書庫128540
はやし浩司
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●嫉妬(ねたみ)

 今日、ワイフと、嫉妬(ねたみ)について、話しあった。「嫉妬深い人ほど、それだけ心がせま
いということかもね」と、私が話したのがきっかけだった。

 「私」があれば、他人のことなど、気にならないはず。「私」がないから、人をねたんだり、うら
やましがったりする。

 そうして考えてみると、嫉妬する人というのは、その「私」が、ない人ということになる。こんな
事例がある。少しこみいった話だが、こうだ。

+++++++++++++++++

 A氏(60歳)は、かなりの財産家。郊外にだが、数十件の借家をもっている。そのA氏には、
二人の息子がいる。X氏(38歳)と、Y氏(35歳)である。その長男X氏の妻が、Bさん(35
歳)。

 A氏(義父)とBさん(嫁)は、それなりに仲がよかった。が、昨年、異変が起きた。

 一生、独身のままで、結婚しないだろうと思っていた、弟のY氏が、突然、結婚。そのままY氏
夫婦は、A氏と同居することになった。それまでA氏と、X氏、Y氏は、それぞれ別々のところに
住んでいた。

 Bさんは、Y氏が結婚したその日から、A氏の家に寄りつかなくなってしまった。理由は言わな
いが、A氏は、こう言う。

 「私が、Yの嫁ばかりをかわいがるから、やきもちを焼いているのでしょう」「孫(年長児)にも
会いたいが、Bが、会わせてくれない」と。

 しかし内情は、もう少し複雑のようだ。

 X氏とBさんは、見あい結婚。ハキのないX氏とBさんを、父親のAさんが、どこか無理に結婚
させたようなところがあった。そのBさんが、X氏と結婚したのは、X氏の財産が魅力的だった
からである。最初はそうではなかったのかもしれないが、いろいろあって、やがてBさんは、X氏
の財産をアテにするようになった。

 A氏は、折につけ、Bさんに、高額なものを買い与えた。外車も買い与えたことがあるというか
ら、ハンパではない。

 そういうとき、Y氏が結婚した。Y氏の妻は、Bさんにとって、強力なライバルということになる。
しかもY氏の妻は、あろうことか、Bさんをさておいて、実家にあがりこんだ。とたん、Bさんは、
嫉妬。「長男である、私の夫のほうこそ、実家に入るべきだ」と騒いだ。

+++++++++++++++++++

 この事例は、この先、こじれるかもしれない。親子でも、財産問題がからむと、こじれる。そこ
に嫁がからむと、さらにこじれる。こういう例は、多い。

 まずBさん(X氏の妻)の立場で、考えてみよう。

 Bさんは、X氏と結婚したときは、それなりに夢や希望があったのかもしれない。しかしやが
て、X氏(夫)との結婚生活に、幻滅するようになった。「こんなはずではなかった」と思うように
なった。

 一時は、離婚まで考えたが、そのとき、すでに、子どもは1歳になっていた。

 が、この時点で、祖父母(A氏夫婦)が、その孫を溺愛するようになった。季節の祝いごとが
あると、A氏は、それをハデに祝った。

 そしてBさんが、「幼稚園の送迎用の車がない」とこぼすと、A氏は、外車を買い与えた。「外
車のほうが、事故を起こしても、安全だから」と。

 そのころから、Bさんは、子ども(A氏の孫)を利用して、A氏の財産を、操作するようになっ
た。「子ども部屋がない」と言って、家の改築費を、A氏に出させたこともある。

 そんなとき、予想に反して、夫の弟(Y氏)が結婚した。電撃的な結婚だった。そしてそのま
ま、A氏とY氏夫婦は、A氏の家で、同居することになった。

 Bさんにしてみれば、ゆくゆくは、A氏の財産は、すべて、自分のものになると思っていた。
が、ここで思惑が、大きく、はずれた。

 Bさんは、Y氏の妻に、はげしく嫉妬するようになった。Y氏の妻が、新しい服を買うたびに、そ
れをねたましく思った。

+++++++++++++++++++

 嫉妬心というのは、状況に応じて、心の奥底から、顔を出すもの。ふだんは、心の奥底に隠
れていて、外からは見えない。

 このことは、赤ちゃんがえりと言われる、子どもの症状を見ていると、わかる。それまではそう
でなかった子どもが、下の子どもが生まれたことなどをきっかけに、赤ちゃんがえりを起こすよ
うになる。

 このとき、その赤ちゃんがえりという症状は、どこから来るのか? それとも新しく生まれる感
情なのか?

 実は、こうした嫉妬心は、人間が、広く、心の奥に内在するものである。それが何かのきっか
けで、外に出てくる。

 そこで子育てで、重要なことは、こうした嫉妬心を、いじらないということ。刺激しないというこ
と。

 へたにいじったり、刺激したりすると、それが外に現れてくる。そして一度、現れると、その嫉
妬心は、いろいろな場面で、現れやすくなる。

++++++++++++++++++++

 嫉妬心をコントロールするものは、自己意識ということになる。

 だれにでも、嫉妬心はあるにせよ、その嫉妬心を、決して、それがあなたを操るままにさせて
はいけない。その嫉妬心を抑制し、コントロールするのが、自己意識ということになる。

 それまでのBさんは、夫に不満はあったものの、義父のA氏とは、それなりにうまくやってい
た。

 が、夫の弟のY氏が結婚した。夫の実家に住み始めた。とたん、燃えるような嫉妬心が、Bさ
んの心を包んだ。

 ……というほど、単純なものではないかもしれない。が、本来なら、ここで、Bさんは、自分の
心をコントロールしなければならない。

 A氏の財産にしても、Bさんには、相続権はない。Bさんが結婚した相手は、X氏であって、A
氏ではない。本来、その結婚には、A氏の財産は、関係なかったはずである。

 が、Bさんは、自分の立場を、そういうふうに簡単に割り切ることができなかった。そしてどこ
か混ぜん一体となった形で、嫉妬するようになった。

 しかし、Bさんは、だれに対して、嫉妬したのか?

 この問題には、もっと、別の問題が含まれる。

++++++++++++++++++++

 赤ちゃんがえりを例にとって考えてみよう。

 赤ちゃんがえりが、原罪的な嫉妬心が原因によって起こるものだとしても、では、その子ども
は、だれに対して、嫉妬しているのかということになる。

 母親か? 下の子どもか?

 しかしもともと嫉妬は、自分内部の欲求不満が原因となって、起こると考えられる。下の子ど
もが生まれたことによって起こったといっても、それはきっかけにすぎない。

 Bさんは、はげしい嫉妬心を覚えたとしても、それはA氏や、Y氏、Y氏の妻に対してではな
い。Y氏の結婚が引き金にはなったが、しかしY氏の妻に嫉妬したのではない。

 これから先、満たされない欲求への不満感や、不安感が、原因と考えるべきである。

 ……少し話が、こみいってきたので、つづきは、また別に考えることにして、Bさんが感じた嫉
妬は、コントロール可能なものであった。コントロールできなくなったから、嫉妬が嫉妬として、
外に現れるようになった。

+++++++++++++++++++

●嫉妬心をコントロールする
 
 嫉妬心をコントロールすることは、はたして可能なのか。

 よく知られた、原罪的な嫉妬心に、鳥の嫉妬心がある。

 私の庭では、よく野生のハトが、巣をつくる。そしてたいてい二羽のヒナをかえす。そのヒナが
やがて巣立ち近くになると、一羽のヒナが、もう一羽のヒナを、巣から、追い出してしまう。

 追い出すというよりは、突き落とすというべきか。多分、親鳥のいないときを見はからって、そ
うする。落とされたヒナは、まだじゅうぶん飛べない。そのままネコや犬に襲われて死ぬ。

 こうした原罪的な嫉妬心は、実は、人間にもあるらしい。より優勢な子孫を後世に残したたい
という、本能的なプログラムが、脳にインプットされているためと考えられる。

 で、問題は、そうした原罪的な、嫉妬心は……それを嫉妬心と言ってよいかという問題もある
が、そういう嫉妬心は、人間の意思によって、コントロールできるかどうかということ。

 性欲や食欲とならんで、嫉妬心も、もし本能的なプログラムによるものだとするなら、ことはや
っかいである。簡単にはコントロールできないし、へたに扱い方をまちがえると、人間性そのも
のまで狂わす。

 ……となると、やはり嫉妬心というのは、いじらないほうがよいということになる。とくに子ども
が乳幼児のときはそうで、子どもの心が定着するまで、おだやかで、静かな子育てを大切にす
る。

 ……ということで、この問題は、ここまで。この先は、また別のところで考えてみたい。

 嫉妬には、大きな問題が隠されている。人間の本性全体にかかわるような大きな問題といっ
てもよい。それが今日、わかった。
(040727)
(はやし浩司 嫉妬 嫉妬心 嫉妬論)




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●心のコントロール

●代償的利他

 人は、人を愛することで、利他を学ぶ。愛するから、相手の立場で、ものを考え、そしてその
相手を喜ばすことを考える。

 利他の心は、こうして生まれる。育つ。

 このことは、若い母親の変化を観察していると、わかる。

 子どもが生まれる前まで、かなり利己的だと思われる女性でも、子どもが生まれると、変る。
いつくしみの心が生まれる。

 子どもを、いとおしむという姿勢が転じて、利他の心を学ぶ。

 そういう意味でも、親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。

 しかしここで誤解してはいけないのは、利他というのは、他人の欲望を満足させるものであっ
てはいけないということ。つまり利己の代償として、利他であってはいけないということ。

 たとえばあなたが、ブランドのバッグがほしかったとする。そのとき、自分でそれを買うのをが
まんして、まだ中学生の娘に、そのバッグを買ってあげたとする。しかしそれは、利他ではな
い。

 娘を利用しただけである。

そのときあなたは、「娘は、それで満足しているはず」「喜んでいるはず」「親の私に感謝してい
るはず」と考えがちだが、それはあなたの自己満足にすぎない。つまり娘の満足する様子を見
ながら、自分の満足感を充足しただけである。それを楽しんだだけである。

 これを私は、勝手に、「代償的利己」と呼んでいる。

 こういう例は多い。よく知られた例として、子どもの受験勉強に狂奔する親がいる。親は、「子
どものため」と思っているかもしれないが、親は、自分の不安や心配を解消する道具として、子
どもを利用しているだけ。あるいは中には、自分が果たせなかった、夢や希望を、子どもに押
しつけているだけというケースもある。

 一見、利他に見えるかもしれないが、利他ではない。代償的利己である。

 利他といっても、相手の欲望を満足させるものであってはいけない。ほかによくある例として
は、リッチな祖父母が、孫のかわいさに負けて、高価なものを買い与えるというのがある。

 数万円もするような洋服を、孫の女の子に買い与えたり、同じく数万円もするようなゲームセ
ットを、孫の男の子に買い与えたりする。

 一見、利他に見えるが、自分がかわいいと思う心を、それによって、満足させているだけ。あ
るいは孫を自分に、手なづけているだけ。つまり代償的利己である。

 利他というのは、同情心、共鳴心、協調心などによって決まる。いかに相手の立場で、苦しみ
や悲しみを共有できるかによって決まる。キリスト教の世界では、それを「愛」といい、仏教の
世界では、それを「慈悲」という。

 話はそれたが、親は、子どもの立場でものを考えることによって、利他の心を学ぶ。言うまで
もなく、その人の精神の完成度は、いかにその人が利他的であるかによって決まる。

 より利他的な人を、精神の完成度の高い人という。より利己的(自己中心的)な人を、精神の
完成度の低い人という。

 いくら裏切られても、相手の立場でものを考える。いくら失望をさせられても、相手の立場でも
のを考える。そういう姿勢の中から、利他の心ははぐくまれる。

 やがて数年もすると、子どもをもつ母親は、子どもをもっていない女性と、はっきりと区別がで
きるほど、ちがってくる。程度のちがいはあるが、親は子育てを通して、利他の心を学ぶ。つま
り精神的な完成度がちがってくる。

【補記】

 相手の欲望を満足させてやることは、利他ではない。それは自分の欲望を満足させることよ
りも、罪深いことである。

 ここにも書いたように、子どもがほしがりそうなものを、あるいはほしがっているものを、買い
与えるのは、利他ではない。利己の代償(代わりのもの)としてするから、「代償的利己」と、私
は呼んでいる。

 モノを買い与えれば、子どもは喜ぶはず、感謝するはず、親子のパイプは太くなるはずと、多
くの親は考えがちである。

 しかしこれは誤解。むしろ人間関係そのものを破壊する。

 利他というのは、あくまでも心の問題。相手の立場で、悲しみや苦しみを分けもつことを、利
他という。くれぐれも、誤解のないように。

 なお、欧米では、この利他精神が、日本よりも、生活のすみずみにまで、根をおろしている。

 たとえば庭をつくるときも、日本人は、その美を、自分だけの世界に取り込もうとする。具体
的には、庭を高い塀でぐるりと囲み、自分だけが楽しめるようにする。

 一方、欧米では、外の通りから歩く人の視点において、庭づくりをする。地域全体の景観を考
えながら、家づくりをするところも多い。

 こうした文化のちがいを、「押す文化(欧米)と引く文化(日本)」のちがいという視点で、説明
する人もいる。

 そういうこともあって、ボランティア活動一つとっても、日本と欧米では、質的にも大きなちが
いがある。それについては、また別の機会に考えてみたい。


●闘争心と嫉妬心

 目の前で、ヘビが車にひかれた。バリッという、どこか骨がくだけたような音がした。瞬間「死
んだ」と、私は思ったが、そのヘビは、そのままUターンして、木の植え込みの中に、消えた。

 生命力のものすごさというか、そのヘビの生への執着心に驚いた。

 私はこうした(生存欲)というのは、広く、あらゆる動物にあると思う。またそれがあるからこ
そ、10万年単位の長い年月を、こうして生き延びることができた。

 人間も、例外ではない。

 その生存欲は、そのときどきに応じて、さまざまな形に姿を変える。たとえばそれが、プラス
の方向に向けば、攻撃心や闘争心になり、マイナスの方向に向けば、復讐心や嫉妬心にな
る。生存欲を原点に考えれば、闘争心も嫉妬心も、方向性がちがうだけで、中身は、同じとい
うことになる。

 (生存欲そのものが、弱くなるばあいもある。それについては、ここでは考えない。)

 一見、突飛もない意見に思う人もいるかもしれないが、こういう例は、多い。一見、複雑に見
える人間の心理だが、そのもとをただせば、単純なもの……。私はそれを、勝手に「原始心
理」と呼んでいる。

 たとえばミミズを見てみよう。

 私はあるとき、庭をはって移動しているミミズを見つけた。そこでそのミミズの頭を、棒の先
で、つついてみた。とたんミミズは、危険を感じて、体をちぢめた。防御体勢である。

 そのミミズは、体をちぢめることによって、自分を守ろうとした。しかしそのパターンは、引きこ
もりをする子どもの心理、そのものと言ってもよい。心理学の世界にも、「防衛機制」という言葉
がある。外の世界と、自らを遮断することによって、自分の心を守ろうとする。

 ……と考えていくと、嫉妬心を、それなりに位置づけて考えることができる。たとえば嫉妬心
は、生存欲の変形したものであると考える、とか。

 嫉妬に狂って、相手をとことん恨んだり、苦しめたりする人がいる。子どものいじめにしても、
嫉妬が原因で、相手をいじめるというケースも、少なくない。こうした嫉妬のエネルギーは、とき
として、想像を絶する力を発揮する。

 少し前、こんな事件が、ある国で起きた。

 ある資産家の家の娘(当時5歳)が、何ものかによって、性的ないたずらをされて殺されると
いう事件である。

 その家には、事件当時、父親と母親、それに11歳になる、息子がいた。息子は、父親のつ
れ子であった。父親は再婚、殺された女の子は、再婚した女性との間にできた子どもだった。

 外部からだれかが侵入したという形跡はない。地下室の窓ガラスが割られていたが、それは
外部から、強盗か何かが侵入したと見せかけるために、だれかがあとでした、偽装工作だった
ということがわかった。

 当初、父親が犯人として疑われた。いろいろな偽装工作が明るみになったからである。しか
もDNA鑑定の結果、父親の遺伝子と、娘の体に付着していた精子の遺伝子が、ほぼ一致し
た。

 が、捜査は、難航。結局、この事件は、迷宮入りになってしまった。

 この事件は、その国をひっくりかえすほど、連日連夜報道されたので、ご存知の方も多いは
ず。殺された娘の名前をとって、「N事件」と呼ばれた。

 常識で考えれば、犯人は、家族の中のだれかということになる。精子のDNAが一致したこと
から、父親か、もしくは?。

 しかし最初から、11歳の息子については、だれも疑わなかった。疑った人はいたかもしれな
いが、それを口にする人はいなかった。一方、その夫婦は、だれかをかばうように、捜査に
は、きわめて非協力的な態度をとりつづけた。

 しかし……。

 ごく一般論として、嫉妬がからむと、人は、相手を殺す寸前までのことをする。実際、殺してし
まうこともある。

 兄弟、姉妹の間でも、同じような事件が起きることがある。とくに、昔から、『年齢の近い姉妹
は、憎しみ相手』ともいう。私の知っている姉妹の中には、一人の男性(恋人)を取りあって、壮
絶な戦争を繰りかえした人もいる。

 しかしなぜか、そのN事件では、最後まで、11歳の息子が、捜査線上にのぼることはなかっ
た。なぜか? 11歳といえば、性的には、かなりのところまで成長する。ちょうどはじめて、夢
精や射精を経験する年齢でもある。

……という問題はさておき、つまりだれが犯人であるかということは、さておき、嫉妬心がみせ
る、ものすごいエネルギーは、ふつうではない。そのふつうでないところが、闘争心に似てい
る。

 親の前では、弟思いのやさしい兄を演じながら、その裏で、弟を殺す寸前までのいじめを繰り
かえしていた子どもがいた。弟を逆さづりにして、頭から落したり、チョークをお菓子だと偽っ
て、弟に食べさせたりするなど。

 私は、そのN事件では、11歳の息子をもっと疑ってみるべきだったと思っているが、これ以
上のことは、ここには書けない。ただ嫉妬に狂った兄が、性的いたずらをしたあと、妹を殺した
という事件であっても、私は、驚かない。

 嫉妬心には、そういう力がある。

 そこで大切なことは、ふたつある。ひとつは、嫉妬するにしても、そのエネルギーを、何らかの
形で、別方向に向けていくということ。もうひとつは、嫉妬をコントロールするだけの自己意識を
高めるということ。

 嫉妬心を、前向きな向上心や、攻撃力に変化できれば、最善である。つぎに、自分の感情を
いかにすれば、コントロールできるかということ。感情のコントロールができない人のことを、情
緒の未熟な人といい、コントロールできる人のことを、情緒の完成度の高い人という。

 嫉妬心というと、それが悪いという前提で、ものを考えやすい。しかし、そうとばかりとは言え
ないのではないか……、というのが、ここでの結論ということになる。

 嫉妬については、さらに、この先、深く考えてみたい。


●感情のコントロール

 私は、若いころから、自分の中の二重人格性に苦しんだ。今も苦しんでいる。

 やさしくて、ひょうきんで、さみしがり屋の私。これをはやし浩司Aとする。

 合理的で、不平不満だらけ、孤独に強い私。これをはやし浩司Bとする。

 ふだんは、はやし浩司Aが優性。ときどきはやし浩司Bになっても、心のどこかではやし浩司
Aが、それをながめていて、「よせ、よせ。今のお前は、本物のお前ではない」などと、声をかけ
る。

 はやし浩司Aは、冗談好きで、めんどくさがり屋。細かい作業が苦手。が、はやし浩司Bは、
短気で、破滅的。行動力はあるが、心は冷たい。

 こういう私だから、もう一人の自分をつくる必要があった。二人の私を、さらに別のところから
監視し、コントロールする私である。これをはやし浩司Cとする。

 そのはやし浩司Cに気づいたのは、講演をしているときのことだった。

 講演中というのは、いつも二人の私が、そこにいる。一人の私は、講演をする。話す。が、も
う一人の私が、その上にいて、私にこう命令する。「残り時間は、あと30分だ。あの話とこの話
はやめて、もっと別の話をしろ」「あと10分だ。そろそろ結論を話せ」と。

 私をいつも客観的に見つめながら、私をコントロールする私。それがはやし浩司Cということ
になる。

 そのはやし浩司Cの重要性に気づいたのは、ごく最近のことである。このはやし浩司Cこそ
が、自己意識による私ということになる。もろもろの感情のコントロールは、このはやし浩司C
がする。

 はやし浩司Aになったときも、はやし浩司Bになったときも、別のどこかにいて、私をコントロ
ールする。

 ところで、どういうとき、私が、はやし浩司Aからはやし浩司Bになるか? 私のばあい、精神
的にたいへん疲労しやすい。そういう欠点がある。決して、タフではない。不愉快な人と会って
いると、ものの半時間で、ヘトヘトに疲れてしまう。

 その疲れたとき、はやし浩司Bが、ムラムラと顔を出す。

 おもしろいと思うのは、前頭部が重くなること。実際、手でさわってみると、少し熱くなっている
のがわかる。そして一度熱くなると、はやし浩司Aにもどったあとも、この部分がどこか重ぼっ
たい。そしてそれが1、2日間、つづく。

 どちらにせよ、感情は、はやし浩司Cがコントロールする。何かのことで、情緒が不安定にな
ったときは、できるだけはやし浩司Cを、外に呼び出すようにする。決して、感情のおもむくま
ま、行動してはいけない。

 とくに気をつけているのは、はやし浩司Bである。自分でも、それがわかっているから、そうい
うときは、ぜったいに、何かの結論を出さないようにする。口を閉ざして、静かにする。できるだ
け、人との交際も避ける。でないと、そのあと、いつも後悔することになる。





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●コア・アイデンティティ

 自己同一性のことを、アイデンティティという。(もともとは、アイデンティティを、「自己同一性」
と翻訳した。)

 自己同一性とは、その言葉どおり、自分の同一性をいう。

 たとえば「私」。私の中には、私であって、私である部分と、私でない部分がある。その私であ
って私である部分が、本来の「私」。その私が、そのままストレートに、外の世界へ出てくれば、
よし。そうでないときに、いろいろな問題が起きる。

 (あるいは問題があるから、ストレートに出てこないということにもなる。)

 その「私」の中でも、他人と比較したとき、きわだって、私らしい部分が、ある。これを、「コア
(核)・アイデンティティ」という。

 しかし、自分でそれを知るのは、むずかしい。私がどんなアイデンティティをもっているかとい
うことを知るためには、一度、視点を、自分の外に置かねばならない。他人の目をとおして、自
分を見る。ちょうど、ビデオカメラか何かに、自分の姿を映して見るように、である。

 そこで、反対に、つまり自分のアイデンティティを知るために、他人のアイデンティティを、観
察してみる。

 子どものばあい、このアイデンティティのしっかりしている子どもは、「この子は、こういう子ど
もだ」という輪郭(りんかく)が、はっきりしている。「こうすれば、この子は、喜ぶだろう」「怒るだ
ろう」「こう反応するだろう」ということが、わかりやすい。

 この輪郭というか、つかみどころを、「コア(核)」という。

 そうでない子どもは、輪郭が、どこか軟弱で、わかりにくい。つかみどころがなく、予想がつか
ない。何を考えているか、わからない。

 たとえばある子ども(年中児)が、ブランコを横取りされたとする。そのとき、その横取りされた
子どもが、横取りした子どもに向かって、「おい、ぼくが乗っているではないか!」「どうして、横
取りするのだ!」と、一喝する。ばあいによっては、取っ組みあいのけんかになるかもしれな
い。

 そういう子どもは、わかりやすい。心の状態と、外に現れている様子が、一致している。つま
り、自己の同一性が守られている。

 が、このとき、中には、柔和な笑みを浮かべたまま、「いいよ」「貸してあげるよ」と言って、ブ
ランコを明け渡してしまう子どもがいる。

 本当は貸したくない。不愉快だと思っている「私」を、その時点で、ねじまげてしまう。が、表面
的には、穏やかな顔をして、明け渡す。……つまり、ここで本来の「私」と、外に現れている
「私」が、別々の私になる。不一致を起こす。

 一時的な不一致や、部分的な不一致であれば、問題ではない。しかしこうした不一致が日常
的に起こるようになると、外から見ても、いったいその子どもはどんな子どもなのか、それがわ
からなくなる。

 ときには、虚飾と虚栄、ウソとごまかしで、身を包むようになる。世間体ばかりを気にしたり、
見栄や体裁ばかりを、とりつくろうようになる。

 この時点においても、意図的にそうしているなら、それほど、問題はない。たとえばどこかの
商店主が、客に対して、そうする、など。しかし長い時間をかけて、それを日常的に繰りかえし
ていると、その人自身も、自分でわけがわからなくなってしまう。自己の同一性が、ここで大きく
乱れる。

 そこで問題は、私(あなた)自身は、どうかということ。

 私は私らしい生き方をしているか。私はありのままの私で、生きているか。本当の私と、今の
私は、一致しているか。さらに「私は私」という、コアを、しっかりともっているか。

 くだらないことだが、私は、そのアイデンティティの問題に気づいた事件(?)にこんなことがあ
る。

 実は、私は、子どものころから、台風が大好きだった。台風が自分の住んでいる地方に向っ
てくるのを知ったりすると、言いようのない興奮に襲われた。うれしかった。

 しかしそれは悪いことだと思っていた。だからその秘密は、だれにも話せなかった。とくに(教
師)という仕事をするようになってからは、話せなかった。台風が近づいてくるというニュースを
聞いたりすると、一応、顔をしかめて、「いやですね」などと言ったりしていた。

 つまりこの時点で、本当の私と、表面に現れている私は、不一致を起こしていたことになる。

 が、こんなことがあった。

 アメリカ人の友人が、こう言った。彼はそのとき、すでに日本に、5、6年住んでいた。私が50
歳くらいのときのことである。

 「ヒロシ、ぼくは台風が好きだよ。台風が、浜松市へくるとね、(マンションの)ベランダに椅子
を出して、それに座って台風を見ているよ。ものが、ヒューヒューと飛んでいくのを見るのは、実
に楽しいよ」と。

