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●私論
●自分さがし
自分がひねくれているか、いじけているか、それを知っている人は少ない。しかしそれ
を知る、方法がないわけではない。
すなおでない子どもは、そのつど、さまざまに心が変化するのがわかる。また変化する
から、「すなおでない」ということになる。
たとえば少し前、こんなことがあった。
ある母親に「私のマガジンを読んでくれていますか?」と聞いたときのこと、その母親
は、こう言った。「めったにパソコンは、開きませんから……」と。つまり「読んでない」
と。
そのとき私の心の中では、さまざまな変化が起きた。
最初に、がっかりした。それは当然だが、そのあと、すぐに、「もう、マガジンなんか、
出すのをやめよう」と思った。
ここである。
私は子どものころから、何かのことでつまずくと、すぐ自暴自棄になるところがある。
たとえばこんなことがあった。
小学五年生のとき、好きな女の子がいた。しかし、いくらモーションをかけても、私に
は、見向きもしてくれなかった。そのころのこと。私は、ある日、その女の子がいないと
き、その女の子の机から、勝手にノートを取り出し、落書きをしてしまった。
そういう事実から、私は、かなりいじけた子どもであったことがわかる。(もし、今、私
の目の前で、私がしたことと同じことをする子どもがいたら、私は、そう思うだろう。)
そのとき、私の中には、二人の自分がいた。
ひとりの自分は、「アハハハ、ザマーミロ!」と笑っている自分。もう一人は、「どうし
てそんなことをするのだ」と、自分を責める自分。私はその二人の自分を、今でも、はっ
きりと覚えている。
このとき、「アハハハ」と笑っている自分が、ここでいう自暴自棄になりやすい自分とい
うことになる。
●変化する「私」
しかし時間がたつと、少しずつ、気持が変化してきた。最初は、「マガジンなんか、出す
のをやめよう」と思っていたが、そのうち、「中には、読んでくれる人もいるかもしれない
し……」と考えるようになり、さらには、「マガジンを出すのは、自分のためではないか」
と考えるようになった。
こうした変化は、つまりは、(いじけた自分)から、(私という自分)に戻る過程と考え
てよい。
つまり「私」という私が、私の中にいる。その「私」を取り巻く形で、いろいろな「私」
がいる。その取り巻いている私が、ひねくれた私であり、いじけた私ということになる。
言いかえると、こうした変化を自分の中にとらえることによって、自分が、どういう人
間であるかを知ることができる。
もし私が、すなおな私であれば、こうした変化は、起きないはず。最初から、「マガジン
は自分のため」と考えて、そうした母親の意見を、笑って聞くことができたはず。もちろ
ん心の動揺も、なかったはず。
●そこであなた自身は、どうか……
その人が、すなおかどうかは、心の状態(=情意)と、外に現れている状態(=表情)
が、一致しているかどうかをみればよい。
うれしいときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔をする。い
やだったら、「いや」と、はっきりと言うことができる、など。
もう一つは、心のゆがみのないことを、「すなお」という。
そしてここでいう「ゆがみ」というのは、実は、(私であって、私でない部分)をいう。
私の例で言うなら、自暴自棄になってしまう自分をいう。もう二年近くつづけてきたマガ
ジンである。そういうマガジンでも、「やめてしまう!」と。
言いかえると、この時点で、本来の「私」が、別の、つまりすなおでない「私」に左右
されたとになる。
もっとも、こうした現象は、すなおな人には理解できないだろうと思う。私のワイフな
どは、結構いじけたところがある割には、ものの考え方がストレート。すなお。そのワイ
フが、こう言う。
「どうして、そんなふうに考えるの? 中には、熱心に読んでくれている人も、きっと
いるわよ」と。私のそうした、いじけた部分が、ワイフには理解できないらしい。
●乳幼児期までさかのぼる
こうした「私」であって、私でない「私」は、恐らく、乳幼児期というきわめて初期の、
そのころに、その人の中にできるものとみてよい。
私のばあいも、そのいじけた部分は、かなり早い時期にできた。もの心つくころには、
私はそうなっていたから、五歳とか、六歳ではない。もっと前である。ただそのころにな
ると、記憶がないので、(実際には、想起できないだけだが)、よくわからない。しかしい
じけていたのは、事実だ。
だれかが何かをくれても、わざと「そんなものいらない」とか、「そんなもの、たくさん
もっている」というようなことを言った記憶が、どこかに残っている。
そういう自分が、今でも心のどこかに残っていて、顔を出す。それが、冒頭に書いた、
マガジンの話である。私はそのとき、本当に、「マガジンを出すのを、もうやめよう」と思
った。心底、自分のしていることが、バカバカしく思えた。「毎日、何のために書いている
のか」とさえ思った。
私は自分の中の「私」の声を、静かに、すなおに聞くことができなかった。
つまり、あなた自身も、もし同じような立場に置かれたとき、私でない「私」に左右さ
れることがあるというのであれば、あなた自身の心の中を旅をしてみるとよい。なぜあな
たはすなおではないのか。またその原因は、何か、と。
●診断
何かのことで心が動揺することは、よくある。そのとき、自分が、どのように動揺する
かを、冷静に観察してみるとよい。
いじけた性格の人……ちょっとしたことでも、それを悪いほうへ、悪いほうへと考えて
しまい、自分自身をも悪いほうに向けてしまう。
すねた性格の人……「どうしたの?」と声をかけてもらったりすると、相手に心配をか
けてはいけないと思いつつ、反対に、かえって相手をさらに心配させてしまうようなこと
を口にしてしまう。
つっぱった性格の人……だれかがやさしくしてくれても、それを拒絶してしまう。ある
いはその裏を見ようとする。「こんなことをしてくれるのは、何か、魂胆があるからだ」と。
ひねくれた性格の人……他人が、何かをほめたり、たたえたりすると、すぐそれを否定
するような言葉を投げかけてしまう。
こうした自分というのは、自分では、なかなか気がつかないもの。あるいは自分で気が
つくということは、まず、ない。脳のCPU(中央演算装置)の問題だからである。仮に
そうであっても、このタイプの人は、どの人も、自分と同じだとか、あるいは、自分のよ
うに思わないほうがおかしいと考えてしまう。
つまりいつも、基準を、自分に置いてしまう。だから、よけいに、気づかない。
●さて私のこと
私は、「もう、マガジンなんか、出すのをやめよう」と、確かに思った。思っただけでは
なく、本気で、そうしようと思った。
しかしそのあと、いくつかの「思い」が、あれこれ思い浮かんでは消えた。そしてやが
て、自暴自棄になった私のほうが、おかしいとわかった。
そのときのこと。
私は女の子のノートに落書きをした「私」を思い出した。一人は、笑っている私。もう
一人は、私を責める私。
私は今まで、あのときのことを思い出すたびに、「私の中には二人いた」と思っていた。
しかし実際には、そうではなく、落書きをしたときは、「ザマーミロ!」という私がいた。
しかし時間がたつにつれて、「どうしてそんなことをしたのか」と、自分を責める私に変化
した。それが思い出の中では、混ぜんとして、あたかも二人の自分がいるかのように思っ
てしまった……?
記憶というのは、そういう点では、実にあいまいなもの。つまりそのときから、(あるい
はそれ以前から)、私の中には、私でない私もいたということになる。
それはさておき、今回はからずも、小さな事件だが、改めて「私」を知るきっかけとな
った。
そこで私は、断言する。
私はたしかに、いじけている。ひねくれている。
それが今、改めてわかった。
(040206)
●子どもの学習
●子どもの判断基準
A先生と、B先生が、何かちがったことを言ったとする。そのとき子どもは、A先生と、
B先生のどちらの意見に従うだろうか。子どもは、選択を迫られるわけだが、しかし、問
題は、どちらを選択するかではなく、何を基準にして、どちらを選ぶか、である。以前、
こんなことがあった。
中学一年生の女の子に、英語を教えているとき、その女の子が、「I walk in
the park.」という英文を、「公園の中を散歩しているわ」と訳した。
そこで私が、「『私は公園の中を歩く』と訳しておきなさい」と言うと、その女の子は、
猛然とそれに反発した。「先生の日本語は、おかしい」「この絵(テキストの挿絵)では、
この人は、散歩してる」と。
その女の子は、長い間、英会話教室に通っていた。先生は、日本人と外人の、半々くら
いの教室だった。市内でも、有数の大規模校であった。
こういうケースでは、子どもは、まず、その大規模校の先生の意見に従う。つまり私の
言うことなど、聞かない。
私「『〜〜している』という言い方は、また別のところで勉強するから、今は、『歩く』と
訳しておきなさい。いつか、その理由を話してあげるから」
女「でも、おかしい。その日本語」
私「もともと英語がおかしいのだよ。君たちのレベルにあわせて、テキストを作ってある
のだから」
女「ふつう、公園の中を歩いているとき、『私は公園の中を歩く』なんて、わざわざ言うか
しら?」
私「しかたないよ。そう書いてあるのだから」
女「そんな日本語、おかしいわよ。今度、X先生(大規模校の先生)に聞いてみる」
私「ああ、聞いてみてごらん」と。
実際には、子どもがこのような形で、反発するようになると、指導は、もうできない。
教育に必要な信頼関係そのものが消える。
それはともかくも、子どもは、@規模の大きな方の先生の意見により従う。わかりやす
く言えば、中身よりも、外見で、先生を判断する。
……と書いても、それは当然のことである。子どもには、まだ中身を見る力も、能力も
ない。しかしこの問題には、もう一つ深刻な問題が、隠されている。
●謙虚さをなくす子どもたち
この時期の子どもは、いろいろな意味で、生意気になる。生意気になるのが、悪いので
はない。子どもは、生意気になることで、背伸びをする。背伸びをすることによって、自
己主張を繰りかえす。
しかし学ぶことに対して、謙虚さまで、なくしてしまったら、おしまい。日本語には、「ナ
メル」という言い方がある。この言葉にかわる正しい言葉を知らないので、その言葉をそ
のまま使う。先生をナメルようになってしまったら、おしまい。
子どもは自ら、自己中心的な世界へと入っていく。そして自分のまわりに、厚いカベを
作ってしまう。同時にものの考え方が自閉的になる。つっぱり症状が現れることもある。
私「だから今は、『私は公園の中を歩く』としておいてよ」
女「ウッセエナー。しとけばいいんでしょ、しとけば……」
私「まあ、君がそれでいいというなら、それでもかまわないけど……」
女「だったら、最初から、そう言ってくれればいいじゃん。すなおに……」と。
●原因は、無理な学習+過剰期待
抑圧された緊張状態が長くつづくと、子どもの心は、確実にゆがむ。(子どもでなくても、
当然だが……。)
その抑圧された緊張状態の第一は、言うまでもなく、無理な学習と親の過剰期待。ある
いは親の過剰期待と無理な学習。どちらが先でもよいが、こういう環境で、子どもは、心
をゆがめる。そしてそれが慢性的につづくと、独特の症状を示すようになる。
なげやりな態度。
無視的な反応。
独特の歩き方(肩をいからせる。鋭い目つき。腕を下へブラブラさせる)。
少しぐらい成績があがっても、決して親は満足しない。「もっと」「もっと」と子どもを
追いたてる。「うちの子はやればできるはず」という、信仰に似た考え方をもっている。子
どもの能力を信ずることは大切だが、親の過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。
子どもはやがて、その欲求不満の矛先(ほこさき)を、学校の教師や、塾の教師に向け
る。本来なら親に矛先を向けるのがよいが、このタイプの子どもは、親の前では、むしろ
おとなしい。仮面をかぶる。
「やればできるはず」と親に思わせることで、自分の立場を守ろうとする子どももいる。
以前、ある子ども(小五男児)に、「君の力は、君が一番よく知っているはずではないか。
だったら、お母さんに正直にそう言いなさい」と言ったことがある。しかしその子どもは、
自分の力のことは、決して母親に話さなかった。
話せば話したで、自分のわがままが通らなくなる。つまりその子どもは、親に、「ぼくは
やればできるはず」と期待させることで、自分の立場を守っていた。
こうしたケースは、教室でもよく経験する。たとえば、私は以前、『悲しきピエロ』とい
う原稿を書いた。その中で、勉強のできない子どもが、わざとちょろけて見せて、皆を笑
わせる子どものことを書いた。皆を笑わせることによって、自分を隠すから、『悲しきピエ
ロ』と呼んだ。
「勉強ができない(バカ)」と思われるより、「おもしろい男」と思われるほうが、まだ
気が楽だからである。
親に「やればできるはず」と思わせる子どもの心理も、これに似ている。
●子どもの能力を知る
子どもの能力を正確に知るということは、家庭学習の基本中の基本。そこでいくつかの
鉄則がある。
(1)「やればできるはず」と思ったら、「やってここまで」と思いなおす。
(2)「まだがんばれる」と思ったら、その一歩手前でやめる。
(3) ほどほどのところであきらめ、子どもをほめる。「よくやった」と。
しかし実際には、これがむずかしい。親にしても、自分が見る子どもは、せいぜい自分
の子どもを含めて、一人か二人。子どもの能力というのは、多くの子どもと比較してみて、
はじめてわかる。
はっきり言おう。子どもの知的能力は、決して平等ではない。たとえば小学五、六年生
でも、中学生でもなかなか解けないような、連立方程式の問題でも、独自の解き方で解い
てしまう子どもがいる。しかも瞬時に、スラスラと解いてしまう。
その一方で、学習障害の子どもは別として、分数の意味すら理解できない子どももいる。
こうした「差」は、一生の間に、開くことはあっても、縮まることは、絶対にない。いわ
んや、その時期の一、二年の間に、縮まることは、絶対にない。
にもかかわらず、つまり分数の意味も、まだよくわかっていないような子どもに、東京
の私立中学の入試問題集を与えて、「やりなさい!」は、ない。
多かれ少なかれ、どの親も、こうした無理を重ねる。そして結果として、子どものやる
気を奪い、成績をさげ、あげくのはてには、子どもの心まで破壊する。
●子どものリズムを見る
どんな子どもにも、その子どもの学習リズムというものがある。このリズムを見守り、
それを育てていく。
もし家庭での子どもの学習指導に王道があるとするなら、これが王道である。
しかしこのリズムを作るのがたいへん。たとえば読書指導にしても、子どもが自然な形
で、読書を楽しむようになるまでに、数年はかかる。毎週、図書館通いをしても、それく
らいの時間はかかる。
もっと簡単な例では、毎日の家庭学習がある。毎日学校から帰ってきて机に向かうとい
う習慣をつくるのにも、やはり数年はかかる。30分、毎日、書き取りや計算練習をさせ
るのも、そうだ。
それを親がある日、子ども叱って、「本を読みなさい」「勉強しなさい」と。私から見れ
ば、もうメチャメチャな指導なのだが、その(メチャメチャさ)が、親にはわからない。
しかもこのリズムは、たいへんもろい。作るのには、数年かかっても、こわすのは、た
った一週間でよい。数日でよい。一日でよい。
「明日から進学塾で、週3回、勉強!」と。
たったこれだけのことで、こなごなに破壊される。
しかし親にはそれがわからない。わからないばかりか、破壊したという意識すら、ない。
それがわからなければ、反対の立場で、考えてみることだ。
●自分のこととして……
あなたにはあなたの生活のリズムがある。仕事をもっているなら、なおさらだ。そうい
うところへ、ある日だれかが入りこんできて、「明日から、毎日、30分、内職をしなさい」
「来週から、時間をつくって、週3回、清掃奉仕活動をしなさい」と言ったら、あなたは
どうなるだろうか。どうするかではなく、どうなるか、だ。
あなたの生活のリズムは、それでまったく狂ってしまう。ばあいによっては、何も家事
が手につかなくなってしまう。
さらに子どもは、学校という場で、毎日、八時間労働をしている。その労働の上に、さ
らに夜の労働である。親は、子どもを、スーパーマンか何かのように思うかもしれないが、
あなたと同じ、人間である。ある意味で、あなたより、ずっとか弱い。
夜の学習でがんばれば、その分だけ、昼間の学習(学校)が、おろそかになるだけ。ど
うして、世の親たちよ、こんな簡単なことがわからないのか!
子どものリズムを感じたら、そのリズムを大切にする。守る。そしてそのリズムの上に、
つぎのリズムを重ねていく。これが王道である。
中には、その時期になると、(やらせればやらせるほどいい)と考えて、塾のかけもち、
プラス家庭教師……と、もうメチャメチャの上に、さらにメチャメチャな勉強を、子ども
に強いるケースもある。
しかしこうなれば、失敗は、時間の問題。やがて子どもは、行き着くところまで行き、
そこでプッツン。大きな精神的なダメージを受けることも少なくない。
そういう意味で、親というのは、因果な存在だ。自分で、行き着くところまで、行かな
いと、気がつかない。そして気がついたときには、すべてが終わっている。
子育てには失敗はつきものだが、その失敗を、事前に食い止めるのは、賢い親。行き着
くところまで行って、はじめて気がつくのは、愚かな親ということになる。今、その愚か
な親が、あまりにも多すぎる。
(040207)
【追記】
今朝も、新聞の折込広告に、どこかの進学塾のものが入っていた。
「新学習指導要領導入による学力低下を防止し、真の学力を身につけます」と、それに
はあった。
広告には、若い講師が、熱心に黒板に向って教えている写真が載っていた。しかしその
姿は、30年前の、私の姿でもある。
ただ成績を伸ばせばよいというだけに指導が、いかに危険なものであるか。私はそれを
いやというほど、思い知らされている。その若い講師が、それに気づくのは、いつのこと
か。あるいは、一生、それに気がつくことはないかもしれない。たいていの講師は、二〇
年を待たないで、そのまま転職していく。この世界では、ジジ臭い、中年講師は、お呼び
ではない。若さが勝負。
友人のF氏。進学塾元講師、講師歴一六年。現在、コンピュータソフト会社経営は、こ
う言った。「もう、あんな仕事は、コリゴリ。二度としたくない」と。まじめに考える人な
ら、皆、そう思うようになる。
●非行の下地
やがて非行に走る子どもになるかどうかは、小学四、五年生のころの子どもをていねい
に観察すればわかる。
すさんだ態度、投げやりな行動、乱暴で短絡的なものの考え方、独特のしぐさなど。
こうした兆候が見られたら、できるだけ早く親は、家庭環境のあり方を、猛省しなけれ
ばならない。しかし、親には、それがわからない。
この時期は、ちょうど子どもの受験期にも重なる。親にしてみれば、「それどころではな
い」ということになる。またそういう兆候を見たとしても、たいていの親は、「まだ、何と
かなる」「そんなはずはない」と、自ら否定してしまう。
どの親も、こと子育てについては、まったくの無知の状態で始める。そして無知のまま、
子育てをつづける。それはしかたないとしても、なぜ、私のようなものが言う発言に、少
しは耳を傾けないのか?
親は、私が「有知」であることすら、気づいていない。「うちの子のことは、私が一番よ
く知っている」と、思いこむ。思いこんで、私の意見を、無視する。
つい先日も、子どものことであれこれ相談してきた母親がいた。「学校の先生がきびしす
ぎる」「友だちから仲間はずれにされる」「あちこちから乱暴したと、苦情を言われる。う
ちの子は、何もしていないのに……」と。
しかしその子ども(小五)は、一見しただけで、ADHD児とわかった。意味もなく手
首を、パシッパシッと、振って、落ちつかない様子を見せていた。しかし私が、そんな子
どもも区別できないで、こんな仕事をしているとでも、思っているのか! ただ立場上、
そうした診断名を口にすることができないだけだ!
