書庫169376
はやし浩司
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●児童虐待

【04年12月8日のニュースから……】

一つは、「児童虐待について内情を調査してみたら、保護者の6割に、
心身に問題があったとわかった」というもの。

もう一つは、BPO=放送倫理・番組向上機構の「放送と青少年に関する委員会」が、
「血液型で人間の性格が規定される」という見方を助長しないよう要望したというもの。

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●児童虐待466件 保護者の6割、心身に問題……道調査 /北海道

 北海道内8カ所の道立児童相談所が、03年度に取り扱った児童虐待466件で、子供を虐
待した保護者333人の約6割が、性格の偏りや精神障害など何らかの問題を心身に抱えてい
たことが、道保健福祉部の調査で分かった。

 調査は各相談所の児童福祉司らが、担当した個々のケースを分析し、(1)虐待した保護者
の心身の状況、(2)虐待につながったと思われる児童の状況、(3)同じく家庭の状況――に
ついて選択肢から複数回答した。

保護者の心身の状況は
▽「性格の偏り」が、128人(38%)で最も多く、
▽「精神病か、その疑い」46人(14%)
▽「人格障害」、26人(8%)
▽「アルコール依存症」17人(5%)
▽「薬物依存症」、7人(2%)。「特に問題なし」が81件(24%)、「不明」が49件(15%)だっ
た。

 家庭の状況(333世帯)では
▽「経済的困難」が、170件(51%)と過半数を占めた。ほかに
▽「ひとり親家庭」、136件(41%)
▽「親族・近隣、友人から孤立」、93件(28%)
▽「育児疲れ」、58件(17%)など。

 虐待された子供の側では、
▽「特に問題なし」が、170件(37%)。
▽窃盗、暴力などの「問題行動あり」が、94件(20%)、
▽「精神発達の遅れや障害」が、80件(17%)あった。
▽「望まれずに出生」したことが虐待につながったとみられるケースも、24件(5%)あった。

 道保健福祉部の担当者は「一つ一つの要素がすぐに虐待につながるわけではないが、要因
にはなり得る。問題は被害者の子供より親や家庭にあることが多い」とみている。(以上、ヤフ
ー・NEWS・04年12月8日)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●BPOが「血液型を扱う番組」に要望 
 BPO=放送倫理・番組向上機構の「放送と青少年に関する委員会」は、放送各社に対し、
「血液型で人間の性格が規定される」という見方を助長しないよう要望した。

 青少年委員会では、血液型を扱う番組が増えていることについて、「科学的根拠が証明され
ていないにも関わらず、血液型で人を分類する考え方は、社会的差別に通じる危険がある」と
指摘している。また、「血液型実験」と称して、子供が駆り出されるケースは「人道的に問題が
ある」としている。
 
 その上で、放送各社が「番組基準を守り、血液型で人間の性格が規定されるという見方を助
長しないよう」要望、占いや霊感など、非科学的な事柄をあつかう番組でも、青少年への配慮
を強めるよう要請した。(04年・12月8日)(以上、TBS・i・news)

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 児童虐待については、親自身に、何らかの、経済的困苦や、家庭問題、それに心の病気が
あることが多いということは、以前より、指摘されている。たとえば、「貧しい」ということは、それ
自体が、社会的病理と考えてよい。が、しかし、それだけで、片づけてはいけない。

 私が知っている例でも、その両親(祖父母)のスネをかじり、借金まるけになりながらも、T社
の大型ランドクルーザーに乗っていた父親がいた。「貧しい」というのは、金銭的な貧しさではな
く、心の貧しさをいう。

 金銭的な貧しさは、得てして、心の貧しさを、引き起こしやすい。その結果として、そしてその
一部として、親は、子どもを虐待するようになる。

 もっとも今、経済的なゆとりをもって生活して人は、何%いるのか? いや、(ゆとり)というの
も、実は、その人の心構えによって決まるのでは……?

 正直に言うが、だれかに接待されたときは別として、私たち夫婦にしても、この10年以上、寿
司屋で寿司を食べたことがない。寿司と言えば、回転寿司。それもたいていは、一皿105円の
回転寿司である。

 しかし、食べたいときには、食べている。思い立ったときに、食べている。それが(ゆとり)とい
うものではないか。(いつも2人で、合計8〜9皿までと決めているが……。)

 ただこういうことは言える。いくら金銭的に貧しくても、心までは、貧しくしてはいけないというこ
と。ある女性(80歳くらい)は、息子夫婦に、行楽地へ連れていってもらうたびに、何かの(盗
み)をしてくるという。

 通りにある植木鉢や、置き物など。飲食店に寄っても、その店にそなえつけの、調味料入れ
や傘まで、もってくるという。そのため、息子夫婦は、目を離せないという。そういう女性を、心
の貧しい人という。

 子どもを虐待する親というのは、そういう意味で、心の貧しい人と考えてよいのでは……。よく
わからない部分もあるので、この先は、また別のところで、考えてみたい。




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●予言論

血液型については、もう何度も書いてきた。その結論も、少し前に書いた。

 問題は、「占いや霊感など、非科学的な事柄をあつかう番組でも、青少年への配慮を強める
よう要請した」(BPO)という部分。

 大賛成!、である。

 昨夜もテレビのチャンネルをかえていたら、その種の番組が、目に入った。1人の太った女
性が、タレントたちの運勢を、占っていた。

 少し前には、霊媒師とか霊感師というのが、いた。さらに少し前には、どこかの寺の僧侶が、
心霊写真なるものを、さかんに紹介していた。が、最近は、占い!

 もう、やめようよ、みなさん! もう少し、賢く、利口になろうよ! こんなことを繰りかえしてい
て、いったい、どうするのか! どうなるのか! 「あんたのうしろには、ヘビがいる」「あんた
は、神を粗末にしている」などと言われて、ビクビクしたり、ギャーギャー騒いでいてよいのか!

 コメントする価値もないほど、バカげている。あまりにも、レベルが低すぎる。少なくとも、大の
テレビ局が、最新の映像機器を使って流すような番組ではない。

 ……というような話を、先日、中学2年生のRさんにすると、Rさんは、こう言った。

 「先生、占いは、ちゃんと当たります!」と。

 そこで私は、「具現理論」について、話してやった。

●具現理論

 子どもは(もちろん、おとなも)、最初にこうだと思った状況を、自ら、つくりだしてしまうことが
ある。これを私は、勝手に、「具現理論」と呼んでいる。内心で思っていることを、自ら、無意識
のうちにも、具体的に作りだしてしまうことをいう。いろいろな例がある。

 Aさん(高二女子)が、ある日、こう言った。「先生、私、明日、交通事故にあう」と。「どうして、
そんなことがわかるの?」と聞くと、「私には、自分の未来が予言できる」と。

 で、それから数日後、見ると、Aさんは、顔の右半分、それから右腕にかけて包帯を巻いてい
た。私はAさんの話を忘れていたので、「どうしたの?」と聞くと、「自転車で走っていたら、うしろ
から自動車が来たので、それを避けようとしたら、体が塀にぶつかってしまった」と。

 このAさんのケースでは、自らに「交通事故を起こす」という暗示をかけ、そしてその暗示が、
無意識のうちに、事故を引き起こしてしまったことになる。つまり無意識下の自分が、Aさん自
身を裏からコントロールしたことになる。こうした例は多い。

 毎朝、携帯電話の占いを見てくる女性(二五歳くらい)がいる。「あんなものインチキだよ」と私
が言うと、猛然と反発した。「ちゃんと、当たりますよ。不思議なくらいに!」と。彼女はいろいろ
な例をあげてくれたが、それもここでいう具現理論で説明できる。

 彼女の話によると、こういうことらしい。「今日は、ちょっとしたできごとがあるので、ものごとは
控え目に」という占いが出たとする。「で、その占いにさからって、昼食に、おなかいっぱい、ピ
ザを食べたら、とたんに、気持ち悪くなってしまった。控え目にしておかなかった、私が悪かっ
た」と。

 しかしこの占いはおかしい。仮に昼食を控え目にして、体調がよければよいで、それでも、
「当たった」ということになる。それにものごとは、何でも控え目程度のほうが、うまくいく。

つまり彼女は、「控え目にしなければならない」という暗示を自らにかけ、同時に、「それを守ら
なければ、何かおかしなことになる」という予備知識を与えてしまったことになる。あとは、「おか
しなこと」という部分を、自ら、具体的に作りだしてしまったというわけである。

つまり占いが当たったわけではなく、自分をその占いに合わせて、つくってしまった。

 あなたは私の具現理論をどう思うだろうか。
(はやし浩司 具現理論 予言実現 予告実現 占い 血液型 BPO 放送倫理)

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おまけに、昨年(03)書いた原稿を
添付しておきます。

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●「ヤーイ、何も起きなかったぞ!」

 数年前、どこかの新興宗教団体が、全国各紙の一面を借り切って、「予言」なるものを載せ
た。「(その年の7月に)北朝鮮が戦争をしかけてくる」とか何とか。結果としてみると、まったく
のデタラメだった。その前は、ノストラダムスの予言とか、富士山噴火の予言というのもあっ
た。

しかしこういう予言など、当たるわけがない。もともと予言などというものは、どこかのあたまの
おかしな人が、思いこみでするもの。

たとえばあるキリスト系宗教団体では、ことあるごとに終末論と神の降臨を唱え、「この信仰を
したものだけが、救われる」などと教えている。そこで調べてみると、こうした終末予言は、その
宗教団体だけでも、過去、4、5回もなされていることがわかった。しかし、だ。一度だって、こう
した予言が、当たったためしがない。

 で、疑問は、こういう人騒がせなことをさんざん言っておきながら、その責任を取った人が、な
ぜ一人もいないかということ。さらにその責任を追及した人もいない。それにさらなる疑問は、
そういう予言がはずれても、「だまされた」と言って、その宗教団体(ほとんどはカルト)から離れ
た信者が、なぜいないかということ。中には、「私たちの信仰の力によって、終末を回避しまし
た」などと、おめでたいことを言う宗教団体さえある。

 ごく最近では、真っ白な衣装に身を包んだ団体が、ある。去る5月15日(03年)に何かが起
こるはずだったが、「少し延期された」(真っ白な衣装を着た団体のメンバーの一人の言葉)と
のこと。が、今にいたるまで、何も起きていない。

「ヤーイ、何も起きなかったぞ!」と私は言いたいが、一言、つけ加えるなら、「馬鹿メ〜」という
ことになる。もっともはじめから相手にしていなかったから、何も起きなかったからといって、ど
うということはない。

(仮に起きたとしても、それは予言が当たったというよりは、偶然そうなったと考えるのが正し
い。まさか、こんどのSARS騒ぎが、その予言?)

 しかしそれにしても楽しい。あのノストラダムスには、私もひかかった。「1999年の7月」とい
うのが、どこか信憑性(しんぴょうせい)を感じさせた。聞くところによると、あのノストラダムスの
予言について本を10冊以上も書いた、Gという作家は、億単位のお金を稼いだという。世の中
をあれだけ騒がせたのだから、謝罪の意味もこめて、その利益を、社会に還元すべきではな
いか……と考えるのは、はたして私だけなのだろうか。

 さてさて、これからも、この種類のインチキ予言は、つぎつぎと生まれてくるだろう。人々が不
安になったとき、人々の心にスキ間ができたときなど。では、私たちは、どうしたらよいのか。

言うまでもなく、予言論は、運命論とペアになっている。個人の運命が集合されて、予言にな
る。つまりこうした予言にまどわされないためには、私たち一人ひとりが、自分を取り巻く運命
論と戦うしかない。

 そんなわけで、『運命は偶然よりも、必然である』(「侏儒の言葉」)と説いた、芥川龍之介を、
私は支持する。運命は、自分でつくるものということ。あるいは無数の偶然と確率によって、決
まる。

百歩譲って、仮に運命があるとしても、最後の最後で、足をふんばって立つのは、私たち自身
にほかならない。神や仏の意思ではない。私たち自身の意思だ。自由なる意思だ。そういう視
点を見失ってはいけない。

 ところで学生のころ、こんな愚劣な会話をしたことがある。相手は、どこかのキリスト教系のカ
ルト教団の信者だった。私が、「君は、ぼくの運命が決まっているというが、では、これからこの
ボールを、下へ落す。その運命も決まっていたのか」と聞くと、こう答えた。「そうだ。君が、ボー
ルを落すという運命は、決まっていた」と。

私「では、ボールを落すのをやめた」
信「そのときは、落さないという運命になっていた」
私「では、やはり、落す」
信「やはり、落すという運命になっていた」
私「どっちだ?」
信「君こそ、どっちだ?」と。
(030520)

【追記】
 私はいつだったか、中田島の砂丘を歩きながら、学生時代の、あの会話を思い出したことが
ある。「君こそ、どっちだ?」と私に迫った、あの信者との会話である。

 浜松市の南に、日本三大砂丘の一つである、中田島砂丘がある。その砂丘の北側の端に立
って海側を見ると、波打ち際は、はるか数百メートル先になる。

しかし、だ。この大宇宙には、無数の銀河系があり、それらの銀河系には、その砂丘の砂粒の
数よりも多くの、星々があるという。私たちが「太陽」と呼ぶ星は、その中の一つにすぎない。地
球は、その星にも数えられない、その太陽のまわりを回る、小さなゴミのようなものだという。

 一人の人間の価値は、この大宇宙よりも大きいとは言うが、しかし一方、宇宙から見る太陽
の何と小さいことよ。仮にこの宇宙が、人知を超えた神々によって支配されているとしても、そ
の神々は、果たしてこの地球など、相手にするかという問題がある。いわんや一人ひとりの人
間の運命など、相手にするかという問題がある。さらにいわんや、地球上の生物の中で、人間
だけに焦点をあてて、その人間の運命など、相手にするかという問題がある。

仮に私が、全宇宙を支配する神なら、そんな星粒の一つの太陽の、そのまた地球の、そのま
た人間の、そのまた個人の運命など、相手にしない。それはたとえて言うなら、あなたの家の
中の、チリ1個にはびこる、カビの運命を、あなたが相手にするようなもの。

……と、私は考えてしまう。現に、ユダヤ人の神である、キリストは、第二次大戦中、1000万
人近いユダヤ人が殺されたにもかかわらず、何もしなかったではないか。殺されたユダヤ人の
中には、それこそ命をかけて神に祈った人だって、いたはずである。つまりそういうことを考え
ていくと、「この信仰を信じた人だけが、神に救われる」と考えることの、おかしさが、あなたにも
わかるはず。

 だからといって、私は宗教や信仰を否定するものではない。私が言いたいのは、宗教にせ
よ、信仰にせよ、「教え」に従ってするものであって、不可思議なスーパーパワーに従ってする
ものではないということ。

運命にせよ、予言にせよ、それらはもともと宗教や信仰とは関係ないものということになる。も
しそういうスーパーパワーを売りものにする宗教団体があったら、まずインチキと疑ってかかっ
てよい。

 ボールを落とすとか、落とさないとか、そんなささいなことにまで、運命など、あるはずはな
い。ボールを落とすとか落さないとかを決めるのは、私たち自身の意思である。自由なる、意
思である。その「私」が集合されて、私の運命は決まる。
(はやし浩司 運命 予言 運命論 予言論)




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●森田療法

【心を病む子どもたち】

 学校恐怖症になった子どもがいた。小学2年生だった。それまでもときどき、ぐずったりして、
学校を休むことはあったが、その日の朝は、ちがった。トイレに入ったまま、出てこなくなってし
まった。

 とたん、母親は、パニック状態。実際には、狂乱状態になってしまった。「このまま不登校児
になってしまったら、どうしよう!」と。

 ……というようなことを繰りかえして、子どもは不登校児になっていく。(詳しくは、「はやし浩司
 学校恐怖症」を検索してみてほしい。)

【対処のし方】

 不登校にもいろいろある。しかし学校恐怖症による不登校のばあいは、一度症状がこじれた
ら、つぎの点を守る。

(1)最低でも、数週間から、数か月は、何も言わない。言ってはいけない。
(2)今の状態をより悪くしないことだけを考えて、数か月単位で、様子をみる。
(3)安易な原因さがしをしない。子どもが口にする理由に振りまわされない。
(4)ただひたすら忍従。がまん、根気。あとは許して、忘れる。

 「学校」という言葉は、禁句。「学校へ行こう」も禁句。もちろん「がんばれ」式の励まし、「こん
なことで!」式のおどしは、禁物。ただひたすら、子ども自身の活動欲(森田療法)が出てくるの
を、待つ。

【森田療法】

 慈恵医科大学の森田正馬(もりた・まさたけ)が、始めた心理治療療法を、「森田療法」とい
う。

 森田は、人間自身がもつ自然治癒力に着目した。そしてあるがままの自分を受け入れること
から、その人の心の病気(神経症、恐怖症、強迫神経症、不安神経症など)を治そうとした。

 この森田療法は広く多くの医師たちに支持され、世界に広がり、かつ現在に伝わっている。

(森田療法・第1期)……約1週間、患者を病室に隔離する。これを「臥じゅう期」という。この
間、患者は、排便、食事以外は、ただひたすら何もせず、病室に閉じこもって、床に臥す。多く
の患者は、不安感に襲われ、ときに悶絶するが、その不安を、そのまま受け入れさせるように
する。

(森田療法・第2期)……それにつづく、3日〜7日の間、今度は、床に臥す時間を、1日7〜8
時間に制限し、患者に庭掃除などの、軽い軽作業をさせる。これを「軽作業期」という。この期
間の間、患者は、日記を書いたり、本を読んだりする。人との接触や会話は、禁じられる。

(森田療法・第3期)……さらにそれにつづく、1〜2週間、今度は、患者に、大工仕事や、耕作
活動などの重労働をさせる。これを「重労働期」という。この時期も、人との接触や会話は禁じ
られ、患者は、ただひたすらその重労働に没頭するようにしむけられる。患者は、重労働であ
れば、自分の好き勝手なことができる。

(森田療法・第4期)……第3期が終わったあと、患者の様子を見ながら、社会復帰のための
準備をさせる。これを「生活訓練期」という。患者自身の活動欲、行動欲、意欲をうまく利用し
て、会社に通わせたり、学校に通わせたりする。

 以上、(第1期)から(第4期)までに、約40〜90日をかける。

【実際例】

 不登校児の対処のし方として、森田療法を、参考にあげた。その森田療法でも、ここに書い
たように、40〜90日が標準である。(当然、それより長期間になることもある。)が、親には、
それがわからない。

 私が「数週間は、何も言ってはいけません」と言っても、その数週間が、長い。数日もすると、
親のほうから、「これでいいのでしょうか?」という電話がかかってくる。さらに1、2週間もする
と、「今日は、学校へ連れていってみました」と言ったりする。

 こうした無理が、ますます症状を悪化させる。こじらせる。本来なら数か月ですんだはずの不
登校が、1年とか、2年とか、つづいてしまう。中には、(ほとんどがそうだが……)、「子どもの
ため」を口実にして、自分の不安や心配を、そのまま子どもにぶつけてしまう親がいる。そして
親子の間で、大騒動を繰りかえす。

 私は今までに、何10例(あるいは100例以上)という不登校児と接してきたが、この問題だ
けは、「親も、行きつくところまで行かないと、気がつかない」ということ。ほとんどの親は、「ま
だ、何とかなる」「そんなはずはない」「うちの子にかぎって」と、無理に無理を重ねる。

 心の病気というのがどういうものかわかっていない。いないばかりか、「病気」という言葉を使
っただけで、「病気とは、何だ!」と、食ってかかってくる親さえいる。「うちの子が不登校児にな
ったのは、学校の先生が原因だ」「いじめが原因だ」と。

 そういうケースもないわけではないが、こと学校恐怖症については、恐怖症の一つと考えて対
処する。対処するにしても、数か月単位の根気が必要である。一つの参考として、ここで「森田
療法」をあげた。
(はやし浩司 森田療法 神経症 学校恐怖症 不登校 不登校児 心理療法)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●家族療法

 子どもに何か問題が起きると、親は、子どもをなおそうとする。よくある例として、チックがあ
る。首から上にかけて起こる、筋肉のけいれん様の不随意運動をいう。

 ふつうは首から上に症状が現れるが、中には、その症状が全身におよび、はげしいけいれ
ん状の症状をともなうこともある。そのため呼吸困難におちいったりすることもある。

 こうしたケースのばあい、その子どもを取りまく全体的な環境に原因があるみる(円環的因果
論)。子どもだけをみて、子どもだけをなおそうと考えても、無理がある。そこでその子ども全体
を包む、家庭のあり方そのものに、メスを入れる。

 これが家族療法である。

 というのも、仮に母親がその原因に気づいても、母親自身が、そのまた母親を包む家庭環境
の中で、どうしうようもないことが多い。父親(夫)と接しているうちに、またすぐもとの自分自身
にもどってしまう。つまり家族が、一つのシステムとして機能しているため、その一部だけをな
おそうとしても、意味がない。

 だから今では、大きな総合病院や大学病院などでは、子どもにこうした問題が起きると、家
族全体を一つ単位(ユニット)として考え、指導するところが多い。たとえばここにあげたチック
にしても、母親自身が原因であることが多い。しかし母親自身は、それに気がついていないこ
とが多い。

 だから子ども、母親、それに夫である父親に同席してもらい、家族全体のあり方を、もう一
度、見つめなおしてもらう。子どもに対して、母親が神経質になっていないか。神経質になって
いるなら、その原因は、父親が作っていないか。父親が原因をつくっているとすると、さらにそ
の原因は何か。どうすればよいか、と。

 こうして家族全体のあり方を考えながら、子どもの治療をする。

 子どもに何か問題が起きたら、その原因を子どもに求めても、あまり意味はない。その原因
は、親や家庭環境にあるとみる。まず、そこから始める。子どもをなおそうと考えるのは、つぎ
のつぎでよい。
(はやし浩司 家族療法 円環的因果論)




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●国歌論

★国歌……何度も書くが、どうして「国歌」にそれほどまでに、こだわるのか。こだわらなけれ
ばならないのか。私には、その理由が、よくわからない。

 国歌でなくても、長唄でも小唄でも、能の謡(うたい)でもよい。詩の朗読でもよい。国歌を歌
ったからといって、愛国心があるということにはならない。国家を歌わないからといって、愛国
心がないということにもならない。

 加えて、日本の「君が代」には、問題がある。ないとは言わせない。どうして主権在民の民主
主義国家で、天皇をたたえる歌が、国歌なのか。いや、こう書くからといって、何も「君が代」に
反対しているわけではない。

 それでもいいという国民が過半数を超えているなら、それはそれでいいと思う。それも民主主
義。みんなで話しあって決めたことは、みんなで従う。私も従う。

 ただ公教育の先生が、公的な立場で、個人的な実力行使をするのは、許されない。国歌斉
唱に反対するなら、公的な立場を離れ、個人的な意見として発表すべきである。それはたとえ
て言うなら、子どもの親が、どんな犯罪者でも、その子どもを差別してはいけないという論理に
通ずる。

 公的な人間は、公的な人間としての立場をわきまえて行動する。私的な主義主張は、公的な
立場を離れてるす。公教育というのは、そういうものである。

 数週間前も、1億円という巨額なワイロを受け取りながら、その責任を部下におしつけて逃げ
てしまった元総理大臣がいた。「覚えていません」と。

 私はともかくも、一般の人たちや、そして子どもたちは、そういう政治家を見ながら、そういう
政治家たちが言うところの愛国心というものが、どういうものであるかを知る。愛国心をぶちこ
わしているかどうかということになれば、そういう政治家のほうが、よほど、ぶちこわしているこ
とになるのではないのか。

【補記】

 「君が代を歌え」と迫る政府。それはどこかカルト的? 一方、「君が代は歌わない」とがんば
る先生たち。それもどこかカルト的?

 この話をワイフにしたら、ワイフは、こう言った。「そういうのを逆カルトというんじゃ、ない?」
と。

 おもしろいネーミングである。カルトに対して、逆カルト。ナルホド!

 似たような例は、多い。……というより、私自身も経験している。

 ある時期、私は、カルト教団と呼ばれる宗教団体に、猛烈な反発を感じた。何冊か、本も書
いた。そのときのこと。そのカルト教団については、何もかも否定、また否定。まさに『坊主憎け
れば、袈裟(けさ)まで憎い』の心境になってしまった。

 しかし、カルト教団だから、「悪」と考えてはいけない。しかしそれに気づくまでに、何年もかか
った。「悪いのは指導者であって、信者ではない」と。
 
 そのときの私の心理が、いわゆる「逆カルト」ということになる。心の余裕というか、ゆとりをな
くす。車の運転でいえば、「遊び」の部分をなくす。ものの考え方が、どこかギクシャクしてくる。

 私などは、もともと、どこかいいかげんな人間。だから、心の中では、「?」と思っていても、そ
のときになったら、ちゃんと相手に合わせる。たとえば卒業式や入学式では、みなといっしょ
に、大声で、国歌を歌う。歌ってすます。主義主張は、人並み以上にはあると思うが、しかし卒
業式や入学式の場で、主義主張にこだわる必要はない。たかが「歌」ではないか。

 いくら酒は飲めないといっても、グラスを勧められたら、一応口だけはつけて、「乾杯!」と言
いかえす。それがここでいう「遊び」である。「心のゆとり」である。

 ……と書いて、私は九州の隠れキリシタンの話を思い出した。九州の日出藩(ひじはん)の踏
み絵がよく知られている。

 たとえば豊前国小倉藩の家臣、加賀山隼人は、キリシタンであったという理由で、処刑されて
いる。こんな話が伝わっている(「日本耶蘇教会年報」)。

 加賀山隼人の娘が、父親の隼人に、「父上、何も、裁きを受けず、大罪を犯した訳でもなく、
ただ、キリスタンなるが故の死罪、外で執行されるに及ばず。我等にとりても、此の家が一番
好都合でありませぬか」と。つまり、「ただキリスト教徒というだけで、処刑なんて、おかしいでし
ょう。私たちにとって、この家の幸福が、一番、大切ではないですか」と。

それに答えて、「ならぬ。かの救世主・耶蘇基督(キリスト)は罪なき身を以って、エルサレムの
城門外にに二人のあさましき兇徒(きょうと)の間に置かれ、公衆の面前で死なんと欲したでは
ないか。我もまた、公衆の面前で汚辱を受けつつ死を熱望するなり」と。つまり、「あのイエス
も、信仰を守るため、公衆の面前で処刑にあっているではないか。私も、それを希望する」と。

 この話は、その筋の世界では、「美談」として、もてはやされている。「命がけの信仰」として、
たたえられている。しかし私は、こういう話に、どうしても、ついていけない。信仰心と、盲目的な
忠誠心を、どこかで混同しているのではないか? ……と書くと、猛烈な反発を買いそうだが、
いくら信仰をしても、自分を見失ってはいけない。命までかけて、信仰をしてはいけない。信仰
をしながらも、自分の心にブレーキをかける。そのブレーキをかける部分が「私」である。

 キリストの立場で考えてみれば、それがわかる。

 彼自身は、公衆の面前で処刑された。しかしキリストは、すべての民の原罪を背負って、処
刑された。決して、「自分の信者に、同じことをせよ」と、見本を見せたわけではない。いつだっ
たか、私は、「キリストも教師ではなかったか?」という文章を書いた。

 それをここに再掲載しておく。

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【神や仏も教育者だと思うとき】 

●仏壇でサンタクロースに……? 

 小学一年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもち
ゃが、ほしくてほしくてたまらなかった。母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。そこで私は、仏
壇の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、
私にはそれしか思いつかなかった。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。年始の初詣は欠か
したことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。が、それが一転するできごとがあった。あ
る英語塾で講師をしていたときのこと。高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中にあ
る、「原爆の子の像」のモデルとなった少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。私は
一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。

そのとき以来、私は神や仏に願い事をするのをやめた。「私より何万倍も、神や仏の力を必要
としている人がいる。私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。いや、何かの願い
事をしようと思っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。

●身勝手な祈り

 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間
に起こることなどありえない。「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たりますように」とか、「商売
が繁盛しますように」とか。そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸
す神や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。

一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコーナ
ーには、一日一〇〇万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。どうせその程度の人が、で
まかせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても一日一〇〇万件とは!

あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。今からたった二五年前に
は、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。奇跡といえば、よっぽどこち
らのほうが奇跡だ。その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……? 

人間の理性というのは、文明が発達すればするほど、退化するものなのか。話はそれたが、こ
んな子ども(小五男児)がいた。窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞く
と、こう言った。「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすこと
ができる!」と。

●難解な仏教論も教育者の目で見ると

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがあ
る。たとえば親鸞の『回向論』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、あの回
向論である。

これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令に
よってしているにすぎない。だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれては
いても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・石田瑞麿
氏)となる。

しかしこれでは意味がわからない。こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわから
なくなる。宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。

要するに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではない
か。悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ行け
る」と。しかしそれでもまだよくわからない。

 そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のこ
とではないか。頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。つまりそういう子ども
こそ、ほめられるべきだ」と。もう少し別のたとえで言えば、こうなる。

「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。問題のあ
る子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。またそれを教育という」と。私にはこんな
経験がある。

●バカげた地獄論

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。その教
団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。いわく、「この宗教を否定する者は、無間地
獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(R宗機関誌)
と。こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。あるいはその教団に
は、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになっ
た。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方は、明らかにまちがってい
る。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼ら
が言うところの慈悲ではないのか。

私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判されている。中には「バカヤロー」と
悪態をついて教室を出ていく子どももいる。しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだ
ろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。神や仏ではない私だって、それくらい
のことは考える。いわんや神や仏をや。

批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や仏では
ない。悪魔だ。だいたいにおいて、地獄とは何か? 子育てで失敗したり、問題のある子どもを
もつということが地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の目を通して見ると、
そんなことまでわかる。

●キリストも釈迦も教育者?