 私は、それを聞いて、「何〜ダ」と思った。「そういうことだったのか」と。

 そのアメリカ人の友人は、自分の心を実にすなおに表現していた。そのすがすがしさに触れ
たとき、それまでの私が、バカに見えた。私は、台風についてですら、自分の心を偽っていた。

 何でもないことだが、好きだったら、「好き」と言えばよい。いやだったら、「いやだ」と言えばよ
い。そういう「私」を、すなおに外に出していく。そしてそれが、無数に積み重なり、「私」をつくり
あげていく。

 それがアイデンティティである。「私」である。

 さて、あなたはどうだろうか? 一度、あなた自身を、客観的に見つめてみるとよい。なお、こ
のアイデンティティが、乱れると、その人の情緒は、きわめて不安定になる。いろいろな情緒障
害、さらには精神障害の遠因になる。よいことは何もない。

 そうであっても、そうでなくても、自分をすなおに表現していく。それはあなた自身の精神生活
を守るためにも、とても重要なことである。

 さあ、あなたも今日から、勇気をもって、「YES」「NO」を、はっきりと言ってみよう。がまんす
ることはない。とりつくろうことはない。どこまでいっても、私は私だ。あなたはあなただ。

【心理学でいう、アイデンティティ】 

 心理学でいう「アイデンティティ」とは、(私らしさ)の追求というよりは、(1)「自分は、他者とは
ちがうのだ」という独自性の追求、(2)「私にはさまざまな欲求があり、多様性をもった人間で
ある」という統合性の容認、(3)「私の思想や心情は、いつも同じである」という一貫性の維持
をいう。

 こうしたアイデンティティを、自分の中で確立することを、「アイデンティティの確立」という(エリ
クソン)。

 ただ注意しなければならないのは、こうしたアイデンティティは、他者とのかかわりの中でこ
そ、確立できるものだということ。

 暗い一室に閉じこもり、独善、独尊の世界で、孤立することは、アイデンティティではない。
「私らしさ」というのは、あくまでも、他者あっての「私らしさ」ということになる。

【補記】

 仮にアイデンティティを確立したとしても、それがそのまま、その人の個性となって、外に現れ
るわけではない。ストレートに、そのアイデンティティが外に出てくる人もいれば、そうでない人も
いる。

 たとえば今、コップの中に、色水が入っているとする。その色水は、うすいブルー色であると
する。

 もしこのとき、コップが、無色の透明であれば、コップの外からでも、色水は、うすいブルー色
に見える。

 しかしもしコップに、黄色い色がついていたりすると、コップの中の色水は、グリーンに見える
かもしれない。

 このとき、コップの中の色水を、「真の私」とするなら、外から見える私は、「ニセの私」という
ことになる。真の私は、外に出るとき、コップの色によって、さまざまな色に変化する。

 たとえば私は、他人の目から見ると、明るく快活で、愛想のよい男に見えるらしい。しかし真
の私は、そうではない。どちらかというと、わがままで、むずかしがり屋。孤独に弱く、短気。い
つも不平、不満が、心の奥底で、ウズを巻いている。……というのは、言い過ぎかもしれない
が、少なくとも、(真の私)と、(外に出ている私)の間には、大きなギャップがある。

 真の私が入っているコップには、あまりにも、さまざまな色が混ざりすぎている。そのため、私
は、外の世界では、真の私とはちがった私に見られてしまう。

 まあ、私自身は、他人にどう見られようとかまわないが、しかし子どもを見るときは、こうした
視点をもたないと、その子どもを理解できなくなってしまうことがある。

 その子どもは、どんな色水の子どもか? そしてその子どもは、どんな色のコップに入ってい
るか? それを正しく判断しないと、その子どものアイデンティティを見失ってしまうということ。

 アイデンティティの問題には、そんな問題も含まれる。
(040803)


●自己否定

 定年退職を迎えるようになると、多くの男たちは、「自己否定」という苦しみに、さいなまれる。
いや、定年退職なら、まだよい。50歳が近くになると、たいていの民間企業では、リストラとい
う名前のクビ切りが始まる。

 クビ切りがこわいわけではない。クビ切りにいたるまでの、社内のゴタゴタ。緊張感。不快
感。それがつらい。苦しい。周囲でリストラが始まると、仕事どころでは、なくなってしまう。「つぎ
は、だれ?」と、疑心暗鬼になることもある。

 そしてやがて、リストラの宣告。「あなたは、クビ!」と。

 とたん、その先の未来が消える。会社一筋とがんばってきた人ほどそうで、そのショックは、
大きい。相当なもの。若い人には、想像できないだろう。この時期、クビ切りは、まさにその人
の人生の否定そのものといってもよい。リストラされたことがきっかけで、そのまま精神を病ん
でしまう人もいる。

 若いときは、まだやりなおしがきく。つぎの未来に向けて、歩み出すことができる。しかし50
歳をすぎると、それもできない。体力もつづかない。私の友人のM君(54歳)は、それまでに3
0年弱勤めた会社をリストラされたあと、私にこう言った。

 「あと10年、どんなことがあっても、健康だけはだいじょうぶという保証があれば、思いっきり
暴れてやる。しかし来年はどうなるかわからない。そんな不安をどこかに感ずると、もう何もで
きなくなる」と。

 こうした心理も、やはり若い人には理解できないだろう。ある意味で、この年齢の人の、独得
の心理と言ってもよい。

 しかし仕事にも、大きく分けて、二種類ある。(1)あとに残る仕事。(2)あとに残らない仕事。

 あとに残る仕事というのは、人生も晩年になって、「やりとげた」という実感のある仕事という
ことになる。一方、あとに残らない仕事というのは、そのまま過去の記録の中から、ポッカリと
消えてしまう仕事をいう。

 総じてみれば、大きな組織の中で、上からの命令だけに従って、それをやりこなすだけの仕
事というのは、あとに残らない。こう決めてかかるのは、危険なことかもしれない。私の意見を
読んで、怒る人もいるかもしれない。しかし、仕事には、よきにつけ、悪しきにつけ、いつも幻想
がつきまとう。この幻想が、その人を、惑わす。

 それほど価値がない仕事であるにもかかわらず、価値がある仕事と思いこんだり、価値があ
る仕事であるにもかかわらず、価値がないと思いこんだりする。

 どんな仕事がそうであり、どんな仕事がそうでないかということには、ここには、書けない。
が、これだけは言える。

 目的と夢と希望。この3つがはっきりしている仕事は、すばらしい。そうでない仕事は、そうで
ない。

 ……と、話がそれたが、いくら目的と夢と希望があっても、定年退職を迎えると同時に、その
すべてが、吹き飛ぶ。組織あっての仕事。その組織からはずれれば、仕事をする基盤すら、失
う。

 こうしたを、定年退職にまつわる心の問題をまめると、つぎのようになる。

(1)脱力感(生きる気力そのものが、消える)
(2)空白感(過去が、自分から消える)
(3)空虚感(何をしても、むなしく覚える)
(4)不安感(老後の生活が心配)
(5)焦燥感(何かをしなければと、あせる)
(6)妄想性(何かにつけて、被害妄想をもちやすい)
(7)展望性の喪失(これから先、何をしてよいのかわからない)

 こうした問題が、こん然一体となって、その人を襲う。そしてその人は、やがて、自己否定へと
進んでいく。「私は生きている価値がない」「生きていてもムダ」と。

 昨年度(03年度)、自殺者が3万6000人を超えた。そのうち、60歳以上の高齢者が、約1
万1000人(02年度)、50歳以上の合計が、1万9000人(02年度)をしめるという(警察統
計資料)。

私も、あと数年で、その60歳になるが、そうして自らの命を断っていく人の心情が、痛いほど、
よく理解できる。





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●自己愛と自己中心性

 自分を大切にするということと、「自分だけが、この世で一番大切な人間」と考えるのは、別。
「自分だけが、この世で一番大切な人間」と考えて、自分だけを大切にするのを、自己愛とい
う。

 この自己愛が、肥大化し、その世界だけに陶酔するようになると、その人には、さまざまな弊
害が、現れる。

 その中でも、最大の弊害が、自己中心性である。

 言いかえると、自己中心的な人は、何かにつけて、「自分だけは……」と考えやすい。そのた
め、どうしても、他人との関わり方が、浅くなる。関わっても、儀礼的。表面的。形式的。

 そしてその一方で、独善的になったり、がんこになったりする。他人から批判されるのを許さ
ないし、批判されたりすると、それを大きく気にしたりする。つぎのようなタイプの人は、ここでい
う自己愛タイプ人間と、考えてよい。

( )いつも自分の利益を優先させる。
( )自分だけがよければよいという考え方をしやすい。
( )自分の家族、とくに自分の子どもさえよければよいと考えやすい。
( )独善的になりやすい。思いこみがはげしい。
( )自分が正しいと思うと、他人の意見を聞けなくなる。
( )他人に批判されたり、批評されたりすると、興奮したり、パニック状態になる。
( )完ぺき主義で、失敗を認めない。他人の失敗を許さない。
( )自己中心的なものの考え方をする。ものの考え方が、自分本位。利己的。

 とくに気をつけなければならないのは、「他人との関わり方」である。

 このタイプの人は、自分自身を、大きなカラで包むため、どうしても他人との関わり方が、浅く
なる。表面的には、社交的で、柔和な人間性を装うことはある。つまりそうすることで、自分へ
の尊敬を、人から集めようとする。

 そういうことはあるが、しかし心を開いているわけではない。いつも自分の利益、利得を、優
先させる。

 こうした自己愛が、子育てに反映されることがある。子どもそのものが、自己愛を達成するた
めの、道具になることがある。わかりやすく言えば、子ども自身が、親の、見栄や虚栄心を満
足させる道具になることがある。

 ある母親は、子どもに向かっては、「勉強しなさい」と言いつづけたが、その一方で、その子ど
もが、自分から離れていくのを、許さなかった。あの手この手をつかって、地元の高校に子ども
を送り、さらにあの手この手をつかって、地元の女性と結婚させた。

 もともと心が通じあっているわけではないから、こうした親子関係は、崩壊しやすい。

 さらにこうした自己愛が、夫婦の間でも反映されることがある。しかしどちらか一方がそうであ
ると、夫婦関係も、それほど、長つづきしない。夫にせよ、妻にせよ、自分の孤独をいやす道
具でしかないからである。

 つまり配偶者を愛するのではなく、自分のために、自分にとって必要な人間として、相手をそ
ばにおく(?)。自分の仕事のために、妻を利用するのも、その一例。妻に向って、「食わせて
やる」「養ってやる」と言った夫すらいる。

この不自然さが、やがてたがいの間の不協和音となっていく。つまり、自己愛には、よいこと
は、何もない。

 しかし一度、自己愛タイプになると、それから脱却するのは、容易ではない。だいたいにおい
て、自分がそのタイプの人間であると、気づかない。独善というのは、そういう意味でも恐ろし
い。「私はすばらしい人間」という思いこみが強い分だけ、他人の意見に耳を傾けない。

 が、やがて、このタイプの人は、はげしい孤独感に襲われるようになる。しかし、この段階で
も、それに気づく人は、少ない。自分を客観的に見る目をもたないからである。だからこのタイ
プの人は、何かしら満たされないという状態のまま、悶々とした毎日を送っていることが多い。

 本来、人というのは、その幼児期から少年少女期にかけて、こうした自己中心性を克服しな
ければならない。が、何らかの理由で、その人格の完成が阻害されると、ここでいう自己愛の
世界におちいりやすい。

 つまり、結論として、自己愛タイプの人は、それだけ、人格の完成度が低い人ということにな
る。

【補記】

●愛

 ワイフに聞いた。「お前は、ぼくのことを、愛しているか?」と。するとワイフは、しばらく考えた
あと、こう言った。「わからない……」と。

 そういうものか?

 そういうものだ。
 
 「愛」ほど、実感しにくい感情はない。とくに夫婦の間では、たがいの存在など、空気のような
もの。何かが起これば、話は別。しかし何も起こらなければ、たがいの存在すら、忘れる。

 そこで改めて、「私はどうか」と考えてみる。「私は、ワイフを愛しているか」と。

 しかしこれまたむずかしい問題。ほとんどの人は、相手を欲することを、愛と誤解している。
「好き」と「愛」を、混同している人も多い。若い男に、例をみるまでもない。

 若い男が、相手の女性に向かって、「愛している」と言うのは、その相手の女性を、肉体的に
独占したいから。もっと簡単に言えば、セックスをしたいから。……と書くと、若い人たちは、反
発するかもしれない。

 しかし愛というのは、年をとればとるほど、それについて語る口が、重くなる。私も若いときに
は、今の若い人たちに負けないほど、愛という言葉を口にした。しかしそれから30年。

 人を愛することが、そんななまやさしいことでないことを、さんざん、思い知らされた。今のワイ
フにしても、これから先の老後のことを考えると、本当のところ、自信がない。その気持ちは、
ワイフも同じではないか。

 私の知人は、75歳をすぎた今、ほとんど寝たきりになっている奥さんの、介護にあけくれて
いる。奥さんは、パーキンソン病という病気で、ほとんど動けない。電話で話をすると、意外と元
気そうなので、「元気になられたのですか」と聞くと、知人は、いつもこう言って笑う。

 「口だけは、元気ですよ。おかしなものですよ」と。

 知人は、そのため、奥さんの生活のすべてを、みる。食事、入浴、洗面、睡眠はもちろんのこ
と、大便や小便の始末まで。

 そういうこともすべて受け入れて、はじめて、人は「愛」という言葉を口にすることができる。
が、そういう人ほど、「愛」という言葉を口にしない。つまりそれほどまでに、「愛」というのは、深
遠な言葉ということになる。

 で、昨夜、寝床の中で、ワイフとこんな会話をした。私が、「もし、脳梗塞か何かで倒れたら、
延命処置はしてほしくない」と言うと、ワイフは、だまっていた。

私「ムダな延命をしても、みんなが迷惑するだけ。だからもしそういう状態になったら、どうか安
楽死させてほしい」
ワイフ「わかったわ」
私「ぼくらのばあいは、年金が入るわけではないし、ムダに生きれば生きるほど、お金がかか
る」
ワイフ「……」
私「頼むよ」
ワイフ「わかったわ……」と。

 とても悲しいことを告白するが、私のワイフは、私を愛していない。私のため、息子たちのた
めに犠牲になっているが、いつもその範囲で、右往左往している。何かのことで衝突すると、ワ
イフの口からは、いつも「離婚」という言葉が飛び出す。簡単に飛び出す。

 一見、強いきずなで結ばれているように見えるかもしれないが、私たち夫婦の地盤は、それ
ほどしっかりしていない。かろうじてというか、本当にかろうじて、ともに生活しているにすぎな
い。だから今、ワイフが、私を愛しているかどうかということについて、「わからない」と答えて
も、何も、おかしくない。

 しかしこれも、夫婦。いや、ほとんどの夫婦が、そうではないのか。……とまあ、そう言って、
自分をなぐさめる。

 私だって、本当のところ、ワイフを利用しているだけではないのか。自分の仕事のため。自分
が生きるため。本当にワイフの幸福を考えているかとなると、自信がない。

 たとえば今、ワイフが、私にこう言ったとしよう。

 「私は、あなたと離婚したい。私らしい人生を、もう一度、生きなおしてみたい」と。

 そのとき私は、ワイフの幸福を考えて、「わかった。お前の好きなようにしたらいい」と言って、
引きさがることができるだろうか。

 もし、それができれば、私は、ひょっとしたら、ワイフを心底、愛していることになる。が、私に
は、その自信がない。だから、私も、ワイフを本当に愛しているかどうか、わからない。同じ質
問を、反対にされたら、私もこう答える。「わからない」と。

 繰りかえすが、もともと夫婦というのは、そういうものかもしれない。ナットク!
(040804)

+++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●自己中心的な人

 ワイフと食事をしているとき、こんな話になった。

 ワイフの友人の叔父の話である。その叔父は、長野県と静岡県の県境にある、小さな村に住
んでいる。昔からの茶農家ということだそうだ。

 その叔父が45歳くらいのときのこと。ある日突然、愛人を家に連れてきたという。そして叔父
の妻(叔母)に、いきなり、こう命令したという。

 「今日から、この女(愛人)も、この家に住むことになった。めんどうを、みてやってくれ」と。

 この話に、妻(叔母)は、激怒。怒ったことがない女性だったが、このときばかりは、泣きなが
ら、こう叫んだという。「いやよ!」と。

 当然である。で、この話を、ワイフが私にしながら、「この話は、マンガみたいだけど、本当に
あった話よ」と。

 私はその話を聞きながら、「ジコチュー人間のきわまり、ここにあり」と思った。

 言うまでもなく、自己中心型の人は、他人の立場でものを考えることができない。自分の言葉
や行動が、相手にどういう印象を与えているかがわからない。相手がどう考え、どう思っている
かさえわからない。

 すべて自分だけの、つまりは独善的な考えだけで、ものごとを判断してしまう。

 ワイフの友人の叔父にしても、愛人がいるということだけでも、大問題。その上、その愛人を
家につれてきて、「めんどうをみろ」は、ない。

 こうした常識ハズレの行為は、自己中心型人間に、広く見られる現象である。

 で、この自己中心性がきわまってくると、自己愛へとつながる。友人はもちろんのこと、家族
すらも、自分を飾るための道具にすぎない。自分は愛されてもあたりまえと考えるが、その一
方で、他人を愛することができない。だいたいにおいて、愛というものが、何であるかさえわか
っていない。

 さらに自己愛が肥大化すると、自分だけが完ぺきで、完全な人間となる。他人を信じない。信
じられない。自分は好き勝手なことをするくせに、他人には、それを許さない。

 さらに悲劇的なのは、自分の尺度で、他人を判断しようとすること。ワイフの友人の叔父は、
自分では、毎月のように、(つきあい?)で、あちこちへ旅行に行っているのに、妻(叔母)に
は、絶対に、それを許さなかったという。

 つまり自分の妻を、カゴの鳥にして、家の中に閉じこめてしまった。

 ワイフは、こう言った。「自分では浮気し放題だから、きっと奥さんもそうするのではないかと、
心配だったのね」と。

簡単に言えば、そういうことになるが、そのため一見、社交的で、交際範囲は広いものの、ど
の人とも、深くは交われない。自己中心型の人間は、厚いカラの中に入るため、心を開くことが
できない。だから友人ができない。

 ワイフの友人の叔父を参考に、ジコチュー夫の特徴を列挙してみると、こうなる。

(1)何かにつけて、完ぺき主義で、妻にそれを求める。
(2)妻を自分の力のおよぶ範囲に、閉じこめようとする。
(3)ワンマンで、亭主関白。家長意識が強い。わがまま。
(4)妻はもちろん、家族は、自分を飾るための道具でしかない。
(5)「仕事」を理由にすれば、すべて許されると思いこんでいる。
(6)犠牲心は強いが、それはあくまでも、自分のための自己犠牲。
(7)愛されること求めるが、人を愛することができない。
(8)ジコチューで、相手の立場でものを考えることができない。
(9)自分が批判されるのを許さない。批判されると、極端にそれを気にする。

 こうしたジコチュータイプ、あるいは自己愛タイプの夫をもつと、妻は、不幸である。妻は、まさ
に夫の奴隷と化す。(たいていは妻が現状を受けいれ、あきらめるので、表面的には、うまくい
っているように見えることが多い。)

 で、こうしたジコチュータイプの夫は、なおるかどうかという問題。

 私の周囲にも、似たような人は多いが、結論を先に言えば、まず無理ではないかということ。
自己中心性にせよ、自己愛にせよ、青年期までに一度、心の中に形成されると、それを改め
るのは、容易ではない。

 仮に本人がそれを自覚したとしても、そのあと、長い時間がかかる。10年とか、20年とか、
それくらいの時間は、かかる。「私はジコチューだ。今日から改めます」というわけには、いかな
い。

 この問題は、そういう問題である。





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【心のロード・マップ】

++++++++++++

心をどう考えたらよいのか。
そのロード・マップについて

++++++++++++

●精神と情緒

 人間の知的活動としての、「精神」。人間の頭脳が、質としてもつ、「情緒」。まずこの二つを
分ける。(脳が質としてもっている性質を、ここでは「情緒」とした。ほかに適切な言葉がないの
で、そうした。一般でいう「情緒」とは、ちがった意味である。)

 つぎに、その「精神」は、発達しうるものであり、その人の努力によって、完成されうるもので
ある。

 これに対して、「情緒」は、人間の頭脳が、質としてもっているため、生涯にわたって、それを
変えることは、不可能である。

 その「精神」の完成度は、(1)いかに相手の立場で考えられるか(利他の程度)。(2)いかに
自分の情緒(感情)をコントロールできるか。(3)いかに自分らしさをもっているか。この3つを
みて、判断する。

 いかに相手の立場で考えられるか……それが利己、つまり自己中心性からの決別ということ
になる。自己中心性がきわまると、たとえば、それは自己愛へと発展する。一方、利他がきわ
まると、仏教でいう慈悲。キリスト教でいう愛へと、発展していく。

 つぎにいかに情緒(感情)をコントロールできるか……人間が質としてもっている情緒は、そ
れ自体は、悪いものではない。この情緒、つまり感情が、人間の生活を、うるおい豊かなもの
にする。無数のドラマも、そこから生まれる。しかし野放しにしてはいけない。それが、情緒のコ
ントロールということになる。

 情緒に振りまわされ、そのときどきで、「私」を見失う人は、精神の完成度の低い人とみてよ
い。

 最後にいかに自分らしさをもっているか……人の一生を、最初に、「発達」ととらえたのは、ア
メリカの精神分析学者のエリクソン(E・H・エリクソン、1902〜)である。彼は、自分らしさを、
「アイデンティティ(自己同一性)」という言葉を使って説明した。

 この自己同一性には、(1)独自性、(2)統合性、(3)連続性が含まれる。教える立場でいう
なら、(つかみどころ)ということになる。

 アイデンティティの確立している子どもは、「この子は、こういう子ども」という輪郭(りんかく)
が、はっきりとしている。そうでない子どもは、その輪郭が軟弱で、何を考えているか、わかりに
くい。

 その中でも、その人の中心にあって、核になっている部分を、「コア(核)・アイデンティティ」と
呼ぶ。精神の完成度の高い人ほど、このコアの輪郭が、明確である。

 以上が、私が考える、「心のロード・マップ」ということになる。

 一言、付け加えるなら、精神の完成度とはいうものの、生涯にわたって、その精神が完成す
るということは、ありえない。そういう意味で、精神論と健康論は、似ている。今日、すばらしい
健康法を身につけたからといって、健康が、そのまま、将来にわたって、保証されるわけでは
ない。

 健康が、日々のたえまない努力と研鑽(けんさん)によって、はぐくまれ、維持できるように、
精神の完成もまた、日々のたえまない努力と研鑽のみによって、はぐくまれ、維持できる。釈迦
が法句経の中で、「精進(しょうじん)」という言葉を使って説明しているように、完成ということは
ありえない。

 つねに人間は、社会、つまり周囲の状況や人に接することにより、その中で、精神の完成度
をためされる。社会から孤立し、せまい部屋の閉じこもることは、エリクソンも言っているよう
に、それは、アイデンティティとは、言わない。


●国家人格論

 先日、ある男性と、こんな議論をした。その男性は、40歳くらい。ある大手の進学塾を経営し
ている。

 その男性いわく、「日本人には、日本人のアイデンティティがある。大和民族としての、誇りが
ある。それを主張していくのは、日本人として、重要なことである」と。

 しかし国家としてのアイデンティティとは何か? 大和民族的であることが、はたしてアイデン
ティティと言えるのか。私は、アイデンティティの問題は、もっと別の角度から考えなおしてみる
必要があると思う。たぶん、その男性は、日本人としての個性、それをアイデンティティと言った
のだろうが……。

 たとえば国家というのは、その国家を構成する国民が、集合されて、一つの性格をもつ。そし
てその性格が、外の世界からも、わかることがある。

 たとえばわかりやすい例として、隣のK国をあげてみよう。あのK国は、何かにつけて、ひが
みやすく、いじけやすい。ささいなことを針小棒大にとりあげては、大騒ぎする。

 印象に残っているのは、K国のスポーツ選手団が、東北のある都市にやってきたときのこと
(02年)。日本人の応援団とのちょっとしたトラブルを、おおげさにとりあげて、「選手をひきあ
げる」「大会をボイコットする」などと言ったりした。

 当時の日本は、K国の拉致問題が、大きくなりかけていた。そういうことも考えるなら、多少の
トラブルは、しかたのないこと。私たちにしても、「ようこそおいでになりました」と、歓迎するムー
ドではなかった。

 そんなわけで、あのK国の人たちがからんでくると、神経をつかう。いつ機嫌をそこねるか、
わかったものではない。接する側は、ハレモノに触れるような感じになる。つまり、私がいう、ア
イデンティティというのは、そういうものをいう。

 ……と書いて、内心で、「待てよ」と思った。「こういうのは、アイデンティティとは、言わないぞ」
と。

 もう一度、最初から考えなおしてみよう。

 個人についてのアイデンティティとは、「私は何か」「私は、どう生きるべきか」「私は、なぜ生
きているか」と、「私」というものを、明確にしていくことをいう。

 しかしここで誤解してはいけないのは、アイデンティティというときは、他者のかかわりがあっ
てはじめて、アイデンティティという。小さな部屋に閉じこもって、他人との接触を断ちきって生き
ることは、アイデンティティとは言わない。

 国にたとえて言うなら、国境を閉鎖して、鎖国状態の国には、そもそもアイデンティティはない
ということになる。

 となると、国としてのアイデンティティとは、「私の国は、こういう国だ」という、主義主張のこと
いうことになる。もっと言えば、国としての正義、それがアイデンティティということになる。

