書庫14
はやし浩司
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●知人の自殺

 Mさんという女性から、たった今、「友人が自殺した」というメールを、もらった。相当なショック
を受けられたようである。当然である。その自殺した人は、Mさんの友人。クラブもいっしょにし
てきた、仲間の一人である。

 しかもKさんは、その自殺した人から、何度も、相談を受けている。

 そういう自殺者が身近から出ると、そのまわりの人たちは、自責の念にかられる。「何とかで
きなかったものか」と考えるうちに、「何もしなかった自分が悪い」となり、ついで、「その責任は
私にある」と考えるようになる。

 生きていても、むなしいだけ。目的も、希望もない。明日は、今日より、悪くなる。来年は、今
年より、悪くなる。

 そういう思いが、どんどんと胸の中にふくらんでいく。そして最後は、「生きていてもムダ」「生
きていて、何になる」となる。

 死にたいから死ぬのではない。生きているのがつらいから、死ぬ。

 そういう意味では、生きるというのは、薄い氷の上を、恐る恐る歩くようなもの。何とか、かろ
うじて、生きがいにしがみつきながら、生きている。一見、元気そうに生きては見せても、その
多くは見せかけ。虚勢。その下では、いつも不安と孤独が、「おいで、おいで」と手招きしてい
る。

 つまりその生きがいをなくしたとき、そこで、どんと、人は、「死」を考える。

 ……こう決めてかかるのは、危険なことかもしれない。が、私も、落ちこんだようなとき、すぐ
そこに「死」を感ずることがある。決して、人ごとではない。

 そこで最近、私は、こう考えるようになった。

 こうした状態になるのは、いわば、心の病気のようなもの、と。たしかに心の病気にはちがい
ない。しかし、心の病気のばあい、その病気を客観的に判断すべき、脳ミソそのものが、病気
になる。

 肺炎のとき、熱を出せば、その熱が何であるかを、自分で判断できる。しかし脳ミソそのもの
が、病気になってしまうと、それがわからなくなってしまう。

 そこで肺炎にたいしてもそうであるように、予防こそ、最善である、と。心が健康なうちに、そう
でない状態を、しっかりと知っておく。

 それが、予防の一つということにもなるが、しかしここでやっかいな問題にぶつかる。心が病
気になると、そのときの自分が本物で、むしろ健康なときの自分のほうが、おかしく見えるとき
がある。どちらが本物の自分か、わからなくなる。では、どうすればよいのかということになる。

 簡単に考えれば、そういう心配のタネをつくらないということになるが、それだけではいけな
い。また、足りない。

 心の病気から、自分を守るためには、そうでない価値観を、自分の心の中にあらかじめつく
っておくしかない。心のともし火となるような、別の価値観を、である。

 というのも、これはあくまでも私の経験だが、そういうふうに落ちこんだときというのは、何をし
ても、また何を考えても、むなしく思える。とくに自分が自己中心的であるときには、それが極
端に現れる。すがりたくても、すがるものさえない。

 そこで心が健康なときから、そのすがれるもの、つまり、「利他的な部分」を用意しておく。わ
かりやすく言えば、ちょうど他人の心の中に、自分の心を貯金するように、自分を残しておく。

 決して、自分自身を、孤立させてはいけない。こうして落ちこんだときには、孤独こそ、最大の
恐怖となってその人に、襲いかかってくる。

 だから他人の心の中に、自分のやさしさや、暖かさを残していく。それが愛ということになるの
かもしれない。あるいは慈悲ということになるのかもしれない。

 生きるということは、美しい思い出の上に、美しい思い出を重ね、その上で、やすらぎを覚え
ること。日々の生活の中では、なかなかむずかしいことかもしれない。きれいごとだけでは、生
きてはいかれない。しかしそういう部分を、別のところでつくっておくことも、生きていくために
は、必要ではないだろうか。

 だから自分の生活の、何分の一かでもよいから、他人のために生きる。生きてみる。そういう
行為をとおして、私たちは、他人の心の中に、自分の心を貯金することができる。そしてそれ
が、行きづまったようなとき、あなたの足元を、ともし火として、照らしてくれる。

 私のばあい、落ちこんだようなとき、ここにも書いたように、「死」を考えることがある。実際に
は、「死ぬ」ことまでは考えないが、「生きていく自信」をなくす。で、そういうときは、ただひたす
ら、目を閉じて、眠ることにしている。何も考えない。何も結論をださない。

 「朝のこない夜はない」とは、よく言ったもの。むかし、だれかが、そう言った。しかし、本当
に、そうだ。

 その翌朝になると、その前夜までの自分が、まるでウソのように、気分が落ちつき、静かにな
ることがある。

 そういう自分が、本当の自分と知り、そこを原点に、その日に向って、一歩、足を前に踏み出
す。

それが私の、こうしたうつ状態にたいする、対処法ということになるが、たいへん幸いなことに、
本当に幸いなことに、私の仕事は、子ども相手である。しかも幼児相手である。

 いくらこちらが落ちこんでいても、子どもたちは、それを許してくれない。「先生!」と声をかけ
られたとたん、それまでのうっ積した気分が、吹き飛んでしまう。

 そう、子どもたちを楽しませること。それが私にとっては、他人の心の中に、自分の心を貯金
することの一つかもしれない。すべてではないが、しかし何分の一かは、私の心を、子どもたち
の心の中に、残しておく。そういう子どもたちが、私を救ってくれる。

 しかし……。その自殺した女性には、夫もいるそうだ。受験期を迎えた子どもたちも、いるそ
うだ。

 さぞかし、つらかっただろう。月並みな言い方しかできないが、心から、お悔やみを申しあげ
たい。そして一言。

 Mさん、あまり気にしないで、私たちは、楽しく、朗らかに生きましょう! どうせ、一度しかな
い、短い人生ですから……!

【付記】

 夫婦であれ、親子であれ、たがいに、たがいの生きがいを用意してやるのは、それぞれの立
場にいるものの義務ではないだろうか。

 私は、ときどき、しかし本気でこう思うことがある。

 私のワイフは、家庭に閉じこもってしまった。(本当は、私が、ワイフを家庭に閉じこめてしま
った。)主婦という名のもとで、そして母親という名のもとで。

 そこで私は、ときどき、こう考える。「私なら、ワイフの仕事が、できるか?」と。自分の中の野
心を押し殺してまで、それができるか、と。

 そのとき、いつも、「私にはできないだろうな」と思う。思うから、ワイフには、申し訳ないと思う
ときがある。

 そこで最近は、できるだけ、ワイフにも、夢や希望を共有してもらえるようにしている。私の仕
事の一部を分担してもらうなど。つまり喜怒哀楽をともにできるようにしている。

 が、しかしそれにだって、実は限界がある。だから今の私は、ワイフには、こう言うしかない。

 「何も心配しなくてもいい。最後の最後まで、お前は、ぼくが守ってあげるから」と。

 ワイフは、いつも半信半疑の様子だが、私は、本気である。つまりそういう形でも、ワイフに安
心感を与えていくしかない。それでじゅうぶんだとは思わないが、私にできることいえば、せい
ぜい、それくらいしかない。

【補記】

 今年の8月ごろ、かなり苦しい時期があった。原因は、いろいろあったが、そういうときという
のは、原稿を書くのが、おっくうになる。パソコンを見るのさえ、いやになる。

 否定的なものの考え方ばかりが、頭の中に浮かんでくる。「こんなマガジンを、出して何にな
る」「だれも、読んでいない」「ムダだ」と。

 実際、「もうマガジンは、廃刊にしよう」とも、考えた。

 しかし仕事にせよ、マガジンにせよ、どこかにそれを喜んでくれる人がいる。何十人か、ある
いは何人かはいる……。ふと、そういう人たちの温もりを感ずる。

 だから「これは本当の私ではない」と、懸命に自分に言って聞かせる。そして、とにかく、その
ときにすべきことをする。

 英語では、落ちこんだような状態を、「トンネルに入った」という。しかしそれは抜け出てはじめ
てわかることで、そのときは、トンネルに入っているとは思わない。何もかも、いやになる。めん
どうになる。おっくうになる。

 だから今の今、再び、そういう状態になったときのために、(多分に、打算的ではあるが)、他
人の心の中に、自分の心の温もりを残しておく。その温もりが、今度は、いつか、自分を助けて
くれる。

 それがここで私がいう、「心の貯金」ということになる。

 最後に、私の印象では、自己中心的で、自分勝手。わがままで、自分のことしか考えない人
ほど、落ちこんだとき、その落ちこみ方が、はげしいのではないかと思う。あくまでも、私の印象
だが……。

【さらに補記】

 今、思い出したが、私のばあい、天然のハーブで構成した、精神安定剤がとてもよくきいたよ
うに思う。市販の薬で、一箱、1200円前後で売っている。大きな薬局へ行くと、2、3種類用意
してあるので、一度、相談してみるとよい。

★Think of all the beauty that's still left in and around you and be happy! - Anne Frank
あなたのまわりにまだ残っているすべての美しいものを、思い浮かべなさい。そして幸福になり
なさい。(アンネ・フランク)

★We all live with the objective of being happy; our lives are all different and yet the same.
- Anne Frank
私たちはみな、幸福になりたいと思って生きている。つまり人生はみな、異なっていても、目的
は同じ。(アンネ・フランク)




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【ADHD児】

ADHD児の特徴は、(1)不注意(注意力散漫)、(2)衝動性、(3)多動性の三つである。

 DSM−IVの診断基準を、わかりやすくしたのが、下の表である。ADHD児の原因について、
最近の研究では、脳の微細障害悦、もしくは、微細機能障害説が有力になってきている。前頭
葉の血流量が、健常児と比較して、有意に低下していることもわかっている。

 が、問題は、その子どもがそうであるというよりは、つまり医学的にはそうであっても、教育的
には、初期の不適切な対処の仕方により、症状がこじれてしまうところにある。乳幼児期の、
落ちつきのない言動に対して、親は、はげしい、しつけ攻撃を、試みる。強くしかったり、ときに
暴力を加えたりする。これがさらに症状を悪化させる。

 つまりADHD児でも、初期診断が、重要ということになる。できるだけ早い時期にそれに気づ
き、適切に対処する。

【不注意(注意力散漫)】

 つぎのような症状のうち、6つ以上、6か月以上、つづいている。

(  )不注意な行動が多い。不用意にお茶をこぼしたり、道路に飛び出したりする。
(  )集中力が、つづかない。ゲームをしていても、すぐあきてしまう。
(  )人の話が聞けない。どこかうわの空。カルタ取りのようなゲームが、苦手。
(  )親の指示に無頓着。あるいは指示を受けても、それを無視したような状態になる。
(  )ものごとを順序だててすることが、苦手。行動に統一性がない。
(  )ものをよくなくす。どこへ置いたか、しまったか、忘れてしまう。
(  )注意力が散漫で、もの音などがすると、注意がそちらへ向いてしまう。
(  )毎日、何をすべきか、忘れてしまう。

【多動性】

 つぎのような症状のうち、6つ以上、6か月以上、つづいている。

(  )いつもどこかそわそわしている。じっとすわっていることができない。
(  )じっとすわっていることが、求められているときでも、立ってどこかへ行く。
(  )病院や図書館、葬儀の席などでも、動き回ったり、騒いだりする。
(  )静かに遊ぶことができない。
(  )何かしら別のエンジンによって動かされるかのように、勝手に動き回る。
(  )よくしゃべり、「静かに!」といくら制しても、効果がない。あっても瞬間。

【衝動性】

(  )しばしば自分勝手な行動を繰りかえす。
(  )人のうしろに並んで、順番を待つことができない。
(  )ほかの子どものじゃまをしたり、妨害をしたりする。
 (以上、DSM−IVの診断基準(医学書院)を、参考に、一般親向けに改変)

 こうした症状が見られたら、ADHD児を疑い、専門医の相談を受けるとよい。各地区の保険
所、保険センターなどの、育児相談窓口で、相談する。

 このタイプの子どもでも、自己意識が育ってくる、小学3、4年生を境に、急速に症状が収まっ
てくる。それまでに症状を、不必要に、こじらせないことが、重要である。
(はやし浩司 ADHD児 DSM 診断基準)

【Mさんの例】

 Mさんは、突然、「今日のママのパンティ、花柄パンティよ」と叫んだ。Mさんが、年中児になっ
て、はじめて、私の教室へきたときのことだった。「かわいい、かわいい、お花のついた、きれ
いなパンティ」と。

 母親は、それを見て、あわてた。私も、「Mさん!」と言って、それをたしなめた。

 Mさんの多動性は、きわだっていた。席についたと思うと、そのままの姿勢で、となりの子に
おおいかぶされようにして、話しかけていた。が、それも中途半端な状態で、今度は、そのまま
立ちあがり、うしろの席の子どもに……。

 「Mさん、すわっていようね」と声をかけても、その場だけの効果しかない。その瞬間だけ、ハ
ッと我にかえったような様子を見せるが、その直後には、もう別のことをしていた。

 母親は、こう言った。

 「歩き始めたころから、手に負えませんでした。体と柱をヒモでつないで、育てました。どこへ
行くか、わからなかったからです。

3歳くらいになったときのこと。土手の上から、下へ飛び降りたこともあります。幸い、下が、草
むらになっていて、けがはしませんでしたが、それを見たとき、私は、思わず、ギャーッと声をあ
げてしまいました」と。

 そのMさんは、天衣無縫というか、言うことなすこと、支離滅裂。「天井に、ハエ。ハエさん、ハ
エさん、今日は元気? 私は、赤い箱。箱の中には、白いリボン……」と。

 突然、私の席のところまでやってきて、小声で、「センセイ……」と、甘ったるい声で話しかけ
てきたかと思うと、突然、ワッと声をあげたこともある。

 「どうしてそんなことをするんだ!」と叱ると、突然、しおらしい涙声になって、「ごめんなさい」
と。

 毎日が、この繰りかえし。

 そういうMさんを、母親は、はげしく叱った。が、その一方で、母親は、Mさんのことを、「無限
の可能性のある、優秀な子」と信じていた。活発な言動、強い好奇心など。たしかにふつうの子
どもとは、ちがっていた。

 この段階で、母親にその知識と自覚があるなら、まだ話もできる。しかし実際問題として、「優
秀な子」と信じている母親に向って、「あなたの子どもには、問題があります」とは、とても言え
ない。私は、いつ切り出すべきかと悩んでいた。

 しかし、そんな母親でも、やがて気がつくときがやってきた。幼稚園で開かれた、遊戯会での
ことだった。

 Mさんだけが舞台の前に出てきて、観客に向って、アカンベーを繰りかえしていた。ほかの子
どもたちは、先生の手拍子に合わせて、遊戯を踊っていた。

 それを見て、母親は、かなりショックを受けたようだった。そしてその足で、私のところにやっ
てきて、「どうしてでしょうか?」と、質問をした。

 私は、母親を、別の部屋に案内し、「私の印象では、活発型遅進児の心配があります」と告
げた。今から、30年近くも前のことで、当時はまだ、ADHD児という言葉さえ、なかった。

それを聞いて、母親は、どっと身を伏せ、その場で、泣き崩れてしまった。

 
●脳の微細障害説

 カプランの「臨床精神医学ハンドブック」によると、ADHDを、つぎのように説明する(福島章
著「子どもの脳があぶない」(PHP新書)を要約。)

(1)まだじゅうぶん解明されていないが、微細な神経学的欠陥が原因と考えられる。
(2)出産前後の外傷や、乳幼児期の栄養不良と関連がある。
(3)男児に多く、二卵性双生児よりも、一卵性双生児に一致率が高い。
(4)脳血流の研究からは、前頭葉の血流の低下が明らかにされている。
(5)ADHD児の20〜25%が、青年期、成人期にいたるまで、症状を示す。
(6)とくに行為障害を合併するばあいには、非行や犯罪に走りやすい。

ここで注目すべき点は、「ADHD児の20〜25%が、青年期、成人期にいたるまで、症状を示
す」という点である。言いかえると。たいはんは、それまでに、症状が、少なくとも、わかりにくく
なるということ。

ADHD児と診断されると、多くの親は、絶望的になる。しかし絶望的になる必要は、まったくな
い。

 ADHD児は、集団教育になじまないというだけで、その豊かな発想には、評価すべきものが
ある。最近の研究では、モーツアルト、チャーチル、それにエジソンなども、そのADHD児であ
ったということまでわかっている。

 大切なことは、乳幼児期から少年期にかけて、無理な指導で、症状をこじらせないこと。それ
が結論ということになる。
(はやし浩司 脳の微細障害 微細障害説 脳血流 前頭葉)

 
●よく知られた、ADHDの人たち

(McNeil Consumer & Specialty Pharmaceuticalsより転載、翻訳)

★エジソンも、チャーチルも、モーツアルトも、ADHDだった!

ADHD児というと、マイナス面ばかりが強調されるが、もちまえの集中力や、固執力、さらに
は、バイタリティなどから、すぐれた能力を示す例も、少なくない。MCNEIL社のGPでは、エジ
ソン、チャーチル卿、モーツアルトの例をあげ、ADHDであることが、悪いことばかりでないこと
を指摘している。大切なことは、いかにしてADHDを「治す」かではなく、その「よさを、指導によ
り引き出すか」である(はやし浩司)。


Famous People and ADHD (ADHD児でよく知られた人たち)
Although not all of the following people have been officially diagnosed with ADHD, they have 
exhibited many of its signs. This list is included here to inspire those facing similar challenges.
つぎの人たちは、公式には、ADHDであったと診断されたわけではない。しかしADHDの多く
の症状を示していた。現在同じような問題をかかえている人のために参考になれば、うれし
い。

●Thomas Alva Edison (トーマス・A・エジソン)is cited more than any other historical figure 
for his classic ADHD behavior. As an inventor, his creative curiosity enabled him to 
constantly explore new ideas. Later in life, Edison showed his tenacity in sticking with things 
that caught his imagination in his many inventions.

(エジソンの多動性はよく知られている。しかし彼のねばり強さは、突出したものであった。)

エジソンは、他のどんな歴史上の人物よりも、古典的ADHDの持ち主として、注目されている。
発明者として、彼の想像的好奇心は、つぎつぎと新しいアイデアを生み出した。晩年になって、
エジソンは、多くの発明にかかりきりになるという、ねばり強さを示した。


●Sir Winston Churchill(W・チャーチル卿) was described as hyperactive and naughty as a 
child, and was often sent out of the classroom to run around the schoolyard and get rid of 
his extra energy. In his autobiography "My Early Life," Churchill talks about his impulsivity 
and his difficult school experiences. Interestingly, once out of school and serving in the 
British Army in India, Churchill read crate after crate of history books. His high energy level, 
creative problem solving, and hyperfocus as prime minister of Great Britain during WWII 
inspired his nation and the world. 

(チャーチル自身が、回顧録で、自分のわんぱくぶりを書いている。彼はもちまえの集中力をも
って、歴史書をよみあさり、やがて英国の首相となった。)

チャーチルは、子どものころ、多動性とわんぱくで知られていた。そのためよく教室から追い出
され、そのエネルギーをへらすため、運動場を走らされた。チャーチルは、自分の伝記、「私の
子ども時代」の中で、自分の衝動的行動や、学校での困難な生活ぶりを書いている。興味深
いことは、彼が学校を出て、インドで軍に従事したとき、チャーチルは、歴史書を読みあさった
ということ。チャーチルの高いエネルギーと、創造力豊かな問題解決の方法、第二次大戦中
の、英国軍の首相としての、並外れた集中力は、イギリスや世界を、鼓舞した。

●Wolfgang Amadeus Mozart(W・A・モーツアルト) is known for his abilities as a brilliant 
composer. During periods of hyperfocus, he could compose an opera in just a few weeks; 
other times he left commissioned work to the last minute, or didn't finish it at all. It has 
been said that his impulsive social behavior kept him from major court positions and great 
financial reward. 