 そこで私は、ときどきこう思う。キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、
と。ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理
解できる。

さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。たとえば「先生、先生……」と、
すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。「何とかい
い成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。いちいち子どもの願いごとをかなえてや
っていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。自分で努力することをやめてしまう。そうなれば
なったで、かえってその子どものためにならない。人間全体についても同じ。

スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら努力することをやめてしま
う。医学も政治学もそこでストップしてしまう。それはまずい。しかしそう考えるのは、まさに神や
仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤
い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきり
と覚えている。





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●自己中心性

【子どもの人格完成度テスト】(EQ論の応用)

★湖西市鷲津中学校校長ならびに、先生と父母のみなさんの協力を得て、「人格完成度テス
ト」の集計結果が出ましたので、報告します。

 鷲津中学校のみなさん、ご協力、ありがとうごさいました。

**************************

まず、みなさんのお子さんについて、どんな様子か、採点して
みてください。これで、あなたのお子さんのおおまかな、人格
完成度を知ることができます。

**************************

(テスト方法)

 それぞれの項目について、0点〜4点までの、5段階になっています。

 0点……まったく、そうでないとき。(反対の様子であるとき。)
 4点……まったく、そのとおりであるとき。

 中間のときは、2点として、採点してください。あとで、得点を合計します。その合計点が、あ
なたのお子さんの、性格ということになります。

++++++++++++++++++++

(1)協調性(共鳴性)

 ☆親が苦労したり、苦しんでいると、言わなくても、すぐ力を貸してくれる。
 ☆他人に対して、同情的で、ボランティア活動などを、喜んでする。
 ☆仲間や友人に対して、やさしい。気をつかい、相手をキズつけたりしない。

(2)自己管理能力

 ☆善悪の判断が強く、正義感が旺盛。まちがったことが嫌い。
 ☆社会のルール(交通ルールなど)や、約束や目標を、しっかりと守っている。
 ☆誘惑に強く、その場、その場で、しっかりと自分を律して行動できる。

(3)安定した人間性

 ☆勤勉で、努力家。何でも、コツコツと、がんばる。
 ☆言われたことに従順で、まちがえたときでも、すなおにそれを認める。
 ☆友人の数が多く、また交際範囲も広い。いつも仲間と仲よく遊んでいる。

(4)情緒の安定性

☆感情の起伏があまりない。いつも平常心で、安定して家族と接している。
 ☆わかりやすい性格をしている。心の中の状態が、外から、よくわかる。
 ☆落ちついた、もの静かな子どもといった印象を与える。めったに動じない。

(5)知的開放性

 ☆好奇心、生活力とも旺盛で、多芸多才。ものごとに挑戦的。
 ☆知的な遊びを好み、読書、研究、探求が好き。著作、音楽や絵画を好む。
 ☆広く政治や経済、日本や世界、さらに環境問題や宇宙の話題に興味をもっている。

 各項目(☆)の、合計点と、全体の総合計点が、あなたの子どもの得点ということになります。

++++++++++++++++++++++++
 
各項目合計点……12点
 総合計点  ……60点で、集計

++++++++++++++++++++++++
**********************
HPのほうで、表など、より見やすくしておきました。
興味のある方は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page253.html
まで、おいでください。
**********************

【基礎調査結果】

共鳴性自己管理能力安定した人間性情緒の安定性知的開放性
12〜13歳(男)6.937.877.076.144.71
13〜14歳(男)7.276.946.886.794.67
14〜15歳(男)77.547.387.295.46
15〜16歳(男)7.147.186.916.415.05
共鳴性自己管理能力安定した人間性情緒の安定性知的開放性
12〜13歳(女)7.838.587.757.257.17
13〜14歳(女)7.457.886.97.094.94
14〜15歳(女)7.237.86.777.235.65
15〜16歳(女)7.3987.7266.83


(男子)12〜13歳13〜14歳14〜15歳15〜16歳
共鳴性6.937.2777.14
自己管理能力7.876.947.547.18
安定した人間性7.076.887.386.91
情緒の安定性6.146.797.296.41
知的開放性4.714.675.465.05


(女子)12〜13歳13〜14歳14〜15歳15〜16歳
共鳴性7.837.457.237.39
自己管理能力8.587.887.88
安定した人間性7.756.96.777.72
情緒の安定性7.257.097.236
知的開放性7.174.945.656.83

総合点
12〜13歳(男)32.1
13〜14歳(男)32.5
14〜15歳(男)34.7
15〜16歳(男)32.7
総合点
12〜13歳(女)38.6
13〜14歳(女)34.3
14〜15歳(女)34.7
15〜16歳(女)35.9
(調査日……2004年12月 有効サンプル数 男女合計・187人)

【判断のし方】

 平均点より得点が大きければ、相対的にみて、あなたの子どもの人格の完成度は、より高い
とみます。男子中学生であれば、33点前後を、平均点とみて、判断してください。女子であれ
ば、35点前後を、平均点とみて、判断してください。

 しかし平均点より得点が小さければ、あなたの子どもの人格の完成度は、より低いとみま
す。
(グラフなどは、「はやし浩司のHP」のほうに、収録しておきます。)
(はやし浩司 人格の完成度 完成度テスト 集計結果 人格テスト 人格完成度テスト EQテ
スト 人格の完成度))


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●感情的知能(EQ)

 知能指数をIQというのに対して、感情的知能指数を、EQという(サロベイ)。

 知能指数は、その子どもの、知的能力の優劣を表す。これに対して、感情的知能指数は、そ
の子どもの、社会適応能力を表す。最近の研究では、……というより常識として、頭のよい子
どもイコール、社会に適応できる子どもとは、かぎらない。

わかりやすく言うと、IQと、EQは、まったく別。もう少し、内容を詳しくみてみよう。

(7)他人への同調性、調和性、同情性、共感性があるか。
(8)自己統制力があり、自分をしっかりとコントロールできるか。
(9)楽観的な人生観をもち、他人と良好な人間関係を築くことができるか。
(10)現実検証能力があり、自分の立場を客観的に認知できるか。
(11)柔軟な思考力があり、与えられた環境にすなおに順応することができるか。
(12)苦労に耐える力があり、目標に向かって、努力することができるか。

 EQは、実際のペーパーテストでは、測定できない。あくまでもその子どもがもつ、全体的な雰
囲気で判断する。

 しかしこれは子どもの問題というより、子どもをもつ、親の問題である。「子どもを……」と考え
たら、「私はどうか?」と考える。「私は、どうだったか?」でもよい。

 そこで私の自己判定。


(8)他人への同調性、調和性、同情性、共感性があるか。

 私には二面性があると思う。いつも他人に合わせて、へつらったり、機嫌をとったりする反
面、協調性がなく、ちょっとしたことで、反目しやすい。

(9)自己統制力があり、自分をしっかりとコントロールできるか。

 人前では、統制力があり、自分をコントロールすることができる。あるいは無理にコントロー
ルしてしまう。もう少し、自分をすなおにさらけ出せたらと、よく思う。

(10)楽観的な人生観をもち、他人と良好な人間関係を築くことができるか。

 これについても、二面性がある。ときに楽観的になりすぎる反面、もともと不安神経症(基底
不安)型人間。気分が落ちこんでいたりすると、ものごとを、悪いほうへ悪いほうへと考えてしま
う。取りこし苦労をしやすい。

(11)現実検証能力があり、自分の立場を客観的に認知できるか。

 ときとして猛進型。そういうときになると、まわりの様子がわからなくなる。と、同じに、自分を
客観的に見られなくなる。ときとばあいによって、異なる。

(12)柔軟な思考力があり、与えられた環境にすなおに順応することができるか。

 むしろ環境のほうを、自分に合わせようとする。無理をする。思考力は、若いころにくらべて、
柔軟性をなくしたように思う。がんこになった。保守的になった。

(13)苦労に耐える力があり、目標に向かって、努力することができるか。

 それはあると思うが、本来、私は、短気で、あきっぽい性格。いつもそういう自分と戦いなが
ら、無理に無理を重ねている感じ。そういう意味でも、私は、いつも自分をごまかして生きてい
ると思う。

 以上、こうして自分の姿をながめてみると、私は優柔不断で不安定、かつ一貫性がないこと
がわかる。二重人格性もある。だから、私はこういう人間だというふうに、はっきりと判定するこ
とができない。

 わかりやすく言うと、(本物の私)と、(社会で表面的に生きている私)とは、別人であるという
こと。

 本物の私は、ズボラで、小心者。怠け者で、小ズルイ。スケベで、わがまま。それでいて、負
けず嫌い。めんどうなことが、嫌い。わずらわしいことも嫌い。

 そういう私が、精一杯、自分をごまかして、生きている。「そうであってはいけない」と思いなが
ら、別の人格を演じている。外の職場という世界だけではなく、内の家庭という世界でもそうな
のかもしれない。

 だから私のような生き方をしているものは、疲れる。どこにいても、疲れる。本来なら、どこか
の橋の下で、だれにも会わずに、ぼんやりと過ごすのが一番、私の性(しょう)に合っているの
かもしれない。

 しかしそれでは、この世の中では、生きていかれない。そこで私は、別の私をつくりあげたと
も考えられる。一見まじめなのは、反動形成(反動として、別の人格をつくりあげること)による
ものかもしれない。

 ……とまあ、自分のことだから、少し、きびしく判定してみた。

 こうしたEQ判定は、欧米の学校では、伝統的になされている。学力だけでは、よい瀬席はと
れない。大学の選抜試験にしても、学力の成績以上に、担当教師による、人物評価がものを
いう。

 日本も、やがてそういう方向に沿って、これからの「生徒評価」も変わってくると思う。たとえ
ば、「学力、189点/250。EQ点202点/250。合計391点/500」と。現在でも、大学入
試に関しては、センター試験(学力試験)と、つづく個別大学での面接試験(人物評価)がなさ
れているが、だれも、これでじゅうぶんだとは、思っていない。
 
 教育というのは、子どもの何を教育する場なのか、改めて考えなおしてみる必要がある。
(はやし浩司 感情的知能 感情的知能指数 子どもの社会的適応能力 EQ Emotional 
Quality)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

【人格の完成度】

●強者のジコチュー、弱者のジコチュー

 その人の人格の完成度は、利己から、利他への移動度で測る。わかりやすく言えば、いか
に、他人への同調性、同情性、協調性、共鳴性、和合性などができるかによって、その人の人
格の完成度を知ることができる。

 いいかえると、自分勝手で、ジコチューな人は、それだけものの考え方が、利己的で、人格の
完成度が低いということになる。

 ……というようなことは、何度も書いてきた。そこでここでは、その先について、考えてみた
い。

●学歴と人格の完成度

 当然のことながら、学歴と、人格の完成度は、一致しない。……しないというより、関係ない。

 ここにも書いたように、人格の完成度は、いかにその人が利他的であるかによって、知る。
他人の悲しみや苦しみを理解し、その他人の立場になって、同情したり、共鳴したりできるか
によって、知る。それが自然な形で、できる人を、人格の完成度の高い人という。

 たとえばガムシャラに、勉強をして、よい大学に入ったとか、同じくガムシャラに、仕事をして、
社会的な名声や地位を得たからといって、その人の人格の完成度は高いということにはならな
い。

 むしろ、実際には、その逆のことが多い。

 多くの親は、そして教育にたずさわる人は、「勉強ができる子どもイコール、人格的にもすぐ
れた子ども」と考えやすい。しかしこれはまったくの、誤解。ウソ。偏見。幻想。

●二種類のジコチュー

 自分のことしか考えられないという人は、多い。自分勝手で、わがまま。世間では、こういうタ
イプの人を、やや軽蔑の念をこめて、「ジコチュー(自己中心的な人)」という。

 このジコチューにも、二種類、ある。強者のジコチューと、弱者のジコチューである。

 先に書いた、自分のことだけを考えて成功したような人は、強者のジコチューということにな
る。これに対して、弱者のジコチューというのもある。

 先日、ある女性(年齢、不詳)から、突然、電話がかかってきた。「講演会を聞いたものです」
とだけしか、その女性は、言わなかった。

 が、電話を受け取ると、ただ一方的に話すのみ。

「うちの子が勉強しません」
「受験が迫っています」
「夫が、私を叱ります」
「私は子どものころ、勉強ができなくて、よく母に叱られました」と。

 で、あれこれひと通り話すと、あいさつも何もないまま、プツンと電話を切ってしまう。

 そして、翌日も、同じような電話をかけてくる。そして同じような内容の繰りかえし。

 要するにその女性は、「何とかしてくれ」「何とかしてほしい」と言っている。たいへん依存心の
強い人ということになる。そして一見、子どもの将来を心配しているようなフリをしている。が、
その実、自分のことしか考えていない。

 私の迷惑など、計算外といったふう。こういうジコチューを、弱者のジコチューという。

●弱者のジコチュー

 昔から、困った人があがく姿を、「藁(わら)にもすがる」という。つまりその時点で、その困っ
た人は、ここでいう弱者のジコチューになる。

 生活が行きづまった人。
 大病をわずらった人。
 大きな問題をかかえた人。
 経済的に追いつめられた人、ほか。

 このタイプの人は、当然のことながら、自分のことしか考えない。……考えられない。自分の
ことを考えるだけで、精一杯。他人のことや、他人の立場や心情を考える余裕など、ない。

 先日も、ある学校の先生(中学2年担任)のところに、一人の母親から、電話がかかってきた
という。時計を見ると、夜中の1時。「うちの娘が家出をしてしまいましたア。いっしょに、さがし
てくださア〜い!」と。

 その先生は、「時間外のことは知らない」と言いたかったが、断るわけにもいかなかった。夜
が明けるまで、その母親といっしょに、その子どもをさがしたという。

 その母親にしてみれば、自分の娘のことを心配するだけで、精一杯。先生の都合や、迷惑な
ど、考える余裕すらなかったということになる。

●ジコチュー診断

 いかにすれば、「利己」から、「利他」へ、脱却できるか? 自分自身を転換できるか?子育
ての場では、それは教育や指導によるものということになる。が、これは子どもだけの問題で
はない。おとなや親の問題ということにもなる。

 そこで大切なのは、その人自身の努力である。

 まず、自分が、ジコチューであることに気づく。強者のジコチューであるにせよ、弱者のジコチ
ューであるにせよ、それに気づく。すべてはここからはじまる。

 が、多くのばあい、つまりほとんどの人は、自分が自己中心的でありながら、それに気づかな
い。そこでまず、自己診断テスト。

( )他人と会話をしていても、いつも自分のことばかり話す傾向が強い。
( )他人の不幸話や、失敗話を聞くと、優越感を覚えたり、ときに楽しく思う。
( )自分が損をするようなことは、しない。犠牲になることも好まない。
( )無料奉仕、ボランティア活動、町内の仕事など、ほとんど、したことがない。
( )自分の権利を主張することが多く、侵害されると、猛烈に反発する。
( )友人が少なく、人との交流も、ほとんどしない。いつも孤独で、さみしい。

 ここに書いたようなことがいくつか当てはまれば、かなりのジコチューとみてよい。

●ジコチューを知る

 ジコチューの問題は、これはあらゆる心の問題と共通しているが、それに気づけば、そのほ
とんどが解決したとみる。

 その気づく方法の一つとして、他人を観察してみるという方法もある。

 幸いなことに、私は、毎日、多くの子どもたちに接している。親たちにも接している。そういう
環境の中で、「この子どもは、ジコチューだな」「この親は、ジコチューだ」と気づくことが多い。

 概して言えば、子どもの受験勉強に狂奔する親というのは、ジコチューとみてよい。自分のこ
としか、考えていない。自分の子どものことしか、考えていない。そしてその結果として、受験競
争を勝ち抜いた子どもほど、ジコチューになりやすい。

受験競争というのは、もともとそういうものだが、しかしつまり、子どもの受験勉強に狂奔する
親というのは、それだけ人格の完成度が低い人ということになる。

 そういう視点でみていくと、あなたのまわりにも、ジコチューな人と、そうでない人がいるのが
わかるはず。電話で話しても、一方的に自分のことばかり話すだけ。他人の苦労話や不幸な
話を聞いても、型どおりの返事だけ。心に響かない……。

●演技としての同情

 話は少し脱線するが、人間は、経験をつむことによって、人格者を演ずることができるように
なる。一つの例が、ニュース番組の中の、ニュースキャスターたちである。

 悲しい事故の報道をしながら、どこか暗くて、つらい表情をしてみせる。「犠牲者は、病院で手
当てを受けていますが、中には、重症の方もいるようです……」と。

 しかしつぎの瞬間、今度は、ニュースが変わると、同時に、がらりと明るい表情になり、「で
は、今夜のプロ野球の結果です。あのM選手が、満塁ホームランを打ちました!」と話す。

 人間の心はそれほど、器用にできていない。わずか数分(あるいは数秒)のうちに、悲しい気
持ちが楽しい気持ちになったり、あるいはその反対になったりすることなど、ありえない。つまり
ニュースキャスターたちは、そのつど、ニュースの内容に応じて、演技しているだけということに
なる。

 こうした演技は、日常的に経験する。が、それだけではない。

 演技を重ねていると、それが仮面になり、さらにその人の中に、別の人格を形成することが
ある。心理学では、こうした現象を、「反動形成」という。

 たとえば「私は教師だ」「聖職者だ」と自分に言ってきかせていると、いつの間にか、自分の中
に、(私でない私)をつくりあげてしまう。それにふさわしい人間になろうと思っているうちに、自
分の中に、架空の自分をつくりあげてしまう。

 しかし仮面は仮面。一見、人格者風の人間にはなるが、もちろん、ホンモノではない。

 利己から利他へ移行するためには、その人自身が、苦労を重ね、悲しみや苦しみを経験し
なければならない。私の恩師のT先生は、それを、「心のポケット」と呼んだ。

●心のポケット

 相手に同調するにせよ、同情するにせよ、それができるようになるためには、自分自身も、
同じような経験をしていなければならない。

 たとえば自分の子どもを、交通事故か何かでなくした人がいたとする。その人は、深い悲しみ
を味わうわけだが、その悲しみは、その経験のない人には、理解できない。同じような経験をし
た人だけが、その人の悲しみを理解できる。

 一つの悲しみや苦しみを経験すると、同じような悲しみや苦しみをもった他人の心を、理解で
きるようになる。

 これを「心のポケット」という。

 この心のポケットの多い人、深い人、そういう人ほど、他人の悲しみや苦しみを、自分のもの
として、受け入れることができる。

 が、だれしも、こうした悲しみや苦しみを、経験するわけではない。ほとんどの人は、できるだ
けそれを避けようとする。悩みや苦労もなく、平和に、のんびりと暮らしたいと願っている。

 となると、ここで一つの矛盾が生まれる。

●矛盾

 わかりやすく言えば、人は、悲しみや苦しみを経験してはじめて、他人に悲しみや苦しみを理
解できるようになる。そしてその同情性や、同調性が、自分を利己から利他へと導く。

 その利他が大きくなればなるほど、人格の完成度が高くなる。

 しかし、その一方で、人間は、悲しみや苦しみを、避けたいと思っている。またそのために努
力している。

 ということは、生活が豊かになり、生活の質が高くなればなるほど、悲しみや苦しみを経験す
ることがすくなくなる。そしてそれと同時に、人格の完成度は低くなるということになる。

 もっとわかりやすく言えば、苦労が多ければ多いほど、人格の完成度が高くなるということだ
が、苦労を望んで求める人などいない。あるいは苦労をした人が、すべて人格者になるという
わけではない。中には、むしろ邪悪な人になっていくケースもある。

 こうした矛盾を、どう考えたらよいのか。それに心のポケットといっても、不幸には、定型がな
い。まさに千差万別。「同じような苦労」といっても、それはどこか似ているというだけで、苦労
の内容は、みなちがう。

 この問題については、また別の機会に考えてみる。今は、「矛盾」とだけにしておく。が、ヒント
がないわけではない。

●愛と慈悲

 キリスト教には、「愛」という言葉がある。仏教には、「慈悲」という言葉がある。

 その愛にせよ、慈悲にせよ、その中身といえば、突きつめれば、結局は、いかにすれば相手
の立場で、悲しみや苦しみを共有できるかによって、決まる。他人への同調性、同情性、協調
性、共鳴性、和合性こそが、まさに愛であり、慈悲ということになる。

 言いかえると、キリスト教にせよ、仏教にせよ、こういった宗教は、愛や慈悲という言葉を使っ
て、その人の人格の完成をもとめているということになる。

 こうした宗教では、自らは、悲しみや苦しみを経験することなく、人の心の中に、心のポケット
をつくろうとする。私自身は、信仰者ではないから、それ以上のことはわからない。

 そこで改めて、私なりのやり方を、考えてみる。私のばあい、宗教にその方法を求めるという
のは、最後の最後にしたい。

●ジコチューとの戦い

 そこで考えてみると、自分のジコチューと戦うためには、いくつかの方法があることがわか
る。

 最初に思いつくのは、自己犠牲と、周囲への貢献。無料奉仕活動や、ボランティア活動がそ
れにあたる。とくに、悲しみや苦しみを背負った人の立場で、ものを考え、行動する。そしてそ
の悲しみや、苦しみを、自分のものとして共有する。

 ……といっても、もちろん、それは簡単なことではない。このこと自体が、生きることのテーマ
そのものといってもよい。

 が、それだけでは足りない。

 精神の完成のためには、毎日の、たえまない研鑽(けんさん)が必要である。いつも前向きに
戦っていく。自分をみがいていく。

 というのも、精神の完成度は、立ち止まったとたん、その時点から後退し始める。それは流
れる水のようなものではないか。よだんだとたん、水は腐り始める。「私は完成された人間だ」
と思ったとたん、愚劣な人間になっていく人は、少なくない。

 そのためには、いつも考える。考えて考えて、前に進む。そうすることによって、脳の中を流
れる水を、腐らせないですむ。釈迦は、そういう姿勢を、『精進(しょうじん)』という言葉を使って
説明した。

 そう言えば、キリスト教にも、(ゴール)という言葉はない。「10年、教会に通ったから、もうあ
なたは教会には、こなくていい」というような話は、聞いたことがない。信者は、それこそ死ぬま
で、たとえば日曜日には、教会へ通ったりする。

 キリスト教でも、やはり毎日の研鑽を、信者に教えているのかもしれない。(こんな軽率な意
見を書くと、その道の専門家の人に、叱られるかもしれないが……。)

●人生の目標 

 こうして考えていくと、どこまで「利他」を達成できるかが、人生の目標ということになる。ひょっ
としたら、私たちが生きている意味や、目的も、そのあたりにあるのかもしれない。

(とうとう、シッポをつかんだぞ!)

 かなり不謹慎な言い方をしたが、今、私は、心の中で、そう叫んだ。「私たちはなぜ、今、ここ
に生きているのか」「生きる目的は何なのか」「何を求めて生きているのか」という、人間がかか
える最大の課題についての(シッポ)である。

 私は、その(シッポ)をつかんだような気がする。

 もちろんまだ、その(シッポ)をつかんだだけというだけで、その方法もよくわかっていない。そ
れにそれを実践するというのは、まったくの別の問題。

 さらにその先には、何があるか、私にも、皆目見当もつかない。またそういう状態になったと
き、私の心境や思想がどうなるか、それもわからない。しかし方向性だけは見えたような気が
する。

 とりあえずは、日々の生活の中で、「利己」から「利他」への転換を、少しずつ始める。今は、
それしかない。

 何とも中途半端なエッセーになってしまった。先ほど、このエッセーを読みかえしてみたが、
文章も稚拙で、矛盾だらけ。マガジンに掲載するのをやめようかとも思ったが、この数日間、ほ
とんど原稿を書いていないということもあって、あえて掲載してみることにした。

 改めて、つまり少し時間をおいて、この問題については、考えてみたい。

 なおこのあとに、以前書いた原稿を3作(中日新聞発表済み)を添付すいておく。参考にして
ほしい。

++++++++++++++++++++

子どもに生きる意味を教えるとき 

●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからすれば
よい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。

私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずるからで
はないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕事」だって、意
味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と自信をもっ
て言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想的なミュ
ージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはなぜ生まれ、な
ぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。

それから三〇年あまり。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわけ
ではないが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを見いだした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、人生の
目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエー
ル。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進
むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などというものは、
生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母は、こう言っ
ている。『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』
と。

●懸命に生きることに価値がある

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャーも、
それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みんな必死だ。
命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが
宙を飛ぶ。

その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、そのあと喜
びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあっ
て、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。

いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。言いかえ
ると、そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘志もない。毎日、
ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人生の意味はわからない。

さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われたとき、私
たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざまでしかない。あ
の高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、適当に試合をしていたら、
高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つまらない。そういうものはいくら繰り
返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。

そういう人生からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教えてくれる。

++++++++++++++++++++

子育てのすばらしさを教えられるとき

●子をもって知る至上の愛    

 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。その一つが、至上の愛を教えられ
ること。ある母親は自分の息子(三歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命はどうなっても
いい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。こうした「自分の命すら惜しくない」という至上
の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。

●自分の中の命の流れ

 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。「自分
の中に父がいる」という思いである。

私は夜行列車の窓にうつる自分の顔を見て、そう感じたことがある。その顔が父に似ていたか
らだ。そして一方、息子たちの姿を見ていると、やはりどこかに父の面影があるのを知って驚く
ことがある。

先日も息子が疲れてソファの上で横になっていたとき、ふとその肩に手をかけた。そこに死ん
だ父がいるような気がしたからだ。いや、姿、形だけではない。ものの考え方や感じ方もそう
だ。私は「私は私」「私の人生は私のものであって、誰のものでもない」と思って生きてきた。し
かしその「私」の中に、父がいて、そして祖父がいる。自分の中に大きな、命の流れのようなも
のがあり、それが、息子たちにも流れているのを、私は知る。

つまり子育てをしていると、自分も大きな流れの中にいるのを知る。自分を超えた、いわば生
命の流れのようなものだ。

●神の愛と仏の慈悲

 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何ものでもない。死
はすべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死は不条理な
り」とも言う。そういう意味で私は孤独だ。

いくら楽しそうに生活していても、いつも孤独がそこにいて、私をあざ笑う。すがれる神や仏が
いたら、どんなに気が楽になることか。が、私にはそれができない。しかし子育てをしていると、
その孤独感がふとやわらぐことがある。自分の子どものできの悪さを見せつけられるたびに、
「許して忘れる」。

これを繰り返していると、「人を愛することの深さ」を教えられる。いや、高徳な宗教者や信仰者
なら、深い愛を、万人に施すことができるかもしれない。が、私のような凡人にはできない。で
きないが、子どもに対してならできる。いわば神の愛、仏の慈悲を、たとえミニチュア版である
にせよ、子育ての場で実践できる。それが孤独な心をいやしてくれる。

●神や仏の使者

 たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子どもを大
きくすることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きることにまつわ
る、矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。それを知るか知らないかは、その人の問題意識の
深さにもよる。

が、ほんの少しだけ、自分の心に問いかけてみれば、それでよい。それでわかる。子どもとい
うのは、ただの子どもではない。あなたに命の尊さを教え、愛の深さを教え、そして生きる喜び
を教えてくれる。いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未来永劫にわたって、伝え
てくれる。

つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。子どもはそういう意味で、まさに神や仏
からの使者と言うべきか。いや、あなたがそれに気づいたとき、あなた自身も神や仏からの使
者だと知る。そう、何がすばらしいかといって、それを教えられることぐらい、子育てですばらし
いことはない。

+++++++++++++++++++++

●真理

 イエス・キリストは、こう言っている。『真理を知らん。而(しこう)して真理は、汝らに、自由を得
さすべし』(新約聖書・ヨハネ伝八章三二節)と。「真理を知れば、そのときこそ、あなたは自由
になれる」と。

 私が、「私」にこだわるかぎり、その人は、真の自由を手に入れることはできない。たとえば
「私の財産」「私の名誉」「私の地位」「私の……」と。こういうものにこだわればこだわるほど、
体にクサリが巻きつく。実が重くなる。動けなくなる。

 「死の恐怖」は、まさに「喪失の恐怖」と言ってもよい。なぜ人が死をこわがるかといえば、そ
れは死によって、すべてのものを失うからである。

いくら、自由を求めても、死の前では、ひとたまりもない。死は人から、あらゆる自由をうばう。
この私とて、「私は自由だ!」といくら叫んでも、死を乗り越えて自由になることはできない。は
っきり言えば、死ぬのがこわい。

が、もし、失うものがないとしたら、どうだろうか。死をこわがるだろうか。たとえば無一文の人
は、どろぼうをこわがらない。もともと失うものがないからだ。

が、へたに財産があると、そうはいかない。外出しても、泥棒は入らないだろうか、ちゃんと戸
締りしただろうかと、そればかりが気になる。そして本当に泥棒が入ったりすると、失ったもの
に対して、怒りや悲しみを覚える。泥棒を憎んだりする。「死」もこれと同じように考えることはで
きないだろうか。つまり、もし私から「私」をとってしまえば、私がいないのだから、死をこわがら
なくてもすむ?

 そこでイエス・キリストの言葉を、この問題に重ねてみる。イエス・キリストは、「真理」と「自由」
を、明らかに対比させている。つまり真理を解くカギが、自由にあると言っている。言いかえる
と、真の自由を求めるのが、真理ということになる。

もっと言えば、真理が何であるか、その謎を解くカギが、実は「自由」にある。さらにもっと言え
ば、究極の自由を求めることが、真理に到達する道である。では、どうすればよいのか。

 一つのヒントとして、私はこんな経験をした。話を先に進める前に、その経験について書いた
原稿を、ここに転載する(中日新聞掲載済み)。

++++++++++++++++++++

●無条件の愛

真の自由「無条件の愛」

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。「私は自由
だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、もしその恐
怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。

 しかし、それは可能なのか…?  その方法はあるのか…? 

 一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自
分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をし
た。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカでは、花嫁の居住地で式をあげる習わしになってい
る。式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けて、クリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

 その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺
さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声
が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「日本人をやめる、ということか…」
息子「そう」
私「…いいだろ」と。

 私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえ
に、一人の人間として息子を許し、受け入れた。英語には「無条件の愛」という言葉がある。私
が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が
抜けるほど軽くなったのを知った。

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。
「私」を取り去るということは、つまり身の回りの、ありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け
入れるということ。

「私」があるから、死が怖い。が、「私」がなければ、死を怖がる理由などない。一文無しの人
は、泥棒を恐れない。それと同じ理屈だ。死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。
では一緒に参りましょう」と言うことができる。そしてそれができれば、私は死を克服したことに
なる。真の自由を手に入れたことになる。その境地に達することができるようになるかどうか
は、今のところ自信はない。ないが、しかし一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてく
れた。

+++++++++++++++++

 問題は、いかにすれば、私から「私」をとるか、だ。それには、いろいろな攻め方がある。一つ
は、自分自身の限界を認める。一つは、とことん犠牲的になる。一つは、思索を深める。

(自分自身の限界)私たち人間とて、そして私自身とて、自然の一部にすぎない。自然を離れ
て、私たちは人間ではありえない。野に遊ぶ鳥や動物と、どこも違わない。違うはずもない。そ
ういう事実に、謙虚に耳を傾け、それに従うことが、自分自身の限界を認めることである。私た
ちは、自然を超えて、人間ではありえない。まさに自然の一部にすぎない。

(犠牲的である)犠牲的であるということは、所有意識、我欲、さらには人間が本来的にもって
いる、貪欲、ねたみ、闘争心、支配欲、物欲からの解放を意味する。要するに「私の……」とい
う意識からの決別ということになる。「私の財産」「私の名誉」「私の地位」など。「私の子ども」も
それに含まれる。

(思索を深める)「私」が、外に向かった意識であるとするなら、「己(おのれ)」は、中に向かっ
た意識ということになる。心という内面世界に向かった意識といってもよい。この己は、だれに
も奪えない。だれにも侵略されない。「私の世界」は、不安定で、不確実なものだが、「己の世
界」は、絶対的なものである。その己の世界を追求する。それが思索である。

 私から「私」をとるというのは、ひょっとしたら人生の最終目標かもしれない。今は「……しれな
い」というような、あいまいな言い方しかできないが、どうやらこのあたりに、真理の謎を解くカ
ギがあるような気がする。それは財宝探しにたとえて言うなら、もろもろの賢者が残してくれた
地図をたよりに、やっとその財宝があるらしい山を見つけたようなものだ。

財宝は、その先? いや、本当にその山のどこかに財宝が隠されているかどうかさえ、わから
ない。そこには、ひょっとしたら、ないかもしれない。「山」といっても広い。大きい。残念なこと
に、それ以上の手がかりは、今のところ、ない。

 今はこの程度しか書けないが、あのベートーベンも、こう言っている。『できるかぎり善を行
え。自由を愛せよ。たとえ王座の前でも、断じて、真理を裏切ってはならぬ』(「手記」)と。彼の
言葉を、ここに書いたことに重ねあわせてみても、私の言っていることは、それほどまちがって
はいないのではないかと思う。このつづきは、これからゆっくりと考えてみたい。
(02−12−15)

●「真理を燈火とし、真理をよりどころとせよ。ほかのものを、よりどころとするなかれ」(釈迦
「大般涅槃経」)。
(040505)




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●マズローの欲求段階説

【より高い人間性を求めて】(1)

 今日も、昨日と同じ。明日も、今日と同じ……というのであれば、私たちは人間として生きるこ
とはできない。

 そこで「より高い人間として生きるためには、どうしたらよいか」。それについて、A・H・マズロ
ーの、「欲求段階説」を参考に、考えてみる。マズローは、戦時中から、戦後にかけて活躍し
た、アメリカを代表する心理学者であった。アメリカの心理学会会長も歴任している。

●第1の鉄則……現実的に生きよう

 しっかりと、「今」を見ながら、生きていこう。そこにあるのは、「今という現実」だけ。その現実
をしっかりと見つめながら、現実的に生きていこう。

●第2の鉄則……あるがままに、世界を受けいれよう

 私がここにいて、あなたがそこにいる。私が何であれ、そしてあなたが何であれ、それはそれ
として、あるがままの私を認め、あなたを認めて、生きていこう。

●第3の鉄則……自然で、自由に生きよう

 ごく自然に、ごくふつうの人として、当たり前に生きていこう。心と体を解き放ち、自由に生き
ていこう。自由にものを考えながら、生きていこう。

●第4の鉄則……他者との共鳴性を大切にしよう

 いつも他人の心の中に、自分の視点を置いて、ものを考えるようにしよう。他人とのよりよい
人間関係は、それ自体が、すばらしい財産と考えて、生きていこう。

●第5の鉄則……いつも新しいものを目ざそう

 過去や、因習にとらわれないで、いつも新しいものに目を向け、それに挑戦していこう。新し
い人たちや、新しい思想を受けいれて、それを自分のものにしていこう。

●第6の鉄則……人類全体のことを、いつも考えよう

 いつも高い視野を忘れずに、地球全体のこと、人類全体のことを考えて、生きていこう。そこ
に問題があれば、果敢なく、それと戦っていこう。

●第7の鉄則……いつも人生を深く考えよう

 考えるから人は、人。生きるということは、考えること。どんなささいなことでもよいから、それ
をテーマに、いつも考えながら生きていこう。

●第8の鉄則……少人数の人と、より深く交際しよう

 少人数の人と、より深く交際しながら生きていこう。大切なことは、より親交を温め、より親密
になること。夫であれ、妻であれ、家族であれ、そして友であれ。

●第9の鉄則……いつも自分を客観的に見よう

 今、自分は、どういう人間なのか、それを客観的に見つめながら、生きていこう。方法は簡
単。他人の視点の中に自分を置き、そこから見える自分を想像しながら生きていこう。 

