書庫159039
はやし浩司
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●強迫性障害

 一つのことに執着すると、そのことばかりが気になって、悶々と悩む。悩むだけならまだしも、
それが原因となって、日常生活に支障が出るようになることがある。これを「強迫性障害」とい
う。

 ある女性(36歳)は、マンションの上の階の足音が気になってしかたなかった。夫は、「聞こ
えない」「たいしたこない」と言ったが、その女性には、聞こえた(?)。たまたま上の階の部屋と
自分の部屋の間取りが同じということもあった。その女性には、音だけではなく、上の階の住
人の生活ぶりまでが、すべて手に取るようにわかった。

 が、そのうち、その女性は、「(上の階の人が使う)掃除機の出す音がうるさい」と言いだすよ
うになった。「掃除といっても、1日、1回程度なら、がまんできる。しかし1日、5回は多すぎる」
と。

 その女性は、毎日、上の階の人がどのような騒音(?)を出すか、その内容と回数をノートに
記入するようになった。が、それだけではない。自分が買い物などで、家をあけるときには、小
学2年生になった息子に、その回数を数えさせた。

 息子は、その女性(母親)が帰ってくると、「今夜は、掃除機が1回で、洗濯機が1回……」と
いうように、報告していたという。

 そしてある日、その女性はそれらの記録をもって、上の階の住人のところへ怒鳴りこんでい
った……。

 そのあとどうなったかは、容易に想像がつくことと思う。

 実は、こうした強迫性障害は、教育の世界でも、よく経験する。数年前のことだが、ある小学
校へ講演に行ったら、その学校の教師が、こんな話をしてくれた。

 その学級で、「よい子は、みんな、仲よし。友だちも、多い」というような内容の、学級通信を
出した。

 が、1人の母親が、これに猛反発した。たまたまその母親の子ども(小2女児)が、学校でい
じめにあい、仲間はずれにされていた。そのことを、その母親は、悩んでいた。

 その母親は、校長に、「うちの子は、よい子ではないのか!」と。「よい子とは何だ!」「仲よし
って何だ!」「どうしてそれが学級の方針なのか!」と、くいさがった。

 拡大解釈と被害妄想。一言で言えば、そういうことになるが、その母親の怒りは、それで収ま
らなかった。「子どもの人権問題だ」「名誉毀損だ」と。さらには「校長不適格」などとも言い出し
たという。つまりその母親は、その問題に固執するあまり、自分の姿を見失ってしまった。

 こうした強迫性障害の延長に、買い物依存症(女性に多い)や、賭博(とばく)依存症(男性に
多い)がある。これらの依存症の人も、一つのことにこだわり始めると、それが頭から離れなく
なる。

 たとえば買い物依存症の女性にしても、「それがほしい」と一度思いこむと、あとは、明けても
暮れても、考えることは、そのことばかりという状態になる。そして一度、それを買うと、その満
足感と同時に、解放感を味わう。あとは、この繰りかえし。

 が、こうした強迫性障害の人に、悩みや苦しみがないかといえば、そうではない。

 悶々と、そのことに執着している間は、ふつうの人以上に、悩んだり苦しんだりする。「気にな
ってしかたない」というのは、苦しみである。

 またその問題が解決したからといって、実は、その苦しみから解放されるというわけではな
い。たとえば買い物依存症の女性にしても、そのあと、今度は、強い自責の念にかられる。「ど
うして買ってしまったんだろう」と。

 さらに病的になると、借金をしてまで、自分のほしいものを手に入れるようになる。こうなる
と、あとは、奈落の底! こうして破産していく人は、少なくない。

 先の「掃除機の音がうるさい」と怒鳴りこんでいった女性のケースでは、当然のことながら、そ
のあと、上の階の住人とは、険悪な関係になってしまった。当然である。が、運の悪いことに、
上の階の住人は、そのマンションの中でも、指導的な立場にあった。以後、その女性が、マン
ションの住民たちの間で、どのような扱いを受けたかについても、容易に想像がつくことと思
う。

 で、そのあとのことだが、その女性と夫は、何度も、上の階の住人に謝罪に行ったが、受け
つけてもらえなかったという。

 ただ一度、こうした強迫性障害になった人は、そのつど、テーマを変えて、同じ障害になりや
すいと言われている。

 そのときは、上の階の住人の出す騒音であっても、それが解決すると、今度は、外を走る車
の騒音になったり、ここにあげた、学校通信の文面になったりする。さらにそれが子どもの教
育におよぶようになると、ことは、深刻になる。

 明けても暮れても、考えることは、子どもの成績ばかり……というようであれば、あなたも、そ
の強迫性障害を疑ってみたらよい。
(はやし浩司 強迫性障害 買い物依存症 依存症 育児ノイローゼ 強迫神経症 強迫観念
 強迫症)

【あなたの心診断―女性用】

 つぎの項目のうち、いくつか当てはまるようなら、強迫性障害を疑い、子育ての場で、子ども
の心に影響を与えないように、注意する。

(  )かつて、買い物依存症など、何かの依存症になったことがある。
(  )ひとつのことが気になると、そのことばかり考えることがよくある。
(  )子どもに問題が起きると、先生や、子どもの友人に、原因を求める。
(  )かっとなると、見境なく行動してしまうことがあり、あとで後悔しやすい。
(  )被害妄想をもちやすく、ものごとを何でも悪いほうに解釈してしまう。






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●モナー論

●オマエモナー

 ネット上で、今、「モナー」という、ネコに似た絵文字が流行している。(どう見ても、ネコだが…
…。)

 もともとは、「オマエ・モナー(お前もナー)」という言い方から生まれたという。つまり、だれか
が、何か、文句を言ったら、「お前もナ〜」と。そういうふうに、言いかえすところから、「モナー」
という名前がついたという。

 「世の中、まちがっているよ」「お前もナー」
 「あの服装、おかしいよ」「お前もナー」
 「悪いことは、してはいけないよ」「お前もナー」と。

 相手が、どこか優等生的に、優越感を覚えながら、あなたに何かを言ったときに、この絵文
字を、打ちかえす。「お前もナー」と。

 しかし私などは、いつも、みなに、そう言われている。「お前もナー」と。評論しているものの宿
命というか、そう言われるのは、避けてとおれない道。15年ほど前のことだが、私のことをよく
知っている女性が、私にこんなことを言ったことがある。

 「(教育評論をしている)先生のお子さんのことですから、みなさん、さぞかしいい高校へ進学
なさったことでしょうね」と。

 その女性は、どこか皮肉をこめて、私にそう言った。その雰囲気は、私にも、よくわかった。し
かし、あまりにも低劣な会話。それで、こう答えてやった。

 「みんな、できそこないでね。私、そっくりですよ」と。

 そう、評論活動をするとき、一番、気を使うのは、この部分である。何かを言うと、「じゃあ、お
前は、どうなんだ」とやり返される。ここでいう「お前もナー」という言葉が、それに当る。

 これも少し前だが、私に面と向かって、「評論するくらいなら、だれにだってできるよな」と言っ
た男(50歳くらい)がいた。評論活動が、一番、誤解される点は、ここにある。また、そういう誤
解だけは、いくら注意しても、避けて通れない。

 しかしこのモナー、一見、正当性があるようで、ない。まったく、ない。もう少し、踏みこんで考
えてみよう。

 たとえばA氏が、B氏に向かって、「友だちと仲よくしよう」と話しかけたとする。そのとき、それ
を言われたB氏は、「お前もナー」と言いかえしたとする。

 B氏としては、「何を偉そうに。自分ならできるのか。他人に、節介など、焼くな」という気持ち
をこめて、そう言う。

 そのとき、問題は、B氏がどのレベルにいるかということ。もしB氏が、A氏と同じか、それ以
上の立場にあれば、それでよし。しかしこの種の論理は、低劣な人が、自分の世界に相手を
引きずりこむ論理として、よく利用される。

 こんな例がある。

 ある学校の校長が、その子ども(小2・女児)の母親に、こう注意した。その子どもは、いつも
髪の毛を、茶髪に染めていた。

 「できれば、茶髪をやめてほしい」と。

 するとその母親は、「茶髪は、個人の自由だ」「個性だ」と息巻いた。

 しかしこの母親の論理は、一見、正当性があるようで、まるでない。もしこの段階で、学校側
が、「そうですね」と引きさがるようなことがあれば、歯止めがなくなってしまう。みながみな、「個
人の自由だ」「個性だ」と言い出したら、収拾がつかなくなってしまう。学校教育そのものが崩壊
してしまう。

 言うまでもなく、個性というのは、生きザマの問題。茶髪にすることは、個性の主張でも何でも
ない。つまりこの母親は、一見、正当な論理を口にしながら、自分たちのより低劣な世界に、学
校をひきずりおろそうとしている。少なくとも、学校教育を、より高次元にしようとする意見では
ない。

 もっとわかりやすい例で、説明しよう。

 子どもの1人が、不注意で、戸棚の花瓶を落として割ったとする。そのとき、先生が、「どうし
てもっと、気をつけないの!」と、叱ったとする。

 そのとき、もしその子どもが、すなおに、「ごめんなさい」と言えば、それでよし。しかし「先生だ
って、この前、割ったでしょ」と言いかえしたら、どうなる。その子どもには、すなおさがないとい
うことになる。「お前もナー」という言葉は、そういう言葉である。どこかものの考え方がひねくれ
ている。まともな人間の使う言葉ではない。

 そんなわけで、「お前もナー」という言い方には、一見、正当性があるようで、ない。もしその
相手が、「お前もナー」と言ったら、こう言いかえしてやればよい。

 「だったら、あなたは、私が考えている以上に、この世界をよくすることができるのか」と。

 考えてみれば、不愉快な言葉ではないか。

 「信号を守れ!」「モナー!」
 「駐車場に、きちんと車を置け!」「モナー!」
 「速度を守れ!」「モナー!」
 「運転中は、携帯電話をかけるな!」「モナー!」と。

************************

この「モナー論」について、「透明サングラス」様という
方から、反論が届いています。

率直に言って、参考になりましたし、また自分の不勉強
というか、この世界のあまりの進歩の速さに驚いています。

「なるほど」と思う部分も多いので、透明サングラス様の
許可を得て、ここにいただきましたメールを、転載します。

************************

【透明サングラス様から、はやし浩司へ】

俺は、この日記の 「モナー」 の捉え方には大いに反論がある。

一般的に (というか今のネット上では) おまえもなーと誰かが言うときには状況に二つの共通点
があると思う。

その共通点とは、1つは 「オマエモナー」 と言われた人が、「一般常識で」 ではなく、 「人間とし
ての常識で、又は世界常識で」 考えた時に、明らかにおかしい発言をしている状況ではない
か、と俺は思う。いわゆる 「皮肉」 だ。

例えば A さんが 2ch で、「学生は茶髪にするな ゴルァ」 という。それに対しての 「オマエモナ
ー」 は、すくなくともそういう意味だ。

髪の色は勉強に関係ない。学校で勉強しているときに、例えば B くんの髪の色が緑色でも、テ
ストでは勉強すれば点がとれるし、先生の授業だってまじめに聞けるはずだ、本人がその気な
ら。もちろん友達だって多いかもしれない。それを学校が圧力で黒髪にしようとする。オマエモ
ナーはそれに対しての反論に過ぎないと、俺は思う。そして例えば、生まれながら金髪の美女
が教室にいて、その人の髪の色も黒にしないといけないのだろうか。髪の色が他の生徒とずい
ぶんと違うはずだが、授業に支障はないはずだ。

「髪の色を改変しちゃいけない」 という意見ももちろん出るだろう、学校から。しかし、では、ど
のシャンプーから先をダメにしましょうか??? 世の中髪の色を補正するシャンプーも多くありま
すが・・・。メーカー指定で排除しますか??? もしその生徒の親がその会社の社員でもですか???

もう一つの共通点は 「相づち」 をするときに用いられる、ということだ。

反対意見のない発言に 「オマエモナー」 と言う言葉が 「皮肉の意味で」 書かれているのを見
たことがありますか???

最近人を殺す高校生がいるらしいです・・・人殺しはしないように!! <- オマエモナー

この場合の 「もなー」 は明らかに 「相づち」 だ。だれもこれを見て不愉快な思いはしないだろ
う。なぜなら、上の会話の 「もなー」 は 「その通りだ」 という意味(と同時に、わざわざそんなこ
と言わなくても、という意味もだが)に解釈されるからだ。ネット上では、だが。とにかく、2ch か
ら発生する、いわゆる 「アスキー文字」 と 「2ch 用語」 は、日本語でありながら通常では考え
られない意味や 「含み」 をもっている。

これを現実世界と混同して考えるのはどうかと思う。

********************

【透明サングラス様へ】

 コメント、ありがとうございました。
 茶髪については、誤解があったようです。
 それが「悪」と考えているわけではありません。

 ただ学校側には学校側の言い分があるということ
 です。

 以前書いた原稿を、ここに添付しておきます。

++++++++++++++++++++

だれにも迷惑をかけないからいい!
子どもの個性(失敗危険度★★)

●子どもの茶パツ

 浜松市という地方都市だけの現象かもしれないが、どの小学校でも、子どもの茶パツに眉を
ひそめる校長と、それに抵抗する母親たちの対立が、バチバチと火花を飛ばしている。講演な
どに言っても、それがよく話題になる。

 まず母親側の言い分だが、「茶パツは個性」とか言う。「だれにも迷惑をかけるわけではない
から、どうしてそれが悪いのか」とも。今ではシャンプーで髪の毛を洗うように、簡単に茶パツに
することができる。手間もそれほどかからない。

●低俗文化の論理

 しかし個性というのは、内面世界の生きざまの問題であって、外見のファッションなど、個性と
はいわない。こういうところで「個性」という言葉をもちだすほうがおかしい。また「だれにも迷惑
をかけないからいい」という論理は、一見合理性があるようで、まったくない。裏を返していう
と、「迷惑をかけなければ何をしてもよい」ということになるが、「迷惑か迷惑でないか」を、そこ
らの個人が独断で決めてもらっては困る。

こういうのを低俗文化の論理という。こういう論理がまかり通れば通るほど、文化は低俗化す
る。

文化の高さというのは、迷惑をかけるとかかけないとかいうレベルではなく、たとえ迷惑をかけ
なくても、してはいけないことはしないという、その人個人を律するより高い道徳性によって決ま
る。「迷惑をかけない」というのは、最低限の人間のモラルであって、それを口にするというの
は、その最低限の人間のレベルに自分を近づけることを意味する。

●学校側の抵抗

で、学校側の言い分を聞くのだが、これがまたはっきりしない。「悪いことだ」と決めてかかって
いるようなところがある。中学校だと、校則を盾にとって、茶パツを禁止しているところもある
が、小学校のばあいは、茶パツにするかしないかは親の意思ということになる。が、学校の校
長にしてみれば、茶パツは、風紀の乱れの象徴ということになる。学校全体を包むモヤモヤと
した風紀の乱れが、茶パツに象徴されるというわけだ。だから校長にしても、それが気になる。
……らしい。

●まるで宇宙人の酒場!

 が、視点を一度外国へ移してみると、こういう論争は一変する。先週もアメリカのヒューストン
国際空港(テキサス州)で、数時間乗り継ぎ便を待っていたが、あそこに座っていると、まるで
映画「スターウォーズ」に出てくる宇宙の酒場にいるかのような錯覚すら覚える。身長の高い低
い、体形の太い細いに合わせて、何というか、それぞれがどこか別の惑星から来た生物のよう
な、強烈な個性をもっている。顔のかたちや色だけではない。服装もそうだ。国によって、まる
で違う。

アメリカ人にしても……、まあ、改めてここに書くまでもない。そういうところで茶パツを問題にし
たら、それだけで笑いものになるだろう。色どころか、髪型そのものが、奇想天外というにふさ
わしいほど、互いに違っている。ああいうところだと、それこそ頭にちょうちんをぶらさげて歩い
ていても、だれも見向きもしないかもしれない。

●結局は島国の問題?

 言いかえると、茶パツ問題は、いかにも島国的な問題ということになる。北海道のハシから沖
縄のハシまで、同じ教科書で、同じ教育をと考えている日本では、大きな問題かもしれないが、
しかしそれはもう世界の常識ではない。

 そんなわけでこの問題は、もうそろそろどうでもよい問題の部類に入るのかもしれない。ただ
この日本では、「どうぞご勝手に」と学校が言うと、「迷惑をかけなければ何をしてもよい」という
論理ばかりが先行して、低俗文化が一挙に加速する可能性がある。学校の校長にしても、そ
れを心配しているのではないか? 私にはよくわからないが……。
(はやし浩司 茶髪問題 チャパツ チャパツ問題 茶パツ)





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●問題意識

●いらぬお節介!
 
 問題意識のない親に、その問題を指摘しても、かえって反発を買うだけ。この世界の、常識
である。

 たとえば明らかに過剰行動性のある子どもがいたとする。突発的な行動性と、衝動性。キー
ッと甲高い声をあげて、興奮状態になったりする。

 原因は、脳間伝達物質(セロトニンなど)の異常分泌が疑われている。

 そこでそういう子どもを見かけたりすると、私のばあい、つい、「砂糖を与えすぎていません
か」と声をかけてしまう。しかしこの一言が、その親を激怒させる。(砂糖だけが原因ではない
ばあいもある。Ca、Mg不足でも、同じような症状を見せるときもある。)

 「甘いものなど、与えていません」
 「どういう子を、あんたは、ふつうの子と言うのだ」
 「そうでなくても、子育てはたいへん。いらぬお節介!」と。

 ほかにも、いろいろある。明らかにかん黙症や、自閉症、さらにはADHD児の疑いがあって
も、この世界では、「聞かれるまでは、言わない」が、大原則になっている。

 さらに明らかに「このままでは、この子は、燃え尽きて、やがて無気力児になるだろう」とわか
っていても、言わない。言う必要もない。言えば言ったで、かえって親の反発を買ってしまう。

 一度、もう15年ほど前になるが、「やはり、あきらめることは、あきらめたほうがいい」という
ようなアドバイスをしたことがある。その子ども(中学生)は、無理な学習が原因で、伸び悩んで
いた。親は。「もっと……」「まだ何とかなる……」と、子どもを攻めたてていた。

 するとその親(そのときは父親だったが……)は、私にこう言った。「他人の子どもだと思っ
て、よくも言いたいことを言うものだ。『あきらめろ』とは、何だ!」と。

 そしてそのあと、私の悪口を言いふらした。「あの林は、まじめに教えない。できない子どもを
いじめる」とか。よほど、その親の癇(かん)にさわったらしい。

 そんなわけで、親というのは、自分で何かに失敗してみて、そのときはじめてそれが失敗だっ
たと気づく。それまでは、気づかない。だいたいにおいて、他人の言葉に耳を傾ける余裕すら
ない。「あんたは、だまって、息子の勉強だけみていてくれればいい」、つまり「よけいなことを言
うな」と言った親すらいた。

 これも子育てが宿命としてもつ、側面の一つかもしれない。

【補記】

 親側の悪口ばかり書いたが、その一方で、親の不安をたくみにかりたてながら、それを金も
うけにつなげている、幼児教室や塾が少なくないのも事実。

ある幼児教室(S市)では、入会と同時に、テストを実施。「この力では、無理です」「運動能力
が劣っています」「数の力をもう少し」と、あれこれ問題点を指摘したあと、それぞれの教室に通
わせている。

そのため、月謝だけで、平均8〜10万円というから、恐ろしい! さらに「このままでは、学校
へ入ってから、落ちこぼれます」と、個人レッスンをすすめられ、プラス4万円も払わされている
親もいる。(計14万円! ホントだぞ!)

 私はよく「子育て狂騒曲」という言葉を使うが、そういう言葉を使う背景には、こういう事実が
ある。

【補記2】

 親の不安を金もうけにつなげる方法は、いくらでもある。まず(1)テストをする。(あるいは定
期テストを繰りかえす。)そして「客観的なデータです」とか何とか言って、点数と順位を見せ、つ
ぎに「こうすれば、力が伸びます」ともっていく。

 つぎに(2)「権威」の演出。このS県では、何でも「教材は、東京の幼児教室で使っているもの
……」「講師は名古屋から来ている先生……」というだけで、それをありがたがる傾向がある。
月謝も、2倍から3倍が相場。地方都市の悲しさ、というべきか。

 あとは、何かと子どもの欠点を見つけては、(3)補習レッスンと特別講座。これを繰りかえ
す。もちろん有料。こうして現に今、このH市にも、週5日間、子どもに通わせている幼児教室
がある。(週に5日だぞ!)

 何か……というより、すべてが狂っている。もうこうなると、教育というよりは、カルト。カルトと
いうよりは、狂育。子育てに狂騒する親たちは、結局は、その犠牲者にすぎない。

 しかし問題は、親たちが、なぜそうなるかということ。そのあたりまでメスを入れないと、結局
は、この問題は、解決しない。あるいは親たちに、新しい子育ての指針を示してやらないと、か
えって、親たちを路頭に迷わせることになってしまう。そのためにあえて一言、申し添えるなら、
こういうことになる。

 親たちよ、私といっしょに、もっと賢くなろう!





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●親子の意識

●親子の意識のギャップ

 ほとんどの親は、自分の老後を設計するにあたって、こんな生活を夢見る。(1)子どもや孫
たちに囲まれ、(2)その子どもや孫たちに尊敬され、(3)子どもや孫たちにめんどうをみてもら
い、(4)趣味三昧の心の豊かな生活を送る。

 しかしこの日本では、もはやそれは幻想に近い。「近い」というより、幻想そのもの。「私だけ
は失敗しない」「私だけはちがう」と思いたい気持ちはよくわかるが、ありえない。ありえないこと
は、あなたの周囲の老人たちを見れば、わかる。

 実際には、(1)子どもや孫たちとは、離ればなれ、(2)死ぬまで、子どもたちに、スネをかじら
れ、めんどうをかけられ、(3)生活費はギリギリの年収300万円弱(試算平均)、(4)病魔と闘
いながら、毎日、病院通い。

 そんな話を、今夜も、ワイフとした。

 「最近の子どもたちは、親のめんどうをみる発想そのものがないね。ぼくらは、23歳のときか
ら、収入の半分を実家に送金してきただろ。しかし、今は、ちがう。逆転してしまった。

 そればかりか、二男は、この前、日本にきたとき、こうこぼした。『アメリカの両親は、子どもを
預かってくれる。その間、ぼくらは、デートできる。しかし日本の両親(=私たちのこと)は、子ど
もを預かってくれない』とね。

 ぼくらは、3人の子どもを育てたけど、一度だって、子どもを預かってもらって、デートなんか
に行ったことがないよね。

 考えてみると、不幸を知らない子どもというのも、かわいそうだね。『幸福であるのが当たり
前』という前提で、ものを考えるからね。ぼくらはトイレに入るときだって、そのトイレの水洗便
所を見ながら、心のどこかで、『昔とくらべたら、夢みたいだ』という思いが働くよ。

 ぼくらは、ぼくらで、精一杯、がんばって生きてきた。一か月で、休みが1日しかないような生
活が、何年もつづいた。そうした苦労や努力って、いったい、何だったのだろうね」と。

 それに答えて、ワイフは、こう言った。

 「私は、はじめから、期待などしていなかったわ。あなたはいつも、心のどこかで、『〜〜して
あげている』『〜〜してやっている』というふうに考えていたでしょう。それが犠牲心になったの
よ。だから、今、そう感ずるのよ」と。

 要するに、親も、ある時期がきたら、サッパリと子離れをする。『親が子を思うほど、子は親を
思わず』とは、昔から言うが、そのギャップが、近年になって、さらに広がったということか。

 たしかに今の子どものみならず、若い親たちも、昔と比べたら、ドライになってきている。が、
その一方で、子どもたちに対して、冒頭にあげたような幻想をいだいている人が多いのも事
実。が、幻想は、幻想だけに終わらない。

 今の子どもたちは、学費はもちろんのこと、結婚式の費用から、新居の費用まで、親が出す
べきだと考えている。(……らしい。)親は親で、そのつど、「子どもは私に感謝しているはず」と
考えがちだが、実際には、感謝の念など、ミジンもないのでは(?)。

 その点、ワイフは、昔から、はっきりしている。私が何かをするたびに、「あなたはやりすぎよ」
と言う。今でも、毎週、息子たちにいろいろなものを送っているが、ワイフが自分で買って送る
ことは、めったにない。むしろ「送らなくてもいい」と、ブレーキをかけるのは、いつもワイフのほ
う。

 が、息子たちは、私にではなく、ワイフに感謝している。

 こうしたバカらしさを感じながら、父親も、やがて子離れをしていくものか。
 
 ……とは書いても、こうしたバカらしさを乗りこえるのも、親の努め。どこかグチっぽくなったの
は、このところ、何かにつけて落ちこんでいるため。いやなことがつづいた。

 ただこういうことは言える。私がワイフに、「これからの将来は、ぼくたちは、ぼくたちだけのこ
とを考えればいいよね」と言うと、ワイフは、あっさりと、こう言った。「当然でしょう。財産なん
て、死ぬまでに使いきればいいのよ」と。

 そう言えば、昨夜、三男が私にこう教えてくれた。私が「お前のように、人生を気楽に生きる
には、どうしたらいいか」と聞いたときのこと。「パパ、どうにでもなれ!って、そう生きればいい
よ」と。

 ナルホド! よい言葉だ。「どうにでも、なれ!」か。そうだ、どうにでもなれ! バカヤロー!

 ……ということで、本題。

私「昔は、子はかすがいって、言っただろ。今は、そういうふうに考えないのかもね」
ワ「そうよ。子は足かせって、言うくらいよ」
私「子がいるから、がんばる。それはわかるが、子どもがいるから離婚しないというのも、これ
からは、考えものだね」
ワ「そうよ。自分の老後を考えたら、サッサと離婚したらいいのよ。子どもに気がねなんか、す
る必要はないのよ。私たちの人生は、私たちのものだから」
私「そうだよな」と。

 これは私の調査によるものだが、祖父母が死んだときでも、それを悲しむ子ども(孫)は、ほ
とんどいない。涙を流したという子どもは、さらに、いない(5〜6歳児、10人前後に聞き取り調
査)。

 しかし孫が何かのことで死ねば、親はもちろん、たいていの祖父母は、それを死ぬほど、嘆
き悲しむ。

 こうしたギャップというのは、親子でも、ある。親としては、「そうでない」「そうであってほしくな
い」と思いたいのかもしれないが、それこそが、まさに幻想。だからといって、子どもに冷たくな
れというのではない。要するに、私のワイフが言うように、最初から期待など、しないこと。その
一言につきる。

 親子の意識のギャップを埋めるためには、それしかない。
(041113)





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●現実から逃避する子ども

【現実から遊離する子どもたち】
 
●現実から遊離する子どもたち

 少し前、ある母親から、こんな相談があった。何でも、12歳の娘が家出をしたという。それに
ついて母親が、それを責めると、その娘は、こう答えたという。

「ポケモンのさとしも、ハンターハンターのゴンたちも、10歳くらいで、旅に出ている」と。

 この子どもの例をみるまでもなく、今、(現実)と、(非現実)の区別ができない子どもがふえて
いる。

 こうした現象は、あの「たまごっち」ブームから、顕著になった。それがやがてポケモン・ブー
ムへとつながり、今に至っている。そのあと、この傾向が弱まったということはない。その間に、
その非現実性が原因と思われる、小中学生による凶悪事件も、いくつかつづいた。

 遠い別の世界での話ではない。このH市の小学校でも、学校で飼っていたウサギの足が切ら
れる事件、カメをすべり台の上から落として殺す事件、みんなで飼っていた昆虫に、殺虫剤が
かけられる事件などが、多発している。

 これらは、一つまちがえば、そのまま凶悪事件につながりかねない事件である。

 最近の子どもの特徴としては、つぎの二つがある。

(1)衝動性
(2)現実感覚の喪失

 この中の衝動性については、最近、ふえているのは、脳の中で、イメージが乱舞する子ども
たちである。

 それについて書いたのが、つぎの原稿である(中日新聞投稿済み)。私は、テレビやテレビゲ
ームに代表される、いわゆる映像文化に、その一因があるのではと推察している。

++++++++++++++++++++++

子どもの脳が乱舞するとき

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、あ
あ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポ
ンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよ
う。動作も一貫性がない。

騒々しい。ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔をして、直立!
 そしてそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感情も激しく変化
する。目が回るなんていうものではない。まともに接していると、こちらの頭のほうがヘンにな
る。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学二、三年になると、症状が
急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。三〇年前に
はこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ一〇年、急速にふえた。

小一児で、一〇人に二人はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子ど
もが、一クラスに数人もいると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが
騒ぐ。こちらを抑えればあちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答え
た先生が、66%もいる(98年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。「指導の疲れから、病欠、
休職している同僚がいるか」という質問については、15%が、「1名以上いる」と回答している。

そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子どもについては、90%以上の
先生が、経験している。ほかに「弱いものをいじめる」(75%)、「友だちをたたく」(66%)など
の友だちへの攻撃、「授業中、立ち歩く」(66%)、「配布物を破ったり捨てたりする」(52%)な
どの授業そのものに対する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが
最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。「新しい荒れ」とい言葉を使う人もい
る。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの
教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわからなくなった」とこぼす。

日教組が九八年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を
感ずる」というのが、20%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」(1
4%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(10%)と続く。そしてその結果
として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、8%、「かなり感ずる」「やや感ずる」という
先生が、60%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲー
ムをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。

家庭にしても、昔のような崩壊家庭は少なくなった。むしろここにあげたように、ごくふつうの、
そこそこに恵まれた家庭の子どもが、意味もなく突発的に騒いだり暴れたりする。

そして同じような現象が、日本だけではなく、アメリカでも起きている。実際、このタイプの子ど
もを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的にテレビやゲームづけになっていた
のがわかる。

ある母親はこう言った。「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているとき
は、話しかけても返事もしませんでした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児
向けにせよ、動きが速い。速すぎる。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。ゲ
ームもそうだ。動きが速い。速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりや
すく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。

その証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くこと
ができない。浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮
城に魚が、おしっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろ
いが、直感的で論理性がない。

ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつかさどるのは、左脳であ
る(R・W・スペリー)。テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経
験したことがない新しい刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えら
れる。その一つが、ここにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊を
あげる。

(付記)
●ふえる学級崩壊

 学級崩壊については減るどころか、近年、ふえる傾向にある。99年1月になされた日教組と
全日本教職員組合の教育研究全国大会では、学級崩壊の深刻な実情が数多く報告されてい
る。「変ぼうする子どもたちを前に、神経をすり減らす教師たちの生々しい告白は、北海道や
東北など各地から寄せられ、学級崩壊が大都市だけの問題ではないことが浮き彫りにされた」
(中日新聞)と。「もはや教師が一人で抱え込めないほどすそ野は広がっている」とも。

 北海道のある地方都市で、小学一年生70名について調査したところ、
 授業中おしゃべりをして教師の話が聞けない……19人
 教師の指示を行動に移せない       ……17人
 何も言わず教室の外に出て行く       ……9人、など(同大会)。

●心を病む教師たち

 こうした現状の中で、心を病む教師も少なくない。東京都の調べによると、東京都に在籍する
約六万人の教職員のうち、新規に病気休職した人は、93年度から四年間は毎年210人から
220人程度で推移していたが、97年度は、261人。さらに98年度は355人にふえていること
がわかった(東京都教育委員会調べ・99年)。

この病気休職者のうち、精神系疾患者は。93年度から増加傾向にあることがわかり、96年
度に一時減ったものの、97年度は急増し、135人になったという。この数字は全休職者の約
52%にあたる。

(全国データでは、97年度は休職者が4171人で、精神系疾患者は、1619人。)さらにその
精神系疾患者の内訳を調べてみると、うつ病、うつ状態が約半数をしめていたという。原因とし
ては、「同僚や生徒、その保護者などの対人関係のストレスによるものが大きい」(東京都教育
委員会)ということである。

●その対策

 現在全国の21自治体では、学級崩壊が問題化している小学一年クラスについて、クラスを
一クラス30人程度まで少人数化したり、担任以外にも補助教員を置くなどの対策をとっている
(共同通信社まとめ)。

また小学六年で、教科担任制を試行する自治体もある。具体的には、小学一、二年につい
て、新潟県と秋田県がいずれも一クラスを30人に、香川県では40人いるクラスを、二人担任
制にし、今後五年間でこの上限を36人まで引きさげる予定だという。

福島、群馬、静岡、島根の各県などでは、小一でクラスが30〜36人のばあいでも、もう一人
教員を配置している。さらに山口県は、「中学への円滑な接続を図る」として、一部の小学校で
は、六年に、国語、算数、理科、社会の四教科に、教科担任制を試験的に導入している。大分
県では、中学一年と三年の英語の授業を、一クラス20人程度で実施している(2001年度調
べ)。

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親が右脳教育を信奉するとき

●左脳と右脳

 左脳は言語をつかさどり、右脳はイメージをつかさどる(R・W・スペリー)。その右脳をきたえ
ると、たとえば次のようなことができるようになるという(七田眞氏)。(1)インスピレーション、ひ
らめき、直感が鋭くなる(波動共振)、(2)受け取った情報を映像に変えたり、思いどおりの映
像を心に描くことができる(直観像化)、(3)見たものを映像的に、しかも瞬時に記憶すること
ができる(フォトコピー化)、(4)計算力が速くなり、高度な計算を瞬時にできる(高速自動処
理)など。こうした事例は、現場でもしばしば経験する。