(モーツアルトは、人並みはずれた集中力で、二、三週間でオペラを完成させたりした。)

モーツアルトは、すぐれた作曲家として、その能力を知られている。モーツアルトは、その集中
力が高揚しているときは、オペラを、ほんの数週間で完成させている。ほかのときは、申し付け
られた仕事を、最後の瞬間までしなかったり、あるいはまったくしなかったりした。一説による
と、彼のこうした衝動的な行動が、宮廷での地位や、財政的な立場を、苦しくした理由だと言わ
れている。





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●心にキズをもった子ども

【大阪府T市在住の母親より】

幼稚園で不登園になって以来、小学校に 入学してから今まで 毎日 学校でつき添って登校
しています。

最近 「ぼくは、死んだほうがいいんだ。」「お母さんは、僕が嫌いなんだ。」「どうせ何をやって
もうまくできない」と、毎日言います。

幼稚園に行かなくなったときに 私が、死にたいほど辛く 本人にもかなりひどいことを言ってし
まったのを、思い出しているのかも知れません。最近になって、アスペルガ−症候群だといわ
れました。

子供に 自己に自信をつけてあげるには、どのように接してあげれば、いいでしょう?毎日 楽
しく生活できるようにと 思っているのですが、毎日 あまりにもしつこく言われ 私も いらいら
してしまいます。
(大阪府T市、CFより)

+++++++++++++++++

 アスペルガー症候群については、たびたび書いてきたので、ここでは、簡単に説明だけして
おく。

 自閉症的な症状を示しながら、知的な発達障害の見られない子どもが見せる症候群を、アス
ペルガー症候群という。ふつう自閉症というときは、言語能力などの分野で、知的発達障害を
ともなくことが多い。が、アスペルガー児には、そういった発達障害は、見られない。むしろ、数
学や算数の分野などで、特異な能力を見せることが多い。

 正確には、自閉症の中でも、正常レベルに近い子どもを、「高機能自閉症児」という。その中
でも、さらに正常に近い子どもを、「アスペルガー児」という。高機能自閉症児と、アスペルガー
障害児をまとめて、「高機能広汎性発達障害児」と呼ぶ。

 しかし名前だけはぎょうぎょうしいが、要するに、対人関係に問題がある子どもというだけで、
それ以上に問題はない。「個性」と位置づける研究者も多いし、実際、教育現場では、そういう
方向で、指導をしている。

++++++++++++++++

 この相談のばあい、その子どもが、アスペルガー児であるかどうかは、不随的な問題と考え
てよい。アスペルガー児だから、「死んだほうがいい」という言葉を口にするわけではない。た
だ、対人関係の調整が、きわめて苦手な子どもなので、ささいなことで、キズつきやすいという
こと。

 で、気になるのは、母親自身が、「私が、死にたいほど辛く、本人にもかなりひどいことを言っ
てしまったのを、思い出しているのかも知れません」と告白している部分である。

 恐らくそういった接し方を、その母親は、一度とか、二度とかではなく、ごく日常的に、態度を
とおして、していたのかもしれない。

 そのため、子どもの心は、キズついた。アスペルガー児であるというなら、なおさら、デリケー
トな心をもっていた。子どもの年齢は書いてないので、よくわからないが、低学年児であるな
ら、この言葉は、痛々しい。

【CFさんへ……】

 CFさんも、当時は、いろいろ混乱していたのだと思います。子どもの様子が、少し変わってい
るということで、いろいろ悩んだのだと思います。そして、(ひどいこと)を口にしてしまった。

 この問題は、CFさんの子どもが、アスペルガー児であるとかないとかいうこととは、一度、切
り離して考えてみたほうが、よいのでははいないかと思います。そして過去の失敗は、いまさ
ら、悔やんでもしかたのないこと。

 問題は、これから先、どうするか、ですね。

 幸いなことに、CFさんは、今、そういう自分を深く、後悔しています。そして自分やあなたの子
どもを、冷静に見つめています。ここがとても重要な点です。というのも、世の中には、そういう
子どもをもちながら、その子どもの心を知らないまま、子どもを叱りつづける親も多いからで
す。

 ほとんどの親は、子どもに何か問題が起きると、自分を改めようとする前に、「子どもをなお
そう」と考えます。しかしこれほど、身勝手な考え方はありません。

 実のところ、私自身も、「アスペルガー症候群」という言葉を、ほんの5年前にさえ知りません
でした。当時、ある母親から、子育て相談会の席で相談され、そういう症状があることを知りま
した。今から思うと、それがアスペルガー症候群でした。

(この名称が一般的になったのは、ここ数年のことではないでしょうか。私の勉強不足かもしれ
ません。

 対人関係が結べず、その子どもの母親も、深刻に悩んでいました。「完ぺき主義で、だれか
にまちがいを指摘されたりすると、錯乱状態になる」と。

 で、その子どもは、小学3年生になるまで、私は指導しました。その子どもについては、また
別の機会に詳しく書くとして、そんなわけで、私は、「死にたいほどつらく思い、子どもにひどい
ことを言った」あなたを、責めることができません。

 で、その結果、あなたの子どもの心は、ひどくキズついてしまったというわけです。

 ただ、一つ、誤解してはいけないのは、こうした対人関係がうまく結べない子どものばあい、と
きとして、相手に同情を求めながら、相手の心を試すということは、よくあることということです。

 「死」という言葉にしても、言葉として、そう言うかもしれませんが、あまり本気にしてもいけま
せん。「死ぬ」「死ぬ」と言って、死んだ子どもはいません。子どもが死を選ぶのは、あくまでも、
何かのことで行きづまった、その結果です。……といっても、やはり痛々しい言葉ですね。本来
なら、絶対、子どもには口にしてほしくない言葉です。

 こういうケースでは、まさにあなたの親としての、愛の資質が試されます。どんなことがあって
も、「許して、忘れる」です。あとは、暖かい無視を繰りかえし、子どもが、何かのスキンシップや
愛情表現を求めてきたら、すかさず、いとわず、ていねいにそれに答えてあげるということで
す。

 あとは、時の流れに任せましょう。コツは、そういったテーマや問題には、触れないことです。
うまく、聞き流すことです。「暖かい無視」という言葉がありますが、私も好きな言葉です。うま
く、応用してみてください。

 ただとても残念なことですが、一度ついた心のキズは、簡単には消えません。忘れることはで
きますが、消えません。

 しかしだれしも、そうしたキズを無数にもちながら、つまりキズまるけになりながら、成長し、生
きていくものです。ですから、CFさんの子どもが、こうしたキズをもっているとしても、それはそ
れとして、前向きに生きていくしかありません。

 コツは、その問題にふれないように。話題にしないように。あまり気にしないように。

 なお、こんな指導法もありますから、参考にしてください。

 ある中学生の男子ですが、何かにつけて、ゆううつな話題をもちかけてきます。……きまし
た。

 たとえば、こうです。

 「ぼく、今度のテストで、悪い点を取るような気がする」
 「高校へ入っても、また勉強するなんて、いやだ」
 「昨日、友だちが、ぼくを無視した」と。

 最初のうちは、その中学生に相談に、そのつどあれこれ答えていましたが、そのうち、私の
ほうもいやになり(本音!)、やがて、こう答えるようにしました。すぐ、話題を、切りかえるので
す。

 その子どもが憂うつそうな顔をして、話しかけてきたら、すかさず、「ほほう、君は、いい趣味
しているねえ。このサイフ、かっこいいね。もらったの? 買ったの?」と。

 あるいは、「もうすぐ運動会だね。君は、何に出場するの? 子どものころから、君は、走る
のは速かったんだろ?」と。

 つまりその瞬間、瞬間に、明るい話題に、こちらからもちこんでいきます。この方法は、たい
へん効果的ですから、ぜひ、CFさんのご家庭でも、応用してみてください。

 なお、いただきましたメールですが、マガジン用に、転載することを、どうかお許しください。不
都合な点があれば、改めます。どうか、至急、ご連絡ください。勝手なお願いですみません。
(はやし浩司 高機能自閉症児 アスペルガー アスペルガー症候群 子どもの心 子供 キ
ズ)





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●幻惑

●Y市のNさんよりメール
 
 Y市に住んでいる、Nさんより、母親(実母)についての相談があった。

 Nさんは、現在、31歳。2児の母親。

 Nさんの母親(実母)は、プライドの高い人で、人から、何か指摘されたりすると、カッとなりや
すい人のようである。そしていつも、夫(Nさんの実父)の顔色をうかがって、生活しているような
ところがあるという。

 Nさんにとって、Nさんの生まれ育った家庭は、とても「暖かい家庭」とは言えなかったようであ
る。一度、Nさんが家出をしたとき、こんなことがあったという。Nさんが、高校生のときのことで
ある。

 Nさんの母親は、Nさんを迎えにきたとき、Nさんに、「私がかわりに家出をするから、あなた
はもどってきなさい」と言ったという。その一件で、Nさんは、母親との信頼関係が、崩れたよう
に感じたという。

 「私は恵まれた家庭に育っていない。しかし自分の子どもたちには、家族の温もりを教えてあ
げたい」「幸福な気持ちで、生きてほしい」「どうしたらいいか」「また、両親に、もっと自分たちの
ことを気づいてほしい。どうしたらいいか」と。

【Nさんへ……】

 エッセー形式で、返事を書いてごめんなさい。Nさんのかかえておられる問題は、広く、つまり
あちこちの家庭で起きている問題です。そういう意味で、エッセー形式にしました。どうか、ご理
解ください。

【家族自我群からの解放】

 「家族意識」には、善玉意識と悪玉意識がある。これについては、すでにたびたび書いてき
た。

 「家族だから、みんなで助けあって生きていこう」というのが、善玉家族意識。「家族として、お
前には勝手な行動は許さない」と、家族同士をしばりあげるのを、悪玉家族意識という。

 この悪玉家族意識には、二面性がある。(ほかの家族をしばる意識)と、(自分自身がしばら
れる意識)である。

 「お前は、長男だから、家を守るべき」「お前は、息子なのだから、親のめんどうをみるべき」
と、子どもをしばりあげていく。これが(ほかの家族をしばる意識)ということになる。

 一方、子どもは子どもで、「私は長男だから、家をまもらなければならない」「息子だから、親
のめんどうをみなければならない」と、自分自身をしばりあげていく。これが、(自分自身がしば
られる意識)である。

 問題は、後者である。

 それなりに良好な親子関係ができていれば、自分で自分をしばりあげていく意識も、それなり
に、良好な親子関係をつくる上においては、プラス面に作用する。しかしひとたび、その親子関
係がくずれたとき、今度は、その意識が、その人を、大きな足かせとなって、苦しめる。

 ばあいによっては、自己否定にまで進む。

 ある男性は、実母の葬儀に出なかった。いろいろ事情はあったのだが、そのため、それ以
後、自らに、ダメ人間のレッテルを張ってしまった。

 「私は親を捨てた、失格者だ」と。

 その男性の住む地方では、そういう人のことを、「親捨て」と呼ぶ。そして一度、「親捨て」のレ
ッテルを張られると、親戚はもちろんのこと、近所の人からも、白い目で見られるようになる。

 こうした束縛性を、心理学の世界でも、「家族自我群」と呼ぶ。そうでない人、つまり良好な親
子関係にある人には、なかなか理解しにくい意識かもしれない。しかしその意識は、まさにカル
ト。家族自我群に背を向けた人は、ちょうど、それまで熱心な信者だった人が、その信仰に背
を向けたときのような心理状態になる。

 ふつうの不安状態ではない。ばあいによっては、狂乱状態になる。

 家族としての束縛性は、それほどまでに濃厚なものだということ。絶対的なものだということ。
親自身も、そして子ども自身も、代々、生まれながらにして、徹底的に、脳ミソの中枢部にたた
きこまれる。

 こうした意識を総称して、私は「親・絶対教」と呼んでいる。日本人のほとんどが、多かれ少な
かれ、この親・絶対教の信者と考えてよい。そのため、親自身が、「私は親だから、子どもたち
に大切にされるべき」と考えることもある。子どもが何かを、口答えしただけで、「何だ、親に向
かって!」と、子どもに怒鳴り散らす親もいる。

 私がいう、悪玉親意識というのが、それである。

 ずいぶんと、回り道をしたが、Nさんの両親は、こうした悪玉家族意識、そして悪玉親意識を
もっているのではないかと、思われる。わかりやすく言えば、依存型人間。精神的に未熟なま
ま、おとなになった親ということになるのかもしれない。Nさん自身も、メールの中で、こう書いて
いる。

 「(母も)、そろそろ自分の人生を生きることを選んで欲しいと、心から願っています」と。

 Nさんの母親は、いまだに子離れができず、悶々としている。そしてそれが、かえってNさんへ
の心理的負担となっているらしい。

 実際、親離れできない子どもをかかえるのも、たいへんだが、子離れできない親をかかえる
のも、たいへんである。「もう、私のことをかまわず、親は親で、自分の道を見つけて、自分で
生きてほしい」と願っている、子どもは、いくらでもいる。

【親であるという幻想】

 どこかのカルト教団では、教祖の髪の毛を煎じて飲んでいるという。その教祖のもつ霊力を、
自分のものにするためだそうだ。

 しかし、そういう例は、少なくない。考えてみれば、おかしなことだが、実は、親・絶対教にも、
似たようなところがある。

 ……という話はさておき、(というのも、すでに何度も触れてきたので)、私も、すでに56歳。
その年齢になった人間の一人として、こんなことが言える。

 「親という言葉のもつ、幻惑から、自分を解放しなさい」と。

 子どもから見ると、親は絶対的な存在かもしれない。が、その親自身は、たいしたことがない
ということ。そのことは、自分がその年齢の親になってみて、よくわかる。

 多分、20代、30代の人から見ると、56歳の私は、年配者で、それなりの経験者で、かつそ
れなりの人格者だと思うかもしれない。しかしそれは、幻想。ウソ。

 ざっと私のまわりを見ても、50歳をすぎて、40代のときより、進歩した人など、一人もいな
い。人間というのは、むしろある時期を境に、退化するものらしい。惰性で生きるうち、その範
囲の生活的な技術は身につけるかもしれない。が、知性にせよ、理性にせよ、そして道徳観に
せよ、倫理観にせよ、むしろ自ら、退化させてしまう。

 わかりやすく言えば、歳をとればとるほど、くだらない人間になる人のほうが、多いというこ
と。それはまさに健康や体力と似ている。よほどの訓練をしないと、現状維持すら、むずかし
い。

 これは現実である。まちがいのない現実である。

 しかし親に対する幻想をもつ人は、その幻想に、幻惑される。「そんなはずはない」「親だから
……」と。

 Nさんも、どうやら、そうした幻惑に苦しんでいるようである。

 だから、私は、こう言いたい。「Nさん、あなたの母親は、くだらない人です。冷静にそれを見
抜きなさい。親だからといって、遠慮することは、ない」と。

 ただ誤解しないでほしいのは、だからといって、Nさんの母親をどうこうと言っているのではな
い。親・絶対教の人にこう書くと、かえって猛烈に反発する。以前、同じようなことを書いたと
き、こう言ってきた人がいた。

 「いくら何でも、他人のあなたに私の母のことを、そこまで悪く言われる筋あいはない」と。

 私が言いたいのは、親といっても、その前に一人の人間であるということ。そういう視点から、
親を見て、自分を見たらよいということ。親であるという幻惑から、まず、自分を解放する。

 この問題を解決するためには、それが第一歩となるということ。

【親のことは、親に任せる】

 Nさんのかかえるような問題では、子どもとしてできることには、かぎりがある。私の経験で
は、親自身に、特別な学習能力があるなら話は別だが、それがないなら、いくら説得しても、ム
ダだということ。

 そもそも、それを理解できるだけの、能力的なキャパシティ(容量)がない。おまけに脳細胞そ
のものが、サビついてしまっている。ボケの始まった人も、少なくない。

 さらにたいていの親(親というより、親の世代の年配者)は、毎日を惰性で生きている。進歩
などというのは、望みようもない。

 そういう親に向かって、「あなたの人生観はまちがっている」と告げても意味はないし、仮にそ
れを親が理解したとしたら、今度は、親自身が、自己否定という地獄の苦しみを味わうことにな
る。

 つまり、そっとしておいてあげることこそ、重要。カルトを信仰している、信者だと思えばよい。
その人が、その人なりに、ハッピーなら、それはそれでよい。私たちがあえて、その家の中に、
あがりこみ、「あなたの信仰はまちがっている」などと言う必要はない。また言ってはならない。

 この世界では、そうした無配慮な行為を、「はしごをはずす行為」という。「あなたはまちがって
いる」と言うなら、それにかわる、(心のよりどころ)を用意してあげねばならない。そのよりどこ
ろを用意しないまま、はしごをはずしてはいけない。
 
 要するに、Nさん自身が、親自身に幻想をいだき、その幻惑の中で、もがいている。家族自
我群という束縛から、解放されたいと願いつつ、その束縛というクサリで体をしめつけ、苦しん
でいる。

 だから、Nさん自身が、まず、その幻想を捨てること。「どうせ、くだらない人間よ」「私が本気
で相手にしなければならない人間ではない」と。

 「親だから、こんなはずはない」と思えば思うほど、Nさん自身が、そのクサリにからまれてし
まう。私は、それを心配する。

 ある男性(50歳くらい)は、私にこう言った。

 「私の父親は、権威主義で、いつもいばっていました。『自分は、すばらしい人間だ』『私は、
みなから、尊敬されるべきだ』とです。しかし過去をあれこれさぐってみても、父が、他人のため
に何かをしたということは何もないのですね。それこそ近所の草刈り一つ、したことがない。そ
れを知ったとき、父に対する、幻想が消えました」と。

 あえて言うなら、Nさんの母親は、どこか自己愛的な女性ということになる。かわいいのは自
分だけ。そういう自分だけの世界で、生きている。批判されるのを嫌う人というのは、たいてい
自己愛者とみてよい。自己愛者の特徴の一つにもなっている。

 幼児的な自己中心性が肥大化すると、人は、自己愛の世界に溺れるようになる。Nさんのメ
ールを読んでいたとき、そんな感じがした。

【お子さんたちのこと】

 Nさんは、子どもへの影響を心配している。「子どもたちに、幸福な家庭を見せてあげたい」
と。

 心配は無用。

 Nさんの子どもたちは、Nさんの子どもたちへの愛情の中から、自分たちの進むべき道を見
つけていく。つまりそうして子どもたちの将来を心配するNさんの愛情こそが、大切ということ。

 たしかに子どもというのは、自分の置かれた環境を再現する形で、おとなになってから、子育
てをする。しかしそれは、決して、物理的な環境だけではない。

 もちろん問題がないわけではない。しかしどれも克服できる問題ばかり。現に今、Nさんは、
私にメールをくれることで、真剣に子どもたちのことを考えている。

 こういう姿勢があるかぎり、子どもたちは、必ず、自分の進むべき道を自分で見つける。

 大切なのは、「形」ではなく、「自分で納得できる人生」である。

 だから子どもたちに対する愛情だけは、見失わないように。

【改めてNさんへ……】

 以上、大急ぎで返事を書きました。あちこち何かしら言い足りないところもありますが、参考
にしていただければ、うれしいです。

 Nさんの問題をテーマにしてしまいましたが、どうか、ご了解の上、お許しください。11月10
日号を今夜配信しなければならないのですが、この数日、ほとんど原稿を書いていません。

 それで11月10日号の原稿とかねて、返事を書かせてもらいました。お許しください。

 では、今夜は、これで失礼します。未推敲のまま原稿を送ります。よろしくお願いします。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●幻惑からの脱出

 テレビ局のレポーターが、一人の少女に話しかけた。

レポーター「学校は、行っているの?」
少女「行ってない」
レ「いつから?」
少「もう、3か月になるかなア」

レ「中学生でしょう?」
少「一応ね」
レ「お父さんや、お母さんは、心配してないの?」
少「心配してないヨ〜」

 東京の、あるたまり場。まわりでは、それらしき仲間が、じっと二人の会話を聞いている。そ
の少女は、埼玉県のA市から来ているという。家出をして、すでに3か月。居場所も転々と、か
えているらしい。

レ「おうちに電話してみようかしら?」
少「ハハハ、無駄よ」
レ「無駄って?」
少「だって、さア〜」と。

 「家族」には、家族というひとつの、まとまりがある。そのまとまりは、ある種の束縛をともな
う。それを「家族自我群」という。しかしその束縛というか、それから生まれる束縛感には、相当
なものがある。

 たとえば親子という関係で考えてみよう。

 いくら親子関係がこじれたとしても、親子は親子……と、だれしも考える。そのだれしも考える
ところが、「家族自我群」というところになる。

 しかしさらにその関係がこじれてくると、親子は、その幻惑に苦しむようになる。こんな例があ
る。

 ある父親には、生活力がなかった。バクチが好きだった。そこでその父親は、生活費が必要
になると、息子の勤める会社まで行って、小遣いをせびった。息子は、東京都内でも、大企業
のエリートサラリーマンだった。父親はそこで、息子が仕事を終えて出てくるのを待っていた。

 息子は、そういう父親に苦しんだが、しかし父親は父親。そのつど、いくらかの生活費を渡し
ていた。

 多分、「お父さん、もう、かんべんしてくれよ」、「いや、今度だけだよ。すまん、すまん」というよ
うな会話をしていたのだろうと思う。もちろん、その反対の例もある。

 ある息子(30歳)は、道楽息子で、放蕩(ほうとう)息子。仕事らしい仕事もせず、遊びまわっ
ていた。いつも女性問題で、両親を困らせていた。

 そういう息子でも、息子は息子。両親は、息子にせびられるまま、小遣いを渡し、新車まで買
い与えていた。

 これらの例からもわかるように、親子であるがゆえに、それが理由で、そのどちらかが苦しむ
ことがある。「縁を切る」という言葉もあるが、その縁というのは、簡単には切れない。もちろん
親子関係も、それなりにうまくいっている間は、問題は、ない。むしろ親子であるため、絆(きず
な)も太くなる。が、そうでないときは、そうでない。ときには、人格否定、自己否定にまで進んで
しまう。

 ある地方では、一度、「親捨て」のレッテルを張られると、親戚づきあいはもちろんのこと、近
所づきあいもしてもらえないという。実際には、郷里にすら帰れなくなるという。

 反対にある男性(現在、50歳くらい)は、いろいろ事情があって、実の母親の葬儀に出ること
ができなかった。以後、その男性は、それを理由にして、ことあるごとに、「自分は人間として、
失格者だ」と、苦しんでいる。

 家族自我群から発生する幻惑というのは、それほどまでに強力なものである。

 が、親子の関係も、絶対的なものではない。切れるときには、切れる。行きつくところまで行く
と、切れる。またそこまで行かないと、親であるにせよ、子どもであるにせよ、この幻惑から、の
がれることはできない。

 冒頭の少女は、何とか、レポーターに説得されて、母親に電話をすることになった。これから
は、私が実際、テレビで聞いた会話である。そうでない親子には信じられないような会話かもし
れないが、実際には、こういう親子もいる。

少女「やあ、私よ…」
母親「何よ、今ごろ、電話なんか、してきて…」
少「だからさあ、テレビ局の人に言われて…」
母「それがどうしたのよ。あんたなんか、帰ってこなくていいからね」

 その少女の話によれば、父親は、ごくふつうのサラリーマン。家庭も、どこにでもあるような、
ごくふつうのサラリーマン家庭だという。

 そこで少女にかわって、レポーターが電話に出た。

レポーター「いろいろあったとは思うのですが、お嬢さんのこと、心配じゃありませんか?」
母親「自分で勝手に、家を出ていったんですから…」
レ「そうは言ってもですねえ、家出して3か月になるというし…。まだ中学生でしょう?」
母「それがどうかしましたか? あなたには、関係のないことでしょう。どうか、私たちのことは、
ほうっておいてください」と。

 こうした幻惑から逃れる方法は、ただひとつ。相手が親であるにせよ、子どもであるにせよ、
「どうでもなれ」と、最後の最後まで、行きつくことである。もちろんそれまでに、無数のという
か、常人には理解できない葛藤というものがある。その葛藤の結果として、行きつくところま
で、行く。またそうしないと、親子の縁は切れない。

 「もう、親なんて、クソ食らえ。のたれ死んでも知るものか」「娘なんて、クソ食らえ。どこかで殺
人事件に巻きこまれても知るものか」と、そこまで行く。行かないと、この幻惑から逃れることは
できない。

 が、問題は、そこまで行かないで、その幻惑の中で、悶々と苦しんでいる人が多いというこ
と。たいへん多い。ある女性は、見るに見かねて、自分の母親のめんどうをみている。母親
は、今年、80歳を超えた。

 その女性が、こう言った。

 「近所の人に、あなたは親孝行な方ですねと言われるくらい、つらいことはない。私は、何も、
親孝行をしたくて、しているのではない。ただ見るにみかねて、そうしているだけ。本当は、あん
な母親は、早く死んでしまえばいいと、いつも思っている。だから親孝行だなんてほめられる
と、かえって、みんなに、請求されているみたいで、不愉快」と。

 あなたは、この女性の気持ちが理解できるだろうか。もしできるなら、親子の問題に、かなり
深い理解力のある人と考えてよい。

 もしあなたが今、相手が親であるにせよ、子どもであるにせよ、ここでいう幻惑に苦しんでい
るなら、方法はただひとつ。徹底的に行きつくところまで行く。そしてそのあとは割り切って、つ
きあう。それしかない。

 この家族自我群による幻惑には、そういう問題が含まれる。

 で、ここまで話したら、ワイフがこう言った。

 「夫婦の間にも、同じような幻惑があるのではないかしら?」と。つまり夫婦でも、同じような幻
惑に苦しむことがあるのではないか、と。

 いくら夫婦げんかをしても、どこかで相手のことを心配する。もし心配しなければ、そそのと
き、夫婦関係は終わる。そのまま離婚ということになる、と。

ワイフ「夫婦のばあいは、最終的には、別れることができるからね。でも、親子ではそれができ
ないでしょう。少なくとも、簡単にはできないわ。だから、よけいに、苦しむのね」と。
私「ぼくも、そう思う。つまりそれくらい、家族自我群による幻惑は、強力なものだよ」と。

 幻惑……今も、多くの人が、家族という(しがらみ)(重圧感)の中で苦しんでいる。しかしそれ
は、どこか東洋的。どこか日本的。

 あなたという親が幻惑に苦しむのは、しかたないとしても、あなたの子どもは、この幻惑から
解放してやらねばならない。具体的には、子どもが、親離れを始める時期には、親自身が、子
どもに親離れができるように、仕向けてあげる。