●第10の鉄則……いつも朗らかに、明るく生きよう

 あなたのまわりに、いつも笑いを用意しよう。ユーモアやジョークで、あなたのまわりを明るく
して生きていこう。
(はやし浩司 マズロー 欲求段階説 高い人間性)

【より高い人間性を求めて】(2)

 人格論というのは、何度も書いているが、健康論に似ている。日々に体を鍛錬することによっ
て、健康は維持できる。同じように、日々に心を鍛錬することによって、高い人間性を維持する
ことができる。

 究極の健康法がないように、究極の精神の鍛錬法などというものは、ない。立ち止まったとき
から、その人の健康力は衰退する。人間性は衰退する。

 いつも前向きに、心と体を鍛える。しかしそれでも現状維持が、精一杯。多くの人は、加齢と
ともに、つまり年をとればとるほど、人間性は豊かにななっていくと誤解している。しかしそんな
ことはありえない。ありえないことは、自分が、その老齢のドアウェイ(玄関)に立ってみて、わ
かった。

 ゆいいつ老齢期になって、新しく知ることと言えば、「死」である。「死の恐怖」である。つまりそ
れまでの人生観になかったものと言えば、「死」を原点として、ものを考える視点である。「生」
へのいとおしさというか、それが、鮮明にわかるようになる。

 そうした違いはあるが、しかし、加齢とともに、知力や集中力は、弱くなる。感性も鈍くなる。
問題意識も洞察力も、衰える。はっきり言えば、よりノーブレインになる。

 ウソだと思うなら、あなたの周囲の老人たちを見ればわかる。が、そういう老人たちが、どう
であるかは、ここには書けない。書けないが、あなたの周囲には、あなたが理想と考えることが
できるような老人は、いったい、何人いるだろうか。

 せっかくの命、せっかくの人生、それをムダに消費しているだけ。そんな老人の、何と、多い
ことか。あなたはそういう人生に、魅力を感ずるだろうか。はたしてそれでよいと考えるだろう
か。

 マズローは、「欲求段階説」を唱え、最終的には、「人間は自己実現」を目ざすと説いた。人
間は、自分がもつ可能性を最大限、発揮し、より人間らしく、心豊かに生きたいと願うようにな
る、と。

 問題は、どうすれば、より人間らしく、心豊かに生きられるか、である。そこで私はマズローの
「欲求段階説」を参考に、10の鉄則をまとめてみた。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

最前線の子育て論byはやし浩司(444)

【人間らしく生きるための、10の鉄則】(マズローの「欲求段階説」を参考にして)

●第1の鉄則……現実的に生きよう

●第2の鉄則……あるがままに、世界を受けいれよう

●第3の鉄則……自然で、自由に生きよう

●第4の鉄則……他者との共鳴性を大切にしよう

●第5の鉄則……いつも新しいものを目ざそう

●第6の鉄則……人類全体のことを、いつも考えよう

●第7の鉄則……いつも人生を深く考えよう

●第8の鉄則……少人数の人と、より深く交際しよう

●第9の鉄則……いつも自分を客観的に見よう

●第10の鉄則……いつも朗らかに、明るく生きよう

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●マズローの欲求段階説

 昨日、「マズローの欲求段階説」について書いた。その中で、マズローは、現実的に生きるこ
との重要性をあげている。

 しかし現実的に生きるというのは、どういうことか。これが結構、むずかしい。そこでそういうと
きは、反対に、「現実的でない生き方」を考える。それを考えていくと、現実的に生きるという意
味がわかってくる。

 現実的でない生き方……その代表的なものに、カルト信仰がある。占い、まじないに始まっ
て、心霊、前世、来世論などがもある。が、そういったものを、頭から否定することはできない。

ときに人間は、自分だけの力で、自分を支えることができなくことがある。その人個人というよ
りは、人間の力には、限界がある。

 その(限界)をカバーするのが、宗教であり、信仰ということになる。

 だから現実的に生きるということは、それ自体、たいへんむずかしい、ということになる。いつ
もその(限界)と戦わねばならない。

 たとえば身近の愛する人が、死んだとする。しかしそのとき、その人の(死)を、簡単に乗り越
えることができる人というのは、いったい、どれだけいるだろうか。ほとんどの人は、悲しみ、苦
しむ。

いくら心の中で、疑問に思っていても、「来世なんか、ない」とがんばるより、「あの世で、また会
える」と思うことのほうが、ずっと、気が楽になる。休まる。

 現実的に生きる……一見、何でもないことのように見えるが、その中身は、実は、奥が、底な
しに深い。


●あるがままに、生きる

 ここに1組の、同性愛者がいたとする。私には、理解しがたい世界だが、現実に、そこにいる
以上、それを認めるしかない。それがまちがっているとか、おかしいとか言う必要はない。言っ
てはならない。

 と、同時に、自分自身についても、同じことが言える。

 私は私。もしだれかが、そういう私を見て、「おかしい」と言ったとする。そのとき私が、それを
いちいち気にしていたら、私は、その時点で分離してしまう。心理学でいう、(自己概念=自分
はこうであるべきと思い描く自分)と、(現実自己=現実の自分)が、分離してしまう。

 そうなると、私は、不適応障害を起こし、気がヘンになってしまうだろう。

 だから、他人の言うことなど、気にしない。つまりあるがままに生きるということは、(自己概
念)と、(現実自己)を、一致させることを意味する。が、それは、結局は、自分の心を守るため
でもある。

 私は同性愛者ではないが、仮に同性愛者であったら、「私は同性愛者だ」と外に向って、叫
べばよい。叫ぶことまではしなくても、自分を否定したりしてはいけない。社会的通念(?)に反
するからといって、それを「悪」と決めつけてはいけない。

 私も、あるときから、世間に対して、居なおって生きるようになった。私のことを、悪く思ってい
る人もいる。悪口を言っている人となると、さらに多い。しかし、だからといって、それがどうなの
か? 私にどういう関係があるのか。

 あるがままに生きるということは、いつも(自己概念)と、(現実自己)を、一致させて生きるこ
とを意味する。飾らない、ウソをつかない、偽らない……。そういう生き方をいう。


●自然で自由に生きる

 不規則がよいというわけではない。しかし規則正しすぎるというのも、どうか? 行動はともか
くも、思考については、とくに、そうである。

思考も硬直化してくると、それからはずれた思考ができなくなる。ものの考え方が、がんこにな
り、融通がきかなくなる。

 しかしここで一つ、重要な問題が起きてくる。この問題、つまり思考性の問題は、脳ミソの中
でも、CPU(中央演算装置)の問題であるだけに、仮にそうであっても、それに気づくことは、ま
ず、ないということ。

 つまり、どうやって、自分の思考の硬直性に、気がつくかということ。硬直した頭では、自分の
硬直性に気づくことは、まず、ない。それ以外のものの考え方が、できないからだ。

 そこで大切なのは、「自然で、自由にものを考える」ということ。そういう習慣を、若いときから
養っていく。その(自由さ)が、思考を柔軟にする。

 おかしいものは、「おかしい」と思えばよい。変なものは、「変だ」と思えばよい。反対にすばら
しいものは、「すばらしい」と思えばよい。よいものは、「よい」と思えばよい。

 おかしなところで、無理にがんばってはいけない。かたくなになったり、こだわったりしてはい
けない。つまりは、いつも心を開き、心の動きを、自由きままに、心に任せるということ。

 それが「自然で、自由に生きる」という意味になる。
 




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●メタ・コミュニケーション

 最近、「メタ……」という言葉を、よく耳にする。「メタ・サーチ」「メタ・ミュージック」「メタ・サイコ
ロジー」など。

 その中に、「メタ・コミュニケーション」というのがある。この場合の「メタ」は、「高次」と訳す。
「メタ(高次)・コミュニケーション」という意味である。

 たとえばあなたが今、Aさんという人と、対峙して話したとする。そのときあなたは、自分の心
情を、(1)言葉と、(2)言葉以外の動作、表情、しぐさなどで伝えようとする。この(2)の言葉以
外の、伝達方法を、メタ(高次)・コミュニケーションという。

 たとえば、あなたがAさんからプレゼントをもらって、うれしかったとする。するとあなたは、Aさ
んに、「ありがとう」と言う。それが、言葉によるコミュニケーションだが、同時に、あなたは、そ
のうれしさを、表情や動作で表現したりする。そのコミュニケーションを、メタ・コミュニケーショ
ンという。相手のAさんは、そういうあなたを見て、あなたが感謝していることを知る。

 ふつう、この(1)の言葉と、(2)の言葉以外の伝達方法は、たがいにシンクロナイズ(同調)
する。「ありがとう」と言って、ニコニコ笑う。「バカヤロー」と言って、怒った顔をする、など。

 しかしときに、この二つが、一致しないことがある。子どもの世界でも、ときどき観察される。

 たとえばブランコを横取りされても、ニヤニヤ笑っている。先生に叱られているのに、無表情
のまま。あるいは、先生にほめられているのに、すごんだ目つきをする、など。以前、数学の問
題を解きながら、突然、ニヤニヤと笑い出した子ども(中学生女子)もいた。「何を考えている
かわからない」といった、状態になる。

 このタイプの子どもに接すると、熟練した教師でも、ある種の不気味さを感ずる。

 そこで私は、年に1度、「表情」というレッスンをもうけている。心の状態を、すなおに、そのま
ま表現できるように、子どもを指導する。喜怒哀楽の情に合わせて、それに言葉や、ジェスチ
ャをのせていく。そして最終的には、少し大げさであるにせよ、心の状態を外に向って開放でき
るようにする。

 参観している親たちから見ると、(多分)、私が遊んでいるように思うかもしれない。あるい
は、そういう指導が、「勉強」と、どういう関係があるのかと疑問に思う人もいるかもしれない。

 本来なら、そういう説明をした上で、「表情」の指導をしたほうがよいのかもしれないが、時間
的にも無理。それに本当のところ、若いお父さんやお母さんに、理解してもらえるかどうか、わ
からない。だから、私はあくまでも、子どもだけを見て、指導する。

 話をもどすが、このメタ・コミュニケーションの重要さは、そうでない子どもに出会ったときに、
わかる。「何を考えているかわからない」という子どもとしばらく接していると、こちら側も、言い
ようのない不安感に襲われる。イライラすることもある。

この「メタ・コミュニケーション」という言葉は、もともとは、ベイトソンという学者が、統合失調症
(分裂病)の患者を観察していて、使い出したという。恐らくベイトソンも、そういう患者と接して
いて、言いようのない不安感、あるいは恐怖感を覚えたのではないか。そのことからもわかる
ように、こうした状態、つまりメタ・コミュニケーションが、言葉と遊離した状態を、決して、安易
に考えてはいけない。

 こうした(1)言葉と、(2)言葉以外の伝達方法が不一致を起こす原因としては、いろいろ考え
られる。

 抑圧された家庭環境、神経質な家庭環境など。過干渉、過保護、過関心がよくないことは言
うまでもない。さらに進んで、母子関係の不全、基本的信頼関係の不足などもある。

 何でもないことのようだが、明るい表情で、心の状態をありのままに表現する子どもは、それ
だけでも、心がまっすぐに伸びていることを示す。
(はやし浩司 メタ・コミュニケーション メタコミュニケーション 高次コミュニケーション ベイト
ソン)




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●ある入信劇

●深刻な相談

 電話がかかってきた。受話器を取ると、その女性は、こう言った。「助けてください」と。

 話の内容は、こうだ。

 その女性の弟夫婦が、小学3年生になる子どもを連れて、AA教団に入信してしまったとい
う。AA教団というのは、共同生活しながら修行するという、あの教団である。どこかの山奥で、
それをするという。自分たちは、「宗教団体ではない※」と、たびたび公言しているが、カルトと
みてよい。宗教的色彩が、きわめて濃厚な団体である。

 「弟は、そのため、10年ほど勤めた会社をやめてしまいました。弟の子どもも、いっしょに、
共同生活をすることになるので、学校へは行かなくなります。どうしたらいいでしょうか」と。

 その女性は、39歳。弟は、34歳だたという。

 その人が、いわゆるカルトと呼ばれている教団に入信するのは、その人の勝手。しかしその
人が周囲に与える、混乱というか衝撃は、相当なものである。よくあるケースは、ある日、突
然、妻が、ある教団に入信してしまうケース。息子や娘が、入信してしまうケースも、少なくな
い。

 入信した人は、「私の勝手」「信仰は個人の自由」などというが、そうはいかない。

 こんな深刻なケースもある。

 何でもその教団では、手をかざして病気を治すという。その教団を、BB教団としておく。

 そのBB教団に属する、熱心な信者がいた。夫婦で、信仰をしていた。で、ある日、その夫婦
の子ども(5歳)が、熱を出した。肺炎のような病気ではなかったか。そこでその祖父にあたる
人が、その子ども(孫)を、病院へ連れていこうとした。

 が、その夫婦は、がんとして、それを拒否した。そして一晩中、彼らがいうところの神に祈り、
手かざしをつづけた。が、その結果、その子どもは、死んでしまった。

 ふつうなら、そこでその夫婦は、その教団に疑問をもつはず。しかし、その夫婦は、ますます
その信仰にのめりこんでいったという。

 なぜか?

 その時点で、自分たちの信仰に疑問をもつということは、同時に、自分たちの愚かな信仰
で、子どもを殺してしまったことを自ら、認めることになる。だからその夫婦にしてみれば、自分
の信仰を疑うことなど、ぜったいにできない。だからますます自分たちの信仰にのめりこんでい
いた。

 こうしたカルト信仰では、常人には、理解しがたい、独特の論理が働く。

 しかし冒頭に書いた相談は、少し、内容がちがう。

私「弟さん夫婦が、同時に入信したわけですね」
電話の女性「そうなんです。それを何とか、やめさせたいのです」
私「夫婦は、うまくいっているにですか」
女「仲のよい夫婦です」

私「そうですか……。夫婦が、それでいいというのなら、何もできないと思います」
女「子どもがかわいそうです」
私「しかし、それもその夫婦の問題です」と。

 こういう相談では、私は無力でしかない。その上、その女性が心配しているのは、34歳にも
なった、弟夫婦のことである。

女「何とか、やめさせる方法はないでしょうか」
私「あなたはまちがっていると言うことはできます。しかし、まちがっていると言う以上、それに
かわる思想をこちらで用意してあげねばなりません。この問題だけは、ハシゴだけはずして、
あとは勝手にしなさいというわけにはいかないのです」と。

 よく誤解されるが、信仰があるから、信者がいるのではない。それを求める信者がいるから、
信仰がある。

 AA教団にせよ、BB教団にせよ、その教団を否定しても、意味がない。その夫婦が、そうした
信仰に走ったのは、すでにその前提として、それを求める(心の空白部分)があったからであ
る。もっとはっきり言えば、その夫婦は、何らかの救いを求めて、その教団に入信した。

 もう少し単純なケースでは、夫の知らないところで、妻だけが勝手に、カルト教団に入信してし
まうケースがある。夫は、一方的に妻の入信を責めるが、しかしそれ以前に、すでに夫婦関係
は、こわれていたとみる。信仰が夫婦関係をこわしたのではない。

私「弟さん夫婦が、それでハッピーなら、それでいいではないですか。お姉さんのあなたが、と
やかく言ってもしかたないでしょう」
女「しかし弟が不幸になっていくのを、見過ごすことはできません」
私「あなたはそう思うかもしれませんが、それはあくまでも弟夫婦の問題です」と。

 ……と、こんな押し問答のような会話がつづいた。そして最後に私は、こう言った。

 「どうであるにせよ、この問題は、私の専門ではありません。以前は、カルト問題にかかわっ
てきましたが、足を洗って、もう15年以上になります。ですから、私にできることは、残念です
が、何もありません」と。

 それでも時間にすれば40分ほど、電話で話しただろうか。その女性は、電話を切った。どこ
か納得できないといった雰囲気だった。アクセントからして、関西方面の人だとわかったが、そ
れ以上のことは、わからない。名前も、聞かなかった。

 私にとっても、あと味の悪い電話だった。

 受話器を置くと、そこにワイフがいたので、「どうして姉が、弟夫婦のことを心配するのだろ
う?」と聞くと、ワイフはこう言った。

 「それぞれの家には、複雑な事情があるからよ。兄弟関係も、きっと、複雑なのよ」と。

※……宗教法人格を取得しているか、取得していないかのちがいだけである。宗教団体の資
格を取得するためには、たとえば、本部の特定、本尊の特定などが、要求される。





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●共依存

●どうしようもない夫

 Aさん(45歳・女性)の夫は、大のギャンブル好き。借金ばかりしている。酒も飲む。暴力も、
振るう。そんな夫だが、Aさんは、別れることもできず、夫のそばにいる。めんどうをみている。
昼間はスーパーで働き、夜は、宅配会社の仕分けの仕事をしている。

 ふつうなら、Aさんは、夫に愛想をつかして、別れてもよいはず。まわりの人たちも、Aさんに、
「早く別れなさい」と勧める。

 しかしAさんは、別れない。Aさんは、こう言う。「私がいなければ、あの人は生きていけない」
「あの人には、私が必要」と。

 そういえば、同じようなシーンを、昔、何かのヤクザ映画で見たことがある。チャンパラ映画
の定番にもなっていた。どこまでも献身的な妻。それに甘えて、ますます自分勝手な振るまい
を繰りかえす夫。

 こういうのを、心理学の世界では、「共存依存」という。

 つまりそういうふうにして、夫と共存すること自体が、その妻の生きがいになっている。もしそ
ういう夫と別れたら、その妻は、自分を証明するものを、失ってしまう。まわりから、「かわいそ
うだ」「いい嫁だ」と言われることが、その妻にとっては、生きがいになっている。

 一方、夫は夫で、精神的に妻を虐待すればするほど、妻が、自分に依存してくるのを、知って
いる。だから、ますます自分勝手な振るまいを繰りかえすようになる。

 しかしこんな人間関係は、異常である。ゆがんでいる。

 栃木県に住んでいるBさんから、こんな相談があった。ここでいうAさんというのは、そのBさん
の姉である。

 「どうしたらいいか?」と。

 こういうケースのばあい、まず、本人自身に、その異常さを理解してもらうのが、一番よい。そ
してパチンコ依存症(男性に多い)や、買い物依存症(女性に多い)と同じような、依存症の一
つであることを、わかってもらう。

 こうした共存依存に陥ると、(1)自分のことが客観的に判断できなくなる、(2)自分が何を望
んでいるか、それを表現できなくなる、(3)自分が自分でなくなり、(夫の)人形のようになってし
まうなどの、障害が現れるようになる。

 方法としては、一度、夫と離れて暮らしてみるのがよい。たがいに冷却期間を置くわけだが、
実際には、これがむずかしい。無理に離れさせたりすると、禁断症状のような症状が、たがい
に出てくることがある。だから結局は、またモトのサヤに収まってしまう。

 こういうケースでは、たがいに「好きだ」とか、「愛している」とか言うものだが、本当のところ
は、それは愛でも何でもない。たがいに依存しあっているだけ。が、それすらも本人たちには、
わかっていない。

 もともとどちらか一方に、心の空白部分があるために、そうなると考える。だから、ことは簡単
ではない。また簡単には解決しない。ふつうは、そういう状態のまま、双方が、その人生を終え
ることが多い。

 Aさんも45歳ということだから、私の印象では、そのままの状態で、これからもいくだろうと思
う。妹のBさんにとっては、つらいことかもしれないが、Bさんにできることにも限界がある。
(はやし浩司 共存依存 依存うつ)

【付記】
 夫婦の問題は、どこまでいっても、夫婦の問題。他人がとやかく言っても、始まらない。どうし
ようもない。親や兄弟でも、そこには限界がある。本人たちが、「それでいい」と言うなら、あと
は、暖かく無視するしかない。何かあって、助けを求めてきたら、そのときは、相談にのる。し
かし、そのときまで、待つしかない。

 この種の問題は、きわめてデリケート。へたに干渉すれば、その時点で、人間関係は終わ
る。干渉するにしても、慎重に。控えめに。相談されたことだけを、その範囲で、ていねいに、
いっしょに考えてあげるのがコツである。




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10
●孤立する子ども

●友だちとなじめない子ども

 集団生活に入ると、心のどこかで緊張感を覚える。心が開けない。何かあると、スネたり、ひ
がんだり、いじけたりする。ときに、ツッパルこともある。ジクジクといつまでも、ささいなことにこ
だわったり、悩んだりする。

 そのため、集団の中にいると、精神疲労を起こしやすい。また心はいつも緊張状態にあるた
め、ささいなことで、カッと切れたり、怒ったりしやすい。情緒も、そのため不安定。

 そこでこのタイプの子どもは、外の世界では、仮面をかぶることで、自分を守ろうとする。いい
子ぶったり、無理に相手に合わせようとする。友だちに何かいやなことをされても、すなおに反
応することができない。ブランコを横取りされても、すぐあけ渡してしまう、など。

しかしそのため、たとえば園や学校の先生には、「いい子だが、何を考えているかわからない」
といったタイプの子どもになる。

 集団の中で、よく見られる様子としては、つぎのようなことがある。

(1)いつも、ひとりで、ポツンと静かにしている。
(2)集団の中では、おとなしく、何かにがまんしているといったふう。
(3)表情がとぼしく、喜怒哀楽の情を押し殺してしまう。
(4)大声ではしゃいだり、笑ったりすることができない。

 自分の子どもがそうであると、たいていの親は、「なおそう」と考える。しかし、ある特定の集
団の中で、一度、そういう症状が出ると、なおすのは、容易ではない。それが、その子どもの行
動パターンとして、定着してしまうからである。

 が、よく観察すると、そういうタイプの子どもでも、別の環境の中では、まるで別人のように振
る舞うことがある。たとえば学校の教室の中では、借りてきたネコの子のようにおとなしくても、
休み時間に友だちとサッカーをするときは、元気な様子を見せる、など。

 そこでもしあなたの子どもが、ここでいう集団になじめない子ども(?)と疑われるようなとき
は、それをなおそうと考えるのではなく、その場面では、そういうものだとあきらめた上で、別の
場面で、別の子どもを発見するように心がける。「何とかしよう」「これではだめだ」と思えば思う
ほど、子どもの症状は、こじれる。

 なお、「うちの子は、集団になじめない」と、親はよく簡単に言うが、その根は深い。乳幼児期
の母子関係に起因することもある。あるいは、集団恐怖症、対人恐怖症などの、恐怖症が、そ
の背景にあることもある。さらに、かん黙傾向や自閉傾向(自閉症ではない)などが、あること
もある。

 中には、乱暴な人がいて、「なれていないだけ」と考えて、無理をする人がいる。そしていやが
る子どもを、何かの運動サークルや、集団キャンプに参加させたりする。しかしこうした無理
は、ここにも書いたように、かえって症状を、こじらせる。

 富山県に住んでいる、YBさんから、こんな相談のメールが、届いている。少しタイプがちがう
かもしれないが、ここでいっしょに、考えてみたい。

++++++++++++++++++

娘(9歳)のことで、相談します。下に6歳の弟がいます。

学校があまり楽しめないようで、以前は、行き帰りも最初はみんなと一緒に行っていたのです
が、今では一人で通うようになっていて、とにかく早く学校に着きたいみたいで、起きてすぐ支
度をして大急ぎで出かけていきます。

家に帰ってきても友達と遊ぶこともなく、絵を描いたりパソコンで遊んだりしてすごしているよう
です。家では楽しそうに過ごしているのですが、2学期の自分でつけた通知表では、友達もい
ないと書いていて、2学期も楽しくなかったと書いていました。

先生は、学校で何かを始めるときは、ひとりでいることはなく、グループに入っているということ
なのですが、自分では、何かまわりから取り残されているような感覚があるみたいで、何かの
拍子にこの感情が爆発して、よく泣きます。

この間も、教室で嫌な思いをしたらしく、いたたまれなったようで、授業中こっそり教室を抜け出
して一人で泣いていたこともありました。先生が慰めてくれても、自分はみんなに受け入れられ
ていないと言い張っていたようです。

先生が言うには、学習能力が高く精神年齢が大人で、先のことまで考えてしまうのではというこ
となのですが、人間関係にこれからもすごく本人が苦労しそうで、親として今何をしてあげるの
がいいのか、教えていただきたいと思います。

+++++++++++++++++++

 こうしたケースでは、子どもに向かって、「もっと……」とか、「ダメでしょう」的な押しつけは、禁
物。かえって子どもを、袋小路に追いやってしまうことになる。この状態で、子どもを責めると、
子どもは、現実の自分に自信を失い、自己嫌悪からさらに、自己否定へと進んでしまうこともあ
る。

 大切なことは、子どもの立場になって、「あなたはよくがんばっている」と、子どもの心を理解
してあげること。「無理をすることはないわよ」と、下から支えてあげること。

 気うつ状態が長くつづき、神経症(心身症)による症状がほかに見られるようになったら、要
注意。さらに症状をこじらせると、学校恐怖症から、学校へ登校しなくなることも考えられる。

 YBさんの子どもは、学校から帰ってくると、絵を描いたり、パソコンで遊んでいるということな
ので、そういう方法で、自分を取りもどしているのかもしれない。それが悪いことと決めてかか
るのではなく、そっとしておいてあげることこそ、大切である。

 なお、子ども自身が、「私は受け入れてもらえない」と言うのは、その遠因に、母子関係の不
全を疑ってみる。母親が、(父親のケースもあるが)、無意識のうちにも、子どもの役割を混乱
させていないかを反省してみる。あるいは、もう一つ原因として、「姉」ということで、安易なダカ
ラ論をぶつけていることも、考えられる。

 よくあるケースは、(YBさんが、そうだと言うのではない)、親が、勝手な設計図を用意し、そ
の設計図に、無理に子どもを当てはめるような行為。子どもは(本来の自分)と、(親が求める
自分)の間に、ギャップを感ずるようになり、自分に自信をなくす。いつも自分がしていることに
ついて、まちがっているのではないかという不安感を覚えるようになる。

 親側に、子どもへの不信感、心配があれば、当然、それを除去する。(この不信感も、乳幼
児期に起因することが多く、根が深い。)「あなたはお姉さんだから」というダカラ論は、避ける。

 YBさんは、「何をしてあげればいいのか」と悩んでいる。しかし今、大切なことは、なおそう」と
考えるのではなく、「今の状態をより悪くしないことだけ」を考える。この種の問題には、二番
底、さらには三番底がある。

 無理をすれば、「まだ以前のほうが症状は軽かった」ということを繰りかえしながら、症状は、
さらに悪化する。9歳という年齢は、ちょうど親離れをする時期にかかっている。妙におとなび
てみたり、反対に、ときに赤ちゃんぽくなってみせたりする時期である。

 恐らくこの子どもの情緒が不安定になったのは、下の弟が生まれてからではないかと推察さ
れる。赤ちゃんがえりによる症状があったのかもしれない。あるいは、姉であるという自負心か
ら、どこかで別の自分を演ずるようになったのかもしれない。これを発達心理学の世界では、
「反動形成」という。みなから、「姉だから」「姉だから」と言われているうちに、その姉像にそっ
た、反対の自分をつくりあげてしまうことをいう。

 原因は、いろいろ考えられるが、もし思い当たることがあれば、反省する。

 そこで結論ということになるが、つぎのことに注意してみたらよいと思う。あくまでも参考的意
見として、利用してほしい。

(1)スキンシップを濃厚にする。下の弟中心の育児姿勢から、もう一度、姉中心の育児姿勢に
かえてみる。

(2)「がんばれ」式の励まし、「ダメでしょう」式の否定や、おどしは、タブー。「あなたはよくがん
ばっているのよ」「無理をしなくていいのよ」「お母さんも、集団で遊ぶのは身が手だった」と、子
どもの立場でものを考える。

(3)学校恐怖症による不登校を警戒する。神経症による症状(腹痛、頭痛など)が見られた
ら、要注意。適当に学校を休ませたりして、気を楽にさせる。

(4)学校以外の場で、子どもが自分の心を開放し、自分をさらけ出せる場所を用意する。趣味
のサークルや、クラブなど。子どものしたがっていることに、耳を傾けること。無理な押しつけ
は、意味がないばかりか、かえって症状をこじらせる。

 先生も言っているように、どこかおとなびていて、ふつうの子どもよりも、先に先にとものを考
えるところもあると思われる。(そういう印象を先生がもっているということが、重要。)

 YBさんの子どもがそのように見えるというところに、YBさんの子どもの問題が集約されてい
るように思う。つまり、YBさんの子どもは、無理をしている。仮面をかぶっているのかもしれな
い。しかしもちろん、それはその子どもの本当の姿ではない。

 といっても、この年齢になると、子どもの様子を変えるのは、容易ではない。恐らく、半年単
位、一年単位の忍耐が必要かと思われる。しかし全体として考えても、集団行動や集団内活
動が苦手な子どもはいくらでもいる。得意、不得意があって、当たり前。

 だからこの段階では、やはりあきらめるべきところはあきらめ、別の方面で、子どもの興味や
関心を引き出すことが重要。オールマイティな人間をめざさないこと。それともYBさん、あなた
自身は、集団行動が得意だろうか? ……だっただろうか? そういう視点で考えなおしてみ
るとよい。

 以上、とりあえず考えてみたが、つづきは、マガジン(無料版)1月中旬号で、書いてみる。

【YBさんへ】

 メール、ありがとうございました。私からの返事は以上ですが、いただきましたメールのマガ
ジンへの転載など、よろしくご許可くださいますようお願いします。

 ふつごうな点があれば、改めますので、至急、ご連絡ください。

 私が想像するYBさんのお子さんは、すばらしい子どもです。懸命にいつも、何かと戦ってい
る子どもです。ただどこかで無理をしている。だから一見、おとなびて見えるかもしれません
が、本当は、弟が甘えるように、あなたに甘えたいのかもしれません。

 一度、ぐいと抱いてあげてみてください。とくに子どものほうから、それを求めてきたら、そうし
ます。そしてそのとき、こう言ってあげてみてください。「あなたは、よくがんばっているわ」と。そ
のやさしさが、子どもの心を溶かします。

 そうそう、大切なことを言い忘れました。
 
 子どもを伸ばす最大のコツは、不得意分野には、目を閉じて、得意分野をさがして、伸ばす、
です。だれにも、得意、不得意がありますから、ね。

 では、今日は、これで失礼します。

 はやし浩司
(はやし浩司 心を開かない子ども 集団行動が苦手な子供 集団行動が苦手な子ども 集団
で静かな子ども 子供 子供の神経疲労 子どもの神経疲労 集団になじめない子ども 集団
になじめない子供 集団生活が苦手な子供)
 




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11
●代理ミュンヒハウゼン症候群(補足)

 子どもを虐待しながら、他人の目の前では、すばらしい母親を演ずる。そんなタイプの虐待
が、ふえている。

たとえば子どもを虐待して、ケガをさせたとする。そして子どもが、病院へ入院したとする。そう
いうとき、子どもの付き添い人として、子どものそばから片時も離れず、子どもの世話をしてみ
せたりする。

 子どもの背中をさすってみたり、足をマッサージしてあげてみせるなど。子どもは子どもで、母
親の姿に、半ばおびえ、そうかといって母親に反旗をひるがえすこともできない。

 こうした虐待を、総称して、代理ミュンヒハウゼン症候群という。(詳しくは、「はやし浩司 代
理ミュンヒハウゼン症候群」で検索のこと。)

 この話を、ある会でしたら、実際、そうした虐待を目撃したことがあるという人が現われた。

 その人を、Aさんとしておく。Aさんは、45歳くらい。女性である。

 そのAさんの住むマンションの隣人が、自分の子ども(中2男子)を虐待しているという。とき
どき、はげしい罵声が聞こえてくるという。ふつうの罵声ではない。まるでヤクザどうしのけんか
のような罵声だという。

 で、その子どもは、中学生にもなるのだが、ハキがなく、おとなしい。いつもオドオドした様子
で、自閉傾向も見られるという。

 その女性が、こう言った。

 「ふだんは、つまり私たちの前では、すばらしい母親を演ずるのですね。演ずるというより、ど
ちらが本当の母親なのか、わからなくなります。ですから、ほとんどの人は、その母親を、すば
らしい母親だと思っているようです。