 再び、個人というレベルで考えてみよう。昔、近くで、こんな事件があった。

 小学3年のA君が、B君をなぐって、けがをさせる事件が起きた。B君は、かなり生意気な子
どもだった。

 が、A君の家庭は、母子家庭。しかもA君の母親は、B君の父親が経営する工場で、働いて
いた。

 それを知ったA君の母親は、A君をつれて、B君の家に、あやまりに行った。

 が、A君は、がんとして、あやまらなかった。玄関先で、母親が、何度もA君に頭をさげるよう
に言ったが、A君は、最後まで、頭をさげなかった。

 そればかりか、その日を境にして、A君は、A君の母親とは、口をきかなくなってしまった。よ
ほど、A君は、くやしかったのだろう。

 この事件をとおしてわかることは、A君は、そのアイデンティティが、きわめてはっきりした子
どもだったということ。A君は、A君なりの方法で、自分の正義をつらぬいた。

 もうおわかりかと思う。国家としてアイデンティティとは、着物を着て、刀をさげて歩くことでは
ない。大和民族として、その民族性にこだわることでもない。

 国家としてのアイデンティティとは、国家としての生きザマをいう。そして生きザマを、他の
国々に、正義として、それを示すことをいう。今の日本について言えば、民主主義のあり方を、
世界に誇示することである。

 今はこの程度のことしかわからないが、そんなわけで、冒頭にあげた、その男性のアイデン
ティティ論には、どうしても納得できない。民族衣装を着て、国際会議に出たからといって、アイ
デンティティを主張したことにはならないということ。

 むしろ世界の中では、いまだに、「日本という国は、マネーのためなら、平気で正義をねじま
げる国」と思われている。実際にそうなのだから、反論のしようがないが、しかしそれではいつ
までたっても、日本は、自分のアイデンティティを確立することができない。つまり人格的に、未
発達なまま、終わってしまうということ。

 この先は、もう少し時間をおいてから、考えてみたい。
(040806・広島、原爆の日に……)




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【生きるということ】

●相手の立場で、ものを考える

相手の立場で、ものを考える。
一見、簡単そうで、簡単でない。
しかし、一度、それをしてみると、
「なんだ!」と思えるほど、簡単。

最初は、心の実験のつもりで、
つぎに、それを繰りかえしてみる。

するとやがて、自分の心が、
やさしくなっていくのがわかる。
と、同時に、心の中に、ポッと、
暖かい灯がともるのが、わかる。

この世の中、負けるが勝ち。
力んでみても、つっぱってみても、
ほかの人を不愉快にするだけ。
自分でいやな思いをするだけ。

言いたいこともあるだろう。
不満もあるだろう。
しかし私たちがすべきことは、
遠くの前だけを見て、
まっすぐ、それに向って、進むこと。

さあ、あなたも勇気を出して、
相手の立場で、ものを考えてみよう。
相手の心の中に、自分を置いて、
そこからあなた自身を、見てみよう。

きっと、あなたの心の中にも、
すがすがしい風が、通りぬけるはず。

++++++++++++++++

【告白(1)】

 「私は家族のために犠牲になっている」と、私は、よく思ったことがある。「これだけしてやって
いるのに……」とか、「どうして家族は、私に感謝しないのか……」とか。

 最初から、家族に、何かの見かえりを、心のどこかで求めていたように思う。そしてその家庭
とおう場所も、自分のエゴを満足させるところでしかなかったように思う。

 そういう意味では、結婚当初から、私は、暖かい家庭に飢えていたと思う。よく覚えていない
が、そういう飢餓感はあったと思う。

 しかし本当に、ワイフや子どもたちの立場で、家族を考えていたかというと、そうではなかった
のではないか。自分にとって、居心地のよい家族を念頭におき、それを求めていただけなのか
もしれない。

 そしてまさに自己流のやり方で、(家庭)をつくり、「これでワイフは満足しているはず」「子ども
たちは、私に感謝しているはず」という、どこか押しつけがましい(家庭づくり)をしていたように
思う。

 このことはやがて、子どもの受験勉強に狂奔する母親たちを見て、知った。

 そういう母親にかぎって、「子どものため」と言う。「子どもを愛しているから」と言う。しかしそ
れは、あるべき、本当の親の姿ではない。

 このタイプの親は、自分の不安や心配を、子どもにぶつけているだけ。あるいは子どもを利
用して、自分の不安や心配を解消しようとしているだけ。自分の果たせなかった、夢や希望
を、子どもの託しているケースも、少なくない。ほとんどというより、まったく子どものことなど、考
えていない。

 そこで私はある日、その中の一人の母親に、こう言った。「こんなことをしていると、今に、親
子関係を破壊しますよ」と。

 すると、その母親は、こう答えた。「いいのです。息子に嫌われることくらい、何でもありませ
ん。あの子が、目的の高校へ入ってくれれば、それでいいのです。そのとき、息子は、私の苦
労を知り、私に感謝するでしょう」と。

 そのあとも、同じようなケースを無数に経験したが、仮に目的の高校へ入ったとしても、それ
で親に感謝した子どもなど、一人もいない。失敗すれば、さらに親子関係は、破壊される。

 少し形はちがうが、私も、ワイフや自分の子どもたちに向かって、同じように考えていたように
思う。

 が、それは孤独の始まりでもあった。

 いつの間にか、家族の心は、バラバラになり始めていた。私は子どもたちに、いつも何かを
命令するだけの父親になっていたと思う。そしてワイフに対しては、自分の思いどおりにならな
いことについて、その不満をぶつけるだけの夫になっていたと思う。

 結婚当初のころは、それ以上に、仕事に追われ、家族の心がどうなっているか、それに気を
くばる余裕などなかったのかもしれない。私はいつしか、多くの父親のように、「父親は、仕事
だけしっかりとしてれば、それでじゅうぶん」「それで一人前」と考えるようになった。

 犠牲心が生まれたのも、そのころではなかったか。

 仕事で疲れて帰ってくると、家の中では電気やテレビは、つけっぱなし。子どもたちはソファ
の上で、マンガを読んでいる。ワイフはワイフで、夕食の用意をしていない。……そういう姿を
見ると、つい、カーッとなって、怒鳴り散らしたものだ。

 「バカヤロー!」と。

 しかしそんな私が、これはいけないと気がついたのは、やはり、今の仕事をとおして、であ
る。

 あるとき高校生のクラスで、高校生たちにこう聞いた。「親と会話をしている人?」と。すると、
男女、7人のクラスだったが、全員、「ほとんど、しない」と。

 これには驚いたが、しかしそれはそのまま私の家の、近未来の姿であることを知った。親た
ち自身が、子どもの心を見失ってしまっていた。

 しかしその原因は、実は、親自身にあることも知った。こんなことがあった。

 ある日、中学2年生の子ども(女子)をもつ母親が、私のところへ来て、こう言った。

 「先生、先生にうちの娘をお願いするようになって、もう1年になります。しかし成績が、ほとん
ど、伸びません。どうしてでしょう?」と。

 そこで私は、その母親にこう言った。「一度、2時間、じっくりと、うしろで参観してみてくださ
い」と。

 その子どもは、まじめな子どもだった。私の教室では、騒ぐこともなく、ただひたすら、黙々と
勉強するタイプの子どもだった。それこそ額に汗を流し、ときには、涙を浮かべながら、がんば
る子どもだった。

 母親が参観しているときも、そうだった。その姿は、まさに痛々しいと言ってよいほどのものだ
った。

 で、参観が終わると、その母親は、帰り際、こう言った。「よくわかりました。これからも、よろ
しくお願いします」と。

母親は、それまで、表面的な成績だけをみて、子どもを叱っていた。「こんなことでは!」と、子
どもを脅していた。が、そのときはじめて、母親は、子どもの立場に自分をおき、子どもを見つ
めた。ついでに自分自身の姿を見た。

 その母親は、すばらしい人だった。しかし、そういう親は少ない。成績が伸びないと、子どもを
叱ったり、脅したりする。ついでに、お決まりの、塾めぐり。こういうことを繰りかえしているうち
に、親子関係が破壊される。子どもの心を、見失う。

 「ほとんど会話をしない」というのは、あくまでも、その結果でしかない。

 子どもの心をつかみたかったら、そして、家族を大切にしたかったら、まずそれぞれの家族
の立場で、その中に自分を置き、ものを考える。そしてその視点から、自分を客観的にながめ
てみる。

 ここで私は、こう書いた。「するとやがて、自分の心が、やさしくなっていくのがわかる。と、同
時に、心の中に、ポッと、暖かい灯がともるのが、わかる」と。その書いた意味が、きっと、あな
たにもわかってもらえるはず。


+++++++++++++++++++++++++++

●真の自由

あなたには、自己中心的な人が、どういう人か、見えますか。
自分のことしか考えない、かわいそうな人たちです。
少し批判されたり、否定されたりすると、狂ったように、
反論する。自分の思いどおりにならないと、怒ったり、
不満に思ったりする。そして結局は、自分の思いどおりに、
人を動かしてしまう。居心地のいい世界をつくってしまう。

しかしそういう人は、同時に、まわりからどんどん、友をなくしていく。
思いどおりの世界をつくるのとひきかえに、たくさんのものをなくしていく。
気がついたときには、もう、そこには、だれもいない。

いつかそのさみしさに耐えかねて、その人は、こう思う。
「私の人生は、何だったのか」と。「私は、何のために、生きてきたのか」と。

決して、遅すぎるということはない。40歳になってからでもいい。
50歳になってからでもいい。ひょっとした、60歳になってからでも、
70歳や、80歳になってからでもいい。もちろん若ければ、若いほど、いい。

あなたも勇気を出して、「利己」を捨ててみよう。そしてほんの少しだけ、
ほんの少しだけでいい。「利他」の心で、相手の立場で、ものを考えてみよう。

どうしてあなたの妻(夫)は、苦しんでいるのか。なぜ、悩んでいるのか。
どうしてあなたの子どもは、あなたと話をしないのか。なぜ、逃げるのか。
どうしてあの人は、あなたを嫌っているのか。なぜ、あなたを避けるのか。
どうしてあの人は、あなたに冷たいのか。なぜ、あなたを粗末にするのか。

相手の心の中に、一度、自分を置いてみる。そしてそこからあなた自身を、
ながめてみる。できれば、そのとき、相手の苦しみや悲しみを、共有するといい。

あなたが、もし、自己中心的な人がどういう人かわからないというのであれば、
ひょっとしたら、あなた自身が、その自己中心的な人かもしれない。

自分勝手で、わがまま。負けることを嫌い、ゆずることを避ける。
あなたにとって、一番大切な人は、結局は、あなた自身。あなた自身だけ。
一番かわいい人は、結局は、あなた自身。あなた自身だけ。

あなたはあなたのために仕事をし、家族をつくっているだけ。
あなたはあなたのために仕事をし、働いているだけ。
つまりは、とても、心のさみしい人。孤独な人。

そう、孤独というのは、向こうからやってくるものではない。
孤独というのは、あなた自身が、自分でつくるもの。
もし孤独に苦しむというのであれば、孤独が原因ではない。
あなた自身が原因。あなたのさみしい心が、その孤独をつくっているだけ。

が、もしあなたにも、自己中心的な人がどういう人か見えるようになれば、
あなたは、利己から利他の世界に入ったことを意味する。
それは実におおらかで、ゆったりとした世界。心、豊かな世界。
そしてそのとき、あなたは孤独から解放されるだろう。
そう、そのとき、あなたは真の自由を手に入れることになる。

++++++++++++++++++++

【告白(2)】

 自己中心性が、肥大化すると、自己愛の世界に入る。「信じられるのは、自分だけ」「自分だ
けがよければ、それでいい」「自分こそが、世界で、一番大切な人間」という世界である。

 人は、一度、この自己愛の世界に足を踏みいれると、利己だけを前提に考える人間になって
しまう。自分の身のまわりから、利用できるものと、そうでないものを、動物的なカンでよりわ
け、利用できるものには価値を認め、そうでないものについては、容赦なく、排斥する。

 人間関係も、そうである。

 そのため、自己愛の世界に入った人は、他人と、良好な人間関係が結べなくなる。結んで
も、表面的、儀礼的。そのため、どうしても、その人間関係は、浅くなる。外から見える、華やか
さにだまされてはいけない。このタイプの人ほど、社交的に、かつ明るく振るまうことが多い。

 ビジネスの世界では、こうした人間関係は、ごく日常的に見られる。しかし問題は、家族であ
る。

 とてもおかしなことだが、結婚してからも、夫や妻にさえ、心を開けない配偶者は、多い。子ど
もに対してでさえ、心を開けない親も、多い。

 心が開けないから、自己愛の世界に入るのか、あるいは自己愛の世界に入るから、心を開
けなくなるのか。その因果関係はともかくも、自己愛の特徴として、つぎのようなものがある。

(1)独善的、ひとりよがり
(2)完ぺき主義、仕事を他人に任せられない
(3)自分勝手、わがまま
(4)がんこになる。かたくなになる。
(5)批判されるのを許さない。批判されると、極端に気にする。
(6)キズつきやすい。
(7)自己中心性

 7番目に「自己中心性」をあげたが、この自己中心性こそが、自己愛の最大の特徴ということ
になる。

 一見、自己愛というと、その人自身にとっては、生きやすい生きザマに見えるが、実は、この
タイプの人は、その代償として、「孤独」という大きな問題をかかえることになる。

 そこで私自身の告白ということになるが、私は、孤独だった。今も、基本的には、孤独だが、
しかし自己愛が抜け出ることによって、少しは、その孤独感がやわらいだように思う。

 ただここにも書いたように、利己的な人は、自分ではそれがわからない。一度、利他の世界
を知ってはじめて、その人は、それまでの自分が利己的だったと気づく。

 それはちょうど、外国に出てみてはじめて、日本の本当の姿がわかるようなものである。

 そしてここが重要だが、利己的な人からは、利他的な人が、ただのバカか、お人好しに見え
る。しかし利他的な人からは、利己的な人が、あわれで、かわいそうな人に見える。

 乳幼児期の子どもは、その自己中心性から、利己的な生きザマを示す。が、人格が完成す
るにつれて、利他的なものの考え方を身につける。(そうでないまま、つまり人格的に未完成な
まま、おとなになる人も少なくないが……。)

 利他的になってはじめて、それまでの自分が利己的であったことを知る。

 私も、実は、そうだった。またそういう意味では、私は、実に人格的に、不完全な人間だった。
(今でも、不完全だが……。)いつも自分のことしか、考えていなかった。しかしそのときは、自
分自身に問題があるなどとは、思ってもみなかった。

 しかし、年をとるごとに、孤独感は大きなり、やがてそれをもてあますようになった。気がつい
てみたら、私のまわりには、だれもいなくなってしまった。私の子どもたちはもちろんのこと、ワ
イフですら、「離婚」という言葉を口にしながら、私の世界から飛び出そうとしていた。


++++++++++++++++++++++++

●よりよい家庭をつくるために……

あなたはあなたの家族を、愛しているか。
本当に、愛していると、自信をもって、言えるか。

ひょっとしたら、あなたは、自分のために、
家族を愛しているだけかもしれない。

愛というのは、無私の状態で、相手の心の中に自分を置くこと。
相手の立場でものを考え、相手の苦しみや悲しみを共有すること。

慈悲というのは、無私の状態で、相手がいいように、してあげること。
相手のやすらぎを考えてあげる。そこからあなたは、自分のやすらぎを得る。

夫婦の間が、おかしいと苦しんでいる、あなたへ、
親子の間が、うまくいかないと悩んでいる、あなたへ、
方法は、簡単。本当に簡単。
夫(妻)や子どもの立場でものを考え、そこから自分をながめるだけ。
あとは、ただひたすら、「許して、忘れる」。
これだけを、繰りかえす。

あとは、すべて、時間が解決してくれる。
あなたがすべきことは、そのときがくるのを、
ただひたすら、静かに、待つだけ。
ただただ、静かに、待つだけ……。

++++++++++++++++++++++

【告白(3)】

 先日、テレビを見ていたら、ある夫婦を紹介していた。

 夫は、45歳くらい。妻も、同じくらいではなかったか。5人の子どもをかかえ、苦労している夫
婦が、テーマになっていた。

 その番組の中で、気になったことが一つある。それは妻が、ことあるごとに、夫を、けなしてい
たこと。

 「この人は、稼ぎが少なくてねえ」
 「名前だけは、大黒柱。笑ってしまいますよ」
 「もう少し、働いてくれればねえ」
 「死ぬ気でがんばってほしいです」と。

 まさに言いたい放題。

 私はそういう番組を、どうしても、夫の立場で見てしまう。「夫がかわいそう」と思うと同時に、
「何という悪妻」と思ってしまう。

 で、考えた。「この妻は、自分のことしか、考えていない」「夫を、自分のために利用している
だけ」と。

 つまりその妻は、夫を愛していない、と。

 ただその夫という人は、どこかヌボーッとした人で、妻にそう言われながらも、ニコニコ笑って
いるだけ。気にしているような様子でもなかった。私はそれを見ながら、「もし、私のワイフがそ
んなことを口にしたら、その場で、家を出てやる」と思った。

 夫婦だから、愛しあって結婚したはず。愛しあっているはずという、『ハズ論』ほど、いいかげ
んなものはない。またそういう『ハズ論』の上で、夫婦を考えるから、話がおかしくなる。

 いつも同じような失敗を繰りかえしているようなら、ここにも書いたように、一度、相手の立場
で、ものを考えてみるとよい。あなたも、それまで気づかなかったことを、気づくようになるかも
しれない。


++++++++++++++++++++

●死ぬのがこわいと恐れている、あなたへ

死ぬのがこわい?
そう思ったら、あなたのまわりの人のことを考えてみよう。
あなたが死ぬことで、悲しむ人たちのことを思ってみよう。

あなたは死ぬことを心配してはいけない。
心配すべきことは、あなたの死を悲しむ人たちのこと。
そういう人たちの心を、少しでも、いやしてあげること。
やすらいであげること。
あなたの死を悲しまないように、してあげること。

いや、あなたが死をこわがるのは、
あなたの死を悲しむ人がいないからではないのか。

もしそうなら、それこそ、孤独。無間の孤独。

決して、遅すぎることはない。
明日、死を迎える人でも、それに気がつけば、
あなたは、永遠の平和と、心のやすらぎを
手にすることができる。

【告白(4)】

 この散文詩は、このままボツにしようかと迷った。あまりにも大上段な意見で、不愉快に思わ
れた人も多いかと思う。

 これについては、今夜、夕食を食べながら、ワイフと、こんな会話をした。

私「ぼくね、思うんだけど、ぼくが、死んでも、悲しむ人は、一人もいないよ」
ワイフ「そんなことないわよ。私は悲しむわ」
私「無理しなくて、いいよ。わかっているから」
ワ「だから、あなたは、かわいそうな人なのよ。人を信ずることができない人なのよ」

私「でも、おかしな気分だ。そう言ってもらうと、うれしいけど、それでお前が悲しむようなら、つ
らい」
ワ「じゃあ、悲しまなければいいの?」
私「悲しんでほしいけど、悲しんでほしくない」

ワ「じゃあ、どうすればいいのよ?」
私「まあ、一時的には悲しんでも、それ以上、悲しんでほしくない。ぼくが先に死んだら、ちゃん
と、あの世で待っててあげるから」
ワ「別に、待っててくれなくてもいいわよ。あの世で、いい人がいたら、その人と、いっしょになれ
ばいいじゃない」

私「だから、お前は、冷たい」
ワ「冷たくないわよ。あなたがひとりで、かわいそうだと思うから、そう言うのよ」
私「じゃあ、お前は、どうする?」
ワ「ゆっくり、死ぬわ。再婚してもいいし……。でも、もう結婚は、うんざり。一度で、たくさん」
私「……」と。

 ワイフと会話をしていると、崇高な理念も、どこかへ吹き飛んでしまう。だからやはり、この原
稿はボツにしたほうがよいのかもしれない。明日、もう一度、読みなおしてから、それを決めよ
う。
(040814)




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●教育基本法改正案

 教育基本法の改正が、あちこちで、論じられている。その中の一つ、自民党と民主党の超党
派議員がつくる、『教育基本法改正促進委員会』の席で、冒頭、民主党のN村S吾議員は、こう
言っている(04年2月)。

 「お国のために命を投げ出しても構わない日本人を生み出す。お国のために命をささげた人
があって、今、ここに祖国があるということを、子どもたちに教える。これに尽きる」

 「お国のために命を投げ出すことをいとわない機構、つまり国民の軍隊が、明確に意識され
なければならない。この中で国民教育が復活していく」(夕刊フジ)と。

 「お国のため」とはねえ……? それはともかくも、このN村氏の発言は、どこからどう考えて
も、おかしい。

 どこかの独裁者がつくる全体主義国家は別として、国というのは、そこに住む人たちが、文
化や伝統を共有しながらつくりあげる、集合的組織をいう。わかりやすく言えば、国あっての民
ではない。民あっての国である。

 N村氏の視点は、私とは、まったく逆! N村氏は、国あっての民と考えているようだ。もっと
言えば、民は、為政者の財産にすぎない?

 戦前の日本のように、そして現在のK国のように、その頂点にいる人が、その国民に向って、
「我が臣民」と言うような国が、本当に、国なのか? 国と言えるのか? そう言えば、少し前ま
で、イギリスのエリザベス女王も、イギリス国民を呼ぶとき、「My people(私の民たち)」と呼
んでいた。

 その民が、自分の国をさして、「私の国」と呼ぶのは、かまわない。しかし為政者が、その民
に向って、「私の民」と呼ぶのは、おかしい。もう少しわかりやすい例では、ある学校の生徒た
ちが、自分の通う学校を、「私の学校」と呼ぶのは、かまわない。しかしその学校の校長が、生
徒たちを、「私の生徒たち」と呼ぶのは、おかしい。

ちなみに、今、アメリカでは大統領選挙たけなわ。しかしブッシュにせよ、ケリーにせよ、アメリ
カ国民に向って、「My people」などと言っているのを、聞いたことがない。

 発想のちがいというよりは、そういった意識そのものが、ない。それが民主主義である。

 が、N村氏の心配していることもよくわかる。しかし私たちは、何も、そこらの政治家に言われ
なくても、そのときがきたら、ちゃんと、戦う。目の前で、家族や仲間が殺されるようなことがあ
れば、ちゃんと戦う。

 そのためにも、政治家たちは、まず、その手本なり、見本を見せてほしい。命がけで、「お国」
のためやらのために戦っている姿を見せてほしい。

 が、現実は、逆。

 1億円もヤミ献金を受け取りながら、「忘れました」「覚えていません」と、責任のがれをしてい
る政治家がいる。そういう政治家を見ると、私たち国民は、「何〜だ」と思ってしまう。いざとなっ
たら、イの一番に、敵前から逃げ出す。そんな政治家が、「国のために死ね」と言ったとしても、
はたして国民は、それに従うだろうか。

 こうした流れを受けて、すでに学校の教育現場では、『心のノート』の発行、愛国心の三段階
評価、さらには、東京都のように、日の丸、君が代の強制など、いわゆる国家主義が、猛烈な
勢いで進んでいる。

 わかりやすく言えば、「お国のために命を投げ出しても構わない」(N村議員)、もの言わぬ従
順な民づくりが、すでに始まっているということ。N村議員といえば、銃撃事件を引き起こした、
日本刀剣の会から、顧問として政治献金を受け取っていた議員である。

 なるほどと思うと同時に、これでいいのかなあと思う。

++++++++++++++++++++

愛国心教育について

●郷土愛と言い換えたら●民主主義を守ろう

「愛国心は世界の常識」(政府首脳)という。しかし本当にそうか?