 こうすることによって、将来、子どもが、その幻惑に苦しむのを防ぐ。まちがっても、ベタベタ
の親子関係で、子どもをしばってはいけない。親孝行を子どもに求めたり、それを強要しては
いけない。いつか子ども自身が自分で考えて、親孝行をするというのであれば、それは子ども
の問題。子どもの勝手。

 世界的にみても、日本人ほど、親子の癒着度が高い民族はそうはいない。それがよい面に
作用することもあるが、そうでないことも多い。それが本来あるべき、(人間)の姿かというと、
そうではないのではないか。議論もあるだろうと思うが、ここで、一度、家族自我群というものが
どういうものか、考えてみることは、決して無駄なことではないように思う。

 先の少女について、ワイフはこう言った。「実の娘でも、そこまで言い切る母親がいるのね。
何があったのかしら?」と。

【付記】

 心理学の世界でも、「幻惑」という言葉を使う。家族という、強力な束縛感から生まれる、重圧
感をいう。

 この重圧感は、ここにも書いたが、それで苦しんでいる人にとっては、相当なものである。

 ある女性(35歳)は、その夜、たまたま事情があって、家に帰っていた。その間に、父親が、
息を引き取ってしまった。「その夜だけ、5歳になる娘のことが心配で、家に帰ったのですが…
…」と。

 そのことを、義理の父親が、はげしく責めた。「父親の死に目にも立ち会えなかったお前は、
人間として、失格者だ」「娘なら、寝ずの看病をするのが、当然だ」と。

 以来、その女性は、ずっと、そのことで悩んでいる。苦しんでいる。そう言われたことで、心に
大きなキズを負った。

しかし、だ。その義理の父親氏は、そういう言い方をしながら、「自分のときは、そういうことを
するな」と言いたかったのだ。家族自我群をうまく利用して、子どもをしばりつける人が、よく用
いる話法である。自分の保身のために、である。だから私は、その女性にこう言った。

 「そんな老人の言うことなど、気にしないこと。私があなたの父親なら、こう言いますよ。『ま
た、あの世で会おうね。ゆっくり、おいで』と」と。

 この自我群は、親・絶対教の基本意識にもなっている。つまり、カルト。それだけに、扱い方
がむずかしい。ひとつまちがえると、こちらのほうが、はじき飛ばされてしまう。だから、適当
に、妥協するところはして、そういう人たちとつきあうしかない。そういう人たちに抵抗しても、意
味はないし、この問題は、もともと、あなたや私の手に負えるような問題ではない。

 ただつぎの世代の人たちは、この家族自我群でしばってはいけない。少なくとも、子どもが、
いつか、自我群で苦しむような下地を、つくってはいけない。

 いつか、あなたの子どもが巣立つとき、あなたは、こう言う。

 「たった一度しかない人生だから、思う存分、この広い世界を、はばたいてみなさい。親孝
行? くだらないことは考えなくていいから、前だけを見て、まっすぐ、進みなさい。家の心配?
 バカなことは考えなくていいから、お前たちは、お前たちの人生を生きていきなさい」と。

 こうして子どもの背中をたたいてあげてこそ、親は、親としての義務を果たしたことになる。

 親としては、どこかさみしいかもしれないが、そのさみしさにじっと耐えるのが、親の愛というも
のではないだろうか。

【付記2】

 家族自我群から生まれる幻惑を、うまく使って、親としての保身をはかる人は多い。このタイ
プの親は、独特の言い方をする。

 わざと息子や娘の聞こえるようなところで、ほかの親孝行の息子や娘を、ほめるのも、それ。
「Aさんとこの息子は、偉いものだ。親に、今度、離れを新築してやったそうな」とか。

 さらにそれがすすむと、親の恩を着せる。「産んでやった」「育ててやった」「大学まで、出して
やった」と。「だから、ちゃんと、恩をかえせ」と。あるいは生活や子育てで苦労している姿を、
「親のうしろ姿」というが、わざと、それを子どもに見せつける親もいる。

 が、それだけではない。最近、聞いた話に、こんなのがあった。

 一人の娘(50歳くらい)に、その母親(75歳くらい)が、こう言ったという。「○夫(その母親の
長男)に、バチが当たらなければいいがね」と。

 その長男は、最近、盆や暮れに、帰ってこなくなった。それをその母親は、「バチが当たらな
ければいい」と。つまりそういういい方をして、息子を、責めた。

息子にバチが当たりそうだったら、だまってそれを回避してやるのが親ではないのか……とい
うようなことを言っても、ヤボなこと。もっとストレートに、息子に向って、「(私という)親の悪口を
言うヤツは、地獄へ落ちるぞ」と、脅した母親もいる。

 中には、さらに、実の娘に、こう言った母親ですら、いた。この話は、ホントだぞ!

 「(私という)親をそまつにしやがって。私が死んだら、墓場で、あんたが、不幸になるのを楽し
みに見ていてやる!」と。

 もちろん大半の親子は、心豊かな親子関係を築いている。ここに書いたような親子は、例外
とまではいかないが、少数派にすぎない。が、そういう親子がいると知るだけでも、他山の石と
なる。あなた自身が、よりよい親子関係を築くことができる。

 それにしても、世の中には、いろいろな親がいる。ホント!

【付記3】

 毎日、たくさんの方から、メールや相談をもらう。そしてその中には、子育てというより、家族
の問題についてのも、多い。

 そういう人たちのメールを読んでいると、「家族って、何だ?」と考えてしまうこともある。「家
族」という関係が、かえってその人を苦しめることだって、ある。

 東京都のM区に住んでいるH氏(50歳くらい)は、こう書いてきた。

 「父親の葬式が終わったときは、心底、ほっとしました。もう葬式は、こりごりです。息子がい
ますが、息子には、そんな思いをさせたくありません」と。

 H氏は、葬式を問題にしていた。しかし本音は、「父親が死んでくれて、ほっとした」ということ
か。何があったのかは、わからない。しかしそういうケースもある。

 私たちは、子であると同時に、親である。その親という立場に、決して甘えてはいけない。親
は親として、自分の生きザマを確立していかねばならない。つまり親であるということは、それく
らい、きびしいことである。それを忘れてはいけない。




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●ホスピタリズム

 生後直後から、親(とくに母親)の手を離れ、施設(乳児院、孤児院、養護施設、保育所)など
に預けられた子どもに、独特の特徴が見られることがある。そうした特徴を、総称して、「ホス
ピタリズム」という。

 ホスピタリズムの特徴としては、おおきく分けて、つぎの10項目あるとされる(渋谷昌三「心
理学用語がわかる本」かんき出版より)。

(1)身体発育の不良
(2)知能の発育の遅れ
(3)情緒発達の遅滞と情緒不安定
(4)社会的発達の遅滞
(5)神経症的傾向(指しゃぶり、爪かみ、夜尿、遺尿、夜泣き、かんしゃくなど)
(6)睡眠不良
(7)協調性の欠如
(8)自発性の欠如と依存性
(9)攻撃的傾向
(10)逃避的傾向

 要するに、新生児、乳幼児には、母親の濃密な愛情と世話が必要ということ。いろいろ事情
が許さないときもあるだろうが、できるだけ、子どもは、母親が、自分の手で育てたほうがよ
い。その期間は、WHOも提言しているように、最低でも、満2歳までが、よい。

 このホスピタリズムは、この世界では常識的な常識だが、そういうホスピタリズムという十字
架というか、心の深いキズを負った子ども自身は、どうなるのか。またどうすればよいのかとい
う問題がある。

【N君、12歳の例】

 N君が、生まれたとき、すでに両親の関係は冷え切っていた。かろうじて家族のワクだけが残
っているような状態だった。

 そのほかにもいろいろ事情があって、N君は、生後直後から、祖父母に預けられた。しかし
祖父母は、ほとんど毎日、24時間、近くの保育所へ、N君を預けた。祖父母にも、孫の世話を
みるだけの、財力も、生活力もなかった。

 N君のそんな生活は、N君が、4、5歳になるまでつづいた。そのころN君の両親は、離婚。N
君は、父親のほうに引き取られた。

 そのN君に私が感じた最初の印象は、(1)表情がなかったということ。N君が6歳のときのこ
とだった。無表情というか、能面のようですら、あった。ツルッとした顔立ちをしていたが、目と
口以外は、ほとんど動かさなかった。

 そのN君に、こんなことがあった。

 あるとき、N君が、みんなで絵を描くとき、隣の子どものクレヨンを、わざと、下へ落して、散ら
かしてしまった。そこで私が、N君を立たせ、強く叱った。N君は、だまって、私の小言を聞いて
いた。

 が、そのときのこと。ふと気がつくと、何と、そのN君が、表情をまったく変えないまま、涙をこ
ぼしているではないか。スーッと細い涙が、頬を伝って落ちていた。私は、それを見て、驚い
た。父親から、N君の不幸な生い立ちを聞いたのは、そのあとのことだった。

 N君のことで、つぎに気になったのは、(2)幼稚性の持続と、(3)自己管理力のなさであっ
た。

 6歳児らしい子どもらしさが、なかった。どこかコセコセしていた。幼児ぽいというより、幼稚な
感じがした。年齢に換算することはできないが、その年齢にふさわしい、人格の完成が見られ
なかった。

 またこんなこともあった。何かの教材の入った箱を渡したときのこと。N君は、それを受け取
ると、バリバリと箱を破って、中身のものを、取り出してしまった。私はその前に何度も、「箱
は、まだあけてはいけません」と、注意したのだが……。
 
 私の印象では、ホスピタリズムといっても、その子どもの置かれた環境などにより、症状にも
個人差があるということ。また親の育児拒否、冷淡、無視といっても、程度の問題もある。さら
に、そのあとの不幸な家庭環境が、さまざまな影響を、子どもに与えることもある。

 ここにあげた10項目は、あくまでも一つの目安でしかない。

 で、そのN君だが、そのときさまざまな、心身症、神経症による症状を示した。お決まりの、チ
ックや吃音(どもり)など。何かにつけて、極度の不安状態になることもあった。強く叱られると、
オドオドしたり、反対に、やさしくされると、赤ちゃんのような声を出して、その人に甘えたりし
た。わざと同情を求めるような、しぐさも、よくした。

 一見、静かで、あつかいやすく見えたが、根気がつづかず、好奇心も弱かった。あきっぽく、
それでいて、短気だった。

 そうしたN君だったが、本当の問題は、父親にあった。無理解と、無頓着。その前に、問題の
本質を知るだけの、知力をもちあわせていなかった。

 たとえばN君は、ウソをよくついた。そのウソに対して、父親は、いつも大声を出して、怒鳴っ
ていた。ときに、手も出した。そのためN君は、父親の前で、ますます萎縮した。

 現在、そのN君は、30歳になるという。人づてに聞いた話によると、家業のxx屋で、店番をし
ているという。店番といっても、ただ座っているだけ。父親に言われるまま、言われることしか、
できないという。

 N君の例を見るまでもなく、心に大きなキズをもった子どもは、不幸である。自分で自分をコ
ントロールする力さえもっていない。その前に、自分の姿を客観的にとらえる力さえもっていな
い。心のキズをもちながら、そのキズが何であるかさえわからない。

 キズに操られるまま、それが自分と思いこんでいるだけ。N君について言うなら、恐らくという
より、ほぼまちがいなく、その状態は、死ぬまでつづく。

 が、こうした問題は、決して、N君だけの問題ではない。私たちも、どの人も例外なく、何らか
の心のキズを負っている。

 ただ程度の差はある。またキズの深さも、人それぞれちがう。しかしそのキズに気づくことが
ないまま、日々の生活の中で、それに振りまわされている人は、多い。そういう自分の中にあっ
て、自分を裏からコントロールする部分を、私は、(私であって、私でない部分)と呼んでいる。

 が、さらに問題はつづく……。

 こうした(私であって、私でない部分)は、そのまま子育ての世界に、反映される。言うまでも
なく、子育ては、本能ではなく、学習によってできるようになる。つまりほとんどの人は、自分の
意思と思想によって子育てをしていると思っている。しかし実際には、自分が受けた子育てを、
繰りかえしているにすぎない。もっとはっきり言えば、ほとんどの人は、ほとんどのばあい、(私
であって、私でない部分)に操られながら、子育てをしている。

 で、その(私であって、私でない部分)が、それなりに好ましいものであれば、それでよい。し
かし好ましくない部分もある。それが自分の子育てに、大きな影響を与える。

 あなたの中の、あなたであってあなたでない部分の中に、このホスピタリズムがないかどう
か、一度、あなたの心の中をさぐってみるとよい。
(041012)
(はやし浩司 ホスピタリズム 施設児 特徴)




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●親子関係

●子どもに盲従する親

 品川不二郎という研究家が、親子関係を、つぎの10のパターンに分類した。

(1)消極的拒否(放任)型
(2)積極的拒否(虐待)型
(3)厳格型
(4)期待型
(5)干渉型
(6)不安型
(7)でき愛型
(8)盲従型
(9)矛盾型
(10)不一致型

 もちろん、これらの複合型というのもある。厳格な親でありながら、その一方で、あれこれ過
度に子どもに干渉するなど。

 が、この中でも、私は、とくに、(8)の盲従型に興味をもった。親子の関係が逆転し、親のほ
うが、子どもに盲従するタイプである。今、このタイプの親子関係の人が、多い。実感としては、
ふえているように思う。

 もちろん程度の差もあるのだろうが、もし、つぎの項目に、いくつか当てはまるようであれば、
あなたは盲従型の親と判断してよい。

(  )子どもの機嫌をそこねたくないと思うことが多い。
(  )子どもに嫌われたくない。できれば、好かれたいと願っている。
(  )親として、いつも何らかの形で、優越性を示したいと思っている。
(  )子どもがほしいと言ったものは、できるだけそろえてあげている。
(  )何か言うと、反対に叱られそうで、こわい。だから何も言えない。
(  )子どもに、いつも遠慮しながら生活しているようなところがある。

 私の知りあいにも、あきらかに、この盲従型の母親がいる。その母親が、私にこう言った。

 「あまりき子どもにきびしくすると、こういう時代ですから、子どもが何をするかわかりませんの
で……」と。

 図式的には、(親の子どもへの依存性)が姿を変えて、(子どもに甘くなる)。その(甘さ)が、
長い時間をかけて、積もりに積もって、親は子どもに対して、服従的になる。

 そのため、自分が服従型の親だと気づいても、それを改めるのは、たいへんむずかしい。生
活のすべてのリズムが、そうなっているからである。さらに、それがすでに、母親や子どもの人
生観になっていることもある。

 では、どうすればよいか。

 皮肉なことに、子どもに嫌われまいとすればするほど、親は、子どもに嫌われる。親の心にス
キができるからである。

 一方、「嫌いたければ、どうぞ」「私は、お前に嫌われても、一向にかまわない」と、堂々として
いる親のほうが、子どもに尊敬される。好かれる。

 そのために、親は、子どもの前では、一貫性をもたねばならない。よくても悪くても、この一貫
性があれば、子どもはやがて、親の考え方に、自分を合わせるようになる。が、子どもの機嫌
をとる親には、この一貫性がない。子どもに嫌われることを恐れるあまり、そのつど、子どもの
言いなりになってしまう。子どもは、こうした親の心のスキをつく。

 だから結論を先に言えば、子どもに盲従する親からは、まともな子どもは、生まれない。よく
てドラ息子、ドラ娘。やがて手がつけられなくなる。

 その「一貫性」について、以前、こんな原稿を書いた。

++++++++++++++++
 
●一貫性

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外ではな
い。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、反対
にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような調子で、答え
てあげること。

こうした一貫性をとおして、子どもは、あなたと安定的な人間関係を結ぶことができる。その安
定的な人間関係が、ここでいう信頼関係の基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基本的
信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの三つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。これ
を第一世界という。園や学校での世界。これを第二世界という。そしてそれ以外の、友だちとの
世界。これを第三世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第二世界、つづいて第三世界へと、応用していくこ
とができる。しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第二世界、第三世界での
信頼関係を築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の基
本となる。だから「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親側の情
緒不安。親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなばあい、子ども
は、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、人間関係になる。こ
れを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分野で
現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ねたみ症状な
どは、こうした基本的不信関係から生まれる。第二世界、第三世界においても、良好な人間関
係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れる。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安心して」
というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分をさらけ出しても、気に
しない」環境をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役目ということにな
る。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよい。

●「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
●子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じように接す
る。
●きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くなるというの
は、避ける。

++++++++++++++++++

 しかし、親は決して、盲従したくて、子どもに盲従しているのではない。最初は、ほんの少しだ
け、方向性が狂うだけ。ほんの少しだ。

 それが長い年月を経て、気がついてみたら、子どもに盲従していたということになる。

 だからこの問題は、つまり、子どもへの盲従を避けようと考えるなら、できるだけ早い段階
で、それに気づき、方向転換することだ。

 ほとんどのばあい、親自身の、子どもへの依存心が背景にあると考えてよい。「老後のめん
どうは、子どもにみてもらわねばならない」「子どもに生活のめんどうをみてもらいたい」という
思いが、そのまま親の弱みになる。子どもは、その弱みを、逆手にとって、親に命令したりする
ようになる。

 15年ほど前だが、忘れ物をしたとき、電話で、親に、「さっさともってこい!」と命令していた
中学女子がいた。そうなる。
(はやし浩司 盲従する親 盲従 本末転倒 一貫性 子育ての一貫性)





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●役割混乱

 子どもは、成長するとともに、自分らしさを、つくりあげていく。

 わかりやすい例としては、「男の子らしさ」「女の子らしさ」がある。

 服装、ものの考え方、言い方など。つまりこうして自分のまわりに、男の子としての役割、女
の子としての役割を形成していく。これを「役割形成」という。
 
 こうした「役割」を感じたら、その役割にそって、親は、子どもを伸ばしていく。これが子どもを
伸ばすコツということになる。

 子どもが「お花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「あら、そうね。すてきな仕事ね」と。
ついで、「じゃあ、今度、お庭をお花でいっぱいにしようね」などと言ってやるのがよい。

 こうして子どもは、身のまわりに、「お花屋さんらしさ」をつくっていく。自然と、植物に関する本
がふえていったりする。

 しかしこの役割が、混乱することがある。

 私のばあいだが、私は、高校2年の終わりまで、ずっと、継続的に、大工になるのが夢だっ
た。それがやがて、工学部志望となり、建築学科志望となった。しかし高校3年になるとき、担
任に、強引に、文学部コースへと、変えられてしまった。当時は、そういう時代だった。

 ここで私は、たいへんな混乱状態になってしまった。工学部から、文学部への大転身であ
る!

 当時の、つまり高校3年生当時の写真を見ると、私は、どの顔も、暗く沈んでいる。心理状態
も最悪だった。もし神様がいて、「お前を、若いころにもどしてやる」と言っても、私は、あの高
校3年生だけは、断る。私にとっては、それくらい、いやな時代だった。

 この役割混乱について、ある講演会で、話をさせてもらった。それについて、そのあと、ある
一人の男性が、こう聞いた。「役割混乱って、どういう心理状態でしょうかね?」と。

 私は、とっさの思いつきで、こう答えた。

 「いやな男性と、いやいや結婚して、毎日、その男性と、肌をこすりあわせているような心理
状態でしょうね」と。

 そう答えたあと、たいへん的をえた説明だと、自分では、そう思った。

 もしあなたなら、そういう結婚をしたら、どう思うだろうか。それでも、そういう状態を克服して、
何とか相手とうまくやっていこうと思うだろうか。それとも……。

役割混乱というのは、そういう状態をいう。決して、軽く考えてはいけない。

 ただし一言。よく「有名大学へ……」「有名高校へ……」と、子どもを追い立てている親がい
る。

 しかし有名大学や有名高校へ子どもを入れたからといって、その子どもの役割が確立するわ
けではない。

 もう10年ほど前だろうか、こんなことがあった。

 2人の女子高校生が、私の家に遊びに来て、こう言った。

 「先生、私たち今度、SS大学に行くことになりました」と。

 関東地方では、かなり有名な大学である。そこで私が、「いいところへ入るね。で、学部は…
…?」と聞くと、すこしためらった様子で、「国際カンケイ学部……」と。

 そこでさらに、「何、その国際カンケイ学部って? 何を勉強するの?」と聞くと、二人とも、
「私たちにも、わかんない……」と。

 大学へ入っても、何を勉強するか、わからないというのだ!