 しかも不思議なのは、自分の虐待で、子どもが萎縮しているのに、その意識がまるでないと
いうこと。『私はふつうの母親だ』と思いこんでいるみたいです。その上、『私ほど、息子を愛し
ている親はいない』というようなことまで口にします。

 会って話をしていると、何だか、キツネにだまされたみたいな雰囲気になります」と。

 子どもを虐待しながら、その実感をもっていない親は多い。肉体的な虐待はともかくも、言葉
による虐待については、とくにそうである。「お前なんか、早く死んでしまえ」「ロクでなし」と、い
つも子どもを虐待しながら、それを虐待だと思ってもいない。もちろん罪の意識など、みじんも、
ない。

 少し前、代理ミュンヒハウゼン症候群について書いたので、その補足として、この原稿を書い
た。
(はやし浩司 代理ミュンヒハウゼン症候群 事例 補足 子どもの虐待 子供の虐待)

++++++++++++++++++++

●フリをする母親

 昔、自分を病人に見たてて、病院を渡り歩く男がいた。そういう男を、イギリスのアッシャーと
いう学者は、「ミュンヒハウゼン症候群」と名づけた。ミュンヒハウゼンというのは、現実にいた
男爵の名に由来する。ミュンヒハウゼンは、いつも、パブで、ホラ話ばかりしていたという。

 その「ミュンヒハウゼン症候群」の中でも、自分の子どもを虐待しながら、その一方で病院な
どへ連れて行き、献身的に看病する姿を演出する母親がいる。そういう母親を、「代理ミュンヒ
ハウゼン症候群」という(「心理学用語辞典」かんき出版)。

 このタイプの母親というか、女性は、多い。こうした女性も含めて、「ミュンヒハウゼン症候群」
と呼んでよいかどうかは知らないが、私の知っている女性(当時50歳くらい)に、一方で、姑
(義母)を虐待しながら、他人の前では、その姑に献身的に仕える、(よい嫁)を、演じていた人
がいた。

 その女性は、夫にはもちろん、夫の兄弟たちにも、「仏様」と呼ばれていた。しかしたった一
人だけ、その姑は、嫁の仮面について相談している人がいた。それがその姑の実の長女(当
時50歳くらい)だった。

 そのため、その女性は、姑と長女が仲よくしているのを、何よりも、うらんだ。また当然のこと
ながら、その長女を、嫌った。

 さらに、実の息子を虐待しながら、その一方で、人前では、献身的な看病をしてみせる女性
(当時60歳くらい)もいた。

 虐待といっても、言葉の虐待である。「お前なんか、早く死んでしまえ」と言いながら、子どもが
病気になると、病院へ連れて行き、その息子の背中を、しおらしく、さすって見せるなど。

 「近年、このタイプの虐待がふえている」(同)とのこと。

 実際、このタイプの女性と接していると、何がなんだか、訳がわからなくなる。仮面というよ
り、人格そのものが、分裂している。そんな印象すらもつ。

 もちろん、子どものほうも、混乱する。子どもの側からみても、よい母親なのか、そうでないの
か、わからなくなってしまう。たいていは、母親の、異常なまでの虐待で、子どものほうが萎縮し
てしまっている。母親に抵抗する気力もなければ、またそうした虐待を、だれか他人に訴える
気力もない。あるいは母親の影におびえているため、母親を批判することさえできない。

 虐待されても、母親に、すがるしか、ほかに道はない。悲しき、子どもの心である。
(はやし浩司 ミュンヒハウゼン症候群 代理ミュンヒハウゼン症候群 子どもの虐待)






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12
●一芸論

子どもの一芸論

 Sさん(中一)もT君(小三)も、勉強はまったくダメだったが、Sさんは、手芸で、T君は、スケ
ートで、それぞれ、自分を光らせていた。中に「勉強、一本!」という子どももいるが、このタイ
プの子どもは、一度勉強でつまずくと、あとは坂をころげ落ちるように、成績がさがる。そういう
ときのため、……というだけではないが、子どもには一芸をもたせる。この一芸が、子どもを側
面から支える。あるいはその一芸が、その子どもの身を立てることもある。

 M君は高校へ入るころから、不登校を繰り返し、やがて学校へはほとんど行かなくなってしま
った。そしてその間、時間をつぶすため、近くの公園でゴルフばかりしていた。が、一〇年後。
ひょっこり私の家にやってきて、こう言って私を驚かせた。「先生、ぼくのほうが先生より、お金
を稼いでいるよね」と。彼はゴルフのプロコーチになっていた。

 この一芸は作るものではなく、見つけるもの。親が無理に作ろうとしても、たいてい失敗する。
Eさん(二歳児)は、風呂に入っても、平気でお湯の中にもぐって遊んでいた。そこで母親が、
「水泳の才能があるのでは」と思い、水泳教室へ入れてみた。案の定、Eさんは水泳ですぐれ
た才能を見せ、中学二年のときには、全国大会に出場するまでに成長した。S君(年長児)も
そうだ。

父親が新車を買ったときのこと。S君は車のスイッチに興味をもち、「これは何だ、これは何だ」
と。そこで母親から私に相談があったので、私はS君にパソコンを買ってあげることを勧めた。
パソコンはスイッチのかたまりのようなものだ。その後S君は、小学三年生のころには、ベーシ
ック言語を、中学一年生のころには、C言語をマスターするまでになった。

 この一芸。親は聖域と考えること。よく「成績がさがったから、(好きな)サッカーをやめさせ
る」と言う親がいる。しかし実際には、サッカーをやめさせればやめさせたで、成績は、もっとさ
がる。一芸というのは、そういうもの。ただし、テレビゲームがうまいとか、カードをたくさん集め
ているというのは、一芸ではない。

ここでいう一芸というのは、集団の中で光り、かつ未来に向かって創造的なものをいう。「創造
的なもの」というのは、努力によって、技や内容が磨かれるものという意味である。そしてここ
が大切だが、子どもの中に一芸を見つけたら、時間とお金をたっぷりとかける。そういう思いっ
きりのよさが、子どもの一芸を伸ばす。「誰が見ても、この分野に関しては、あいつしかいない」
という状態にする。子どもの立場で言うなら、「これだけは絶対に人に負けない」という状態にす
る。

 一芸、つまり才能と言いかえてもいいが、その一芸を見つけるのは、乳幼児期から四、五歳
ごろまでが勝負。この時期、子どもがどんなことに興味をもち、どんなことをするかを静かに観
察する。一見、くだらないことのように見えることでも、その中に、すばらしい才能が隠されてい
ることもある。それを判断するのも、家庭教育の大切な役目の一つである。  

++++++++++++++++++

つぎの2作も、参考になると思いますので
ぜひ、読んでみてください。

++++++++++++++++++

●自己嫌悪

 ある母親から、こんなメールが届いた。「中学二年生になる娘が、いつも自分をいやだとか、
嫌いだとか言います。母親として、どう接したらよいでしょうか」と。神奈川県に住む、Dさんから
のものだった。

 自我意識の否定を、自己嫌悪という。自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、絶
望感、不安心理など。そういうものが、複雑にからみ、総合されて、自己嫌悪につながる。青春
期には、よく見られる現象である。

 しかしこういった現象が、一過性のものであり、また現れては消えるというような、反復性があ
るものであれば、(それはだれにでもある現象という意味で)、それほど、心配しなくてもよい。

が、その程度を超えて、心身症もしくは気うつ症としての症状を見せるときは、かなり警戒した
ほうがよい。はげしい自己嫌悪が自己否定につながるケースも、ないとは言えない。さらにそ
の状態に、虚脱感、空疎感、無力感が加わると、自殺ということにもなりかねない。とくに、それ
が原因で、子どもがうつ状態になったら、「うつ症」に応じた対処をする。

 一般には、自己嫌悪におちいると、人は、その状態から抜けでようと、さまざまな心理的葛藤
を繰りかえすようになる。ふつうは(「ふつう」という言い方は適切ではないかもしれないが…
…)、自己鍛錬や努力によって、そういう自分を克服しようとする。これを心理学では、「昇華」
という。つまりは自分を高め、その結果として、不愉快な状態を克服しようとする。

 が、それもままならないことがある。そういうとき子どもは、ものごとから逃避的になったら、あ
るいは回避したり、さらには、自分自身を別の世界に隔離したりするようになる。そして結果と
して、自分にとって居心地のよい世界を、自らつくろうとする。

よくあるのは、暴力的、攻撃的になること。自分の周囲に、物理的に優位な立場をつくるケー
ス。たとえば暴走族の集団非行などがある。

 だからたとえば暴走行為を繰りかえす子どもに向かって、「みんなの迷惑になる」「嫌われる」
などと説得しても、意味がない。彼らにしてみれば、「嫌われること」が、自分自身を守るため
の、ステータスになっている。また嫌われることから生まれる不快感など、自己嫌悪(否定)か
ら受ける苦痛とくらべれば、何でもない。

 問題は、自己嫌悪におちいった子どもに、どう対処するかだが、それは程度による。「私は自
分がいや」と、軽口程度に言うケースもあれば、落ちこみがひどく、うつ病的になるケースもあ
る。印象に残っている中学生に、Bさん(中三女子)がいた。

 Bさんは、もともとがんばり屋の子どもだった。それで夏休みに入るころから、一日、五、六時
間の勉強をするようになった。が、ここで家庭問題。父親に愛人がいたのがわかり、別居、離
婚の騒動になってしまった。

Bさんは、進学塾の夏期講習に通ったが、これも裏目に出てしまった。それまで自分がつくって
きた学習リズムが、大きく乱れてしまった。が、何とか、Bさんは、それなりに勉強したが、結果
は、よくなかった。夏休み明けの模擬テストでは、それまでのテストの中でも、最悪の結果とな
ってしまった。

 Bさんに無気力症状が現れたのは、その直後からだった。話しかければそのときは、柔和な
表情をしてみせたが、まったくの上の空。教室にきても、ただぼんやりと空をみつめているだ
け。あとはため息ばかり。このタイプの子どもには、「がんばれ」式の励ましや、「こんなことで
は○○高校に入れない」式の、脅しは禁物。それは常識だが、Bさんの母親には、その常識が
なかった。くる日もくる日も、Bさんを、あれこれ責めた。そしてそれがますますBさんを、絶壁へ
と追いこんだ。

 やがて冬がくるころになると、Bさんは、何も言わなくなってしまった。それまでは、「私は、ダ
メだ」とか、「勉強がおもしろくない」とか言っていたが、それも口にしなくなってしまった。「高校
へ入って、何かしたいことがないのか。高校では、自分のしたいことをしればいい」と、私が言
っても、「何もない」「何もしたくない」と。そしてそのころ、両親は、離婚した。

 このBさんのケースでは、自己嫌悪は、気うつ症による症状の一つということになる。言いか
えると、自己嫌悪にはじまる、自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、絶望感、不
安心理などの一連の心理状態は、気うつ症の初期症状、もしくは気うつ症による症状そのもの
ということになる。あるいは、気うつ症に準じて考える。

 軽いばあいなら、休息と息抜き。家庭の中で、だれにも干渉されない時間と場所を用意す
る。しかし重いばあいなら、それなりの覚悟をする。「覚悟」というのは、安易になおそうと考え
ないことをいう。

心の問題は、外から見えないだけに、親は安易に考える傾向がある。が、そんな簡単な問題
ではない。症状も、一進一退を繰りかえしながら、一年単位の時間的スパンで、推移する。ふ
つうは(これも適切ではないかもしれないが……)、こうした心の問題については、(1)今の状
態を、今より悪くしないことだけを考えて対処する。(2)今の状態が最悪ではなく、さらに二番
底、三番底があることを警戒する。そしてここにも書いたように、(3)一年単位で様子をみる。
「去年の今ごろと比べて……」というような考え方をするとよい。つまりそのときどきの症状に応
じて、親は一喜一憂してはいけない。

 また自己嫌悪のはげしい子どもは、自我の発達が未熟な分だけ、依存性が強いとみる。満
たされない自己意識が、自分を嫌悪するという方向に向けられる。たとえば鉄棒にせよ、みな
はスイスイとできるのに、自分は、いくら練習してもできないというようなときである。

本来なら、さらに練習を重ねて、失敗を克服するが、そこへ身体的限界、精神的限界が加わ
り、それも思うようにできない。さらにみなに、笑われた。バカにされたという「嫌子(けんし)」
(自分をマイナス方向にひっぱる要素)が、その子どもをして、自己嫌悪に陥れる。

 以上のように自己嫌悪の中身は、複雑で、またその程度によっても、対処法は決して一様で
はない。原因をさぐりながら、その原因に応じた対処法をする。一般論からすれば、「子どもを
前向きにほめる(プラスのストロークをかける)」という方法が好ましいが、中学二年生という年
齢は、第二反抗期に入っていて、かつ自己意識が完成する時期でもある。見えすいた励ましな
どは、かえって逆効果となりやすい。

たとえば学習面でつまずいている子どもに向かって、「勉強なんて大切ではないよ。好きなこと
をすればいいのよ」と言っても、本人はそれに納得しない。

 こうしたケースで、親がせいぜいできることと言えば、子どもに、絶対的な安心を得られる家
庭環境を用意することでしかない。そして何があっても、あとは、「許して忘れる」。その度量の
深さの追求でしかない。こういうタイプの子どもには、一芸論(何か得意な一芸をもたせる)、環
境の変化(思い切って転校を考える)などが有効である。

で、これは最悪のケースで、めったにないことだが、はげしい自己嫌悪から、自暴自棄的な行
動を繰りかえすようになり、「死」を口にするようになったら、かなり警戒したほうがよい。とくに
身辺や近辺で、自殺者が出たようなときには、警戒する。

 しかし本当の原因は、母親自身の育児姿勢にあったとみる。母親が、子どもが乳幼児のこ
ろ、どこかで心配先行型、不安先行型の子育てをし、子どもに対して押しつけがましく接したこ
となど。否定的な態度、拒否的な態度もあったかもしれない。子どもの成長を喜ぶというより
は、「こんなことでは!」式のおどしも、日常化していたのかもしれない。神奈川県のDさんがそ
うであるとは断言できないが、一方で、そういうことをも考える。

えてしてほとんどの親は、子どもに何か問題があると、自分の問題は棚にあげて、「子どもをな
おそう」とする。しかしこういう姿勢がつづく限り、子どもは、心を開かない。親がいくらプラスの
ストロークをかけても、それがムダになってしまう。

 ずいぶんときびしいことを書いたが、一つの参考意見として、考えてみてほしい。なお、繰り
かえすが、全体としては、自己嫌悪は、多かれ少なかれ、思春期のこの時期の子どもに、広く
見られる症状であって、決して珍しいものではない。ひょっとしたらあなた自身も、どこかで経験
しているはずである。もしどうしても子どもの心がつかめなかったら、子どもには、こう言ってみ
るとよい。「実はね、お母さんも、あなたの年齢のときにね……」と。こうした、やさしい語りかけ
(自己開示)が、子どもの心を開く。
(はやし浩司 自我意識の否定 自己嫌悪 自己矛盾 劣等感 自己否定 自信喪失 挫折
感 絶望感 不安心理)


●劣等生、バンザーイ!

 S市教育委員会のK氏と話す。K氏は今、小規模校のある中学校に、養護学級を新設すべ
きかどうかで頭を悩ませている。その相談を受けながら、私はこんな話をした。

【I君の例】

 私は少し前まで、自宅で、中学生と高校生を教えていた。八畳間の小さな教室だから、生徒
数も、せいぜい、一クラス、四〜六人。そういうクラスへ、あるときI君(中一、当時)という子ども
が入ってきた。

 しかしこの生徒は、小学生のとき、勉強ができないということでは、有名な子どもだった。で、
案の定というか、心配したとおり、最初は、六人で始めた教室だったが、その年の夏休みまで
に、三人、その年の終わりまでに二人、I君以外の全員が、私の教室をやめてしまった。「あん
なI君がいる教室など、行かない」というのが、その理由だった。

 で、私は、そのI君を、中学三年の終わりまで教えた。ときどきほかの学年の子どもを交える
ことはあったが、基本的には、最後まで、一人だけの教室だった。

 そのI君は、今でいう、LD児(学習障害児)。教えた先から、すべてを忘れてしまった。たとえ
ば英語の単語にしても、二時間かけて、五個覚えたとする。しかしつぎのレッスンのときには、
すべてを忘れていた。こんな調子だから、数学はもちろんのこと、理科、社会も、さらにできな
かった。

 で、ある日私は、とうとう怒った。I君が、中学三年生になったときのことだった。「あのな、大
工だって、一方で家をつくっても、それをつぎからつぎへと壊されたら、もう家なんか、つくらな
いぞ」と。それに答えて、I君は、ポロポロと涙をこぼした。

 こうして高校入試が近づき、I君は学校の指導をすなおに受け入れ、準養護学校のX高校に
入学した。一月になって、間もないころだった。私はそれを喜んだが、彼が入学できたことを喜
んだのではない。I君から解放されることを喜んだ。

 しかし、だ。それからもI君は、私の教室に来た。その時刻に玄関のチャイムを、ピンポーンと
鳴らす人がいた。見に行くと、そこにI君が、立っていた。そこで私は言った。「あのな、高校受
験は終わったんだよ。もうぼくには、教えることはないよ。だから、ここへは来なくてもいいんだ
よ」と。

 しかし、それでもI君は、私の教室にきた。そしてたったひとりで、勉強(?)をした。しかたない
ので、つまり私は、半ばあきれながら、教えた。で、結果的に、I君は、三月の終わりまで、来
た。

 そのI君は今、家業の植木業を手伝っている。よくお母さんとは、スーパーで顔をあわせる
が、そのつど、お母さんは、I君のことをうれしそうに報告してくれる。ごく最近だが、結婚して、
子どももできたそうだ。そのお母さんは、ある日、こう言った。「まじめだけが、取り柄(え)の子
どもでねエ」と。

 こうした例は無数にある。で、そういう子どもたちを振りかえってみると、改めて教育とは何か
を考えさせられる。

 問題のない子どもは、教えるのは、当然のことながら、楽。しかしそういう子どもというのは、
ただ通りすぎていくだけで、何も残らない。教育が教育であるのは、I君のような、問題のある子
どもを教えるところにある。またそういう子どもほど、人生のカギに強く、残る。ひかかる。そし
てそういう子どもを教えたという思い出が、充実感となって返ってくる。

 私は帰り際、K氏にこう言った。「今、ここで養護学級をつくり、その子どもだけをそこへ入れ
たとしても、子どもは感謝しないばかりか、学校をうらむようになるでしょうね。『自分のため』と
考える前に、『排除された』と感ずる。しかし教える側にとっても、それほど後味の悪い教育もな
い。私たちと違い、経営を心配しなくてもいい公立学校なのだから、もっと別の方法を考えたら
いかがでしょうか」と。

 生きる道は、決して一つではない。コースも、一つではない。同じように、幸福になる道も一つ
ではない。幸福になる道は、無数にある。だから一つの道からはずれたからといって、悲観し
たり、絶望したりする必要はない。劣等生、バンザーイ! 

【追記】

 子どもには、一芸をもたせましょう。その一芸が、子どもを光らせ、伸ばします。ただし一芸
は、つくるものではなく、見つけるもの。そして見つけたら、そこに集中的に、お金と時間をかけ
る。その思いきりのようさが、子どもの一芸を伸ばします。
(はやし浩司 一芸論 劣等性)




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13

●子どものストレス

 心と病気は、密接に関連している。そのよい例が、心身症である。

 心が恒常的にストレスを受けると、体は、さまざまな反応を示す。子どもによく見られる代表
的なものとして、胃潰瘍などの消化性潰瘍(かいよう)、摂食障害(過食、拒食症、食欲不振
症)、過敏性腸症候群、夜驚症、円形脱毛症などがある。
 
 こうした心身症は、大きく、(1)社会的、心理的ストレスが原因による、現実心身症と、(2)親
の冷淡、無視、拒否的育児姿勢などが原因による、性格心身症に分けて考える。福井県に住
んでいるAさん(母親)から、こんな相談があった。

 Aさんの兄夫婦の子ども(10歳男児)についての、相談である。

 「兄嫁が、人前ではおだやかなのですが、子どもを愛せないタイプの女性です。プライドが強
く、自分の思いどおりに子どもが行動しないと、子どもを叱ります。そのため、子どもは、ハキ
がなく。いつもオドオドしています。子どもなのに、もう何度も、胃潰瘍(かいよう)を起こして、病
院の世話になっています」と。

 こういうケースでは、生活環境を変えるのが、一番、よい。しかしそれは同時に、子どもを親
から引き離すことを意味する。しかし目立った虐待でもあれば話は別だが、そうでなければ、
実際には、むずかしい。

 で、つぎの方法としては、母親に、ことの重大さを理解してもらい、心身症について知ってもら
うことである。しかしAさんのメールによれば、「兄嫁は、『この子は、生まれつきそうで、私のせ
いではない』と言っています」とのこと。罪の意識そのものが、ない。

 こういうケースは、多い。親自身が、自分勝手でわがまま。自己中心的で独善的。「うちの子
どものことは、私が一番よく知っている」「私のしていることが一番正しい」と信じきっている。他
人の話を聞かない。言うなれば、自己愛者。完ぺき主義で、他人からの批判を許さない。

 Aさんがそれとなくその兄嫁に、「もう少し子どものしたいようにさせてあげたら」と言ったことも
あるという。しかしとたん、その兄嫁は、Aさんを避けるようになったという。そればかりか、こと
あるごとに、Aさんを嫌うようになったという。

 しかしこうなると、もう処置なし! こうした母親は、やがて底なしの悪循環に入り、行き着くと
ころまで、行く。が、そこで気がつけば、まだ、よいほう。たいていは、そういう状態になっても、
気がつかない。

 最近では、その兄嫁は、こう言っているという。「私は、この子を置いては、先に死ねません」
と。ちょっと聞くと、子ども思いのよい母親に見えるかもしれないが、その実、子どもの人格な
ど、みじんも考えていない。そうなる。

 世にいろいろな親はいるが、では、そういう親にならないためには、どうするか? 方法は、
簡単! 私のマガジンを読むこと! その一語に尽きる!
(はやし浩司 心身症 神経症 現実心身症 性格心身症)




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14
●不安の構造

 不安の構造の原点にあるのが、母親の喪失感であると説いたのは、あのフロイトである。つ
まり母親を失うことに対する不安が原型となって、その人の不安感をつくるというわけである。

 つまり喪失感と不安感は、いわばペアの関係にあると考えてよい。私たちは、つねに(失うこ
と)に対して、ある種の不安感を覚える。

 財産や名誉、地位にかぎらず、友人や家族などの人間関係。それに健康や命、など。そうい
うものをなくす段階で、そのつど、私たちは大きな不安感を覚える。

 もちろんその不安感には、強弱がある。個人差がある。同じような状況なのに、いつも不安
感に襲われる人もいれば、平気な人もいる。たとえば病気についても、何か、それまでになか
った症状を経験したりすると、極度の不安状態になる人がいる。心気症というのが、それであ
る。

 が、平気な人もいる。私のワイフなどは、その平気な人のほうに属する。「がんになっても、な
おせばいいのよ」と、平然と言ってのける。

 そのちがい、つまりこうした個人差は、いつごろ、どのようにして生まれるのか?

 フロイトは、それは、出産期にあると、説く。つまり出産と同時に、母親から分離する、その瞬
間にある、と。ナルホドと思う部分もあるし、「しかしその時期は、期間的に考えて、もう少し長
いのではないか」と思う部分もある。

 要するに、満ち足りた愛情に包まれ、心豊かな乳幼児期に恵まれれば、こうした不安感を軽
減できるということ。それは母子の間で結ばれる、「基本的信頼関係」とも、関連している。つま
りこの時期の、心の安定感が、その子どもの心の安定性を、生涯にわたって支配する。そうい
うふうに、考えることもできる。

 言うまでもなく、心の安定性は、情緒の安定性ともつながる。言いかえると、情緒の安定性
は、その乳幼児期までに決まるということになる。だからこの時期の母子関係は重要であると
書けば、どこか見えすいた結論になるが、しかし、事実は、その通りだと思う。

 子どもの心がつくられるのは、まさにこの時期、つまり出産直後から、数か月、あるいは1、2
年の間である。
(はやし浩司 不安 不安の構造 喪失感 心の安定性)





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15
●家族の絆(きずな)

●家族のきずな「弱くなっている」84%

 読売新聞社が実施した、「家族」に関する全国世論調査(面接方式)が、公表された(0501
02)。それによると、「今、大切なものとして『家族』と答えた人が。9割にのぼったものの、家族
のきずなやまとまりが『弱くなってきている』と思う人は、84%に達した」というのだ。

 読売新聞は、「家族への信頼が根強い反面、家族の多様化や社会環境の劣悪化の中で、
家族のあり方に不安を抱く人が増えているようだ」と分析している。

 1985年にも、同様の調査が行われたというが、それとくらべても、47%より、36ポイント減
で、家族のきずなが弱くなってきていると見る人が大幅にふえているという。

 家族のきずなが弱くなっていると思う要因(複数回答)については、

親の権威の低下……44%、が最も多かった。
少年犯罪の増加、離婚の増加、1人暮らし世帯の増加……いずれも40%だった。

 最近の家族関係の問題点を聞いたところ、「子供のしつけをきちんとできなくなってきている」
と思う人が87%に達したという。

また、「家族のまとめ役になる人がいなくなってきている」と思う人は70%、「家族の中で、お年
寄りを大事にしなくなってきている」と感じる人は64%を占めたという。

 一方、いま大切なものは何か(複数回答)では、「家族」90%がトップだった。いざというとき、
家族は頼りになるかでは、94%が「頼りになる」と回答したという。

仕事と家庭のどちらを優先的に考えるかでは、「家庭」75%が、「仕事」19%を大きく上回っ
た。

同じ質問をした81年の調査と比べ、「家庭」は、13ポイント増加した。

 理想とする家族構成では、「祖父母や孫が同居する大家族」が60%で、最も多く、「親と子供
だけの家族」は、27%だったという。
(以上、読売新聞から抜粋。)

++++++++++++++++++++++++

 もう少しわかりやすく言うと、日本人の90%が、「家族」が大切だと感じている反面、その家
族のあり方に不安をいだいているということになる。家族意識が高くなったが、それをどう形に
するか、その一歩手前で、日本人の多くが、とまどっているということになる。

 言いかえると、日本人は、今まで、あまりにも、「家族」を、ないがしろにしすぎてきた、というこ
とになる。たとえば私が学生時代のころは、あらゆる面において、仕事が第一。「家族か、仕事
か」と問われれば、だれしも迷わず、「仕事」と答えていた。

 問題は、ここにも書いたように、では、どうやってその家族を大切にするか、である。が、残念
なことに、私たちの頭の中には、その方法が、インプットされていない。家族を大切にする生活
がどのようなものであるかということさえ、本当のところ、何もわかっていない。

 ただ単に、毎日を享楽的に生きればよいということでもない。子どもに楽をさせるということで
もない。みながみな、ほしいものを手に入れれば、それでよいということでもない。

 家族を大切にするということは、たがいに助けあい、励ましあい、教えあい、守りあい、支えあ
うことをいう。もっと言えば、一人ひとりが、一個の人間として、たがいに尊重しあい、認めあう
ことをいう。

 ここで読売新聞は、「親の権威」という言葉を使っている。しかし、これこそ、まさに時代錯誤。
親の権威が弱くなったから、家族がバラバラになったのではない。またそれがないから、不安
になっているのでもない。

 権威で家族をまとめる時代は、もうとっくの昔に終わった。しかしその権威にかわるものが、
まだ育っていない。そういう意味では、日本人が今もち始めている家族意識は、未発達の段階
にあるとみてよい。

 この問題は、これからも考えていきたい。






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16
●育児のコツ


●音読と黙読は違う

 小学三年生くらいになると、読解力のあるなしが、はっきりしてくる。

たとえば算数の文章題。読解力のない子どもは、問題を読みきれない、読みまちがえる、な
ど。あちこちの数字を集めて、めちゃめちゃな式を書いたりする。親は「どうしてうちの子は、問
題をよく読まないのでしょう」とか、「そそっかしくて困ります」とか言うが、ことはそんな簡単なこ
とではない。

 話は少しそれるが、音読と、黙読とでは、脳の中でも使う部分がまったく違う。音読は、一度
自分の声で文章を読み、その音を聞いて文の内容を理解する。つまり左脳がそれをつかさど
る。一方黙読は文字を図形として認識し、その図形の意味を判断して文の内容を理解する。つ
まり右脳がそれをつかさどる。

音読ができるから黙読ができるとは限らない。ちなみに文字を覚えたての幼児は、黙読では文
を読むことができない。そんなわけで子どもが文字をある程度読むことができるようになった
ら、黙読の練習をさせるとよい。

方法は、「口をとじて本を読んでごらん」と指示する。ある研究団体の調査によれば、黙読にす
ると、小学校の低学年児で、約三〇%程度、読解力が落ちることが」わかっている(国立国語
研究所)。

 ではどうするか。もしあなたの子どもの読解力が心配なら、方法は二つある。一つは、あえて
音読をさせてみる。たとえば先の文章題でも、「声を出して問題を読んでごらん」と言って、問題
を声を出させて読ませてみる。読んだ段階で、たいていの子どもは、「わかった!」と言って、
問題を解くことができる。が、それでも効果があまりないときは、こうする。

問題そのものを、別の紙に書き写させる。子どもは文字(問題)を一度文字で書くことによっ
て、文字の内容を「音」ではなく、「形」として認識するようになる。少し時間はかかるが、黙読が
苦手な子どもには、もっとも効果的な方法である。

 読解力は、すべての科目に影響を与える。文章の読解力を訓練しただけで、国語はもちろん
のこと、算数や理科、社会の成績があがったということはよくある。決して軽くみてはいけない。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●計算力は早数えで

 計算力は、早数えで決まる。たとえば子ども(幼児)の前で手をパンパンと叩いてみせてほし
い。

早く数えることができる子どもは、五秒前後の間に、二〇回前後の音を数えることができる。そ
うでない子どもは、「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」と数えるため、どうしても遅くなる。

 そこで子どもが一〜三〇前後まで数えられるようになったら、早数えの練習をするとよい。最
初は、「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」でも、少し練習すると、「イチ、ニ、サン……」になり、さらに
「イ、ニ、サ……」となる。

さらに練習すると、ものを「ピッ、ピッ、ピッ……」と、信号にかえて数えることができるようにな
る。これを数の信号化という。こうなると、五秒足らずの間に、二〇個くらいのものを、瞬時に
数えることができるようになる。そしてこの力が、やがて、計算力の基礎となる。たとえば、「3
+2」というとき、頭の中で、「ピッ、ピッ、ピッ、と、ピッ、ピッで、5」と計算するなど。

 要するに計算力は、訓練でいくらでも早くなるということ。言いかえると、もし「うちの子は計算
が遅い」と感じたら、計算ドリルをさせるよりも先に、一度、早数えの練習をしてみるとよい。た
だし一言。

 計算力と算数の力は別物である。よく誤解されるが、計算力があるからといって、算数の力
があるということにはならない。たとえば小学一年生でも、神業にように早く、難しい足し算や引
き算をする子どもがいる。

親は「うちの子は頭がいい」と喜ぶが、(喜んで悪いというのではない)、それは少し待ってほし
い。計算力は訓練で伸びるが、算数の力を伸ばすのはそんな簡単なことではない。子どもとい
うのは、「取った、取られた」「ふえた、減った」「多い、少ない」「得をした、損をした」という日常
的な経験を通して、算数の力を養う。またそういう刺激が、子どもをして、算数ができる子ども
にする。そういう日常的な経験も忘れないように!(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.
jp/~hhayashi/)

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●はだし教育を大切に

 以前、動きがたいへんすばやい子ども(年長男児)がいた。ドッチボールをしても、いつも最
後まで残っていた。そこで母親に秘訣を聞くと、こう話してくれた。「乳幼児期は、ほとんど、は
だしで過ごしました。雨の日でもはだしだったので、近所の人に白い目で見られたこともありま
す」と。その子どもは二歳になるときには、うしろ向きにスキップして走ることができたそうだ。

 子どもの敏捷(びんしょう)さを養うには、はだしがよい。子どもというのは足の裏からの刺激
を受けて、その敏捷性を養う。反対に分厚い底の靴に、分厚い靴下をはいて、どうして敏捷性
を養うことができるというのか。

一つの目安として、階段をおりる様子を観察してみればよい。敏捷な子どもは、スタスタとリズ
ミカルに階段をおりることができる。そうでない子どもは、手すりにつかまって一段ずつ、恐る
恐るおりる。階段をリズムカルにおりられない子どもは、年中児で一〇人に一人はいる。

あるいは傾いた土地や、川原の石ころの間を歩かせてみればよい。敏捷な子どもは、ピョンピ
ョンと平気で飛び跳ねるようにして歩くことができる。そうでない子どもはそうでない。もしあなた
の子どもの敏捷性が心配なら、今日からでも遅くないから、はだしにするとよい。あるいはよく
ころぶ(※)とか、動作がどこか遅いというようなときも、はだしにするとよい。

(分厚い靴や分厚い靴下をはきなれた子どもは、はだしをいやがるが、そうであるならなおさ
ら、はだしにしてみる。)

 この敏捷性はあらゆる運動の基本になる。言い換えると、もともと敏捷さがあまりない子ども
に、あれこれ運動をさせてもあまり上達は望めない。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.
ne.jp/~hhayashi/)

(※……ころびやすい子どものばあい、敏捷性だけでは説明がつかないときもある。そういうと
きは歩く様子をまうしろから観察してみる。X脚になって足が互いにからむようであれば、一度
小児科のドクターに相談してみるとよい。)
 
【付記】

 この私の意見に対して、こう反論してきた人がいた。

 「アメリカ人は、生まれたときから、クツをはく。しかしみな、足が速い。クツをはかせるから、
運動能力が落ちるというのは、あんたの迷信だ」と。

 かわいそうな人である。私は、どこにも、「足が速くなる」とは、書いていない。「敏捷性がよく
なる」、つまり、「動きが機敏になる」と書いている。どうか、誤解のないように!