●こだわりは能力ではない

たとえば暗算が得意な子どもがいる。頭の中に仮想のそろばんを思い浮かべ、そのそろばん
を使って、瞬時に複雑な計算をしてしまう。あるいは速読の得意な子どもがいる。読むというよ
りは、文字の上をななめに目を走らせているだけ。それだけで本の内容を理解してしまう。

しかし現場では、それがたとえ神業に近いものであっても、「神童」というのは認めない。もう少
しわかりやすい例で言えば、一〇〇種類近い自動車の、その一部を見ただけでメーカーや車
種を言い当てたとしても、それを能力とは認めない。「こだわり」とみる。

たとえば自閉症の子どもがいる。このタイプの子どもは、ある特殊な分野に、ふつうでないこだ
わりを見せることが知られている。全国の電車の発車時刻を暗記したり、音楽の最初の一小
節を聞いただけで、その音楽の題名を言い当てたりするなど。つまりこうしたこだわりが強けれ
ば強いほど、むしろ心のどこかに、別の問題が潜んでいるとみる。

●論理や分析をつかさどるのは左脳

 そこで右脳教育を信奉する人たちは、有名な科学者や芸術家の名前を出し、そうした成果の
陰には、発達した右脳があったと説く。しかしこうした科学者や芸術家ほど、一方で、変人とい
うイメージも強い。つまりふつうでないこだわりが、その人をして、並はずれた人物にしたと考え
られなくもない。

 言いかえると、右脳が創造性やイメージの世界を支配するとしても、右脳型人間が、あるべ
き人間の理想像ということにはならない。むしろゆっくりと言葉を積み重ねながら(論理)、他人
の心を静かに思いやること(分析)ができる子どものほうが、望ましい子どもということになる。
その論理や分析をつかさどるのは、右脳ではなく、左脳である。

●右脳教育は慎重に

 右脳教育が脳のシステムの完成したおとなには、有効な方法であることは、私も認める。し
かしだからといって、それを脳のシステムが未発達な子どもに応用するのは、慎重でなければ
ならない。

脳にはその年齢に応じた発達段階があり、その段階を経て、論理や分析を学ぶ。右脳ばかり
を刺激すればどうなるか? 一つの例として、神戸でおきた『淳君殺害事件』をあげる研究家
がいる(福岡T氏ほか)。

●少年Aは直観像素質者

 あの事件を引き起こした少年Aの母親は、こんな手記を残している。いわく、「(息子は)画数
の多い難しい漢字も、一度見ただけですぐ書けました」「百人一首を一晩で覚えたら、五〇〇
〇円やると言ったら、本当に一晩で百人一首を暗記して、いい成績を取ったこともあります」
(「少年A、この子を生んで」文藝春秋)と。

 少年Aは、イメージの世界ばかりが異常にふくらみ、結果として、「幻想や空想と現実の区別
がつかなくなってしまった」(同書)ようだ。その少年Aについて、鑑定した専門家は、「(少年A
は)直観像素質者(一瞬見た映像をまるで目の前にあるかのように、鮮明に思い出すことがで
きる能力のある人)であって、(それがこの非行の)一因子を構成している」(同書)という結論
をくだしている。

 要はバランスの問題。左脳教育であるにせよ右脳教育であるにせよ、バランスが大切。子ど
もに与える教育は、いつもそのバランスを考えながらする。

(参考)
【右脳と左脳の働きについて】

【右脳】
●情緒的な感情  
●顔やものの、形の認識
●直感的、総合的にものを考える
●想像的、創造的な考え
●音楽や芸術など

【左脳】
●話すこと
●言葉の理解
●論理や数学的な考え  
●分析的な考え方
●読む、書く
「脳のしくみ」(日本実業出版社・新井康允氏)より

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 テレビやテレビゲームなど、子どもを取り巻く映像文化が、すべての原因とは言えない。しか
しこうした映像的刺激は、それまでの人類が経験しなかったものであり、それゆえにその悪影
響については、まだ未知、未解明の部分が多いと考えるべきではないのか。

 つまり脳ミソが、そうした刺激に対応できる構造にはなっていない(?)。

今、やっと、こうした映像文化がもつ悪影響について、メスが入れられようとしている。文科省を
中心として、いくつかの研究会も発足している。

そこで私たち親としては、子どもに与える刺激に対しては、もう少し慎重であるべきではないか
ということ。昨今、右脳教育ブームで、「右脳」という名前を横につけただけで、生徒が倍増した
という、幼児教室や算数教室も多い。

 しかし本文の中でも書いたように、私たちは、もう少し慎重であるべきではないのか……とい
うのが、ここでの結論ということになる。
(はやし浩司 直観像 右脳教育 左脳教育 直観像素質者 学級崩壊 新しい荒れ)





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●英語教育について

 現在、H市内のほとんどの公立小学校(1年〜6年)で、英語の授業が行われている。週1
回、1時間というのが、平均的な授業内容である。またほとんどの授業は、日本人講師と外国
人講師(ティーチング・アシスタント)の2人でなされている。

 これは東京都の荒川区の例だが、1、2年は、歌やゲーム。3、4年は、ロールプレイ(模擬
体験)。5、6年は、簡単な日常会話を主体とした授業(「英語科」)が、行われている。こうした
傾向は、全国どこも、ほぼ同じとみてよい。

 こうした英語教育に、賛否両論が、いまだにウズを巻いている。賛成派は、「国際化時代を乗
り切るためには、英語は、必要」という観点で、意見を組みたてる。一方、反対派は、「脳ミソが
混乱するだけ。日本語がかえっておろそかになる」という観点で、意見を組みたてる。

 さらに賛成派は、「言語を取得するのには、年齢的な限界(臨界期)がある。早期教育は必
要だ」と説く。反対派は、「臨界期などというものは、証明されていない」などと、反論する。

 いろいろ意見は、あるようだ。しかし、大前提として、何はともあれ、、英語は、必要である。2
年前(02)だが、私は、こんな原稿を書いたことがある(原稿から、一部、抜粋)。

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●遅れた教育改革

 2002年一1月の段階で、東証外国部に上場している外国企業は、たったの36社。この数
はピーク時の約3分の1(90年は125社)。

さらに2002年に入って、マクドナルド社やスイスのネスレ社、ドレスナー銀行やボルボも撤退
を決めている。

理由は「売り上げ減少」と「コスト高」。売り上げが減少したのは不況によるものだが、コスト高
の要因の第一は、翻訳料だそうだ(毎日新聞)。悲しいかな英語がそのまま通用しない国だか
ら、外国企業は何かにつけて日本語に翻訳しなければならない。

 これに対して金融庁は、「投資家保護の観点から、上場先(日本)の母国語(日本語)による
情報開示は常識」(同新聞)と開き直っている。日本が世界を相手に仕事をしようとすれば、今
どき英語など常識なのだ。

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 悲しいかな、すでに、アジアの経済の中心地は、シンガポールに移動してしまっている。また
2010年を待たずして、アジアにおける経済的地位は、中国と日本が、逆転する。これはもう
予測ではなく、事実である。

 このアジア内部においてでさえ、「自国内のビジネス環境・国際アンケート調査」によれば、日
本は、9か国中、ビリの9位(04年)。

米国系のPR会社エーデルマンは、14日(04・11月)、アジア・太平洋地域の9か国の企業体
の役員、公務員、言論人、非政府組織(NGO)の団体長など541人を対象にアンケート調査
を行った結果、「『ビジネス環境がまちがった方向に向かっている』と答えた日本人回答者の割
合が55%で、1番多かった」と、明らかにした。

 はっきり言えば、「今さら、英語教育など、始めても、遅い」ということ。教育というのは、20年
先、30年先を見つめながら、するもの。仮に今、英語教育を始めても、その成果が出てくるの
は、20年後、30年後である。

 そのころ、この日本は、どこまで凋落(ちょうらく)していることやら!

 効果があるとかないとか、そんなことを議論しているヒマは、もう、ない。仮に英語教育に問題
があるとしても、重要なことは、「だからダメ」と否定することではない。いかに学習内容を充実
させ、環境を整えるか、である。すでに試行錯誤の段階をこえ、無数の問題点が指摘されてい
る。

 「ゲームや歌やダンスだけでは、子どもがあきてしまう」
 「単なる暗記ゲームに終わってしまう」
 「語法的な知識も、必要」(某小学校教師談)など。

 しかしこれらはどれも、克服できる問題である。ただ、「英語を学習すると、日本語が混乱す
る」という意見には、私はあえて反論したい。

 「では、英語を学ばなかったら、日本語は充実するのか」と。

 言葉などというものは、そのときどきの大衆が決めればよい。それがどんな日本語になって
も、それはそのときどきの大衆が決めるべきもの。一部の学者先生や、お上が決めることでは
ない。ためしにインターネットをのぞいてみればよい。そこでは、恐らく旧世代の人間たちに
は、理解できない日本語が、自由に飛びかっている。

 さらに仮に英語が日本語の中に浸透して、たとえばこんな日本語になったとする。

 「何を、おっしゃる、ウサギっちょ。ヤミーな(うまい)食べ物のナンバーワンは、マクドナルド。
それを否定したら、ドコゾクニ(どこの国の人)?」と。

 言葉というのは、もともとそういうもの。新しい時代には、新しい時代の躍動感というものがあ
る。旧世代が、古い時代の言葉を若い世代に押しつけるのではなく、若い世代から、旧世代
が、学んでいく。それがダメだというのなら、あなたも今日から、「そうろう文」で手紙を書き、奈
良時代か平安時代の言葉で、会話をすることだ。

 「これは、これは、遠州の国、住人、はやし浩司なにがしと、申しそうろう者なり」と。

 ……というのは、少し極端で過激な意見かもしれない。しかし大衆が使う言葉などというもの
は、国の力でコントロールできるものではない。いわんや、教育で、どうこうできるものではな
い。

 外国へ出てみると、日本の小さいことが、本当によくわかる。実に、小さい。その小さな国が、
これからも豊かな生活をつづけようと思ったら、国際社会の中に、溶けこむしかない。

 英語教育は、その第一歩である。賛成か、反対かなどと議論している段階では、もう、ない。
(はやし浩司 英語教育 英語 英語科 英語の授業)

【付記】

 英語教育は、民間のクラブ(英語教室、会話教室、塾など)に任せたらよいというのが、私の
持論である。何もかも学校で、しかも全国一律に、ということ自体に、無理がある。

 英語を学びたい子どももいれば、そうでない子どももいる。英語を学ばせたい親もいれば、そ
うでない親もいる。だったら、それぞれの選択に任せればよい。

 すでに20年近くも前から、小学生の英語教室を始めた、楽器メーカーさえある。どうしてそう
いったノウハウと知識、さらにシステムを、利用しないのか。

 その分、学校を早く終わるとか、月謝の補助などをすればよい。ドイツやイタリアでは、そうい
う形で、学外授業を、積極的に取り入れている。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●日本の英語教育について、アメリカ・CA州在住の、「透明サングラス」さん(男性、22歳)か
ら、以下のようなコメントが届いています。それを紹介します。

++++++++++++++++++++

まず、引用の件ですが、毎度のことながら、じゃんじゃん使って下さい。採用原稿の転送と、投
稿者名「透明サングラス」で。
 
さて、はやしさんの文章の 「英語教育」 についてですが、勝手ながら意見を書かせてもらうとす
れば、俺は賛成派です。ただし、日本の 「教え方」 については 「反対派」 です。

まず、単純に 「英語教育をすること」 について、俺が賛成する理由は、はやしさんと同じで、日
本人が成功するのに英語が欠かせなくなってきている、と思うからです。さらに、俺は、言語を
身につける 学ぶ(習うではない) ことができる年齢には、限界があると思うからです。

日本の教育方針を考えている人たちは、いつも子供を 「パターン化」する傾向が非常に強い
と、俺は感じているのですが、実際の子供は千差万別。千人いたらその年齢限界も千人違う
のだと信じています。そして、俺自身、文法や暗記ではなく、 「英語を身につける」 ということ
が、この年になるとできないことを、現在実感しています。残念ながら。

俺が何故こう言い切るのかというと、俺がまだ中学 1年生だった頃、アメリカのワシントン州
で、完全な英語の環境に約半年間放し飼いにされた経験があるからです。その時の俺は、辞
書も持たずに友達とコミュニケーションをとり、話し、遊んでいました。あの時の俺は、確実に 
「知識」 ではなく 「センス」 を身につけ始めていたと、今確信しています。

アメリカの中華料理店に入ると、数年、あるいは数十年、英語環境で生きてきたとは思えない
ような 「中華英語」 をとてもよく耳にします。この事実もまた、英語を 「身につける」 のに年齢
的限界があることを証明しているのではないでしょうか。

このことを考慮し、大きな可能性を子供に見出すためにも、幼い頃から英語に触れさせること
は非常に有意義で、加えて効果的だと思います。

しかしながら、文頭でも述べた通り、今の日本の 「教え方」 には強く反対します。と言うよりも、
程度が低すぎて、「反対」 というより 「論外」 です。

詳しく知らない素人の俺が、はやしさんの送って下さった 「メッセージ」 を読むだけで、疑問点
が山積みです。

まず、ネイティブの講師を招いた授業。聞こえはすごく良いです。俺が高校生の時もそういうの
がありました。しかし、何故ネイティブ講師が 「アシスタント」 なのでしょうか。アメリカでは、多く
のスパニッシュスピーカー (スペイン語を母国語とする人々) が英語を学んでいます。そして、
多くのイングリッシュスピーカーがスペイン語を習っています。ここで重要なのは、教えている講
師が 「ネイティブ」 ということです。

「アシスタント」 じゃダメなんです。「ネイティブ」 じゃないと。

むしろ、そのネイティブの講師の居る授業は、その人が先生をやるべきで、日本人が 「アシス
タント」 をするべきじゃないでしょうか。

本当に子供のことを考えるなら、職場の地位は捨てて然るべきです。

これはまさに、俺が高校の時に導入されていた姿が、そのまま小学校に降りただけです。小学
校教育という微妙な教育に導入するシステムは、小学生に特化されていなければ意味がない
んです。「知識」 ではなく 「センス」 を育める年代だからこそ教育理念に変更が必要なのでは
ないでしょうか。

そして、その子供たちが中学生になって、果たして 「暗記と文法」 という 「受験対策」 は英語
力向上に役立っているのでしょうか。

俺は 「退化させている」 と思うのです。

2002年度のとある大学の英語の入試問題に、このような長文問題がありました。
(例ですので、内容は一部変更してあります)

「未来には、紙や金属でできたお金は使われなくなるだろう、と推測する人がいます。その人に
よると、未来では ********** が使われます。」

********** に入ると思われる単語は名詞で、数ある選択肢の中で 「item」 と 「card」。2002
年には欧州で、携帯電話でジュースを買う試みが行われていた背景を考えると、当然 「item」 
を選ぶ……と思いきや、答えは 「card」。 解説によると 「お金を払うときには、常識で考えてカ
ードを使うので、カードを選ぶ」 とあります。

アメリカでは、「選択可能な答えが 2つあった」 というだけで、その問題が無効になることが当
たり前で、そうするべきです。なぜなら、この問題は 「英語力」 を問う問題のはずで、決して 
「運」 を問う問題では無いはずだからです。

「小学校に英語教育が導入されました。」 結構なことです。しかし、それはあくまで、「英語が身
に付く教育」 であればこその話。決して、「大学入試で運が上がる」 ことを目的としてはダメな
はずです。

日本の子供たちは、「こんな」 英語を 「習って」 います。

「英語圏で使える英語」 ではなく。

+++++++++++++++++++++++

【透明サングラスさん、ご意見、ありがとうございました】

 英語教育反対派の先生たちの意見を集約すると、(1)脳ミソの混乱説、(2)日本の言語擁
護説の二つになります。

 脳ミソの混乱説に火をつけたのが、京都大学霊長類研究所のMB教授。いわく、「ヒトの脳
は、最初に取得した言葉を基礎に、第二言語を取得していく。母国語すらおぼつかない子ども
に、第二言語を教えれば、脳を混乱させるだけ」(産経新聞)と。

 また日本語擁護説の先頭に立っているのが、私のマガジンでもときどきとりあげている、O大
のFM教授。「日本の文化や言語を学ぶのが、先決。英語教育は、そのつぎでよい」と。教育
の柱に「武士道」をもってくる教授だから、あとは推してはかるべし。

 私はここで透明サングラスさんが言うように、英語教育といっても、「英語が身に付く教育」で
なければならないと思う。たとえばその方法として、「シャワー方式」というのも考えだされたこと
がある。

 あたかもシャワーのように、英語を、子どもたちに浴びせかけるという教育法である。もっと
も、この方法は、日本国内では、子どもたちには、評判はよくない。私も何度かためしたことが
あるが、半時間もすると、子どもたちがイライラし始める。そして、そのあと、「もうやめて!」
「わかんない!」などと、騒ぎだす。

 いろいろ問題はあるが、しかしだからといって、「英語教育がムダ」とか、さらには「不要」とい
う意見に結びつけてはいけない。大前提として、「英語は、必要なのである」。

 そのことは、少し前の、国連大使を見ればわかる。国連という国際会議場においてですら、
たどたどしく、意味不明の英語を、ただ棒読みするだけ。そういう大使が、どうして各国の大使
と、英語で、議論などできるであろうか。日本の主張を、外国の人たちに伝えることができるだ
ろうか。

 私が学生時代にいた、オーストラリアのM大のカレッジにしても、毎週のように、各国の大使
や政治家たちがやってきて、晩餐(ディナー)をともにした。みな、食事の間に、英語でスピーチ
をして帰った。

 日本からも、よく大臣級の政治家たちがやってきたが、1人とて、英語でスピーチをして帰っ
た政治家はいなかった。何を質問されても、「すべてわかっています」といったような顔をして、
ただニヤニヤ笑っているだけだった。

 こうした現実を、いったい、どれだけの日本人が、認識しているだろうか。

 透明サングラスさんは、(センス)という言葉を使っている。

 実のところ、英語教育で重要なのは、そのセンスである。あの独特のセンスである。そういう
意味では、今までの教育法には、限界がある。そこで群馬県の「ぐんま国際アカデミー」校など
では、国語などの一部の科目をのぞき、すべての授業を英語でしている。いわゆる「イマージョ
ン教育法」というのである(「日本の論点・2005」より)。

 いろいろ考えられている。まだまだ試行錯誤の段階で、不完全で未熟なところはある。しかし
私たちは、それを、決して否定的にとらえてはいけない。つぎの時代への、ワンステップとして、
とらえるべきである。

 最後に、スペイン在住の、SZさんからのメールを、紹介する。ここに書いたような教育が、ど
うして日本ではできないのか。そこに日本の教育がもつ、問題のすべてが、凝縮されているよ
うに思う。
 
++++++++++++++++++++

【スペイン在住のSZさんよりのメール】
 
子供たちがインターナショナル幼稚園へ通い始めました。
YK子(長女)は、新しい環境にわくわくしながら、楽しくてたまらないようです。
YK子は、もともと好奇心旺盛な子供でしたが、BW教室に1年半通っ
たことも大きいと思っています。

この幼稚園の先生方の経歴や国籍は様ざまです。

心理学を学んだ先生、幼児教育と英語教育を学んだ先生、スペイン語
と英語の先生、一家そろってダンサーで本人もバレリーナだった先生
など、幼児教育を学んだ人とは限りません。

YK子の先生は、ペルー人とフランス人&スウェーデン人の両親をも
つハンガリー人の2人です。

秋になります。ハンガリーの秋は短く、すぐに冬になるそうです。
9月になって、突然寒くなりました。

日本の幼稚園では、秋になると運動会と生活発表会が行われます。
YK子は、これらの練習が大嫌いでした。

こちらの大イベントはハロウィンですが、9月の第4週目に、
−School Sprit Week-という行事があります。

(月曜日) おもしろい(ちぐはぐな)コーディネートで登園する日
(火曜日) おもしろい頭(かつらやフェイスペインティングなど)で登園する日
(水曜日) スポーツディ
(木曜日) パジャマで登園して、ごろごろする日
(金曜日) 真っ赤で登園して、みんなで赤いものを持ち寄る日

きっと子供たちは大興奮するでしょう。子供たちが楽しんでいる様子を
想像するだけで、わくわくします。

スペイン・SZより 

++++++++++++++++++++++

ついでに、少し前に書いた原稿を紹介します。

++++++++++++++++++++++

●文法学者が作った体系

 D氏(四五歳)はこう言った。「まだ日本語もよくわからない子どもに、英語を教える必要はな
い」と。つまり小学校での英語教育は、ムダ、と。

しかしこの論法が通るなら、こうも言える。「日本もまだよく旅行していないのに、外国旅行をす
るのはムダ」「地球のこともよくわかっていないのに、火星などに探査機を送るのはムダ」と。

 オーストラリアの中学校では、中一レベルで、たとえば外国語にしても、ドイツ語、フランス
語、中国語、インドネシア語、それに日本語の中から選択できるようになっている。

「将来多様な社会に柔軟に適応できるようにするため」(M大K教授)だそうだ。オーストラリア
のほか、ドイツやカナダでも、学外クラブが発達していて、子どもたちは学校が終わると、中国
語クラブや日本語クラブへ通っている。こういう時代に、「英語を教える必要はない」とは!

 英語を知ることは、外国を知ることになる。外国を知ることは、結局は、この日本を知ること
になる。D氏はこうも言った。「中国では、ウソばかり教えている。日本軍は南京で一〇万人し
か中国人を殺していないのに、三〇万人も殺したと教えている」と。

私が「一〇万人でも問題でしょう。一万人でも問題です」と言うと、「あんたはそれでも日本人
か」と食ってかかってきた。

 日本の英語教育は、将来英語の文法学者になるには、すぐれた体系をもっている。数学も
国語もそうだ。理由は簡単。もともとその道の学者が作った体系だからだ。だからおもしろくな
い。だから役にたたない。

こういう教育を「教育」と思い込まされている日本人はかわいそうだ。子どもたちはもっとかわい
そうだ。たとえば英語という科目にしても、大切なことは、文字や言葉を使って、いかにして自
分の意思を相手に正確に伝えるか、だ。それを動詞だの、三人称単数だの、そんなことばかり
教えるから、子どもはますます英語嫌いになる。

ちなみに中学一年の入学時には、ほとんどの子どもが「英語、好き」と答える。が、一年の終わ
りには、ほとんどの子どもが、「英語、嫌い」と答える。

 さて冒頭のD氏はさらにこう言った。「日本はいい国でじゃあ、ないですか。犯罪も少ないし。
どうしてそれを変えなければならないのですか」と。

しかしこういう人がふえればふえるほど、日本は国際社会からはじき飛ばされる。相手にされ
なくなる。

++++++++++++++++++

【透明サングラスさんへ】

 まさに国際的視点からのご意見、感謝しています。これからもどんどんと書いて、いろいろ教
えてください。何というか、透明サングラスさんの意見には、臨場感があるというか、説得力が
あります。新鮮な驚きさえ感じます。

 みんな日本が好きなのです。たまらいないほど、好きなのです。そしてみんな、この日本をよ
くしようと考えている。

 私や透明サングラスさんが書いている意見というのは、そのためのものです。またそのため
に、がんばりましょう。ご意見、ありがとうございました。





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●教育ローン

島根県にお住まいのHさんから、子どもの教育ローンの相談があった。

「都会へ子どもを送ると、いったい、どれくらいのお金がかかるか。うちは、裕福ではないので、
心配だが、どうしたらいいか。みなさんは、どんな教育ローンを利用しているか」と。

 そこで私なりに調べてみた。

 国の教育ローンには、つぎに3つがある。

(1)郵貯貸付(国民生活金融公庫)
(2)教育一般貸付(国民生活金融公庫)
(3)年金教育貸付(年金福祉協会)

 ほかに、教育ローン(中央労働金庫)や、教育資金融資制度(財形貯蓄)がある。

(1)郵貯貸付(国民生活金融公庫)

 融資額は、現在貯蓄額の範囲内で、最高200万円まで。つまり200万円以上の郵便貯金
がないと、この融資は受けられない。詳細は、簡易郵便局をのぞく、全国の郵便局で。


(2)教育一般貸付(国民生活金融公庫)

 融資額は、生徒(学生)一人当たり、200万円以内。ただし給与所得者については、年収が
990万円以内、事業所得者については、年収が770万円以内の人にかぎる。返済期間は、
原則として、10年以内。詳しくは、全国の国民生活金融公庫へ。


(3)年金教育貸付(年金福祉協会)

 融資額は、生徒(学生)1人あたり、100万円以内。厚生年金保険または国民年金保険の加
入期間が、10年以上の被保険者にかぎる。詳細は、各都道府県の年金福祉協会、または年
金資金運用基金の相談窓口へ。

 そのほか、労金の「教育ローン」は、中央労働金庫に出資している人が融資を受けられるも
のだが、最高額は、500万円。返済期間は、最長で10年。詳しくは、中央労働金庫の窓口
で。

 教育資金融資制度(財形貯蓄)は、財形貯蓄に加入している人が対象。財形貯蓄残高の5
倍以内、10万円から最高450万円まで融資を受けられる。詳しくは、独立行政法人・雇用能
力開発機構まで。
(はやし浩司 教育ローン 教育資金 融資制度 郵貯貸付 教育一般貸付)

++++++++++++++++

 現在、高校入学から、大学卒業まで、1人あたり、約1000万円(970万円)の学費が必要で
ある(「国民生活金融公庫・03年調査」)。が、これですむはずがない。ないことは、親なら、み
な、知っている。

 2人で、2000万円。3人で、3000万円。昔は、『子ども育ち盛り、親、貧乏盛り』と言った。
今は、『子ども大学生、親、貧乏盛り』という。こういう現状を知れば知るほど、親は子どもをも
うけなくなる。つまり少子化は、ますます進む!

【島根県のHさんへ】

 お子さんが、中二と、小六ということですから、今は、とにかく貯蓄額をふやすしかないと思い
ます。上記(1)(2)(3)を合わせて借りれば、とりあえずは、500万円まで確保できます。

 で、子どもが大学を卒業したら、子ども自身にその返済を負担させます。……といっても、今
の大学生のほとんどは、「子どもを大学まで出すのは、親の義務」と考えていますので、ご注意
ください。

 そこで大切なことは、そういう意識を、子どもにもたせないようにすることです。わかりやすく
言えば、「勉強しなさい!」と、子どもには安易に言わないこと。「勉強しなさい!」と、子どもを
責めるのは親の勝手ですが、いつか、その責任を、親が取らされるということです。

 ほかに、安易に、「宿題はやったの?」「こんな成績で、どうするの!」と、子どもには、言わな
いことです。ある女子高校生は、こう言ったといいます。父親が事業に失敗して、大学への進
学をあきらめてほしいと言ったときのこと。

 「今までさんざん勉強しろ、勉強しろって言ってきたクセに、今になって、もう勉強しなくていい
って、どういうこと。親として、ちゃんと責任を取ってよ!」と。

 今は、そういう時代なのですね。ご注意ください。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●学費が払えない!

 全国私立学校教職員組合連合(全国私教連)の調査によれば、今、親が経営する会社の業
績不振やリストラなど、家庭の経済的な事情で、3か月以上学費を滞納している私立高校生が
過去最高の1・87%もいることがわかった。(04年9月、25都府県の私立高校170校(生徒
数計約15万2000人)を対象に実施)

 1・87%と言えば、50人に約1人弱という割合になる。これはきわめて深刻な数字と考えて
よい。

同調査によると、3か月以上学費を滞納している生徒は2849人(1・87%)で、過去最高だっ
た昨年の1・49%を0・38ポイント上回り、1998年の調査開始以来、最も高い割合となった。

12か月以上の滞納者がいる高校は、31校で、入学以来、ほとんど学費を払っていない生徒
もいたという。

滞納の理由としては、「父親が失業中で、生徒はアルバイトをしているが、生活費がようやく足
りる状況」(神奈川県内の高校)、「親類の会社が倒産し、連帯保証人の父親が差し押さえを受
けた」(新潟県内の高校)など、深刻なケースが相ついだという。

 よけいなことかもしれないが、債務の連帯保証人には、決して、なってはいけない。債務の連
帯保証人になるということは、自分自身が、その借金をするのと同じ立場に立たされることを
意味する。

 だから、たとえ相手が親友でも、親戚でも、決して、債務の連帯保証人には、なってはいけな
い。それで相手との人間関係が終わりになっても、だ。つまり債務の連帯保証人というのは、
それくらい、恐ろしいことだということ。

 元法科の学生として、そう、忠告する。

 話をもとにもどすが、学費どころか、小学校の給食費すら払えない家庭も、ふえているとい
う。中には、1年間、1円も払わなかった親もいるという。いろいろ事情はあるようだが、さらに
中には、払えるのに、払わない親もいるという。ある小学校の校長が、そんな裏話も、話してく
れた。

 不景気だからしかたないのか? 答は「ノー」だ。

 しかし実際には、日本政府(財務省)は、あのN銀行という、1銀行救済のためだけに、4兆
円ものお金を使っている。第二東名をつくるために、12兆円ものお金を使っている。国家公務
員と地方公務員に払う人件費だけで、毎年、40兆円! 日本の国家税収のほとんどが、その
人件費に消えている。(国家税収は、42〜4兆円。)

 1兆円あれば、全国100万人の生活困窮者に、それぞれ、100万円ずつのお金を渡すこと
ができる。

 10兆円あれば、全国1000万人の中学、高校生、大学生全員に、それぞれ、100万円ずつ
のお金を渡すことができる。

 このH市を見ても、土木建設費が、毎年20〜25%で推移している。(ここ数年、減ってはき
ているが……。)こんなバカげた国は、世界をみても、そうは、ない。先日、日本へやってきた
オーストラリアの友人は、こう言った。「ヒロシ、どうして日本人は、川や山をコンクリートでおお
うのか?」と。

 私たち日本人には、見慣れた景色かもしれないが、その友人には、よほど異様に見えたの
だろう。この日本に、どっぷりとつかって住んでいると、その異様さにさえ気づかなくなる。

 と、それと同じように、「学費が払えない」という人の話を聞いても、日本人は、「払えない人が
悪い」というふうに、考えてしまう。が、しかし、それこそ、世界の非常識。子どもたちは、日本の
未来をつくる、日本の財産。宝。道路やビルも大切だが、それ以上に大切なのが、子どもたち
である。

 立派な校舎を建てるのではなく、そういうよけいなことに使うお金があるなら、人間に使う。
(そういえば、最近、どこの高校も、校舎だけは、立派になってきたぞ! よほどの補助金が、
国から出ているのだろう。)

 そこで一つの案として、私は、こう考える。

 たとえば従業員100人以上の会社に、ある一定割合以下の、奨学金支給を認める制度をつ
くる。(200人でも、500人でもよい。最初は、1000人以上からスタートしてもよい。)

 「奨学金として支出した分については、必要経費もしくは、損金として計上できる」とすればよ
い。(税務のことは詳しくないので、用語がまちがっていたら、ごめん。)

 こうしてその能力や、その必要性のある子どもに、奨学金として、学費を提供するようにす
る。

 この方式は、私が考えたのではない。広く欧米では使われている方式である。欧米では、会
社だけにはかぎらない。財団、団体なども、奨学金を提供している。「どうせ、税金に取られる
なら、奨学金に回せ」と。つまり社会が、全体として、子どもを育てる。そういうしくみが、すでに
できあがっている。

 どちらにせよ、日本ほど、子育てにお金がかかる国は、そうはない。しかもそのシワ寄せは、
すべて子どもをもつ、親にのしかかってくる。

 はたしてあなたには、その1・87%の人たちの、悲鳴が聞こえるだろうか?