その親は、子どもに大きな期待を寄せているようだった。具体的には、今度新しくでき
たS中学への入学を考えているようだった。で、そのために、どうしたらよいか、と。
私はその話を聞きながら、内心では、「問題は、別のところにあるのに……」「もっとほ
かの部分を、冷静に見たらいいのに……」と思った。そしてその親子が帰ったあと、「どう
して親は、こうまで無知なのか」とさえ、思った。
非行の問題も、まったく同じ。私には、その子どもの将来が、手にとるように、よくわ
かる。わかりすぎるほど、わかる。しかしそれを私のほうから言うのは、タブー。言う必
要もないし、また言ってはならない。ただひたすら、親のほうから相談があるまで、待つ
しかない。
親がその兆候に気づき、「どうしたらいいか?」という相談があれば、そのときこそ、私
の出番である。しかしそういう親ほど、子どもに盲目。そしてその兆候を、みすみすと、
見逃してしまう。そしてあとはお決まりの……。
……とまあ、不毛なエッセーを書いても意味はない。
こうした非行には、下地がある。その下地があるところに、何かの誘惑があると、子ど
もは、何の抵抗もなく、非行への道へと入っていく。
よく誤解されるが、子どもが非行の道に入るのは、非行の誘惑があるからではない。子
どもが非行に走るようになるのは、@その下地があり、Aそれに対する抵抗力がないから
である。
非行への誘惑など、そこらにあるばい菌のように、子どものまわりにウヨウヨとある。
そのばい菌に毒されるか毒されないかのちがいは、この抵抗力による。言いかえると、こ
の抵抗力さえ、しっかりとつけておけば、子どもは、非行に走ることはない。
そういう観点で書いたのが、つぎの原稿である(中日新聞投稿済み)。
+++++++++++++++++++++
抵抗力のある子ども
怪しげな男だった。最初は印鑑を売りたいと言っていたが、話をきいていると、「疲れが
とれる、いい薬がありますよ」と。私はピンときたので、その男には、そのまま帰っても
らった。
西洋医学では、「結核菌により、結核になった」と考える。だから「結核菌を攻撃する」
という治療原則を打ち立てる。
これに対して東洋医学では、「結核になったのは、体が結核菌に敗れたからだ」と考える。
だから「体質を強化する」という治療原則を打ち立てる。人体に足りないものを補ったり、
体質改善を試みたりする。これは病気の話だが、「悪」についても、同じように考えること
ができる。
私がたまたまその男の話に乗らなかったのは、私にはそれをはねのけるだけの抵抗力が
あったからにほかならない。
子どもの非行についても、また同じ。非行そのものと戦う方法もあるが、子どもの中
に抵抗力を養うという方法もある。
たとえばその年齢になると、子どもたちはどこからとなく、タバコを覚えてくる。最初
はささいな好奇心から始まるが、問題はこのときだ。たいていの親はしかったりする。で、
さらにそのあと、誘惑に負けて、そのまま喫煙を続ける子どももいれば、その誘惑をはね
のける子どももいる。
東洋医学的な発想からすれば、「喫煙という非行に走るか走らないかは、抵抗力の問題」
ということになる。そういう意味では予防的ということになるが、実は東洋医学の本質は
ここにある。東洋医学はもともとは「病気になってから頼る医学」というよりは、「病気に
なる前に頼る医学」という色彩が強い。あるいは「より病気を悪くしない医学」と考えて
もよい。ではどうするか。
子育ての基本は、自由。自由とは、もともと「自らに由(よ)る」という意味。つま
り子どもには、自分で考えさせ、自分で行動させ、そして自分で責任を取らせる。しかも
その時期は早ければ早いほどよい。
乳幼児期からでも、早すぎるということはない。自分で考えさせる時間を大切にし、頭
からガミガミと押しつける過干渉、子どもの側からみて、息が抜けない過関心、「私は親だ」
式の権威主義は避ける。暴力や威圧がよくないことは言うまでもない。
「あなたはどう思う?」「どうしたらいいの?」と。いつも問いかけながら、要は子ども
のリズムに合わせて「待つ」。こういう姿勢が、子どもを常識豊かな子どもにする。抵抗力
のある子どもにする。
++++++++++++++++++++
最後に「非行の下地」は、かなり早い時期に、できる。小四、五年生前後までは、子ど
もらしい、明るい子どもだったのが、五、六年ごろから急に変化し始め、中学校へ入るこ
ろには、やがて手がつけられなくなる。
たいていの親は、そのころ、やっと気がつくわけだが、しかしそのころ、非行の下地が
できるわけではない。
「勉強さえできればよい」という短絡的な、子育て感。「少しぐらい心が犠牲になっても
かまわない」という、無責任な育児姿勢。子どもの心を無視して、子どもをあちこちの塾
や進学塾を連れまわす。「もっと……」「まだ何とかなる……」「少しでもいい学校へ……」
と。
子どもの心が親から遊離し始めても、それに気づかない。無視する。わざと見て見ぬふ
りをする。そして「そんなはずはない……」という誤解と錯覚で、子どもの心を、ますま
す見失ってしまう。
これが非行に走る「下地」である。やがて子どもの心は、臨界状態に達する。そして爆
発する。「このヤロー、このクソババア!」「てめエー、オレをこんなオレにしやがって
エ!」と。
今、こうして失敗していく親は、本当に多い。何割の親がそうであると言ってもよいほ
ど、多い。ひょっとしたら、あなたもそうかもしれない。あなたの子どもにも、すでにそ
ういう下地と、兆候が見られるかもしれない。だとするなら、今一度、家庭教育のあり方
を、猛省してみたらよい。
(040207)(はやし浩司 非行 子供の非行 子どもの非行 非行論)
+++++++++++++++++++++
友だちの問題
Q このところ、うちの子が、よくない友だちと交際を始めています。交際をやめさせたいのです
が、
どう接したら、いいでしょうか?(小六男)
A イギリスの教育格言に、『友を責めるな、行為を責めよ』というのがある。これは子ど
もが、よくない友だちとつきあい始めても、相手の子どもを責めてはいけない。責めると
しても、行為のどこがどう悪いかにとどめるという意味。
コツは、「○○君は、悪い子。遊んではダメ」などと、相手の名前を出さないこと。言う
としても、「乱暴な言葉を使うのは悪いこと」「夜、騒ぐと近所の人が迷惑をする」と、行
為だけにとどめる。そして子ども自身が、自分で考えて判断し、その子どもから遠ざかる
ようにしむける。
こういうケースで、友を責めると、子どもに「親を取るか、友を取るか」の二者択一を
迫ることになる。そのとき子どもがあなたを取れば、それでよし。そうでなければ、あな
たとの間に、深刻なキレツを入れることになる。さらに友というのは、子どもの人格その
もの。友を否定するということは、子どもの人格を否定することになる。
またこういうケースでは、親は、そのときのその状態が最悪と思うかもしれないが、あ
つかい方をまちがえると、子どもは、「まだ以前のほうが、症状が軽かった…」ということ
を繰り返しながら、さらに二番底、三番底へと落ちていく。よくあるケースは、(門限を破
る)→(親に叱られる)→(外泊するようになる)→(また親に叱られる)→(家出する)
→(さらに親に叱られる)→(集団非行)と。
が、それでもうまくいかなかったら…。そういうときは、思いきって引いてみる。相手
の子どもを、ほめてみる。「あの○○君、おもしろい子ね。好きよ。今度、このお菓子、も
っていってあげてね」と。
あなたの言ったことは、あなたの子どもを介して、必ず相手の子どもに伝わる。それを
耳にしたとき、相手の子どもは、あなたの期待に答えようと、よい子を演ずるようになる。
相手の子どもを、いわば遠隔操作するわけだが、これは子育ての中でも、高等技術に属す
る。あとはそれをうまく利用しながら、あなたの子どもを導く。
なおこれはあくまでも一般論だが、少年少女期に、サブカルチャ(非行などの下位文化)
を経験した子どもほど、おとなになってから常識豊かな人間になることがわかっている。
むしろこの時期、無菌状態のまま、よい子(?)で育った子どもほど、あとあと、おとな
になってから問題を起こすことが多い。
だから、親としてはつらいところかもしれないが、言うべきことは言いながらも、今の
状態をそれ以上悪くしないことだけを考えて、様子をみる。あせりは禁物。短気を起こし
て、子どもを叱ったり、おどしたりすればするほど、子どもは、二番底、三番底へと落ち
ていく。
(雑誌「ファミリス」04年3月号投稿済み)
● 夫婦の問題
読者の方から、こんな書き込みがあった。
「はやし先生こんにちは。メルマガ読者のNGです。
今回は相談したいことがあるので、こちらにお邪魔します。
下に2・7配信分のメルマガの一部を抜粋させていただきます。
『読者の方からの相談より……
身近に離婚寸前の人がいるが、どうしたらいいか
だから身近で、こういう問題が起きたら、ただひたすら、
暖かく無視してやるのがよい。へたに首をつっこむと、ヤケドする』
……という部分ですが、実はこの部分が今の私に
あまりにもピッタリで驚きました。
そして同時に先生のお考えも聞かせていただきたいと思いました。
私の場合、(離婚問題をかかえているのは)私の夫の姉夫婦です。
夫の姉が7月に4歳になる息子を連れて実家に戻っています。
書類は未提出,息子に何も話していない、こんな状態ですが
時期が時期だけに実家の近くの幼稚園への入園準備を
少し進めているところです。はっきり言って、私は心穏やかでいられません」
NGさんは、「他人なら暖かく無視もできるが、身内だと、それはむずかしい」と言って
いる。しかしやはり、夫婦の問題は、夫婦に任せる。「暖かい無視」が、一番、よい。
相手の女性(=夫の姉)には、いろいろ言いたいこともあるだろう。聞きたいこともあ
るだろう。おまけに説教してやりたいこともあるだろう。しかしそれでも、「暖かい無視」
が、一番、よい。理由が、ある。
夫婦の問題は、超の上に超がつく、プライベートな問題。言葉で語りつくせない問題も
ある。外に現れていない問題もある。またそういう問題のほうが、多い。だから他人が、(た
とえ身内でも)、干渉しても、意味はない。また解決しない。
「愛」の問題、一つとりあげても、愛の消えた二人をくっつけるのは、愛しあう二人を
別れさせるより、もっとむずかしい。
さらに、夫に蹴られても、殴られても、その夫がよいと、その夫についていく妻もいる。
五年間、セックスレスで、家庭内別居状態でも、それなりにうまくやっている夫婦もいる。
幸福な夫婦は、みな、よく似ているが、不幸な家庭は、まさに千差万別。定型がない。そ
の定型がない分だけ、外の人が、「定型」を求めても意味は、ない。
で、仮にそういう問題にクビをつっこんだとしよう。
相手は、極度の緊張状態にある。あなたがどんな言い方をしても、相手は、それを (い
らぬ節介)ととる。何も問題は解決しない。「口を出すことくらいなら、だれにでもできる。
本当に助ける気があるなら、金を出せ」と。
こういう状態では、結果がどうなっても、あなたは生涯にわたって、うらまれるだけ。
どうころんでも、あなたとの人間関係は、こなごなに破壊される。あなたの実姉ならとも
かくも、義姉なら、なおさらだ。これを俗世間では、「ヤケド」という。
言うべきことがあるとするなら、「いろいろたいへんだったのね」という、ねぎらいと、
慰めの言葉だ。まちがっても、「あんた、どういうつもり」式に、相手を責めてはいけない。
相手から具体的に相談があるまで、そっと、暖かく見守ってあげる。このケースでは、「子
どもを預かってあげようか」と言ってあげる。そういうやさしさが、義姉の心を溶かす。
説教するのは、つぎのつぎ。
いくら喧嘩しても、一晩、裸で抱きあえば、また仲なおりする。そういう夫婦もいる。
年がら年中、離婚騒動を繰りかえしながら、それでもうまくやっている夫婦もいる。夫の
浮気を、容認しながら、自分は自分で、好き勝手なことをしている妻もいる。実のところ、
夫婦の仲ほど、外からわからないものはない。
似たような離婚騒動で、すったもんだのあげくの果て、夫が迎えにきただけで、スーッ
とついていってしまった妻もいる。あっけにとられたのは、まわりの人たち。
だから、ここは慎重に。やはり暖かく無視してあげるのがよい。が、それでも……とい
うのであれば、あとは、自分で考えて行動したらよい。知〜ラナイ。
(040207)
●「ウチ意識」
どこからどこまでが、「ウチ」で、どこから先が、「ウチ」でないのか。よく学校の先生
が、この言葉を使う。「ウチの生徒が、不祥事を起こしました」「ウチの生徒が、○○賞を
受賞しました」と。
こういう意識を、「ウチ意識」という。内側の「内」という意味である。
このウチ意識は、さまざまな形で、さまざまな方向から、一人の子ども(人間)をしば
る。数年前も、こういうことがあった。
一人の中学生が、何かの英語のスピーチコンテストで、優勝した。全国大会での優勝で
ある。そのときのこと。
その子どもが通っていた英会話教室の前を見たら、その子どもの写真と、新聞記事を大
きく引き伸ばした写真が、誇らしげに飾ってあった。「ウチの子ども」とは書いてなかった
が、「GG君が、見事、優勝!」と。
同じころ、その子どもが通う中学校の先生も、こう言った。「ウチの生徒が……」と。
もちろん親にしてみれば、「ウチの子ども」ということになる。しかし問題は、このこと
ではない。
こうした「ウチ意識」には、両面性がある。(しばる側)と、(しばられる側)である。
つまりウチ意識によって、親や教師を子どもをしばる。しかしその一方で、しばられる側
は、ウチ意識によって、親や教師に、しばられる。しばられながら、自ら、親や教師に帰
順しようとする。そしてそれが高じた状態が、「忠誠」ということになる。
その中身と言えば、保護と依存の関係ということになる。もちろん保護と依存の関係が
悪いというのではない。親子の間には、ある程度、保護と依存の関係があって、当たり前
である。教師と生徒の間でも、そうだ。しかし問題は、その程度。
言うまでもなく、保護と依存の関係が強ければ強いほど、子どもの自立は、遅れる。そ
こで親は、子育てをしながら、その保護意識を弱めていかねばならない。同時に、子ども
の依存性を、はねのけていかねばならない。
そこで最初のウチ意識の話にもどる。
●ウチ意識の正体
このウチ意識の正体は何かというと、保護を超えた、支配意識であることがわかる。「ウ
チ」という言葉を使って、親や教師は、子どもを私物化する。私物化した上で、子どもを
支配する。
一方、子どもの側は、私物化された上で、親や教師に帰属する。ばあいによっては、隷
属する。
ここで誤解してはいけないのは、帰属する側にとっては、帰属することは、決して不快
なことではないということ。人間関係をうまく結べない人(子ども)は、よく、相手に隷
属することによって、自分にとって居心地のよい世界を作ろうとする。たとえば集団非行
が、それにあたる。
隷属することは、それ自体、甘美なことでもある。ほかによく見られるのは、どこかの
カルト教団の信者が、その教団に隷属するケースである。
こうした信者は、教団に、徹底的に隷属することで、まず「考える」という習慣を放棄
する。そして一方的に、まさに上意下達(かたつ)方式で、思想を注入してもらう。それ
はたいへん楽な世界でもある。
子どもは、隷属することで、自分にとって居心地のよい世界をつくる。そしてそれが(し
ばられる側)の、「ウチ意識」をつくる。子ども自身までが、「ウチの学校は……」と言い
出す。
●日本人独特の意識
今、気づいたが、これは言葉の問題か。
よく日本では、自分の母校を指さして、「あれは、ぼくの学校」というような言い方をす
る。しかし英語では、そういう言い方をしない。「あれは、ぼくが通った学校」というよう
な言い方をする。
学校の先生にしても、日本では、「ウチの生徒が……」というような言い方をする。しか
し英語では、「この学校に通う生徒が……」というような言い方をする。
私も一度、失敗したことがある。
オーストラリアの友人に、私の母校(高校)の写真を送り、「This is my school.(これは
ぼくの学校だ)」と書いてしまった。その友人は、その学校を、私が所有する学校と勘ちが
いしてしまった。
しかしこれはどうやら言葉だけの問題でもなさそうだ。
日本人は、いまだに江戸時代の身分制度の亡霊を引きずっている。少し前までは、職業
で、その人の価値が判断された。「少し前」というのは、私が学生時代のことだ。
ウソだと思うなら、現在、60代、70代の人と、ていねいに話しあってみるとよい。
ほとんどの人が、そういう意識を、もっているのがわかる。
私もあるとき、ある男(現在70歳)に、こう言われたことがある。「君は、学生時代、
学生運動か何かをしていて、どうせロクな仕事にありつけなかったのだろう」と。つまり
「幼稚園での講師は、ロクな(=たいした)仕事ではない」と。
そこで日本人独特の、学歴意識が生まれ、つづいて大企業意識が生まれた。わかりやす
く言えば、どこのどういう団体に属しているかで、その人の身分や、価値が決まった。そ
れはまさしく、江戸時代の亡霊以外の、何ものでもない。
そしてそういう意識から、「ウチ意識」が生まれた。
少し飛躍した考え方のように思う人がいるかもしれない。しかしこうした意識は、日本
に生まれ育ち、日本だけしか知らない人には、理解できないかもしれない。脳のCPU(中
央演算装置)の問題だからである。
一つの例としてよくあげられるのは、こんな話である。
ブラジルで、現地の人に、私自身が、聞いた話である。
ドイツ人は、ブラジルへ移住してくると、彼らは、好んで、人里離れた場所に、ひとり
で住みたがる。しかし日本人は、ブラジルへ移住してくると、すぐ日本人どうしが集まり、
そこでグループをつくる、と。
ドイツ人の移民は、移住したそのつぎの日から、「ぼくはブラジル人だ」というが、日本
人は、二世になっても、三世になっても、「ぼくは日本人だ」「日系人だ」と、言いつづけ
る、と。
当然のことながら、「ウチ意識」が強ければ強いほど、そうでない世界の人を排斥する。
そして自分でも、新しい社会に、同化できなくなる。
●ウチ意識がもつ問題
「ウチ」、つまり「内」の反対が、「外」。「ウチ意識」の反対側にいる人間を、日本では、
「ガイジン(外人)」という。
今では、そういう意識もないまま使うことが多いが、「ガイジン」という言葉は、少し前
までは、差別用語として使われていた。
たとえば日本に住む外国の人たちは、どういうわけか、自分たちが、「ガイジン」と呼ば
れるのを、嫌う。心のどこかで、その差別を感ずるからではないのか。
先にも書いたように、この「ウチ意識」には、(守りあう)という意味のほか、その外の
世界の人を、排斥するという意味も含まれる。と、同時に、その意識が強ければ強いほど、
その人自身も、外の世界に同化できなくなる。
たとえばカルトと呼ばれる宗教団体では、ほかの宗教団体との接触を、きびしてく禁じ
ているところが多い。もう30年ほど前のことだが、こんな事件があった。
中学校の修学旅行で、京都のどこかの神社へ行ったときのこと。一人の子ども(男子)
が、神社の鳥居の前で、かがんで、動かなくなってしまったという。引率の教師が見ると、
その子どもは、青い顔をして、体をワナワナと震わせていたという。
あとで聞くと、その中学生一家は、ある仏教系宗教団体に属していた。そしてその宗教
団体では、「神社へ行くだけでも、バチが当たる」と、信者に教えていた。つまりその中学
生は、その「バチ」におびえた。
これは極端な例だが、「ウチ」という言葉には、そういう意味も含まれる。
●ウチ意識との戦い
自分の中にひそむ「ウチ意識」と、どう戦っていくか。それはとりもなおさず、自由へ
の戦いということになる。
あなた自身も、そのウチ意識という無数の糸に、しばられている。あるいは反対の形で、
あなたの家族や、職場の人を、無数の糸でしばっているかもしれない。
こうした問題は、私の教室でも、ないことはない。
冒頭にあげた、GG君というのは、実は、私がそのときまでに、11年間教えてきた子
どもである。幼稚園の年中児のときから、中学三年までだから、そういう計算になる。
本当のことを言えば、私は堂々と、「ウチの生徒」と言いたかった。しかし学校の先生が、
先に「ウチの生徒」と言い出してしまった。つづいて、英会話教室の先生が、先に、「ウチ
の生徒」と言い出してしまった。
しかし実際には、私は、そうした成果(?)を、誇ったことは、過去に一度もない。子
どもたち(生徒たち)だって、そうは思っていない。
私は親から委託された仕事を、忠実にこなすだけ。お金をもらっているのだから、それ
は当然のことではないか。だからその成果があっても、それはある意味で当たり前のこと
で、誇るべきことではない。
最近でこそ、少し元気がなくなったが、私の教室の進学率は、どこの進学塾にも、負け
なかった。はじめて教えた四人の女子高校生たちは、全員、東京女子、お茶の水女子大、
慶応大、フェリス女子大などの大学へと進学していった。こうした実績(?)は、それか
ら10年あまりもつづいた。今から、33年前のことである。
しかし私は、「ウチの生徒」という言い方をしたことがない。それは私自身が、「ウチ」
という言葉で、がんじがらめに、しばられているからにほかなからない。そしてその不快
感を、いやというほど、感じているからにほかならない。
で、この問題は、やがて、親子の問題へと、もどってくる。
●泣き明かした母親
K氏(52歳・男性)が、私に、こんな話をしてくれた。
「私の母は、私が結婚した夜、『悔しくて、悔しくて、泣き明かした』というのですね。
最近になって、叔母から、その話を聞きました。私の前では、変った様子は見せなかった
のですが、私の知らないところで、母が、叔母にそんな話をしていたと知り、ショックを
受けました」と。
K氏の母親が、なぜ泣き明かしたか。理由など言うまでもない。K氏の母親は、息子を、
嫁に取られた悔しさから、泣いた。
こうした例は、少なくない。日本人なら、心情的に共感を覚える人も、多いはず。しか
しこの母親の意識の中に、日本人がもつ、独特の「ウチ意識」の原型をみる。その母親に
してみれば、K氏は、「私の息子」をはるかに超えた、「ウチの息子」なのだ。
しかし同時にここで理解しなければならないのは、K氏自身が感じたであろう、不快感
である。K氏は、「ぞっとした」とか、「もういいかげんにしてほしいと思った」などと、
どこか笑いながら言った。が、そんな生(なま)やさしいものではなかったというのが、
正しい。
K氏は、こうも言った。「私はね、ストーカーにねらわれる女性の気持ちが、はじめてわ
かりました」とも。
つまりそれに似た不快感を、K氏は、味わったという。「ウチ意識」も、高ずると、そこ
まで相手をしばる。そしてその意識に、相手も、しばられる。
●私は私論
この「ウチ意識」と戦うためには、どうするか。自分がしばられるのは、しかたないと
しても、自分自身の中にある「ウチ意識」と、どう戦うか。
その一つの方法が、「私は私論」がある。
どこまでいっても、「私は私。あなたはあなた」をつらぬく。こうして私を確立すること
によって、その結果として、相手をからめる糸を切る。しかしこれには、大きな条件があ
る。
糸を切るためには、自分を、それなりに、高めなければならない。「ウチ意識」そのもの
は、低次元な意識である。それはまちがいないが、その低次元さがわかるまで、自分を高
めなければならない。
よい例が、進学塾の、自己宣伝である。「04年度、SS高校XXX名、合格!」と。
恐らく進学塾の経営者は、そういう低次元な宣伝をしながらも、それを低次元とは思っ
ていないだろう。あるいは、誇らしくすら思っているかもしれない。
言うまでもなく、そう思うのは、自分自身が低次元だからである。知的能力はともかく
も、人間的には、どうしようもないほど、低次元である。そうした低次元性に、まず、気
がつかねばならない。
相手が低次元であるということは、自分がより高い山に登ってみてはじめてわかること。
つまり私が私であるためには、その私を高めなければならない。でないと、どこかのカル
ト教団の本部へ、どこかアホじみた笑顔(失礼!)をつくって参拝する、あのオジチャン
やオバチャンと、同じようなことをすることになる。
「私は私」という意識は、その結果として、その人にもたらされる。そしてそれを土台
として、自分の中にひそむ「ウチ意識」と戦うことができる。
●自由への道
ウチ意識があるかぎり、その人の魂の自由はない。「ウチの息子」「ウチの娘」「ウチの財
産」「ウチの名誉」「ウチの地位」などなど。
それはちょうど、金持ちが、泥棒を恐れるのに似ている。へたにお金があるから、泥棒
をこわがる。心配する。どこかへ旅行にでかけても、気が休まらない。
しかしもしその財産がなければ、どうなるか。昔からこう言う。『無一文の人は、泥棒を
心配しない』と。盗まれるものが、ないからだ。
同じように、へたに「ウチ意識」があるから、その人は、その人自身の「ウチ意識」に
しばられてしまう。そして身動きがとれなくなってしまう。が、もしその人から、「ウチ意
識」を取ったら、どうなるか。
そうなれば、もうこわいものはない。と、同時に、その人の魂は、解放される。その人
は、真の自由を手に入れることができる。
「ウチ意識」……だれでももっている、ごく何でもない意識だが、この意識には、さま
ざまな問題が隠されている。そしてこの問題を考えていく過程で、私は、「真の自由」への
道のヒントを得た。
まだこの問題については、考えなければならない点もいくつかある。思想的にも、不備
な点もある。それはまた別の機会に考えるとして、ひとまず、ここで筆をおく。みなさん
の生きザマの何かの、参考になれば、うれしい。
ついでに一言。
真の自由を手に入れるために、一つの方法としては、「ウチの……」というような言い方
をしたら、どんなときそう言うのか、そのときの心の中身を、さぐってみるとよい。
もしそのとき、ふと、その言葉に戸まどいを覚えたら、あなたはすでに、自由への一歩
を踏み出したことになるのでは……。ここから先のことは、まだ私にも、よくわからない
ので、ここまでにしておく。
(040211)(はやし浩司 うち意識 ウチ意識 うち論 ウチ論)
●負けず嫌い