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●文字の前に運筆練習を

 文字を書くようになったら、(あるいはその少し前から)、子どもには運筆練習をさせるとよ
い。

一時期、幼児教育の世界では、ぬり絵を嫌う時期もあったが、今改めてぬり絵のよい点が見
なおされている。子どもはぬり絵をすることで、運筆能力を発達させる。ためしにあなたの子ど
もに丸(○)を描かせてみるとよい。

運筆能力の発達した子どもは、きれいな(スムーズな)丸を描く。そうでない子どもは多角形に
近い、ぎこちない丸を描く。言うまでもなく、文字は複雑な曲線が組み合わさってできている。そ
の曲線を描く力が、運筆能力ということになる。

またぬり絵でも、運筆能力の発達している子どもは、小さな四角や形を、縦線、横線、あるい
は曲線をうまく使ってぬりつぶすことができる。そうでない子どもは、横線なら横線だけで、無造
作なぬり方をする。

 ところでクレヨンと鉛筆のもち方は基本的に違う。クレヨンは、親指、人差し指、それに中指で
はさむようにしてもつ。鉛筆は、中指の横腹に鉛筆を置き、親指と人差し指で支えてもつ。鉛筆
をもつようになったら、一度、正しい(?)もち方を練習するとよい。

(とくに正しいもち方というのはないが、あまり変則的なもち方をしていると、長く使ったとき、手
がどうしても疲れやすくなる。)ちなみに年長児で約五〇%が鉛筆を正しく(?)もつことができ
る。残りの三〇%はクレヨンをもつようにして鉛筆をもつ。残りの二〇%は、それぞれたいへん
変則的な方法で鉛筆をもつ。

 さらに一言。一度あなた自身が鉛筆をもって線を描いてみてほしい。そのとき指や手、さらに
は腕がどのように変化するかを観察してみてほしい。たとえば横線は手首の運動だけで描くこ
とができる。しかし縦線は、指と手が複雑に連動しあってはじめて描くことができる。さらに曲線
は、もっと複雑な動きが必要となる。何でもないことのように思う人もいるかもしれないが、幼児
にとって曲線や円を描くことはたいへんな作業なのだ。

 「どうもうちの子は文字がへただ」と感じたら、紙と鉛筆をいつも子どものそばに置いてあげ、
自由に絵を描かせるようにするとよい。ぬり絵が効果的なことは、ここに書いたとおりである。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

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●頭をよくする方法

 もう一五年ほど前のことだが、アメリカの「サイエンス」という雑誌に、こんな論文が載った。
「ガムをかむと頭がよくなる」と。

この世界ではもっとも権威ある雑誌である。で、その話を母親たちの席で話すと、「では……」
と言って、それを実行する人が何人か出た。で、その結果だが、たとえばN君は、数年のうちに
本当に頭がよくなってしまった。I君もそうだった。これらの子どもは、年中児のときからかみ始
め、小学一、二年になるころには、はっきりとわかるほどその効果が表れてきた。

N君もI君も、幼稚園児のときは、ほとんど目立たない子どもだった。どこかボーッとしていて、
反応も鈍かった。が、小学二年生のころには、一〇人中、一、二番を争うほど、積極的な子ど
もになっていた。

 で、それからもこの方法を、私は何一〇人(あるいはそれ以上)もの子どもに試してきたが、
とくに次のような子どもに効果がある。どこか知恵の発育が遅れがちで、ぼんやりしているタイ
プの子ども。集中力がなく、とくに学習になると、ぼんやりとしてしまう子どもなど。

 ガムをかむことによって、あごの運動が脳神経によい刺激を与えるらしい。が、それだけでは
ない。この時期まだ昼寝グセが残っている子どもは多い。子どもによっては、昼ごろになると、
急速に集中力をなくしてしまい、ぼんやりとしてしまうことがある。が、ガムをかむことによって、
それをなおすことができる。五、六歳になってもまだ昼寝グセが残っているようなら、一度ガム
をかませてみるとよい。

 なおガムといっても、菓子ガムは避ける。また一つのガムを最低でも三〇分はかむように指
導する。とっかえひっかえガムをかむ子どもがいるが、今度は甘味料のとり過ぎを心配しなけ
ればならない。

息を大きく吸い込んだようなとき、大きなガムをのどにひっかけてしまうようなこともある。走っ
たり、騒いでいるようなときにはガムをかませないなどの指導も大切である。もちろんかんだガ
ムは、紙に包んでゴミ箱に入れるというマナーも守らせるようにしたい。(はやし浩司のサイト:
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●子どもに子どもの育て方を

 子どもに子どもの育て方、つまりあなたから見れば孫の育て方を教えるのが子育て。「あなた
がおとなになり親になったら、こういうふうに子どもを育てるのですよ」「こういうふうに子どもを
叱るのですよ」と。つまり子どもに子育ての見本を見せる。見せるだけでは足りない。しっかりと
体にしみこませておく。

 数年前だが、厚生省が発表した報告書に、こんなのがあった。「子育ては本能ではなく、学習
である」と。

つまり人間というのは(ほかの高度な動物もそうだが)、自分が親に育てられたという経験があ
ってはじめて、自分が親になったとき子育てができる。たとえば一般論として、人工飼育された
動物は、自分では子育てができない。人間はなおさらで、つまり子育てというのは、本能ででき
るのではなく、「学習」によってできるようになる。が、それだけではない。

もしあなたがあなたの子どもに将来、心豊かで温かい家庭を築いてほしいと願っているなら(当
然だが……)、今あなたはここで、心豊かで温かい家庭とはどういうものかを子どもに見せてお
かねばならない。あるいはそういう環境で子どもを包んであげる。さらに「父親とはこういうもの
です」「母親とはこういうものだ」と、その見本を見せておく。そういう経験が体にしみこんでいて
子どもははじめて、自分が親になったとき、自然な形で子育てができるようになる。

 そこで問題はあなた自身はどうだったかということ。あなたは心豊かで温かい家庭で育てら
れただろうか。もしそうならそれでよし。しかしそうでないなら、一度あなたの子育てを見なおし
てみたほうがよい。あなたの子育てはどこかぎこちないはずである。

たとえば極端に甘い親、極端にきびしい親、あるいは家庭をかえりみない親というのは、たい
てい不幸にして不幸な家庭に育った人とみてよい。つまりしっかりとした「親像」が入っていな
い。が、問題はそのことではなく、そのぎこちなさが、親子関係をゆがめ、さらにそのぎこちなさ
を次の世代に伝えてしまうこともある。しかしあなた自身がその「過去」に気づくだけで、それを
防ぐことができる。

まずいのはその「過去」に気づくことなく、それにいつまでも振り回されること。そしてそのぎこち
なさを次の世代に伝えてしまうことである。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~
hhayashi/)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●教えるより好きにさせる

 子どもに何かを教えるときは、「教えよう」という気持ちはおさえて、「好きにさせる」ことを考え
てする。あるいは「覚えたか」ではなく、「楽しんだか」を考えてする。

これを動機づけというが、その動機づけがうまくいくと、あとは子ども自身の力で伸びる。要は
そういう力をどのように引き出すかということ。たとえば文字学習についても、文字そのものを
教える前に、文字は楽しい、おもしろいということを子どもにわからせる。

まずいのは、たとえばトメ、ハネ、ハライ、さらには書き順や書体にこだわり、子どもから学習
意欲を奪ってしまうこと。私も少し前、テニススクールに通ったが、そこのコーチは、スタイルば
かりにこだわっていた。(私はストレス解消のため、思いっきりボールを叩きたかっただけだが
……。)おかげで私はすぐやる気をなくしてしまった。

 つぎに大切なことは、動機づけをしたら、あとは時の流れを待つ。イギリスの格言にも、「馬を
水場へ連れていくことはできても、水を飲ませることはできない」というのがある。最終的に「す
る、しない」は、子ども自身が決めるということ。

……と書くと、「それでは遅れてしまう。まにあわない」という人がいる。しかしそれが、子どもの
能力。よく親は「うちの子はやればできるはず」と言うが、「やる、やらない」も能力のうち。「や
ればできるはず」と思ったら、「やってここまで」と思い、あきらめる。このあきらめが親子の間
に風をとおす。親があせればあせるほど、その分だけ、子どもの伸びは鈍化する。いわんや子
どもを前にしてイライラしたら、子どもの勉強からは手を引く。

 好きにさせるということは、子どもに楽しませること。また幼児期や小学校の低学年時には、
あまり勉強を意識せず、「三〇分すわって、それらしきことを五分もすればじょうでき」と思うこ
と。またワークにしてもドリルにしても、半分はお絵かきになってもよい。勉強といっても、何も
作法があるわけではない。床に寝そべってするのもよし、ソファに座ってするのもよし。そのう
ち子ども自身がもっとも能率のよい方法をさがしだす。そういうおおらかさが子どもを伸ばす。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●笑えば伸びる

 子どもの心を開放させるもっとも効果的な方法は、笑わせること。何かおもしろいことがあっ
たとき、大声でゲラゲラ笑うことができる子どもに、心のゆがんだ子どもはまずいない。

しかし今、大声で笑えない子どもがふえている。年中児で一〇人のうち、一〜二人はいる。皆
が笑っているようなときでも、顔をそむけてクックッと苦しそうに笑うなど。親の威圧的な過干
渉、息の抜けない過関心が日常化すると、子どもの心は萎縮する。

 「ゆがむ」ということは、その子どもであって、その子どもでない部分があることをいう。たとえ
ば分離不安の子どもがいる。親の姿が見えるうちは、静かで穏やかな様子を見せるが、親の
姿が見えなくなったとたん、ギャーッとものすごい声をはりあげて、親のあとを追いかけたりす
る。

そういう子どもを観察してみると、その子ども自身の「意思」というよりは、もっと別の「力」によ
ってそう動かされているのがわかる。それがここでいう「その子どもであって、その子どもでない
部分」ということになる。そういう子どもの心を表す言葉としては、日本語にはつぎのようなもの
がある。ねたむ、ひねくれる、つっぱる、いじける、こだわる、すねるなど。そういった症状が見
られたら、子どもの心はどこかゆがんでいるとみてよい。

 私は幼児を教えるようになってもう三〇年になる。そういう経験の中で、私はいつも子どもを
笑わせることに心がけている。

だいたい一回の学習で、五〇分ほど教えるが、その五〇分間、ずっと笑わせつづけるというこ
ともある。とくに心のどこかに何らかのキズをもっている子どもにはこの方法は、たいへん有効
である。軽い情緒障害なら、数か月でその症状が消えることも多い。が、それだけではない。

子どもは笑うことにより、ものごとを前向きにとらえようとする。学習の動機づけには、たいへん
よい。英語の格言にも、「楽しく学ぶ子どもはよく学ぶ」というのがある。「楽しかった」という思
いが、子どもを伸ばす原動力になる。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi
/)





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17

●抑圧

 自分の心の奥深くに閉じ込められた(思い)、それを(抑圧)というが、その(抑圧)を知ること
は、たいへんむずかしい。自分自身が無意識のうちに、それを心の奥に閉じこめてしまってい
るからである。

 もしその(抑圧)が、表面に出てきたら、その緊張感から、精神状態は、きわめて不安定にな
る。それをやはり無意識のうちにも知っているからこそ、人は、同じく、無意識のうちにも、それ
を心の中に閉じこめようとする。(抑圧)は、いわば心の防衛機能(防衛機制)の一つということ
になる。

 この(抑圧)が、こわいところは、その無意識の世界で、その人の心をゆがめることがあると
いうこと。

 たとえば母親の異常なまでの過干渉とでき愛、それに代償的過保護(愛情に根ざさない過保
護)のもとで育った男性(30歳くらい)がいる。

 見た目には、穏かでやさしい。親切で柔和。しかし覇気(はき)がない。どこかナヨナヨしてい
る。だれにも反抗しない分だけ、しかし、奇行が目立つ。放火癖、盗癖、落書き癖など。ウソも
平気でつくし、約束も守れない。すべてが、(抑圧)と関係しているとは言えないが、心のゆがみ
は、その男性のように、さまざまな形で現れる。

 その表情とは裏腹に、いわゆる何を考えているかわからないといった表情をしてみせる。

 ……というようなことは極端な例としても、多かれ少なかれ、私たちの心の中には、何らかの
(抑圧)が潜んでいる。それを知ることは、自分を知ることにもなる。

 それは何か?

 一つの方法としては、まず自分自身の(ゆがみ)を知るというのがある。ひがみやすい、いじ
けやすい、つっぱりやすい、ねたみやすい、くじけやすいなど。そういう自分の(ゆがみ)を知っ
たら、それを手がかりに、原因は、どこにあるかをさぐる。

 それが(抑圧)を知る一つの方法ということになる。

 たとえば私は、若いころ、嫉妬しやすいタイプの男だった。好意を寄せている女の子が、ほか
の男と仲よく話しあっている姿を見ただけで、頭の中がパニック状態になったのを覚えている。

 私は、いつも、愛情飢餓の状態にあったと考えられる。つもりつもった欲求不満が、そういう
私をつくったとも考えられる。つまり(嫉妬深い)というのは、その背景に、愛情に対する飢餓感
があったためということになる。

 恐らく、……というよりまちがいなく、すなおな心をもっている人には、私が感じたような飢餓
感は、理解できないだろうと思う。恵まれた環境で、育てられた人である。しかしそういう人は、
この世の中に、一体、何%いるというのか。

 では、どうするか?

 こうした(抑圧)にせよ、ほかのさまざまな心の問題にせよ、それに気づくだけで、問題のほと
んどは、解決したとみる。あとは時間が解決してくれる。心のキズ(トラウマ)が大きければ大き
いほど、時間はかかるが、しかしそれでも時間が解決してくれる。

 あとは、静かに時の流れに身を任せればよい。あせってもしかたないし、私は私。あなたは
あなた。そういう(自分)を切りはなすことは、できない。あきらめて、受け入れ、あとは、静かに
そのときがやってくるのを、待つ。
(はやし浩司 抑圧 心の歪み 心のゆがみ 抑圧感 防衛機制)

(注)

 心理学で「抑圧」というときは、無意識下の抑圧をいう。たとえば目の前に、すてきな女性が
いて、あなたを誘惑したとする。そのとき、「私は誘惑にはのらないぞ」と、自分を抑制すること
は、「抑圧」とは言わない。そこに意識の力が働くからである。

 ここでいう「抑圧」というのは、あくまでも無意識下の意識をいう。だから本人がそれを意識的
に自覚することは、ない。




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18
●依存性

 その人の依存性は、無意識のうちにも、言葉となって表れる。たとえばよく知られた例に、(だ
から、何とかしてくれ)言葉がある。

 おなかがすいたときでも、具体的に、「〜〜が食べたい」「食事の用意をしてほしい」とは言わ
ない。「腹、減ったア。(だから何とかしてくれ)」と、言う。あるいは、「寒い。(だから何とかしてく
れ)」「眠い。(だから何とかしてくれ)」「退屈だ。(だから何とかしてくれ)」と。

 もう少し高度になると、こういう言い方をするようになる。

 もう亡くなったが、一人の伯父は、いつも、口ぐせのようにこう言っていた。「ワシも、年をとっ
たからね」と。彼もまた、言外で、「だから、オレを大切にせよ」と言っていた。

 さらにこんなことを言う女性がいた。そのとき50歳くらいだっただろうか。いっしょに食事をし
ているときも、「私は、中学生のとき、胃が悪くて、ずっと入院をしていました」と。

 最初は、その意味がよくわからなかったが、そのうち、わかった。その女性は、「だから、私に
は、へんなものを食べさせるな」と言いたかったのだ。

 こうした依存性は、しかし日本人に広く共通して見られる現象である。いつも心のどこかで、
「だれかが、何とかしてくれるだろう」というような考え方をする。近隣の問題についてもそうだ
し、国際問題についても、そうである。

 その原因をたどれば、長くつづいた、あの封建時代がある。今のK国の人たちのように、日
本人は、自ら考え、自ら立ちあがる力を、骨のズイまで抜かれてしまった! たとえば「自由」
「平等」という意味でさえ、本当のところは、何もわかっていないのではないだろうか。いや、そ
の「自由」は「平等(?)」にしても、本当のところは、自分たちで得たものというよりは、アメリカ
によって、与えられたものにすぎなかった。

 ところでたまたま昨日、こんな会話を耳にした。60〜65歳前後の女性たちの会話である。

女A「おなかがすきましたね……」
女B「もう12時になりますね……」
女C「どうしましょう?」
女D「どうしましょうか……?」と。

 それぞれが、だれかが「食事をしましょう」「レストランへ行きましょう」と言い出すのを待ってい
るといった感じである。しかしそれを口にした人が、食事代を負担しなければならない(?)。だ
から自分では言い出せず、だれかにそれを言わせようとしていた(?)。

 少し考えすぎかもしれないが、私は、会話の雰囲気から、そんな印象をもった。

 こうした依存性は、日本人独特のもので、日本に住んでいると、それがわからない。外国の
家庭などでは、そういう言い方をしても通用しない。へたに、「I am hungry.」(おなかがすいた)
などと言おうものなら、「Then what?」(だから、どうなの?)とやり返される。

 内容が少しダブるが、以前書いた原稿を、2作、添付する。
(050106)

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●依存心

 依存心の強い子どもは、独特の話し方をする。おなかがすいても、「○○を食べたい」とは言
わない。「おなかが、すいたア〜」と言う。言外に、(だから何とかしろ)と、相手に要求する。

 おとなでも、依存心の強い人はいくらでもいる。ある女性(67歳)は、だれかに電話をするた
びに、「私も、年をとったからネエ〜」を口グセにしている。このばあいも、言外に、(だから何と
かしろ)と、相手に要求していることになる。

 依存性の強い人は、いつも心のどこかで、だれかに何かをしてもらうのを、待っている。そう
いう生きざまが、すべての面に渡っているので、独特の考え方をするようになる。つい先日も、
ある女性(60歳)と、北朝鮮について話しあったが、その女性は、こう言った。「そのときになっ
たら、アメリカが何とかしてくれますよ」と。

 自立した人間どうしが、助けあうのは、「助けあい」という。しかし依存心の強い人間どうしが、
助けあうのは、「助けあい」とは言わない。「なぐさめあい」という。

一見、なごやかな世界に見えるかもしれないが、おたがいに心の弱さを、なぐさめあっているだ
け。

総じて言えば、日本人がもつ、独特の「邑(むら)意識」や「邑社会」というのは、その依存性が
結集したものとみてよい。「長いものには巻かれろ」「みんなで渡ればこわくない」「ほかの人と
違ったことをしていると嫌われる」「世間体が悪い」「世間が笑う」など。こうした世界では、好ん
で使われる言葉である。

 こうした依存性の強い人を見分けるのは、それほどむずかしいことではない。

●してもらうのが、当然……「してもらうのが当然」「助けてもらうのが当然」と考える。あるいは
相手を、そういう方向に誘導していく。よい人ぶったり、それを演じたり、あるいは同情を買った
りする。「〜〜してあげたから、〜〜してくれるハズ」「〜〜してあげたから、感謝しているハズ」
と、「ハズ論」で行動することが多い。

●自分では何もしない……自分から、積極的に何かをしていくというよりは、相手が何かをして
くれるのを、待つ。あるいは自分にとって、居心地のよい世界を好んで求める。それ以外の世
界には、同化できない。人間関係も、敵をつくらないことだけを考える。ものごとを、ナーナーで
すまそうとする。

●子育てに反映される……依存性の強い人は、子どもが自分に対して依存性をもつことに、ど
うしても甘くなる。そして依存性が強く、ベタベタと親に甘える子どもを、かわいい子イコール、で
きのよい子と位置づける。

●親孝行を必要以上に美化する……このタイプの人は、自分の依存性(あるいはマザコン
性、ファザコン性)を正当化するため、必要以上に、親孝行を美化する。親に対して犠牲的で
あればあるほど、美徳と考える。しかし脳のCPUがズレているため、自分でそれに気づくこと
は、まずない。だれかが親の批判でもしようものなら、猛烈にそれに反発したりする。

依存性の強い社会は、ある意味で、温もりのある居心地のよい世界かもしれない。しかし今、
日本人に一番欠けている部分は何かと言われれば、「個の確立」。個人が個人として確立して
いない。

あるいは個性的な生き方をすることを、許さない。いまだに戦前、あるいは封建時代の全体主
義的な要素を、あちこちで引きずっている。そしてこうした国民性が、外の世界からみて、日本
や日本人を、実にわかりにくいものにしている。つまりいつまでたっても、日本人が国際人の仲
間に入れない本当の理由は、ここにある。
(03−1−2)

●人情は依存性を歓迎し、義理は人々を依存的な関係に縛る。義理人情が支配的なモラルで
ある日本の社会は、かくして甘えの弥慢化した世界であった。(土居健郎「甘えの構造」の一
節)

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●日本人の依存性

 日本人が本来的にもつ依存心は、脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、日本人がそれ
に気づくには、自らを一度、日本の外に置かねばならない。それはちょうどキアヌ・リーブズが
主演した映画『マトリックス』の世界に似ている。

その世界にどっぷりと住んでいるから、自分が仮想現実の世界に住んでいることにすら気づか
ない……。

 子どもでもおなかがすいて、何か食べたいときでも、「食べたい」とは言わない。「おなかがす
いたア、(だから何とかしてくれ)」と言う。子どもだけではない。私の叔母などは、もう40歳のと
きから私に、「おばちゃん(自分)も、歳をとったでナ。(だから何とかしてくれ)」と言っていた。

 こうした依存性は国民的なもので、この日本では、おとなも子どもも、男も女も、社会も国民
も、それぞれが相互に依存しあっている。

こうした構造的な国民性を、「甘えの構造」と呼んだ人もいる(土居健郎)。たとえば海外へ移住
した日本人は、すぐリトル東京をつくって、相互に依存しあう。そしてそこで生まれた子ども(二
世)や孫(三世)は、いつまでたっても、自らを「日系人」と呼んでいる。依存性が強い分だけ、
その社会に同化できない。

 もちろん親子関係もそうだ。この日本では親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子
とし、そのかわいい子イコール、よい子とする。

反対に独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、親不孝者とか、鬼っ子と言って嫌う。そ
してそれと同時進行の形で、親は子どもに対して、「産んでやった」「育ててやった」と依存し、
子どもは子どもで「産んでもらった」「育ててもらった」と依存する。

こうした日本人独特の国民性が、いつどのようにしてできたかについては、また別のところで話
すとして、しかし今、その依存性が大きく音をたてて崩れ始めている。

イタリアにいる友人が、こんなメールを送ってくれた。いわく、「ローマにやってくる日本人は、大
きく二つに分けることができる。旗を先頭にゾロゾロとやってくる日本人。年配の人が多い。もう
一つは小さなグループで好き勝手に動き回る日本人。茶髪の若者が多い」と。

 今、この日本は、旧態の価値観から、よりグローバル化した新しい価値観への移行期にある
とみてよい。フランス革命のような派手な革命ではないが、しかし革命というにふさわしいほど
の転換期とみてよい。それがよいのか悪いのか、あるいはどういう社会がつぎにやってくるの
かは別にして、今という時代は、そういう視点でみないと理解できない時代であることも事実の
ようだ。

あなたの親子関係を考える一つのヒントとして、この問題を考えてみてほしい。
(はやし浩司 依存性 依存心 甘えの構造 日本人の依存性 依存 だから何とかしてくれ言
葉)




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19
●カルト

●カルト(狂信的宗教団体)に気をつけよう!

 人間の脳ミソには、エアーポケットのような部分がある。うっかりとそのポケットに入ってしまう
と、知性や理性が、吹き飛んでしまう。常識まで、吹き飛んでしまう。

 しかし心も、ふつうの状態なら、判断力も、正常に働く。「おかしいものは、おかしい」と判断す
る。しかし不安状態や、大きな心配ごとをかかえたりすると、このエアーポケットの中に、落ちて
しまう。

 私は、今まで、そういう人を何人か見てきた。

 カルトを信仰する人だから、そういう人というのは、それなりに、「?」な人と思いがちである。
しかし実際には、ごくふつうの人。そのごくふつうの人が、ふつうの生活をしていて、何かのきっ
かけで、そういうポケットにハマってしまう。そしてわけのわからないことや、とんでもないことを
しながら、それを疑問にすら、思わなくなってしまう。

 どこのどの団体が、そのカルトであるとは、ここには、書けない。しかしもし今、あなたに常識
があるなら、どこのどの団体が、そのカルトであるか、わかるはず。

 鉄則は、そういうカルトには、近づかないこと。大切なことは、ごくふつうの人間として、ふつう
の生活をしながら、その中で、自分の常識をみがいていくこと。音楽を聞いたり、ドライブに行
ったり、映画を見たりしながら、常識をみがいていくこと。

 おかしな修行をしなければ、真理にたどりつけないとか、そういうことを主張する団体は、た
いていカルトと思って、まちがいない。

 仮に修行というものがあるとするなら、それは日常の生活の中で、ごく日常的にするもの。懸
命に(現実社会)で生きながら、するもの。そしてここが重要だが、自分の頭で、自分で考えな
がら、するもの。そういう習慣が、その人の常識力を高める。

 で、あの世はあるのか。それとも、ないのか。私にはそれがわからない。しかし今は、「ない」
という前提で、私は生きている。死んでみて、あればもうけもの。そういう前提で生きている。あ
るかないか、わからないものをアテにして、今の世の中を生きることは、私には、できない。

 言い忘れたが、カルトは、こうしたあるかないか、わからないものを前提にして、その上で、今
の生き方を決めようとする。しかし、だ。

 もし死んでみて、あの世がなかったとしたら……。それこそ、自分の命をムダにすることにな
るのではないか。

 さあ、あなたも、勇気を出して、常識を信じよう。あなた自身の中の常識を信じよう。そしてそ
の常識をいつもみがき、あとはその常識に従って生きていこう。

 おかしいものは、おかしいと思えばよい。
 すばらしいものは、すばらしいと思えばよい。
 それが常識である。

+++++++++++++++++++++++

子どもたちへ

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。

(詩集「はやし浩司・子どもたちへ」より)

+++++++++++++++++++++++++++

●カルト(2)

 私がカルトに興味をもったのは、生徒の母親の1人が、それに入信したからである。詳しくは
書けないが、ある時期を境に、その母親は、おかしなことを言い出した。そしてその時期から、
さかんに私に、入信を勧めるようになった。

 その母親は、ごくふつうの、どこにでもいるような、つまりは見た目には、常識豊かな女性に
見えた。しかしそんな母親でも、一度、カルトに染まると、ふつうでなくなってしまう(?)。

 私なりにその母親を説得してみたが、その当時の私の力では、どうにもならなかった。やがて
その母親は、夫とは別居状態になった。が、離婚はしなかった。その教団では、離婚を、きびし
く戒(いまし)めている。しかし結末は、もっと悲惨だった。その母親の夫、つまりその生徒の父
親は、それからまもなく、くも膜下出血で死んでしまった。夫が、43歳のときのことだった。

 私はその若さから、その背後に、壮絶な家庭内宗教戦争があったことを感じた。
 
 つぎに私がカルトに興味をもったのは、学生時代の友人が、同じ教団に入信したからであ
る。その友人は、同窓会には顔を出さず、ある日突然、同窓会の席へ、聖書を送り届けてき
た。分厚い聖書である。

その教団では、信者どうしのつきあい以外を、きびしく制限している。そのこともあって、(多
分?)、聖書を送り届けてきたのだろう。その友人は、学生時代は、それこそ、ごくふつうの人
だったから、私が受けた衝撃は、大きかった。

 以来、私は、あちこちの場で、こうしたカルトと戦ってきた。そのたびに、そうした教団の人た
ちからは、「今に、お前は、地獄で体を焼かれる」とか、「バチが当たる」とか言って脅された。
近所で、「あの林一家は、みな、頭が狂っている」と言いふらされたこともある。多いときには、
20人前後の大抗議団が、私の家に押し寄せてきたこともある。

 一時は、命の危険を感じたこともあるが、それから約17年。今でも、私とワイフは、平穏無事
な生活を楽しんでいる。彼らが口汚く脅したようなバチは、起きていない。

 そのかわりというか、私は、こうした一連の戦いを通して、「勇気」をもらった。何を書いても、
こわいものがなくなった。

 こうした原稿についても、私は実名で書いている。「はやし浩司」という実名である。それにつ
いて、「何か、いやがらせをされませんか?」と心配してくれる人もいる。実際、グーグルなどの
検索で調べてみると、私のことを悪く書いているサイトもないわけではない。しかしいちいちそ
んなことを気にしていたら、こうした評論活動はできない。

 私にいやがらせをしたら、その何十倍も、お返ししてやる! ……実際には、そういう目的の
ために、原稿を書いたことはないが、その余力は、じゅうぶん、ある。私は、そういう連中は、
相手にしていないだけ。

 で、こうしたカルトと戦い、その餌食(えじき)にならないためには、自分の中の、常識力をみ
がくこと。ごくふつうの人間としての、常識力である。

 それが自分なりの戦い(雑誌社への無数の原稿の寄稿と、5冊の本)で得た、私なりの結論
ということになる。




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20
●自閉症の子ども

●自閉症の子どもと話す

 昨日(05年1月x日)、自閉症の子どもと話す。1時間ほど、教室の一角で対峙して話す。

 子ども……中学1年生、男子。しかし学校には、ほとんど行っていない。

 軽い知恵遅れと、親の過保護、でき愛、それに過干渉による、性格のゆがみを感ずる。全体
に、オドオドとし、萎縮している感じがした。

私「この本の名前を知っているかな?」
子「ぼくだけが、ゲームをもっていない」
私「ううん、そうじゃなくて、この本の名前を知っているかな?」
子「ぼくだけ、ゲームをもっていないから、みんなからバカにされる」と。

 会話全体が、どうもうまく、かみ合わない。

 横に母親がいた。母親の話では、虫には特別の興味と関心があるという。そこで虫の話をす
る。

私「カブトムシにも、いろいろいるよね」
子「カブトムシにも、いろいろあるよね」
私「アトラスオオカブトって、知っている?」
子「アトラスオオカブト、コーカサスオオカブト、ディディエールシカ……」と。

 その子どものばあい、特徴的なのは、会話がかみあわないことに合わせて、つぎのことが観
察された。つまり自閉症といっても、症状は一様ではない。

(1)自分につごうの悪い話になると、会話をそらせてしまう。
(2)私の指示には、一応返事はするものの、返事だけで、指示を無視する。
(3)自分の関心のあることについては、おかまいなしに、一方的に話しかけてくる。
(4)約束が守れない。判断力、現実検証能力、自己管理能力が劣っている。

 私が母親と話している間も、ソワソワと、どこか落ちつきがない。母親が、「さっき、そちらへ
行ってはだめと言ったでしょ!」と強くたしなめると、また、「ゲームをもっていないのは、ぼくだ
け」と、どこかトンチンカンな返事をする。

 そこで母親が、「そちらへ行ってはだめ」と強く言うと、「わかった」と答えるものの、その直後
には、またそちらへ行ってしまう。

 そして私と母親が話していると、そこへやってきて、「小学校に2年生のとき、友だちにたたか
れた」「ぼくは、走って逃げた」「友だちにたたかれた」「走って逃げた」と、同じ話を何度も繰り
かえす。