 しかしその姿は、私自身の姿でもあった。私は高校を卒業すると、K大学の法学部(法学科)
に入った。しかしそこで役割混乱が収まったわけではない。そのあと、大学を卒業したあと、商
社へ入社したときも、役割混乱は、そのままだった。

 まさに(いやな女房と、いやいや結婚したような状態)だった。

 つまり(本当に私が進みたいコース)と、(現実に進みつつあるコース)の間には、大きなへだ
たりがあった。このへだたりが、私の精神状態を、かなり不安定にした。やがて、私は、幼稚園
で、自分の生きる道をみつけたが、その道とて、決して、楽な道ではなかった。

 ……ということで、子どもの役割形成と、役割混乱を、決して、安易に考えてはいけない。私
自身が、その恐ろしさを、いやというほど、経験している。

【追記】

 それまでキャリアを生かして仕事をしていた女性が、結婚と同時に、その仕事をやめ、家庭
に入る。いくら納得した結婚であっても、そのときその女性が受ける、挫折感というか、中断感
というのは、相当なものである。

 今、家庭に入り、それなりに幸福そうに見える女性でも、不完全燃焼のまま、悶々としている
女性は、多い。

 こうした女性も、ある意味で、役割混乱を起こしているのではないか。あるいはその心理状態
に近いのではないか。今、ふと、そう思った。
(はやし浩司 役割混乱 役割形成)





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●自意識過剰vs自己概念

●自意識過剰
 
 自意識が過剰の人は、少なくない。

 だれも注目など、していないのに、自分では注目されていると思いこんでしまう。みなが、自
分に関心をもち、自分のことを気にしていると、思いこんでしまう。

 このタイプの人は、もともと人間関係がうまく調整できない人とみてよい。自分を、すなおにさ
らけ出すことができない。だからますます、自意識だけが、過剰になっていく。

 この自意識は、悪玉なのか。それとも善玉なのか。昔からよく議論されるところである。しかし
自意識がまったくないのも、困る。しかし過剰なのも、困る。ほどほどの自意識が、好ましいと
いうことになる。

 自意識のおかげで、私たちは、自分をコントロールすることを学ぶ。「他人の中の自分」を意
識することができる。しかし度を超すと、今度は、かぎりなく自分だけの世界に入ってしまう。

 そこでその自意識が過剰な人を分析してみると、その人の幼稚な自己中心性と関係している
のが、わかる。

 「私は私」と考える原点にあるのが、自意識ということになる。しかし「私は私。だから私は絶
対」と考えるのは、自己中心性の表れということになる。その自己中心性がさらに肥大化し、そ
の返す刀で、他人の価値を認めなくなってしまうと、自己愛へと発展する。

 自分は完ぺきと思うところから、完ぺき主義に陥ることもある。そしてそれが転じて、自意識
過剰となる(?)。自己愛の特徴の一つに、この完ぺき主義が、よく取りあげられる。

 むずかしい話はさておき、自意識が過剰になると、社会生活(学校生活)に支障をきたすよう
になる。こんなことがあった。

 A君(小5)を何かのことでほめたときのこと。突然、そのうしろにすわっていたB君が混乱状
態になり、「ぼくだって、できているのに!」と言って、怒り出してしまった。B君の顔は、どこか
ひきつっていた。

 そのときは、ただ単なるねたみか、誤解かと思った。B君は、何かにつけて目だちたりがり屋
で、かつ、そうでないと、すぐ不機嫌になるタイプの子どもだった。

 そこで自己診断。

 つぎのような項目に、いくつか当てはまれば、自意識過剰な人(子ども)とみてよい。

(  )いつも自分は目立った存在でありたいと思う。またそのように振る舞う。
(  )自分をだれかが軽く扱ったり、軽く見たりすると、バカにされたと思う。
(  )意見などを求められたとき、すばらしい意見を言わなくてはと、かえって
    何も言えなくなる。自分で何を言っているかわからなくなってしまう。
(  )いつも世間が、自分の注目しているように思う。自分は、そうした世間
    の期待に答える義務がある。
(  )私の価値は、私が一番よく知っている。それを認めない世間のほうが、
    まちがっている。
(  )自分が絶対正しいと思うことが多い。みなは、自分に従うべきと思う。
(  )他人がほめられたり、他人の作品が賞賛されたりするのを見ると、自分
    のほうが、すぐれているとか、自分ならもっとうまくできると思うこと
    がある。

 ほかにもいろいろ考えられるが、自意識過剰な人は、それだけ精神の発達度が、低い人と
みてよい。

 反対に精神の発達度が高い人ほど、他人の喜びや悲しみを、すなおに受けいれることがで
きる(共鳴性)。たとえばAさんが、「Bさんって、ステキな人ね」とあなたに話しかけたとする。

 その瞬間、自意識の過剰な人ほど、「私のほうが……」という反発心を覚えやすい。「そうね」
と言う前に、それを否定するような発言をする。「でもねえ……」と。だから結果的に、自意識の
過剰な人は、他人から嫌われるようになる。だからますます、他人から孤立することになる。あ
とは、この悪循環。

 自意識も、ほどほどに……ということになる。
(はやし浩司 自意識 自意識過剰)


●自己概念

 「自分は、人にどう思われているか」「他人から見たら、自分は、どう見えるか」「どんな人間に
思われているか」。そういった自分自身の輪郭(りんかく)が、自己概念ということになる。

 この自己概念は、正確であればあるほどよい。

 しかし人間というのは、身勝手なもの。自分では、自分のよい面しか、見ようとしない。悪い面
については、目を閉じる。あるいは人のせいにする。

 一方、他人というのは、その人の悪い面を見ながら、その人を判断する。そのため(自分が
そうであると思っている)姿と、(他人がそうであると思っている)姿とは、大きくズレる。

 こんなことがあった。

 ワイフの父親(私の義父)の法事でのこと。ワイフの兄弟たちが、私にこう言った。

 「浩司(私)さん、晃子(私のワイフ)だから、あんたの妻が務まったのよ」と。

 つまり私のワイフのような、辛抱(しんぼう)強い女性だったから、私のような短気な夫の妻と
して、いることができた。ほかの女性だったら、とっくの昔に離婚していた、と。

 事実、その通りだから、反論のしようがない。

 で、そのあとのこと。私はすかさず、こう言った。「どんな女性でも、ぼくの妻になれば、すばら
しい女性になりますよ」と。

 ここで自己概念という言葉が、出てくる。

 私は、私のことを「すばらしい男性」と思っている。(当然だ!)だから「私のそばにいれば、ど
んな女性でも、すばらしい女性になる」と。そういう思いで、そう言った。

 しかしワイフの兄弟たちは、そうではなかった。私のそばで苦労をしているワイフの姿しか、
知らない。だから「苦労をさせられたから、すばらしい女性になった」と。だから、笑った。そして
その意識の違いがわかったから、私も笑った。

 みんないい人たちだ。だからみんな、大声で、笑った。

 ……という話からもわかるように、自己概念ほど、いいかげんなものはない。そこで、私たち
はいつも、その自己概念を、他人の目の中で、修正しなければならない。「他人の目を気にせ
よ」というのではない。「他人から見たら、自分はどう見えるか」、それをいつも正確にとらえて
いく必要があるということ。

 その自己概念が、狂えば狂うほど、その人は、他人の世界から、遊離してしまう。

 その遊離する原因としては、つぎのようなものがある。

(1)自己過大評価……だれかに親切にしてやったとすると、それを過大に評価する。
(2)責任転嫁……失敗したりすると、自分の責任というよりは、他人のせいにする。
(3)自己盲目化……自分の欠点には、目を閉じる。自分のよい面だけを見ようとする。
(4)自己孤立化……居心地のよい世界だけで住もうとする。そのため孤立化しやすい。
(5)脳の老化……他者に対する関心度や繊細度が弱くなってくる。ボケも含まれる。

 しかしこの自己概念を正確にもつ方法がある。それは他人の心の中に一度、自分を置き、そ
の他人の目を通して、自分の姿を見るという方法である。

 たとえばある人と対峙してすわったようなとき、その人の心の中に一度、自分を置いてみる。
そして「今、どんなふうに見えるだろうか」と、頭の中で想像してみる。意外と簡単なので、少し
訓練すれば、だれにでもできるようになる。

 もちろん家庭という場でも、この自己概念は、たいへん重要である。

 あなたは夫(妻)から見て、どんな妻(夫)だろうか。さらに、あなたは、子どもから見て、どん
な母親(父親)だろうか。それを正確に知るのは、夫婦断絶、親子断絶を防ぐためにも、重要な
ことである。

 ひょっとしたら、あなたは「よき妻(夫)であり、よき母親(父親)である」と、思いこんでいるだけ
かもしれない。どうか、ご注意!
(はやし浩司 自己概念)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
●自分を知る

 自分の中には、(自分で知っている部分)と、(自分では気がつかない部分)がある。

 同じように、自分の中には、(他人が知っている部分)と、(他人が知らない部分)がある。

 この中で、(自分でも気がつかない部分)と、(他人が知らない部分)が、「自分の盲点」という
ことになる(「ジョー・ハリー・ウインドウ」理論)。

 (他人が知っていて、自分では知らない部分)については、その他人と親しくなることによっ
て、知ることができる。そのため、つまり自分をより深く知るためには、いろいろな人と、広く交
際するのがよい。その人が、いろいろ教えてくれる。※)

 問題は、ここでいう(盲点)である。

 しかし広く心理学の世界では、自分をよりよく知れば知るほど、この(盲点)は、小さくなると考
えられている。言いかえると、人格の完成度の高い人ほど、この(盲点)が小さいということにな
る。(必ずしも、そうとは言えない面があるかもしれないが……。)

 このことは、そのまま、子どもの能力についても言える。

 幼児をもつほとんどの親は、「子どもは、その環境の中で、ふさわしい教育を受ければ、みん
な、勉強ができるようになる」と考えている。

 しかし、はっきり言おう。子どもの能力は、決して、平等ではない。中に平等論を説く人もいる
が、それは、「いろいろな分野で、さまざまな能力について、平等」という意味である。

 が、こと学習的な能力ということになると、決して、平等ではない。

 その(差)は、学年を追うごとに、顕著になってくる。ほとんど何も教えなくても、こちらが教え
たいことを、スイスイと理解していく子どももいれば、何度教えても、ザルで水をすくうような感じ
の子どももいる。

 そういう子どもの能力について、(子ども自身が知らない部分)と、(親自身が気がついていな
い部分)が、ここでいう(盲点)ということになる。

 子どもの学習能力が、ふつうの子どもよりも劣っているいるということを、親自身が気がつい
ていれば、まだ教え方もある。指導のし方もある。しかし、親自身がそれに気がついていないと
きは、指導のし方そのものが、ない。

 親は、「やればできるはず」「うちの子は、まだ伸びるはず」と、子どもをせきたてる。そして私
に向っては、「もっとしぼってほしい」「もっとやらせてほしい」と迫る。そして子どもが逆立ちして
もできないような難解なワークブックを子どもに与え、「しなさい!」と言う。私に向っては、「でき
るようにしてほしい」と言う。

 こうした無理が、ますます子どもを勉強から、遠ざける。もちろん成績は、ますますさがる。

 言いかえると、賢い親ほど、その(盲点)が小さく、そうでない親ほど、その(盲点)が大きいと
いうことになる。そして(盲点)が大きければ大きいほど、家庭教育が、ちぐはぐになりやすいと
いうことになる。子育てで失敗しやすいということになる。

 自分のことを正しく知るのも難しいが、自分の子どものことを正しく知るのは、さらにむずかし
い。……というようなことを考えながら、あなたの子どもを、一度、見つめなおしてみてはどうだ
ろうか。

(注※)
 (自分では気がつかない部分)で、(他人が知っている部分)については、その人と親しくなる
ことで、それを知ることができる。

 そこで登場するのが、「自己開示」。わかりやすく言えば、「心を開く」ということ。もっと言え
ば、「自分をさらけ出す」ということ。しかし実際には、これはむずかしい。それができる人は、
ごく自然な形で、それができる。そうでない人は、そうでない。

 が、とりあえず(失礼!)は、あなたの夫(妻)、もしくは、子どもに対して、それをしてみる。コ
ツは、何を言われても、それを聞くだけの寛容の精神をもつこと。批判されるたびに、カリカリし
ていたのでは、相手も、それについて、話せなくなる。

 一般論として、自己愛者ほど、自己中心性が強く、他人の批判を受けいれない。批判された
だけで、狂乱状態になることが多い。

 
●結婚式に、350万円プラス150万円!

 知人の息子が結婚式をあげた。市内のホテルであげた。費用は、350万円プラス150万
円!

 これでも安いほうだそうだ。

 知人いわく、「最初、350万円と聞いていたので、その範囲ですむかと思ったていたら、それ
は基本料金。テーブルクロス一つにしても、ピンからキリまであり、値段も、みな、ちがってい
た。追加料金で、150万円も取られた」と。「あんなのサギだ」とも。

 日本のみなさん、こんなバカげた風習は、もうやめよう! みんなで、1、2の3でやめれば、
それですむ。

 あんな結婚式に、どれほどの意味があるというのか。意味だけでは、ない。まったくのムダづ
かい! 新郎新婦のほうは、祝儀でその費用をまかなえると思っているかもしれないが、世間
に甘えるのも、ほどほどにしたらよい。

 大切なのは、2人だ。中身だ。

 ……というのは、少し過激な意見かもしれない。しかしもう少し、おとなになれば、こうした結
婚式が、いかにつまらないものか、わかるはず。聖書すら読んだこともない2人が、にわかクリ
スチャンになりすまし、張りぼての教会で、ニセの祭儀をあげる。もちろん牧師もニセモノ。

 ワイフは、こう言った。「狭くても、みすぼらしくても、自分の家で、質素に、本当に岩ってくれる
人だけが集まって、結婚式をすればいい」と。

 私もそう思う。日本人独特の、「家」意識。それに見栄、メンツ、世間体が融合して、今に見
る、日本歌型結婚式の「形」ができた。もし、それでもハデな結婚式をしたいというのなら、自分
たちで稼いで、自分たちですればよい。

 どこまで親のスネをかじったら、気がすむのだ!

 知人の息子の結婚式の話をしながら、さらにワイフは、こう言った。「今では、祝儀も、3万円
から5万円。夫婦で出席すれば、その倍よ。みんな、そんなお金、出せないわよ」と。

 ……と、書いたが、これはあくまでも、参考意見。かく言いながらも、私は、今まで、数え切れ
ないほどの結婚式に、出席してきた。それに私の息子たちはともかくも、相手の女性の両親
が、「そういう結婚式をしたい」と言えば、それに従わざるをえない。へんにがんばっても、角が
立つ。

 妥協するところは妥協しながら、あまり深く考えないで、ナーナーですますのも、処世術の一
つかもしれない。ハハハ。(ここは、笑ってごまかす。)


●さらば、もう一人の『私』

 自意識が過剰すぎると、(本当の自分)と、(そうでありたいと願う、理想の自分)が、遊離し始
める。そのときどきにおいて、別々の自分に苦しむ。

 そこで自意識過剰ぎみの人の多くは、自分の中の、二重人格性に苦しむことが多い。ときど
き、「本当の自分はどちらなのか」、それが、わからなくなる。

 実は、私がそうだった。

 私も、自分の中の二重人格性に苦しんだ。苦しむだけならともかくも、その二つが、私の中
で、よく衝突した。

 私の中には、たしかに(本当の私)がいる。ずぼらで、いいかげんで、無責任。ぐうたらで、鈍
感で、自分勝手。その上、わがまま。まさにいいことなしの「私」である。

 そういう私をを、(そうでありたいと願う、理想の自分)が、否定する。だからよけいに、衝突し
た。

 しかしあるときから、自分の中で、(本当の自分)を、すなおに表現するようにした。「私は私」
と、居なおるようにした。
 
 「父親だから……」「夫だから……」という気負いを、はずした。ついでに、肩書きも、はずし
た。ありのままの私を、そのつど、そのまま表現するようにした。だから一時期は、人にこう言
われたこともある。

 「君は、教育者を名乗っているが、とても教育者らしからぬね」と。

 が、そこが私の原点だった。私は、そこから出発した。

 で、今だが、最近、やっと私は、もう一人の「私」と、決別することができた。そのことだが、実
は、こんなことがあった。

 そのもう一人の「私」が、私に、何と、あいさつをして、私の中から、出て行ったのだ! 「長い
間、お世話になりました」と。

 そのことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「それは、『お世話になりました』ではなく、
『ご迷惑をおかけしました』でしょう」と。

 実は、この2人の「私」が、私の中で衝突するたびに、私は、かなり精神的に不安になった。
そしてそのトバッチリは、ワイフに向った。ワイフは、そういう私をよく知っている。だから、「長
い間、ご迷惑をおかけしましたのほうが、正しい」と。

 さあ、あなたも、気負いをはずしてみよう!

 あなたは、どこまでいっても、あなただ。

 そう思ったとたん、あなたも、言いようのない解放感を味わうはず。あとは、そこを原点とし
て、前に進めばよい。

 心を解き放て。体はあとからついてくる(英語の表現)。






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●接種理論

 初対面での印象が、いかに大切なものであるか。それについて、今さら、書くまでもない。

 幼児のばあいは、とくにそうで、そのときその幼児がもった第一印象で、そのあとのその子ど
もの、伸び方が、まったくちがうということは、よくある。

 よい例として、集団恐怖症、対人恐怖症、さらには、かん黙症などがある。

 こうした症状は、はじめて保育園なり、幼稚園へつれていったその日をきっかけとして、発症
することが多い。そして一度、発症すると、無理をすればするほど、逆効果。かえって症状をこ
じらせてしまう。

 幼児の心は、そういう意味では、きわめてデリケートにできている。親や教師は、「集団生活
になれていないだけ」とか、「しばらく集団生活をすれば、なおるはず」と、安易に考えるが、そ
んな簡単な問題ではない。

 集団のもつ威圧力というか、恐怖感というのは、相当なもの。私もよく経験している。今でも、
ときどき仕事などで東京へ行く機会があるが、あの東京駅の雑踏には、いまだになれることが
できない。自分の歩くスピードで歩くことすら、許されない。おまけにあのラッシュアワー!

 私は昔、M物産という会社に勤めていたが、その会社をやめる直接のきっかけになったの
が、あのラッシュアワーである。

 私は、毎朝、H電鉄の満員電車で、伊丹から、塚本へ出て、大阪の中ノ島にある会社に通勤
した。たまたまオーストラリアから帰ってきたばかりで、どうにもこうにも、あのラッシュアワーに
は、がまんならなかった。それはもう、男どうしが、顔をすりあわせるような混雑ぶりだった。
 
 もちろん、子どもにもよるが、つまり集団の中にすぐ溶けこめる子どももいるし、そうでない子
どももいるが、あくまでもその子どもの視点で、ものを考えること。

 たとえば入園する前には、あらかじめ、その場所を見学させたり、子どもに見せておいたりす
るとよい。そのとき、あらかじめ、集団に対する、心構えを話しておく。いわば病気の予防接種
のように、子どもの心の中に、免疫力をつけておく。こうしておくと、子どもは、いきなり集団を
見せつけられたときよりは、そのショックをやわらげることができる。

こうした一連の心理作用は、「接種理論」という理論で、説明される。

 また子どもが悪い印象をもったときも、大人の一方的な意見を押しつけてはいけない。「そう
だよね」「あなたの気持ちよくわかる」「お母さんも、そう思う」と、子どもの立場で、子どもの心に
なりきって、考える。
(はやし浩司 接種理論)





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10
【子どもの受験】

●受験は気楽に!

 受験シーズンが近づいてきた。

 その受験についても、同じようなことが言える。子どもの受験で大切なのは、「受験は楽しい」
という印象づくりを、しっかりとしておくこと。

 「今度、○○小学校で、お勉強するのよ。お弁当つくってあげるから、いっしょに行こうね」と。

 まちがっても、「受験」のもつ重圧的な恐怖感を、子どもにもたせてはいけない。中には、「子
どもに、それだけの覚悟と決意をもたせるため」と考えて、毎朝、「合格します」と、三唱させて
いる親がいる。

 しかしこうした行為は、子どもに不要な緊張感をもたせてしまう。もう少し大きくなれば、そうし
た緊張感を自分でコントロールすることができるようになるが、この年齢の子どもには、まだ無
理。

 試験会場のどこかで、何かのことで、つまずいたようなとき、それがきっかけで、緊張感が一
気に爆発するというようなことはよくある。

 こうなると、もう試験どころではなくなってしまう。ワーワーと泣きながら、親が待つ控え室へ帰
ってくるということにもなりかねない。


●子どもの受験(1)

 まず、子どもの能力を、正確に知る。すべては、ここから始まる。

 ほとんどの親は、「無理をしてでも、その学校へ押しこめてしまえば、あとは何とか、トコロ天
方式で、伸びてくれるはず」と考えやすい。

 しかし、それはまったくの誤解。それが言えるのは、高校や大学でのこと。こと小学校では、
そうはいかない。能力以上の学校に入ってしまったため、毎日、苦しみながら学校へ通ってい
る子どもは、少なくない。

 ある小学校の校長は、こう言った。「大切なのは、子どもの笑顔です」と。小学4、5年生にな
って、学校の授業についていきなくなった子どもがいた。そのとき、その校長は、やんわりと、
転校を勧めたが、親は、ガンとしてそれを拒否したという。その学校には、特別支援教室のよ
うな教室がまだなかった。

 笑顔が大切。私も、そう思う。またそれがすべてだと思う。

 だから受験するにしても、子どもの能力と相談しながら、決める。「まあ、うちの子は、放って
おいても、何とか、みなについていけるだろう」と思えるようなら、心配はない。しかし無理だろう
なと感じたら、受験など、やめたほうがよい。

 ほとんどの親は、子どもを伸ばすことしか考えていない。それは当然だが、しかし、その一方
で、子どもの伸びる芽をつんでしまうこともある。それについては、考えていない……というよ
り、気づいていない。

 たとえば、受験が近づくと、強制的に子どもにワークブックなどをさせる親がいる。「どうして、
こんなのができないの!」と。

 子どもは涙をポロポロ出しながら、そのワークブックをする……。

 しかしこうした無理が、いかに、子どものやる気をそいでいることか! 一時的な効果はあっ
ても、あくまでも一時的。長い目で見れば、かえって逆効果。……というような例は、本当に多
い。


●受験のつまずきが、トラウマに!