++++++++++++++++++++++

(付録)

【保存版】

【子育て支援・助成金】

 現在、子どもをもつ親に、国や自治体は、以下のような
子育て支援・助成金を支給している。受領が可能と思われる
方は、遠慮せず、各窓口へ、相談してみたらよい。


●私立幼稚園就園奨励費

 資格……私立幼稚園へ通っている園児のいる家庭
 金額……年額、5万6500円(所得制限あり)
     (国と自治体から)
 届け出先……幼稚園、もしくは、各市町村村役場
       申請書を提出する。
     (現在、各私立幼稚園で代行。幼稚園に問いあわせてみること。)


●児童手当

 資格……小学校3学年修了前
金額……月額5000円
     第3子以降……月額1万円(所得制限あり)
 届け出先……各市町村村役場


●児童扶養手当

 資格……ひとり親
 金額……第1子……4万1880円
     第2子……プラス5000円
     第3子……プラス3000円
 届け出先……各市町村役場


●児童育成手当て

 資格……ひとり親
 金額……1万3500円前後(自治体によってちがう)
 届け出先……各市町村役場


●特別児童扶養手当

 資格……身体障害者1級手帳の子ども
 金額……月額5万1550円
 届け出先……各市町村村役場
 

 ほかに、乳幼児医療費助成金、ひとり親家庭医療費助成などがある。助成金の額は、自治
体によって、異なる。医療費の全額もしくは、ほとんどを助成してくれる。

 すべて届け出先は、各市町村村役場になっているので、こまめに足を運んで相談することが
大切。これらの中には、届け出を出さないと受領できないものもが多く、また届け出を出した時
点からしか支給されないものもある。

 上限の年齢制限もあるので注意。児童扶養手当、児童育成手当ては、子どもが満18歳にな
るまで。子どもが生まれたらすぐ、相談してみる。






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●威張る人

●自己愛型・威張(いば)る人

 権威や権力、名誉や地位をカサに、威張る人がいる。そういった人が、その世界の中だけで
威張るなら、まだしも、外の世界でも威張るから、話がおかしくなる。

 今日も、そういう人に出会った。

 ドラグストアの駐車場にワイフが車を入れようとしたら、いきなり、「君イ! 入れ方が悪い」
「大回りするな」と、怒鳴ってきた人がいた。いろいろな言い方があるが、その人の言い方は、
高圧的。威圧的。あたかも生徒に命令する教師のような言い方だった。

 年齢は、65歳くらいか。言い忘れたが、男性である。

 ワイフは、そういうことでは、けんかをしない。無視したまま、車から出た。私も、あっけにとら
れていた。私の見ていないところで、何かワイフが失礼なことをしたかと思った。

が、ワイフは、そしてその人とは、視線を合わせようともせず、店のほうへ歩きだした。歩きな
がら、ワイフは、私にこう言った。「何も、あの人に迷惑をかけたわけではないのよ」「あそこで
は、ああいう入れ方をしないと、車は駐車できないのよ」と。

 そして、こうも言った。

 「ああいう男の人はね、今に頭の血管が切れて、死ぬわよ」と。ワイフもかなり頭にカチンとき
たらしい。

 ……この話はここで終わったが、そのあと、ドラグストアからの帰り道、再び、その人の話に
なった。

私「威張る人というのは、それだけ社会的経験が乏しいということだよ。ぼくなんか、自転車に
乗っているだろ。道路では、弱者だ。いつも乱暴な運転をする人に出会っているから、へたくそ
な運転をする人を見ても、腹を立てないよ」
ワ「あら、私がへたということ?」
私「そうじゃないけど、いちいちそんなことで腹を立てていたら、自転車には乗れないよ」
ワ「そうよねエ」

 威張るという行為は、自己愛者がよく見せる特徴の一つである。自己中心性が肥大化する
と、自己尊大化が起こり、ついで、他者を見くだすという行為に発展する。それが外面的には
威張るという行為につながる。つまりそれだけ人格の完成度が、低いということ。

 少し前だが、女性のテレビタレントに、そういう人がいた。金キラキンの目がねをかけ、その
目がねの奥から、ツンツン、ツンツンんとして、「あんた、何よ!」というようなものの言い方をし
ていた。そのタレントのばあいも、「どうして、ああまで威張れるのか」と思われるような威張り
方だった。

 で、そういう生活態度が、その人の、動作として、定着する。だから外の世界でも、見境なく、
だれに対しても、威張るようになる。

 が、よく観察してみると、だれに対しても威張るというのではない。ものの考え方が、それだけ
権威主義的で、自分より「下」と判断した人に対してだけ、威張る。あるいは威張ることで、自
分の精神的な弱さや、人間的な弱さを、隠そうとすることもある。ときどき、政治家の中にも、そ
ういう人を見かける。

 あごを前につきだし、ふんぞりかえって歩くタイプの政治家である。

 どうであるにせよ、あの威張るという動作は、日本以外では、あまり見られなくなった。しかも
50歳以下の人には、ほとんど、見られない。つまり威張る人というのは、日本人で、60歳以上
の人に多い。駐車場でワイフに怒鳴った人も、65歳くらいだった。

私「いったい、この年代の人たちは、戦前の日本で、どんな教育を受けてきたんだろうね」
ワ「昔は、『偉い人』という言い方をして、その人を評価したでしょ。その亡霊よ」
私「それは、ぼくの意見だぞ。パクッたな!」
ワ「パクってないわよ。常識よ」と。

 あなたのまわりにも、このタイプの人は、かならずいるはず。退職前の肩書きや地位をぶらさ
げて、そのあとの生活に同化できない、かわいそうな人たちである。「偉い」と思っているのは、
自分だけ。

 それだけではない。このタイプの人は、それだけ家父長意識、つまり悪玉親意識が強いた
め、たいてい親子関係は、ぎくしゃくしている。あるいは崩壊している。夫婦関係も、おかしい
(?)。

 まさによいことなし。しかし最大の悲劇は、自分がそうであることに、その人自身が気がつか
ないこと。私がここで書いたような話を聞いても、「生意気だ」「オレは、一家の大黒柱だ」と、そ
れを排斥してしまう。
 
 そこであなたの、威張り度テスト。

( )「先輩」「後輩」という言葉に、いつも敏感に反応する。
( )「出世」「偉い」という言葉を、よく口にする。
( )相手を、学歴や肩書き、地位や職種で判断することが多い。
( )目上の人にはペコペコし、目下のひとには、尊大な態度をとりやすい。
( )何でも自分の思いどおりにならないと気がすまない。
( )完ぺき主義で、何でも、自分がすることが最高と思いやすい。
( )命令口調が多く、頭から、相手にものを言うことが多い。
( )家庭の中では、いつも家族の中心にいないと、落ちつかない。
( )家族や他人の気持ちを、勝手に判断したり、決めてしまったりしやすい。

 これらの項目に当てはまれば、あなたはここでいう(自己愛型・威張る人)とみてよい。

 最後に、こうした自己愛の世界から抜けでるためには、どうしたらよいか。これはワイフから
の質問である。

 私の考えとしては、自分の中の自己中心性と戦うことしかないと思う。自分が世界で、最高の
人間とは、思わないこと。自分が、世界の中心にいるとは、思わないこと。自分だけが、大切な
人間で、あとの人たちは、価値がないと思わないこと。……などなど。

 そのために視点を、いつも下に置き、その「下」から「上」を見ながら生きる。弱者の立場で、
その弱者に共鳴しながら、考える。それしかないと思う。いざ実行するとなると、なかなかむず
かしいことかもしれないが……。

 この問題については、また別の機会に、もう少し掘りさげて考えてみたい。
(041120)



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●妄想性認知

【REさんからのご意見】

 REさんから、「はやし浩司の文章は、かた苦しい。もっとやさしく解説してほしい」という意見
をもらった。(数週間も前のことだが……。)

 そこであちこち、人気サイトを参考までに、読んでみた。みさなん、それぞれに、いろいろと努
力しているようである。

 私も、少し、マネをしてみることにした。

 称して、子育て講座、ネット編。

【子育て講座・ネット編】

 ええと、今日の講義は、「妄想性認知」について。

 ナヌ、「私には関係ない」だと! ……しばし、待たれ!

 今、この文を読んでいる人には、おおいに関係あるぞ。理由は、やがてわかるはず。

 ハハハ……。「妄想性認知」ね。

 たとえばつぎの2つの内容のメールがあなたのところに届いたとする。あなたは今日、会社
の仕事を休んだ。それをまず、読んでみてほしい。(A)と(B)じゃあ。

(A)今日は、来るの? 来ないの? またサボり? いい気なもんね。じゃあ、バイ!

(B)また調子が悪いの? わかる、わかる、あんたの気持ち。しっかり休んでね。またね!

 (A)のような内容のメールをもらったら、かなり性格の穏やかなあなたでも、カチンと頭にくる
はず。しかし(B)では、そうでない。(B)は、あなたの立場で、メールを書いている。

 しかし問題は、このことではない。

 仮に、(A)のメールが、親友からのものであったらどうだろうか。大の仲よしからのものであ
る。いつもたがいに、言いたいことを言いあっている。すると、同じメールでも、その文に対する
印象が、かなり感じが変わってくるはず。

 一方、仮に(B)のメールが、日ごろ、あなたに意地悪ばかりしている人からのメールだった
ら、どうだろうか。何かしら皮肉を言われているように感じて、かえって気分が悪くなるかもしれ
ない。

 あるいは、そのときの、あなたの気分によっても、印象が変わるということも、ある。

 たまたまあなたが、何かの賞に当たったというようなときだったら、(A)のようなメールをもら
っても、それほど、気にならない。

 しかしたまたま大きな失敗をしたときだったら、(B)のようなメールをもらっても、「チクショ
ー!」と叫んで、怒り出すかもしれない。

 つまりこうした「文字情報(言語情報)」だけによる心の伝達は、それだけ、誤解を生みやすい
ということ。もっとわかりやすく言えば、文字情報は、読む側の心情によって、そのニュアンス
が、大きく変わってくる。

 ……あああ、またいつもの文調にもどってしまったようじゃな。わかりやすく解説しようと思っ
ているうちに、じゃ。

 つまりだな、同じ文面でも、じゃな、読む側の心情によって、不愉快になったり、ならなかった
りするということじゃ。

 もっとも、それを好意的に読むのならまだしも、悪いほうに、悪いほうに読む人もいる。つま
り、自分なりに相手の文面や、相手への印象の解釈をゆがめてしまうというわけじゃ。それが
誤解を生む。

 つまりじゃな、その相手に対して、日ごろからよい印象をもっていないとするとじゃな、その文
を読みながら、妄想をふくらませてしまう。「何か、ウラがあるぞ」「私の足を引っ張っているんじ
ゃないか」と。

これを「妄想性認知」というんじゃ。いわば「解釈のゆがみ」のこと。

 わかるかな?
 
 つまりじゃ、インターネットのこわいところは、ここにあるんじゃ。何と言っても、文字情報が主
体だからな。

 私も、何度も失敗しておる。

 たとえば日によっては、10通くらいの相談が届くときがある。で、そういうときは、寝る前にな
って、大急ぎで返事を書く。並べて、じゃ。

 そうすると、どうしても、返事の書き方が、ぶっきらぼうというか、唐突になってしまんうんじ
ゃ。時候のあいさつなどを、飛ばしてしまったりするからね。

「拝復、お子さんの症状は、チックとみてよいのでは。家庭環境が神経質になっていないか、反
省してください。では、失礼します」と、な。

 私としては、それでいいと思うわけじゃが、こうした文面は、相手の人には、あまりいい印象を
与えないようだな、これが。わかる、わかる。私がめんどうがっているとか、威張っているかの
ような印象を、相手の人に与えてしまうんじゃ。

 で、かえって相手を、不愉快にしてしまうらしい。こちらには、その気がなくても、じゃな。

 相手は相手で、私の文や、私の印象を、ゆがめて解釈してしまう。そして私に対して、悪い印
象をもってしまう。「あの林は、へんなやつだ」と、じゃ。

 が、直接会って話をすると、そういうことはない。相手の顔の表情や、言葉の調子、言い方、
ジェスチャなどで、相手の印象を、そのつど、修正することができるんじゃ。だから誤解が生ま
れることも、少ないんじゃよ。

 だからな、やはり、微妙で、デリケートな話は、できるだけメールではなく、直接会うか、さもな
ければ、電話でするのが、いいということになるんじゃよ。ここでいう妄想性認知を避けるため
にも、な。

 わかったかな?

 文字は、そういう意味では、こわい。本当に、こわい。とくに、インターネットは、こわい。ホン
ト!

 今日の講義は、少しは役にたったかな?

 いかがでしたか? いつもと少し、文調を変えてみました。はやし浩司の印象が、いつもと
は、少しは変わりましたか? では、また! バ〜イ!

(はやし浩司 妄想 妄想性の認知 妄想性認知 言語情報 非言語情報)






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10
●権威主義

●権威主義の夫、従順な妻

 女性でも、約20%強※の人は、「夫は、仕事。妻は、家事」と考えている。女性自らが、男尊
女卑社会を肯定しているとみてよい。

 で、そういう中、夫が権威主義のかたまりのようであるにもかかわらず、それなりに、うまくい
っている夫婦も、少なくない。

 これを心理学の世界でも、「相補性」という。おたがいに、おたがいを補いながら、うまくいくと
いうケースである。

夫、仕事から帰ってきて、でんと居間にすわりながら、こう叫ぶ。「おい、お茶! お茶はまだか
ア!」
妻、にこにこ笑いながら、「はい、ただいま!」と。

 どんな夫婦でも、長い間、いっしょに住んでいると、多かれ少なかれ、その相補性ができてく
る。そしてその相補性がうまく利用すると、それなりに夫婦関係も、うまくいくようになる。

 が、男尊女卑といっても、必ずしも、夫が優位というわけでもないようだ。私も最近になって気
がついたが、「優位だ」と思いこんでいるのは、夫だけではないか。実は、妻は、夫に優越感を
もたせながら、その夫を、操縦しているだけかもしれない(?)。

 アメリカ人の友人のMが、こう話してくれたことがある。「アメリカでは、『夫は頭。妻は首』とい
う。考えて行動するのは夫だが、その夫の進むべき方向を決めるのは、妻だ」と。

 ナルホド!

 そこで改めて考えてみる。私たち夫婦のばあい、相補性とは何か、と。

 ……というようなことを書いても、あまり意味はない。この文章を読んでいるあなた自身は、ど
うかということ。相補性がほとんどないというのであれば、あなたの夫婦関係は、かなり危険な
状態になっていると考えてよいのでは? あるいは逆に、あまりにも相補性が強すぎるというの
も、考えものかもしれない。相補性が強すぎると、夫も妻も、独立した行動が、できなくなる
(?)。

 ほどほどのところで、適当に、ほどよい相補性をもつ。それが夫婦にとっては、大切なのかも
しれない。で、私たち夫婦のばあいは、「この仕事と、この仕事は、私の仕事」「その仕事と、そ
の仕事は、お前の仕事」というように、できるだけわかりやすく、単純化して考えるようにしてい
る。

 ただ、夫の立場で一言。

 「バカな夫」「頼りない夫」と妻に思わせながら、つまり妻に優越感を覚えさせながら、その妻
を、自分の思いどおりに動かしていくというのも、妻を操縦する方法の一つではないかというこ
と。(反対に、妻側も、そう考えているかもしれないが……。)

 この操縦法は、そのまま子育てでも、応用できる。

 子どもに、「頼りない親父(おやじ)」と思わせつつ、子どもの自立をうながすという方法であ
る。こと親子に関して言えば、相補性は、子どもの自立を阻害する原因にもなりかねない。でき
るだけ親子の間では、相補性は、少ないほうがよい。
(はやし浩司 相補 相補性 夫婦の相補性 親子の相補性 子どもの自立)

(注※)……いまだに女性、なかんずく「妻」を、「内助」程度にしか考えていない男性が多いの
は、驚きでしかない。いや、男性ばかりではない。女性自身でも、「それでいい」と考えている人
が、二割近くもいる。

国立社会保障人口問題研究所の調査(2000)によると、「掃除、洗濯、炊事の家事をまったく
しない」と答えた夫は、いずれも50%以上。「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と答え
た女性は、76・7%いる。が、その反面、「(男女の同権には)反対だ」と答えた女性も23・3%
もいる。





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11

●親の心VS子の心

 「学資も出してやった。子どもは、感謝しているハズ」「結婚式の費用も負担してやった。子ど
もは、感謝しているハズ」「新居の頭金も出してやった。子どもは、感謝しているハズ」と、親は
考える。(……考えやすい。)

 ついで、「これで親子のキズナは、太くなったはず」「いつか、子どもも、私のめんどうをみてく
れるハズ」と、親は考える。(……考えやすい。)

 しかしこれらはすべて幻想。親は子どもを許すことができるが、子どもは、親を許すことはで
きない。(許す・許さない)の問題は、もっと、根が深い。表面的な親子関係とはちがって、もっ
と、根源的なものである。

 たとえば学資を考えてみよう。

 アメリカに住んでいるT氏(22歳)は、こう言っている。現在、アメリカで大学に通っている。

「親は、学資で、子どもをしばろうとする。『大学へ行きたかったら、オレの言うことを聞け』と。
子どもは、学資を出してもらう以上、親に逆らうことができない。この束縛感がいやだ」と。

 こうした親子の意識のズレは、実は、いたるところにある。そしてそのズレは、子どもの加齢
とともに、広がることはあっても、ちぢむことはない。

 「〜〜してやった。感謝しているハズ」と考える親。しかし子どもは、「〜〜してもらった」とは、
思わない。親の行為を、「束縛」ととらえる。もう少し、わかりやすい例で考えてみよう。

 たとえば子どもが、4、5歳になると、親は、子どもを音楽教室に通わせたりする。そのとき、
子どもが、それを望んでいるわけではない。親が「子どもにとって必要」と考える。だから、子ど
もを通わせる。

 が、子どもにしてみれば、ありがた迷惑。つまり、子どもにとっては、すべてが、この(ありが
た迷惑)のまま、自分の教育が組みたてられていく。行きたくもないのに、算数教室へ行く。行
きたくもないのに、進学教室へ行く。行きたくもないのに、「いい高校へ入れ」と迫られる……。

 だから、ある女子高校生は、こう叫んだという。母親が、「あんたは、だれのおかげで、ピアノ
を弾けるようになったか、わかっているの! お母さんがね、高い月謝を払って、毎週、ピアノ
教室へ連れていってやったからでしょう!」と言ったときのこと。

 「だれが、いつ、そんなことをしてくれと、あんたに、頼んだア!」と。

 親は、「高い月謝を払って、ピアノ教室へ連れていってやった。だから娘は、私に感謝してい
るハズ」と考える。しかし娘にしてみれば、それは(ありがた迷惑)でしかなかった!

 ……というズレこそが、日本の子育ての基本形になっている。そしてそれが幼児期から、子
どもがおとなになってからもつづいている。

 もっとも、そのベースに、良好な親子関係があれば、話は別。親がなぜ、仕事でがんばるか
と言えば、(がんばれるかと言えば)、その良好な親子関係があるからである。が、その関係が
崩れたとき、親は、自己嫌悪に苦しむようになる。

 「私は、いったい、何のために働いているのか!」と。

 こうした悲哀感は、子どもが巣立ったあとに、どっと、親を襲う。振りかえってみたら、そこに
は、だれもいない。ただ、乾いた秋の空風だけが、落ち葉を舞いあげているだけ……と。

 念のため申し添えるなら、私は、このことを、もう15年以上も前に、気づいていた。この「振り
かえってみたら、そこには、だれもいない。ただ、乾いた秋の空風だけが、落ち葉を舞いあげ
ているだけ」という文章は、そのころ書いた本の一節である。

 この文を書いた背景には、こんないきさつがあった。

 あるところに、猛烈な教育ママがいた。明けても暮れても、考えることは、子どもの成績と進
学だけ。そんな母親だった。そのため、母子の間で、毎日、毎晩、「勉強しなさい」「うるさい」の
大乱闘。

 当然のことながら、親子関係は、こなごなに破壊された。しかし母親のほうは、それに気づい
ていなかった。「そんなハズはない」「うちの子にかぎって」と。私にも、こう言ったことがある。

 「いつか息子も、いい大学へ入ってくれれば、私に感謝してくれるでしょう。そのときはじめて、
私のしたことを理解してくれるハズです」と。

 しかし一度、壊れた親子関係は、もとにはもどらない。ここが重要だから、繰りかえすが、「親
は子どもを許すことができるが、子どもは、親を許すことはできない」のである。

 で、その子どもは、過酷な受験勉強によく耐えた。そしてそこそこの、つまりその母親の希望
に沿った大学に入学した。

 それから、しばらくたったあとのこと。道で会うと、その母親は、精一杯、喜んだ顔をつくって
見せながら、私にこう言った。

 「おかげで、いい大学に入ってくれました」と。

 そのとき、私は、その母親のうしろに、乾いた秋の空風だけが、落ち葉を舞いあげているの
を知った。それで、そう書いた。

 子ども側の言い分を並べると、こうなる。

 「子どものころから、『勉強しろ』『勉強しろ』と言われたのだから、勉強してやった。だから、そ
の責任を取るのは、親の義務だ」「学費を出すのは、当たり前」と。

 だから冒頭の話になる。

  「学資も出してやった。子どもは、感謝しているハズ」「結婚式の費用も負担してやった。子
どもは、感謝しているハズ」「新居の頭金も出してやった。子どもは、感謝しているハズ」と、親
は考える。

 ついで、「これで親子のキズナは、太くなったはず」「いつか、子どもも、私のめんどうをみてく
れるハズ」と、親は考える。

 しかしこれらはすべて幻想。

 幻想なんですよ、みなさん!!!

あのバートランド・ラッセル(イギリスの哲学者、ノーベル文学賞受賞者)もこう言っている。

『子どもに尊敬されると同時に子どもを尊敬し、必要な訓練はほどこすけれども、決して程度を
超えない親のみが、家族の真の喜びを与えられる』と。

この言葉のもつ意味は、大きい。



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12
●類似性と相補性

 よき夫婦でいるためには、(1)類似性と(2)相補性が必要であると、よく言われる。

 類似性というのは、ある程度、たがいによく似ていなければならないということ。相補性という
のは、相互の補完性をいう。言うなれば、似た者夫婦が、もちつもたれつの関係であればある
ほど、よい夫婦関係を築けるということになる。

 こうした類似性と相補性は、長い間夫婦をともにしていると、自然に熟成されるもの。しかしそ
れには、一つ、大きな条件がある。

 夫婦で、生活を共(とも)にしなければならないということ。私は、このことを、山荘の近くに住
んでいる農家の夫婦の人たちを見ていて、気がついた。

 その前に、最新の統計(04年6月)に、厚生労働省が発表した、「人口動態統計」によれば、
2003年度の離婚件数は、28万3906組もあったという。離婚率は、約2・3%。

その離婚率をみると、昭和25年から平成7年までの間に、離婚率は、4・6倍になったという。

 その中でも、結婚生活20年以上の熟年夫婦の離婚率は、3・5%から、16・9%にまで上昇
しているという。17%といえば、ほぼ5組に1組ということになる!

 が、こうした数字は、あくまでも、全国平均。こと専業農家を営んでいる夫婦のばあいは、離
婚率は、極端に低いのではないか。私が知るかぎり、専業農家を営んでいる夫婦で、離婚した
人の話を聞いたことがない。

 なぜ、離婚しないのか?
 
 理由の一つとして、離婚そのものに対する、社会的な抵抗感がある。農家を営んでいる人
は、夫にしても、妻にしても、地縁的なつながりを、たがいにもっている。簡単にはその地縁的
なつながりを、はずすことはできない。それに農村地域には、「離婚は恥」と考える風潮も、根
強く残っている。

が、それ以上に、農家を営んでいる人は、ここでいう、類似性と相補性をつくりやすい環境にあ
る。そのことを、山荘の近くに住んでいる農家の夫婦を見て、気がついた。

 つまり農家の夫婦というのは、まさに、一心同体。異体同心といってもよい。ともかくも、生き
ていくためには、たがいの協力が不可欠。この相補性が、夫婦のキズナを太くする。

 このことを反対に言いかえると、都会に住む夫婦は、その相補性が弱いということになる。そ
のため、離婚率が高いということになる。

 夫は会社勤め。朝、出勤したら、真夜中まで帰ってこない。夫や妻が、たがいのためにでき
る部分が、きわめて少ない。「お金だけ稼げば、じゅうぶん」と考える夫。「お金だけもらえば、じ
ゅうぶん」と考える妻。これでは、相補性を作りたくても、作れるはずがない。

 だから、離婚率が高い?

 勝手な憶測なので、まちがっている部分もあるかもしれないが、良好な夫婦関係をつづける
ためには、この類似性と相補性を、うまく熟成していく必要がある。この二つに背を向けてしま
うと、その先は、「離婚」ということになりかねない。

 (だからといって、離婚することが、「悪」と考えているわけではない。どうか、誤解のないよう
に!)

 こうしてまわりの夫婦をながめてみると、ここでいう熟年離婚をする人には、一定の共通パタ
ーンがあることがわかる。

 一つは、趣味でも何でも、共に行動することが少ないということ。(あるいは、ほとんど、な
い。)ぞれぞれの実家に帰るときも、単独行動をすることが多い。夫は夫で、妻は妻で……とい
う生活パターンになる。

 つぎに「お金の切れ目が、縁の切れ目」というような考え方をする。何かの雑誌で読んだ話だ
が、夫が手にした退職金について、「半分は、私のもの。この半分をもらって離婚します」と宣
言した妻がいたという。

 夫のほうは、「生活費を渡しているから、それでじゅうぶん」と考えがちだが、(お金)の力は、
それほど、強くないということになる。

 そこで教訓。

 せめて土日は、夫婦で、生活を共にする。共通の趣味をつくって、それをいっしょに楽しむ。
そして仕事にしても、たがいにたがいを必要とする環境をつくる。そうした努力は、たがいに必
要である。『釣りバカ日誌』に出てくるような休日の過ごし方を、夫は、してはいけない。妻も、し
てはいけない。

++++++++++++++++++++++++

以前、書いた原稿を参考までに載せていおきます。
(中日新聞・発表済み)

++++++++++++++++++++++++ 

●日本の常識、世界の標準? 

 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーンだが、欧
米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。向こうでは家族ぐるみの交際がふ
つうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過ごすということは、まず、ない。そんなこ
とをすれば、それだけで離婚事由になる。

 困るのは『忠臣蔵』。ボスが犯罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解できる。し
かし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐をするの
か」と。欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任があ
る」ということになる。しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危
害を加えられたわけではないのだから、復讐するというのもおかしい」と。

 まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、あた
かも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、一般の
庶民たちは、極貧の生活を強いられた。もしオーストラリアあたりで、英国総督府時代の暴君
を美化したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。

 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、伝統
的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的なことを教え
るのが、教育ということになっている。しかもなぜ勉強するかといえば、日本では学歴を身につ
けるため。欧米では、その道のプロになるため。日本の教育は能率主義。欧米の教育は能力
主義。

日本では、子どもを学校へ送り出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリカ(とく
にユダヤ系)では、「先生によく質問するのですよ」と言う。日本では、静かで従順な生徒がよい
生徒ということになっているが、欧米では、よく発言し、質問する生徒がよい生徒ということにな
っている。

日本では「教え育てる」が教育の基本になっているが、欧米では、educe(エデュケーションの
語源)、つまり「引き出す」が基本になっている、などなど。同じ「教育」といっても、その考え方
において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地ほどの開きがある。私が「日本では、進学
率の高い学校が、よい学校ということになっている」と説明したら、友人のオーストラリア人は、
「バカげている」と言って笑った。そこで「では、オーストラリアではどういう学校がよい学校か」と
質問すると、こう教えてくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太子も学ん
だことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュラムを学校が
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、と。そういう学校をよ
い学校という」と。

 日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもらいた
かったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。 





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13
●刷り込み(インプリンティング)

 中学生が使う英語の教科書に、「インプリンティング(刷り込み)」の話が出ていた。オーストリ
ア人の動物学者のコンラット・ローレンツ(1973年にノーベル医学・生理学賞受賞者)という学
者の体験談である。

もう15年近く前のことだが、私は、それまでインプリンティングのことは、知らなかった。最初
に、「ほほう、そんなおもしろいことがあるのか」と感心しながら、辞書を調べたのを覚えてい
る。

 が、当時は、英語の辞書にも、その説明はなかったように思う。だから子どもたちには、「そ
んなこともあるんだね」というような言い方で、教えていたと思う。

 刷り込み……アヒルやカモなど、孵化後、すぐ歩き始める鳥類は、最初に見たり、聞いたりし
たものを、親や、親の声だと思うようになるという。しかしその時期は、孵化後すぐから、24時
間以内だという。その短時間の間に、脳の中に、刷り込まれるという。

 そしてここが重要だが、一度、その刷り込みが行われると、それ自体が、やりなおしがきかな
くなるという。だから「刷り込み」のことを、(やりなおしのきかない学習)と呼ぶ学者もいる。その
鳥は、生涯にわたって、その刷り込みに支配されるようになる。

 実は、人間にも、そういう刷り込みに似た現象が起きていることが、わかっている。生後直後
から、数週間の間だと、いわれている。「敏感期」と呼ばれる時期がそれである。新生児は、生
後直後から、この敏感期に入り、やがてすぐ、どの人が自分の親であるかを、脳の中に刷り込
むと言われている。

 が、それだけではない。その刷り込みと同じに考えてよいのかどうかはわからないが、新生
児特有の現象に、「アタッチメント(愛着)」がある。

 子どもは生まれるとすぐから、母親との間で、濃密な情愛行動を繰りかえしながら、愛情の絆
(きずな)を築く。アタッチメントという言葉は、イギリスの精神科医のボウルビーが使い出した
言葉である。

 しかし何らかの理由で、この愛着の形成に失敗すると、子どもには、さまざまな精神的、肉体
的な問題が起こるといわれている。ホスピタリズムも、その一つ。日本では、「施設児症候群」
と呼ばれている。

ホスピタリズムというのは、生後まもなくから、乳児院や養護施設など、親の手元を離れて育て
られた子どもに広く見られる、特有の症状をいう。

 このホスピタリズムには、つぎの10項目があるとされる(渋谷昌三「心理学辞典」・かんき出
版)。

(1)身体発育の不良
(2)知能の発達の遅れ
(3)情緒発達の遅滞と情緒不安定
(4)社会的発達の遅滞
(5)神経症的傾向(指しゃぶり、爪かみ、夜尿、遺尿、夜泣き、かんしゃく)
(6)睡眠不良
(7)協調性の欠如
(8)自発性の欠如と依存性
(9)攻撃的傾向
(10)逃避的傾向

 親の育児拒否、冷淡、無視などが原因で、濃密な愛着を築くことに失敗した子どもも、似たよ
うな症状を示す。そして一度、この時期に、子どもの心にキズをつけてしまうと、そのキズは、
一生の間、子どもの性癖となって残ってしまう。

 先に書いた刷り込みと、どこか似ている。つまり一度、そのころ心が形成されると、(やりなお
しのきかない学習)となって、その人を一生に渡って、支配する。

 ……と書くと、実は、この問題は、子どもの問題ではなく、私たちおとなの問題であることに気
づく。その「やりなおしのきかないキズ」を負ったまま、おとなになった人は、多い。言いかえる
と、私たちおとなの何割かは、新生児の時代につけられたキズを、そのまま、引きずっている
ことになる。

 たとえば今、あなたが、体が弱く、情緒が不安定で、人間関係に苦しみ、睡眠調整に苦しん
でいるなら、ひょっとしたら、その原因は、あなた自身というより、あなた自身の乳幼児期にあ
るかもしれないということになる。

 さらに反対に、おとなになってからも、あなたの母親との濃密すぎるほどの絆(きずな)に苦し
んでいるなら、その絆は、あなたの乳幼児期につくられたということも考えられる。

 実は、私が話したいのは、この部分である。

 そうした(あなた)は、はたして(本当のあなた)かどうかということになる。

 少し前、(私)には、(私であって私でない部分)と、(私であって私である部分)があると書い
た。もしあなたという人が、その新生児のころ作られたとするなら、その(作られた部分)は、
(あなたであって、あなたでない部分)ということになる。

 仮に、あなたが、今、どこか冷淡で、どこか合理的で、どこか自分勝手だとしても、それは(あ
なた)ではない。反対に、あなたが、今、心がやさしく、人情味に厚く、いつも他人のことを考え
ているとしても、それも(あなた)ではないということになる。

 あなたは生まれてから、今に至るまで、まわりの人や環境の中で、今のあなたに作られてき
た。……と、まあ、そういうふうに考えることもできる。

 このことには、二つの重要な意味が含まれる。

 一つは、だから、育児は重要だという考え方。もう一つは、では「私」とは何かという問題であ
る。

 かなり話が、三段跳びに飛躍してしまった感じがしないでもない。しかし子どもを知れば知る
ほど、その奥深さに驚くことがある。ここにあげたのが、その一例ということになる。

 そこであなたの中の「私」を知るための、一つのヒントとして、あなた自身はどうだったかを、
ここで思いなおしてみるとよい。あなたの乳幼児期を知ることは、そのままあなた自身を知る、
一つの手がかりになる。

 まとまりのない原稿になってしまったので、ボツにしようかと考えたが、いつか再度、この原稿
は、書きなおしてみたいと思っている。それまで、今日は、この原稿で、ごめん!
(はやし浩司 アタッチメント ホスピタリズム 敏感期 刷り込み インプリンティング 刷りこ
み)





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14
●常識論

【読者の方より……】

 埼玉県にお住まいの、SY子さんから、こんな質問がありました。

+++++++++++++

毎回楽しみに読ませていただいています。

少し前のマガジンになりますが、カレンダーのお話が載っていて母からの話を思い出しました。

日本人は働いてから休む。だから月曜日から始まって最後が日曜日。でも欧米は休んでから
働く。だから日曜から始まると・・・。

本当なのかはわかりません。母は他界しているのでどこからその話を知ったのかも分からない
のですが、「だから頑張ってから休む、頑張ってからご褒美がもらえるのよ」と言う話に、納得し
た記憶があります。

先生はこの説、どうお考えになるでしょうか?? 先生のご意見が聞けたらまた勉強になるか
と思います。

+++++++++++++

★日曜日か、月曜日か?