 英語で「愛国心」というのは、「ペイトリアチズム」という。ラテン語の「パトリオス(父なる大
地)」に由来する。つまりペイトリアチズムというのは、「父なる大地を愛する」という意味であ
る。私にはこんな経験がある。

 ある日、オーストラリアの友人たちと話していたときのこと。私が「もしインドネシア軍が君たち
の国(カントリー)を攻めてきたら、どうする」と聞いた。オーストラリアでは、インドネシアが仮想
敵国になっている。が、皆はこう言った。

「逃げる」と。「祖父の故郷のスコットランドに帰る」と言ったのもいた。何という愛国心! 私が
驚いていると、こう言った。

「ヒロシ、どうやってこの広い国を守れるのか」と。英語でカントリーというときは、「国」というよ
り、「郷土」という土地をいう。そこで質問を変えて、「では君たちの家族がインドネシア軍に襲
われたらどうするか」と聞いた。すると皆は血相を変えて、こう言った。「そのときは容赦しな
い。徹底的に戦う」と。

 一方この日本では、愛国心というと、そこに「国」という文字を入れる。国というのは、えてして
「体制」を意味する。つまり同じ愛国心といっても、欧米でいう愛国心と、日本でいう愛国心は、
意味が違う。内容が違う。

 たとえばこの私。私は日本人を愛している。日本の文化を愛している。この日本という大地を
愛している。しかしそのことと、「体制を愛する」というのは、別問題である。体制というのは、未
完成で、しかも流動的。そも「愛する」とか「愛さない」とかいう対象にはならない。愛国心という
言葉が、体制擁護の方便となることもある。左翼系の人が、愛国心という言葉にアレルギー反
応を示すのは、そのためだ。

 そこでどうだろう。愛国心という言葉を、「愛人心」「愛土心」と言い換えてみたら。「郷土愛」
「愛郷心」でもよい。そうであれば問題はない。私も納得できる。右翼の人も、左翼の人も、そ
れに反対する人はいまい。子どもたちにも胸を張って、堂々とこう言うこともできる。

「私たちの仲間の日本人を愛しましょう」「私たちが育ててきた日本の文化を愛しましょう」「緑
豊かで、美しい日本の大地を愛しましょう」と。

その結果として、現在の民主主義体制があるというのなら、それはそれとして守り育てていか
ねばならない。当然のことだ。
(はやし浩司 愛国心 愛郷心 郷土愛 教育基本法 改正案)





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【孤独からの解放】

+++++++++++++++++++++++

真の幸福とは何か。その幸福を手にするためには、
私たちは、どう考えればよいのか。どうすればよいのか。

利己から利他へ。私は、そこに、この問題を解く
カギがあるのではないかと思っている。

+++++++++++++++++++++++

●自己愛について、さらに……

自己愛の特徴として、つぎのようなものがある。

(1)独善的、ひとりよがり
(2)完ぺき主義、仕事を他人に任せられない
(3)自分勝手、わがまま
(4)がんこになる。かたくなになる。
(5)批判されるのを許さない。批判されると、極端に気にする。
(6)キズつきやすい。
(7)自己中心性

 7番目に「自己中心性」をあげたが、この自己中心性こそが、自己愛の最大の特徴ということ
になる。

 ここでは、もう少し、ほりさげて、具体的に考えてみたい。

●ある2組の夫婦

 ワイフが属するクラブに、こんな友だちがいるという。その友だちを、Dさんとしておく。

 夫とは、15歳近くも、年が離れているという。ワイフは、「それが理由よ」と言うが、その夫
は、妻に対して、実に寛大。おおらか。その妻が、一人で、外国旅行にでかけても、何も言わな
いという。

私「奥さんが、一人で、外国へ遊びに行くのか?」
ワ「そうみたい。パック・ツアーだけどね。この前は、韓国へ、韓国料理を楽しむ会というツアー
に行ってきたみたい」
私「ダンナさんは、奥さんの浮気を心配しないのか?」
ワ「したければどうぞっていう雰囲気だってエ」と。

 それでいて、夫婦仲は、悪くないらしい。私も何度か、Dさんを見かけたことがあるが、いつ
も、生き生きとしている。表情も明るい。通りで会ったりすると、「アラッ、林さん!」と声をかけ
てくれる。

 その一方、妻を、絶対に外に出さない夫もいる。

 Uさん(女性)は、今年、56歳になるが、結婚してからこのかた、ただの一度も、夫と離れて
旅行など、したことがないという。病院へ入院することさえ、夫は、許さないという。

 そのくせ、夫のほうはといえば、遊び放題。1週間近くも、愛人の家に入りびたりになって、家
に帰ってこなかったこともあったという。

 Uさんは、もの静かで、おだやかな感じのする人だが、そういうこともあって、表情は、いつも
暗い。どこか自分を押し殺しているような雰囲気がある。

 この二つのケースを並べてみると、自己愛がどういうものか、その輪郭(りんかく)が見えてく
る。

 Dさんの夫は、妻を信じている……というより、みじんも、妻を疑っていない。妻の生きがい、
妻の意思を、何よりも大切にしている。つまりいつも、妻の立場で、ものを考えている。

 一方、Uさんの夫は、自分勝手で、わがまま。自己中心性が強く、自分の立場しか考えてい
ない。妻といっても、いわば、「家」の飾りのようなもの。もっと言えば、家政婦? そんな感じが
しないでもない。

 Uさんの夫は、妻を、信じていない。

●自己愛者は、孤独?

 自己愛者というより、自己中心的な人は、それだけ孤独な人と考えてよい。その根底には、
「信じられるのは、自分だけ」という、根強い、他人への不信感がある。

 このタイプの人は、独善的である分だけ、他人の失敗を許さない。完ぺき主義。こまかいこと
を、つぎつぎと指示して、自分の思いどおりにならないと、不愉快に思ったり、怒ったりする。

 たとえば、昔、こんな女性がいた。

 その家は、江戸時代からの名家ということだそうだが、その女性は、その家の女主人。ことさ
ら伝統としきたりに、うるさい人だった。それはわかるが、長男の嫁が、たいへんだった。

 床の間の飾りつけ一つにしても、ほんの少しでも位置がずれていたりすると、やりなおしをさ
せられたという。

 この女性のばあい、自己愛というよりは、自家愛というべきか。嫁という「人間」より、自分の
「家」のほうが大切なのかもしれない。

 もちろんそれぞれの人には、それぞれの生き方がある。それぞれの人が、それで、それなり
にハッピーであれば、問題はない。他人がとやかく言う必要はない。

 しかし自己愛にせよ、自家愛にせよ、それと引きかえに、孤独という地獄を背負うことにな
る。

 私も、ときどきこう思う。「私が死んだら、だれが悲しんでくれるだろう」と。

 別に悲しんでほしいわけではないが、そう考えたとき、ふと、「私が死んでも悲しむ人は、だれ
もいないだろうな」と思ってしまう。たとえば先日も、同じ町内の判で、私と同年齢の男性が死ん
だ。

 散歩のとき、ときどき顔を合わせる程度のつきあいしかなかったら、その人が死んだという話
を聞いたときも、ショックはショックだったが、悲しいという思いは、わいてこなかった。

 が、それが親類や、さらに身内となると、そうはいかない。が、そのときも「その人が死んで、
悲しい」というよりは、「自分の過去が消えていく」というさみしさのほうが、先にくる。その人の
死を悼(いた)むというよりは、どこか自分のために、その人の死を、悔やむといったほうに近
い。

 では、家族は、どうか? これについては、こんな話がある。

 私も、晴れて孫をもち、ジジイの仲間入りをした。ジジイの気持ちが、理解できるようになっ
た。そこである日、ふと、幼稚園児たちに、こう聞いてみた。

 「みんなには、おじいちゃん、おばあちゃんは、いるかな?」と。すると何人かの子どもたち
が、「もう、死んだ」と答えた。

 そこですかさず、「おじいちゃんや、おばあちゃんが死んだとき、悲しかったかな?」と聞いて
みた。すると、最近、祖父母をなくした子どもたちですら、全員(4、5人)、「ううん。悲しくなかっ
た」「ゼンゼン」と答えた。

 「そういうものかなあ」と思った。「反対に、孫が死んだら、ジジイにせよ、ババアにせよ、狂っ
たように悲しむのに」とも。

●幸福の追求

 幸福の追求とは、何か。

 あるいは、どういう状態を、幸福というのか。

 おいしいものを食べ、きれいな衣服を身にまとい、快適な家に住むことなのか。

 私とて、お金は、嫌いではない。しかしお金では、幸福は、買えない。(反対に、お金がなく
て、不幸になる人は、いくらでもいるが……。)

 しかし幸福感ほど、わかりにくい感覚はない。欲望を満足させたときを幸福と言うのなら、そ
れは、まちがっている。満腹になったとき。予定外のボーナスが、舞いこんできたとき、そういう
とき感ずる満足感は、ここでいう幸福感とは、無縁のものである。

 で、私は、最近、幸福とは、まわりの人たちの心の中で、やすらぎを感ずることではないかと
思い始めている。まだそう思い始めたばかりで、それが結論というわけではない。

 しかし孤独から自分が解放されたと感じたとき。そういう状態を、幸福というのではないか、
と。言いかえると、孤独との戦い。その戦いを通して、その反射的効果として与えられる感覚
が、幸福という感覚ではないか、と。

 そういう意味で、幸福と孤独は、コインの表と裏のようなものかもしれない。孤独と戦うこと
で、その人は、幸福になれる。しかしいくら、欲望を満足させても、そこに孤独を感ずるようであ
れば、その人は、決して、幸福とはいえない。

●孤独は、無間の地獄

孤独とは、究極の地獄と考えてよい。

 イエス・キリスト自身も、その孤独に苦しんだ。マザーテレサは、つぎのように書いている。こ
の中でいう「空腹(ハンガー)」とは、孤独のことである。

When Christ said: "I was hungry and you fed me," he didn't mean only the hunger for bread 
and for food; he also meant the hunger to be loved. Jesus himself experienced this 
loneliness. He came amongst his own and his own received him not, and it hurt him then and 
it has kept on hurting him. The same hunger, the same loneliness, the same having no one to 
be accepted by and to be loved and wanted by. Every human being in that case resembles 
Christ in his loneliness; and that is the hardest part, that's real hunger. 

 キリストが言った。「私は空腹だった。あなたが食事を与えてくれた」と。彼はただ食物として
のパンを求める空腹を意味したのではなかった。

彼は、愛されることの空腹を意味した。キリスト自身も、孤独を経験している。つまりだれにも
受け入れられず、だれにも愛されず、だれにも求められないという、孤独を、である。彼自身
も、孤独になった。そしてそのことが彼をキズつけ、それからもキズつけつづけた。どんな人も
孤独という点では、キリストに似ている。孤独は、もっともきびしい、つまりは、真の空腹というこ
とになる。

 あのアリストテレスでさえ、「世界中のあらゆるものを手に入れたとしても、だれも、孤独
(friendless condition)は選ばないだろう(No one would choose a friendless existence on 
condition of having all the other things in the world. )」と述べている。

 孤独を、安易に考えてはいけない。「生きるということは、まさに孤独の闘い」と言っても、言
い過ぎではない。と、同時に、それは個人化が、いかにけわしい道であるかを意味する。

 もっとも若いときは、その孤独の意味すらわからない。健康で、死への恐怖もない。毎日がス
リルと興奮の連続。そんな感じですぎていく。孤独を感ずることがあるとするなら、何かのことで
つまずき、ふと立ち止まったようなときだ。

 「私は私」という生きザマの中で、自分のカラに入ることは、同時に、その孤独を背負うことを
意味する。

 ではどうすればよいのか。

 そのヒントとして、マザーテレサは、「愛」があると、書いている。

●まず自分を知る

 まず、自分の中の自己中心性を知る。すべては、ここから始まる。

 が、これがむずかしい。どの人も、自分のことは、自分が一番よく知っていると思っている。あ
る意味ではそうだ。谷間に住んで、山に登ったことがない人には、自分の村の姿の全体像は
わからない。

 「私」もそうで、私を知るためには、一度、視点を、私の外に置いてみなければならない。私
を、私の目を通して見ているかぎり、私など、ぜったいにわからない。

 先日も、私は幼児の前で、わざと計算ができないフリをしてみせた。「3たす5は……? エ〜
ト」と。そして電卓をパチパチとたたいてみせたら、一人の子どもが、こう言った。「あんたは、
本当に、センセイ?」と。

『無知の知』という言葉がある。ソクラテス自身が述べた言葉という説もあるし、ソクラテスにま
つわる話という説もある。どちらにせよ、「私は何も知らないという事実を知ること」を、無知の
知という。

 ソクラテスは、「まず自分が何も知らない」ということを自覚することが、知ることの出発点だと
言った。

 実際、そのとおりで、ものごとというのは、知れば知るほど、その先に、さらに大きな未知の
分野があることを知る。あるいは新しいことを知ったりすると、「どうして今まで、こんなことも知
らなかったのだろう」と、自分がいやになることもある。

 少し前だが、こんなこともあった。

 子ども(年長児)たちの前で、カレンダーを見せながら、「これは、カーレンジャーといいます」
と教えたら、子どもたちが、こう言って、騒いだ。「先生、それはカーレンジャーではなく、カレン
ダーだよ」と。

 で、私は、「君たちは、子どものクセに、カーレンダーも知らないのか。テレビを見ているんだ
ろ?」と言うと、一人の子どもが、さらにこう言った。「先生は、先生のくせに、カレンダーも知ら
ないのオ?」と。

 私はま顔だったが、冗談のつもりだった。しかし子どもたちは、真剣だった。その真剣さの中
に、私はソクラテスが言ったところの、「無知」を感じた。

 しかしこうした「無知」は、何も、子どもの世界だけの話ではない。私たちおとなだって、無数
の「無知」に囲まれている。ただ、それに気づかないでいるだけである。そしてその状態は、庭
に遊ぶ犬と変らない。

 そう、私たち人間は、「人間である」という幻想に、あまりにも、溺れすぎているのではない
か。利口で賢く、すぐれた生物である、と。

 しかし実際には、人間は、日光の山々に群れる、あのサルたちと、それほど、ちがわない?
 「ちがう」と思っているのは、実は、人間たちだけで、多分、サルたちは、ちがわないと思って
いる。

 同じように人間も、仮に自分たちより、さらにすぐれた人間なり、知的生物に会ったとしても、
自分とは、それほど、ちがわないと思うだろう。自分が無知であることにすら、気づいていない
からである。

 何とも話がこみいってきたが、要するに、「私は愚かだ」という視点から、ものを見ればよいと
いうこと。いつも自分は、「バカだ」「アホだ」と思えばよいということ。それが、結局は、自分を知
ることの第一歩ということになる。

●利己から利他への転換

 自分の中の自己中心性を知るのは、そういう意味では、たいへんむずかしい。仮にあなたが
そうであるとしても、それに気づくことは、至難のワザである。が、もし、あなたが、「さみしい」
「孤独だ」「友がいない」「わかってくれる人がいない」と感じているなら、まず、自分の自己中心
性を疑ってみたらよい。

 すべては、ここから始まる。

 ひょっとしたら、あなたは、自分のカラに閉じこもり、自分だけを愛しているだけかもしれな
い。幻想と幻惑にとりかこまれ、「私は愛されている」「愛されて当然」「尊敬されている」「尊敬さ
れて当然」と思っているだけかもしれない。

 本当のところ、だれも、あなたを愛してはいない。尊敬もしていない。もっと言えば、あなたが
死んだところで、だれも悲しまない。

 型どおりの葬儀。型どおりの弔辞。型どおりの法事。それを繰りかえすうち、やがてあなたの
ことなど、だれも話さなくなる。

 実は、そのことを、あなた自身が一番よく知っている。が、それを認めることは、あなたにとっ
ては、人生の敗北。だから懸命に虚勢を張って、そうでない自分を演出する。

 「私は、孤独ではない」「私には、友が多い」「私は、みんなから愛されている」と。

 このタイプの人間は、夜のバラエティ番組に出てくるタレントたちを見れば、わかる。派手な衣
装を身にまとい、金ピカピカの装飾品で、それを飾る。そして言うことは、いつも同じ。

 「X国の皇族たちとも、私は友人でして……」と。

 しかしそういうタレントが死んで、だれが悲しむだろうか。涙を流すだろうか。

 そう、あなたは孤独だ。あなたが身を置いて、その心を休める人は、だれもいない。

 ……と、そこまで気づいたら、あとは、簡単。本当に簡単。ウソのように簡単。

 一度、ためしに、相手の心の中に自分を置いて、その相手の心の中から、自分がどう見える
か、ちょっとだけ試しに、見てみてほしい。

 あとは、少しずつ、その機会をふやしていく。それでよい。それであなたは、利己から、自分を
切り離すことができる。

 が、いつまでも利己にこだわっていると、あなたは、無間の孤独地獄から、解放されることは
ない。それについて、たびたび考えてきたので、今まで書いた原稿の中から、いくつかを選ん
で、収録する。

+++++++++++++++++++

●孤独からの解放、それが自由

 イエス・キリストは、こう言っている。『真理を知らん。而(しこう)して真理は、汝らに、自由を得
さすべし』(新約聖書・ヨハネ伝八章三二節)と。「真理を知れば、そのときこそ、あなたは自由
になれる」と。

 私が、「私」にこだわるかぎり、その人は、真の自由を手に入れることはできない。たとえば
「私の財産」「私の名誉」「私の地位」「私の……」と。こういうものにこだわればこだわるほど、
体にクサリが巻きつく。実が重くなる。動けなくなる。

 「死の恐怖」は、まさに「喪失の恐怖」と言ってもよい。なぜ人が死をこわがるかといえば、そ
れは死によって、すべてのものを失うからである。

いくら、自由を求めても、死の前では、ひとたまりもない。死は人から、あらゆる自由をうばう。
この私とて、「私は自由だ!」といくら叫んでも、死を乗り越えて自由になることはできない。は
っきり言えば、死ぬのがこわい。

が、もし、失うものがないとしたら、どうだろうか。死をこわがるだろうか。たとえば無一文の人
は、どろぼうをこわがらない。もともと失うものがないからだ。

が、へたに財産があると、そうはいかない。外出しても、泥棒は入らないだろうか、ちゃんと戸
締りしただろうかと、そればかりが気になる。そして本当に泥棒が入ったりすると、失ったもの
に対して、怒りや悲しみを覚える。泥棒を憎んだりする。「死」もこれと同じように考えることはで
きないだろうか。つまり、もし私から「私」をとってしまえば、私がいないのだから、死をこわがら
なくてもすむ?

 そこでイエス・キリストの言葉を、この問題に重ねてみる。イエス・キリストは、「真理」と「自由」
を、明らかに対比させている。つまり真理を解くカギが、自由にあると言っている。言いかえる
と、真の自由を求めるのが、真理ということになる。

もっと言えば、真理が何であるか、その謎を解くカギが、実は「自由」にある。さらにもっと言え
ば、究極の自由を求めることが、真理に到達する道である。では、どうすればよいのか。

 一つのヒントとして、私はこんな経験をした。話を先に進める前に、その経験について書いた
原稿を、ここに転載する(中日新聞掲載済み)。

++++++++++++++++++++

●無条件の愛

真の自由「無条件の愛」

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。「私は自由
だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、もしその恐
怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。

 しかし、それは可能なのか…?  その方法はあるのか…? 

 一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自
分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をし
た。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカでは、花嫁の居住地で式をあげる習わしになってい
る。式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けて、クリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

 その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺
さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声
が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「日本人をやめる、ということか…」
息子「そう」
私「…いいだろ」と。

 私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえ
に、一人の人間として息子を許し、受け入れた。英語には「無条件の愛」という言葉がある。私
が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が
抜けるほど軽くなったのを知った。

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。
「私」を取り去るということは、つまり身の回りの、ありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け
入れるということ。

「私」があるから、死が怖い。が、「私」がなければ、死を怖がる理由などない。一文無しの人
は、泥棒を恐れない。それと同じ理屈だ。死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。
では一緒に参りましょう」と言うことができる。そしてそれができれば、私は死を克服したことに
なる。真の自由を手に入れたことになる。

その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし
一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。

●では、どうすればよいのか?

 問題は、いかにすれば、私から「私」をとるか、だ。それには、いろいろな攻め方がある。一つ
は、自分自身の限界を認める。一つは、とことん犠牲的になる。一つは、思索を深める。

(自分自身の限界)私たち人間とて、そして私自身とて、自然の一部にすぎない。自然を離れ
て、私たちは人間ではありえない。野に遊ぶ鳥や動物と、どこも違わない。違うはずもない。そ
ういう事実に、謙虚に耳を傾け、それに従うことが、自分自身の限界を認めることである。私た
ちは、自然を超えて、人間ではありえない。まさに自然の一部にすぎない。

(犠牲的である)犠牲的であるということは、所有意識、我欲、さらには人間が本来的にもって
いる、貪欲、ねたみ、闘争心、支配欲、物欲からの解放を意味する。要するに「私の……」とい
う意識からの決別ということになる。「私の財産」「私の名誉」「私の地位」など。「私の子ども」も
それに含まれる。

(思索を深める)「私」が、外に向かった意識であるとするなら、「己(おのれ)」は、中に向かっ
た意識ということになる。心という内面世界に向かった意識といってもよい。この己は、だれに
も奪えない。だれにも侵略されない。「私の世界」は、不安定で、不確実なものだが、「己の世
界」は、絶対的なものである。その己の世界を追求する。それが思索である。

 私から「私」をとるというのは、ひょっとしたら人生の最終目標かもしれない。今は「……しれな
い」というような、あいまいな言い方しかできないが、どうやらこのあたりに、真理の謎を解くカ
ギがあるような気がする。それは財宝探しにたとえて言うなら、もろもろの賢者が残してくれた
地図をたよりに、やっとその財宝があるらしい山を見つけたようなものだ。

財宝は、その先? いや、本当にその山のどこかに財宝が隠されているかどうかさえ、わから
ない。そこには、ひょっとしたら、ないかもしれない。「山」といっても広い。大きい。残念なこと
に、それ以上の手がかりは、今のところ、ない。

 今はこの程度しか書けないが、あのベートーベンも、こう言っている。『できるかぎり善を行
え。自由を愛せよ。たとえ王座の前でも、断じて、真理を裏切ってはならぬ』(「手記」)と。

彼の言葉を、ここに書いたことに重ねあわせてみても、私の言っていることは、それほどまちが
ってはいないのではないかと思う。このつづきは、これからゆっくりと考えてみたい。

●「真理を燈火とし、真理をよりどころとせよ。ほかのものを、よりどころとするなかれ」(釈迦
「大般涅槃経」)。
(040815)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【愛と寛容、そして孤独論】

●許してから、裁く

 相手を認め、理解し、相手の立場で考えてから、許し、そしてそれがすんだら、その相手を裁
く。

 これは人とのつきあい、とくに、親子、夫婦の間では、とても大切なことです。

 許さないまま、相手を裁いていたら、家族はバラバラ。夫婦もバラバラ。

 よい例が、こんな言葉。「何よ、こんな点数で! こんなことでは、いい中学に、入れないでし
ょう!」
「あんたの稼ぎが少ないから、生活が苦しいのよ! しっかり仕事をしてよ!」と。

 許すというのは、英語で、「FOR・GIVE」といいます。しかしこの単語は、「与える・ため」とも
訳せます。

 何を与えるか?

 もうおわかりのことと思います。「許す」というのは、「相手に愛を与えるため、許す」ということ
になります。

 では、「愛」とは何か?

 愛とは、相手の心の中に、自分を入れて、相手の心の中で、悲しみや苦しみを共有するこ
と。それができる人を、心豊かな人という。愛の深い人という。

 まずいのは、その愛がないまま、相手を裁くこと。自分の価値観を押しつけ、自分の判断で、
相手を裁くこと。

 やがて家族はバラバラ。夫婦もバラバラ。家庭崩壊は、目に見えています。


●やすらぎ

 やすらぎ……。親子にせよ、夫婦にせよ、ほんのわずか、あれば、それでよいのです。

 毎日、毎時間、毎分なんて、期待するほうが、おかしい。ほんの瞬間で、よいのです。その瞬
間に、(やすらぎ)があれば、それでよいのです。

 寒い夜、先に寝たワイフのふとんの中に、そっと足をしのばせる。その瞬間、そこに、肌のぬ
くもりを感ずる。

 重い荷物をぶらさげて、ショッピングセンターから帰る。荷物を車に入れようとした、その瞬
間、息子が、手を貸してくれる。

 それでよいのです。

 その(瞬間)があるから、夫婦は夫婦。親子は親子。それ以上、私たちは、妻や息子に何を
望むことができるでしょうか。

 ついでに一言。

 やすらぎというのは、薄いガラスでできた、箱のようなもの。ちょっとしたことで、すぐこわれて
しまいます。

 やすらぎを感じたら、「Handle with Care」。「割れ物注意」。ていねいに取りあつかってくださ
い。乱暴に扱うと、すぐこわれてしまいます。


●寛容

 「寛容」という言葉があります。よく誤解されますが、寛容というのは、あきらめるということで
はありません。わかりやすく言えば、「相手を受け入れる」ということ。それができる人を、心の
広い人といいます。それができない人を、心の狭い人といいます。

 ワイフが浮気しても、いいじゃないですか。したければ、すればいい。夫が、ほかの女にうつ
つを抜かしていても、いいじゃないですか。したければ、すればいい。

 息子が、金庫から、お金を盗んでも使っても、いいじゃないですか。したければ、すればい
い。娘が、夜遊びして、男と遊んできても、いいじゃないですか。したければ、すればいい。

 疑ったり、やきもきするほうが、損。あなた自身の心を腐らせる。

 どんな問題があっても、あなたが寛容であればあるほど、やがて、その寛容さが、相手の心
を溶かす。時間はかかるかもしれないが、必ず、溶かす。

 そのとき、あなたの夫や妻は、自分に恥じる。あなたの息子や娘は、自分に恥じる。

 若いときは、まだわからないかもしれない。しかしやがていつか、あなたも年をとれば、寛容
のもつ、ものすごいパワーに気づくはず。


●愛と寛容

 愛と寛容は、ペアになっています。

 相手の心の中に入って、相手の苦しみや悲しみを共有するのが、愛。反対に、自分の心の
中に、相手の心を入れ、怒りや不満を共有するのが、寛容。

 それができないあなたに、それを説明するのは、至難のわざです。不可能とさえ言えるかもし
れません。

 しかし一度、それに気づけば、つまり愛と寛容というものがあると気づくだけで、あとは簡単。
あなたは、それを、自由に、できるようになります。

 ためしに、あなたのまわりを見てください。

 それができる人は、自然な形で、ごく日常的に、それをしている。そうでない人は、そうでな
い。

 しかし、ね。ここで大切なことは、それができる人には、それができない人がよくわかるという
こと。が、それができない人には、それができる人がわからないということ。ただのお人好し
か、バカに見えるかも……?

 話が少し、こみいってきましたが、もう少し、かみくだいて説明してみましょう。

 それはちょうど、山登りに似ています。

 自分がそれまでいたところが、「低かった」ということは、山に登ったときはじめて、わかりま
す。山に登ったことがない人には、それがわかりません。

 しかし一度、山に登ってみると、低いところに住んでいる人が、よくわかります。

 同じように、たとえば、自己中心的な生き方をしている人には、自分が自己中心的な生き方
をしているということがわかりません。自分が自己中心的であるかどうかは、自分自身が、そう
でない生き方をしてみて、はじめてわかることなのです。

 あるいは自己中心的な生き方をしている人は、他人もまた、同じように自己中心的な生き方
をしていると、思いがちです。つまり他人をも、自分の基準で判断してしまうのです。

 だからさみしい……? だから孤独……?