 子どもが、受験でつまずくと、それはそのままその子どものトラウマ(心的外傷)になる。

 しかしそのキズをつけるのは、子ども自身では、ない。親である。中には、子どもが受験で失
敗したりすると、半狂乱になる親がいる。寝こんでしまったり、幼稚園へ行くのを止めてしまった
りする。

 「恥ずかしい」「みじめ」と。そういう親の姿を見て、子どもは、それを心のキズとする。しかしこ
の時期、こうしたキズを子どもの心につけるのは、決定的に、まずい。

 以後、子どもはそれを、(心のわだかまり)としてしまう。そして何かにつけ、自信喪失の原因
としてしまう。自ら、「ダメ人間」のレッテルを張ってしまうこともある。

 ある中学生(女子)は、いつもこう言っていた。「どうせ、私はS小学校の入学試験で、落ちた
もんね」と。

 その中学生は、「ここ一番!」というときになると、決まって、そう言っていた。そうなる。

 そんなわけで子どもの受験は、淡々と。合格したときのことを考えて指導するのではなく、不
合格になったときのことを考えて、準備する。

 仮に不合格になっても、まったく子どもには、その緊張感を伝えてはいけない。なごやかな雰
囲気で、やりすごす。そういった配慮をするのは、子どもを受験戦争に巻きこむ親が守らねば
ならない、最低限のマナーである。


●親の質問から

 多くの親は、私にこう聞く。「うちの子は、だいじょうぶでしょうか?」と。

 私は、こう答える。(1)「まあ、うちの子は、放っておいても、何とかやっていくだろう」という自
信があり、(2)通学の不便さがそれほどないなら、受験したらよい、と。

 一度、中央までバスで行き、そこからまた乗り換えて、1時間……というのは、子どもにとって
は、負担が大きすぎる。私の印象では、その1時間が、限度だと思う。

 つぎにかりに不合格でも、それであなたの子どもが、ダメというわけではない。小学校の教師
は、小学生については、よく知っている。それは事実だが、幼児のことは知らない。中には、小
学生も幼児も同じと考える人がいるかもしれないが、小学生と幼児は、まったくちがう。

 どうちがうかということを書き始めたら、キリがないが、ちがうものは、ちがう。だから、小学校
の入試で失敗したからといって、重大事と考えてはいけない。

 それよりも大切なことは、(子どもらしい子ども)にしておくこと。伸びやかで、明るく、すこやか
で、好奇心が旺盛で、生活力がある……。忍耐力があれば、さらによい。そういう子どもがダメ
というのなら、そんな学校は、こちらから、蹴とばしてやればよい。それくらいの気構えは、必要
である。

 あなたの子どもを守るのは、あなたしかいない。そういう前提で、子どもも教育を考える。

 なお、一言。

 子どもを競走馬にしたてて、子どもの受験に狂奔する親というのは、一見、教育熱心で、子ど
も思いの親に見えるかもしれない。しかしそういった親は、子どもを真に愛しているのではな
い。真に愛しているから、そうしているのではない。

 自分の不安や心配を解消するための道具として、子どもを利用しているだけ。あるいは自分
の果たせなかった夢や希望を達成させるための、ロボットとして利用しているだけ。よくて、見
栄、メンツのために利用しているだけ。

 それはたとえて言うなら、ストーカーが自分勝手な思いこみで、相手を追いかけまわすのに似
ている。相手、つまり子どもの能力や迷惑など、何も考えていない。子どもの心のことなど、何
も考えていない。

 もしそんなに「受験」が大切なものなら、自分で勉強して、何かの試験にチャレンジしてみれ
ばよい。親のそういう姿を見て、子どもも、伸びる。

 少し過激な意見を書いたが、ともすれば暴走しがちな受験戦争に、どこかでくさびを打たない
と、あなたもやがてすぐ、その魔力にとりつかれてしまう。そして結果として、親子関係を破壊
し、子どもの能力をつぶしてしまう。

 そうなってからでは、すべてが、遅い! 今、そうして失敗している親が、あまりにも多い。多
すぎる。「うちにかぎって……」などと思っている親ほど、あぶない。

【受験一口メモ】

●受験は淡々と

子ども(幼児)の受験は、淡々と。合格することを考えて準備するのではなく、不合格になったと
きのことを考えて、準備する。この時期、一度、それをトラウマにすると、子どもは生涯にわた
って、自ら「ダメ人間」のレッテルを張ってしまう。そうなれば、大失敗というもの。だから受験
は、不合格のときを考えながら、準備する。


●比較しない

情報交換はある程度までは必要だが、しかしそれ以上の、深い親どうしの交際は、避ける。で
きれば、必要な情報だけを集めて、交際するとしても、子どもの受験とは関係ない人とする。
「受験」の魔力には、想像以上のものがある。一度、この魔力にとりつかれると、かなり精神的
にタフな人でも、自分を自分を見失ってしまう。気がついたときには、狂乱状態に……というこ
とにも、なりかねない。


●「入試」「合格・不合格」は、禁句

子どもの前では、「受験」「入試」「合格」「不合格」「落ちる」「すべる」などの用語を口にするの
は、タブーと思うこと。入試に向かうとしても、子どもに楽しませるようなお膳立ては、必要であ
る。「今度、お母さんがお弁当つくってあげるから、いっしょに行きましょうね」とか。またそういう
雰囲気のほうが、子どもも伸び伸びとできる。また結果も、よい。


●入試内容に迎合しない

たまに難しい問題が出ると、親は、それにすぐ迎合しようとする。たとえば前年度で、球根の名
前を聞かれるような問題が出たとする。するとすぐ、親は、「では……」と。しかし大切なことは、
物知りな子どもにすることではなく、深く考える子どもにすることである。わからなかったら、す
なおに「わかりません」と言えばよい。試験官にしても、そういうすなおさを、試しているのであ
る。


●子どもらしい子ども

子どもは子どもらしい子どもにする。すなおで、明るく、伸びやかで、好奇心が旺盛で、生活力
があって……。すなおというのは、心の状態と、表情が一致している子どもをいう。ねたむ、い
じける、すねる、ひねくれるなどの症状のない子どもをいう。そういう子どもを目指し、それでダ
メだというのなら、そんな学校は、こちらから蹴とばせばよい。それくらいの気構えは、親には
必要である。


●デマにご用心

受験期になると、とんでもないデマが飛びかう。「今年は、受験者数が多い」「教員と親しくなっ
ておかねば不利」「裏金が必要」などなど。親たちの不安心理が、さらにそうしたデマを増幅さ
せる。さらに口から口へと伝わっていく間に、デマ自身も大きくなる。こういうのを心理学の世界
でも、「記憶錯誤」という。子どもよりも、おとなのほうが、しかも不安状態であればあるほど、そ
の錯誤が大きくなることが知られている。
(はやし浩司 受験の心得 気構え)





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11
●熟年離婚

●ふえる熟年離婚

厚生省大臣官房統計情報・人口動態統計課の「人口動態調査」によると、昭和25年から平成
7年までの間に、離婚率は、4・6倍になったという。

 その中でも、結婚生活20年以上の熟年夫婦の離婚率は、3・5%から、16・9%にまで上昇
しているという。17%といえば、ほぼ5組に1組ということになる!

 実は、私の知人の中にも、今、離婚の危機に立たされている人が、何人かいる。しかしそう
いう人たちと会って話をしてみると、どこまでが冗談で、どこから先が、真剣なのか、わからなく
なってしまう。そのわからなさこそが、この熟年離婚の特徴の一つかもしれない。

知人「もう、5年も、セックスレスだよ」
私「本当かあ!」
知人「寝室も別々だよ」
私「本当かあ!」

知人「だからさ、オレにも、愛人がいてさ」
私「本当かあ!」
知人「家内も、今ごろは、どこかの大学生と、飲み歩いているよ」
私「本当かあ!」と。

 そんな調子で、会話がかみあわなくなってしまう。が、それでいて、その奥さんからは、こまめ
に礼状が届いたり、電話がかかってきたりする。離婚の雰囲気など、どこにも感じさせない
(?)。

 で、それを話題にする私のほうも、疲れた。私の実感では、「離婚する」「離婚する」と、騒ぐ
人ほど、離婚しない。本当に離婚する人は、静かに、だれにも悟られずに、離婚する……とい
うことか。

 その熟年離婚には、大きな特徴がある。今までの経験をまとめてみると、こうなる。

(1)夫の知らないところで、妻側が、先に離婚の決意をかためてしまう。
(2)それまでは表面的には、従順で、家庭的な妻であることが多い。
(3)夫の職業は、ほとんどが会社勤めのサラリーマン。会社人間であることが多い。
(4)夫は、まじめタイプ。むしろ、家庭思い。家族思い。家庭サービスもしている。
(5)共通の趣味や、目的がない。休日などは、バラバラの行動をすることが多い。
(6)妻側から離婚を申し出られると、夫は、「どうして?」と、ろうばいしてしまう。
(7)子どもの結婚など、子育てが終わったときなどに、離婚しやすい。

 ほかにもいろいろあるが、実は、私たち夫婦も、あぶない。しかし私のように、「あぶない」「あ
ぶない」と思っている夫婦は、離婚しない。それを知っているから、「多分、だいじょうぶだろう」
と、自分では、そう思っている。

 そこでこうした熟年離婚を防ぐには、どうしたらよいかということになる。が、それとて、つま
り、「防ぐ」という発想とて、一方的に、夫側の勝手にすぎない。夫としては、離婚されたら困る
かもしれない。しかし一方の当事者である、妻側は困らない。離婚を望んでいる。

 だから「防ぐ」という発想そのものが、夫側のものでしかない。妻側にすれば、「どうすれば、
離婚できるか」。さらには、「どうすれば、夫の束縛から解放されて、自分らしい人生を、もう一
度、生きることができるか」ということが、問題なのだ。

 事実、熟年離婚する妻たちは、こう言っている。「残りの人生だけでも、私らしい生き方を、し
てみたい」と。だから、「防ぐ」という発想そのものが、そぐわない。そういう妻たちにとっては、
かえって迷惑になる。

 そこで、これはあくまでも夫側の立場の意見だが、熟年離婚を防ぐためには、とにかく『協同
意識』をもつしかないのではないかということ。共通の目的が無理なら、趣味でもよい。たがい
に、たがいの心の補完をしあうような活動をしなければいけない。土日になると、夫は、ひとり
で魚釣り。妻は、テニス仲間と旅行……というのでは、あぶないということ。

 で、私たち夫婦も、その熟年離婚の予備軍のようなものだから、偉そうなことは言えない。し
かし最近、私は、こう思う。

 夫は、夫で、妻の生きがいを、いっしょにさがし、育ててやる。それが熟年離婚を防ぐ、最大
の方法ではないか、と。「私は夫だ。お前らを食わせてやっている」という発想では、熟年離婚
されても、文句は言えない。

 そう言えば、離婚の危機にある(?)と思われている、冒頭にあげた知人たちは、どの人も、
どこか権威主義的。夫意識が強すぎるのでは? 「男は仕事だけしていれば、一人前」「それ
でじゅうぶん」「妻は家庭に入って、家事をすればよい」と、日常的に、そんなふうに考えている
ような感じがする。つまり、そういう発想をする夫ほど、あぶないのでは?

 今夜もワイフに、「おい、今じゃあ、5組に1組が熟年離婚する時代だそうだよ。20年間も結
婚生活をしていてね……」と話すと、ワイフは、どこか感慨深げ。「じゃあ、私たちも……」と言
いそうな雰囲気だった。うちも、あぶないなア〜。

【補記】

 どうせ17%も、熟年離婚するなら、そういう熟年離婚を、積極的に考えなおしてみたら、どう
だろうか。夫婦も、いつまでも「結婚」というワクにとらわれないで、自由に、自分たちの時間を
楽しむとか……。そういう発想で、たがいの関係を、もう一度、つくりなおす。

 もっと言えば、「結婚」という概念を、一度解体した上で、つくりなおす。こういう時代になった
のだから、いつまでも、旧態依然の結婚観にしがみついているほうが、おかしいのかも?





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12
●神になれない人間、人間になれない神

 今朝、山荘で、不思議な夢を見た。

 夢の中で、それが夢とわかるときがある。今朝見た夢も、そんな夢だった。が、しかし最初
は、わからなかった。

 最初は、私は、どこかの警察官たちに追われていた。私は、危険分子ということだった。間一
髪で、その警察の襲撃をまぬがれた。どこか、ハリウッド映画の1シーンのようだった。

 で、逃げながら、「どうして、この私が逃げなければならないのか?」と思った。そのときだっ
た。私は、それが夢だと知った。自分が夢を見ていることを知った。「これは、夢なんだ」と。

 しかし今朝の夢は、いつもとちがっていた。ふつうなら、つまりいつもなら、そう気がついたと
たん、目がさめてしまう。しかし私は、そのまま、夢を見つづけた。ときどき、夢であることを忘
れることもあったが、しかし私は、自分で見ている夢を、ほぼ、自由に操ることができた。

 こうなると、自分で映画を監督しているようなもの。好き勝手なことができる。

 空を飛びたいと思えば、飛ぶこともできる。行きたいところがあれば、そこへ行くこともでき
る。スーパーマンのようなパワーも、手にすることができる。

 しかし夢の中の私は、私のままだった。どこか風采のあがらない、ヨボヨボした感じの男だっ
た。

 私は、まず、孫の誠司に会った。その横で、二男が、三人のアメリカ人に囲まれて、英会話
の特訓を受けていた。

 つぎに気がつくと、巨大な廃墟のあとを、5、6人の男たちといっしょに、歩いていた。石の門
や、建物が、無惨にも破壊され、粉々になっていた。その廃墟をしばらく進むと、大きな門が現
れた。

 私についてきた男たちは、その門のところで、立ち止まってしまった。見ると、門のところに、
最初に私を追いかけてきた、警察官たちが、その指揮官らしき男といっしょに、立っていた。身
長が2メートルもあるかと思われるような大男たちである。

 私は、こう言った。「私は、この世界のクリエーター(創造主)だ。君たちだって、私の思考が
つくりあげた、幻想だ」と。

 するとその前をたちはだかる警察官たちは、笑った。「お前は、頭がおかしい。だからこそ、
私たちにとっては、危険分子なのだ」と。

 私はかまわず、前に進んだ。そして一人の大男の頭の上に手を置くと、その手を一気に、下
へ。とたん、その大男は、提灯のように縮んでしまった。それを見て、警察官たちは、そのまま
どこかへ消えてしまった。

 私はかまわず、前に歩いた。

 門の前は、大理石でできた、広大な広場になっていた。そしてその向こうは、野菜畑になって
いた。直径が1メートルもあろうかと思われるような、巨大なキャベツが、何列にもなって、そこ
に並んでできていた。大きなキャベツだった。

 私は、「私は神だ」と実感した。たしかに、その世界では、私は、神だった。そこに見えるも
の、聞こえるもの、それらはすべて私がつくりあげたものだ。そしてそれらをすべて、私は自由
に操ることができる。

 つぎのシーンでは、私は、ひとりで映画館にいた。古い、映画を見ていた。しかし私は、その
映画の中にも、入ることができた。

 またつぎのシーンでは、どこかへ行くために、バス停でバスを待っているところだった。その
気になれば、バスなんかに乗らなくても、そのまま空を飛ぶこともできた。しかし、飛ばなかっ
た。

 おかしなことだが、そのとき考えたのは、携帯電話で、ワイフに迎えに来てもらうこと、だっ
た。しかし実際には、バスに乗った。

 どこか静かな森の中を、バスは走っているようだった。乗客は、みな、病人だった。苦しそうな
表情をしていた。ふと、「治してやろうかな」と思ったが、それはしなかった。自信がまだ、なかっ
た。

 そしてまた前のシーンにもどった。つまり、私は、5、6人の男たちといっしょに、どこかの長い
廊下を歩いていた。私は、その中の一人の男に、こう聞いた。

 「ぼくは、今、夢を見ている。君たちも含めて、この世界は、みな、ぼくがつくったものだ。つま
り、この世界では、ぼくは、神だ」と。

男たち「あなたが、私たちをつくったというのは、信じがたい」
私「私は、今すぐにでも、君たちも含めて、この世界を消すこともできる」
男たち「あなたは、私たちの神か」
私「そうだ。……そこで君たちに聞きたい。今、ぼくは、夢の世界にいる。どうすれば、もとの現
実の世界にもどることができるか」と。

 すると、一人の男が、半ば冗談ぽく、こう言った。「この世界で、もう一度、眠ればよい。そうす
れば、起きたとき、現実の世界にもどることができる」と。

 私はそのとき、それを言葉では否定したが、別の心で、それを「なるほど」と納得していた。

 で、気がつくと、また私は、あの映画館の中にいた。ひとりで、映画を見ていた。座席に座っ
ているというよりは、ふとんの中で、横になっていた。体がだるかった。「もう、家に帰らなけれ
ば」という思いもあったが、体が、動かなかった。

 で、携帯電話に手をかけたところで、意識がもうろうとしてきた。私は、おかしなことに、本当
におかしなことに、夢の中で、また眠ってしまった。

 そして……。目がさめた。気がついたときには、私は現実の世界にもどっていた。ゆっくりと
起きあがると、台所のほうへ。ワイフがそこに立っていた。「おはよう」と言いながら、ワイフを抱
いた。

ワイフ「どうしたの?」
私「不思議な夢を見た……」と。
ワイフ「どんな夢?」
私「私たち人間は、神の世界に入れないと苦しんでいる。しかしその神だって、今、人間の世界
に入れないと、同じように苦しんでいる」と。

 私には、神の苦しみがどこか、わかったような気がした。そんな不思議な夢だった。
(041019)

【人間になれない神、神になれない人間】

 この世界に、絶対という絶対を超えた、「超絶対の存在」というのは、あるのか? 多くの人
は、それを「神」と呼ぶ。

 私には、わからない。わからないから、今は、「ない」と思う。

 そこで何かの信仰者の人たちに聞く。「本当に、神はいるのか?」と。

 するとみな、こう答える。「あなたも、私たちといっしょに、信仰してみなさい。そうすれば、あな
たはそこに神を感ずることができますよ」と。

 しかしもし神が、全知全能なら、今すぐに、ここに現れることだって、できるはず。何でもない。
しかしここに現れない。現れることができない。だから、神は、全知全能ではない。つまり神は
いないのでは? ……という議論は、昔からなされる議論である。

 つまり神といえども、人間の世界に、おりてくることができない。

 一方、人間は人間で、多くの人たちは、神になろうと、あがきもがき、そして苦しんでいる。し
かし人間は、人間であるという壁を、どうしても超えることができない。

 あのミケランジェロの『天地創造』(バチカン美術館)の絵の中では、創造神と、人間のアダム
が、手をのばしあう場面が描かれている。しかしその両者の手は、あと一歩のところで、触れ
あうことはない。

 「それが神と人間の限界状況を象徴している」と説く人もいる。

 たしかに、これは限界だ。

 今朝、私が見た夢の中には、そんなテーマが隠されているように思う。そんな、私の中の、心
の奥深いところ、潜在意識の中で考えていたことが、夢という形で、現れたのだと思う。





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13
【新しい教育の提言】

●新しい日本の流れ
 
 日本の教育は、今、知識偏重の詰めこみ教育から、議論をしながら考える教育へと、その転
換期にあるとみてよい。

 今までは、(追いつき、追い越せ)教育でよかったが、これからは、もう、そういう教育は、通
用しない。それはもう、だれの目にも、明らかである。

 と書いても、私に、何か、具体的な方法論があるわけではない。私は、こういうとき、つまり、
自分がどこか袋小路に入ったのを感じたようなときは、ネットサーフィンをしながら、あちこちで
世界の賢者たちの言葉を読むことにしている。

 世界の賢者たちの言葉を、あちこちから拾って、訳をつけてみた。

+++++++++++++

★The important thing is not to stop questioning. - Albert Einstein
「重要なことは、問いつづけることだ」(A・アインシュタイン)

★Those who educate children well are more to be honored than parents, for these gave 
only life, those the art of living well. - Aristotle 
「子どもをよく教育するものは、両親より、称えられる。なぜなら、両親は、命を与えるだけだ
が、子どもをよく教育するものは、生きる技術を与えるから」(アリストテレス)

★They were majoring in two subjects: physics and philosophy. Their choice amazed 
everybody but me: modern thinkers considered it unnecessary to perceive reality, and 
modern physicists considered it unnecessary to think. I knew better; what amazed me was 
that these children knew it, too. - Ayn Rand
「彼らは、物理学と哲学のふたつを専攻していた。その選択は、私をのぞいて、みなを驚かせ
た。しかし近代の思想家は、現実を認知することを、不必要と考えた。そして近代の物理学者
は、思索することを、不必要と考えた。しかし私は、私を驚かせたことは、これらの子どもたち
も、それを知っていたということを、よりよく知っていた」(A・ランド)

★"Most of all, perhaps, we need an intimate knowledge of the past. Not that the past has 
anything magical about it, but we cannot study the future." - C.S. Lewis
「私たちのほとんどは、たぶん、過去をよくしる必要がある。それは、過去が何か神秘的である
からということではなく、過去を知らなければ未来を学ぶことができないからである」(C・S・ル
イス)

★Frederick Douglass taught that literacy is the path from slavery to freedom. There are 
many kinds of slavery and many kinds of freedom. But reading is still the path. - Carl Sagan
「フレドリック・ダグラスは、読み書きの能力は、奴隷を解放する道だと教えた。いろいろな種類
の奴隷制度があり、いろいろな種類の自由があるが、読書は、まさにその道である」(C・サガ
ン)

★I hear and I forget. I see and I remember. I do and I understand. - Confucius
「私は聞いて、そして忘れる。私は見て、そして覚える。私は行動して、そして理解する」(孔子)

★The true genius shudders at incompleteness - and usually prefers silence to saying 
something which is not everything it should be. - Edgar Allen Poe
「真の天才は、未完成さに、身震いする。つまり真の天才は、それがすべてでない何かを語る
よりも、沈黙をふつう、好む」(E・A・ポー)

★To know what to leave out and what to put in; just where and just how, ah, THAT is to 
have been educated in the knowledge of simplicity. - Frank Lloyd Wright
「どこにどのように、何を捨て、何を取り入れるか……つまりそれが、単純な知識として、教育さ
れるべきことである」(F・L・ライト)

★You cannot teach a man anything; you can only help him find it within himself. - Galileo 
Galilei
「あなたは人に教えることなどできない。あなたはただ、人が彼の中にそれを見つけるのを、助
けることができるだけである」(G・ガリレイ)

★What office is there which involves more responsibility, which requires more qualifications, 
and which ought, therefore, to be more honourable, than that of teaching? - Harriet 
Martineau 
「教育の仕事以上に、責任があり、資格を必要とし、それゆえに、名誉ある仕事が、ほかのど
こにあるだろうか」(H・Martineau)

★A child's wisdom is also wisdom - Jewish Proverb
「子どもの智慧も、これまた智慧である」(ユダヤの格言)

★The teacher, if indeed wise, does not bid you to enter the house of their wisdom, but 
leads you to the threshold of your own mind. - Kahlil Gibran
「本当に賢い教師というのは、あなたを決して彼らの智慧の家に入れとは命令しないもの。しか
し本当に賢い教師というのは、彼ら自身の心の入り口にあなたを導く」(K・ギブラン)

★We have to continually be jumping off cliffs and developing our wings on the way down. - 
Kurt Vonnegut
「私たちはいつも、崖(がけ)から飛び降りる。飛び降りながら、その途中で、翼を開発する」
(K・Vonnegut)

★Just as iron rusts from disuse, even so does inaction spoil the intellect. - Leonardo Da 
Vinci
「鉄がさびて使い物にならなくなるように、何もしなければ、才能をつぶす」(L・ダビンチ)

★Truth is eternal. Knowledge is changeable. It is disastrous to confuse them. - Madeleine L'
Engle
「真実は永遠である。知識は、変化しうるもの。それらを混同するのは、たいへん危険なことで
ある」(M・L'Engle)

★Never let school interfere with your education. - Mark Twain
「学校を、決して、あなたの教育に介在させてはならない」(M・トウェイン)

★Education is an admirable thing, but it is well to remember from time to time that nothing 
that is worth knowing can be taught. - Oscar Wilde
「教育は、賞賛されるべきものだが、しかしときには、価値ある知識は教えられないということ
も、よく覚えておくべきである」(O・ワイルド)

★You must train the children to their studies in a playful manner, and without any air of 
constraint, with the further object of discerning more readily the natural bent of their 
respective characters. - Plato
「あなたは子どもを、遊びを中心とした方法で指導しなければならない。強制的な雰囲気ではな
く、彼らの好ましい性格の自然な適正を、さらに認める目的をもって、そうしなければならない」
(プラト)

★In every man there is something wherein I may learn of him, and in that I am his pupil. - 
Ralph Waldo Emerson
「どんな人にも、彼らの中に、私が学ぶべき何かがある。そういう点では、私は生徒である」
(R・W・エマーソン)

★We, as we read, must become Greeks, Romans, Turks, priest and king, martyr and 
executioner, that is, must fasten these images to some reality in our secret experience, or 
we shall see nothing, learn nothing, keep nothing. - Ralph Waldo Emerson
「読書することによって、私たちは、ギリシア人にも、ローマ人にも、トルコ人にも、王にも、殉教
者にも、死刑執行人にも、なることができる。つまり読書によって、こうした人たちのイメージ
を、私たちの密かな経験として、現実味をもたせることができる。読書をしなけば、何も見るこ
とはないだろうし、何も学ぶことはないだろうし、何も保持することはないだろう」(R・W・エマー
ソン)

★Education is a sexual disease, IT makes you unsuitable for a lot of jobs and then you have 
the urge to pass it on. - Terry Pratchett
「教育は、性病だ。つまり教育によって、ジョークがわからなくなり、そのためそれをつぎつぎ
と、人にうつしてしまう」(T・プラシェ)

★I am always doing what I cannot do yet, in order to learn how to do it - Vincent Van Gogh 
「私はいつも、まだ私ができないことをする。それをいかにすべきかを学ぶために」(V・V・ゴッ
フォ)


【考察】

●これらの教育格言の中で、とくにハッと思ったのが、エドガー・アラン・ポーの「真の天才は、
未完成さに、身震いする。つまり真の天才は、それがすべてでない何かを語るよりも、沈黙を
ふつう、好む」という言葉である。

 わかりやすく言えば、「ものごとを知り尽くした天才は、自分の未熟さや、未完成さを熟知して
いる。だから未熟なことや、未完成なことを人に語るよりも、沈黙を守るほうを選ぶ」と。私は天
才ではないが、こうした経験は、日常的によくする。

 私のばあい、親と私の間に、どうしようもない「隔たり」を感じたときには、もう何も言わない。
たとえば先日も、こんなことを言ってきた母親がいた。

 「先祖を粗末にする親からは、立派な子どもは生まれません。教育者としても失格です」と。

 30歳そこそこの若い母親が、こういう言葉を口にするから、恐ろしい。何をどこから説明した
らよいかと思い悩んでいると、そのうち私の脳の回路がショートしてしまった。火花がバチバチ
と飛んでいるのがわかった。だから私は、「ハア〜?」と言ったまま、おし黙ってしまった。

 私自身は、先祖を否定したようなことは、一度もないのだが……。(念のため。)

●つぎに「私たちはいつも、崖(がけ)から飛び降りる。飛び降りながら、その途中で、翼を開発
する」と言った、K・Vonnegut。英語では、何と読むのだろうか。それはともかくも、これは私の
持論でもある。以前私は、「人間の創意工夫は、絶壁に立たされて、はじめて生まれる」と書い
た。

 少し前だが、ある教育審議会のメンバーをしたこともあるF氏から、相談を受けた。「学校教
育に蔓延(まんえん)している沈滞感は、どうしたら克服できるか」と。

 それに対して私は、「教師を絶壁に立たせないと、ダメです」と。

 こう書くと学校の先生は、不愉快に思うかもしれないが、ここは怒らないで聞いてほしい。

 学校の先生たちは、たしかに忙しい。同じ公務員でも、給料が20%増しという理由も、そこに
ある。納得できる。しかしそれでも、一般世間の、つまりは民間企業に働く労働者とは、待遇や
職場環境が、基本的に違う。

 たとえば私立幼稚園にしても、今、少子化の波をもろにかぶり、どこも四苦八苦している。経
営のボーダーラインといわれている、200人(園児数)を割っている幼稚園は、いくらでもある。
もっとも経営者自身は、それほど深刻ではない。すでにじゅうぶんすぎるほどの財力を蓄えて
いる。悲惨なのは、そこで働く保育士の先生たちである。安い給料の上、いつリストラされるか
と、ビクビクしている。中には、園児獲得のノルマを、先生たちに課している幼稚園もある。(ほ
とんどの幼稚園が、そうではないか?)