 そこでインターネットを使って、調べてみた。

 西暦1年1月1日は、何曜日だったか? それがわかれば、カレンダーは、月曜日から始ま
るのか、日曜日から始まるのか、それがわかるはず。

 で、私は若いころ、何かの雑誌で、西暦1年の1月1日は、日曜日だったと読んだことがあ
る。もし、そうなら、カレンダーは、日曜日から始まるのが正しいということになる。

 が、しかし実際のところ、本当のことは、よくわからないそうだ。現在のグレゴリオ暦が使われ
るようになったのは、西暦1582年の10月15日以後のこと。(14日以後という説もある。)そ
れ以前は、ユリウス暦が使われていたという。

 ただ、東京天文台の公式見解では、西暦1年の1月1日は、土曜日だったという。

 カレンダーは、月曜日から始まるのか。それとも日曜日から始まるのか。

 ……という議論は、あまり意味がないのでは……?

★文化のちがい

 ここまで書いて思い出したが、こうした「ちがい」というのは、カレンダーだけではない。生活の
あらゆる場面で経験する。

 アメリカ人やオーストラリア人は、包丁やナイフを、押しながら、ものを切る。日本人は、引き
ながら切る。

 同じように、刀で相手を殺すとき、欧米人は、刺しながら、相手を殺す。日本人は、一度刀を
前に出し、引きながら、相手を殺す。

 ヨーロッパでは、車は左側を通行する。これは馬に乗った騎士が、たがいに相手と戦いやす
い位置に自分を置くためである。それを説明したのが、下の図である。

 (日本でも、車は左側を通行する。刀は左側にさして、右手で抜く。そのためすれちがうとき
は、相手を自分の右側に置かねばならない。それで左側を通行するようになった。)

 (馬に乗って、右手で剣をもった姿勢を頭の中で、想像してみてほしい。馬どうしは、たがいに
左側通行になる。)

         ■■●■→
            I      
                 I
              ←■●■■

(●が剣士。■が馬。Iが刀)

 一方、アメリカでは、車は右側を通行する。これは馬車をひっぱる人が、たがいに馬車をぶ
つけないように、すれちがったためである。馬車をひっぱる人は、馬の左側先頭に立つ。たが
いに右側を通行すると、すれちがうとき、たがいに顔を合わせることができる。

          ← ■■■
           ●
 
          ●
       ■■■ →

(●が馬車を引く人、■■■が、馬車。反対だと、たがいにすれちがいにくくなる。それで右側
通行になったという。)

 ほかにもたとえば、日本人は、あいさつをするとき、頭をさげる。これは相手に、「頭を切られ
ても、文句ありません」ということを伝えるためだそうだ。

 一方、欧米では、握手をする。それは、たがいに剣をもっていないという示すためだそうだ。

 それぞれの文化には、さらにその背景となる文化がある。そうした文化が無数に積み重なっ
て、今の文化をつくりあげている。

★日曜日は、安息日

 ……と考えていくと、カレンダーにも、無数の文化が凝縮されていることがわかる。毎日、働
きづめでは、体がもたない。だから日曜日という、安息日をもうけた。この日は、皆が、休息で
きるようにした。

 そう言えば、私がオーストラリアにいたころは、日曜日といえば、メルボルン市内の商店街
は、すべて、店を閉めていた。(最近は、日曜日にも開店している店が多くなったと聞く。)

 一方、日本には、大安、友引、仏滅……などという言い方がある。今でも、それに応じて、そ
の日の行動を決めている人は多い。これは、一つの寺で、たとえば葬式と結婚式が重ならない
ようにするためであった。

 いろいろ、ある。

 で、SY子さんのメール。こう書いてある。

 「日本人は働いてから休む。だから月曜日から始まって最後が日曜日。でも欧米は休んでか
ら働く。だから日曜から始まると……」と。

 しかし本当にそうだろうか。私が知るかぎり、私が子どものころでさえ、日曜日などは、あって
も、ないようなものだった。その前の、つまり江戸時代から、戦前にかけては、盆と正月しか、
休みのない人もいたという。日曜日イコール、休みという考え方が定着したのは、戦後のことで
はないか。

 さらにこのところ、正月の三が日ですら、仕事をする人がふえてきた。私が子どものころに
は、正月の三が日というのは、絶対的な休日になっていた。商店街の「初売り」にしても、たし
か正月の3日の午後か、もしくは4日ではなかったか。

 が、今は、ちがう。どうちがうかは、みなさん、すでにご存知のとおりである。

 便利になったというか、めちゃめちゃになったというか……。曜日というものが、あまり意味を
もたなくなってきた。

★私は、日曜日始まりが、好き

 で、私のばあいだが、やはり、カレンダーは日曜日始まりのものがよい。月曜日始まりのカレ
ンダーをたまに使ったりすると、かえって混乱してしまう。(実は、もう、何度も失敗している。)

 SY子さんは、はたしてどうだろうか? しかしSY子さんのお母さんは、すばらしいお母さんだ
と思う。それが正しいかどうかという問題は、さておき、そういう指導ができる母親というのは、
そうはいない。

 「休んでからがんばる」より、「がんばってから休む」。そのほうが、何となく、合理的である。
私自身も、そういう生きザマのほうが、性(しょう)にあっているような気がするのだが……。

++++++++++++++++

【異論・反論】

 欧米人は、「休んでから働く」という。(本当は、どちらとも言えないのだが……)、ここまで書
いて思い出したのが、『休息を求めて疲れる』という、イギリスの格言である。この格言は、愚
かな生き方の代名詞にもなっている。

 「いつか楽になろう、いつか楽になろう」と思ってがんばっているうちに、気がついてみたら、
自分の人生が終わっていたという生きザマである。

 これについて、以前、一度、原稿を書いたことがある。

+++++++++++++++

●今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなって
いる格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、結
局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはいけま
せん」と教えている。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がい
る。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入
るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。

こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、ここでいう
愚かな生き方そのものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自分
のものにすることができない。あるいは社会へ出てからも、そういう生き方が基本になっている
から、結局は自分の人生を無駄にしてしまう。

「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽らずに
生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高校
生が自殺に追いこまれるという映画である。

この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反対の位置にあ
る。これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。しかし今、あなた
の周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現実であって、過去や未来
などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。だったら精一杯、この「今」の
中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。

子どもたちとて同じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子
ども時代は子ども時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないの
か。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」とい
うことは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、そのつどな
すべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。

たとえば私は生徒たちには、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。そ
れでいい。結果はあとからついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に追
い求めたら、君たちの人生は、見苦しくなる」と。
 
同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子ど
もに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では「がんばれ!」と拍車を
かけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。

ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本的な違
いを感ずる。その違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味がわからない
のではないか……と、私は心配する。

+++++++++++++++

 この生きザマは、おとなだけのものではない。小学校の勉強は、中学入試のため。中学校の
勉強は、高校入試のため。そして高校での勉強は、大学入試のため……。そういうふうに、
「未来のために現在を犠牲にする」という生きザマを繰りかえしていると、いつまでたっても、そ
の「時」を、自分のものとすることができなくなる。

 さらに、このことは、「生きるために働くのか」、それとも、「働くために生きるのか」という問題
にまで、行きつく。

 その点、欧米人の生きザマは、わかりやすい。彼らの考え方の基本にあるのは、「自分の生
活を楽しむために、お金を稼ぐ」。その前提で、彼らは仕事をする。だから、土日はもちろんの
こと、1、2か月もつづくバカンスでも、目いっぱい、楽しむ。

 一方、日本人は、そうではない。「仕事がある」と言えば、たいていの家事は、免除される。子
どもでも、「宿題がある」「勉強がある」と言えば、家事の手伝いが免除される。仕事第一主義
が悪いというのではない。しかし日本人は、仕事のためなら、家庭を犠牲にすることをいとわな
い。少なくとも、少し前までの日本では、そうだった。

 しかしなぜ仕事をするかといえば、それで得たお金で、家族と楽しく過ごすためではないの
か。お金はお金。どこでどう稼いだかは、問題ではない。が、日本では、その中身も、問題にな
る。

 これは私自身のことだが、私は、若いころ、がむしゃらに働いた。1か月のうち、休みが1日だ
けということも、長くつづいた。が、それでも、私の収入は、大手企業に勤める同年齢のサラリ
ーマンの給料と、ほぼ同額だった。それはそれとして、そのときのこと。私は、ふと、こう思っ
た。

 「サラリーマンがもらう10万円も、私が手にする10万円も、10万円は10万円。何もちがわ
ない」と。

 しかし世間は、そうは見なかった。「大企業から給料としてもらう10万円と、今でいうフリータ
ーが手にする10万円はちがう」と。おかしなことだが、当時は、まだ、そういう風潮が根強く残
っていた。そのころ私に面と向かって、こう言った男性(50歳くらい)さえいた。

 「お前は、学生運動か何かをしていて、どうせロクな仕事にも、つけなかったんだろう」と。

 仕事に、ロクな仕事も、ロクでない仕事もない。あるいは、何を基準にして、仕事をそういうふ
うに、より分けるのか。

 ……というふうに考えていくと、仕事をしたあと、褒美(ほうび)として、休みをもらうよりも、楽
しんでから、仕事をいたほうが、よいということになる。事実、私の年齢になると、ポツポツと、
他界していく人が現れるようになった。

 これは私の姉の友人のことだが、その友人は、死ぬまで、まさに(仕事の虫)。明けてもも暮
れても、仕事ばかりの人生を送っていたという。で、そこそこの財産を作ったが、ある日、車を
運転しているときに心筋梗塞を起こし、そのまま死んでしまった。

 その友人について、私の姉はこう言った。「何のための人生だったのかねえ……?」と。つま
り、仕事、仕事で明け暮れて、その最後にポックリと死んでしまった友人を思い浮かべなら、そ
の友人の人生は、何だったのか、と。

 こう書くと、SY子さんのお母さんの意見を否定することになる。しかしそれもつらい。

 そこで折衷(せっちゅう)案ということになる。

 日曜日から始まるカレンダーも、おかしい。しかし月曜日から始まるカレンダーも、おかしい。
だったら、水曜日から始まるカレンダーを作ってみたらどうだろうか。

 水、木、金、土、日ときて、つぎに、月、火とつづく。考えるだけでも、楽しいではないか。

 こうすれば、仕事も、褒美も半々ということになる。仕事のために、家庭を犠牲にすることもな
いし、反対に、遊んでばかりいて、仕事をしなくなるということもない。

 要するに、ほどほどに仕事をし、ほどほどに人生も楽しむということ。

 何でもないメールだったが、(最初はそう思ったが……)、SY子さんのメールは、たいへん意
味のある、つまり考えさせられるメールだった。

 SY子さん、ありがとうございました。
(041123)

【補記】

 戦後の日本といえば、日本全体が、基底不安型の国家になっていたのでは……。敗戦によ
って、日本人は、精神的基盤というか、バックボーンをなくしてしまった。

 その結果、大半の人は、「マネー信仰教」というカルトに走った。新興宗教が、雨後の竹の子
のように生まれたのも、この時期である。

 「働いていないと、不安」「せっかくの休みになっても、休み明けの仕事を考えると心配で、ゆ
っくり休むこともできない」と。

 こうして働き蜂が生まれ、仕事中毒の人が生まれた。周囲の社会も、そういう人たちを、「企
業戦士」とたたえた。

 その結果、今に見る、繁栄した国家が生まれたが、心の空白感はそのままだった。「何か、
おかしいぞ」「どこか、へんだぞ」と思いながらも、それが何であるかさえ、わからないままだっ
た。ずるずると生きてきた。現代に至った。

 が、ここにきて、今、日本人の心に、一大革命が起こりつつある。権威の崩壊と、出世主義
の崩壊である。

 それにかわって、新家族主義が台頭してきた。「仕事よりも家族が重要」と考える人は、99
年ごろには、40%(文部省)前後にすぎなかった。が、最近の各種調査によれば、それが80
〜90%までにふえている。

 日本人は、内面社会に、より充実した幸福感を求めようとしている。もっとも、今は、まだ模索
段階で、そこに確固たる信念を見いだしたわけではない。「今までの生きザマは、どこかおかし
いぞ」「まちがっていたのでは?」という思いが、新・家族主義へ走る原動力になっている。

 こうした流れの一方で、過激な復古主義が、勢力を伸ばしつつあるのも、事実。

 江戸時代の武士道をたたえたり、明治時代に入ってからもてはやされた、徳育教育を教育
の柱に持ち出す人も、多い。さらには、戦前の、民族主義を先頭にかかげる人もいる。天皇制
復活の動きも、あちこちに見られる。

 たしかに今の日本の世相は、混乱している。バックボーンをなくした状態というのは、こうした
状態のことをいう。

 しかし、ここで重要なことは、私たちは、前に進むということ。「混乱したから、過去にもどる」
のではなく、「混乱の中から、未来に向かって、何かを生み出す」ということ。言うまでもなく、改
革思想は、こうした混乱期に生まれる。安定期には、生まれない。

 言いかえると、今こそ、そのチャンスということになる。新しい日本を生み出す、好機というこ
とになる。

 さあ、私たちは、失敗にめげないで、前に進もう! 新生、日本のために!

【補記2】

 みながみな、そうではないが、しかし、今、日本へビジネスマンとしてやってくる、あの中国の
人たちの見苦しさは、いったい、何か? おかしいというより、狂っている。

 口を開けば、「マネー」「マネー」。明けても暮れても、「マネー」「マネー」。考えることは、すべ
て、「マネー」「マネー」。まさに金の亡者。体中を札束でくるんだような人ばかり。まるでマネー
という獲物をねらう、ハゲタカのよう。

 しかしその姿は、30年前、40年前の、私たち日本人の姿そのもの。と言うより、今の中国人
たちを見ていると、あのころの日本人を、そのまま思い出す。私たちも、実は、そうだった。

 そう言えば、当時、どこかの会社のカレンダーには日曜日がなく、「月・月・火・水……」となっ
ていた。実のところ、私の家もそうだった。ハハハ。(笑って、ごまかす。)

 決して中国の人を笑っているのではない。私自身の過去を笑っている。ハハハ。得たもの
も、多いが、そのため、犠牲にしたものも、多い。今から思うと、もう少しましな方法で、人生を
楽しむことができたのではないかと思う。

 何か、不便なことがあれば、すぐモノを買って、解決する。そんな世相だった。おかげで、私
の狭い家の中には、モノがあふれ、自由に歩くことさえ、ままならなかった。

 今回の、SY子さんが投げかけてくれたカレンダーの問題には、本当に、いろいろ考えさせら
れる。SY子さん、重ねて、ありがとうございました。






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15
●日本人の国語力

 先日、ある小学校で講演をしたら、その学校の校長が、こんなエピソードを話してくれた。

 その校長が、コンビニのレジの前で並んでいたときのこと。前に立った若い母親が、子ども
を、こう言って、叱っていたという。

 「テメエ、殺すぞ!」と。

 子どもは、5歳くらい。何かのことで、母親の言うことを聞かなかったらしい。それでその母親
は、そう言った。

 校長は、その言葉に驚いた。そして私に、こう言った。「今の若いお母さんたちは、ああいう言
い方をしているんですねえ」と。

 子どもの国語力は、母親の会話能力によって、決まる。それについて書いたのが、つぎの原
稿である。

+++++++++++++++++

【子どもの国語力が決まるとき】

●幼児期に、どう指導したらいいの?

 以前……と言っても、もう二〇年近くも前のことだが、私は国語力が基本的に劣っていると思
われる子どもたちに集まってもらい、その子どもたちがほかの子どもたちと、どこがどう違うか
を調べたことがある。結果、次の三つの特徴があるのがわかった。

(1)使う言葉がだらしない……ある男の子(小二)は、「ぼくジャン、行くジャン、学校ジャン」と
いうような話し方をしていた。「ジャン」を取ると、「ぼく、行く、学校」となる。たまたま『戦国自衛
隊』という映画を見てきた中学生がいたので、「どんな映画だった?」と聞くと、その子どもはこ
う言った。「先生、スゴイ、スゴイ! バババ……戦車……バンバン。ヘリコプター、バリバリ」
と。何度か聞きなおしてみたが、映画の内容は、まったくわからなかった。

(2)使う言葉の数が少ない……ある女の子(小四)は、家の中でも「ウン、ダメ、ウウン」だけで
会話が終わるとか。何を聞いても、「まあまあ」と言う、など。母「学校はどうだったの?」、娘「ま
あまあ」、母「テストはどうだったの?」、娘「まあまあ」と。

(3)正しい言葉で話せない……そこでいろいろと正しい言い方で話させようとしてみたが、どの
子どもも外国語でも話すかのように、照れてしまった。それはちょうど日本語を習う外国人のよ
うにたどたどしかった。私「山の上に、白い雲がありますと、言ってごらん」、子「山ア……、上に
イ〜、白い……へへへへ」と。

 原因はすぐわかった。たまたま子どもを迎えにきていた母親がいたので、その母親にそのこ
とを告げると、その母親はこう言った。「ダメネエ、うちの子ったら、ダメネエ。ホントにモウ、ダ
メネエ、ダメネエ」と。原因は母親だった!

●国語能力は幼児期に決まる

子どもの国語能力は、家庭環境で決まる。なかんずく母親の言葉能力によって決まる。毎日、
「帽子、帽子、ハンカチ、ハンカチ! バス、バス、ほらバス!」というような話し方をしていて、
どうして子どもに国語能力が身につくというのだろうか。

こういうケースでは、たとえめんどうでも、「帽子をかぶりましたか。ハンカチを持っていますか。
もうすぐバスが来ます」と言ってあげねばならない。……と書くと、決まってこう言う親がいる。
「うちの子はだいじょうぶ。毎晩、本を読んであげているから」と。

 言葉というのは、自分で使ってみて、はじめて身につく。毎日、ドイツ語の放送を聞いている
からといって、ドイツ語が話せるようにはならない。また年中児ともなると、それこそ立て板に水
のように、本をスラスラと読む子どもが現れる。しかしたいていは文字を音にかえているだけ。
内容はまったく理解していない。

なお文字を覚えたての子どもは、黙読では文を理解できない。一度文字を音にかえ、その音を
自分の耳で聞いて、その音で理解する。音読は左脳がつかさどる。一方黙読は文字を「形」と
して認識するため、一度右脳を経由する。音読と黙読とでは、脳の中でも使う部分が違う。そ
んなわけである程度文字を読めるようになったら、黙読の練習をするとよい。具体的には「口
を閉じて読んでごらん」と、口を閉じさせて本を読ませる。

●幼児教育は大学教育より奥が深い

 今回はたいへん実用的なことを書いたが、幼児教育はそれだけ大切だということをわかって
もらいたいために、書いた。相手が幼児だから、幼稚なことを教えるのが幼児教育だと思って
いる人は多い。私が「幼稚園児を教えています」と言ったときのこと。

ある男(五四歳)はこう言った。「そんなの誰にだってできるでしょう」と。しかし、この国語力も含
めて、あらゆる「力」の基本と方向性は、幼児期に決まる。そういう意味では、幼児教育は大学
教育より重要だし、奥が深い。それを少しはわかってほしかった。

+++++++++++++++++

 ところでこんなショッキングな調査結果が公表された。

 「大学生の日本語力が低下し、中学生レベルの国語力しかない学生が国立大で6%、四年
制私立大で20%、短大では35%にのぼることがわかった」というのだ。

調査したのは、独立行政法人「メディア教育開発センター」(千葉市)のON教授(コミュニケー
ション科学)ら。

「憂える」の意味を「喜ぶ」と思いこんでいる学生が多いなど、外国人留学生より劣る実態で、
授業に支障が出るケースもあるという。同教授は「入学後の日本語のリメディアル(やり直し)
教育が必要」と指摘する。

 調査は04年度に入学した33大学・短大の学生約1万3000人を対象に、中1から高3相当
の問題を盛り込んだテストを行い、02年度に中高生に実施したテスト結果と照らし合わせてレ
ベルを判定したという。

その結果、中学生レベルと判定された学生は、五年前に行われた調査と比較して、国立大が
0・3%から6%、私立大が6・8%から20%、短大が18・7%から35%と、数年間で大きく増
加していることが分かったという。

Yahoo・ニュースは、「テストでは『憂える』の意味を問う設問で、『中学生レベル」』と判定され
た学生の3人に2人が『うれしい』に音感が近いためか『喜ぶ』を選択。『大学生レベル』とされ
た学生の中でも正答率は50%にとどまり、文字通り"憂える"結果となった」と伝えている。

【問題の例】

 ☆露骨に
(1)ためらいがちに     (0%)
(2)おおげさに    (83.3%)
〔3〕あらわに     (16.7%)
(4)下品に         (0%)
(5)ひそかに        (0%)

 ☆憂える
(1)うとましく思う  (16.7%)
(2)たじろぐ        (0%)
(3)喜ぶ       (66.7%)
〔4〕心配する        (0%)
(5)進歩する     (16.7%)

 ☆懐柔する
(1)賄賂をもらう   (50.0%)
(2)気持ちを落ち着ける(33.3%)
(3)優しくいたわる  (16.7%)
〔4〕手なずける       (0%)
(5)抱きしめる       (0%)

(カッコ内は中学生レベルと判定された学生が回答した割合、〔 〕数字が正解)
 *小数点計算で合計は必ずしも100にならない
(以上、Yahoo ニュースより)

++++++++++++++++++

 もっとも、今の若い人たちは、日常的に、そういう言葉、つまり、「テメエ、殺すぞ」という言葉
を使っている。ごく日常的な言い方で、特別な言い方ではない。が、その一方で、旧来型の日
本語を知らないからといって、国語力が落ちていると判断するのも、どうかと思う。

 反対に、これを調査した、「メディア教育開発センター」のON教授に、こんなテストをしてみた
ら、どうだろうか。はたして、ON教授は、何点取れるだろうか?

【問題の例】

☆ムッチョ
(1)むっつりしているさま
(2)貯金がないこと
(3)筋肉がモリモリしているさま
(4)いやがっていること
(5)怒っている様子

☆コクル
(1)告発する
(2)忠告する
(3)密告する
(4)告白する
(5)納得する

☆カリパク
(1)食べ物の名前
(2)借りて返すこと
(3)カリカリと怒ること
(4)道路で座ってものを食べること
(5)借りて返さないこと

☆アリガチ
(1)ありがた迷惑
(2)ありがとう
(3)ありえること
(4)ありえないこと
(5)いらぬ節介のこと

☆フタマタ
(1)2つのことを同時にすること
(2)2人の人と、同時につきあうこと
(3)浮気すること
(4)2つの選択肢のこと
(5)いやなこと

☆シュラバ
(1)喧嘩すること
(2)がんばること
(3)ここ一番というとき
(4)苦労すること
(5)何か、まずいことがバレること

 つまり私が言いたいのは、日本語も、どんどんと変化してきているということ。調査では、「憂
える」の意味を知らないことを問題にしているが、実際、若い人たちが使わない言葉であれば、
それもしかたないのではないか。

 私自身は、旧世代の人たちは、もう少し、若い人たちに、謙虚であるべきではないかと思って
いる。「自分たちは知っている。しかし今の若い人たちは知らない。だから今の若い人たちは、
おかしい」という論法自体が、おかしいということ。どこか復古主義的?

 しかし世の親たちに一言。

 高校入試にせよ、大学入試にせよ、そこで使われる入試問題は、こうしたどこか頭の古い、
旧世代の人たちによって作られている。だから、子どもの(進学)ということを考えるなら、体制
に迎合したほうがよい。そのほうが、あなたの子どももスイスイと、学歴社会を生きぬくことがで
きる。

 そのためにも、あなたの子どもには、ここに書いたように、正しい言葉で、かつ豊かな言葉で
話しかけるとよい。「テメエ、殺すぞ」ではなく、「あなたが、そうすれば、あなたは、私によって、
殺されますよ」と。

 なお正解は、上から(3)(4)(5)(3)(3)(5)。
(はやし浩司 子どもの言葉 子供の言葉 言葉教育 言語教育)





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16
●兄弟(姉妹)

 兄弟(姉妹)には、つぎの7つの関係がある。

(1)対立関係(兄弟同士が、対立する)
(2)協調関係(たがいに力を合わせて行動する)
(3)相補関係(たがいに足りないところを補いあう)
(4)競争関係(たがいに競争する)
(5)主従関係(上の子が、下の子を従わせる)
(6)類似関係(たがいに、よく似てくる。まねをする)
(7)依存関係(たがいに、依存しあう)

 「兄(姉)だから……」「弟(妹)だから……」という、ダカラ論は、できるだけしない。良好な兄
弟関係をつくるためには、これは鉄則である。

 たとえば長男が、長男らしくなるのは、日常的に、「あなたは長男だから……」と言われること
による。親は、長男に、長男としての自覚をもたせるためにそう言うが、しかしこうしたダカラ論
は、思わぬところで、その子どもを追いつめることになり、ついで苦しめることになる。

 よく知られた例に、反動形成がある。「あなたは兄だから……」と言われつづけると、子ども
は、本来の自分とは反対側の自分を、自分の中につくりあげてしまう。たとえば弟(妹)の前
で、ことさらよい兄(姉)を演じてみせるなど。

 そこまで行かなくても、仮面をかぶったり、心を偽ったりするようになる。こうした現象が日常
的につづくと、子どもの心は、本来そうである自分から、遊離してしまう。そしてその結果とし
て、兄弟関係を、ぎくしゃくとさせる。

 「兄弟(姉妹)は、仲がよいほうがいい」……というのは、当然であるとするなら、いくつかのコ
ツがある。

●上下意識は、もたない

 兄(姉)が上で、弟(妹)が下という、上下意識をもたない。……といっても、日本人からこの意
識を抜くのは、容易なことではない。伝統的に、そういう意識をたたきこまれている。今でも、長
子相続を本気で考えている人は多い。もしあなたがどこか権威主義的なものの考え方をしてい
るようなら、まず、それを改める。

●子どもの名前で、子どもを呼ぶ

 「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」ではなく、兄でも、姉でも、子ども自身の名前で、子どもを呼ぶ。
たとえば子どもの名前が太郎だったら、「太郎」と呼ぶ。一般的に、たがいに名前で呼びあう兄
弟(姉妹)は、仲がよいと言われている。

●差別しない

 長男、長女は、下の子が生まれたときから、恒常的な愛情不足、欲求不満の状態に置かれ
る。親は「平等」というが、長男、長女にしてみれば、平等ということが、不平等なのである。そ
ういう前提で、長男(長女)の心理を理解する。つまり長男(長女)のほうが、不平等に対して、
きわめて敏感に反応しやすい。

●嫉妬はタブー

 兄弟(姉妹)の間で、嫉妬感情をもたせない。これは子育ての鉄則と考えてよい。嫉妬は、確
実に子どもの心をゆがめる。原始的な感情であるがゆえに、扱い方もむずかしい。この嫉妬
がゆがむと、相手を殺すところまでする。兄弟(姉妹)を別々に扱うときも、たがいに嫉妬させな
いようにする。

●たがいを喜ばせる

 兄弟を仲よくさせる方法として、「たがいを喜ばせる」がある。たとえばうち1人を買い物に連
れていったときでも、「これがあると○○君、喜ぶわね」「△△ちゃん、喜ぶわね」というような買
い与え方をする。いつも相手を喜ばすようにしむける。これはたがいの思いやりの心を育てる
ためにも、重要である。

●決して批判しない

 子どもどうしの悪口を、決して言わない。聞かない。聞いても、判断しない。たとえば兄に何か
問題があっても、それを絶対に(絶対に)、弟に告げ口してはいけない。告げ口した段階で、あ
なたと兄の関係は、壊れる。反対に兄が弟のことで、何か告げ口をしても、あなたは聞くだけ。
決して相づちを打ったり、いっしょになって、兄を批判してはいけない。

 いくら兄弟でも、同じように育つというわけではない。たとえば兄が、C小学校で、弟が名門
(こういう言い方は不愉快だが……)のS小学校へというケースは、少なくない。

 そういうとき親は、「兄がひがまないでしょうか?」とよく相談してくる。

 仮にひがむとしても、しかしそういう下地をつくったのは、親自身である。そのことを棚にあげ
て、「ひがまないでしょうか?」は、ない。

 つまりそういう下地を、日ごろから、作らないこと。「あなたはお兄ちゃんだから、がんばってS
小学校へ入ってね」とは、たとえば、言ってはいけない。弟に対しては、「あなたもがんばって、
お兄ちゃんと同じS小学校に入ろうね」とは、たとえば、言ってはいけない。

 兄弟どうしの問題は、たいへん重要であると同時に、デリケートな問題である。決して、安易
に考えてはいけない。
(はやし浩司 兄弟 兄弟の問題 兄弟の育て方 育てかた)
(041124)

【補記】

 ワイフには、ワイフを入れて7人の兄弟(2男5女)がいる。

 その兄弟を見ていて、気がついたことがある。つまりワイフの兄弟は、本当に仲がよい。信じ
られないくらい、仲がよい。

 その秘訣の一つが、長女のE子さんをのぞいて、上下意識がまったくないということ。E子さん
は、ワイフの家族の中では、母親がわりだった。それでどこか家父長意識がある。しかしそれ
でも、仲がよい。(ワイフの母親は。、若くして他界。)

 で、気がついたのは、ワイフの兄弟は、たがいに、ずべて名前で呼びあっているということ。
「兄」とか、「姉」という言葉を、私は、聞いたことがない。

 一方、私が生まれ育ったG県は、何かにつけて、上下意識が強い。あらゆるところに、身分
意識が入ってくる。そのため、兄弟でも、「上の兄」「下の兄」「三番目の兄」というふうに呼びあ
ったりする。序列をつける。そしてその序列に従って、上下関係、つまり命令と服従の関係をつ
くる。

 みながみな、そうではないと思うが、この静岡県とG県を、おおざっぱに比較すると、それだけ
静岡県は、G県と比較すると、開放的ということになる。

 そんなわけで、やはり子どもは、名前で呼んだほうがよい。そのほうが、兄弟(姉妹)は、うま
くいく。が、それだけではない。

 子どもは、自分の立場を無意識のうちにも、自分の役割を形成していく。男の子は男のらし
く、女の子は女の子らしくなっていくのが、それである。

 それを役割形成というが、その役割形成がよいものであれば、問題はない。しかしその役割
形成によって、子ども自身が、不必要な役割をつくり、その重圧に苦しむことがある。

 先日もある女性から、こんなメールが届いた。いわく、「私の兄は子どものころから、長男、長
男と、耳にタコができるほど、言われつづけました。妹がもう1人いますが、兄は、家の跡継ぎ
になるのが当然といったふうに育てられました。家のあとをつぐのは、当然、親のめんどうをみ
るのは、当然、と。そういう兄をみていると、かわいそうです」と。

 いまだに長子相続的な考え方が残っていること自体、おかしなことだ。江戸時代の身分制度
の亡霊そのものといってよい。

 最近になって、江戸時代の武士道を礼さんする人が、たくさん出てきたが、封建時代がもって
いた負の遺産を清算することなく、一方的に、こうした武士道を礼さんすることは、危険なことで
もある。

 あの江戸時代という時代は、世界でも類をみないほど、自由と人権が抑圧された、暗黒の時
代であってことを、忘れてはいけない。人々は、移動することもできず、職業選択の自由もな
く、思ったことも言えなかった……などなど。厳格な身分制度も、その一つ。

 話は少し過激になったが、大切なことは、子どもに上下はないということ。人間に上下はない
ということ。おかしな上下意識は、もう、このあたりで、捨てよう!





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17
●欲求段階説

●新潟県・中越地震に思う

 新潟県・中越地震が起きてから、昨日でほぼ1か月がすぎた(11・24)。

 毎日のように、その地震の報道が繰りかえされている。私はそれを見ながら、「つぎは、この
静岡県だ」「つぎは、私たちだ」と思っている。決して、人ごとではない。

 で、その一連の報道を見ていて、こんなことに気づいた。

 地震が起きた直後には、被災者の人たちは、「生きていて、よかった」「命びろいした」などと
言っていた。

 それが数日もすると、「家が心配だ」「冬がやってくる」と、今度は、身のまわりの心配をする
ようになった。

 さらに1週間もすると、「食事が届かない」「避難場所では眠れない」と言うようになった。(決し
て、被災者の人たちのことを批判しているのではない。誤解のないように!)

