心 育児相談 育児 問題 はやし浩司 幼児の心 幼児の心理 育児 はやし浩司 育児疲れ 子育てポイント はやし浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐 阜県美濃市 金沢大学法文学部卒 はやし浩司 教育評論家 幼児教育評論家 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生 まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし 静岡県 浜松幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論 家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ. writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武 義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド (雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと英語の木 (CAI) 教材研究 はやし浩司 教材作成 教材制作 総合目 録 はやし浩司の子育て診断 これでわかる子育てアドバイス 現場からの子育てQ&A 実践から生まれたの育児診断 子育てエッセイ 育児診断 ママ診断 はやし浩司の総合情報 はやし浩司 知能テスト 生活力テスト 子どもの能力テスト 子どもの巣立ち はやし浩 司 子育て診断 子育て情報 育児相談 子育て実践論 最前線の子育て論 子育て格言 はやし浩司 子どもの問題 子供の問題 育 児相談 子どもの心 子供の心 子どもの心理 子供の心 はやし浩司 不登校 登校拒否 学校恐怖症 はやし浩司 子育て実例集 子育て定期検診 子どもの学習指導 はやし浩司 子供の学習 学習指導 子供の学習指導 はやし浩司 子どもの生活指導 子供の 生活 子どもの心を育てる 子供の心を考える 発語障害 浜松中日文化センター BW教室 はやし浩司の才能教室 幼児教室 幼児知 能教室 浜松市 BWこどもクラブ はやし浩司 子育て診断 育児アドバイス 子育てアドバイス 子育て情報 育児情報 育児調査 は やし浩司 子育ての悩み 育児問題 育児相談 はやし浩司 子育て調査 子育て疲労 育児疲れ 子どもの世界 中日新聞 Hiroshi Hayashi Hamamatsu Shizuoka/Shizuoka pref. Japan 次ページの目次から選んでください はやし浩司のホームページ 悩み調査 は やし浩司の経歴 はやし浩司 経歴 人物 子どもの叱り方 ポケモンカルト ポケモン・カルト 子どもの知能 世にも不思議な留学記 武 義高・武義高校同窓会 古城会 ドラえもん野比家の子育て論 クレヨンしんちゃん野原家の子育て論 子育て教室 はやし浩司 浜松 静岡県 はやし浩司 子どもの指導法 子どもの学習指導 家族主義 子どものチエックシート はやし浩司 はやしひろし 林ひろし 林 浩司 静岡県浜松市 岐阜県美濃市 美濃 経済委員会給費留学生 金沢大学法文学部法学科 三井物産社員 ニット部輸出課 大阪 支店 教育評論家 幼児教育家 はやし浩司 子育てアドバイザー・育児相談 混迷の時代の子育て論 Melbourne Australia International House/international house/Hiroshi Hayashi/1970/ はやし浩司 ママ診断 過保護 過干渉・溺愛 過関心 教育論 子ど もの巣立ち論 メルマガ Eマガ はやし浩司 子育て最前線のあなたへ・子育てはじめの一歩 子育て はじめの一歩・最前線の子育て 論 子育て最前線の育児論 はやし浩司 入野町 林浩司 林 浩司 東洋医学基礎 目で見る漢方・幼児教育評論家 子育てアドバイ ザー 子どもの世界 子供の世界 育児如同播種・育児相談 子育てアドバイス 教育相談 はやし浩司・はやしひろし 林ひろし 林浩司 林こうじ 浜松市入野町 テレビ寺子屋 最前線の子育て論 子育てストレス 最前線の子育て はやし浩司 著述 執筆 評論 ファミリ ス ママ診断 メルボルン大学 はやし浩司 日豪経済委員会 