書庫138523
はやし浩司
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1
●こらえ性(?)

●異論、反論

 主婦向け投稿誌「W」の編集長の、T氏(女性)が、今度、本を出版した。題して『母と子のxxx
x』(仮称・K出版社)。

 その中で、T氏は、こう結論づけている。「子どものいいなりになる育児は、結局は、こらえ性
のない子どもをつくる」と。

 その結論は正しいとしても、T氏は、その一つの理由として、「ゼロ歳児における母親の異常
な手のかけすぎ」をあげる。

 たとえばフランスでは、約44・9%の母親が、子どもが生まれたときから、母子は、別々の部
屋で寝ているが、日本では、約5・9%にすぎない(「日仏女性資料センター、90年」などの事
実をあげる。

 そして、「子どもが赤ちゃんのとき、抱いてばかりいた母親の子どもほど、こらえ性のない子ど
もになる」と。

 私は新生児から乳児については、よく知らない。しかしこのT氏の説は、どこかおかしい。私
自身の孫のこともある。

 孫の誠司は、やや早産で生まれたこともあり、夜泣きがひどかった。生後まもなくから、目を
さましているときは、いつも泣いていた。嫁が、アメリカ人だったこともあり、いわゆるアメリカ流
に、生まれたときからベッドを分けた。

 4、5か月くらいしてからのこと。私のワイフが、二男に、孫を間にはさんで、川の字になって
寝るようにすすめた。アメリカでは、めずらしい育て方である。が、とたん、夜泣きは、ウソのよ
うに消えた。

 もちろん手のかけすぎは、よくない。それは幼児教育の世界でも常識。しかし「求めてきたと
きが、与えどき」というのは、事実。子どもが、何かのスキンシップを求めてきたら、すかさず、
ていねいに答えてあげる。子どもを体で包んであげたり、キスをしてあげる。ぐいと力を入れて
抱くのがコツ。

 しばらくすると、子どものほうが安心し、体を離そうとする。そのときは、そのまま体を離す。

 こうしたスキンシップの量には、個人差がきわめて大きい。そのときの子どもの精神状態もあ
る。子ども自身の情緒の安定度の問題もある。1回に何分間、1日に何回抱けばよいと、単純
に決められるような問題ではない。あくまでも子どもを見ながら、判断する。

 だから「フランスではこうだから……」という短絡的な思考で、「では、日本でも、こうあるべき
だ」という発想は、必ずしも正しくないのでは(?)。

 なお、こらえ性(おもしろい言い方だと思うが……)、つまり忍耐力は、もっと別の角度から論
じられるべきではないか。ある時期には、子どもは、濃密な母子関係を必要とする。心理学で
いう、基本的信頼関係も、そういうところから築かれる。

 そういう時期に、愛情飢餓、親の拒否的姿勢と、子どもに誤解されるような行為は、決して好
ましいことではない。あえて言うなら、T氏は、親のでき愛と母子の密着性の問題を、どこか混
同しているのではないかとも思う。

 たいへん生意気な意見かもしれないが、一つの反論意見として……。





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●携帯電話

●携帯電話VS統計学

 携帯電話が、子どもたちの世界を、変えてしまった! 今では、高校生の95%以上が、携帯
電話をもち、反対にもっていない子どものほうが、「変わり者」と呼ばれるようになってしまっ
た!

 それについて、こんな興味深い調査結果(?)がある。

 警察庁の調査によると、「携帯電話の所持率について、非行少年は、72%。一般少年は、5
7%」と。つまり「非行少年ほど、携帯電話への依存率が高い(?)」と。

 02年、「青少年問題研究会」(YM委員長)による調査結果だという。

 それによると、

 ★携帯電話の所持率……検挙されたことのある少年 ……72%
            検挙されたことのない少年 ……57%

            高校生については、差がない……90%

 この調査結果をふまえて、「検挙されたことのある非行少年のほうが、検挙されたことのない
一般少年より、携帯電話の所持率や、使用頻度が高かった」(朝日新聞)と。

 しかしこの論法は、おかしいのでは……?

 私も、となりのK市で、高校生たちに直接聞いて調べたことがあるが、数年前ですら、所持率
は、90〜95%くらいだった。「君たちのクラスは何人?」「携帯電話をもっていない友だちは、
何人?」という調査方法で、調べた。

 ここでいう「少年」という範囲が、あいまいである。ふつう警察庁が「少年」というときには、中
学生、高校生をいう。もちろん女子も含まれる。

 この調査結果を見ると、あたかも、携帯電話をよく使う子どもほど、非行に走りやすいという
ような印象をもちやすい。しかし、よくよく考えてみると、おかしい?

 もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 「ナイフによる殺傷事件を起こした子どもを調べてみたら、100%が、ナイフを所持してい
た。一般少年の所持率は、10%だった」と。

 さらに「非行少年を調べてみたら、女子の非行率は、50%だった」と。

 こんなことは、当たり前のことで、あえて調査をするまでもない。以前、どこかのある大学の教
授が、こんな調査結果を発表したことがある。

 「情緒障害児を調べたら、72%が、塾通いをしていた。情緒障害の原因は、塾通いである」
と。

 当時、中学生の70%前後は、塾に通っていた。その教授は、北海道でも最大都市のS市
で、それを調査したという。「72%」という数字は、当たり前の数字である。これなども、「非行
少年を調べてみたら、女子の非行率は、50%だった」というのと同じ論法である。

 もちろん私も、携帯電話には、いろいろ問題があると思う。しかし、非行と携帯電話を直接結
びつけるのは、ありにも短絡的ではないのか。

 もう少し視点を変えて考えてみよう。

 仮に、こんな調査結果が出たとしたよう。

★コンビニの利用率……検挙されたことのある少年 ……72%
           検挙されたことのない少年 ……57%

★深夜番組の視聴率……検挙されたことのある少年 ……72%
           検挙されたことのない少年 ……57%
 
★運転免許の取得率……検挙されたことのある少年 ……72%
           検挙されたことのない少年 ……57%

 こうした結果をふまえて、「コンビニをよく利用する子どもほど、非行に走りやすい。深夜番組
をよく見る子どもほど、非行に走りやすい。運転免許をもっている子どもほど、非行に走りやす
い」と。

 警察庁がした調査は、何となく、先に、「携帯電話は悪い」という先入観があって、その上で、
それを非行と結びつけたような感じがしないでもない。

 あえて言うなら、問題は、「出会い系サイト」と呼ばれる、サイトである。これが非行の温床に
なっている。が、その出会い系サイトにアクセスするためには、携帯電話は必需品である。そ
の結果として、「非行少年ほど、携帯電話への依存率が高い」ということになったのではないの
か?

 あるいは仲間と非行をするについても、陰で、コソコソと連絡をとりあわねばならない。親の
前で、堂々と電話で連絡をとりあうということはできない。そういう点では、携帯電話は、便利な
道具である。

 殺傷事件を起こすためには、ナイフは、必需品である。同じように、出会い系サイトへアクセ
スするためには、携帯電話は必需品である。コソコソと連絡をとりあうには、携帯電話は必需
品である。

その結果として、(あくまでも結果として)、「検挙されたことのある非行少年のほうが、検挙され
たことのない一般少年より、携帯電話の所持率や、使用頻度が高かった」ということになった。

 ……というのは、少し、ひねくれた見方かもしれない。ここは、すなおに、「携帯電話には、い
ろいろ問題点がある。携帯電話は、子どもにはよくない」と考えたほうが、よいのかもしれな
い。どうも私には、こうした統計結果を見ると、すぐ疑ってみるクセがある。それがよくない?

 なぜか? 理由の一つは、学生時代に学んだ、統計学がある。統計学のM教授は、いつもこ
う言っていた。
 
 「統計で表される数字は、いつも疑え!」「統計的な数字に、あやつられるな!」と。

 その精神は、今でも、生きている。そのため、ここでも、少し、その数字をひねくって考えてみ
た。

【追記】

 こういう調査結果が発表されると、多くの母親たちは、こう誤解する。「うちの子は、携帯電話
ばかりいじっている。非行の始まりか?」と。

 殺傷事件を起こした子どもの、100%がナイフをもっていたからといって、逆に、「ナイフをも
っているからといって、殺傷事件を起こす」ということではない。

 こうした調査結果は、そういう誤解を生みやすい。それに今さら、「携帯電話に依存するのを
やめなさい」と、子どもを説得しても、意味はない。もちろん病的な携帯電話依存症(=依存う
つ)は、別である。それについては、またほかで考えてみたい。





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●意識のズレ

 中国の人や、韓国の人は、よく「日本人の歴史認識は、ズレている」という。しかし日本に住
んで、日本の中だけで、ものを考えていると、それがわからない。

 しかし方法がないわけではない。日本に住んでいても、その(ズレ)を知ることができる。

 今回の一連の、韓国の核実験を見れば、それがわかる。韓国の人たちは、「それはただ単
なる実験だった」「核兵器を作るつもりはなかった」「一部の学者がしたことで、政府は関係な
い」などと主張している。

 しかしこうした一連の実験が、日本人の私たちに、いかに大きな衝撃と、不信感を招いたこと
か。ついでに不安感も! 事実、毎日、日本の新聞は、このニュースを伝えている。が、その
一方で、韓国の新聞は、ほとんど無視。今日も、朝鮮日報のHPをのぞいてみたが、そのこと
については、一言も触れていない。

 つまり、これが私がいう(ズレ)である。

 しかしこの(ズレ)を軽くみてはいけない。この(ズレ)が、えてして、そのまま戦争につながるこ
とがある。現に今、K国による核実験は、すでに時間の問題とされる。「オクトーバー・サプライ
ズ」という言葉さえある。「この10月に、K国は、核実験をする」という意味である。

 もしK国が、核爆発の実験をすれば、周辺国に、いかに大きな衝撃を与えることか。恐らく、
K国の人たちには、それがわからないのではないか。と、同時に、これは、私たち日本人の問
題でもある。

 冒頭にも書いたように、中国の人や、韓国の人は、よく「日本人の歴史認識は、ズレている」
と言う。しかし肝心の私たち日本人には、それがわからない。しかしここは、やはり、謙虚に、
どうして彼らがそう言うのか、静かに耳を傾けてみる必要がある。

 事実、日本は、先の侵略戦争で、周辺の国々に、たいへんな迷惑をかけた。日本人も300
万人死んでいるが、その日本人は、同じく、300万人もの外国人を殺している。そうした事実を
忘れて、「日本人が日本で、何をしようが、日本人の勝手」という論理は、悲しいかな、この日
本の外では通用しない。

 今回、韓国の人たちは、内緒で、つまり秘密裏で、核実験を繰りかえしていた。いくら「核兵
器はつくるつもりはなかった」と言っても、それを信ずる日本人は、いない。つまり、これもその
(ズレ)の中に含まれる。

 とくに韓国がその核実験を繰りかえしていた時期というのは、日本が莫大な戦後補償(実際
には、「経済援助」という名目でなされたが……)を、していたころである。言うまでもなく、その
実験の目的は、日本に対して、核兵器を使うためである。K国や中国ではない。日本、である。

 はっきり言おう。

 日本も、かなり本腰を入れて、この問題には対処しなければいけない。今までのように、「アメ
リカが何とかしてくれるだろう」とか、あるいは、「いい子でいれば、世界は日本に対して、何もし
ないだろう」と考えるのは、あまりにも甘い。あくまでも実験にすぎなかったという、韓国の言い
分を鵜のみにするのは、あまりにも甘い。
 
 では、どうするか?

 平和を守るためには、いつも相手の立場で、相手が平和を守れるためにはどうするかを考え
る。その結果として、自分の国に、平和がもたらされる。もっとわかりやすく言えば、相手の(ズ
レ)の中で、平和を考える。

 日本が、過去に何をしたか。どんな脅威を与えたか。日本が今、何をしているか。どんな脅威
を与えているか。日本が、将来、何をするか。どんな脅威を与えるだろうか。そういうことを、相
手の立場になって考える。

 つまりは、平和教育というのは、反省の教育と言ってもよい。そういう視点で、ものを考えるこ
とができるようになったとき、もっと言えば、相手の立場で、相手の平和を考えることができるよ
うになったとき、日本は、真の平和を、自分のものにすることができる。

 今回の意識の(ズレ)は、まさに、そのことを、私たちに教えてくれる。

あのネール(インド元首相)は、こう書いている。

 『ある国の平和も、他国がまた平和でなければ、保障されない。この狭い相互に結合した世
界では、戦争も自由も平和も、すべて連帯している』(「一つの世界を目指して」)と。


●韓国の脱北者

 朝鮮日報社(韓国)の調査によれば、K国から脱北はしたものの、韓国社会に同化できず、
「アメリカ、カナダ、オーストラリアに移住したい」と考えている、脱北者が、69%もいるという(0
4年9月。脱北者、100人を対象)。

 現在の生活に不満……40%と。

 さらに衝撃的なのは、「合法的にK国に帰れる機会があればどうするか」という質問に、33%
が、「帰ることもできる」と答えていること。

 つまり「K国に、帰れるようなら、帰ってもいい」と。

 ……実は、このあたりが、私には、どうしても理解できない。K国といえば、徹底した反米教
育をしている国。その国で教育を受けた人たちが、K国がいやで、韓国へ逃げてきた。同じ朝
鮮語を話す、自由な(?)国、韓国へ、である。

 が、その韓国に、同化できない。同化できないということは、わかる。しかしそのあと、どうし
て、アメリカなのか? しかも69%! 69%という数字は、ほとんどとまではいかないにして
も、ほぼ大半とみてよい数字である。

 韓国社会には、何があるのだろう。反対に、何が欠けているのだろう。そう言えば、先月も、
その韓国からさらにアメリカに亡命した、元K国脱北者がいた。元K国政府高官だったという。

 この数字から推理すると、韓国という国は、意外と、自由のない国ということにもなるし、反対
に、K国という国は、意外と、自由な国ということにもなる。静かで、おとなしくしていれば、それ
なりに住みやすい(?)国なのかもしれない。

 それにしても、いろいろ考えさせられる調査結果である。

 ついでながら、昨日(9・16)の時事通信によれば、K国は、中国との国境沿いに、K国最強
の軍団を配置したという。一応、表面的には、脱北者を防ぐためということになっているそうだ
が……?

【北京16日時事】中国国営新華社通信の発行する国際問題紙・国際先駆導報は、16日、K
国との国境でK国脱出者らに対する警備に当たる中国部隊の活動を伝えたルポを掲載。この
中で、K国側は最高軍事指導機関「国防委員会」の直接指揮下にある最強部隊を、南北軍事
境界線(38度線)付近から、この地域に配転し、国境警備を強化していると報じた。

【杉野目晴貞先生のこと】

 昔、北海道大学に、杉野目晴貞という教授がいた。私がUESCOの交換学生で、韓国へ行
ったとき(1967年)、世話人にもなってくれた人である。

 私と韓国とのつきあいは、そのときから始まる。

 で、その杉野目先生は、やがて、田丸謙二先生の恩師であることもわかった。一度、田丸先
生と連名で、杉野目先生に手紙を出したことがある(1970年)。

 しかしその当時、杉野目先生は、体調を崩されているとかで、返事は、こなかった。それまで
は、何かにつけて、こまめに私の手紙に、返事をくれた。年賀状も交換していた。

 たまたま先週、何10年ぶりかに、その杉野目先生のことを、楽天日記に書いた。それで古
いアルバムをさがしてみたら、100枚近い当時の写真がみつかった。

 この写真は、杉野目先生と、38度線上にある板門店(ハンムンジョン)行ったときのものであ
る。長いテーブルの前にすわって、国連軍のガイドの説明を聞いているところ。

 右が杉野目先生。左が私。満20歳になる少し前の写真である。

 杉野目先生が話してくれたことは多い。しかし故人でもあるので、それについては、ここには
書けない。日本にとって、きわめて重要な、そしてすぐれた化学者であったという。先日、北大
出身の友人に、杉野目先生のことを話したら、「北大では、杉野目先生のことを知らない人は
いない。杉野目財団というのもあるよ」とのこと。

 「ヘエ〜」と言ったきり、つぎの言葉が出てこなかった。いっしょに、韓国中を旅したのが、ウソ
のようでもある。





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●失敗する子育て

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【失敗する子育て・子育てで失敗する親】
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子育てで、子育てに失敗する親たち

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 この話は、フィクションです。登場するのは、T君の母親とT君という、架空の親と子どもです。
今まで私の前を通り過ぎた無数の親や子どもたちの中から、(典型的な例)をあげ、子育てで、
子育てに失敗する親について、考えてみます。

 この話が、みなさんが、もう一度、自分の子育てをみつめなおすきっかけになれば、うれしい
です。繰りかえしますが、この話は、フィクション、つまり小説です。「私」という一人称を用いて
書いていますが、決して、私のことを書いているわけではありません。また登場人物も、実在す
る親と子どもではありません。そういうことを念頭に置いて、お読みください。

*******************

【1】

 子どもの学習で、重要なことは、子ども自身が、達成感を味わうようにすること。「ヤッター!」
という思い、それが子どもを前向きに伸ばす。心理学の世界でも、これを「強化の原理」とい
う。

 たとえば小学1年生に、20問の足し算の問題を出したとする。繰りあがりのない、答が10ま
での問題である。

 この時期、まだ指を使って計算する子どもは、少なくない。T君(小1)もそうだった。能力的に
は、上位にいたが、計算だけは、どういうわけか、苦手だった。私は、問題用紙のはしに丸を
描いて、計算するように指導した。

 T君は、懸命にそれをした。ほかの子どもたちより、2倍ほど、時間がかかった。

 で、T君は、やっとのことで、そのプリントをやり終え、私のところにもってきた。それを見て、
私は大きな丸をつけた。「できたね。よくやったね!」と。

 20問のうち、4、5問は、まちがっていた。しかしまちがっていたといっても、誤差の範囲。
が、それよりも重要なことは、T君に、自信をもたせること。私がT君をほめると、T君は、うれし
そうに笑った。それを見て、「ほら、この前より、ずっとはやくできるようになったじゃないか」と、
私は、またほめた。

 が、その日のレッスンが終わって、一息ついたときのこと。T君の母親が、そのプリントをもっ
て、私の教室へやってきた。そしてどこか緊張した口調で、こう言った。

 「先生、この答、ちがっていますよ!」と。
 
 私はすかさず、「一生懸命やってくれましたから、丸をつけてあげました」と答えた。

母「まちがっているのに、丸をつけるのですか?」
私「答には、あまり、こだわらないほうが、いいと思うのですが……」
母「ちゃんと、しっかりみてくださらないと、困ります」
私「はあ、今度から、そうします。ごめんなさい」
母「あとで、息子には、やりなおしをさせておきます」
私「……」と。

 しばらくすると、T君が、半べそをかきながら、私のところにもどってきた。「これ……」と言った
から見ると、先のプリントを手にしていた。「やりなおしたの?」と私が聞くと、「うん」と。

 駐車場にとめた、車の中でしたらしい。字が乱れていた。

私「よくやったね。さっきは、ぼくがまちがえた。まちがっているのに、丸をつけて、ごめんね」
T「うん」と。

 そのあと、廊下のほうから、T君の母親が、T君を叱る声が聞こえてきた。「どうして、こんな簡
単な問題ができないの! ちゃんとやっているの!」と。私は、廊下へおどり出た。母親とT君
は、まだそこにいた。

母「私は、1年生のとき、こんな問題なら、簡単にできました。どうしてTはできないのでしょう」
私「できないということではありません。数を信号化して、それをすぐ頭の中で、数えることがで
きないだけです。わかりやすく言えば、指を使って計算するというクセが、身についてしまった
からです。少し訓練すれば、もう少しはやく計算ができるようになります」
母「私は、小学1年生のときには、6足す7の問題もできました」
私「くりあがりのある足し算は、2学期に入ってから、学習します」と。

 T君の母親は、さも不満そうな顔をしていた。そしてそのまま、T君の手を引いて、駐車場の
ほうへと歩いていってしまった。

【2】

 子どもを自分の思いどおりにしたいと考え、自分の管理化におくことを、心理学の世界でも、
「代償的過保護」という。一見、過保護に見えるが、過保護ではない。

 ふつう過保護というときには、その背景に、親の濃密な愛情がある。しかし代償的過保護に
は、それがない。たとえば子どもの受験競争に狂奔する親がいる。この世界では、珍しくない。
このタイプの親は、「子どものため」という言葉を、よく口にする。が、本当のところは、自分の
不安や心配を、子どもにぶつけているだけ。

 もっと言えば、自分の不安や心配を解消するために、自分の子どもを利用する。あるいは子
どもを、自分の果たせなかった夢を果たす、道具に使う。それが代償的過保護ということにな
る。

 が、T君のばあいは、もう少し、複雑な事情が、それにからんでいた。

 T君の祖父は、静浜市でも、有名な医師だった。医師会の会長も、何期か務めたことがあ
る。財産家でもあった。

 しかしT君の父親は、そのときですら、実家の援助と仕送りを受けて、生計を立てていた。定
職をもっていなかった。つまりT君の母親は、夫と結婚したというよりは、夫の父親(T君の祖
父)の財産を当てにして、結婚したようなところがあった。

 いや、当初は、二人の間にも、恋愛感情があったのかもしれない。しかしT君の母親は、やが
て夫との結婚生活に幻滅。夫との離婚を何度も考えるようになった。が、それもままならぬとわ
かるようになると、今度は、一転、夫の父親の財産に目をつけるようになった。

 だからT君の母親の口ぐせは、いつも同じ。「Tを、医者にします。どうか、手を貸してください」
と。それを受けて、T君はT君で、「ぼくは、おとなになったら、おじいちゃんのようなお医者さん
になる」と言っていた。

 そのためT君の母親は、過激とまで言えるほど、T君の教育に、のめりこんでいった。

【3】

 子育ては、それ自体が、重労働である。どう重労働であるかは、それをしてみないとわからな
い。

 しかしその重労働も、夫婦の愛情がしっかりしていれば、乗りきることができる。子どもは、ま
さに(愛の結晶)ということになる。

 が、その基盤が、ゆらいだとき、その重労働は、苦痛へと変身する。そしてその苦痛は、長い
時間をかけて、母親の心をむしばむ。ストレスはさらにつぎのストレスを生む。そしてそれが幾
重にも折り重なって、いわゆる私たちがいう、「育児ノイローゼ」へと発展する。

 うつ病である。

 今、こうして育児の過負担から、育児ノイローゼになっていく母親は多い。症状は、お決まり
の抑うつ感から、情緒不安、不眠、慢性的な頭重感や頭痛などなど。

 T君の母親の様子が、どこかおかしくなり始めたのは、T君が、3歳くらいのときからだった。
ささいなトラブルで、隣人を大声で罵倒したかと思うと、その翌日には、手製の編み物をもっ
て、あやまりに行ったりした。

 その隣人は、こう言った。「とても、ものをもらえるような雰囲気ではありませんでしたので、そ
のまま帰ってもらいました」と。

 しかしその抑圧感が、母親の範囲で収まっていれば、まだ問題はない。T君の母親は、ことあ
るごとに、T君を、大声で怒鳴ったり、叱ったりしていた。

 が、T君は、母親にくらべて、精神的にはきわめてタフな子どもだったようだ。ふつうなら、(私
の経験の範囲なら)、そのため内閉したり、精神的に萎縮したとしても、おかしくなかった。親の
情緒不安ほど、子どもに悪影響を与えるものは、ない。が、T君は内閉することもなく、表面的
には、それなりに明るい子どもとして育った。

【4】

 そのT君が、母親に反抗し始めたのは、T君が、小学3年生になるころのことだった。最初、T
君の母親から、電話がかかってきた。「家で、遊んでばかりいて、勉強をしません」と。

 が、その数日後、私が教室へ入ろうとすると、入り口のところに、T君の母親が立っていた。
オロオロした様子で、こう言った。

 「先生、Tが、私と口をきいてくれなくなりました。学校の様子を聞いても、何も話してくれませ
ん。先生のほうから、もっと学校の様子を離すように、指導してください」と。

 が、そのころになると、私も、T君の母親とは、一線を引くようになっていた。

 T君の母親は、どこかつかみどころのない人だった。そういう印象をもち始めていた。気分の
移り変わりがはげしいというか、何を考えているか、わからなかった。昨日通りで会って、明るく
あいさつを交わしたはずなのに、その翌日の今日には、指導のし方がおかしいと、教室へ怒鳴
りこんでくるなど。そんな感じだった。

 夜中の1時すぎに、「相談がある」といって、電話がかかってきたこともある。あるいは、「昨日
は、長い電話をして、ごめんなさい」と、ほとんど意味のない電話がかかってきたこともある。

 私はT君の母親をなだめるだけで、精一杯だった。

私「もうそろそろ子どもも、親離れを始めますから……。どこの子どもも、そんなものですよ」
T君の母親「そうですか……。どこも、そうですかア……」と。

 それは痛々しいほどの狼狽(ろうばい)ぶりだった。


【5】限界

 子育てというのは、自分で失敗してみるまで、それが失敗だったと気づくことは、まず、ない。
失敗してみて、はじめて、親は、それが失敗だったと気づく。

 これは子育てにまつわる、宿命のようなものかもしれない。それには、いくつかの理由があ
る。

 その一つが、内政不干渉の大原則。

 たとえばレストランの中で、母子二人の、親子連れの横にすわったとする。母は、ハンバーグ
を食べ、子どもが、ソフトクリームを食べていたとする。子どもといっても、まだ4歳前後。食べ
ているソフトクリームは、子どもの顔より、大きい。

 体重10キロもない子どもが、ソフトクリームを一個食べるということは、体重50キロの母親
が、同じソフトクリームを5個、食べる量に等しい。

 おとなでも、5個は、食べられない。仮に、5個も食べれば、どうなるか……? しかしそういう
光景を見たとしても、それについて、私やあなたは、とやかく言うことはできない。

 これが内政不干渉の大原則である。

 つぎに、仮にそれがわかっていたとしても、「もし、まちがっていたら……」という迷いは、いつ
も、つきまとう。

 明らかに、つっぱり症状を示し始めた子どもがいたとしても、それは一時的なものかもしれな
い。あるいは、それ以上、症状が進まないかもしれない。生意気になったとしても、ある時期、
子どもは、みな、生意気になる。生意気になりながら、おとなになる。

 T君もそうだった。

 小学3年の終わりには、ますます生意気になった。こんなことがあった。

 帰りぎわ、私が、T君に、戸棚の整理を頼んだ。みなが使った道具類が、散乱していた。する
と、T君は、即座に、「どうして、ぼくがしなけりゃあ、いかんよ〜」と。それに強く反発した。そこ
で、私は、「君が、一番近くにいるからだ」とか、「ほかの人には、ほかの仕事を頼むから」と説
明した。

 本当のところは、そのT君が、一番乱暴に、道具類を使っていたからだ。だから私は、T君に
それをさせたかった。

 が、T君は、最後まで不機嫌な顔のまま。道具類を片づけながら、「ぼくがすれば、いいんでし
ょ、ぼくが」と、何度も吐き捨てた。

【6】

 しかし内政不干渉というのは、口実かもしれない。本当のことを言えば、親にそれだけの自
覚があれば、子どもの指導は、まだ可能。が、その自覚のない親には、いくら説明しても、ム
ダ。ムダであるばかりか、かえって、私の言ったことに反発してしまう。

 T君の母親は、何かにつけて、T君を大声で怒鳴りつけた。その声が、家の外まで聞こえてく
ることもあったという。

 そこで見るに見かねた、祖母(父親の実母)が、あるとき、T君の母親をたしなめた。「子ども
は、大声を出して育てては、いけない」と。

 するとT君の母親は、その場で、T君を呼びつけ、「T! お母さんが、いつ、あんたは怒鳴っ
たア!」と。「怒鳴ったことなどないわよね。だったら、おばあちゃんに、ちゃんと、そう言いなさ
い!」とも。

 すでにそのときT君の母親は、T君に向かって怒鳴っていた。が、T君の母親には、その自覚
は、まったくなかった。つまりそういう言い方が、T君の母親には、ごくふつうの言い方だった。

 これは一例だが、子育てというのは、一事が万事。T君の母親は、あらゆる面で、そうした子
育てをしていた。頭ごなしの、命令口調。それ以外の子育てができないというより、知らなかっ
た。というのも、どんな母親でも、自分が受けた子育てしか知らない。それが悪いというのでは
ない。もともと、子育てというのは、そういうもの。

 だから、無意識であるにせよ、(まったくの無意識状態と言ったほうが、正確かもしれない
が)、親というのは、よきにつけ、悪しきにつけ、自分が受けた子育てを繰りかえす。

 T君の母親も、そうだった。

【7】

 九州の北部という土地柄もある。そのあたりでは、そうでない地域の人には信じられないほ
ど、親意識が強い。いまだに家長制度が、色濃く残っている。

 たとえば娘でも、一度嫁いで家を出れば、他人。まったくの、他人。実家へもどるときも、シー
ツを持参するという。「父親はもちろんのこと、母親にですら、反発することなど、考えられませ
ん」と、T君の母親は、言った。T君の母親は、その九州北部のS県の出身だった。

 だからそういった家長制度に、心のどこかに反発しながらも、その一方で、T君の母親は、T
君が、反発したり、口答えすることを許さなかった。ことあるごとに、「親に向かって、何てこと言
うの!」が、口グセになっていた。

 T君は、母親に、表面的には、従順に従っていた。が、もう一つ、大きな問題があった。

 先にも書いたように、T君の父親には、生活力がなかった。柔和でおだやかな人だったが、
ハキがなかった。仕事といっても、短期間のアルバイトを繰りかえすだけ。店員になったり、配
達業を手伝ったり。工事現場の旗振りの仕事をしたこともある。

 そういう父親を、T君の母親は、ことあるごとに、けなした。

 「お父さんは、稼ぎがないからね」
 「お父さんは、だらしない人よ」と。

 こういう関係は、決定的に、まずい。心理学の世界でも、「三角関係」と呼ぶ。父親と母親が、
バラバラになってしまい、子どもとの間に三角関係ができてしまうことをいう。

 子どもが小さいうちならまだしも、子どもの自己意識が育ってくると、子どもは、両親のスキを
ねらって行動するようになる。具体的には、どちらの親の言うこともきかなくなる。親をバカにす
るようになる。

 子どもの側からみると、ちょうど、凧糸の切れた、凧のようになる。ハンドルのない、自動車の
ようになる。その傾向が、T君にも見られるようになった。

【8】

 親子の断絶は、最初は、小さなキレツで始まる。そのキレツが始まったところで、本来、親は
それに気づき、手を打たなければならない。しかし、ほとんどの親は、こう考える。

 「まだ、何とかなる」「うちの子にかぎって、そんなはずはない」と。

 しかし一度、キレツが入ると、あとは竹を割ったように、そのキレツは大きくなる。パリッと、
だ。

 こんな事件があった。

 T君が4年生になったまもなくのころ。T君の母親が、買ったばかりの新車を、自動販売機に
ぶつけてしまった。自損事故である。私は、その事故のことを、T君の母親から、直接聞いて知
っていた。

 で、その数日後のこと。私はT君と会ったので、こう切り出した。

私「お母さん、事故、起こしたんだってね?」
T(ふてくされた様子で)、「知らね〜よ」
私「けがはなかったの?」
T[知らね〜よ、って]
私「知らないって、お母さんがけがをしたら、たいへんだよ。心配しないのか?」
T(さらにふてくされた様子で)、「知らねえって、ば」と。

 子どもというのは、その人に対する印象をそのまま表現することがある。もう30年近くも前の
ことだが、こんなことがあった。

 年中児の子どもたちに、父親の絵を描かせていたときのこと。一人、父親の顔を描いたとた
ん、クレヨンで、その顔を真っ黒にぬりつぶしてしまう子どもがいた。そこでその紙をとりあげ、
新しい紙を渡し、もう一度描かせた。が、結果は、同じ。また、父親の顔を書いたとたん、黒く、
ぬりつぶしてしまった!

 あとで理由を聞くと、母親は、こう言った。

 「あの前の夜、はげしい夫婦げんかをして、夫は、家を飛び出してしまいました」と。そのと
き、その母親は、「蒸発」という言葉を使った。当時、流行していた言葉である。「突然の家出」
のことを、「蒸発」と言った。

 T君もそうだった。ふつうは……、こういうケースでは、「ふつう」という言い方は、慎重にしなけ
ればならないが、ふつうは、母親が事故を起こせば、子どもは、それについて心配する。

 しかしT君は、その様子を見せなかった。見せないばかりか、私から視線をはずした。どこか
心がゆがみ始めた子どもがよく見せる、「横視現象」である。

【9】

 心がゆがみ始めると、子どもは、さまざまな、しかし独特の症状を見せるようになる。原因
は、欲求不満と考えてよい。あるいは欲求不満に準じて、考える。症状としては、なげやりで横
柄な態度。肩をいからせて歩く、乱暴な言葉など。

 心はいつも緊張状態にあるため、ささいなことで激怒しやすくなる。被害妄想性と過剰行動性
を示すことも多い。俗にいう、キレやすい状態になる。精神医学の世界では、突発的なさく乱状
態のことを、「キレル」という。

 そのほか生活態度としては、目標や目的が守れない、退廃的になりやすいなど。その場だけ
の享楽的な楽しみを求めるようになる。

 T君が見せた、横視現象も、その一つに当たる。自分の心を見すかれないようにするため、
無意識のうちにも、相手から視線をはずす。

 しかしこの段階でも、外の世界では、ふんばる子どもがいる。家の中では荒れても、外の世
界では、それを見せない子どもである。仮面をかぶるのがよいわけではないが、しかし外の世
界でも、その「荒れ」を見せるようになったら、症状は、かなり重いとみる。

 私は、T君を傍(はた)から観察した。どこか乱暴な様子は見せるが、それは私だからわかる
こと。素人が見たら、ごくふつうの、どこにでもいる、明るい活発な子どもに見えたかもしれな
い。

 私が、最初に迷ったのは、このときである。「母親に、それを告げるべきか、どうか」と。

 しかしこういうケースでは、母親に話して、それでうまくいくのは、10に1つもない。ほとんどの
母親は、二番底、三番底の恐怖を知らない。今の状態を最悪と考えて、その時点で、子どもを
何とかしようとする。その無理が、子どもの症状をこじらせる。

 よくある例が、子どもの門限破り。

 ふつう子どもが門限を最初に破ったりすると、親は、そのとき、子どもをきつく叱る。で、しば
らくは、子どもも、おとなしくしているが、また門限を破る。すると親は、さらに強く叱る。

 しかしこれをしばらく繰りかえしていると、子どもは、外泊。さらには、家出、集団非行へと進
んでいく。二番底、三番底へと落ちていくわけである。

 が、最近では、さらにその底がある。妊娠、中絶などは、まだよいほう。すでに中学生でも、
深刻な性病になるケースすら、ある。

【10】

 小学5年生になるころには、T君は、だれの目にも、荒れた子どもに見えるようになった。行
動も、大胆になってきた。友だちを殴ったり、蹴ったりすることもあった。バス停のイスをほうり
なげて、防風用の塀をこわしてしまったこともある。T君の母親は、そのたびに、学校へ呼び出
された。

 もうこうなると、打つ手は、ほとんどない。T君にしてみれば、先生にせよ、友だちにせよ、み
ながこわがることのほうが、居心地がよい。そんなわけで、(みなに嫌われる)→(行動がます
ます粗放化する)の悪循環の中で、T君の行動は、さらに大胆になっていった。

 学校をサボル。授業を妨害する。仲間と、ゲームセンターにいりびたりになり、ときに、外泊も
する。もちろん、勉強どころではない。T君の母親は、こう言った。

 「もう、こわくて、私からは、何も言えません。どうか先生のほうから、説教してください」と。そ
のときT君の身長は、すでに、母親をこえていた。

 が、ここにも書いたように、私とて、無力でしかない。「もうこれ以上、症状を悪くしないように、
それだけを考えて、あきらめるべきところは、あきらめなさい」と。

 事実、その時点で、T君を放り出すようなことをすれば、今度は、「犯罪行為」に走るようにな
るかもしれない。その可能性は、じゅうぶん、あった。

 で、T君は、こうして小学校を卒業し、一応、中学校へと進学した。同時に、私のところからも
去った。

++++++++++++++++++++

 ここで架空の親子、T君と、その母親について、書いた。しかし、こういう失敗例は、多い。本
当に多い。親子の歯車がどこかで狂い、かみあわなくなる。そしてあとは、お決まりの断絶。

 しかしT君がまだ幼児のころ、T君がやがてそうなると、T君の母親は、想像できただろうか?
 答は、ノーである。T君の母親は、T君を医者にすると言っていた。T君も、医者になると言っ
ていた。

 しかしその夢は、T君が中学生になるころには、完全にうちくだかれてしまった。母親はこう言
った。「何とか、中学校だけでも、しっかりと出てほしい」と。今では、「人様に迷惑さえかけなけ
れば、それでいいです」「どこかで大きな事件が起きるたびに、つぎはうちの子ではないかと、
ハラハラしています」とも。

 T君のような例のほか、ほかにも失敗例は、多い。無理な学習が、子どもを無気力にしてしま
った例。さらには、子どもの心までゆがめてしまった例など。しかしこうした失敗で共通している
のは、最初から、親が、子どもの心を見失ってしまっていること。子どもの心を見ようともしな
い。

 「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」という過信と誤解のもと、自分流の子育て
を、子どもに押しつけてしまう。

 が、相手は、生身の人間。あなたや私と、どこもちがわない、同じ人間。「やらせればできる」
と考えるのは、あなたの勝手かもしれないが、一度でよいから、子どもの立場で、子どもの視
線で、考えてみたらよい。

 そういう謙虚な姿勢が、子どもの心を開く。こうした失敗を防ぐ。それについては、マガジンの
ほうで、追々書いていきたい。
(040917)





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●おけいこごと

**************************

F市に住んでいる、Mさん(母親)から、子どものおけいこ
ごとについて、相談があった。

子どもは、「行きたくない」と言う。しかしMさんは、「こ
こでやめさせたら、中途半端で終わってしまう。人間的に
だめになるのでは?」と、悩んでいる。

「どうしたらいいか?」と。

**************************

【Mさんへ……】

世界の人たちをみると、
みんな、もっと気楽なんですよ。

生きザマそのものが……。

ヨーロッパ人なんか、平気で
長期のバカンスを楽しんだりしています。

オーストラリア人も、です。

休暇で日本へ来ている間も、仕事のことなど、
まったく考えていない。目一杯、休暇を楽しんでいます。

日本人だけが、くそまじめ。本当にくそまじめ。

たかが子どものおけいこごと。そんなことにまで、
「やめたら、人間的にだめになる」などと、
おおげさに考えてしまう。

このくそまじめさは、一体、どこからくるのでしょうか?

私は、それが教育だと思うのです。

先日も、K市のある小学校に行ったら、
そこの校長が、こう悩んでしました。

「このあたりは、ブラジル人が多いです。
ある日突然、学校へ子どもをつれてきて、
教えてくれと言ったりします。

しかしやめるときも、簡単。
ある日突然、学校へこなくなる。

そこで聞いていみると、転勤しました、と。
実に簡単なのですね。

教える側としては、やりきれないのですが……」と。

こんなところにも、日本人とブラジル人の
ちがいがあるようです。

人生を楽しもうとする、ブラジル人。
くそまじめになって、仕事を優先させる日本人。

そしてそれがそのまま、子育てに反映されている!

あなたも、もっと、体のクサリを解いて、
自由に、気楽に考えたらいいのです。

もちろんまじめに生きるべきところは、まじめに
生きる。しかしそれはこういった問題とは
別問題です。

たかがおけいこごと。子どものおけいこごと。

もちろん楽しみ方にも、いろいろあると思います。
お金をかけて、遊園地へ……という発想ではなく、
別の方法です。

ぼくなんか、万年、失業者、プロのフリーター
ですから、定職意識は、ほとんどありません。

少し、生きザマがちがうようですね。

しかしね、あなたの生きザマは、決して国際的な
標準ではありませんよ。

実に日本的。

先日も、最近リストラされた友人がこういいました。

「ぼくは、一社懸命(一生懸命をもじったもの)で
がんばってきた。

しかし林君は、20代のとき、三井物産をけっとばして
出た。林君は、すでにそのころ、会社勤め(=くそまじめ)
がばからしいと、気がついていたのか?」と。

ぼくは、胸をはって、こう言いました。

YES!、と。

ぼくが、オーストラリアの留学時代に学んだものと言えば、
その「自由」です。

さあ、あなたも肩の力を抜いて!
くそまじめなんか、つまらないですよ。

何を、そうまでおびえているのですか?
何を、そうまで守らなければならないと考えているのですか。
気楽に、気楽に!

今、大きな落雷がありました。
パソコンの電源を切らねばなりません。

++++++++++++++++++++++

追記

やはり、停電になりました。
あやうくセーフでした。

で、今は、電源も回復。

改めて、この問題について、考えてみます。

実はね、国民性というのも、個人の精神状態が集合
されて決まるのですね。

子どもの世界には、(おとなもそうですが……)、
「基底不安」という言葉があります。

この基底不安型タイプの子どもは、何をしても不安。
休みになっても、その休みを楽しむのではなく、
休みながら、明日のことを心配する。

原因は、乳幼児期の母子関係にあるとされています。

で、実は、日本という国全体をみたときも、
同じことが言えるのですね。

日本という国には、日本人が安心してよりかかれる、
精神的バックボーンが、ないのです。

一応仏教というのもありますが、どこか儀式的?
活動している教団にしても、どこかカルト的?
組織信仰が主体で、「個人」が、どこか置き去りに
なっている?

そこで戦後の日本は、「マネー崇拝」へと走った。

ぼくは、日本人が、なぜこうまで基底不安型の
国民性をもってしまったかといえば、こうした背景が
あるのではないかと思います。

(組織信仰をしている人も、結局は、その基底不安
が背景にあって、そうしている?
何かに追いたてられるかのように布教活動を
しているのも、その一つ。)

仕事をしていないと、不安なのですね。

こうした基底不安は、とくにぼくのような
団塊の世代は、強くもっています。

学生時代にしても、何かに追いたてられるようにして、
いつも、(未来)のために、(現在)を犠牲に
することばかりを、強いられてきた。

友人がいう、「一社懸命」という発想は、そういう
ところから生まれたのですね。

もちろん女性とて、そして子どもたちとて、例外では
ありません。それが日本人の国民性だからです。

話は変りますが、尾崎豊の『卒業』、ご存知ですよね。

「♪夜の校舎、窓ガラス、壊して回った……」というあの歌です。

最初は、「とんでもない歌だ」と思いましたが、
私はすぐ、その歌が、大好きになりました。
ミイラ取りが、ミイラになったような感じです。

みんな、日本人は、「しくまれた自由」を、自由と
思いこんでいただけかもしれません。

今も、そうです。

「子どもは自由に育てる」と言いながら、その
自由の意味が、本当のところは、わかっていない?

自由というのは、「自らに由る」という意味です。

自分で考えさせ、行動させ、そして責任をとらせる。
それが自由です。

が、「あんたは、音楽教室へ行きなさい」と子どもを、
音楽教室へ入れる。

そしてそれを子どもがいやがると、「このままでは
子どもはだめになってしまう」と、悩む。
「あんたが行くと言ったから、行くんでしょ。
途中で投げだすなんて、どういうこと!」と、子どもを責める。

どこにも自由がないのが、わかりますか?

実は、ぼくも、あなたも、そういう国の中で、
生まれ、育っているのです。

こういう自分をがんじがらめにしているクサリを
解くのは、容易なことではないでしょうね。

まず、そのクサリに気づかねばなりません。
つぎに気づいたら、自分の生きザマそのものを
変えねばなりません。

変えるだけならともかくも、自分を取りかこむ、
周囲の人たちとも戦わねばなりません。
何といっても、この日本では、自由に生きる人は、
マイナーな存在ですから……。

今朝も、「フリーターは、生涯賃金で2億円の差」
(週刊「Y」)という見出しが目に飛びこみました。

つまり、フリーターは、損だ、と。

雑誌社という、組織にいる人の意見としては、
そういうふうに言わざるをえないのだろうと思います。

自由に生きる人間を認めたら、自己否定の世界に
陥ってしまいますから……。

しかし、何が、損で、何が、得なんでしょうかね?

今、日本人は、オーストラリア人の約2倍の給料を
手にしています。
で、その日本人が、それだけ、得をしているかと
いうと、どうも、そうではないような気がします。

何かしら、無駄なものばかり買って、
無駄なことばかりしているような気がします。

そして大切でないものを、大切だと思いこんでいる。
そして大切なものを、大切でないとそまつにしている。

Mさんの、今の悩みには、そんな日本人全体が
かかえる、国民性がすべて集約されているように
思います。

幼児期は、もっと気楽に考えてあげてください。

幼稚園にしても、保育園にしても、
そして、おけいこごとにしても、
どこかのレストランにでも行くように、
もっと、気楽に考えればよいのです。

学校も、です。

子どもが不登校を起こしたりすると、
日本の親たちは、たいてい、狂乱状態になりますね。
そういう民族は、世界広しといえども、
日本人くらいなものですよ。

「明日は、幼稚園をサボって、ママと、
動物園へ行ってこようか?」と、あなたも、
勇気を出して、言ってみてください。

「♪この支配からの、卒業〜」です。
(040918)


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●不登校

●心の混乱

 自分の子どもが不登校を起こしたりすると、たいていの親は、狂乱状態になる。長男、長女
のときは、とくにそうだ。

 それについては、何度も書いてきた。

 問題は、なぜそうなのか。さらに、それを防ぐには、どうしたらよいかということ。

 実は、こうした心の混乱には、いつも二面性がある。

 自分の子どもが、一つのコースからはずれるとわかったときの恐怖感は、相当なものであ
る。言葉では表現しがたい。それはわかる。が、なぜ、そうまで恐怖感を覚えるかといえば、そ
こに、それまでの自分自身の生きザマが、そこに集約されるからである。

 私たちは、無意識のまま、心のどこかでコースからはずれていく人を、さげすみ、排斥する。
あるいは、自分とはちがった生き方をする人を、認めない。認めないというよりは、許さない。こ
れは人間という動物が、動物としてもっている本能のようなものかもしれない。

 だから、自分にせよ、自分の子どもにせよ、そのコースからはずれ始めると、言いようのない
恐怖感を覚える。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 学歴をことさら気にする人というのは、学歴コンプレックスをもっている人は別として、その人
自身がその学歴にぶらさがって生きているか、反対に、学歴のない人を、さんざん笑ったり、
軽蔑しているかの、どちらかとみてよい。笑ったり、軽蔑したりしているから、今度は、逆の立
場に立たされたとき、その人は、その何倍も、苦しむ。

 同じように、なぜ、人は、コースからはずれるのを、こうまで恐れるかと言えば、無意識である
にせよ、そのコースからはずれる人を、心のどこかで、笑ったり、軽蔑したりしているからであ
る。

 では、どうするか?