 そのころになると、救援活動も本格化し、政府の援助の具体策も見えるようになってきた。

 被災者たちが、自分の家にもどり、あれこれあと始末が始まったころもこのころだ。全国から
ボランティア活動の人たちも集まり始めた。

 で、地震発生から、1か月。被災者の人たちは、役場へ足を運び、生活費や、家の修理費の
相談を始めるようになった。

 こうした流れをみていると、そこに、人間の自発的活動の発達段階そのものを、みる思いが
する。いわずと知れた、マズローの「欲求段階説」である。

 マズローは、人間の欲求を、つぎの5つの段階に分けた。

(1)第1段階……生理的欲求(「生きていたい」と思うこと。)
(2)第2段階……安全に対する欲求(身の安全を確保すること。)
(3)第3段階……所属と愛情の欲求(安心してよりかかえるところを求める。)
(4)第4段階……承認と自尊の欲求(より人間らしく生きたいという欲求。)
(5)第5段階……自己実現の欲求(自分をより完成させたいという欲求。)

 マズローは、個人の発達段階として、この段階説を唱えた。しかし人間の歴史という長いスパ
ンでみると、そのまま人間の歴史にも、この段階説を、当てはめることができる。と、同時に、
短期的には、新潟県・中越地震の被災者たちのように、短期的な期間においても、この段階説
を、当てはめることもできる。

 新潟県の被災者たちは、地震直後には、「生きていてよかった」と、胸をなでおろした。これ
はマズローのいう、第1段階に当てはまる。

 つぎに被災者が集まって、共同生活をするようになった。これはたがいに身の安全を確保す
るためのものであった。つまり第2段階ということになる。

 つぎにボランティア活動なども始まり、そうした人たちの活動になぐさめられたり、励まされた
りするようになる。これが第3段階。

 そしていよいよ家の修理、さらには、役場に行って、融資の相談など。これは「もとの威厳の
ある生活にもどりたい」という、まさに第4段階ということになる。

 少し無理なこじつけをしたので、「?」と思われる人もいるかもしれないが、そこは、許してほし
い。

 私が言いたいのは、つぎの第5段階である。

 人間は、パンを食べて、水を飲んで生きるだけの生物ではない。また、そうであってはいけな
い。衣食住足りて、礼節を知るという言葉もある。

 マズローも言っているように、第4段階までは、「欠乏欲求」。しかし第5段階は、「自己実現欲
求」ということになる。わかりやすい例で言えば、芸術家の世界がある。文学者や哲学者の世
界がある。

 が、ここで重要なことは、ほとんどの人は、第4段階までで、努力を停止してしまうということ。
衣食住が足りてくると、そこで満足して、その先へ進まなくなってしまう。

 一つの例として、昨日も、こんな経験をした。

 この浜松市では、交差点の信号など、あって、ないようなもの。黄色信号は、「アクセルを踏
んで、突っ走れ」という意味。赤になった直後は、「止まるな、行け行け」。さらに隣の信号が緑
になっても、「行けたら、行け」。前に車がいたら、「そのあとについて行け」と。

 そんなわけで、静岡県は、交通事故、ワースト・ワン。その中でも、この浜松市は、ワースト・
ワン。信号が緑になっても、すぐ横断歩道に出てはいけない。1呼吸おいて、左右を確かめて
から、横断歩道に出る。

 が、それでも、無理な運転をしてくる人が、あとを断たない。昨日も、そうだった。

 信号は完全に、赤になっていた。隣の信号は、緑になっていた。が、それでも、猛スピード
で、ぐんと大回りしながら、交差点を右折してくる車があった。見ると前席には、若い夫婦。うし
ろの席には、2人の子ども。7歳くらいと4歳くらいの子どもだった。

 私はそれを見ながら、新潟県の被災者たちから見れば、夢のような生活をしながら、そのあ
りがたさが、まったくわかっていない人たちだと思った。道路を、そうして車で、自由に走れるこ
とすら、夢のようではないか。

 いや、本当は、そのときは、先に、こんなことを考えた。

 「ああいう親を見て育つ子どもは、どんな子どもになるのだろう」と。「親のような、小ズルイ人
間になるのかなあ」とも。マズローの「欲求段階説」を思い出したのは、そのつぎのことであっ
た。「この静岡県で地震が起きたら、たいへんなことになるぞ。自分勝手な人が、多すぎる」と。

 私は、新潟県・中越地震による被災者たちを見ながら、「つぎは私たちだ」と思いながら、別
の心で、「急がなくては……」と思った。

 こうしてコタツにはいって、パソコンのキーボードをたたけるということだけでも、ありがたいこ
と、すばらしいこと。衣食住も、今のところ、安泰だ。だから、この「時」をムダにしてはいけな
い。できるだけ、前に進んでおかねばならない。

 明日、(あるいは今日の午後にでも……)、この静岡県で地震が起きれば、それで万事休
す。「自己実現欲求」など、空のかなたに吹っ飛んでしまうにちがいない。地震の規模にもよる
が、同じ規模でも、この静岡県で起きたら、生活がもとにもどるまでに、新潟県の人たちより
も、さらに長い時間がかかるにちがいない。

 新潟県の被災者の方たちが、以前のような生活に早くもどり、安穏な生活が、一日も早くでき
るようになることを、願ってやまない。
(はやし浩司 マズロー マズローの欲求段階説 欲求段階説 自己実現欲求)





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18
●仮想現実体験(ゲームの世界)

【W中学校の父母よりの、質問に答えて……】(1)

 W中学校の父母より、こんな質問が届きました。

 「仮想現実体験と、実体験のちがいにより、心の形成には、どのような影響が出るか」という
質問です。

 それについて考える前に、以前書いた原稿を、そのまま、ここに転載します。(一部は、中日
新聞に投稿済み。)少し質問の趣旨からは、脱線すると思いますが、お許しください。この中
で、私は仮想現実体験(パソコンやテレビゲームの世界)のもつ、一つの問題点を、取りあげ
てみました。

+++++++++++++++++++++

●島根県のUYさんより

はじめまして。
HPをよく拝見させて頂いています。
 
娘の事を相談させていただきたく、メールをしています。
娘は五歳半になる年中児で、下に三歳半の妹がいます。
小さい頃から動作の一つ一つが乱暴で、よくグズリ、キーキー興奮しては些細な事で泣く子でし
た。

それは今でも続いており、集中が長く続かず、こだわりも他の子供よりも深い気がします。
話も目を見て心を落ち着けてゆっくり会話をする事が出来ません。
真剣な話をしながら足の先を神経質に動かしたり、手を振ったりして、とても聞いている態度に
は見えません。

走りまわるほどの多動ではありませんが、落ち着いて、じっとしていることが出来ないようです。

そのせいか、話し言葉も五歳にしては表現力がないと思われます。
物の説明はとても難解で、結局何を言っているのか分からない事も多々あります。
 
私自身、過関心であったと思います。
気をつけているつもりですが、やはり完全には治っていません。
今、言葉の方は『おかあさん、牛乳!』や、『あの冷たいやつ!』というような言い方について
は、それでは分からないという事を伝える様にしています。

できるだけ言葉で説明をさせるようにしています。これは少しは効果があるようです。
また食生活ではカルシウムとマグネシウム、そして甘いものには気をつけています。
食べ物の好き嫌いは全くありません。
 
そこで私の相談ですが、もっとしっかり人の話を聞けるようになってほしいと思っています。
心を落ち着かせることが出来るようになるのは、やはり親の過干渉や過関心と関係があるの
でしょうか。
また些細な事(お茶を飲むときのグラスの柄が妹の方がかわいい柄っだった、公園から帰りた
くない等)で、泣き叫んだりするのは情緒不安定ということで、過干渉の結果なのでしょうか。
泣き叫ぶときは、『そーかー、嫌だったのね。』と、私は一応話を聞くようにはしていますが、私
が折れる事はありません。
その事でかえって、泣き叫ぶ機会を増やして、また長引かせている気もするのですが。。。

そしてテーブルの上でオセロなどのゲーム中に、意味も無く飛び上がったりしてテーブルをゆら
してゲームを台無しにしたりする(無意識にやってしまうようです)ような乱雑な動作はどのよう
にすれば良いのか、深く悩んでいます。『静かに落ち着いて、意識を集中させて動く』ことが出
来ないのはやはり干渉のしすぎだったのでしょうか。

自分自信がんばっているつもりですが、時々更に悪化させているのではないかと不安に成りま
す。

できましたら,アドバイスをいただけますでしょうか。宜しくお願い致します。

【UYさんへ、はやし浩司より】

 メール、ありがとうございました。原因と対処法をいろいろ考える前に、大前提として、「今す
ぐ、なおそう」と思っても、なおらないということです。またなおそうと思う必要もありません。こう
書くと、「エエッ!」と思われるかもしれませんが、この問題だけは、子どもにその自覚がない以
上、なおるはずもないのです。

 UYさんのお子さんが、ここに書いた子どもと同じというわけではありませんが、つぎの原稿
は、少し前に私が書いたものです。まず、その原稿を先に、読んでいただけたらと思います。

+++++++++++++++++
 
●汝(なんじ)自身を知れ

「汝自身を知れ」と言ったのはキロン(スパルタ・七賢人の一人)だが、自分を知ることは難し
い。こんなことがあった。

 小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中二男児)がいた。どこがどう問題児だったか
は、ここに書けない。書けないが、その子どもにある日、それとなくこう聞いてみた。「君は、学
校の先生たちにかなりめんどうをかけたようだが、それを覚えているか」と。するとその子ども
は、こう言った。

「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくを目のかたきにして、ぼくを怒った」と。私はその子
どもを前にして、しばらく考えこんでしまった。いや、その子どものことではない。自分のこととい
うか、自分を知ることの難しさを思い知らされたからだ。

ある日一人の母親が私のところにきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好きな
子どうし、並んですわってよい』と言った。しかしうちの子(小一男児)のように、友だちのいない
子はどうしたらいいのか。配慮に欠ける発言だ。これから学校へ抗議に行くから、一緒に行っ
てほしい」と。

もちろん私は断ったが、問題は席決めことではない。その子どもにはチックもあったし、軽いが
吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、「なぜ友だちがいないか」ということの
ほうこそ、問題ではないのか。その親がすべきことは、抗議ではなく、その相談だ。

話はそれたが、自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部
分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに
振り回される。よい例が育児拒否であり、虐待だ。

このタイプの親たちは、なぜそういうことをするかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな
「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のどこかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレ
ーキをかけることができない。「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」という
が、そのゆがみに動かされてしまう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱ
る、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であ
って自分でない部分とみてよい。

それに気づくことが、自分を知る第一歩である。まずいのは、そういう自分に気づくことなく、い
つまでも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことであ
る。

+++++++++++++++

 おとなですら、自分のことを知るのはむずかしい。いわんや、子どもをやということになりま
す。ですからUYさんが、お子さんに向かって、「静かにしなさい」「落ち着きなさい」と言っても、
子どもにその自覚がない以上、子どもの立場からしたら、どうしようもないのです。

 意識には、大きく分けて(1)潜在意識と、(2)自意識(自己意識)があります※。潜在意識と
いうのは、意識できない世界のことです。自意識というのは、自分で自覚できる意識のことで
す。いろいろな説がありますが、教育的には、小学三、四年生を境に、急速にこの自意識が育
ってきます。つまり自分を客観的に見ることができるようになると同時に、その自分を、自分で
コントロールすることができるようになるわけです。

 幼児期にいろいろな問題ある子どもでも、この自意識をうまく利用すると、それを子ども自ら
の意識で、なおすことができます。言いかえると、それ以前の子どもには、その自意識を期待
しても、無理です。たとえば「静かにしなさい」と親がいくら言っても、子ども自身は、自分ではそ
れがわからないのだから、どうしようもありません。UYさんのケースを順に考えてみましょう。

●小さい頃から動作の一つ一つが乱暴で、よくグズリ、キーキー興奮しては些細な事で泣く子
でした。
●それは今でも続いており、集中が長く続かず、こだわりも他の子供よりも深い気がします。
●話も目を見て心を落ち着けてゆっくり会話をする事が出来ません。
●真剣な話をしながら足の先を神経質に動かしたり、手を振ったりして、とても聞いている態度
には見えません。
●走りまわるほどの多動ではありませんが、落ち着いて、じっとしていることが出来ないようで
す。
●そのせいか、話し言葉も五歳にしては表現力がないと思われます。

 これらの問題点を指摘しても、当然のことですが、満五歳の子どもに、理解できるはずもあり
ません。こういうケースで。「キーキー興奮してはだめ」「こだわっては、だめ」「落ち着いて会話
しなさい」「じっとしていなさい」「しっかりと言葉を話しなさい」と言ったところで、ムダというもので
す。

たとえば細かい多動性について、最近では、脳の微細障害説、機能障害説、右脳乱舞説、ホ
ルモン変調説、脳の仰天説、セロトニン過剰分泌説など、ざっと思い浮かんだものだけでも、
いろいろあります。されにさらに環境的な要因、たとえば下の子が生まれたことによる、赤ちゃ
んがえり、欲求不満、かんしゃく発作などもからんでいるかもしれません。またUYさんのメール
によると、かなり神経質な子育てが日常化していたようで、それによる過干渉、過関心、心配
先行型の子育てなども影響しているかもしれません。こうして考え出したら、それこそ数かぎり
なく、話が出てきてしまいます。

 では、どうするか? 原因はどうであれ、今の症状がどうであれ、今の段階では、「なおそう」
とか、「あれが問題」「これが問題」と考えるのではなく、あくまでも幼児期によく見られる一過性
の問題ととらえ、あまり深刻にならないようにしたらよいと思います。

むしろ問題は、そのことではなく、この時期、親が子どものある部分の問題を、拡大視すること
によって、子どものほかのよい面をつぶしてしまうことです。とくに「あれがダメ」「これがダメ」と
いう指導が日常化しますと、子どもは、自信をなくしてしまいます。生きザマそのものが、マイナ
ス型になることもあります。

 私も幼児を三五年もみてきました。若いころは、こうした問題のある子どもを、何とかなおして
やろうと、四苦八苦したものです。しかしそうして苦労したところで、意味はないのですね。子ど
もというのは、時期がくれば、何ごともなかったかのように、自然になおっていく。UYさんのお子
さんについても、お子さんの自意識が育ってくる、小学三、四年生を境に、症状は急速に収ま
ってくるものと思われます。自分で判断して、自分の言動をコントロールするようになるからで
す。「こういうことをすれば、みんなに嫌われる」「みんなに迷惑をかける」、あるいは「もっとかっ
こよくしたい」「みんなに認められたい」と。

 ですから、ここはあせらず、言うべきことは言いながらも、今の状態を今以上悪くしないことだ
けを考えながら、その時期を待たれたらどうでしょうか。すでにUYさんは、UYさんができること
を、すべてなさっておられます。母親としては、満点です。どうか自信をもってください。私のHP
を読んでくださったということだけでも、UYさんは、すばらしい母親です。(保証します!)

ただもう一つ注意してみたらよいと思うのは、たとえばテレビやテレビゲームに夢中になってい
るようなら、少し遠ざけたほうがよいと思います。このメールの終わりに、私が最近書いた原稿
(中日新聞発表済み)を、張りつけておきます。どうか参考にしてください。

 で、今度はUYさん自身へのアドバイスですが、どうか自分を責めないでください。「過関心で
はないか?」「過干渉ではないか?」と。

 そういうふうに悩むこと自体、すでにUYさんは、過関心ママでも、過干渉ママでもありませ
ん。この問題だけは、それに気づくだけで、すでにほとんど解決したとみます。ほとんどの人
は、それに気づかないまま、むしろ「私はふつうだ」と思い込んで、一方で、過関心や過干渉を
繰りかえします。UYさんにあえていうなら、子育てに疲れて、やや育児ノイローゼ気味なのかも
しれません。ご主人の協力は得られませんか? 少し子育てを分担してもらったほうがよいか
もしれません。

 最後に「そしてテーブルの上でオセロなどのゲーム中に、意味も無く飛び上がったりしてテー
ブルをゆらしてゲームを台無しにしたりする(無意識にやってしまうようです)ような乱雑な動作
はどのようにすれば良いのか、深く悩んでいます。『静かに落ち着いて、意識を集中させて動
く』ことが出来ないのはやはり干渉のしすぎだったのでしょうか」という部分についてですが、こ
う考えてみてください。

 私の経験では、症状的には、小学一年生ぐらいをピークにして、そのあと急速に収まってい
きます。そういう点では、これから先、体力がつき、行動半径も広くなってきますから、見た目に
は、症状ははげしくなるかもしれません。UYさんが悩まれるお気持ちはよくわかりますが、一
方で、UYさんの力ではどうにもならない部分の問題であることも事実です。

ですから、愛情の糸だけは切らないようにして、言うべきことは言い、あとはあきらめます。コツ
は、完ぺきな子どもを求めないこと。満点の子どもを求めないこと。ここで愛情の糸を切らない
というのは、子どもの側から見て、「切られた」と思わせいないことです。それを感じると、今度
は、子どもの心そのものが、ゆがんでしまいます。が、それでも暴れたら……。私のばあいは、
教室の生徒がそういう症状を見せたら、抱き込んでしまいます。叱ったり、威圧感を与えたり、
あるいは恐怖心を与えてはいけません。あくまでも愛情を基本に指導します。それだけを忘れ
なければ、あとは何をしてもよいのです。あまり神経質にならず、気楽に構えてください。

 約束します。UYさんの問題は、お子さんが小学三、四年生になるころには、消えています。
ウソだと思うなら、このメールをコピーして、アルバムか何かにはさんでおいてください。そし
て、四、五年後に読み返してみてください。「林の言うとおりだった」と、そのときわかってくださ
ると確信しています。

もっとも、それまでの間に、いろいろあるでしょうが、そこは、クレヨンしんちゃんの母親(みさえ
さん)の心意気でがんばってください。コミックにVOL1〜10くらいを一度、読まれるといいです
よ。テレビのアニメは、コミックにくらべると、作為的です。

 また何かあればメールをください。なおこのメールは、小生のマガジンの2−25号に掲載し
ますが、どうかお許しください。転載の許可など、お願いします。ご都合の悪い点があれば、至
急、お知らせください。
(030217)

※……これに対して、「自己意識」「感覚運動的意識」「生物的意識」の三つに分けて考える考
え方もある。「感覚的運動意識」というのは、見たり聞いたりする意識のこと。「生物的意識」と
いうのは、生物としての意識をいう。いわゆる「気を失う」というのは、生物的意識がなくなった
状態をいう。このうち自己意識があるのは、人間だけと言われている。この自己意識は、四歳
くらいから芽生え始め、三〇歳くらいで完成するといわれている(静岡大学・郷式徹助教授「フ
ァミリス」03・3月号)。

++++++++++++++++++++++

子どもの脳が乱舞するとき

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、あ
あ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポ
ンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよ
う。動作も一貫性がない。騒々しい。ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突
然神妙な顔をして、直立! そしてそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。
その間に感情も激しく変化する。目が回るなんていうものではない。まともに接していると、こち
らの頭のほうがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学二、三年になると、症状が
急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。三〇年前に
はこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ一〇年、急速にふえた。小一児で、一〇人
に二人はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子どもが、一クラスに
数人もいると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒ぐ。こちらを抑
えればあちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答え
た先生が、66%もいる(98年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。「指導の疲れから、病欠、
休職している同僚がいるか」という質問については、15%が、「1名以上いる」と回答している。

そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子どもについては、90%以上の
先生が、経験している。ほかに「弱いものをいじめる」(75%)、「友だちをたたく」(66%)など
の友だちへの攻撃、「授業中、立ち歩く」(66%)、「配布物を破ったり捨てたりする」(52%)な
どの授業そのものに対する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが
最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。「新しい荒れ」とい言葉を使う人もい
る。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの
教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわからなくなった」とこぼす。

日教組が九八年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を
感ずる」というのが、20%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」(1
4%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(10%)と続く。そしてその結果
として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、8%、「かなり感ずる」「やや感ずる」という
先生が、60%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲー
ムをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔のような崩壊
家庭は少なくなった。むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子ど
もが、意味もなく突発的に騒いだり暴れたりする。そして同じような現象が、日本だけではなく、
アメリカでも起きている。

実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的にテレビや
ゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。「テレビを見ているときだけ、静
かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても返事もしませんでした」と言った母親もい
た。たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、動きが速い。速すぎる。しかもその間に、ひっ
きりなしにコマーシャルが入る。ゲームもそうだ。動きが速い。速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりや
すく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。その
証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くことができ
ない。

浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚が、お
しっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろいが、直感的
で論理性がない。ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつかさど
るのは、左脳である(R・W・スペリー)。

テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経験したことがない新し
い刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えられる。その一つが、こ
こにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊を
あげる。

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●日本人は賢くなったか?

 人間の賢さは、「自ら考える力」で決まる。

 よく誤解されるが、知識や情報が多いからといって、賢い人ということにはならない。反対に、
いくら知識や情報があっても、バカな人はバカ。映画『フォレストガンプ』の中でも、フォレストの
母はこう言っている。「バカなことをする人をバカというのよ。(頭じゃ、ないのよ)」と。

 そういう視点で、もう一度、日本人について考えてみる。日本人は、賢くなったか、と。

 今、高校生でも、将来を考えて、毎日本を読んだり、勉強している子どもは、10%もいない。
文部科学省国立教育政策研究所の行った調査によると、「宿題や授業でしか本は読まない」と
答えた子ども(小、中、高校)は、全体では18%だが、高校生は33%であった。また「教科書
より厚い本を読んだことがない」も、全体では16%だが、高校生では23%であった(全国小学
4年生以上高校2年生までの2〜120人について調査。02年)。

 わかりやすく言えば、小学生ほど、よく本を読み、中学生、高校生になると、本を読まなくなる
ということ。

一見何でもないような現象に見えるかもしれないが、「では、高校生とはいったい、何か」という
問題にぶつかってしまう。より高度な勉強をするから高校生というのではないのか。が、実態
は、その逆。

毎日くだらない情報を、携帯電話で交換しているのが、高校生ということになる。そう言い切る
のは正しくないが、しかし実態は、そんなところと考えてよい。大半の高校生は、毎日4〜5時
間はテレビを見たり、ゲームをしたりして時間をつぶしている。6〜7時間と答えた子どももいた
(筆者、01年、浜松市内の高校生10人について調査)。

 その結果というわけではないが、最近の高校生は、まさにノーブレイン(知能なし)という状態
になっている。知識や情報に振りまわされているだけ。自ら考えるということができない。……
しない。政治問題や社会問題など、問いかけただけで、「ダサイ!」と、はねのけられてしまう。
「日本がかかえる借金は六〇〇兆円だよ。君たちの借金だよ」と私が話しかけたときのこと。
女子高校生たちは、こう言った。「私ら、そんな話、関係ないもんネ〜」と(2000年市内の図書
館で)。

 もちろん本を読んだからといって、賢くなるというわけではない。それ以上に大切なことは、い
かにして問題意識をもつか、だ。その問題意識がなければ、本を読んでも、それもただの情報
で終わってしまう。よい例が、ゲームの攻略本だ。

最近では、「ハリーポッター」の魔法の解説本などもある。もともとウソにウソを塗り固めたよう
な本だから、いくら読んでも、それこそまさにムダな情報。先日、私も、子どもたち(小学六年
生)の前で、こう話してやった。

 「栗の葉に、近くに落ちている松の葉包み、それを手で握って、ローローヤヤ、カカカ、バーバ
ーと呪文を唱えれば、親から小遣いが、いつもの一〇倍もらえる」と。

 たまたま日本中がハリポタブームでわきかえっていたときでもあり、子どもたちは真剣なまな
ざしで、私の呪文をノートに書きとめようとした。が、そのうち一人が、「先生、反対に読むと、バ
カヤローだ」と。

 そこでいかにして、子どもに問題意識をもたせるか、である。が、この問題について考える前
に、こういうこともある。

 ノーブレインの状態になると、その人間は、いわゆるロボット化する。ひとつの例が、カルト教
団の信者たちである。彼らは思想を注入してもらうかわりに、自ら考えることを放棄してしまう。
ある信者とこんな会話をしたことがある。

私が「あなたがたも、少しは指導者の言うことを疑ってみてはどうですか。ひょっとしたら、あな
たがたは、利用されているだけかもしれませんよ」と。するとその男性(六〇歳)はこう言った。
「○○先生は、万巻の書物を読んで、仏の境界(きょうがい)に入られた方だ。教えにまちがい
はない」と。

 同じような例は、あのポケモン現象のときに、子どもたちの世界でも起きた。それはブームと
かいうような生やさしいものではなかった。毎日子どもたちは、ポケモンの名前をつらねただけ
の、まったく意味のない歌(「ポケモン言えるかな」)を、狂ったように歌っていた。そしてお菓子
でも持ち物でも、黄色いピカチューの絵がついているだけで、それを狂ったように買い求めて
いた。

私はこのポケンモン現象の中に、たまたまカルトとの共通性を見出した。そして『ポケモンカル
ト』(三一書房)という本を書いた。

 このロボット化でこわいのは、脳のCPU(中央演算装置)が狂うため、本人にはその自覚が
ないこと。カルト教団の信者も、またポケモンに夢中になる子どもも、なぜ自分がそうなのかと
いうことがわからないまま、たいていは「自分は正しいことをしているのだ」と思い込まされたま
ま、醜い商魂に操られる。そしてその結果として、それこそ愚にもつかないようなことを、平気で
するようになる。

 こうした状態を防ぐためにも、私たちはいつも問題意識をもたねばならない。あなたの子ども
について言うなら、これはいつかあなたの子どもがカルト教団の餌食(えじき)にしないためでも
ある。ノーブレインというのは、それ自体がひとつの思考回路で、いつなんどき、その回路の中
に、カルト思想が入り込まないともかぎらない。

たまたまあのポケモンブームのころ、アメリカのサンディエゴ郊外で、「ハイアーソース」という名
前のカルト教団の信者たち三九人が、集団自殺をするという事件が起きた(九七年三月)。残
された声明文には、「ヘール・ポップすい星とともに現れる宇宙船とランデブーして、あの世へ
旅立つ」と書いてあったという。

 常識で考えればバカげた思想だが、ノーブレインの状態になると、それすらもわからなくな
る。つまりそういう人を、「バカな人」という。

 いかにして問題意識をもつか。

 これは私のばあいだが、私はいつも、自分の頭の中で、その日に考えるテーマを決める。教
育問題であることが多いが、政治問題や社会問題も多い。たいていは身近なことで、「おかし
いぞ」と思ったことをテーマにするようにしている。たまたま昨日(02・8月9日)もテレビを見て
いたら、田中M子という国会議員が辞職したというニュースが飛び込んできた。私はそのニュ
ースを見ながら、いろいろなことを考えた。

(4)T中氏は息子を政治家にするというが、見るとまだあどけなさの残る青年ではないか。そう
いう形、つまり世襲制で政治が動いてよいのか。動かされてよいのか。あるいはどうしてそうま
で政治の世界に、執着するのか。その魅力は何なのか。田中M子氏にしても、それほど哲学
のある人物には見えない。私には出世欲にとりつかれた、どこかガリガリの政治亡者のように
しか見えない。

(5)T中氏は、さんざん、自己弁明をしてきたではないか。今までのそういう弁明は、いったい、
何だったのか。私たちにウソを言ってきたのか。

(6)その辞職ニュースを受けて、街の人の声が報道されていたが、大半は、「田中さんがかわ
いそうだ」「おしい人をなくした」と言っていた。そうした声を聞いたとき、私はその少し前、人間
国宝にもなっている歌舞伎役者のO氏が、19歳そこそこの若い舞妓と不倫関係にあったとい
うニュースを思いだした。あのときは、街の声のみならず、テレビのキャスターまで、「不倫は、
芸のコヤシ」と言っていたのを覚えている。(若い女性はコヤシ?)O氏はその舞妓と別れると
き、ホテルのドアで、チンチンを出して見せたという。こうした愚民性は、いったいどこからくる
のか。

 「おかしい」と思うことが、つぎつぎと頭に飛来する。そこでひとつずつ、その問題について考
える。その結果というわけではないが、この原稿が生まれた。私は、(3)の愚民性に、とくに関
心をもった。「日本人は賢くなったか」と。

 で、その結論だが、答は、「ノー」。日本人は知識と情報の氾濫の中で、ますます自分を見失
いつつある。ますます愚かになりつつある。

そのことは、今の子どもたちの世界を見ればわかる。子どもたちの「質」は、この三〇年、確か
に悪くなった。ひとつの例というわけではないが、三〇年前の幼児は、「おとなになったら、何に
なりたい」と聞くと、「幼稚園の先生」とか、「野球の選手」と答えていた。しかし今の子どもは違
う。

「ハリーポッターのような魔法使い」とか、「超能力者」とか、答える。バブル経済のころは、
「私、おとなになったら、土地もちの人(男)と結婚する」と言っていた女の子(小四)や、「宗教
団体の教祖になる」と言っていた男の子(小五)がいた。が、そのときよりも、今のほうが、さら
に悪くなっているように思う。
(注、この「日本人は賢くなったか」は、02年8月記)
(はやし浩司 新しい荒れ 右脳教育 思考 仮想現実 自己意識 自意識)




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19

●意識論

【W中学校の父母よりの、質問に答えて……】(2)

 W中学校の父母よりの、もう一つの質問は、こんな質問です。

 「文化、時代の違いによる、当たり前のここと、当たり前でないことについて」という質問です。

 いわゆる「意識論」のことです。私たちがもっている「意識」というのは、その時代の文化、さら
に生まれ育った環境などによって、作られていくものです。

 そういう意味で、絶対的、かつ普遍的な意識というのは、ありません。そのときどきの時代、さ
らには生まれ育った環境によって、変化しうるものだということです。

 そのことを最初に私自身が、意識したのは、私が留学生となって、オーストラリアへ渡ったと
きのことです。

 つぎの原稿が、それです。

+++++++++++++++++++++

●意識の違い

 今朝、K国の子どもたちが、テレビで紹介されていた。どの子どもも、独得の笑みを浮かべ
て、踊ったり、楽器を鳴らしたりしていた。ワイフは、それを見て、「気持ち悪い」と言った。私も
同感だった。

 で、こうした子どもたちについて、K国から脱出してきた人は、こう言った。「鼻血を出しても、
練習をつづける」と。そういうK国の子どもたちを、すばらしいと思った日本人は、いったい、何
人いただろうか。

 しかしそのとき、である。その脱出してきた人が、ポロリとこう言った。それは私には、衝撃的
な言葉だった。

 「K国では、こうした子どもたちが、政府の宣伝用に使われる。それはちょうど、西側諸国の、
コマーシャルのようなものだ。西側では、モノを売るために、宣伝する。それと同じ」と。

 人の意識というのは、絶対的なものではない。普遍的なものでもない。立場が変われば、そ
の意識も変わる。

 私たちはK国の子どもたちを見ながら、「おかしい?」と思う。しかしその意識は、相対的なも
ので、K国の人たちから見れば、今度は、私たちの国が、おかしく見えるに違いない。その一
つが、「物欲を刺激するコマーシャル?」ということになる。

 たとえば、あのポケモンが全盛期のころ、子どもたちの世界は、まさにポケモン漬けになっ
た。テレビ、雑誌、ゲーム、コミック、商品ほか。あらゆる場面で、子どもたちは、その商魂に乗
せられた。

 その結果、あの黄色いピカチューの絵を見ただけで、子どもたちは、興奮状態になってしまっ
た。一度、私は不用意に、「ピカチューのどこが、かわいいの?」と言ってしまったことがある。
とたん、生徒たちから、猛烈な抗議の嵐。袋叩きにあってしまった。

 こうした異常な現象を、いったい、どれだけの人が、「異常」と感じたであろうか。そこで私は、
一冊の本を書いた。それが『ポケモン・カルト』(三一書房)である。

 しかしこの本に、執拗ないやがらせをしかけてきたのは、二〇歳をすぎた若者たちだった。
「お前は、子どもの夢をつぶすのか」「とんでもない、トンデモ本だ」と。今でも、その団体の人た
ちが、その本や私を、攻撃している。

 こういう現象は、K国の人たちには、どう見えるだろうか。ここにも書いたように、意識というの
は、相対的なものである。私たちが、K国の子どもたちがおかしいと思うのと、まったく同じよう
に、K国の人たちは、日本の子どもたちは、おかしいと思うに違いない。現に、あの金XXは、そ
う言っている。「西側の狂った文化」と。

 私は、K国の子どもたちの映像を見ながら、不思議な感覚にとらわれた。K国がおかしいと思
えば思うほど、自分たちの世界も、おかしく見えた。ただ私たちは今、その(自分たちの国)に
住んでいるから、それがわからない。言いかえると、私たちが、自分の国はふつうだと思ってい
るのと同じように、K国の人たちは、自分たちの国は、ふつうだと思っているに違いない。

 少し話が脱線するかもしれないが、私は、学生時代、こんな経験をしたことがある。『世にも
不思議な留学記』(中日新聞掲載済み)で発表した原稿を、転載する。
 
+++++++++++++++++++

●国によって違う職業観

 職業観というのは、国によって違う。もう三〇年も前のことだが、私がメルボルン大学に留学
していたときのこと。当時、正規の日本人留学生は私一人だけ。(もう一人Mという女子学生が
いたが、彼女は、もともとメルボルンに住んでいた日本人。)そのときのこと。

 私が友人の部屋でお茶を飲んでいると、一通の手紙を見つけた。許可をもらって読むと、「君
を外交官にしたいから、面接に来るように」と。私が喜んで、「外交官ではないか! おめでと
う」と言うと、その友人は何を思ったか、その手紙を丸めてポイと捨てた。

「アメリカやイギリスなら行きたいが、九九%の国は、行きたくない」と。考えてみればオーストラ
リアは移民国家。「外国へ出る」という意識が、日本人のそれとはまったく違っていた。

 さらにある日。フィリッピンからの留学生と話していると、彼はこう言った。「君は日本へ帰った
ら、ジャパニーズ・アーミィ(軍隊)に入るのか」と。私が「いや、今、日本では軍隊はあまり人気
がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の伝統ある軍隊になぜ入らないのか」と、やんや
の非難。当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍人になることイコール、そのまま出世コー
スということになっていた。で、私の番。