何かのゲームや試合で負けたり、算数の問題なのでまちいを指摘されたり、あるいは人
前で失敗したりすると、異常な、つまりふつうの子どもなら見せないような反応を示す子
どもがいる。
ワーッと興奮的に泣き出したり、かたまってしまったり、かたまったまま、涙をポロポ
ロとこぼしたりする。
他人との接触が、うまくできない子どもに見られる症状であることから、自閉症、もし
くは自閉傾向とも考えられるが、自閉症の子どもが、集団生活が困難なのとちがい、この
タイプの子どもは、集団生活が、できなくない。(自閉症には、言語の発達障害が見られる
が、このタイプの子どもには、見られない。)
自閉症の三大症状は、@対人相互交渉ができない、Aものごとに異常にこだわる(固執
行動)、B言語の発達障害である。
これに対して、どこか自閉症的ではあるが、Bの言語の発達障害の見られない子どもを、
アスペルガー障害児という。オーストラリアの小児科医のアスペルガーがつけた、名前で
ある。
で、子どものばあい、「障害」というレベルではなくても、それを薄めた症状を示すこと
はよくある。たとえばADHD児についても、出現率は、約5%と言われているが、その
傾向のある子どもも含めると、ずっと、多くなる。10人に1人は、いる。
で、このアスペルガー障害についても、その傾向の見られる子どもは、少なくない。圧
倒的に男子に多いとされるが、兄弟で、似たような症状を示すことも多いので、遺伝的な
要素がからんでいるとみてよい。
で、このタイプの子どもは、ある特定のことがらに、ふつうでない興味と関心を示す。
たとえば図鑑を、すべて読破して、暗記してしまうなど。科目でいえば、算数なら算数に、
特異な才能を示すこともある。
一般論から言えば、「かたまる」という行為は、子どもの世界では、決して好ましいこと
ではない。「がんこ」というのが、それ。
子どもは自らをカラの中に押しこみ、外との世界を遮断することがある。遮断すること
によって、自分の心を防衛しようとする。これを心理学の世界では、防衛機制という。よ
く知られた例としては、かん黙症がある。
この(がんこ)は、(意地)、もしくは(わがまま)と区別して考える。意地には、理由
がある。わがままにも、それなりの理由がある。しかしがんこには、理由が、ない。
で、自閉症はもちろん、アスペルガー障害にせよ、またそれを薄めた形の症状を示す子
どもにせよ、治療法は、まだ確立されていない。(効果的な指導法というのは、熱心な教育
者たちによって、提唱され、実践されてはいるが……。)
だから指導法としては、そういう子どもであることを認めた上で、無理をしないで、そ
の上で、指導法を組み立てるしかない。無理をすれば、かえって症状をこじらせる。
そのため、まず自分の子どもの心が、どういう状態であるかを、正確に知る。一番こわ
いのは、無知なまま、我流の指導法なり、治療法を子どもに押しつけること。たとえばA
DHD児に対して、半暴力的な指導を繰りかえすなど。
かん黙児にしても、家の中ではふつうに会話をしたりするため、親が、それに気づくこ
とは、まずない。外の世界では、いつもどこか意味のわからない柔和な笑みをたたえてい
ることが多い。そのため、子どもを叱ったり、ばあいによっては、「園が悪い」「先生が悪
い」と言い出したりする。
がんこな子どもも、そうである。
このタイプの子どもは、叱れば叱るほど、ますますかたまってしまう。そしてつぎに同
じような状況になったとき、症状は、さらにこじれる。
ある男の子は、2年間、お迎えの先生にあいさつをしなかった。また別の男の子は、自
分の席でないと、ぜったいに座ろうとしなかった。またさらに別の男の子は、毎日決まっ
たズボンでないと、幼稚園へは行かなかった。
大切なことは、あきらめて、子どもの見えない意識に従うしかない。あとは時間が解決
してくれるのを、待つ。たとえば満10歳くらいから、自己意識が急速に発達してくる。
自分で自分をコントロールしようとする意識と考えてよい。
この意識が育ってくると、子どもは、自己コントロールするようになり、症状的には、
つまり、見た目には、わかりにくくなる。
で、冒頭の話だが、もしそそのような症状が見られたら、そういうものとあきらめて、
その場をそれとなくやりすごすのがよい。「うちの子は、負けず嫌い」と思えば、それでよ
い。「プライドが強い」と思うのも、よい。ここにも書いたように、満10歳前後を過ぎる
と、こうした症状は、急速に姿を消す。
●一人っ子の問題
よく一人っ子が、話題になる。「一人っ子の問題点は何か?」と。
もちろん子どもが一人であることによる、問題が、ないわけではない。しかしそれ以上
に、大きな問題は、子どもの問題ではなく、親の問題である。
よく『子どもも、三人、育てて、親も一人前』という。それはそのとおりで、親も、二
人目、三人目になって、はじめてうまく子育てができるようになる。その一方で、たいて
い、長男(長女)の子育てでは、失敗する。
手をかける、時間をかける、お金もかける。そして毎日が、不安の連続。「無事、幼稚園
へ入れるだろうか」「無事、小学校へ入れるだろうか」と。
親を責めているのではない。その親にとっては、何もかも、はじめて。昔なら、そばに
祖父母がいて、あれこれアドバイスしてくれた。しかし、今は、それもない。
が、二人目、三人目となると、親のほうに、心の余裕ができてくる。何か問題が起きて
も、「まあ、こんなもの」と乗りきることができる。そうした親側の余裕が、一方で、子ど
もを、伸びやかにする。
つまり、一人っ子は、まさに下に弟や妹がいない、長男もしくは、長女ということにな
る。
が、ここで誤解してはいけないのは、そのときでも、子どもに問題があるのではなく、
親の育て方に問題があるということ。
こういう例は、本当に、多い。
過干渉と溺愛で、ハキのない子どもにしておきながら、「どうしてウチの子は、元気がな
いのでしょう」と相談してくる、親がいる。
無理や強制を、重ねるだけ重ね、子どもを勉強嫌いにしておきながら、「どうしてウチの
子は、勉強しないのでしょう」と相談してくる、親がいる。
親は、子どもに何か問題が起きると、その子どもを、何とかしようとする。「なおす」と
いう言葉を使う人も多い。
しかし問題は、繰りかえすが、子どもにあるのではな。親の育て方にある。どうして、
世の親たちよ、それに気づかない!
で、一人っ子についても、同じ。一人っ子の問題は、総じて、親の問題と考えてよい。
こんなことがあった。
小五の女の子に、Rさんという子どもがいた。行動的で、頭もよい。利発で、その上、
性格も安定していた。そのRさんについて、Rさんの母親が、ある日、こう言った。
「毎日、大喧嘩です。生意気で、私の言うことなど、まったく聞きません。その上、家
では勉強しなくて、困っています」と。
このケースのばあい、Rさんには、まったく問題はなかった。Rさんの母親は、ほかに、
「今に非行少女になるのでは……」「今に構内暴力事件を起こすのでは……」とも、言って
いた。
しかしその心配は、まったくなかった。そんなことは、少し子どもを見る目の人なら、
すぐわかる。
問題は、Rさんの母親にあった。
Rさんは、親離れを始め、思春期の反抗期にさしかかっていた。この時期、子どもの精
神状態は、いつも緊張した状態になる。ささいなことで、突発的にピリピリしたりする。
むしろ、そうした反抗期のない子どものほうが、心配なのである。
が、Rさんの母親には、それが理解できなかった。何しろ、「すべてが、はじめての経験」
である。だからRさんのささいな言動をとらえては、母親は、ことおさら大げさに、それ
を悩んだ。問題にした。
しかも一人っ子ということで、親の関心が、どうしても、その子どもだけに集中してし
まう。つまり日常的に過関心状態になる。
だから一人っ子のときは、親が過保護傾向にあると、極端な過保護に走りやすくなる。
過干渉、溺愛についても、そうである。
Rさんのケースでも、Rさんには、何も問題はなかった。問題は、母親にあった。しか
し母親は、それに気づいていなかった。会うたびに、顔を曇らせて、「どうしてでしょう?」
「どうしてでしょう?」と、相談してきた。
そこで教訓。
一人っ子のときは、親は、さらに人一倍、子どもについての知識をもたねばならない。
何ごとも、一回かぎりの、まさに一発勝負。子どもにかかわりあう時間が多いだけに、失
敗するときは、失敗する。しかも一度失敗すると、その失敗も、大きい。子どもに対する
期待が大きいと、なおさら、そうだ。
そして子どもに何かの問題を感じたら、子どもの問題と思うのではなく、親自身の問題
と思うこと。そして「子どもをなおそう」と考えたら、「自分をなおそう」と思うこと。つ
まり一人っ子の問題は、かぎりなく、親自身の問題と考えてよい。
(040212)(はやし浩司 一人っ子 一人っ子の問題)
●ドラ息子について……
こんな相談があった(掲示板)。
+++++++++++++++++++++
先生の「ドラ息子」の記事を読みました。
私の息子(小3)も、ドラ息子だと思います。
決められたこと、目標など、何度言ってもやりません。
決められたことは、簡単なことで、たとえば、
学校の手紙を見せるとか、そういうことです。
それで怒ったり、説教をしたり、一緒に考えたり・・・
この半年間、ずっと戦ってきましたが、まったくダメです。
親が強い態度に出ると、一応聞くふりをしますが、約束を、すぐに破ります。
ですが、学校の先生の話はよく聞き、約束なども守ります。
主人は、「そういうときは、相手にしなければいい」と言いますが、
怒られたときの週末は、部屋にこもって、出てこないときもあり、
食事も取らず、お風呂にも入らず、そのまま過ごすこともあります。
それを外で、「ご飯を食べさせてもらえない」と言って、
近所の人にお菓子をもらったり、
落ちている物を、拾って食べたりするので、困っています。
先生、どうしたらよいのでしょう?
+++++++++++++++++++++++
子どもには、大きく分けて、三つの世界がある。「家庭」を中心とする、第一社会。「学
校」を中心とする、第二社会。それに「友人」を中心とする、第三社会。
子どもは、これら三つの社会で、自分を使い分ける。とくに、小学三年生という年齢は
、子どもが、親離れを始める時期でもある。たとえば女児でも、それまでは父親といっし
ょに風呂へ入っていたのが、このころになると、急速に、それをいやがるようになる。
第二、第三社会の比重が大きくなるにつれて、家庭の役割も、相対的に小さくなり、同
時に、家庭の役割も変ってくる。
それまでは家庭は、しつけや教育の場であったのが、この時期になると、家庭は、「憩い
の場」「安らぎの場」と、変ってくる。子どもは、外の世界で疲れた体や心を、家庭の中で、
いやすようになる。
「学校のことを話さなくなった」というのは、この時期の子どもの変化としては、よく
あることである。
で、相談の件。
「ドラ息子かどうか」は、心をみて、判断する。
ドラ息子症候群については、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。(興味のある
人は、私のHPのトップページより、「タイプ別育て方」に進んでほしい。)
その中でもとくに注意しなければならないのは、心の変化である。たとえば、@他人の
心の動きに鈍感になる(ほかの子どもが悲しんでいても、理解できない)、A他人の心を平
気で、キズつける(「バカ」とか、「アホ」とか、暴言を吐く)、B自己中心的なものの考え
方が、支配的になる(自分以外の人間には、価値がないと思う)など。
目標が守れない、規則が守れないというのは、広く「退行症状」として考えられている。
もちろんドラ息子にも見られる症状だが、その退行症状があるからといって、ドラ息子と
いうことにはならない。
(「ドラ息子」というのは、俗に、そう言うだけで、必ずしも、明確な定義があるわけで
はない。要するにわがままで、自分勝手、それに自己中心的な子どものことをいう。)
この相談の方の子どもがそうであるかないかという話は別として、仮に自分の子どもが
ドラ息子であるとしても、それは子どもの責任ではない。親の責任である。わかりやすく
言えば、家庭教育の失敗が原因。
そういう失敗の原因を自分に向けることなく、「子どもが悪い」「子どもをなおそう」
「どうしたらいい」と悩んでも、こういうケースでは、ほとんど、意味がない。改めるべ
きは、子どもではなく、家庭教育そのもののあり方である。
で、母親は、こう言っている。「……ですが、学校の先生の話はよく聞き、約束なども守
ります」と。
であるとするなら、それほど、問題はないのではないのか。どこの世の中に、今どき、
父親や母親が作った規則や目標を、従順に守る子どもなど、どこにいるだろうか。もしそ
うなら、この世の中、すべてみな、優等生……ということになってしまう!
気になる点もないわけではない。
・部屋にこもって、出てこないことがある。
・食事も取らず、お風呂にも入らず、そのまま過ごすこともある。
・外で、「ご飯を食べさせてもらえない」と言う。
・近所の人にお菓子をもらう。
・落ちている物を、拾って食べたりする。
どこか強圧的な家庭環境の中で、子ども自身が、常識をなくしているのではないかと思
われる。自分で考えて、自分で行動するという雰囲気にも、欠けるのでは? とくに、「落
ちているものを、拾って食べる」という点が、気になる。(私は、道路に落ちているものを
食べるというふうに、解釈したが……。)
子どもへの接し方が、過干渉になっていないかを、反省する。そしてもしそうなら、一
度、子どものリズムに合わせた生活習慣にする。(と言っても、これはたいへんむずかしい。
生活のリズムというのはそういうもので、簡単には変えられない。)
全体として受ける印象では、この母親は、たいへん親意識(親風を吹かしやすいという
意味で、悪玉親意識)が強いように思われる。自分自身も、そういう家庭環境で育ってき
たからと考えてよい。
結論としては、この中で、父親が言っている言葉が正解だと思う。(情報量が少ないので、
何とも言えないが……。)
「そういうときは、相手にしなければいい」。
へたに相手にするから、子どものほうも、ムキになる。子どもの世界には、こんな鉄則
もある。『男の子のことは、父親に任せ』と。母親にとって、男児は、異性である。その異
性であるという戸まどいが、ときとして、親子関係をギクシャクさせる。
私は、そのギクシャクした様子を、この母親の家庭に感じる。いくつか参考になりそう
な原稿を、添付しておく。
(040213)
++++++++++++++++++
親子の断絶が始まるとき
●最初は小さな亀裂
最初は、それは小さな亀裂で始まる。しかしそれに気づく親は少ない。「うちの子に限っ
て……」「まだうちの子は小さいから……」と思っているうちに、互いの間の不協和音は
やがて大きくなる。そしてそれが、断絶へと進む……。
今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は五五%もいる。「父親のようにな
りたくない」と思っている中高校生は七九%もいる(『青少年白書』平成一〇年)(※)。
が、この程度ならまだ救われる。親子といいながら会話もない。廊下ですれ違っても、
目と目をそむけあう。まさに一触即発。親が何かを話しかけただけで、「ウッセー!」と、
子どもはやり返す。そこで親は親で、「親に向かって、何だ!」となる。あとはいつもの
大喧嘩!
……と、書くと、たいていの親はこう言う。「うちはだいじょうぶ」と。「私は子どもに
感謝されているはず」と言う親もいる。しかし本当にそうか。そこでこんなテスト。
●休まるのは風呂の中
あなたの子どもが、学校から帰ってきたら、どこで体を休めているか、それを観察して
みてほしい。そのときあなたの子どもが、あなたのいるところで、あなたのことを気に
しないで、体を休めているようであれば、それでよし。あなたと子どもの関係は良好と
みてよい。
しかし好んであなたの姿の見えないところで体を休めたり、あなたの姿を見ると、どこ
かへ逃げて行くようであれば、要注意。かなり反省したほうがよい。ちなみに中学生の
多くが、心が休まる場所としてあげたのが、@風呂の中、Aトイレの中、それにBふと
んの中だそうだ(学外研・九八年報告)。
●断絶の三要素
親子を断絶させるものに、三つある。@権威主義、A相互不信、それにBリズムの乱れ。
権威主義……「私は親だ」というのが権威主義。「私は親だ」「子どもは親に従うべき」
と考える親ほど、あぶない。権威主義的であればあるほど、親は子どもの心に耳を傾け
ない。「子どものことは私が一番よく知っている」「私がすることにはまちがいはない」と
いう過信のもと、自分勝手で自分に都合のよい子育てだけをする。子どもについても、自
分に都合のよいところしか認めようとしない。あるいは自分の価値観を押しつける。一方
、子どもは子どもで親の前では、仮面をかぶる。よい子ぶる。が、その分だけ、やがて心
は離れる。
相互不信……「うちの子はすばらしい」という自信が、子どもを伸ばす。しかし親が「心
配だ」「不安だ」と思っていると、それはそのまま子どもの心となる。人間の心は、鏡のよ
うなものだ。イギリスの格言にも、『相手は、あなたが思っているように、あなたのことを
思う』というのがある。つまりあなたが子どものことを「すばらしい子」と思っていると、
あなたの子どもも、あなたを「すばらしい親」と思うようになる。そういう相互作用が、
親子の間を密にする。が、そうでなければ、そうでなくなる。
リズムの乱れ……三つ目にリズム。あなたが子ども(幼児)と通りをあるいている姿を、
思い浮かべてみてほしい。(今、子どもが大きくなっていれば、幼児のころの子どもと歩い
ている姿を思い浮かべてみてほしい。)そのとき、@あなたが、子どもの横か、うしろに立
ってゆっくりと歩いていれば、よし。しかしA子どもの前に立って、子どもの手をぐいぐ
いと引きながら歩いているようであれば、要注意。今は、小さな亀裂かもしれないが、や
がて断絶……ということにもなりかねない。
このタイプの親ほど、親意識が強い。「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」
と豪語する。へたに子どもが口答えでもしようものなら、「何だ、親に向かって!」と、
それを叱る。そしておけいこごとでも何でも、親が勝手に決める。やめるときも、そう
だ。
子どもは子どもで、親の前では従順に従う。そういう子どもを見ながら、「うちの子は、
できのよい子」と錯覚する。が、仮面は仮面。長くは続かない。あなたは、やがて子ど
もと、こんな会話をするようになる。親「あんたは誰のおかげでピアノがひけるように
なったか、それがわかっているの! お母さんが高い月謝を払って、毎週ピアノ教室へ
連れていってあげたからよ!」、子「いつ誰が、そんなこと、お前に頼んだア!」と。
● リズム論
子育てはリズム。親子でそのリズムが合っていれば、それでよし。しかし親が四拍子で、
子どもが三拍子では、リズムは合わない。いくら名曲でも、二つの曲を同時に演奏すれ
ば、それは騒音でしかない。
このリズムのこわいところは、子どもが乳幼児のときに始まり、おとなになるまで続く
ということ。そのとちゅうで変わるということは、まず、ない。たとえば四時間おきに
ミルクを与えることになっていたとする。そのとき、四時間になったら、子どもがほし
がる前に、哺乳ビンを子どもの口に押しつける親もいれば、反対に四時間を過ぎても、
子どもが泣くまでミルクを与えない親もいる。
たとえば近所の子どもたちが英語教室へ通い始めたとする。そのとき、子どもが望む前
に英語教室への入会を決めてしまう親もいれば、反対に、子どもが「行きたい」と行っ
ても、なかなか行かせない親もいる。こうしたリズムは一度できると、それはずっと続
く。子どもがおとなになってからも、だ。
ある女性(三二歳)は、こう言った。「今でも、実家の親を前にすると、緊張します」と。
また別の男性(四〇歳)も、父親と同居しているが、親子の会話はほとんど、ない。ど
こかでそのリズムを変えなければならないが、リズムは、その人の人生観と深くからん
でいるため、変えるのは容易ではない。
●子どものうしろを歩く
権威主義は百害あって一利なし。頭ごなしの命令は、タブー。子どもを信じ、今日から
でも遅くないから、子どものリズムにあわせて、子どものうしろを歩く。横でもよい。決
して前を歩かない。アメリカでは親子でも、「お前はパパに何をしてほしい?」「パパはぼ
くに何をしてほしい?」と聞きあっている。そういう謙虚さが、子どもの心を開く。親子
の断絶を防ぐ。
※ ……平成一〇年度の『青少年白書』によれば、中高校生を対象にした調査で、「父親を
尊敬していない」の問に、「はい」と答えたのは五四・九%、「母親を尊敬していない」
の問に、「はい」と答えたのは、五一・五%。また「父親のようになりたくない」は、
七八・八%、「母親のようになりたくない」は、七一・五%であった。
この調査で注意しなければならないことは、「父親を尊敬していない」と答えた五五%
の子どもの中には、「父親を軽蔑している」という子どもも含まれているということ。また、
では残りの約四五%の子どもが、「父親を尊敬している」ということにもならない。この中
には、「父親を何とも思っていない」という子どもも含まれている。白書の性質上、まさか
「父親を軽蔑していますか」という質問項目をつくれなかったのだろう。それでこうした、
どこか遠回しな質問項目になったものと思われる。
(参考)
●親子の断絶診断テスト
最初は小さな亀裂。それがやがて断絶となる……。油断は禁物。そこであなたの子育て
を診断。子どもは無意識のうちにも、心の中の状態を、行動で示す。それを手がかりに、
子どもの心の中を知るのが、このテスト。
あなたは子どものことについて…。
★子どもの仲のよい友だちの名前(氏名)を、四人以上知っている(0点)。
★三人くらいまでなら知っている(1点)。
★一、二人くらいなら何となく知っている(2点)。
★ ほとんど知らない(3点)。
学校から帰ってきたとき、あなたの子どもはどこで体を休めるか。
★親の姿の見えるところで、親を気にしないで体を休めているる(0)。
★ あまり親を気にしないで休めているようだ(1)。
★親のいるところをいやがるようだ(2)。
★ 親のいないところを求める。親の姿が見えると、その場を逃げる(3)。
「最近、学校で、何か変わったことがある?」と聞いてみる。そのときあなたの子どもは
……。
★学校で起きた事件や、その内容を詳しく話してくれる(0)。
★少しは話すが、めんどう臭そうな表情をしたり、うるさがる(1)。
★いやがらないが、ほとんど話してくれない(2)。
★即座に、回答を拒否し、無視したり、「うるさい!」とはねのける(3)。
何か荷物運びのような仕事を、あなたの子どもに頼んでみる。そのときあなたの心は…。
★いつも気楽にやってくれるので、平気で頼むことができる(0)。
★心のどこかに、やってくれるかなという不安がある(1)。
★親のほうが遠慮し、恐る恐る……といった感じになる(2)。
★拒否されるのがわかっているから、とても頼めない(3)。
休みの旅行の計画を話してみる。「家族でどこかへ行こうか」というような話でよい。
そのときあなたの子どもは…。
★ふつうの会話の一つとして、楽しそうに話に乗ってくる(0)。
★しぶしぶ話にのってくるといった雰囲気(1)。
★「行きたくない」と、たいてい拒否される(2)。
★家族旅行など、問題外といった雰囲気だ(3)。
15〜12点…目下、断絶状態
11〜 9点…危険な状態
8〜 6点…平均的
5〜 0点…良好な関係
++++++++++++++++++++++++
●ドラ息子症候群
英語の諺に、『あなたは自分の作ったベッドの上でしか、寝られない』というのがある。
要するにものごとには結果があり、その結果の責任はあなたが負うということ。こういう
例は、教育の世界には多い。
子どもをさんざん過保護にしておきながら、「うちの子は社会性がなくて困ります」は、
ない。あるいはさんざん過干渉で子どもを萎縮させておきながら、「どうしてうちの子はハ
キハキしないのでしょうか」は、ない。もう少しやっかいなケースでは、ドラ息子という
のがいる。M君(小三)は、そんなタイプの子どもだった。
口グセはいつも同じ。「何かナ〜イ?」、あるいは「何かほシ〜イ」と。何でもよいのだ。
その場の自分の欲望を満たせば。しかもそれがうるさいほど、続く。そして自分の意にか
なわないと、「つまんナ〜イ」「たいくツ〜ウ」と。約束は守れないし、ルールなど、彼に
とっては、あってないようなもの。他人は皆、自分のために動くべきと考えているような
ところがある。
そのM君が高校生になったとき、彼はこう言った。「ホームレスの連中は、人間のゴミだ」
と。そこで私が、「誰だって、ほんの少し人生の歯車が狂うと、そうなる」と言うと、「ぼ
くはならない。バカじゃないから」とか、「自分で自分の生活を守れないヤツは、生きる資
格などない」とか。こうも言った。
「うちにはお金がたくさんあるから、生活には困らない」と。M君の家は昔からの地主
で、そのときは祖父母の寵愛を一身に集めて育てられていた。
いろいろな生徒に出会うが、こういう生徒に出会うと、自分が情けなくなる。教えるこ
とそのものが、むなしくなる。「こういう子どもには知恵をつけさせたくない」とか、「も
っとほかに学ぶべきことがある」というところまで、考えてしまう。そうそうこんなこと
もあった。
受験を控えた中三のときのこと。M君が数人の仲間とともに万引きをして、補導されて
しまったのである。悪質な万引きだった。それを知ったM君の母親は、「内申書に影響す
るから」という理由で、猛烈な裏工作をし、その夜のうちに、事件そのものを、もみ消
してしまった。そして彼が高校二年生になったある日、私との間に大事件が起きた。
その日私が、買ったばかりの万年筆を大切そうにもっていると、「ヒロシ(私のことをそ
う呼んでいた)、その万年筆のペン先を折ってやろうか。折ったら、ヒロシはどうする?」
と。そこで私は、「そんなことをしたら、お前を殴る」と宣言したが、彼は何を思ったか、
私からその万年筆を取りあげると、目の前でグイと、そのペン先を本当に折ってしまった!