 要するに、人の不幸を笑ってはいけないということ。笑った分だけ、いや、その何倍も、今度
は自分が同じ立場に立たされたとき、苦しむ。

 だから私はあえて、言う。あなた自身は、どうか、と。

 何か、問題のある子どもや親を、あなたは、笑ったり、軽蔑したりは、していないか、と。もし、
そうなら、そういう考え方は、今すぐ、改めたほうがよい。でないと、いつか、今度は、あなた自
身やあなたの子どもの問題として、その何倍も、苦しむことになる。

 こんなことを言う親がいた。

 「ADHD児なんて、教室から追い出せばいいのです。みんなの迷惑になるだけです」と。

 もう15年ほど前になるだろうか。S県のある小学校で、車椅子に乗った身体障害児に対し
て、その入学に反対する集会が開かれたこともある。(ホントだぞ!) 理由は、「そういう子ど
もが入学してくると、子どもたちの学習に、さしさわりが出るから」だった。

 また私にこう言った、経営者がいた。

 「何だかんだといっても、この世界は、弱肉強食の世界です。力のある人がいい生活をする
のは、当然のことです。力のない人は、それなりの生活をするのも、これまた、当然のことで
す」と。

 さらに面と向って、私にこう言った人もいる。私が「幼稚園で働いています」と言ったことに対し
て、だ。

 「君は、学生運動か何かをしていて、どうせ、ロクな仕事にありつけなかったんだろう」と。

 「幼稚園で働くのは、ロクな仕事ではない」と。

 言いたければ、そう言うがよい。思いたければ、そう思うがよい。しかしそう言ったり、思った
りすればするほど、今度は、自分が逆の立場に立たされたとき、その何倍も苦しむことにな
る。

 ある母親は、毎晩、中学3年生の娘と、「勉強しなさい!」「うるさい!」の大乱闘を繰りかえし
ていた。なぜか? 実は、その母親自身が、いつも、他人を、その出身高校で判断していたか
らである。「あの人は、S高校出身なんですってねえ」「あの人は、D高校しか出ていないんです
ってねえ」と。自分自身も、市内でも、ナンバーワンといわれる、S高校の卒業生だったこともあ
る。

 だから自分の娘の学力がそこまでないとわかったとたん、その母親は、パニック状態! 他
人を笑ったり、軽蔑した分だけ、自分で自分のクビをしめたことになる。

 こうした心の混乱をふせぐためには、日ごろから、自分より弱者に暖かくする。新約聖書の中
にも、『慈悲深い人は、祝福される。なぜなら、彼らは、慈悲を与えられるだろう(Blessed are 
the merciful, for they will be shown mercy)』(Matthew 5-9)というのがある。

 この一文を逆に読むと、(私のようなものが解釈することは、おそれおおいことだが)、「日ご
ろから、他人にやさしくしている人ほど、自分が逆に、その人の立場に立たされたとき、その苦
しみから救われる」ということになる。

 自分の子どもがコースからはずれていくことを心配している人は、一度、自分自身も、コース
からはずれていく人を、心のどこかで、笑い、軽蔑していないかを反省してみるとよい。

【補記】

 あるとき、ある大手の出版社に勤める友人が、私にこう言った。「林さん、ぼくらはね、林さん
のような生き方を認めるわけには、いかないんですよ」と。

 私が、「大手の出版社は、権威主義的すぎる。もっと、人の中身を見て雑誌をつくらないと、
やがて大衆から見放される」と言ったときのこと。

 「でもね、林さん。もしぼくらが林さんのような生き方を認めてしまうと、ではぼくたちの生き方
は何だったのかというところまで、いってしまうのです。つまりね、ぼくらの世界では、林さんの
ような人は、敗北者で、失敗者なんです。また、そうでなければ、ならないのです。

 おかしなもので、林さんのような生き方をしている人が失敗すると、『やっぱり、そうだったん
だ。ぼくらの生き方は、これでいいんだ』と、へんに納得できるんですよ。だから内心では、『あ
の林は、今に、失敗するぞ』『今に、失敗するぞ』と、楽しみにも似た、期待感をもつわけです。

 しかしね、林さんのような人が成功したりするのをみるのが、こわいんですよ。自分の生きザ
マを、否定されるように感じてしまうのですね。ぼくらは、組織の人間、会社人間ですから……」
と。

 コースに乗っている人が、なぜ、そのコースからはずれることを恐れるかと言えば、いつもそ
のコースの外にいる人を、否定しているからではないのか。だから自分はともかくも、自分の子
どもがそのコースからはずれそうになると、狂乱状態になる。

 親たちは、子どもが不登校を起こしたりすると、「うちの子は、このままダメになってしまう」と
言うが、本当のところは、子どものことなど、何も心配していない。自分の生きザマが、否定さ
れるのがこわいのだ。

 子どものことを本当に心配するなら、子どもの心の問題を考える。最初から最後まで、子ども
の心の問題だけを考える。それでよい。それがすべて。本来なら、親は、そうあるべきなのだ
が……。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●岩手県Eさん(父親)からの相談

****************************

小学2年の秋から、断続的に不登校。病院で診断してもらうと
ケトン性低血糖ということ。それはなおりましたが、そのあと、
学校へ行くのは、いやだと言い出すようになり、また不登校。

3年になると、午前中だけ登校、昼に帰ってきて、午後だけ登校
とか、学校へ通うのが不規則になりました。

4年になると。しばらくは学校に通いましたが、10月になると、
また行けなくなり、「適応教室に行きたい」と言うようになり、
適応教室に通うようになりました。

そのあと、ムカムカする、つらいなど、いろいろな心身症による
症状を示すようになり、病院でも小児性心身症と診断されました。

病院の先生の話では、子どもらしさがない、ストレスが限界に
なった、病院を避難場所にしているのではとのこと。

が、そういう娘でも、それまでは、私たちと口をきいてくれました。
しかし6年になると、態度が変わりました。病院へ行っても、
「もう、ほうっておいてほしい」「来ないでほしい」と。

「もう学校へは、行きたくなければ行かなくてもいいのよ」と、
娘に言っていますが、私たちの気持ちも、通じなくなってきています。

つらい毎日です。病院への治療費も、月20万円を超えるように
なりました。私たち夫婦も、限界です。下の妹(5歳)への影響も
心配です。どうしたらいいでしょうか。(以上、要約)
(岩手県・E・父親)

*******************************

【学校へのこだわり】

 Eさんからのメールは、この10倍以上もの長さがあった。そしてそれには、EさんとEさんの妻
が、娘さんを何とか学校へ行かせようと、あれこれ努力をしたというようなことが、詳しく書いて
あった。それは努力というより、悪戦苦闘に近いものだったらしい。

 その努力がまちがっていたとは言わない。しかし問題は、なぜ、Eさん夫婦が、そこまで学校
にこだわったか、である。

 こうしたケースで多いのは、(Eさん夫婦が、そうであったというのではない。誤解のないよう
に!)、初期の段階での、対処の失敗が、問題をこじらせてしまうということ。子どもが学校へ
行きたくないと言うと、ほとんどの親は、混乱状態から、狂乱状態になる。

 そして親自身が感ずる、不安や心配をそのまま子どもにぶつけてしまう。

 この段階で、「あら、そう?」「行きたくなければ、行かなくてもいいのよ」と親が言ったら、その
あと、深刻な不登校にならずにすんだはずというケースは、いくらでもある。が、実際には、そう
はいかない。親自身が、狂乱状態になってしまう。私は、そういう例を、何十例も経験してい
る。

 Eさん夫婦も、娘さんを、まさに(学校へ行けるだけ行かせよう)と努力した。たとえば、Eさん
からのメールには、「3年生になると、母親が送り迎えをして、午前中だけ学校→午前中学校、
帰って家で昼食→午後から登校という不規則ながら、なんとか学校にいっていましたが、10月
からまた体調不良を訴えいけなくなりました」(原文)とある。

 この時点で、午前中だけでも行ったら、「よく行ったわね」と、なぜ、ほめてあげなかったのだ
ろうか。あるいは午前中だけも行ったら、親のほうから、「午後はいいのよ。そんなに無理をし
なくてもいいのよ」と、なぜ言ってあげなかったのだろうか。

 率直に言えば、親の心配ばかりが先行していて、子どもの心が見えてこない。私は、Eさんの
相談を一読して、最初に、それを強く感じた。

 ……といっても、Eさんを責めているのではない。だれしも、そういう状況に置かれれば、そう
考える。Eさんだけが、特別というわけではない。Eさんだけが、(こういう言葉は使いたくない
が)、失敗したというわけではない。

 が、親は、えてして、学校へのこだわりから、子どもの心を見失う。学校神話、学歴信仰、学
校絶対主義などが、その背景にある。明治以来、国策として、延々として作られてきた意識で
ある。そうは、簡単には変えられない。まず、それに気づくだけでも、たいへん!

 ものごとをすべて、「学校とは行かねばならないところ」という大前提で、考えてしまう。つまり
この無理が、子どもの心を、ゆがめる。

 ただこの時点で、一つ注意しなければならないことは、学歴信仰は、何も、親だけのものでは
ないということ。子どもも、いつしか親の学歴信仰を、そっくりそのまま受け継いでしまう。

 その親だって、そのまた親から、受け継いでいるだけということにもなる。同じように、子ども
が、それを受け継いでしまう。

 だから行き着くところまで行って、そのときはじめて親のほうが、それに気づき、「学校なん
か、行きたくなければ行かなくてもいいのよ」と言っても、意味はない。こういうケースで、子ども
にそう言えば、かえって子どもを追いつめてしまうことになる。

 「私は学校へ行かねばならない」「学校へ行きたくても、行けない」「どうすればいいの!」と。

【心の緊張状態】

 「情緒不安」という言葉がある。しかしこの言葉ほど、いいかげんで、誤解を招きやすい言葉
もない。

 情緒不安というのは、あくまでも結果でしかない。なぜ、子どもが(おとなも)、情緒が不安定
になるかといえば、その前に、心が緊張状態にあるからと考える。

 心が開放されない。何かの心配ごとが、ペタリと張りついて、取れない。

 そういう緊張状態にあるとき、何かの心配ごとが入ってくると、心はその心配ごとを解消しよう
と、一挙に不安定な状態になる。その状態を「情緒不安」という。つまり、情緒が不安定になる
のは、あくまでも結果でしかない。

 子どものばあい、何かのキーワードがあって、そのキーワードに触れると、一挙に不安定に
なることが多い。

 ある女の子(年長児)は、母が、「ピアノのレッスンをしましょうね」と言っただけで、ときにギャ
ーと泣き叫んで、手がつけられなくなってしまった。包丁を投げつけたこともあるという。その女
の子のケースでは、「ピアノのレッスン」が、一つのキーワードになっていた。

 そこで考えなければならないのは、なぜ、情緒が不安定であるかではなく、なぜ、心の緊張感
がとれないか、である。

 原因はいろいろ考えられるが、その多くは、対人関係をうまく処理できないためとみてよい。
他人と、良好な人間関係が結べない。もっと言えば、自分の心を開放したまま、交際できない。
それが心の緊張状態をつくりだす。

 だからこのタイプの子どもは、おおまかにわけて、つぎの6つのタイプのどれかを選択する。

(1)攻撃型(他人に乱暴になる)
(2)自虐型(自虐的な運動や、勉強をする)
(3)同情型(相手に同情を求めるため、弱々しい自分を演ずる)
(4)依存型(だれかにベタベタと甘える)
(5)服従型(集団に属し、長に、徹底的に服従する)
(6)逃避型(引きこもったり、人間関係を遮断する)
(7)怠惰型(生活全般が、退行的になる。だらしなくなる)

 最初にわかってあげなければならないのは、このタイプの子ども(おとなも)、人との交際が、
それ自体、苦痛であるということ。相手に対して、気をつかう。神経をつかう。集団の中で、仮
面をかぶる、いい子ぶる、自分を飾ったり、ごまかしたりする。

 だから集団の中に入れると、すぐ精神疲労や神経疲労を起こす。親は、「うちの子は、集団
になれていないだけ」「集団の中で訓練すれば、やがてなれるはず」と考える。たしかにそういう
ケースもないわけではないが、そうは、簡単ではない。

 無理をすることで、かえって、症状をこじらせてしまうケースのほうが、多い。強圧的な指導に
などによって、回避性障害や摂食障害、行為障害などへと発展していくケースも、少なくない。
幼児のばあいは、かん黙したり、自閉傾向を示したりすることもある。(自閉症と自閉傾向を混
同しないように……。)

 では、なぜ緊張状態がとれないのかということになる。このタイプの子どもは、集団の中で
は、(いい子)ぶることが多い。ものわかりがよく、先生の言うことを、すなおに聞いたりする。ま
たいい子を演ずることで、自分の立場をつくろうとする。

 たとえばブランコを横取りされても、柔和な表情のまま、それを明け渡してしまうなど。その時
点で、「どうして横取りするのだ!」と、相手に抗議することができない。

 が、教える側から見ると、どこか何を考えているかわからない子どもという感じになる。心が
つかみにくい。心の状態と、顔の表情が、不一致を起こすことも多い。いやがっているはずな
のに、ニヤニヤ笑うなど。

 原因は、新生児期から乳幼児期にかけての、母子関係の不全にあるとみる。

【母子関係の不全】

 絶対的なさらけだしと、絶対的な受け入れ。この二つの基盤の上に、母子の信頼関係が、築
かれる。

 「絶対的」というのは、「疑いすら、もたない」ということ。「私はどんなことをしても、許される」と
いう安心感。その安心感が、相互の信頼関係の基盤となる。

 が、何かの理由で、たがいに、このさらけ出しができなくなるときがある。親側の拒否的な育
児姿勢、冷淡、無視など。親自身が何らかの心のキズをもっていて、子どもに対してさらけ出し
ができないときもある。

 たとえば親自身が、不幸にして不幸な家庭で、生まれ育った、など。こういうケースのばあ
い、「いい親でいよう」「いい家庭を築こう」という、気負いばかりが先行し、結果的に子育てで、
失敗しやすくなる。

 あるがままの自分を、ごく自然にさらけ出すというのは、それができる人には簡単なことだ
が、それができない人には、たいへんむずかしい。自分がそうであるということにすら、気がつ
かない人も多い。

 中には、親や兄弟のみならず、自分の夫や、そして自分の子どもにすら、自分をさらけ出せ
ない人もいる。「あるがままの自分をさらけ出したら、嫌われるのではないか」「みなから、へん
に思われるのではないか」と。

 言うまでもなく、その原因は、ここでいう母子関係の不全である。つまり子どもは、母親との関
係において、他者との信頼関係の結び方を学ぶ。その信頼関係が、そののち、その人の人間
関係の基本になるため、これを「基本的信頼関係」という。

 子どもは、母子の間でできた信頼関係を基本に、そのワクを広げる形で、友人や、先生、さ
らには結婚してからは配偶者や子どもとの信頼関係を結ぶことができるようになる。

【対人障害】

 怠学、学校恐怖症については、すでにたびたび書いてきたので、ここでは省略する。で、子ど
ものばあい、こうした対人障害が、そのまま不登校となって現れることが多い。

 で、その恐怖症だが、そのつらさは、それになったものでないとわからないだろうということ。
私など、まさに恐怖症のかたまり。

 子どものときから、閉所恐怖症、高所恐怖症などがあった。しかし本当にそれがひどくなった
のは、飛行機事故を経験してから。30歳になる、少し前のことだった。飛行機に乗れなくなっ
てしまったことはしかたないとしても、ことあるごとに、スピード恐怖症になる。

 数年前も、あやうく、交通事故にあいそうになった。九死に一生とまではいかないにしても、あ
やうく、だ。

 そのため、私は道路を自転車で走っていても、すべての自動車が、自分に向って走ってくる
ように感じた。あとでみたら、手のひらが、ぐっしょりと汗をかいていた。

 人間の思考パターンというのは、そういうものだが、自分でも、「気のせいだ」とわかっていて
も、コントロールできない。それがつらい。

 だから、子どもの恐怖症にしても、決して安易に考えてはいけない。あくまでも子どもの目線
で、子どもの立場で考えること。無理をすれば、症状をこじらせるだけ。

 で、その対人障害だが、よく知られたものに、回避性障害がある。他人との良好な人間関係
が結べなくなる。一度、その回避性障害になると、人との接触が、異常にわずらわしくなる。人
の気配を感じただけで、神経が張りつめる。気が重くなる。

 それだけならまだしも、一度、そういう状態になると、ふつう以上に神経をすりへらす。そのた
め、精神疲労を起こしやすい。体がだるくなる。思考が進まなくなる、など。頭痛や肩こり、不
眠、早朝覚醒を訴える子どももいる。

 心身症から神経症へと発展することもある。ただし、症状は、千差万別。定型がない。ふつう
は、身体的症状(腹痛、下痢など)、精神的症状(抑うつ感、不安症など)、行動的症状(髪いじ
り、ものかじりなど)に分けて考える。「おかしなことをするな?」と感じたら、この心身症を疑っ
てみるとよい。

 で、そういう状態が、前兆症状としてしばらくつづいたあと、より明確な形で、たとえばここでい
うような学校恐怖症などとなって現れる。

 これについても、すでにたびたび書いてきたので、私のHPに書いた記事を参考にしてほし
い。

【学歴信仰】

 「学校は、絶対」「学校とは、行かねばならないところ」と。そういう意識をもっている人は、多
い。

 しかしその意識は、絶対的なものでもなければ、普遍的なものでもない。意識というのは、そ
の時代時代において、変化しうるものである。だから大切なことは、今、私やあなたがもってい
る意識が、絶対的なものであると、思ってはいけないということ。学校神話も、その一つ。

 私たち日本人は、「学校は絶対である」という意識をもっている。ずいぶんと前のことだが、戦
時下のサラエボで、逃げまどう子どもをつかまえて、「学校へは行っているの?」と問いかけて
いたあるテレビ局のレポーターがいた。

 子どもを見れば、すぐ学校という発想。それも学校神話の一つと考えてよい。そういう意識
は、明治以来、国策の一つとして、日本人の中に作られてきた。戦争で、学校どころではない
はず。ふつうの常識のある人なら、そう考える。

 世界は、もう少し、おおらかである。学校の設立そのものも、自由。アメリカなどでは、カリキ
ュラムの内容ですら、学校ごとに独自に決められる。もちろん日本でいう「教科書」などない。

 学校にしても、内容と種類は、さまざま。学校へ行かないで、家庭で学習する、ホームスクー
ラーも、200万人もいる。

 一方、この日本では、子どもに何か、問題が起きると、すぐ、「学校で!」と考えやすい。今で
は、家庭教育まで、学校に押しつける親さえいる。

 しかしものごとは、常識で考えてみたらよい。たった一人の子どもでさえもてあますことが多い
のに、そういう子ども、30〜40人も一人の先生に押しつけて、「しっかりめんどうをみろ」はな
い。

 話はそれたが、不登校の子どもをもつ親と話していると、この学校神話をよく感ずる。私が、
「いいじゃないですか、学校なんか。子どもが行きたくないと言ったら、行かなくても……」などと
私が言おうものなら、たいていの親は、目を白黒させて、驚く。

 私は、よく、自分の息子たちを幼稚園や学校を休ませて、家族旅行に出かけた。平日に旅行
すると、どこも、ガラガラ。言いようのない解放感を味わった。が、そういうときたいてい、幼稚
園や学校から電話がかかってきて、(とくに幼稚園の先生からが多かったが)、「そういうことを
すると、遅れます」「困ります」と。

 しかし子どもが、何から、どう遅れるというのか? だいたいにおいて、「遅れる」というのは、
どういうことなのか。あるいは、コースからはずれることを、「遅れる」というのか。だったら、そ
の「コース」とは、何か?

 つまり、「どうしても学校」という意識は、そういうところから生まれる。そして自分の子どもが
不登校を起こしたりすると、「さあ、たいへん!」と、たいていの親は、パニック状態になる。そし
てそういう意識が、必要以上に、子どもを追いつめる。

【あくまでも子どもの目線で】

 決して、Eさんが、そうであったというのではない。またそうであったからといって、Eさんを責
めているのでもない。

 ただこういうケースでは、親は、多くのばあい、子どもの目線で、ものを考えることができな
い。

 数か月前も、こんな相談があった。ある母親からのものだった。いわく、「やっとのことで、学
校へ行くようになりました。しかし午前中だけ。給食の時間になると、家に帰りたいと言います。
何とか、給食だけでもと思うのですが、どうしたらいいでしょうか」と。

 それに答えて、私は、こう返事を書いた。

 「午前中だけにして、『よくがんばったわね』とほめてあげてください」と。

 こういうケースで、その子どもが、給食を食べるようになると、今度は、親は、「せめて午後ま
で……」「終わりの会まで……」と言い出すにちがいない。子どもも、それをよく知っている。つ
まり親の希望や欲望には、際限がない!

 つい先日も、やっとのことで不登校のなおった子どもに対して、「今までの遅れを取りもどすた
め」ということで、進学塾へ入れた親がいた。が、とたん、その子どもは、また不登校! 『元の
木阿弥(もくあみ)』という言葉があるが、そういう状態になってしまった。

 こういうケースは、多い。本当に多い。そうして失敗を重ねながら、子どもは、二番底、三番底
へと落ちていく。

 そこで大切なことは、今の状態を最悪と思っては、いけないということ。不登校にかぎらず、
子どもの心の問題では、「今の状態を、それ以上悪くしないことだけを考えて、半年、あるいは
一年単位で、様子をみる」である。

【許して忘れる】

 子どもに何か、問題が起きたら、ただひたすら『許して、忘れる』。とくに子どもの心の問題で
は、そうで、その度量の深さによって、親としての愛情の深さも決まる。

 ただ誤解してはいけないのは、『許して、忘れる』といっても、子どもに好き勝手なことをさせ
るということではないということ。許して忘れるというのは、子どもに何か問題が起きたら、それ
を自分のこととして、受け入れることをいう。

 たとえば不登校児にしても、それを一番苦しんでいるのは、子ども自身だということ。一見、
楽しそうに振る舞っているように見えるかもしれないが、子ども自身、その緊張感から解放され
ることはない。年齢が大きくなると、それに、将来への不安が加わる。

 そういう状態のとき、見るに見かねて、多くの親は、「学校へは行かなくてもいい」などと言う。
しかしその言葉自体が、子どもにとっては、苦痛なのだ。

 それはたとえて言うなら、二階の屋根にのぼったあと、ハジゴをはずされるようなもの。子ど
もの立場にするなら、「じゃあ、どうしたらいいの!」となる。

 もしこういう状態で、子どもにかける言葉があるとするなら、「お前は、つらかったんだね」「お
前は、よくがんばったよ」「人生は、長い。気楽に行こうよ」という言葉である。できれば、「お父
さんが悪かった。お前の苦しみを理解できなかった」と、あやまることである。

 こういうケースでは、親意識など、あれば捨てること。「親である」という気負い、「親だから何
とかしなければ」という責任感。それも捨てる。子どもにしてみれば、自分のために犠牲になっ
ている親を見ることぐらい、つらいことはない。

 ある女性は、こう言った。その女性が高校生だったときのこと。高校に入学はしたものの、ほ
とんど、学校には行っていなかった。おまけに摂食障害。

 「何がつらかったかといって、母に、『私はつらい』と言われることぐらい、つらいことはなかっ
た」と。

 その女性は、高校を中退したあと、数年、アパートを借りてひきこもった。が、そのあと、少し
ずつたちなおって、カナダへ語学留学。つづいて、オーストラリアへ。今は、看護ヘルパーの資
格をとるため、専門学校へ通っている。

 だから親は親で、前向きに生きる。「ようし、十字架の一つや二つ、ぼくがかわりに背負って
やる」「お前はお前でがんばれ。ぼくはぼくでがんばるから」と宣言する。そしてそういう前向き
な姿を、子どもに見せていく。

 そういう姿ほど、子どもに安堵感を与えるものはない。そしてそれが子どもの心の問題にも、
よい方向に作用する。

【Eさんへ……】

 書かなくてもよいようなことまで書いて、何かと不快に思われたかもしれません。しかし子の
問題は、根が深いということをわかってもらいたくて、あれこれ書きました。あくまでもここに書
いたことを参考に、一度、あなた自身の心の中をのぞいてみてください。

 あなたの子どもは、あなたを苦しめるために、そこにいるのではありません。あなたに何かを
教えるために、そこにいるのです。何か、大切なものを、です。

 あなたがすべきことは、そういう子どもの声というか、子どもという存在を超えた、その向こう
にある声というか、そういうものに、静かに耳を傾けることです。

 今は、あまりにも一対一の関係になりすぎている。私には、そんな感じがします。一つには、
あなた自身が、若いということもあります。しかし相手は、しょせん、子どもです。本気で愛しな
がらも、決して、本気で相手にしてはいけません。

 「会いたくない」と言ったら、こう言いなさい。「ははは。そうは言っても、私は、お前からは離
れないからな」「どんなことがあっても、お前を守るからな」と。もしそれでもあなたの子どもの心
をつかめなかったら、子どもの心の中に、自分を置いてみます。

 すると、どうしてそういうことを言うのか、それがわかりますよ。なぜ、あなたが避けられている
かもわかりますよ。

 親というのは、そういう意味では、さみしい存在。どんなに嫌われても、こちらからは嫌っては
いけないということ。嫌われても、嫌われても、そんなことは気にせず、前に進むしか、ありませ
ん。いちいち子どもの機嫌など考えないことです。100に1つ、1000に1つ、子どもの中に(や
さしさ)を感じたら、もうけものと思うことです。それとも、Eさんは、子どもに何を求めています
か。

 子どもというのは、(求める対象)ではないのです。わかりますか? いい子にしようとか、い
い親子関係にしようとか、そういうふうに考えてはいけません。とくに今のEさんと、子どもの関
係においてはそうです。

 あえて言えば、あきらめて、それを受けいれる、です。もっと言えば、『負けるが、勝ち』です。

 が、心配は、無用。

 子どもというのは、そういう親の姿勢の中から、何かを学んでいくものなのですね。何を学ぶ
かはわかりませんが、必ず学んでいくものなのですね。だから、ここはあせらず、「ようし、お前
はお前で生きろ。私は私で生きるから」と。そう宣言してみてください。

 あなたの子どもは、すでに年齢的には、じゅうぶん親離れしています。あなたが考えているよ
り、はるかにおとな的な考え方をしています。(あるいは、あなたとほとんど、同じ程度には考え
ているかもしれませんよ。あなたから見れば、いつまでも、子どもに見えるかもしれませんが…
…。)

 そういう子どもを、もっと、信じてみてはどうでしょうか。静かに、「お前は、ぼくに何をしてほし
いか」と聞いてみる。そしてあなたの子どもが、何かを言ったら、そのとおりにすればよいので
す。

 「会いたくない」と子どもが言ったら、「いつなら、会いに来ていいか」と聞けばよいのです。

 大切なことは、暖かい無視と、ほどよい親子関係です。「ほどよい」というのは、「求めてきた
ときが、与えどき」と心得るとよいでしょう。

 最後に「毎月の入院費で、20万円」という話を聞いて、胸がふさぎました。あなたの家庭で、
心のケアをつづけるというわけには、いかないのでしょうか。今の状況から察すると、長期の引
きこもり、もしくは家庭内暴力も考えられますが、それでも、家につれてくるということはできま
せんか。

 家庭内暴力の可能性があるなら、また別に考えなくてはいけませんが、引きこもりという雰囲
気であれば、子どもにとっては、家のほうが、よいかと思います。長い目で見ても、つまり、いつ
か子どもが立ちなおったあとでのことですが、そのほうが、良好な親子関係を築くことができま
す。

 引きこもりをするようなら、好きなだけ、引きこもりをさせればよいのです。そういう大らかさを
感じたとき、子どもも、また前向きに立ちなおり始めます。不思議ですが、これは本当です。

 また今の時期、そして今の状態では、あなたが、あれこれ干渉したり、過関心になったりしな
いことです。静かに、ただひたすら静かに、暖かく無視する。これにまさる対処方法は、ありま
せん。

 で、最後に一言、つけ加えるなら、この種の問題は、いつか必ず、笑い話になります。いつか
あなたは、自分の子どもに向かってこう言うのです。

 「あのころは、たいへんだったぞ。ははは」と。

 その日は、必ずきます。そのときのために、「今」をどうか、破壊しないように!

 また将来的なことになれば、いろいろと不安も大きいかと思いますが、あとは、あなたの子ど
も自身が、自分の道を見つけていきます。すでに、あなたに向って、「病院へ来てほしくない」と
言っているようなら、むしろそのたくましさのほうを、評価してあげてください。

 そう、今、形こそ、少しいびつですが、あなたの子どもは、巣立ちをしようと考えています。あ
るいは懸命に、その準備をしているのかもしれません。

 またあなたは下の妹さんのことを心配していますが、むしろ、上のその子どものほうが、ずっ
とさみしい思いをしていたのかもしれません。「お姉ちゃんだから……」という「ダカラ論」だけ
で、です。

 そんな気持ちにも、少し、配慮してあげてみてください。

 なお、いただきましたメールについて、「そのままの掲載は断る」ということでしたので、こちら
で勝手に要約、改変させていただきました。この原稿での、マガジン掲載など、許可をいただ
ければ、うれしいです。

 では、今日は、これで失礼します。

 なお、数年前に書いた原稿(中日新聞発表済み)を、ここに添付します。どうか、参考にしてく
ださい。

++++++++++++++++++

●生きる源流に視点を
      
 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ
き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、
またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が
助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りを
していて、息子の一人を助けてくれた。

以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」と思い
なおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議である。

とくに二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あるいは中
学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なからずあわてた
が、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切ることができた。

 昔の人は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っていた。人というのは、上を見れ
ば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだという意味だが、子
育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではない。下から見る。「子ど
もが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。

朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分
は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生
活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、
すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。以前にも、どこかに書いたように、
フォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・た
め」とも訳せる。つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもか
ら愛を得るために忘れる」ということになる。

仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、「as you like」と英語に訳したアメリカ人がい
た。「あなたのよいように」という意味だが、すばらしい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許し
て忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ
らに真の親になるのは、もっと難しい。

大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、その真の親にたどりつく。楽な子育てとい
うのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を越え、谷を越える。そして一つ山を越え
るごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。が、若い親にはそれがわからない。ささ
いなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談をしてきた母親がいた。

東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授業についていけない。
この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。こういう相談を受けるたびに、私は頭を
かかえてしまう。


●家族の真の喜び
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむけ
る。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。「私は
ダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。

が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえ
ている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生き
ていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようにな
る。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言っ
た父親もいた。が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが
大きくなり、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったま
ま、口をつぐんでしまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずね
る。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることが
できるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救わ
れた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親を
みると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだでは
ないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかり
ではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。しかしそれでも
巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしかない。

親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつもドア
をあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう
書いている。「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれ
ない。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受
賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残している。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決
して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」
と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。
(*浜松市青葉幼稚園元園長)
(はやし浩司 不登校 不登校児 許して忘れる)
(040921)





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●子育て一口メモ

●父親(母親)の悪口は、言わない

心理学の世界にも、「三角関係」という言葉がある。父親が母親の悪口を言ったり、批判したり
すると、夫婦の間に、キレツが入る。そして父親と母親、母親と子ども、子どもと父親の間に、
三角関係ができる。子どもが幼いうちはまだしも、一度、この三角関係ができると、子どもは、
親の指示に従わなくなる。つまりこの時点で、家庭教育は、崩壊する。


●逃げ場を大切に

どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。子どもも、またしかり。子どもは、その逃げ場
に逃げ込むことによって、身の安全をはかり、心をいやす。たいていは自分の部屋ということに
なる。その逃げ場を荒らすようになると、子どもの心は、一挙に不安定になる。だから子どもが
逃げ場に逃げたら、その逃げ場を荒らすようなことはしてはいけない。


●心は、ぬいぐるみで……

年長児にぬいぐるみを見せると、「かわいい」と言って、やさしそうな表情を見せる子どもが、約
80%。しかし残りの20%は、ほとんど、反応を示さない。示さないばかりか、中には、キックし
てくる子どもがいる。小学校の高学年児でも、日常的にぬいぐるみをもっている子どもは、約8
0%。男女の区別はない。子どもの中に、親像が育っているかどうかは、ぬいぐるみを抱かせ
てみるとわかる。


●国語教育は、言葉から

子どもの国語力は、母親の会話能力によって決まる。たとえば幼稚園バスがやってきたとき、
「ほらほら、バス。ハンカチは? 帽子は? 急いで」というような言い方を、母親がしていて、ど
うして子どもの中に、国語力が育つというのか。そういうときは、めんどうでも、「バスがきます。
あなたは急いで、外に行きます。ハンカチをもっていますか。帽子をかぶっていますか」と話
す。そういう母親の会話力が、子どもの国語力の基本になる。


●計算力は、早数えで……

「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」と数えられるようになったら、早数えの練習をする。「イチ、ニ、サン
……」から、さらに、「イ、ニ、サ、シ、ゴ、ロ、シ、ハ、ク、ジュウ」と。さらに手をパンパンとたた
いてみせ、それを数えさせる。なれてくると、子どもは、数を信号化する。たとえば「2足す3」
も、「ピ、ピ、と、ピ、ピ、ピで、5」と。これを数の信号化という。この力が、計算力の基礎とな
る。


●子どもは使う

使えば、使うほど、子どもは、いい子になる。生活力も身につくが、忍耐力も、そこから生まれ
る。その忍耐力というのは、(いやなことをする能力)のことをいう。ためしに、あなたの子ども
に、台所のシンクにたまった生ゴミを始末させてみてほしい。「ハ〜イ」と言って、喜んで片づけ
るようなら、あなたの子どもは、その忍耐力のある子どもということになる。このタイプの子ども
は、学習面でも伸びる。


●やさしさは苦労から

ためしにあなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうな表情をして歩いてみてほしい。
そのとき、「ママ(パパ)、助けてあげる!」と言って走り寄ってくればよし。そうでなく、テレビや
ゲームに夢中になっているようなら、かなりのドラ息子(娘)とみてよい。今は、(かわいい子)か
もしれないが、やがて手に負えなくなる。子どもは(おとなも)、自分で苦労をしてみてはじめて、
他人の苦労がわかるようになる。やさしさも、そこから生まれる。


●釣りザオを買ってやるより……

イギリスの教育格言に、「釣りザオを買ってやるより、いっしょに、釣りに行け」というのがある。
子どもの心をつかみたかったら、そして親子のキズナを太くしたかったら、いっしょに釣りに行
け、と。多くの人は、子どものほしがるものを与えて、それで子どもは喜んでいるはず。感謝し
ているはず。親子のキズナも、それで太くなったはずと考える。しかしこれは幻想。むしろ逆効
果。


●100倍論

子ども、とくに幼児に買い与えるものは、100倍して考える。たとえば100円のものでも、100
倍して、1万円と考える。安易に、お金で、子どもの欲望を満足させてはいけない。一度、お金
で、満足させることを覚えてしまうと、年齢とともに、その額は、10倍、100倍とエスカレートし
ていく。高校生や大学生になるころには、1000円や1万円では、満足しなくなる。子どもが幼
児のときから、慎重に!


●子どもは、信じて伸ばす

心理学の世界にも、「好意の返報性」という言葉がある。イギリスの格言にも、「相手は、あな
たが相手を思うように、あなたのことを思う」というのがある。あなたがその人を、いい人だと思
っていると、その相手も、あなたをいい人だと思っている。しかしそうでなければそうでない。子
どものばあいは、さらにそれがはっきりと現れる。だから子どもを伸ばしたいと思うなら、まず
自分の子どもをいい子どもだと思うこと。子どもを伸ばす、大鉄則である。


●強化の原理

前向きに伸びているという実感が、子どもを伸ばす。そのため、「あなたはどんどんよくなる」
「すばらしくなる」という暗示を、そのつど、子どもにかけていく。まずいのは、未来に不安をいだ
かせること。仮に子どもを叱っても、そのあと何らかの方法でそれをカバーして、「ほら、やっぱ
り、できるじゃない」と、ほめて仕上げる。


●叱るときの原則

子どもを叱るときは、自分の姿勢を低く落とし、子どもの目線の高さに自分の目目線の高さを
あわせる。つぎに子どもの両肩を、やや力を入れて両手でつかみ、子どもの目をしっかりと見
つめて叱る。大声を出して、威圧したり、怒鳴ってはいけない。恐怖心をもたせても意味はな
い。中に叱られじょうずな子どもがいて、いかにも反省していますというような様子を見せる子
どもがいる。しかしそういう姿に、だまされてはいけない。


●仮面に注意

絶対的なさらけ出しと、絶対的な受け入れ。この基盤の上に、親子の信頼関係が築かれる。
「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味。あなたの子どもが、あなたの前で、そう
であればよし。しかしあなたの前で、いい子ぶったり、仮面をかぶったりしているようであれば、
親子の関係は、かなり危機的な状況にあると考えてよい。あなたから見て、「何を考えているか
わからない」というのであれば、さらに要注意。


●根性・がんこ・わがまま

子どもの根性、がんこ、わがままは、分けて考える。がんばって何か一つのことをやりとげると
いうのは、根性。何かのことにこだわりをもち、それに固執することを、がんこ。理由もなく、自
分の望むように相手を誘導しようとするのが、わがままということになる。その根性は、励まし
て伸ばす。がんこについては、子どもの世界では望ましいことではないので、その理由と原因
をさぐる。わがままについては、一般的には、無視して対処する。


●アルバムを大切に

おとなは過去をなつかしんで、アルバムを見る。しかし子どもは、自分の未来を見るために、ア
ルバムを見る。が、それだけではない。アルバムには、心をいやす作用がある。それもそのは
ず。悲しいときやつらいときを、写真にとって残す人は、少ない。つまりアルバムには、楽しい
思い出がぎっしり。そんなわけで、親子の絆(きずな)を太くするためにも、アルバムを、部屋の
中央に置いてみるとよい。


●名前を大切に

子どもの名前は大切にする。「あなたの名前は、すばらしい」「いい名前だ」とことあるごとに言
う。子どもは、自分の名前を大切にすることをとおして、自尊心を学ぶ。そしてその自尊心が、
何かのことでつまずいたようなとき、子どもの進路を、自動修正する。たとえば子どもの名前
が、新聞や雑誌に載ったようなときは、それを切り抜いて、高いところに張ったりする。そういう
親の姿勢を見て、子どもは、名前のもつ意味を知る。


●子どもの体で考える

体重10キロの子どもに缶ジュースを一本与えるということは、体重50キロのおとなが、5本、
飲む量に等しい。そんな量を子どもに与えておきながら、「どうしてうちの子は、小食なのかし
ら」は、ない。子どもに与える量は、子どもの体で考える。


●CA、MGの多い食生活を!

イギリスでは、「カルシウムは、紳士をつくる」と言う。静かで落ちついた子どもにしたかったら、
CA(カルシウム)、MG(マグネシウム)の多い食生活、つまり海産物を中心とした献立にする。
こわいのは、ジャンクフード。さらにリン酸添加物の多い、食べもの。いわゆるレトルト食品、イ
ンスタント食品類である。リン酸は、CAの大敵。CAと化合して、リン酸カルシウムとして、CA
は、対外へ排出されてしまう。


●親の仕事はすばらしいと言う

親が生き生きと仕事をしている姿ほど、子どもに安心感を与えるものは、ない。が、それだけで
はない。中に、自分の子どもに、親の仕事を引き継がせたいと考えている人もいるはず。そう
いうときは、常日ごろから、「仕事は楽しい」「おもしろい」を口ぐせにする。あるいは「私の仕事
はすばらしい」「お父さんの仕事は、すばらしい」を口ぐせにする。まちがっても、暗い印象をも
たせてはいけない。


●はだし教育を大切に

将来、運動能力のある子どもにしたかったら、子どもは、はだしにして育てる。子どもは、足の
裏からの刺激を受けて、敏捷性(びんしょうせい)のある子どもになる。この敏捷性は、あらゆ
る運動能力の基本となる。分厚い靴下と、分厚い底の靴をはかせて、どうしてそれで敏捷性の
ある子どもになるのか。今、坂や階段を、リズミカルにのぼりおりできない子どもがふえてい
る。川原の石の上に立つと、「こわい」と言って動けなくなる子どもも多い。どうか、ご注意!