 だから毎年、10月前後になると、先生たちは、案内書や簡単なみやげをもって、幼児のいる
家を、1軒ずつ回っている。「教える」だけではなく、生徒集めにまで、神経をつかっている。し
かも、その先は、まさに絶壁!

 こうした危機感があるから、当然のことながら、教えることについても、ある種の緊張感が生
まれる。その緊張感が、教育の質を高める。もし本当に、教育の質を高めようと思うなら、こう
した緊張感を、人為的につくるしかない。

 残念ながら、それから先の方法については、私もわからない。しかしこれだけは言える。学校
の先生たちも、勇気を出して、崖から飛び降りてみてほしい。翼、つまり創意工夫は、飛び降り
ている間に生まれる。


●三つ目に、アリストテレスの、「子どもをよく教育するものは、両親より、称えられる。なぜな
ら、両親は、命を与えるだけだが、子どもをよく教育するものは、生きる技術を与えるから」とい
う言葉。

この訳は正確ではないと思う。思うのは、冒頭の「Those」を、「親」と訳すべきか、「教師」と訳
すべきかで、意味がまるで変わってくる。

「親」とみると、「だれでも子どもを産めば親になるが、生きる技術を与えて、親は、真の親とな
る」と解釈できる。

 一方「教師」とみると、「生きる技術を与える教師は、親よりすばらしい」と訳せる。どちらが正
しいかわからないという意味で、「この訳は正確ではないと思う」と書いた。

 一般論として、欧米の教育の「柱」は、ここにある。どの人に会っても、彼らは、「教育の目標
は、「子どもに生きる技術を与えること」と言う。オーストラリアの友人(M大教授)も、かつてこう
教えてくれた。

 「教育の目標は、私たちのもつ知恵や経験を、子どもたちがつぎの世代を、よりよく生きてい
くことができるように、それを教え伝えることだ」と。

 つまり「実用的なのが教育」ということになっている。しかしこの日本には、むしろ実用的であ
ってはならないという風潮すらある。日本の教育は、将来学者になるためには、すぐれた体系
をもっている。しかし、だ。みながみな、学者になるわけではない。あるいは将来、学者になる
子どもは、いったい何%、いるというのか。

 英語にしても、数学にしても、将来、英語の文法学者や、数学者になるには、すぐれた体系
をもっている。しかしそのため、おもしろくない。役にたたない。しかしこんなことは、30年前
に、すでにわかっていたことではないか。最近になって、やっと「役にたつ」という言葉が聞かれ
るようになったが、それにしても、30年とは!

 要するに、子どもを産むだけでは、親ではないということ(失礼!)。自分の生きザマを、子ど
もに示してこそ、親は、親になる。そしてそれが親の役目ということになる。


+++++++++++++++++++

【新しい教育】

 教育を考えるときは、当然のことながら、年齢別、学年別に考えなければならないことは、言
うまでもない。

 その中でも、とくに幼児教育の重要性については、私は、たびたび書いてきた。

 それはともかくも、今度は、子ども自身がもつ、方向性にあわせた教育を考えなければならな
い。

 将来、すぐれた研究者になるための教育もあれば、その研究を利用した分野で活躍する人
材を育てるための教育もある。どちらが正しいとか、有用とかいうのではない。どちらかの立場
で、一方的に、相手に押しつけるのは、正しくないということ。

 そこで登場するのが、「教育の多様性の問題」である。アメリカの小学校を例にあげて考えて
みよう。


●アメリカの小学校

 アメリカでもオーストラリアでも、そしてカナダでも、学校を訪れてまず驚くのが、その「楽し
さ」。まるでおもちゃ箱の中にでも入ったかのような、錯覚を覚える。

たとえば、アメリカ中南部にある公立の小学校(アーカンソー州アーカデルフィア、ルイザ・E・ペ
リット小学校。児童数370名)。教室の中に、動物の飼育小屋があったり、遊具があったりす
る。

 アメリカでは、教育の自由化が、予想以上に進んでいる。

まずカリキュラムだが、州政府のガイダンスに従って、学校が独自で、親と相談して決めること
ができる。オクイン校長に、「ガイダンスはきびしいものですか」と聞くと、「たいへんゆるやかな
ものです」と笑った。

もちろん日本でいう教科書はない。検定制度もない。たとえばこの小学校は、年長児と小学一
年生だけを教える。そのほか、プレ・キンダガーテンというクラスがある。四歳児(年中児)を教
えるクラスである。費用は朝食代と昼食代などで、週六〇ドルかかるが、その分、学校券(バウ
チャ)などによって、親は補助されている。

驚いたのは4歳児から、コンピュータの授業をしていること。また欧米では、図書室での教育を
重要視している。この学校でも、図書室には専門の司書を置いて、子どもの読書指導にあたっ
ていた。

 授業は、1クラス16名前後。教師のほか、当番制で学校へやってくる母親、それに大学から
派遣されたインターンの学生の3人であたっている。アメリカというと、とかく荒れた学校だけが
日本で報道されがちだが、そういうのは、大都会の一部の学校とみてよい。周辺の学校もいく
つか回ってみたが、どの学校も、実にきめのこまかい、ていねいな指導をしていた。

 教育の自由化は、世界の流れとみてよい。たとえば欧米の先進国の中で、いまだに教科書
の検定制度をもうけているのは、日本だけ。オーストラリアにも検定制度はあるが、それは民
間組織によるもの。しかも検定するのは、過激な暴力的表現と性描写のみ。「歴史的事実につ
いては検定してはならない」(南豪州)ということになっている。

アメリカには、家庭で教えるホームスクール、親たちが教師を雇って開くチャータースクール、さ
らには学校券で運営するバウチャースクールなどもある。行き過ぎた自由化が、問題になって
いる部分もあるが、こうした「自由さ」が、アメリカの教育をダイナミックなものにしている。

 ドイツでは、中学生にしても、たいていは午前中だけで授業を終え、そのまま、それぞれのク
ラブに通っている。

 運動クラブだけではない。科学クラブもあれば、それぞれの趣味に合わせたクラブもある。そ
してそうした費用は、「チャイルドマネー」と呼ばれている補助金によって、まかなわれている。

【後書き】

内閣府の調査でも、「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、二六%もいる(二〇〇
〇年)。九八年の調査よりも八%もふえた。むべなるかな、である。

 もう補習をするとかしなとかいうレベルの話ではない。日本の教育改革は、三〇年は遅れ
た。しかも今、改革(?)しても、その結果が出るのは、さらに二〇年後。そのころ世界はどこま
で進んでいることやら! 

日本の文部科学省は、いまだに大本営発表よろしく、「日本の教育レベルはそれほど低くはな
い」(※1)と言っているが、そういう話は鵜呑みにしないほうがよい。今では分数の足し算、引
き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。

「小学生レベルの問題で、正解率は五九%」(国立文系大学院生について調査、京都大学西
村和雄氏)(※2)だそうだ。

 あるいはこんなショッキングな報告もある。世界的な標準にもなっている、TOEFL(国際英語
検定試験)で、日本人の成績は、一六五か国中、一五〇位(九九年)。「アジアで日本より成績
が悪い国は、モンゴルぐらい。北朝鮮とブービーを争うレベル」(週刊新潮)だそうだ。

オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本に
は数えるほどしかいない。あの天下の東大でも、たったの一人。ちなみにアメリカだけでも、二
五〇人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い(田丸謙二氏指摘)。

 「構造改革(官僚主導型の政治手法からの脱却)」という言葉がよく聞かれる。しかし今、この
日本でもっとも構造改革が遅れ、もっとも構造改革が求められているのが、文部行政である。
私はその改革について、つぎのように提案する。

(17)中学校、高校では、無学年制の単位履修制度にする。(アメリカ)
(18)中学校、高校では、授業は原則として午前中で終了する。(ドイツ、イタリアなど)
(19)有料だが、低価格の、各種無数のクラブをたちあげる。(ドイツ、カナダ)
(20)クラブ費用の補助。(ドイツ……チャイルドマネー、アメリカ……バウチャ券)
(21)大学入学後の学部変更、学科変更、転籍を自由化する。(欧米各国)
(22)教科書の検定制度の廃止。(各国共通)
(23)官僚主導型の教育体制を是正し、権限を大幅に市町村レベルに委譲する。
(24)学校法人の設立を、許認可制度から、届け出制度にし、自由化をはかる。

 が、何よりも先決させるべき重大な課題は、日本の社会のすみずみにまではびこる、不公平
である。

この日本、公的な保護を受ける人は徹底的に受け、そうでない人は、まったくといってよいほ
ど、受けない。わかりやすく言えば、官僚社会の是正。官僚社会そのものが、不公平社会の温
床になっている。この問題を放置すれば、これらの改革は、すべて水泡に帰す。今の状態で教
育を自由化すれば、一部の受験産業だけがその恩恵をこうむり、またぞろ復活することにな
る。

 ざっと思いついたまま書いたので、細部では議論もあるかと思うが、ここまでしてはじめて「改
革」と言うにふさわしい。


(※1)
 国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・99年)の調査によると、日本の中学生の学
力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港についで、第五位。以下、オーストラ
リア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続くそうだ。理科については、台湾、シンガポールに次い
で第三位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメリカ、マレーシア、と。

この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学校課長は、「順位はさがったが、(日本の教育
は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持していると言える」(中日新聞)とコメントを寄せて
いる。東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏が、「今の改革でだいじょうぶというメッセージを与え
るのは問題が残る」と述べていることとは、対照的である。

ちなみに、「数学が好き」と答えた割合は、日本の中学生が最低(四八%)。「理科が好き」と答
えた割合は、韓国についでビリ二であった(韓国五二%、日本五五%)。学校の外で勉強する
学外学習も、韓国に次いでビリ二。一方、その分、前回(九五年)と比べて、テレビやビデオを
見る時間が、二・六時間から三・一時間にふえている。

で、実際にはどうなのか。東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、興味ある調査結果を公表
している。教授が調べた「学力調査の問題例と正答率」によると、つぎのような結果だそうだ。

この二〇年間(一九八二年から二〇〇〇年)だけで、簡単な分数の足し算の正解率は、小学
六年生で、八〇・八%から、六一・七%に低下。分数の割り算は、九〇・七%から六六・五%に
低下。小数の掛け算は、七七・二%から七〇・二%に低下。たしざんと掛け算の混合計算は、
三八・三%から三二・八%に低下。全体として、六八・九%から五七・五%に低下している(同じ
問題で調査)、と。

 いろいろ弁解がましい意見や、文部科学省を擁護した意見、あるいは文部科学省を批判し
た意見などが交錯しているが、日本の子どもたちの学力が低下していることは、もう疑いようが
ない。

同じ澤田教授の調査だが、小学六年生についてみると、「算数が嫌い」と答えた子どもが、二
〇〇〇年度に三〇%を超えた(一九七七年は一三%前後)。反対に「算数が好き」と答えた子
どもは、年々低下し、二〇〇〇年度には三五%弱しかいない。原因はいろいろあるのだろう
が、「日本の教育がこのままでいい」とは、だれも考えていない。

少なくとも、「(日本の教育が)国際的にみてトップクラスを維持していると言える」というのは、も
はや幻想でしかない。

+++++++++++++++++++++

(※2)
 京都大学経済研究所の西村和雄教授(経済計画学)の調査によれば、次のようであったとい
う。

調査は一九九九年と二〇〇〇年の四月に実施。トップレベルの国立五大学で経済学などを研
究する大学院生約一三〇人に、中学、高校レベルの問題を解かせた。結果、二五点満点で平
均は、一六・八五点。同じ問題を、学部の学生にも解かせたが、ある国立大学の文学部一年
生で、二二・九四点。多くの大学の学部生が、大学院生より好成績をとったという。)





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14
●考える教育

●The important thing is not to stop questioning. - Albert Einstein
「重要なことは、問いつづけることをやめないことだ」(A・アインシュタイン)

 「考える教育」が、重要なことは言うまでもない。しかし「考える」という概念ほど、これまた抽
象的で、わかりにくい概念もない。

 そこでアインシュタインの言葉。

The important thing is not to stop questioning. 

 アインシュタインは、こう言っている。「重要なことは、問うことをやめないことである」と。

 つまり子どもに向かって、「考えなさい」と言っても、あまり意味はない。しかし子どもが何かの
ことで問うことにたいして、その問うことを、励まし、伸ばすことはできる。「ほほう、それはおもし
ろい質問だね」「なかなか鋭いね」と。

 たったそれだけのことで、子どもを、より深く、考える子どもに誘導することができる。つまり
「より考える子どもにしたい」と考えたら、「より質問を繰りかえす子どもにすること」を考えれば
よい。

 むずかしいことではない。

 子どもは、満4・5歳から5・5歳にかけて、「なぜ?」「どうして?」を繰りかえす時期にさしかか
る。乳幼児の思考的特徴(自己中心性、物活論、人工論など)からの脱却を、はかる。そして
その結果として、子どもは、より分析的なものの考え方や、より論理的なものの考え方をするこ
とができるようになる。

 この時期というのは、乳幼児から、少年、少女期への移行期にもあたる。

 この時期をうまくとらえれば、その「問う」という行為を、じょうずに引き出すことができる。が、
そうでなければ、そうでない。

 私としては、その重要性というか、幼児教育の重要性が理解してもらえなくて、歯がゆくてなら
ない。はっきり言えば、そのあとの、小中高、それに大学教育など、そのころできた方向性の、
燃えカスのようなもの。……というのは、少し言い過ぎかもしれないが、しかし、一度、この時期
にできた方向性が、その子どもの将来を、決定づける。またこの時期にできた方向性は、一度
できると、それ以後、なかなか変えることはできない。

 昨今、小学校教育の場でも、「より考える深く子ども」が、大きなテーマになっている。「総合的
な学習」というのも、そういう視点から、取り入れられたものである。それはそれとして評価され
なければならないが、もっと大切なことは、その(方向性づくり)である。

 そのために、(問う)という姿勢を伸ばす。テーマは何でもよい。どんなささいなことでもよい。

 日本では、「わかったか? では、つぎ」が、教育の基本になっている。しかしアメリカでは、
「君は、どう思う?」「それはすばらしい」が基本になっている(T先生、指摘)。そういう部分か
ら、つまりもっとベーシックな部分から、教育というより、子育てのあり方そのものを考えなお
す。

 それが結局は、日本の教育を変えていく、原動力になる。


【付録】

●ついでに、A・アインシュタインの語録を、集めてみた。(イギリス「Quote Cache」より)

It's not that I'm so smart, it's just that I stay with problems longer. 
(私は頭がきれるのではない。私はただ、その問題に、より長くかかわっているだけだ。) 

The physicist's greatest tool is his wastebasket. 
(物理学者のもっともすばらしい道具は、ごみ箱である。)

There are only two ways to live your life. One is as though nothing is a miracle. The other is 
as though everything is a miracle. 
(人生を生きるためには、たった二つの方法しかない。一つは、奇跡など、どこにもないと思う
生き方。もう一つは、すべては奇跡だと思う生き方。)

It was, of course, a lie what you read about my religious convictions, a lie which is being 
systematically repeated. I do not believe in a personal God and I have never denied this but 
have expressed it clearly. If something is in me which can be called religious then it is the 
unbounded admiration for the structure of the world so far as our science can reveal it. 
(私の宗教的な確信について、あなたが読んだことは、ウソである。つまり、意図的に繰り返さ
れてきたウソである。私は、個人的な神の存在を信じていないし、このことを否定したことは一
度もない。それについては、ここではっきりしておきたい。もし私の中に、宗教的なものがあると
するなら、それは、科学が明らかにした部分について、世界の構造について、無限の崇拝の念
でしかない。

We should take care not to make the intellect our god. It has, of course, powerful muscles, 
but no personality. 
知性的な人を神にしないよう、注意しなければいけない。もちろん知性的な人には、筋肉はあ
るが、人間性はない。

Fantasie ist wichtiger als Wissen. 

If my theory of relativity is proven succesful, Germany will claim me as German and France 
will declare that I am a citizen of the world. If my theory should prove to be untrue, then 
France will say that I am a German, and Germany will say that I am a Jew. 
もし私の相対性理論が正しいと証明されるなら、ドイツ人とフランス人たちは、私が世界市民で
あると宣言することについて、文句を言うだろう。もし私の理論がまちがっていると証明される
なら、フランスは私をドイツ人と呼び、ドイツは、私をユダヤ人と呼ぶだろう。

Any fool can make things bigger, more complex, and more violent. It takes a touch of genius-
-and a lot of courage--to move in the opposite direction. 
バカが、ものごとを、誇大し、複雑にし、暴力的にする。その反対方向にものごとを進めるため
には、転載的なひらめきと、勇気が必要である。

Great spirits have always encountered violent opposition from mediocre minds. 
偉大な精神というのは、いつも二流の精神からの猛烈な抵抗に出会うもの。

The human mind is not capable of grasping the Universe. We are like a little child entereing a 
huge library. The walls are covered to the ceilings with books in many different tongues. The 
child knows that someone must have written these books. It does not know who or how. It 
does not understand the languages in which they are written. But the child notes a definite 
plan in the arrangement of books--a mysterious order which it does not comprehend, but 
only dimly suspects. 
人間というのは、宇宙の構造を把握することはできない。それは小さな子どもが、巨大な図書
館に入ったようなもの。壁には、床から天井まで、異なった言語で書かれた本でおおわれてい
る。子どもは、だれかがこれらの本を書いたことはわかる。しかしだれが、どうやって書いたか
までは、わからない。それらが書かれた言語も理解できない。しかし子どもは、本の並び方の
中に、一定の秩序があることに気がつく。つまり、神秘的な秩序だ。はっきりとわかるわけでは
ないが、おぼろげながら、疑うことはできる。

The important thing is not to stop questioning. 
重要なことは、問うことをやめないことだ。

Few are those who can see with their own eyes and hear with their own hearts. 
ほとんどの人は、自分の心で見て、聞くことができない。

The pioneers of a warless world are the youth that refuse military service. 
戦争のない世界をつくるパイオニアたちは、軍務を拒否する若者たちだ。

Reality is merely an illusion, albeit a very persistant one 
現実は、ただの幻想でしかない。が、研究は、とても忍耐を必要とするものだ。

It is not enough for a handful of experts to attempt the solution of a problem, to solve it 
and then to apply it. The restriction of knowledge to an elite group destroys the spirit of 
society and leads to its intellectual impoverishment. 
一つの問題を解決し、それを応用するためには、一握りのエキスパートだけでは、じゅうぶんで
はない。一つのエリート集団に、知識を制限することは、社会の精神を破壊し、社会を、知的な
貧困へと導くことになる。

A country cannot simultaneously prepare and prevent war. 
一つの国というのは、戦争を同時に、準備し、避けることはできない。

I am enough of an artist to draw freely upon my imagination. Imagination is more important 
than knowledge. Knowledge is limited. Imagination encircles the world. 
私はイマジネーションによって、自由に絵を描く画家と言ってもよい。イマジネーションは、知識
よりも重要である。知識には、限界がある。イマジネーションは、世界をかけ回る。

True art is characterized by an irresistible urge in the creative artist. 
真の芸術は、想像的な芸術家による、抵抗しがたい欲求によって、特徴づけられるものであ
る。

The most beautiful thing we can experience is the mysterious. It is the source of all true art 
and science. 
私たちが経験できるもっとも美しいものは、神秘である。それはすべての芸術と化学の源泉で
ある。

I do not believe in the immortality of the individual, and I consider ethics to be an 
exclusively human concern without any superhuman authority behind it. 
私は人間の不死を信じない。そして私は、その背後に超人的な権威のない、倫理こそが、人
間唯一の関心ごとであると考える。

Only two things are infinite, the universe and human stupidity, and I'm not sure about the 
former. 
たった二つのものだけが、永遠である。この宇宙と、人間の愚かさである。そして私は、その前
者である宇宙については、あまりよく知らない。

Life is a mystery, not a problem to be solved 
人生(生命)は、神秘である。それは解かれねばならない問題ではない。

Nothing will benefit human health and increase the chances for survival of life on Earth as 
much as the evolution to a vegetarian diet. 
菜食主義ほど、人間の健康に恩恵をもたらし、命の存続をふやすものはない。

Creativity is contagious. Pass it on. 
創造力は、伝染しやすい。ままにさせておけ。






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15
●外発的動機づけ

 無理、強制、条件、比較は、確実に、子どもから、やる気を奪う。一時的には効果があって
も、あくまでも一時的。

 このように、外部から、子どもを脅したり、条件をつけたりして、子どもにやる気を引き出す方
法を、外発的動機づけという。

 子どもに、本当にやる気を出せせるためには、子ども自身の中から、そのやる気を引き出さ
ねばならない。

 このように、子ども自身が、自分でやる気を起こすことを、内発的動機づけという。

 子どもからやる気を引き出すためには、子ども自身を、その気にさせねばならない。イギリス
の格言にも、『馬を水場につれて行くことはできても、水を飲ませることはできない』というのが
ある。最終的に、やる・やらないと決めるのは、子ども自身ということになる。