 そこであなたも、勇気を出して、一度、相手の心の中に、自分を置いてみましょう。あるいは
反対に、相手の心を、自分の中に入れてみましょう。

 方法は簡単。本当に、簡単。ウソのように簡単。

 たとえば電車に乗ったとき、向こうの座席に座った人をじっと見ながら、頭の中で想像するだ
けでいいのです。

 「あの人から見たら、私はどう見えるだろうか?」「あの人は、今、どんな立場で、どんなことを
考えているだろうか?」と。

 たったそれだけのこと。それを何度も繰りかえしていると、やがてあなたは、相手の心の中
に、入っていくことができます。

 そして今度は反対に、相手を、あなたの心の中に、迎え入れてみましょう。

 これも簡単。本当に、簡単。ウソのように簡単。

 目を静かに閉じて、相手が自分の心の中に住んでいると思えばいいのです。「私がその人だ
ったら、どうするだろうか?「どう考えるだろうか?」とです。

 とたん、あなたは、ちょうど山登りをしたかのように、それまでの自分が、低いところに住んで
いたのがわかるはずです。「ナーンだ。こんなことだったのか」と、です。

 愛と寛容。この二つを、いつもペアで考えるのがコツです。

 さあ、あなたも勇気を出して、一度、ためしてみてください。

 勇気を出して、山に登ってみるのです。こわがっていないで……。勇気を出して!

 あなたは、そこに青空の広がった、すばらしい世界を見ることでしょう!


●孤独と寛容

 孤独は、向こうからやってくるものではありません。

 あなた自身が、あなたの心の中で、自分でつくるものです。

 人を信じられない、あなた。人から信じられない、あなた。そういうあなたは、同時に、人を愛
することができない。愛されることも、ない。

 だから、さみしい。だから孤独。

 まず、ためしに、あなたの夫(妻)を信じてみなさい。あなたの子どもを信じてみなさい。

 裏切られても、だまされても、それでも信じてみなさい。

 方法は、簡単。本当に簡単。ウソのように、簡単。

 夫(妻)や子どもを、あなたの心の中に、迎え入れてみればよいのです。

 私にも、こんな経験があります。

 息子の一人が、金庫のカギを持ちだし、その金庫から、お金を盗んで使っているのを知った
ときのこと。一度は、きびしく叱りましたが、そのあと、ふと、「私もそうだったなあ」と思いなおし
ました。、

 そして同時に、「私も、今の息子と同じ立場だったら、同じことをするだろうな」と思いなおしま
した。

 とたん、怒りが消えました。笑ってすますことができました。

 相手を、自分の心の中に入れるということは、そういうことを言います。

 もし今のあなたがさみしなら、そして孤独なら、まず、あなたの夫(妻)や子どもを、あなたの
心の中に、受け入れてみましよう。

 「浮気でも何でも、したければすればいいのよ」「学校の成績など、どうということはないのよ」
と。

 その寛容さが、あなたの心の窓を開きます。

 ただ誤解してはいけないのは、「寛容」ということは、あきらめることではありません。悪や不
正を許すということではありません。

 寛容というのは、相手の怒りや不満を、自分のこととして、自分の心の中に迎えいれることを
いいます。

 どんな相手にせよ、いつか、あなたの寛容の深さを知ったとき、その相手は、自分の愚かさ
に恥じて、必ず、あなたのところにもどってきます。そしてあなたの許しを、乞うのです。

 理由は簡単。

この世の中には、孤独に耐えられる人間はいないからです。あのイエス・キリストだって、孤独
に苦しんだ。

だからあなたがどこにいても、そのとき、相手がどこにいても、広い荒野で、一筋の光明を見る
ように、必ず、その相手は、あなたのところにもどってきます。

 寛容には、それくらいものすごいパワーがあります。これは本当です。

 あとは、それを信じて、前に進むだけ!
(040819)
(はやし浩司 愛 寛容 愛と寛容 寛容論 孤独論)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●寛大と寛容

 先日、「愛と寛大」というテーマで、エッセーを書いた。それについて、「林君、それは寛大では
なく、寛容だよ。寛容という言葉のほうが、適切だよ」と言ってくれた人がいた。

 感謝!

 なるほど、そのとおり。寛容の結果として、その人は、寛大になる。寛大になるかどうかは、あ
くまでもその結果でしかない。

 ところで昔、私が子どものこと、私の父は、M会という、ある倫理研究団体に属していた。どこ
か宗教的な倫理団体で、父は、床の間に「天照大神」という掛け軸をかけ、いつも何やら、祈っ
ていた。

 その掛け軸の横に、もう一つ、やや小ぶりな掛け軸があり、それに、「慈悲寛大」という言葉
が書いてあった。

 そのときは、意味がわからなかったが、それで私は、「寛大」という言葉を覚えた。しかし今か
ら思い出してみると、なかなか的(まと)をついた言葉のように思う。

 慈悲と寛大は、たしかにペアになっている。私がいう、「愛と寛容」と、どこもちがわない。慈悲
は、他者に対する同調性をいう。寛大というのは、他者を自分の中に受けいれることをいう。ま
さに精神の柱として、何ら、遜色のない言葉である。

 ……ということは、私は、意識こそしなかったが、父が信じていた言葉を、心のどこかに残し
ていたということになる。その可能性が、ないとは言えない。私自身は、M会のメンバーになっ
たことはない。会合といっても、私がときどき行ったのは、小学生のころである。ただついて行
ったというだけである。

 が、心のどこかに残っていた!

 「寛容かあ……」と思ったとき、ふと、子どものころ毎日見ていた掛け軸を思い出した。それで
この原稿を書いた。

 慈悲にせよ、愛にせよ、寛大であるにせよ、寛容であるにせよ、すばらしい言葉であることに
は、ちがいない。

 もう一つ、その人は、「寛容も、愛の中に含まれるのではないか。分けて考える必要はないの
ではないか」と言った。

 私も、実は、そう思う。愛と寛容を並べて考えるか。あるいは寛容も愛に含めて考えるかは、
ただ単なる、言葉の遊びのようなもの。ただ、愛と寛容を分けて考えると、より、その意味がわ
かりやすくなるということ。そういう意味では、この二つを、分けて考えることは、ムダではない
ように思う。
 

●信ずることのむずかしさ

 「信ずる」という言葉は、相手を疑っているから、口から出てくる言葉。本当に相手を信じてい
たら、「信ずる」という言葉など、出てこない。

 よい例が、若い恋人どうしの会話。

男「オレを、信じろ」
女「あなたを、信じているわ」と。

 たがいに疑っているから、そういう言葉が出てくる。

 同じように、今度は、「裏切る」という言葉がある。「信じていたのに、裏切られる」というふうに
使う。

 しかし本当に信じていたら、裏切るということもないし、裏切られるということもない。「信じてい
ない」からこそ、裏切られる。もう少しわかりやすい例で、説明してみよう。

 たとえばあなたが、夫を信じていたとしよう。あなたは、「私は夫を信じている」と言う。

 しかしそのとき、あなたは、本当に、あなたの夫を信じているだろうか。そのとき、あなたに多
少の迷いや不安があるようなら、あなたは、あなたの夫を信じていないということになる。

 信ずるというこは、そもそもそういう迷いや疑いをもつことなく、全幅に、相手に自分の心をゆ
だねることをいう。心の一体性をいう。見かえりを求めない、無償の一体性をいう。

 たとえばあなたの夫の帰宅時刻が、不自然に遅かったとする。このところ何かにつけて、あ
なたの夫の行動には、どこかおかしなところがある。

 そのとき、心の一体性があれば、あなたは、そもそも、何も疑わない。しかしそこに迷いや不
安が入りこむと、その一体性は、崩れる。そして一気に、「裏切る」という言葉が、口から出てく
る。

 しかし無償の一体性があると、そもそも疑うということはない。迷いや不安が入りこむというこ
ともない。ひょっとしたら、「浮気をしたければすればいいじゃない。どうせ、熱病よ。公衆トイレ
で、小便をするようなものよ」と、夫をのみこむことができるかもしれない。

 「信ずる」ということは、そういうことをいう。

 またそういう状態では、「裏切る」という言葉など、口から出てこない。

 仮に事実として裏切られても、相手を責める前に、自分を責める。

 そういう意味でも、「信ずる」ということは、むずかしい。本当にむずかしい。

 ……という説明でもわからなければ、もっと、わかりやすい例で、説明してみよう。

 ある人は、熱心なクリスチャンだった。本当に熱心なクリスチャンだった。日曜日には、必ず
教会へでかけ、そこで礼拝していた。あるいは仏教徒でもよい。法事という法事は、かかさずす
べて、ていねいに実行していた。

 が、その人の子どもが、病気になった。そこでその人は、毎日、熱心に神や仏に、祈った。
が、その祈りもむなしく、その子どもは、死んでしまった。

 本来なら、その人は、その宗教をやめてもよいはず。神や仏に裏切られたということになる。
しかしその人は、それからもずっと、熱心なクリスチャンのままだった。熱心な、仏教徒のまま
だった。

 もともと疑っていないから、つまり、信ずることによって、見かえりを求めていなかったから、た
とえ子どもが死んでも、(凡人の常識で考えれば、裏切られたということになるのだが……)、そ
の人は裏切られたとは思わない。つまり、「信ずる」ということは、そういうことをいう。

 これで「信ずる」ことのむずかしさを、わかってもらえただろうか。「親ずる」ことのもつ、深い意
味を、わかってもらえただろうか。

 さて、あなたは夫(妻)を信じているか。あなたの子どもを信じているか。もう一度、自問してみ
てほしい。

 「信ずる」と、口では簡単に言うことはできる。しかし、その中身は、かぎりなく濃く、かぎりなく
深い。


●何を「信ずる」か?

 信ずるといっても、イワシの頭では、困る。

 信ずるといっても、その中身が、大切。中身のないものを信じろと言われても、それはできな
い。

 人間関係も、同じ。

 あなたが、妻(夫)に向って、「私を、信じなさい」と言ったとする。しかし言うのは簡単。が、言
われたほうは、困る。いったい、あなたの何を信じればよいのかということになる。

 信ずるにしても、信じられるにしても、中身がなければならない。人間について言うなら、信じ
るに足りる、人間的な中身がなければならない。その中身のないものどうしが、「信じて」「信じ
ているよ」と言いあうのは、マンガでしかない。

 そこで問題は、あなたには、その中身があるかということ。私には、その中身があるかという
こと。

 さらに、どうすれば、その中身ができるかということ。どうすれば、その中身を作ることができ
るかということ。

 実は、これたいへんな作業である。気が遠くなるほど、たいへんな作業である。だから、ます
ます、口が重くなる。「信ずる」という言葉が、口から出てこなくなる。

 信ずるというのは、その相手との、見かえりを求めない、無償の一体性をいう。もともと見か
えりを求めていないから、裏切られても、裏切られたという意識すら、生まれない。「自分がバ
カだった」で、すますことができる。

 しかしそこまで相手を信ずるのは、むずかしい。反対に、そこまで相手に信じられるようにな
るのも、これまたむずかしい。

 だいたいにおいて、あなたは、あなた自身を信じているか。私自身を、信じているか。自分す
らも、信じられないあなたが、「私を信じなさい」と言うのは、おかしい。

 友人のR氏(60歳)の話。

 30歳くらいのとき、R氏は、当時の価格でも、50万円にも満たないような山林を、500万円
で買わされた。貯金を、すべて、はたいた。

 長野県にある美林ということだった。長年、世話になった男ということもあった。間に、親類の
一人が入ったということもある。それでR氏は、その男から、山林を買った。

 その山林だが、30年近くたった今も、(木そのものも、30年分、成長したが……)、売って
も、150万円にもならないという。当時の500万円といえば、家が、一軒、建てられるほどの金
額である。

 今、150万円というと、駐車場が作れるほどの金額でしかない。R氏は、買って20年ほどし
てから、「だまされた」と知った。

 R氏は、当時、つまり山林を買ったとき、その男には、数人の愛人がいることを知っていた。
いつもキンキラキンのローレックス(時計)を腕に巻き、トヨタのC車に乗っていたのも、知って
いた。

 が、どういうわけだか、R氏は、その男を信用してしまった。「Rさん、いつか、この山の木で、
総ヒノキづくりの豪邸を建てなさい」と言われたのを、真に受けてしまった。

 しかし自分の妻ですら、平気で裏切るような男である。見栄やメンツだけにこだわるような男
である。一片の哲学もなければ、倫理観もない。今になって思うと、「どうして、あんな男を信用
したのか」ということになる。

 本来なら、R氏は、詐欺罪で訴えてもよいのかもしれないが、山林のばあいは、価格など、あ
って、ないようなもの。相場を調べないで買った、R氏が、バカだったということになる。

 R氏は、私にこう言った。

 「そう言えば、あの男も、記憶のどこかで、私に、こう言ったことがある。『Rさん、私を信じて、
この山をもっていなさい』と」と。

 さて、あなたの夫(妻)は、あなたが信ずるに足りるような人物だろうか。あるいは反対に、あ
なたの妻(夫)に信じられるに足りるような人物だろうか。

 こうして考えていくと、「信ずる」ということが、ますますむずかしいということがわかってくる。


●常識を信ずる

 ある宗教を信仰すると、さまざまな特徴が現れてくる。

 神秘化、誇大化、妄信化、美化正当化、非現実化、社会逃避性など。さらにカルトとなると、
組織化、隷属化、上位下達化、信者の愚鈍化、固執化、排他性、閉鎖性などの現象も現れて
くる。

 もともとはその人内部の、依存性の問題と考えてよい。しかし本人自身は、決して、そうは思
っていない。「私は正しい宗教を信仰している」と、思いこんでいる。この思いこみこそが、カル
トの最大の特徴と考えてよい。

 ただ誤解してはいけないのは、宗教があるから、(それがカルトであるにせよ)、信者がいる
のではない。それを求める信者がいるから、宗教があるということ。だからその宗教がおかし
いからといって、その宗教を攻撃しても意味はない。

 かえって、それを信じている人たちを、不安にしてしまう。この世界の言葉では、それを、「ハ
シゴをはずす」という。「あなたたちは、まちがっている」と言う以上、そういう人たちの受け皿を
用意しておいてあげねばならない。かわりの思想を、用意しておいてあげなければならない。

 その受け皿もないまま、「まちがっている」と言うのは、たいへん危険なことでもある。そういう
人たちは、そういう人たちなりに、ハッピーなのである。そっとしておいてあげるのも、その外に
いる人たちの役目ということになる。

 へたにハシゴをはずしてしまうと、その人は、情緒不安から精神不安へと陥ってしまう。

 ただその宗教が組織化され、たとえば政治や経済の分野まで影響をおよぼすようなときは、
話は別である。たとえば政治とからんだ宗教ほど、その宗教が正しいとか正しくないとかいう判
断は別にして、危険なものはない。

 それに対しては私たちの良識をフルに働かせて、警戒しなければならない。「政教分離」とい
う民主政治の大原則も、そこから生まれた。当然のことである。

 大切なことは、自分で考える習慣と力を、身につけること。おかしいものは、「おかしい」と言う
勇気をもつこと。そして何よりも大切なことは、自分の常識をみがくこと。きたえること。

 ごく自然な人間として、野や山に親しみ、音楽を聞き、絵画を鑑賞しながら、自分の常識をみ
がく。ごくふつうの人として、ごくふつうの人とかかわりあいながら、ふつうの生活をしながら、自
分の常識をみがく。

 その常識に従って、人間は、過去、数10万年もの間、生きてきた。これからも生きていく。そ
れがまちがっていると言うなら、それを言う人がまちがっている。

 みんなで、その常識を信じよう。守り、育てよう。

 ……ということで、少し話が脱線したので、この話はここまで。

【ワイフとの会話】

 これについて、ワイフと、こんな会話をした。

私「お前は、ぼくを信じているか?」
ワイフ「考えたことないわ」
私「ぼくなんて、信じちゃ、だめだよ」
ワイフ「それも考えたことはないわ」

私「ぼくが浮気しないと思っているのか?」
ワイフ「あんたと浮気する女性なんて、いないわよ」
私「わからないぞ」
ワイフ「まあ、だれかに相手をしてもらえるなら、してもらいなよ。私は、かまわないわ」

私「やきもちを焼かないのか?」
ワイフ「遊びなら、かまわないわ」
私「本気だったら?」
ワイフ「あのね、相手にも、男を選ぶ権利というものがあるのよ。いくらあなたが本気でも、相手
が本気にならなければ、浮気はできないのよ。それでおしまいよ。どうして、あなたは、それが
わからないの? 本気で相手にしてもらえると、思っているの?」

私「どうして、ぼくは本気で、相手にしてもらえないの?」
ワイフ「三枚目だからよ。やること、なすこと、日本のMr・ビーンみたい」
私「Mr・ビーンだって、もてるぞ」
ワイフ「あなたには、ぜんせん、そのムードがないわ。本当に、あなたは、おめでたい人よ」と。

 いつもワイフと会話をしていると、そういう話になってしまう。高尚な理念も、ワイフの頭の中で
は、ただの雑談。

 それにしても、ミスター・ビーンとは……! せめて、チャップリンくらいに考えてほしかった。
チャップリンは、女性にもてたという話だ。

【補記】

神秘化……過去の人物にかこつけ、その宗教に神秘性をもたせる
誇大化……その宗教が、すべてと信者に思いこませる。
妄信化……絶対的な善であると、信者に妄信させる。
美化正当化……命をかけるに足りる宗教であると、信じこませる。
非現実化……現実遊離、現実逃避の思想を注入する。
社会逃避性……社会的なもの、人間的なもの、ついでに金銭は無意味と教える。
組織化……信仰が個人というワクをはずれ、組織化する。
隷属化……組織の中では、上下関係を明確にし、下位信者は、上位信者に隷属する。
上位下達化……思想、思想は、常に、上層部から、下層部へと一方的に伝えられる。
信者の愚鈍化……その信仰以外のことは考えさせない。
固執化……その信仰を離れたら、バチが当たるとか、不幸になるとか教える。
排他性……自分たちの信仰以外のものは、まちがっていると排斥する。
閉鎖性……外部との接触を、禁止する。

 これらの項目にあてはまれば、その宗教は、カルトと考えてよい。信仰といっても、「教え」に
よってするもの。しかしその基盤は、人間が人間としてもっている常識である。どんな信仰をす
るにしても、その常識の目を曇らせてはいけない。




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●社会適応性

 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(1)共感性
(2)自己認知力
(3)自己統制力
(4)粘り強さ
(5)楽観性
(6)柔軟性

 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子
どもとみる(「EQ論」)。

 順に考えてみよう。

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、
「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲し
み、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その
自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの
自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世
間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何を
したいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわから
ない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔
不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っているこ
とを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多
い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どもの
ばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにため
て、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのた
めに使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓
子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にし
たり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い
子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に
分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見て
いると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある
子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気にな
る。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どもも
いる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(5)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、も
のを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところ
で、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすること
もある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にも
よるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言え
ば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」と。そこで
「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなか
ったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人
もいる。

(6)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。(がんこ)を考える前に、
それについて、書いたのが、つぎの原稿である。

+++++++++++++++++++

●子どもの意地

 こんな子ども(年長男児)がいた。風邪をひいて熱を出しているにもかかわらず、「幼稚園へ
行く」と。休まずに行くと、賞がもらえるからだ。

そこで母親はその子どもをつれて幼稚園へ行った。顔だけ出して帰るつもりだった。しかし幼
稚園へ行くと、その子どもは今度は「帰るのはいやだ」と言い出した。子どもながらに、それは
ずるいことだと思ったのだろう。結局その母親は、昼の給食の時間まで、幼稚園にいることに
なった。またこんな子ども(年長男児)もいた。

 レストランで、その子どもが「もう一枚ピザを食べる」と言い出した。そこでお母さんが、「お兄
ちゃんと半分ずつならいい」と言ったのだが、「どうしてももう一枚食べる」と。そこで母親はもう
一枚ピザを頼んだのだが、その子どもはヒーヒー言いながら、そのピザを食べたという。

「おとなでも二枚はきついのに……」と、その母親は笑っていた。
 
今、こういう意地っ張りな子どもが少なくなった。丸くなったというか、やさしくなった。心理学の
世界では、意地のことを「自我」という。英語では、EGOとか、SELFとかいう。少し昔の日本人
は、「根性」といった。(今でも「根性」という言葉を使うが、どこか暴力的で、私は好きではない
が……。)

教える側からすると、このタイプの子どもは、人間としての輪郭がたいへんハッキリとしている。
ワーワーと自己主張するが、ウラがなく、扱いやすい。正義感も強い。

 ただし意地とがんこ。さらに意地とわがままは区別する。カラに閉じこもり、融通がきかなくな
ることをがんこという。毎朝、同じズボンでないと幼稚園へ行かないというのは、がんこ。また
「あれを買って!」「買って!」と泣き叫ぶのは、わがままということになる。

がんこについては、別のところで考えるが、わがままは一般的には、無視するという方法で対
処する。「わがままを言っても、だれも相手にしない」という雰囲気(ふんいき)を大切にする。

++++++++++++++++++

 心に何か、問題が起きると、子どもは、(がんこ)になる。ある特定の、ささいなことにこだわ
り、そこから一歩も、抜け出られなくなる。

 よく知られた例に、かん黙児や自閉症児がいる。アスペルガー障害児の子どもも、異常なこ
だわりを見せることもある。こうしたこだわりにもとづく行動を、「固執行動」という。

 ある特定の席でないとすわらない。特定のスカートでないと、外出しない。お迎えの先生に、
一言も口をきかない。学校へ行くのがいやだと、玄関先で、かたまってしまう、など。

 こうした(がんこさ)が、なぜ起きるかという問題はさておき、子どもが、こうした(がんこさ)を
示したら、まず家庭環境を猛省する。ほとんどのばあい、親は、それを「わがまま」と決めてか
かって、最初の段階で、無理をする。この無理が、子どもの心をゆがめる。症状をこじらせる。

 一方、人格の完成度の高い子どもほど、柔軟なものの考え方ができる。その場に応じて、臨
機応変に、ものごとに対処する。趣味や特技も豊富で、友人も多い。そのため、より柔軟な子
どもは、それだけ社会適応性がすぐれているということになる。

 一つの目安としては、友人関係を見ると言う方法がある。(だから「社会適応性」というが…
…。)

 友人の数が多く、いろいろなタイプの友人と、広く交際できると言うのであれば、ここでいう人
格の完成度が高い、つまり、社会適応性のすぐれた子どもということになる。

【子ども診断テスト】

(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )してはいけないこと、すべきことを、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。

 ここにあげた項目について、「ほぼ、そうだ」というのであれば、社会適応性のすぐれた子ども
とみる。
(はやし浩司 社会適応性 サロベイ サロヴェイ EQ EQ論 人格の完成度)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

****************

【子どもの心の発達・診断テスト】

****************

【社会適応性・EQ検査】(P・サロヴェイ)

●社会適応性

 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(1)共感性
Q:友だちに、何か、手伝いを頼まれました。そのとき、あなたの子どもは……。

(1)いつも喜んでするようだ。
(2)ときとばあいによるようだ。
(3)いやがってしないことが多い。


(2)自己認知力
Q:親どうしが会話を始めました。大切な話をしています。そのとき、あなたの子どもは……

(1)雰囲気を察して、静かに待っている。(4点)
(2)しばらくすると、いつものように騒ぎだす。(2点)
(3)聞き分けガなく、「帰ろう」とか言って、親を困らせる。(0点)


(3)自己統制力
Q;冷蔵庫にあなたの子どものほしがりそうな食べ物があります。そのとき、あなたの子どもは
……。

○親が「いい」と言うまで、食べない。安心していることができる。(4点)
○ときどき、親の目を盗んで、食べてしまうことがある。(2点)
○まったくアテにならない。親がいないと、好き勝手なことをする。(0点)


(4)粘り強さ
Q:子どもが自ら進んで、何かを作り始めました。そのとき、あなたの子どもは……。

○最後まで、何だかんだと言いながらも、仕あげる。(4点)
○だいたいは、仕あげるが、途中で投げだすこともある。(2点)
○たいていいつも、途中で投げだす。あきっぽいところがある。(0点)

(5)楽観性
Q:あなたの子どもが、何かのことで、大きな失敗をしました。そのとき、あなたの子どもは…
…。

○割と早く、ケロッとして、忘れてしまうようだ。クヨクヨしない。(4点)
○ときどき思い悩むことはあるようだが、つぎの行動に移ることができる。(2点)
○いつまでもそれを苦にして、前に進めないときが多い。(0点)
 

(6)柔軟性
Q:あなたの子どもの日常生活を見たとき、あなたの子どもは……

○友だちも多く、多芸多才。いつも変わったことを楽しんでいる。(4点)
○友だちは少ないほう。趣味も、限られている。(2点)
○何かにこだわることがある。がんこ。融通がきかない。(0点)

***************************


(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )自分の立場を、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。


 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子
どもとみる(「EQ論」)。

***************************

順に考えてみよう。

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、
「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲し
み、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その
自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの
自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世
間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何を
したいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわから
ない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔
不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っているこ
とを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多
い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どもの
ばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにため
て、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのた
めに使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓
子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にし
たり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い
子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に
分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見て
いると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある
子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気にな
る。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どもも
いる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(5)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、も
のを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところ
で、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすること
もある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にも
よるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言え
ば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」と。そこで
「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなか
ったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人
もいる。

(6)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。

 一般論として、(がんこ)は、子どもの心の発達には、好ましいことではない。かたくなになる、
かたまる、がんこになる。こうした行動を、固執行動という。広く、情緒に何らかの問題がある
子どもは、何らかの固執行動を見せることが多い。

 朝、幼稚園の先生が、自宅まで迎えにくるのだが、3年間、ただの一度もあいさつをしなかっ
た子どもがいた。

 いつも青いズボンでないと、幼稚園へ行かなかった子どもがいた。その子どもは、幼稚園で
も、決まった席でないと、絶対にすわろうとしなかった。

 何かの問題を解いて、先生が、「やりなおしてみよう」と声をかけただけで、かたまってしまう
子どもがいた。

 先生が、「今日はいい天気だね」と声をかけたとき、「雲があるから、いい天気ではない」と、
最後までがんばった子どもがいた。

 症状は千差万別だが、子どもの柔軟性は、柔軟でない子どもと比較して知ることができる。
柔軟な子どもは、ごく自然な形で、集団の中で、行動できる。

+++++++++++++++++++++

 EQ(Emotional Intelligence Quotient)は、アメリカのイエール大学心理学部教授。ピーター・
サロヴェイ博士と、ニューハンプシャー大学心理学部教授ジョン・メイヤー博士によって理論化
された概念で、日本では「情動(こころ)の知能指数」と訳されている(Emotional Educatio
n、by JESDA Websiteより転写。)