●自己中心性は、精神的未熟さの証拠

相手の心の中に、一度入って、相手の立場で考える。これを心理学の世界でも、「共鳴性」(サ
ロヴェイ「EQ論」)という。それができる人を、人格の完成度の高い人という。そうでない人を、
低い人という。学歴や地位とは、関係ない。ないばかりか、かえってそういう人ほど、人格の完
成度が低いことが多い。そのためにも、まず親のあなたが、自分の自己中心性と戦い、子ども
に、その見本を見せるようにする。


●役割形成を大切に

子どもが「お花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「すてきね」と言ってあげる。「いっしょ
に、お花を育ててみましょうね」「今度、図書館で、お花なの図鑑をみましょうね」と言ってあげ
る。こうすることで、子どもは、自分の身のまわりに、自分らしさをつくっていく。これを「個性化」
という。この個性化が、やがて、子どもの役割となり、夢、希望、そして生きる目的へとつながっ
ていく。


●暖かい無視

自然動物保護団体の人たちが使う言葉に、『暖かい無視』という言葉がある。親の過干渉、過
関心、過保護、でき愛ほど、子どもに悪影響を与えるものは、ない。もしそういう傾向を感じた
ら、暖かい無視にこころがける。が、無視、冷淡、拒否がよいわけではない。同時に『ほどよい
親』にこころがける。「求めてきたときが、与えどき」と覚えておくとよい。とくに子どもがスキンシ
ップを求めてきたときは、こまめにそれに応じてあげる。


●父親の二大役割

母子関係は重要であり、絶対的なものである。しかしその母子関係が濃密過ぎるのも、また子
どもが大きくなったとき、そのままの状態でも、よくない。その母子関係に、くさびを打ち込み、
是正していくのが、父親の役割ということになる。ほかに、社会性を教えるのも、重要な役割。
昔で言えば、子どもを外の世界に連れ出し、狩の仕方を教えるのが、父親の役割ということに
なる。


●欠点は、ほめる

子どもに何か、欠点を見つけたら、ほめる。たとえば参観授業で、ほとんど手をあげなかったと
しても、「手をもっと、あげなさい」ではなく、「この前より、手がよくあがるようになったわね」と言
うなど。子どもが皆の前で発表したようなときも、そうだ。「大きな声で言えるようになったわね」
と。押してだめなら、思い切って引いてみる。子どもを伸ばすときに、よく使う手である。


●負けるが、勝ち

ほかの世界でのことは、別として、間に子どもをはさんでいるときは、『負けるが勝ち』。これは
父母どうしのつきあい、先生とのつきあいの、大鉄則である。悔しいこともあるだろう。言いた
いこともあるだろう。しかしそこはぐっとがまんして、「負ける」。大切なことは、子どもが、楽し
く、園や学校へ行けること。あなたのほうから負けを認めれば、そのときから人間関係は、スム
ーズに流れる。あなたががんばればがんばるほど、事態はこじれる。


●ベッドタイム・ゲームを大切に

子どもは(おとなも)、寝る前には、ある決まった行動を繰りかえすことが知られている。これを
ベッドタイム・ゲームという、日本語では、就眠儀式という。このしつけに失敗すると、子どもは
眠ることに恐怖心をいだいたり、さらにそれが悪化すると、情緒が不安定になったりする。いき
なりふとんの中に子どもを押しこみ、電気を消すような乱暴なことをしてはいけない。子どもの
側からみて、やすらかな眠りをもてるようにする。


●エビでタイを釣る

「名前を書いてごらん」と声をかけると、体をこわばらせる子どもが、多い。年長児でも、10人
のうち、3、4人はいるのでは。中には、涙ぐんでしまう子どももいる。文字に対して恐怖心をも
っているからである。原因は、親の神経質で、強圧的な指導。この時期、一度、文字嫌いにし
てしまうと、あとがない。この時期は、子どもがどんな文字を書いても、それをほめる。読んであ
げる。そういう努力が、子どもを文字好きにする。まさに『エビでタイを釣る』の要領である。


●子どもは、人の父

空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
私が子どものころも、そうだった。
人となった今も、そうだ。
願わくは、私は歳をとっても、
そうでありたい。
子どもは、人の父。
自然の恵みを受けて、
それぞれの日々が、そうであることを、
私は願う。

(ワーズワース・イギリスの詩人)


●冷蔵庫をカラにする

子どもの小食で悩んだら、冷蔵庫をカラにする。ついでに食べ物の入った棚をカラにする。そ
のとき、食べ物を、袋か何かに入れて、思い切って捨てるのがコツ。「もったいない」と思った
ら、なおさら、そうする。「もったいない」という思いが、つぎからの買い物グセをなおす。子ども
の小食で悩んでいる家庭ほど、家の中に食べ物がゴロゴロしているもの。そういう買い物グセ
が、習慣になっている。それを改める。


●正しい発音で……

世界広しといえども、幼児期に、子どもに発音教育をしないのは、恐らく日本くらいなものでは
ないか。日本人だから、ほうっておいても、日本語を話せるようになると考えるのは、甘い。子
どもには、正しい発音で、息をふきかけながら話すとよい。なお文字学習に先立って、音の分
離を教えておくとよい。たとえば、「昨日」は、「き・の・う」と。そのとき、手をパンパンと叩きなが
ら、一音ずつ、子どもの前で、分離してやるとよい。


●よい先生は、1、2歳、年上の子ども

子どもにとって、最高の先生は、1、2歳年上で、めんどうみがよく、やさしい子ども。そういう子
どもが、身近にいたら、無理をしてでも、そういう子どもと遊んでもらえるようにするとよい。「無
理をして」というのは、親どうしが友だちになるつもりで、という意味。あなたの子どもは、その
子どもの影響を受けて、すばらしく伸びる。


●ぬり絵のすすめ

手の運筆能力は、丸を描かせてみるとわかる。運筆能力のある子どもは、スムーズで、きれい
な丸を描く。そうでない子どもは、ぎこちない、多角形に近い丸をかく。もしあなたの子どもが、
多角形に近い丸を描くようなら、文字学習の前に、塗り絵をしてくとよい。小さなマスなどを、縦
線、横線、曲線などをまぜて、たくみに塗れるようになればよし。


●ガムをかませる

もう15年ほど前のことだが、アメリカの「サイエンス」と雑誌に、「ガムをかむと、頭がよくなる」
という研究論文が発表された。で、その話を、年中児をもっていた母親に話すと、「では」と言っ
て、自分の子どもにガムをかませるようになった。で、それから4、5年後。その子どもは、本当
に頭がよくなってしまった。それからも、私は、何度も、ガムの効用を確認している。この方法
は、どこかボーッとして、生彩のない子どもに、とくに効果的である。

●マンネリは大敵

変化は、子どもの知的能力を刺激する。その変化を用意するのは、親の役目。たとえばある
母親は、一日とて、同じ弁当をつくらなかった。その子どもは、やがて日本を代表する、教育評
論家になった。こわいのは、マンネリ化した生活。なお一般論として、よく「転勤族の子どもは、
頭がいい」という。それは転勤という変化が、子どもの知能によい刺激になっているからと考え
られる。


●本は抱きながら読む

子どもに本を読んであげるときは、子どもを抱き、暖かい息をふきかけながら、読んであげると
よい。子どもは、そういうぬくもりを通して、本の意味や文字のすばらしさを学ぶ。こうした積み
重ねがあってはじめて、子どもは、本好きになる。なお、「読書」は、あらゆる学習の基本とな
る。アメリカには、「ライブラリー」という時間があって、読書指導を、学校教育の基本にすえて
いる。


●何でも握らせる

子どもには、何でも握らせるとよい。手指の感覚は、そのまま、脳細胞に直結している。その感
触が、さらに子どもの知的能力を発達させる。今、ものを与えても、手に取らない子どもがふえ
ている。(あくまでも、私の印象だが……。)反面、好奇心が旺盛で、頭のよい子どもほど、もの
を手にとって調べる傾向が強い。


●才能は見つけるもの

子どもの才能は、つくるものではなく、見つけるもの。ある女の子は、2歳くらいのときには、風
呂にもぐって遊んでいた。そこで母親が水泳教室に入れてみると、水を得た魚のように泳ぎ出
した。そのあとその女の子は、高校生のときには、総体に出るまでに成長した。また別の男の
子(年長児)は、スイッチに興味をもっていた。そこで父親がパソコンを買ってあげると、小学3
年生のときには、自分でプログラムを組んでゲームをつくるようにまでなった。子どもの才能を
見つけたら、時間とお金を惜しみなく注ぐのがコツ。


●「してくれ」言葉に注意

日本語の特徴かもしれない。しかし日本人は、何かを食べたいときも、「食べたい」とは言わな
い。「おなかが、すいたア。(だから何とかしてくれ)」というような言い方をする。ほかに、「たいく
つウ〜(だから何とかしてくれ)」「つまらないイ〜(だから何とかしてくれ)」など。老人でも、若い
人に向って、「私も歳をとったからねエ〜(だから大切にしてほしい)」というような言い方をす
る。日本人が、依存性の強い民族だと言われる理由の一つは、こんなところにもある。


●人格の完成度は、共鳴性でみる

他人の立場で、その他人の心の中に入って、その人の悲しみや苦しみを共有できる人のこと
を、人格の完成度の高い人という。それを共鳴性という(サロヴェイ・「EQ論」)。その反対側に
いる人を、ジコチューという。つまり自己中心的であればあるほど、その人の人格の完成度
は、低いとみる。ためしにあなたの子どもの前で、重い荷物をもって歩いてみてほしい。そのと
きあなたの子どもが、さっと助けにくればよし。そうでなく、知らぬフリをしているようなら、人格
の完成度は、低いとみる。


●平等は、不平等

下の子が生まれると、そのときまで、100%あった、親の愛情が、半減する。親からみれば、
「平等」ということになるが、上の子からみれば、50%になったことになる。上の子は、欲求不
満から、嫉妬したり、さらには、心をゆがめる。赤ちゃんがえりを起こすこともある。それまでし
なかった、おもらしをしたり、ネチネチ甘えたりするなど。下の子に対して攻撃的になることもあ
る。嫉妬がからんでいるだけに、下の子を殺す寸前までのことをする。平等は、不平等と覚え
ておくとよい。


●イライラゲームは、禁物

ゲームにもいろいろあるが、イライラが蓄積されるようなゲームは、幼児には、避ける。動きが
速いだけの、意味のないゲームも避ける。とくに、夕食後から、就眠するまでの間は、禁物。以
前だが、夜中に飛び起きてまで、ゲームをしていた子ども(小5)がいた。そうなれば、すでに
(ビョーキ)と言ってもよい。子どもには、さまざまな弊害が現れる。「ゲーム機器は、パパのも
の。パパの許可をもらってから遊ぶ」という前提をつくるのもよい。遊ばせるにしても、時間と場
所を、きちんと決める。


●おもちゃは、一つ

あと片づけに悩んでいる親は、多い。そういうときは、『おもちゃは、一つ』と決めておくとよい。
「つぎのおもちゃで遊びたかったら、前のおもちゃを片づける」という習慣を大切にする。子ども
は、つぎのおもちゃで遊びたいがため、前のおもちゃを片づけるようになる。


●何でも半分

子どもに自立を促すコツがこれ。『何でも半分』。たとえば靴下でも、片方だけをはかせて、もう
片方は、子どもにはかせる。あるいは途中まではかせて、あとは、子どもにさせる。これは子ど
もを指導するときにも、応用できる。最後の完成は、子どもにさせ、「じょうずにできるようにな
ったわね」と言って、ほめてしあげる。手のかけすぎは、子どものためにならない。


●核(コア)攻撃はしない

子どもの人格そのものに触れるような、攻撃はしない。たとえば「あなたは、やっぱりダメ人間
よ」「あんたなんか、人間のクズよ」「あんたさえいなければ」と言うなど。こうした(核)攻撃が日
常化すると、子どもの精神の発達に、さまざまな弊害が現われてくる。子どもを責めるとして
も、子ども自身が、自分の力で解決できる範囲にする。子ども自身の力では、どうにもならない
ことで責めてはいけない。それが、ここでいう(核)攻撃ということになる。


●引き金を引かない

仮に心の問題の「根」が、生まれながらにあるとしても、その引き金を引くのは、親ということに
なる。またその「根」というのは、だれにでもある。またそういう前提で、子どもを指導する。たと
えば恐怖症にしても、心身症にしても、そういった状況におかれれば、だれでも、そうなる。たっ
た一度、はげしく母親に叱られたため、その日を境に、一人二役の、ひとり言をいうようになっ
てしまった女の子(2歳児)がいた。乳幼児の子どもほど、穏やかで、心静かな環境を大切にす
る。


●二番底、三番底に注意

子どもに何か問題が起きると、親は、そのときの状態を最悪と思い、子どもをなおそうとする。
しかしその下には、二番底、さらには三番底があることを忘れてはいけない。たとえば門限を
破った子どもを叱ったとする。しかしそのとき叱り方をまちがえると、外泊(二番底)、さらには
家出(三番底)へと進んでいく。さらに四番底もある。こうした問題が起きたら、それ以上、状況
を悪くしないことだけを考えて、半年、1年単位で様子をみる。


●あきらめは、悟りの境地

押してもダメ、引いても、ダメ。そういうときは、思い切ってあきらめる。が、子どもというのは、
不思議なもの。あきらめたとたん、伸び始める。親が、「まだ何とかなる」「こんなはずはない」と
がんばっている間は、伸びない。が、あきらめたとたん、伸び始める。そこは、おおらかで、実
にゆったりとした世界。子育てには、行きづまりは、つきもの。そういうときは、思い切って、あ
きらめる。そのいさぎのよさが、子どもの心に風穴をあける。


●許して、忘れる

英語では、『FOR・GIVE(許す)& FOR・GET(忘れる)』という。この単語をよく見ると、(何か
を与えるために、許し、何かを得るために、忘れる)とも読める。何を、か? 言うまでもなく、
「愛」である。親は子育てをしながら、幾多の山を越え、谷を越える。それはまさしく、「許して忘
れる」の連続。その度量の深さによって、親の愛の深さが決まる。カベにぶつかったら、この言
葉を思い出してみてほしい。あなたも、その先に、一筋の光明を見るはずである。


●自らに由らせる

子育ての要(かなめ)は、「自由」。「自らに由らせる」。だから自由というのは、自分で考えさせ
る。自分で行動させる。そして自分で責任を取らせることを意味する。好き勝手なことを、子ど
もにさせることではない。親の過干渉は、子どもから考える力をうばう。親の過保護は、子ども
から、行動力をうばう。そして親のでき愛は、子どもから責任感をうばう。子育ての目標は、子
どもを自立させること。それを忘れてはいけない。


●旅は、歩く

便利であることが、よいわけではない。便利さに甘えてしまうと、それこそ生活が、地に足がつ
かない状態になる。……というだけではないが、たとえば旅に出たら、歩くように心がけるとよ
い。車の中から、流れるようにして見る景色よりも、一歩、一歩、歩きながら、見る景色のほう
が、印象に強く残る。しかし、これは人生そのものに通ずる、大鉄則でもある。いかにして、そ
のときどきにおいて、地に足をつけて生きるか。そういうことも考えながら、旅に出たら、ゆっく
りと歩いてみるとよい。


●指示は、具体的に

「友だちと仲よくするのですよ」「先生の話をしっかりと聞くのですよ」と子どもに言っても、ほとん
ど、意味がない。具体性がないからである。そういうときは、「これを○君にもっていってあげて
ね。○君、きっと喜ぶわよ」「学校から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、あとでママに話
してね」と言う。子どもに与える指示には、具体性をもたせるとよい。

●休息を求めて、疲れる

イギリスの格言に、『休息を求めて疲れる』というのがある。愚かな生き方の代名詞にもなって
いる格言である。幼稚園教育は小学校へ入学するため。小学校教育は、中学校へ入学する
ため。中学校や高校教育は、大学へ入学するため……、というのが、その愚かな生き方にな
る。やっと楽になったと思ったら、人生が終わっていたということにもなりかねない。


●子どもの横を歩く

親には、三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どものうしろを
歩く。そして友として、子どもの横を歩く。日本人は、概して言えば、ガイドと保護者は得意。し
かし友として、子どもの横を歩くのが苦手。もしあなたがいつも、子どもの手を引きながら、「早
く」「早く」と言っているようなら、一度、子どもの歩調に合わせて、ゆっくりと歩いてみるとよい。
それまで見えなかった、子どもの心が、あなたにも、見えてくるはず。


●子どもは下から見る

子育てで行きづまったら、子どもは、下から見る。「下を見ろ」ではない。「下から見る」。今、こ
こに生きているという原点から見る。そうすると、すべての問題が解決する。昔の人は、こう言
った。『上見て、キリなし。下見て、キリなし』と。つまり上ばかり見ていると、人間の欲望には、
際限がなく、いつまでたっても、安穏とした世界はやってこない。しかし生きているという原点か
ら見ると、とたんに、すべての世界が平和になる。子育ても、また同じ。


●失敗にめげず、前に進む

「宝島」という本を書いたのが、スティーブンソン。そのスティーブンソンがこんな言葉を残してい
る。『我らが目的は、成功することではない。我らが目的は、失敗にめげず、前に進むことであ
る』と。もしあなたの子どもが何かのことでつまずいて、苦しんでいたら、そっとそう言ってみて
ほしい。「あなたの目的は、成功することではない。失敗にめげず、前に進むことですよ」と。


●すばらしいと言え、親の仕事

親の仕事は、すばらしいと言う。それを口ぐせにする。どんな仕事でも、だ。仕事に上下はな
い。あるはずもない。しかしこの日本には、封建時代の身分制度の名残というか、いまだに、
職業によって相手を判断するという風潮が、根強く残っている。が、それだけではない。生き生
きと仕事をしている親の姿は、子どもに、大きな安心感を与える。その安心感が、子どもの心
を豊かに育てる。


●逃げ場を大切に

どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。その逃げ場に逃げこむことによって、身の安
全をはかり、心をいやす。子どもも、またしかり。子どもがその逃げ場へ入ったら、親は、そこ
を神聖不可侵の場と心得て、そこを荒らすようなことをしてはいけない。たいていは子ども部屋
ということになるが、その子ども部屋を踏み荒らすようなことをすると、今度は、「家出」というこ
とにもなりかねない。


●代償的過保護に注意

過保護というときは、その背景に、親の濃密な愛情がある。しかし代償的過保護には、それが
ない。子どもを親の支配下において、親の思いどおりにしたいというのを代償的過保護という。
いわば親自身の心のスキマを埋めるための、親の身勝手な過保護をいう。子どもの受験競争
に狂奔している親が、それにあたる。「子どものため」と言いながら、子どものことなど、まったく
考えていない。ストーカーが、好きな相手を追いかけまわすようなもの。私は「ストーカー的愛」
と呼んでいる。


●同居は出産前に

夫(妻)の両親との同居を考えるなら、子どもの出産前からするとよい。私の調査でも、出産前
からの同居は、たいていうまくいく(90%)。しかしある程度、子どもが大きくなってからの同居
は、たいてい失敗する。同居するとき、母親が苦情の一番にあげるのが、「祖父母が、子ども
の教育に介入する」。同居するにしても、祖父母は、孫の子育てについては、控えめに。それ
が同居を成功させる、秘訣のようである。


●無能な親ほど、規則を好む

イギリスの教育格言に、『無能な教師ほど、規則を好む』というのがある。家庭でも、同じ。『無
能な親ほど、規則を好む』。ある程度の約束ごとは、必要かもしれない。しかし最小限に。また
規則というのは、破られるためにある。そのつど、臨機応変に考えるのが、コツ。たとえば門限
にしても、子どもが破ったら、そのつど、現状に合わせて調整していく。「規則を破ったから、お
前はダメ人間だ」式の、人格攻撃をしてはいけない。


●プレゼントは、買ったものはダメ

できれば……、今さら、手遅れかもしれないが、誕生日にせよ、クリスマスにせよ、「家族どうし
のプレゼントは、買ったものはダメ」というハウス・ルールを作っておくとよい。戦後の高度成長
期の悪弊というか、この日本でも、より高価であればあるほど、いいプレゼントということになっ
ている。しかしそれは誤解。誤解というより、逆効果。家族のキズナを深めたかったら、心のこ
もったプレゼントを交換する。そのためにも、「買ったものは、ダメ」と。


●子育ては、質素に

子育ての基本は、「質素」。ときに親は、ぜいたくをすることがあるかもしれない。しかし、そうい
うぜいたくは、子どもの見えない世界ですること。一度、ぜいたくになれてしまうと、子どもは、あ
ともどりができなくなってしまう。そのままの生活が、おとなになってからも維持できればよし。そ
うでなければ、苦しむのは、結局は子ども自身ということになる。


●ズル休みも、ゆとりのうち

子どもが不登校を起こしたりすると、たいていの親は、狂乱状態になる。そのときのためという
わけでもないが、自分の中に潜む、学歴信仰や学校神話とは、今から戦っていく。その一つの
方法が、「ズル休み」。ときには、園や学校をズル休みさせて、親子で、旅行に行く。平日に行
けば、動物園でも遊園地でも、ガラガラ。あなたは、言いようのない解放感を味わうはず。「そ
んなことできない!」と思っている人ほど、一度、試してみるとよい。


●ふつうこそ、最善

ふつうであることには、すばらしい価値がある。しかし、親たちには、それがわからない。「もっ
と……」「もう少し……」と思っている間に、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまう。よい例
が、過干渉であり、過関心である。さらに親の過剰期待や、子どもへの過負担もある。賢い親
は、そのふつうの価値に、それをなくす前に気づき、そうでない親は、それをなくしてから気づ
く。


●限界を知る

子育てには、限界はつきもの。いつも、それとの戦いであると言ってもよい。子どもというのは
不思議なもので、親が、「まだ、何とかなる」「こんなはずではない」「うちの子は、やればできる
はず」と思っている間は、伸びない。しかし親が、「まあ、うちの子は、こんなもの」「よくがんばっ
ている」と、その限界を認めたとたん、伸び始める。皮肉なことに、親がそばにいるだけで、萎
縮してしまう子どもも、少なくない。


●ほどよい親

子どもには、いつも、ほどよい親であること。あるいは「求めてきたときが、与えどき」と覚えて
おくとよい。とくに、子どもが何らかの(愛の確認行為)をしてきたときは、すかさず、いとわず。
ていねいに、それに応じてあげる。ベタベタの親子関係がよくないことは、言うまでもない。


●子どもの世界は、社会の縮図

子どもの世界だけを見て、子どもの世界だけを何とかしようと考えても、意味はない。子どもの
世界は、まさに社会の縮図。社会に4割の善があり、4割の悪があるなら、子どもの世界にも、
4割の善があり、4割の悪がある。つまり私たちは子育てをしながらも、同時に、社会にも目を
向けなければならない。子どもがはじめて覚えたカタカナが、「ホテル」であったり、「セックス」
であったりする。そういう社会をまず、改める。子どもの教育は、そこから始まる。


●よき家庭人

日本では、「立派な社会人」「社会に役立つ人」が、教育の柱になっていた。しかし欧米では、
伝統的に、「よき家庭人(Good family man )」を育てるのが、教育の柱になっている。そのため
学習内容も、実用的なものが多い。たとえば中学校で、小切手の切り方(アメリカ)などを教え
る。ところで隣の中国では、「立派な国民」という言葉がもてはやされている。どこか戦後直後
の日本を思い出させる言葉である。


●読書は、教育の要(かなめ)

アメリカには、「ライブラリー」という時間がある。週1回は、たいていどこの学校にもある。つま
り、読書指導の時間である。ふつうの教科は、学士資格で教壇に立つことができるが、ライブ
ラリーの教師だけは、修士号以上の資格が必要である。ライブラリーの教師は、毎週、その子
どもにあった本を選び、指導する。日本でも、最近、読書の重要性が見なおされてきている。
読書は、教育の要である。


●教師言葉に注意

教師というのは、子どもをほめるときは、本音でほめる。だから学校の先生に、ほめられたら、
額面どおり受け取ってよい。しかしその反対に、何か問題のある子どもには、教師言葉を使
う。たとえば学習面で問題のある子どもに対しては、「運動面では問題ないですが……」「私の
指導力が足りないようです」「この子には、可能性があるのですが、今は、まだその力を出し切
っていませんね」というような言い方をする。


●先取り教育は、幼児教育ではない

幼児教育というと、小学校でする勉強を先取りしてする教育だとか、あるいは小学校の入学準
備のための教育と考えている人は多い。そのため漢字を教えたり、掛け算の九九を教えたり
するのが、幼児教育と思っている人も多い。しかしこれは、まったくの誤解。幼児期には幼児期
で、しておくべきことが、山のようにある。子どもの方向性も、このころ決まる。その方向性を決
めるのが、幼児教育である。


●でき愛は、愛にあらず

でき愛を、「愛」と誤解している人は多い。しかしでき愛は、愛ではない。親の心のスキマをうめ
るための、親の身勝手な愛。それをでき愛という。いわばストーカーがよく見せる「愛?」とよく
似ている。たとえば子どもの受験勉強に狂奔している親も、それにあたる。「子どものことを心
配している」とは言うが、本当は、自分の不安や心配を解消するための道具として、子どもを利
用しているだけ。そしてベタベタの親子関係をつづけながら、かえって子どもの自立をじゃまし
てしまう。


●悪玉家族意識

家族のもつの重要性は、いまさら説明するまでもない。しかしその家族が、反対に、独特の束
縛性(家族自我群)をもつことがある。そしてその家族に束縛されて、かえってその家族が、自
立できなくなってしまうことがある。あるいは反対に、「親を捨てた」という自責の念から、自己
否定してしまう人も少なくない。家族は大切なものだが、しかし安易な論理で、子どもをしばって
はいけない。


●伸びたバネは、ちぢむ

受験期にさしかかると、猛烈な受験勉強を強いる親がいる。塾に、家庭教師に、日曜特訓な
ど。毎週、近くの公園で、運動の特訓をしていた父親さえいた。しかしこうした(無理)は、一事
的な効果はあっても、そのあと、その反動で、かえって子どもの成績はさがる。「伸びたバネは
ちぢむ」と覚えておくとよい。イギリスの教育格言にも、『馬を水場に連れていくことはできても、
水を飲ませることはできない』というのがある。その格言の意味を、もう一度、考えてみてほし
い。


●「利他」度でわかる、人格の完成度

あなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうに歩いてみてほしい。そのとき、「ママ、も
ってあげる!」と走りよってくればよし。反対に、知らぬ顔をして、テレビゲームなどに夢中にな
ってれば、あなたの子どもは、かなりのどら息子と考えてよい。子どもの人格(おとなも!)、い
かに利他的であるかによって、知ることができる。つまりドラ息子は、それだけ人格の完成度
の低い子どもとみる。勉強のできるできないは、関係ない。


●見栄、体裁、世間体

私らしく生きるその生き方の反対にあるのが、世間体意識。この世間体に毒されると、子ども
の姿はもちろんのこと、自分の姿さえも、見失ってしまう。そしてその幸福感も、「となりの人よ
り、いい生活をしているから、私は幸福」「となりの人より悪い生活をしているから、私は不幸」
と、総体的なものになりやすい。もちろん子育ても、大きな影響を受ける。子どもの学歴につい
て、ブランド志向の強い親は、ここで一度、反省してみてほしい。あなたは自分の人生を、自分
のものとして、生きているか、と。


●私を知る

子育ては、本能ではなく、学習である。つまり今、あなたがしている子育ては、あなたが親から
学習したものである。だから、ほとんどの親は、こう言う。「頭の中ではわかっているのですが、
ついその場になると、カッとして……」と。そこで大切なことは、あなた自身の中の「私」を知るこ
と。一見簡単そうだが、これがむずかしい。ギリシアのターレスもこう言っている。「汝自身を、
知れ」と。哲学の究極の目標にも、なっている。


●悪玉親意識

「私は親だ」というのが、親意識。この親意識にも、二種類をある。善玉親意識と、悪玉親意識
である。「私は親らしく、子どもの見本になろう」「子どもをしっかりと育てて、親の責任をはたそ
う」というのが、善玉親意識。一方、「親に向かって何よ!」と、子どもに対して怒鳴り散らすの
が、悪玉親意識。いわゆる『親風を吹かす』ことをいう。なお親は絶対と考えるのを、「親・絶対
教」という。


●達成感が子どもを伸ばす

「ヤッター!」という達成感が、子どもを伸ばす。そんなわけで子どもが幼児のうちは、(できる・
できない)という視点ではなく、(がんばってやった・やらない)という視点で子どもを見る。たとえ
まちがっていても、あるいは不十分であっても、子どもががんばってしたようなら、「よくやった
わね」とほめて終わる。こまごまとした神経質な指導は、子どもをつぶす。


●先生の悪口、批評はしない

学校から帰ってきて子どもが先生の悪口を言ったり、批評したりしても、決して、相づちを打っ
たり、同意したりしてはいけない。「あなたが悪いからでしょう」「あの先生は、すばらしい人よ」
と、それをはねかえす。親が先生の悪口を言ったりすると、子どもはその先生に従わなくなる。
これは学校教育という場では、決定的にまずい。もし先生に問題があるなら、子どもとは関係
のない世界で、処理する。

●子育ては楽しむ

子どもを伸ばすコツは、子どものことは、あまり意識せず、親が楽しむつもりで、楽しむ。その
楽しみの中に、子どもを巻き込むようにする。つまり自分が楽しめばよい。子どもの機嫌をとっ
たり、歓心を買うようなことは、しない。コビを売る必要もない。親が楽しむ。私も幼児にものを
教えるときは、自分がそれを楽しむようにしている。


●ウソはていねいにつぶす

子どもの虚言にも、いろいろある。頭の中で架空の世界をつくりあげてしまう空想的虚言、あり
もしないことを信じてしまう妄想など。イギリスの教育格言にも、『子どもが空中の楼閣に住まわ
せてはならない』というのがある。過関心、過干渉などが原因で、子どもは、こうした妄想をもち
やすくなる。子どもがウソをついたら、叱っても意味はない。ますますウソがうまくなる。子ども
がウソをついたら、あれこれ問いかけながら、静かに、ていねいに、それをつぶす。そして言う
べきことは言っても、あとは、無視する。


●本物を与える

子どもに見せたり、聞かせたり、与えたりするものは、いつも、本物にこころがける。絵でも、音
楽でも、食べ物でも、である。今、絵といえば、たいはんの子どもたちは、アニメの主人公のキ
ャラクターを描く。歌といっても、わざと、どこか音のずれた歌を歌う。食べ物にしても、母親が
作った料理より、ファミリーレストランの料理のほうが、おいしいと言う。こういう環境で育つと、
人間性まで、ニセモノになってしまう(?)。今、外からの見栄えばかり気にする子どもがふえて
いるので、ご注意!


●ほめるのは、努力とやさしさ

子どもは、ほめて伸ばす。それはそのとおりだが、ほめるのは、子どもが努力したときと、子ど
もがやさしさを見せたとき。顔やスタイルは、ほめないほうがよい。幼いときから、そればかりを
ほめると、関心が、そちらに向いてしまう。また「頭」については、慎重に。「頭がいい」とほめす
ぎるのも、またまったくほめないのも、よくない。ときと場所をよく考えて、慎重に!


●親が、前向きに生きる

親自身に、生きる目的、方向性、夢、希望があれば、よし。そういう姿を見て、子どももまた、
前向きに伸びていく。親が、生きる目的もない。毎日、ただ何となく生きているという状態では、
子どももまた、その目標を見失う。それだけではない。進むべき目的をもたない子どもは、悪
の誘惑に対して抵抗力を失う。子育てをするということは、生きる見本を、親が見せることをい
う。生きザマの見本を、親が見せることをいう。


●機嫌をとらない

子どもに嫌われるのを恐れる親は、多い。依存性の強い、つまりは精神的に未熟な親とみる。
そして(子どもにいい思いをさせること)イコール、(子どもをかわいがること)と誤解する。子ど
もがほしがりそうなものを買い与え、それで親子のキズナは太くなったはずと考えたりする。
が、実際には、逆効果。親は親として……というより、一人の人間として、き然と生きる。子ども
は、そういう親の姿を見て、親を尊敬する。親子のキズナも、それで太くなる。


●親のうしろ姿を見せつけない

生活で苦労している姿……それを日本では、「親のうしろ姿」という。そのうしろ姿を、親は見せ
たくなくても、見せてしまうものだが、しかしそのうしろ姿を、子どもに押し売りしてはいけない。
つまり恩着せがましい子育てはしない。「産んでやった」「育ててやった」「お前を大きくするため
に、私は犠牲になった」と。うしろ姿の押し売りは、やがて親子関係を、破壊する。


●親孝行を美徳にしない

日本では、親孝行を当然の美徳とするが、本当にそうか? 「お前の人生は、お前のもの。私
たちのことは心配しなくていいから、思う存分、この世界をはばたいてみろ」と、一度は、子ども
の背中をたたいてあげてこそ、親は、親としての責任を果たしたことになる。もちろんそのあ
と、子どもが自分で考えて、親孝行するというのであれば、それはそれ。しかし親孝行は美徳
でも何でもない。子どもにそれを強要したり、求めたりしてはいけない。


●「偉い」を廃語に!

「偉い」という言葉を、廃語にしよう。日本では、地位の高い人や、何かの賞をとった人を、「偉
い人」という。しかし英語国では、日本人が、「偉い人」と言いそうなとき、「リスペクティド・マン」
という。「尊敬される人」という意味である。リスペクティド・マンというときは、地位や、名誉には
関係ない。その人自身の中身を見て、そう判断する。あなたの子どもには、「偉い人になれ」と
言うのではなく、「尊敬される人になれ」と言おう。


●家族を大切に

『オズの魔法使い』という、小説がある。あの中で、ドロシーという女の子は、幸福を求めて、虹
の向こうにあるというエメラルドタウンを冒険する。しかし何のことはない。やがてドロシーは、
真の幸福は、すぐそばの家庭の中にあることを知る。今、「家族が一番大切」と考える人が、8
0〜90%になっている。99年の文部省の調査では、40%前後でしかなかったから、これはま
さにサイレント革命というにふさわしい。あなたも自信をもって、子どもには、こう言おう。「この
世界で、一番大切なものは、家族です」と。


●迷信は、否定しよう

子どもたちの世界では、今、占い、まじない、予言、超能力などが、大流行。努力して、自ら立
ちあがるという姿勢が、ますます薄らいできている。中には、その日の運勢に合わせて行動
し、あとで、「運勢が当たった」と言う子どもさえいる。(自分で、そうしただけなのだが……。)子
どもが迷信らしいことを口にしたら、すかさず、「そんなのはウソ」と言ってやろう。迷信は、まさ
に合理の敵。迷信を信ずるようになればなるほど、子どもは、ものごとを合理的に考える力を
失う。


●死は厳粛に

ペットでも何でも、死んだら、その死は厳粛にあつかう。そういう姿を見て、子どもは、「死」を学
び、ついで、「生」を学ぶ。まずいのは、紙か何かに包んで、ゴミ箱に捨てるような行為。決して
遊んだり、茶化したりしてはいけない。子どもはやがて、生きることそのものを、粗末にするよう
になるかもしれない。なぜ、ほとんどの宗教で、葬儀を重要な儀式と位置づけているかと言え
ば、それは死を弔(とむら)うことで、生きることを大切にするためである。生き物の死は、厳粛
に。どこまでも厳粛に。




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●マザコン

●理想の女性?

 「Y」という、雑誌を購入。私たちの年代層をねらった雑誌。それを読みながら、ワイフが、こう
言った。

「男って、死ぬまで、理想の女性を追い求めるって、ホント?」と。

 雑誌を横取りしてみると、それには、こうあった。ある舞台監督と女優との対談だった。

K(監督)「男っていうのはね、死ぬまで、理想のマドンナ(聖母)を、追い求めるものなんですよ
ね。女性には、それがありませんか?」
S(女優)「女性には、ないと思います」と。

 私は、それを読んで、すかさずワイフにこう言った。

「理想の女性を追い求めるという姿勢は、マザコンの特徴の一つだよ」と。

 つまりマザコン性の強い男性ほど、頭の中で、理想の女性を夢想する。つまり究極まで自分
を愛してくれる女性を、だ。わかりやすく言えば、自分の母親の代用してくれる女性を追い求め
る。

 言うまでもなく、このタイプの男性は、無意識のうちにも、「母親」から、自分を切り離すことが
できない。

 だから一般論として、つまり心理学の常識として、マザコン性の強い男性ほど、現実の女性
を愛することができない。そのため、浮気率が高くなる。女性から女性へと、渡り歩く傾向が強
くなる。当然のことながら、離婚率も高くなる。

 実際、このタイプの男性と、結婚生活をつづける妻は、たいへん! ……と思う。このことは、
反対の立場で考えてみると、わかる。

 もしあなたの妻が、何かにつけて、あなたに、理想の「男」を、求めたとしたら、あなたはどう
するだろうか。たくましくて、包容力があって、生活力もある。おまけにハンサムで、かっこい
い。どんなことをしても、許してくれる。さいごのさいごまで、あなたのめんどうをみてくれる……
と。

 多分、あなたは、こう言うだろう。「やめてくれ! オレは、ふつうの人間だ!」と。

 対談した女優が、「女性には、ないと思います」と答えたのは、しごく当然のことである。

私「この監督は、自分が、マザコンであることに気づいていないね」
ワイフ「でも、何かと、話題作を発表しているわよ」
私「だから、こういう雑誌で、対談しているんだろ」
ワ「そうね」と

 理想の女性などというのは、いない。いるはずもない。だから追い求めるだけ、ムダ。追い求
められる女性のほうだって、疲れる。その監督は、若くして、母親をなくしている。だからよけい
に、母親の代用をしてくれる女性を、心の中で追い求めているのかもしれない。

私「ある男性はね、会社で昇進したりするとね、奥さんに電話をする前に、実家の母親に電話
をしていたそうだよ」
ワイフ「マザコンね」
私「そうだよ。しかしね、本人は、そうは思っていない。自分は、親思いの、孝行息子と思いこん
でいた」
ワ「奥さんも、たいへんね」

私「そこでこのタイプの男ほど、自分の母親を美化する。『ぼくの母は、ぼくが、そうするにふさ
わしい人だ』とね」
ワ「自分の母親が、理想の女性というわけね」
私「そう。究極の愛で自分を包んでくれる、理想の女性というわけだよ」
ワ「でも、そうして、男は、マザコンになるの?」

私「女性にも、マザコン性の強い人はいるよ。でも、やはり男性に多い。理由は、結論を先に言
えば、父親不在だからだよ」
ワ「父親の存在感がないということ?」
私「そう。子どもは、だれしも、母親との絶対的な関係の中で、生まれ育つ。それが悪いという
のではない。それは人間の成長には、必要不可欠なものだ」
ワ「が、そのままになってしまったというわけ」

私「そうなんだよ。そこで、その絶対的な関係を、是正するのが、父親の役目ということになる。
が、その父親の存在感がない。だから、濃密な母子関係のまま、おとなになってしまう」
ワ「でもね、もし、その父親が、マザコンだったら、どうするの」
私「ハハハ、それは問題だア。どうするんだろ。困った問題だね」と。

 しかし、こうまで堂々と、自分のマザコン性を主張する人がいるとは! もちろん本人は、そ
れに気づいていない。対談の内容は、要するに、その監督は、舞台芸術をとおして、理想の女
性を追い求めているということだそうだが……。

 しかし……?

(マザーコンプレックス)いわゆるマザコン。成人した男性が、母親との間に、依存関係を保ち
続け、そのことに疑問や葛藤を感じていない状態。このような男性は、母親からの過剰な愛情
によって、青年期に達成されるべき、同年代の異性との交友関係をもつために必要な人格の
確立ができなかったと考えられる(深堀元文「心理学のすべて」)。

(教訓)母親は、子育てをする。それは当然だが、子どもがある年齢に達したら、子どものほう
が、親離れするように、仕向けなければならない。あるいは父親が、母子関係に割って入り、
その関係を是正しなければならない。「ある年齢」というのは、多少個人差はあるが、年齢的に
は、満8歳前後をいう。






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●子どもの善悪について……

 いつか、『子どもは社会の縮図』(中日新聞発表済み)を、書いた。それについて、最近は、
『子どもは、親のまま』という原稿を書いた。その『子どもは、親のまま』について。

+++++++++++++++++++++

●子どもは、親のまま

 車の窓から、ポイと、ゴミを捨てた母親がいた。うしろの席では、2人の子どもたち(6歳くらい
の男児と、2歳くらいの女児)が、それを見ていた。

 ビデオショップの前。横の駐車場は、ガラあきなのに、その父親は、車をショップの玄関ワキ
に横づけ。そのまま小学生らしい男の子をつれて、店の中に入っていった。

 信号はもう、赤。一呼吸置いて、その車はまだ余裕があると判断したのか、さらに加速して、
交差点を左折。キーンというタイヤのきしむ音。見ると横の助手席では、中学生らしい男子が、
あごをひいて、ふんばっていた。

 ……こういう例は、多い。まさに日常茶飯事。しかし私は、あえてこう問う。こういう親たちは、
いったい、子どもを、どう教育しようとしているのか、と。つまりこういうことを親たちが一方で平
気でしておきながら、「約束を守れ」「規則を守れ」「悪いことをするな」は、ない。子どもたちは、
そういう親の姿を脳裏に焼きつけながら、やがておとなになる。そして親と同じことを繰りかえ
すようになる。

 子どもの世界には、『一事が万事』という大鉄則がある。一事のことで小ずるい子どもは、あ
らゆる面で小ずるい。それはちょうど、ドミノ倒しのドミノのよう。

 人間の脳は、それほど器用にはできていない。そのつど善と悪を、使い分けるなどということ
はできない。善人ぶることは、だれにでもできる。しかしそれをつづけていると、やがて疲れる。
ボロが出る。

 しかし心配は、無用。『一事が万事』である。反対に、今のこの瞬間から、身のまわりのほん
のささいなことでよいから、その善をつらぬく。

 ウソをつかない。約束を守る。規則に従う、など。子どもが見ているとか見ていないとか、そう
いうことは、あまり考えなくてもよい。考える必要はない。あとは日々の生活の中で、それを繰り
かえす。

 あとはドミノ倒しのドミノのように、あなたは善人へと変身する。そしてそれを見て、あなたの
子どもも、これまた善人になる。

 そのときはじめてあなたは、自分の子どもに向かって、堂々とこう言うことができる。

 「学校の勉強を、しっかりとしなさい!」と。




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10

●成功確率と達成感

 ある日、6年生になったFさんが、「先生、これ!」と言って、算数の新しいワークブックを見せ
てくれた。見ると、超・難解な入試問題集だった。

 「どこで手に入れたの?」と聞くと、「お母さんが、知りあいの進学塾の先生からもらってきた」
と。

私「こんなの無理だよ」
F「お母さんが、毎日、2ページ、やれって……」
私「でも、一問解くのに、30分はかかるよ」
F「だから、教えてほしい」と。

 Fさんの能力では、不可能と思われる問題が、ぎっしり。2ページで、15、6問はあった。

 私はレッスンが終わると、Fさんの母親に電話をした。こうした難解なワークブックをかかえる
と、そこで勉強が止まってしまう。にっちもさっちも、進まなくなってしまう。

 幸いFさんのお母さんは、すぐわかってくれた。「やはり無理ですか?」「はあ、ぼくはそう思い
ます」と。

 子どもの学習指導で大切なのは、(達成感)。「ヤッター」「やりとげた!」という思いが、子ど
もを前向きに伸ばす。

 そこで出てくる言葉が、「成功率」である。

 子どもが何かの課題にとりかかったとする。そのとき、成功率を、50%50%にするのがコツ
(J・W・アトキンソン)。2回トライして、1回くらい成功するのがよい。いつも簡単に成功するの
も(100%)、いつもまったくできないのも(0%)、子どもの学習指導では、好ましくない。50%
50%、である。

 ワークブックでいえば、2問のうち、1問くらいは自分の力でできる。しかしもう1問は、なかな
か解けない。そういうのがよい。

 子どもに何かを教えるときも、ほどほどに指導した段階で、あとは子ども自身の力でできるよ
うにしむける。半分くらいは助けてあげて、残りの半分くらいは、子ども自身にさせる。やりす
ぎ、手取り足取り教育は、一見、親切な指導に見えるが、かえって子どものために、ならない。

 さらに相手が幼児のばあいは、(できる・できない)は、あまり評価しないほうがよい。(がんば
った・がんばらない)という視点で、子どもを評価する。たとえば何かのワークブックをしても、子
どもががんばってしたような雰囲気であれば、大きな丸をつけて、それをほめる。「よくやった
ね!」と。

 こまかいミスや、解答のしかたがまちがっていたというようなことは、不問にする。この時期、
こまかいことをあれこれ言うと、子ども自身もまた、神経質になってしまう。子どもの学習指導
は、『まじめ7割、いいかげんさ3割』と覚えておくとよい。

 ワークブックについていうなら、7割があっていればよし。3割が、お絵かきになってもよしとす
る。そういうおおらかさが、子どもを伸ばす。
(はやし浩司 達成感 成功率 子どもを伸ばす アトキンソン)



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11
【「私」とは……】

●車の中で

 マガジンを発行するということは、頭のジョギングのようなもの。一言で言えば、そういうことに
なる。考えることで、頭の健康が維持される。

 それについて、今朝もワイフが、車の中で、こう言った。「みながみな、考えることが好きとい
うわけじゃ、ないわ」と。

 それに答えて、私は、こう言った。

 「それだけではない。考えるからこそ、私は私でいられる」と。

私「たしかに考えることには、ある種の苦痛がともなう。そのことは、中学生たちに、証明の問
題を解かせてみるとわかる。だれも、その苦痛に満ちた、緊張感を覚える」
ワイフ「できるだけ、考えることを避けようとするのね」
私「そうだよ」と。

ワ「じゃあ、考えることと、私とは、どういう関係があるの?」
私「いいか、その人の行動は、その大半が、その人の意思とは関係のない世界で、決められ
ている。食欲にしても、性欲にしても、本来の意思とは関係ない。本能だ。本能に操られている
だけ。しかし人は、考えることによって、自分をつかむことができる」と。

私は、車の中で、こんな話をし始めた。

私の中には、(私であって、私でない部分)と、(私であって、私である部分)がある。そのうち、
(私であって、私である部分)というのは、つまりは(自分で考える部分)ということになる。

 たとえば私が、何かのことで、いじけたり、すねたり、ねたんだりする。そういった部分は、(私
であって、私でない部分)ということになる。食欲や性欲によって、動かされる部分も、ここでい
う(私であって、私でない部分)ということになる。

 コンピュータで考えてみれば、それがわかる。

●プログラムで動くコンピュータには、「私」はない。

 今、コンピュータに、住所録のソフトを、インストールしたとしよう。便利なソフトで、郵便番号を
入力するだけで、自動的に住所に変換してくれる。

 そのとき、コンピュータは、入力されたとおりの仕事をしているだけで、ただの機械でしかな
い。つまりコンピュータは、いくらぼう大な仕事を瞬時にしたところで、ただの機械。

 コンピュータが、コンピュータという「私」を、認識することはない。

 しかしそのコンピュータが、自分で考えたら、どうなるか。たとえば「今日は、少し気温が低
い。電流も、1000分の3アンペアだけ、低い。寒いな。もうそろそろ正月も近いから、年賀状
を書こう」と。

 その自分で考えた部分が、コンピュータの中の「私」ということになる。

 人間も、同じ。まったく、同じ。

●つくられる「私」

 あなたや私には、性格や性質がある。素質もある。精神的にゆがんだ部分もあれば、情緒
的に不安定な部分もある。得意、不得意な部分もある。

 しかしそれらは、生まれたあと、(あるいは生まれる前からでもよいが)、遺伝子と環境の中
で、つくられたものである。すべてが、そうであると考えてよい。

 たとえば私は、30歳になる少し前、飛行機事故を経験している。そのときからほぼ10年近
く、飛行機に乗れなくなってしまった。飛行機恐怖症という恐怖症になったためである。

 この恐怖症にしても、生きてきた環境の中で、つくられたものである。つまり(私であって、私
でない部分)ということになる。

 もう少し、深く、考えてみよう。

●あなたでない、あなた

 あなたがなぜ、今、あなたかと言えば、あなたの父親の精子と、あなたの母親の卵子が結合
したからである。もしそのとき、1億個近く射精された精子が、あなたをつくる精子ではなく、つ
ぎの精子であったとしたら、今の、あなたはいないということ。見た目には、あなたとまったく同
じであっても、それはあなたではない。

 今のあなたが、あなたであるのは、偶然にすぎない。

射精された精子の数は、平均で1億個と言われている。それらの精子が、猛烈な競争をしなが
ら、一個の卵子に突入する。そのとき、その卵子に突入できる精子は、1個だけ。残りの999
9万9999個の精子は、ムダとなって、死ぬ。

 あなたをつくった精子を、1億個の中の精子の、1番目の精子とする。もしそのとき、何らか
の拍子に、1番目の精子が、2番目の精子に競争にまけ、席をゆずったとする。するとそのと
き生まれるのは、あなたではない、別のあなたということになる。

 卵子にしても、つぎの卵子であったら、今の、あなたではない。別のあなたである。

 しかしそのとき、あなたではない、もう1人の別の人間が生まれていたはずである。そしてそ
の人間は、外の人間から見れば、まったくあなたと同じ人間ということになる。名前も、同じ名
前がつけられただろう。性格も、性質も、今のあなたとほとんど同じと考えてよい。

 こうして「あなた」は、作られていく。それはたとえて言うなら、あなたの脳ミソの中に、無数の
プログラムがインストールされていくようなものと考えてよい。

 たとえば甘やかされれば、依存性の強いあなたになる。虐待されば、冷酷なあなたになる。し
かし幸運にも、やさしい両親に恵まれれば、心のやさしいあなたになる。

 しかしそうして作られたあなたは、決して、あなたではない。あなたは自分では、「私」と思って
いるかもしれないが、「私」ではない。

 では、「私」とは何か。

●「私」とは……

 それが「考える私」ということになる。コンピュータでたとえるなら、いくらコンピュータがいくら
すばらしい仕事をしたとしても、それはコンピュータ自身ではない。プログラムによって、そう命
令されているか、そうしているだけである。