とたん私は彼に飛びかかっていった。結果、彼は目の横を数針も縫う大けがをしたが、
M君の母親は、私を狂ったように責めた。(私も全身に打撲を負った。念のため。)「ああ、
これで私の教師生命は断たれた」と、そのときは覚悟した。
が、M君の父親が、私を救ってくれた。うなだれて床に正座している私のところへきて、
父親はこう言った。「先生、よくやってくれました。ありがとう。心から感謝しています。
本当にありがとう」と。
(はやし浩司 ドラ息子 親子の断絶 断絶)
●夢と希望、そして目的
・泣き崩れた母
「人はパンのみにて生くるにあらず」と言ったのは、イエスだが、そのとおり。ただ生き
ているだけでは、本当に生きているとは、言えない。
人が生きるためには、夢や希望と、そして目的が、必要である。反対に、パンがなくて
も、人は、夢や希望、それに目的があれば、生きていかれる。仮にそれで命を落すことが
あっても、悔いはない。
そのため人は、生きながら、同時に、そのつど、夢や希望、そして目的をさがす。どん
な絶望のどん底に落とされても、そのどん底で、夢や希望、そして目的をさがす。それは
生きることにまつわる、最後の砦(とりで)のようなものではないか。この砦を失えば、
その人を待っているのは、もはや「死」でしかない。
私が母に、「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア!」と、言われたとき、私は、まさに絶望
のどん底へと、叩き落とされた。私が「幼稚園で働く」と言ったときのことだ。母は、そ
う言って、電話口の向こうで、泣き崩れてしまった。
その夜のこと。私は、道を歩きながら、「浩司、死んではだめだ」と、自分に自分で言っ
て聞かせねばならなかった。当時の常識では、(今でも、そうだが……)、総合商社をやめ
て、幼稚園の講師になるということは、考えられなかった。
(今でこそ、保育士という資格が認められているが、当時は、保母、つまり女性しか、
保育士にはなれなかった。保父が認められたのは、私が三〇歳くらいのときだった。)
・しかしオーストラリアの友人は……
その私が、最後の砦を失わなかったのは、オーストラリアの友人たちが、励ましてくれ
たからにほかならない。D君(現在、M大教授)は、こう言った。「浩司、すばらしい選択
だ」と。つまり彼のその言葉が、私にとっては、まさに「希望」だった。
そこで私はいつしかこう心に決めた。「じゅうぶん、お金がたまったら、オーストラリア
へ移住しよう」と。そのころの私には、日本に対する未練は、もうなかった。今から思う
と、それが私にとって、「夢」であり、「目的」だったかもしれない。私は、それにしがみ
ついた。
ところで今、私は、老後の夢や希望、そして目的をさがし求めている。つまりそれは、「こ
れからの老後をどう生きていこうか」という問題でもある。
仮に今、年金生活者になって、年金だけで生きている人を、私はうらやましいとは思わ
ない。現に近所にも、そういう人がいる。毎日、何かをするでもなし、しないでもない。
一日中、家の内と外で、ブラブラしている。
来客も、ほとんど、ない。しかし自分の家の前に、だれかが無断で車を駐車したりする
と、写真をとって、警察へ届ける。あるいはパトカーを呼ぶ。その車に張り紙をする。
私は、いくら悠々自適な年金生活とは言っても、そういう老後が決して、理想的な老後
だとは、思わない。思わないばかりか、そういう老人をかわいそうにすら思う。
そういう老人にとっての夢とは何か。希望とは何か。そして生きる目的とは何か。
・私の変化
私のばあい、このところ何をしても、「今さら……」という思いが強くなったように思う。
仮に夢や希望、そして目的らしきものをもったとしても、「それがどうなんだ」とか、「だ
からどうしたんだ」とか、そんなふうに考えてしまう。そして、その先の先まで、自分で
見てしまう。
その点、恩師のT教授は、すばらしい。五〇歳を過ぎたころから、中国語の勉強を始め
た。そしてあの中国で、日本人を代表して、いくつかの国際会議で、中国語で、講演まで、
している。私がしている講演などとは、スケールがちがう。
しかし今となってみると、そのときは、すごいことだと、あれほど強烈に思ったはずな
のに、やはり、「それがどうした……?」と、思ってしまう。夢や希望、そして目的は、生
きるためには必要だとはわかっているが、その夢や希望、そして目的が、年齢とともに、
質的に変化してしまった?
たとえば若いときは、歌手になり、一躍有名になって……と、考える。ある子ども(小
5)は、いつか、こう言った。「ぼくの夢は、スーパーマンになることだ」と。そして「ス
ーパーマンになれたら、三〇歳で死んでもいい」と。
ちょうどそのころ、私はその三〇歳だったから、その言葉を聞いて、驚いた。そしてそ
の子どもに、こう言った。
「あのな、三〇歳なっても、人生は、ここにあるんだよ」と。
そう、何歳になっても、人生は、ここにある。どこにも、ない。ここにある。が、夢や
希望、そして目的だけが、どんどんと、勝手に変わっていってしまう。それまで夢や希望、
それに目的だったものが、そうでなくなってしまう。
・ひとつの選択
そこで人は、一つの選択に迫られる。
夢や希望、そして目的を、さがし求めつづけるか。さもなければ、放棄するか、と。
夢や希望、そして目的を放棄することは、それほど、むずかしいことではない。要する
に、ノーブレインになればよい。もっとわかりやすく言えば、バカになればよい。何も考
えずに……。ただひたすら、毎日、同じことだけを繰りかえせばよい。
しかし、私には、それができない。つまり選択としては、私は、自分で、夢や希望、そ
して目的をさがしつづけるしかない。
そういう視点で、今の自分をながめてみる。私にとっての、夢や希望、そして目的とは
何か、と。
……目を閉じて静かに、暗い空間を思いやると、そこに見えてくるのは、荒涼たる原野
だけ。心の原野。
私はその手前に立って、その原野を見つめている。方向を示すものは、何もない。地上
のように、原野を照らす太陽もない。
そういう世界では、夢や希望など、もうないのかもしれない。しかし目的はないわけで
はない。ただひたすら毎日歩いて、前に進むこと。一歩でも、先へ進むこと。そう、夢や
希望ということになれば、その途中で、それまで知らなかったことを、見つけることかも
しれない。
実際、それまで知らなかったことを発見するのは、実に、スリリングで楽しい。おもし
ろい。それはたとえて言うなら、恐竜学者が、どこかで恐竜の骨を見つけるようなもので
はないか。あるいはもっと身近な例では、魚を釣っている人が、それまでに見たこともな
い、珍しい魚を釣るようなものではないか。
が、ここにも大きな限界がのしかかってくる。
・もう時間がない!
私はそれを楽しむというよりは、いつも時間に追われているような気分になる。脳の老
化は、自分でもわかる。ボケることは、今のところなさそうだが、明日あたり、ひょっと
したら脳梗塞(こうそく)か何かになるかもしれない。もしそうなれば、私は、その最後
の砦すら、失うことになる。
若い人にとっては、夢や希望、そして目的は、華やかに明るく輝くものだが、しかし、
年をとると、それらは、急速に輝きを失う。しかしいくら輝きを失っても、私はそれを放
棄することはできない。そういう意味では、今は、模索のとき。心の転機のとき。
それはまさしく、私にとっては、生きるための戦いと言ってもよい。
(040213)
【追記】
たまたま私の横にいた、中学二年生の女の子に、こう聞いてみた。「君の夢はなにか?」
と。
すると、その女の子は、こう言った。「……とお……、何とは決まっていなんだけど、舞
台に立つのが好きだったから、(おとになったら)、その舞台にかかわって生きたい」と。
私は「なるほど……」と言って、そのまま黙った。
●外の世界で無理をする子ども
● ある相談から……
静岡市に住んでいる、MMさんから、長女(小1)について、こんな相談があった。
+++++++++++
「家の外と、中では、まるで別人のように、様子がちがいます。
学校などでは、優等生で、何も問題がないと、先生にもよく言われます。しかし家の中
では、がんこで、わがままで、生活態度も横柄です。
何か、私が注意したり、叱ったりすると、最後の最後まで、ああでもない、こうでもな
いと、さからいます。私はうちの子は、ひねくれています。先のことを考えると、心配で
なりません。どうしたらいいでしょうか。
ちなみに、うちには、ほかに、2歳年下の弟と、4歳年下の妹の、二人の子どもがいま
す」(以上要約)と。
++++++++++++
ほかにもいろいろ症状が書かれていた。
で、文面から判断すると、長女(Aさんとする)は、下の子どもが生まれたことにより、
慢性的な欲求不満に陥ったものと思われる。それが原因で、心をゆがめたものと思われる。
対処法としては、「子どもの欲求不満」に準じて、考える。私のHPの、「タイプ別」を
参照してほしい。
実際、かなり強度のひねくれ症状が出ているが、これはここに書いた、慢性的な欲求不
満が原因と考えてよい。このタイプの子どもは、まさに(ああ言えば、こう言う)式の反
抗をする。
母、娘が、茶碗を割ったことについて、「気をつけてよ!」
娘、すかさず、「こんなところに、ママが茶碗を、置いておくから、いけないのよ!」と。
下の子どもが生まれると、上の子どもは、嫉妬から、さまざまな形で、心をゆがめやす
い。これについても、同じくHPの「タイプ別」→(赤ちゃんがえり)を、参照してほし
い。
嫉妬は、きわめて原始的な感情であるだけに、それをいじると、子どもの心は、ゆがむ。
Aさんも、母親の気づかないところで、かなり心をゆがめた。
で、その欲求不満のはけ口として、Aさんは、仮面をかぶるようになったと考えられる。
一般論として、人との交わりがうまくできない子どもは、攻撃型、同情型、依存型、内閉
型のどれかのパターンを、とることがわかっている。
Aさんも、そのうちのどれかのパターンをとっているものと思われる。文面から察する
と、家の中では、攻撃型。家の外では、同情型のような気がする。外の世界では、無理に
よい子ぶって、関心を集めようとする。(あくまでもいただいたメールの範囲内での判断だ
が……。)
で、母親の相談だが、「先が、心配だ」と。
このタイプの子どもは、外の世界でいい子ぶる、つまり無理をする分だけ、家の中では、
荒れやすい。暴力行為に出るプラス型と、グズグズ、ネチネチするマイナス型に分けて考
える。
Aさんは、プラス型かもしれないが、つまり子どもは、こうして心のバランスをとる。
そこでつぎのように、するとよい。
@「ああ、うちの子は、外の世界でがんばっている。だから家の中では、心と体を休めて
いる」と理解してあげること。多少、ぞんざいな態度や、横柄な態度をしても、大目に見
る。
A「求めてきたときが与えどき」と考えて、子どもが、スキンシップ(甘えたり、体の接
触)を求めてきたようなときは、こまめに、ていねいに、濃厚に、子どもが満足するまで、
それを与えること。
BCA,MGの多い食品、たとえば海産物を主体とした食生活にこころがける。とくに緊
張性の、情緒不安症状がみられたらそうする。どこかピリピリしているとか、ささいなこ
とで、カーッとなるようなときに、効果的である。
残念ながら、この時期、こうした方向性を一度見せると、子どもの心は、そのまま一生、
つづく。ひとつの性格として、定着してしまうからである。
しかし文面から察すると、外の世界ではがんばっているようなので、それほど、心配し
なくてもよいのでは……。むしろ、そういうよい面をほめ、それを伸ばすようにしたらよ
い。(外の世界でも、荒れるようであれば、心配だが……。)
ポイントは、今より症状を悪化させないことだけを、考える。そして一年単位で、様子
をみる。あせってなおる問題ではない。また叱ったり、説教しても、意味はない。「根」は、
深い。
一つ心配なのは、親子関係が、かなりぎくしゃくしているように感じたこと。たがいに
不信感をもち始めているような雰囲気である。
今が、その正念場と考えてよい。このまま親子が断絶していくか。それとも、親子関係
を修復するか。
もし悩んだり、行きづまったら、「許して忘れる」の言葉を、念じてみてほしい。それだ
けで、ずいぶんと心が軽くなるはずである。
(040215)
●父母との交際
教育の世界では、たった一言が大問題になるということがよくある。こんな事件が、あ
る小学校であった。
その学校の先生が一人の母親に、「子どもを塾へ四つもやっているバカな親がいる」と、
ふと口をすべらせてしまった。その先生は、「バカ」という言葉を使ってしまったのだが、
今どき、四つぐらいの塾なら、珍しくない。英語教室に水泳教室、ソロバン塾に学習塾な
ど。
そこでそれぞれの親が、自分のことを言われたと思い、教育委員会を巻き込んだ大騒動
へと発展してしまった。結局その先生は、任期の途中で転校せざるをえなくなってしまっ
た。が、実は私にも、これに似たような経験がある。
母親たちが五月の連休中に、子どもたちを連れてディズニーランドへ行ってきた。それ
はそれですんだのだが、そのあと一人の母親に会ったとき、私が、「あなたは行きましたか」
と聞いた。するとその母親は、「行きませんでした」と。
そこで私は(連休中は混雑していて、たいへんだっただろう)という思いを込めて、「そ
れは賢明でしたね」と言ってしまった。が、この話は、一晩のうちにすべての母親に伝わ
ってしまった。
しかもどこかで話がねじ曲げられ、「五月の連休中にディズニーランドへ子どもを連れ
ていったヤツはバカだと、あのはやしが笑っていた」ということになってしまった。数日
後、ものすごい剣幕の母親たちの一団が、私のところへやってきた。「バカとは何よ! あ
やまりなさい!」と。
母親同士のトラブルとなると、日常茶飯事。「言った、言わない」の大喧嘩になることも
珍しくない。そしてこの世界、一度こじれると、とことんこじれる。現に今、市内のある
小学校で、母親同士のトラブルが裁判ざたになっているケースがある。
そこで教訓。父母との交際は、水のように淡々とすべし。できれば事務的に。できれば
必要最小限に。そしてここが大切だが、先生やほかの父母の悪口は言わない。聞かない。
そして相づちも打たない。相づちを打てば打ったで、今度はあなたが言った言葉として、
ほかの人に伝わってしまう。「あの林さんも、そう言っていましたよ」と。
教育と言いながら、その水面下では、醜い人間のドラマが飛び交っている。しかも間に
「子ども」がいるため、互いに容赦しない。それこそ血みどろかつ、命がけの闘いを繰り
広げる。
一〇人のうち九人がまともでも、一人はまともでない人がいる。このまともでない人が、
めんどうを大きくする。が、それでもそういう人との交際を避けて通れないとしたら……。
そのときはこうする。
イギリスの格言に、『相手は自分が相手を思うように、あなたのことを思う』というのが
ある。つまりあなたが相手を「よい人だ」と思っていると、相手もあなたのことを「よい
人だ」と思うようになる。反対に「いやな人だ」と思っていると、相手も「いやな人だ」
と思うようになる。
だから子どもがからんだ教育の世界では、いつも先生や父母を「よい人だ」と思うよう
にする。相手のよい面だけを見て、そしてそれをほめるようにする。
要するにこの世界では、敵を作らないこと。何度も繰り返すが、ほかの世界のことなら
ともかく、子どもが間にからんでいるだけに、そこは慎重に考えて行動する。
++++++++++++++++++++++++
英語にも、『同じ羽の鳥は、いっしょに集まる』という格言がある。私は、どこか低劣な
話が耳に入ってきたときには、相手は、私もその低劣な人間とみているのだなと思うよう
にしている。
相手から見れば、私も低劣に見える。だからそういう低劣な話を、私にするのだ、と。
しかし実際には、幼児相手の仕事をしていると、いつも低劣に見られる? 先日もいき
なり電話がかかってきて、こんなことを言う母親がいた。
「おたく、幼児教室? あら、そう。今、うちの子を、クモンへ入れるか、あんたんど
こへ入れるか、迷っているんだけど、どっちがいいかなア?と、思って……」と。
私はそれに答えて、「はあ、うちは、一〇問(ジューモン)教えますので……」と。
この答え方は、昔、仲間のI先生が教えてくれた言い方である。(クモンと、ジュウーモ
ンのちがいですが、わかりますか?)
いかにして、この世界で、さわやかに生きるか。これはとても重要なテーマのように思
う。いつもそれを心のどこかで考えていないと、あっという間に、泥沼に巻きこまれてし
まう。
それを避けるためのいくつかの鉄則を書いてみたが、これらの鉄則は、そのまま母親ど
うしの人間関係にも、応用できるのでは。ぜひ、応用してみてほしい。
(040216)
●父親の役割
ある雑誌を読んでいたら、ある評論家が、父親の役割について、書いていた。かなりトンチン
カンなことを書いていた。
……と批評することは、簡単なこと。どうトンチンカンかということについては、ここには書けな
い。しかしかなりトンチンカンだった。「へえ?」と、私は、へんに感心してしまった。その評論家 は、「今こそ、父親の威厳が大切」というようなことを説いていた。
たしかにそういう面もある。が、そうした対症療法的な「父親論」では、問題の本質を、見失っ
てしまうのではないだろうか。もちろん、実際の子育てでは、役にたたない。「威厳とは何か」 「どうすればその威厳を保てるのか」「そもそも威厳のない父親に、威厳をもてといっても無理 ではないのか」と、そこまで論じて、はじめて役にたつ。
とくに私など、まさに威厳のない父親の代表格のようなものだから、そう言われると、ハタと困
ってしまう。本当に、困ってしまう。私など、息子たちの前では、いつもヘラヘラとしている。いつ もバカにされている。
そんなとき、別の読者から、母子家庭の問題点についての質問があった。それで、ここでは、
父親の役割について考えてみる。
+++++++++++++++++
【父親の役割】
●母子関係の是正
母子関係は、絶対的なものである。それは母親が、妊娠、出産、授乳(育児)という、子ども
の「命」にかかわる部分を、分担するためである。
同じ親でも、母親と父親は、そういう意味においても、決して平等ではない。はっきり言えば、
父親がいなくても、子どもは生まれ、育つ。
が、ここでいくつかの問題が生まれる。
その第一は、精神の発育には、父親の存在が、不可欠であるということ。それには、つぎの
二つの意味が含まれる。
(1)父親像の移植
(2)母子関係の是正
人間は、社会的な動物である。そしてその「社会」は、「家族」という、無数の共同体が集合し
て、成りたっている。世界のあちこちには、大家族制度や、かつてのヒッピー族が経験した、集 団家族制度のような家族形態をとっているところもある。
しかしこの日本では、一人の父親と、一人の母親が結婚して、家族を構成する。それが家族の
基本であると同時に、子育ての基本となっている。(だからといって、そうであるべきと言ってい るのではない。誤解のないように!)