 私はほかに自慢できるものがなかったこともあり、最初のころは、会う人ごとに、「ぼくは日本
へ帰ったら、M物産という会社に入る。日本ではナンバーワンの商社だ」と言っていた。が、あ
る日、一番仲のよかったデニス君が、こう言った。

「ヒロシ、もうそんなことを言うのはよせ。日本のビジネスマンは、ここでは軽蔑されている」と。
彼は「ディスパイズ(軽蔑する)」という言葉を使った。

 当時の日本は高度成長期のまっただ中。ほとんどの学生は何も迷わず、銀行マン、商社マ
ンの道を歩もうとしていた。外交官になるというのは、エリート中のエリートでしかなかった。こ
の友人の一言で、私の職業観が大きく変わったことは言うまでもない。

 さて今、あなたはどのような職業観をもっているだろうか。あなたというより、あなたの夫はど
のような職業観をもっているだろうか。それがどんなものであるにせよ、ただこれだけは言え
る。

こうした職業観というのは、決して絶対的なものではないということ。時代によって、それぞれの
国によって、そのときどきの「教育」によってつくられるということ。大切なことは、そういうものを
通り越した、その先で子どもの将来を考える必要があるということ。私の母は、私が幼稚園教
師になると電話で話したとき、電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れてしまった。

「浩ちャーン、あんたは道を誤ったア〜」と。母は母の時代の常識にそってそう言っただけだ
が、その一言が私をどん底に叩き落したことは言うまでもない。しかしあなたとあなたの子ども
の間では、こういうことはあってはならない。これからは、もうそういう時代ではない。あってはな
らない。

+++++++++++++++

●肩書き社会、日本

 この日本、地位や肩書きが、モノを言う。いや、こう書くからといって、ひがんでいるのではな
い。それがこの日本では、常識。

 メルボルン大学にいたころのこと。日本の総理府から派遣された使節団が、大学へやってき
た。総勢30人ほどの団体だったが、みな、おそろいのスーツを着て、胸にはマッチ箱大の国
旗を縫い込んでいた。

が、会うひとごとに、「私たちは内閣総理大臣に派遣された使節団だ」と、やたらとそればかり
を強調していた。つまりそうことを口にすれば、歓迎されると思っていたらしい。

 が、オーストラリアでは、こうした権威主義は通用しない。よい例があのテレビドラマの『水戸
黄門』である。今でもあの番組は、平均して20〜23%もの視聴率を稼いでいるという。

が、その視聴率の高さこそが、日本の権威主義のあらわれと考えてよい。つまりその使節団
のしたことは、まさに水戸黄門そのもの。葵の紋章を見せつけながら、「控えおろう」と叫んだ
のと同じ。あるいはどこがどう違うのか。が、オーストラリア人にはそれが理解できない。

ある日、ひとりの友人がこう聞いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことをしたら、どうするのか。
それでも日本人は頭をさげるのか」と。

 この権威主義は、とくにマスコミの世界に強い。相手の地位や肩書きに応じて、まるで別人の
ように電話のかけ方を変える人は多い。私がある雑誌社で、仕事を手伝っていたときのこと。
相手が大学の教授であったりすると、「ハイハイ、かしこまりました。おおせのとおりいたしま
す」と言ったあと、私のような地位も肩書きもないような人間には、「君イ〜ネ〜、そうは言って
もネ〜」と。

しかもそういうことを、若い、それこそ地位や肩書きとは無縁の社員が、無意識のうちにそうし
ているから、おかしい。つまりその「無意識」なところが、日本人の特性そのものということにな
る。
 
こうした権威主義は、恐らく日本だけにしか住んだことがない人にはわからないだろう。説明し
ても、理解できないだろう。そして無意識のうちにも、「家庭」という場で、その権威主義を振り
まわす。「親に向かって何だ!」と。

子どももその権威主義に納得すればよし。しかし納得しないとき、それは親子の間に大きなキ
レツを入れることになる。親が権威主義的であればあるほど、子どもは親の前で仮面をかぶ
る。つまりその仮面をかぶった分だけ、子どもの子は親から離れる。

ウソだと思うなら、あなたの周囲を見渡してみてほしい。あなたの叔父や叔母の中には、権威
主義の人もいるだろう。そうでない人もいるだろう。しかし親が権威主義的であればあるほど、
その親子関係はぎくしゃくしているはずである。

 ところで日本からの使節団は、オーストラリアでは嫌われていた。英語で話しかけられても、
ただニヤニヤ笑っているだけ。そのくせ態度だけは大きく、みな、例外なくいばっていた。この
ことは「世にも不思議な留学記」※に書いた。それから三〇年あまり。日本も変わったが、基本
的には、今もつづいている。

+++++++++++++++++++

 意識の違いというのは、恐ろしい。その意識にどっぷりとつかっていると、ほかの世界が理解
できなくなる。それだけならまだしも、自分がおかしな世界に入っていても、それに気づかなくな
る。

 典型的な例としては、宗教の世界がある。その世界の外にいる人からみれば、「おかしい?」
と思うようなことを、平気で、しかも、ま顔でしている信者は、いくらでもいる。

 そこで大切なことは、いつも、自分の意識を疑ってみること。自分の意識を、ふつうだと思っ
てはいけない。絶対だとは、さらに思ってはいけない。意識というのはそういうもので、またそう
いう前提で、いつも自分の意識を、疑ってみる。

 それは、ものを考えるとき、たいへん重要なことである。……というようなことを、K国の子ど
もたちを見ながら、考えた。

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ついでに、少し前に書いた原稿を添付します。

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●子どもの意識

 フロイトは、子どもの記憶について、つぎのようなことを書いている。

つまり幼児期記憶の回想について、「言葉や観念によって思い出すという形で回想するだけな
く、むしろその回想する体験にともなう感情や対人関係のパターン、態度のほうを先に反復す
る」(「フロイト思想のキーワード」小此木啓吾・講談社現代新書)と。

 このことは、たとえば子どもに、ぬいぐるみを与えてみればわかる。心豊かで、愛情に恵まれ
て育った子どもは、ぬいぐるみを見ただけで、うれしそうな笑みを浮かべ、さもいとおしいといっ
た様子で、それを抱こうとする。それはぬいぐるみを見たとき、自分自身が受けた環境を、そ
の場で再現するからである。

 あるいは絵本を与えてみればわかる。「あっ、本だ!」と喜んで飛びついてくる子どももいれ
ば、目をそむけてしまう子どももいる。その本の内容を確かめる前に、だ。こうした違いは、
「本」というものに、よい印象をもっているかどうかで、決まる。

幼いときから、たとえば親に抱かれて本を読んでもらった子どもは、本を見たとき、その周囲の
状況や情景を、心の中で再現する。つまり本にまつわる「温もり」を、そこに感ずる。だから本
を見ただけで、それを好意的にとらえようとする。一方、たとえばカリカリとした雰囲気の中で、
無理に本を読まされて育ったような子どもは、本を見ただけで、逃げ腰になる。

 このことは、人間関係にも影響する。私はメガネをかけているが、初対面のとき、私の顔を見
て、こわがる子どもは少なくない。そこで理由を聞くと、親は、たとえばこう言う。「近所にこわい
犬を飼っている男性がいて、その人がメガネをかけているからではないでしょうか」と。つまりそ
の子どもにしてみれば、(こわい犬)→(こわい人)→(メガネ)→(メガネの人は、こわい)という
ことになる。

 フロイトは、こうした現象を、「転移」と呼んだ。しかしこうした転移は、おとなの世界でも、ごく
日常的に見られる。とくに人間関係において、それが顕著に見られる。たとえば、電話の相手
によって、電話のかけ方そのものが、別人のように変わる人がいる。自分より目上の人だとわ
かると、(無意識のうちに、しかも即座にそれを判断するが)、必要以上にペコペコする。一方、
目下の人だとわかると、今度は必要以上に、尊大ぶったり、威張ったりしてみせる。

 で、こういう人にかぎって、……というより、例外なく、テレビドラマの『水戸黄門』の大ファンで
あったりする。三つ葉葵の紋章か何かを見せて、側近のものが、「控えおろう!」と一喝する
と、周囲の者たちが、「ハハアー」と言って、頭をさげる。このタイプの人は、そういう場面を見る
と、痛快でならない。……らしい。

 そこでさらに調べていくと、こういう人たち自身もまた、そうした権威主義的な社会、あるいは
家庭環境の中で育ったことがわかる。つまりこうした感情なり、言動は、それぞれ一貫性をもっ
てつながっている。(権威主義的な環境で生まれ育った)→(自分自身も権威主義的である)→
(無意識のうちにも、それがその人の価値観の根底にある)→(無意識のうちにも、人を上下関
係を判断する)→(水戸黄門が痛快)と。

言うなれば、水戸黄門を見ることで、このタイプの人は、自分の価値観を再確認しているのか
もしれない。その確認ができるから、水戸黄門はおもしろく、また痛快ということにもなる。

 何だか、話が込み入ってきたが、要するに、子ども、なかんずく幼児を相手にするときは、表
面的な「心」とは別に、「もうひとつの心」を想定しながら、接するとよい。たとえば何らかの学習
をさせるときも、(何を覚えたか、何ができるようになったか)ではなく、(そのことが全体として、
どのような印象をもって、子どもの心の中に残るだろうか)を、考えながらする。そしてその印象
がよいものであれば、よし。そうでなければ、失敗、と。

先にあげた例で言うなら、子どもに絵本を見せたとき、「あっ、本だ!」と飛びついてくれば、よ
し。逃げ腰になるようであれば、失敗、ということになる。フロイトの言葉を借りるなら、「よい転
移ならよし。悪い転移には気をつけろ」ということになる。

これを私たちの世界では、「前向きな姿勢」と言っているが、この時期は、こういう前向きな姿
勢を育てることを大切にする。この前向きな姿勢があれば、子どもは自らの力で、前向きに伸
びていくし、そうでなければ、そうでない。が、それだけではすまない。一度子どもがうしろ向き
になってしまうと、それをなおすのに、それまでの何十倍もの努力が必要になる。

たとえば小学校の入学までに、一度本嫌いになってしまうと、以後、好きになるということは、ほ
ぼ絶望的であると言ってもよい。「だから幼児教育は大切だ」と言ってしまえば、あまりにも手
前ミソということになるかもしれないが……。

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日本人の意識を考えるための参考文献として
もう一つ、私の原稿を添付しておきます。

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●権威主義の象徴

 権威主義。その象徴が、あのドラマの『水戸黄門』。側近の者が、葵の紋章を見せ、「控えお
ろう」と一喝すると、皆が、「ははあ」と言って頭をさげる。

日本人はそういう場面を見ると、「痛快」と思うかもしれない。が、欧米では通用しない。オース
トラリアの友人はこう言った。「もし水戸黄門が、悪玉だったらどうするのか」と。フランス革命以
来、あるいはそれ以前から、欧米では、歴史と言えば、権威や権力との闘いをいう。

 この権威主義。家庭に入ると、親子関係そのものを狂わす。Mさん(男性)の家もそうだ。長
男夫婦と同居して一五年にもなろうというのに、互いの間に、ほとんど会話がない。別居も何度
か考えたが、世間体に縛られてそれもできなかった。Mさんは、こうこぼす。

「今の若い者は、先祖を粗末にする」と。Mさんがいう「先祖」というのは、自分自身のことか。
一方長男は長男で、「おやじといるだけで、不安になる」と言う。一度、私も間に入って二人の
仲を調整しようとしたことがあるが、結局は無駄だった。長男のもっているわだかまりは、想像
以上のものだった。問題は、ではなぜ、そうなってしまったかということ。

 そう、Mさんは世間体をたいへん気にする人だった。特に冠婚葬祭については、まったくと言
ってよいほど妥協しなかった。しかも派手。長男の結婚式には、町の助役に仲人になってもら
った。長女の結婚式には、トラック二台分の嫁入り道具を用意した。そしてことあるごとに、先
祖の血筋を自慢した。

Mさんの先祖は、昔、その町内の大半を占めるほどの大地主であった。ふつうの会話をしてい
ても、「M家は……」と、「家」をつけた。そしてその勢いを借りて、子どもたちに向かっては、自
分の、親としての権威を押しつけた。少しずつだが、しかしそれが積もり積もって、親子の間に
ミゾを作った。

 もともと権威には根拠がない。でないというのなら、なぜ水戸黄門が偉いのか、それを説明で
きる人はいるだろうか。あるいはなぜ、皆が頭をさげるのか。またさげなければならないのか。
だいたいにおいて、「偉い」ということは、どういうことなのか。

 権威というのは、ほとんどのばあい、相手を問答無用式に黙らせるための道具として使われ
る。もう少しわかりやすく言えば、人間の上下関係を位置づけるための道具。命令と服従、保
護と依存の関係と言ってもよい。そういう関係から、良好な人間関係など生まれるはずがな
い。

権威を振りかざせばかざすほど、人の心は離れる。親子とて例外ではない。権威、つまり「私
は親だ」という親意識が強ければ強いほど、どうしても指示は親から子どもへと、一方的なもの
になる。そのため子どもは心を閉ざす。

Mさん親子は、まさにその典型例と言える。「親に向かって、何だ、その態度は!」と怒る、Mさ
ん。しかしそれをそのまま黙って無視する長男。

こういうケースでは、親が権威主義を捨てるのが一番よいが、それはできない。権威主義的で
あること自体が、その人の生きざまになっている。それを否定するということは、自分を否定す
ることになる。が、これだけは言える。もしあなたが将来、あなたの子どもと良好な親子関係を
築きたいと思っているなら、権威主義は百害あって一利なし。『水戸黄門』をおもしろいと思って
いる人ほど、あぶない。

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●依存心

 人間は、何かに依存しなければ生きてはいかれない生物なのかもしれない。それぞれの人
が、何かに依存している。で、少し前、その「依存」について、自分なりに分析してみた。依存と
いっても、何に依存するかで、生きザマがまったく違ってくる。

(1)モノ、お金、名誉、地位、財産に依存するタイプ
(2)自分自身に依存するタイプ
(3)家族や親類など、人に依存するタイプ
(4)宗教に依存するタイプ

 このうち、自分の先祖を誇る人は、(1)の「名誉、地位に依存するタイプ」ということになる。
実のところ、このタイプの人は多い。少し前も、「今度、伯父が、選挙に出馬することになりまし
たから」と言って、選挙用のポスターをもってきた人がいた。しかしその人は、伯父の選挙を本
当に応援しているのではない。そういう言い方をして、「自分の家系には、こういう人がいる」と
いうことを、自慢していただけである。

 しかし考えてみれば、しょせん、ドングリの背くらべ。○○藩の家老の子孫だろうが、田舎の
百姓の子孫だろうが、結局は、「生まれた穴がほんの少し違うだけ」(モーツアルト「フィガロの
結婚」)。私なんかは、名字が「林」ということからもわかるように、先祖はただの百姓。依存しよ
うにも、しようがない。

 そうそう、私の母にこのことを言うと、母はいつも本気で怒っていた。母は、N家という武家の
血筋を引く家系で生まれ育った。だから「うちの先祖は百姓だった」などと言おうものなら、「違
う、武家だ! ヘンなこと言うな!」と。そういう点では、母も、人一倍、先祖にこだわっていた。

 話はそれたが、この問題は、「誇り」とも、深く関連してくる。オーストラリアに留学しているこ
ろ、こんなことがあった。

●独特のモノ意識

 K大学から、医学部で講師をしている二人の男が、大学へやってきた。そこで私がメルボル
ン市内をあちこち案内してあげた。が、目ざといというか、つぎつぎと日本製を見つけては、「あ
れは、日本の車だ」「あれは、日本のカメラだ」と。

 そこで私にいろいろ話しかけてきた。で、そのとき私がどうそれに答えたかは忘れてしまった
が、最後には、その男たちを、怒らせてしまったようだ。その中の一人がこう言った。「君は、日
本人だろ。同じ、日本人が作ったものを喜ばないのか」と。当時の日記には、こうある。

 「Dさん(ドクターの一人)は、私に『君は、ヘンに欧米かぶれしている。君のような日本人が、
こういうところで研究生をしていることが信じられない。もっと日本人に誇りをもて』と言った。私
から見れば、どうして日本製があることが、そんなにうれしいのか理解できない。結局は、それ
こそまさに、欧米コンプレックスの裏返しではないのか。

 このドクターたちも、やはり(1)の「モノ、お金に依存するタイプ」ということになる。戦後の高
度成長期の中で、このタイプの人は、まさに大量生産された。今でも、「モノやお金のほうが、
家族や人間関係より大切だ」と考えている人は、いくらでもいる。

 いや、こう書くからといって、それが悪いと言っているのではない。人、それぞれ。私のよう
に、依存するものがない人間は、一見、たくましく見えるかもしれないが、実のところ、心の中
はボロボロ。自分がボロボロである分だけ、その自分自身に依存することもできない。だから
毎日が、不安でならない。

ちょっとしたことで、つまずいたり、キズついたりする。実のところ、ときどき、こう思う。「何か、
本物の宗教があれば、信仰してみたい」と。そう、何が楽かといって、神や仏に依存することぐ
らい、楽なことはない。

 ただこういうことは言える。

 いまだに日本人の多くは、封建時代の亡霊を引きずっている。日本独特の権威主義もそうだ
が、人間が人間を見る前に、地位だの肩書きだの、そういうもので人間を判断している。そして
そういう亡霊が、教育の世界にも残っていて、教育をゆがめ、子どもたちの心をゆがめてい
る。ここでいう先祖意識も、そういう亡霊の一つと考えてよい。そういうものに依存すればする
ほど、あなたは自分自身を見失う。子どもの姿を見失う。
(02−2−6)

●著名な祖先しか誇るもののない人間は、ジャガイモのようなものだ。その人間のもつ、唯一
のよい部分は、地下に眠る。(オヴァベリ「断片」)

●祖先のうちで奴隷でなかった者もなかったし、奴隷の祖先のうちで王でなかった者もいなか
った。(ヘレン・ケラー「自叙伝」)

●私の父は混血児だった。父の親父は黒人だった。そして、私の祖先は、猿だった。(デュー
マ「お前の父はだれか」)

こうした考え方とは対照的に、江戸時代の学者の中江藤樹は、「翁問答」の中で、こう書いてい
る。参考までに……。

「家をおこすも子孫なり。家をやぶるも子孫なり。子孫に道をおしへずして、子孫の繁盛をもと
むるは、あくなくて行くことをねがふにひとし」と。「人」より、「家」のほうが大切ということ。中江
藤樹はそう書き残している。

++++++++++++++++++++++++

 かなり過激な意見なので、驚かれたかもしれませんが、「子どもの意識」を考える、一つのヒ
ントになれば、うれしいです。
(はやし浩司 権威主義 依存心 依存性 意識 子どもの意識 子供の意識)




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20

●孤立感と劣等感

 子どもを指導していて、一番気をつけなければならないこと。それは(1)子どもを孤立させな
いこと。(2)劣等感をもたせないこと。

 この2つが日常的に重なり始めると、子どもには、さまざまな心の変調が現れるようになる。
その第一、自己と他者の誤認識。

 わかりやすく言えば、ゆがんだ自分を、「自分」と思いこみ、ゆがんだ「他者」を、他者だと思
いこみやすいということ。ものの考え方が、ひがみっぽくなったり、ひねくれたりする。いじけた
り、おかしなところでがんばったり、つっぱったりする。

 そこへ劣等感が加わると、ものの考え方が、一気に、暗くなる。

 ……あとは、底なしの悪循環。ますますその子どもは、みなから孤立し、劣等感に苦しむよう
になる。

 実は、これは私自身の問題でもある。老後の問題といってよいかもしれない。

 部屋に閉じこもって、ものを書く人間は、この孤立感と劣等感と、どう戦うか。それがいつも問
題になる。

 ものを書かなくても、パソコンお宅でも、よい。環境的に、すでに、自己と他者を誤認識しやす
い状況にある。

 よい例が、三島Y、太宰O、それに芥川R、川端Y。どの人も日本を代表する文豪たちだが、
しかしそういう人は、どこか、ヘン(失礼!)。暗い。偏屈。いじけている。それについて、先日
も、ワイフと話していると、ワイフは、こう言った。

 「あなたは、だいじょうぶよ。毎日、幼児と接しているから」と。

 事実、そのとおりで、幼児に接したとたん、気分が、パッと晴れるということは、よくある。そん
な幼児の世界から、この世界を見ると、この世界のゆがみというか、ひずむが、よくわかる。
(もちろん、自分のゆがみも!)

 こうした(ゆがみ)で注意しなければならないのが、それがまだ一定のワクの中にあればよ
し。しかしそのワクを超えると、ものの見方が、否定的になること。「世の中、狂っている」「希望
はない」「どうせ人類は、滅亡する」と。

 最終的には、「死」を考えるようになる。

 いわゆる自殺というのは、この否定的なものの見方の、ゴールに位置する。(そう言えば、三
島Y、太宰O、それに芥川R、川端Y、みんな、自殺しているぞ!)

 以上をわかりやすく図式化すると、こうなる。

(孤立感)+(劣等感)=(自己と他者の誤認識)……→(自己と他者の否定)=(自殺)

 子どもの世界でも、まったく、同じことが言える。最近でも、自殺系サイトが、大はやりという。
ときどき、集団自殺が新聞をにぎわす。もちろん個人の自殺も、それ以上に多い。

 私の近所でも、1人の青年が、最近、自殺した。世間的には、病死ということになっている
が、自殺だったという。人の死を軽々に論じてはいけないが、その背景に孤立感と劣等感があ
ったのではないかと思う。その青年のばあいも、自殺する前の数年間、ほとんど他人との接触
をしなかったという。

 ちなみに、平成15年度(03)の若年者の自殺数は、つぎのようになっている。

    0〜19歳   ……  613人(男 365人、女 248人)
   20〜19歳   …… 3353人(男 2357人、女 996人)
                        (警察統計資料より)

 全体としてみれば、平成10年度の4192人から、3966人へと減っているが、しかし「減っ
た」という変化でもない。

 だからどうしたらよいか……。私には、わからないが、孤立感と劣等感は、子どもには、もた
せてはいけない。

 私のばあい、幼児教室では、その子どものよい点や面をみつけたら、とにかく、こまめにほめ
るようにしている。「君は、すごいね」「ほほう、すばらしいね」と。みなの前で、おおげさにほめ
たたえるのもよい。

この時期、子どもは、ややうぬぼれ気味のほうが、あとあと、まっすぐ、伸びてくれる。

 この方法は、すぐ、家庭でも、応用できる。ぜひ、ためしてみてほしい。





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21
●学習指導要領

 平成14年(02)、新学習指導要領が、公表された。全体として「生きる力」に力点が置かれ
ている。
 
 その第一章・総則、第3には、つぎのようにある。

++++++++++++++++

第3  総合的な学習の時間の取扱い

【2】総合的な学習の時間においては、各学校は,地域や学校,児童の実態等に応じて、横断
的・総合的な学習や児童の興味・関心等に基づく学習など創意工夫を生かした教育活動を行
うものとする。

【2】総合的な学習の時間においては、次のようなねらいをもって指導を行うものとする。

(1)自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や
能力を育てること。

(2)学び方やものの考え方を身に付け、問題の解決や探究活動に主体的,創造的に取り組
む態度を育て、自己の生き方を考えることができるようにすること。

++++++++++++++++

 わかりやすく言えば、自分で問題を見つけ、自分で考え、自分で行動できる子どもということ
になる。

 簡単そうで、簡単でない?

 だれでもできそうで、できない?

 考えることには、ある種の苦痛がともなう。だからだれしも、できるだけ考えることを避けよう
とする。「考えるだけで、頭が痛くなる」と言う人もいる。(本当に痛くなるかどうかは、別として…
…。)

 しかし子どもでも、考えることが好きな子どももいれば、そうでない子どももいる。このことは、
パズルなどを出してみると、わかる。「やる!」「やりたい!」と言って、食いついてくる子どもも
いれば、「いや……」「やりたくない……」と言って、逃げてしまう子どももいる。

 そのちがいは、小学1年生のときには、はっきりしている。それは運動に、似ている。「外で遊
ぼうか?」と声をかけたとき、「やる!」「やりたい!」と食いついてくる子どももいれば、「いや…
…」「やりたくない……」と言って、逃げてしまう子どももいる。

 どこが、どうちがうのだろう?

 先日も、私は、ある人に、魚釣りに誘われた。小さな漁船を借り切って、沖あいに出るという
ものだった。しかし私は、川でなら魚を釣ったことがあるが、海では、ない。それに魚釣りは、ど
こか残酷で、私の趣向には合わない。

 そのある人は、「楽しいですよ。一度、やってみなさい」と、さかんに言ったが、私は結局は、
「やりたくないので……」と逃げてしまった。

 で、そのとき私は、なぜ逃げたか?

 まず、魚釣りのおもしろさが、脳にインプットされていなかった。つぎに船にまつわる、いやな
思い出が、どっと、頭の中に浮かんだ。私は船酔いしやすいタイプ。船に乗るたびに、ゲーゲー
と、ものを吐く。

 つまり魚釣りに行こうという意思を、ちょうどクサリか何かで、うしろへ引っ張るかのようにし
て、自ら、消してしまった。

 考えることから逃げてしまう子どもも、そのときの私の心理状態と同じと考えてよいのではな
いだろうか。

 まず、考えることのおもしろさを知らない。つぎに、考えることにまつわる、いやな思い出がそ
の子どもの足を引っ張る。

 このことは、年中児に名前を書かせてみると、わかる。「名前を書いてみようね」と声をかけ
ただけで、体をこわばらせる子どもは、20〜30%はいる。中には、鉛筆をもったまま、涙ぐん
でしまう子どももいる。文字に対して、ある種の恐怖感をもっているためである。

 理由など、改めて書くまでもない。またそういう子どもが、小学校へ入ると、どうなるか。それ
についても、ここで改めて書くまでもない。

 この問題を大きく考えれば、そのまま、(生きる力)にも応用できる。

 子どもの中に生きる力を養うためには、生きることの喜びを教える。楽しさを教える。そうした
無数の経験が積み重なって、「生きたい!」という願望につながる。

 ただここで誤解してはいけないのは、享楽的な楽しみにふけさせることは、ここでいう(生きる
楽しさ)ではないということ。

 生きる楽しさというのは、夢と希望をもって、何かの目標に向って進むところから、いわば副
次的に生み出される。

 たとえば子どもが、「花屋さんになりたい」と言ったとする。そのとき重要なことは、そうした子
どもの希望を、前向きに伸ばしていくということ。「じゃあ、ヒヤシンスの球根を育ててみましょう
ね」と。

 子どもは毎日、ヒヤシンスの球根が成長するのを見ながら、翌日がくるのを楽しみにする。そ
の結果として、子どもは、生きる楽しさを覚える。「さあ、今日は、算数教室へ行くのよ」「明日は
ピアノ教室よ」では、子どもの夢を育てることはできない。さらに、「今度のクリスマスには、テレ
ビゲームを買ってあげるわよ」では、子ども自身が、自ら目標に向う達成感を覚えることはでき
ない。

 新・学習指導要領は、すばらしい内容だが、あえて一言。小学校へ入学してからでは、遅す
ぎるのでは……? これは幼児教育の世界の話ではないか? すべてが幼児教育の範囲と
は言えないが、ここにも書いたように、自分で問題を見つける力にせよ、自分で考える力にせ
よ、自分で行動できる力にせよ、その大半は、小学1年生に入学するまでには、ほとんど決ま
っている。


●負けを認めて生きる

負けを認めて生きる、すばらしさ、やさしさ、すがすがしさ。
意地もあるだろ。プライドもあるだろう。世間体もあるだろう。
しかし負けを認めて生きる、生きザマにまさる生きサマはない。

気負うことはない。がんばることはない。つっぱることもない。
頭をさげて、腰をまげて、にっこりと笑って、すみません、と。
それでよい。あなたの心に、さわやかな風が、かけぬける。

++++++++++++++++

 年をとることのすばらしさの一つは、負けを知ること。誤解がないように言っておきたいが、負
けることは、恥でも何でもない。敗北感を味わう必要はない。負けることの美しさは、それを知
ったものでないとわからない。

 まず、体力で負ける。つぎに知力で負ける。それを繰りかえしていると、身も心も、ボロボロに
なる。ボロボロになったところで、もとのキズがわからなくなる。

 バカにされる。無視される。じゃまにされる。若いころは、それらにいちいち反応する。怒った
り、泣いたり、つづいて、ときには、復讐を誓ったり、報復したりする。しかしそうなったとたん、
心は動揺し、心の平安は消える。

 たとえば、少し前、こんな事件があった。

 80歳を過ぎた男性が、わずか数坪の土地のことで、隣人と、裁判をしていた。ふつうの男性
ではない。先祖は、そのあたりでも、昔からの大地主。千坪単位の土地を、あちこちにもってい
た。

 そんな男性が、たかが数坪の土地のことで、「オレの土地だ」「お前の土地ではない」と。

 長年の確執があったのだろう。それはわかるが、しかしその男性は、残り少ない人生を、どう
考えているのだろうか。「私なら……」という言い方はしてはいけないのかもしれないが、私な
ら、そんな裁判をしているヒマはない。そんな裁判を繰りかえして、心をわずらわせたくない。

 あるいは、年をとればとるほど、財産に執着するようになるものなのか。近所の人の話では、
その男性は、道をはさんで、大声で怒鳴りあっていたという。

 今は、まだ80歳の人の心境が、私には、よくわからない。そのうち自分が80歳になったら、
そのときの心境を、また書いてみたい。その年齢には、その年齢の未知の心境があるのかも
しれない。

 が、もし、その老人が、負けを認めたら、どうなるだろうか。数坪の土地は失うかもしれない
が、しかしそれと引きかえに、心のやすらぎを覚えるにちがいない。負けたことで失うものより、
やすらぐことで得るもののほうが、はるかに多い。

 そこで昔の人は、こう言った。『負けるが、勝ち』と。負けることで、結局は、勝つことになる、
と。

 負けることで、心におおらかさが生まれる。
 負けを認めることで、心に余裕ができる。
 負けたとたん、相手に、笑顔が生まれる。
 しかし、それだけではない。

 負けることによって、それまで見えなかったものが、見えてくる。何が大切で、何が大切でな
いか、それがわかるようになる。

 さらに、負けることで、失うものは何もない。むしろ、事実は逆で、負ければ負けるほど、人
は、さらに大きなものを手に入れる。人間関係にしても、利益にしても。

 だからあなたも、勇気をもって、負けてみよう。あなたも、すぐ、負けることのすばらしさを体感
するはず。
(はやし浩司 学習指導要領 生きる力 総合的な学習)

●生涯学習

 市町村の教育委員会へ行くと、「生涯学習」という言葉が、目につく。生涯学習課というのもあ
る。

 しかし生涯学習とは、何か?

 もともと欧米では、大学や大学院というのは、その道のプロを育てるという意識が強い。だか
ら、社会人になったあとも、ときどき大学や大学院にもどって、そのつど必要な知識を補充する
という制度が、確立している。

 たとえば、オーストラリアの友人のM氏は、地方のD町の診療所で医師をしている。そのM氏
にしても、定期的に、母校や近くの大学へ行っては、研修を受けたり、反対に、講師をしたりし
ている。

 それを欧米では、リカレント教育※という。

 生涯教育というと、いわゆる教養教育を想像する人も多いかもしれないが、リカレント教育と
いうのは、もっと、専門的。リカレント教育イコール、専門教育と考えてよい。医師が、大学へも
どって、詩や俳句の勉強をするようなことを、リカレント教育とは言わない。

 で、日本も欧米に遅れること、50年? それとも100年? やっとそのリカレント教育が始ま
った。始まったというより、規制が緩和された。大学や大学院で、社会人を対象とした公開講座
がもたれるようになった。

 それが生涯学習である。

 が、この日本では、この意識が、なかなか定着しない? 子どもをもつ親にしても、子どもに
向かって、「勉強しなさい!」と言う人は多いが、自分で勉強している人は少ない。たいていの
親は、こう言う。

 「私は、終わりましたから」と。

 つまりもう終わったから、勉強しなくてもいい、と。

 もともと勉強というのは、学歴を身につけるためという意識、つまり学歴意識が強い人ほど、
そういう考え方をする。中身より、学歴というわけである。

 そのため、日本人のばあい、とくに家庭に入った女性のばあい、結婚時をピークに、それ以
後、知的レベルは、低下の一途をたどる。(……とみてよい。失礼!)知識にせよ、教養にせ
よ、自ら積極的に補充してこそ、現在のレベルを維持できる。もしその努力を怠ったら、あと
は、低下するのみ。

 それは健康論に似ている。

 毎日、運動をしたり、スポーツをしたりするから、健康は、維持できる。もしだらしない生活を
したら、その時点から、体は、ナマル。(「ナマル」というのは、健康力が低下するという意味。)

 だから生涯学習が必要なのである。いつも前向きに学習していく。

 だから、世の母親たちよ、もっと、勉強しようよ。
 もっと、はやし浩司のマガジンを読もうよ。(←これはコマーシャル。)

 人間は、生涯、学習すべき、生き物なのだア!
(はやし浩司 生涯学習 リカレント学習 健康論 健康力)

(注※)「リカレント教育」……「リカレント」というのは、「還流する」という意味。1973年に、OE
CD(経済協力開発機構)が、キャリアアップのために提唱した、教育法をいう。「血液が体内を
環流するように、教育が、その人の生涯を還流するという発想にもとづく」(心理学用語辞典)と
ある。


●健康力

 たまたま今、「健康力」という言葉を思いついた。……と考えて、グーグルの検索エンジンを
使って、「健康力」を検索してみたら、ナ、何と、700万件以上もヒットした!