 ……と、いろいろな説があるが、やる気の問題は、私たち自身の問題でもある。

 子育てをしていても、がんばれるときと、がんばれないときがある。たとえば子どもが、何か
のことで懸命になっている姿を見ると、親の私たちも、がんばろうという気持ちになる。

 しかし何もせず、ぐうたらしている子どもを見ると、やる気も、消える。「どうして、親の私が、
子どものためにがんばらなくては、いけないのか」と。

 こうした心理は、子どもも、同じ。そこで、どうすれば、子どものやる気を引き出すことができ
るかということになる。

  大脳生理学の分野でも、子どものやる気は、大脳辺縁系の中の、帯状回がコントロールし
ているという説もある(伊東正男氏、新井康允氏ほか)。この部分が、大脳からほどよい信号を
受け取ると、やる気を引き起こすという。もう少し具体的には、帯状回が、モルヒネ様の物質を
放出し、それが脳内に、心地よさを引き起こすということか。つまり、大脳からのほどよい信号
こそが、子どものやる気を決めるというわけである。

 この説に従えば、子どもからやる気を引き出すためには、子どもが何かをしたら、何らかの
心地よさを、子ども自身が感じるようにすればよいということになる。

 その一つが、達成感ということになる。達成満足感と言いかえても、よい。「やったア!」「でき
たア!」という喜びが、子どものやる気を引き出す。つまりは、そういう喜びを、いつも子どもが
感じるように指導する。

 方法として、つぎのことに注意したらよい。


●成功率(達成率)は50%

子どもが、2回トライして、1回は、うまくいくようにしむける。毎回、成功していたのでは、子ども
も楽しくない。しかし毎回失敗していたのでは、やる気をなくす。だから、その目安は、50%。
その50%を、うまく用意しながら、子どもを誘導していく。そしていつも、何かのレッスンの終わ
りには、「ほら、ちゃんとできるじゃ、ない」「すばらしい」と言って、ほめて仕あげる。


●無理、強制

無理(能力を超えた負担)や強制(強引な指導)は、一時的な効果はあっても、それ以上の効
果はない。そればかりか、そのあと、その反動として、子どもは、やる気をなくす。ばあいによっ
ては、燃え尽きてしまったり、無気力になったりすることもある。そんなわけで、『伸びたバネ
は、必ず縮む』と覚えておくとよい。無理をしても、全体としてみれば、プラスマイナス・ゼロにな
るということ。


●条件、比較

「100点取ったら、お小遣いをあげる」「1時間勉強したら、お菓子をあげる」というのが条件。
「A君は、もうカタカナが読めるのよ」「お兄ちゃんが、あんたのときは、学校で一番だったのよ」
というのが、比較ということになる。条件や比較は、子どもからやる気を奪うだけではなく、子ど
もの心を卑屈にする。日常化すれば、「私は私」という生き方すらできなくなってしまう。子ども
の問題というよりは、親自身の問題として、考えたらよい。(内発的動機づけ)


●方向性は図書館で

どんな子どもにも、方向性がある。その方向性を知りたかったら、子どもを図書館へ連れてい
き、一日、そこで遊ばせてみるとよい。やがて子どもが好んで読む本が、わかってくる。それが
その子どもの方向性である。たとえばスポーツの本なら、その子どもは、スポーツに強い関心
をもっていることを示す。その方向性がわかったら、その方向性にそって、子どもを指導し、伸
ばす。(役割形成)


●神経症(心身症)に注意

心が変調してくると、子どもの行動や心に、その前兆症状として、変化が見られるようになる。
「何か、おかしい?」と感じたら、神経症もしくは、心身症を疑ってみる。よく知られた例として
は、チック、吃音(どもり)、指しゃぶり、爪かみ、ものいじり、夜尿などがある。日常的に、抑圧
感や欲求不満を覚えると、子どもは、これらの症状を示す。こうした症状が見られたら、(親
は、子どもをなおそうとするが)、まず親自身の育児姿勢と、子育てのあり方を猛省する。


●負担は、少しずつ減らす

子どもが無気力症状を示すと、たいていの親は、あわてる。そしていきなり、負担を、すべて取
り払ってしまう。「おけいこごとは、すべてやめましょう」と。しかしこうした極端な変化は、かえっ
て症状を悪化させてしまう。負担は、少しずつ減らす。数週間から、1、2か月をかけて減らす
のがよい。そしてその間に、子どもの心のケアに務める。そうすることによって、あとあと、子ど
もの立ちなおりが、用意になる。


●荷おろし症候群

何かの目標を達成したとたん、目標を喪失し、無気力状態になることを言う。有名高校や大学
に進学したあとになることが多い。燃え尽き症候群と症状は似ている。一日中、ボーッとしてい
るだけ。感情的な反応も少なくなる。地元のS進学高校のばあい、1年生で、10〜15%の子
どもに、そういう症状が見られる(S高校教師談)とのこと。「友人が少なく、人に言われていや
いや勉強した子どもに多い」(渋谷昌三氏)と。


●回復は1年単位

一度、無気力状態に襲われると、回復には、1年単位の時間がかかる。(1年でも、短いほうだ
が……。)たいていのばあい、少し回復し始めると、その段階で、親は無理をする。その無理
が、かえって症状を悪化させる。だから、1年単位。「先月とくらべて、症状はどうか?」「去年と
くらべて、症状はどうか?」という視点でみる。日々の変化や、週単位の変化に、決して、一喜
一憂しないこと。心の病気というのは、そういうもの。


●前向きの暗示を大切に

子どもには、いつも前向きの暗示を加えていく。「あなたは、明日は、もっとすばらしくなる」「来
年は、もっとすばらしい年になる」と。こうした前向きな暗示が、子どものやる気を引き起こす。
ある家庭には、4人の子どもがいた。しかしどの子も、表情が明るい。その秘訣は、母親にあ
った。母親はいつも、こうような言い方をしていた。「ほら、あんたも、お兄ちゃんの服が着られ
るようになったわね」と。「明日は、もっといいことがある」という思いが、子どもを前にひっぱっ
ていく。


●未来をおどさない

今、赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりを起こす子どもがふえている。おとなになることに、ある
種の恐怖感を覚えているためである。兄や姉のはげしい受験勉強を見て、恐怖感を覚えるこ
ともある。幼児のときにもっていた、本や雑誌、おもちゃを取り出して、大切そうにそれをもって
いるなど。話し方そのものが、幼稚ぽくなることもある。子どもの未来を脅さない。


●子どもを伸ばす、三種の神器

子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。中学
生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と思って、一日を
終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国の小学生3
226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸ばすのは、親の義務と、心
得る。
(はやし浩司 外発的動機付け 外発的動機づけ 内発的動機付け 内発的動機づけ)





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16
●子どもと孫

●子どもや孫とのつきあい

 老後になったら、子どもや孫と、どのようにつきあえばよいのか?

 内閣府が、平成12年に調査した、「高齢化問題基礎調査」によれば、子どもや孫とのつきあ
いについて、日本人は、つぎのように考えていることがわかった。

(1)子どもや孫とは、いつもいっしょに、生活ができるほうがよい。

      日本人   …… 43・5%
      アメリカ人 ……  8・7%
      スウェーデン人…… 5・0%

(2)子どもや孫とは、ときどき会って、食事や会話をするのがよい。

日本人   …… 41・8%
      アメリカ人 …… 66・2%
      スウェーデン人……64・6%

 日本人は、欧米人よりも、はるかに「子どもや孫との同居を望んでいる」。それがこの調査結
果からもわかる。一方、欧米人は、老後は老後として、(1)子どもたちの世話にはならず、(2)
かつ自分たちの生活は生活として、楽しみたいと考えている。

 こんなところにも、日本人の依存性の問題が隠されている。長い歴史の中で、そうなったとも
考えられる。

 「老後は、子どもや孫に囲まれて、安楽に暮らしたい」と。

 そうそう、こんな話もある。

 このところ、その女性(48歳)の母親(79歳)の足が、急に弱くなったという。先日も、実家へ
帰って、母親といっしょに、レストランへ行ったのだが、そこでも、その母親は、みなに抱きかか
えられるようにして歩いたという。

 「10メートル足らずの距離を歩くのに、数分もかかったような感じでした」と。

 しかし、である。その娘の女性が、あることで、急用があって、実家に帰ることになった。母親
に連絡してから行こうと思ったが、あいにくと、連絡をとる間もなかった。

 で、電車で、駅をおりて、ビックリ!

 何とその母親が、母親の友人2人と、駅の構内をスタスタと歩いていたというのだ! 「まるで
別人かと思うような歩き方でした」と。

 が、驚いたのは、母親のほうだったかもしれない。娘のその女性がそこにいると知ると、「しま
った!」というような顔をして、突然、また、弱々しい歩き方で歩き始めたという。

 その母親は、娘のその女性の同情をかうために、その女性の前では、わざと、病弱で、あわ
れな母親を演じていたというわけである。

 こういう例は、多い。本当に、多い。依存性の強い人ほど、そうで、同情をかうために、半ば
無意識のうちにも、そうする。

 しかし、みながみなではない。

 反対に、子どもの前では、虚勢を張る親も、いる。「子どもには心配をかけたくない」という思
いから、そうする。

 どこでそう、そうなるのか? どこでどう、そう分かれるのか?

 私などは、いくら疲れていても、ワイフや息子たちの前では、虚勢を張ってみせるほうだか
ら、反対に、同情をかう親の心が、理解できない。気持ちはわかるが、しかしそれでよいとは思
わない。

 ひょっとしたら、この問題も、冒頭にあげた調査結果で、説明できるのではないか。少し脱線
したような感じだが、それほど大筋から離れていないようにも、思う。





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17
●子どもの心

●自分の子どもの心を読む

 「うちの子のことは、私が一番よく知っている」と言う親ほど、本当のところ、子どもの心がわ
かっていない。

 反対に、「うちの子のことがよくわからない」と言う親ほど、本当のところ、子どもの心が、よく
わかっている。

 心というのは、おとなであれ、子どもであれ、そんなに簡単にわかるものではない。「よく知っ
ている」と言う親ほど、知ろうと、努力しない。だから、ますます子どもの心を見失う。

 反対に、「よくわからない」と言う親ほど、子どもに謙虚になる。子どもの心に耳を傾ける。だ
から子どもの心が、読める。

 まずいのは、親の判断だけで、子どもの心を決めつけてしまうこと。こうした決めつけが習慣
化すると、子どもは自分の意思を自分で表現できなくなってしまう。もちろんその時点で、親子
の間に、深刻なキレツが入ることになる。

 子どもの心を見失う親の特徴としては、つぎのようなものがある。

(1)独断性

 子どもに対してというより、日常生活全般にわたって、独断性が強い。がんこで、人の話を聞
かない。他人に何か言われると、その何倍も、反論したりする。

(2)狭小性

 自分の世界が、小さい。限られた人たちと、限られた範囲でしか、交際しない。当然、人の好
き嫌いがはげしい。

(3)偏見性

 独得の価値観をもっていることが多い。「A高校の出身者には、いい人はいない」とか、など。
ものの考え方が、極端であったり、どこか偏屈であったりする。

(4)無学性

 人間の脳ミソというのは、常に刺激していかないと、刺激を止めたときから、退化し始める。
それは健康に似ている。運動をやめたときから、体の調子は、悪いほうに向かう。

 このタイプの人は、そういう意味での、刺激を嫌う。勉強しない。本も読まない。それ以上に、
考えない。知的な意味で、進歩がない。

(5)過干渉性

 子どもの価値観まで、親が決めてしまう。私が子どもに向かって、「楽しかった?」と聞いて
も、親が、すぐその会話に割りこんでくる。「楽しかったでしょ。だったら、楽しかったと言いなさ
い!」と。

(6)威圧性

 威圧的な育児姿勢は、百害あって一利なしと覚えておくとよい。悪玉親意識の強い人、権威
主義的傾向の強い人、親風を吹かす人、家父長意識の強い人は、その子どもに対する育児
姿勢が、どうしても威圧的になりやすい。 

そしてあとは、お決まりの言葉。「うちの子のことは、私は一番よく知っている」と。そして長い時
間をかけて、親子の間に、大きなミゾをつくる。

 あなたも、もし、「うちの子のことは、私が一番よく知っている」と思っているなら、本当にそう
か、一度だけ、自問してみるとよい。


【おわび】

 このところ、毎日、多くの方からメールをいただきます。加えて、10月。さらに月末。みなさん
のメールに目をとおすだけで、精一杯という日々がつづいています。

 さらにインターネットの限界というか、私のボケの始まりというか、一度に数人の方と、メール
を交換していると、だれがどの人だったか、わからなくなってしまいます。心理学でいう、個人化
というか、逆・個人化ができなくなっています。

 一度、どこかでお会いしたことがあるとか、お声を聞いたことがあるというのであれば、こうい
うこともないのでしょうが、まさに頭の中は、大混乱。さらに、私のばあい、みなさんからいただ
いたメールを保存するにあたって、内容を変えたり、住所、名前を、置きかえたりしています。
これは後日の、万が一のための措置です。

 だからよけいに、だれがどの人だったか、わからなくなってしまいます。

 そんなわけで、返事を書くのも、おっくうになってしまいます。どうか、私の勝手と、限界を、お
許しください。いろいろ不愉快な思いをしている方も多いと思いますが、重ねてお許しくださいま
すよう、お願い申しあげます。


●人格の完成

 人格の完成度は、(1)共鳴性、(2)自己管理能力、(3)社会性の三つをみる(EQ論)。これ
は常識だが、これら3つには、同時進行性がある。

 共鳴性、つまりいかに利己から脱して、利他になるか。自己管理能力、つまりいかに欲望と
戦い、それをコントロールするか。さらに社会性、つまり、いかに他者と、良好な人間関係を築
くか。

 これら3つが、できる人は、自然な形で、それができる。そうでない人は、そうでない。

 自己中心的な人は、それだけ自己管理能力が弱く、他者と、良好な人間関係を、築くことが
できない。あるいは自己管理能力の弱い人は、長い時間をかけて、ものの考え方が自己中心
的になり、そのため、他人から、孤立しやすい。さらに社会性が欠落してくると、自分勝手でわ
がままになる、など。

 これら3つは、相互に、からんでいる。そして全体として、その人の人格の完成度を、決定す
る。

 が、やはり、キーワードは、「自己中心性」である。

 その人の人格の完成度を知りたかったら、その人の自己中心性をみればわかる。もしその
人が、自分のことしかしない。自分だけよければ、それでよいと考えているなら、その人の人格
の完成度は、きわめて低いとみてよい。

 これには、老若男女は関係ない。地位や名誉、職業には、関係ない。まったく、関係ない。

 つぎに自己管理能力。わかりやすく言えば、ここにも書いたように、それには、欲望の管理が
含まれる。性欲、食欲、所有欲など。

 こうした欲望に溺れても、よいことは何もない。もちろん心の病気が原因で、溺れる人もい
る。セックス依存症の人にしても、節食障害の人にしても、それぞれ、やむにやまれぬ精神的
事情が、その背景にあって、そうなる。

 だから肥満の人が、即、自己管理能力のない人ということにはならない。(一般社会では、そ
う見る向きもあるが……。)

 3つ目に、社会性。
 
 人間は、他者とのかかわりをもってはじめて、その人らしさを、つくる。その(その人らしさ)
が、良好であること。それが人格の完成度の、3つ目の要件ということになる。

 いくら高邁でも、他者とのかかわりを否定して生きているようでは、そもそも、人格の完成度
は、問題にならない。

 たとえば小さな部屋にひきこもり、毎日絵ばかり描いている画家がいたとする。すばらしい才
能をもち、すばらしい絵を描いている。が、個展を開いて、それを発表することもない。同業の
人との、交流もない。

で、そういう人を、人格の完成度の高い人かというと、そうではない。EQ論では、そういう人を、
評価しない。(もちろんその人の芸術性の評価は、別問題である。)

 言いかえると、私たちは日々の生活の中で、これら3つを、いかにして鍛錬していくかというこ
とが、重要だということ。

 いかにすれば、自分の中の自己中心性と戦い、欲望をコントロールし、そして他者と、良好な
人間関係を築いていくか。つまりは、そこに、私たちが、日々に務めるべき、努力目標がある。

 がんばりましょう! がんばるしかない!





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18
●非行

●子どもの非行

 大分県K市に住んでいる母親から、こんな相談が届いた。

++++++++++++++++++++

 息子(中2)について、相談します。

 小学5、6年ごろから、学校へは行かず、そのまま市内の

 たまり場で、友だちと過ごすことが多くなりました。

 そのつどきびしく説教したりしましたが、効果はありませんでした。

 中学に入ってからは、さらにひどくなり、私や担任の先生に、

 暴言を吐いたり、暴力をふるうようになりました。

 こんなことをつづけていると、私のほうが、参っていまいそうです。

 週末になると、そのままどこかへ行き、寝泊りしています。

 家には、ときどき、悪友を連れてきます。

 何か、よい、アドバイスをください。

 現在、私は、私と息子の二人暮しです。

 大分県K市、TMより(以上、要約)

++++++++++++++++++++

 問題のない子どもはいないし、問題のない子育てはない。その問題も、「何とかなる」「何とか
しよう」と考えているうちに、どんどんと、深みにはまってしまう。別の方向に進んでしまう。そし
て気がついたときには、袋小路。にっちもさっちも、いかなくなってしまう。

 TMさんは、その袋小路に入っている。

 非行、不登校、暴力、家庭内暴力……。加えて親子関係の断絶。TMさんは、メールの中
で、「(小学生のころ)、きびしく叱ったりしたのが、悪かった」と反省している。そして、「こうした
非行は、インフルエンザのようなものだと、(林は)言うが、本当に、そう考えてよいか?」と。

 しかしこういう相談を受けると、私は、もう一つ別の視点から、ものを考えるようになってしまっ
た。年齢のせいかもしれない。

 「TMさん自身は、ともかくも、TMさんの両親は、さぞ、つらい思いをしているだろうな」という
こと。あるいはTMさんと、両親の関係も、すでに冷え切っているのかもしれない。ともかくも、私
も、この年齢になったせいか、今度は、息子夫婦や、その孫のことを心配するようになった。
「何とか、夫婦仲よく暮らしてほしい。孫を、すこやかに育ててほしい」と。

 恐らく今のTMさんには、そこまで気が回らないだろう。というのは、私のばあい、息子や娘、
そしてその孫の相談も、結構、あるからである。決して、少なくない。

 「娘が離婚して、孫と二人で生活している。その孫が、非行に走り、学校にも行っていない。ど
うしたらいいか」と。

 私は、TMさんの立場もさることながら、そうした祖父母の立場で、ものを考えてしまう。つまり
TMさんは、自分と息子の問題として、またその範囲でものを考えているが、それだけでは足り
ないということ。またそうした視点では、この問題は、解決しないということ。

 人間というのは、無数のつながりの中で、生きている。英語の表現を借りるなら、「クモの巣」
の中で、生きている。決して、親子という1本だけの世界ではない。TMさんの息子にしても、息
子と友人、息子と担任という世界がある。

 この時期の子どもは、決して、楽しいから、そうした非行を繰りかえしているのではない。その
子どもは、その子どもなりに、苦しみ、悩んでいる。自尊心もある。プライドもある。できるなら、
もっと正当な方法で、自己主張し、他人に認めてもらいたい。が、それができない。いや、それ
以上に、このタイプの子どもは、うまく人間関係を結ぶことができない。

 だから攻撃的な姿勢になる。暴力的になる。

 TMさんも、すでに気がついていると思うが、現在、母と子だけの世界ということ自体が、子ど
もには、暗い影を落としている。あるいはTMさんの気がつかないところで、つまりそれにまつ
わる騒動が、子どもの心をキズつけたのかもしれない。

 負い目や劣等感を覚えているのかもしれない。つまり子どもは子どもで、クモの巣に体をから
まれ、もがき苦しんでいる。

 が、TMさんは、メールでみるかぎり、自分のことしか考えていない? ……というのは言い過
ぎかもしれないが、メールで知る範囲では、自分のことしか考えていないように思う。子どもの
苦しみや悲しみを、置き去りにしたまま、今に至っている(?)。

 たとえば週末になると、子どもが家をあける。そのことについても、「なぜ、そうするのか?」と
いうことを、考えてみてほしい。もし家庭が家庭としての機能を保っているなら、子どもは子ども
なりの方法で、自分の羽を家庭の中で休める。しかしとても残念なことなのだが、子どもは、そ
の家庭では、羽を休めることができないでいるのではないか。

 これは私の自身の経験でもある。

 私は小学生のころ、毎日、真っ暗になるまで外で遊んだ。学校から帰ってくるときも、まっすぐ
家に帰ったことはなかった。

 そういう自分を、今から思い出してみると、私は、明らかに帰宅拒否児だった。で、その理由
は、言うまでもなく、私の家には、私の居場所がなかった。家の中では、どこにいても、落ちつ
かなかった。

 しかし当時は、みな、戦後の混乱期ということもあって、食べていくだけで精一杯。家庭教育
の「カ」の字もなかった。もちろん、今でいう「暖かい雰囲気」など、どこにもなかった。

 しかし今から思うと、とても残念なのは、そういう私という子どもの心を、だれも理解してくれな
かったということ。帰りが遅くなると、叱られた。叱られるだけならまだしも、「お前を産んでやっ
た」「育ててやった」と、それこそ耳にタコができるほど、恩を着せられた。

 わかりやすく言えば、「あなたはダメな子」という視点で考えるのではなく、「あなたも、つらい
思いをしているのね」という視点でものを考えること。時間はかかるかもしれないが、そういう視
点をもったとき、いつか必ず、TMさんの子どもは、立ちなおる。

 現に今、TMさんと同じような過去をもちながら、そして同じような親子関係をもちながら、す
ばらしい家庭を築いている人は、いくらでもいる。5万もいる。5万どころか、10万も20万もい
る。

 私の知人(57歳)も、同じような問題をかかえ、毎日のように学校に呼び出されたという。し
かし今、その知人は、親子で、美容院を経営し、その地方では、名士にもなっている。子育て
には、失敗はつきものだが、その失敗が転じて、その人の人格の基礎になるということは、こ
の世界では、珍しくない。

 一般論から言えば、今のTMさんには、理解しがたいことかもしれないが、こうしたサブカルチ
ャ(非行などの下位文化)を経験した子どもほど、あとあと、常識豊かな人間になることが知ら
れている。

 だからといって非行を奨励するわけではないが、悪いことばかりではない。そうした視点をも
つことも、重要だということ。


【TMさんへ】

 子どもはいつか親から巣立っていきますが、その巣立ちは、いつも美しいものとはかぎりませ
ん。

 親を罵倒しながら巣立っていく子どももは、いくらでもいます。しかし巣立ちは、巣立ちです。メ
ールによれば、「小遣いを渡さなかったりすると、ボコボコに殴られる」とありました。たいへん
だろうなと思うと同時に、どうしてそこまでこじれてしまったのかとも考えてしまいます。