そうした家族形態の中における、父親の役割を、子どもに教える。「父親というのは、こういう
もの」「父親というのは、こうあるべき」と。これが父親像の移植である。子どもは、父親に育て られたという経験があってはじめて、その父親像を、自分のものとすることができる。
しかしこれに加えて、もう一つ、重要な役割がある。それが、(2)の母子関係の是正である。
このことは、離婚家庭や、父親不在家庭の子どもをみれば、わかる。
父親像がない状態で育った子どもは、母子関係がどうしてもその分、濃密になり、母親の影
響を大きく受けやすい。そのためマザーコンプレックスをもちやすいことは、すでにあちこちで 指摘されているとおりである。
子どもは、その成長過程において、母子関係から離脱し、社会性を身につける。これを「個
人化」という。その個人化が、遅れる。あるいは未発達なまま、おとなになる。三〇歳を過ぎて も、四〇歳を過ぎても、さらに五〇歳をすぎても、母親なしでは、生きられない状態を、自ら、つ くりだす。
六〇歳をすぎても、「お母さん」「お母さん」と、甘えている男性など、いくらでもいる。
しかしこうした依存性は、決して、一方的なものではない。
ふつう子どもが、依存性をもつと、子どもの側だけが問題になる。しかし実際には、子どもの
依存性を許す、甘い環境が、その子どもの周辺にあると考える。もっとはっきり言えば、母親 自身が、依存性が強いことが多い。
だから母親自身が、子どもの依存性を見落としてしまう。あるいは子どもに、自分がもっている
依存性と同じものを、もたせてしまう。
たとえば依存性の強い母親は、親にベタネタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よ
い子、としてしまう。反対に、親に反抗したり、自立心が旺盛な子どもを、「親不孝者」と、排斥し てしまう。
こうしてベタベタに甘い、母子関係が、生まれる。
そのベタベタになりがちな母子関係を制限し、修復するのが、父親の役目ということになる。
具体的には、(1)行動に制限を教える。(2)社会的人間としての、父親の役割を教える。
たとえば溺愛ママと呼ばれる母親がいる。
このタイプの母親は、母親と子どもの間にカベがない。だから子どもが何かの不祥事を起こ
したりすると、自らが責任をかぶることにより、子どもの責任をあいまいにしてしまう。
子ども(中3男子)が、万引き事件を引き起こして補導されたとき、一夜にして、あちこちをか
けずりまわり、事件そのものをもみ消してしまった母親がいた。
つまりそういうことをしながら、子どもの精神的な発育を、母親自身が、むしろ、はばんでしま
う。
こうした母親の行動にブレーキをかけるのが、父親の役目ということになる。もともと父子関
係は、「精液一しずく」の関係にすぎない。しかしこうした父親のもちうる客観性こそが、父親像 の特徴ということにもなる。
つぎに(2)社会的人間としての、父親の役割だが、これは、現代の社会構造と、深く結びつ
いている。たとえば少し前まで、この日本では、「男は仕事」という言葉が、よく使われた。「男 が仕事をし、女が家庭を守る」と。(だからといって、こうした考え方を、私が肯定しているわけ ではない。誤解のないように!)
こうした「男」と「女」のちがいは、さまざまな形で、社会の中に組みこまれている。そのちがい
を、教えていくのも、実は、父親の役割ということになる。
父親は、決して、母親にかわることはできない。またかわる必要もない。母親には母親の、そ
して父親には父親の限界がある。その限界をたがいに、補いあうのが、父親の役目であり、母 親の役目ということになる。
その役割を混乱させると、子育てそのものが、混乱する。
よくあるケースは、(1)父親の母親化。(2)母親の父親化。(3)それに父親の不在(疑似母
子家庭)である。こういう家庭では、子育てそのものが、混乱しやすい。
父親の母親化というのは、父親自身が、女性化していることをいう。子どもを、溺愛ママよろ
しく、息子や娘を溺愛する父親は、決して珍しくない。
つぎに母親の父親化も、ある。このばあい、その影響は、子どもに強く現れる。本来なら、母
子関係ではぐくまれねばならない、基本的な信頼関係(絶対的なさらけ出しと、絶対的な受け 入れ)が、結べなくなる。その結果、子どもの情緒、精神の発育に、深刻かつ重大な影響を与 える。
一般的に言えば、母親が父親化すれば、子どもは、愛情飢餓の状態になり、心の開けない
子どもになる。
さらに父親の職業などで、疑似母子家庭と呼ばれるようなケースになることもある。夫の長期
にわたる、単身赴任が、その一例である。
だからといって、母子家庭が悪いと言っているのではない。ただこうした問題があるというの
は、事実であり、そういう事実があるということを知るだけでも、母親は、自分の子育てを、軌 道修正できる。母子家庭が本来的にもつ問題を、克服することができる。
まずいのは、こうした問題を知ることもなく、母子関係だけに溺れてしまうケースである。この
原稿は、そういう目的のために書いたのであって、決して、母子家庭には問題があると書いた のではない。どうか、誤解のないようにしてほしい。
(040225)(はやし浩司 父親役割 母子家庭 問題 エディプス コンプレックス)
【追記】
母子家庭でなくても、母親が、日常的に父親を否定したり、バカにしたりすると、ここでいう父
親像のない子どもになることがある。
このタイプの子どもは、言動に節制がなくなったり、常識ハズレになったりしやすい。あるいは
マザコンになりやすい。
マザコンタイプの子どもの特徴は、自分のマザコン性を正当化するために、ことさら親(とくに
母親)を、美化するところにある。「私の母親は、偉大でした」「世のカサになれと、教えてくれま した」と。そして親を批判したりする人物がいると、それに猛烈に反発したりする。
こうしたマザコン性から子どもを救い出し、父親像をインプットしていくのが、実は、父親の役
目ということになる。これを心理学の世界では、「個人化」という。もともと個人化というのは、家 族どうしの依存性から脱却することを言う。つまりわかりやすく言えば、「自立化」のこと。
マザコンタイプの人は、その個人化が遅れる。ベタベタとよりそう関係を、かえって美化するこ
ともある。親は、「親孝行のいい息子」と思いこみ、一方、子どもは、「やさしく、すばらしい親」と 思いこむ。
簡単に言えば、父親の役目は、子どもを母親から切り離し、子どもを自立させていくこと。
もちろんその過程で、子どもの側にも、さまざまな葛藤(かっとう)が起きることがある。エディ
プスコンプレックス※も、その一つということになる。
が、最近の問題として、父親自身が、じゅうぶんな父親像をもっていないことがあげられる。
父親自身が、「父親」を知らないケースである。
さらに父親自身が、マザコンタイプであったりして、ベタベタになっている母子関係を見なが
ら、それに気がつかないということもある。あるいはさらに、父親自身が、母親の役割にとって かわろうとするケースもある。
溺愛パパの誕生というわけである。
このように、現代の親子関係は、今、混沌(こんとん)としている。しかし今こそ、改めて、父親
の役割とは何か、母親の役割とは何か。それを冷静に判断してみる必要はあるのではないだ ろうか。でないと、これから先、日本人のそれは、ますますわけのわからない親子関係になって しまう。
ここに書いたことが、あなたの親子関係をわかりやすいものにすれば、うれしい。
++++++++++++++++++++
※エディプス・コンプレックス……
ソフォクレスの戯曲に、『エディプス王』というのがある。ギリシャ神話である。物語の内容は、
つぎのようなものである。
テーバイの王、ラウルスは、やがて自分の息子が自分を殺すという予言を受け、妻イヨカスタ
との間に生まれた子どもを、山里に捨てる。しかしその子どもはやがて、別の王に拾われ、王 子として育てられる。それがエディプスである。
そのエディプスがおとなになり、あるとき道を歩いていると、ラウルスと出会い、けんかする。
が、エディプスは、それが彼の実父とも知らず、殺してしまう。
そのあとエディプスは、スフィンクスとの問答に打ち勝ち、民衆に支持されて、テーバイの王と
なり、イヨカスタと結婚する。つまり実母と結婚することになる。
が、やがてこの秘密は、エディプス自身が知るところとなる。つまりエディプスは、実父を殺
し、実母と近親相姦をしていたことを、自ら知る。
そのため母であり、妻であるイヨカスタは、自殺。エディプス自身も、自分で自分の目をつぶ
し、放浪の旅に出る……。
この物語は、フロイト(オーストリアの心理学者、一八五六〜一九三九)にも取りあげられ、
「エディプス・コンプレックス」という言葉も、彼によって生みだされた(小此木啓吾著「フロイト思 想のキーワード」(講談社現代新書))。
つまり「母親を欲し、ライバルの父親を憎みはじめる男の子は、エディプスコンプレックスの支
配下にある」(同書)と。わかりやすく言えば、男の子は成長とともに、母親を欲するあまり、ライ バルとして父親を憎むようになるという。(女児が、父親を欲して、母親をライバル視するという ことも、これに含まれる。)
この説話から、一般に、成人した男性が、母親との間に強烈な依存関係をもち、そのことに
疑問をもたない状態を、心理学の世界では、「エディプスコンプレックス」という。母親からの異 常な愛情が原因で、症状としては、同年齢の女性と、正常な交友関係がもてなくなることが多 い。
で、私も今までに何度か、この話を聞いたことがある。しかしこうしたコンプレックスは、この
日本ではそのまま当てはめて考えることはできない。
その第一。日本の家族の結びつき方は、欧米のそれとは、かなり違う。その第二。文化がある
程度、高揚してくると、男性の女性化(あるいは女性の男性化といってもよいが)が、かぎりなく 進む。現代の日本が、そういう状態になりつつあるが、そうなると、父親、母親の、輪郭(りんか く)そのものが、ぼやけてくる。
つまり「母親を欲するため、父親をライバルとみる」という見方そのものが、軟弱になってくる。
現に今、小学校の低学年児のばあい、「いじめられて泣くのは、男児。いじめるのは女児」とい う、逆転現象(「逆転」と言ってよいかどうかはわからないが、私の世代からみると、逆転)が、 当たり前になっている。
家族の結びつき方が違うというのは、日本の家族は、父、母、子どもという三者が、相互の依
存関係で成り立っている。三〇年ほど前、それを「甘えの構造」として発表した学者がいるが、 まさに「甘えの関係」で成り立っている。子どもの側からみて、父親と母親の境目が、いろいろ な意味において、明確ではない。
少なくとも、フロイトが活躍していたころの欧米とは、かなり違う。だから男児にしても、ばあい
によっては、「父親を欲するあまり、母親をライバル視することもありうる」ということになる。
しかし全体としてみると、親子といえども、基本的には、人間関係で決まる。親子でも嫉妬(し
っと)することもあるし、当然、ライバルになることもある。親子の縁は絶対と思っている人も多 いが、しかし親子の縁も、切れるときには切れる。
また親なら子どもを愛しているはず、子どもならふるさとを愛しているはずと考える、いわゆる
「ハズ論」にしても、それをすべての人に当てはめるのは、危険なことでもある。そういう「ハズ 論」の中で、人知れず苦しんでいる人も少なくない。
ただ、ここに書いたエディプスコンプレックスが、この日本には、まったくないかというと、そう
でもない。私も、「これがそうかな?」と思うような事例を、経験している。私にもこんな記憶があ る。
小学五年生のときだったと思う。私はしばらく担任になった、Iという女性の教師に、淡い恋心
をいだいたことがある。で、その教師は、まもなく結婚してしまった。それからの記憶はないが、 つぎによく覚えているのは、私がそのIという教師の家に遊びに行ったときのこと。川のそば の、小さな家だったが、私は家全体に、猛烈に嫉妬した。家の中にはたしか、白いソファが置 いてあったが、そのソファにすら、私は嫉妬した。
常識で考えれば、彼女の夫に嫉妬にするはずだが、夫には嫉妬しなかった。私は「家」嫉妬し
た。家全体を自分のものにしたい衝動にかられた。
こういう心理を何と言うのか。フロイトなら多分、おもしろい名前をつけるだろうと思う。あえて
言うなら、「代償物嫉妬性コンプレックス」か。好きな女性の持ち物に嫉妬するという、まあ、ゆ がんだ嫉妬心だ。
そういえば、高校時代、私は、好きだった女の子のブラジャーになりたかったのを覚えている。
「ブラジャーに変身できれば、毎日、彼女の胸にさわることができる」と。そういう意味では、私 にはかなりヘンタイ的な部分があったかもしれない。(今も、ある!?)
話を戻すが、ときとして子どもの心は複雑に変化し、ふつうの常識では理解できないときがあ
る。このエディプスコンプレックスも、そのひとつということになる。まあ、そういうこともあるとい う程度に覚えておくとよいのでは……。何かのときに、役にたつかもしれない。
●善と悪(2)
●良心の声
おかしいことは、おかしいと思う。たったそれだけのことが、あなたの中の良心を育てる。あと
はその良心に従って、行動すればよい。
善人と悪人のちがいは、その良心の大きさによって決まる。良心が比較的大きな人を、善人
といい、比較的小さな人を、悪人という。つまり善人にも、悪人的な要素はあり、悪人には、善 人的な要素がある。
純粋な善人というのは、いない。一方、純粋な悪人というのは、いない。あるいはどんな善人
でも、またどんな悪人でも、その時と場合において、悪人になったり、善人になったりする。
そのことは、子どもを見ているとわかる。
昔、どうしようもないほど、ワルの子ども(小五男児)がいた。母親は、毎週のように学校に呼
びだされていた。その子どものことで、私と母親が話しあっているときのこと。
私はその子どもが近くにいることも意識して、「○○君は、乱暴な子どもに見えるかもしれませ
んが、本当は心のやさしい子どもです。おとなになると、大物になる子どもだから、今はがまん しましょう」と言った。
で、その数日後のこと。その子どもが、いつもより30分も早く、教室へ来た。「どうしたの?」
と聞くと、「先生、肩もんでやるよ。先生、肩こりしないか?」と。
心理学では、こういうのを「好意の返報性」という。子どもというのは、自分を信じてくれる人の
前では、自分のよい面を見せようとする。反対に、そうでない人の前では、そうでない。おとな の私たちですら、自分を疑っている人の前へ行くと、自分の邪悪な部分を、自然な形で、出して しまうことがある。言わなくてもいいようなことを言ってしまったり、してはいけないようなことま で、してしまう。
この私だって、かなり無理をして善人ぶっている。が、一皮むけば……。あまりむいたことが
ないのでよくわからないが、しかしだれかが私を善人だと言ったら、私は、吹きだしてしまうだろ う。私は、悪人ではないが、しかし決して、善人ではない。
そこで大切なことは、どんな人にも二面性があるということ。まずそのことを知る。つぎに大切
なことは、善人である自分を育て、悪人である自分を、否定すること。そのために、いつも、自 分の良心の声に耳を傾ける。
……と言っても、何が善なのかは、実のところわかりにくい。が、何が悪なのかは、わかりや
すい。そこで冒頭の話。「おかしいことは、おかしいと思う」。たったそれだけのことだが、それ があなたの中の良心を育てる。
(そういう意味でも、善と悪は、決して平等ではない。善人ぶることなら、だれにでもできる。暴
力団の親分にだってできる。しかし自分の中から、「悪」を消すことは、容易なことではない。
『悪と善は、神の右手と左手である』という有名な言葉を残したのは、ベイリー(「フェスタス」)
だが、そんな単純なものではないということ。)
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この善と悪について、以前書いた原稿を、
手なおしして掲載します。
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善と悪(1)
●神の右手と左手
昔から、だれが言い出したのかは知らないが、善と悪は、神の右手と左手であると、言われ
ている。善があるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存在しえな いということらしい。
そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いているの
がわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。
『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反キリス
ト」)
要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるものすべて
が、悪であるというわけである。
●悪と戦う
私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。それを
必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。トルストイが、『善をなすには、努力が必要。しかし 悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が必要』(『読書の輪』)と書いた理由が、私には、よ くわかる。
もっと言えば、善人のフリをするのは簡単だが、しかし悪人であることをやめようとするのは、
至難のワザということになる。もともと善と悪は、対等ではない。しかしこのことは、子どもの道 徳を考える上で、たいへん重要な意味をもつ。
子どもに、「〜〜しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさい」「クツ
を並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。人が見ていると か、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして自分の中の邪悪さと戦 うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。
たとえば道路に、一〇〇〇円札が落ちていたとする。そのとき、まわりにはだれもいない。拾
って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういうとき、自分の中の邪悪さと、ど うやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそが、道徳なのだ。
●近づかない、相手にしない、無視する
が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのように自分
の行動パターンを決めている。
たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」とか、「時間のムダ」と思い、でき
るだけ神経を使わないようにしている。社会には、無数のルールがある。そういったルールに は、ほとんど神経を使わない。すなおにそれに従う。
駐車場では、駐車場所に車をとめる。駐車場所があいてないときは、あくまで待つ。交差点へ
きたら、信号を守る。黄色になったら、止まり、青になったら、動き出す。何でもないことかもし れないが、そういうとき、いちいち、あれこれ神経を使わない。もともと考えなければならないよ うな問題ではない。
あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。とき
として、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、結局は、近づ かない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。
それは自分の時間を大切にするという意味で、重要なことである。考えるエネルギーにしても、
決して無限にあるわけではない。かぎりがある。そこでどうせそのエネルギーを使うなら、もっと 前向きなことで使いたい。だから、近づかない。相手にしない。無視する。
こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニーチェ)こと
にはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、それから逃げて いるだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くなったのでもない。そこ で改めて考えてみる。
はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるのか。あるいはまたその「力」を得るには、どうすれば
よいのか。子どもたちの世界に、その謎(なぞ)を解くカギがあるように思う。
●子どもの世界
子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。ここに書い
たが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子どものばあい、悪 への誘惑を、におわせてみると、それがわかる。印象に残っている女の子(小三)に、こんな子 どもがいた。
ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで私が、
「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「いいです。私、こ れから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が食べられない」とも言 った。
この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのものだ
ろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がかたいからだろう か。ノー! では、何か?
●考える力
そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買ってあげ
ようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判断して、「飲ん ではだめ」という結論を出した。
それは「意思の力」と考えるかもしれないが、こうしたケースでは、意思の力だけでは、説明が
つかない。「飲みたい」という意思ならわかるが、「飲みたくない」とか、「飲んだらだめ」という意 思は、そのときはなかったはずである。あるとすれば、自分の判断に従って行動しようとする意 思ということになる。
となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自ら考える力」
こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』という言葉を使って、それ を説明した。言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人にはなりえない。
よく誤解されるが、よいことをするから善人というわけではない。悪いことをしないから善人とい
うわけでもない。人は、自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじめて、善人になれる。
が、ここで「考える力」といっても、二つに分かれることがわかる。一つは、「考え」そのもの
を、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理ということになる。子どものばあい、 しつけも、それに含まれる。
もう一つは、自分で考えるという方法。前者は、いわば、手っ取り早く、考える人間になる方
法。一方、後者は、それなりにいつも苦痛がともなう方法、ということになる。
どちらを選ぶかは、その人自身の問題ということになるが、実は、ここに「生きる」という問題が
からんでくる。それについては、また別のところで書くとして、こうして考えていくと、人間が人間 であるのは、その「考える力」があるからということになる。
とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく行動できる
というわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも収拾できなくなって しまうだろう。もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、その考える力、あるいは 考えるという習慣があったからにほかならない。つまり「考える力」こそが、善と悪を分ける、 「神の力」ということになる。
●補足
善人論は、むずかしい。古今東西の哲学者が繰り返し論じている。これはあくまでも個人的
な意見だが、私はこう考える。
今、ここに、平凡で、何ごともなく暮らしている人がいる。おだやかで、だれとも争わず、ただ
ひたすらまじめに生きている。人に迷惑をかけることもないが、それ以上のことも、何もしない。 小さな世界にとじこもって、自分のことだけしかしない。
日本ではこういう人を善人というが、本当にそういう人は、善人なのか。善人といえるのか。
私は収賄罪(しゅうわいざい)で逮捕される政治家を見ると、ときどきこう考えるときがある。
その政治家は悪い人だと言うのは簡単なことだ。しかし、では自分が同じ立場に置かれたら、 どうなのか、と。目の前に大金を積まれたら、はたしてそれを断る勇気があるのか、と。
刑法上の罪に問われるとか、問われないとかいうことではない。自分で自分をそこまで律する
力があるのか、と。
本当の善人というのは、そのつど、いろいろな場面で、自分の中の邪悪な部分と戦う人をい
う。つまりその戦う場面をもたない人は、もともと善人ではありえない。小さな世界で、そこそこ に小さく生きることなら、ひょっとしたら、だれにだってできる(失礼!)。
しかしその人は、ただ「生きているだけ」(失礼!)。が、それでは善人ということにはならない。
繰り返すが、人は、自分の中の邪悪さと戦ってこそ、はじめて善人になる。
++++++++++++++++++++
【付録】
あまり関係ないかもしれませんが、この
原稿を書いているとき、以前、書いた、「尾崎豊の
卒業論」を思い出しました。ついでにここに掲載
しておきます。
この原稿は、私は好きなのですが、新聞社の方
には、嫌われました。読んでいただければ、その
理由がわかると、思います。
++++++++++++++++++++
●尾崎豊の「卒業」論(中日新聞発表済み)
学校以外に学校はなく、学校を離れて道はない。そんな息苦しさを、尾崎豊は、『卒業』の中で
こう歌った。
「♪……チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考えていた」と。
「人間は自由だ」と叫んでも、それは「♪しくまれた自由」にすぎない。現実にはコースがあり、
そのコースに逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしまう。尾崎はそれを、「♪幻 とリアルな気持ち」と表現した。
宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。「子どもたちよ、夢をもて」と。しかし夢をも
てばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことすら許されない。
ほんの一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をかなえる
ことができる。大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。尾崎はこう続ける。「♪ 放課後街ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。
●若者たちの声なき反抗
日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。目が上ばかり向いている。たとえば茶パツ、
腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。しかし彼らとて精一杯、自己主張している だけだ。それがだめだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというのか。
そういう弱者に向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。「♪行儀よくまじめな
んてできやしなかった」と。彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなとの争い」でもあった。
実際この世の中、偽善が満ちあふれている。年俸が二億円もあるようなニュースキャスター
が、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せる。いつもは豪華な衣装を身につけて いるテレビタレントが、別のところで、涙ながらに貧しい人たちへの寄金を訴える。
こういうのを見せつけられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。そこで尾崎は
そのホコ先を、学校に向ける。「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った……」と。
もちろん窓ガラスを壊すという行為は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方法が思
いつかなかったのだろう。いや、その前にこういう若者の行為を、誰が「石もて、打てる」のか。
●CDとシングル盤だけで二〇〇万枚以上!