 しかし、ここで、もしコンピュータが自分で考えることができたら、それが、コンピュータの「私」
ということになる。

 もっとはっきり言えば、「考えるから、私」ということになる。その(考える部分)に、「私」がい
る。つまり「私」とは、(考える部分)ということになる。このことは、反対に、(考えることを知らな
い人)を見れば、わかる。(考えることを知らない人)は、無数のプログラムに命令されるまま、
動いているだけ。そういう人には、「私」は、いない。

 このことを、私は、子どもたちを観察していて、知った。

●分離不安の子ども

 ここに、分離不安の子ども(5歳・男児)がいる。2歳くらいのとき、母親が1週間ほど、入院し
た。その間、その子どもは、祖母の家に預けられた。以来、母親の姿が見えなくなると、泣きな
がら、母親のうしろを追いかけるようになった。

 その子どもは、一見、自分の意思で、母親を追いかけているように見える。しかし、決して、
自分の意思ではない。ここでいうプログラムされた命令によって、そうしているだけである。(母
親の入院)→(孤独感、孤立感)→(パニック状態になった)というプロセスを経て、子どもの脳
の中に、1つのプログラムが、インストールされた。

 そのあとは、そのプログラムにそって、子どもは、行動しているだけである。コンピュータにた
とえるなら、(母親が見えなくなった)とき、スタート命令が実行されようになっている。

 こうして考えていくと、私たちの脳ミソの中には、無数のプログラムが、そのつどインストール
されているのがわかる。そして私たちの日常生活のほとんどの行動は、そのプログラムに命令
されるまま、繰りかえされているにすぎない。

 そこで「私」ということになる。

●スズメの世界

 もう少しわかりやすい例では、スズメがいる。

 その時期になると、北海道のスズメも、九州のスズメも、同じような行動をとる。たとえば発情
期。

 冬が終わり、春になるころになると、メスのスズメは尾羽を上に立てて、オスを挑発するような
行動に出る。

 そのメスを追いかけて、オスたちが、あれこれちょっかいを出す。その行動そのものは、千差
万別かもしれないが、全体としてみれば、北海道のスズメも、九州のスズメも、していることに
は大差ない。

 おそらく、(その意識はないにしても)、それぞれのスズメは、「私は私」と思って、そうしている
にちがいない。しかし、それは「私」ではない。

 同じように、ここにあげた分離不安の子どもにしても、北海道の分離不安の子どもも、九州の
分離不安の子どもも、(その意識はないにしても)、それぞれの子どもは、「私は私」と思って、
そうしているにちがいない。しかし、それは「私」ではない。

●ある心の実験

 こんな心の実験をしてみた。

 ある寒い夜のこと。その日は、すでに2時間ほど、サイクリングをした。その日の運動量とし
ては、じゅうぶんな量である。

 私は、コタツの中で、ほんやりと雑誌を読んでいた。そのときのこと。私は、「ここでもう一度、
サイクリングに行ったら、どうなるか?」と考えた。

 ほどよい眠気。心地よさ。体は、どこかだるい。たしかに今日は、2時間、サイクリングをした
が、昨日も、おとといも、していない。1週間単位で考えるなら、運動量が不足している。

 そこで私は、いやがっている体と意思に反して、コタツから起きあがり、サイクリングにでかけ
ることにした。自分の心が、どう反応するか、知りたかった。

 私はもともと意思が弱い。幼児期に、甘やかされ、放任されたのが、理由ではないかと思う。
そういう意思の弱い自分に、つくられた。

 そこで心の中のだれかが、こう命令する。「寒いから、やめろ」「疲れているから、やめろ」と。

どこか怠(なま)けた気持ちである。この怠けた気持ちこそが、(私であって、私でない部分)と
いうことになる。そしてそういう(私であって、私でない部分)に反して、「さあ、サイクリングに行
こう」と考えて行動する部分が、(私であって、私である部分)ということになる。

●結論

 もし私たちが、何も考えないで生きていたら、私たちは、そのつどインストールされたプログラ
ムと、インプットされた情報だけによって、生きるようになる。しかしそれはたとえて言うなら、動
物の世界の動物のようなものである。どこにも、「私」はいない。

 そこで、私たちは、考える。考えるからこそ、私は「私」なのである。

 私は、ずっと、そのことをワイフに話した。

 最後にワイフは、こう言った。

 「あなた、疲れないの? どこかで講演をしているみたいに、ずっと、話しているわ」と。

 それに答えて、私は、こう言った。

 「ぼくのばあい、頭の中がモヤモヤとしてくると、不快でならない。だから、こうして、頭の中の
モヤモヤを、言葉として、吐き出す。みんなは、たしかに考えることを避けようとするけど、ぼく
は、考えているほうが、楽しい。生きているという実感も、そこにある」と。

 私はよく、「生きることは考えること。考えることは、書くこと」と言う。しかしそれにもう少しつけ
足すなら、「私は、考えるから、私なのである」ということになる。
(はやし浩司 私論 私とは)

【補記】

 もう15年ほど前のことだろうか。あるカルトの信者の人に、こう聞いたことがある。

 「あなたがたも、少しは、自分で考えてみたらどうなのでしょうか。あなたがたは、教導様とや
らの意見を一方的に聞いて従っているだけではないですか」と。

 するとその信者は、こう言った。「教導様は、万巻の本を読んでおられる。絶対に、まちがい
はない」と。

 つまりこうして信者たちは、そのカルトのロボットとなって動くようになる。つまりノーブレイン。
わかりやすく言えば、「私は私」と思いこまされているだけ。その実、「私」など、どこにもいな
い。

 大切なことは、自分で考えて、自分で行動すること。それには、難解な数学の問題を解くよう
な苦痛がともなうが、それなくして、「私」をつかむことはできない。





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12
●子どものしかり方

【みなさんからのご質問から……】

*********************************

たまたまI小学校(静岡市)と、W小学校(浜松市)のみなさんから、
講演に先立ち、相談の手紙をもらった。「子どもを叱る」というテーマ
で、共通していたので、それについて、ここで考えてみたい。

*********************************

Q:子ども(小1)を叱るとき、どうしても感情的になってしまう。プレッシャーをかけない叱り方、
子どもがぐずり、わめき、切れているときの対応の仕方を教えてほしい。またがまんすることを
教えるには、どうすればいいか。(I小学校、1年生の子どもをもつ、母親より)

Q:長男はおっとりしているが、その下の長女(小5)は、勝気で気が強い。いつも母親の私と大
喧嘩になってしまう。たがいに好きなのに、です。そういうとき喧嘩をしない方法は、あります
か。たとえば娘は、最後に謝るとき、「私も謝るから、ママも謝ってよ」などと言います。そういう
とき、どうしたらいいでしょうか。(I小学校、5年生の女児をもつ母親より)

Q:子どもの叱り方がわかりません。あまりきびしく言うと、子どもに嫌われてしまうのではない
かと、心配です。何か、いい方法はありませんか。(W小学校、1年生の子どもをもつ母親より)

++++++++++

A:子育ては、考えてするものではありません。その人が過去に受けた子育てを、再現する形
でするものです。ですから、ほとんどの親は、こう言います。「ついその場になると、カッとなって
しまって……」と。子育てというのは、そういうものです。もっと言えば、子育ては本能ではなく、
学習によるものです。

子どもへの対処の基本は、『子どもに、子育てのし方を教える』です。いつかあなたの子ども
も、親になります。そして今、あなたがしている子育てを再現する形で、子育てをします。ですか
ら心のどこかで、「私が、そのし方を教えてあげる」「見本を見せてあげる」と思えば、よいので
す。

心の中で、ワンクッションおくため、ともすればとげとげしくなる子育てを、それで防ぐことができ
ます。もし今、あなたが感情的になっていれば、あなたの子どももまた、いつか親になったと
き、その子ども(あなたの孫)に対して、感情的になるということ。あなたの目の前で、あなたの
子どもがあなたの孫を、カッとなって、叱り飛ばすようになるかもしれません。それでもよけれ
ば、今のままの子育てをつづければよいでしょう。

コツは、いくつかあります。

(1)子どもの横を、友として歩く
(2)悪玉親意識(親風を吹かすこと)をやめる
(3)気負いを捨てる
(4)言うべきことは言いながらも、あとは、時間を待つ
(5)叱り方の見本を見せるつもりで、子どもを叱る、です

 W小学校のお母さんは、子どもに嫌われることを心配しています。しかしこれは本末転倒とい
うべきではないでしょうか。話せば長くなりますが、これは親自身(その母親自身)がもつ、子ど
もへの依存性の変形とみます。つまり子どもに依存したいという(甘え)が、「嫌われては困る」
という意識に変化したと考えます。はっきり言えば、そのお母さん自身の精神的な未熟性によ
るものです(失礼!)。

 お母さん自身が、精神的に成長しないと、子どももまた成長できなくなってしまいます。「子ど
もなんかに、嫌われても、かまわない」というき然とした態度が、子育てには必要です。そのた
めにも、親は親で、いつまでも前向きに生きていく。

 むしろ、親のほうが、子どもに向かって、親離れができるように、しむけます。そしてその結果
として、親もまた、子離れしていきます。その時期は、子どもの自己意識が急速に発達し始め
る、小学3、4年生ごろと考えます。いつまでも、ベタベタした関係をつづけるほうが、おかしい
……。そういう前提で、親子のあり方を、もう一度、反省してみてください。

 ただ誤解してはいけないのは、だからといって、友だち親子が悪いというのではありません。
親子関係もつきつめれば、一対一の人間関係です。そのとき、親子が、親と子という上下意識
のある関係から離れて、友だち関係になることもあります。それはそれで、すばらしいことで
す。そういう親子関係を、めざしてください。

 一般論から言えば、「子どもの機嫌をうかがう」というのは、すでに親子関係が、危険な状態
に入ったことを示しています。たがいの信頼関係が、かなりぐらついているとみます。このまま
いけば、やがて親子のキレツから断絶へと進むかもしれません。どうか、ご注意ください。

 言うまでもなく、親子の信頼関係(親子だけにかぎりませんが……)は、たがいの(さらけ出
し)と、(受け入れ)という基盤の上に成りたちます。たがいに遠慮したり、飾ったり、虚栄を張っ
たり、そしてここでいう機嫌をとったり、コビを売ったりという関係では、そもそもたがいの信頼
関係は、成りたたないということです。

 まだまにあいますから、そのお母さんも、勇気を出して、言いたいことを言えばよいのです。
嫌われて困るのは、子どものほうです。そしてお母さんは、お母さんで、正義を貫く。そういう姿
勢を見て、子どもは、あなたを尊敬し、自分の生きザマを身につけます。今、すぐにはそれが
わからないかもしれませんが、やがてわかるようになります。「ぼくの母は、すばらしかった」と、
です。

 さらにいつも、親子喧嘩が絶えないというのであれば、あなた自身の中に潜む、(わだかま
り)をさぐってみます。不本意な結婚であったとか、不本意な妊娠であったとか。結婚当初の生
活苦や、嫁姑問題などが、そのわだかまりになることもあります。

 この問題は、そのわだかまりに気づくだけで、よいのです。あとは、時間が解決してくれます。
ほとんどの人は、そのわだかまりに気づくこともなく、心の裏からそのわだかまりに振りまわさ
れます。操られます。そしていつも、同じ失敗を繰りかえします。

 さらに……。あなた自身の子どもへの愛情も、疑ってみてください。「私は、真に子どもを愛し
ているか」とです。

 するとほとんどの親は、「私は、愛している」と言います。しかし本当のところは、自分のため
に、そして自分の子どもを、自分の思いどおりにしたいだけではないでしょうか。自分の心のす
き間を埋めるためにです(失礼!)。よい例が、子どもの受験勉強に狂奔している親です。「子
どものため」と言いながら、まったく子どものことなど、考えていない。

 しかしこれは真の愛ではないですね。真の愛は、無条件、無償の愛です。もっとわかりやすく
言えば、『許して、忘れる』。その度量の深さによって、親の愛の深さも決まるということです。

 昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んでいると、オーストラリアの友人がいつもこう言い
ました。「ヒロシ、許して忘れろ」(※)と。英語では「Forgive and Forget」といいます。

この「フォ・ギブ(許す)」という単語は、「与えるため」とも訳せます。同じように「フォ・ゲッツ(忘
れる)」は、「得るため」とも訳せますね。しかし何を与えるために許し、何を得るために忘れる
のか。私は心のどこかで、この言葉の意味をずっと考えていたように思います。が、ある日。そ
の意味がわかりました。

 私が自分の息子のことで思い悩んでいるときのことです。この言葉が頭を横切った。「どうし
ようもないではないか。どう転んだところで、お前の子どもはお前の子どもではないか。許して
忘れてしまえ」と。

つまり「許して忘れる」ということは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るため
に忘れろ」ということになります。そしてその深さ、つまりどこまで子どもを許し、忘れるかで、親
の愛の深さが決まるということです。もちろん許して忘れるということは、子どもに好き勝手なこ
とをさせろということではありません。子どもの言いなりになるということでもありません。

許して忘れるということは、子どもを受け入れ、子どもをあるがままに認めるということ。子ども
の苦しみや悲しみを自分のものとして受け入れ、仮に問題があったとしても、その問題を自分
のものとして認めるということをいいます。

 「子どもを叱る」という話から、とんでもない方向に脱線したような気がしますが、そんなことも
心のどこかで考えながら、「叱る」というテーマを考えてくださると、子どもへの接し方もまた、変
わってくるのではないでしょうか。

 最後に子どもを叱るときには、一度、子どもの目の中に、自分を置いてみるとよいですよ。頭
の中で想像してみるのです。「今、私という親は、子どもには、どんなふうに見えているか」とで
す。たいていのお母さんは、その醜さに、驚かれることと思います。
(はやし浩司 子どもを叱る)
(040928)




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13
●女性の「美」

 女性がもっとも美しくなるのは、20歳を過ぎてから、35歳前後の間ではないか。この時期、
女性は、それまでの年齢とは、まったく別人のようになる。そしてとても悲しいことだが、この時
期をすぎると、今度はこれまた、まったく別人のようになる。

 私の通勤路に、小さな電気店がある。私が、その道を通るようになる前からあったから、昔
からの電気店である。

 で、私がその電気店の前を通るようになってからしばらくのこと。その店のダンナが結婚し
た。ダンナの年齢はそのとき、40歳くらいではなかったか。私が29歳のときである。

 が、驚いたのなんのと言って、その奥さんの美しさはなかった。背は高く、スラリと伸びた足。
今でいう小顔。美人というレベルを超えて、清楚な気品をたたえた、まるでモデルのような人だ
った。色は白く、明るい太陽の光りの下では、さらに輝いて見えた。

 私はよくワイフにこう言った。「あのダンナ、かなり年齢が違うようだけど、よくもまあ、あんな
美しい女性と結婚できもんだね」と。

 それは私のひがみだった。いや、嫉妬だったかもしれない。以来、私は、その電気店の前を
通るたびに、店の中をのぞいた。

 が、私にとっても、30年も前の話である。記憶はあまり残っていない。ただ一度だけ、何かを
買いにその店に入ったことがある。店の番は、ふだんは、その女性がしていた。が、その日に
かぎって、その女性がいなかった。私はたいへんがっかりした。そのがっかりした思いだけは、
よく覚えている。

 で、5年がたち、10年がたった。ときどき、つまり数か月に1度くらい、道路でみかけた。美し
さはそのままだったが、見かけるたびに、どこか生活に追われている感じがするようになった。
このころから、個人の電気店は、経営がきびしくなった。大型の電気店に、押されるようになっ
た。

 そのうちダンナの姿は見えなくなった。が、その女性の姿も、見かけなくなった。ダンナは、ど
こか別の職場で働くようになったのかもしれない。と、同時に、私は、その女性のことを忘れ
た。その店の前を通っても、中をのぞくということはなかった。

 しかし、である。私は、今日、10年ぶりか、15年ぶりか、それはよくわからないが、その女性
を見かけた。いつものように店の前を自転車で通りぬけようとしたとき、その女性が目の前に
立っていた。バッタリと出くわしたような感じだった。この30年でも、それほどまでに、至近距離
で、その女性を見たことはなかった。

 驚いた。もちらん相手の女性は、私の秘めた心の中など、知るはずもない。私のほうを瞬間
見たあと、すぐ視線をはずした。しかし私は、その女性から目を離すことができなかった。

 相変わらず整った顔立ちをしていた。スタイルは、昔のままだった。しかし顔だけは、浅黒くな
り、無数のシミが、それを覆っていた。年齢は、45歳くらいというところか。「ああ」と思った、そ
の瞬間、私は、その女性の向こうに、何とも言われない、悲哀感を覚えた。悲哀感だ。

 時は、容赦なく、人間を変えていく。そして女性から、美しさを、奪っていく。時の流れの無常
というべきか、あるいは無情というべきか……。その女性にすればいらぬ節介かもしれない。し
かし私は、その悲哀感をどうすることもできなかった。

 そのことを仕事が終わってから、ワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「そう言えば、昔、あ
なたはそんなことを言っていたわね。あの人のこと?」と。

私「そうなんだ。あの人だよ。美しい人だったよ」
ワ「……」
私「でも今日見たら、すっかり、おばちゃんになっていた……」
ワ「きっと、生活で、苦労をしたのね」
私「うん、ぼくもそう思う」と。

 女性というのは、生活で苦労をすると、とたんに老ける。私の意見というよりは、みなが、そう
言う。生活に追われるうちに、心の余裕をなくすためかもしれない。あるいは、そういう苦労が、
ホルモンのバランスを崩すためかもしれない。よくわからないが、たしかに、そうだ。

 いや、だからといって、その女性が、苦労をしたと言っているのではない。だれしも平等に、
老ける。その女性だけが、特別に老けたというわけではない。ただここで書けることは、みな
が、それぞれの方法で、歳をとっていくということ。私も、あなたも。彼も彼女も。そして彼らも、
みなだ。例外はない。

私が感じた悲哀感の理由は、そんなところにあるのかもしれない。

★A good husband makes a good wife.(よい夫は、よい妻をつくる。)(イギリスの格言)。ただし
同時に、A good wife. makes a good husband(よい妻は、よい夫をつくる)という格言もあるの
で、注意。

【追記】

街を歩く。
とぼとぼと歩く。
しかしそこは、若者の世界。
私の知っている世界とは、異質の世界。
「私にも、ああいう時代があったはず」と、懸命に思う。
しかし、その思いも、やがて、街の雑踏の中に消えていく。

私は生きた。
懸命に、生きた。
しかしその前にあるのは、老後。
生きてきたはずなのに、その実感がない。
「私は、今まで、何をしてきたのだろう」と、ふと、立ち止まる。
しかし、いくら問いかけても、その向こうに見えるのは、乾いた砂漠のみ。

老人は、笑う。
私の愚かさを笑う。
しかし私にはわからない。
何を、どう生きたらいいのか、わからない。
「お前も、やがて私と同じになる」と、その老人は言う。
しかし、その私は、懸命に虚勢を張って、ただひたすら前に歩くだけ。




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14
●子どもの依存性

●依存型社会

 少し前、大雨で道路が冠水したことについて、市を相手に行政訴訟を起こした人がいる。「冠
水したのは、行政の怠慢が原因」と。G市でのことである。

 さらに少し前、長くつづいた雨不足で、水道水が止まってしまったときもそうだ。60日近く、そ
の地方では、雨が降らなかった。それについても、市を相手に行政訴訟を起こした人がいる。
「水道が止まったのは、行政の怠慢が原因」と。F市でのことである。

 内情はもう少し複雑かもしれない。それぞれに私の知らない事情があるのかもしれない。し
かし、「?」である。

 実は私も、国を相手に、訴訟を起こそうとしている。「このところの温暖化は、行政の怠慢が
原因」と。……というのは、ウソ。

 こんな子ども(小4男児)がいた。

 ある日曜日の午後、その子どもから電話がかかってきた。いわく、「退屈。することがない」
と。そこで「お父さんは?」と聞くと、「仕事……」と。さらに「お母さんは?」と聞くと、「お店で仕
事……」と。

 その子どもの家は、店を経営していた。店は、少し離れたところにあった。が、私はこう言っ
た。「だったら、あなた、お店へ行って、お母さんを手伝いなさいよ」と。

 「依存性」という言葉がある。その依存性の強い子どもは、何かにつけて、だれかに依存しよ
うとする。さらにその依存性が日常化すると、依存していること自体を忘れてしまう。それが当
たり前になってしまう。

 この話を、先日、母親たちとの懇談会の席で話すと、一人の母親が、こう言った。「実は、うち
の母親がそうなんです」と。

 「うちの母親は、今年60歳になりますが、娘の私たちには、何もしてくれません。が、毎日の
ように世話に行かないと、機嫌が悪いのです。『客が来て、今日は行けない』などと言おうもの
なら、『いい、いい、来なくていい。何も心配しなくてもいい。母さんは、冷蔵庫にあるものを食べ
るから、心配しなくてもいい』と、実にイヤミな言い方をするのです」と。

 子どもが親に依存するケースも多いが、親が子どもに依存するケースも、多い。おまけに、ひ
がんで、すねて、つっぱって……。あるいは今にも死にそうな弱々しい言い方で、同情をかうこ
ともある。

 人格の完成度は、さまざまな尺度で、知ることができる。他者との共鳴性、自己統制力、自
己認知力、それに他者との良好な人間関係など。そしてその一つが、自立度である。つまり依
存性が強いということは、それだけ、人格の完成度が低いということを示す。

 さて冒頭の話だが、たまたまG市の市長と直接話す機会があったので、「信じられないほどの
依存性ですね」と言うと、「そうですねえ……」と。その市長は、苦笑いしていた。

 アメリカは訴訟社会だが、こと、天災については、行政側を訴えるということは、めったにしな
い。国は、自分たちでつくるものと意識が強いからである。

 一方、この日本では、奈良時代の昔から、中央集権国家。官僚主義国家。だから天災につ
いても、「行政の怠慢」ということになる(?)。つまりアメリカ人と、日本人とでは、民主主義に
対する考え方が、基本的な部分で、ちがう。

 もちろん行政側が何かまちがったことをすれば、どんどんと訴えたらよい。それはそれだが、
しかし、天災で被害をこうむったからといって、それを行政側の責任にするのは、どうかと思う。

 たとえば先の、F市での水不足のときのこと。たまたまその前後、私とワイフは、山荘の水道
工事で、四苦八苦していた。山荘の水は、500メートルくらい離れたところにある水源から、パ
イプで引いていた。その工事である。

 ツルハシで穴を掘り、パイプをうめる。山の土は、土というより、岩石に近い。5メートルも掘っ
たら、ヘトヘトになってしまう。もともと、「水」というのは、そういうものである。だから町の自宅
に帰って、水道の蛇口をひねったとき、水が出るのを見て、驚いたことがある。「どうしてこんな
に簡単に水が出るのだろう?」と。

 私はそのニュースをテレビで見たとき、「何を甘ったれたことを言っている!」と、思わず、つ
ぶやいてしまった。

 日本という社会は、国際的にみても、依存型社会である。みながみなに、依存しあいながら、
生きている。それが悪いというのではない。その依存性が、形を変えて、ぬくもりのある、やさし
い社会を作っているのも事実である。

 しかし一歩、日本の外に出れば、この依存性は、通用しない。それについては、また別の機
会に話すとして、こんなエピソードがある。

 中学1年生の英語の教科書では、道の聞き方が、テーマになっている。

「図書館へは、どう行けばいいですか?」
「三本目の角を、左に曲がってください」と。

 しかし実際には、アメリカなどでは、見知らぬ人に道を聞くなどということは、ありえない。都会
だけではなく、地方の田舎でも、である。

 私たちも一度、道に迷ってしまったことがある。どこかのレストランへ行く途中の、ことである。
そこで私が、運転していた友人に、「あの人に道を聞いたら?」と提案すると、その友人は、「ノ
ー」と。はっきりと、断られてしまった。

 つまり相手の人が、おびえるから、そういうことはしない、と。つまり見知らぬ人に道を聞くの
も、危険だが、聞かれるほうも、聞かれて、困るというのだ。だから、「ノー」と。

 「アメリカでは、通行人に道を聞くことをしないのか?」と聞くと、その友人は、けげんそうな顔
をするのみ。そういう習慣そのものがないといったふうだった。

 しかしそれが世界の常識である。それがよいか悪いかは別にして……。
 

●子どもの依存性

 依存性の強い親は、自分の子どもが依存性をもつことに、どうしても甘くなりやすい。つまり
自分自身がそうであるため、子どもの依存性に、気がつかない。気がつかないまま、ベタベタと
親に甘える子どもイコール、かわいい子、イコール、いい子と誤解してしまう。

 だからふつう、依存性の強い子どもをもつ親に、その依存性を指摘しても、意味がない。子ど
もの依存性のほとんどは、親自身の依存性に起因するからである。さらにそれまでに、たがい
に依存関係ができてしまっているから、たがいを切り離すのは、容易なことではない。

 いろいろな例がある。

【K君、年中男児】

 「あと片づけをしようね」と促しても、ただ立っているだけ。「片づける」という意味そのものが、
わからない。そこであれこれ、ジェスチャで教えるのだが、それもわからない。が、しばらく指示
を繰りかえしていると、そのうち、メソメソ泣き出してしまった。恐らく家では、そういうふうにメソ
メソすれば、みんなが、助けてくれるのだろう。

【E君、小学3年男児】

 ワークをしているとき、こう聞いた。「まちがえたら、どうするの?」と。そこで私が、「まちがえ
たら、消してやりなおせばいい」と。すると今度は、「きれいに消すの?」と。そこで「そうだよ」と
言うと、「どこを消せばいいの?」と。こうした意味のない押し問答が、いつまでもつづく。

【U君、中学生男子】

 何かをしたいとき、「〜〜したい」とは言わない。いつも遠まわしな言い方をする。たとえば空
腹なときも、「おなかがすいたけどオ……」と言うなど。わざと、皆の前で、フラフラと歩いてみせ
ることもあった。そこでまわりの人が「どうしたの?」と声をかけると、わざとらしく腹を押さえて
みせるなど。

 たまたま思い出すまま、3人の子どもについて書いてみたが、みな男児や男子である。そうい
う意味では、原因は、母子関係にあるとみてよい。つまり乳幼児期の母子関係が是正されない
まま、体だけが大きくなった考えられる。

 が、本当の原因はといえば、母親自身の精神的な欠陥、もしくは、母親自身の情緒的な未熟
性があるとみてよい。そうした欠陥や、未熟性を補うために、母親は、無意識のうちにも、子ど
もを利用してしまう。

 ある母親は、こう言った。私が、「もう少し、子ども(年長男児)と距離をおいたほうがいいです
よ」と言ったときのことである。その子どもは、幼稚園の下駄箱のところで、母親にクツをはか
せてもらっていた。

 「いえ、先生、私は、こうしてこの子のめんどうをみられると思うだけで、うれしいのです」と。

 そしてことあるごとに幼稚園へやってきては、園庭のはしのほうから、子どもの様子をうかが
っていた。そういう意味では、過保護児にせよ、でき愛児にせよ、独得の依存性をもつことがわ
かっている。特徴を並べると、こうなる。

(1)意思決定ができない。
(2)優柔不断。つかみどころがない。
(3)良好な人間関係が結べない。
(4)他人に対して服従的になったり、同情をかうような態度を見せる。
(5)約束や目標が守れない。規則が守れない。いいかげん。
(6)道徳心が薄く、倫理観がない。不和随行的になりやすい。
(7)無責任というより、責任感そのものが、欠ける。
(8)幼稚性、幼児性の持続。年齢に比して、人格の核形成が遅れる。

 まさによいことなしの状態ということになる。子どもの依存性というのは、そういうものだが、最
大の問題は、最初に書いたように、親自身にその自覚がないこと。中には、ベタベタの依存関
係をつづけながら、「最近、うちの子は、私の言うことを聞かなくなりました」と、泣きながら訴え
てきた母親すらいた。

 加えて、日本の社会全体が、依存型社会ということもある。責任を追及しあうよりは、ものご
とを、ナーナーですまそうとする傾向が強い。子どもの世界でも、自立心が旺盛な子どもほど、
嫌う傾向もある。

 こうした(ちがい)が、顕著に現われるのは、外国の高校生と日本の高校生を見くらべたとき
である。日本の高校生は、カナダの高校生やフランスの高校生とくらべてみると、全体として、
たいへん幼稚な感じがする。これは私の意見というより、国際的な常識でもある。すべてが依
存性の問題とは言えないが、しかし依存性が強ければ強いほど、幼稚性、幼児性が残る。年
齢に比して、幼い感じになる。

 ついでながら、子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいという過保護を、
代償的過保護という。

 ふつう過保護というときは、その基本に親の愛情がある。しかし代償的過保護には、それが
ない。つまりは自分勝手でわがままな過保護ということになる。

 で、こういう代償的過保護でも、親は、「子どもはかわいい」「私は子どもを愛しています」と言
う。それはそうかもしれないが、その姿は、どこか、ストーカーに似ている。相手の気持ちなど、
お構いなしに、相手を追いかけまわす、ストーカーである。そのため私は、「ストーカー的過保
護」と呼んでいる。

 この代償的過保護は、依存性の強い親によく見られる。






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15

●悲しき、子どもの心理

 親は、「C高校へ入れたい」と言う。「できればB高校へ」とも。しかし子どもには、その力はな
い。D高校どころか、E高校、あるいはF高校でも、ムリ。

 そういうとき、あなたなら、どうするだろうか。

 もう27、8年ほど前のことである。私は、進学塾の塾長に頼まれて、その子ども(中3男子)
の家庭教師をしていた。その子どもの親が、そうだった。

 今で言う、LD児(学習障害児)だったかもしれない。ただ、どういうわけか、学校のテストだけ
は、そこそこによくできた。その理由は、あとでわかった。その子どもは、カンニングだけは、天
才的にうまかった。

 私は、塾長と親と、そして子どもの板ばさみにあってしまった。教えても教えても、ちょうどザ
ルで水をすくうような状態だった。その一方で、塾長からは、「成果を出してほしい」。親から
は、「何とかC高校へ」と。毎日のように、つつかれた。

 そこで私は、あるとき、模擬試験をしてみた。当時はまだ、そういう模擬試験が、進学塾で
も、定例化されていなかった。私は、過去問(過去に出題された入試問題集)を手に入れると、
時間をはかりながら、その子どもに、それをさせた。

 結果は、わかっていた。数学にしても、1番の簡単な計算問題すら、まちがえていた。点数に
すれば、100点満点中、5〜10点程度だっただろうか。

 私は、その成績をその子どもに見せながら、こう言った。

 「この成績では、C高校は無理だと思う。一度、君のほうから、お母さんにそう言ってみたらど
うだろうか。君の力は、君自身が一番よく知っているはず。『ぼくは、C高校は無理だと思う』と、
正直に言えばいい」と。

 しかしその子どもは、そのことを親には言わなかった。そのあとも、たびたび、子どもに、それ
を話すように言ったが、言わなかった。そのかわり、学校のテストなどでは、「そんなはずはな
い!」と思われるような、よい成績をとってきたりした。

 ……というようなケースを、私は、そのあとも、たびたび経験している。こういうケースは、多
い。全体のうち、何割かが、そうであると言ってもよい。

 なぜだろうか? どうして子どもは、自分の(実力)について、正直に、親に話さないのだろう
か?

 ……と思っていたら、その前後に、こんな話を聞いた。

 ある夫なのだが、会社をクビになった。しかしそのことを妻に話すことができなかった。その
ため、クビになってからも、毎朝、出勤するようなフリをして、外出。あとはパチンコをしたり、魚
釣りをしたりして、一日を過ごしていた。

 その話を聞いて、「自分の力を正直に言わない子どもの心理と同じだ」と、そのとき、そう思っ
た。

 実際、私も、似たような心理になることがよくある。何かの失敗をしたりしたようなときだ。ワイ
フになかなか話せない。切り出すこともできない。悶々とした心理状態である。

 このことを車の中で、私のワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「わかるわ、その子どもの
気持ちと。

私「親に話せと言ってもムリなんだよね」
ワ「話せば、自分の立場がなくなるからね」
私「そうなんだ。『ぼくは、やればできるはず』と思わせておくことで、自分の立場をつくることが
できる。それ以上に、その子どものプライドの問題もあるだろうしね……」と。

 これも悲しき子どもの心理かもしれない。子どもは子どもで、懸命に親の期待にこたえようと
しているのかもしれない。

 で、先の中学生のことだが、その中学生は、市内でもナンバー2と言われる、難関校のB高
校を受験した。一か八かの勝負というよりは、もともとムリな受験だった。結果は、もちろん不
合格。あとで塾長はこう言った。

 「親との話しあいで、どうせC高校でもムリなら、B高校をということになった。親としては、B高
校を受験しました。B高校を受験しましたが、落ちて、私立のF高校※へ入りましたということに
して、形だけでも、世間体をとりつくろいたかったんだろうね」と。

 しかしこれは悲しき親の心理ということになる。どこまでも、どこまでも悲しい親の心理というこ
とになる。

【注※】このS県では、当時は、高校受験が、受験競争の関門になっていた。また公立のほう
が、私立より、レベルが高いということになっていた。

【補足】

 このタイプの子どもは、カンニングがたいへんうまくなる。ここで「天才的」と書いたが、まさに
天才的。それに、その場をごまかす技術を、どこかで身につけてしまう。

 たとえば自分でしたテストを、自分で採点させてみると、鉛筆を左手に隠しもっていたりして、
その場で答を書きこみ、右手の赤ペンで、丸をつける、など。

 これも悲しき子どもの心理ということになる。長い時間をかけて、(いかにごまかすか)という
技術だけを、身につけてしまう。

 



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16

【上の子、下の子】

 下の子が生まれると、上の子は、心理的に、大きな影響を受ける。下の子の誕生がきっかけ
で、上の子の様子が変わるということは、この世界では、珍しくない。よく知られた症状に、赤ち
ゃんがえりがある。

 ネチネチと甘えたり、おもらしをしたりするなど。しぐさ、話し方まで、赤ちゃんぽくなる。

 この赤ちゃんがえりを、多くの親たちは、安易に考える傾向がある。上の子も、下の子の誕
生を歓迎しているはずと考えやすい。しかしこれはとんでもない誤解。

 赤ちゃんがえりだけではない。その症状は、実に、さまざま。赤ちゃんがえりをマイナス型とす
るなら、下の子に攻撃的になるプラス型もある。嫉妬がからんでいるため、下の子を殺す寸前
までのことをする。方法も、陰湿かつ、執拗。弟を逆さづりにして落したり、チョークを食べさせ
たりした例がある。

 しかし表立って下の子をいじめたりすれば、自分の立場がなくなる。そこで親の前では、仮面
をかぶり、いい兄、いい姉を演ずることが多い。親の目の届かないところで、下の子をいじめた
りする。

 しかしこういう形でも、外の世界に症状が出てくるケースのほうが、まだ扱いやすい。対処方
法もある。が、親の過干渉、過関心、神経質な育児姿勢などにより、症状が、「内」にこもること
がある。

 たいていは、心身症による症状をともなう。そしてその症状は、まさに千差万別。ものいじり、
指しゃぶり、チックなど、よく知られた症状のほか、数年前だが、慢性的な発熱症状を訴える子
ども(年長女児)もいた。気うつ的な症状を示したり、慢性的な腹痛や、頭痛を訴える子どもも
いた。

 「どこか様子がおかしい?」と感じたら、まずこの心身症を疑ってみる。そしてそういう症状が
出てきたら、子育てのあり方を、猛省する。

 ポイントは、二つ、ある。

 一つは、「ほどよい親」であること。「求めてきたときが、与えどき」と覚えておくとよい。子ども
がスキンシップを求めてきたら、すかさず、こまめに、ていねいに、それに答えてあげる。拒否
的な態度は、禁物。子どもというのは、その瞬間に、すべてを判断する。「ちょっと待っててね」
という何気ない一言が、子どもの心を大きくキズつけることがある。

 つぎに、「暖かい無視」を心がける。ベタベタの関係がよいわけではない。あれこれ気をつか
いすぎるのも、よくない。「兄だから……」「姉だから……」という、「ダカラ論」を押しつけるの
も、避ける。

 またこの時期、スキンシップをふやすことについて、「抱きグセがつくのでは?」と心配する人
もいる。しかしこの際、抱きグセは、マイナーな問題と考える。対処のし方をまちがえると、精神
そのものをゆがめることがある。

 この時期をさかいに、ひがみやすくなる、いじけやすくなる、くじけやすくなる子どももいる。繰
りかえすが、決して、赤ちゃんがえりを安易に考えてはいけない。それがわからなければ、あな
たの夫(妻)に、愛人ができたときのことを想像してみればよい。平静でいろというほうが、無
理。子どもの心理は、その状態に近い。

 本来、そうならないように、下の子を妊娠したときから、上の子教育を始める。上の子が、下
の子の誕生を楽しみにするようにしむける。まずいのは、ある日、突然、下の子が生まれたと
いうよdな状態にすること。

 方法としては、大きくなったお腹を見せながら、「あなたの弟(妹)が、ここにいるのよ。生まれ
たら、いっしょに遊んであげてね」式に、毎日、上の子に話しかけるなど。

 また下の子が生まれたあとも、いきなり、50−50の愛情に分けるのではなく、上の子に10
0の愛情を注ぎながら、少しずつ、下の子に、愛情を分けていく。上の子にしてみれば、「平等
ということ自体が、不平等」ということになる。それを忘れてはいけない。

 で、こうした症状が出たら、それが許容範囲なのかどうかを冷静に判断する。症状が軽いよ
うであれば、そのままの状態を保つ。しかし症状がひどいようなら、もう一度、100の愛情を上
の子にもどしたあと、半年単位で、少しずつ、上の子から手を抜いていく。あくまでも子どもの
様子を見ながら、判断する。

++++++++++++++++++

奈良県のNさんより、赤ちゃんがえりの相談をもらった。「4歳になった娘が、口の中にツバを
ためる。チックではないか」と。下に10か月の弟がいるが、逆算すると、その弟が生まれた前
後から、ツバをためるようになったらしい。風邪をひいたようなときには、そのツバが、痰になる
こともあるという。

 症状からすると、チックとみてよい。ツバを吐く、ツバを袖にこする。ツバを口の中にためるな
ど。筋肉のけいれん様の不随意運動をともなうことが多い。クックッとうなるようにして、ツバを
吐くなど。

 とくに意味のある行為には見えないのがふつう。またテレビを見ているときなど、気が緩んだ
ようなときに出やすい。

 こうした症状は、一度出ると、なおるまで、半年から1年単位はかかる。クセとして、その子ど
もに定着してしまうことも珍しくない。だからあとは、あせらず、その時期がくるのを待つ。

 ただNさんのメールの中で、気になったのは、「上の子が、好きになれない」という部分。何か
のわだかまりが原因かもしれない。もしそうなら、一度、自分の心の中をのぞいてみる必要が
あるのでは? それについては、また別の機会に考えてみたい。
(040930)




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17
●離婚問題

【掲示板・投稿より……】

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 私のHPの掲示板に、Yさんという方の
 書きこみがありました。

 ここでは、Yさんがかかえる問題につい
 て考えてみたいと思います。

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【Yより、はやし浩司へ……】

はじめまして。ここ数日のあいだ、投稿しょうかどうかとずっと迷っていました。HPから感じる、
はやしさんの誠実なお人柄と豊富な体験から、アドバイスが頂けたらと願い、パソコンに向かっ
ています。

私は、今34歳で、私には、今年から小学校1年生になった、男の子が一人います。

私は、埼玉県U市にある私の実家で、実母(67歳)と、2月に単身赴任から帰ってきた主人(4
1)と、4人で暮らしていたのですが、今は夫と、別居状態になっています。別居するようになっ
て、3ヶ月になります。

こうなった、もともとの原因は、主人の隠していたカードローンによる借金です。別居の件は、
私の方から言い出しました。 

実は、私の両親は、私が中3の時に離婚しています。父は、大会社に勤務し、昔からの家柄
で、気位の高い人だったのですが、無口で、非社交的。休日は、いつもテレビを見てごろごろし
ているような人でした。

その一方、母は、明るく、意志の強い人でした。悔いのない人生を送りたいという事で、父と離
婚しました。父は、話しかけても、返事もしないというよう人で、数年間、父と母は、1階と2階
で、別れて生活していました。そういう状態がしばらくつづいたあと、つまり家庭内別居の末、離
婚しました。

父は、自宅を養育費代わりということで、自宅を私たちに残し、そのまま、出て行きました。

こう書くと何か暗い感じがしますが、明るい母のおかげで、私たちは、結構、楽しく過ごすことが
できました。庭で、夜、屋台のラーメンを食べたり、母の手製のタイヤの跳び箱を飛んだり、音
楽会をしたり、童話を作りながら寝たり、美術館に行ったりなど。3歳、年上の兄と3人で、楽し
く過ごすことができました。そんな思い出もたくさんあります。

父に家から締め出されたこともありますが、そのときも、母は、近所のお風呂屋に連れて行っ
てくれていってくれました。楽しく過ごせました。

ただ、一度、父が怒って2階に包丁持ってきたことがあって、私達子供が大泣きした事や、(そ
のあと父は冷静になって無事終わりましたが)、気丈な母が実家に涙ながらに電話していた事
など、、そんな事は、いまだに強く、記憶に残っています。

そんなわけで、ずっと私は、「母を悲しませないように」と、心のどこかで、無意識に思っていた
ようです。子どもながらに、皆が笑うようなユニークな事や、夫婦仲を取り持つような事をしまし
た。

学校にファンクラブまでできるほど、兄には友人は多かったのですが、敏感で、病気がちで、高
校を中退したり……。反抗期がきつかったせいもあります。そのこともあって、私は、今思うと、
「母に心配をかけないいい子」、「優等生で、いつまでも甘えたの末っ子」でいることで、母親の
愛情を自分のものにしていたように思います。

もともと私は勉強が好きだったので、ずっと、私は優等生でした。勉強しろと一度も言われた事
もなく、とくに塾に行かなくても、奨学金をもらい、小、中、高3で学年1番になり、東京でも有名
な短大に、2番の成績で合格しました。

その後、オフィス街の中心にある大きな会社で働き、結婚。出産で辞めた後、子供が2歳の時
には、国家試験に合格し資格もとりました。ここに書いたことは、みな、事実なのですが、いま
だに自分に自信が持てず、劣等感に苦しんでいます。精神状態はずっと子供のままです。

自己中心的で、優柔不断で、母に精神的に依存していて、今でも母の指示がないと不安になり
ます。社会に出たときには、他の人が皆、大人に見え、何を話したらよいか分からず困ったり
しました。

小学生時代に、水イボがあり、長くイジメられた事もあります。それが原因で、人から嫌われた
くないという意識がとても強くなったようです。人を避けるようにもなりました。だれかに、理不尽
な事を頼まれたときでも、イヤと強く断ることができません。

自分の子供に対して過干渉で、子供の友達が遊びに来た時も、その子が退屈しないようにと、
つい、おもちゃを出したり、おやつをだしたり。うちに来なくなったら、子供の相手がいなくなる
のではとか、イジメにあうのではないかと心配で、子供の友達(6.7才)に対しても気を使ってい
ます。そんな自分が、バカみたいに思えるときがあります。

年齢だけ高い子供が、子供を産んでしまったようなもので、産むんではなかったと後悔したり、
子供に申し訳なくなったりします。自分の子どもに、何が良くて何が悪いのかの判断や、人間
関係の作り方など、何も教える事ができません。

私自身も、うまく言葉で説明できないので、子供がダメなことをしたときは、子どもを布団に押さ
えつけたりしてしまいます。腹が立つと、親子で叩きあったり、蹴ったりしてしあうこともありま
す。何か要求されて、「ダメ!」と私が言うと、泣いて大きい声を出すので、つい子供の言いなり
になってしまったりします。「近所に聞こえるでしょう! 大きいのに恥ずかしい!とか、「あんた
なんかいないほうがいい」式の言葉や、「お母さん出て行くからね」式の脅しを、子どもにしてし
まいます。

子供のころ、そんな事された事は、自分はないのに、私は、本当に最低の母親です。おとなの
私なのに、子どもを白目でにらんだり、指を吸ったり、バスタオルが離せなかったり……。

このままでは、絶対にまずいことは、わかっているのですがどうしたらよいのでしょうか? どう
したら私自身、母から自立できるのか? 借金なんて世の中で一番大嫌いの母は、主人と別
れる事をすすめています。

子供はお父さんが帰ってくるのを待っています。私は、一人で子供を育てていく自信も、気力
も、経済力も今はありません。子供のことは、母が一番、声をかけたり、かわいがってしてくれ
ています。子供も、母のいう事なら聞きます。

主人は、パソコンおたくで、子供のままです。お忙しいのに、長くなり本当に申し訳ありません。

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●結論は、急がない

 こうした人生の転機につながるような、重大問題については、「結論は急がない」。それが、
大原則。つまりは、自分で、結論を誘導しないということ。

 そのときがきたら、結論は、必ず、向こうからやってくる。あわてる必要はない。そしてちょう
ど、低いところに水が流れていくように、自分の人生も、流れていく。

 ほかのことならともかくも、こうした問題は、「命」そのものを削る。10年単位で、ぞの人の
「命」を削る。だから、結論は、急がない。

●未練の燃焼

 また夫婦の問題、親子の問題については、とことん、未練を燃焼させておく。中途半端は、い
けない。

 そのためにも、(1)自分を冷静に見つめる。どこまでも、どこまでも、自分を冷静に、見つめ
る。見栄や世間体、メンツや虚栄、それに虚飾や仮面、そういったものから自分を解き放ち、
丸裸の自分を見つめる。