++++++++++++++++++++

【EQ】

 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emotional Intell
igence Quotient)」、つまり、「情動の知能指数」では、主に、つぎの3点を重視する。

(1)自己管理能力
(2)良好な対人関係
(3)他者との良好な共感性

 ここではP・サロヴェイのEQ論を、少し発展させて考えてみたい。

 自己管理能力には、行動面の管理能力、精神面の管理能力、そして感情面の管理能力が
含まれる。

○行動面の管理能力

 行動も、精神によって左右されるというのであれば、行動面の管理能力は、精神面の管理能
力ということになる。が、精神面だけの管理能力だけでは、行動面の管理能力は、果たせな
い。

 たとえば、「銀行強盗でもして、大金を手に入れてみたい」と思うことと、実際、それを行動に
移すことの間には、大きな距離がある。実際、仲間と組んで、強盗をする段階になっても、その
時点で、これまた迷うかもしれない。

 精神的な決断イコール、行動というわけではない。たとえば行動面の管理能力が崩壊した例
としては、自傷行為がある。突然、高いところから、発作的に飛びおりるなど。その人の生死に
かかわる問題でありながら、そのコントロールができなくなってしまう。広く、自殺行為も、それ
に含まれるかもしれない。

 もう少し日常的な例として、寒い夜、ジョッギングに出かけるという場面を考えてみよう。

そういうときというのは、「寒いからいやだ」という抵抗感と、「健康のためにはしたほうがよい」
という、二つの思いが、心の中で、真正面から対立する。ジョッギングに行くにしても、「いやだ」
という思いと戦わねばならない。

 さらに反対に、悪の道から、自分を遠ざけるというのも、これに含まれる。タバコをすすめら
れて、そのままタバコを吸い始める子どもと、そうでない子どもがいる。悪の道に染まりやすい
子どもは、それだけ行動の管理能力の弱い子どもとみる。

 こうして考えてみると、私たちの行動は、いつも(すべきこと・してはいけないこと)という、行動
面の管理能力によって、管理されているのがわかる。それがしっかりとできるかどうかで、その
人の人格の完成度を知ることができる。

 この点について、フロイトも着目し、行動面の管理能力の高い人を、「超自我の人」、「自我の
人」、そうでない人を、「エスの人」と呼んでいる。

○精神面の管理能力

 私には、いくつかの恐怖症がある。閉所恐怖症、高所恐怖症にはじまって、スピード恐怖症、
飛行機恐怖症など。

 精神的な欠陥もある。

 私のばあい、いくつか問題が重なって起きたりすると、その大小、軽重が、正確に判断できな
くなってしまう。それは書庫で、同時に、いくつかのものをさがすときの心理状態に似ている。
(私は、子どものころから、さがじものが苦手。かんしゃく発作のある子どもだったかもしれな
い。)

 具体的には、パニック状態になってしまう。

 こうした精神作用が、いつも私を取り巻いていて、そのつど、私の精神状態に影響を与える。

 そこで大切なことは、いつもそういう自分の精神状態を客観的に把握して、自分自身をコント
ロールしていくということ。

 たとえば乱暴な運転をするタクシーに乗ったとする。私は、スピード恐怖症だから、そういうと
き、座席に深く頭を沈め、深呼吸を繰りかえす。スピードがこわいというより、そんなわけで、そ
ういうタクシーに乗ると、神経をすり減らす。ときには、タクシーをおりたとたん、ヘナヘナと地面
にすわりこんでしまうこともある。

 そういうとき、私は、精神のコントロールのむずかしさを、あらためて、思い知らされる。「わか
っているけど、どうにもならない」という状態か。つまりこの点については、私の人格の完成度
は、低いということになる。

○感情面の管理能力

 「つい、カーッとなってしまって……」と言う人は、それだけ感情面の管理能力の低い人という
ことになる。

 この感情面の管理能力で問題になるのは、その管理能力というよりは、その能力がないこと
により、良好な人間関係が結べなくなってしまうということ。私の知りあいの中にも、ふだんは、
快活で明るいのだが、ちょっとしたことで、激怒して、怒鳴り散らす人がいる。

 つきあう側としては、そういう人は、不安でならない。だから結果として、遠ざかる。その人は
いつも、私に電話をかけてきて、「遊びにこい」と言う。しかし、私としては、どうしても足が遠の
いてしまう。

 しかし人間は、まさに感情の動物。そのつど、喜怒哀楽の情を表現しながら、無数のドラマを
つくっていく。感情を否定してはいけない。問題は、その感情を、どう管理するかである。

 私のばあい、私のワイフと比較しても、そのつど、感情に流されやすい人間である。(ワイフ
は、感情的には、きわめて完成度の高い女性である。結婚してから30年近くになるが、感情
的に混乱状態になって、ワーワーと泣きわめく姿を見たことがない。大声を出して、相手を罵倒
したのを、見たことがない。)

 一方、私は、いつも、大声を出して、何やら騒いでいる。「つい、カーッとなってしまって……」
ということが、よくある。つまり感情の管理能力が、低い。

 が、こうした欠陥は、簡単には、なおらない。自分でもなおそうと思ったことはあるが、結局
は、だめだった。

 で、つぎに私がしたことは、そういう欠陥が私にはあると認めたこと。認めた上で、そのつど、
自分の感情と戦うようにしたこと。そういう点では、ものをこうして書くというのは。とてもよいこと
だと思う。書きながら、自分を冷静に見つめることができる。

 また感情的になったときは、その場では、判断するのを、ひかえる。たいていは黙って、その
場をやり過ごす。「今のぼくは、本当のぼくではないぞ」と、である。

(2)の「良好な対人関係」と、(3)の「他者との良好な共感性」については、また別の機会に考
えてみたい。
(はやし浩司 管理能力 人格の完成度 サロヴェイ 行動の管理能力 EQ EQ論 人格の
完成)





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10

●教え方より、勉強ぐせ

 子どもの学習指導法は、どこか健康指導法に似ている。「教える」のではなく、子ども自身
に、「勉強ぐせ」を、身につけさせる。

 健康法についても、重要なのは、健康法ではなく、それをいかに、習慣として、生活の中で定
着させるか、である。一時的にあれこれしても、ほとんど意味がない。

 もう少し具体的に考えてみよう。

 ある女性(60歳)は、毎朝、犬の散歩にでかける。雨の日も、雪の日も。ぐるりと近所を回っ
てくるだけで、帰ってくるころには、ジワリと汗をかいているという。その女性は犬と散歩をする
ことにより、足腰を鍛えていることになる。

 これが私が言う、「健康法」である。ときどき、思い立ったように、自転車に乗ってみたり、水
泳教室に行ってみたりしても、ほとんど意味がない。あるいは健康器具を買って、その場だけ、
体をきたえてみても、ほとんど意味がない。

 私も、過去に、いろいろなことを試してみた。水泳クラブにも入ったことがある。テニスクラブ
にも入ったことがある。スポーツセンターの会員になったこともある。

 しかし、どれも結局は、長つづきしなかった。が、その一方で、毎日の自転車通勤こそが、私
の健康を維持していることに、やがて気がついた。

 その自転車通勤だが、今年で、35年目になる。おかげで、成人病とは、無縁。今でも、足腰
だけは強い。太ももの太さも、同年齢の男性より、2倍近くもある。ただ、それで全身の健康が
維持されているかといえば、実は、そうではない。

 使っていない筋肉については、弱い。たとえば掃除機で、10分も掃除したりすると、それだけ
で、疲れてしまう。ハーハーと息切れしてしまう。そういう自分を観察しながら、「自転車に乗っ
ていなかったら、今ごろは……」と考えるだけで、ぞっとする。

 子どもの勉強をみるときも、重要なのは、いかにして、勉強ぐせを、身につけさせるか、であ
る。一時的に、何かを教えても、ほとんど意味がないばかりか、かえって子どもに依存心をつ
けさせてしまう。

【実際の例より】

 勉強ぐせのない子ども(小学生)を、4、5人の受験生(中学生)の間にすわらせてみる。そし
て何も指導せず、「好きな勉強をしてごらん」と、突き放してみる。

 たいていの子どもは、(混乱)→(観察)→(自学)というプロセスを経て、何となく、自分で勉強
をし始める。その期間は、子どもによってさまざまである。しかしよほど勉強ぐせのない子ども
でも、3〜6か月の間には、自分で勉強するようになる。

 コツは、指導しない。「わからないところがあったら、もってきなさい」とだけ、いつも繰りかえ
し、言う。何とも無責任な指導法に見えるかもしれないが、これにまさる指導法を、私は、知ら
ない。

 よく誤解されるが、手取り、足取り教育は、その場ではたしかに効果的だが、長い目で見れ
ば、かえって子どものためにならない。もっとも警戒しなければならないのは、依存心である。

 「言われたことだけをすればいい」「教えられたとおりにすればいい」と。

こうした依存心が、一度、身につくと、子どもは、先生の指導がないと、何もできなくなってしま
う。それこそ、参考書一冊、自分で選ぶことさえ、できなくなってしまう。

それについて、以前、こんな原稿を書いた。

+++++++++++++++

●子どもは環境で包む

 ウソか本当かは知らないが、ヨモギでも、麻(あさ)の中でいっしょに育てると、曲がらず、まっ
すぐ伸びるという。中国の荀子(じゅんし)(中国戦国時代の儒者、紀元前三一五〜二三〇)
も、つぎのように書いている。

『蓬(よもぎ)麻の中に生(お)いて扶(たす)けずして、自ずから直し』と。

 こうしたたとえ話は、中国人や、そして日本人が、好んでよく使う。が、自然の中には、そうで
ないケースもあるので、たまたまヨモギがそうであるからといって、ほかの植物がそうであると
はかぎらない。こういうのを「コジツケ」という。

『青は藍より出でて、藍より青い』というのも、そうだ。そう言われると、何となく、「そうかなあ」と
思ってしまう。しかしそれこそ、相手の思うツボ。相手は、そういう形で、あなたの批判力を煙に
巻く。

 しかし、だ。そうは言っても、この荀子の言っていることは、まちがってはいない。子どもはま
さに環境の産物。そういう環境におけば、そうなるし、そうでない環境におけば、そうでなくな
る。たとえば読書好きの親の子どもは、読書が好きになる。そうでない親の子どもは、そうでな
くなる。勉強好きの親の子どもは、勉強が好きになる。そうでない親の子どもは、そうでなくな
る。以前、こんなことがあった。

 その子ども(小五男児)は、どこかつっぱり始めていた。言葉や態度が乱れ、生活もだらしな
くなっていた。母親が何かを言おうとすると、即座に、「ウッセー!」と。そこで相談があったの
で、私は、その子どもをしばらく預かることにした。

 高校二年生が、四、五人集まるクラスがあった。私はそのクラスに、その子どもを入れてみ
た。高校生たちは、みな、受験生で、緊張感が違った。最初のころは、その子どもはその雰囲
気に圧倒されて、ガチガチだった。しかしそのうち、喜々として勉強するようになった。そして半
年もすると、あのつっぱり症状が、ウソのように消えた。理由があった。

 あとでその子どもの母親に、話を聞くと、こう教えてくれた。その高校生の中に、野球部の生
徒がいた。その子どもは、その生徒を、理想の先輩をとらえた。自分も野球が好きだったこと
もある。「日曜日など、その高校生が出る試合に、いつも応援に行っていました」と。

 つまりその子ども(ヨモギ、失礼!)は、高校生(麻?)の中で育つうちに、曲がり始めた心
を、まっすぐ、自ら伸ばしてしまったというのだ。すべての子どもが、このようにうまくいくとはか
ぎらないが、しかしこういうケースは、少なくない。子どもは環境で包み、その環境の中で、伸ば
す。

+++++++++++++++++

【勉強ぐせを破壊する親たち】

 幼児でも、小学生でも、中学生でも、この勉強ぐせを作るのは、容易なことではない。それこ
そ半年単位の、根気と努力が必要である。

 たとえば毎日学校から帰ってきてから、30分(たった30分でよい)の勉強ぐせをつけさせる
だけでも、ばあいによっては、1年とか2年もかかる。

 勉強ぐせというのは、そういうもの。

 しかし、その勉強ぐせをこわすのは、一週間で。じゅうぶん。数日でも、よい。が、親にはそれ
がわからない。

 今は、受験指導からは、ほとんど足を洗ったので、あえて告白する。

 私の教室でも、かつては多くの受験生を指導していた。たいはんの子どもたちは、私が幼稚
園児のときから教えてきた子どもたちである。

 そういう子どもたちが、いよいよ受験を迎えるようになると、私は、その勉強ぐせづくりに入
る。具体的には、高校受験のばあいには、中学3年の5、6月ごろから、それを始める。

 簡単な、しかも量の少ないワークブックを、毎日、1冊と決めて、子どもを指導する。1日1冊
である。一見、乱暴な指導法に見えるかもしれないが、「自学」にまさる学習法は、ない。とくに
警戒すべきは、依存心である。

 子どもに依存心ができると、見た目には、教師と生徒の関係は、良好になる。しかし長い目
で見れば、この依存心は、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまう。高校へ入ったとたん、宙
ぶらりんになってしまう、など。

 で、最初、1、2週間は、子どももかなりてこずる。負担も大きい。しかしその苦しい1、2週間
をすぎると、コツを覚え、リズムもできてくる。私はいつものように、「わからないところだけ、もっ
てきなさい」とだけ、指導する。

 が、夏休みに入ったとたん、その勉強ぐせが破壊される。どこかの進学塾の夏期講座に入っ
たりするからである。それはたとえて言うなら、それまで堅実な生活をしていた人が、突然、多
額の借金をかかえこむのに似ている。あれこれアタフタとしている間に、そのリズム、つまり勉
強ぐせをこわしてしまう。

 私はこうした例を、無数に見てきた。そしてそのたびに、「どうして親は、こうまで毎年、同じ失
敗を繰りかえすのか」と思った。

 いろいろな考え方がある。指導方法もある。しかしここで言えることは、ただ一つ。子どもの
勉強ぐせをつけさせることは、あなたが日常生活の中で、健康法を身につけることと同じくら
い、むずかしく、たいへんだということ。

 それがわかってほしかった。

【補記】

 上級生の間にすわらせてみて、その上級生から、勉強ぐせをもらうという学習指導法は、き
わめてすぐれた指導法の一つである。

 イギリスのカレッジ制度の中でも、広く取り入れられている。

 大学に附属するカレッジでは、原則として、上級生が下級生を教えるという方法を採用してい
る。たいていは、各フロアには、講師以上級の教官が、いっしょに寝泊りする。勉強だけではな
く、学生の生活指導、さらには健康管理までしてくれる。

 私のばあい、風邪をひいたりすると、医学部の上級生がやってきて、注射をうってもらったこ
ともある。

 大学での一般講義が終わると、カレッジの学生は、講義室に入り、そこで上級生から抗議を
受ける。時間的には、夕食前であったり、夕食後であったりする。

 で、この指導法のコツは、最初、「あれをしなさい」「これをしなさい」と、指示しないこと。あくま
でも、子どもの意思に任す。

 子どもよっては、何をしてよいかわからず、モジモジしたり、ソワソワしたりするが、それも一
巡すると、今度は、あきらめて自分で教科書を開いて、勉強し始める。しかしそれがその子ど
もの、勉強ぐせの第1歩と考える。その第1歩をうまくとらえ、ほめ、そしてそれを少しずつ、伸
ばす。
(はやし浩司 勉強ぐせ 勉強グセ 勉強癖 子どもの学習指導)

+++++++

おまけ

+++++++

子どもが伸びるとき

●伸びる子どもの四条件

 伸びる子どもには、次の四つの特徴がある。(1)好奇心が旺盛、(2)忍耐力がある、(3)生
活力がある、(4)思考が柔軟(頭がやわらかい)。

(1)好奇心……好奇心が旺盛かどうかは、一人で遊ばせてみるとわかる。旺盛な子どもは、
身のまわりから次々といろいろな遊びを発見したり、作り出したりする。趣味も広く、多芸多
才。友だちの数も多く、相手を選ばない。数才年上の友だちもいれば、年下の友だちもいる。

何か新しい遊びを提案したりすると、「やる!」とか「やりたい!」とか言って、食いついてくる。
反対に好奇心が弱い子どもは、一人で遊ばせても、「退屈〜ウ」とか、「もうおうちへ帰ろ〜ウ」
とか言ったりする。

(2)忍耐力……よく誤解されるが、釣りやゲームなど、好きなことを一日中しているからといっ
て、忍耐力のある子どもということにはならない。子どもにとって忍耐力というのは、「いやなこ
とをする力」のことをいう。

たとえばあなたの子どもに、掃除や洗濯を手伝わせてみてほしい。そういう仕事でもいやがら
ずにするようであれば、あなたの子どもは忍耐力のある子どもということになる。あるいは欲望
をコントロールする力といってもよい。目の前にほしいものがあっても、手を出さないなど。こん
な子ども(小三女児)がいた。

たまたまバス停で会ったので、「缶ジュースを買ってあげようか?」と声をかけると、こう言っ
た。「これから家で食事をするからいいです」と。こういう子どもを忍耐力のある子どもという。こ
の忍耐力がないと、子どもは学習面でも、(しない)→(できない)→(いやがる)→(ますますで
きない)の悪循環の中で、伸び悩む。

(3)生活力……ある男の子(年長児)は、親が急用で家をあけなければならなくなったとき、妹
の世話から食事の用意、戸じまり、消灯など、家事をすべて一人でしたという。親は「やらせれ
ばできるもんですね」と笑っていたが、そういう子どもを生活力のある子どもという。エマーソン
(アメリカの詩人、「自然論」の著者、一八〇三〜八二)も、『教育に秘法があるとするなら、そ
れは生活を尊重することである』と書いている。

(4)思考が柔軟……思考が柔軟な子どもは、臨機応変にものごとに対処できる。同じいたずら
でも、このタイプの子どものいたずらは、どこかほのぼのとした温もりがある。食パンをくりぬい
てトンネルごっこ。スリッパをつなげて電車ごっこなど。反対に頭のかたい子どもは、一度「カ
ラ」にこもると、そこから抜け出ることができない。ある子ども(小三男児)は、いつも自分の座
る席が決まっていて、その席でないと、どうしても座ろうとしなかった。

 一般論として、「がんこ」は、子どもの成長にとって好ましいものではない。かたくなになる、意
固地になる、融通がきかないなど。子どもからハツラツとした表情が消え、動作や感情表現
が、どこか不自然になることが多い。教える側から見ると、どこか心に膜がかかったような状態
になり、子どもの心がつかみにくくなる。

●子どもを伸ばすために

子どもを伸ばす最大の秘訣は、常に「あなたは、どんどん伸びている」という、プラスの暗示を
かけること。そのためにも、子どもはいつもほめる。子どもを自慢する。ウソでもよいから、「あ
なたは去年(この前)より、ずっとすばらしい子になった」を繰り返す。

もしあなたが、「うちの子は悪くなっている」と感じているなら、なおさら、そうする。まずいのは
「あなたはダメになる」式のマイナスの暗示をかけてしまうこと。とくに「あなたはやっぱりダメな
子ね」式の、その子どもの人格の核に触れるような「格」攻撃は、タブー中のタブー。

その上で、(1)あなた自身が、自分の世界を広め、その世界に子どもを引き込むようにする
(好奇心をますため)。また(2)「子どもは使えば使うほどいい子になる」と考え、家事の手伝い
はさせる。「子どもに楽をさせることが親の愛」と誤解しているようなら、そういう誤解は捨てる
(忍耐力や生活力をつけるため)。そして(3)子どもの頭をやわらかくするためには、生活の場
では、「アレッ!」と思うような意外性を大切にする。

よく「転勤族の子どもは頭がいい」と言われるのは、それだけ刺激が多いことによる。マンネリ
化した単調な生活は、子どもの知恵の発達のためには、好ましい環境とは言えない。
(はやし浩司 ビネー スタンフォード 知能検査 知能テスト IQ 生活年齢 精神年齢 子ど
もの知的能力 知的能力 知能)
(040325)




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11

●理想的な夫像?

 夫を、どの角度からみるかによって、その夫像も変わってくる。

 まず、常識的な尺度でみたのが、つぎの表である。

 夫を、家族的かどうかでみるのが、(F)軸。
 夫を、仕事ができるかどうかでみるのが、(W)軸。

                    W
     仕事はするが         *     仕事もするが
     家庭をかえりみないタイプ   *     家庭も大切にするタイプ
      *******************************F
     仕事もしない。        *     仕事はしないが、
     家庭も大切にしないタイプ   *     家庭を大切にするタイプ

 理想タイプとしては、右上の(仕事もするが、家庭も大切にするタイプ)ということになる。

 問題は、(仕事もしない。家庭も大切にしないタイプ)。このタイプの夫は、少なくない。家計は
いつも火の車。にもかかわらず、仕事はしない。家にも帰らず、いつもどこかで趣味ざんまい。
あるいは女遊び。

 ……と書くのは、簡単なこと。教育的には、もう少し、ちがった見方をする。

 いつか書いたように、善人も悪人も、それほど、ちがわない。ほんの少しの方向性のちがい
が、長い時間をかけて、善人を善人にする。悪人を悪人にする。仕事をしたくても、その仕事
がない。あるいは何をやっても、うまくいかない。失敗ばかり。

 こういうことが重なると、とたんにやる気をなくす。その上、安らぐはずの家庭にいても、妻
は、不平、不満をぶつけるだけ。

 こういう状態の中で、ここでいう(仕事もしない。家庭も大切にしないタイプ)の夫が生まれる。
そういうケースは、たいへん、多い。

 そういう意味では、家庭に入った妻の役目は、どこか教育者に似ている。アメリカでは、こう
言う。

 「夫は、頭。妻は首。決断するのは、夫の役目だが、その方向を決めるのは、妻の役目」と。

 なかなか的(まと)を得た言葉ではないかと思う。(どこか男尊女卑的な感じがしないでもない
が……。)

 私は夫の立場にいるから、どうしても夫の立場で、ものを考えてしまう。その上、いつも挫折
感を味わってばかりいる。だから、自分で、自分に反論するのもおかしな話だが、あえて、こん
な表も考えてみた。

 夫に対して、協力的かどうかでみるのが、(C)軸。
 夫に対して、理解があるかどうかでみるのが、(U)軸


                    C
     協力はするが、        *     協力はするし、
     夫を理解しないタイプ     *     夫を理解するタイプ
      *******************************U
     協力もしない。        *     協力はしないが、
     夫を理解しないタイプ     *     夫を理解するタイプ

 理想タイプとしては、右上の、(夫に協力的で、夫を理解するタイプ)ということになる。

 問題は、(協力もしないし、夫を理解しないタイプ)。このタイプの妻は、「仕事をして、収入を
得るのは、夫の役目」と、夫を突き放した上、夫の仕事を理解しようとしない。昔、夫の仕事に
ついて、「うちのダンナは、ただの倉庫番でね。収入も少なくて、たいへんなの」と吐き捨てるよ
うに言った女性がいた。

 少なからず好意を感じていた女性だったが、私は、こう思った。「こういう女性と結婚しなくて、
よかったア」と。(相手も、私に対して、そう思ったかもしれない。こういう思いというのは、双方
向性がある。)

 要するに、妻をつくるのは、夫。夫をつくるのは、妻ということになる。「夫が……」「妻が……」
と論じても、あまり意味がない。

 話はぐんと現実的になるが、ショッピングセンターなどで、夫婦で歩いている人を見ると、中に
実によく似た夫婦がいるのがわかる。

 服装から、しぐさ。それに雰囲気まで! 服装が似るのは、たいていは妻が、夫の衣服を買
いそろえているから。しかしその上、しぐさや雰囲気まで! 昔から「似たもの夫婦」というが、
夫婦も、10年、20年としていると、たがいによく似てくる。

 どこかヤクザ風の夫をもつと、妻も、どこかそれ風になる。そうそう、体型も似てくることがあ
る。夫も妻も、丸々と太っていたりする。これは食べ物が同じためだからではないか。

 そんなわけで、もしあなたが今、夫(妻)にあれこれ不満があるなら、その原因は、妻(夫)で
ある、あなた自身にあると考えてよい。一方的に夫(妻)を責めても意味はない。また責めては
いけない。

 以上、教育的にみた、夫婦論。おしまい。(自分でも、こうまで耳の痛いエッセーを自分で書
いたことがない。ホント!)