この「卒業」は、空前のヒット曲になった。CDとシングル盤だけで、二〇〇万枚を超えた(CB
Sソニー広報部、現在のソニーME)。「カセットになったのや、アルバムの中に収録されたもの も含めると、さらに多くなります」とのこと。
この数字こそが、現代の教育に対する、若者たちの、まさに声なき抗議とみるべきではないの
か。
+++++++++++++++++++++
【結論】
何が正しくて、何がまちがっているのか。つきつめて考えていくと、ますますわからなくなりま
す。
正しいことをしているようで、まちがっていることをしていることがあります。まちがったことをし
たと思っていても、それが結果として、正しかったということもあります。
そこで人間は、「考える」という行動に出ます。言いかえると、考えることによって、人は、自分
の中の良心に近づくことができます。つまり、良心イコール、知性。知性イコール、真理というこ とになります。
私にはまだよくわかりませんが、この良心を、知性によって追求することによって、人は真理
に到達できるのではないでしょうか。
かなり飛躍した論法なので、「?」と思われる方も多いと思いますが、このつづきは、また別
の機会に考えてみたいと思います。
(040219)
●子どもの役割
それぞれの子どもには、それぞれの役割がある。自然にできる方向性といってもよい。その
役割を、親は、もっとすなおに認めてあげよう。
よく誤解されるが、「いい高校へ……」「いい大学へ……」というのは、役割ではない。それは
目的ももたないで、どこかの観光地へ行くようなもの。行ったとたん、何をしてよいのかわから ず、子どもは、役割混乱を引き起こす。
たとえば子どもが、「花屋さんになりたい」と言ったとする。そのとき大切なのは、子どもの夢
や希望に沿った言葉で、その子どもの未来を包んであげるということ。
「そうね、花屋さんって、すてきね。おうちをお花で飾ったら、きっと、きれいね」と。
そして子どもといっしょに、図書館へ行って花の図鑑を調べたり、あるいは実際に、花を栽培
したりする。そういう行為が、子どもの役割を、強化する。これを心理学の世界では、「役割形 成」という。
つまり子どもの中に、一定の方向性ができる。その方向性が、ここでいう役割ということにな
る。
が、親は、この役割形成を、平気でふみにじってしまう。子どもがせっかく、「お花屋さんにな
りたい」と言っても、子どものたわごとのように思ってしまう。そして子どもの夢や希望をじゅうぶ ん聞くこともなく、「あんたも、明日から英語教室へ行くのよ!」「何よ、この算数の点数は!」と 言ってしまう。
一般論として、役割が混乱すると、子どもの情緒は、きわめて不安定になる。心にすき間が
できるから、誘惑にも弱くなる。いわゆる精神が、宙ぶらりんの状態になると考えると、わかり やすい。
そこで「いい高校」「いい大学」ということになる。
もう何年か前のことだが、夏休みが終わるころ、私の家に、二人の女子高校生が遊びにき
た。そしてこう言った。
「先生、私、今度、○○大学の、国際関係学部に入ることにしました」と。
○○大学というのは、比較的名前が、よく知られた私立の大学である。で、私が、「そう、よか
ったね。……ところで、その国際カンケイ学部って、何? 何を勉強するの?」と聞くと、その女 子高校生は、こう言った。
「私にも、わかんない……」と。
こういう状態で、その子どもは大学へ入ったあと、何を勉強するというのだろうか。つまりその
時点で、その子どもは、役割混乱を起こすことになる。それはたとえて言うなら、あなたがある 日突然、男装(女装でもよいが……)して、電車の運転手になれと言われるようなものである。
……というのは、少し極端だが、こうした混乱が起きると、心の中は、スキだらけになる。ちょ
っとした誘惑にも、すぐ負けてしまう。もちろん方向性など最初からないから、大学へ入ったあ とも、勉強など、しない。
子どもの役割を認めることの大切さが、これでわかってもらえたと思う。子どもが「お花屋さん
になりたい」と言ったら、すかさず、「すてきね。じゃあ、今度、H湖で、花博覧会があるから行き ましょうね」と話しかけてあげる。
そういう前向きな働きかけをすることによって、子どもは、自分でその役割を強化していく。そ
してそれがいつか、理学部への進学とつながり、遺伝子工学の研究へとつながっていくかもし れない。
子どもを伸ばすということは、そういうことをいう。
(040219)
【追記】
●こうした役割形成は、何も、大学へ進学することだけで達成されるものではない。大学へ進
学しないからといって、達成されないものでもない。それぞれの道で、それぞれが役割形成を する。
昔は、(いい大学)へ入ることが、一つのステータスになっていた。エリート意識が、それを支
えた。
大学を卒業したあとも、(いい会社)へ入ることが、一つのステータスになっていた。エリート意
識が、それを支えた。
しかしいまどき、エリート意識をふりかざしても、意味はない。まったく、ない。今は、もう、そう
いう時代ではない。
今、子どもたちを包む、社会的価値観が大きく変動している。まさにサイレント革命というに、
ふさわしい。そういうことも念頭に置きながら、子どもの役割形成を考えるとよい。
まずいのは、親の価値観を、一方的に、子どもに押しつけること。子どもは役割混乱を起こ
し、わけのわからない子どもになってしまう。
●誘惑に強い子どもにする。……それはこの誘惑の多い社会を生きるために、子どもに鎧(よ
ろい)を着せることを意味する。
この鎧を着た子どもは、多少の誘惑があっても、それをはね返してしまう。「私は、遺伝子工
学の勉強をするために、大学へ入った。だから、遊んでいるヒマはない。その道に向かって、ま っすぐ進みます」と。
そういう子どもにするためにも、子どもが小さいときから、役割形成をしっかりとしておく。
ここにも書いたように、「何のために大学へ入ったのか」「何を勉強したいのかわからない」と
いう状態では、誘惑に弱くなって、当たり前。もともと勉強する目的などないのだから、それは 当然のことではないか。
(はやし浩司 役割 役割形成 役割混乱 自我 自我の同一性)
●母親論
【読者の皆さんからの質問に答えて……】
毎週、たくさんの方から、質問や相談をいただきます。手紙やメールの内容を、直接引用す
ることはできませんので、ここではテーマとして、皆さんの質問や、相談を考えて見ます。それ ぞれのお立場で、参考にしていただければうれしいです。
++++++++++++++++++++++
●子どもは、母親が育てる
時間が許すかぎり、子どもは、母親が育てる。これは、子育ての大原則である。「父親ではだ
めか?」という議論もあるが、母親がいるなら、母親が育てる。
たとえば生後6か月ほどまで母親が育て、そのあと、何らかの事情で、母親から切り離され
た子どもがいる。生後6か月というと、(顔見知り、後追い)が始まる時期でもある。
この時期、母親と切り離された子どもは、「周囲との接触を拒否する。睡眠障害。体重減少。
緩慢動作などの症状を示す」(スピッツ)ということがわかっている。
さらに切り離しが、3か月以上におよぶと、「外界からの刺激に反応しなくなる」(同スピッツ)
そうだ。
この時期の母子関係が、いかに重要かが、これでわかる。
そこで「保育園はどうか?」という問題がある。今では、職業をもつ女性が多くなり、中には、
生後まもなくから、子どもを、保育園や保育所へ預けるケースが目立つ。
結論から言えば、最低でも、生後2年間は、母親が主体となって、子どもを育てる(WHO)。
保育園や保育所へ子どもを預けるのは、できるだけ最小限にしながら、同時に、子どもの心の ケアをしっかりとする。
ポイントは、子どもの側からみて、親の愛情に不安をいだかせないようにすること。つまり絶
対的な安心感を与えるようなくふうをする。「絶対的」というのは、「疑いを、まったくいだかない」 という意味である。
会ったときに、ぐいと抱くとか、あるいは子どもがスキンシップを求めてきたら、それにていね
いに応じてあげる、など。
この時期、母子関係が不安定になると、子どもは、「不安」を基底としたものの考え方をする
ようになる。生涯にわたって、精神状態が不安定になることもある。
子どもの心というのは、親(とくに母親)の絶対的な愛情に包まれて、はじめて豊かにはぐくま
れる。「どんなことをしても守られる」「どんなことをしても許される」という安心感が、子どもの心 を伸ばす。
●基底不安
「何をしていても、不安だ」「だれとあっても、心配でならない」「たまの休みになっても、考える
のは、仕事のことばかり」……という人は、少なくない。
すべての生きザマの基底に、不安がある。こういう不安感を、「基底不安」という。その原因
は、乳幼児期の、母子関係の不全と考えてよい(フロイト理論による)。
乳幼児期に、母子の間で、絶対的な信頼関係を結べなかった子どもは、精神的なより所を失
う。その結果として、不安を基底とした、生きザマを身につけてしまう。
もっとも、母子といっても、「子」に原因があるわけではない。「母親」のほうに原因があると考
えてよい。
無視、冷淡、拒否的態度、暴力、虐待など。あるいは母親自身が、心を開けないケースもあ
る。子どもの側から見て、安心して、自分をさらけ出すことができないという不安感が、そのま ま、ここでいう基底不安の原因になる。
ウンチをしても、オシッコをしても、わがままを言っても、すべて許されるという安心感が、子ど
もの心をはぐくむ。仮に親が子どもを叱るときでも、それがある一定のワクの中に収まってい れば、問題は、ない。(ワクを超えて、子どもに恐怖感や絶望感を与えるような叱り方は、タブ ー。)
言うまでもなく、母子の信頼関係は、(完全なさらけ出し)と、(完全な受け入れ)が基本となっ
て、その上に築かれる。
●赤ちゃんでも目が見える
ついでに、生後直後の赤ちゃんは、目が見えないと言われていた。しかしそれは誤解であ
る。一説によると、生後10分ほどで、赤ちゃんは、目でものを見る能力を身につけるという。そ しておとなの私たちが想像する以上に、濃密に、まわりの情報を、記憶しているという。
見たものだけではない。五感を通して入ってくる、あるとあらゆる情報を、である。
こうして赤ちゃんは、つぎに自分が親になったとき、赤ちゃんにどう接すればよいかを学んで
いく。言いかえると、この時期、人間の手を離れて育てられた子どもは、将来、自分では子育て ができないと考えてよい。
それだけではない。
野生児(生後まもなくから、人間の手を離れて、野生で育てられた子ども)は、言語能力のみ
ならず、人間らしい感情すら、失ってしまうという。インドやフランスで見つかった野生児が、そう だった。
そんなわけで、新生児や乳幼児に記憶がないというのは、ウソ。
記憶は、記銘(脳にきざまれる)→保持(その記憶を保つ)→想起(思いだす)というメカニズ
ムを経て、外に取り出すことができる。新生児や幼児の記憶は、想起できないというだけで、脳 にしっかりと、きざまれている。
この時期の子育ては、「人間の基本を作っている」と考え、もっと、慎重にしたらよい。
●空の巣症候群
子どもが巣立ったあと、心の中にポッカリと穴があいてしまい、うつ症状を訴える人がいる。こ
うした状態から生まれる、一連の症状を、「空の巣症候群」という。
うつ病の一形態ということになっている。
それまで子育てを生きがいにし、懸命に子育てをしてきた人ほど、なりやすい。
症状としては、言いようのない不安感、恐怖感、抑うつ状態、不眠、頭痛、早朝覚醒、便秘、
下痢など。感情の起伏がはげしくなったり、反対に鈍化するなど。
その前の段階として、(拒絶)→(抵抗)→(落ち込み)という経過をたどることが多い。ある母
親は、自分の息子(中三)が初恋をしただけで、狂乱状態になった。そしてその息子の通う塾 の先生に頼んで、息子と彼女を引き離そうとした。これはここでいう(拒絶)と(抵抗)の段階と 考えてよい。
その時期が一巡すると、その無力感から、ここでいう「空の巣症候群」を示すようになる。
子育ては子どもを自立させることが目標だが、同時に、自分自身をも自立させることを忘れ
てはならない。(はやし浩司 空の巣 空の巣症候群)
●山荘にて……
2月X日。H町での講演会のあと、この山荘に回る。途中、Xというレストランで食事をする。お
いしかったが、量が少なかった。山荘へつくやいなや、雑炊と作って食べる。が、今度は、食べ 過ぎ。とたん、眠くなる。
居間の座椅子にすわったまま、居眠り。まさに「居眠り」。途中、太陽の光線を熱く感じて、目
をさます。気持よかった。
何か夢を見ていたよう。しかし今、どうしてもその内容を思い出せない。
私にとって、夢は、いわば短編の映画のよう。ときどき、夢そのものを楽しむ。夢が見たくて、
わざと居眠りすることもある。
が、がんばって体を起こす。一度、ワイフをさがして、再び、居間へ。ワイフは、コタツに入っ
て、テレビを見ていた。
雨戸を半分しめて、太陽の光線を、さえぎる。外は、すっかり春の陽気。春霞(がすみ)なの
か。風にそよぐ木々の葉が、どこか白っぽい。さあ、これからが、山荘ライフ、本番!
とりあえずしなければならないこと。
(1)屋根の上の枯れた木の枝を取り除くこと。
(2)トイレのタンクの清掃。
(3)西側斜面の草刈り。
いろいろある。そうそう庭にたまった枯れ枝の始末もしなければならない。毎年今ごろは、杉
の木の枯れた枝が、あたり一面に落ちてくる。それにもちろん枯れた葉も。今年はまだ、一度 もしていない。つまり、清掃を、一度もしていないということ。私も、なまけものになったものだ。 「今度やろう」「今度やろう」と思いつつ、もう2月も終わり。
来週は、絶対にやるぞ! ……そう、心に誓って、帰りじたくを、始める。時刻は、4時を少し
回ったところ。
そうそう山荘の電話をどうしようかと、迷っている。ほとんど使っていない。それに今は、携帯
電話をもっている。
ワイフに相談すると、「基本料金だけの1600円程度」とのこと。
ついでに必要経費を計算してみる。
電気代は、月に2000〜3000円。ガス代も、月に2000〜3000円。水道は、Kさん(地主)
に毎月2000円を、謝礼で払っている。そんなわけで、電話代を入れて、ちょうど、1万円弱。
今日のようにレストランで食事をすると、結構、お金がかかるが、今日は、特別。山荘で自炊す
れば、一回の食事代は、質素な家庭料理と同じくらい。私たちは、400〜500円の弁当を、二 人で分けて食べている。つまり全体としてみると、かえって安あがりになるのでは。休みになる たびに、「どこへ行こうか」と、迷う必要もない。
こうした生活様式は、私が、オーストラリア留学時代に学んだもの。向こうの人たちは、その
ほとんどが、別荘をもっている。週日は街の中で仕事をし、週末は、別荘で過ごす。それがか れらの標準的な生活様式になっている。
「別荘」というと、ぜいたく品のように思う人が多いと思うが、そんなにぜいたくな家ではない。質
素な建物が多い。ただ環境は、すばらしい。海が一望できるような海沿いに、それがあったり する。私も学生時代、それを見ながら、「いつかぼくも……」と思った。その結果が、今の山荘 ライフである。
で、改めて考えてみた。
都市で働く人は、最低限の生活ができるだけのマンションかどこかに住む。もちろん交通の
便などが、よいところがよい。
そして週末は、郊外の別荘で生活をする。
私の知っている人の中には、すでに何人か、そういう生活を実行している人がいる。中には、
奥さんと子どもを、ニュージーランドに住ませ、自分は、毎週、日本とニュージーランドの間を往 復している人もいる。「航空運賃を入れても、そのほうが、日本で生活するよりも、安くできま す」と、その人は言っていた。
(ただしこの話を聞いたときは、1ドルが40円程度のころ。今は、1ドルが80円くらいになって
しまったから、かなり事情が変わったかもしれない。)
子どもが小さいうちに、こうした二重生活を始めるのがコツ。子どもが中学生くらいになると、
もう山荘には、興味をもたなくなる。
反対に子どもが小さいうちは、それこそバンガローでも、子どもたちには天国。一つだけアド
バイスするとしたら、こんなことがある。
土地や古家を郊外に求めるときは、いざとなったら、すぐ売れるような物件をさがすこと。そう
でないと、結局は、お金を失うことになる。つまり「売りやすい土地や古家を買う」ということ。い らぬおせっかいかもしれないが……。
●東京のMSさんより
東京都にお住まいの、MSさんより、こんなメールが届きました。掲載の了解をいただきまし
たので、紹介させていただきます。
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ここのところ、「異常な負けず嫌い」「ひとりっこの育て方」を、たて続けにマガジンで取りあげて
いただきありがとうございました。
両方に共通して言えることは、「笑って、許して、忘れる、そして子どもを使う」ですね。10歳くら
いまで、やり過ごすことにしました。
私の力がここのところぬけてきたのが通じたようで、娘も「かたまった」としても、5分くらいで気
持ちを泣きながら話してくれるようになりました。
私のほうで、「ママは、あなたが悪い子しちゃっても、許して忘れるママになるよ」と宣言もしまし
た。以前の私からは想像できなかったようで、娘も一週間くらい、信じてくれませんでした。
何回か、実現するうち、少しずつ、伝わりはじめたかも。先生がマガジンで「年単位で待つこと」
といろいろな場面で教えてくださったので、気長に待ちます。
ファミリスと有料マガジン、申し込みました。
これからはやし先生ワールドが、どんどん我が家に浸透すると思うと、日々の生活が前向き
に、明るくなってきます。
私の夢は先生の講演会を聞きに行くことです。
では先生、お仕事やマガジンの発行でお忙しいとは思いますがお体お大切に。
東京都MSより
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【MSさんへ……】
責任重大ですね。これからも体と脳ミソの健康にじゅうぶん注意しながら、がんばります。ホ
ント! MSさんからメールを、いただいて、またまたズシリと、大きな宿題を与えられたような 感じです。
もともと私は、偉そうなことを言うくせに、気が小さいのです。もしMSさんに、まちがったことを
言ってしまったら、どうしようかと、正直なところ、それを考えたら、心が重くなりました。
ここで「脳ミソの健康」という言葉を使いましたが、本当にそうですね。
この脳ミソというのは、すぐ病気になってしまいます。自分が病気になるのは、かまわないの
ですが、それでまちがったことを言ってしまったら、たいへんです。あとで、その脳ミソの病気に ついて書いてみます。
いえね、以前、私の所属する寺に、何だかんだと、顔を出していたときのこと。そこへ、です
ね。それはそれは、ものすごい形相の女性が、ときどき来ていました。私が40歳くらいで、そ の女性は45歳くらいでした。
その女性にキリッとにらまれると、あたりがシーンと静まりかえってしまうのです。で、その女
性がですね。ときどき、わけのわからないことを口にするのです。
「仏の道は、天道の分かれ道……」とか、何とかね。
私は、正直に告白しますが、その女性のことを、たいへんな人だと思ってしまいました。高徳
で、ひょっとしたら仏の……?、ともです。で、その女性が口にする言葉を、あれこれ考えてみ たのですが、やはりよく意味がわかりませんでした。
しかしそれは私の不勉強が理由だと思っていました。
が、ある日のこと。その寺の僧侶に、恐る恐る、「あの女性は、どういう人ですか?」と聞いて
みました。
そしたら僧侶が、こう話してくれました。「林さん、あの女性は、相手にしてはダメだ。あの女
性はね、近くの精神病院からときどき勝手に抜け出して、この寺に来ているのです」と。
脳ミソの健康というのは、そういうことを言います。たいへんきわどい話なので、これ以上のこ
とは書けませんが、要するに、そういうことです。
脳ミソの健康を守るためには、ごくふつうの人として、ふつうの生活をすることが大切です。音
楽を聞いたり、散歩したり、人と話したり、できれば若い人や、子どもたちと接する。
そういうふうに、ごくふつうの人として生きることで、脳ミソの健康は保たれます。
おかしな人とは、つきあわない……ということも、大切です。……と言っても、おかしな人と、
そうでない人を見分けるのも、むずかしいですね……。
私のばあい、自分の常識を信じます。そのために、いつも自分の常識をみがきます。本を読
んだり、ビデオを見たり……。恩師のT先生は、「いつもトップクラスの人とつきあえ」と言ってい ます。
しかし私には、そういう環境がありません。(T先生のばあい、天皇陛下自身ともお知りあい
で、私など、とてもまねできません。ホント!)