 母親が、「少し静かにしていてね」と何度もたしなめるが、ほとんど、効果がない。そこで母親
は、バッグから、小さな虫図鑑の本を渡す。ボロボロになっていた。「これをもたせると、静かに
なります」と、母親は言った。

 30分ほど、母親と話すが、中学生については、私には、指導経験がほとんど、ない。母親は
必死だったが、私としては、どうしようもない。その無力感を覚える。

 別れるとき、母親はこう言った。

 「最初は、自閉症とわからず、無理をしました。子どものころ、叱ってばかりいました。自閉症
とわかっていれば、無理をしなかったでしょう。うちの子には、かわいそうなことをしてしまいまし
た」と。

 その子どもが、オドオドとしているのは、そのためだと、母親は弁解した。
(はやし浩司 自閉症の症状 自閉症 症状)





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21
●現実検証能力

 (自分のおかれた立場)を、客観的に判断する能力のことを、現実検証能力という。しかし実
際には、現実検証能力というのは、してよいことと悪いことの判断、それができるかできないか
を見きわめる能力のことをいう。

 してよいことと悪いことの判断は、その結果として、つまり自分の立場が客観的にわかるよう
になれば、自然にできるようになる。とくに子どもの世界においては、そうである。

 だから一般的には、現実検証能力のない子どもというのは、ものの考え方が自己中心的で、
その分だけ、人格の完成度が低い。わがままで、自分勝手。自己管理能力も低いので、たとえ
ば病院の待合室など、騒いではいけないような場所でも、平気で騒いだりする。

 ……しかし、これは何も、子どもの世界だけの問題ではない。そのままおとなの世界の問題
でもある。

 まず、(私はどういう立場にいるのか)、つづいて(他人から見ると、どういう立場にあるのか)
ということを、客観的に判断していく。つまりそれがあってはじめて、そこから(自己管理)が、で
きるようになる。

 そういう意味では、現実検証能力と自己管理能力は、ペアの関係にあるといってもよい。どち
らか一方が欠けているとわかったら、もう一方を補充する。いろいろな例がある。子どもを例
に、考えてみる。

 こんな子どもがいた。小学3年生の男児だった。

 その子どもの祖父がなくなった。その通夜の席でのこと。その子どもは、たくさんの弔問客が
来たことに興奮して、ワイワイと騒いでいた。それまでかわいがってくれた祖父である。さぞかし
悲しんでいることだろうとみな、思っていた。しかしその子どもは、どこか、楽しそうだった。

 またこんな例も。

 参観授業のとき。その子ども(年長・女児)は、突然、こう叫んだ。「私のママのオッパイは、右
のほうが大きい。左は、小さい!」と。

 こういう例で共通してみられることは、自己管理能力の不足である。してよいこと、悪いこと。
言ってよいこと、悪いことの判断ができない。しかも、場所が場所である。

 原因の多くは、親の過干渉、過関心。子ども自身に、静かに考えるという習慣がない。親が、
いつも子どもをガミガミと叱りつづけているといったふう。親子のリズムが、まるで合っていな
い。

 そこで重要なことは、少し話が飛躍するが、現実検証能力にせよ、自己管理能力にせよ、重
要なことは、自分で考えることということになる。その習慣を、自分で身につける。わかりやすく
言えば、人格の完成度は、自ら考える力によってのみ、求められるということになる。

 人に言われて、完成するものではない。
 人に教えられて、完成するものではない。
 いわんや、おかしな修行をしたり、意味のわからない念仏や題目を唱えて、完成するもので
もない。神様や仏様に祈ったからといって、完成するものでもない。

 自分の力で、自分の頭で、ごくふつうの生活をしながら、その中で考える。その習慣が、その
人を完成させる。仮に信仰するとしても、それは教えによってするものであり、霊力に頼ってす
るものではない。

 ただ、私も含めて、人間の力には、限界がある。未熟で、未完成。まさに、「か弱いアシ」(パ
スカル「パンセ」)でしかない。しかしだからといって、ここであきらめてはいけない。病気にして
も、すべてを治せるわけではない。政治にしても、この世の中から、すべての悲しみや苦しみ
を、なくせるわけではない。

 しかし人間は、やっと自分の足で立ち始めた。歩き始めた。つまりそこに人間が人間である
意味がある。尊さがある。

 かく言う私も、本当のところ、自信がない。あの中村光夫(戦後を代表する哲学者)にしても、
晩年の最後は、奥さんの手引きで、キリスト教に入信したという。そういう例は少なくないし、私
だけが例外ということは、ありえない。むしろ私は、平均的な人とくらべても、精神的に弱い。情
緒も不安定。

 しかし私は、できるところまでがんばってみる。ふんばってみる。

 話が大きく脱線してしまったが、子どもにしても、懸命に考えながら行動している子どもは、美
しい。輝いている。しかし言われるまま、また考えることもないまま、いい子にしている子ども
は、どこか不気味ですらある。

一見、いい子だが、自己管理能力もないし、現実検証能力もない。ときどきとんでもない問題を
起こす子どもというのは、たいていこのタイプの子どもと考えてよい。

 つまりは、子どもを育てるということは、その自ら考える子どもにすることである。考える習慣
のある子どもにすることである。それがひいては、心豊かで、常識のある人間に育てる。
(はやし浩司 現実検証能力 自己管理 自己管理能力)
 
++++++++++++++++++++++++

以前書いた原稿を、少し手なおしして、添付しておきます。
どうか、参考にしてください。

++++++++++++++++++++++++

●「夢」論

 「夢」という言葉は、もともとあいまいな言葉である。「空想」「希望」という意味もある。英語で
は、「ドリーム」というが、日本語と同じように使うときもある。

あのキング牧師(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア、黒人の公民権運動の指導者)も、「I
 have a dream……(私は夢をもっている……)」という有名な演説を残している(六三年八
月、リンカーン記念堂前で)。

 しかし子どものばあい、「夢」と「現実」は区別する。イギリスの教育格言にも、『子どもが空中
の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせてはいけない』というのがある。つまり
空想するのはよいが、それに子どもがハマるようであれば、注意せよ、と。

 そこで調べてみると、いろいろな思想家も、夢について論じているのがわかる。その中でも近
代思想の基礎をつくった、ジューベル(一七五四〜一八二四、フランスの哲学者)は、『パンセ』
の中で、つぎのように書いている。

 『学識なくして空想(夢)をもつものは、翼をもっているが、足をもっていない』
 『空想(夢)は魂の眠りである』と。

 これを子どもの世界に当てはめて考えてみると、つぎのようになる。

 子どもというのは、満四・五歳前後から急速に、理屈ぽくなる。「なぜ、どうして?」という会話
がふえるのもこのころである。

つまりこの時期をとおして、子どもは、「論理」を学ぶ。A=B、B=C、だからA=Cと。言いかえ
ると、この時期の接し方が、その子どものものの考え方に、大きな影響を与える。この時期に、
ものの考え方が論理的になった子どもは、以後、ずっと論理的なものの考え方をするようにな
るし、そうでない子どもは、そうでない。

 ジューベルがいう「足」というのは、「論理」と考えてよい。日本語でも、現実離れしていること
を、「地に足がついていない」と言う。「現実」と「論理」というのは、車の両輪のようなもの。現実
的なものは、論理的だし、論理的なものは、現実的である。つまりジューベルも、空想するのは
その人の勝手だが、学識のない人がする空想は、論理的ではないと言っている。

 子どもでもそうで、超能力だの、魔術だのと言っている子どもほど、非現実的なものの考え方
をする傾向が強い。少し前だが、教室の窓から、遠くのビルをながめながら、一心にわけのわ
からない呪文を唱えている中学生(男子)がいた。そこで私が、「何をしているのか?」と声をか
けると、「先生、ぼくは超能力で、あのビルを爆破してみたい」と。

 しかしこうした「足のない空想」は、子どもにとっては、危険ですらある。論理がないというだけ
ならまだしも、架空の論理をつくりあげてしまうことがある。

よい例が、今にみるカルト教団である。死んだ人間を生きていると主張し、その死体がミイラ化
しても、まだ生きていると言い張った教団があった。あるいは教祖の髪の毛を煎じて飲んでい
る教団もあった。はたから見れば、実に非論理的な世界だが、それにハマった人には、それが
わからない。いわんや、子どもをや!

 そこでジューベルは、『空想は魂の眠りである』と言い切った。足のない空想にふければふけ
るほど、魂は眠ってしまうということ。それをもう少し常識的に考えると、こうなる。

人間が人間であるのは、考えるからである。パスカル(一六二三〜六二、フランスの哲学者)も
そう言っている。『思考が人間の偉大さをなす』(「パンセ」)と。

わかりやすく言えば、思考するから人間である。「生きる」意味もそこから生まれる。もし人間が
思考することをやめてしまったら、その人、つまりその人、つまり魂は死んだことになる。空想
は、その魂を殺すところまではしないが、眠らせてしまう、と。

 たとえばもし、私が、今ここで、今日のことが不安だからといって、星占いに頼ったら、どうな
るか。何かの事故にあわないようにと、何かのまじないをしたらどうなるか。多分、その時点
で、私は考えることをやめてしまうだろう。が、それは同時に、自分自身への敗北でもある。さ
らにほとんどのことを、占いやまじないに頼るようになれば、自分自身を否定することにもなり
かねない。そのためにも、魂は眠らせてはいけない。そのためにも、足のない空想はしてはい
けない。

 さて、子どもの「夢」に話をもどす。子どもが空想の世界に自分をおき、あれこれまったく違っ
た角度から、自分の世界を見ることは、まちがってはいない。しかしその前提として、「論理」が
なければならない。「学識」でもよい。それがないと、どこからどこまでが現実で、どこから先が
空想なのか、それがわからなくなってしまう。それは子どもの世界としては、たいへんまずい。

ものごとを論理的に考えられなくなるだけではなく、先にも書いたように、自らを空想の世界
へ、追いこんでしまうこともある。そして結果として、わけのわからないことを言いだす。こんな
子ども(小五女児)がいた。

 私がある日、ふと、「頭が痛い」と言うと、「じゃあ、先生、なおしてあげる」と。肩でもたたいてく
れるのかと思っていたら、そうではなく、じっと目を閉じて、手のひらを私にかざし始めた。「そ
れは何?」と聞くと、「だまっていて。だまっていないと、パワーが集中できない」と。

あとで聞くと、そうして手をかざすと、どんな病気でもなおるというのだが、私はそうは思わなか
った。だから、「そんなのだったら、いい」と言うと、「先生は、バチが当たって、もっと頭が痛くな
る」と、今度は私をおどした。

子どもが空想(夢)の世界にハマるようであれば、逆に、「なぜ、どうして」を繰り返しながら、子
どもを現実の世界に引きもどすようにする。その時期は、早ければ早いほど、よい。年齢的に
は、小学一、二年生ごろまでではないか。それ以後は、自意識が強くなり、なおすのがむずか
しくなる。
(02−11−26)

●空想するのは子どもの自由だが、子どもがその世界にハマるようなら注意せよ。

(追記)
 あなたも思いきって、迷信を捨ててみよう。占いや、まじないを、捨ててみよう。勇気を出し
て、捨ててみよう。そんなものに支配されてはいけない。そんなものをあてにしてはいけない。
あなたは、どこまでいっても、あなたなのだ。あなたは自分の人生を、自分で生きるのだ。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


【迷信】

●非現実的な世界

 占いや、まじないは、タバコのようなものではないか。なければないですむが、しかしそれを
信じている人には、そうでない。それがないと、一日の生活が成りたたないという人も多い。
 
当然だが、その占いや、まじないには、論理がない。論理がないから、反論のしようがない。な
いが、あえて、反論してみる。

【カルト的自己中心性】

 占いやまじないを信ずる人に共通するのは、カルト的自己中心性。自分が世界の中心にい
ると錯覚する。排他的にそれを信ずるから、「カルト的」という。そのため、ほかの人はともかく
も、自分だけは、もろもろの未知のパワーに支配されている、特別な存在と錯覚する。何かの
宗教を信じているにせよ、しないにせよ、神や仏は、自分にだけは特別に関心をもっていると
思い込む。その思い込みが強い分だけ、要するに自分だけは、ほかの人とは違うと錯覚する。

【思考の空洞化】
 
占いやまじないに身を寄せることで、自ら考えることを放棄する。そして一度、自分の頭の中
を、カラッポ(思考の空洞化)にしてしまう。考えることをやめることで、自ら、この状態をつくる。
そして自分の頭の中に、他人の思想を注入する。このタイプの人は、一見、もっともらしいこと
を口にするが、すべて、他人、もしくは指導者の受け売り。英語の言い方を借りるなら、「ノーブ
レイン(脳ミソなし)」の状態になる。

【狂信性】

 占いやまじないを狂信していても、たいていの人は、自分では、狂信している自覚がほとん
ど、ない。狂信性があらわれるのは、それが否定されたとき。あるいは占いやまじないが、自
分にとってはマイナスに向いたとき。人によっては、狂乱状態になることがある。狂信性が強け
れば強いほど、そうなる。

占いやまじないを信ずる人は、それによって利益を受けることよりも、自分にとって不利益なこ
とが起きることを恐れる。占いで「凶」と出ただけで、その日一日を、ビクビクして過ごす人は、
いくらでもいる。

【排他性】

「自分が絶対、正しい」と思い、その返す刀で、相手に向かっては、「あなたはまちがっている」
と言う。そして自分が住むカプセルのカラをますます厚くし、その分だけ、人の話に耳を傾けな
くなる。そして、独自の理論を、勝手にどんどんと組み立ててしまう。

たとえば血液型による性格診断がある。「あなたはA型人間ね。私はO型人間よ」と。いまだに
こんな迷信が、この日本では、大手を振ってまかりとおっている。(もともとは戦後、どこかの医
者が、だじゃれで書いた本が、もとになっている。たいした迷信ではないが、ほとんどの日本人
が信じているから、無視もできない。)で、話を聞くと、実にこまかいところまで、ああでもない、
こうでもないと説明する。

●ある会社の社長のケース 

ある男性(四三歳・会社社長)は、何か重大なことがあると、近くの神社へでかけていき、そこ
で神主にどうすべきかを決めてもらっていた。家族の冠婚葬祭はもちろん、家の改築、車の購
入日など。小さな会社を経営していたが、従業員も、「方向」で選んでいた。「今年は、巽(たつ
み)の方角から、社員を募集する」と。

おもしろかったのは(失礼!)、新車を購入するときも、納入してもらう日のみならず、時刻、さ
らには、車を置く位置まで、自動車のセールスマンに指示していたこと。「一度、南の方まで回
り、そこから、会社の駐車場の北側の端にもってきてほしい」と。

 それは実に窮屈(きゅうくつ)な世界だった。社員たちは、社長の意向に神経をつかった。実
際には、神経をすりへらした。みなで社員旅行をするときもそうだった。日程を決めるのが、た
いへんだった。いくつかのプランを用意して、その中から、社長(実際には神主)に選んでもら
わねばならなかった。「そんなこと、くだらない!」などと言おうものなら、それだけでクビになっ
てしまうような雰囲気だった。が、本当にその「クビ切り事件」が起きた。

 一人の女子従業員が、会社へくるとき、道路で子犬を見つけた。捨て犬だった。そこでその
従業員は、その子犬を会社へもってきた。仕事が終わったら、自分の家に連れて帰るつもりだ
った。

が、このことが社長の逆鱗(げきりん)にふれた。即刻、その女性は、その場で、クビになってし
まった。まったくもって、理不尽なクビ切りだった。社長はこう言った。「昔、ニワトリが会社へ迷
い込んできたことがある。その翌朝、会社は火事になった。だから会社へ動物を連れてくるの
を禁止している。しかしその規則(?)を破ったからクビだ!」と。

 この事件は、裁判ざたになりかけたが、社長が神主に相談すると、神主が「慰謝料を払っ
て、内々の示談ですましなさい」と忠告したという。実際には、その神主は、内緒で、知りあいの
司法書士に相談していた。私にこの話をしてくれたのが、その司法書士だった。「裁判すれば、
大きな社会問題になっていたはずです」と。

 世の中が不安定になり、緊張が高まってくると、こういう迷信があちこちで力をもち始める。一
方、人間の心というのは、不安が大きくなればなるほど、あちこちに穴があく。その穴をねらっ
て、その迷信が心の中に入ってくる。あなたもこうした迷信には、じゅうぶん、注意してほしい。

●日々の運勢占いを信じている人は多いが、それを信ずる前に、どういう人が、どういう根拠
で、その「原文」を書いているか、それをさぐってみるとよい。たいていは、(まちがいなくすべ
て)、どこかのインチキな人間が、思いついたまま、でまかせに書いているだけ。根拠など、ど
こにもない。あるはずもない。相手にしてはいけない。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

【迷信論】2

●血液型による性格判断

 いまだに血液型におる性格判断が、堂々と行われている。NHKの番組の中でも、一人の女
性アナウンサーが、こう言った。「私は、O型だから、もともとおっとり型人間です」(04年5月・
朝のワイドショー)と。おかしなことだ。

 私が25歳くらいのときのこと。今から、30年以上も前のことになる。私は、東京に住む、ある
ドクターから、本の代筆の依頼を受けた。本の題名は、ズバリ、「血液型、性格判断」。

 そこでそのあと、私は毎日、図書館通いを始めた。資料集めである。

 そのときのこと。私はこんなことを知った。ここから先は、当時の記憶によるもので、不正確
かもしれない。

(1)血液型性格判断は、戦後、日本のどこかの医師が、最初それを、冗談で口にした。それに
尾ひれがついて、あっという間に、日本中に広がってしまった。

 根拠など、どこにもない。統計学的な調査がされたわけでもない。冗談というより、迷信。迷
信というより、口からのでまかせ。

私は当時、こう考えた。血液は、脳に酸素を送るためのもの。しかしその人の性質や性格は、
脳細胞が決めるもの。血液の型など、関係ない、と。

 血液型といっても、100種類以上ある。ABO式血液型というのは、その中の一つにすぎな
い。つまりいくら書けと言われても、理性をねじることはできない。書ける原稿と、書けない原稿
がある。私はそのドクターにこう言った。「血液型による性格判断はウソというような本なら書け
る。しかし血液型による、性格判断についての本は書けない」と。

 実際には、その代筆の話は、そのままうやむやになってしまった。

 で、それから30年。この日本では、血液型による性格判断は、むしろ常識のようになってし
まった。上はおじいちゃん、おばあちゃんから、下は、幼児まで……。

 しかし、こんなことは常識で考えればよい。

 乾電池をかえたくらいで、ラジオの音質が変わるようなことはあるだろうか。電源をかえたくら
いで、パソコンの性能が変わるようなことはあるだろうか。が、そんなことはありえない。

 それと同じように、血液型で、人間の性質や性格が変わるようなことはありえない。だから、
もうこんなバカな方法による性格判断はやめよう。私は毎日、子どもを見ている。しかし血液型
で子どもを見たことはない。また子どもの性質にせよ、性格にせよ、血液型でちがうはずもない
し、また血液型など、何の手がかりにもならない。

●反論 

 おもしろいのは、「O型の人は、顔が丸く……、A型の人は、あごがとがっていて……」という
意見もあるということ。「O」とか「A」とか、英語のアルファベットの形に似せて、顔の形まで、決
めつけている。(ウソだと思うなら、インターネットで、「血液型 性格 判断」を検索してみれば
よい。)

 で、最近では、あまりにも、この血液型性格判断が、広く流布してしまったため、「そうでなな
い」ということを立証するための研究(?)も、さかんになされている。(これもインターネットで検
索してみれば、わかる。)

 しかし頭ごなしに否定ばかりしていてはいけないので、もう少し具体的に考えてみよう。

●当たる確率は、50%!

 血液型によって性格判断ができるためには、つぎの二方向性がなければならない。

(3)血液型による性格分類
(4)性格による血液型判定

 つまり。まず血液型によって、どのような性格をもつかが、分類されなければならない。たとえ
ば、A型の人は、きちょうめん。B型の人は、ずぼら。O型の人は、おおらか。AB型の人は、神
経質とか。

 つぎに、今度は反対に、その人の性格を見ながら、その人の血液型が特定できねばならな
い。「あなたは、きちょうめんだから、A型」「あなたはずぼらだから、B型」と。

 この二方向性が一致したとき、はじめて、「血液型による性格判断は正しい」と実証されたこ
とになる。

 そこでまず、(1)血液型による性格分類だが、そもそも「性格」とは何か、その定義がむずか
しい。

 つぎに、血液型による性格の分類、つまりこれを心理学の世界では、ステレオタイプ化という
が、それがむずかしい。「オーストラリア人は、陽気」「パキスタン人は、押しが強い」というの
が、それにあたる。

さらに「きちょうめんとは何か」「ずぼらとは何か」と、それぞれの性格についての、定義もされ
なければならない。

 こうした性格というのは、同じ故人でも、日々の生活の中でも、めまぐるしく変化する。そのと
きの疲労度や、対象物によっても変化する。もちろん接する相手によっても、変化する。環境
によっても、変化する。会社での仕事では、たいへんきちょうめんな人が、家に帰ってからは、
ずぼらになるというケースは、少なくない。

 かりにこの性格分類ができたとしても、(2)今度はその人の性格を見ながら、反対に、その
人の血液型が判定できねばならない。

 「あなたは、おおらかな性格だから、O型」「当たり!」と。

 しかしここで確率の問題がからんでくる。

 つなみに日本人の血液型は、つぎのようになっている。

 A型 ……38・1%
 B型 ……21・8%
 O型 ……30・7%
 AB型……9・4%

 つまり、「あなたはA型か、O型ね」と言えば、確率からして、約7割(68・9%)は、当たること
になる。しかし、それだけではない。人間の心には、大きな落とし穴がある。

●自己成就的予言(self-fulfilling prophecy)

 だれかがあなたに向って、「あなたはO型だから、おおらかね」と言ったとする。するとあなた
は、血液型による性格判断を信ずるあまり、何かにつけて、おおらかであろうとする。

 つまり、だれかに言われたような性格を、自らつくりあげてしまう。そして自ら、「やはり血液型
による性格判断は正しい」と、思いこんでしまう。これを心理学の世界では、「自己成就的予言
(self-fulfilling prophecy)」という。

 わかりやすく言えば、予言の内容にそって、その内容を自ら、つくりだしてしまうこと。

 たとえばある人が、占い師に、「20XX年の7月に、あなたは交通事故にあう」と言われたとす
る。

 そのとき、理性のある人は、「そんなバカなことがあるか」と自分に言って聞かせ、それを無
視する。しかし中には、それができない人がいる。そして「7月に交通事故にあう」と信ずるあま
り、その7月に、自ら交通事故を起こしてしまう。こういうケースは、カルトの世界では、よく観察
される。

 よく知られた事例としては、あのO真理教による、アルマゲドン(世界終末)事件がある。あの
教団は、「世界が終末を迎える」と信ずるあまり、自分たちで、あちこちにサリンという猛毒をま
き、その終末を演出しようとした。

 わかりやすく言えば、中には、迷信にあわせて、その迷信にそった事実を、自らつくってしまう
人もいるということ。そしてその自らつくった事実をもとに、さらにその迷信を肯定してしまう。血
液型による性格判断も、その一つと考えてよい。

●結論

 概して言えば、血液型による性格判断を信ずる人というのは、迷信を信じやすい人と考えて
よい。

 手相、姓名判断、占い、まじないなど。その中の一つとして、血液型による性格判断がある。

 しかしこうした方向性というのは、自己意識が確立し始める、小学3、4年生あたりからはっき
りしてくる。この時期に、迷信を信じやすい子どもと、そうでない子どもに分かれる。それまでの
子どもでも、よく観察すれば、その方向性を知ることができる。

 そこで大切なことは、この時期までに、いかにして子どもの中に、論理性を育てていくかという
こと。「なぜ?」「どうして?」の会話を繰りかえしながら、おかしいものは、おかしいと思う心を育
てていく。

 ここから先は、それぞれの親の判断ということになるが、少なくとも、論理的なものの考え方
を育てるためには、この時期までの子どもには、いわゆる迷信は、話さないほうがよい。子ども
がそれらしきことを口にしたときは、「そんなバカなことはない」と、きっぱりと言い切る。そういう
姿勢が、子どもの中の方向性を、修正する。

 ただし、「夢」と、「迷信」は区別して考える。「サンタクロースがクリスマスに、プレゼントをもっ
てくる」というのは、夢。「西の空に、カラスを見たら、人が死ぬ」というのは、迷信ということにな
る。

 子どもの夢は夢として、大切に考える。

【追記】

 私の父親は、M会という、どこかカルト的な教団の信者だった。一方、私の母は、今でもそう
だが、迷信のかたまりのような人だ。

 そんなわけで、私は子どものころ、ある時期までは、迷信を信じていた。しかし今から思うと、
そういう意味では、そういう両親をもったがゆえに、かえって迷信に反発したのかもしれない。
私の父親や母親は、私にとっては、いわゆる反面教師になった?

 小学3、4年を境に、私はむしろ、そうした迷信を、ことごとく否定するようになった。その結果
が、今の私ということになる。

 よく覚えているのは、父親がメンバーになっていたM会での会合のときのこと。だれかが、
「親の因果は子にたたり……」というような話をしていた。それについて、その男が、突然私に
向って、「そこのぼうや、君は、どう思うかね?」と聞いた。

 私は、そのとき、父親につれられて、その会の末席で、座ってその話を聞いていた。私が小
学3年生か、4年生のときのことだった。

 私はとっさの判断で、「そんなバカな!」と、思わず口走ってしまった。

 そのあとのことはよく覚えていないが、その男が、どこか怒ったような口調で、何やら話しつづ
けたことだけは、記憶のどこかに残っている。

 たしかにこの世界には、理屈だけでは、説明できないことや、理解できないことは多い。しか
しそれらは、人間の能力の限界によるものであって、決して、超自然的な力によるものではな
い。言いかえると、迷信を口にする人は、自らの能力の限界を認め、理性の敗北を認める人と
いってよい。

 だから……。結論へと飛躍するが、血液型による性格判断は、もうやめよう。本来なら、こん
なことは、論ずることだけでも、時間のムダ。しかし一度は、結論を出しておきたかった。だか
らここに書いた。
(040513)

【追記2】

 こんなおもしろい話を聞いた。何かのビデオ映画の中での会話だが、一人の男が、こう言っ
た。

 天国はあるかというテーマについて……。

 「ある宇宙飛行士が、宇宙に行ってみたが、天国はどこにもなかったと言った。それに答え
て、ある脳外科医がこう言った。『私は、ある哲学者の脳ミソを開いてみたことがあるが、思想
らしきものは、どこにもなかった』と」

 つまりその宇宙飛行士は、宇宙へ出てみたが、天国はなかった。だから天国はないと言っ
た。

 それに答えて、「見えないから、ない」ということにはならないという意味で、脳外科医はこう言
った。

 「ある哲学者の脳ミソを開いてみたが、思想らしきものはなかった」と。つまり、「だからといっ
て、その哲学者には、思想がないとは言えない。それと同じように、天国はないとは言えない」
と。

 一見、おもしろい論理だが、この話は、どこかおかしい。私も、瞬間、「なかなかうまいこと言う
な」と感心した。

 が、宇宙飛行士が、宇宙へ出てみたが、天国はなかったというのは、事実。一方、脳ミソの
中に、思想らしきものがなかったというのは、事実ではない。つまり事実を、事実でないものと
対比させて、その事実をねじまげている。

 脳ミソの中には、思想がつまっている。無数の神経細胞から、それぞれこれまた無数のシナ
プスがのび、それらが複雑に交叉しながら、その人の思想を形成している。もしそうしたシナプ
スを解読する方法が見つかれば、脳ミソを開いた段階で、その人の思想を読み取ることができ
るようになるかもしれない。

 脳ミソの中には、事実として、思想がある。宇宙に天国があるかいなかという話とは、まったく
別の話なのである。

 こうした一見論理的な非論理は、日常会話の中でも、よく経験する。

 ある人が、私にこう言った。

 「林君は、霊の存在を否定するが、しかし電波はどうなのかね。テレビ電波なら、テレビ電波
でもいい。林君は、その電波を見ることができるかね。見ることができないだろ。が、だからと
いって、電波を否定しないよね。同じように、今、見えないからといって、霊の存在を否定しては
いけないよ」と。

 この論理も、事実を、事実でないものと対比させて、その事実をねじまげている。あるいはそ
の反対でもよい。事実でないものを、事実と対比させて、事実でないものを、あたかも事実であ
るかのように話している。

 もしこんな論理がまかりとおるなら、こんなことも言える。

 「テレビ電波は、人間の目では見ることはできない。しかし存在する。同じように、人間の運、
不運も、人間の目では見ることはできないからといって、否定してはいけない」と。

 いろいろに応用(?)できるようだ。
(040513)

●迷信は、下劣な魂の持ち主たちに可能な、ゆいいつの宗教である。(ジューベル「パンセ」)
(はやし浩司 迷信 迷信論 血液型 血液型性格判断 自己成就的予言 自己成就)




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22
【問答テスト法】

★皆さんは、おうちで、どんなお手伝いをしていますか? お母さんが、いそがしいときは、どん
なお手伝いをしますか。あなたのできるお手伝いを、3つ言えますか。言える人は、手をあげ
て、教えてください。(生活力)


★これからお話をします。その話を聞いて、どこがおかしいか、教えてください。

「おばあさんが、杖(つえ)をついて歩いていました。右手には、カバンをもっていました。そして
左手には、コンビニで買ってきた、テレビをもっていました」
さあ、どこがおかしいか、お話のできる人はいませんか?
(いろいろな意見を聞く。)(常識力)


★少し、むずかしい問題だよ。

「ぼくは、ミカンを、3個もっていました。そしたら、お母さんが、2個くれました。で、そのミカンを
箱に入れておいたら、お兄ちゃんが来て、1個食べてしまいました。ぼくは、今、何個、ミカンを
もっているでしょうか。」

最初に3個だね。つぎにお母さんが2個くれて……。そのあとお兄ちゃんは、何個食べたか
な? (数の力)


★ときどき、パパは、「ダメだよ」と、みなさんに、言うことがありますね。どんなことをすると、み
なさんのパパは、「ダメだよ」と、あなたを叱りますか。また、反対に、どんなときに、みなさん
を、ほめますか。(善悪)


★これからママとお料理をします。今夜は、みんなで焼きそばをつくります。さて、やきそばをつ
くるためには、どんな材料を買ってくればいいでしょうか。どんなものがあれば、焼きそばがで
きますか。それを教えてください。どんなものを入れればいいのかな? (生活感覚)


★3つのコップがあります。それぞれのコップに、色水が入っています。どのコップの水が、い
ちばん、たくさん水がありますか。どれかな? またどのコップの水が、一番、少ないですか。ど
れかな? (推理)


★ここに積み木が積んであります。いくつ積み木がありますか。うしろに隠れている積み木も数
えてくださいね。さてさて、積み木は、いくつですか。(立体図形)


★4つの動物がいます。(ハト)と、(ネズミ)と、(イヌ)と、(サル)です。この4つの動物の中で、
一つだけ、ほかのと違うのは、どれでしょうか。わかる人はいますか? またどうして、その動
物は、ほかの動物とは、ちがうのでしょうか。(常識)


★みっつの筒(つつ)に、ヒモが巻いてあります。どのヒモが、一番、長いでしょうか。またどのヒ
モが一番、短いでしょうか。わかる人はいますか? (推理)


★みなさんのおうちで、してはいけないことがありますね。それをすると、みんなが困ります。み
なさんのおうちでしてはいけないことに、どんなことがありますか。それを話してくれる人はいま
せんか? (善悪判断)


★横断歩道があります。その横断歩道を、渡るとき、みなさんは、どんなことに気をつけていま
すか。またどうやって、横断歩道を、渡ればよいでしょうか。それを話してくれる人はいません
か。
(右を見て、左を見て、もう一度、右を見て、車をしっかりと見て、渡る。)(しつけ)


★もうすぐみなさんは、小学校に入学します。小学校に入学したら、どんなことをしたいです
か。また小学校では、どんなことをするのでしょうか。知っている人がいたら、話してくれません
か。(常識・展望性)


★あなたの仲のよい友だちを、2人、名前を話してください。だれとだれですか。また、いつも、
その友だちと、どんな遊びをしていますか。話してくれる人はいませんか。


★夏の暑い日でした。近所の友だちが、いっしょに、川へ魚をとりに行こうと言いました。友だ
ちは、魚をとる網をもっています。そういうとき、あなたは、どうしますか。また、どうしたらいいで
しょうか。おうちの人に、黙って行きますか。それとも、おうちの人は、そういうとき、あなたに何
と言うでしょうか。(常識)