日韓交換学生 三井物産元社員 子どもの世界 子供の世界 子育ての 悩み 育児一般 子供の心 子どもの心 子育て実戦 実践 静岡県在住 はやし浩司 浜松 静岡県浜松市 子育て 育児相談 育児 問題 子どもの心 子供の心 はやし浩司 心理 心理学 幼児教育 BW教室 はやし浩司 子どもの問題 子供の問題 発達心理 育 児問題 はやし浩司子育て情報 子育ての悩み 無料相談 はやし浩司 無料マガジン 子育て情報 育児情報 はやし浩司 林浩司 林ひろし 浜松 講演会 講演 はやし浩司 林浩司 林 浩司 林こうじ コージ 林浩司 はやしひろし はやしこうじ 林浩二 浩司 東 洋医学 経穴 基礎 はやし浩司 教材研究 教材 育児如同播種 育児評論 子育て論 子供の学習 学習指導 はやし浩司 野比家 の子育て論 ポケモン カルト 野原家の子育て論 はやし浩司 飛鳥新社 100の箴言 日豪経済委員会 給費 留学生 1970 東京 商工会議所 子育ての最前線にいるあなたへ 中日新聞出版 はやし浩司 林浩司 子育てエッセイ 子育てエッセー 子育て随筆 子 育て談話 はやし浩司 育児相談 子育て相談 子どもの問題 育児全般 はやし浩司 子どもの心理 子育て 悩み 育児悩み 悩み相 談 子どもの問題 育児悩み 子どもの心理 子供の心理 発達心理 幼児の心 はやし浩司 幼児の問題 幼児 相談 随筆家 育児 随筆家 育児エッセー 育児エッセイ 母親の心理 母親の問題 育児全般 はやし浩司 林浩司 林こうじ はやしこうじ はやしひろし 子育て アドバイス アドバイザー 子供の悩み 子どもの悩み 子育て情報 ADHD 不登校 学校恐怖症 怠学 はやし浩司 はやし浩 司 タイプ別育児論 赤ちゃんがえり 赤ちゃん言葉 悪筆 頭のいい子ども 頭をよくする あと片づけ 家出 いじめ 子供の依存と愛着 育児ノイローゼ 一芸論 ウソ 内弁慶 右脳教育 エディプス・コンプレックス おてんばな子おねしょ(夜尿症) おむつ(高層住宅) 親意識 親の愛 親離れ 音読と黙読 学習机 学力 学歴信仰 学校はやし浩司 タイプ別育児論 恐怖症 家庭教師 過保護 過剰行 動 考える子ども がんこな子ども 緩慢行動 かん黙児 気うつ症の子ども 気負い 帰宅拒否 気難しい子 虐待 キレる子ども 虚言 (ウソ) 恐怖症 子供の金銭感覚 計算力 ゲーム ケチな子ども 行為障害 心を開かない子ども 個性 こづかい 言葉能力、読解力 子どもの心 子離れ はやし浩司 タイプ別育児論 子供の才能とこだわり 自慰 自意識 自己嫌悪 自殺 自然教育 自尊心 叱り方 しつけ 自閉症 受験ノイローゼ 小食 心的外傷後ストレス障害 情緒不安 自立心 集中力 就眠のしつけ 神経質な子ども 神経症 スキンシップ 巣立ち はやし浩司 タイプ別育児論 すなおな子ども 性教育 先生とのトラブル 善悪 祖父母との同居 大学教育 体 罰 多動児男児の女性化 断絶 チック 長男・二男 直観像素質 溺愛 動機づけ 子供の同性愛 トラブル 仲間はずれ 生意気な子 ども 二番目の子 はやし浩司 タイプ別育児論 伸び悩む子ども 伸びる子ども 発語障害 反抗 反抗期(第一反抗期) 非行 敏捷 (びんしょう)性 ファーバー方式 父性と母性 不登校 ぶりっ子(優等生?) 分離不安 平和教育 勉強が苦手 勉強部屋 ホームスク ール はやし浩司 タイプ別育児論 本嫌いの子ども マザーコンプレックス夢想する子ども 燃え尽き 問題児 子供のやる気 やる気 のない子ども 遊離(子どもの仮面) 指しゃぶり 欲求不満 よく泣く子ども 横を見る子ども わがままな子ども ワークブック 忘れ物が 多い子ども 乱舞する子ども 赤ちゃんがえり 赤ちゃん帰り 赤ちゃん返り 家庭内暴力 子供の虚言癖 はやし浩司 タイプ別育児論 はじめての登園 ADHD・アメリカの資料より 学校拒否症(不登校)・アメリカ医学会の報告(以上 はやし浩司のタイプ別育児論へ)東 洋医学 漢方 目で見る漢方診断 東洋医学基礎編 はやし浩司 東洋医学 黄帝内経 素問 霊枢 幼児教育 はやし浩 林浩司 林 浩 幼児教育研究 子育て評論 子育て評論家 子どもの心 子どもの心理 子ども相談 子ども相談 はやし浩司 育児論 子育
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