 驚いた。すでにそれを考えている人が。そんなにも多く、いたとは!

 で、健康と健康力。少し、意味が、ちがう。

 健康というのは、まあ、ほどほどに体の不調がない状態をいう。しかし健康力というときは、
そうした健康な状態を維持する「力」のことをいう。

 だから「健康力を養う」とは言うが、「健康を養う」とは言わない。

 たとえば日々にジョギングをしたり、サイクリングをしたりする。それは健康力を養うためであ
る。そしてその結果として、健康は維持される。

 私の知人に、40歳くらいの女性がいる。年に数度くらいしか、会わないが、その女性は、会う
たびに、どんどんと不健康な顔つきになっていく。先日も、あるものを届けたら、ソファに寝ころ
んでいたらしく、ボーッとした顔つきをしていた。

 40歳といえば、女性ざかり。色気も頂点に達するころである。が、それがない。ないばかり
か、話し始めるとすぐ、病気の話。「ここが痛いです」「ここも痛いです」と。

私「何か、運動をしたら? 公民館には、いろいろなスポーツ・サークルがありますよ」
女「今は、○○が痛いから……。また元気になったら、行きます」と。

 健康力というのは、自ら積極的に補充してこそ、維持できる。「今日は健康だから、明日は運
動しなくてもいい」というわけにはいかない。また、健康力というのは、そういうものではない。

 言いかえると、健康を維持するということは、いかにして、自分の生活の中で、運動なりスポ
ーツをする習慣をつくるかということになる。一時的では意味がない。無理な運動でも、意味が
ない。毎日、少しでもよいから、コツコツとする。それが健康力となり、その人の健康を維持す
る。

 いろいろな方法がある。

(1)クラブへ通う。(公的クラブは、費用も安い。)
(2)仲間をつくる。(仲間と人間関係をつくりながらする。)
(3)必然性をつくる。(通勤のある道のりを歩くとか、自転車に乗る。)
(4)趣味を生かす。(山歩き、散歩、登山など。)

 私のばあい、もともと意思が弱いので、今は、(3)の方法を使っている。自宅から教室まで
の、片道7キロ、往復14キロを、自転車で通っている。途中、ちょうどよいくらいの山坂があ
る。

 ワイフのばあいは、(1)と(2)。だれとでも仲よくできるタイプなので、みなとワイワイやりなが
ら、スポーツを楽しんでいる。ときどきサボったりすると、友だちから、「どうかしたの?」と電話
がかかってきたりする。

 たまたま「健康力」という言葉を思いついたので、それについて、考えてみた。
(はやし浩司 健康 健康力)




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22
●依存性と自己中心性

 いつか、自己中心性には、(1)強者のジコチューと、(2)弱者のジコチューがあると書いた。

 ふつう自己中心性を問題にするときは、強者のイコチューをいう。自分勝手でわがまま、利
己的で、自分本位なことをいう。

 しかし弱者のジコチューもある。その一つが、依存性である。ふつう、依存性が身につくと、し
てもらうことしか考えなくなる。この(してもらう)という受益姿勢そのものが、ジコチューの表れと
考えてよい。

 こんな例がある。

 あるところに、1人の男性がいる。今年、55歳になったと聞く。生活力は、ない。姉が近くに
住んでいる。姉は、60歳くらいだと聞く。

 その男性は、毎日の食事すらも、姉に届けてもらっているというが、自分からは、いっさい、
何もしない。が、ときには、その姉が、食事を届けることができないときもある。姉の嫁ぎ先は、
ミカン農家。その時期になると、収穫のため、それこそネコの手も借りたいほど、忙しくなる。

 が、そういうときでも、その男性は、じっと、家の中で、姉が来るのを待っているだけ。

 近所の人が見るにきかねて、「今日の食事はどうしたの?」と聞くと、その男性は、「○○(姉
の名前)が、忙しくて、届けてくれない……」と。

 そこでその近所の人が、「だったら、あなたも、ミカンの収穫を手伝いに行ってはどうなの?」
と言うと、「そう……?」と答えたという。

 この話は、山荘の近くに住む人から聞いた話だが、依存心のある人は、そこまでいく。つまり
自分のことしか、考えていない。どこまでいっても、自分は世話をしてもらうべき人間と考える。

 一般論(EQ論)からすれば、自己中心的な人は、それだけ、人格の完成度が低いということ
になる。言いかえると、受益型の依存性の強い人は、それだけ、人格の完成度が低いというこ
とになる。

 自己中心性について書いた原稿の補足として、この原稿を読んでもらえれば、うれしい。

 なおついでに一言。

 子どもでも、してもらうことが当たり前と考える子どもは、少なくない。この受益型依存性の強
い子どものばあい、その親に向かって、子どもの依存性を問題にしても意味はない。

 親自身が、その受益型依存性の強い人であるケースが、ほとんど。わかりやすく言えば、依
存性の強い子どものばあい、親自身も、その依存性が強いとみる。つまり親自身に、その依存
性を理解するだけの、客観的な判断能力がない。

 こうした依存性は、相互的なもので、子どもの問題というより、親の問題と考えたほうがよい。
親自身が、依存性が強いため、自分の子どもの依存性に気づくことがない。だからたがいにベ
タベタの相互依存関係をつくる。親は、それに気づくことがない。
(はやし浩司 弱者のジコチュー 強者のジコチュー 自己中心性 受益型依存性 依存心 
子どもの依存性)





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23
●買い物依存症

S県のAHさんより、買い物依存症についての相談があった。

 相談のメールの転載の許可はいただけなかったので、ここで、テーマとして、「買い物依存
症」について、考えてみたい。

++++++++++++++++++

●買い物依存症

 物欲は、本能か? それとも学習によるものか?

 いろいろ議論はあるようだが、買い物依存症の人を見ていると、本能とも思える。本能といっ
ても、ゆがんだ本能(?)。原点にあるのは、性欲? それとも生存欲?

 Aさん(女性・35歳くらい)のケース。

 夫の実父は、財産家。その父親(Aさんにとっては、義父)から、夫名義の通帳を預かったこ
とをよいことに、Aさんは、お金は、使い放題。1億円近い預金があったという。

 10万円近い、色違いの洋服を何着も買ってしまうというから、スゴイ! 夫に無断で、自分の
部屋を改装してしまったこともある。バッグは、洋服ダンスにいぱい。靴も、帽子も……。

 そういうAさんだが、買い物を楽しんでいるかというと、そうでもない。またほしい物を手に入
れたからといって、満足するといったふうでもない。また買ったからといって、それを使うという
ふうでもない。タンスに入れて、しまっておくだけ。

 一般論として、こうした依存性のある人は、男性のばあいは、パチンコや競馬などのギャンブ
ル。女性のばあいは、買い物に走りやすいと言われている。

 では、なぜ、ムダな買い物をするか?

 ある女性(40歳くらい)は、こう言った。「札束を見せびらかしていると、女王様にでもなったよ
うな気分になる」と。

 このタイプの人は、もともと他者との人間関係が、うまく結べない人と考えてよい。結べないか
ら、(買い物)という行為をとおして、相手(店の人)と、主従関係を結ぶ。相手は、ペコペコする
から、その人にとっては、気持ちがよい。しかし、それだけではないようだ。

 まず、買い物依存症の人は、買う前に、はげしく葛藤する。「ほしい」「でも、買えない」と、頭
の中で、考えることといえば、その「物」のことばかり。昼も夜も、その「物」のことばかり。それ
はものすごい、コンフリクト(心の葛藤)らしい。それから生まれるストレスは、相当なものだとい
う。

 で、ある日、それが臨界点を超えると、がまんできず、買い物に走る。買って、買って、買いま
くる。

 が、それで終わるわけではない。今度は、買ったことを、後悔し始める。この(買う前の葛藤)
→(買うことによる快感)→(買ったあとの後悔の念)というプロセスは、過食症の人の心理プロ
セスと、よく似ている。

 (食べたい欲求との葛藤)→(食べることによる快感)→(食べたあとの後悔の念)と。食べた
あと、わざと下剤を飲んだり、胃の中のものを吐きだすこともあるという。

 同じように買い物依存症の人は、買ったあと、自責の念から、自暴自棄になったり、自己否
定を繰りかえす。ますます落ちこんでしまう。Aさんのように、バックの財産家の義父がいるなら
まだしも、たいていは借金に借金を重ね、最後は破産……というケースも、少なくない。

 要するに、こうした買い物依存症の人は、その欲望を、理性ではコントロールできないという
こと。理性の外にある。そういう意味では、ゆがんだ本能ということになる。

 で、こうした買い物依存症的な現象は、ごくふつうの人にもある。私のばあいも、(だからとい
って、私がふつうの人間というわけではないが……。念のため)、ムシャクシャしたときなど、買
い物をすると、スカッとするときがある。

 だから私のばあい、買い物依存症の人の心が、よく理解できる。その心情が、よくわかる。し
かしこういうことも言える。

 「親である」ということは、それ自体が、責任のかたまりのようなもの。したいこともできず、そ
の一方で、したくないこともし、しなければならない。じっとがまんしながら、毎日の生活に耐え
る。もちろんほしいものも、買えない。生活費はともかくも、子どもの学費、老後の費用を考え
たら、なおさらだ。

 それだけでも、かなりのストレスである。

 もっとも、その時点で、夫婦関係、親子関係、家族関係が、良好なら、まだ救われる。しかし
それがおかしくなると、ストレスは、倍化する。「何のための人生だ!」「バカヤロー!」となる。

 もちろん「物」を買ったところで、問題は、何一つ、解決しない。しかし心の中は、スカッとす
る。……と考えると、スカッとする間は、まだ症状も、軽いということか。それにムダなものは買
わない。買ったあとも、ちゃんと、使う。それに買い物依存症の人のように、同じ物は買わな
い。

 ちゃんと、理性で、コントロールしている。

 ……と考えていくと、このあたりに、一本の線を引くことができる。買い物依存症と、そうでな
い買い物の間に、である。

 つぎのような症状が見られたら、買い物依存症ということになる。

( )その物を、ほしくて、ほしくて、たまらなくなる。がまんするのが、たいへん。
( )昼も夜も、考えることは、その物のことばかり。頭から、離れなくなる。
( )で、ある日、お金をもって、それを買いに行く。買うときは、満足感を覚える。
( )同じ物を、いくつか買うときがある。予算をみない。予算を考えない。
( )買ったからといって、使うことはない。買ったまま、箱に入れてしまうこともある。
( )買ったあと、後悔の念や、自責の念にとらわれ、前よりさらに、落ちこむ。
( )こうした行為を、周期的に繰りかえし、家計に大きな影響を与えている。

 子どもでも、これに似た症状を示すこともある。最近では、カード※集めに夢中になる子ども
がいる。

 もしそうなら、その行為自体を責めても意味がない。子どもの心をゆがめている原因をさぐ
る。抑圧された家庭環境など。親の過関心、過干渉も原因となる。過負担、親のか条期待など
もある。欲求不満が日常的につづくと、子どもの心は、変調する。

※カード……デュエルマスターズ・カード、ガッシュ・カード、ポケモン・カード、遊戯
 王カード、デジモン・カード、ドラゴンボール・カード、ドラゴンドライブ・カード、NARUTOカード
など。

デュエルマスターズ・カードは、1パック(5枚入り)で、158円で、おもちゃ屋、コンビニ、デパー
トなどで販売されている。

「少し前には、マジック・ザ・ギャザリングというのもあったけど……」と、子どもたちに聞くと、
「今は、知らない」と。この世界も、めまぐるしく変化しているようである。
(はやし浩司 買い物依存症 依存症 依存うつ)





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24
【不登校の相談】

+++++++++++++++++++++++++++++

 広島県H市に住んでいる、MEさん(母親)から、二男の不登校に
ついて、相談がありました。MEさんから、掲載許可をいただきまし
たので、紹介します。

+++++++++++++++++++++++++++++

【MEさんから、はやし浩司へ】

 今年の7月10日から二男(小6)のGDが不登校になりました。夏休み明けから、資料室登校
を何日か続けていましたが、狭い資料室で一日を過ごすという異常な学校生活だったためか、
なかなか教室に戻ることが出来ずにまた不登校になり、現在に至っております。

 このホームページを拝見するようになったのは5日ほど前です。書かれてあるとおり、私は半
狂乱になり、どうにか登校してくれるように刺激した結果、底だと思っていた底にもっと底があ
り、次々と子どもといっしょに別の底へも落ちていきました。

 私は腹をくくり、……とは言っても、毎日くくった紐はほどけ絞めなおし、それを繰り返している
毎日です。

 二男はテレビゲームとパソコン三昧の怠惰な生活を続けています。幼稚園のころからKK
式、4年生になって中学受験を目標にN研へ変わり、そこそこの成績で地元のトップばかりを
集めた中央の本校へと変わり、広島でも難関の、RA中学、HU附属中を目指しておりました。

 本人が負担に思っていたのにもかかわらず、バカな親でした。こうした生活からそうなってい
ったのではないかと思います。夏休みから、塾は一切やめて、隣町の小学校へ転校しようとし
ていたのですがうまくいかず、今では転校しても登校しそうにありません。

 このまま何もせず、ゲーム三昧の日々をだまって見ているのがいいのでしょうか。本人は毎
日「悲しい、僕は僕で悩んでいろいろ考えている、学校へ行くことを考えると緊張する」と言いま
す。

 土日は主人とキャッチボールやバッティングセンターに、楽しんでいっていました。先週主人
と小学校で見た、地元のソフトボールチーム(小学生の)に入りたいと言い出して、今頃から入
部してもどうだろうかと思ったのですが、お願いして練習に体験入部させてもらいました。

 やはり、思ったとおりには行かず、4時間の練習時間でしたがすることもわからず、困惑した
状態で終わってしまいました。自信をなくしたようで、翌日は少し荒れていました。家の中でゴロ
ゴロしているのが、私にはたまらなく耐えられないのですが、それでいいのでしょうか。
(広島県H市 MEより)

+++++++++++++++++++++++++

【はやし浩司から、MEさんへ】

 メールの様子からして、つまり二男の方の症状からして、このタイプの不登校は、かなり長く
つづくと思います。半年とか、1年ではなく、数年以上になるということです。

 いただいたメールの中で、もっとも気になるのは、MEさんが、二男の様子について、「怠けて
いる」という表現を使っておられる点です。

 二男のGD君は、怠けているのではありません。そう見えるだけです。心は、いつも張りつめ
た緊張感でおおわれています。その緊張感をほぐすために、やむをえず、自ら心をいやしてい
るのです。その方法として、テレビゲームをしたり、パソコンをしたりしている……。

 風邪をひいて、家でゴロゴロしている子どもを、あなたは、「怠けている」と言うでしょうか。言
わないですよね。それと同じです。

 風邪のように、熱が出るとかいう症状がないため、外からはわかりにくいのが、この不登校
の特徴です。(私のHPの不登校の記事を参考にしてください。グーグルか何かで、「はやし浩
司 学校恐怖症」を検索してしてくださると、いくつか、ヒットするはずです。)

 そしてつぎに大切なことは、「なおそう」と思わないこと。「今の状態を、今以上に悪くしないこ
とだけを考えて、様子をみる」です。

 ときどきこまかい周期(数週間から1か月単位)で、症状が改善したかのように見えたり、悪く
なったかのように見えることがありますが、そういった変化に、一喜一憂しないこと。半年単位
で、様子をみます。

 ……と書くと、「学校はどうする?」「受験はどうする?」となりますね。

 答えは、簡単。あきらめなさい。あきらめるのです。

 MEさんが、「まだ何とかなる」「うちの子にかぎって」と思っている間は、この問題は、解決し
ません。MEさんのもっている緊張感が、そのままGD君に伝わってしまうからです。この緊張
感が、症状を長引かせます。

 この問題は、一見、子どもの問題に見えますが、実は、親の問題です。親自身が、学歴信
仰、学校神話という呪縛から、いかに自分を解き放つかということです。もし今、MEさんが、
(恐らく、そうだろうと思いますが……)、「学校とは行かねばならないところ」「学校へ行かなけ
れば、うちの子はダメになる」と思っているなら、そういう考えは、捨てることです。

 といっても、簡単なことでないことはよくわかります。カルト教を信じている、信者のようなもの
です。しかもあなたが子どものときから、あなたの親によって、徹底的に叩きこまれている。そ
のカルトを体から、抜くことは、たいへんなことです。よくわかっています。しかし、抜くのです。

 この問題は、あなたがそのカルトから抜け出たとき、解決します。今は、カガミの向こうの世
界のようで、信じられないかもしれませんが、カガミの向こうは、実に広く、ゆったりとした、おお
らかな世界です。

 今は、学校だけがすべてという時代ではありません。無数の選択肢も用意されています。ま
た不登校児になったからすべておしまいというより、むしろ、不登校を起こす子どもほうが、(ま
とも)なのです。

 たしかに原因の一つとして、過負担、親の過剰期待などがあったと思います。いわゆる子ど
もが、オーバーヒ−トしてしまったというわけです。燃え尽きたのかもしれません。あるいは何ら
かの原因で、集団に対して恐怖心をもったためかもしれません。このあたりの子どもの心理
は、複雑で、簡単には説明できないことが、多いです。

 で、これから先、どうしたらよいかということですが、いくつかのポイントがあります。

(1)おどし、励ましは、タブー。

 「こんなことでは、将来、ダメになる」式のおどし。「がんばれ」式の励ましは、禁物です。あくま
でも、子どもの立場で、考えます。

 「あなたもつらい思いをしたのね」「よくがんばったのよ」式の、ねぎらいの言葉を多くかけてあ
げてください。

(2)ほどよい親、暖かい無視 

 やりすぎず、しかし、やるべきことはする。そして子どもを暖かく、無視する。子どもが愛情の
より所を求めてきたら、すかさず、いとわず、愛情表現をしてあげてください。添い寝、抱っこな
ど。

 年齢的にむずかしいかもしれませんが、入浴なども、子どもがいやがらなければ、いっしょに
してあげてください。

 症状が改善に向かい始めると、一度、幼児がえりを起こすかもしれません。赤ちゃんぽくなっ
て、お母さんのおっぱいを求めるなど。いとわず、応じてあげてください。

(3)キーワード、ターゲットに注意

 子どもがとくにいやがるキーワードなどがあれば、努めて、その話題から遠ざかります。「受
験」、「入試」、「不合格」など。子どもによって、とくに気にしている言葉がありますので、それに
ついては、触れないようにします。

 またこの時期、子どもは、あれこれ理由らしきことを言いますが、そうした言葉にまどわされ
てはいけません。「A君がいじめる」「先生が怒った」など。これをターゲット(標的)といいます。
この時期、子どもが口にする、ターゲットは、いろいろ変化します。

 しかしもともと、理由などないのです。ですから理由を聞いたり、原因をさがしても、意味はあ
りません。

(4)退屈作戦

 とにかく、退屈にさせます。退屈で、退屈でしかたないといった状況にします。しばらくすると、
子どものほうから、何かアクションが始まります。そのアクションを、じょうずに、引き出していき
ます。

 このタイプの子どもがよく見せる症状は、幼児期からの「成長の再現」です。一度、赤ちゃん
ぽくなって、幼児期に使っていた本や玩具を取り出して遊んだりすることがあります。そういう意
味では、勉強にあけくれた少年期で、幼児期から今の時代に、間が抜け落ちてしまったのかも
しれませんね。

 もし幼児がえり的な現象が見られたら、「ここからやりなおし」と思って、暖かく見守ってあげて
ください。

(5)CA、MGの多い食生活

 わかりやすく言えば、海産物主体の食生活にします。心を安定させるためです。不安や心配
ごとが入り込んでも、動揺しないようにします。リン酸食品などは、避けます。私のHPのどこか
に、詳しく書いておきましたので、また参考にしてください。

 最後になりましたが、MEさん自身の学歴信仰などと戦うためには、私のマガジンを、また読
んでください。ところどころで、それについて書いています。

 お気づきのように、今が、まだ「底」ではありません。ですから、今の状態を悪くしないことだけ
を考えて対処してください。無理は禁物。半日、資料室登校をしたら、「よくがんばったわね。3
時間も行かなくてもいいのよ。2時間で帰ってきなさいよ」と言ってあげてください。

 この親の心の余裕が、子どもの心を溶かします。

 あとあと、よい思い出になりますよ。この時期は、遅々として進まないように見えるかもしれま
せんが、終わってみれば、あっという間のこと。今こそ、あなたとお子さんの、暖かいドラマを、
しっかりと思い出の中に、刻むときです。

 暗くて長いトンネルに見えるかもしれませんが、終わってみると、あっという間のできごと。こ
の時代を光り輝かせることができるかどうかは、あなたがGD君を信じきったかどうか、決まり
ます。

 あなたの子どもを信じてあげてください。不登校など、いろいろな問題がありますが、何でもな
い問題です。いつか必ず、笑い話になります。「ようし、私も、十字架の一つや二つ、背負って
やる」「嵐がこなければ、航海もおもしろくない。来るなら、来い!」と、あなたも、前向きに、そう
怒鳴ってみてください。

 心が、ずっと軽くなりますよ。

 では……。
(はやし浩司 不登校 対処 し方 仕方 対処の仕方 親の心構え 学校恐怖症)





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25
●仮面

(教師のもつ多面性)

 教師には、聖職意識というものがある。程度の差はあるが、みなある。使命感とも言うべき
か。教師としての、使命感である。

しかし意識だけでは、聖人には、なれない。そこで、教師は、「先生」「先生」と言われるうちに、
自ら、仮面をかぶるようになる。まじめな教師ほど、そうだ。親や子どもの期待に答えようとす
る。だから仮面をかぶる。意識的にかぶることもあるが、たいていは、無意識のうちに、かぶる
ようになる。

 こうして教師の人格は、分離し始める。(本当の自分)と(仮面の自分)である。

 こうした分離は、しかし、教師の世界だけに、起きるものではない。たとえばデパートの店員
を見てみよう。

 あなたが客としてデパートに入ると、店員は、深々と頭をさげる。にこやかな笑顔をつくって、
「いらっしゃいませ」とあいさつをする。

 しかしその店員が見せる笑顔は、いわば営業用の笑顔。決して、あなたをすばらしいと思っ
て、そうしているのではない。あなたに好意をいだいているというわけでもない。だから、そうい
う笑顔を見たからといって、あなたは、その店員を、朗らかで、明るい人だとは、思わない。(そ
ういうふうに誤解する人も、多いが……。)

 同じように、俗世間では、教師という立場の人間を、何かにつけて、特別な目で見やすい。相
手が子どもであるにせよ、人間を指導するのだから、それなりの人格者と思いやすい。

 しかし教師とて、サラリーマン。サラリーマンであるというのが悪いというのではない。しかし現
実に、たとえば大学の卒業という時点においては、ほかの学生と、ちがう点は、どこにもない。
とくにすぐれた人格者が、教師になるというわけではない。

 が、教壇に立ったとたん、「先生」と呼ばれる。教師自身も、「自分は先生」と、気負う。この気
負いの中から、いわゆる反動形成が始まる。(そうであってはいけない自分)を、ことさら、演出
するようになる。「反動形成」というのは、本来の自分を偽りながら、それとは別の人格を形成
することをいう。

 教会の牧師が、ことさらセックスの話を嫌ってみせたりするのが、その一例である。あるいは
長男、長女が、親の前では、下の弟や妹に対して、ものわかりのよい兄や姉を演ずるのがそ
れである。

 こうして教師は、自分の中に、二重構造性をもつようになる。三重構造性でも、四重構造性で
もよい。要するに、自分をごまかして生きるようになる。

 たとえば教師の世界には、教師言葉というのがある。奥歯にものがはさまったような、遠まわ
しな言い方の言葉をいう。学習面に問題がある子どもでも、「君は、学習面で問題がある」とは
言わない。言えば、たいへんなことになる。

 そこで教師は、独特の言い方をする。「君は、運動面では、すばらしい。勉強も、同じようにが
んばってみなさい」と。親から、「どうしてうちの子は、勉強ができないのでしょう?」と、聞かれ
たときもそうだ。

 決して、「お宅の子は、頭が悪いから」とは言わない。言えば、たいへんなことになる。

 そこで教師は、あれこれ指導方法を話したあと、こう言う。「本気を出してくれれば、もっと伸
びるのですが、まだ本気ではないようですね」とか。あるいは「私の指導能力の足りなさが原因
です。ごめんなさい」とか言うかもしれない。

 こういうことを繰りかえしているうちに、教師は、どこからどこまでが(本当の自分)で、どこか
ら先が、(営業用の顔)か、わからなくなってしまう。

 しかしこれは、教師にとって、きわめて危険なことでもある。へたをすれば、人格が分離してし
まう。実は、このことは、私が経験したことである。

(私のばあい)

 私が自分の中の多面性に気づいたのは、30歳くらいのときのことではなかったか。私は、そ
のころ、子どもに教えることについて、毎回、ものすごい疲労感を覚えるようになっていた。

 原因は、すぐわかった。私は、参観する親の前で、いつも別の「私」を、演じていた。「よい教
師でいよう」「よい教師に見せよう」という、気負いばかりが先行していた。いわば教室という場
で、私はいつも演技をしていた。

 だから親たちの評判は、それなりによかった。しかしそのうち、自分の子どもに対する態度
と、他人の子どもに対する態度が、ちがうことに気づいた。本来の私は、ぞんざいで、乱暴。い
いかげんで、ずぼら。怠け者で、めんどうくさがり屋。

 その私が、教室では、品行方正の聖人を装っていたのだから、たまらない。こんなことがあっ
た。

 私が「道路を歩いていたら、お金が落ちていました。あなたは、そのお金を拾いました。拾っ
たお金は、どうしますか?」と、子どもたち(幼稚園児)に聞いたところ、みなは、「交番へ届け
る」などと答えた。

 が、一人だけだが、「もらっちゃうよオ」と言った子どもがいた。私は、その子どもを見つめな
がら、どうしても、その子どもを叱ることができなかった。学生時代、私は、拾ったお金を、使っ
てしまったことがある。

 そのとき、私は気がついた。「もらっちゃうよオ」と答えた子どものほうが、ずっと私に近いこと
を、である。が、表面的には、いかにもそういうことはしませんというような顔をして、「拾ったお
金は、交番へ届けましょう」などと、言う。しかし本当の私は、そんなことを、するだろうか。

 いや、その少し前、本当に、サイフを拾ったことがある。が、そのときは、たまたま私の息子
がそばにいたので、その持ち主に電話をして、サイフを取りに来てもらった。もし息子が見てい
なかったら、サイフを自分のものにしてしまっていたかもしれない。自信がなかった。

 こうした矛盾が、無数に重なり始めた。私が、はげしい疲労感を覚えるようになったのは、そ
のためだったと思う。

(居直なおり)

 私は、あるときから、自分に居なおり始めた。「ええい、ままよ」とか、「どうにでもなれ」という
心境になった。ありのままをさらけ出すことに、努めた。が、しかしそれには大前提がある。

 さらけ出してもよいような土台を作っておかねばならない。その土台もないまま、さらけ出して
しまったら、それこそ、たいへんなことになる。もともと、私の「性(しょう)」は、それほどよくな
い。育ちも育ちだし、戦後直後に生まれた団塊の世代でもある。

 言うなれば、戦後のドサクサの中で、私は、生まれ育った。

 小ズルくて、道徳心や倫理観に欠けていた。忠誠心も弱かった。生活力はそれなりにあった
が、どこか無鉄砲。計算高く、功利主義。その上、利己的で、自分勝手。わがまま。なお一層
悪いことに、短気で、けんか早い。暴力的で、すぐキレる。

 まさに言いことなし。加えて、スケベ。(これはおまけ。)

 だから一時期は、それなりに努力した。座禅をするために禅道場へ通ってみたこともある。
仏教やキリスト教も、それなりにかじった。しかしどれも中途半端なまま、終わってしまった。
 
 そういう私が、親の前では、聖人づらをしていた。そしてその仮面を、あえて脱ごうとしてい
た。今から思うと、実に、それはおかしなことだった。いや、本当の理由は、そのころ、私は偏
頭痛に悩まされていた。神経を使う分だけ、脳みそが影響を受けた。

 そういったこともあって、私は、できるだけ、ありのままの自分をさらけ出そうとした。飾らな
い、偽らない、ウソをつかない、など。こうして自分のことを、ウソ隔しなく、書くようになったの
も、そのひとつということになる。

++++++++++++++++++++

以前、こんな原稿を書きました。
私の学生時代の経験です。

++++++++++++++++++++

●善人ぶる

 私はいつから、こうまで善人ぶるようになったのか。とくにそれを強く感ずるのは、講演に招
かれたときだ。講師として、演壇の横にすわり、紹介されるのを待つ。主催者のあいさつのあ
と、講師紹介が始まり、そしてそれが終わると、演壇に登る。そのとき、私は、ふと、「どうして
私がここにいるのか」と思う。

 善人ぶることなら、だれにだってできる。簡単なことだ。それほど大きな努力はいらない。さも
知っているという顔をして、柔和な笑みを浮かべ、静かにしていればよい。何かを聞かれても、
きれいごとだけを並べていればよい。

しかし本当にむずかしいのは、自分の中の悪と戦うことだ。堕落(だらく)から、身を守ること
だ。あのトルストイも、『読書の輪』の中で、こう書いている。「善をなすには、努力が必要。しか
し悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が必要」と。

前にも書いたが、よいことをするから、善人というわけではない。悪いことをしないから、善人と
いうわけでもない。人は、悪と戦って、はじめて善人になる。

 たとえば道路に、大金の入っているサイフが落ちていたとする。一〇〇万円とか二〇〇万円
でよい。まわりにはだれもいない。あなたがそれをもって帰っても、見つかることは、まず、な
い。しかもあなたは今、お金に窮している。その日に食べる食事代もない。そういうとき、あなた
は自分の中の邪悪さと戦うことができるか。それが、ここでいう「悪と戦う」ということである。

 こうした悪と戦う場面は、実は、日常生活の中では、頻繁(ひんぱん)に起こる。そういう意味
では、人間はまさに社会的な動物である。人と会っただけで、いつもそういう立場に立たされ
る。

そこで大切なことは、まずささいな悪と戦ってみる。ウソをつかない。ゴミを捨てない。ルールを
守る。インチキをしない。そういうささいな戦いを通して、戦い方を身につける。自分を鍛える。
私のばあい、いちいち考えて行動するのがめんどうだから、自分で教条的に、それを決めて従
うようにしている。

たとえばウソにしても、一度ウソをつくと、あとがたいへん。つじつまを合わせるために、つぎつ
ぎとウソをつかねばならない。気をめぐらさなければならない。考える力があったら、もっとほか
のことに使いたいという思いもある。だからウソはつかない。が、それでももし、大金の入った
サイフが落ちていたら……。

 そんな「私」を知るひとつの手がかりとして、こんな事件があった。

 私が大学三年生のときのこと。夜、バス停でバスを待っていると、足もとに1000円札が落ち
ているのに気がついた。私はとっさに、なぜそうしたかはわからないが、それを足で踏みつけて
隠した。

うしろはたまたま交番だった。私はそのままの姿勢で、じっと立った。今でもそのときの気持ち
をよく覚えているが、私はそれを、何かのワナではないかと思った。手でつかんだとたん、うし
ろから警官がやってきて、「逮捕する」とか何とか。私はつぎつぎとやってくるバスを見送りなが
ら、時間にして、30〜40分はそのまま立っていた。

 1000円といっても、今でいう、5000円ほどの価値がある。その上、当時の私は貧乏学生。
一度でよいから、あのトンチャン(焼肉)を、腹いっぱい食べてみたいと思っていた。

が、どうしても手をのばしてそれを拾うことができなかった。私は法科の学生だった。そういう自
負心もあった。だからそのまま立っていた。が、多分、不自然な位置だったと思う。あとから並
んだ人が、けげんそうな顔つきで私をながめながら、横を通り過ぎ、バスに乗り込んでいったの
を覚えている。

 私は善人か。それとも善人ではないか。そこでこういう話を、中学生にぶつけてみた。「君た
ち、交番の前で、5000円を拾ったら、どうする?」と。6人の中学生がいた。すると、全員が、
「交番に届ける!」と。そこですかさず、「君たちは、本気か? きれいごとを言っているだけで
はないのか?」と聞くと、また「交番へ届ける!」と。ひとり、「どうせそういうお金は、自分のもの
になるよ」と。

 そこでまた私は考えてしまった。中学生でもわかる論理が、当時の私にはわからなかったの
か、と。いや、頭の中でシミュレーションするのと、実際、そういう立場に立たされるのとでは、
受けとめ方はまるでちがう。中学生の言葉をそのまま信ずることもできない。