 つぎに(2)自分を、とことん、さらけ出す。プライドもかなぐり捨てる。へんに、がんばってはい
けない。すなおに、負けを認め、あるがままの自分をさらけ出す。抱いてほしかったら、「抱いて
ほしい」と言えばよい。好きだったら、「好きです」と言えばよい。別れたくなかったら、「別れたく
ない」と言えばよい。幸福な家庭がほしかったら、「幸福な家庭がほしい」と言えばよい。

 やるだけのことは、すべてやりつくす。それでだめなら、つまりふんばっても、ふんばりきれな
いようなら、それが運命。あとは、自然の流れに、身を任せればよい。

●「私」を超えた人間

 私は私だが、その私は、「人間」の一人でしかない。いくらがんばっても、がんばりきれないこ
とは、だれにだって、ある。あって、当然。

 だれかがあなたに向って、「あなたは、まちがっている!」と言ったとしても、そのとき、もしあ
なたが自分の中に、その人間を感じたら、こう叫べばよい。「私だって、人間だ!」「もし私がま
ちがっているというのなら、人間がまちがっている。私じゃ、ない!」と。

 つまり、そう相手に言いかえせるまで、自分を見つめていく。とことん、自分を見つめていく。

 というのも、そもそも、男と女がいて、恋愛し、結婚し、子どもをもうけるということ自体、「私」
を超えた、人間のなさるわざ。私やあなたではない。人間が、そうさせる。

 その人間が、あるとき、限界に達する。しかし、それは私やあなたの責任ではない。つまりそ
の次元まで、自分の中の人間を確認しておく。

●「私」さがし

 「私」が何であるか、本当のところ、だれも、わかっていない。愚かな人ほど、「私のことは、私
が一番よく知っている」などと、豪語する。しかし、「私」というのは、わからない。わかったと思っ
たとたん、さらに、わからなくなる。

 すべて年齢のせいにするのは、好きではない。が、しかし歳をとればとるほど、「私」がわから
なくなるのも、事実。「私」というのは、そういうもの。

 そこでスパルタの賢人、キロンは、こう言った。「汝(なんじ)自身を、知れ」と。つまりは、それ
が哲学の究極の目標にも、なっている。

 たとえばここに一人の中学生がいる。つっぱって、何かにつけて攻撃的で威圧的。独特の言
い方に、動物的な動作。その中学生にしても、なぜ、自分がそういうことをするのか、本当のと
ころは、何もわかっていない。その中学生は、その中学生を超えた、大きな「私」に操られてい
るだけ。そのことに、その中学生は、気づいていない。

 「私」というのは、そういうもの。それくらい、「私」を知ることは、むずかしい。

●無数の(しがらみ)

 相談をくれたYさんにしても、無数の(しがらみ)の中で、生きている。現在というしがらみだけ
ではない。過去というしがらみの中でも生きている。

 Yさんが、Yさんであって、Yさんである部分と、Yさんが、Yさんであって、Yさんでない部分。そ
ういうものが、混然一体となって、今のYさんをつくりあげている。

 たとえばYさんが優等生であったという部分についても、ひょっとしたら、Yさんは、そういう仮
面をかぶっていただけなのかもしれない。仮面をかぶることで、自分にとって居心地のよう世
界を作ろうとしていただけなのかもしれない。

 さらになぜ仮面をかぶるようになったかといえば、貧弱な幼児期の家庭環境、さらには、貧弱
な母子関係があったのかもしれない。

 決して失礼なことを言っているのではない。こうした問題は、その多くは、(私であって、私でな
い部分)に起因している。それがわかってほしかったから、あえて「貧弱」という言葉を使った。

 繰りかえすが、「貧弱」であることが悪いというのではない。むしろ、そうでない、つまり親の愛
情に包まれ、何一つ不自由なく育った人のほうが、少ない。「私」をさがすときは、そういう前提
で、さがす。

●基本的信頼関係

信頼関係は、絶対的な(さらけ出し)と、(受け入れ)を基盤として、その上で結ばれる。「絶対
的」というのは、「疑いすらもたない」という意味。

 この関係を、最初に経験するのは、子どもの立場でいうなら、母親との関係においてである。
これを母子間における基本的信頼関係という。

 この関係が、そのあと、その人の信頼関係の基本になる。子どもは成長するにつれて、その
関係を、先生や、友人、さらには、配偶者(夫、妻)や自分の子ども(息子、娘)へと広げていく。

 しかし乳幼児期に、母子との間で、この基本的信頼関係を結ぶことに失敗した子どもは、そ
のあと、(それに気がつかなければ)、その十字架を一生、背負うことになる。

 つまりは、自分以外の人間に、心を開けなくなる。だれとも信頼関係を結べなくなる。

●心を開けない子どもたち

他人に対して心を開けない子どもは、つぎの5つのパターンのうち、どれかをとる。

(1)攻撃型(他人に対して、攻撃的になる。)
(2)自虐型(自分をいためつける。)
(3)依存型(だれかにベタベタ甘える。)
(4)服従型(特定の人に、徹底的に服従する。)
(5)同情型(相手に同情を求める。)

 攻撃型というのは、他人に対して攻撃的になることで、自分にとって、居心地のよい世界をつ
くろうとするタイプ。先に書いた、つっぱる子どもが、それに当たる。

 自虐型というのは、その攻撃性が、自分自身に向いたタイプと思えばよい。めちゃめちゃな
練習をして、スポーツの世界でよい成績をとる。あるいは、ガリ勉をして、よい成績をとるなど。
そういう形で、自己主張をしながら、自分の周囲に、自分にとって、居心地のよい世界をつくろ
うとする。

 依存型というのは、だれかにベタベタ甘えることで、自分の心のスキマを埋めようとするタイ
プ。一部の、心を許せる人に対してのみ、極端に、ベタベタする。その動作、しぐさは、幼稚
的、赤ちゃん的になることもある。

 服従型というのは、集団に中に身をおき、「上」の立場にいる人に対して、徹底した服従を誓
うもの。集団非行グループに属し、親分(ボス)に、徹底的に服従したり、どこかのカルト教団に
属して、その指導者(教祖)に、徹底的に服従したりするのが、それ。

 同情型というのは、わざと弱々しい人間を演ずることで、自分の立場をつくることをいう。みな
が「どうしたの?」と心配してくれるような状態を、自分の周辺につくっていく。そのために、自分
で病気をつくったり、また体の不調をいつも訴えたりする。演技でそうするというよりは、無意識
のうちにも、もっと自分の中の奥深い部分で、それをする。だから、その本人にとっては、本当
に頭や腹が痛かったりする。

●仮面

 こうした状態は、つまりは、人と人間関係をうまくつくれないために、その人がその代償的行
為として、する。子どもの世界には、よく知られた現象として、「仮面」がある。

 たとえば「ぶりっ子」と呼ばれる子どもがいる。それも、その仮面の一つ。先生やみなの前
で、いい子ぶることによって、自分をとりつくろおうとする。

 このタイプの子どもは、いい子であることで、自分の周囲に居心地のよい世界をつくろうとす
る。たとえば先生が、「道路にお金が落ちていたら、どうしますか?」と質問したりする。

 するとこのタイプの子どもは、自分をさらけ出す前に、「こういう答を言えば、先生はほめてく
れるだろう」「こういう答を言えば、みなから、尊敬されるだろう」と、即座に計算する。そしてそ
の瞬間に、自分でない、自分を演ずる。

 「交番へ届けます」と。

 しかしこうした仮面をかぶることによって、一番、疲れるのは、その子ども(人)自身ということ
になる。人と接することから生まれる、緊張感。その緊張感から、解放されることはない。だか
ら人間関係をうまく結べない人は、集団の中では、精神疲労を起こしやすい。集団の中では、
明るく快活で、かつ社交的にふるまうことはあっても、実際には、そういう場が苦手。たとえば
パーティから帰ってきたりすると、どっと疲れてしまうなど。

 そのことをわかりやすく説明したのが、ショーペンハウエルという学者である。彼は、「二匹の
ヤマアラシ」を使って、それを説明した。

●マザコン

 乳幼児期から少年少女期にかけて、母と子がつくる母子関係は、絶対的なものであり、かつ
重要なものである。

 子どもは、母親から命を受け、さらに誕生後も、乳を受けるからである。子どもは、この時
期、父親がいなくても育つが、母親なしでは、一日たりといえども、ひとりで生きていくことはで
きない。

 そのため母子関係は、濃密(ベタベタ)なものになりやすい。

 この濃密さを調整するのが、父親の役割ということになる。父親は、この母子関係に割って
入り、母子関係を調整する。わかりやすく言えば、クサビを打ちこむ。この濃密な母子関係を、
そのまま放置すれば、子どもは、生涯にわたって、その母親の呪縛から、解き放たれなくなっ
てしまう。

 よく知られた例に、『冬彦さん』(テレビドラマの主人公)がいる。いわゆるマザコンタイプの男
性である。

 よく誤解されるが、男性だけがマザコンになるのではない。男性と比較すれば少ないが、女
性だって、マザコンになる。このタイプの人は、男性にせよ、女性にせよ、親(とくに母親)を絶
対視することで、自分のマザコン性を正当化しようとする。「私がそれだけ母を大切に思うの
は、それだけ母が、すばらしい人だから」と。

●家族自我群

こうした母系家族の中では、「家族」は、どくとくの(まとまり)をもちやすい。母親中心の家庭で
は、その分だけ、家族の関係は、濃密になる。そのため、濃密な依存関係をつくりやすい。

本来、家族といっても、ひとりひとりの家族が、それぞれ一人の人間として、たがいの信頼関係
でなりたつ。が、その濃密さが、ときとばあいによって、そういった信頼関係のあるなしとは、関
係なく、たがいをしばりあう「束縛」として、機能するようになる。

 この絶対的な束縛感を、「家族自我群」という。

 しかしこの家族自我群は、子どもの成長過程においては、ある時期までは、重要かつ大切な
ものである。しかしある時期を過ぎると、子どもにとっては、その成長をはばむ、大きな足かせ
になることがある。

 そこで子どもは、成長する過程の中で、その自我群からの独立をめざす。これを「個人化」と
いう。その時期は、子どもが、小学3年から4年にかけての時期とみてよい。

 ちょうどこのころ、「私は私」という、自己意識が、急速に子どもの中に芽生えてくる。

 ただこの段階で、誤解してはいけないのは、こうした個人化が、家族の否定を意味するので
はないということ。ここでいう「個人化」というのは、あくまでも、親が親としてもつ親意識からの
解放をいう。家族というまとまりの否定ではない。いわゆる「家族主義」とは、異質のものであ
る。

●家族自我群

 この家族自我群には、両面性がある。家族の間の人間関係が良好なときには、自我群は、
家族をうまくまとめるために、プラスの方向に機能する。その自我群を積極的に、肯定する考
え方も、そこから生まれる。

 東洋的な孝行論、忠孝論は、こうした自我群から発達したと考えられる。

 が、この自我群が、負の方向に作用するときがある。

 ある男性は、自分の母親の葬儀に出なかったことを、それから10年以上もたっているのだ
が、いまだに苦しんでいる。いろいろ事情はあった。その男性なりの理由もあった。

 しかし今、その男性は、苦しんでいる。ふつうの苦しみ方では、ない。「私はダメ人間だ」「人
間として失格者だ」と、自らにレッテルを張ってしまっている。その苦しみ方を見ていると、どこ
かカルト的ですら、ある。あえて言うなら、踏み絵を踏んでしまった、キリスト教徒のような感じさ
えする。

 私が「だれも、あなたを責めていないですよ」と説得しても、意味はない。つまり自我群のもつ
深大さは、想像以上に大きいということ。負の方向に作用したときには、その人の人格をも否
定してしまう。そしてその中で、その人を、とことん苦しめる。

●親捨て

 今でもある地方へ行くと、「親捨て」という言葉が残っている。「親のめんどうを見ない、親不孝
者」のことを、そう呼ぶのだそうだ。

 ただ単なる言葉だけの問題ではない。その地方では、一度、親捨てと呼ばれたら、親戚づき
あいができなくなるのは、もとより、近所の人たちからさえも、白い目で見られるという。現実に
は、「郷里へ帰ることさえできなくなる」(ある男性からのメール)とのこと。

 その地方では、そういう形で、むしろ子どもを積極的に、自我群のもつ束縛の中に、組みこも
うとする。それは自分自身の老後のためかもしれない。親を捨てた子どもをきびしく排斥するこ
とによって、その一方で、自分の息子や娘に対して、「親を捨てると、たいへんなことになるぞ」
と、警告することができる。

 が、それだけではない。

 「親捨て」のレッテルを一度張られた子どもは、その重圧感に、一生、悩み、苦しむことにな
る。 

●子どもの自立

 子育ての究極の目標は、子どもを自立させること。それは常識だが、その自立のカギをにぎ
るのは、そんなわけで、母親ということになる。わかりやすく言えば、母親が、自分自身のもつ
(限界)に気づき、その(限界)と、戦うこと。

 さらに言えば、子どもがその年齢に達したら、母親自身が、子どもの自立をうながしながら、
子ども自身が、親離れできるように仕向ける。たとえて言うなら、親鳥が、ヒナを、巣から追い
出すような行為をいう。これはただ単なる子離れとは、異質のものである。

 親が子離れするのは、子どもが親離れしたあと、必然的な結果として起こるもの。

 当然、父親の強力も必要となる。先にも書いたように、父親の役割は、ともすれば濃密になり
やすい母子関係に、クサビを打ちこむこと。そして、子どもを外の世界に連れ出し、(狩りのし
方)を教えること。

 もっと言えば、母親が、その母性本能に溺れ、母親だけの子育てをするのは、危険なことで
すら、ある。その危険さに、母親自身が気づく。それがここでいう(限界)ということになる。

●Yさんのケース

 Yさんのメールを読むと、Yさんの周辺には、さまざまな問題が、くもの巣のようにからんでい
るのがわかる。

 Yさんには、つらい話かもしれないが、順に、問題点を整理してみよう。

(1)恵まれなかった、幼少時代。貧弱な愛情問題。
(2)父親不在の家庭環境。父親像の薄い、家庭環境。
(3)濃密な親子関係。個人化の遅れ。自我群の束縛。
(4)心を開けない、家庭環境。母子関係の不全。
(5)母親への強度な依存性。マザーコンプレックス。
(6)両親の離婚。それにともなう、心の葛藤。
(7)Yさん自身の信頼関係の不足。そして仮面。
(8)不安神経症と、基底不安。基本的不信関係。
(9)夫の単身赴任。どこか心さみしい結婚生活。
(10)夫や子どもにさえ、心を開けない心の閉鎖性。

 Yさんには、心の状態を正確に知ってほしかったから、あえて書き出してみた。Yさんに与える
衝撃には、はかり知れないものがある。それはわかっている。しかしこの問題だけは、自分が
何であるか、それをまず知る必要がある。「私」を超えた、「私」を、である。それがわからない
と、いつまでも、私であって私でない部分に、振りまわされるだけということになる。

●時は心の癒(いや)し人

 「私」がわかれば、あとは、時間が解決してくれる。『時は、心の癒(いや)し人』という言葉は、
私が考えた。すぐには、解決しない。しかし「私」が何であるかがわかれば、あとは、はやい。

 あるいは「私」が何であるかわれば、別の「私」が、それをコントロールするようになる。「これ
は本当の私だ」「これは本当の私ではないぞ」と。Yさんも、心に大きなキズをもっている。その
キズが、今のYさんをつくりあげた。

 「勉強が好きだった」と言うYさん。しかし本当のところは、勉強が好きだったというよりは、勉
強を通して、自分にとって、居心地のよい世界をつくっていただけなのかもしれない。どこか自
虐的な勉強をしながら、母の関心をひき、母の期待に答えようとした。

 しかし本当にYさんは、もっと、安心して、つまりは不安なく暮らせる、安定した家庭を求めて
いたのかもしれない。が、その希望は、うまく、かなわなかった。

 ……と、いろいろ考えられる。が、ここで重要なことは、「過去は、過去」として、明確に割り切
ること。実のところ、Yさんは、もう一つの問題をかかえている。「世代連鎖」という問題である。

●世代連鎖

 こうした問題は、世代連鎖しやすい。事実、Yさんの母親は、Yさんに離婚をすすめている。周
囲に離婚の経験のない人は、こういうケースでも、「離婚」という言葉を、安易に口にしない。そ
ういう発想そのものがない。一方、身近で離婚を見聞きした人はほど「離婚」という言葉を、口
にしやすくなる。

 そのYさんの両親は、Yさんが、子どものときに離婚している。離婚することが悪いというので
はない。離婚する人には、離婚するだけの理由がある。「結婚」という形にこだわる必要はな
い。しかし問題は、その離婚にまつわる心の葛藤、家庭内の騒動、そして「心」の崩壊である。

 Yさんの子どもは、今、まさに、Yさんが少女時代に体験したのと同じ体験を、繰りかえそうと
している。そのことにYさんは、まだ気づいていない。実のところ、Yさんが、心を開けないなら開
けないで、それは構わない。

 しかしそういうYさんを母親にもち、人知れず、一番悲しみ、苦しんでいるのは、子ども自身で
ある。それを忘れてはいけない。もっと言えば、Yさんの子どももまた、人に対して心の開けな
い人になってしまっている可能性がある。しかも悲劇的なことに、そのことに、Yさん自身が気
がついていない可能性がある。

 言うまでもなく、心の開いている人からは、心の開いていない人がよくわかる。しかし心を開
けない人からは、心の開いていない人がわからない。他人も、自分と同じようだと考えてしま
う。

 こうして、親から子へと、心が伝わっていく心が、心として、世代を超えて伝わってしまう。これ
を世代連鎖という。行為や行動が伝わるのではない。行為や行動は、あくまでも、その結果で
しかない。

【Yさんへ……】

●あなたはすべてをもっている

 かなりきびしいことを書いてしまいました。どうか、冷静に読んでください。私はあなたを怒ら
せるつもりも、不愉快にするつもりも、ありません。

 あなたに、心の平安を取りもどしてほしいのです。安らかで、落ちついた世界です。

 今、あなたはすべてをなくし、不幸のどん底にいると思っているかもしれません。しかしこれ
は、たいへんな誤解です。

 実は、今、あなたは、(すべてのもの)をもっているのです。やさしく、子ども思いの夫。家庭と
家族。健康。若さ。人生。やさしい母親。あなたの母親には、どこか問題はありますが、しかし
この日本では、平均的というより、平均以上!

 あなたはすべてをもっているのです。あなた自身も、です。聡明な知恵、知識、学識、経験、
常識。すべてです。

 ただ一つ、問題があるとするなら、あなたは、自分だけの世界に閉じこもってしまっている。あ
なたの夫ですら、信じていない。あなたの子どもですら、信じていない。

 ここが最大の問題です。あなたは自分のことしか考えていませんが、(たしかにそういう意味
では、自己中心的ですね)、そういうあなたを妻にもち、母にもち、さみしい思いをしているの
は、あなたの夫であり、子どもです。

●借金など、何でもない問題

 はっきり言いましょう。カードローンによる借金など、大きな問題ではありません。事業に失敗
し、破産しても、夫婦で助けあいながら、懸命に生きている人は、この世界には、五万といます
よ。深刻な子どもの問題をかかえながら、懸命に生きている人は、さらに五万といますよ。いち
いちそんなことを離婚事由にしていたら、この世の中には、結婚する人などいなくなります。

 (あなたが離婚を考えていることについて、あるいはもっとほかにも、理由があるのかもしれ
ませんが……。夫が単身赴任をしていたという事実が、どうも心にひかかります。どうして単身
赴任など、させたのですか? あるいはその前から、夫婦関係が、おかしくなっていたのです
か? 私は単身赴任などいう制度そのものに、若いときから、猛反発してきました。「家族がバ
ラバラにされて、何のための仕事か!」とです。)

 それにしても、今、あなたにとって大切なことは、命を削るような転機を迎えることではなく、や
るべきことを自分に向ってすることです。

 もしあなたにまだ、いちるの望みがあるなら、そして夫に対する愛が残っているなら、負けを
認めなさい。心を開いて、負けを認めなさい。がんばる必要はありません。勇気を出して、心を
空に向って、解き放つのです。勇気を出して、です。体は、あとからついてきます。

●もっとさらけ出して生きる

 がんばってはいけません。プライドにしがみついてはいけません。ありのままを、あなたの夫
や子どもの前で、さらけ出すのです。それでダメなら、ダメでいいではないですか。ダメで、ダメ
もと。

 「子どもを白目でにらんだり、指を吸ったり、バスタオルが離せなかったり……」と、あなたは
書いています。

 いいじゃないですか、白目でにらみたかったら、にらめば。どうしてそれが悪いことなのです
か。

 いいじゃないですか、指を吸いたかったら、吸えば。どうしてそれが悪いことなのですか。

 いいじゃないですか、バスタオルが離せなかったら、もっていれば。どうしてそれが悪いことな
のですか。

 私も、神経が不安定になると、ワイフのおっぱいをずっと吸っていますよ。ある雑誌の告白手
記に書いてありましたが、毎晩、夫のペニスを吸わないと眠られない若妻だっているそうです。
毎晩、チューチューと吸いながら、眠るのだそうです。

 さらに私の知人(もちろん男性)の中には、一流企業の役員をしているのがいますが、その彼
の密かな趣味は、大きな尻をもった女性に、その尻で、顔を踏みつけられることだそうです。わ
かりますか? みな、それぞれです。

 みんなそれぞれの方法で、自分の心の問題と戦っているのです。「これはいいことで、これは
悪いこと」と、決めてかからないこと! したいことをしなさい。言いたいことを言いなさい。あな
たの夫や子どもには、したいことをさせてあげなさし。言いたいことを、言わせてあげなさい。他
人にはできないかもしれませんが、夫婦や家族に対してならいい。だから、夫婦であり、家族な
のです。

 おかしな基準をもつこと自体、Yさん、あなたには、家族像が入っていないということです。勝
手な空想で、理想の夫婦像などつくらないこと。

●あとは、居直る

 あなたはあなた。どこまでいっても、あなたはあなた。居直りなさい。仮におかしな性癖があっ
たとしても、(ぜんぜん、おかしくないですが……)、そんなこと気にすることはありません。

 Yさんが、今、かかえている問題は、一見、Yさんを包む家族の問題に見えますが、ひょっとし
たら、Yさんがほんの少しだけ、心の向きを変えれば、すべて、解決する問題のように思いま
す。ある意味で、何でもないですよ!

 どこにでもある。だれしもかかえている。多かれ少なかれ、みな、です。

 イランの笑い話に、こんなのがあります(イラン映画「桜桃の味」より)。

 ある男が、病院へやってきて、ドクターにこう言いました。「ドクター、私は腹を指で押さえる
と、腹が痛い。頭を指で押さえると、頭が痛い。足を指で押さえると、足が痛い。私は、いった
い、どこが悪いのでしょうか?」と。

 するとそのドクターは、こう答えたそうです。「あなたは、どこも悪くない。ただ指の骨が折れて
いるだけですよ」と。

 いいですか、あなたは今、すべてのものを持っている。(すべてのもの)です。(私は生きてい
る)という原点から、もう一度、自分をながめてみてください。それですべてが、解決しますよ。

●すばらしい母親

 Yさんは、若いのに、じゅうぶん、自分を冷静に見つめる視点をもっておられます。すばらしい
ことです。そこらのママ(失礼!)とは、中身もできもちがいます。メールの内容から、それがわ
かります。

 それに子どもが男児だから、よけいに戸惑っておられるのかもしれません。Yさんには、「男
像」というのが、脳の中に、インプットされていないのです。しかし、それは仕方のないこと。大
半の母親がそうです。

 方法があるとしたら、頭の中で空想することによって、あなたの子どもの中に、自分を置いて
みることです。子どもの目を通して、自分がどう見えるかを、空想してみるのです。

 たとえば今、私のワイフイは、居間で、あれこれあと片づけしています。そのワイフの視点の
中に、自分を置いてみます。そうすると、ワイフの目を通した、自分が見えてきます。

 ワイフはきっとこう思っているはずです。「何も、手伝ってくれないで、パソコンの画面にばかり
向っている」と。

 こうして相手の心の中に入ることによって、あなた自身の自己中心性を、克服することができ
ます。意外と簡単ですから、一度、試してみてください。

 Yさんの心をふさいでいる重石(おもし)は、相当なものです。しかしもう、あとは時間の問題で
す。なぜなら、すでに、Yさんは、その重石が何であるか、気づいているからです。

 あとは、勇気を出して、自分の心を空に向って、解き放ってください。体はあとからついてきま
す。
(041003)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●心を開く(自己開示の問題)

 子どものばあい、(心の開いた子)か、(心の閉じた子)かは、簡単に見分けがつく。

 子どものばあい、とくに年長児、年中児のばあいは、何かのことで、ほめてみるとわかる。「じ
ょうずだね」とか何とか言って、頭をなでてみる。

 そのとき、(心の開いた子)は、すなおにそれを喜ぶ。そしてそのとき、私が感じている(やさし
さ)が、そのままスーッと、子どもの心の中に、しみこんでいくのがわかる。

 反対に(心の閉じた子)は、その瞬間、ピリッとした緊張感が走る。ときには、拒絶感すら覚え
る。様子がぎこちなくなることもある。私が感じている(やさしさ)が、そのままはねかえされてし
まう。

 (心の閉じた子)は、独特の反応を示す。いじける、ひがむ、つっぱる、すねる、ひがむ、な
ど。教える側の心が、子どもの心にたどりつくまでに、いくつもの障害にぶつかるような感じに
なる。

 で、(教える)という立場で、子どもの心を開かせるのは、それほど、むずかしいことではな
い。

 楽しませる。ほめる。笑わせる。が、最大のコツは、その子ども自身の心の中に、入ってもの
を考えることである。子どもの視点で、私自身を見つめてみる。すると自然と、その子どもの心
になって、その子どもに、語りかけるような口調になる。

 このことは、家庭教育でも、すぐ応用ができる。あなたの子が、あなたに心を開いているな
ら、それでよし。もしそうでないなら、一度、子どもの心の中に、自分を置いてみるとよい。

 ……と、同時に、ではあなた自身は、どうかという視点で、考えてみることも大切である。

 あなたの両親、夫(妻)、友人、そして子ども。そういった人たちに対して、あなたは、心を開
いているだろうか。

 だれかが何かのことで、あなたにやさしくしてくれたようなとき、その(やさしさ)を、スーッと、
そのままあなたは、受けいれているだろうか。もしそうなら、それでよし。もしそうでないなら、な
ぜあなたがそうなのかを、静かに一度、自分を見つめてみるとよい。

 言うまでもなく、心が閉じていると、結局は、さみしい思いをするのは、あなた自身だからであ
る。

●無防備な心

 「心を開く」ということは、同時に、無防備になることを意味する。このことは、私のワイフが、
指摘した。「他人を信じすぎると、サギにひかかりやすくなるんじゃ、なア〜い?」と。

 そういう危険性は、大きい。

 だから当然、私たちは、心を開く相手を、選ばねばならない。いつも、心の中で、「この人に
は、心を開いていいか」「どの程度まで、開いていいか」と。

 心理学の世界でも、こうした自己開示には、段階をもうけている。親しくなればなるほど、当
然のことながら、自分の秘密を開示することになる。

 その自己開示について、少し前、まとめた原稿を添付する。

+++++++++++++++++

●自己開示

 自分のことを話すという行為は、相手と親しくなりたいという意思表示にほかならない。これを
「自己開示」という。その自己開示の程度によって、相手があなたとどの程度、親しくなりたがっ
ているかが、わかる。

(29)自分の弱点の開示(私は計算が苦手)
(30)自分の失敗の開示(私はケースを割ってしまった)
(31)自分の欠点の開示(私は怒りっぽい人間だ)
(32)自分の家族の開示(私の母は、おもしろい人だ)
(33)自分の体のことの開示(私は、足が短いことを気にしている)
(34)自分の心の問題の開示(私は、よく、うつ状態になる)
(35)自分の犯罪的事実の開示(二年前に、万引きをしたことがある)

この表からもわかるいように、(1)の軽微な自己開示から、(7)の重大な自己開示まで、段階
がある。相手があなたに、どの程度まで自己開示しているかを知れば、あなたとどの程度まで
親しくなりたがっているかがわかる。

もしあなたと交際している相手が、自分の体の問題点や、病気、さらには心の問題について話
したとするなら、その相手は、あなたとかなり親しくなりたいと願っていると考えてよい。

 子どもの心も、この自己開示を利用すると、ぐんとつかみやすくなる。コツは、よき聞き役にな
ること。「そうだね」「そうのとおり」と、前向きなリアクション(反応)を示してやる。批判したり、否
定するのは、最小限に抑える。

 反対に、子どもがどの程度まで自己開示するかで、子どもの心の中をのぞくことができる。と
きどきレッスンの途中で、「きのうねえ、パパとママがねえ……」と話し始める子ども(幼児)が
いる。私はそういうとき、「そんな話はみんなの前で、してはいけないよ」とたしなめることにして
いる。

それはそれとして、子どもがそういう話をしたいと思う背景には、私と親しくなりたいという願望
が隠されているとみる。が、こんな失敗をしたこともある。

あるとき、「きのうねえ、パパとママがねえ……」と言い出した子ども(年中男児)がいた。「何
だ?」と声をかけると、その子どもはこう言った。「寝るとき、裸で、レスリングしていたよ」と。と
たん、参観していた親たちが、ドッと笑った。

 さてあなたは、だれに対して、どのレベルまでの自己開示をしているだろうか。それを知ると、
あなたの心の中の潜在意識をさぐることができる。

+++++++++++++++++++++

●人を選ぶ

 友人だ、仲間だと思っていた人に、裏切られるということは、よくある。
 
 私も、若いころは、新しい本を出版するたびに、ある人に、それを贈っていたことがある。当
然、その人は、喜んでいてくれると思っていた。口のうまい人だったということもある。

 が、その人が、私の本のあちこちから、ささいな記述を抜きだし、あろうことか、その該当する
人のところへ、その本をもっていき、「あの、林が、あなたのことを、こんなふうに書いている」
と、告げ口をしているのを、知った。

 私が、愚かだった。

 その一件が私の耳に入ってからというもの、私は、その人に本を贈るのをやめた。当然であ
る。そしてしばらくしてから、交際を断った。これまた当然である。

 しかしその人は、私がなぜそうしたのか、わからなかったようだ。それからも、相も変わらず、
親しげに手紙をくれたり、電話をしてきたりした。

 ……と、その人の悪口を書くのが、ここでの目的ではない。

 私も、実は、ほかのだれかに対して、同じようなことをしているかもしれない。自分で、気がつ
かないだけかもしれない。つまりこの世界には、こうした人間どうしの(しがらみ)(わだかまり)
が、無数にからみあっている。

 こういう世界で、心を開きあうということは、容易なことではない。心を開くためには、まずその
相手を知らねばならない。しかし知るためには、何年も、何年もかかる。

 そこで私のばあいは、あくまでも、私のばあいだが、最初から、「裏切られても、もともとよ」と
いう思いで、その人とつきあうようにしている。とくに教育の世界では、そうである。最初から、
期待などしていない。無償というわけではないが、いちいち気にしていたら、仕事そのものが、
できなくなる。

 加えて、最近は、こんなふうにも、思うようになった。

 「どうせ、長くても、あと20年。10年もすれば、頭も、ボケる。どうにでも、思いたければ、思
え」と。

 つまり居直りの構えである。私のことを悪く言う人がいても、私はもう、構わない、と。

 こうした考え方が生まれたのも、やはり年齢のせいかもしれない。年齢が進めば進むほど、
その先の人生がしぼんでくる、。考え方も、それに合わせて、変わってくる。

ただし一言。一度、私を裏切ったことがある人とは、私は、二度とつきあわない。「許す」とか、
「許さない」とかいうレベルの話ではない。私には、そういう人たちとの関係を修復するだけの、
時間もエネルギーも、もうない。もしそんな時間や、エネルギーがあれば、私はもっとほかのこ
とに使いたい。


●未練の燃焼

 日々の生活には失敗はつきもの。しかしその失敗でも、未練が残る失敗ほど、つらいものは
ない。「あのとき、ああすればよかった」「こうすればよかった」と。

 そこで私たちは、そのつど、自分を完全燃焼させながら生きる。何かのことでつまずいても、
後悔しないようにするためである。

 実は、長い目で見た、人の一生も、また同じ。

 やがて私の人生は、終わる。10年後か、20年後か。あるいは明日かもしれない。そのとき
大切なことは、その時点で、未練を燃焼させておくこと。「悔いのない人生」という言葉がある。
その「悔い」が残らないようにしておく。

 そのために、今という今を、懸命に生きる。生きて、生きて、生きぬく。

 が、それでもだめだとしたら……。そのとき、私は、未練をふっきることができる。「こんな世
界に、未練はない。アバヨ」と。そういうサバサバした気持で、この世を去ることができる。ま
た、そうでありたい。

 実際、もう私は、この世界に、未練をなくしつつある。どうしてそうなのかということについて
は、書く気力も、あまりない。それにかわって、「もう、どうにでもなれ」という思いが強くなってき
た。

 少し前だが、こんなことがあった。コンビニの駐車場を、自転車で横切ろうとしたときのこと。
一台の車が、私の真横で、急停止した。ものすごい音がした。私は、あやうくはね飛ばされると
ころだった。

 見ると、若い男女だった。どこかチャラチャラした、そのレベルの男女だった。自転車の向き
をなおしながら、その男の顔を見ると、その男は、私に、「バーカ」と言った。声は聞こえなかっ
たが、口の動きで、それがわかった。

 女のほうは、私から視線をはずし、ニヤニヤと笑っていた。

 恐らくその男女には、私は、うらぶれた初老の男に見えたのだろう。それはわかる。が、同時
に、私はこう思った。「どうして私は、こういう若い男女のために、日本の未来を心配しなければ
ならないのか」と。

 そのときまで、私は自転車をこぎながら、いつものように、あれこれ考えていた。

 つまらない話だが、そういうことが積み重なって、「もう、どうにでもなれ」という思いが生まれ
る。しかし……これは、ニヒリズムか? ニヒリズムだとするなら、それをもって、未練を解消し
たということにはならない?

 やはりそれでも、私は、それを乗り越えて、自分を燃焼させなくてはならない。燃やして、燃や
して、燃やしつくす。

 それが行き着いたとき、私は、多分、人生の未練から解放されるかもしれない。この世の
中、すべてのものに対して、「アバヨ!」と、笑って別れを告げることができるかもしれない。


●ある離婚

 昨夜、ハナ(犬)との散歩を終えて、家に入ろうとすると、そこにMさん(女性、41歳)が立って
いた。

 「どうかしましたか?」と、自転車を車庫に入れながら声をかけると、「先生、私、今度、実家
に帰ることにしました」と。

 懸命に笑顔をつくろうとしていたが、どこか苦痛に、その顔は、ゆがんでいた。車のライトを背
に、表情はよく見えなかったが……。

私「やはり、無理ですか……」
M「いろいろ努力はしてみましたが……」
私「お子さんたちは、納得していますか?」
M「まだ、話していませんが、しかたありません」と。

 Mさん夫婦の関係がおかしくなって、もう5年になるだろうか。いつだったか、Mさんの夫が私
にこう言ったことがある。「私たちは、もう形だけの夫婦なんです」と。

 その言葉が、頭の中を横切った。

 Mさんは、東北のY県から、嫁いで、このH市にやってきた。間に、友人のT氏がいて、それで
親しくなった。T氏が、Mさん夫婦の間をとりもった。夫のM氏に、奥さんのMさんを紹介したの
も、T氏だった。

しかしこうした離婚騒動は、1度や2度だけではなかった。そのつど、私は、それに振り回され
た。

私「Tさん(間の友人)に、相談しました?」
M「しても、どうせ、夫の味方をするだけですから……」
私「でも、こういう問題は、したほうがいいと思います」
M「しても、どうせ、ムダですから……」と。

 この5年間で、Mさんには、いろいろあった。育児ノイローゼ、うつ状態などなど。夫のM氏や
T氏が、Mさんを入院させようとしたこともある。しかしMさんは、がんとして、それを拒んだ。

 そんなことを頭の中で思い浮かべていると、Mさんが、あれこれ不平、不満を並べ始めた。

M「先生、Dさんを知っているでしょう? あのDさんが、私に意地悪をします。私が声をかける
と、わざと車のドアをバタンと閉めて、プイとするのです」「私の車に、いたずらをする子どもが
います。近所の子どもなんですが、バックミラーにキズをつけました」などなど。

 Mさんの精神状態は、あまりよくないといったふうだった。こまかいことを気にして、それをお
おげさにとりあげた。

しかし不平や不満を並べるうちは、まだよい。こういうときは聞き役にまわって、Mさんの心の
中にたまった、うっぷんを抜くのがよい。うまくいけば、離婚話をやわらげることができるかもし
れない。

 10分たち、20分がすぎた。Mさんは、立ったまま、私に、よどみなく話しかけてきた。私は、
自転車にもたれかかったまま、Mさんの話を聞いた。が、やはり、話題は、離婚の話にもどっ
た。

私「でも、やはり、お子さんの気持ちを聞いてみなくちゃ?」
M「でも、夫では、子どもを育てることはできません」
私「そう決めてかかってはいけません。お子さんたちが、さみしい思いをするでしょう?」
M「でも、私、こういう都会は、好きではありません。子どもを育てる環境としては、よくありませ
ん」と。

 Mさんは、今にも、私に体を投げ出しそうだった。「ワイフを呼んできますから、いっしょに相
談してみますか?」と言うと、「それは勘弁してください」と。

しかし私には、どうすることもできなかった。両手で自転車のハンドルを握りなおした。

私「やはり、私のほうから、Tさんに相談してみてあげましょうか?」
M「いいです。それは……。もう決めましたから……」
私「決めたって……?」
M「来月、Y県の実家に帰ります」と。

 秋のかわいた風が、何度も、車の流れとともに、間に流れた。私は、「そういうものかなア?」
と思いながら、その場を離れた。Mさんは、本当にそのまま離婚してしまうかもしれないし、ある
いはいつもの夫婦げんかで終わるかもしれない。

 いつか私のワイフは、私にこう言った。「女っていうのはね、離婚するときは、黙って、だれに
も相談せず、離婚するものよ」と。

 私のワイフのように、強い女性は、そうはいない。私も、ワイフとけんかすると、すぐ「離婚して
やる」とは言う。しかし、本気で、離婚を考えたことなどは、一度もない。それは口グセのような
ものかもしれない。あるいは出まかせのようなものかもしれない。自分でも、よくわからないが
……。

 家に入ってから、Mさんのことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。

 「そうねえ……。前から思っていたんだけど、私は、離婚したほうがいいと思うわ」と。

 「そういう簡単な話でもないのだがなあ……」と私は思いながら、私は自分の書斎に入った。
T氏に手紙を書き始めた。

【Tさんへ】

 お元気ですか。先日は改築祝いにお招きくださって、ありがとうございました。あれからもう半
年になります。新居の住み具合は、いかかがですか。

 ところで、今夜突然、手紙を書くことにしたのは、実は、あのMさん夫婦のことです。かなり深
刻な、様子です。M氏には、この数か月会っていませんが、ときどき奥さんのMさんが、私のと
ころへやってきます。

 今夜も、やってきました。私が散歩から帰るまで、そこでじっと待っていたようです。で、いつも
の離婚話です。どこまで本気で聞いてよいものやらという思いで、話を聞くだけは、聞いてあげ
ました。

 奥さんのMさんは、Y県へ子どもを連れて帰ると言っています。ご存知のように、こうした夫婦
の問題は、私たちには、どうすることもできません。間に子どもがいれば、なおさらです。しかも
今の状態をみると、「離婚しないほうがいい」とか、「離婚してはだめだ」と言うこともできませ
ん。M氏自身も、「私たちは、もう形だけの夫婦です」と言っています。

 Tさんとしては、さぞかしつらい思いをなさっておられることだろうと思います。しかし私の印象
では、Mさん夫婦がこうなったことについて、だれにも責任はないと思います。Mさんにしても、
Tさんを、うらんだりしているような様子は、まったく見られません。

 しかしやはり問題は、3人のお子さんだろうと思います。養育費の問題もありますし、今のM
氏の収入では、生活もたいへんだろうと思われます。それはわかります。そこで奥さんのMさ
んは、『私は仕事をする』と言っていますが、あの精神状態では、私は、無理ではないかと思っ
ています。率直に言って、それこそ何か、事件になるのではないかと、心配しています。

 でも、本当の原因は、私は奥さんのMさん自身にあるのではないかと思っています。もっと
も、なぜ奥さんのMさんがうつ状態になったかといえば、M氏にも責任がないとは言えません。
もう少し、奥さんのMさんのことを、心配してやるべきだったと思っています。

 無知というか、無責任というか……。以前、奥さんのことを、Mさんは、『あいつは、怠け病だ』
と、私に言ったことがあります。もう少し、ことは深刻だったのですが、M氏には、奥さんの心の
状態が理解できなかったようです。

 ともかくも、今は、こういう状態です。報告だけの、わけのわからない手紙になってしまいまし
た。私自身も、こういう手紙を書きながら、責任のがれをしているのかもしれません。あとにな
って、『どうしてもっと、早く知らせてくれなかったのか』と言われるのが、つらいからです。

 みんな無責任ですね。しかしやはり、どうすることもできません。最終的に、Mさん夫婦のこと
を決めるのは、Mさん夫婦だからです。私としては、来週あたり、またケロッとして、「先生、こ
んにちは!」と声をかけてくれるのを、望んでいますが……。

 奥さんのMさんが話してくれた、不平、不満を、箇条書きにしておきます。何かの参考になれ
ばうれしいです。

(1)夫が子どもたちの教育に無関心。
(2)夫の収入だけでは、生活が苦しい。
(3)夫が、仕事ばかりで、ほとんど家にいない。
(4)生活環境がよくない。今のようなマンション生活はいやだ。
(5)(家が大通りに面していて)、騒々しくて、よく眠れない。
(6)このところ、駐車場にとめてある車に、いたずらをする人がいる。
(7)近所のXさんと、いつもけんかをしている。
(8)長男の友人がよくない。悪い遊びを覚えている、など。

 私の印象としては、ああまで趣味などがちがう夫婦ですから、いっしょに何かをするというわ
けにも、いかないのではないかと思っています。もちろん考え方もちがいますし……。M氏は、
のんびりとした性格。しかし奥さんのMさんは、異常なまでに、教育に熱心です。

 先日も、となりのA小学校よりも、教える進度が遅れていると、学校へ文句を言っていったそ
うです。長男には、毎朝6時に起こし、勉強をさせているそうです。今夜も、私が、「そこまでさ
せてはだめです」と言ったのですが、聞いてもらえませんでした。過激というよりも、めちゃめち
ゃといった感じです。

 奥さんのMさんの、育児ノイローゼは、そんなわけで、相変わらず、つづいているようです。今
はまだ長男も小さいからいいのですが、そのうち、反抗するようになると思います。

どう思いますか? 奥さんのMさんは、さかんに、「夫では、子育ては無理だ」と言っています
が、本当のところは、M氏に任せたほうが、よいのではないかと思っています。3人の子どもた
ちも、父親のM氏のほうを、より慕っているように思います。あくまでも、私の感じた印象ですが
……。

 もう少し、時間をおいて様子をみてみます。

 では、今夜は、これで失礼します。奥様によろしくお伝えください。おやすみなさい。

                         2004年X月X日 林 浩司

++++++++++++++++++

 Mさんは、ここにも書いたような精神状態で、自分のことを考えるだけで、精一杯。そんな感
じである。

 「(Mさんの)子どもたちは、どう思っていますか?」
 「子どもたちは、東北へいっしょに帰りたいと言っていますか?」
 「ご主人は、どう言っていますか?」

……などと聞いても、「子どもたちは問題ない」「夫には相談する必要はない」と、そんな言い方
ばかりをする。

 自己中心的というか、他人の心まで、自分で決めてしまっている。Mさん自身が、厚いカプセ
ルの中に閉じこもってしまっている。話していて息苦しさを感ずるのは、そのためである。はっ
きり言えば、自分勝手。わがまま。

 Mさんは、「あれが悪い」「これが悪い」と言う。しかし本当のところ、その原因は、Mさん自身
にある。

 たとえばMさんは、こう言った。

 「近所のXさんと、けんかはした。私が悪かった。しかしそのあと、私は、お菓子をもって、あ
やまりに行った。だけど、許してくれなかった」と。

 Mさんは、「お菓子までもってあやまりにいったんだから、許してくれてもいいハズ。もう怒って
いないハズ。トラブルは解決したハズ」と、すべてを、自分勝手な、「ハズ論」で考えている。

 しかし一度こわれた人間関係は、そんな簡単には、修復できない。そういった常識が、Mさん
には、欠けていた。つまりそれこそが、自己中心性の表れということになる。

 はっきり言おう。

 離婚することが決して不幸と言っているのではない。幸福に形はない。だから、結婚するとき
も、反対に、離婚するときも、そのときどきにおいて、それぞれの人は、自分の道を選べばよ
い。

しかし不幸になっていく人には、いつも1本の道がある。しかしその本人には、その道が見えな
い。自分で、見ようともしない。見えないまま、その道にそって、まっしぐらに、不幸になってい
く。