ですからやはり、本を読んだりするしかありません。しかしね、MSさん。実は、もっとすばらし
い先生がいるのですね。すぐそばに……。
それが子どもたちです。
私たちはともすれば、「たかが子どもではないか……」と思いがちですが、それはとんでもな
い誤解です。
人間が本来的にもつ、心の純粋さ、美しさは、実は、子ども自身がもっているのですね。私た
ちはおとなになるにつれて、知識や経験をもちますが、同時に、もっと大切なものをなくしてい きます。そのなくしたものを教えてくれるのが、子どもたちということになります。
あとはそれに謙虚に耳を傾ければよいということになります。
「あとで脳ミソの病気について書く」と書きながら、脳ミソの病気について、書いてしまいまし
た。
最後に、私の好きな詩を、MSさんに送ります。
ワーズワースという詩人が書いた詩です。
なおつぎの原稿は、以前、中日新聞に掲載してもらった記事です。
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●子どもは、人の父
イギリスの詩人ワーズワース(一七七〇〜一八五〇)は、次のように歌っている。
空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
私が子どものころも、そうだった。
人となった今も、そうだ。
願わくは、私は歳をとって、死ぬときもそうでありたい。
子どもは人の父。
自然の恵みを受けて、それぞれの日々が、
そうであることを、私は願う。
訳は私がつけたが、問題は、「子どもは人の父」という部分の訳である。原文では、「The
Child is Father of the Man. 」となっている。
この中の「Man」の訳に、私は悩んだ。
ここではほかの訳者と同じように「人」と訳したが、どうもニュアンスが合わない。詩の流れから
すると、「その人の人格」ということか。つまり私は、「その人の人格は、子ども時代に形成され る」と解釈したが、これには二つの意味が含まれる。
一つは、その人の人格は子ども時代に形成されるから注意せよという意味。もう一つは、人は
いくらおとなになっても、その心は結局は、子ども時代に戻るという意味。
誤解があるといけないので、はっきりと言っておくが、子どもは確かに未経験で未熟だが、決し
て、幼稚ではない。子どもの世界は、おとなが考えているより、はるかに広く、純粋で、豊かで ある。しかも美しい。
人はおとなになるにつれて、それを忘れ、そして醜くなっていく。知識や経験という雑音の中で、
俗化し、自分を見失っていく。私を幼児教育のとりこにした事件に、こんな事件がある。
ある日、園児に絵をかかせていたときのことである。一人の子ども(年中男児)が、とてもてい
ねいに絵をかいてくれた。そこで私は、その絵に大きな花丸をかき、その横に、「ごくろうさん」 と書き添えた。
が、何を思ったか、その子どもはそれを見て、クックッと泣き始めたのである。私はてっきりう
れし泣きだろうと思ったが、それにしても大げさである。そこで「どうして泣くのかな?」と聞きな おすと、その子どもは涙をふきながら、こう話してくれた。「ぼく、ごくろうっていう名前じゃ、な い。たくろう、ってんだ」と。
もし人が子ども時代の心を忘れたら、それこそ、その人の人生は闇だと、私は思う。もし人が
子ども時代の笑いや涙を忘れたら、それこそ、その人の人生は闇だと、私は思う。ワーズワー スは子どものころ、空にかかる虹を見て感動した。そしてその同じ虹を見て、子どものころの感 動が胸に再びわきおこってくるのを感じた。そこでこう言った。
「子どもは人の父」と。
私はこの一言に、ワーズワースの、そして幼児教育の心のすべてが、凝縮されているように思
う。
(040220)
●虐待
●虐待にもいろいろ
一般論として、子どもに虐待を繰りかえす親は、自分自身も、虐待を受けた経験があるとい
われている。約50%が、そうであるといわれている。
その虐待は、暴力だけにかぎらない。
大きく、この(1)暴力的虐待のほか、(2)栄養的虐待、(3)性的虐待、(4)感情的虐待に、
分けられる。暴力的虐待は、肉体的虐待、言葉の虐待、精神的虐待に分けられる。
順に考えてみよう。
(1)肉体的虐待……私の調査でも、約50%の親が、何らかの形で、子どもに肉体的な暴力を
バツ(体罰)として与えていることがわかっている。そしてそのうち、70%の親(全体では35% の親)が、虐待に近い暴力を加えているのがわかっている。
日本人は、昔から、子どもへの体罰に甘い国民と言われている。
「日本人の親で、『(子どもへの)体罰は必要である』と答えている親は、70%。一方アメリカ
人の親で、『体罰は必要である』と答えている親は、10%にすぎない」(村山貞夫)という調査 結果もある。
体罰はしかたないとしても、たとえば『体罰は尻』ときめておくとよい。いかなるばあいも、頭に
対して、体罰を加えてはいけない。
(1−2)言葉の虐待……「あなたはダメな子」式の、人格の「核」に触れるような言葉を、日常
的に子どもにあびせかけることをいう。
「あなたはバカだ」
「あなたなんか、何をしてもダメだ」
「あんたなんか、死んでしまえばいい」など。
子どもの心は、親がつくる。そして子どもは、長い時間をかけて、親の口グセどおりの子ども
になる。親が「うちの子はグズで……」と思っていると、その子どもは、やがてその通りの子ども になる。
しかし言葉の暴力がこわいのは、その子どもの人格の中枢部まで破壊すること。ある男性
(60歳)は、いまだに「お母さんが怒るから」「お母さんが怒るから」と、母親の影におびえてい る。そうなる。
(1−3)精神的虐待……異常な恐怖体験、過酷な試練などを、子どもに与えることをいう。
ふつうは、無意識のうちに、子どもに与えることが多い。たとえば子どもの前で、はげしい夫
婦喧嘩をして見せるなど。
子どもの側からみて、恐怖感、心配、焦燥感、絶望感を与えるものが、ここでいう精神的虐
待ということになる。
子どもの心というのは、絶対的安心感があって、その上で、はじめてはぐくまれる。その基盤
そのものが、ゆらぐことをいう。
(2)栄養的虐待……食事を与えないなどの虐待をいう。私自身、このタイプの虐待児について
接した経験がほとんどないので、ここでのコメントは、割愛する。
(3)性的虐待……今まで、具体的な事例を見聞きしたことがないので、ここでは割愛する。
(4)感情的虐待……親の不安定な情緒が与える影響が、虐待といえるほどまでに、高じた状
態をいう。かんしゃくに任せて、子どもを怒鳴りつけるなど。
『親の情緒不安、百害あって一利なし』と覚えておくとよい。少し前だが、こんな事例があっ
た。
その母親は、交通事故をきっかけに、精神状態がきわめて不安定になってしまった。しかし
悪いときには、悪いことが重なる。その直後に、実父の他界、実兄の経営する会社の倒産と、 不幸なできごとが、たてつづけに、つづいてしまった。
その母親は、「交通事故の後遺症だ」とは言ったが、ありとあらゆる体の不調を訴えるように
なった。そしてほとんど毎日のように病院通いをするようになった。
その母親のばあいは、とくに息子(小2)を虐待したということはなかった。しかしやがて子ども
は、その不安からか、学校でも、オドオドするようになってしまった。先生にちょっと注意された だけで、腹痛を訴えたり、ときには、みなの見ているところで、バタンと倒れてみせたりした。
このように精神に重大な影響を与える行為を、虐待という。暴力的虐待も、暴力を通して、子
どもの精神に重大な影響を与えるから、虐待という。
この虐待がつづくと、子どもの精神は、発露する場所を失い、内閉したり、ゆがんだりする。
そしてそれが心のキズ(トラウマ)となって、生涯にわたって、その子どもを苦しめることもある。
(040220)(はやし浩司 虐待 子どもの虐待)
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以前、つぎのような原稿を書きましたので
送ります。(中日新聞投稿済み)
++++++++++++++++++++
●虐待される子ども
ある日曜日の午後。一人の子ども(小五男児)が、幼稚園に駆け込んできた。富士市で幼稚
園の園長をしているI氏は、そのときの様子を、こう話してくれた。
「見ると、頭はボコボコ、顔中、あざだらけでした。泣くでもなし、体をワナワナと震わせていまし
た」と。虐待である。逃げるといっても、ほかに適当な場所を思いつかなかったのだろう。その 子どもは、昔、通ったことのある、その幼稚園へ逃げてきた。
カナーという学者は、虐待を次のように定義している。(1)過度の敵意と冷淡、(2)完ぺき主
義、(3)代償的過保護。ここでいう代償的過保護というのは、愛情に根ざした本来の過保護で はなく、子どもを自分の支配下において、思い通りにしたいという、親のエゴに基づいた過保護 をいう。
その結果子どもは、(1)愛情飢餓(愛情に飢えた状態)、(2)強迫傾向(いつも何かに強迫され
ているかのように、おびえる)、(3)情緒的未成熟(感情のコントロールができない)などの症状 を示し、さまざまな問題行動を起こすようになる。
I氏はこう話してくれた。「その子どもは、双子で生まれたうちの一人。もう一人は女の子でし
た。母子家庭で、母親はその息子だけを、ことのほか嫌っていたようでした」と。
私が「母と子の間に、大きなわだかまりがあったのでしょうね」と問いかけると、「多分その男の
子が、離婚した夫と、顔や様子がそっくりだったからではないでしょうか」と。
親が子どもを虐待する理由として、ホルネイという学者は、(1)親自身が障害をもっている。
(2)子どもが親の重荷になっている。(3)子どもが親にとって、失望の種になっている。(4)親 が情緒的に未成熟で、子どもが問題を解決するための手段になっている、の四つをあげてい る。
それはともかくも、虐待というときは、その程度が体罰の範囲を超えていることをいう。I氏のケ
ースでも、母親はバットで、息子の頭を殴りつけていた。わかりやすく言えば、殺す寸前までの ことをする。そして当然のことながら、子どもは、体のみならず、心にも深いキズを負う。学習 中、一人ニヤニヤ笑い続けていた女の子(小二)。夜な夜な、動物のようなうめき声をあげて、 近所を走り回っていた女の子(小三)などがいた。
問題をどう解決するかということよりも、こういうケースでは、親子を分離させたほうがよい。
教育委員会の指導で保護施設に入れるという方法もあるが、実際にはそうは簡単ではない。
父親と子どもを半ば強制的に分離したため、父親に、「お前を一生かかっても、殺してやる」と
脅されている学校の先生もいる。あるいはせっかく分離しても、母親が優柔不断で、暴力を振 るう父親と、別れたりよりを戻したりを繰り返しているケースもある。
結論を言えば、たとえ親子の間のできごととはいえ、一方的な暴力は、犯罪であるという認識
を、社会がもつべきである。そしてそういう前提で、教育機関も警察も動く。いつか私はこのコ ラムの中で、「内政不干渉の原則」を書いたが、この問題だけは別。
子どもが虐待されているのを見たら、近くの児童相談所へ通報したらよい。「警察……」という
方法もあるが、「どうしても大げさになってしまうため、児童相談所のほうがよいでしょう。その ほうが適切に対処してくれます」(S小学校N校長)とのこと。
+++++++++++++++++++
【付録】
●虐待について
社会福祉法人「子どもの虐待防止センター」の実態調査によると、母親の五人に一人は、
「子育てに協力してもらえる人がいない」と感じ、家事や育児の面で夫に不満を感じている母親 は、不満のない母親に比べ、「虐待あり」が、三倍になっていることがわかった(有効回答五〇 〇人・二〇〇〇年)。
また東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏は、虐待の診断基準を作成し、虐待の度合
を数字で示している。妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」 などの一七項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……〇点」「ときどきある……一 点」「しばしばある……二点」の三段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。
その結果、「虐待あり」が、有効回答(四九四人)のうちの九%、「虐待傾向」が、三〇%、「虐
待なし」が、六一%であった。この結果からみると、約四〇%弱の母親が、虐待もしくは虐待に 近い行為をしているのがわかる。
一方、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、七%。そしてその大半が何らか
の形で虐待していることもわかったという(同、総合研究所調査)。「愛情面で自分の母親との きずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかがえる」とも。
●ふえる虐待
なお厚生省が全国の児童相談所で調べたところ、母親による児童虐待が、一九九八年まで
の八年間だけでも、約六倍強にふえていることがわかった。(二〇〇〇年度には、一万七七二 五件、前年度の一・五倍。この一〇年間で一六倍。)
虐待の内訳は、相談、通告を受けた六九三二件のうち、身体的暴行が三六七三件(五
三%)でもっとも多く、食事を与えないなどの育児拒否が、二一〇九件(三〇・四%)、差別的、 攻撃的言動による心理的虐待が六五〇件など。
虐待を与える親は、実父が一九一〇件、実母が三八二一件で、全体の八二・七%。また虐待
を受けたのは小学生がもっとも多く、二五三七件。三歳から就学前までが、一八六七件、三歳 未満が一二三五件で、全体の八一・三%となっている。
●【父親論】
父親の役割は、二つ、ある。(1)母子関係の是正と、(2)行動の限界設定である。これは私
の意見というより、子育ての常識。
●母子関係の是正
母親と子どもの関係は、絶対的なものである。それについては、何度も書いてきた。
しかし父親と子どもの関係は、「精液一しずくの関係」にすぎない。もともと母子関係と、父子
関係は平等ではない。
その子ども(人間)のもつ、「基本的信頼関係」は、母子の間で、はぐくまれる。父子の間では
ない。そういう意味で、子育ての初期の段階では、子どもにとっては、母親の存在は絶対的な ものである。この時期、母親が何らかの理由で不在状態になると、子どもには、決定的とも言 えるほど、重大な影響を与える。情緒、精神面のみならず、子どもの生命にも影響を与えるこ とさえある。
内乱や戦争などで、乳児院に預けられた赤ちゃんの死亡率が、きわめて高いということは、
以前から指摘されている。
では、父親の役割は、何か。
父親の役割は、実は、こうした母子関係を調整することにある。母子関係は、ここにも書いた
ように、絶対的なものである。しかしその「絶対性」に溺れてしまうと、今度は、逆に、子どもにさ まざまな弊害が生まれてくる。マザーコンプレックスが、その一つである。
一般論から言うと、父親不在の家庭で育った子どもほど、母親を絶対視するあまり、マザー
コンプレックス、俗にいう、マザコンになりやすい。40歳を過ぎても、50歳をすぎても、「ママ」 「ママ」と言う。
ある男性は、会社などで昇進や昇給があると、妻に話す前に、母親に電話をして、それを報
告していたという。また別の男性(50歳)は、せとものの卸し業を営んでいたが、収入は一度、 妻ではなく、すべて母親(80歳)に手渡していたという。
また、ある男性(53歳)は、「母の手一つで育てられました」と、いつも人に話している。一度
講演会で、涙声で、母に対する恩を語っているのを聞いたことがある。
その男性は、その母と、自分の妻が家庭内で対立したとき、離婚という形で、妻を追いだした
と聞いている。しかし自分の中の、マザコン性には、気づいていないようだ。
常識で考えれば、おかしな関係だが、マザコンタイプの人には、それがわからない。そうする
ことが、子どもの務めと考えている。
そしてマザコンタイプの子どもの特徴は、自分のマザコン性を正当化するために、母親をこと
さら、美化すること。「私の母は偉大でした」と。そしてあげくの果てには、「産んでいただきまし た」「育てていただきました」「女手一つで、育てていただきました」と言いだす。
マザコンタイプの男性は、(圧倒的に男性が多いが、女性でも、少なくない)、親の悪口や、批
判を許さない。少し批判しただけで、猛烈に反発する。依存性が強い分だけ、どこかのカルト 教団の信者のような反応を示す。(もともとカルト教団の信者の心理状態は、マザコンタイプの 子どもの心理と、共通している。徹底した隷属性と、徹底した偶像化。妄信的に、その価値を 信じこむ。)
そこで父親の登場!
こうした母子関係を、父親は、調整する。もっとわかりやすく言えば、母子関係の絶対性に、
クサビを入れていく。
ここに母子関係と、父子関係の基本的なちがいが、ある。つまり母子関係は、子どもの成長
とともに、解消されねばならない。一方、父子関係は、子どもの成長とともに、つくりあげていか ねばならない。つまり、それが父親の役割ということになる。
……という話は、子育ての世界では、常識なのだが、しかし問題は、父親自身が、マザコンタ
イプであるとき。
こういうケースでは、父親自身が、父親の役割を、見失ってしまう。いつまでも母親にベタベタ
と甘える自分の子どもをみながら、それをよしとしてしまう。そしてなお悪いことに、それを代々 と繰りかえしてしまう。
問題は、そうした異常性に、母親や父親が、いつ、どのような形で、気づくかということ。
しかしこの問題は、脳のCPU(中央演算装置)の問題であるだけに、特別な事情がないかぎ
り、それに気づく母親や父親は、まずいない。(この原稿を読んだ方は、気づくと思うが……。)
そこで一つの方法として、私がここに書いたことを念頭に入れて、あなたの周囲の人たちを、
見回してみてほしい。よく知っている親類の人とか、友人がよい。このタイプの人が、何人か は、必ずいるはずである。(あるいは、ひょっとしたら、あなたや、あなたの夫がそうであるかも しれない。)
そういう人たちを比較しながら、自分の姿をさぐってみる。たとえば父親不在の家庭で育った
子どもほど、マザコン性をもちやすい。そういうことを手がかりに、自分の姿をさぐってみる。
●行動の限界設定
もう一つ、父親の大きな役割は、子どもの行動に、限界を設定すること。わかりやすく言え
ば、行動規範を示し、いかに生きるべきか、その道徳的、倫理的規範を示すこと。さらにわか りやすく言えば、「しつけ」をすること。
しかし、これはむずかしいことではない。
こうした基本的なしつけは、ごく日常的な、ごく基本的なことから始まる。そして、ここが重要だ
が、すべてはそれで始まり、それで終わる。
ウソをつかない。
人と誠実に接する。
約束やルールは守る。
自分に正直に生きる。
さらに一歩進んで……
家族は大切にする。
家族は守りあう。
家族は教えあう。
家族はいたわり、励ましあう。
さらに一歩進んで……
自分の生きザマをつらぬく。
こうした生きザマを、ごくふつうの家庭人として、ごくふつうの生活の中で、見せていく。見せる
だけでは足りない。しみこませておく。そしてそれに子どもが反したような行動をしたとき、父親 は、それに制限を加えていく。
こうした日々の生きザマが、週となり、月となり、そして年となったとき、その子どもの人格とな
る。
その基礎をつくっていくのが、父親の役目ということになる。
一見簡単そうに見えるが、簡単でないことは、父親ならだれしも知っている。こうした父親像と
いうのは、代々、受けつがれるもの。その父親が作るものではないからである。
そういう意味で父親から受ける影響は、無視できない。たとえばこんなことがある。
私には、三人の息子がいる。年齢は、それぞれ、ちょうど三年ずつ、離れている。
そういう三人の息子を比較すると、それぞれが、私のある時期の「私」を、忠実に受けついで
いるのがわかる。(もちろん息子たち自身は、そうは思っていないが……。)
一番特徴的なのは、それぞれの息子たちが、年長児から小学二、三年生にかけて私が熱中
した趣味を、受け継いでいるということ。
長男がそのころには、私は、模型飛行機やエアーガン、その種のものばかりで遊んでいた。
だから、長男は、こまかいものを、コツコツと作るのが趣味になってしまった。
二男のときは、パソコン。三男のときは、山荘作り。今、それぞれが、その流れをくむ趣味を
もっている。父親が子どもに与える影響というのは、そういうものと考えてよい。みながみな、そ うということでもないだろうが、大きな影響を与えるのは、事実のようだ。
まあ、もしあなたがあなたの子どもを、よい人間に育てたいと思っているなら、(当然だが…
…)、まず、自分の身のまわりの、ごく簡単なことから、身を律したらよい。「あとで……」とか、 「明日から……」というのではない。今、この瞬間から、すぐに、である。
この瞬間からすぐに、
ウソをつかない。
人と誠実に接する。
約束やルールは守る。
自分に正直に生きる。
たったこれだけのことだが、何年かたって、あるいは何十年かたって、今のこの時を振りかえ
ってみると、この時が、子育ての大きな転機になっていたことを知るはず。
ただし……。私は生まれが生まれだから、こういうことは、あえて努力しないと、できない。ふ
と油断すると、ウソをついたり、自分を偽ったりする。へつらったり、相手の機嫌をとったりす る。そういう自分から早く決別したいと思うが、それが、なかなかむずかしい。
がんばろう! がんばりましょう! 父親の役割というのは、そういうもの。
(はやし浩司 父親の役割 行動の限界設定 父親論 お父さんの役割 役割)
(040222)
●ギャング集団(エイジ)
満5歳から6歳にかけて、子どもは、幼児期から、少年少女期へと移行する。急に生意気に
なり、親にも口答えするようになる。
親「新聞をもってきて」
子「自分のことは、自分でしな」と。
それまではどちらかというと、友だちを特定せず、だれとでも遊べた子どもでも、少年少女期
へ入ると、気のあった、仲間を選ぶようになる。そしてその仲間と、好んで遊ぶようになる。
特定の集団をつくって遊ぶことから、この時代を、心理学の世界では「ギャング集団」、ある
いは「ギャングエイジ」と呼ぶ。
子どもは、この時代を通して、社会のルールを身につける。統率、反抗、離反、規律、友情、
差別などなど。いわゆるおとな社会に入るための、その基礎を、この時代に、身につけると考 えると、わかりやすい。
多くの親たちは、子どもの教育は、学校という場で、教師対子どもの関係で、身につくものだ
と誤解している。しかしそれ以上に重要なものを、子どもは、学校の外で、学ぶ。
『人生で必要な知識はすべて砂場で学んだ』を書いたのはフルグラムだが、こうした実感は、
学校を卒業し、人生も晩年になると、わかるようになる。
私のばあいも、学校からの帰り道、友だちと遊んだ経験や、毎日真っ暗になるまで、寺の境
内で遊んだ経験が、今の私の基礎になっている。もっとも、それがわかるようになったのは、 (そうでない子ども)に出会ってからである。
中には、親の異常なまでの過保護のもと、ギャング集団を、ほとんど経験しないで、育てられ
る子どもがいる。このタイプの子どもは、社会性がほとんど身についていないから、ときとして、 とんでもないことを、しでかす。してよいことと、悪いことの区別もつかない。
友だちの誕生日プレゼントにと、腐った酒かすを箱に入れて送った子ども(小3)や、解剖した
カエルの死骸を、女の子の筆入れに入れた子ども(小4)などがいた。
この子どもは、そういうことをすれば、かえって仲間に嫌われるということさえわからない。
またこの時期、よく仲間はずれや、いじめが問題になる。決して仲間はずれや、いじめを肯
定するわけではないが、そういうことを経験することによって、子どもは、その一方で、集団の 中における、ルールを学ぶ。
親としてはつらいところだが、しかし目を閉じるところは、しっかりと閉じないと、かえって子ど
もを、ダメにしてしまうことも、あるということ。
さらに最近では、テレビゲームや、パソコンゲームの発達とともに、仲間と遊ばない子ども
が、ふえている。これについてはまた別のところで書くことにして、つまり、ギャング集団をとお して、子どもは、おとなになるための社会性の基礎を身につけるということ。
それについて以前、書いたのが、つぎの原稿である。
++++++++++++++++++++
●遊びが子どもの仕事
「人生で必要な知識はすべて砂場で学んだ」を書いたのはフルグラムだが、それは当たらず
とも、はずれてもいない。
「当たらず」というのは、向こうでいう砂場というのは、日本でいう街中の公園ほどの大きさがあ
る。オーストラリアではその砂場にしても、木のクズを敷き詰めているところもある。日本でいう 砂場、つまりネコのウンチと小便の入りまざった砂場を想像しないほうがよい。
また「はずれていない」というのは、子どもというのは、必要な知識を、たいていは学校の教室
の外で身につける。実はこの私がそうだった。
私は子どものころ毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいた。今でいう帰宅拒否
の症状もあったのかもしれない。それはそれとして、私はその寺で多くのことを学んだ。けんか のし方はもちろん、ほとんどの遊びもそうだ。性教育もそこで学んだ。
……もっとも、それがわかるようになったのは、こういう教育論を書き始めてからだ。それまで
は私の過去はただの過去。自分という人間がどういう人間であるかもよくわからなかった。い わんや、自分という人間が、あの寺の境内でできたなどとは思ってもみなかった。しかしやはり 私という人間は、あの寺の境内でできた。
ざっと思い出しても、いじめもあったし、意地悪もあった。縄張りもあったし、いがみあいもあ
った。おもしろいと思うのは、その寺の境内を中心とした社会が、ほかの社会と完全に隔離さ れていたということ。
たとえば私たちは山をはさんで隣り村の子どもたちと戦争状態にあった。山ででくわしたら最
後。石を投げ合ったり、とっくみあいのけんかをした。相手をつかまえればリンチもしたし、つか まればリンチもされた。
しかし学校で会うと、まったくふつうの仲間。あいさつをして笑いあうような相手ではないが、し
かし互いに知らぬ相手ではない。目と目であいさつぐらいはした。つまり寺の境内とそれを包 む山は、スポーツでいう競技場のようなものではなかったか。競技場の外で争っても意味がな い。つまり私たちは「遊び」(?)を通して、知らず知らずのうちに社会で必要なルールを学んで いた。が、それだけにはとどまらない。
寺の境内にはひとつの秩序があった。子どもどうしの上下関係があった。けんかの強い子ど
もや、遊びのうまい子どもが当然尊敬された。そして私たちはそれに従った。親分、子分の関 係もできたし、私たちはいくら乱暴はしても、女の子や年下の子どもには手を出さなかった。
仲間意識もあった。仲間がリンチを受けたら、すかさず山へ入り、報復合戦をしたりした。しか
しそれは日本というより、そのまま人間社会そのものの縮図でもあった。だから今、世界で起 きている紛争や事件をみても、私のばあい心のどこかで私の子ども時代とそれを結びつけて、 簡単に理解することができる。
もし私が学校だけで知識を学んでいたとしたら、こうまですんなりとは理解できなかっただろう。
だから私の立場で言えば、こういうことになる。「私は人生で必要な知識と経験はすべて寺の 境内で学んだ」と。
+++++++++++++++++++
●ギャング集団
子どもは、集団をとおして、社会のルール、秩序を学ぶ。人間関係の、基本もそこで学ぶ。そ
ういう意味では、集団を組むというのは、悪いことではない。が、この日本では、「集団教育」と いう言葉が、まちがって使われている。
よくある例としては、子どもが園や学校へ行くのをいやがったりすると、先生が、「集団教育に
遅れます」と言うこと。
このばあい、先生が言う「集団教育」というのは、子どもを集団の中において、従順な子どもに
することをいう。日本の教育は伝統的に、「もの言わぬ従順な民づくり」が基本になっている。 その「民づくり」をすること、つまり管理しやすい子どもにすることが、集団教育であると、先生 も、そして親も誤解している。
しかし本来、集団教育というのは、もっと自発的なものである。また自発的なものでなければ
ならない。
たとえば自分が、友だちとの約束破ったとき。ルールを破って、だれかが、ずるいことをしたと
き。友だちどうしがけんかをしたとき。何かものを取りあったとき。友だちが、がんばって、何か のことでほめられたとき。あるいは大きな仕事を、みなで力をあわせてするとき、など。
そういう自発的な活動をとおして、社会の一員としての、基本的なマナーや常識を学んでいくの
が、集団教育である。極端な言い方をすれば、園や学校など行かなくても、集団教育は可能な のである。それが、ロバート・フルグラムがいう、「砂場」なのである。もともと「遅れる」とか、「遅 れない」とかいう言葉で表現される問題ではない。
だから言いかえると、園や学校へ行っているから、集団教育ができるということにはならな
い。行っていても、集団教育されない子どもは、いくらでもいる。集団から孤立し、自分勝手で、 わがまま。他人とのつながりを、ほとんど、もたない。こうした傾向は、子どもたちの遊び方に も、現れている。
たとえば砂場を見ても、どこかおかしい? たとえば砂場で遊んでいる子どもを見ても、みな
が、黙々と、勝手に自分のものをつくっている。私たちが子どものときには、考えられなかった 光景である。
私たちが子どものときには、すぐその場で、ボス、子分の関係ができ、そのボスの命令で、バ
ケツで水を運んだり、力をあわせてスコップで穴を掘ったりした。そして砂場で何かをするにし ても、今よりはスケールの大きなものを作った。が、今の子どもたちには、それがない。
こうした問題について書いたのが、つぎの原稿である。なおこの原稿は、P社の雑誌に発表
する予定でいたが、P社のほうから、ほかの原稿にしてほしいと言われたので、ボツになった経 緯がある。理由はよくわからないが……。今までここに書いたことと、内容的に少しダブルとこ ろもあるが、許してほしい。
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●養殖される子どもたち
岐阜県の長良川。その長良川のアユに異変が起きて、久しい。そのアユを見続けてきた一
人の老人は、こう言った。「アユが縄張り争いをしない」と。武儀郡板取村に住むN氏である。 「最近のアユは水のたまり場で、ウロウロと集団で住んでいる」と。
原因というより理由は、養殖。この二〇年間、長良川を泳ぐアユの大半は、稚魚の時代に、琵
琶湖周辺の養魚場で育てられたアユだ。体長が数センチになったところで、毎年三〜四月に、 長良川に放流される。人工飼育という不自然な飼育環境が、こういうアユを生んだ。しかしこれ はアユという魚の話。実はこれと同じ現象が、子どもの世界にも起きている!