 家庭内暴力ということであれば、子どもの心の病気も、疑ってみなければなりません。この時
期、子どもは、持続的に、心の緊張感を覚えるようになります。将来に対する不安や心配、そ
れに恐怖心などが原因です。

 そういう緊張状態のところに、何かのきっかけで、不安や心配ごとが入ってくると、それを解
消しようと、一気に、情緒は不安定になります。そのとき、暴力的になる子ども(プラス型)や、
反対に、人との接触をこばんでしまう子ども(マイナス型)などに分かれます。

 ほかにも、同情型や、依存型になる子どももいます。どのタイプにせよ、他人との信頼関係
が、うまく結べない。もっと言えば、心を開いて接することができないということになります。です
から、同じような心の問題をもった仲間と、(わかりあう)ということになります。

 ですから、頭から、「あの子は悪い」とか、「悪友」とか決めつけて考えないで、TMさん自身
が、その悪友と仲間にあるつもりで、いっしょに、心を開きあってみてはどうでしょうか。コツは、
『友を責めるな、行為を責めよ』です。

 相手の子どもの行為について、どこがどう悪いと言うことはあっても、決して、相手の名前を
出さないことです。たとえば「タバコを吸うのは、体によくない」とは言っても、「XX君は、悪い子
ども」とは、言ってはいけません。

 子どもにとって、友は、その子ども自身の人格です。友を否定するということは、その子ども
の人格を否定することになります。もしそのとき、あなたの子どもが、あなたを取ればよし。しか
し友を取れば、その時点で、あなたとあなたの子どもの関係は、断絶します。

 それにあなたは、「今が、最悪」と思っているかもしれませんが、こうした問題には、さらに二
番底、三番底があります。今、対処の仕方をまちがえると、さらに、二番底、三番底へ落ちてい
くということです。

 そこで重要なことは、(1)今の状態を維持しながら、(2)1年単位で様子をみる。そして(3)あ
きらめるべきことは、あきらめ、あとは、許して、忘れる、です。

 いろいろご事情は、あったかと思いますが、しかしこれからは、前だけを見て進みます。あな
たも苦しいかもしれませんが、あなたの子どもは、もっと苦しんでいます。ただ、その苦しみ方
が、どこかゆがんでいるだけです。

 私の印象では、おとなにもなりきれず、まだ子どもとして甘えたい……。そんな葛藤を繰りか
えしているのではないかと思います。

 今日、子どもと顔をあわせたら、こう言ってみてください。

 「あなたも苦しんでいるのね。あなたはよくがんばっているわ」と。

 そういう言葉が、あなたの子どもの岩のようになった心を、溶かします。すぐにというわけに
は、いきませんが、必ず、溶かします。

 では、今日は、これで失礼します。





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19

【においについて】

●性フェロモン

 私は、「男」ということもあって、女性の生理のにおいが、よくわかる。通りすぎただけで、よく
わかる。ふつうのにおいではない。強烈なにおいである。

 で、そのたびに、ワイフに、「お前は、におわないか?」と聞くと、「私にはわからない」と。

 男と女とでは、嗅覚の構造そのものがちがうようである。

 で、よく、性フェロモンが、話題になる。動物の世界では、常識である。わかりやすく言うと、動
物は、その時期になると、特有のにおいを発し、異性をちかづけようとする。相手は、そのにお
いをかいだだけで、性的に興奮したりする。そういうにおいを、性フェロモンという。

 人間にも、性フェロモンらしきものがあることがわかっている。私は、「ある」と確信しているが
……。が、問題は、そういうにおいを感ずる器官が、あるかどうかということ。

 それについても、私は、「ある」と確信している。

 若いころ、ガールフレンドの発する、甘いにおいに、うっとりしたことがある。香水とか、そうい
うものによるのではない。体中から、甘いにおいが漂っていた。

 で、最近の研究によれば、それまでは「ない」とされてきた、それらしき器官があることがわか
ってきた。鼻の奥、鼻中隔(びちゅうかく)の両側に、それがあるという。発見者の名前をとっ
て、ヤコブソン器官と呼ばれている。(日本では、「じょ鼻器官」と呼ばれている。)

 このヤコブソン器官は、ここでいう性フェロモンの受信器官と考える学者も多い。ただ近年ま
では、この器官は、すでに退化してしまっていて、役にたたないという説が一般的であった。

 が、しかし、だ。このヤコブソン器官が、成人の私たちにも残っていて、どうやら機能している
らしいということまで、わかってきた。

 私は、その一つの例として、女性の生理のにおいをあげた。ワイフは、「わからない」と言う
が、私にとっては、強烈なにおいである。こうしたちがいがなぜ起こるかといえば、性にまつわ
る器官がちがうからではないのか。

 私のヤコブソン器官は、男として、「女」を、強烈にかぎわけることができる。しかし女である、
ワイフには、それがない(?)。そう考えると、納得できる。

 そう言えば、「汗臭い、男のにおいが好き」と、私に言った女性がいた。反対に、「汚れた女性
の下着のにおいが好き」と、私に言った男性もいた。(ともに、ヘンタイか?)

 においというのは、いろいろな意味で、「性」とからんでいるようだ。はたして、あなたは、どう
だろうか?
(はやし浩司 性フェロモン)

 この「におい」の話で、つぎのような原稿を書いたのを、思いだした。子どもの世界では、「臭
い子ども」は嫌われる。いじめの対象になることも、あるようだ。

+++++++++++++++++
 
●親は子で目立つ

 よきにつけ、悪しきにつけ、親は子で目立つ。つまり目立つ子どもの親は、目立つ。たとえば
園や学校で、よい意味で目立つ子どもの親は、あれこれ世話役や委員の仕事を任せられる。

そんなわけでもしあなたが、よく何かの世話役や委員の仕事を園や学校から頼まれるとした
ら、それはあなたの子どもがよい意味で目立つからと考えてよい。

子どもというのは、家へ帰ってから、園や学校での友だちの話をする。ほかの親たちはそうい
う話をもとにして、あなたのことを知る。もちろん悪い意味で目立つ子どももいる。

しかしそういうばあいは、世話役や委員などの仕事は回ってこない。一つの基準として、あなた
の子どもが、友だち(とくに異性)の誕生会などのパーティによく招かれるようであれば、あなた
の子どもは園や学校で人気者と考えてよい。

実際に子どもを招くのは親。その親は日ごろの評判をもとにして、どの子どもを招待するかを
決める。同性のときは、ギリやつきあいで呼ぶことも多いが、異性となると、かなり人気者でな
いと呼ばない。

一方、嫌われる子どもというのはいる。もう二五年ほど前(一九八五年ころ)の古い調査で恐縮
だが、私が調べたところ、嫌われる子どもというのは、つぎのようなタイプの子どもということが
わかった(小学生三〜五年生、二〇人に聞き取り調査)。

(1)いじめっ子、(2)乱暴な子、(3)不潔な子、(4)無口な子。

私が「静かな子(無口な子)は、だれにも迷惑をかけるわけでないから、いいではないのか?」
と聞くと、「不気味だからいやだ」という答がはねかえってきた。親たちの間で嫌われる子ども
は、何か問題のある子どもということになる。また人気のある子どもは、明るく活発で、運動や
学習面で目立つ子どもをいう。やさしい子どもや、おもしろい子どもも、それに含まれる。

 先日もある母親がこう相談してきた。「いつも世話役を命じられて困っています」と。で、私は
こう言った。「それはあなたの子どもがいい子だからですよ」と。

++++++++++++++

 この原稿を書くきっかけとなったのは、ある母親から、いじめの相談を受けたからである。そ
の母親は、深刻な表情で、こう言った。「うちの子(小4)は、学校でいじめにあっています。どう
したらいいでしょうか?」と。

 そのとき、その母親に対する、私の第一印象は、とにかく、その母親が、臭かったこと。

 体臭というより、病臭に近かった。しかも、髪の毛が、強烈な悪臭を放っていた。

 なぜ、その子どもは、学校でいじめにあっているのか。で、私なりに調べてみたのだが、その
理由はすぐわかった。たまたま同じ学校に通っている子どもが、何人かいた。

私「どうして、あのX君は、みんなに嫌われるの?」
子どもたち「だって、あの子、臭いもん」と。
 
 で、その数日後、私は、再び、その母親に会った。やはりひどい悪臭を放っていた。理由は
わからないが、私は入浴のし方そのものに、問題があるのではと思った。しかし私は、その母
親に、そのことを話すことができなかった。

 ……と、この事件のことは、このあたりで、記憶から消えている。ただそのあと、ワイフが、私
にこう言ったのは、覚えている。

 「やはり、正直に、話すべきだったわ」と。つまり、その子どもが、臭いから、みなからいじめ
の対象になっているということ。それにその母親自身も臭いということ。それを正直に、私が話
すべきだった、と。

 しかし、実際には、言えない。あるいは、あなたなら、それを言うことができるだろうか。

 同じようなケースだが、その少し前、こんなことがあった。中学2年生のI君という子どものこと
である。その彼も、臭かった。そばを通り過ぎただけで、悪臭がプンとにおった。

 そのときは、私は、I君に注意した。「I君、汗をかいたら、風呂で、よく体を洗うんだよ。夏場
は、においが体に残るから」と。

 が、その言葉で、I君は、激怒。今でいう、キレた状態になった。突然、金切り声で、「ちゃん
と、洗ってる!」と叫んだ。ふだんは、どちらかというと、静かで、おとなしい子どもだった。

 で、あとで聞いて知ったのだが、そのI君もやはり、「臭い」ということで、みなから、仲間はず
れにされていたそうだ。だからI君は、私の言葉に、過剰なまでに反応した。……らしい。そうい
う失敗もある。だから、よけいにその母親には、正直には話せなかった。

 においにかぎらず、身体的な特徴などが、いじめの理由や原因になることは多い。しかしそ
れを口にするのは、教育の場では、タブー中のタブー。当然である。……ということで、におい
の話は、ここまで。

 ただここで言えることは、においには、人間の道徳や理性を狂わすパワーがあるということ。
私は、それを書きたかった。そしてこの文章を読んだあなたは、あなた自身や、あなたの子ど
ものにおいについて、少しだけ、反省してみてほしいということ。

 あなたはともかくも、あなたの子どもが、それが理由で、みなに、いじめられたり、仲間はず
れにされているようなら、入浴のし方を、もう一度、指導しなおしてみたらよい。

【付記】

 実際には、子どもは、においには、きわめて敏感である。他人の体臭に敏感というだけでは
ない。自分の体臭を指摘されることについても、敏感である。子どもによっては、ときに異常と
もいえるほど、過激に、反応する。

そんなわけで、親子でも、子どものにおいについて指摘するときは、慎重に! かなり良好な
関係にある人でも、親が、子どもに、「におい」のことで注意したりすると、とたんに、雰囲気が
険悪になったりする。私の息子の一人も、歯周病か何かで、口臭がひどくなったことがあった。

 そのとき私は、軽い気持ちで、「おい、臭いから、一度、歯医者で、歯垢(しこう)を取ってもら
ってきたら?」と言っただけなのだが、その一言が、息子を激怒させてしまった。で、そのあと、
あれこれ本人の怒りをしずめ、納得させるのに、1時間ほど、時間がかかった。

 口臭も含めて、自分が放つにおいというのは、自分ではわからないもの。においには、そうい
う特性がある。
(はやし浩司 におい 体臭 性フェロモン)
(041101)



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20
●代償的過保護

 同じ過保護でも、その基盤に愛情がなく、子どもを自分の支配下において、自分の思いどお
りにしたいという過保護を、代償的過保護という。

 ふつう「過保護」というときは、その背景に、親の濃密な愛情がある。

 しかし代償的過保護には、それがない。一見、同じ過保護に見えるが、そういう意味では、代
償的過保護は、過保護とは、区別して考えたほうがよい。

 親が子どもに対して、支配的であると、詫摩武俊氏は、子どもに、つぎのような特徴がみられ
るようになると書いている(1969)。

 服従的になる。
 自発性がなくなる。
 消極的になる。
 依存的になる。
 温和になる。

 さらにつけ加えるなら、現実検証能力の欠如(現実を理解できない)、管理能力の不足(して
よいことと悪いことの区別ができない)、極端な自己中心性なども、見られるようになる。

 この琢摩氏の指摘の中で、私が注目したのは、「温和」という部分である。ハキがなく、親に
追従的、依存的であるがために、表面的には、温和に見えるようになる。しかしその温和性
は、長い人生経験の中で、養われてできる人格的な温和性とは、まったく異質のものである。

 どこか、やさしい感じがする。どこか、柔和な感じがする。どこか、穏かな感じがする……とい
ったふうになる。

 そのため親、とくに母親の多くは、かえってそういう子どもほど、「できのいい子ども」と誤解す
る傾向がみられる。そしてますます、問題の本質を見失う。

 ある母親(70歳)は、そういう息子(40歳)を、「すばらしい子ども」と評価している。臆面もな
く、「うちの息子ほど、できのいい子どもはいない」と、自慢している。親の前では、借りてきたネ
コの子のようにおとなしく、ハキがない。

 子どもでも、小学3、4年生を境に、その傾向が、はっきりしてくる。が、本当の問題は、その
ことではない。

 つまりこうした症状が現れることではなく、生涯にわたって、その子ども自身が、その呪縛性
に苦しむということ。どこか、わけのわからない人生を送りながら、それが何であるかわからな
いまま、どこか悶々とした状態で過ごすということ。意識するかどうかは別として、その重圧感
は、相当なものである。

 もっとも早い段階で、その呪縛性に気がつけばよい。しかし大半の人は、その呪縛性に気が
つくこともなく、生涯を終える。あるいは中には、「母親の葬儀が終わったあと、生まれてはじめ
て、解放感を味わった」と言う人もいた。

 題名は忘れたが、息子が、父親をイスにしばりつけ、その父親を殴打しつづける映画もあっ
た。アメリカ映画だったが、その息子も、それまで、父親の呪縛に苦しんでいた。

 ここでいう代償的過保護を、決して、軽く考えてはいけない。

【自己診断】

 ここにも書いたように、親の代償的過保護で、(つくられたあなた)を知るためには、まず、あ
なたの親があなたに対して、どうであったかを知る。そしてそれを手がかりに、あなた自身の中
の、(つくられたあなた)を知る。

( )あなたの親は、(とくに母親は)、親意識が強く、親風をよく吹かした。
( )あなたの教育にせよ、進路にせよ、結局は、あなたの親は、自分の思いどおりにしてき
た。
( )あなたから見て、あなたの親は、自分勝手でわがままなところがあった。
( )あなたの親は、あなたに過酷な勉強や、スポーツなどの練習、訓練を強いたことがある。
( )あなたの親は、あなたが従順であればあるほど、機嫌がよく、満足そうな表情を見せた。
( )あなたの子ども時代を思い浮かべたとき、いつもそこに絶大な親の影をいつも感ずる。

 これらの項目に当てはまるようであれば、あなたはまさに親の代償的過保護の被害者と考え
てよい。あなた自身の中の(あなた)である部分と、(つくられたあなた)を、冷静に分析してみる
とよい。

【補記】

 子どもに過酷なまでの勉強や、スポーツなどの訓練を強いる親は、少なくない。「子どものた
め」を口実にしながら、結局は、自分の不安や心配を解消するための道具として、子どもを利
用する。

 あるいは自分の果たせなかった夢や希望をかなえるための道具として、子どもを利用する。

 このタイプの親は、ときとして、子どもを奴隷化する。タイプとしては、攻撃的、暴力的、威圧
的になる親と、反対に、子どもの服従的、隷属的、同情的になる親がいる。

 「勉強しなさい!」と怒鳴りしらしながら、子どもを従わせるタイプを攻撃型とするなら、お涙ち
ょうだい式に、わざと親のうしろ姿(=生活や子育てで苦労している姿)を見せつけながら、子
どもを従わせるタイプは、同情型ということになる。

 どちらにせよ、子どもは、親の意向のまま、操られることになる。そして操られながら、操られ
ているという意識すらもたない。子ども自身が、親の奴隷になりながら、その親に、異常なまで
に依存するというケースも多い。
(はやし浩司 代償的過保護 過保護 過干渉)

【補記2】

 よく柔和で穏やか、やさしい子どもを、「できのいい子ども」と評価する人がいる。

 しかし子どもにかぎらず、その人の人格は、幾多の荒波にもまれてできあがるもの。生まれ
ながらにして、(できのいい子ども)など、存在しない。もしそう見えるなら、その子ども自身が、
かなり無理をしていると考えてよい。

 外からは見えないが、その(ひずみ)は、何らかの形で、子どもの心の中に蓄積される。そし
て子どもの心を、ゆがめる。

 そういう意味で、子どもの世界、なかんずく幼児の世界では、心の状態(情意)と、顔の表情と
が一致している子どものことを、すなおな子どもという。

 うれしいときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔をする。怒っていると
きは、怒った顔をする。そしてそれらを自然な形で、行動として、表現する。そういう子どもを、
すなおな子どもという。

 子どもは、そういう子どもにする。 
(はやし浩司 すなおな子ども 素直な子供 子どもの素直さ 子供のすなおさ)


●精進(しょうじん)

 ほとんどの人は、人は、老人になればなるほど、経験が豊かになり、人格的にも高邁(こうま
い)になると考えている(?)。多分(?)。

 これはまったくの、ウソ。誤解。幻想。

 ウソであることは、自分が、その老人に近づいてみてわかった。

 老人になればなるほど、その住む世界が小さくなる。世間との交流も少なくなる。さらに脳細
胞がかたくなり、過去に固執するようになる。回顧性も強くなり、そこで進歩を止める。

 が、もっと大きな問題がある。実は、知識も、経験も、知恵も、どんどんと減っていくというこ
と。車の運転でたとえるなら、視野がせまくなり、まわりの様子が見えなくなる。もちろん運転の
しかたも、へたになる。注意力も散漫になる。

 しかし最大の悲劇は、そうなりながらも、老人のほとんどは、自分がそうであることに気づか
ないこと。「私は、絶対正しい」と、思いこんでいる老人の、何と多いことか。過去の職歴や栄華
にしがみついている人が、何と多いことか。

 他人の意見に耳を傾けない。人の話を聞かない。だいたい、本も読まない。

 昨日も、オレオレ詐欺のことが、新聞に載っていた。その人は、500万円近く、だまし取られ
たという。だますほうも、ますます巧妙になってきた。それはある。しかしこれだけ報道され、世
間の話題になっているのに、まだだまされる人がいる。そのことのほうが、問題なのである。

 言うまでもなく、だまされる人のほとんどは、老人。つまり、老人たちは、それくらい、学習をし
ていない! 世間を見ていない!

 何度も言うが、健康論と人格論は、似ている。立ち止まったときから、その人の健康にせよ、
人格にせよ、後退する。

 そういう意味では、老人になればなるほど、毎日、新しい情報を吸収し、考え、それを自分の
ものとしていかなければならない。それでも現状維持が精一杯。「進歩」などというのは、もう望
みようもない。現状維持ができるだけでも、御(おん)の字。

 「私は完成された人間だ」と思うのは、「私は完成された健康をもっている」と思うのと同じくら
い、愚かなこと。

 私がここに書いたことに疑問をもつなら、ためしにあなたの周辺の老人たちを観察してみれ
ばよい。あなたの周辺で、いつも前向きに生きている老人は、いったい、何人いるだろうか?

 ほとんどの老人たちは、かぎられた命の中で、ただ無意味に、時間を浪費しているだけ……
というのは、言い過ぎかもしれないが、現実には、そうではないのか。ほとんどの老人たちは、
明日死んでも、10年後に死んでも同じ……というような人生を送っている。

 しかし、それがよいとは、だれも思わない。他人のことを言っているのではない。私たちは、
そうであってはいけないと言っている。

 だからあの釈迦は、「精進」という言葉を使った。「死ぬまで、生きて生きて、生き抜く。それが
精進だ」と。繰りかえすが、立ち止まったときから、その人の人格は、後退する。

【注、精進】……一心に仏道を修行すること。ひたすら努力すること。(日本語大事辞典)
 

●子育ての本当のおもしろさ

 母親の養育態度は、子どもの性格や心理のみならず、生きザマにも、大きな影響を与える。

 たとえば子どもを甘やかせば、子どもは「わがまま、反抗的、幼児的、神経質」(詫摩武俊氏)
になるという。

 それはそのとおり。が、問題は、そのつぎ。つまりこうして(つくられた私)が、そののち、なお
るということは、まず、ない。たとえば甘やかされて育った子どもが、ここでいうわがままで、反
抗的な子どもになったとする。しかしそうした性格が、子ども時代だけで終わるわけではない。

 そのまま、おとなになってからも、ずっとつづく。さらに、とくに何か大きな心境の変化でもない
かぎり、死ぬまでつづく。『三つ子の魂、百まで』とは、本当に、よく言ったものである。

 そこで今、あなた自身は、どうか。それを少しだけ、さぐってみてほしい。

 あなたの中には、(私であって、私である部分)と、(私であって、私でない部分)が、同居して
いるはず。あるいは「私は私」と思っている部分にしても、大半は、実は(つくられた私)かもし
れない。

 この(私であって、私でない部分)に気づくことは、とても重要なことである。

 たとえば子どもを虐待する親がいる。いろいろな調査結果を見ても、約50%の母親が、子ど
もに体罰を加えていることがわかっている。そのうち、約70%、(全体としてみれば35%)近い
母親は、虐待に近い体罰を加えていることがわかっている。

 で、そうした虐待にしても、(私であって、私である部分)が、そうしているというよりは、(私で
あって、私でない部分)が、そうしていると考えたほうがよい。(だからといって、正当化している
のではない。誤解のないように!)

 ほかに母親の育児態度が、残酷であったりすると、子どもは、「強情、冷酷、神経質、逃避
的、独立的」(詫摩)になるという。

 そこでもし今のあなたが、強情で、冷酷で、神経質で、逃避的で、独立的なら、そういう性格
は、あなた自身が、みずからつくりあげたものというよりは、母親の育児態度の中でつくられた
ものであるということになる。

 それが(私であって、私でない部分)ということになる。

 こうして考えてみると、私を知ることは、本当にむずかしい。どの人も、「私のことは、私が一
番よく知っている」と思っている。しかし実のところ、「私」を知っている人は、ほとんどいない。

 そこで私を知るための一つのヒントとして、あなたは、一度、あなたは子ども時代、どういう生
活環境の中で、どのような子育てを受けたかを、少しだけ思い出してみたらよい。

 もしあなたが、どこか幼稚ぽく、依存的で、神経質。さらにものの考え方が受動的で、おく病な
ら(詫摩)、それはあなた自身でそうなったというよりは、親、とくに母親の養育態度の結果とし
てそうなったと考えたらよい。

 そうして自分の中から、(私であって、私である部分)と、(私であって、私でない部分)をより
わけていく。

 つまり、これが結論ということになるが、子どもを育てるということは、結局は、自分を発見す
ることにもなる。言いかえると、そこに幼児教育というか、子育ての本当のおもしろさがある。
(041106)





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