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12

●子どもの不適応症状

 心の病気の二大前兆は、(1)不安感と、(2)抑うつ感である。

 この二つの症状が、子どもに見られたら、親は、家庭教育のあり方そのものを、猛省する。

 放置すれば、神経症からうつ病、さらには、不登校、学校恐怖症などの不適応症状となっ
て、子どもに現れる。

 ただ不適応症状といっても、内容はさまざま。大きく、つぎの4つに分けて考える。

(1)攻撃型、(2)服従・依存型、(3)逃避型、(4)同情型。

(1)の攻撃型というのは、学校におけるツッパリ児や、家庭内暴力を繰りかえす子どもを想像
すればよい。が、こうして外の世界に向う攻撃型を、プラス型とするなら、内に向う攻撃型もあ
る。

 猛烈なガリ勉をする子どもや、あまり意味のないスポーツの練習を一日中するのが、それ。

 このタイプの子どもは、自虐的に自分を攻撃することで、自分のまわりに居心地のよい世界
をつくろうとする。

 (2)の服従・依存型は、集団非行を繰りかえす子ども、(3)の逃避型は、不登校児に、よく見
られる。さらに(4)の同情型というのは、わざと病弱で、弱々しい自分を演ずることによって、自
分にとって居心地のよい世界をつくることをいう。みながあれこれ心配してくれるような状況を、
自分のまわりにつくっていく。いつも何らかの病気や、体の不調を訴えるのが、その特徴であ
る。

 これらのタイプの子どもは、要するに、まわりの環境にうまく適応できないため、それを補う形
で、こうした行動に出ると考えるとわかりやすい。

 が、実際問題として、こうした症状が出てくるような段階では、すでに、手遅れとみる。
たいていの親は、(それはある意味ではしかたのないことかもしれないが)、こうした症状が出
てきて、はじめて、自分の子育てに問題があったと気づく。「まだ何とかなる」「うちの子にかぎ
って……」「そんなはずはない」と思って無理をすればするほど、それが悪循環となって、深み
にはまってしまう。

 そこで今、あなたの子どもは、どういう状況なのか、冷静に観察してみてほしい。不安を訴え
ることはないだろうか。悶々と悩むようなことはないだろうか。ため息をもらしたり、ぼんやりとも
の思いにふけるようなことはないだろうか。

 もしそうなら、家庭教育のあり方そのものを、一度、反省してみてほしい。

【ある失敗例】

 勉強を、子どもをしごく手段にしている親は、少なくない。

 もう20年ほど前のことだが、こんなことがあった。

 小学1年生のクラスで、足し算の計算問題を、20問ほどやらせたことがある。で、私のばあ
い、その子どもが懸命にしたかどうかで、子どもを判断する。そのときも、そうだった。

 Nさんという女の子だった。もともと計算が得意な子どもではなかった。が、そのときも、懸命
にそれをした。

 で、丸をつけるときになってプリントを見ると、20問にうち、4、5問の答がちがっていた。しか
し私は大きな丸をつけ、「よくやったね」とほめた。

 が、その夜、母親から電話がかかってきた。いわく、「先生は。どうしてまちがっている答に
も、丸をつけるのか。今、娘に、やりなおさせている。いいかげんな丸をつけないでほしい」と。
つまり、「しっかりと丸をつけろ!」と。

 そこで様子を聞くと、N子さんは、涙をポロポロとこぼしながら、それをしているという。

 こういうのは、まずい。本当に、まずい。子どもから、やる気を奪ってしまう。そればかりか、
やがて勉強嫌いにし、ついでに、親子の関係も、破壊してしまう。だいたい、小学1年生のとき
から、そんなにギスギス教える必要は、ない。

 それを母親に伝えると、母親は、こう反論した。

 「今から、しっかりと教えていかなければ、いいかげんな子どもになってしまいます」と。

 今でも、こういう親は、珍しくない。しかし本当に、そうだろうか。このテーマは、「正しい答をい
つも出すことが、それほどまでに大切なことなのか」という問題にまで行きつく。だいたいにおい
て、人生に、正しい答など、ない。絶対に、ない。

 で、予想どおりというか、N子さんの表情は、ますます暗くなっていった。私も、その一見以
来、神経質になってしまった。で、そのあと、N子さんが、どうなったか? 改めてここに書くまで
もないことだと思う。





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13

●心の訓練

 「相手の心の中に入って、相手の立場でものを考える」というのは、とても大切なことである。
このことについては、もう何度も書いた。

 そこで私は、こうした訓練を、教育の場でできないものかと考えている。言うまでもなく、こうし
た訓練は、できるだけ早い時期にするとよい。子どもが、まだ、小学2年生とか、3年生のうち
に、である。もっと早い時期でもよい。

 そのころに、こうした「芽」を作っておく。あるいは方向性を作っておく。

 方法は、たがいに対峙して座らせ、たがいの心の中を言いあうといった程度のことでよい。一
度、相手の立場に自分を置いて、ものを考えるという訓練をする。

 もちろんこうした訓練は、家庭の中でもできる。が、その前に、あなた自身が、それを自分で
してみるとよい。ものの見方、考え方が、一変するはずである。つまり、あなた自身が、他人の
心の中に自分を置くことの(すばらしさ)を、まず実感する。

 たとえばあなたが、夫(妻)と並んで食事をしていたとする。そのとき、あなたは、頭の中で、
夫が、何をどう見ているかを想像するだけでよい。何をどう考え、どう思っているかを想像する
だけでよい。

 最初は、小さなとまどいがあるかもしれないが、それを過ぎると、いつでも、どこでも、それが
できるようになる。そして相手の悲しみや苦しみはもちろんのこと、ときには、怒りや不満まで、
わかるようになる。

 すると、それまでは、「なぜ?」「どうして?」と思っていた、相手の心が、そのまま理解できる
ようになる。たとえば今、あなたがあなたの夫(妻)のことで、どうしても理解できない部分があ
ったとする。あるいは、何度言っても、理解してもらえない部分があったとする。

 そういうとき、まず、相手の心の中に、自分を置いてみる。そしてそこから反対に、あなた自
身の姿をとらえてみる。すると、それまでわからなかったことが、わかるようになる。

 この技法は、子どもを指導するときも、たいへん効果的である。

 たとえばある子どもが、忘れ物をしたとする。もう何度も注意した。が、それでもまた忘れ物を
したとする。

 そういうとき、指導する側にいる私としては、頭から、それを叱ったりしやすい。「忘れ物をして
はだめだ!」と。が、そのとき、子どもの心の中に、自分を置いてみる。すると、ものの考え方
が、一変する。子どもへの接し方も、一変する。

 子ども自身は、叱られることを、恐れている。忘れ物をしたのは、意図的な行為というより
は、うっかりしたためである。その上、このところ、何かと忙しい。暑い。風邪気味だ。……とい
うようなことが、わかる。

 そういう視点に一度、自分を置いてみると、もう子どもを叱れなくなる。叱れなくなるかわり
に、こんな言い方が、口から出てくる。

 「いろいろ、忙しかったんだね」「このところ暑いからね」「別に叱らないから、先生を、こわが
らなくてもいいよ」「先生だって、よく忘れ物をするんだよ」と。

 ためしに、この方法を、あなたの夫(妻)にためしてみてほしい。いつも同じようなパターンで
口論が始まり、夫婦げんかになるというのであれば、なおさらである。

【補記】

 昔の人は、こうして相手の心の中に自分を置き、その相手の立場でものを考えることを、「思
いやり」と呼んだ。

 すばらしい言葉である。英語になおすと、「同情(sympathy)」から、さらに「慈悲(mercy)」。
さらに「愛(love)」という言葉になる。

 相手を広く、深く、思いやることができる人を、人格の完成度の高い人という。そうでない人
を、完成度の低い人という。

 皮肉なことに、人格の完成度の高い人からは低い人が、よくわかる。しかし低い人からは、
高い人がわからない。

(だからといって、私がその人格の高い人ということではない。誤解のないように。それに、人
格の完成度には、際限がない。あくまでも相対的なものである。)

このばあいも、思いやりのある人からは、思いやりのない人が、よくわかる。しかし思いやりの
ない人からは、思いやりのある人がわからない。ただのお人好しか、バカに見える。

 子どもの世界でも、似たようなことはよくある。

 ずいぶんと前だが、私にこんなことを言った、男子高校生がいた。

 「先生、学校祭の準備委員をするようなヤツはアホだよ。受験勉強ができなくなる」と。

 こういうものの考え方をする高校生ほど、この世界では、成功者(?)になる可能性が高い。
しかし、同時に、こういう高校生ほど、やがて孤独に苦しむようになる。

 孤独がいかに恐ろしいものかは、若い人にはまだわからないかもしれない。しかし孤独は、
まさに地獄。無間の地獄。この孤独に耐えられる人は、いない。絶対に、いない。あのイエス・
キリストも、孤独(飢え)に苦しんだ。マザーテレサが、そう言っている。

 今までに、何度もとりあげた文章だが、もう一度、ここでマザーテレサの言葉を、確認してお
きたい。

+++++++++++++
When Christ said: "I was hungry and you fed me," he didn't mean only the hunger for bread 
and for food; he also meant the hunger to be loved. Jesus himself experienced this 
loneliness. He came amongst his own and his own received him not, and it hurt him then and 
it has kept on hurting him. The same hunger, the same loneliness, the same having no one to 
be accepted by and to be loved and wanted by. Every human being in that case resembles 
Christ in his loneliness; and that is the hardest part, that's real hunger. 

キリストが言った。「私は空腹だった。あなたが食事を与えてくれた」と。彼はただ食物としての
パンを求める空腹を意味したのではなかった。彼は、愛されることの空腹を意味した。キリスト
自身も、孤独を経験している。つまりだれにも受け入れられず、だれにも愛されず、だれにも求
められないという、孤独を、である。彼自身も、孤独になった。そしてそのことが彼をキズつけ、
それからもキズつけつづけた。どんな人も孤独という点では、キリストに似ている。孤独は、もっ
ともきびしい、つまりは、真の空腹ということになる。

 「先生、学校祭の準備委員をするようなヤツはアホだよ」と言った高校生だが、では、それだ
け勉強していたかというと、そうでもない。ヒマな時間がたっぷりとある子どもほど、勉強をしな
い。これは、子どもの世界では、常識。

 それはさておき、ここでいう人格の完成度と、その人の学歴とは、まったく関係がない。ビジ
ネスの世界で成功した人が、それだけ人格の完成度が高いかというと、それもない。むしろ、
実際には、はげしい受験勉強や、ビジネスの世界を渡り歩いた人ほど、人格の完成度は、低
い(?)。

 「他人を蹴落としてでも……」という冷徹な人生観が、その人の思いやりの心を閉ざしてしまう
からである。またそういう冷徹な人生観がないと、こういった狂騒主義の社会では、成功(?)で
きない。そう決めてかかることはできないが、そういう部分も多い。子どもの受験競争を例にあ
げるまでもない。

 戦後の日本の教育がおかした、最大のミスは、ここにある。……というのは、少し大げさに聞
こえるかもしれないが、それほど、まちがっていないと思う。つまり、勉強のできる子どもイコー
ル、頭がよい子イコール、人格的にもすぐれた子どもと誤解した。
 
 その誤解の上に、戦後の日本の教育が成りたっている? ……私は、どうしても、そんな感じ
がしてならない。

 もちろん親や子ども、そして教師に責任があるわけではない。みんな一生懸命してきただけ。
しかし、どこかで歯車が狂った。その結果が、「今」ということになる。

 本来、教育というのは、「思いやり」を教えることに主眼を置かねばならない。それがいつの
間には、知識教育に置きかわり、さらに、受験教育に置きかわってしまった。戦後の日本の経
済的発展は、そういう教育の上に乗っているが、しかしその弊害も無視できない。

 日本に住んでいる以上、日本の競争社会は避けて通れない。が、どこかで、ここでいう人格
の完成を、考えることは、大切なことだと思う

【物質的な繁栄】

 物質的な繁栄が、そのまま心の豊かさにつながるとは、かぎらない。いわんや人格の完成に
つながるとは、かぎらない。

 昨日も、ワイフとドライブをしていたら、見るからに高級な外車(イギリスのJ車)が、私たちの
車の前を、横切っていった。めちゃめちゃな運転だった。見ると、まだ20代の前半と思われ
る、若い男だった。

 「どうして、あんな若い男が、あんないい車に乗れるのかねえ?」と私が声をかけると、ワイフ
も、「へえ……」と言ったきり、黙ってしまった。「きっと、親のスネをかじっているんだよ」と私が
言うと、「そうよねえ。いくら何でも、あんな車、買えるわけがないもんねえ」と。

 見るからに軽薄そうな若者と、見るからにチグハグな高級車。この組みあわせが、どこか日
本の社会全体を象徴しているかのようにも、思える。たしかに日本は、物質的には豊かになっ
たが、中身がついてきていない。そんな感じがする。

 もっとも、中身を豊かにするのは、これからのこと。今が、ダメだからといって、それが結論と
いうわけではない。20代そこそこの若者が、高級車に乗ってはいけないと言っているのでもな
い。ただ、物質的な繁栄のまま、終わらせてはいけないということ。

 そういう若者が、そういう高級車に乗り、どこかの景色のよいところに車を止め、音楽を聞い
たり、本を読んだりするようになれば、すばらしい。そういう若者が、人生を語り、善と悪につい
て論ずるようになれば、すばらしい。もしそうなれば、つまりそういう若者が、そういうことをする
ようになれば、この日本も、さらにすばらしい国になる。

 その部分に、期待したい。




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14

●家出

【娘の家出】

******************************

神奈川県に在住の方から、娘の家出についての、相談があった。
子どもは、現在、13歳。

家族構成は、母親(相談者)、父親(亭主関白風の権威主義な
ところがある。)ほかに妹2人、弟1人。

(メールの掲載を許可していただけませんでした。)

******************************

【林先生へ、GSより……】

 夏休みが終わったとたん、娘が家出をしました。
 夏休みの間、門限を破ったりして、父親にはげしく
 叱られたりしたことが、理由ではないかと思います。

 家出をして、数週間になります。
 今は、どこにいるかわかりませんが、携帯電話で
 連絡をとりあっているような状態です。

 毎日が、たいへん苦しいです。
 どうしたらいいでしょうか。

 (神奈川県 Y市、GSより)

*******************

【GSさんへ、はやしより……】

 子どもの巣立ちは、必ずしも、美しいものではありません。親を罵倒し、けんかして、別れて
いく例も、少なくありません。しかしだれしも、そんな結末を望むものではありません。みんなそ
れぞれの夢や希望をもって、子育てを始めます。が、どこかで狂う。狂って、GSさんのようにな
る……。

 遠因を言えば、2歳ちがいの妹が、生まれたときから始まったのかもしれません。どこか権威
主義で、亭主関白な父親にあったのかもしれません。あるいは、どこか過干渉ぎみで、子ども
の心を見失った、GSさん、あなた自身にあったのかもしれません。

 この際、原因はともかくも、現状として、娘さんは、家出をしてしまった。怠学から不登校、お
決まりの夜間外出、そして家出です。

 こういうケースでは、二つの方向から、ものを考えます。

 ひとつは、今の状態を最悪だと思わないこと。(GSさんは、最悪だと思っているかもしれませ
んが、さらに底の下には、底があるということ。)つぎに、こういう状態を、もとに戻そうと思わな
いこと。「今の状態を、これ以上悪くしないことだけ」を考えて、対処するということです。

 13歳ということで、大きな不安や心配を感じておられることが、よくわかります。しかも女の子
です。私の立場では、「どうしてこうまでこじらせてしまったのか」ということになりますが、しか
し、ケースとしては、よくあることで、決して、珍しくありません。

 また症状としては、引きこもり、家庭内暴力、心の病気などとくらべても、非行は、予後もよ
く、一過性の問題として、今の対処の仕方さえまちがえなければ、やがて笑い話になるもので
す。さらに決して、家出などの非行を奨励するわけではありませんが、こうしたサブカルチャ(下
位文化)を経験した子どもほど、あとあと常識豊かな子どもになることも、よく知られています。

 ものごとは、悪いほうへ、悪いほうへとばかり、考えないこと。一つだけ、はっきり言えば、あ
なたはぜんぜん、子どもの立場で、ものを考えていないということ。どこか自己中心的で、押し
つけがましい子育てをしている。だから、子どもの心が読めない。つかめない。もっと言えば、
自分の心配や、不安を、子どもにぶつけているだけ。

 つまりあなたが心配すればするほど、子どもは、それを「うるさい親の干渉」ととらえるわけで
す。一方、あなたはあなたで、「私の子ども」という、「私の……」という幻想と、「子ども」という幻
想にとりつかれている。そして「まだ何とかなる」「こんなはずではない」「うちの子にかぎって…
…」と、悩んでいる。

 何が原因かと言えば、まずもって、あなたは自分の子どもを、信じていない。その理由と原因
はともかくも、今の段階で、それであなたはかまわないかもしれませんが、相手の子どもの立
場で考えてみたことがありますか。

 親にも信じてもらえない子どもの苦しみというか、はがゆさというか……。

 本来なら、家庭で、その怒りや不満を、直接、あなたにぶつけてみたいのかもしれません。し
かしそれをあなたの父親が、力づくで、おさえこんでしまった(?)。下には、妹や弟もいる…
…。

 そこで家出、ということになったわけです。

 一般的な方法としては、(1)まず、学校の先生に、相談する、です。事件性があれば、警察と
いうことになりますが、先生から校長、校長から、各種相談機関へ、話が進むはずです。

 が、この段階で、あなたの子どもは、必ず、一度は、家に帰ってきます。問題は、そのあとで
す。

 あなたの子どもが、家に帰ってきたら、(1)暖かい無視と、(2)ほどよい家庭にこころがけてく
ださい。「求めてきたら、与えどき」と心得ます。説教したり、叱ったり、あれこれ指示するのは、
禁物。とにかく、無視、です。

 学校へは行かないものと、あきらめてください。進学塾は、もちろんのことです。この問題は、
親があきらめたとたん、その解決の糸口が現れるものです。「あなたの好きにしなさい」と宣言
し、親は親で、「今の状態を、今以上に悪くしないことだけ」を考えて対処します。

 こういうケースでは、もうひとつ、深刻な問題が、現れてきます。妹と弟の問題です。

 対処の仕方をまちがえると、妹や弟たちも、同じ経過をたどることになります。理由は、あな
たの子どもにあるからでは、ないからです。あなたの子育てのリズムが、そうなっているからで
す。

 あなたの子どもが帰ってきたら、あなたは、子どもに、こう言います。「あなたも、つらかった
のね」「お母さんもあなたの気持ちがわからず、悪かった」と。あとは、ただひたすら、許して、
忘れる。これだけを繰りかえしてください。

 あなたの子どもが、今の家庭に居場所さえ見つかれば、もう家出をする必要はないはず。そ
の居場所を、つくってあげます。根気のいる作業です。半年とか、1年単位の時間がかかりま
す。すでにあなたの子どもの心は、かなりキズつき、病んでいると思ってください。家庭環境を
改めたから、すぐなおる……という問題では、ありません。

 会話もなくなるでしょう。いたたまれないような緊張感も、漂うようになるでしょう。はりつめた
雰囲気が、家庭を重くふさぐかもしれません。

 が、それでも許して、忘れます。その度量が、いつか、あなたの子どもの心に風穴をあけま
す。そしてここにも書いたように、それがいつか、すぐ、笑い話になります。今のあなたにはわ
からないかもしれませんが、必ず、笑い話になります。それを信じて、前に進んでください。

 今、あなたの子どもは、あなたが苦しんでいる以上に、もがき、苦しんでいます。あなた以上
に、不安で、将来を憂えています。しかしどうしようもないから、それをあえて、別の形で、表現
しているのです。一見、わがままに見えるかもしれませんが、そうするしか方法がないのです。

 が、やがてこの時期は、すぎます。長くて2年。早ければ、明日にでも、です。幸いにも、メー
ルでの交信ができているということですから、その交信手段は、切らないように。説教したり、
命令がましい言い方は、避けるのが鉄則です。

 あくまでも子どもの立場に立った、メールを送ります。どんなに迷っても、腹立たしく思っても、
そこは、がまん。ただひたすら、がまん。今こそ、あなたの忍耐力と、子どもへの愛情が試され
るときと、覚悟してください。お産のときの苦しみを思いだしてください。

 あのときは、肉体をこの世に産み出す苦しみでしたが、今は、心を生み出す苦しみです。あ
なたがそれに耐えたとき、あなたの子どもはもちろん、あなたも、すばらしい人間に変身できま
す。つまり、今度は、あなたの子どもが、あなたを育てているのです。わかりますか? この親
子のもつ、生命の深遠さを!

 最後に。あなたの子どもは、あなたが思っている以上に、おとなです。いろいろ心配な点があ
るかもしれませんが、少なくとも、今日までは、無事です。ですから必ず、明日も、無事です。
今、あなたができることは、子どもがいつもどってきてもよいように、部屋を掃除して、窓をあけ
ていることだけです。

 いつか、あなたの子どもは、今の時期を振りかえるときがきます。そのとき親子をつなぐ絆
は、「母は、私を信じてくれた」「守ってくれた」「許してくれた」という思いです。どうか、長いスパ
ン(時間的尺度)でも、今の問題を考えてください。

 こういう月並みな言い方で失礼かもしれませんが、こういうケースは、珍しくありません。ある
意味で、どこにでもあるケースです。一部の悪い事件ばかりが目立ちますが、それは例外で
す。

 あなたの子どもは、子どもというよりひとりの人間として、結構、しっかりと生活していますよ。
それがわからなければ、あなた自身の13歳のときを、思い出してみてください。

 そうそうたまたま数日前ですが、N市に住んでいる中学校の先生の妻から、こんなメールが
入っていました。

 「夫は、今夜も、午前1時に帰ってきました。家出した生徒を、さがすために、N市の繁華街
中を歩き回ったためです」と。そのときは先生の立場だけで、その先生に同情しましたが、今
は、反対の立場に立たされ、複雑な心境です。

 とにかく、一度、担任の先生に相談なさることです。

 では、あまりよいアドバイスになっていないかもしれませんが、参考意見の一つとして、ご利
用ください。

                           はやし浩司
(はやし浩司 家出 子どもの家出)
+++++++++++++++++++++

参考までに、以前書いた原稿を添付します。

+++++++++++++++++++++
 
子どもへの愛を深める法(子どもは下から見ろ!)

親が子どもを許して忘れるとき

●苦労のない子育てはない

 子育てには苦労はつきもの。苦労を恐れてはいけない。その苦労が親を育てる。親が子ども
を育てるのではない。子どもが親を育てる。

よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分を育てること」と言う人がいる。まちがっては
いないが、しかし子育てはそんな甘いものではない。親は子育てをしながら、それこそ幾多の
山や谷を越え、「子どもを産んだ親」から、「真の親」へと、いやおうなしに育てられる。

たとえばはじめて幼稚園へ子どもを連れてくるような親は、確かに若くてきれいだが、どこかツ
ンツンとしている。どこか軽い(失礼!)。バスの運転手さんや炊事室のおばさんにだと、あいさ
つすらしない。しかしそんな親でも、子どもが幼稚園を卒園するころには、ちょうど稲穂が実っ
て頭をさげるように、姿勢が低くなる。人間味ができてくる。

●子どもは下からみる

 賢明な人は、ふつうの価値を、それをなくす前に気づく。そうでない人は、それをなくしてから
気づく。健康しかり、生活しかり、そして子どものよさも、またしかり。

 私には三人の息子がいるが、そのうちの二人を、あやうく海でなくすところだった。とくに二男
は、助かったのはまさに奇跡中の奇跡。あの浜名湖という広い海のまん中で、しかもほとんど
人のいない海のまん中で、一人だけ魚を釣っている人がいた。あとで話を聞くと、国体の元水
泳選手だったという。

私たちはそのとき、湖上に舟を浮かべて、昼寝をしていた。子どもたちは近くの浅瀬で遊んで
いるものとばかり思っていた。が、三歳になったばかりの三男が、「お兄ちゃんがいない!」と
叫んだとき、見ると上の二人の息子たちが流れにのまれるところだった。私は海に飛び込み、
何とか長男は助けたが、二男はもう海の中に沈むところだった。

私は舟にもどり、懸命にいかりをたぐろうとしたが、ロープが長くのびてしまっていて、それもで
きなかった。そのときだった。「もうダメだア」と思って振り返ると、その元水泳選手という人が、
海から二男を助け出すところだった。

●「こいつは生きているだけでいい」

 以後、二男については、問題が起きるたびに、「こいつは生きているだけでいい」と思いなお
すことで、私はその問題を乗り越えることができた。花粉症がひどくて、不登校を繰り返したと
きも、受験勉強そっちのけで作曲ばかりしていたときも、それぞれ、「生きているだけでいい」と
思いなおすことで、乗り越えることができた。

私の母はいつも、こう言っていた。『上見てキリなし。下見てキリなし』と。人というのは、上ばか
りみていると、いつまでたっても安穏とした生活はやってこないということだが、子育てで行きづ
まったら、「下」から見る。「下」を見ろというのではない。下から見る。「生きている」という原点
から子どもを見る。そうするとあらゆる問題が解決するから不思議である。

●子育ては許して忘れる 

 子育てはまさに「許して忘れる」の連続。昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んでいる
と、オーストラリアの友人がいつもこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ」(※)と。英語では
「Forgive and Forget」という。

この「フォ・ギブ(許す)」という単語は、「与えるため」とも訳せる。同じように「フォ・ゲッツ(忘れ
る)」は、「得るため」とも訳せる。しかし何を与えるために許し、何を得るために忘れるのか。
私は心のどこかで、この言葉の意味をずっと考えていたように思う。が、ある日。その意味が
わかった。

 私が自分の息子のことで思い悩んでいるときのこと。そのときだ。この言葉が頭を横切った。
「どうしようもないではないか。どう転んだところで、お前の子どもはお前の子どもではないか。
許して忘れてしまえ」と。

つまり「許して忘れる」ということは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るため
に忘れろ」ということになる。そしてその深さ、つまりどこまで子どもを許し、忘れるかで、親の愛
の深さが決まる。もちろん許して忘れるということは、子どもに好き勝手なことをさせろというこ
とではない。子どもの言いなりになるということでもない。

許して忘れるということは、子どもを受け入れ、子どもをあるがままに認めるということ。子ども
の苦しみや悲しみを自分のものとして受け入れ、仮に問題があったとしても、その問題を自分
のものとして認めるということをいう。

 難しい話はさておき、もし子育てをしていて、行きづまりを感じたら、子どもは「生きている」と
いう原点から見る。が、それでも袋小路に入ってしまったら、この言葉を思い出してみてほし
い。許して忘れる。それだけであなたの心は、ずっと軽くなるはずである。

※……聖書の中の言葉だというが、私は確認していない。





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15

●ハンガリーの教育事情

●ハンガリー

+++++++++++++++++++++++++

ハンガリーにお住まいの、SZさんから、つぎのような
メールが届きました。転載許可をいただけましたので、
紹介します。

+++++++++++++++++++++++++

【SZより、はやし浩司へ】

メール、ありがとうございました。
皆、元気にしています。

YK子は、アメリカンスクールと日本人補習校の両方に通っています。
今は大変ですが、4月に全日制の日本人学校が開校する予定です。

英語は、かなり理解できるようになりました。話す方はまだまだですが、
先生の言っていることはわかるそうです。
YK子はとてもたくましく(先生の教え子だからでしょうか?)、英語の
環境にすんなりと入っていきました。
彼女は、分からないことが分かる喜びを、強く感じるようです。