スコップを横取りされても、抗議できない。ブランコの上から砂をかけられても、文句も言えな
い。ドッジボールをしても、ただ逃げ回るだけ。先生がプリントや給食を配り忘れても、「私の分 がない」と言えない。
これらは幼稚園児の話だが、中学生とて例外ではない。キャンプ場で、たき火がメラメラと急に
燃えあがったとき、「こわい!」と、その場から逃げてきた子どもがいた。小さな虫が机の上を はっただけで、「キャーッ」と声をあげる子どもとなると、今では大半がそうだ。
子どもというのは、幼いときから、取っ組みあいの喧嘩をしながら、たくましくなる。そういう形
で、人間はここまで進化してきた。もしそういうたくましさがなかったら、とっくの昔に人間は絶滅 していたはずである。が、そんな基本的なことすら、今、できなくなってきている。核家族化に不 自然な非暴力主義。それに家族のカプセル化。
カプセル化というのは、自分の家族を厚いカラでおおい、思想的に社会から孤立することをい
う。このタイプの家族は、他人の価値観を認めない。あるいは他人に心を許さない。カルト教団 の信者のように、その内部だけで、独自の価値観を先鋭化させてしまう。そのためものの考え 方が、かたよったり、極端になる。……なりやすい。
また「いじめ」が問題視される反面、本来人間がもっている闘争心まで否定してしまう。子ども
同士の悪ふざけすら、「そら、いじめ!」と、頭からおさえつけてしまう。
こういう環境の中で、子どもは養殖化される。ウソだと思うなら、一度、子どもたちの遊ぶ風
景を観察してみればよい。最近の子どもはみんな、仲がよい。仲がよ過ぎる。砂場でも、それ ぞれが勝手なことをして遊んでいる。
私たちが子どものころには、どんな砂場にもボスがいて、そのボスの許可なしでは、砂場に入
れなかった。私自身がボスになることもあった。そしてほかの子どもたちは、そのボスの命令に 従って山を作ったり、水を運んでダムを作ったりした。仮にそういう縄張りを荒らすような者が 現われたりすれば、私たちは力を合わせて、その者を追い出した。
平和で、のどかに泳ぎ回るアユ。見方によっては、縄張りを争うアユより、ずっとよい。理想的
な社会だ。すばらしい。すべてのアユがそうなれば、「友釣り」という釣り方もなくなる。人間たち の残虐な楽しみの一つを減らすことができる。しかし本当にそれでよいのか。それがアユの本 来の姿なのか。その答は、みなさんで考えてみてほしい。
++++++++++++++++++++
総じて言えば、今の子どもたちは、管理されすぎ。たとえば少し前、『砂場の守護霊』という言
葉があった。今でも、ときどき使われる。子どもたちが砂場で遊んでいるとき、その背後で、守 護霊よろしく、子どもたちを監視する親の姿をもじったものだ。
もちろん幼い子どもは、親の保護が必要である。しかし親は、守護霊になってはいけない。た
とえば……。
子どもどうしが何かトラブルを起こすと、サーッとやってきて、それを制したり、仲裁したりする
など。こういう姿勢が日常化すると、子どもは自立できない子どもになってしまう。せっかく「砂 場」という恵まれた環境(?)の中にありながら、その環境をつぶしてしまう。
が、問題は、それで終わるわけではない。それについては、別の機会に考えてみる。
++++++++++++++++++++
最後に、ピアジエは、小学校の低学年期には、「子どもは幼児期から脱し、論理的な思考を
するようになる」。高学年期には、「子どもは、抽象的なことについても、思考するようになる」と 説明している。
「論理的」というのは、A=B、B=C、だから、A=Cという考え方ができることをいう。たとえ
ば「犬は、卵をうまない。人間も、卵を生まない。だから犬と、人間は、仲間だ」というように考え るなど。
また「抽象的」というのは、「心の平和とは何か」「暖かい家庭とは、どんな家庭をいうのか」
「友情とは何か」というテーマについて、自分なりの考えを、説明できることをいう。
私の印象では、ピアジエの時代よりも、現代は、数年、子どもの発達が早まっているのでは
ないかと思う。(天下のピアジエを、批判するのも、勇気のいることだが……。)ここでいうギャ ング集団についても、幼稚園の年長児期には、すでにその「形」が見ることができる。
当然のことながら、このギャング集団の時期になると、子どもは、急速に、親離れを始める。
女の子だと、早い子どもでは、小学3、4年生ごろには、初潮を迎え、父親といっしょに風呂に 入ったりするのをいやがるようになる。
この時期、子どもは、ときに幼児になり、ときにおとなのまねをしてみたりと、心が揺れ動く。
そういう意味で、精神的には、不安定な時期と考えてよい。
(040223)(はやし浩司 ギャングエイジ ギャング集団 フルグラム ピアジェ ピアジエ)
●家族コンプレックス
昨夜(2・22)、民放テレビを見ていたら、親離れする子どもの心理について、報道していた。
断絶した親子を、どうすれば、またもとの状態に戻せるか、と。
「もとの状態」というのは、「幼児のころのように、いっしょにプールで水遊びしたような状態」
(ある父親の言葉)をいうのだそうだ。そういう風景をとったビデオを見ながら、一人の父親は、 ポツリと、こう言う。
「あのころの娘は、どこへ行ったのでしょうかねエ……」と。(多分、ディレクターかだれかに、そ
う言うようにしむけられたのだろうが……。)
子どもが親離れをする。……しかしそれはある意味で、当然の結末である。テレビ局側の報
道姿勢も、コメンテイターも、「そうであってはいけない」という大前提で、この問題を論じてい た。が、しかし、どうして、そうであってはいけないのか。
子どもは思春期が近づくと、「家族」というワクから離れて、「自分」というものを確立するよう
になる。これを心理学では、『個人化』と呼んでいる。
この個人化は、人間の成長には、必要不可欠なものであり、この個人化がうまくできないと、
精神的に未熟な、ナヨナヨとしたおとなになってしまう。つまり「家族」というワク、あるいは足か せが、ときとして、この個人化を、阻害してしまうことがある。
私の知人の中には、50歳をすぎても、親戚づきあいを第一に考えている人がいる。何かに
つけて、「親戚」「親戚」と、「親戚」という言葉を、口にする。そうした生きザマが、まちがってい るとは思わないが、そうした心理状態は、広い意味で、マザーコンプレックス(マザコン)の人が もつ心理状態に似ている。
そのマザコンという言葉をもじるなら、「家族」や「親戚」というワクの中から出られないでいる
状態は、「ファミリー・コンプレックス(家族コンプレックス)」、あるいは、「親戚コンプレックス」と いうことになる。(注、この二つの名前は、私がつけた。)
徹底した依存関係を、家族どうし、あるいは親戚どうしの間に求めようとする。
しかしこうした依存性は、当然のことながら、その人の精神的自立を阻害する。その結果、こ
こに書いたように、精神的に未熟な人間になる。
一般論から言えば、マザコンタイプの人ほど、親戚づきあいを、重要視する。「依存性」という
部分では、心理状態が共通するからである。
息子や娘のために、遠い親戚にまで声をかけ、派手な結婚式をしたがる、など。盆暮れの実
家の墓参りを、最重要のこころがけと位置づけることもある。
もっとも、その人が自分だけでそうするのは構わない。が、このタイプの人にかぎって、そうで
ない人を、徹底的に非難する。自己中心性が強く、「自分は正しい」と思う、その返す刀で、「あ んたは、まちがっている」「人間として、失格だ」と言う。
その報道番組でも、そうした表現が、ずいしょに見られた。一人、「親に向かって……」という
ようなことを言っている、父親もいた。いまどき、「?」な表現である。
家族は、大切だが、しかしその家族が、子どもの自立の足かせになってはいけない。それは
子どもにとっては、母親は絶対的なものではあるが、同時に、子どもを、マザコンにしてはいけ ないという論理に似ている。
が、問題は、それだけに終わらない。
この日本では、そういう形であるにせよ、親に反発する子どもを、「悪」と決めてかかる風潮が
強い。「できそこない」とか、「非行」とかいうレッテルを張ることもある。
その結果、子どもは、その罪悪感を覚えるようになり、生涯にわたって、心のキズ、あるいは
負い目としてしまうことがある。
そんなわけで、「家族」や「親戚」は、大切にしなければならないものだが、だからといって、そ
れを子どもに押しつけてはいけない。こうした問題では、親は、子どもから一歩退いて考える。 そういう姿勢が、子どもの成長をうながすことになる。
(040223)(個人化 家族コンプレックス 親戚コンプレックス 親類コンプレックス)
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【追記(1)】
この原稿を書いているとき、では、どういう人が、(たくましい人)であり、どういう人が、(未熟
な人)であるかということを考えた。
たくましい人というのは、イメージとしては、荒野を野宿しながら、ひとりで生きていくような人
をいう。
未熟な人というのは、いつも何かに依存しながら生きていく人をいう。名誉や地位、肩書きや
財産など。過去の学歴や、職歴にぶらさがって生きていく人も、それに含まれる。さらに、父親 や母親をことさら美化して、それに依存する人。親戚づきあいを第一に考えて、親戚に依存す る人も、それに含まれる。
未熟な人というのは、何かにつけてものや人に依存しやすいので、このタイプの人は、たいて
いこれらすべてのものに、同時に、依存しながら生きていることが多い。
両親や、親戚づきあいは、当然のことながら、それなりに大切にしなければならないものであ
る。しかしことさらそれを強調する人というのは、自分の依存性(=精神的な欠陥)をごまかす ために、強調することが多い。
あなたの周囲にも、このタイプの人は、必ずいるので、観察してみるとおもしろいのでは…
…。
【追記(2)】
子どもは親から、生まれる。しかし子どもは子どもであって、決して、親のモノではない。だか
らその子どもが、親の思いどおりにならないからといって、親は、それを嘆く必要はない。いわ んや、子どもを責めてはいけない。
依存性の強い親ほど、子どもの依存心に甘くなる一方、自分は、自分で、今度は、子どもに
依存しようとする。「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」と。
そして親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子として、その依存性
を、見すごしてしまう。
こうした日本人独特の依存性は、まさに日本という島国に生まれた土着性のようなもの。日
本人の体質の中に、しっかりとしみこんでいるので、それに気づく人は少ない。
どこかのだれかが、涙ながらに、「私は母に産んでいただきました。女手一つで育てていただ
きました」などと話したりすると、「?」と思う前に、それを美談として、安易にもてはやしてしま う。
ここに書いた、家族コンプレックス、親戚コンプレックスも、同じように考えてよい。
(はやし浩司 家族コンプレックス 親類 親戚 コンプレックス)
●親不孝を悔やむ人
「私は、親不孝者でした」と、悔やんでいる人は多い。「親にさんざん苦労をかけながら、その
恩がえしができなかった」と。
日本では、ことさら親孝行がもてはやされる。親孝行を売り物にしている倫理研究団体も、い
くつかある。その中には、何十万人という会員を集めているのもある。
そういう風潮の中で、多くの日本人は、親孝行を美徳とし、その一方で、親孝行をしない者
(?)を、「人間のクズ」と、排斥する。
それが日本の文化だから、私は、それを受け入れるしかない。まただからといって、私は、親
孝行を否定しているのではない。
ただこうした風潮の中で、親孝行ができなかった人、あるいは親孝行をしなかった人が、自
分で自分を責めるケースも、少なくない。さらにそれが進んで、自分を否定してしまう人もいる。 自分で自分のことを、人間のクズと思いこんでしまう。
子どもの世界でも、これに似た現象がよく起きる。
たとえばある子どもが、親に、小さいころから、「いい大学へ入りなさい」「いい大学へ入らな
ければ、いい生活ができない」と、さんざん言われつづけたとする。そういう子どもが、そのまま その(いい大学)は入れれば、問題はない。
しかしその(いい大学)は入れなかったとしたら、その子どもは、どうなるのか? その子ども
は挫折感から、自らにダメ人間というレッテルを張ってしまう。
こういう状態になると、子どもは、現実に適合できなくなり、「現実検証能力」を失うと言われて
いる。自信喪失から自己嫌悪におちいることもある。わかりやすく言えば、ハキのない、ナヨナ ヨとした人生観をもつようになってしまう。
私も、幼稚園で働くと母に告げたとき、母は、電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れてしまっ
た。私は、母の声を聞いたとき、どん底にたたき落とされたように感じた。たいへんなことをして しまったと感じた。実際には、それから十年以上、私は、外の世界で、自分の職業を隠した。
私たちは、ともすれば、子どもに向かって、「こうあるべきだ」と、言いがちである。しかしそう
いう言葉の裏で、子どもに、別の負担を課してしまうことがある。そしてその負担を感じて、こど も自身が、自らを追いこんでしまう。冒頭に書いた、親孝行もその一つということになる。
つまり子育てを、ある一定のワクの中で考えると、どうしても、そのワクを子どもに押しつけよ
うとする。そしてその結果、そのワクが、子ども自身を押しつぶしてしまうことがある。しかもた いていは、そういうふうにしながらも、親自身に、その自覚がない。
……ということで、いきなり結論。
こうした押しつけは、慎重に。それから一言。いくらあなたの子どもが、親不孝の息子や娘で
あっても、その息子や娘が苦しむようなことだけは、避けたい。そのためにも、親は、いつも、 無条件の愛をつらぬく。見かえりを求めない。そういうサバサバした生き方が、子どもの未来 を、明るくする。つまりそういう未来を用意してあげるのも、親の務めということになる。
子どもが、「私は親不孝者」と、自ら苦しむような状況だけは、つくってはいけない。
(040223)
+++++++++++++++++++
以前、こんな原稿(中日新聞掲載済み)を
書きました。
+++++++++++++++++++
●生きる源流に視点を
ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ
き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、 またしかり。
私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が
助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りを していて、息子の一人を助けてくれた。
以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」と思い
なおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議である。
とくに二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あるいは中
学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なからずあわてた が、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切ることができた。
私の母は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っている。人というのは、上を見れ
ば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだという意味だが、子 育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではない。下から見る。「子ど もが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。
朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分
は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生 活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、 すべての問題が解決する。
子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。この本のどこかに書いたように、フ
ォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・た め」とも訳せる。
つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るため
に忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、「as you like」と英 語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意味だが、すばらしい訳だと思う。こ の言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。
人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ
らに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、そ の真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。
ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、そ
れまでの自分が小さかったことに気づく。が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩 んでは、身を焦がす。
先日もこんな相談をしてきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミック
に入れたのだが、授業についていけない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」 と。こういう相談を受けるたびに、私は頭をかかえてしまう。
+++++++++++++++++++
●家族の真の喜び
親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむけ
る。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。
「私はダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。が、近所
の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえている。
いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生きていてく
れるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようになる。
「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言っ た父親もいた。
が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが大きくなり、そし
て互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったまま、口をつぐんで しまう。
法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずね
る。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることが できるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。
「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。
私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救わ
れた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親を みると、私はこう言うことにしている。
「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだではないですか。それ以上、何を望むの
ですか」と。
子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかり
ではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。
しかしそれでも巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしか
ない。親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつ もドアをあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。
私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう書いている。「子どもはいつか古里に帰ってく
る。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれない。が、それでも子どもは古里に帰ってく る。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。
今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受
賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残している。
「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決
して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」 と。
こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。
(*浜松市青葉幼稚園元園長)(はやし浩司 ラッセル 許して忘れる)
●「国歌」に異論あり(Objection against the common sense of Anthem)
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英語で、「国歌」というのは、
「Anthem」という。
これは常識だが、その「Anthem」
はラテン語の、「antifoma」、また
ギリシア語の「antiphoma」に
由来する。
もともとは、「賛歌」「祝歌」(小学館
ランダムハウス大辞典)という意味である。
つまり、「祝宴で歌う、祝い歌」のこと。
が、この日本では、「国歌」と訳し、
そこに「国」という文字を入れる。
日本はそれでよいとしても、しかし、
これには、問題がある。
たとえば外国で、「これから日本の
anthemを歌います」と言って、
「君が代」を歌えば、つまりその
時点で、好むと好まざるとにかかわらず、
「天皇、もしくは天皇家を祝う歌」を
歌うことになる。
もっとわかりやすく言えば、「Japan
を祝う歌ではなく、天皇を祝う歌」を歌う
ことになるということ。
外国の人は、そう解釈する。そして
同時に、外国の人は、「日本人が、天皇
を祝っている」と、とらえる。
「君が代」の「君」については、いろいろ解釈
する人がいるようだが、「天皇」のこと
である。
また、よく「国歌は、国をたたえる歌であり、
世界の常識」と言う人がいる。
それならそれで問題は、ない。しかし
ここで、すり替えをしてはいけない。
英語でいう「Anthem」は、
「祝歌」のこと。しかも何を祝うかといえば、
「郷土」である。
「愛国心」を意味する、「Patriatism」
は、もともとは「父なる大地を愛する」という
意味である(同辞典)。
そこで異論。
どうして郷土を愛する歌に、天皇を祝う
歌を歌うのか。世界の人は、「Anthem」
というときは、郷土を愛する歌として、
それを歌う。
何も、私は、「君が代」に反対しているのでは
ない。「天皇の国、日本」と考えて、天皇家の
人たちが、「君が代」を歌うなら、まだよい。
(イギリスでは、「イギリスは、女王陛下の国」
と考えて、「God saves the Queen」を歌って
いるが……。しかし先進国の中では、日本と
並んでゆいいつの例外。)
しかしこの民主主義の時代にあって、
どうして「National Anthem
of Japan」が、「君が代」なのか。
一度、国際的な常識で、日本の国歌を
考えなおしてみることも、大切だと私は思う。
少なくとも、日本の常識は、世界の常識と、
少し、ズレている。
そのヒントとして、ここで「Anthem」という
単語を取りあげてみた。
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