★秋には、たくさんの果物が、店に並びます。どんな果物が、秋には食べることができますか。
秋に食べることができる果物を、3つ言ってください。(リンゴ、ナシ、ミカン、クリなど。)(常識)


★二つの箱に、5個ずつ、ボールが入っています。5個ずつです。ボールは、全部で、いくつあ
るでしょうか。わかる人は、手をあげてください。(計数)


★友だちの誕生日に招かれました。今日は、AAさんの誕生日です。あなたはAAさんに、会っ
たら、何と言いますか。また何と言ったら、AAさんは、喜びますか。(常識)


★幼稚園で、ブランコにのっていたら、乱暴者のB君が、ブランコを横取りしようとしました。こ
の前、B君は、スベリ台を、反対のぼりをしていました。B君は、みんなのいやがることを平気
でします。さて、ブランコを横取りしようとしたら、あなたは、どうしますか。それを話してくれる人
は、いませんか。(生活力)





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23

●子どもの指導法

 子どもにいろいろなことを頼むとき、親は、これまたいろいろな言い方をする。ふつう、親が子
どもに、何かをしてほしいときは、つぎのような言い方をする。(参考、渋谷昌三、「心理学用語
辞典」)

(1)命令型
(2)目的語型
(3)不履行非難型
(4)直接依頼型
(5)意向打診型
(6)願望型
(7)提案型
(8)話し手行動型
(9)話し手事情型
(10)受け手事情型(以上、同辞典)

 ほかにも、(11)脅迫型、(12)同情型、(13)依存型、(14)自覚奮起型、(15)恩着せ型な
どが考えられる。順に、具体的に考えてみよう。

 たとえばあなたの子どもが、テストが近いというのに、家の中で、ゴロゴロしていたとする。そ
のとき、あなたは、どのような言い方をするだろうか。

「勉強しなさい!」……命令型
「勉強、勉強」「いい成績を取るのよ」……目的語型
「どうしてあなたは、勉強しないの!」……不履行非難型
「勉強してくれない?」……直接依頼型
「どう、少しは勉強してみたら?」……意向打診型
「あなたがいい成績を取ったら、うれしいわ」……願望型
「どうだろう、いっしょに問題集を開いてみない?」……提案型
「今日、勉強したらよいところに、印を入れておくよ」……話し手行動型
「私立大学だと、学費も高いでしょう。勉強して、国立に入ってね」……話し手事情型
「あなた、だいじょうぶなの? ゴロゴロしていて?」……受け手事情型
「勉強しろ。でなければ、小遣いを減らすぞ」……脅迫型
「いろいろたいへんね。勉強するのも、いやなことね」……同情型
「しっかり勉強してくれないと、お母さんも、困るのよ」……依存型
「そろそろ勉強したほうが、いいと思うよ」……自覚奮起型
「私はあなたのために、パートの仕事をしているのよ。わかる?」……恩着せ型、など。

 そのときの親意識の程度、親子関係によっても、言い方は、さまざまに変化する。同じテスト
といっても、週末のテストと、入試テストとでは、緊張感もちがう。そうしたちがいに応じて、親の
言い方も変化する。

最近の傾向としては、公教育の場では、命令型、脅迫型などは、タブー視されている。かわっ
て、意向打診型、提案型の言い方が、主流になってきている。

 たとえば掃除の時間でも、「みさなん、掃除の時間ですよ」(自覚奮起型)、「力を合わせて、
教室をきれいにしたらどう」(提案型)など。

 一般論として、「その仕事(勉強)に対するコスト(重要度)が大きいときは、(4)の直接依頼
型より、(5)の意向打診型のほうが多くなる」ということだそうだ(同辞典)。

 親の言い方一つで、子どもは、伸びる。反対に、子どものやる気を奪ってしまうこともある。さ
て、あなたは、子どもに対して、日ごろ、どんな言い方をしているだろうか。
(はやし浩司 子どもの指導法 子供の指導法 言い方 指導のし方 指導の仕方)




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24
●ボランティア活動

 数日前、自転車で夜道を走っていたら、歩道に倒れている男いた。寒い夜だった。見た感じ
では、酔っぱらって、そのまま倒れてしまったようだ。酒臭かった。

 5〜7メートルほど行き過ぎてから、私は自転車を止めた。振りかえった。声をかけるべきか
どうかで、一瞬、迷った。気がつかなかったが、その男の横近くに、もう1人の男の人が立って
いた。「仲間だろうか?」と思った。

 その瞬間、私の心から、その倒れている男への責任感が薄らいだのを感じた。「その人に任
せればいいや」と。これを心理学でも、「責任の分散」という。

 責任を取るべき人が多くなればなるほど、責任感が薄らぐことを意味する。もしそのとき、私
ひとりだけなら、たとえば声をかけたり、ばあいによっては、救急車を呼んだかもしれない。し
かしその男の仲間らしき男の人を見たとき、その気持ちは消えた。

 で、私は、その立っている男の人に声をかけた。「知りあいですか?」と。するとその男の人
は、平気な声で、「ナーニ、酔っぱらっているだけでよ」と言って、笑った。そしてその倒れてい
る男をまたぐようにして、向こうのほうへ歩いていってしまった。

 そのときのこと。私の中に、それまで経験しなかった思いが、わいてきた。

 「このまま、無視して去ったとき、私はどんな責任を負わされるのだろうか」と。

 法律的には、私には、その人を救助する義務はない。無視して去ったところで、責任を問わ
れることはない。しかし、私は、一応、教育評論家である。(自称、そう思っているだけだが…
…。)

 いくら法的には責任がないとはいえ、無視して去るわけにはいかない。そこで声をかけた。

 「だいじょうぶですか?」「ああ……」と。そして私の声につられて、その男は、ヨロヨロと立ち
あがった。

 つまり私が声をかけたのは、その男を心配したからではなく、自分の立場を心配したからで
ある。これを心理学では、「愛他的自己愛」という。つまり自分がかわいいため、一応、他人を
愛するフリをしているだけ。本物のボランティア精神とはちがう。

 本物のボランティア精神というのは、滅私の状態で、相手につくす。これを「向社会的行動」と
いう。私が経験したのは、それとは異質のものである。

 ……ということで、同じボランティア活動でも、「愛他的自己愛」によるものもあれば、「向社会
的行動」によるものもある。よくどこかのテレビタレントが、その売名行為(?)のために、何か
のボランティア活動をしてみせることがある。そういうのは、たいてい「愛他的自己愛」によるも
のと考えてよい。わかりやすく言えば、偽善。

「向社会的行動」によるボランティア活動は、ジミで、だいたいにおいて、日陰の活動。マスコミ
の世界には、流れてこない。(マスコミが、調べて報道するということはあるが……。)

 ボランティア活動について、考えてみた。
(はやし浩司 ボランティア ボランティア活動 向社会的行動 愛他的自己愛 偽善)





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25
●子どもに問題が起きたとき

 いろいろな問題をかかえたとき、うっかりと、あまり信用できない人にしゃべってしまい、あと
で、「しまった!」と、後悔することがある。私のばあい、最近でこそ少なくなったが、今でも、な
いわけではない。ときどきある。

 賢くなることは、それほどまでにむずかしいことなのか?

 相談するときは、まず相手に、それだけの(心のポケット)があるかどうかを、判断する。見き
わめる。相手も、かつて同じような状況で、同じような立場で、同じように苦しんだ人なら、その
(心のポケット)があることになる。

 その(心のポケット)のない人に、いくら相談しても、意味はない。相談したところで、得るもの
は、何もない。へたをすれば、よもやま話のネタにされるだけ。……そう決めてかかるのは、失
礼なことかもしれないが、まず、そう思って、まちがいない。

 中には、こちらの不幸を知ってか知らずか、(たいていは知りつつ)、さぐりを入れてくる人が
いる。いかにも同情するようなフリをして、あれこれ聞き出す。さらにいらぬお節介を焼いてくる
人さえいる。こうした傾向は、地方の田舎ほど、強いのでは?

 私がこの浜松市が好きな理由の一つに、そうした干渉が、ほとんどないということがある。も
ともと街道沿いの宿場町として発達した町である。人の出入りが、ほかの地方とくらべても、は
げしい。つまりその分だけ、私のような、よそ者に対して、寛大なのかもしれない。

 話はそれたが、子どもの問題についても、同じことが言える。前にも書いたが、たとえば有名
大学や有名高校へ入った子どもの体験談などというのは、ほとんど、役にたたない。聞いて
も、「ああ、そうですか」という程度で、終わってしまう。

 しかしいろいろな問題をかかえ、それを乗り越えてきた人の話は、参考になる。成功談より、
失敗談のほうが、役にたつ。だからイギリスでは、昔から、『航海のしかたは、難破した者の意
見を聞け』という。

 一方、私たちは私たちで、(心のポケット)を用意しなければならない。それが多い人のこと
を、やさしい人という。心の広い人という。が、ここで大きなジレンマにぶつかる。だれしも苦労
は、できるだけ避けたいと願っている。それにたいていの人は、自分の人生を生きるだけで精
一杯。他人の不幸にかかわりあっているヒマなどない、……というのが本音かもしれない。(心
のポケット)を作るためには、そういうジレンマとも戦わねばならない。

 しかし不幸などというのは、そこらの病気と同じで、いつ何時、襲いかかってくるかわからな
い。病気なら病院で治すということができるが、不幸となると、そうはいかない。不幸には定型
がない。不幸の数だけ、種類がちがう。中身も、深さもちがう。

 そこで子育てをしていて、何かの問題が起きたら、1、2歳、年上の子どもをもつ親に相談し
てみるとよい。たいていのばあい、「うちでもこんなことがありましたよ」というようなアドバイス
で、問題は解決する。

 しかしそれでは解決しない問題もある。そのときの鉄則には、いくつかある。

(1)徹底した現実主義を貫く。
(2)問題の分析し、公的機関へ問い合わせる。
(3)それ以上、状況を悪化させないことだけを考えて、毎日をやり過ごす。

 徹底した現実主義というのは、(現実)だけを直視して、過去を悔やまない。未来を嘆かな
い。私がここにいるのも、あなたがそこにいるのも、(現実)。問題があるのも、(現実)。その
(現実)を受け入れ、あきらめるべきことはあきらめ、納得すべきことは、納得する。

 いくら問題が深刻といっても、しょせん、人間。特殊と思っているのは、あなただけ。同じよう
な例はいくらでもある。そしてその分だけ、それをカバーする機関が必ず、ある。とくに子どもの
世界ではそうで、まず役所の相談窓口に声をかけてみること。大切なことは、決して、ひとりで
は悩まないこと。

 クヨクヨ悩んだところで、問題は解決しない。あとは、今以上に状況を悪化させないことだけを
考えて、とにかくその日、その日をやりすごす。それをつづけていると、やがてそこに一定のリ
ズムが生まれてくる。そのリズムをつかんだら、問題は、問題でなくなる。

 が、それ以上に、重要なことは、(心のポケット)を用意しておくこと。つまりは心理学でいう、
「共鳴性」の問題ということになる。常日ごろから、相手の立場でものを考えるというクセを作っ
ておく。それはいわば、心の貯金のようなものかもしれない。準備? あるいはシミュレーショ
ン? 何でもよいが、いつも相手の立場で、その苦しみや悲しみを共有するクセをつけておく。

 まずいのは、相手の不幸や悲しみを、笑うこと。笑えば笑ったで、自分がその立場に立たさ
れたとき、その何十倍も、自分で苦しむことになる。

+++++++++++++++++++++++

●難破した人の意見を聞く 

 『航海のしかたは、難破した者の意見を聞け』というのは、イギリスの格言。人の話を聞くとき
も、成功した人の話よりも、失敗した人の意見のほうが、役にたつという意味。子育ても、そう。

 何ごともなく、順調で、「子育てがこんなに楽でよいものか」と思っている親も、実際にはいる。
しかしそういう人の話は、ほとんど参考にならない。それはちょうど、スポーツ選手の健康論
が、あまり役にたたないのに似ている。が、親というのは、そういう人の意見のほうに耳を傾け
る。「何か秘訣を聞きだそう」というわけである。

 私のばあいも、いろいろ振り返ってみると、私の教育論について、血や肉となったのは、幼児
を実際、教えたことがない学者の意見ではなく、現場の先生たちの、何気ない言葉だった。とく
に現場で一〇年、二〇年と、たたきあげた人の意見には、「輝き」がある。そういう輝きは、時
間とともに、「重み」をます。

 ……ということだが、もしあなたの子どもで何か問題が起きたら、やや年齢が上の子どもをも
つ親に相談してみるとよい。たいてい「うちもこんなことがありましたよ」というような話を聞い
て、それで解決する。

+++++++++++++++++++++++
同じようなテーマで書いたのが、つぎの原稿です。
+++++++++++++++++++++++

●航海のし方は、難破したことがある人に聞け

 イギリスの格言に、『航海のし方は、難破したことがある人に聞け』というのがある。子どもの
子育ても、同じ。スイスイとT大へ入った子どもの話など、実際には、ほとんど役にたたない。

本当に役だつ話は、子育てで失敗し、苦しんだり悩んだことがある人の話。それもそのはず。
子育てというのは、成功する人よりも、失敗する確率のほうが、はるかに高い。

 しかしどういうわけか、親たちは、スイスイとT大へ入った子どもの話のほうに耳を傾ける。ま
たこういうご時世だが、その種の本だけは、よく売れる。

「こうして私は東大へ入った」とか、など。もちろんムダではないが、しかしそういう成功法を、自
分の子どもに当てはめようとしても、うまくいかない。いくはずもない。あるいは反対に、失敗す
る。

 そこであなたの周囲を見まわしてみてほしい。中には、成功した人もいるかもしれないが、大
半は失敗しているはず。そういう人たちを見ながら、あなたがすべきことは、成功した人から学
ぶのではなく、失敗した人の話に耳を傾けること。またそういう人から、学ぶ。もしあなたが「う
ちの子にかぎって……」とか、「うちはだいじょうぶ……」と、高をくくっているなら、なおさらそう
する。

私の経験では、そういう人ほど、子育てで失敗しやすい。反対に、「私はダメな親」と、子育てで
謙虚な人ほど、失敗が少ない。理由がある。

 子どもというのは、たしかにあなたから生まれる。しかし、あなたの子どもであって、あなたの
子どもでない部分のほうが大きい。もっと言えば、あなたの子どもは、あなたを超えた、もっと
大きな多様性を秘めている。だから「あなたの子どもであって、あなたの子どもでもない」部分
は、あなたがいくらがんばっても、あなたは知ることはできない。

が、その「知ることができない」部分を、いかに多く知っているかで、親の親としての度量が決ま
る。「うちの子のことは、私が一番よく知っている」という親ほど、実は、そう思い込んでいるだけ
で、子どものことを知らない。だから、子どもの姿を見失う。失敗する。一方、「うちの子のこと
がわからない」と、謙虚な態度で子どもの姿を見ようとする親ほど、子どものことを知っている。
だから、子どもの姿を正確にとらえる。失敗が少ない。

 話がそれたが、子育ては、失敗した人の話ほど、価値がある。役にたつ。もしそういう話をし
てくれる人があなたのまわりにいたら、その人を大切にしたらよい。





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26
●自然教育について(1)

 「自然を大切にしましょう」「自然はすばらしい」という意見を聞くたびに、私は「日本人は、どう
してこうまでオメデタイのだろう」「どうしてこうまで井の中の蛙(かわず)で、世間(=世界)知ら
ないのだろう」と思ってしまう。

ほとんどの国では、自然は人間に害を与える、戦うべき相手なのだ。ブラジルでもそうだ。彼ら
はあのジャングルを「愛すべき自然」とはとらえていない。彼らにすれば、自然は、「脅威」であ
り、「敵」なのだ。

このことはアラブの砂漠の国へ行くと、もっとはっきりする。そういう国で、「自然を大切にしまし
ょう」「自然はすばらしい」などと言おうものなら、「お前、アホか?」と笑われる。

 日本という国の中では、自然はいつも恵みを与えてくれる存在でしかない。そういう意味で、
たしかに恵まれた国だと言ってもよい。しかしそういう価値観を、世界の人に押しつけてはいけ
ない。そこで発想を変える。

 オーストラリアの学校には、「環境保護」という科目がある。もう少しグローバルな視点から、
地球の環境を考えようという科目である。そして一方、「キャンピング」という科目もある。私が
ある中学校(メルボルン市ウェズリー中学校)に、「その科目は必須(コンパルサリー)科目です
か」と電話で問いあわせると、「そうです」という返事がかえってきた。

このキャンピングという科目を通して、オーストラリアの子どもは、原野の中で生き抜く術(す
べ)を学ぶ。

ここでも、「自然は戦うべき相手」という発想が、その原点にある。

 もちろんだからといって、私は「自然を大切にしなくてもいい」と言っているのではない。しかし
こういうことは言える。だいたい「自然保護」を声高に言う人というのは、都会の人だということ。
自分たちでさんざん自然を破壊しておいて、他人に向かっては、「大切にしましょう」と。破壊し
ないまでも、破壊した状態の中で、便利な生活(?)をさんざん楽しんでいる。

こういう身勝手さは、田舎に住んで、田舎人の視点から見るとわかる。ときどき郊外で、家庭菜
園をしたり、植樹のまねごとをする程度で、「自然を守っています」などとは言ってほしくない。そ
ういう言い方は、本当に、田舎の人を怒らせる。

そうそう本当に自然を大切にしたいのなら、多少の洪水があったくらいで、川の護岸工事など
しないことだ。自然を守るということは、自然をあるがまま受け入れること。それをしないで、
「何が、自然を守る」だ!

 自然を大切にするということは、人間自身も、自然の一部であることを認識することだ。この
ことについては、書くと長くなるので、ここまでにしておくが、自然を守るということは、もっと別の
視点から考えるべきことなのである。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●自然教育について(2)

 世界の中でも、たまたま日本が、緑豊かな国なのは、日本人がそれだけ自然を愛しているか
らではない。日本人がそれを守ったからでもない。

浜松市の駅前に、Aタワーと呼ばれる高層ビルがある。ためしにあのビルに、のぼってみると
よい。45階の展望台から見ると、眼下に浜松市が一望できる。が、皮肉なことに、そこから見
る浜松市は、まるでゴミの山。あそこから浜松市を見て、浜松市が美しい町だと思う人は、まず
いない。

 このことは、東京、大阪、名古屋についても言える。ほうっておいても緑だけは育つという国
であるために、かろうじて緑があるだけ。「緑の破壊力」ということだけを考えるなら、日本人が
もつ破壊力は、恐らく世界一ではないのか。

今では山の中の山道ですら、コンクリートで舗装し、ブロックで、カベを塗り固めている。そうい
う現実を一方で放置しておいて、「何が、自然教育だ」ということになる。

 私たちの自然教育が自然教育であるためには、一方で、日本がかかえる構造的な問題、さ
らには日本人の思考回路そのものと戦わねばならない。構造的な問題というのは、市の土木
予算が、20〜30%(浜松市の土木建設費)もあるということ。

日本人の思考回路というのは、コンクリートで塗り固めることが、「発展」と思い込んでいる誤解
をいう。

たとえばアメリカのミズリー川は、何年かに一度は、大洪水を起こして周辺の家屋を押し流して
いる。2000年※の夏にも大洪水を起こした。しかし当の住人たちは、護岸工事に反対してい
る。

理由の第一は、「自然の景観を破壊する」である。そして行政当局も、護岸工事にお金をかけ
るよりも、そのつど被害を受けた家に補償したほうが安いと計算して、工事をしないでいる。
今、日本人に求められているのは、そういう発想である。

 もし自然教育を望むなら、あなたも明日から、車に乗ることをやめ、自転車に乗ることだ。ク
ーラーをとめ、扇風機で体を冷やすことだ。そして土日は、山の中をゴミを拾って歩くことだ。

少なくとも「教育」で、子どもだけを作り変えようという発想は、あまりにもおとなたちの身勝手と
いうもの。そういう発想では、もう子どもたちを指導することはできない。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

自然教育について(3)

 五月の一時期、野生のジャスミンが咲き誇る。甘い匂いだ。それが終わると野イチゴの季
節。そしてやがて空をホトトギスが飛ぶようになる……。

 浜松市内と引佐町T村での二重生活をするようになって、もう12年になる。週日は市内で仕
事をして、週末はT村ですごす。距離にして車で40分足らずのところだが、この二つの生活は
まるで違う。市内での生活は便利であることが、当たり前。T村での生活は不便であることが、
当たり前。

大雨が降るたびに、水は止まる。冬の渇水期には、もちろん水はかれる。カミナリが落ちるた
びに停電。先日は電柱の分電器の中にアリが巣を作って、それで停電した。道路舗装も浄化
槽の清掃も、自分でする。

こう書くと「田舎生活はたいへんだ」と思う人がいるかもしれない。しかし実際には、T村での生
活の方が楽しい。T村での生活には、いつも「生きている」という実感がともなう。庭に出したベ
ンチにすわって、「テッペンカケタカ」と鳴きながら飛ぶホトトギスを見ていると、生きている喜び
さえ覚える。

 で、私の場合、どうしてこうまで田舎志向型の人間になってしまったかということ。いや、都会
生活はどうにもこうにも、肌に合わない。数時間、街の雑踏の中を歩いただけで、頭が痛くな
る。疲れる。排気ガスに、けばけばしい看板。それに食堂街の悪臭など。いろいろあるが、とも
かくも肌に合わない。

田舎生活を始めて、その傾向はさらに強くなった。女房は「あなたも歳よ…」というが、どうもそ
れだけではないようだ。私は今、自分の「原点」にもどりつつあるように思う。私は子どものこ
ろ、岐阜の山奥で、いつも日が暮れるまで遊んだ。魚をとった。そういう自分に、だ。

 で、今、自然教育という言葉がよく使われる。しかし数百人単位で、ゾロゾロと山間にある合
宿センターにきても、私は自然教育にはならないと思う。かえってそういう体験を嫌う子どもす
ら出てくる。自然教育が自然教育であるためには、子どもの中に「原点」を養わねばならない。
数日間、あるいはそれ以上の間、人の気配を感じない世界で、のんびりと暮らす。好き勝手な
ことをしながら、自活する。そういう体験が体の中に染み込んではじめて、原点となる。

 ……私はヒグラシの声が大好きだ。カナカナカナという鳴き声を聞いていると、眠るのも惜しく
なる。今夜もその声が、近くの森の中を、静かに流れている。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ゆがんだ自然観

 もう30年以上も前のことだが、こんな詩を書いた女の子がいた(大阪市在住)。

「夜空の星は気持ち悪い。ジンマシンのよう。小石の見える川は気持ち悪い。ジンマシンのよ
う」と。

当時、この詩はあちこちで話題になったが、基本的には、この「状態」は今も続いている。小さ
な虫を見ただけで、ほとんどの子どもは逃げ回る。落ち葉をゴミと考えている子どもも多い。自
然教育が声高に叫ばれてはいるが、どうもそれが子どもたちの世界までそれが入ってこない。
 
「自然征服論」を説いたのは、フランシスコ・ベーコンである。それまでのイギリスや世界は、人
間世界と自然を分離して考えることはなかった。人間もあくまでも自然の一部に過ぎなかった。
が、ベーコン以来、人間は自らを自然と分離した。分離して、「自然は征服されるもの」(ベーコ
ン)と考えるようになった。それがイギリスの海洋冒険主義、植民地政策、さらには1740年に
始まった産業革命の原動力となっていった。

 日本も戦前までは、人間と自然を分離して考える人は少なかった。あの長岡半太郎ですら、
「(自然に)抗するものは、容赦なく蹴飛ばされる」(随筆)と書いている。

が、戦後、アメリカ型社会の到来とともに、アメリカに伝わったベーコン流のものの考え方が、
日本を支配した。その顕著な例が、田中角栄氏の「列島改造論」である。日本の自然はどんど
ん破壊された。埼玉県では、この40年間だけでも、30%弱の森林や農地が失われている。

 自然教育を口にすることは簡単だが、その前に私たちがすべきことは、人間と自然を分けて
考えるベーコン流のものの考え方の放棄である。もっと言えば、人間も自然の一部でしかない
という事実の再認識である。

さらにもっと言えば、山の中に道路を一本通すにしても、そこに住む動物や植物の了解を求め
てからする……というのは無理としても、そういう謙虚さをもつことである。少なくとも森の中の
高速道路を走りながら、「ああ、緑は気持ちいいわね。自然を大切にしましょうね」は、ない。

そういう人間の身勝手さは、もう許されない。

++++++++++++++++++++++++++

友人からのメールをもらって、改めて、自然について、考えてみた。

とても恐ろしいことだが、地球規模の環境異変は、ますます加速されているようだ。

ちょうど1年前の今日、書いた原稿をそのまま載せます。状況は何も
変わっていません。多分、来年も、何も変わらないでしょう。

++++++++++++++++++++++++++

●異常気象?

今年の冬も暖かい?

地球温暖化は、進んでいるのか?

30年程前には、オーストラリアのメルボルンは、世界でももっとも住みやすい場所ということに
なっていた。春夏秋冬を通して、一年中、気候が温暖で、かつ、寒暖の差が、あまりなかった。

 しかしここ10年、その気候は、大きく変わった。とくにこの4、5年、夏になると、気温が40度
を超えることも珍しくない。そして今年、つまり今のことだが、メルボルンに住むD君のメールに
よると、「100年来の、記録的な猛暑だ」という。

 日本は、ラッキーな国だ。四方を海に囲まれ、中央には、3000メートル級の山々が連なって
いる。この地形的な特徴のため、気候が、ほかの地域にくらべて、穏やかに保たれている。
が、オーストラリアには、大きな砂漠がある。この砂漠で熱せられた熱波が、メルボルンのよう
な海岸線にある都市を、襲う。

 去年の夏、ヨーロッパ大陸を襲った熱波は、まだ記憶に新しい。フランスなどは、記録的な猛
暑で、何百人という人が、熱射病で死んでいる。日本はその分、冷夏だったが、しかし冷夏と
言い切ってよいのか。50年前の日本の夏は、毎年、そうだった。

 私が子どものころには、夏の盆が過ぎると、突然、冷たい風が吹き始め、川へ入ることすら
できなかった。今とくらべても、夏は、ずっと短かったように思う。が、今では、9月に入っても、
気温が30度を超えることも、珍しくない。数年前には、10月に入っても、30度を超えていた!

 気象庁は、よく、「平年」という言葉を使うが、あれは、過去30年間の平均気温をいう。30年
ごとに、気温が、一度ずつあがっても、「平年並み」ということになってしまう。

 地球の温暖化が進んでいることは、もうだれの目にも疑いようがない。しかもその進行速度
は、学者たちが予想しているよりも、はるかに速い。このまま進めば、西暦2100年を待たず
して、地球の気温は、300度とか、400度になるかもしれない。そんな説も、実際に、ないわけ
ではない。

 こうした地球温暖化を防ぐために、いろいろな会議が開かれている。そしていろいろな方策
が考えられている。人間の英知が、この問題を解決することを、私は願うが、しかし科学者だ
けに任せておくことはできない。私たちは私たちで、しておくべきことがある。

 つまり、心の準備である。

 やがてこの地球上では、人類がかつて経験したことがないような、地獄絵図が繰りひろげら
れることになるかもしれない。気温が300度とか、400度とかになることはないにしても、平均
気温が数度あがっただけで、この日本でさえ、夏には、灼熱(しゃくねつ)地獄になる。仮に日
中の気温が、45〜50度になれば、クーラーさえ、きかなくなる。

 そのとき、私たちは、どういう行動をするだろうか。

 灼熱の暑さで苦しんでいる人を助け、励ますだろうか。それとも、我こそはと、より涼しい場所
を求めて、その場所を奪いあうだろうか。どちらであるにせよ、これだけは言える。

 そういう「最期のとき」が来たとき、(あくまでも仮定の話だが……)、私たちはその最期を、静
かに、迎え入れることができるよう、心の準備をしておかねばならないということ。そのとき、あ
わててジタバタしても、始まらない。なぜなら、今、私たちは、あまりにも好き勝手なことをしすぎ
ている。

 そういう好き勝手なことを、し放題しておきながら、温暖化は困るというのは、あまりにもムシ
がよすぎる。

 一つの方法は、今から、私たちは、できることをする。一つは、地球温暖化に結びつくような
ことはしない。もう一つは、あとで悔いが残らないように、懸命に生きる。懸命に生きて、生き抜
く。そうすれば、仮に最期のときがきても、その最期を、安らかな気持で迎え入れることができ
る。

 何とも暗いエッセーになってしまった。しかし、安心してほしい。

 すでにいくつかの方法が、考えられている。宇宙空間に、亜硫酸ガスをまいて、太陽光線を
遮断するという方法など。どこかSF的だが、そのときがくれば、人間も、必死で、その打開策を
考える。地球の温暖化を、最後の最後のところでくい止める方法は、ないわけではない。

 が、それでも失敗したら……。

 何%かの人類を、宇宙空間へ避難させるという方法もあるし、同じく、地下都市に住むという
方法もある。地球温暖化を前提としたような実験も、世界中で始まっている。

 が、それでも失敗したら……。

 かつて恐竜が絶滅したように、人類も絶滅するかもしれない。しかしそのときでも、わずかな
生命の痕跡(こんせき)は残り、それが次世代の生命として、進化していくかもしれない。たとえ
ばゴキブリ。

 あのゴキブリは、生き残り、一億年後か、二億年後かに、進化して、今の人間のようになるか
もしれない。なって、社会をつくり、文化を発展させるかもしれない。もちろん学校もつくる。そし
て、ある日、ゴキブリの先生が、子どもたちに向かってこう言う。

 「みなさん、これからヒトの骨の発掘調査に行きましょう。もなさんも、ご存知のように、今から
二億年前、この地上には、ヒトと呼ばれる大きな生き物が住んでいました。

 愚かな生物で、殺しあったり、奪いあったりしているうちに、環境を、自ら破壊してしまい、結
局は絶滅してしまいました。

 そのとき私たちの祖先は、ヒトに嫌われ、見つけられると、すぐ殺されました。私たちの祖先
は、ヒトには、嫌われていたのですね。

 さあ、みなさん、ここにあるのが、そのヒトの骨です。大きいでしょう。足の大きさだけでも、皆
さんの数百倍はあります。二億年前には、こんな大きな生物が、この地上を、ノシノシと歩いて
いたのですね」と。

 それを聞いた、ゴキブリの子どもたちは、こう言って、歓声をあげる。

 「ワー、これがそのヒトの骨〜エ? 大きいなア」と。

 すると先生が、またこう言う。

 「そう、それは、ヒトの中でも、バカナヒトザウルスの骨です。発掘調査により、この骨のヒト
は、名前もわかっています。で、その名前は、ええとですね、ハヤシ・ヒロシという名前だったそ
うです」と。

 最後の部分は、冗談だが、しかしこの宇宙では、二億年なんて、一瞬。星がキラリとまばたき
する間にすぎる。かつて恐竜の時代には、私たちの先祖がネズミのような生き物だったことも
考えれば、何も、「命」を、人間だけにこだわることもない。

 つまりそういう視点も、忘れてはならない。これが私がいう、「心の準備」ということになる。

 しかし……。私たちは、よい。一応、それなりに人生を楽しむことができた。しかしこれからの
子どもたちのことを考えると、正直言って、気が重くなる。私たちが好き勝手なことをしたおか
げで、子どもたちが、あるいは私たちの孫たちが、その地獄絵図を見ることになるかもしれな
い。

 何とも申しわけない気持になるのは、私だけか……?
(はやし浩司 自然教育 自然 環境破壊 地球温暖化 バカナヒトザウルス)




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27
【日本の常識、世界の非常識】

●「子はかすがい」論……たしかに子どもがいることで、夫婦が力を合わせるということはよく
ある。夫婦のきずなも、それで太くなる。しかしその前提として、夫婦は夫婦でなくてはならな
い。夫婦関係がこわれかかっているか、あるいはすでにこわれてしまったようなばあいには、
子はまさに「足かせ」でしかない。日本には「子は三界の足かせ」という格言もある。

●「親のうしろ姿」論……生活や子育てで苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では
「子は親のうしろ姿を見て育つ」というが、中には、そのうしろ姿を子どもに見せつける親がい
る。「親のうしろ姿は見せろ」と説く評論家もいる。しかしうしろ姿など見せるものではない。(見
せたくなくても、子どもは見てしまうかもしれないが、それでもできるだけ見せてはいけない。)
恩着せがましい子育て、お涙ちょうだい式の子育てをする人ほど、このうしろ姿を見せようとす
る。