 賢い人は、そこで立ち止まって、自分の道を見る。しかし愚かな人は、他人がその道を見せ
てくれても、それを自ら否定する。目を閉じる。

【補記】

 人格の完成度は、(1)他者との共鳴性、(2)自己管理能力、(3)他者との良好な人間関係
でみる。

 その中で、(2)の自己管理能力について言うなら、感情のおもむくまま、そして欲望のおもむ
くまま、行動する人は、それだけ自己管理能力の低い人とみる。

 Mさんは、その自己管理能力に欠けていると思う。近所のXさんとのトラブルの原因も、そこ
にあった。

 近所のXさんは、毎朝、ベランダでふとんをたたいていたのだが、たまたま風向きで、大きな
ホコリが、Mさんの部屋のほうまで飛んできた。それでMさんが、Xさんに電話した。

 もしそのとき、ほんの少しだけ、Mさんに自己管理能力があれば、ほかの言い方もできたの
だろう。しかしMさんは、電話口で、大声で怒鳴ってしまった。それで電話を受けたXさんも、感
情的になってしまった。

 「フトンのゴミを落さないで!」「何よ、あんたんどころだって、フトンくらい、たたくでしょう!」
と。恐らく、そういう言い争いになったのだろうと思う。以後、ことあるごとに、2人は、いがみあ
うようになった。

 またMさんの夫が、家族のことを、顧(かえり)みなくなったことについても、Mさんにも責任が
ある。

 Mさんは私にさえ、こう言ったことがある。「夫の給料が少なくて、困っています。夫の実家の
助けを受けているくらいです。あの人が、もう少し、仕事ができたらいいんですが……」と。

 恐らく、夫のM氏には、もっと直接的に、不満をぶつけていたにちがいない。「こんな給料で
は、生活できないわよ」とか、何とか。夫のM氏が、家庭から遠ざかったとしても、不思議では
ない。

 もちろんすべての原因が、Mさんにあったというわけではない。しかしもう少し、Mさんが、自
分が進んでいる道に気がついていたら、こういうことにはならなかったと思う。

【補記2】

 「私が絶対正しい」「私はまちがっていない」と思うのは、その人の勝手だが、謙虚さをなくした
とき、その人は、独善の道に入る。

 その独善の道に入れば入るほど、視野がせまくなる。自分の道が見えなくなる。Mさんは、
「子どもことは、私が一番よく知っている」と何度も言った。

 しかし本当にそうだろうか? 私の印象では、3人の子どもたちは、父親のM氏のほうを、よ
り慕っているように見える。ただ今は、まだ幼いということもあって、絶対的な母子関係という呪
縛の中に、とらわれているだけ。

 Mさんは、その呪縛をよいことに、3人の子どもを支配している。しかしその呪縛は、それほ
ど、長くはつづかない。もうあと、1、2年もすれば、長男のほうが、その呪縛からのがれ、個人
化(私は私という生きザマを求める)を始めるようになる。

 子どもにとって母親は、絶対的な存在である。命を育てられ、生まれたあとも、乳を与えられ
る。子どもは父親なしでも、生まれ育つことはできる。しかし母親なしでは、生まれることも、育
つこともできない。それがここでいう呪縛ということになる。

 母親たちは、その呪縛に甘えてはいけない。その呪縛をよいことに、子どもをしばってはいけ
ない。子どもを支配してはいけない。

 Mさんは、そうした事実にも、気がついていない。気がつかないまま、「私は絶対だ」と思いこ
んでいる。つまりこのタイプの母親ほど、子育てをしながら、子どもの心を見失う。私の印象で
は、母親と子どもたちが断絶するのは、時間の問題だと思う。

【注】

 どこか男の立場だけで、Mさんの問題を考えたような気がする。もちろんMさんというのは、架
空の女性である。実在しない。ある読者から、いただいたメールをもとに、いろいろな例をまぜ
て、私が、想像して書いた。どうか、そういうことも念頭において、この「ある離婚」を読んでほし
い。

 



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18
●母因性萎縮児

 小児科医院で受け付けをしている、知人の女性から、こんな話を聞いた。

 何でも、その子ども(現在は、中学男子)は、幼児のころから、ある病気で、その医院に通っ
ているという。そして、2週間ごとに、薬を受け取りにくるという。

 その子どもについて、その知人が、こんなことを話してくれた。

 「ひとりで病院へくるときは、結構、元気で、表情も、明るい。薬の数を確認したり、看護婦さ
んたちと、あいさつをしたりする。冗談を言って、笑いあうこともある。

 しかしときどき、母親がその子どもといっしょに、来ることがある。そのときの子どもは、まるで
別人のよう。

 玄関のドアを開けたときから、下を向いて、うなだれている。母親が何かを話しかけても、ほ
とんど返事をしない。

 そこで母親が、その子どもに向って、『ここに座っているのよ!』『診察券は、ちゃんと、出した
の!』『あの薬も、頼んでおいてね!』と。

 そのとたん、その子どもは、両手を前にさしだし、かがんだまま、うなだれてしまう。もちろん
だれとも、会話をしない。

 あるとき先生(医師)が、見るに見かねて、その母親に、『子どものやりたいように、させてあ
げなさい。そんなうるさいこと、言ってはだめです』と、諭(さと)したこともあるという。

 ああいう母親を見ていると、いったい、母親って何だろうと、そんなことまで考えてしまう」と。

 こういう子どもを、母因性萎縮児という。教育の世界では、よく見られるタイプの子どもであ
る。

 子どもだけのときは、結構、活発で、ジャキシャキと行動する。しかし母親がそばにいると、と
たんに、萎縮してしまう。母親の視線だけを気にする。何かあるたびに、母親のほうばかりを、
見る。あるいは反対に、うなだれてしまう。

 が、母親には、それがわからない。「どうして、うちの子は、ああなんでしょう。どうしたらいい
でしょう?」と相談してくる。

 私は、思わず、「あなたがいないほうがいいのです」と言いそうになる。しかし、それを言った
ら、お・し・ま・い。

 原因は、言わずと知れた、過干渉、過関心。そしてそれを支える、子どもへの不信感。わだ
かまり。愛情不足。

 いや、このタイプの母親ほど、「私は子どもを愛しています」と言う。しかし本当のところは、自
分の不安や心配を、子どもにぶつけているだけ。子どもを自分の支配下において、自分の思
いどおりにしたいだけ。こういうのを、心理学の世界でも、「代償的過保護」という。

 今、この母因性萎縮児は、結構、多い。10〜15人に1人はいるのではないか。おかしなこと
だが、母親自身が、子どもの成長を、はばんでしまっている。そしてここにも書いたように、「う
ちの子は、ここが悪い。どうして……?」「うちの子は、あそこが悪い。どうして……?」と、いつ
も、悩んでいる。

 そうこの話も、あのイランの笑い話に似ている(イラン映画「桜桃の味」より)。

 ある男が、病院へやってきて、ドクターにこう言った。「ドクター、私は腹を指で押さえると、腹
が痛い。頭を指で押さえると、頭が痛い。足を指で押さえると、足が痛い。私は、いったい、どこ
が悪いのでしょうか?」と。

 するとそのドクターは、こう答えた。「あなたは、どこも悪くない。ただ指の骨が折れているだけ
ですよ」と。

 そう、子どもには、どこにも、問題はない。問題は、母親のほうにある。

 しかしこの問題は、私のほうから指摘するわけには、いかない。この文章を読んだ、あなた自
身が、自分で知るしかない。
(はやし浩司 母因性萎縮児 母原性萎縮児)





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19

●嫌われる老人

 これから先、この日本は、超高齢者社会を迎える。はっきり言えば、老人だらけの国になる。
しかしこれは、これからその老人になる私たちにとっては、深刻な問題である。

 理由の第一。

 社会にとって、老人が、「お荷物」になるということ。「粗大ゴミ」という言葉を使う人もいる。

 医療費や社会生活費の増大など、若い人たちのへの負担は、ますます大きくなる。もうすで
に今、パンク(破産)状態だと言う人もいる。そのうち、「医療費がしっかり払えないようなら、あ
なたはもう用なしですから、早く死んでください」と言われるようになるかもしれない。

 理由の第二。

 日本型、家族社会の崩壊。昔は、二世代、三世代同居住宅がふつうであった。若い人が老
人の世話をするというシステムが、まだ機能していた。

 しかし今、そのシステムは、崩壊した。それはしかたないとしても、それにかわる受け皿整備
が、遅れてしまった。これからは、ひとり暮らしの老人が、ますますふえる。その分だけ、孤独
な老人がふえる。

 こうした超高齢社会を前にして、私たちは、どうすればよいのか。

 要するに、若い人たちに、嫌われず、役にたつ老人になるということ。つきつめれば、そこへ
結論が飛ぶ。

 そこでまわりの老人たちを観察してみる。あなたのまわりの老人たちでもよい。すると、いろ
いろなタイプに、分類できるのがわかる。

(1)趣味、道楽型(毎日、道楽ざんまいで日を過ごす)
(2)引きこもり型(ほとんど社交せず、とじこもる)
(3)旅行、社交型(外出が多く、旅行ばかりしている)
(4)家族、孫育て型(家庭に入り、孫育てに没頭する)
(5)仕事、現役型(生涯、現役人間。仕事ばかりする)
(6)奉仕、献身型(他人のために奉仕活動をする)
(7)病弱、闘病型(病気ばかりしている。その繰りかえし)
(8)無益、無害型(いるのかいないのかわからない状態)
(9)権威、威圧型(過去の肩書きや役職をカサに着て、いばる)
(10)孤独、孤立型(ひとり暮しをする。友人もいない)

 ざっと思いつくまま、あげてみたが、もちろん複合型もある。状況や相手に応じて、変わると
いうこともある。

 しかし重要なことは、老人は老人として、その存在感をもたねばならない。人生の先輩とし
て、また経験者として、つぎの世代の人たちに、道を示せるようでなければならない。

 が、悲しいかな、事実は、逆である。この日本では、老人は、ないがしろにされている。で、そ
の責任はといえば、むしろ、老人自身にある。老人になるまでに、それなりの準備と努力をして
いない。決して、老後の資金だけの問題ではない。その結果として、この日本では、年々、老
人の影は、ますます薄くなってきている。

++++++++++

【例1】

 A氏は、今年、75歳。健康である。公団を退職してから、20年になる。妻も準公務員をして
いて、やはり退職してから、15年になる。

 そのA氏についていえば、どこか偏屈なところはあるが、性格は温厚。知的で、もの知り。長
い間、どこか別々の生活をしてきたということもあり、夫婦仲は、それほど、よくない。しかし他
人の目から見ると、ごくふつうの夫婦。

 A氏の趣味は、盆栽。庭から、二階の物干し台まで、盆栽が、ぎっしりと並んでいる。妻の趣
味は、刺繍(ししゅう)と料理。二人の子どもがいたが、すでに独立。都会で、結婚して生活して
いる。

 そんなわけで、A氏夫婦は、けっしてぜいたくな生活ではないが、そこそこに、優雅な生活を
楽しんでいる。毎月のように、旅行会の旅行に参加し、年に、2、3度は、海外旅行にもでかけ
ている。

【例2】

 B氏は、55歳まで、中規模の工場に勤めていた。そのあと、家業の農業を引き継ぎ、今にい
たっている。現在、79歳。

 若いころから、町の世話役として活躍。今は、祭の屋台の新造に情熱を注いでいる。屋台と
いっても、新造すると、1500万円もかかる。地元の自治会長を歴任し、このところ、毎晩のよ
うに、金策のため、あちこちを動きまわっている。

 通りで会うたびに、「今夜は、A地区の寄りあいがあってねエ」と、酒の入った赤い顔で、私に
あいさつをしてくれる。

【例3】

 C氏は、市役所を退職するとまもなく、軽い心筋梗塞で倒れた。幸い、そのあとのバイパス手
術が成功した。で、それからもう27年。が、健康というわけではない。

 「私の体は、病気のデパートみたいです」と言って、C氏は笑う。現在、83歳。

 年齢も年齢だが、このところ、数か月に一度は、救急車の世話になっている。軽い脳梗塞も
併発して、言葉もままならないような状態がつづいている。

 趣味は、とくにない。山を歩きながら、山草を集めたりしている。あとは、毎日、こまごまとした
家事のみ。もともと器用な人で、電気器具をなおしたり、家具を自分でつくったりしている。

+++++++++++

 以上、A氏、B氏、C氏の3人を考えてみた。もちろんみな、架空の人物である。私が、勝手に
想像した。

 しかしこれら3氏は、恵まれた人たちである。じゅうぶんな退職金と、じゅうぶんな年金を手に
している。が、老人が、みな、この3氏のようであるとは、かぎらない。そういうことは別にして、
好かれる老人は、B氏であり、そうでない老人は、A氏やC氏ということになる。

 実際、「好かれる老人」のナンバーワンは、健康であること。どんなアンケート調査をしても、
そういう結果が、出てくる。が、実際には、それだけでは足りない。この世界では、「人に迷惑を
かけないから、いい老人」ということにはならない。また、それだけに甘えてはいけない。

 そこでさらに、老人のもつ問題点を整理してみる。

(1)依存性(だれかに頼ろうとする)
(2)閉鎖性(自分のカラにこもる)
(3)隠遁(いんとん)性(世捨て人になる)
(4)独断性(人の意見に耳を傾けない)
(5)権威主義(老人は偉いという意識が強い)
(6)絶対意識(親・絶対教の信者である)
(7)懐古主義(何でも、過去がよかったと口にする)
(8)否定主義(「今の若いものは……」と若い世代を否定する)
(9)虚無主義(何ごとにも無関心。世の不幸を笑う)

 ほかにも老人特有の自己中心性もある。しかしこうした自己中心性は、若いときからの引き
ずっているだけで、老人になったからといって、自己中心性が現れるわけではない。

 もちろんボケによる、症状もそれに加わる。アルツハイマー型のボケになると、がんこになっ
たり、融通がきかなくなったりする。無関心になったり、繊細さがなくなり、他人に対して、鈍感
になったりする。

 こうした状態になるのを覚悟するなら、生きザマは、二つに一つしかない。

 「我、関せず」と、(嫌われる・嫌われない)などを考えずに生きるか、あるいは、周囲の人た
ちに好かれるように生きるか、である。

 が、実は、もう一つの生きザマがある。

 「だからどうなの?」と自分に問いかけながら、生きる、生きザマである。つまり自分自身に、
いつも、生きる理由を問いかけながら、生きる。

 つまり、好かれる老人は、いつも「だからどうなの」という部分が、はっきりしている。そうでな
い老人は、そうでない。ただ無益に、長生きをしているだけ。しかしそういう人生に、どういう意
味があるというのか。そういう人が、長生きをしたところで、それが、どうだというのか。

 今年死んでも、来年死んでも、同じ。ただ生ているだけ……という人生には、意味がない
(?)。生きる以上は、そこに何らかの意味がなければならない。

 その生きる「意味」がここでいう、「だからどうなの」という部分になる。

 最後に、私の義父(ワイフの父親)について書く。

 義父は、戦時中は、ラバウル島にいた。3000人いた部隊だったが、生きて帰ってきたの
は、たったの300人! そういう戦争を経験している。

 その義父は、生きている間中、「オレは、一度、死んで、命をもらった」が、口ぐせだった。
が、その義父が、胃がんになった。

 病院へ行くときは、すでに手遅れ。最期を予期していたのかもしれない。身辺の整理を静か
にしてから、家を出た。

 そして私たちが見舞いに行くと、いつも、ベッドの上で正座をして、座っていた。義父は、ただ
の一度も、弱音も、泣き言も言わなかった。「さみしい」とも、「つらい」とも、言わなかった。最後
の最後まで、そのままの様子だった。

 で、いよいよ最期の日。手術は、転移がひどいということで、開腹はしたが、そのまままた縫
いなおされてしまった。

 私はいろいろな人の死を見てきたが、私の義父ほど、堂々たる最期を見たことがない。最期
の最期は、みなの見ている前で、自分で延命器具を手ではずした。そしてそのまま静かな眠り
についた。

 私たちは、つまりあとに残されたものたちは、そういう生きザマの中から、何かを学ぶ。義父
は、それをしっかりと、私たちの脳裏に焼きつけてくれたが、それが、あるべき、私たちの老後
の姿ではないかと、私は、思う。義父は、老後を生きるとき、「だからどうなの?」という部分を、
いつも、大切にしていた。

 このテーマは、これから先、自分の問題として、ゆっくりと考えてみたい。

【補記】

 おいしいものを食べる……だから、どうなの?
 すばらしい車に乗る……だから、どうなの?
 楽しい思いをする……だから、どうなの?

 長生きをする……だから、どうなの? それがどうしたというの?

 老人たちよ、元気なら、まだ体が動かせるなら、そしてじゅうぶんな知力があるなら、みんな
に、その「命」を還元しようではないか。つぎの世代の人たちのために、何かをし、何かを残し
ていこうではないか。

 ただ優雅な隠居生活をしていてはいけない。
 趣味三昧(ざんまい)の生活をしていてはいけない。

 そうでないと、本当に私たちは、その「粗大ゴミ」になってしまう! あるいは結局は、そうする
ことが、老人自身のためにもなる。生きがいにもなる。

 知人のI氏(神奈川県F市在住)は、いつもこう言っている。「その年齢をすぎたら、自分の人
生を、つぎの世代を生きる人たちに、還元(かんげん)しなければいけません」と。

 私はこの「還元」という言葉が好きである。決して、自分の「命」を、自分だけのモノと、思って
はいけない。


●だから、どうなの?

「だから、どうなの?」という部分がないまま、戦後、日本は、日本人は、ただがむしゃらに生き
てきた。マネーを追い求めてきた。それがまちがっていたというのではない。そのおかげで、今
に見る、この日本ができた。

恩師のT先生は、いつも口グセのように、こう言っている。「日本は、いい国じゃあ、ありません
か」と。私が何か、日本について批判めいたことを口にしたときだ。

しかし、今、多くの日本人は、それではいけないと思い始めている。たしかに生活は豊かになっ
た。が、しかし、何か、ものたりない。そのものたりなさの理由は、何か、と。

今日の朝、私は、老人問題について、考えた。その中で、こう書いた。

たしかに日本人は、長寿になった。しかし、だから、それがどうなの?、と。

これはたいへん危険な意見でもある。「命」の否定にもつながりかねない。へたをすれば、老人
不要論にまでいってしまう。

さらに(だから、どうなの)論を、どんどんと拡大していくと、生きていること自体の否定にもつな
がりかねない。事実、うつ病か何かになって、自殺を試みる人は、「生きていて、何になる?」と
いうふうに考えるという。

それは、わかる。しかしその一方で、「だから、どうなの?」を考えないまま、突っ走るのも、こ
れまた危険なことである。欲望が欲望を呼びさまし、それこそ際限がなくなってしまう。収拾が
つかなくなってしまう。

一つの例をあげて、考えてみよう。

たとえばあなたは、今、一食、数万円もする料理を注文したとする。とてもおいしい料理だ。珍
しい食材に、特殊な調理法。それを料理した、コックは、全国大会でも、入賞するほどの腕前
をもっている。

あなたはその料理を食べた。おいしいと満足した。が、ここでクエスチョン。

だから、それがどうなの?

 せっかくすばらしい料理を食べたのだから、その分、何かがなければならない。この広い世
界には、満足に食べ物も手に入れることができる、苦しんでいる人が、何億もいる。その「何
か」がないまま、ただ「おいしかった」では、すまされない。あるいは、それですませて、本当に、
よいのだろうか?

 この段階で、「ああ、おいしかった」ですませてしまうと、今度は、あなたは、さらに高級な料理
を求めて、さまよい歩くかもしれない。その結果、肥満、そして成人病(ギョッ!)。

 「命」というのは、実は、私のものであって、私のものではない。ウソだと思うなら、あなたの手
指をじっと、ながめてみることだ。あなたは、その手指を自分のものだと思っているかもしれな
いが、あなたが、その手指を作ったわけではない。

 あなたの「命」は、あなたを超えた、はるかに大きな(流れ)の中で、過去から未来へと流れて
いる。あなたはその一部、その一瞬を、みなと共有しているにすぎない。

 「だから、それがどうなの?」と考えることで、あなたは、その命の流れの中で、立ち止まるこ
とができる。あなたよいうより、あなたの中に流れる、人間という命の欲望に、ブレーキをかけ
ることができる。

 本来、動物の行動には、すべてムダがないはず。昆虫でも、魚でも、鳥でも……。彼らの行
動のすべてには、「だから……」という部分が、はっきりしている。

 私たち人間も、そういう原点に、一度、立ちかえってみる必要がある。

 ……とまあ、むずかしい話を書いてしまったが、あなたも、ためしに、何かをしたら、「だから、
どうなの?」「それが、どうしたの?」と、自分に、問いかけてみてほしい。その時点で、ものの
考え方が一変するかもしれない。

 おいしいものを食べた……だから、どうなの?
 すばらしい車を買った……だから、どうなの?
 旅行に行って、温泉に入った……だから、どうなの?
(041007)



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20
●子どもの肥満

 少し前、標準体重について書いた。

 広く使われている標準体重検査法としては、BM標準体重計算法がある。しかしこれは、(お
とな用)のもの。(子ども用)には、(ローレル指数計算法)や、(カウプ指数計算法)がある。

+++++++++++++

【おとなの適正体重計算……BM標準体重計算法】

   BM=(体重kg)÷((身長m)x(身長m))   

     40以上   ……肥満(4度)
     35〜40  ……肥満(3度)
     30〜35  ……肥満(2度)
     25〜30  ……肥満(1度)
     18・5〜25……正常値
      〜18・5以下……やせ

 (注、身長はメートル単位。身長、166センチの人は、1・66として、計算する。)

【学童期の児童の適正体重計算法】

   (ローレル指数)=(実測体重kg)÷(実測身長cmの3乗)×10の7乗

   この計算法で、ローレル指数が、160以上を、肥満とする。

【乳幼児の適正体重計算法】

   (カウプ指数)=(実測体重g)÷(実測身長cmの2乗)×10

   この計算法で、カウプ指数が、20以上を、肥満とする。


 このほか、おとなの標準体重計算法として、広く、次のような計算法が、使われている。参考
までに……。

【おとなの適正体重計算法】

   (肥満度)=(実測体重kg − 標準体重kg)÷(標準体重)×100

   ここでいう標準体重は、男性は、(身長cm − 100)×0・9で計算
              女性は、(身長cm − 100)で計算

   この計算法で、20以上で、肥満とする。

+++++++++++++++++

 私も、このところ、肥満は、よくないと、身をもって、体験している。肥満は、たしかに脳に、よ
い影響を与えない。

 思考の鋭さが消える。集中力がつづかないなど。意外に思う人もいるかもしれないが、肥満
時の時のほうが、ものの考え方が、うつ的になりやすいのではないかということ。肥満は、精神
の作用にも、影響を与える(?)。

 一般的には、太っている人のほうが、どこかおおらかで、のんびりしているように見えるかもし
れない。が、どうもそうではないのではないかということ。

 動きが鈍くなる分だけ、血中の老廃物がふえる? そのため、ものの考え方も、どこか腐って
くる。……実感としては、そんな感じがする。

 また、子どもの肥満は、思考力の大敵と考えてよい。満腹症状(どこか、満腹風になること)
が出てくると、脳に行くべき血流が、胃袋のほうへばかりいくような感じになる。当然、その分、
思考力がにぶくなる。集中力が、つづかなくなる。ぼんやりと、うつろな目つきで、空を見つめる
など。

 子どもは、やややせかげんのほうが、よい。……と、私は、そう思っている。

 で、私は、9月のはじめから今日(10・08)までに、体重を、68・5から、63・5kgに減量する
ことに成功した。ちょうど、5kg、減らしたことになる。

 体が軽くなった分だけ、運動量がふえた。昨日も、合計で、1時間半ほど、自転車で走った。

 そのせいもあって、頭の中も、軽くなった。頭重感が消えた。集中力ももどってきた。朝起き
たときの、足の痛みも消えた。体中が、サクサクと動く感じになって、気分も爽快。朗らかにな
った。

 なお子どもの肥満の多くは、生活習慣病と考えてよい。そういう子どもの家庭ほど、家の中
に、食べ物がごろごろしている。もし子どもの肥満が気になったら、家中から、食べ物を捨てて
みる。心を鬼にして、捨ててみる。

 「もったいない」と思ったら、なおさら、捨ててみる。その「もったいない」と思う心が、つぎから
の買い物習慣を改める。
(041008)

【リバウンドの恐怖】
 
 いかにして、空腹感と戦うか。ダイエットしているとき、当然のことながら、それが最大の問題
となる。

 しかしその空腹感も、一巡すると、おかしなもので、どこかへ消えてしまう。また全体に、胃袋
が小さくなった感じがして、食事の量そのものが、少なくなる。少し食べただけで、おなかがいっ
ぱいになってしまう。

 が、ここで油断してはいけない。

 この段階になると、何を食べても、おいしくなる。そこでふと、油断をしたようなとき、ドッと食
べてしまう。

 ここで「胃袋が小さくなった感じ」と書いたが、これもまた、見せかけ。「おいしい」と思って食べ
ていると、つい、量が多くなってしまう。

 体中の細胞そのものが、飢えた状態になっているから、ほんの少し食べただけでも、栄養分
が、ムダなく、体中に、しみわたるようになる。つまり、こうして、リバウンドが始まる。

 昨日は、講演が二つ重なったこともあり、私は、二つ目の講演が終わるまで、食事らしい食
事をとらなかった。食事をとると、眠ってしまう。

 が、二つの講演が終わって、しばらくすると、猛烈な空腹感。そこでワイフと、イタリアレストラ
ンへ。

 ここで、私は、サラダと、ピラフを食べた。一人前の量である。

 とたん、食べグセがもどったというか、あれこれ、いろいろなものを食べたくなった。家に帰る
と、サバ寿司があった。それを一切れ食べた。講演のみやげにもらった、羊羹(ようかん)も、
一切れ食べた……。

 で、今朝は、どこか気分が悪い。体重計を見たら、あっという間に、昨日より、プラス1キロ。
明らかにリバウンドである。以前と比べたら、比較にならないほど、少量しか食べていないの
に、1キロ!

 しかも今、空腹感がある! あのサバ寿司が、無性に食べたい!

 つまり私のダイエットは、こうして第二ラウンドに入った。

 ダイエットするよりも、いかにして、このリバウンドと戦うか。多くの人は、この段階で、失敗す
るらしい。

 さあ、がんばるぞ。……といっても、今日は、台風22号の影響で、あいにくと、雨模様。運動
ができない! 何か、別の方法を、考えるしかない。





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21

【謎のキトラ古墳】(改)

(注)昨日(5月25日)に書いた原稿に、一部、まちがいが
ありましたので、訂正して、送信します。

+++++++++++++++++++++++++++++

●百済(くだら)王子

今朝の新聞によると、例のキトラ古墳の内部は、
もぬけのカラだったという(08年5月24日)。
わずかな人骨が、散乱していたにすぎなかったという。
新聞記事によれば、「盗掘によってそうなった」と。
しかし、どこのだれが、人骨など、盗掘するだろうか?

これについては、こんな説がある。
その前に、当時の歴史について、説明しておかねば
ならない。

みなさんも、「壬申(じんしん)の乱」という言葉を、
学校の社会科の授業で、聞いたことがあると思う。
当時としては、たいへんな大事件であったらしい。
日本書紀も、この事件について詳しく書いている。

で、その壬申の乱というのは、天智天皇(てんじてんのう)の子
である、大友皇子(おおとものみこ)と、天智天皇の弟である、大海人皇子
(おおあまのみこ)の間で起きた、皇位争奪戦のことをいう。

つまり天智天皇なきあと、天智天皇の子と、天智天皇の
弟が、皇位を争って、「乱」を起こした。
結果、天智天皇の弟の大海人皇子が、皇位を継承する。
名を「天武天皇」と改める。

そこでもう一度、キトラ古墳が発掘された当時(02年)に
私が書いた原稿を、ここに再掲載してみる。

この中で、とくに注意してほしいことは、キトラ
古墳の内部が、百済王室の模様で、飾られていた
ということ。
だからキトラ古墳が発掘された当時、新聞記事の
見出しは、こうなっていた。

「百済王族か、弓削(ゆげ)皇子か」(毎日新聞)
と。

弓削(ゆげ)皇子というのは、天武天皇の子を
さす。

もう一度、系譜を整理してみる。

天智天皇―大友皇子(おおとものみこ)
天武天皇―弓削(ゆげ)皇子

天智天皇と天武天皇は、兄弟。

++++++++++++++++++++++

●驚天動地の発見!

 さて日本人も、そろそろ事実を受け入れるべき時期にきているのではないだろうか。これは
私の意見というより、日本が今進みつつある大きな流れといってもよい。たとえば2002年の
はじめ、日本の天皇ですらはじめて皇室と韓国の関係にふれ、「ゆかり」という言葉を使った。

これに対して韓国の金大統領は、「勇気ある発言」(報道)とたたえた(1月)。さらに同じ月、研
究者をして「驚天動地」(毎日新聞大見出し)させるような発見が奈良県明日香村でなされた。

明日香村のキトラ古墳で、獣頭人身像(頭が獣で、体が人間)の絵が見つかったというのだ。

詳しい話はさておき、毎日新聞はさらに大きな文字で、こう書いている。「百済王族か、弓削
(ゆげ)皇子か」と。

京都女子大学の猪熊兼勝教授は、「天文図、四神、十二支の時と方角という貴人に使われる
『ローヤルマーク』をいくつも重ねている」とコメントを寄せている。こ

これはどうやらふつうの発掘ではないようだ。それはそれとして、が、ここでもし、「百済王族
か、弓削(ゆげ)皇子か」の部分を、「百済王族イコール、弓削(ゆげ)皇子」と解釈したらどうな
るか。

弓削皇子は、天武天皇の皇子である。だから毎日新聞は、「研究者ら驚天動地」という大見出
しを載せた。

++++++++++++++++++++++

先に書いた壬申の乱の前に、朝鮮半島で、「白村江
(はくそんこう)の戦い」というのが起きている。
西暦663年のことである。

この白村江の戦いというのは、わかりやすく言えば、
滅びつつあった百済が、百済再興をかけて、唐と
新羅(しらぎ)に、最後の一線を挑んだ戦いということになる。

その白村江の戦いに、天皇家は、百済にたいして、
援軍を送っている。
その中心的人物が、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)
と言われているが、確かではない。

それはそれとして日本の天皇家と、百済は、きわめて近い関係に
あった。

が、ご存知のように、白村江の戦いでは、百済が敗退。
同時に日本の天皇家は、手痛い打撃を受ける。

ここから先は、関裕二氏の書いた「古代史の秘密を握る
人たち」(PHP)を引用させてもらう。

関裕二氏の書いた本の中には、こうある。

「(日本書紀によれば)、中臣鎌足が出現する直前、
百済の皇子の豊璋(ほうしょう)が、人質として、
来日している」(同、P83)と。

以下、同書には、つぎのようにある。

「豊璋は、西暦631年に来日、660年に百済がいったん滅亡したのち、王朝復興の機運の高
まりの中で、百済の名将、鬼室福信に呼び戻され、擁立される。しかし(豊璋は)、鬼室福信の
手腕と名声をねたみ、これを殺し、首を塩漬けにして、自ら王朝の衰弱を招いてしまう。白村江
の戦いで百済王朝は、永遠にこの世から姿を消し、豊璋は行方をくらましたままだった」と。

年代を整理してみよう。

631年・・・豊璋、来日
660年・・・百済滅亡
663年・・・白村江の戦い(百済、永遠に滅亡)
672年・・・壬申の乱が起きる。
673年・・・天武天皇(大海人皇子)即位

キトラ古墳は、こうした歴史を背景として、作られた。
ウィキペディア百科事典によれば、つぎのようにある。

「壁画などにみられる唐の文化的影響が、高松塚古墳ほどには色濃くないことから、遣唐使が
日本に帰国(704年)する以前の7世紀末から8世紀初め頃に作られた古墳であると見られて
いる」(ウィキペディア百科事典)と。

つまり西暦600年の末から、西暦700年のはじめである、と。
この時期は、白村江の戦い〜壬申の乱と、ピタリと重なる。

さらにつけ加えるなら、壬申の乱は、天智天皇の子と、
天智天皇の弟との間の皇位争奪戦だったということに
なっているが、関裕二氏の見解は、少しちがう。

それまでの百済派だった大友皇子(天智天皇の子)と、
新羅派になりつつあった大海人皇子(天智天皇の弟、
のちの天武天皇)との間の戦いだった、と。

わかりやすく言えば、百済派の天智天皇の子と、
新羅派の天武天皇の戦いだった、と。
これを裏づける資料としては、つぎのような
ものがある。

「天武は遣唐使は一切行わず、代わりに新羅から
新羅使が倭国へ来朝し、また倭国から新羅への
遣新羅使も頻繁に派遣されており、
その数は天武治世だけで14回に上る」(ウィキペディア百科事典)と。

が、最大の謎は、なぜ天智天皇は、それほどまでに百済に
肩入れをしたかということ。
天智天皇は、ウィキペディア百科事典によれば、3派に分けて、
計4万人という兵力を送っている。

(当時の4万人だぞ!)

事実、白村江の戦いで百済は滅亡し、そのあと天皇家も滅亡の
危機を迎える。

が、こうした事実と、キトラ古墳を重ね合わせてみると、
答は自然と出てくるのでは?

壬申の乱で政権を継承した大海人皇子(=天武天皇)は、新羅への
忠誠をたてる必要性からも、キトラ古墳をつぶさなければ
ならなかった(?)。

その結果が、今朝の新聞ということになる。

なお、こうした歴史観というのは、日本の外では常識で、
「そうではない」「まちがっている」と、かたくなに、
「日本史」にこだわっているのは、日本の歴史家たち
だけと考えてよい。

日本史も、実は、東洋史の一部でしかない。
またそういう視点で、日本の歴史をながめて、はじめて、
日本人は、日本のルーツを正しく知ることができる。
これは余計なことかも知れないが・・・。

なおさらにつけ加えるなら、ここに出てくる、「豊璋」
という人物は、中臣鎌足ではなかったかという説も
ある(前述、関裕二氏)。


+++++++++++++++++++++++

ここまで書いて、あの「ニセ石器事件」を
思い出した。
日本人の私たちにしてみれば、思い出したくもない
不愉快な事件かもしれない。
が、なぜ、日本の考古学者たちが、
あのニセの石器に飛びついたか。
その心理的背景を知るのには、たいへん象徴的な事件
ということになる。

+++++++++++++++++++++++

●日本史にこだわる日本人

【ニセ石器事件】

●藤木Sの捏造事件

 一方こんなこともある。藤木Sという、これまたえらいインチキな考古学者がいた。彼が発掘し
たという石器のほとんどが捏造(ねつぞう)によるものだというから、すごい。しかも、だ。そうい
うインチキをインチキと見抜けず、高校の教科書すら書き換えてしまったというから、これまた
すごい。

たまたまその事件が発覚したとき、ユネスコの交換学生の同窓会がソウルであった(1999年
終わり)。日本側のOBはともかくも、韓国側のOBは、ほとんどが今、大企業の社長や国会議
員をしている。

その会に主席した友人のM氏は帰ってきてから私の家に寄り、こう話してくれた。「韓国人は
皆、笑っていたよ。中国や韓国より古い歴史が日本にあるわけがないとね」と。当時の韓国の
マスコミは、この捏造事件を大きく取りあげ、「そら見ろ」と言わんばかりに、日本をはげしく攻
撃した。M氏は、「これで日本の信用は地に落ちた」と嘆いていた。

+++++++++++++++++++

その韓国で、私は、交換学生だった当時、
金素雲氏という人から、こんな話を、直接
聞いた。

当時の韓国を代表する、文学者兼歴史学者
であった。

+++++++++++++++++++

【民族の誇りとは……】

++++++++++++++++++++

2002年の1月に、つぎのような原稿を
私はこんな原稿を書いた。

今、改めて、それを読みなおしている。

++++++++++++++++++++

●私はユネスコの交換学生だった

 1967年の夏。私たちはユネスコの交換学生として、九州の博多からプサンへと渡った。日
韓の間にまだ国交のない時代で、私たちはプサン港へ着くと、ブラスバンドで迎えられた。が、
歓迎されたのはその日、一日だけ。あとはどこへ行っても、日本攻撃の矢面に立たされた。

私たちを直接指導してくれたのが、金素雲氏だったこともある。韓国を代表する文化学者であ
る。私たちは氏の指導を受けるうち、日本の教科書はまちがってはいないが、しかしすべてを
教えていないことを実感した。そしてそんなある日、氏はこんなことを話してくれた。

●奈良は韓国人が建てた?

 「日本の奈良は、韓国人がつくった都だよ」と。「奈良」というのは、「韓国から見て奈落の果て
にある国(ナラ)」という意味で、「奈良」になった、と。

昔は「奈落」と書いていたが、「奈良」という文字に変えた、とも。現在の今でも、韓国語で「ナ
ラ」と言えば、「国」を意味する。

もちろんこれは一つの説に過ぎない。偶然の一致ということもある。しかし結論から先に言え
ば、日本史が日本史にこだわっている限り、日本史はいつまでたっても、世界の、あるいはア
ジアの異端児でしかない。日本も、もう少しワクを広げて、東洋史という観点から日本史を見る
必要があるのではないのか。

ちなみにフランスでは、日本学科は、韓国学部の一部に組み込まれている。またオーストラリ
アでもアメリカでも東洋学部というときは、基本的には中国研究をさし、日本はその一部でしか
ない。

●藤木新一の捏造事件(先にあげた原稿と重複します)

 一方こんなこともある。藤木S一という、これまたえらいインチキな考古学者がいた。彼が発
掘したという石器のほとんどが捏造(ねつぞう)によるものだというから、すごい。しかも、だ。そ
ういうインチキをインチキと見抜けず、高校の教科書すら書き換えてしまった人たちがいるとい
うから、これまたすごい。

たまたまその事件が発覚したとき、ユネスコの交換学生の同窓会がソウルであった(1999年
終わり)。日本側のOBはともかくも、韓国側のOBは、ほとんどが今、大企業の社長や国会議
員をしている。その会に主席した友人のM氏は帰ってきてから私の家に寄り、こう話してくれ
た。

「韓国人は皆、笑っていたよ。中国や韓国より古い歴史が日本にあるわけがないとね」と。当
時の韓国のマスコミは、この捏造事件を大きく取りあげ、「そら見ろ」と言わんばかりに、日本を
はげしく攻撃した。M氏は、「これで日本の信用は地に落ちた」と嘆いていた。

●常識と非常識

 私はしかしこの捏造事件を別の目で見ていた。一見、金素雲氏が話してくれた奈良の話と、
この捏造事件はまったく異質のように見える。奈良の話は、日本人にしてみれば、信じたくもな
い風説に過ぎない。

いや、一度、私が金素雲氏に、「証拠があるか?」と問いただすと、「証拠は仁徳天皇の墓の
中にあるでしょう」と笑ったのを思えている。しかし確たる証拠がない以上、やはり風説に過ぎ
ない。これに対して、石器捏造事件のほうは、日本人にしてみれば、信じたい話だった。「石
器」という証拠が出てきたのだから、これはたまらない。

事実、石器発掘を村おこしに利用して、祭りまで始めた自治体がある。が、よく考えてみると、
これら二つの話は、その底流でつながっているのがわかる。金素雲氏の話してくれたことは、
日本以外の、いわば世界の常識。一方、石器捏造は、日本でしか通用しない世界の非常識。
世界の常識に背を向ける態度も、同じく世界の非常識にしがみつく態度も、基本的には同じと
みてよい。

●お前は日本人のくせに!

 ……こう書くと、「お前は日本人のくせに、日本の歴史を否定するのか」と言う人がいる。事
実、手紙でそう言ってきた人がいる。「あんたはそれでも日本人か!」と。

しかし私は何も日本の歴史を否定しているわけではない。また日本人かどうかと聞かれれば、
私は100%、日本人だ。日本の政治や体制はいつも批判しているが、この日本という国土、
文化、人々は、ふつうの人以上に愛している。

このことと、事実は事実として認めるということは別である。えてしてゆがんだ民族意識は、ゆ
がんだ歴史観に基づく。そしてゆがんだ民族主義は、国が進むべき方向そのものをゆがめ
る。これは危険な思想といってもよい。

仮に百歩譲って、「日本民族は誇り高い大和民族である」と主張したところで、少なくとも中国
の人には通用しない。何といっても、中国には黄帝(司馬遷の「史記」)の時代から5500年の
歴史がある。日本の文字はもちろんのこと、文化のほとんどは、その中国からきたものだ。

その中国の人たちが、「中国人こそ、アジアでは最高の民族である」と主張して、日本人を「下」
に見るようなことがあったら、あなたはそれに納得するだろうか。民族主義というのは、もともと
そのレベルのものでしかない。

●驚天動地の発見!

 さて日本人も、そろそろ事実を受け入れるべき時期にきているのではないだろうか。これは
私の意見というより、日本が今進みつつある大きな流れといってもよい。たとえば2002年の
はじめ、日本の天皇ですらはじめて皇室と韓国の関係にふれ、「ゆかり」という言葉を使った。

これに対して韓国の金大統領は、「勇気ある発言」(報道)とたたえた(1月)。さらに同じ月、研
究者をして「驚天動地」(毎日新聞大見出し)させるような発見が奈良県明日香村でなされた。

明日香村のキトラ古墳で、獣頭人身像(頭が獣で、体が人間)の絵が見つかったというのだ。
詳しい話はさておき、毎日新聞はさらに大きな文字で、こう書いている。「百済王族か、弓削
(ゆげ)皇子か」と。

京都女子大学の猪熊兼勝教授は、「天文図、四神、十二支の時と方角という貴人に使われる
『ローヤルマーク』をいくつも重ねている」とコメントを寄せている。これはどうやらふつうの発掘
ではないようだ。それはそれとして、が、ここでもし、「百済王族か、弓削(ゆげ)皇子か」の部分
を、「百済王族イコール、弓削(ゆげ)皇子」と解釈したらどうなるか。弓削皇子は、天武天皇の
皇子である。だから毎日新聞は、「研究者ら驚天動地」という大見出しを載せた。

●人間を原点に

 話はぐんと現実的になるが、私は日本人のルーツが、中国や韓国にあったとしても、驚かな
い。まただからといって、それで日本人のルーツが否定されたとも思わない。先日愛知万博の
会議に出たとき、東大の松井T典教授(宇宙学)は、こう言った。「宇宙から見たら、地球には
人間など見えないのだ。あるのは人間を含めた生物圏だけだ」(2000年1月16日、東京)と。

これは宇宙というマクロの世界から見た人間観だが、ミクロの世界から見ても同じことが言え
る。今どき東京あたりで、「私は遠州人だ」とか「私は薩摩人だ」とか言っても、笑いものになる
だけだ。

いわんや「私は松前藩の末裔だ」とか「旧前田藩の子孫だ」とか言っても、笑いものになるだ
け。日本人は皆、同じ。アジア人は皆、同じ。人間は皆、同じ。ちがうと考えるほうがおかしい。
私たちが生きる誇りをもつとしたら、日本人であるからとか、アジア人であるからということでは
なく、人間であることによる。もっと言えば、パスカルが「パンセ」の中で書いたように、「考える」
ことによる。松井教授の言葉を借りるなら、「知的生命体」(同会議)であることによる。

●非常識と常識

 いつか日本の歴史も東洋史の中に組み込まれ、日本や日本人のルーツが明るみに出る日
がくるだろう。そのとき、現在という「過去」を振り返り、今、ここで私が書いていることが正しい
と証明されるだろう。

そしてそのとき、多くの人はこう言うに違いない。「なぜ日本の考古学者は、藤木S一の捏造と
いう非常識にしがみついたのか。なぜ日本の歴史学者は、東洋史という常識に背を向けたの
か」と。繰り返すが一見異質とも思われるこれら二つの事実は、その底流で深く結びついてい
る。(以上、2002年1月記)

++++++++++++++++++

 今朝(05年12月2日)の朝刊によれば、またまた奈良県の明日香村のカヅマヤマで、石積
み石室古墳が見つかったという。

 中日新聞は、「百済王族?」と「クエスチョンマーク」をつけて報道している。「時期は7世紀後
半、40〜50代の男性埋蔵か」と。

 「被葬者は渡来系か」と題して、前園・奈良芸術短大の教授は、つぎのように語っている。

 「土を焼いて作った朝鮮半島の「せん」を使った石室を意識した構造で、被葬者は天武天皇
の客人だった、百済王昌成(こうだらのこきししょうじょう)ら、渡来人の人物がふさわしいので
は。丘陵の斜面を削り墳丘を築造する立地条件は、高松塚古墳など、ほかの終末期古墳と一
致するが、規模が大きく、「せき(=石へんに、専の文字)」を積んだ、特殊な石室をもつ点が特
徴だ」と。

 奈良県の明日香村の西南部には、7〜8世紀の終末期古墳が密集している。大半が天皇家
に関係があるとされる。

 中でも、天武、持統天皇陵は藤原京の中軸、朱雀(すざく)大路の延長線上にあり、そこから
南約3キロのエリアを天武天皇一族が、「聖なるライン」として築いた墓域とみる説が有力(同、
新聞)。

 この周辺に、あの高松古墳、キトラ古墳もある。(カヅマヤマと、キトラは、距離にして、1・5キ
ロほど。)今回発見された古墳も、まさに百済や高句麗の様式をまねたもの……というより、百
済や高句麗の様式そのもの。そこで前園教授は、「被葬者は渡来人か?」と。日本人の墓とす
るには、あまりにも無理があるからである。

 日本の天皇は、「ゆかり」という言葉を使って、当時は、大問題になった。しかしこの事実ひと
つだけを見ても、日本の天皇家と、朝鮮半島は、密接に結びついている。どうして日本の聖域
の中に、百済からやってきたと思われる渡来人の墓が、こうまであるのか。また天皇陵の様式
にしても、どうしてこうまで百済、高句麗の様式と酷似しているのか。

 この先のことは私にはわからないが、再び、私は、あの金素雲氏が言った言葉を思い出す。

 「証拠は仁徳天皇の墓の中にあるでしょう」と。仁徳天皇の墓の中には、何かしら、巨大な謎
が隠されているらしい。
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新羅 天皇家のルーツ はやし浩司 壬申の乱)

(あとがき)

朝鮮半島と日本は、古来より、密接に関係しあっていた。
朝鮮語と日本語は、発音こそちがうが、同じ言語である。
日本語が朝鮮半島に伝わったということは、ありえない。
朝鮮語が、日本に伝わったと考えるのが、自然である。

私はこのことを、佐賀県の唐津へ講演で行ったときに知った。
あのあたりまで行くと、会話の抑揚そのものが、韓国語に
そっくり。
そこでそのことを話題にすると、付き添ってくれた佐賀県の
教育委員会の方が、こう説明してくれた。

「天気のいい日には、近くの山に登ると、朝鮮半島が見えますよ」と。

日本から朝鮮半島が見えるということは、向こうからも日本が見える
ということ。
朝鮮半島に生まれた強大な国家が、日本制服をもくろんだとしても、
何もおかしくない。



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22
●言葉が乱れる子ども

+++++++++++++++++++++

言葉が乱れる子どもというのは、少なくない。
言っていることは、わかるのだが、全体として、
文章になっていない……?