そこで話を変えて、「1000円だったら、どうする?」「500円だったら、どうする?」と聞いてみ
た。すると、「1000円なら、もらってしまうかな」「100円だったら、ぼくのものする」と。どうや
ら、こうした善悪は、金額によって決まるようだ。……ということは、彼らがもっている論理は、
倫理ではない。

 それが倫理であるかどうかは、つまりその人の行動規範であるかどうかは、人が見ていると
か、見ていないとかいうこととは関係ない。このケースで言えば、金額の大小ではない。あくま
でも自分の問題なのだ。

たとえばゴミにしても、「大きなゴミは、道路に捨てないが、小さなゴミなら捨てる」というのは、
倫理ではない。たとえガムの食べかすでも、道路へ捨てない。そういうふうに、自分を律する力
が、倫理なのだ。

 私はしかし、中学生たちが、「1000円なら、拾ってもらってしまうかな」と言ったとき、正直言
って、ほっとした。理由は簡単だ。

 私はそのあと、うしろの交番に目をやりながら、その1000円札を拾って、すかさず自分のポ
ケットにつっこんだ。そしてあとは一目散に、その場を走って逃げた。うれしかった。本当にうれ
しかった。そして私は今でも、はっきりと思えているが、その1000円で、喫茶店でお茶を飲ん
だあと、あのトンチャン屋へ足を運んだ。ライスが100円。トンチャンが一皿、150円。それを
腹いっぱい食べた。

 そんな私が、今、善人ぶって、みなの前に立つ……? いつか私を講演会で見る人がいた
ら、ぜひ、このエッセーを思い出してみてほしい。そしてこう思ってほしい。「あの、林め、偉そう
な顔して、善人ぶっているが、どうしてあんな男が、ここにいるのか?」と。

そう思ってもらったほうが、私にとっては、ずっと気が楽になる。





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26
●被害妄想

 ありもしない恐怖や脅威を、ことさら心の中で肥大化させ、被害者意識をもつ。それを被害妄
想という。

 その被害妄想にも、いろいろある。

 よく知られた例に、追跡妄想や被毒妄想がある。追跡妄想というのは、いつもだれかに追跡
されているのではないかという、妄想観念をいう。被毒妄想というのは、だれかに毒をもられて
いるのではないかという、妄想観念をいう。

 しかし、こういう被害妄想もある。

 X氏(65歳)は、ある日、隣のY氏(50歳)と、けんかした。「お前は、いつもオレのうちをのぞ
いている!」「のぞいていない!」と。

 X氏は、それをさかのぼること、数年前から、隣のY氏が気になり始めた。最初のきっかけ
は、ささいなことだったというが、それについては、私は知らない。

 そこでX氏は、自分の家のまわりに木を植えた。しかし冬になると、葉が落ちる。そこでブロッ
クの塀の内側に、さらに、木の塀をとりつけた。

 が、それでは足りない(?)。今度は、X氏は、Y氏の家に面している窓ガラスを、すべてすり
ガラス(型ガラス)にかえた。部屋のすべてに、厚手のカーテンをつけ、さらに、家の中で電気を
つけるときは、雨戸をすべて閉めるようになった。

 被害妄想である。

 Y氏は、私が知るところ、隣の家をのぞくような人ではない。だいたいにおいて、X氏の家な
ど、のぞいてもしかたない。X氏は、妻と2人暮らし。

 ……と、このように、「家の中をのぞかれている」「いつも監視されている」というような、妄想
観念をもつことを、注察妄想という。この注察妄想をもつ人は、多い。

 Aさん(45歳、女性)も、そうだ。「道をはさんだ、向かいのBさん(女性)が、私の家をいつも
監視している」と、悩んでいる。

 が、それだけではない。ある日、私にこう言った。

 「私が、新しいバックででかけるとき、Bさんが、『いつも、新しいバックを買って、バカみたい』
と言って笑っています」と。

 しかしこの話は、おかしい。Aさんは、どうしてBさんが、そう言っているのを知ったのか? そ
こで私が、「本当にBさんが、そんなこと言っているのですか?」と聞くと、「私には、Aさんの言
っている声が、聞こえます。目つきや、顔の表情を見れば、それがわかります」と。

 こうした被害妄想は、つぎつぎと、新しい妄想を生む。そしてあとは、底なしの妄想地獄。

「では、どうしたらいいか?」ということになるが、脳の機能の問題とからんでいるだけに、こと
は簡単ではない。先のX氏にしても、Aさんにしても、どこか、うつ的。X氏は、異常に几帳面(き
とうめん)なところがあるし、Aさんは、反対に、生活習慣が、きわめて怠惰(たいだ)。だらしな
い。日常の生活そのものが、ふつうではない。

 言いかえると、被害妄想をもちやすい人は、あらゆる面で、そうした妄想観念をもちやすい。
大切なのは、まず、自分がそうであることを知ること。日ごろから、思い過ごしや、取り越し苦労
をしやすい人は、それだけ被害妄想をもちやすいということになる。

 もちろんうつ病タイプの人は。要注意! あれこれと悶々と悩み始めたら、できるだけ早く、
気分転換をしたほうがよい。そしてそのことを忘れる……。

 (しかし実際には、忘れようとすればするほど、かえって、深みにはまってしまう。私のばあい
は、周囲の状況や、自分の心の中を、徹底的に分析することで、こうした妄想観念と戦うように
している。わかりやすく言えば、相手を乗り越えるということ。相手が、自分よりバカに見えたと
き、はじめて、その妄想観念から抜け出ることができる。)

 どんな人でも、ふとしたことから、妄想観念をもちやすい。そしてそれが被害妄想になり、ここ
でいう注察妄想になったりする。くれぐれも、ご注意!

 ちなみに、広辞苑には、こうある。

 被害妄想……自分が他から迫害されていると信ずる妄想。多くは精神分裂病に見られる、
と。ゾーッ!
(はやし浩司 妄想 被害妄想 被毒妄想 追跡妄想 注察妄想 妄想観念)




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27
●子どもの忍耐力

 子どもの忍耐力は、どうやって養うか? よく話題になる。

 が、この日本では、忍耐力というと、(いやなことをさせながら養うもの)という考え方が根強く
残っている。過酷な仕事をさせたり、無理なことをさせたりするなど。

 学校での部活動なども、その一つ。毎晩真っ暗になるまで、猛練習を重ねる、など。しかしこ
の方法は、子ども自身がそれを望めばよいが、そうでなければ、収容所の強制労働的になっ
てしまう。子どもの中に、抑圧された欲求不満状態をつくってしまう。ばあいによっては、過負担
が原因で、子どもの心にさまざまな問題を引き起こすこともある。

 盲目的な依存性や、隷属性など。さらに過酷な状況がつづくと、無気力になったり、燃え尽き
てしまったりする。

 では、どうするか。

 一つの方法として、欧米のクリスマス・プレゼントの与え方が参考になる。

 欧米では、クリスマスが近づくと、子どものところにいろいろなプレゼントが届くようになる。そ
のとき、親は、そうしたプレゼントを、すぐ開かせない。たいていは、クリスマスツリーの下に並
べる。置く。

 「クリスマスに開けましょうね」と。

 つまり子どもにその日が来るのを楽しみにさせながら、がまんさせる。子どもは毎日、クリス
マスツリーの下に並べられたプレゼントの箱を見ながら、「何だろう?」「何かな?」と箱の中身
を想像する。楽しみにする。

 つまり親は、こうして子どもに、忍耐力を養う。

 もうおわかりかと思うが、子どもの忍耐力を養う方法は、二つある。

(1)苦難、苦渋をがまんさせる。これを負の忍耐力鍛錬法という。
(2)欲望の達成をがまんさせる。これを正の忍耐力鍛錬法という。

 どちらが重要で、どちらがそうでないかということではない。大切なのは、バランス。

 ただ誤解してはいけないのは、子どもにとって、負の忍耐力というのは、(いやなことをする
力)のことをいう。たとえば好きなサッカーを一日中しているからといって、その子どもに、忍耐
力があるということにはならない。その子どもは、好きなことをしているだけである。

 そこでためしに、台所の生ゴミを、子どもに始末させてみてほしい。そのとき子どもが、「ハ〜
イ」と言って手で始末すれば、その子どもは、忍耐力のある子どもということになる。

 一方、その負の忍耐力と同じくらい重要なのが、正の忍耐力。欲望のおもむくまま生きるとい
うことをがまんする。……がまんさせる。それが正の忍耐力である。

 たとえば子どもが、「テレビゲームがほしい」と願ったとする。そのとき重要なことは、ゲームを
買ってあげるにしても、それなりのお膳立てをすること。仮に買ってあげても、「クリスマスの日
に、箱をかけるのよ」と、子どもに言う。がまんさせる。

 こわいのは、欲望を、そのつど、安易に満足させること。こうした習慣になれた子どもは、自
分の欲望にブレーキをかけられなくなる。(ほしい)と思ったら最後、すぐ、その欲望を満足させ
ようとする。そのため、いわゆる生き方そのものが、享楽的になる。その場だけ楽しめれば、
それでいい、というような考え方をするようになる。

 そういう子どもが、大きくなれば、どうなるか。ここに改めて、書くまでもない。
(はやし浩司 正の忍耐力 負の忍耐力 子どもの忍耐力 子供の忍耐力 忍耐力 鍛錬方、
鍛錬)





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28
●不安障害

 何を考えても、心配。不安。イライラする。落ちつかない。とくに子どもが受験期にさしかかる
と、多くの親は、そうなる。そして思わず子どもに向って、「勉強しなさい!」と叫んでしまう。

 ところで「不安障害」という言葉が、最近、よく耳にするようになった。不安症状(不安でならな
い)と、回避行動(人との接触などを避ける)の二つを特徴とした症状を、総称して、そういう。

 この不安障害には、不安神経症、強迫神経症、恐怖症などが含まれる。ほかに心気症(重
病ではないかと思い悩む)実は、これら4つは、私も広く、浅く、経験している。

 さらにDSM−IV(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders、訳し
て「アメリカ精神医学会・精神疾患の診断・統計マニュアル」第4改訂版、94年)によれば、不
安障害には、つぎのようなものがあるという(かんき出版「心理学用語辞典」)。

(1)脅迫性障害
(2)恐慌性障害
(3)空間恐怖症
(4)社会恐怖症
(5)心的外傷後ストレス障害(PTSD)
(6)急性ストレス障害
(7)全般性不安障害
(8)薬剤性不安障害
(9)その他、特定不能の不安障害

 要するに不安の原因はさまざま、そしてその症状も、さまざまということ。考えてみれば、この
世界、不安だらけ。「右を見ても、左を見ても……」となる。

 そこでそういう原因に囲まれた私たちは、どう生きたらよいかということになる。子育てという
場では、どう考えたらよいかということになる。

(不安と、どう向きあうか)

 私のばあい。

 不安の原因、つまり敵の正体を知る。逃げてもいけない。ごまかしても、いけない。それが何
であるかを知る。

 そのあとの対処のし方は、マニュアル的には、いろいろ書くことはできる。しかし実際に、強
度の不安感に襲われたときには、マニュアルなど、何の役にもたたない。孤立感や絶望感をと
もなうことが多い。

 そういうときというのは、他人のアドバイスや励ましも、ほとんど、役にたたない。敵はそこに
いる。そこにいる以上、その敵から逃れることはできない。不安感を解消することはできない。

 だから私のばあいは、いつなんどき、そういう状態になってもよいように、そのつど、自分を燃
焼させるという方法を選択している。たとえば重篤(じゅうとく)な病気を考えてみよう。

 それらには、がん(悪性腫瘍)がある。脳梗塞や心筋梗塞、それに脳内出血もある。どれも
今の私には、いつ起きてもおかしくない病気である。

 こうした病気の疑いが出たら、私は、まちがいなく極度の不安状態になる。心気症というの
は、そういう病気をいう。

 そこで今、私は、健康なうちに、できるだけ自分を燃焼させておこうと考えている。そういう状
態になったときでも、あわてなくてもよいようにである。(それでも、あわてるだろうが……。)

 私はこれを、「積極的回避法」と呼んでいる。不安感に襲われる前に、その不安状態になって
もよいように、心の準備しておく。

 (これに対して、その場になって、あわてて不安感を回避しようと考えるのを、「消極的回避
法」と呼んでいる。)

 幸運にも、そうした病気を、過去において何度か疑われたことはあるが、かろうじて(?)今、
こうして無事に生きている。だから見た目には、一応、そうした心気症を乗りこえてきたかのよ
うに見える。しかしそれで心気症が治ったわけではない。

 またつぎの重篤な病気が疑われた段階で、同じような心気症になるかもしれない。今のとこ
ろ、まったく自信がない。

 ただそういう不安感が解消するたびに、私は、生きている喜びを実感する。そしてそれが、さ
らに充実した人生を求める、その原動力になる。今が、その状態ではないか。

 結論から先に言えば、みな、不安。今、不安でない人も、みな、何らかの時限爆弾をかかえ
ている。いつなんどき、それが爆発するかわからない。そういう状態である。

 そこで私は、こう考えるようにしている。

 ものごとは、「今、生きている」という原点から見ようではないか、と。この原点から見れば、あ
らゆる問題は、解決する。すべての不安は、解消する。(わかっていても、その原点からものご
とを見ることはできないが……。)

 あとは「なるようになれ」と、そのものごとを、受け入れ、あきらめる。するとものごとは、「なる
ように、なっていく」。そのあとのことは、考えない。悩まない。ジタバタしない……。ビートルズも
かつて、こう歌ったではないか。「♪レット・イット・ビー(あるがままに……)」と。

+++++++++++++++++++++++

そのレット・イット・ビーで思い出したのが
つぎの原稿です(中日新聞投稿済み)。
「不安」というテーマで書いた原稿ではありませんが、
何かの参考には、なると思います。

+++++++++++++++++++++++

【袋小路から抜け出る法】

子育てで親が行きづまったとき

●夫婦とはそういうもの    

 夫がいて、妻がいる。その間に子どもがいる。家族というのはそういうものだが、その夫と妻
が愛しあい、信頼しあっているというケースは、さがさなければならないほど、少ない。

どの夫婦も日々の生活に追われて、自分の気持ちを確かめる余裕すらない。そう、『子はかす
がい』とはよく言ったものだ。「子どものため」と考えて、必死になって家族を守ろうとしている夫
婦も多い。仮面といえば仮面だが、夫婦というのはそういうものではないのか。

もともと他人の人間が、一つ屋根の下で、一〇年も二〇年も、新婚当時の気持ちのままでいる
ことのほうがおかしい。私の女房なども、「お前は、オレのこと好きか?」と聞くと、「考えたこと
ないから、わからない」と答える。

●人は人、それぞれ

 こう書くと、暗くてゆううつな家族ばかりを想像しがちだが、そうではない。こんな夫婦もいる。
先日もある女性(四〇歳)が私の家に遊びに来て、女房の前でこう言った。「バンザーイ、やっ
たわ!」と。話を聞くと、夫が単身赴任で九州へ行くことになったという。

ふつうなら夫の単身赴任を悲しむはずだが、その女性は「バンザーイ!」と。また別の女性(三
三歳)は、夫婦でも別々の寝室で寝ているという。性生活も数か月に一度あるかないかという
程度らしい。しかし「ともに、人生を楽しんでいるわ。それでいいんじゃ、ナ〜イ?」と。明るく屈
託がない。

要は夫婦に標準はないということ。同じように人生観にも家庭観にも標準はない。人は、人そ
れぞれだし、それぞれの人生を築く。私やあなたのような他人が、それについてとやかく言う必
要はないし、また言ってはならない。あなたの立場で言うなら、人がどう思おうが、そんなことは
気にしてはいけない。

●問題は親子

 問題は親子だ。私たちはともすれば、理想の親子関係を頭の中にかく。設計図をえがくこと
もある。それ自体は悪いことではないが、その「像」に縛られるのはよくない。それに縛られれ
ば縛られるほど、「こうでなければならない」とか、「こんなはずはない」とかいう気負いをもつ。
この気負いが親を疲れさせる。子どもにとっては重荷になる。

不幸にして不幸な家庭に育った人ほど、この気負いが強いから注意する。「よい親子関係を築
こう」というあせりが、結局は親子関係をぎくしゃくさせてしまう。そして失敗する。

●レット・イット・ビー(あるがままに……) 

 そこでどうだろう、こう考えては。つまり夫婦であるにせよ、親子であるにせよ、それ自体が
「幻想」であるという前提で、考える。もしその中に一部でも、本物があるなら、もうけもの。一部
でよい。そう考えれば、気負いも取れる。「夫婦だから……」「親子だから……」と考えると、あ
なたも疲れるが、家族も疲れる。

簡単に言えば、今あるものを、あるがままに受け入れてしまうということ。「愛を感じないから結
婚もおしまい」とか、「親子が断絶したから、家庭づくりに失敗した」とか、そんなようにおおげさ
に考える必要はない。

つまるところ夫婦や家族、それに子どもに、あまり期待しないこと。ほどほどのところで、あきら
める。そういうニヒリズムがあなたの心に風穴をあける。そしてそれが、夫婦や家族、親子関
係を正常にする。ビートルズもかつて、こう歌ったではないか。

「♪レット・イット・ビー(あるがままに……)」と。それはまさに、「智恵(ちえ)の言葉」だ。




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29
【子どもを伸ばす、会話術】

=====================================
しつけ

●「〜〜してはいけない」という禁止命令は、少なくする。できれば、しない。そういうシチュエー
ションで、いかにジョークを混ぜるかは、親の、親としての技量の見せどころ。(日本人の子育
ては、まだ世界的にみても、発展途上国。蓄積された「子育て観」が、まだ少ない……。)

たとえば指しゃぶりをしている子どもに、「指をしゃぶってはダメ」と言うのではなく、「あなたの
指、おいしそうね。ママにもしゃぶらせてね」とはぐらかしながら言う、など。)

=====================================
心を伸ばす

●「がんばれ」ではなく、「調子はどう?」「気を楽にね」と言う。とくに受験勉強などで、すでに心
がきずついている子どもには、「がんばれ」は禁句。

=====================================
学習面で伸ばす

●子どもの点数は問題にしない。「何点だった?」「平均点は何点?」ではなく、「どこをまちが
えたの?」「あとで一緒に考えてみようね」と言う。

=====================================
生活面で伸ばす

●「あとかたづけをしなさい」ではなく、「遊ぶときは、一つだけですよ」と言う。子どもは次の遊
びをしたがため、前の遊びを片づけるようになる。

=====================================
学校生活で伸ばす

●「先生の話をよく聞くのですよ」ではなく、「わからないことがあったら、先生によく質問して、
わかるまで聞くのですよ」と言う。

=====================================

そのほか……

●「家族を大切にしようね」と、いつも口癖にする。子どもの心から「人」を奪ってはいけない。
「家族」を奪ってはいけない。「いい高校へ入れ」「いい大学へ入れ」と言うことは、子どもの心
から「人」を奪うことになるから注意。今、おとなでも、営業成績しか心の中にいない人はいくら
でもいる。心さみしいおとなたちである。

【子どもを伸ばす会話術】

 あなたの日ごろの口ぐせ。それがあなたの子どもの心をつくる。ちょっとした一言が、子ども
を伸ばし、そして、つぶす。そこで会話術。

●「立派な人になれ」ではなく、「尊敬される人になれ」と言う。(価値観を変える。)

●「社会で役立つ人になれ」ではなく、「家族を大切にしようね」と言う。

●「先生の話をよく聞くのですよ」ではなく、「わからないことがあったら、先生によく質問するの
ですよ」と言う。(親の指示に具体性をもたせる。)

●「こんな点でどうするの!」ではなく、「どこをどうまちがえたか、あとで話してね」と言う。

●「がんばれ!」ではなく、「気を楽にしてね」と言う。(苦しんでいる子どもに、「がんばれ」は禁
句。)

●「あとかたづけをしなさい」ではなく、「あと始末をしなさい」と言う。(あと片づけとあと始末は、
基本的に違う。)

●「〜〜を片づけなさい」ではなく、「遊ぶときはおもちゃは一つよ」と言う。

●「〜〜しなさい」ではなく、「〜〜してほしいが、してくれる?」と言う。(命令はできるだけ避け
る。)

●「友だちと仲よくしなさい」ではなく、「(具体的に)これを○○君にもっていってあげてね。きっ
と喜ぶわ」と言う。

●「(学校で)しっかりと勉強するのですよ」ではなく、「学校から帰ってきたら、先生がどんな話
をしたか、あとでママに教えてね」と言う。

●「はやく〜〜しなさい」ではなく、「この前より、はやくできるようになったわね」と言う。

●「どうしてこんなことをするの!」ではなく、「こんなことをするなんて、あなたらしくないね」と言
う。

●「あなたはダメな子ね」ではなく、「あなたはこの前より、いい子になったね」と言う。(前向き
の、プラスの暗示をかける。)

●「あなたは〜〜ができないわね」ではなく、「〜〜がうまくできるようになったわね」と言う。(欠
点を積極的にほめる。)

(禁止命令を避ける)

 親の会話力が、子どもを伸ばす。(もちろんつぶすこともある。)ほかにもたとえば直接話法で
はなく、間接話法で。英語の文法の話ではない。たとえば「あなたはいい子だね」と言うのは、
直接話法。「幼稚園の先生が、あなたはいい子だったと言っていたよ」というのは、間接話法な
ど。

あるいは会話を丸くしたり、ときにはユーモアをまぜる。たとえば指しゃぶりしている子どもに
は、「おいしそうな指だね。ママにもなめさせてね」とか、「おとなの指しゃぶりのし方を教えてあ
げようか」などと言う。コツは、あからさまな命令や禁止命令は避けるようにすること。何か子ど
もに命令しそうになったら、ほかに言い方はないかを考えてみるとよい。

+++++++++++++++++++++

 この会話術を書いて、もう数年以上になる(0412月)。
 原文は、「はやし浩司のHP」に載せてある。

+++++++++++++++++++++

●教えるより、好きにさせる

 子どもを伸ばすコツは、子どもを楽しませること。好きにさせること。「おもしろかった」「楽しか
った」という思いが、子どもを前向きに伸ばす。

 昨日も、BW教室(年長児)で、こんなトリックをしてみせた。

 「かたかな」と書いた紙を見せながら、子どもたちに、「これは何?」と聞く。すると子どもたち
は、「かたかな、だよ〜」と答える。

 そこで私は、こう言う。「これはひらがなだよ。君たち、わかるかな?」と。

 すると教室は、蜂の巣をつついたような騒乱状態になる。しかしそれこそ、私のねらい。

 つぎに、今度は、「ヒラガナ」と書いた紙を見せて、「これは何?」と聞く。子どもたちは、「ひら
がなだア!」などと言う。

 私は、「何だ、これは、カタカナだ。君たちは、ひらがなとカタカナの区別もできないのか?」
と、言う。子どもたちは、ますます興奮状態になる。子どもたちは、「カタカナくらい、知っている
よ!」「読めるよ!」と叫ぶ。

私「じゃあ、カタカナを呼んでみよう」
子どもたち「いいよ!」
私、(ハイ)と書いた紙を見せながら、「これは、何と書いていあるの?」
A君「ハイ!」
私「じゃあ、A君、読んでごらん」
A君「ハイ!」
私「だからA君、どうぞ」
A君「……ハイ」と。

 教室は爆笑のウズになる。ほかにも、カードが、10枚近く、ある。それには、「ヨメナイ」「イ
ヤ」「ミエナイ」などと書いてある。それをつぎつぎと、子どもたちに読ませる。

 最後に、「カタカナが好きな人?」と聞くと、全員、「ハ〜イ」と手をあげた。しかしそれこそが私
のねらい。教えるのではなく、好きにさせる。あとは、子ども自身が、子ども自身の力を使って
伸びてくれる。それを指導するのが、幼児教育ということになる。

●バカになって、子どもを伸ばす

 「こんな先生に習うくらいなら、自分でやったほうがまし」と思わせつつ、子どもに自立をうなが
す。しかしその一方で、しめるところはしめる。それがあるべき教師の姿と言ってもよい。

 強圧的で、威厳たっぷりがよいというのではない。ときに人間的な弱さやもろさを、さらけ出
す。こんなことがあった。

 ある夜、中学生に数学を教えているときのこと、私は、ふと、こうもらした。

 「勉強って、つまらないね。ぼくは、子どものころ、勉強が嫌いだった……」と。

 するとそれまで下を向いて黙々と勉強をしていたN君(中2・男子)が、顔をあげて、こう言っ
た。「先生、そんなこと言っていいの?」「でも、先生が、そう言ってくれて、安心した」と。

 教師が命令的だと、生徒は、服従的になる。しかしその一方で、依存心をもつようになる。一
見、良好な教師関係に見えるが、子どもの自立ということを考えるなら、決して、好ましいことで
はない。

 子育ての最終目標は、子どもを自立さえること。そのためには、教師が反面教師になること
も、ありえる。また反面教師になることを、恐れてはいけない。

 このことは、家庭教育にも、そのまま当てはまる。

 親も、ある時期がきたら、そのバカな親になる。バカになって、子どもの自立をうながす。「親
なんて、アテにしていないぞ」と、子どもが思うようになったら、しめたもの。(親としては、さみし
いが……。)が、しめるところは、しめる。

 私が好きな俳優に、チャーリー・チャップリン(Charles Chaplin)がいる。本名も、チャールズ・
スペンサー・チャップリン。言わずと知れた、20世紀を代表する喜劇役者である。

 あのチャップリンは、あれほどのドタバタ喜劇を演じながら、その一方で、テレビインタビュー
などでは、きちんとした映画論を論じていた。学歴はないが、きわめて知的な人物だった。私は
そういう人物の中に、あるべき親の姿のようなものを感ずる。

 重要なことは、おとなの優位性を、子どもに見せつけないこと。押しつけないこと。親は、一歩
退きながら、子どもの成長を見守る。どうせ相手は、子ども。本気で相手にしてはいけない。も
しそんなエネルギーがあるなら、もっとほかのことで、使ったらよい。子どもにバカにされて、
「親に向かって、何よ!」と言っているようでは、あなたも、まだ若い(失礼!)。

(補記)

 昨日も、年長児を指導しているとき、突然、「カンチョー(浣腸)!」と言って、私の尻に、両手
をつこんできた子どもがいた。今、その幼稚園では、そういうイタズラがはやっているらしい。

 そこですかさず、私は、こう言った。「バカだなあ。手のにおいをかいでごらん!」と。

子ども「どうして?」
私「ウンチのにおいがするだろ?」
子ども「どうして?」
私「だってさあ、ぼくのお尻には、ウンチがいっぱいついているんだよ」
子ども「……」
私「君だって、ちゃんとお尻をふけないだろ?」
子ども「ふけるよオ!」と。

 参観していた若い母親たちは、みな、ニコニコ笑っていた。つまりこういう指導が恥ずかしげ
もなくできるようになった。私も、その年齢になったようだ。





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30
●不適応障害

 「私は私」と、自分に自信をもって、生活している人は、いったい、どれだけいるだろうか。実
際には、少ないのでは……。

+++++++++++++++++

 「私は、こうでなければならない」「こうであるべきだ」という輪郭(りんかく)を、「自己概念」とい
う。

 しかし、現実には、そうはいかない。いかないことが多い。現実の自分は、自分が描く理想像
とは、ほど遠い。そういうことはよくある。

 その現実の自分を、「現実自己」という。

 この(自己概念)と(現実自己)が、一致していれば、その人は、「私は私」と、自分を確信する
ことができる。自分の道を、進むべき道として、自信をもって、進むことができる。そうでなけれ
ば、そうでない。

不安定な自分をかかえ、そのつど、道に迷ったり、悩んだりする。が、それだけではすまない。
心の状態も、きわめて不安定になる。

++++++++++++++++++

 Aさん(女性)は、財産家の両親をもつ、夫のB氏と結婚したつもりだった。B氏の両親は、そ
の地域でも、昔からの土地持ちという話を聞いていた。

 が、実際には、B家は、借金だらけ。しかも大半の土地は、すでに他人のものになっていた。
ここでAさんの夢は、大きく崩れた。

 Aさんは、B氏の夫として、そして良家の奥様として、優雅な生活を設計していた。とたん、つ
まり、そういう現実を目の前につきつけられたとき、Aさんの情緒は、きわめて不安定になっ
た。

 良家の奥様にもなりきれず、さりとて、商家のおかみさんにも、なりきれず……。

 毎晩のように、夫と、はげしい夫婦げんかを繰りかえした。

 ……というような例は、多い。似たようなケースは、子どもの世界でも、よく起こる。

 (こうでなければならない自分=自己概念)と(現実の自分=現実自己)。その両者がうまくか
みあえば、それなりに、子どもというのは、落ちついた様子を見せる。

 しかし(こうでなければならない自分)と(現実の自分)が、大きく食い違ったとき、そこで不適
応症状が現れる。

 不適応症状として代表的なものが、心の緊張感である。心はいつも緊張した状態になり、ささ
いなことで、カッとなって暴れたり、反対に、極度に落ちこんだりするようになる。

 私も、高校2年から3年にかけて、進学指導の担任教師に、強引に、文科系の学部へと、進
学先を強引に変えられてしまったことがある。それまでは、工学部の建築学科を志望していた
のだが、それが、文学部へ。大転身である!

 その時点で、私は、それまで描いていた人生設計を、すべて、ご破算にしなければならなな
かった。私は、あのときの苦しみを、今でも、忘れない。

……ということで、典型的な例で、考えてみよう。

 Cさん(中2.女子)は、子どものころから、蝶よ、花よと、目一杯、甘やかされて育てられた。
夏休みや冬休みになると、毎年のように家族とともに、海外旅行を繰りかえした。

 が、容姿はあまりよくなかった。学校でも、ほとんどといってよいほど、目だたない存在だっ
た。その上、学業の成績も、かんばしくなかった。で、そんなとき、その学校でも、進学指導の
三者面談が、始まった。

 最初に指導の担任が示した学校は、Cさんの希望とは、ほど遠い、Dランクの学校だった。
「今の成績では、ここしか入るところがない」と、言われた。Cさんは、Cさんなりに、がんばって
いるつもりだった。が、同席した母親は、そのあとCさんを、はげしく叱った。

 それまでにも、親子の間に、大きなモヤモヤ(確執)があったのかもしれない。その数日後、
Cさんは塾の帰りにコンビニに寄り、門限を破った。そしてあとは、お決まりの非行コース。

 (夜遊び)→(外泊)→(家出)と。

 中学3年生になるころには、Cさんは、何人かの男とセックスまでするようになっていた。こう
なると、もう勉強どころではなくなる。かろうじて学校には通っていたが、授業中でも、先生に叱
られたりすると、プイと、外に出ていってしまうこともある。

 このCさんのケースでも、(Cさんが子どものころから夢見ていた自分の将来)と、(現実の自
分)との間が、大きく食い違っているのがわかる。この際、その理由や原因など、どうでもよい。
ともかくも、食い違ってしまった。

 ここで、心理学でいう、(不適応障害)が始まる。

 「私はすばらしい人間のはずだ」と、思いこむCさん。しかし現実には、だれも、すばらしいと
は思ってくれない。

 「本当の私は、そんな家出を繰りかえすような、できそこないではないはず」と、自分を否定す
るCさん。しかし現実には、ズルズルと、自分の望む方向とは別の方向に入っていてしまう。

 こうなると、Cさんの生活そのものが、何がなんだかわからなくなってしまう。それはたとえて
言うなら、毎日、サラ金の借金取りに追い立てられる、多重債務者のようなものではないか。

 一日とて、安心して、落ちついた日を過ごすことができなくなる。

 当然のことながら、Cさんも、ささいなことで、カッとキレやすくなった。今ではもう、父親です
ら、Cさんには何も言えない状態だという。

日本語には、『地に足のついた生活』という言葉がある。これを子どもの世界について言いか
えると、子どもは、その地についた子どもにしなければならない。(こうでなければならない自
分)と(現実の自分)が一致した子どもにしなければならない。

 得てして、親の高望み、過剰期待は、この両者を遊離させる。そして結局は、子どもの心を
バラバラにしてしまう。大切なことは、あるがままの子どもを認め、そのあるがままに育てていく
ということ。子どもの側の立場でいうなら、子どもがいつも自分らしさを保っている状態をいう。

 具体的には、「もっとがんばれ!」ではなく、「あなたは、よくがんばっている。無理をしなくてい
い」という育て方をいう。

子どもの不適応障害を、決して軽く考えてはいけない。

+++++++++++++++++++++

 「私らしく生きる……」「私は私」と言うためには、まず、その前提として、(こうでなければなら
ない自分=自己概念)と(現実の自分=現実自己)、その両者を、うまくかみあわせなければな
らない。

 簡単な方法としては、まず、自分のしたいことをする、ということ。その中から、生きがいを見
つけ、その目標に向って、進んでいくということ。

 子どもも、またしかり。子どものしたいこと、つまり夢や希望によく耳を傾け、その夢や希望に
そって、子どもに目的をもたせていく。子どもを伸ばすということは、そういうことをいう。
(はやし浩司 子どもの不適応障害 子どもの不適応障害 現実自己 自己概念)

(注)役割混乱による、不適応障害も、少なくない。













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