●「親の威厳」論……「親は威厳があることこそ大切」と説く人は多い。たしかに「上」の立場に
いるものには、居心地のよい世界かもしれないが、「下」の立場にいるものは、そうではない。
その分だけ上のものの前では仮面をかぶる。かぶった分だけ、心を閉じる。威厳などというも
のは、百害あって一利なし。心をたがいに全幅に開きあってはじめて、「家族」という。「親の権
威」などというのは、封建時代の遺物と考えてよい。

●「育自」論……よく、「育児は育自」と説く人がいる。「自分を育てることが育児だ」と。まちが
ってはいないが、子育てはそんな甘いものではない。親は子どもを育てながら、幾多の山を越
え、谷を越えている間に、いやおうなしに育てられる。育自などしているヒマなどない。もちろん
人間として、外の世界に大きく伸びていくことは大切なことだが、それは本来、子育てとは関係
のないこと。子育てにかこつける必要はない。

●「親孝行」論……安易な孝行論で、子どもをしばってはいけない。いわんや犠牲的、献身的
な「孝行」を子どもに求めてはいけない。強要してはいけない。孝行するかどうかは、あくまでも
子どもの問題。子どもの勝手。親子といえども、その関係は、一対一の人間関係で決まる。た
がいにやさしい、思いやりのある言葉をかけあうことこそ、大切。親が子どものために犠牲にな
るのも、子どもが親のために犠牲になるのも、決して美徳ではない。あくまでも「尊敬する」「尊
敬される」という関係をめざす。

●「産んでいただきました」論……よく、「私は親に産んでいただきました」「育てていただきまし
た」「言葉を教えていただきました」と言う人がいる。それはその人自身の責任というより、そう
いうふうに思わせてしまったその人の周囲の、親たちの責任である。日本人は昔から、こうして
恩着せがましい子育てをしながら、無意識のうちにも、子どもにそう思わせてしまう。いわゆる
依存型子育てというのが、それ。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●「水戸黄門」論……日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちがっ
ているかといっても、身分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分制度(=
巨悪)にどっぷりとつかりながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、その「おかしさ」がわ
からないほどまで、この権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋章を見せつけて、人をひれ
伏せさせる前に、その矛盾に、水戸黄門は気づくべきではないのか。仮に水戸黄門が悪いこと
をしようとしたら、どんなことでもできる。それこそ19歳の舞妓を、「仕事のこやし」と称して、手
玉にして遊ぶこともできる。(某歌舞伎役者、日本では人間国宝)

●「釣りバカ日誌」論……男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になっている。そ
の背景にあるのが、「男は仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関係なし」
と。しかしこれこそまさに、世界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事の同僚と飲み食
い(パーティ)をするときは、妻の同伴が原則である。いわんや休日を、夫たちだけで過ごすと
いうことは、ありえない。そんなことをすれば、即、離婚事由。「仕事第一主義社会」が生んだ、
ゆがんだ男性観が、その基本にあるとみる。

●「MSのおふくろさん」論……夜空を見あげて、大のおとなが、「ママー、ママー」と泣く民族
は、世界広しといえども、そうはいない。あの歌の中に出てくる母親は、たしかにすばらしい人
だ。しかしすばらしすぎる。「人の傘になれ」とその母親は教えたというが、こうした美化論には
じゅうぶん注意したほうがよい。マザコン型の人ほど、親を徹底的に美化することで、自分のマ
ザコン性を正当化する傾向がある。

●「かあさんの歌」論……K田聡氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(三行目と四行目)
は、かっこ(「」)つきになっている。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」
「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待
ってるよ」と。しかしこれほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。親が子どもに手紙
を書くとしたら、「♪村の祭に行ったら、手袋を売っていたよ。あんたに似合うと思ったから、買
っておいたよ」「♪おとうは居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」「♪春になったら、村の
みんなと温泉に行ってくるよ」だ。

●「内助の功」論……封建時代の出世主義社会では、「内助の功」という言葉が好んで用いら
れた。しかしこの言葉ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう論ずるま
でもない。しかし問題は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いということ。約二
三%の女性が、「それでいい」と答えている※。決して男性だけの問題ではないようだ。

※……全国家庭動向調査(厚生省九八)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」
という考えに反対した人が、23・3%もいることがわかった。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi++++

 M進一が歌う『おふくろさん』は、よい歌だ。あの歌を聞きながら、涙を流す人も多い。しかし
……。日本人は、ちょうど野生の鳥でも手なずけるかのようにして、子どもを育てる。これは日
本人独特の子育て法と言ってもよい。

あるアメリカの教育家はそれを評して、「日本の親たちは、子どもに依存心をもたせるのに、あ
まりにも無関心すぎる」と言った。そして結果として、日本では昔から、親にベタベタと甘える子
どもを、かわいい子イコール、「よい子」とし、一方、独立心が旺盛な子どもを、「鬼っ子」として
嫌う。

 こうした日本人の子育て観の根底にあるのが、親子の上下意識。「親が上で、子どもが下」
と。この上下意識は、もともと保護と依存の関係で成り立っている。

親が子どもに対して保護意識、つまり親意識をもてばもつほど、子どもは親に依存するように
なる。こんな子ども(年中男児)がいた。

生活力がまったくないというか、言葉の意味すら通じない子どもである。服の脱ぎ着はもちろん
のこと、トイレで用を足しても、お尻をふくことすらできない。パンツをさげたまま、教室に戻って
きたりする。

あるいは給食の時間になっても、スプーンを自分の袋から取り出すこともできない。できないと
いうより、じっと待っているだけ。多分、家でそうすれば、家族の誰かが助けてくれるのだろう。
そこであれこれ指示をするのだが、それがどこかチグハグになってしまう。こぼしたミルクを服
でふいたり、使ったタオルをそのままゴミ箱へ捨ててしまったりするなど。

 それがよいのか悪いのかという議論はさておき、アメリカ、とくにアングロサクソン系の家庭で
は、子どもが赤ん坊のうちから、親とは寝室を別にする。「親は親、子どもは子ども」という考え
方が徹底している。こんなことがあった。

一度、あるオランダ人の家庭に招待されたときのこと。そのとき母親は本を読んでいたのだ
が、五歳になる娘が、その母親に何かを話しかけてきた。母親はひととおり娘の話に耳を傾け
たあと、しかしこう言った。「私は今、本を読んでいるのよ。じゃましないでね」と。

 子育ての目標をどこに置くかによって育て方も違うが、「子どもをよき家庭人として自立させる
こと」と考えるなら、依存心は、できるだけもたせないほうがよい。

そこであなたの子どもはどうだろうか。

依存心の強い子どもは、特有の言い方をする。「何とかしてくれ言葉」というのが、それである。
たとえばお腹がすいたときも、「食べ物がほしい」とは言わない。「お腹がすいたア〜(だから何
とかしてくれ)」と言う。

ほかに「のどがかわいたア〜(だから何とかしてくれ)」と言う。もう少し依存心が強くなると、こう
いう言い方をする。
私「この問題をやりなおしなさい」
子「ケシで消してからするのですか」
私「そうだ」
子「きれいに消すのですか」
私「そうだ」
子「全部消すのですか」
私「自分で考えなさい」
子「どこを消すのですか」と。

実際私が、小学四年生の男児とした会話である。こういう問答が、いつまでも続く。

 さてM進一の歌に戻る。よい年齢になったおとなが、空を見あげながら、「♪おふくろさんよ…
…」と泣くのは、世界の中でも日本人ぐらいなものではないか。よい歌だが、その背後には、日
本人独特の子育て観が見え隠れする。一度、じっくりと歌ってみてほしい。





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28
●神性と悪魔性

 どんな人にも、神性と悪魔性がある。これら二つが、同居している。その人が善人か悪人か
ということは、あくまでも、割合の問題と考えてよい。

 神性が強ければ、善人となり、悪魔性が強ければ、悪人となる。根っからの善人というのは
いない。同じように根っからの悪人というのもいない。

 大切なことは、それぞれの人が、自分の中の神性を伸ばし、悪魔性と戦うことである。私の
家で、現在進行中の話を書こう。

 たとえば今、私の家には介護を必要とする兄がいる。その兄を見ていると、自分の心の中
で、二つの相対立した感情が、混在しているのを知る。

 一つは、同情する心。もう一つは、さげすむ心。

 さげすむ心というのは、兄の(わがまま性)による。ただのボケというよりは、わがまま。つぎ
からつぎへと、あれこれと要求してくる。

 夕食の時刻になると、30〜40分前から、台所のテーブルの前に座り始める。何度、ワイフ
が、「あとで呼んであげるから、自分の部屋に行って、待っていてね」と言っても、言うことを聞
かない。

 「腹が減ると、力がでない」
 「いつも、5時に食べている」
 「ここのほうが、暖かい」
 「ぼくは、子どものころから、体が弱かった」と、つぎつぎと、不平、不満を並べる。

 そしてできあがった夕食を食べるときになっても、指先で、ご飯(ライス)をさわってみて、「冷
たいご飯は、食べられない」「歯が痛い」「おかずが、かたい」「かたいご飯を食べると、胃が悪く
なる」と。

 おかしな性癖もある。少し油断すると、ワイフに抱きつこうとするし、タンスからワイフの下着
を出して、ながめていたりする。善悪の判断能力が、ほとんど、ない。約束も守らない。規則も
守らない。言うだけ、ムダ。「わかった」と返事をしたそのすぐあとには、もう約束や規則を破っ
たりする。

 あれこれ気をつかう。本当に気をつかう。それはしかたないとしても、そこで私が、何かを少し
でもきつく叱ったりすると、短気を起こして、皿を割ったり、新聞紙を破り捨てたりする。ウソも
つく。

 「肩が痛い」「足が痛い」と言っては、私たちの部屋の中まで入ってくる。そこで湿布薬を渡す
と、「自分では張れない」「自分で張ると、よじれてしまう」などと言う。一事が万事。強烈な依存
性。まれにみる依存性。

 そういう兄を見ていると、ムラムラと、「勝手にしろ!」「知ったことか!」という気持ちがわいて
くる。これが悪魔性である。

 だから私は、自分では、善人だとは思っていない。昔から善人だとは思っていなかったが、そ
れが兄と同居するようになって、さらにそれが、よくわかった。

 そこで私は、そうした自分の中の悪魔性とどう戦うかを、学びつつある。

 一つは、無視。これをワイフとの暗号で、「24」と呼んでいる。イライラしそうなときには、たが
いに、「24」と声をかけあっている。「ムシ(6x4)24」の「24」である。(わかる?)

 つぎに、こうしたボケ症状に対しては、笑い飛ばすようにしている。「十字架を重く感ずれば、
悪魔がやってくる。十字架を笑えば、神が宿る」と。

 ただつらいのは、私たちの時間がないこと。外出ができないこと。そこで今は、要介護の申請
を、市役所に出しているところ。それが通れば、デイサービスを受けられるようになる。そうな
れば、少しは、自分たちの時間をもてるようになる。

 そして今、私は、こう思う。

 こうした十字架は、必ず、私を成長させる、と。その先に何があるかわからないが、しかしこ
のことは、今まで十字架を背負ったことがない人を見ればわかる。十字架を背負ったことがあ
る人からは、背負ったことがない人が、よくわかる。そしてその間には、超えがたいほど、遠い
距離があるのがわかる。

 私もいろいろな十字架を背負ってきたが、いよいよ、人生も晩年にさしかかってきた。晩年に
は晩年にふさわしい、十字架というものが、あるのかもしれない。あと10年とか、20年もすれ
ば、永遠の闇の中に消える。ぼんやりと、のどかな人生を過ごすのも、一つの人生かもしれな
いが、別の新しい人生を経験をするのも、また別の生き方かもしれない。

 はからずもワイフは、昨夜、私にこう言った。

 「ひとりでさみしく暮らす生活よりも、問題があっても、みなで、にぎやかですごすほうがいいわ
ね」と。

 ワイフは、私より、はるかに善人のようである。感謝! 感激! 感動!

 我が家のドラマは、今もなお、あれこれ進行中! ハハハ! (←これは、カラ元気か?)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●悪魔性

 人の不幸な話ほど、楽しいものはない。……という悪魔性は、だれにでもあるものか。私の
知っている人に、いつも他人の悪口ばかりを言っている人がいた。そのとき、60歳くらいでは
なかったか。女性だった。

 「あのAさんの父親は、窃盗罪で逮捕されたことがある」
 「Bさんの家の長男は、離婚歴がある」
 「Cさんは、かなりあくどいことをして、金をもうけたそうだ」と。

 一般論として、世間体を気にする人は、相対的な尺度で、自分の位置を決める。隣の人よ
り、収入が多ければ、金持ちであり、隣の人より、収入が少なければ、貧乏である、と。もちろ
ん隣の人が幸福だと、自分は不幸と感じ、反対に、隣の人が不幸だと、自分は幸福と感ずる。

 その結果として、いつも自分より、「下」の人ばかりを見るようになる。そのほうが、居心地が
よいからである。そしてさらにその結果として、ここでいう悪魔性をもつようになる。「他人の不
幸ほど、楽しいものはない」と。

 そこで私や、あなた自身は、どうかということになる。

 たとえばここにたいへん不幸な人がいる。経済的にも家庭的にも、恵まれず、苦労の連続。
おまけにその人自身も、大きな精神的な問題をかかえている。

 そういう話を聞いたときの心理的反応は、つぎの6つのタイプに分類できる。

(1)自己確認タイプ(「自分でなくてよかった」と納得する。)
(2)同情共鳴タイプ(「かわいそうだ」「何とかしてあげたい」と思う。)
(3)嘲笑侮蔑タイプ(「バカだなあ」「相手にしない」と笑ったりする。)
(4)無視排斥タイプ(「私には関係ない」「他人の話」と逃げてしまう。)
(5)学習利用タイプ(「どうしてだろう?」「自分ならどうするか」と考える。)
(6)妄想不安タイプ(「人ごととは思えない」と、悶々と悩んだり、心配したりする。)

 言いかえると、他人の不幸な話を聞いたときの、自分の心の中の反応を知ることで、自分自
身の人格の完成度を知ることができる。言うまでもなく、「人の不幸な話ほど、楽しいものはな
い」と思っている人は、きわめて人格の完成度の低い人ということになる。

 つぎの話を読んで、あなたはどう感ずるだろうか。

【テスト】

 X氏(47歳)は会社をリストラされた。そのとき得た退職金を使って、市内に小さな事務所を
開いた。しかし折からの不況で、半年後には、多額の借金をかかえて閉鎖。そのころ、妻は、
二人の娘(小6と小2)を連れて、家を出た。X氏は、酒に溺れるようになり、スナックで暴力事
件を引き起こし、傷害罪で逮捕。そのショックで、X氏は、緑内障になり、右目の視力を、ほとん
どなくしてしまった。

 この話を読んだとき、あなたの心の中では、どのように感じただろうか。どのような反応が起
きただろうか。上の(1)〜(6)を、人格の完成度の応じて並べなおしてみると、こうなる。上の
位置の人ほど、人格の完成度が、低いということになる。

★嘲笑侮蔑タイプ(「バカだなあ」「相手にしない」と笑ったりする。)
★無視排斥タイプ(「私には関係ない」「他人の話」と逃げてしまう。)
★自己確認タイプ(「自分でなくてよかった」と安心する。)
☆学習利用タイプ(「どうしてだろう?」「自分ならどうするか」と考える。)
☆妄想不安タイプ(「人ごととは思えない」と、悶々と悩んだり、心配したりする。)
☆同情共鳴タイプ(「かわいそうだ」「何とかしてあげたい」と思う。)
☆(神性タイプ)(神々しい包容力で、他人の不幸を共有できる。)

 ここで重要なことは、人格の完成度の低い人からは、高い人がわからない。しかし人格の高
い人からは、低い人がよくわかる。それはちょうど、山登りに似ている。低い位置にいる人に
は、山の上からの景色がわからない。自分がどこにいるかさえわからない。

しかし高い位置にいる人は、低い位置の人がどこにいるか、手に取るようにわる。当然、視野
も広くなる。(だからといって、私がその視野の高い人というわけではない。自分でも、そうなり
たいと願っている。念のため!)

 さらに人格の完成度の低い人は、たいていのばあい、自分の(低さ)にすら、気づくことがな
い。ないばかりか、自分を基準にしてものを考え、「他人もそうだ」と決めてかかる傾向が強
い。
 
 冒頭にあげた女性も、いつも、こう言っていた。

 「他人の心なんて、信用できない」
 「人はみな、タヌキだ」
 「渡る世間は、鬼ばかり」と。

 どこかさみしい人生観になる。

 しかし人格の「格」をあげるということは、むずかしいことではない。ないが、しかし勇気のいる
ことである。たとえば奉仕活動(ボランティア活動)をしたことがない人は、奉仕活動をすること
自体を、「損」と考える。

 子どもの世界でも、こんなことを言った高校生がいた。「生徒会活動をするヤツは、バカだ。
受験勉強ができなくなる」と。幼児でも、「スリッパを並べてくれない?」と声をかけただけで、
「どうして、ぼくがしなければいけないのか!」と言いかえしてくる子どもがいる。

 そうしたレベルの低い人生観を変えることは、簡単なことだ。自ら進んで、奉仕活動をしてみ
ればよい。しかしそこには、大きなカベがある。そのカベを越える力が、勇気ということになる。

最初、これは私の経験だが、そういう自分が、バカに見えてくる。バカらしさを感ずる。それは
たとえて言うなら、他人のあとをついて歩きながら、その他人が捨てるゴミを拾って歩くようなバ
カらしさである。

 そのバカらしさを越えるためには、勇気が必要である。

 こうして私たちは、自分の中の悪魔性と戦っていく。よく誤解されるが、よいことをするから善
人というわけではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。人は、自ら、その悪と
戦って、善人になる。

 実のところ、私の中にも、悪魔性がある。ないとは思わない。ときに、他人の悪口ほど、楽し
いものはないと思うこともある。「あいつはアホだ」「こいつはバカだ」と、ワイフと笑いながら話し
こむこともある。私は、決して、善人ではない。それにもともと、生まれが生まれだから、それほ
どの善人になれるとも思っていない。期待していない。

 しかしこれだけは言える。

 明るく、朗らかに、楽しく人生を生きるためには、自分の中に潜む悪魔性は、敵である。戦う
べき、敵である。その悪魔性に毒されると、人生そのものをムダにする。事実、冒頭にあげた
女性は、見るからに醜悪な顔をしていた。今、その女性を思い出しながら、「私は、ああはなり
たくない」と思っている。
(はやし浩司 悪魔性 人格の完成度 人格 善人論)




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29
●ボケの自覚

 原理的には、ボケの自覚は、ありえないことになる。脳のCPU(中央演算装置)そのものが、
ボケるのだから、これは当然である。自分のボケを判断すること自体が、できない。(「私はボ
ケてきたな」と感ずるようなら、まだボケていないそうだ。)

 それはたとえて言うなら、青いサングラスをずっとかけるようなもの。しばらくかけていると、サ
ングラスをかけていることすら忘れてしまう。青いサングラスを通してでも、赤はそれなりに赤く
見える。黄色は、それなりに黄色に見える。

 ボケのこわいところは、ここにある。

 そこで何か、方法はないものか。自分のボケを自分で客観的に知る方法はないものか。

 一つの方法としては、こんなのがある。これはあくまでも私の方法だが、数年前、あるいは5
〜10年前に書いた文章を読みなおしてみるというのが、それである。文のじょうず、へたという
ことではなく、その向こうにある(鋭さ)を見ながら、自分のボケを知る。

 そういう視点で見ると、ここ半年あまりで書いた文章は、かったるくなってきているような感じ
がする。つっこみも甘い。キレもない。……ということで、思考力が、かなり鈍ってきている?

 だからボケ始めたということにはならないのかもしれない。しかしたしかに頭の活動は衰えて
きているようである。とくに気になるのが、集中力。その集中力がつづかなくなってきた。

 ところで数日前、私は、ある女性(57歳)と話した。10年ぶりくらいではないか。

 その女性は、頭のよい女性だった。料理の専門家で、若いころは、地元のテレビ局でも、結
構、活躍していた。

 断続的にだが、2〜3時間は、話した。しかし、である。よくしゃべる割には、つぎのような特
徴があることに気づいた。

(1)人の話を聞かない。
(2)自分の意見ばかりを言う。
(3)同じことを、ときどき繰りかえす。
(4)話していると、軽い興奮状態になる。
(5)押しつけがましい、説教をたくさんまぜる。

 が、何よりも気になったのは、私が何かを言うと、即座に、ペラペラとそれを否定する点であ
る。考えるというよりは、思いついたことだけを、音声にかえているといったふう。

私「今年の冬は、暖かいそうですね」
女「そんなことないですよ。雪が降りましたよ」
私「どこか暖かいところへ、行きたいですね」
女「どこも、お金ばかり、かかって、たいへんですよ」と。

 よく観察すると、脳ミソの表層部分だけが活動していて、右から左へと、飛来した情報を、流
しているだけ。つまり思考力、ゼロ。そんな感じがした。

 たいへんよく誤解されるが、(情報の量)は、(思考力)とは、まったく異質のものである。もの
をよく知っているから、頭がよいということにはならない。たとえばペラペラとよくしゃべるから、
頭がよいということにはならない。

 まさにその女性が、そうだった。私は、その女性を見ながら、「この女性は、かなり、頭がボケ
始めているな」と思った。そこで軽くテストしてみた。ボクシングで言えば、軽いジャブを出してみ
た。

私「あなたは、よく早とちりすることはありませんか?」
女「私は、ないですねエ……。私は、慎重派ですから」
私「少しがんこになったとか……、そういうことはありませんか?」
女「ありません。私は、だれとでも、うまくやっています。私は、O型ですよ」と。

 かなり重症のようである。

 アルツハイマー型痴呆症のような、機質的なボケは別として、いわゆる加齢とともにやってく
る、機能的なボケ、つまり脳ミソのサビによるボケには、いろいろな症状がともなうようだ。

(1)思考力が低下する。
(2)記銘力、記憶の保持力、想起力が低下する。
(3)情報の整理力が低下する。混乱しやすくなる。
(4)感情が鈍麻し、繊細な感覚を喪失する。
(5)ものごとに固執する、がんこになる。
(6)融通性がきかなくなる、規則性が加速する。
(7)興味の喪失、反復作業が多くなる。
(8)回顧性が強くなり、過去に固執する。

 全体としてみると、人間的なやわらかさがなくなるということになる。おかしなところで、おかし
なこだわりを見せたりする。妄想ももちやすい。思い過ごしも多くなる。

 が、本人自身は、「私はふつうだ」と思いこんでいる。ここにボケの最大の問題がある。つまり
話はもとにもどるが、ボケながら、ボケた人は、自分がボケていることに、気がつかない。これ
には、例外はない。私も、あなたも、だ。

 そしてその返す刀で、周囲の人たちに向って、自分の(まちがい)を、まちがいと気がつかな
いまま、それを押し通そうとする。実際のところ、これが困る。よくある例が、自分でサイフをど
こかへしまい忘れたくせに、「お前が盗んだ」と、相手に食ってかかること。私の義姉も、今、そ
れで悩んでいる。

 「近所で、うちの嫁は、私のお金を盗んで使っていると、言いふらしているのですよ。本当にも
う、いやになってしまう」と。

 では、そのボケを防ぐには、どうしたらよいか。

 私は、やはり、常日ごろから、考える習慣を、養うしかないのではないかと思っている。ちょう
どスポーツをして、体を鍛えるように、頭も、使うことで、鍛える。で、私のばあいは、「書く」とい
うのが、その頭の運動ということになる。

 今のところ、ほかに方法がないので、それをつづけるしかないのでは……。それとあとは、毎
日、数時間でもよいから、幼児と、直接触れあう。そういう形で、脳みそに刺激を与える。

 終わりに一言。ボケは、何も、50代、60代で始まるものではない。40代でも、ひょっとした
ら、30代でも始まる。「私は若いから……」などと油断していると、頭というのは、すぐサビつく。
みなさんも、くれぐれも、ご用心!





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30
●結婚幸福度

 結婚の幸福度は、つぎの4つをみて、判定するそうだ(アメリカ・心理学者・ターマン)。

(1)戸外の娯楽(趣味)を、ともにする。
(2)家計の扱いについて、夫婦が一致している。
(3)たがいに配偶者として、尊敬している。
(4)生まれかわっても、同じ配偶者と結婚すると思っている。

 ある調査によると、日本人の妻のばあい、結婚当初は、「結婚の幸福度」は、夫より高いそう
だ。が、3年を過ぎると、その夫よりも低くなるという。そしてそのあと、12〜14年で、たがいに
幸福度は最高になり、その時点をピークに、妻の幸福度は、さがりつづけるという(「心理学用
語」・かんき出版)。

 つまり日本人のばあい、結婚の幸福度は、年齢とともに、変化するということ。

 一方、アメリカ人の夫婦のばあいは、結婚当初から最後まで、この幸福度は、ほとんど変化
しないそうだ(同)。

 さらにこんな調査結果もある(同・詫摩氏調査)。

 つぎのようなばあいには、結婚後の夫婦の幸福度は、日本では、高いという。

(1)婚約が整うまで、スムーズに話が進んだ。
(2)結婚前の交際中に、話し合いがよくできた。
(3)結婚前の交際中に、将来の生活についての不安を感じたことがなかった。
(4)結婚に母親が賛成であった。
(5)両親の結婚生活がうまくいっていた。
(6)現在の生活が、経済的に楽である。(同書、172P)

 なるほどと言えば、なるほど。当然といえば、当然。ここに書いてあることは、経験的にも、納
得できる。言いかえると、ここにあげた、(1)〜(6)までのどれかで、つまずいたりすると、それ
が(しこり)になって、夫婦関係がおかしくなることは、よくある。

 たとえば結婚に当初から、母親が反対していたとすると、ちょっとした夫婦げんかでも、その
まま離婚話になってしまうかもしれない。経済的な問題にしても、「お金では幸福は買えない
が、なければ、不幸は向こうからやってくる」(はやし浩司)。

 円満な夫婦生活には、ある程度の経済的な余裕と安定性が大切であることは、言うまでもな
い。

 ……ということで、私の、夫婦の幸福度を、自己採点してみる。(1問10点で採点)

(1)戸外の娯楽(趣味)を、ともにする。……まあまあ、している。(7点)
(2)家計の扱いについて、夫婦が一致している。……たがいに無頓着。(5点)
(3)たがいに配偶者として、尊敬している。……あまりしていない。(3点)
(4)生まれかわっても、同じ配偶者と結婚すると思っている。……ワイフは、「いやだ」と言って
いる。(0点)

 40点満点で計算してみると、15点ということになる。(少しシビアに採点してみたが……。)

 まあ、どんな夫婦であれ、今の私たちには、今の夫婦関係しかない。よくても悪くても、今の
夫婦関係しかないのだから、満足も、不満足もない。あきらめて、受けいれるしかない。ただ改
善すべき点があるなら、改善していこうと考えている。

 たとえばこれからは、たがいに共通の趣味を大切にしたいし、たがいによい点をみつけて、
尊敬しあいたい。来世でも、いっしょになるということは、あまり考えないでおこう。ワイフも、い
やがるだろうし……。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●プロダクティブ・エイジング(生産的加齢)

私自身の記憶をたどってみる。20代、30代の記憶は、それなりに残っている。しかし40代な
ることからの記憶が、ほとんど、残っていない?

 これはどうしたことか?

 そこでワイフに相談してみると、ワイフも、「そう言えば、ないわね」と。そしてこう言った。「そ
のころは、子育てで夢中で、自分の思い出をつくるヒマなど、なかったからよ」と。

 そのとおり。

 私たち夫婦の思い出は、ほとんどない。が、息子たちとの思い出は、ある。つまり私たちとい
うより、親は、子育てをしながら、子どもとの思い出を、自分自身の思い出として記憶する。わ
かりやすく言えば、子どもの思い出イコール、親の思い出ということになる。

 息子が幼稚園へ入ったとき。息子が小学校に入ったとき。卒業したとき。息子といっしょに、
プールへ行ったとき。旅行したとき。いつもそこには、息子たちがいる。つまりそれが、そのま
ま、そのころの記憶となる。

 しかし肝心の、私や、ワイフとの記憶が、ない! 私は何をしてきたのだろうとさえ思うことが
ある。

 そこで今、子育てがほとんど終わってしまった今、何をしてきたのかと聞かれても、ハタと困っ
てしまう。これといった思い出が、何もないからだ。何かをしてきたはずなのに、思い出という
と、一気に、自分たちの青春時代にまでもどってしまう。

そこでしかたないから、息子たちとの思い出にしがみつこうとするが、その息子たちは、もう巣
立ってしまった。三男にしても、身分はまだ大学生だが、休みになっても、ほとんど、家にはい
ない。アルバイトにしても、東京や横浜でしている。

 ポッカリと、心の中に穴があいたような気分である。

 本来なら、私たちは私たちで、自分たちの思い出をしっかりと作っておくべきだった。それは
たとえて言うなら、明けても暮れても、仕事ばかりしていたようなもの。仕事をしたという記憶は
あるが、それ以外は、ほとんど、ない。あまりよいたとえではないかもしれないが、それに近
い。

 そのころというのは、いつもそこに息子たちがいて、その息子たちのために、毎日生きていた
ような気がする。少年野球の応援に行った。少年野球の付き添いで、キャンプにも行った。登
山もした。旅行にも行った。

しかし私たちが、そうしたいからそうしたというよりは、いつも心のどこかで、ある種の義務感を
覚えたから、そうした。犠牲になったとは思わないが、もう少し、今から思うと、別の生き方も、
あったのではないかと思う。

 たとえば私たち夫婦だけなら、ひょっとしたら、30歳の半ばには、オーストラリアへ移住して
いたかもしれない。移住は無理だとしても、数年間は、オーストラリアで、好き勝手なことをした
かもしれない。

 しかし息子たちのことを考えたとき、それができなくなってしまった。「学校は?」「進学は?」
「勉強は?」と。そんなことを考えているうちに、そうした夢や希望は、しぼんでしまった。

 そこで今、私たち夫婦が第一に考えることは、老後を、晩年ととらえるのではなく、子育てか
ら解放された、第二の人生ととらえること。自分たちらしい、心豊かな老後である。そうした生き
方を、英語では、「サクセスフル・エイジング」というらしい。「楽しい老後」という意味か。

 しかし、たとえば毎日、庭いじりをしながら、孫の世話をして、のんびりと暮らすというのが、本
当に、あるべき老後かというと、どうもそうではないような気がする。「サクセスフル(成功)」と言
葉からは、そういう生活を思い浮かべるが……。

そこで最近では、さらに一歩進んで、「プロダクティブ・エイジング(生産的加齢)」という言葉が
使われるようになった。年齢を考えることなく、老後であっても、さらに前向きに生きるということ
をいう。

 もちろん体力的な衰えや、知力的な衰えについては、どうしようもない。しかしだからといっ
て、ゼロになるわけではない。私は私だし、あなたは、あなた。60代になっても、70代になって
も、そして80代になっても、だ。

 だいたいにおいて、老いるという言葉がおかしい。日本人は、「老人」のイメージを自らつくり
あげてしまい、それに合わせて、自分を作ろうとする。つまり日本人は、老いるのではなく、自
ら老いを、自分の中に作っていく。

 中には、ひとりで部屋にいるときは、スイスイと歩いているクセに、人の目を気にしたとたん、
弱々しい歩き方をする人もいる。「私も、年をとりました」を、口ぐせにしている老人も、多い。

 そこで大切なことは、こうしたまちがったというか、ゆがんだ、老人観を、今、ここでたたきつ
ぶしておくということ。そして死ぬまで、その死を意識することなく、ただひたすらに、前向きに生
きていく。

 それがここでいう「プロダクティブ・エイジング(生産的加齢)」ということになる。

 そうでなくても、やがて、日本人の人口の約25%が、65歳以上という時代になる。4人に1
人が、高齢者という時代である。そういう時代が確実にやってくるのに、私たちは、若い人たち
に甘えているわけには、いかない。

 だからこそ、ますます「プロダクティブ」な生き方が、重要ということになってくる。社会に対し
て、前向きにかかわりあっていく。

 そこで私なりの結論。昔の人の言い方を借りるなら、こうなる。

「今どきの、若いものに負けていられるものか!」と。
(はやし浩司 エイジング プロダクティブ エイジング 生産的な老後)

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