それを書く前に、こんなことは、よくある。
これは日本語の特徴なのかもしれないが、
たとえば、子どもたちは、こう言う。

「明日は、プールがない」と。

そこで私がすかさず、「プールがないって、
どういうこと?」と聞きかえす。

子「プールがないよ」
私「プールが、現れたり、消えたりするの?」
子「ううん、プールはあるけど、プールで、
泳がない」

私「泳げばいいでしょ。どうして泳がないの?」
子「だからア〜、体育の授業で、水泳をしないって
いうこと」
私「ああ、そう。だったら、はじめっから、そう
言えばいいのに……」と。

が、P君(小2男児)のケースは、ややちがう。
(Pさん、P君のことを書いて、ごめんなさい。
立ち話のつづきを書いてみます。)

P君は、こう言った。

「ぼく、携帯電話ない。かぎは、もってる。
お母さん、仕事で、ぼく、先に、中に入る……」と。

P君が言おうとしていることは、よくわかる。
こういうことらしい。

「ぼくは携帯電話はもっていない。しかし家のかぎは、
もっている。お母さんが仕事で帰りが遅くなったときは、
そのかぎを使って、ぼくは、先に、家の中に入る」と。

こういうケースでまず疑ってみるべきは、その
子どもの会話能力。
会話能力が貧弱だと、作文能力に、そのまま
大きな影響を与える。
作文能力が劣ると、あらゆる科目に影響がおよぶ。

その子どもの会話能力を決めるのは、母親である。
母親は、そのため、子どもには、正しい日本語で
話しかけなければならない。

たとえば、「ほら、カバン、カバン、ハンカチは?」
ではなく、
「あなたはカバンをもちましたか?」「ハンカチは
もっていますか?」と。

それについて書いた原稿は、このあとに添付して
おく。

が、P君のケースは、それともややちがう。
お母さんは知的な人で、かつP君には、愛情豊かに
接している。
もちろん言葉の使い方も、正しい。

似たようなケースは、バイリンガルの子どもにも
ときどき観察される。

たとえば父親が日本人で、母親が中国人であるような
ケースである。

0歳〜2歳期の、言語形成期にバイリンガルで育てる
と、子どもの言語能力は、大きく乱れることは、
よく知られている。

私の孫も、2歳半くらいのとき日本へ来たとき、
英語とも日本語ともわけのわからない英語を
話していた。

たとえば「私は家へ帰りたくない」というときも、
「No go home, bye, bye」と。

問題は、なぜP君の言語能力が、乱れているか、である。
P君の両親は、日本人である。
脳の言語中枢の問題など、いろいろ考えられるが、
教育の世界では、(原因)よりも、「この先、どうするか?」
を、優先して考える。

私「乱れた日本語は、そのつど、言いなおさせるしかありませんね」
母「私も、気になっていましたが……」
私「まだじゅうぶん間にあいますから、今日からでも、正しい
日本語で会話することに心がけてみてください」
母「わかりました」と。

++++++++++++++++

子どもの会話能力について書いた
原稿を、いくつか添付します。

++++++++++++++++

子どもの国語力が決まるとき

●幼児期に、どう指導したらいいの?

 以前……と言っても、もう30年近くも前のことだが、私は国語力が基本的に劣っていると思
われる子どもたちに集まってもらい、その子どもたちがほかの子どもたちと、どこがどう違うか
を調べたことがある。結果、次の3つの特徴があるのがわかった。

(1)使う言葉がだらしない……ある男の子(小2)は、「ぼくジャン、行くジャン、学校ジャン」とい
うような話し方をしていた。「ジャン」を取ると、「ぼく、行く、学校」となる。

たまたま『戦国自衛隊』という映画を見てきた中学生がいたので、「どんな映画だった?」と聞く
と、その子どもはこう言った。「先生、スゴイ、スゴイ! バババ……戦車……バンバン。ヘリコ
プター、バリバリ」と。何度か聞きなおしてみたが、映画の内容は、まったくわからなかった。

(2)使う言葉の数が少ない……ある女の子(小4)は、家の中でも「ウン、ダメ、ウウン」だけで
会話が終わるとか。何を聞いても、「まあまあ」と言う、など。母「学校はどうだったの?」、娘「ま
あまあ」、母「テストはどうだったの?」、娘「まあまあ」と。

(3)正しい言葉で話せない……そこでいろいろと正しい言い方で話させようとしてみたが、どの
子どもも外国語でも話すかのように、照れてしまった。それはちょうど日本語を習う外国人のよ
うにたどたどしかった。私「山の上に、白い雲がありますと、言ってごらん」、子「山ア……、上に
イ〜、白い……へへへへ」と。

 原因はすぐわかった。たまたま子どもを迎えにきていた母親がいたので、その母親にそのこ
とを告げると、その母親はこう言った。「ダメネエ、うちの子ったら、ダメネエ。ホントにモウ、ダ
メネエ、ダメネエ」と。原因は母親だった!

●国語能力は幼児期に決まる

 子どもの国語能力は、家庭環境で決まる。なかんずく母親の言葉能力によって決まる。毎
日、「帽子、帽子、ハンカチ、ハンカチ! バス、バス、ほらバス!」というような話し方をしてい
て、どうして子どもに国語能力が身につくというのだろうか。

こういうケースでは、たとえめんどうでも、「帽子をかぶりましたか。ハンカチを持っていますか。
もうすぐバスが来ます」と言ってあげねばならない。……と書くと、決まってこう言う親がいる。
「うちの子はだいじょうぶ。毎晩、本を読んであげているから」と。

 言葉というのは、自分で使ってみて、はじめて身につく。毎日、ドイツ語の放送を聞いている
からといって、ドイツ語が話せるようにはならない。また年中児ともなると、それこそ立て板に水
のように、本をスラスラと読む子どもが現れる。しかしたいていは文字を音にかえているだけ。
内容はまったく理解していない。

なお文字を覚えたての子どもは、黙読では文を理解できない。一度文字を音にかえ、その音を
自分の耳で聞いて、その音で理解する。音読は左脳がつかさどる。一方黙読は文字を「形」と
して認識するため、一度右脳を経由する。音読と黙読とでは、脳の中でも使う部分が違う。そ
んなわけである程度文字を読めるようになったら、黙読の練習をするとよい。具体的には「口
を閉じて読んでごらん」と、口を閉じさせて本を読ませる。

●幼児教育は大学教育より奥が深い

 今回はたいへん実用的なことを書いたが、幼児教育はそれだけ大切だということをわかって
もらいたいために、書いた。相手が幼児だから、幼稚なことを教えるのが幼児教育だと思って
いる人は多い。

私が「幼稚園児を教えています」と言ったときのこと。ある男(54歳)はこう言った。「そんなの
誰にだってできるでしょう」と。

しかし、この国語力も含めて、あらゆる「力」の基本と方向性は、幼児期に決まる。そういう意
味では、幼児教育は大学教育より重要だし、奥が深い。それを少しはわかってほしかった。

+++++++++++++++++++++

もう1作、携帯電話について書いた原稿です。
(最近、携帯電話が話題になることが、多く
なりましたので……。)

日付はわかりませんが、2000年ごろに
書いたものです。

+++++++++++++++++++++

●子どもの携帯電話を考える法

 携帯電話をもつ子どもがふえている。調査のたびに、ぐんぐんとうなぎ昇りにふえているの
で、調査そのものがあまり意味がない。が、それと同時に弊害も表面化してきた。それらを並
べると……

(1)マジックミラー症候群……膨大な情報量の中で、知りたい相手の情報は見ても、自分の情
報は流さない。一方的に相手を観察するだけで、自分の正体は明かさない。あるいは他人の
意見を知り、それを攻撃することはできても、自分の意見は述べない。情報が一方通行化す
る。

(2)リセット症候群……一度、嫌いになると、ちょうどスイッチを切るかのように、相手を自分の
世界から抹殺してしまう。その後その相手からメールが入っても、それを受けつけないか、無
視する。

(3)オセロ症候群……白黒はっきりした人間関係をつくろうとする。敵の敵は味方という考え方
をしながら、その色分けをはっきりする。中間色的なつきあいができなくなる。

(4)マトリックス症候群……バーチャルな人間関係を結ぼうとする。相手は無臭、無味、体温
の感じない状態のほうが、つきあいやすい。自分の側の臭いや味、感情も文の上でコントロー
ルしようとする。一方、現実の世界の人間とは、心を結べなくなる。

(5)字幕症候群……相手からの文字に、自分の心をのせて相手の文を読む。たとえば相手が
「バカだなあ」と書いたとする。相手は冗談のつもりで書いたとしても、その「冗談」の部分はわ
からない。わからないから、こちらの感情でその文を読んで、ときには憤慨したり、怒ったりす
る。

(6)携帯電話依存症候群……携帯電話がないと落ち着かない。気分がすぐれない。携帯電話
に固執する。

(7)カプセル症候群……メール用語、メールの世界だけしか通用しない用語だけで会話をしよ
うとする。またそれを知らない人を、よそ者的に排斥しようとする。

(8)ワイアレス症候群……膨大な情報の中に埋もれてしまい、自分がわからなくなる。無能
化、愚鈍化が進む。一日の行動が決められず、電話の運勢占いにすべてをかける。

(9)グラフィック症候群……音声の会話ができなくなる。メールでは何でも話せるのに、いざそ
の人と直接対面すると、何も話せない。

(10)ボーダーレス現象……性情報が氾濫し、それが見境なく低年齢層に浸透している。

(11)情報のフェザー現象……情報の価値が限りなく軽くなり、その分、思考回路も軽くなる。
会話能力の低下、思考能力の低下をきたす。

(12)親指人間、会話能力欠如、言葉の短文化、感情化、短絡化、文字のマンガ化、ムダ話
がなくなった分だけ、黙々と携帯に文字を打ち込んでいる。

通学電車の中。昔は高校生や中学生の笑い声やはしゃぐ声が聞こえた。が、今は違う。誰も
が黙々と携帯電話のボタンを押している。携帯電話をもっていない子どもも、もっている子ども
に遠慮して何も話しかけない。静かだ。しかしおかしい……?

今では中学生の約60%、高校生の約80%が携帯電話をもっている(2000年、筆者調査)。
すでに「持ち物」という範囲を超え、携帯電話は子どもたちの間では必需品にすらなりつつあ
る。

「携帯電話がないと、仲間ハズレにされる」「友だちができない」と言った中校生すらいる。もち
ろんそれが子どもたちに与える影響は大きい。今どき、テレクラ・ナンパ・援助交際を問題にす
るほうがおかしい。有害な性情報は、容赦なく子どもたちの世界に降り注ぐ。知識や行動だけ
ではない。この携帯電話が子どもたちの心まで蝕み始めている。

++++++++++++++++

P君のケースとは関係ありませんが、
たとえばアスペルガー児のばあい、
言語能力が乱れることは、よく
知られています。

つぎの原稿は、6〜7年前に書いた
原稿です。

++++++++++++++++

●心にキズをもった子ども

【大阪府T市在住の母親より】

幼稚園で不登園になって以来、小学校に 入学してから今まで 毎日 学校でつき添って登校
しています。

最近 「ぼくは、死んだほうがいいんだ。」「お母さんは、僕が嫌いなんだ。」「どうせ何をやって
もうまくできない」と、毎日言います。

幼稚園に行かなくなったときに 私が、死にたいほど辛く 本人にもかなりひどいことを言ってし
まったのを、思い出しているのかも知れません。最近になって、アスペルガ−症候群だといわ
れました。

子供に 自己に自信をつけてあげるには、どのように接してあげれば、いいでしょう?毎日 楽
しく生活できるようにと 思っているのですが、毎日 あまりにもしつこく言われ 私も いらいら
してしまいます。
(大阪府T市、CFより)

+++++++++++++++++

 アスペルガー症候群については、たびたび書いてきたので、ここでは、簡単に説明だけして
おく。

 自閉症的な症状を示しながら、知的な発達障害の見られない子どもが見せる症候群を、アス
ペルガー症候群という。ふつう自閉症というときは、言語能力などの分野で、知的発達障害を
ともなくことが多い。が、アスペルガー児には、そういった発達障害は、見られない。むしろ、数
学や算数の分野などで、特異な能力を見せることが多い。

 正確には、自閉症の中でも、正常レベルに近い子どもを、「高機能自閉症児」という。その中
でも、さらに正常に近い子どもを、「アスペルガー児」という。高機能自閉症児と、アスペルガー
障害児をまとめて、「高機能広汎性発達障害児」と呼ぶ。

 しかし名前だけはぎょうぎょうしいが、要するに、対人関係に問題がある子どもというだけで、
それ以上に問題はない。「個性」と位置づける研究者も多いし、実際、教育現場では、そういう
方向で、指導をしている。

++++++++++++++++

 この相談のばあい、その子どもが、アスペルガー児であるかどうかは、不随的な問題と考え
てよい。アスペルガー児だから、「死んだほうがいい」という言葉を口にするわけではない。た
だ、対人関係の調整が、きわめて苦手な子どもなので、ささいなことで、キズつきやすいという
こと。

 で、気になるのは、母親自身が、「私が、死にたいほど辛く、本人にもかなりひどいことを言っ
てしまったのを、思い出しているのかも知れません」と告白している部分である。

 恐らくそういった接し方を、その母親は、一度とか、二度とかではなく、ごく日常的に、態度を
とおして、していたのかもしれない。

 そのため、子どもの心は、キズついた。アスペルガー児であるというなら、なおさら、デリケー
トな心をもっていた。子どもの年齢は書いてないので、よくわからないが、低学年児であるな
ら、この言葉は、痛々しい。

【CFさんへ……】

 CFさんも、当時は、いろいろ混乱していたのだと思います。子どもの様子が、少し変わってい
るということで、いろいろ悩んだのだと思います。そして、(ひどいこと)を口にしてしまった。

 この問題は、CFさんの子どもが、アスペルガー児であるとかないとかいうこととは、一度、切
り離して考えてみたほうが、よいのでははいないかと思います。そして過去の失敗は、いまさ
ら、悔やんでもしかたのないこと。

 問題は、これから先、どうするか、ですね。

 幸いなことに、CFさんは、今、そういう自分を深く、後悔しています。そして自分やあなたの子
どもを、冷静に見つめています。ここがとても重要な点です。というのも、世の中には、そういう
子どもをもちながら、その子どもの心を知らないまま、子どもを叱りつづける親も多いからで
す。

 ほとんどの親は、子どもに何か問題が起きると、自分を改めようとする前に、「子どもをなお
そう」と考えます。しかしこれほど、身勝手な考え方はありません。

 実のところ、私自身も、「アスペルガー症候群」という言葉を、ほんの5年前にさえ知りません
でした。当時、ある母親から、子育て相談会の席で相談され、そういう症状があることを知りま
した。今から思うと、それがアスペルガー症候群でした。

(この名称が一般的になったのは、ここ数年のことではないでしょうか。私の勉強不足かもしれ
ません。

 対人関係が結べず、その子どもの母親も、深刻に悩んでいました。「完ぺき主義で、だれか
にまちがいを指摘されたりすると、錯乱状態になる」と。

 で、その子どもは、小学3年生になるまで、私は指導しました。その子どもについては、また
別の機会に詳しく書くとして、そんなわけで、私は、「死にたいほどつらく思い、子どもにひどい
ことを言った」あなたを、責めることができません。

 で、その結果、あなたの子どもの心は、ひどくキズついてしまったというわけです。

 ただ、一つ、誤解してはいけないのは、こうした対人関係がうまく結べない子どものばあい、と
きとして、相手に同情を求めながら、相手の心を試すということは、よくあることということです。

 「死」という言葉にしても、言葉として、そう言うかもしれませんが、あまり本気にしてもいけま
せん。「死ぬ」「死ぬ」と言って、死んだ子どもはいません。子どもが死を選ぶのは、あくまでも、
何かのことで行きづまった、その結果です。……といっても、やはり痛々しい言葉ですね。本来
なら、絶対、子どもには口にしてほしくない言葉です。

 こういうケースでは、まさにあなたの親としての、愛の資質が試されます。どんなことがあって
も、「許して、忘れる」です。あとは、暖かい無視を繰りかえし、子どもが、何かのスキンシップや
愛情表現を求めてきたら、すかさず、いとわず、ていねいにそれに答えてあげるということで
す。

 あとは、時の流れに任せましょう。コツは、そういったテーマや問題には、触れないことです。
うまく、聞き流すことです。「暖かい無視」という言葉がありますが、私も好きな言葉です。うま
く、応用してみてください。

 ただとても残念なことですが、一度ついた心のキズは、簡単には消えません。忘れることはで
きますが、消えません。

 しかしだれしも、そうしたキズを無数にもちながら、つまりキズまるけになりながら、成長し、生
きていくものです。ですから、CFさんの子どもが、こうしたキズをもっているとしても、それはそ
れとして、前向きに生きていくしかありません。

 コツは、その問題にふれないように。話題にしないように。あまり気にしないように。

 なお、こんな指導法もありますから、参考にしてください。

 ある中学生の男子ですが、何かにつけて、ゆううつな話題をもちかけてきます。……きまし
た。

 たとえば、こうです。

 「ぼく、今度のテストで、悪い点を取るような気がする」
 「高校へ入っても、また勉強するなんて、いやだ」
 「昨日、友だちが、ぼくを無視した」と。

 最初のうちは、その中学生に相談に、そのつどあれこれ答えていましたが、そのうち、私の
ほうもいやになり(本音!)、やがて、こう答えるようにしました。すぐ、話題を、切りかえるので
す。

 その子どもが憂うつそうな顔をして、話しかけてきたら、すかさず、「ほほう、君は、いい趣味
しているねえ。このサイフ、かっこいいね。もらったの? 買ったの?」と。

 あるいは、「もうすぐ運動会だね。君は、何に出場するの? 子どものころから、君は、走る
のは速かったんだろ?」と。

 つまりその瞬間、瞬間に、明るい話題に、こちらからもちこんでいきます。この方法は、たい
へん効果的ですから、ぜひ、CFさんのご家庭でも、応用してみてください。

 なお、いただきましたメールですが、マガジン用に、転載することを、どうかお許しください。不
都合な点があれば、改めます。どうか、至急、ご連絡ください。勝手なお願いですみません。
(はやし浩司 高機能自閉症児 アスペルガー アスペルガー症候群 子どもの心 子供 キ
ズ はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 子どもの言語能力 言葉の乱れ
る子ども 会話能力 言語能力)

++++++++++++++++++

原稿をさがしてみたら、6年前(02年)
にも、同じようなことを書いていたのが
わかった。

++++++++++++++++++

●子どもの言葉(乱れる言葉)

+++++++++++++++++

昨日、生徒たちと、こんな会話をした。
だれかが、「先生、トイレ!」と言ったときのこと。

私は、「もう少し、言葉を、ていねいに話そう」と
指導した。そしていろいろな例をあげて、
日本語のおかしさを、指摘した。

つぎの原稿は、そうした視点から書いたもの。

+++++++++++++++++

ある夏の暑い日、1人の女の子(小2)がこう言った。「私、今日、プール、ない!」と。ほかの子
どもが、「今日、私、プール、あった」と言った言葉に対してそう言った。私はそのときふと、「こ
ういうとき、IBMの翻訳ソフトなら、こういう会話をどう翻訳するだろうか」と考えた。ちなみに、
私がもっているソフトで、実際、翻訳してみた。つぎのがそれである。

 「私、今日、プール、ない!」……"Pool and there is nothing me and today." (プール、私と
今日、何もない)
「今日、私、プール、あった」……"today and me -- a pool -- "(今日と私……プール)

 仮にもう少し原文に忠実に翻訳して、たとえばアメリカ人に、「Me, today, pool, no!」「Today 
me, pool, yes」と言っても、多分その意味は通じないだろう。

 そこで私はその女の子に、つぎのように質問しながら、正しい言葉で言いなおさせた。

私「あなたはプールをもっていないの?」
女「私が、もってるんじゃ、ない」
私「プールがどうしたの?」
女「プールがなかった」
私「どこになかったの?」
女「そうじゃなくて、プールはあるけど、プールのレッスンはなかったということ」

私「プールがレッスンするの?」
女「あのねえ、私がプールへ行かなかったということ」
私「どうして?」
女「だからさあ、プールがなかったの」
私「プールがなくなってしまったの?」

女「そうじゃなくてエ〜、今日は水泳のレッスンはなかったということ」
私「だったら、最初から、そう言ってね」と。

 こういうとき英語では、「私は今日、スイミングのレッスンには行かなかった」というような言い
方をする。IBMの翻訳ソフトで、翻訳させると、今度はちゃんと、「"I did not go to the lesson 
of swimming today."」と翻訳できた。

今、書店へ行くと、日本語についての本がたくさん並んでいる。その理由が、少しは理解できた
ような気がした。
(02−7−25)





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23
【日本人の依存性】

●孫から学んだこと(What I learnt from my G-son)

孫の誠司と接して、学んだことは多い。
たとえば、誠司は、こう言う。

(のどが渇いたとき)……「何か、飲み物をもっているか?」
(風呂に入るとき)……「足がやけどする」
(おなかがすいたとき)……「グレープフルーツを食べたい」と。

同じような場面のとき、日本の子どもなら、(だから、何とかしてくれ言葉)を使う。

たとえば、

(のどが渇いたとき)……「のどがかわいたア! (だから何とかしてくれ)」
(風呂に入るとき)……「熱い! (だから何とかしてくれ)」
(おなかがすいたとき)……「腹、減ったア! (だから何とかしてくれ)」と。

こうした日本人独特の依存性は、おとなになってからも、消えない。

私の叔母のひとりは、50代のころから、いつもこう言っていた。
電話で、話を始めるたびに、
「おばちゃん(=叔母自身)も、歳を取ったからねエ〜。(だから、何とかしてくれ)」と。

何も叔母を責めているのではない。
その地方では、そういう言い方が、ごくふつうの言い方となっている。
が、ときとして、イヤミに聞こえることもある。

たとえばしばらく実家に帰っていないでいたりすると、
「浩司君の家の横に、ゴミがたまっていたぞ。(だから何とかせよ)」、
「J君(=私の実兄)が、猛スピードで、坂を、自転車で走っていたぞ。(だから何とかせよ)」と。

「浩司君の夢を見たから」とか何とか、おかしな理由をつけて、電話をかけてくる。

一方、私が住んでいるこの浜松では、そうした言い方は、あまりしない。
とくにワイフの家族は、しない。
みな、独立心が旺盛で、それぞれが高次元な立場で、尊敬しあっている。

そんな私でも、誠司の言葉には、そのつど、驚く。
誠司は、日本語をほとんど話せない。
日本人というよりは、アメリカ人である。

いつもYES・NOをはっきりと言う。
会話は、そこから始まる。
だから何かほしいものがあったりすると、直接、「〜〜がほしい」などと言う。
わずか10日間ほどのつきあいだったが、そのつど、私は、こう思った。

「こんな5歳の子どもでも、日本人とは、ちがうなア〜」と。

その日本人の依存性については、たびたび書いてきた。
つぎの原稿は、5年前(03年)に書いた原稿である。

++++++++++++++

●拉致(らち)問題

 昨日の記者会見で、官房長官のF氏は、さかんにこう言っていた。「日本の立場は、アメリカ
も韓国も、よくわかっていてくれるはずです」「日本の立場は、じゅうぶん説明してあるので、わ
かってくれているはずです」と。

 まさに日本という国家そのものが、依存国家とみてよい。こういう会話は、依存性の強い人ほ
ど、好む。

 少し前だが、こんな子ども(小五女児)がいた。「明日の遠足を休む」と言うので、「担任の先
生に連絡したのか?」と聞くと、「先生は、わかっていてくれるはず」と。

 「どうして?」と私。
 「だって、今日、おなかが痛いと、言ったから」と、子ども。
 「しかし休むなら休むで、しっかりと先生に言ったほうがいいのでは?」
 「いいの。先生は、わかっていてくれるはずだから」と。

 日本語には、「だから、何とかしてくれ言葉」というのがある。たとえばのどがかわいても、「水
がほしい」とは言わない。「のどがかわいたア〜」と言う。子どもだけではない。ある女性(五〇
歳)は、子どもや親類に電話をかけるたびに、「私も年をとったからネー」を口ぐせにしていた。
つまり、「だから、何とか、せよ」と。

 しかし国の「長」ともあろうF氏まで、そういう言い方をするとは! 「ハズ論」で動かないのが、
国際社会。少なくともアメリカ人には、通用しない。そう言えば、五、六年前、ときの外務大臣の
K氏が、あの北朝鮮に、百数十万トンもの米を援助したことがある。そのときも、K氏は、そう
言っていた。「日本も、これだけのことをしてあげたのだから、北朝鮮も、何か答えてくれるは
ず」と。

 が、結果は、ゼロ。K氏は、「これで北朝鮮が何もしてくれないなら、私は責任をとる」とまで言
い切ったが、その責任をとった形跡は、どこにもない。

 こうした依存性は、親子の間にもある。

 「これだけのことをしてあげたのだから、うちの子どもは、私に感謝しているはず」「親子の絆
(パイプ)は、太くなったはず」と。つまり日本の親たちは、まず子どもに、いい思いをさせる。つ
いで親としての優越性を、子どもに見せつける。「私に従えば、いいことがある」「私には、これ
だけの力がある」と。

 つまり外堀を埋めるような形で、子どもの周辺を、少しずつ、しばりあげていく。そして結果と
して、子どもに依存心をもたせ、ついで、自分も、子どもに依存していく。

 ついでに拉致問題について。

 本来なら、日本の軍隊が突入し、被害者を救出しても、おかしくない事件である。しかしこの
日本には、おかしな平和主義がはびこっている。「ことなかれ主義」を、平和主義と誤解してい
る人もいる。平和主義もよいが、相手が、日本を攻めてきたときには、どうするのか? あるい
はそんなときでも、日本は、「アメリカが何とかしてくれるはず」「世界が黙っていないはず」とで
も、主張するつもりなのだろうか。

 日本政府の考え方は、甘い。本当に、甘い。「大国」としての誇りも、自覚もない。現に今、北
朝鮮のあの金XXは、核兵器の開発をしている。もちろんターゲットは、日本。韓国やアメリカで
はない。この日本。本来なら、アメリカや韓国の先に立って、この問題を解決しなければならな
い。しかし「ハズ論」だけで、みなのうしろをついていく?

 しかしそれにしても、北朝鮮の小さいこと、小さいこと。小細工ばかりしている。先週も、拉致
被害者の子どもたちに、手紙まで書かせている。そんな些細なことにまで、気を配っている。あ
きれるより先に、ゾッとする。

私が金XXなら、拉致被害者の子どもたちを、すぐ日本へ返す。恥ずかしいか、恥ずかしくない
かということになれば、つぎからつぎへと脱北者が出ることのほうが、よほど、恥ずかしい。金X
Xよ、恥を知れ!

 で、近く、六か国協議が始まる。しかしそれを望むわけではないが、この協議は、失敗する。
理由は簡単。北朝鮮は、核査察など、絶対にさせない。そんなことをすれば、金XXの悪行の
数々が、白日のもとにさらされてしまう。一説によると、あの金XXは、すでに数十万人以上の
人を、殺害しているという。

 つぎにアメリカにしても、(安保理決議)→(経済制裁)→(金XX体制の崩壊)という図式を、す
でに描いている。中国やロシアを参加させるのは、「やれるだけのことはやってみなさい。どう
せダメだから」ということを、証明するためのものでしかない。

 日本にしても、あの金XX体制を経済援助するということは、隣の暴力団に、資金を手渡すよ
うなもの。そう簡単には、できない。してはならない。

 問題は中国とロシアだが、彼らにしても、日本のマネーがほしいだけ。日本に金を出させ、そ
の金で、中国やロシアのものを買わせる。あるいは今までの借金を、返済させる。ただこの力
が強ければ、皮肉なことに、六か国協議は、成功する可能性はある。しかしそのときは、日本
は、屋台骨を数本、抜くぐらいの覚悟はしなければならない。「東京で、核兵器が爆発するより
は、いいだろう」と。

 さらに中国人や韓国人の、反日感情には、ものすごいものがある。仲よくなりかけると、アホ
な政治家が、S国神社を参拝したり、「南京虐殺はウソ」などと言っては、相手を怒らせている。
S国神社を参拝するのに反対しているのではない。「何も、こういう時期に、あえてしなくてもい
い」ということだ。

 どちらにせよ、今度の六か国協議は、日本にとっては、戦後、最大の山場になる。決裂すれ
ば、この秋には、米朝戦争が始まるかもしれない。もしそうなれば、日本も未曾有の大惨事に
巻き込まれる。日本だけが無事ということは、絶対にありえない。

 六か国協議で日本がどのような主張をするか。また世界は、どのような反応を示すか。拉致
問題もあって、目が離せない。
(030805)

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もう1作、同じような内容の原稿です。
これは4年前(04年)に書いたものです。

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●「年だから……」という言い方

7月のはじめ、豪雨が、新潟県から福井県を襲った。

今は、その雨もやっと一息つき、各地で復旧作業が始まった。連日、その模様を、テレビが、
ニュースとして伝えている。

 その模様を見ていたときのこと。一つ、気になったことがあった。

 何人かの老人が出てきたが、たまたまどの老人も、こう言った。

 「私ら、年ですから……」
 「年ですからね……」
 「私も、この年ですから……」と。

 つまり老齢だから、こうした復旧作業は、きびしい、と。

 実は、無意識だったが、私も、ときどき、同じ言葉を使うようになってしまった。ワイフに向っ
て、「オレも、年だからなあ」とか、息子たちに向って、「パパも、年だからな」とか。

 つまりは、私はそう言いながら、ワイフや息子たちに、依存しようとしている。甘えようとしてい
る。自分でそう言いながら、ハッと我にかえって、「いやな言い方だ」と思ってしまう。

 もちろん復旧作業にあたっている老人たちには、きびしい作業だろう。やりなれた仕事ならま
だしも、こうした仕事は、使う筋肉もちがう。何よりもたいへんなのは、「ゴロリと横になって、体
を休める場所がない」(ある老人の言葉)ということだそうだ。

 だからそういう老人たちが、つい、「年だから……」と言いたくなる気持は、よく理解できる。し
かし……。

 この言葉は、どこか(だから何とかしてくれ言葉)に似ている?

 よく依存性の強い子どもは、「のどがかわいたア!」「おなかがすいたア!」「退屈ウ!」と言
う。その子どもは、そう言いながら、親に向って、「だから何とかしてほしい」と言っている。

 同じように、「年だから……」という言葉の裏で、こうした老人たちは、「だから、何とかしてほ
しい」と言っている? 私にはそう聞こえる。

 昔、私の伯母にも、そういう人がいた。電話をかけてくるたびに、「オバチャンも、年だからね
エ……」と。

 今から逆算してみると、そのときその伯母は、まだ、50歳になったばかり。今の私の年齢よ
り、若い。

 そこで私は、気がついた。人はともかくも、私は、死ぬまで、その言葉を使わないぞ、と。自信
はないが、そう心に決めた。

 このマガジンを書くときも、ときどき、似たような弱音を吐くことがある。しかし弱音は、弱音。
「もう、使わないぞ」と。

 年なんか、関係ない。体が弱くなり、頭の活動はにぶるかもしれない。しかしそれは当然のこ
とではないか。年のせいにしてはいけない。人間には、年はない。そんな数字にふりまわされ
て、自分をごまかしては、いけない。他人をあざむいては、いけない。

 なまけた心、たるんだ体……、それは年のせいではない。

 ……ということで、今日の教訓。私の辞書から、「年だから……」という、あのどこかずるい、
どこか甘えた言い方を、消す。

 そう言えば、私のワイフなどは、そういう言葉を使ったことがない。どうしてだろう。あとで、そ
の理由を聞いてみよう。

【ワイフの言葉】

 「私やね、年だなんて、思っていない」と、一言。ワイフの言うことは、いつも、単純、明快。

 今でも、20歳の娘のようなつもりでいる。……らしい。おもしろい心理だと思う。

 「それにもう一つは、だれかに何かしてほしいとか、してもらいたいとか、そういう気持ちには
ならない。自分のことは自分で何とかしようと、いつも、それしか考えていないから」と。

 ナルホド!

 「お前はいいダンナをもったな」と私が言うと、ワイフはヘラヘラと笑った。

 「そうじゃないか。オレが、苦労を全部、引き受けているからな」と私。

 ああ、これも依存性の変形か? ともかくも、私は、「年だから……」という言葉を使わないこ
とを、心に決めた。自信はないが……。

【追記】

 山荘の近くに、Kさんという男性がいる。いわゆる老人である。老人と書くのは、失礼な言い
方だが、年齢からすれば、老人ということになる。そのKさん。今年は、78歳になるが、今で
も、現役で、山の中で仕事をしている。

 畑もあちこちにもっている。会うたびに、ヒョイヒョイと、体を動かして、農作業をしている。

 一方、50歳になったばかりというのに、太った体をもてあまし、ハーハーと、息も苦しそうに
歩いている人もいる。Sさんという男性である。聞くと、毎日、1、2本のビールを飲み、ヒマさえ
あれば、ソファの上で、ゴロ寝をしているという。

 趣味は、テレビでプロ野球をみることだそうだ。

 この二人を頭の中で、単純に比較しても、やはり人間には、年はないということ。たしかにKさ
んは、この10年の間に、かなりの畑を減らした。ミカン栽培もやめた。しかしいつも、できる範
囲で、仕事をしているといった感じ。決して、「年だから……」という弱音を吐かない。

 一方、Sさんは、いつも、「年には勝てないよ」とか、「オレも、年をとってしまったよ」と言って
いる。どこか生きザマが、うしろ向き。しかしそういうSさんにしたのは、Sさん自身ではないの
か……と、考えて、この話はここまで。

 しばらくこのテーマについて、考えてみたい。
(040723)

+++++++++++++++++++++

こうした日本人の依存性を鋭く追及したのが、
土居健郎「甘えの構造」である。

5年前(03年)に、こんな原稿を書いた。

+++++++++++++++++++++

●依存心

 依存心の強い子どもは、独特の話し方をする。おなかがすいても、「○○を食べたい」とは言
わない。「おなかが、すいたア〜」と言う。言外に、(だから何とかしろ)と、相手に要求する。

 おとなでも、依存心の強い人はいくらでもいる。ある女性(67歳)は、だれかに電話をするた
びに、「私も、年をとったからネエ〜」を口グセにしている。このばあいも、言外に、(だから何と
かしろ)と、相手に要求していることになる。

 依存性の強い人は、いつも心のどこかで、だれかに何かをしてもらうのを、待っている。そう
いう生きざまが、すべての面に渡っているので、独特の考え方をするようになる。つい先日も、
ある女性(60歳)と、北朝鮮について話しあったが、その女性は、こう言った。「そのときになっ
たら、アメリカが何とかしてくれますよ」と。

 自立した人間どうしが、助けあうのは、「助けあい」という。しかし依存心の強い人間どうしが、
助けあうのは、「助けあい」とは言わない。「なぐさめあい」という。

一見、なごやかな世界に見えるかもしれないが、おたがいに心の弱さを、なぐさめあっているだ
け。

総じて言えば、日本人がもつ、独特の「邑(むら)意識」や「邑社会」というのは、その依存性が
結集したものとみてよい。「長いものには巻かれろ」「みんなで渡ればこわくない」「ほかの人と
違ったことをしていると嫌われる」「世間体が悪い」「世間が笑う」など。こうした世界では、好ん
で使われる言葉である。

 こうした依存性の強い人を見分けるのは、それほどむずかしいことではない。

●してもらうのが、当然……「してもらうのが当然」「助けてもらうのが当然」と考える。あるいは
相手を、そういう方向に誘導していく。よい人ぶったり、それを演じたり、あるいは同情を買った
りする。「〜〜してあげたから、〜〜してくれるハズ」「〜〜してあげたから、感謝しているハズ」
と、「ハズ論」で行動することが多い。

●自分では何もしない……自分から、積極的に何かをしていくというよりは、相手が何かをして
くれるのを、待つ。あるいは自分にとって、居心地のよい世界を好んで求める。それ以外の世
界には、同化できない。人間関係も、敵をつくらないことだけを考える。ものごとを、ナーナーで
すまそうとする。

●子育てに反映される……依存性の強い人は、子どもが自分に対して依存性をもつことに、ど
うしても甘くなる。そして依存性が強く、ベタベタと親に甘える子どもを、かわいい子イコール、で
きのよい子と位置づける。

●親孝行を必要以上に美化する……このタイプの人は、自分の依存性(あるいはマザコン
性、ファザコン性)を正当化するため、必要以上に、親孝行を美化する。親に対して犠牲的で
あればあるほど、美徳と考える。しかし脳のCPUがズレているため、自分でそれに気づくこと
は、まずない。だれかが親の批判でもしようものなら、猛烈にそれに反発したりする。

依存性の強い社会は、ある意味で、温もりのある居心地のよい世界かもしれない。しかし今、
日本人に一番欠けている部分は何かと言われれば、「個の確立」。個人が個人として確立して
いない。

あるいは個性的な生き方をすることを、許さない。いまだに戦前、あるいは封建時代の全体主
義的な要素を、あちこちで引きずっている。そしてこうした国民性が、外の世界からみて、日本
や日本人を、実にわかりにくいものにしている。つまりいつまでたっても、日本人が国際人の仲
間に入れない本当の理由は、ここにある。
(03−1−2)

●人情は依存性を歓迎し、義理は人々を依存的な関係に縛る。義理人情が支配的なモラルで
ある日本の社会は、かくして甘えの弥慢化した世界であった。(土居健郎「甘えの構造」の一
節)

+++++著作権BYはやし浩司++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++ 
  
●日本人の依存性

 日本人が本来的にもつ依存心は、脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、日本人がそれ
に気づくには、自らを一度、日本の外に置かねばならない。それはちょうどキアヌ・リーブズが
主演した映画『マトリックス』の世界に似ている。

その世界にどっぷりと住んでいるから、自分が仮想現実の世界に住んでいることにすら気づか
ない……。

 子どもでもおなかがすいて、何か食べたいときでも、「食べたい」とは言わない。「おなかがす
いたア、(だから何とかしてくれ)」と言う。子どもだけではない。私の叔母などは、もう50歳代の
ときから私に、「おばちゃん(自分)も、歳をとったでナ。(だから何とかしてくれ)」と言っていた。

 こうした依存性は国民的なもので、この日本では、おとなも子どもも、男も女も、社会も国民
も、それぞれが相互に依存しあっている。

こうした構造的な国民性を、「甘えの構造」と呼んだ人もいる(土居健郎)。たとえば海外へ移住
した日本人は、すぐリトル東京をつくって、相互に依存しあう。そしてそこで生まれた子ども(二
世)や孫(三世)は、いつまでたっても、自らを「日系人」と呼んでいる。依存性が強い分だけ、
新しい社会に同化できない。

 もちろん親子関係もそうだ。この日本では親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子
とし、そのかわいい子イコール、よい子とする。

反対に独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、親不孝者とか、鬼っ子と言って嫌う。そ
してそれと同時進行の形で、親は子どもに対して、「産んでやった」「育ててやった」と依存し、
子どもは子どもで「産んでもらった」「育ててもらった」と依存する。

こうした日本人独特の国民性が、いつどのようにしてできたかについては、また別のところで話
すとして、しかし今、その依存性が大きく音をたてて崩れ始めている。

イタリアにいる友人が、こんなメールを送ってくれた。いわく、「ローマにやってくる日本人は、大
きく二つに分けることができる。旗を先頭にゾロゾロとやってくる日本人。年配の人が多い。もう
一つは小さなグループで好き勝手に動き回る日本人。茶髪の若者が多い」と。

 今、この日本は、旧態の価値観から、よりグローバル化した新しい価値観への移行期にある
とみてよい。フランス革命のような派手な革命ではないが、しかし革命というにふさわしいほど
の転換期とみてよい。それがよいのか悪いのか、あるいはどういう社会がつぎにやってくるの
かは別にして、今という時代は、そういう視点でみないと理解できない時代であることも事実の
ようだ。

あなたの親子関係を考える一つのヒントとして、この問題を考えてみてほしい。
(はやし浩司 依存性 依存心 甘えの構造 日本人の依存性 依存 だから何とかしてくれ言
葉 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 依存性 日本人の依存性 土居
 甘えの構造 だから何とかしてくれ言葉 何とかしてくれ言葉 なんとかしてくれ言葉 はやし
浩司)




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24
【教職者による性犯罪】

●なぜ、性犯罪はなくならないか?(Sexual Crime by Teachers)

つい数日前、わいせつ行為容疑で、51歳の中学教師が、逮捕された。
その教師は、ニセの卒業旅行通知を親に出し、親を安心させた上、
女子生徒を連れ出し、ホテルに宿泊していたという。

が、それに驚いていたら、今日も、また!
毎日新聞は、つぎのように伝える。

今までは、実名を伏せて記事を書いてきたが、
これからは実名をそのまま、出させてもらう。

+++++++++++++以下、毎日新聞 5月13日++++++++++++++

 スキー合宿の宿泊先で小学6年の女子児童(11)にわいせつな行為をしたとして千葉県警S
K署は12日、千葉県船橋市、NPO法人「さくら子どもスポーツネットワーク」元理事長、宮下桂
治容疑者(72)を強制わいせつ容疑で逮捕した。宮下容疑者は「寝ていた女の子の体を触っ
た」と容疑を認めているといい、同署で余罪を追及している。

 調べでは、宮下容疑者は3月27日午前1時ごろ、NPOのスキー合宿で訪れた長野県上田
市内のホテルで、参加した千葉県内の女子児童の下半身に触るなどした疑い。宮下容疑者は
翌日、理事長を退任。4月上旬、児童の母親が同署に被害届を提出した。

 NPOは子供のためのスポーツクラブとして、順天堂元大学教授の宮下容疑者が中心となっ
て、03年2月に発足し、現在約60人の会員が在籍。運動の楽しさを教える乳幼児向けの教
室や、ツーリングなどの課外活動を実施している。

 NPO側は「被害児童への謝罪は済ませている。コメントを控えたい」とした。

++++++++++++以上、毎日新聞 5月13日+++++++++++++++

この記事の中で、とくに注目すべき点が、2点、ある。
1点は、「余罪」という言葉。
もう1点は、宮下桂治容疑者(72)が、順天堂大学元教授であったという点。

性犯罪者は、脳の中に特殊な受容体が形成されるという。
何らかの刺激が加わると、ドーパミンというホルモンが分泌される。
そのドーパミンが、線条体を刺激する。
結果、「条件付け反応」が起こり、それが猛烈な性衝動を引き起こし、性犯罪へとつながってい
く。

メカニズムは、アルコール依存症の患者や、喫煙者のそれと同じと考えてよい。
つまりアルコール依存症の患者や、喫煙者が、酒やタバコを、簡単には断つことができないの
と同じように、性犯罪者は、性犯罪を繰りかえすという特殊性がある。

今回、宮下桂治容疑者は、11歳の女子児童にわいせつな行為をしたという。
事件の性質上、当然のことながら、余罪があるとみるべき。
「たまたまこの1件だけ」ということは、こうした種類の性犯罪の性質上、ありえない。

さらにつけ加えるなら、宮下桂治容疑者が、順天堂大学の元教授であったということ。
さらに、人格の円熟期も過ぎた、72歳という年齢であったということ。
このことは、つまり線条体で起こる反応は、それほどまでに強力であるということを示す。

「大学の元教授だから……」「72歳の男性だから……」という『ダカラ論』は、こと性犯罪につい
ては、当てはまらない。
先に書いた、性衝動なるものは、理性や知性で、コントロールできるようなものではない……と
いうことになる。

では、どうするか?

2つの方法がある。

1つは、厳罰主義で臨む。
学校の教師によるハレンチ事件についても、たいていは、「すでに社会的制裁を受けている」
などという理由にもならない理由をつけられ、執行猶予になるケースが多い。
(社会的制裁を受けるのは、当然のことではないか。もしこんなバカげた論理がまかりとおるな
ら、失業者の人たちは、どうなのか? 彼らは社会的制裁とやらを、受けているということにな
るのか!)

アメリカのように、18歳未満の子どもに手を出したら、問答無用に、即、2年間程度の、刑務
所送りにする。
あるいは欧米のように、周辺の者にも、報告義務を課し、そうした行為を見聞きしながら、報告
義務を怠った者についても、同罪を適応する。
さらにアメリカのように、性犯罪者については、(先にも書いたように、反復性が強いので)、氏
名と住所を、インターネットで公開するという方法も考えられる。

2つは、システムそのものを、変える。
カナダでは、教師の住所、電話番号などは、いっさい、親や子どもには伝えない。
日本でいう、医療制度に似たシステムが、すでに完成している。
つまり教師は、自分の教室内での行為については、全責任を取るが、生徒が一歩、教室の外
に出たら、すべての責任から解放される。

具体的には、学校の外での、教師と生徒、教師と親との、1対1の接触を禁止する。
ほかにもいろいろ考えられるが、こうしたシステムを少しずつ、積みあげていく。

日本は、この分野では、かなりの後進国と考えてよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 教師による性犯罪 性犯罪 ハ
レンチ行為 ハレンチ事件)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

8年前に書いた原稿を、紹介します。

最近では、学校ごとに、ここに書いたようなクラブ制度を
充実させているところもあります。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●学校神話(School Myth)
Most of the Japanese parents have strong myth toward schools, that children have no 
choice but should go to schools. But is this a common sense of the world? The answer is "
No!".

常識が偏見になるとき 

●たまにはずる休みを……!

「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいてい
の人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。

しかしそれこそ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。
アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもっ
た偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たと
えば……。

●日本の常識は世界の非常識

(1)学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親
が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、
州政府が家庭教師を派遣してくれる。

日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも
九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人を超えた。毎年一五%前後の割合で
ふえ、二〇〇一年度末には二〇〇万人に達するだろうと言われている。それを指導している
のが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は家庭でこそできる」と
いう理念がそこにある。

地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運動は
世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明している(L
IFレポートより)。

(2)おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ
通う。早い子どもは午後一時に、遅い子どもでも三時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単
位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。

そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは
学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が一二〇〇円前後(二〇〇一年
調べ)。こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども一人当たり、二三〇マルク(日
本円で約一四〇〇〇円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職
するまで、最長二七歳まで支払われる。

 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性
に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対
する世間の評価はまだ低い。

ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任をも
たない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら
親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いた
ら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。「そ
ういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話
がかかってきます」と。

(3)進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中
高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で七〇校近くあった。が、私はそれを見て驚い
た。どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。

別紙として、はさんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。この話をオーストラ
リアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そこで私が、では、オ
ーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子
も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子ども
は、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。

なおそのグラマースクールには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同
時にその足で学校へ行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。

●そこはまさに『マトリックス』の世界

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことで
も、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身
の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあ
るべきか。

さらには子育てとは何か、と。その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神
話とはよく言ったもので、「私はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結
局は、学校神話を信仰している。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それは
まさに映画『マトリックス』の世界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世
界だと気づかない。気づかないまま、仮想の価値に振り回されている……。

●解放感は最高!

 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと
動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に
行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育して
いるのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよ
い。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。

※……一週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後
三時まで学校で勉強し、火曜日は午後一時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めるこ
とができる。

●「自由に学ぶ」

 「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」
を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。

 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて
よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。
それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政
治を行うための手段として用いられてきている」と。

 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社
会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を
破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。いわく、「民主主義国家においては、
国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍事
的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。

 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に
は、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率は
むしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくな
い。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所シス
テムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべき
ではないのか」と(以上、要約)。

 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえてい
る。なお二〇〇〇年度に、小中学校での不登校児は、一三万四〇〇〇人を超えた。中学生で
は、三八人に一人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、四〇〇〇人多い。
 




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25
●アスペルガー児

+++++++++++++++++

今日は、曇天。
天気予報によれば、今夜から明日にかけて、天気は下り坂。
明日は、全国的に、雨になりそうだという。

こんな話は、どうでもよい。
私の原稿を読んでくれる人に、申し訳ない。

ところで、無知ほど、恐ろしいものはない。

先日もあるショッピングセンターで、こんな光景を見かけた。
1人の幼児(5歳くらい)が、ソフトクリームを食べていた。

見たところ、その子どもの体重は、10キロ前後である。

そばに、両親と妹がいた。

「どうするのかな?」と思ってみていると、その幼児は、その
ソフトクリームをひとりで食べてしまった!

これには驚いた。

体重で換算すると、私は65キロだから、私が、6・5個分の
ソフトクリームを食べた量に等しい。

6・5個だぞ!

いくら甘党でも、6・5個は、食べられない。
食べたら、食欲どころが、気がヘンになる。

白砂糖が、いかに危険な食物であるかは、今さら、説明するまでもない。
昔から「白い麻薬」という。

これはネズミの実験だが、白砂糖を過剰に摂取すると、
過剰行動性にあわせて、もろもろの情緒障害、さらには脳水腫まで引き起こすことが
わかっている。

そうでなくとも、こういうものを日常的に与えておいて、
「うちの子は、小食です」はない。
「どうして落ち着きがないのでしょう」もない。

そういう意味で、無知ほど、恐ろしいものは、ない。
無知は罪悪である。
子どもの世界では、とくにそうである。

世の親たちよ、もう少し、賢くなろう!


●視線を合わせない?

自閉症児の症状のひとつに、「視線を合わせない」というのがある。
それは知っている。
しかし「視線を合わせないから、自閉症児」ということにはならない。

たとえて言うなら、風邪の症状に、「発熱」がある。
だからといって、「発熱があるから、風邪」ということにはならない。

ところで、ある子ども(4歳男児)が、ある専門機関で、「アスペルガー
(自閉症児)」と診断されたという。
理由をたずねると、「視線を合わせないから」ということらしい。

しかし私が見たところ、(この数年、4〜5例のアスペルガー児の指導を
していることもあり)、アスペルガーではない。

(「アスペルガー」という言葉が、ポピュラーになったのは、2002年以後の
ことである。念のため。)

たぶんその専門機関では、何かの診断基準をもとに、そう診断したのだろう。
しかしそれにしても、????????。

私の世界では、「この子はアスペルガーです」というように診断名をくだすことは、
許されない。
しかし「この子はアスペルガーではないと思います」と言うのは、かまわない。
で、私はその親にこう言った。

「私が見たところ、アスペルガーではないと思います」と。

が、その子どもに問題がないわけではない。
それなりに問題があるから、親は、専門機関(?)に相談した。

私には、その子どもの診断名から、指導法、対処法まで、わかっている。
なぜそういう症状を示すかも、わかっている。
しかしそれを口にすることはできない。
親のほうから相談でもあれば、話は別だが、そうでないかぎり、
こちらから話題にすることもできない。
親だって、私に、そこまでは期待していない。

こういうケースのばあい、だまってその場を、やり過ごすしかない。

「どうぞ、ご勝手に!」とまでは思わないが、それに近いニヒリズムを
もたないと、この世界では、やっていかれない。

ついでにアスペルガーについて書いた記事を、いくつか添付します。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【アスペルガー障害】

++++++++++++++++++++

症状から、明らかに「アスペルガー障害」と
思われる子どもについての相談があった。

++++++++++++++++++++

【はやし浩司より、GN先生へ】

GN先生へ

拝復

 お手紙、ありがとうございました。相談のあった子どもを、以下、T君(男児)としておきます。

 私はドクターではありませんので、子どもを診断することはできませんが、症状からすると、T
君は、アスペルガー障害(アスペルガー症候群)と、活発型自閉症の複合したタイプと考えてよ
いのではないでしょうか。それが基本にあって、不適切な家庭環境と指導で、症状がこじれてし
まっている。私は、そう判断しました。

 以下、アスペルガーついて、いくつかの文献から、資料をあげてみます。


+++++++++++++

●文献より

【臨床心理学・稲富正治・日本文芸社】

 自閉性障害の中でも、言葉や、記憶の発達に遅れがないケースを、「アスペルガー障害」と
呼ぶ。

 対人関係の障害と興味や活動が限定されているという点が、特徴である。

 高機能自閉症とともに、高機能広汎性発達障害に含まれる。

 圧倒的に男児に多く、知能は平均以上であるものの、コミュニケーションがうまく取れなかっ
たり、不器用であるため、孤立しやすくなる。

 計算や文字、地図など限定されたものに対して、異常なほどの関心を示し、その中で独創性
を発揮する人もいる。が、自分が守っている範囲に、他人が侵入してきたり、乱されたりするこ
とに対して、著しく、攻撃的になる。

 原因は、中枢神経の障害であると言われているが、まだ解明されたわけではない。遺伝の要
素も強く、パーソナリティ障害や情緒障害と診断されるケースもあるため、診断には最新の注
意が必要。

 最近では、対人関係のトラブルをどのように解決するかを意識的にトレーニングする、行動
療法などの治療法がある。


【発達心理学・山下富美代・ナツメ社】

 アスペルガー障害は、言語発達に遅れがみられないほか、知能も高い水準を維持していると
いわれる。しかし自閉症と同様に、相互的な対人関係の障害がみられること、ある特定のもの
に対する関心の程度が高すぎることなどが特徴である。

 また自閉症とともに、男の子に多い障害でもあり、医学的な治癒は難しいとされている。

 特徴としては、(1)正常な対人関係をもつことは困難、(2)特定のものに対する、こだわり、
興味の偏(かたよ)りがみられる。(3)言語障害はみられない。


【心理学用語・渋谷昌三・かんき出版】

 ……ウィングは、自閉症には、3つの特徴があると説明している。

(1)社会性の問題

 自分の体験と他人の体験が重なりあわない。(他人がさっと顔色を変え、怒った表情をすれ
ば、自分が悪いことをその人に言ったのではないかと思うが、自閉症の人は、こうした他人の
感情を推し量るのが、非常に苦手。)

(2)コミュニケーションの問題

 言葉の遅れから、双方のコミュニケーションが、うまくとれない。(声の大きさや、イントネーシ
ョンの調整が苦手、自分の意見を言うとき、どのように言うべきかを迷う。)

(3)想像力の遅れ

 1つの対象に、異常なほど興味を示す。特定の儀式にこだわる。

 これらの特徴のうち、コミュニケーションの障害が、非常に軽いものを、「アスペルガー症候
群」と呼ぶ。軽い遅れというのは、冗談が通じにくい、比喩を使った表現が理解しにくいことをい
う。

 すなわち、アスペルガー症候群は、言語発達の遅れが目立たず、知的には正常だが、生ま
れつき社会性の障害と、こだわり行動をもっている自閉症を指す。


【臨床心理学・松原達哉・ナツメ社】

 アスペルガー障害は、乳児期後半から特徴が出始め、6〜7歳に顕著になる。ほとんど男児
のみにみられる障害である。

 言語的な発達には遅滞はないが、言葉は単調で、抑揚がないという特徴がある。言語や容
貌に子どもらしさがなく、コミュニケーションがとれず、集団の中では孤立することが多い。

 特定の対象、数字・文字・地図・貨幣などに興味を示し、独創性もあり、知能は平均以上と推
定される。しかし自己の領域を侵されると、パニックを起こし、攻撃的になる。また、多くの全体
的な知能は正常だが、著しく、不器用であることが多い。

 青年期から成人期へ、症状が持続する傾向が強いが、統合失調症(精神分裂病)の診断基
準は満たさないので、成人後も、精神分裂病にはならないといわれている。

 治療法は、その子どもの特性を理解し、それに合った、治療・教育をすれば、じゅうぶん社会
に適応できるようになる。大切なことは、病態に対する周辺の理解であり、治療においても、社
会福祉的な領域が重要になる。

 ……アスペルガー症状は、自閉症と類似しており、自閉症の軽度の例にもみえるため、それ
ぞれの診断は困難である。

症状の例として、本人のやっていることを中断させると、突然、怒り出すなどがある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 アス
ペルガー アスペルガー障害 アスペルガー症候群 アスペルガー症)

++++++++++++++++ 

●親自身の問題

 こうした事例で、まず注意しなくてはいけないのは、親自身が、すべてを話しているかどうかと
いうことです。つまりほとんどの親は、自分に都合の悪いこと、たとえば不適切な対処法で、子
どもの症状を、かえってこじらせてしまったようなことについては、話しません。

 無意識のうちに、こじらせてしまうというケースもありますが……。

 T君について言えば、乳幼児期から多動性があったということですが、この段階で、母親が、
かなりきびしく叱ったり、怒ったり、あるいは体罰としての暴力を振るったことも、じゅうぶん、考
えられます。

 T君にみられる、一連の不安症状、さらには、基本的な不信関係は、そういうところから発生
したと考えられます。母親からの報告内容にしても、まるで他人ごとのような観察記録といった
感じで、私はそれを読ませてもらったとき、「?」と思いました。あたかも、「うちの子は、生まれ
つきそうで、それは、私の責任ではない」と言わんばかりの内容ですね。

 で、私の経験を話します。

●私の経験より

【U君(小3児)のケース】

 U君を最初に預かったのは、まだ、「アスペルガー症候群」という言葉が、ほとんど知られてい
ないころでした。1990年代の中ごろです。(1944年に、オーストリアの小児科医のアスペル
ガーが、その名前の由来とされていますが、日本でこの名称が使われ始めたのは、90年代に
入ってからです。)

 最初、自閉症かなと思いましたが、知的能力の遅れはなく、言語障害も、みられませんでし
た。が、いくつかのきわだった特徴がみられました。

(1)ほかの子どもと仲間になれない

 そのあと、U君が小学校を卒業するまで、私が週2回指導しましたが、最後の最後まで、結局
は、友だちができませんでした。いつも集団から1歩、退いているといった感じで、軽い回避性
障害もありました。集団の中へ入ると、心身が緊張状態になってしまうからです。

(2)ずば抜けた算数の力

 計算力はもちろん、算数全般について、ずば抜けた能力を示しました。知的能力は、平均児
より高かったのですが、最後まで、乱筆には、悩まされました。文字を書かせても、メチャメチ
ャでした。こうした不器用さは、アスペルガー障害の子どもに、共通しています。こまかい作業
が苦手で、それをさせると、混乱状態から、突然、キレた状態になることもあります。

(3)極端な自己閉鎖性

 U君のばあいは、まちがいを指摘しただけで、突然、キレて、激怒することもありました。(軽
いばあいは、顔をひきつらせて、大粒の涙だけを流す、など。)たとえば計算問題などで、まち
がいを見つけ、「やりなおしなさい」と指示しただけで、キレてしまう、など。

(キレないときもありましたが、あとでノートを見ると、エンピツで、きわめて乱暴に、それを塗り
つぶしてあったりしました。)

 こうした特徴を総合すると、U君には、心の持続的な緊張感、特別なものへのこだわり、自己
閉鎖性があったことになります。

 幸いなことに、U君のケースでは、母親が、たいへん穏やかで、心のやさしい人でした。です
からそれ以上、心がゆがむということは、U君のばあいは、ありませんでした。私は、当時は、
「U君は、ほかの子どもとはちがう」と判断し、U君はU君として、指導しました。

●治療は考えない

 こういうケースで重要なのは、アスペルガー症候群にかぎらず、子どもの心の問題に関する
ことは、「治そう」とか、「直そう」と思わないことです。

 「あるがままを認め」、「現在の状態を、今より悪くしないことだけを考えながら」、「半年、ある
いは1年単位で、様子をみる」です。

 で、相談をいただきましたT君にケースですが、全体に、周囲の人たちが、「治そう」とか、「直
そう」とか、そういう視点でしかT君をみていないのが、気になります。「少しよくなれば、すぐ無
理をする」。その結果、症状を再発させたり、悪化させたりしている。あとは、その繰りかえし。
そんな感じがします。

 U君のケースのほか、兄と弟でアスペルガー障害のケースなど、「アスペルガー」という言葉
がポピュラーになってから、(2000年以後ですが……)、私は、4例ほど、子どもを指導してき
ました。

 (最近は、体力の限界を感ずることが多く、指導を断るケースが、多くなりました。)

 その結果ですが、アスペルガー障害そのものの(治癒)は、たいへんむずかしいということで
す。そのかわり、小学3、4年生ごろから、自己意識が急速に育ってきますから、それを利用
し、子ども自らに自己管理させることで、見た目には、症状を落ち着かせるということはできま
す。

 子ども自身が、自分で自分を管理できるように、指導していくわけです。

 しかしこれも、1年単位の根気と、努力が必要です。とくに指導する側は、その生意気な態度
のため、カッとなることもあります。たとえばU君のばあいでも、私がまちがいを指摘しただけ
で、私に向かってものを投げつけてきたことがあります。あるいは、ぞんざいな態度で、「ウル
セー」と、言い返してきたこともあります。

 そういうとき、ふと、その子どもが、アスペルガー障害であることを忘れ、「何だ、その態度
は!」と叱ってしまうこともありました。「根気が必要だ」というのは、そういう意味です。

 先生からいただいた報告の中に、担任の教師が、かなり乱暴な指導をしたという記録が書い
てありますが、それもその一例と考えてよいのではないでしょうか。記録だけを読むと、担任の
教師が悪いように思われますが、このタイプの子どもの指導のむずかしさは、ここにあります。

子どもがキレた状態になったとき、きわめて生意気な様子をしてみせるからです。ふつうの態
度ではありません。おとなを、なめ切ったような態度です。

●親側の問題

 で、先にも書きましたが、現在、T君と母親の関係についても、考えなければなりません。親と
いうのは、こういうケースでは、自分に都合の悪いことは、話しません。そういう母親がよく使う
言葉が、先にも書きましたが、「生まれつき」という言葉です。

 「うちの子は、生まれつき、こうです」と。

 子どもの症状を悪化させながら、その意識も、自覚もない。もっとも、だからといって、親を責
めてもいけません。親は親で、そのときどきにおいて、懸命に子育てをしているからです。懸命
にしている中で、客観的に自分を見る目を失ってしまう。よい例が、不登校児です。

 子どもが「学校へ行きたくない」などとでも言おうなら、その時点で、たいていの親はパニック
状態になり、子どもを、はげしく叱ったり、暴力的に学校へ行かせようとします。この無理が、症
状を悪化させてしまいます。

 たった一度の一撃でも、子どもの心が大きくゆがむということは、珍しくありません。

 で、その時点で、親が冷静になり、「そうね。どうして行きたくないのかな? 気分が悪けれ
ば、無理をしなくていいのよ」と親が言ってやれば、不登校は不登校でも、それほど長期化しな
くてすんだかもしれません。そういうケースも、私は、やはり何十例と経験してきました。

●年単位の観察を

 先生からいただいた報告書を読むかぎり、親も、担任の教師も、みな、少しせっかちすぎる
のではないかと思います。先にも書きましたが、この問題だけは、1年単位、2年単位で、症状
の推移をみていかなければなりません。

 「先月より今月はよくなった」ということは、本来、ありえないのです。ですから週単位、月単位
の変化を記録しても、意味はありません。またそうした変化に一喜一憂したところで、これまた
意味がありません。もう少し、長いスパンで、ものを考える必要があります。

 簡単に言えば、現在のT君を、あるがままに認め、そういう子どもであるということに納得し、
(もっとわかりやすく言えば、あきらめて)、対処するしかありません。T君は、給食におおきなわ
だかまりをもっているようですが、そういう子どもと、先に認めてしまうのです。

 それを何とか、食べさせようと、みなが無理をする。それが症状をして、一進一退の状態にし
てしまう。あるいはときに、もとの木阿弥にしてしまう。

 ……といっても、年齢的に、小4ということですから、症状は、すでにこじれにこじれてしまって
いると考えられます。本来なら、乳幼児期にそれに気づき、その時点で、親がそれに納得し、
指導を開始するのが望ましいのですが、報告書を読むかぎり、そういった記録がありません。

 ご指摘のように、T君の親は、学校側の指導法ばかりを問題にしているようですね。しかし、
これでは、いけない。本来なら、専門のドクターに、しっかりとした診断名をくだしてもらい、そう
であると親自身が納得しなければなりません。

 で、指導する側の私たちとしては、「知って、知らぬフリ」をして指導するわけです。私が指導
してきた子どもたちにしても、現在、指導している子どもたちにしても、私は、「知らぬフリ」をし
て、指導してきました。今もそうしています。もちろん私のほうから、診断名をくだすということ
は、絶対に、ありえません。またしてはなりません。

 が、親のほうから、たとえば「アスペルガー」という言葉が出てきたときは、話は別です。その
ときはそのときで、「アスペルガー」という言葉を前面に出し、指導します。しかしそれまでは、
知らぬフリ、です。

 ただ「そうでない」という判断はくだすことがあります。自閉症の子どもではないかと心配して
きた親に対して、「自閉症ではないと思います」というように、です。そういうことは、しばしばあり
ます。

●親の無知

 で、やはり、ここは親に、それをわかってもらうという方法をとるしかありません。しかしこれ
も、むずかしいですね。

 最近でも、明らかにADHD児の子ども(小5)がいました。で、それとなく親に聞いてみたので
すが、親は、まったく自分の子どもがそうであることさえ疑っていないのを知り、がく然としたこと
があります。「うちの子は、活発な面はあるが、ふつうだ」と。

 つまり親の無知、無理解をどう克服するかという問題も、生まれてきます。アスペルガー障害
であれば、なおさらでしょう。幼児教育の世界でも、この言葉がポピュラーになったのは、ここ
5、6年のことですから……。

 以上、私の独断で、T君を判断してしまいましたが、まちがっていることもじゅうぶん、考えら
れます。一番よいのは、私自身が、T君を直接観察してみることです。また機会があれば、そっ
と遠くから観察してみてもよいです。ご一考ください。

 あまりよい返事になっていませんが、さらに最近の研究では、環境ホルモンによる脳の微細
障害説を唱える学者もいます。アスペルガー障害にかぎらず、このところ、どこか「?」な子ども
がふえているのは、そのためだ、と。

 あくまでも、参考的意見として、お読みいただければうれしいです。

 では、今日は、これで失礼します。

 長々とすみませでした。相談いただいたことをたいへん光栄に思い、感謝しています。ありが
とうございました。

敬具


                                はやし浩司

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 アス
ペルガー アスペルガー障害 アスペルガー症候群 アスペルガーの子ども)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●アスペルガー障害

【YKさんからのメールより】アスペルガー児について(補足)

++++++++++++++++++

アスペルガー児をおもちのNさんより、
YKさんに、意見が届いています。

あくまでも参考、ということで、ここに
掲載させていただきます。

もしASの心配があるなら、専門の診療
機関で、専門医による診断を受けてください。

++++++++++++++++++

【Nさんより、はやし浩司へ】

こんにちは。

私はこのYKさんの記事を読んで、ちょっとこのお子さんは発達障害の可能性があるのではな
いかなと思いました。

もちろん確信はなく、発達障害の子どもを育てたことがある方だと、「ちょっと可能性があるか
な」と思うくらいの程度でしかわかりません。2歳という年齢ですから、まだ判断するのは難しい
のです。

でもよくアスペルガー症候群や、高機能自閉症の親のサイトでは、「外で癇癪が始まると激しく
騒いで、周りから白い目で見られたり親の躾(しつけ)がなっていないと怒鳴られた」というよう
な記事が出ていたりします。

発達障害を診断する医師は、このような、赤ちゃんから今までの様子なしでは診断できないと
言われているくらい、発達過程での様子は大事なのです。

うちの息子も1歳くらいから、暑さ、寒さ、不快さ、などの理由で大泣きし寝転がって両手両足を
激しく動かして抱く事もできないような癇癪から始まり、2歳くらいでは、YKさんのような理由で
の激しい癇癪が多かったです。電車の中でも、自分が思った通りでない事が起こると癇癪にな
ったりしました。その当時はASなどの知識はなかったので、失敗したなと思います。以下は私
の感想です。

【YKさんからのメールより】生後2週間の頃から、15時間連続で起きていたこともあるほど、ま
とめて寝ない子で、起きている時間は抱っこして歩きまわらないと、グズってばかりの娘でし
た。

家の子の場合も、寝かせるのが本当に大変でした。眠いし、寝たいのに無理に目を開けてい
るのです。放っておくと午前1時でも寝ません。しかし、これはBed time storyの定着でかなり解
消されました。Ritualが好きで、それを一通り済ませる事で安心して寝られたようです。

【YKさんからのメールより】2歳になってから、とにかく何でも自分でしないと気が済みません。
着替えも、ちょっと手を出すと気が狂ったように泣き叫んで、怒って服が破れそうなほど引っ張
って全部脱いでしまいます。

これは私は、OCとかOCDと言われるものが強い、つまりこだわりが強いからだと思います。
誰でも多少は持っています。しかし病的に近いものであると、手を洗うのがやめられない、この
通りの順番でないと駄目、と社会生活に支障をきたしてきます。

OCである子どもの性格を変える事は出来ませんが、緩和する事は出来ます。それはその習
慣の連続性をたまに断ち切るのです。無理強いではなく、あくまで偶然という感じでです。

例えば石鹸を使わないと手を洗った気がせず、いつも石鹸で長い時間洗い続けている場合、
石鹸を求めてきたらそこにあればあげてもいいのですが、たまには石鹸を隠しておいて、「そう
いえば買い忘れたからないわ。今度買っておくね、今日は水だけで洗おうね」という感じでで
す。

一度か2度習慣を断ち切るうちに、その習慣性から抜け出す事が訓練されるようになります。
無理強いは駄目ですが、あくまでさりげなくです。服に関しては自分で着るのは良い事で、やら
せておいてもいいように思います。急いでいても親があせって着せてあげる必要はないかもし
れません。

いつも私は自分に言い聞かせているのは「5分待ってあげたら癇癪にならなかった。5分待て
なかったから癇癪になって半日潰れた。焦ったら駄目」という言葉です。

【YKさんからのメールより】三輪車も、何としても自分で運転する!っていう気迫で、購入して1
週間で自分でこげるようになり、私が後ろの押し手を押すと、「イヤ!」と言って横断歩道の真
ん中でも足を踏ん張って動かなくなってしまいます。

多分、この子はお母さんが後ろを押すのが嫌なのではなくて、断りもなしに押されるのが嫌な
のだと思います。発達障害の子は、次に何が来るのか状況から判断するのが非常に苦手な
ので、突然その出来事が降りかかったように思って驚いてしまうのです。だからお母さんが一
言、「押してあげようか?」と聞いたり、他の子を押している場面とか楽しい場面を見せて「こう
やって欲しい?」と聞いてあげれば、やりたいと言ったかもしれません。

【YKさんからのメールより】公園などでは順番や物の貸し借りのルールをすごく理解していま
す。なので順番を守れない子がいたり、自分はおもちゃを「どうぞ」と貸してあげられたのに、相
手が貸してくれないようなことが何度も重なると、手がつけられないほど暴れて30分以上泣き
止んでくれなくなります。

社会規範、学校校則など、決まりごとはきちんと守るべきと捉え、その枠から少しも外れる事
ができないのは息子も同じです。言葉を文字通りにしか受け取れないからです。

学校で「教室で私語をしてはいけません」と先生が言ったら、休み時間でも私語をしません。人
とのルールも決まった通りにのみ動くと思っていて、そうでない人を軽蔑しています。しかし人
間ですから、そうでない場合もあり、プレイセラピーなどを通して学んでいくのが課題です。

【YKさんからのメールより】お片づけして今日は「バイバイ」しようと言った後、気が狂ったように
泣き出しました。

さっきのと重複しますが、これも突然だったからではないでしょうか。「これこれしたらバイバイ
するけどいいかな?」と聞いて、本人が納得してからバイバイさせるとなんともなくバイバイした
りします。出かける時も、例えば家族で食事の時、今日は映画見に行こうか、なんて話していて
も、本人に「今日は何時に何の映画見に行くけどいいかな?」と確認を取っておかないと、出か
ける時に「言われてない」と癇癪になったりしました。何でも疑問形で聞くので母とかは「子ども
の顔色伺ってる」と批判してきました。

【YKさんからのメールより】ここまで激しいと私まで泣きたくなります。

私もその気持ち、とてもよくわかります。何度も泣きました。

【YKさんからのメールより】相手が泣いていたりすると自分が悪いと思ってしまい、何度も何度
もそういうことが重なると爆発するみたいです。

人間関係の相手の感情とか全く読めないので、目に見えるもの、涙とか怒った言葉の口調な
どで自分が責められたと思う場合が多いみたいです。また聴覚過敏だと、声のトーンが上がっ
ただけで平手ビンタをくらって気持ちになるそうです。

【YKさんからのメールより】こんなに激しく泣き続けても、泣き止んだら何事もなかったように、
いつもの太陽みたいな笑顔を見せてくれます。

そうです。まるでスイッチがオンになったり、オフになったりしたみたいです。

普通、気分悪かった事、恨みに思ったり、嫌な感情は、その事が過ぎてもなかなか忘れませ
ん。忘れないからこそ、学習したり、次から気をつけたり、同じ事を同じ人にしないようにしま
す。でも発達障害の子の癇癪の場合、その間の記憶があまりはっきり残っていなかったりする
事もあります。

そして癇癪発作が治まると、まるで何事もなかったように、スイッチがオフになったように普通
の子に戻ります。もう少し年齢が進むと、フラッシュバックで再度癇癪発作にならなければ、そ
の理由を話させたり、聞き出す事も出来るようになります。

大切なのは学び続ける事だと思います。

自分の子どもがこういう個性を持って生まれてきて、さて、どうやったら社会で生きていかれる
のか、レッテルを貼る事が必ずしもいいとも限りません。でも親だけはその子の特性を十分理
解してあげて、それに沿った援助をしてあげて欲しいと思います。

【はやし浩司よりNさんへ】

 現在(07年2月)、私も、2人のアスペルガー児を、指導させていただいています。ともに症状
は軽いほうですが、診断基準通りの症状を示しています。

(1)他人と良好な人間関係が結べない。
(2)不器用。(文字、数字が、乱雑すぎて、読めないなど。)
(3)ともに、数の分野で、特異な才能を見せている。
(4)まちがいを指摘されると、パニック状態になる。
(5)キレた状態になると、突発的にかんしゃく発作的な症状を示す、など。

 しかし私の今までの経験では、小学3、4年生ごろになると、症状が急速に収まってきます。
ときに自己意識(=自分を客観的に判断して、自分で自分をコントロールする力)が育ってくる
と、見た目には、わからなくなります。

 私のように幼児期からその子どもを見ている者にはわかりますが、たとえば小学校の先生な
どには、判断できないのではないかと思います。実際、学校の先生に、いつも「字が汚い」と、
叱られている子ども(小学高学年児)もいます。(叱ったところで、どうにかなる問題ではないの
ですが……。)

 もちろん、親の前で、「アスペルガー」という診断名を口にすることは、タブー中のタブーです。
しかしその子どもから、ときどき、そういうケアセンター(名称は、いろいろです)で、指導を受け
ているという話を聞き、そのように診断されているということを、私は知ります。

 (親のほうから、診断名を言うということは、めったにありませんので……。私のばあいは、知
っていても、知らぬフリをして、指導しています。)

 発達障害児の問題は、その子ども自身に問題があるというよりは、親自身にその知識と理
解がなく、強引な指導などにより、症状をこじらせてしまうところにあります。ADHD児について
も、同じです。

 早期に、それと知り、適切な指導で、症状をこじらせないことこそ、重要です。あとは、ここに
も書きましたように、(時)を待ちます。根気のいる作業ですが、終わってみると、「何だ、こんな
ことだったのか」という状態になります。

 ただ小学3、4年生になったから、症状が消えるということではありません。中学生、高校生
になっても、症状は残ります。(ADHD児も同じです。)が、「注意してみれば、わかる」といった
程度まで、症状は、わかりにくくなります。またそうなるよう、指導をつづけます。

 現在指導している、A君(小学高学年児)にしても、そういう子どもであるという前提で、指導し
ています。いろいろ問題点はありますが、A君自身でもどうにもならないことだとあきらめ、私の
ほうが、先に手を引くようにしています。たとえばまちがいを指摘しない、字が乱暴なのを責め
ないなど。

 こまごまと、追いつめないのが、指導のコツです。

 ともかくも、私は、実のところ、乳幼児期(0〜3、4歳児)については、ほとんどといってよいほ
ど、知識も、また指導の経験もありません。貴重なご意見、たいへんありがとうございました。

++++++++++++++++

YKさんからの相談(掲示板への
書き込み)を、再度、ここに転載
させていただきます。

++++++++++++++++

【YKさんより、はやし浩司へ】

生後2週間の頃から、15時間連続で起きていたこともあるほど、まとめて寝ない子(寝
る環境作りはいろいろと工夫しましたが無理でした)で、起きている時間は抱っこして歩
きまわらないと、グズってばかりの娘でした。

寝る子は育つと言うのに、こんなに寝なくて大丈夫なものかと病院に行ったほどでしたが、
至って健康で、人なつっこく男の子顔負けのやんちゃ娘に成長していきました。

好奇心旺盛で、喜怒哀楽がとてもハッキリしていて(嬉しいと興奮しすぎるほど喜ぶし、
怒ると手がつけられないほど泣き暴れます)、活発なので、やんちゃすぎて手はかかります
が、幼い頃おとなしかった私にしてみたら、すごく張り合いがあって自慢の娘です。

でもやっぱり神経質というか、頑固すぎるところがあり、2歳になってどう扱ったらいい
か分からなくなることが増えました。魔の2歳児というほど、2歳は周りの子もみんな反
抗期+何でも自分で!、という時期なので、ある程度は仕方ないと腹をくくって毎日気長
に接していました。

赤ちゃんの頃から手がかかる子だったので、今でも私にベッタリなこともあり、スキンシ
ップはたっぷり取れているつもりでいるのですが・・・。はやしさんのエッセイで、「わが
まま」と「頑固」の違いなどについて書かれていたを読んで、うちの娘は頑固すぎるのか
なぁと思い、相談させていただこうと思いました。

2歳になってから、とにかく何でも自分でしないと気が済みません。着替えも、ちょっと
手を出すと気が狂ったように泣き叫んで、怒って服が破れそうなほど引っ張って全部脱い
でしまいます。

もともと好奇心旺盛な子なので、1歳のころから自分でできることなら、何分でもつき合
ってあげて、危険なことでない限り何にでも挑戦させてあげてきました。でもまだ2歳だ
からどうがんばっても無理なこともいっぱいあります・・・。

三輪車も、何としても自分で運転する!っていう気迫で、購入して1週間で自分でこげる
ようになり、私が後ろの押し手を押すと、「イヤ!」と言って横断歩道の真ん中でも足を踏
ん張って動かなくなってしまいます。

また、夫に似て、正義感が強く変に真面目なところがあり、公園などでは順番や物の貸し
借りのルールをすごく理解しています。なので順番を守れない子がいたり、自分はおもち
ゃを「どうぞ」と貸してあげられたのに、相手が貸してくれないようなことが何度も重な
ると、手がつけられないほど暴れて30分以上泣き止んでくれなくなります。

以上に書いたようなことは、2歳児ならみんなあることだとは思うのですが、かんしゃく
を起こしたときの激しさが、ほんとにすごいんです。

今日はおもちゃの貸し借りがうまくできないことが続いて(相手の子が何が何でも自分の
おもちゃは貸さない!と言って、すぐ泣く子でした)、お友だちも娘もお昼寝の時間になり眠
たそうで機嫌が悪かったので、お片づけして今日は「バイバイ」しようと言った後、気が
狂ったように泣き出しました。

「バイバイ嫌!!」と言って、すごい勢いで走り出して、道路に何度も飛びだそうとする
から、阻止して、落ち着かせようと抱きしめてあげたら余計に泣き叫びました。すごく激
しく暴れるので何度も道路や壁に頭を打って大変でした。

パニックになると「ぎゃーー!!」と泣き叫びながら私から離れて、走って行ってしまい
ます。室内など、少々走り回っても大丈夫な場所なら、ある程度落ち着くまで暴れさせて
あげて、落ち着き始めた頃にギューっと抱きしめてあげると少しずつ私に寄り添ってくれ
て、笑顔を見せてくれるます。

が、走り回れない野外だと、私が触れるたびにさらに火がついたように泣き叫んで、いつ
までたっても落ち着いてくれず、親子ともどもどろんこになりながら、1時間近く格闘し
なきゃいけないことになります。あまりに激しいので、街行く人たちも白い目で見るとい
うのを通り越して、どこか病気?にでもなったのかというぐらい怖い物を見るように心配
されたりします。

1歳代の頃から、気に入らないことがあるとしょっちゅう道路に寝転がってダダをこねる
子だったので、それぐらいのことで人目が気になったりはしないのですが、ここまで激し
いと私まで泣きたくなります。

「どうぞ」ができたことをいくら誉めてあげても、相手が泣いていたりすると自分が悪い
と思ってしまい、何度も何度もそういうことが重なると爆発するみたいです。気は強いの
で、自分が今遊びたいものを我慢して貸してあげたりすることはなく、今遊んでないもの
をきっちり選んで貸してあげます。なので我慢が爆発するという感じでもないです。

こんなに激しく泣き続けても、泣き止んだら何事もなかったように、いつもの太陽みたい
な笑顔を見せてくれます。私にギューっと抱きついて、「お母さん、大好き〜」と言ってく
れます。「イヤイヤ!」は思いっきり発散させた子の方が後々いい子になるって聞くので、
反抗期が激しいのはいいことなのかもしれませんが、こんな娘の性格を伸び伸びと伸ばし
てあげるにはどう接していけばいいのでしょうか?

うまく文章に表せたか分かりませんが、アドバイスいただけたらとても嬉しいです。よろ
しくお願いします。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 アス
ペルガー 発達障害)




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26

●子どものひとり言

●言葉を反復する子ども(子どものひとり言)

+++++++++++++++

こちらの言ったことが、即座には
理解できず、いちいちそれを反復
する子どもがいる。

たとえば、

「りんごが3個ありました。
また4個、買ってきました。
あわせていくつですか?」と
質問すると、

「りんごが3個……。また4個
……」と。

そしてこちらの言った言葉を、あたかも
頭の中で反芻(はんすう)するかの
ように、少し考えた様子を見せた
あと、
「……3足す4で、7だあ」と
言ったりする。

様子を観察してみると、言葉そのものが、
即座には、大脳で処理されていかない
といったふう。

算数の問題にかぎらない。

何かの指示を与えても、同じように
反復する。

私「机の上の分度器を片づけて、
それを箱に入れてください」
子「分度器……、箱……」と。

高学年になるからといって、症状が
消えるわけではない。

私「1・5分というのは、何分と何秒の
ことかな」
子「1・5分……だからあ、ええと、……」と。

脳のどの部分に、どのような問題(失礼!)
があるのかは、私にはわからない。
しかし(音声で得た情報を処理する段階)で、
何か問題があるということは、推察される。

そのため、学習能力に影響が出る。
全体に反応が鈍く、その分だけ、時間が
かかる。

似たような症状に、何でも、ものごとを
音声化する子どもがいる。

それについては、以前に書いた原稿が
あるので、そのまま、紹介する。

++++++++++++++++++

●子どものひとり言(内言)

 「5歳の子ども(女児)のひとり言が多いです。意味のないひとり言です。どうしたらいいです
か」(滋賀県・Rさん)という相談をもらった。

 子ども(乳幼児)が発する言葉は、大きく、つぎの2つに分けて考える。

(1)自分の思考をまとめるために使う言葉。これを内言(ないげん)という。
(2)他人に、自分の考えや意思を表示するための言葉。これを外言(がいげん)という。

 たとえばクレヨンが、机の下に落ちたとき、「アッ、クレヨンが落ちた。ぼく、拾うよ」というの
が、内言。先生や、親に向かって、「落ちたから、拾って」と言うのが、外言ということになる。

 こうした内言は、おとなのばあいは、口に出さないで使うが、幼児のばあい、ある時期、それ
を音声として、口に出して言うことがある。一般的には4歳くらいがピークで、5、6歳で内言は、
無声化すると言われている。

 が、子どもによっては、内言の音声化が、その時期を過ぎても残ることがある。

 そこで5歳前後になってからも、無意味なひとり言が多いようであれば、「口を閉じて考えよう
ね」と、指導する。

 この音声化が残ると、子どものものの考え方に影響を与えることがある。子ども自身がその
言葉に左右されてしまい、瞬間的で、機敏な考え方ができなくなる。どこかまだるっこい、のん
びりとした、ものの考え方をするようになる。

 もしRさんの子どもが、つぎのような話し方をしていたら、「口を閉じて、考えようね」と、指導し
てみてほしい。

 「これからお食事。それが終わったら、私、これからお外に行こう」(行動の内言)
 「どちらの花がきれいかな。白かな、赤かな……?」(迷いの内言)
 「お花を、○○さんに、もっていくと、どうなるかな。喜ぶかな」(思考の内言)
 「風が吹いた……カーテンが揺れた……お日様が光っている……」(描写の内言)

 ピアジェは、こうした内言のうち、集団内で使うものを、「集団内独語」と呼んでいる。他人の
反応を気にしていないという点で、自己中心的なものととらえている。

 しかし実際には、言葉の発達の時期に、よく見られる現象で、内言イコール、自己中心性の
表れとは、私は思わない。

 Rさんの子どもは4歳ということだから、そろそろ、「口を閉じて考えようね」と指導すべきころ
かもしれない。この時期を過ぎて、クセとして定着すると、ここにも書いたように、思考力そのも
のが、影響を受けることがある。

 ほかにひとり言としては、つぎのようなものがある。

(1)自閉傾向のあるひとり言……こちらからの話しかけには、まったく応じない。1人2役、3役
のひとり言を言うこともある。

(2)ADHD児のひとり言……騒々しく、おさえがきかない。ひとり言というより、勝手に、かつ一
方的に、こちらに話しかけてくるといったふう。

(3)内閉児、萎縮児のひとり言……元気なく、ボソボソと、自分に話しかけるように言う。グズ
グズ言うこともある。

(はやし浩司 子どもの独り言、ひとり言 外言 内言 子供の独り言 子供 独り言 集団内
独語 ピアジェ ピアジエ はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子
育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 反復 反復
児)

++++++++++++++++++

言葉を反復する子どもは、内言という
幼児期のクセが、そのまま残ったとも
考えられる。

相手の言ったことを反復しながら、
自分の考えを、まとめようとする。

しかしさらによく観察してみると、
ひとり言をやめさせてしまうと、問題の
意味そのものが、理解できなくなって
しまう。

私「りんごが5個あって、2個食べました。
残りは、いくつかな?」
子「りんごがア……」
私「口を閉じて考えようね」
子「……? 5個でしょ……?」
私「口を閉じて、考えようね」
子「……? ……?」と。

全体としてみると、10人に1人前後の
割合で、見られる。
年齢には関係なく、小学生でも、中学生でも、
ほぼ同じ割合で、見られる。

で、指導法ということになるが、脳の
機能そのものに問題があるように推察される
ため、注意したり、叱ったりしても意味はない。
またそれで(なおる)という問題ではないように思う。

その子どもは、そういう子どもであると
認めた上で、つまりそういう前提で、指導
する。
軽く注意はしても、あとは子どものリズム
に任せるしかない。

その言葉が適切であるかどうかは知らないが、
私は、このタイプの子どもを、「反復児」
と呼んでいる。

同じような内容だが、以前書いた
記録を、そのまま掲載する。

++++++++++++++++++

●言葉を反復する子ども 

++++++++++++++

いちいちこちらの言った言葉を
反復する子どもがいる。

反復しないと、こちらの言った
ことが、理解できないといった
ふう。

原因は、脳の中で、情報の伝達が
適切になされないためではないか。

教えていると、そんな印象をもつ。

++++++++++++++

 そのつど、こちらの言った言葉を、いちいち言葉を反復する子どもがいる。年齢を問わない。
たとえば先生との間では、こんな会話をする。

私「うさぎさんが、6匹いました。そこで……」
子「うさぎさんが、6匹?」
私「そうだよ、6匹だよ」
子「6匹、ね」
私「そこで、みんなに、帽子を1個ずつあげることにしました」

子「みんなに……?」「帽子……?」
私「そうだよ。みんなに、帽子だよ」
子「何個ずつあげるの?」
私「1個ずつだよ」
子「1個ずつ?」と。

 もう少し年齢が大きくなると、言葉の混乱が起きることがある。

私「1リットルのガソリンで、10キロ走る車があります」
子「何んだったけ? 10リットルで、1キロ?」
私「そうじゃなくて、1リットルのガソリンで、10キロ走る車だよ」
子「1リットルの車で、10キロ走る、ガソリン?」
私「そうじゃなくて、1リットルで……」と。

 このタイプの子どもは、少なくない。私の経験では、10人中、1人前後、みられる。特徴として
は、つぎのような点が観察される。

(1)こちらの言ったことがすぐ言葉として、理解できない。
(2)そのためこちらの言ったことを、そのつど、オウム返しに反復する。
(3)こちらの言った言葉に、すぐ反応することができない。
(4)全体に、軽度もしくは、かなりの学習遅進性が見られることが多い、など。

 私の印象としては、音声として入った情報を、そのまま理解することができず、それを理解す
るため、もう一度、自分の言葉として反復しているかのように見える。あるいは音声として入っ
た情報が、脳の中の適切な部分で、適切に処理できず、そのままどこかへ消えてしまうかのよ
うに見えることもある。脳の中における情報の伝達に問題があるためと考えられる。

 このタイプの子どもは、もちろん叱ったり、注意したりして指導しても、意味がない。またその
症状は、幼児期からみられ、中学生になっても残ることが多い。脳の機能的な問題がからんで
いると考えるのが正しい。

 ほかに、こんな会話をしたこともある。相手は、小2の子どもである。

私「帰るとき、スリッパを並べておいてね」
子「帰るとき?」
私「そうだよ。帰るときだよ」
子「スリッパをどうするの?」
私「スリッパを並べるんだよ」
子「スリッパを並べるの?」
私「そうだよ」
子「帰るとき、スリッパを並べるんだね、わかった」と。

 このタイプの子どもは、今のところ、そういうタイプの子どもであると認めた上で、根気よく指
導するしかほかに、方法がないように思われる。

(はやし浩司 言葉を反復する子ども 言葉を反復する子供 言葉がすぐ理解できない子ども
 言葉の反復、反復児 内言 幼児の独り言 ひとり言 言葉を反復 はやし浩司)




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