男子ハンマー投げのことです。

夫の会社のハンガリー人たちは、AA選手の金メダル、室伏選手
の銀メダルについて、最初から一切話題にしなかったそうです。
いつもは何でも自慢したがるのに、何故だろうと夫と話していました。
ドーピングの事実を皆、知っていたのかもしれません。

ハンガリーで起こる様ざまなトラブルを考えると、AA選手のとった
行動は理解でき、納得できます。ハンガリー人は、精神的に弱く刹那
的な面があり、怠け者です。何かトラブルが起こると、なし崩し的に処
理し、解決をするために努力をしないことが多いです。

この国の歴史を紐解いていけば、もっと色々なことが分かるかもしれ
ません。


下記のメールは1年前に林先生に送るために書いたものです。
幼稚園のことを書いたので多少の参考になるかもしれないと思い
直し、今更、送ります。

+++++++++++++++++

子供たちがインターナショナル幼稚園へ通い始めました。
YK子は、新しい環境にわくわくしながら、楽しくてたまらないようです。
YK子は、もともと好奇心旺盛な子供でしたが、BW教室に1年半通っ
たことも大きいと思っています。

この幼稚園の先生方の経歴や国籍は様ざまです。

心理学を学んだ先生、幼児教育と英語教育を学んだ先生、スペイン語
と英語の先生、一家そろってダンサーで本人もバレリーナだった先生
など、幼児教育を学んだ人とは限りません。

YK子の先生は、ペルー人とフランス人&スウェーデン人の両親をも
つハンガリー人の2人です。

秋になります。ハンガリーの秋は短く、すぐに冬になるそうです。
9月になって、突然寒くなりました。

日本の幼稚園では、秋になると運動会と生活発表会が行われます。
YK子は、これらの練習が大嫌いでした。

こちらの大イベントはハロウィンですが、9月の第4週目に、
−School Sprit Week-という行事があります。

(月曜日) おもしろい(ちぐはぐな)コーディネートで登園する日
(火曜日) おもしろい頭(かつらやフェイスペインティングなど)で登園する日
(水曜日) スポーツディ
(木曜日) パジャマで登園して、ごろごろする日
(金曜日) 真っ赤で登園して、みんなで赤いものを持ち寄る日

きっと子供たちは大興奮するでしょう。子供たちが楽しんでいる様子を
想像するだけで、わくわくします。

SZより 


【SZさんへ、はやし浩司より】 

 メール、ありがとうございました。いただきましたメールについて、マガジンへの転載許可を、
よろしくお願いします。AA選手のドーピング事件ですが、改めて、「なるほど、そうだったのか」
と思っています。日本の読者の方にも、何かの参考になると思います。

 日本では、オリンピックも終わり、今、H元首相の、1億円受領問題、K国の核問題、雅子妃
の心の問題などなどが、大きな話題になっています。教育の世界は、このところ、静かです。少
し前、小学校児童による殺傷事件もありましたが、最近は、あまり話題にならなくなりました。

 全体的にみると、またまた受験競争が過熱してきたようにも、思えます。不景気も一段落した
というところでしょうか。

 それにしても、今度のオリンピックでは、日本人選手たちは、よくがんばりましたね。この私で
すら、勇気づけられました。「やれば、できるもんだ」とです。とくに水泳の世界では、体格的な
コンプレックスを感じていました。「日本人の体格では、無理だ」と、です。それを、今度のオリ
ンピックで、はねかえしてくれました。すばらしいことです。

 今、悩んでいるのは、「あいさつ」、です。

 私の教室でも、伝統的に、レッスンのあとには、私に向っては、「さようなら」。つづいて参観に
来ている親たちに向かっては、「ありがとうございました」と、子どもたちにあいさつをさせていま
す。

 しかし、それがよいのかどうかと、今、迷っています。で、昨日、4、5人の母親たちに、「どう
思いますか?」と聞いてみました。

 しかしいきなり、そんな質問をした私が、愚かでした。みなさん、「?」というような表情でした。
つまりこうしたあいさつは、日本では、ごく当たり前のことなんですね。ハンガリーでは、もちろ
んしないと思います。

 で、私のBW教室では、どうするか? こうしたあいさつは、たしかに権威主義的です。そうそ
う、最近、この浜松市でも、先生による命令的口調が、おさえられています。

 「〜〜しなさい」ではなく、「〜〜してくれませんか」「〜〜しては、どうでしょうか」というような言
い方に、改まってきたようです。日本の教育も、今、大きく変わろうとしています。日本の権威主
義については、私はもう10年以上も前から戦ってきました。この権威主義が、日本の社会を
ゆがめ、つづいて、日本の社会をゆがめました。

 実に愚かな、意味のない主義です。が、なくなったわけではありません。

 いまだに、「男が上、女が下」「夫が上、妻が下」「親が上、子が下」「教師が上、生徒が下」と
考えている人は、少なくありません。それにゆがんだ職業意識も、問題です。「大学の教授が
上で、幼稚園教師は下」「大企業の社員が上、個人営業は下」とです。

 日本人は、その人の中身を見ない。これも、悪しき、権威主義の弊害ではないでしょうか。ま
だまだ私の戦いは、つづきます。

 今朝は、午前4時に起きました。昨日はいろいろあって、早く床についたからです。で、いくつ
かのメールに返事を書いて、原稿を書いて、そして今、です。時刻は、6時を回ったところで
す。台風一過、静かな朝にもどりました。幸い、浜松地方は、被害はありませんでした。よかっ
たです。

 私は子どものころ、台風が好きでした。どこかスリリングで、子どもながらに、ワクワクしたの
を覚えています。しかしそれはだれにも話せない、私だけの秘密でした。

 しかし最近の子どもたちは、すなおですね。「台風が来るよ」と話しかけたりすると、「ヤッタ
ー!」「休校になる!」と、飛びあがって喜んだりします。私たちが子どものころには、そういうこ
とを自由に言える雰囲気が、まだなかったように思います。

 では、今日はこれで……。これから10月1日号のマガジンの予約を入れます。

 またどうか、ハンガリーの様子を教えてください。よろしくお願いします。

                        浜松    はやし浩司




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16

●自閉症

自閉症の診断基準について……
(日本自閉症協会・案内パンフより、転載)

●自閉性障害 (Autistic Disorder)

A.(1),(2),(3)から合計6つ(またはそれ以上)、うち少なくとも(1)から2つ、(2)と(3)から1つずつの
項目を含む。

(1)対人的相互反応における質的な障害で、以下の少なくとも2つによって明らかになる:

(a)目とめで見つめ合う、顔の表情、体の姿勢、身振りなど、対人的相互反応を調節する多彩
な非言語性行動の使用の著明な障害。
(b)発達の水準に相応した仲間関係をつくることの失敗。
(c)楽しみ、興味、成し遂げたものを他人と共有すること(例:興味のあるものをみせる,もって
来る、指さす)を自発的に求めることの欠如。
(d)対人的または情緒的相互性の欠如。

(2)以下のうち少なくとも1つによって示される意志伝達の質的な障害:

(a)話し言葉の遅れまたは完全な欠如(身振りや物まねのような、代わりの意志伝達の仕方に
より補おうという努力を伴わない)。
(b)十分会話のある者では、他人と会話を開始し継続する能力の著明な障害。
(c)常同的で反復的な言葉の使用または独特な言語。
(d)発達水準に相応した、変化に富んだ自発的なごっこ遊びや、社会性を持った物まね遊びの
欠如。

(3)行動、興味および活動が限定され、反復的で常同的な様式で、以下の少なくとも1つによっ
て明らかになる:

(a)強度または対象において異常なほど、常同的で限定された型の、1つまたはいくつかの興
味だけに熱中すること。
(b)特定の、機能的でない習慣や儀式にかたくなにこだわるのが明らかである。
(c)常同的で反復的な衒奇的運動(例えば、手や指をぱたぱたさせたり、ねじ曲げる、または複
雑な全身の動き)
(d)物体の一部に持続的に熱中する。

B.3歳以前に始まる、以下の領域の少なくとも1つにおける機能の遅れまたは異常:
(1)対人的相互作用、(2)対人的意志伝達に用いられる言語、または(3)象徴的または想像的遊
び。

C.この障害はレット障害または小児期崩壊性障害ではうまく説明されない。
(DSM−IV 精神疾患の分類と診断の手引より)
(はやし浩司 自閉症 診断基準 DSM―IV)





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17

●子ども部屋、欧米の常識VS日本の常識

 おおざっぱにみて、欧米の子ども部屋には、ベッドとクロゼットがあるのみ。勉強机はない。
一方、日本の子ども部屋には、学習机が置いてあるのがふつう。

 おおざっぱにみて、欧米の子ども部屋には、カギがかかるようになっている。一方、日本の子
ども部屋には、カギがない。母親が、掃除などの理由で、子ども部屋に入る姿は、日本では、
日常的な光景。

 おおざっぱにみて、欧米のほとんどの子ども部屋には、テレビは、ない。一方、日本の子ども
部屋には、テレビがある。

 ……詳しくは、北浦かほる著、「世界の子ども部屋」(井上書院発行)を、ご覧になっていただ
きたい。

 「子ども部屋悪玉論もあるが、子どもがひとりきりになれる世界も必要」というのが、北浦氏の
意見である。まったく、同感である。

 私のばあいは、昔風の家に生まれ育ったということもあって、すべてが、母親の管理下に置
かれていた。高校生になって、やっと自分の部屋らしきものを与えられたが、家族のタンスもそ
こにあった。人の出入りは、もちろん自由。プライバシーも、何も、あったものではなかった。

 そういう自分の経験から、つまり家庭の中に、自分の居場所がなかったという経験から、私
は、「子ども部屋悪玉論」には、どうしても賛成できない。言うまでもなく、子ども部屋悪玉論を
説く人たちは、「そのために、家族のコミュニケーションが希薄なる」と説く。

 しかし実際には、家族のコミュニケーションが希薄になるのは、子ども部屋の子どもが閉じこ
もるからではなく、もっと、ほかの要因によるものである。たとえばプライバシーが筒抜けだった
の私のばあい、それだけ家族のコミュニケーションが、濃厚だったかといえば、そういうことは、
決してなかった。

 なお、欧米では、(アメリカでも、EUでも)、生まれるとすぐ、自分の個室を子どもに与えるの
が、全体的な習慣になっている。

 そこで私なりの子ども部屋論について。

(1)子どもが小学生になったら、子ども部屋を与える。兄弟の相部屋は、避ける。
(2)子ども部屋には、ベッド(寝具)とクロゼットを置く。あくまでも睡眠の場所と、位置づける。
(3)学習机は、置くとしても、平机。心身を休める机にする。低学年のうちは、学習は台所のテ
ーブルなどを利用する。
(4)子ども部屋は、子どもの管理に任す。掃除などでも、子どもの許可を求めてからする。子
ども部屋は、親でも足を踏み入れることができない、神聖不可侵の空間と心得ること。
(5)テレビ、ステレオなどの、娯楽機器は、置かない。娯楽機器は、家族全員が触れることが
できるように、居間に置く。

 基本的には、そういう考え方をしながら、あとは、それぞれの家庭の事情と、子どもの希望に
そって、考えればよい。

【補記】

 私は北浦氏の本を読んで、一つ、思い当たることがあった。

 先日、知りあいの中国人が、部屋を改装した。子ども部屋を改装したと、その母親は言って
いた。

 が、見ると、大きな部屋(20畳くらい)の部屋の中央に、大きなソファと、テーブル。二人の子
どもの机は、部屋のまわりに、カベにつけて配置してあった。

 私はそれを見たとき、「これじゃあ、毎日、子どもが親に監視されているみたいだ」と思った。
しかし北浦氏の本によれば、それが標準的な中国人の子ども部屋ということになる。

 このことをあとでワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「中国では、子どもはその親の財産と
いう考え方をするからではないかしら」と。「少し前の、日本もそうだったわ」とも。

 それがよいとか悪いとか言っているのではない。ただ子どもの考え方、子ども部屋の考え方
というものは、国によっても、ちがうということ。

 今、日本は、急送な欧米化のもと、子ども部屋に対する考え方も、これまた急速に欧米化し
ている。今は、その過渡期ということになるのかもしれない。




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18

●世代連鎖

●掲示板

 掲示板にいくつかの書き込みがあった。あとでその中の一つを、考えてみたい。

 みんな、いろいろな問題をかかえて、懸命に生きている。幸福な人は、みな、よく似ている
が、不幸な人は、みな、ちがう。だれしも幸福になりたいと思っているのに、あれよあれよと思
っているうちに、不幸になってしまう。

 幸福などというものは、不幸と不幸の間の、つかの間のやすらぎにすぎないのか。幸福だと
思っても、その下では、不幸が、おいで、おいでと、手招きしている。そういう意味でも、生きる
ということは、薄い氷の上を、恐る恐る歩くようなもの。

 ちょっとした油断が、その人を、不幸のドン底に、突き落とす。

 そう、幸福を、どこかで感じたら、あとはそれにしがみついて生きていくしかない。大切に、大
切に、手で守りながら、生きていくしかない。

+++++++++++++++++++++++++++++

【掲示板より……】

【MYさんより、第1信】

はじめまして。「育児」で検索していたら偶然林さんの随筆集に行き当たり、この2〜3日いろい
ろと拝読させていただきました。

現在私は2歳11ヶ月と8ヶ月の二男児の32歳の母です。(入籍していない)子ども達の父親
は、長男誕生時から別居中。現在は実家で私の両親と妹と生活をしています。

以前より、自分自身が幼少期の経験から心のケアが必要ということは感じていました。私の父
は、林さんの言う「親・絶対教」のタイプで、大変威圧的な人間です。未だにたわいない会話も
顔を見てはできません。

その一方、母は父に服従しており、未だに「お父さんに聞いてから」「お父さんがいいと言った
ら」というタイプの女性です。

私には、幼少期の記憶はほとんどありませんが、覚えているのは、小学2年生のとき、妹が超
未熟児で生まれたのですが、(その1年前に弟が7ヶ月で死産でした)、部屋でラジオかカセット
を聴いていたときに、音が大きかったのか、突然背後から頭を殴られ、一言「うるさい!」と怒
鳴られたこと。

それも小学校1年生か2年生の頃だったと思いますが、くわがたに指をはさまれ1時間近く涙
をこらえて我慢して、母がやってきて笑いながらm「なにやってるの? 自分でさっさととればい
いじゃない」と言ったことくらいです。

小学校を卒業するまではいわゆる「優等生」で、成績もクラスで1番か2番でした。幼い頃どん
な子どもだったのかと聞くと、「手のかからないいい子だった」という返答です。

ですが、中学校に入学した後、まず言葉遣いが荒れました。自分のことを「俺」と言ってほとん
ど男言葉で話していました。でも当時は気の合う友人がいてくれたので、学校にも行き、勉強も
していました。成績は相変わらずよい方でした。

高校進学時は、就職も自分自身では考えたのですが、先生や親に説得されるまま学力に応じ
た進学校を受験し、大した努力もせずに合格してしまいました。

高校時代はいよいよ適応できなくなり、服装も乱れ、遅刻や早退を繰り返しましたが、先生に
恵まれ、無事に3年間で卒業できました。

親との断絶はピークになり、17歳で離れに移り住み、卒業と同時に働きながら通える専門学
校に進み、家を出ました。

その後、専門学校のカリキュラムの中で半年間ヨーロッパでの海外研修に行き、卒業と同時に
東京へ就職、25歳で一旦実家へ戻りました。

高校の頃から両親を「お父さん、お母さん」と呼べなくなり、(実は今でもまだ呼べないのです
が)父親とはそこから約10年間、ほとんど会話らしい会話をしませんでした。高校時代には本
気で父を殺したいとまで思いました。

でもどこかでそういう自分に罪悪感を感じていたのも事実です。苦しみました。わかってほしい
と思う気持ちと、親の期待に応えられない自分との間で、苦しかったのだと思います。

多分セックス依存症でもあったのだと思います。年上の男性といると安心したのは、そこに理
想の父を求めていたのかもしれません。母はサービス過剰な人ですが、そうすることで自分の
居場所を作っているのかもしれないと思うようになりました。

自分自身は本当に居場所がなくて、いつも色々な自分を演じていた気がします。本当の自分な
どはじめからいないと思うくらいに。楽しいときに笑えない、だから悲しいときにも泣けないし、
感情をもてあましてしまうことが今でもよくあります。

思いを言葉にしようとすればそれだけで涙が出てしまうこともたびたびでした。おそらく「基底不
安」「情緒不安」なのですよね。

長くなってしまいましたが、「世代連鎖」は私で終わりにしたいと願っています。あまり意地にな
って「理想の親」にこだわるのもよくないと思いつつ、「自然に」子どもを「子どもらしく」育てるた
めのアドバイスや注意をいただけたらと思い書き込みさせていただきました。

子どもの父親である彼は、私と出会うずっと以前に結婚、離婚を経験していて、(年齢は私と同
じです)、女の子が二人います。彼自身、両親の離婚を14歳のときに経験していて、父親と弟
との三人での生活をして、高校を半年ほどで中退後一人で生活をするようになったと聞いてい
ます。

過去の話を聞いたときに、同じ悲しみを抱えているのかもしれないと思いました。この人なら、
同じ痛みを分け合えるかもしれないと思いました。

でも、私の「理想の親像」があまりにも強く、彼に押し付けすぎてしまったようで、現在はあまり
連絡を取っていません。でも、彼の痛みや苦しみを分け合いたいと思う気持ちは変わっていま
せん。

一度「俺には家族は無い」ともらしたことがありましたが、そういう気持ちの人はもうそのままな
のでしょうか。変わることはないのでしょうか。息子達が「父親像」を学習することなく、経験する
ことなく「父親」にならなければいけないのは不幸なのでしょうか。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
御身体くれぐれもご自愛くださいませ。 


【MYさんより、第2信】

相変わらず、いろいろと思いをめぐらせています。
幼い頃の記憶をたどってみたり・・・32年かかって現在のわたしが
ここにいるわけですから、心を閉じた時期がいつごろなのかはっきり
わかりませんが、4、5歳と考えても27、28年間そうやって生きてきた
ことになります。

でも、それで「今」のわたしが在り、子供達に
恵まれたのですよね。その子供達が、私に感情を表現することは
自然であり、自由であり、当然のことなのだと教えてくれたような気が
しています。この子達には自分のような、感情を抑え込んでしまう。

(楽しさも嬉しさも悲しみも寂しさも愛おしさも)ような状況には、させたく
ないと強く思います。

現在の私は過去の私の結果であり、また同時に未来の自分の原因である。
結果を変えることはできないけれど、原因は自分の気持ちひとつでいかにでも
変えられる。

私達の周りで起きている事象には、かならずその理由があると考えています。
両親がわたしに上手く愛情を伝えることができなかったことも、何か彼らの
原因・理由があるのだろうと思えるようになってきました。

「許して忘れる(Forgive and Forget)」がよいのだろうと思います。
でも、「許す」ためには何を許すのかを自分自身が見つめなければ
なりません。

実は、先日父が長男の頭をはたきました。食事中に、うどんのつけつゆを
自分でおわんにいれていてこぼしてしまった時のことです。
私の中で、小学2年生のときの嫌な思い出がフラッシュバックしました。
息子は突然頭をたたかれたショックで部屋へ行き布団に突っ伏してしまいました。

私はただただ息子を抱きしめ、「大丈夫よ。じいじは、おつゆがこぼれて
びっくりしてたたいちゃっただけだから。あなたのことが嫌いでたたいたんじゃ
ないよ。」と繰り返しました。

あの日、私は父に嫌われていると思い込んだのです。そして自分は必要ない人間かも
しれないと、自分には居場所がないと思うようになっていったのです。

優等生でいることで、自分の居場所をなんとか確保しようとしていた小学校時代
だったのでしょうか。

+++++++++++++++++++++

【MYさんへ、はやし浩司より】

 このところ、自分に自信がなくなってきました。何というか、自分自身が、だれかに助けを求
めたいような気分です。「自分でさえ、救えないのに、どうして他人を救えるか」と、です。

 生きるということは、さみしいことですね。いえね、きっかけは、中学生の女子が、HIVで陽性
(エイズ)になったという話を聞いてからです。

 最初は、「とうとう、日本もここまできたか!」と思いましたが、そのうち、その女子中学生の両
親の心の中に、自分を置いて、ものを考えるようになってしまいました。「さぞかし、つらいだろ
うな」とか、「自分なら堪えられないだろうな」とか、そんなふうに考えるようになってしまいまし
た。

 その女子中学生も、その両親も、私とはまったく関係のない人です。しかしどういうわけか、
そのせいで、この数日、気が滅入る一方。おかしなことに、食欲までなくなってしまいました。

 ワイフは、「あんたは、バカねえ。日本中を、一人で背負っているみたい」と、言います。自分
でもそう思うのですが、しかし、「ぼくには、関係ない」と、どうしても割り切ることができません。

 こういう原稿を書いているのも、ホームページを開いたり、マガジンを出しているのも、結局
は、よりよい未来を、子どもたちのために残すためです。しかし、その未来が、どんどんと悪い
ほうに向っていく……。

 無力感というか、虚脱感のようなものを、感じてしまいました。

 MYさんが、今の私を直接見たら、「どうして、こんな弱々しいジジイに、相談なんかしたのか」
と、後悔すると思います。頼りなく、どこかいいかげん。そう、私は、いいかげんな人間です。自
分でも、それがよくわかっています。MYさんの相談を受けながら、別の心では、わずらわしさ
を感じています。

 本当なら、どこか親切そうに、それらしく善人のふりをしながら、返事を書くのがよいのでしょ
うが、そういう仮面をかぶるのも、疲れました。そういう意味では、私も、優等生のふりをしてい
るだけかもしれませんね。他人によい人間に思われようとしているだけ?

 またそう演ずることで、自分の立場をとりつくろっているだけ? もともと人間関係がうまく結
べないタイプの人間です。私は……。

 MYさんと私の共通点は、そのあたりにあります。つまり母子関係の不全というか、基本的信
頼関係が結べないというか、他人に対して、心を開けないのですね。どこか、不安で、どこか心
配。「こんなことをすると、嫌われるのではないか」とか、「自分の価値をさげるのではないか」と
か、そんなふうに考えてしまうのですね。

 で、私のばあいは、あるときから、自分を飾るのをやめました。ありのままの自分をさらけ出
すことにしました。「他人が、どう思おうが、知ったことか」とです。「どうせ、残りの人生も短いこ
とだし、好き勝手に生きてやれ」とです。

 それで、ずいぶん、気が楽になりました。居直ったわけです。講演会でも、ときどき、「ぼくは
悲しいことがあると、ワイフのおっぱいを口に含んで寝ます」などと、言うことがあります。意外
とみなさん、シーンとした雰囲気で聞いてくれます。

 それが人間なのかもしれませんね。

 そして私とMYさんのもう一つの共通点は、幸福な家庭を築こうという、気負いばかりが強く
て、それで結局は、失敗しやすいということです。子育てというのは、そして家庭作りというの
は、本能ではなく、学習によるものなのですね。親像がない人には、子育てはできない。幸福な
家庭を知らない人には、幸福な家庭を築くことができない。

 しかし、ですね。私はある日、気がつきました。MYさんの時代とはちがって、私の世代だと、
幸福な家庭で、両親の愛情に恵まれて、何一つ、不自由なく育った人のほうが少ないのです。
みんな、だれしも、大きなキズというか、十字架を背負って生きているのだと、です。

 で、あの戦争が悪い。本当に、悪い。この話をし始めたら、キリがありませんが、原因は、そ
こへ行きます。

 で、私も、そうだった。今のMYさんも、そうだった。今も、そうかもしれない。気負いばかりが
強く、それでいて、「これでいいのか?」と不安ばかりが先に立ってしまう……。MYさんが、セッ
クス依存症になったのも、恐らく、裸になってすべてをさらけ出しているときだけ、自分でいられ
たからではないでしょうか。

 私も、そうだったような気がします。若いころは、セックスばかりしていました。もっとも、あまり
もてるタイプではなかったので、それなりの苦労は、いつもしていましたが……。

 MYさんに今、アドバイスできるとしたら、どこに自分がいるかを知り、それがわかったら、あり
のままの自分を、さらけ出すということです。時間はかかりますが、いつか、必ず、できるように
なります。

 今も、父親をうらみたかったら、うらめばよいのです。心のどこかで、「そうであってはいけな
い」とか何とか、自分をごまかすから、疲れるのです。あなたの父が、息子をたたいたら、その
場で、「たたかないでよ」と言えばよいのです。

 その点、私はよく引き合いに出しますが、クレヨンしんちゃんの中の、母親のみさえさんの生
き方が、参考になります。(テレビのアニメのほうではなく、コミック本のV1〜5、6まであたり
が、参考になります。)

 しかしあなたは、すでに、自分の中の「私」に気がつき始めています。若い方なのに、すばら
しいことです。私の印象では、自分を振りかえるようになるのは、特別な事情がないかぎり、50
歳を過ぎてからではないかと思っています。

 それまでは、わからない。が、あなたはすでに、自分の過去や、自分にまつわる問題点を、
冷静に、かつ客観的に見ておられる。私は、それがすばらしいことだと言っているのです。

 今すぐというわけにはいかないかもしれませんが、あなたは、確実に、幸福に向った道を歩
み始めています。自信をもって、前に進んだらよいと思います。幸福に向うのに、正道も王道も
ありません。常識的な道というのもありません。

 あなたはあなたの道を進めばよいのです。むしろ私は、あなたの生きザマの中に、すがすが
しいものを感じます。新しい女性というか、人間の生き方というか、そういうものです。

 いつかあなたは、あなたの子どもに、自分の生きザマを語るときがくると思います。そのとき
のために、今は今で、懸命に生きていきましょう。いつか、語るに恥ずかしくない人生であれ
ば、それでよいのです。勲章やメダルなど、なくても、よいのです。

 それを理解するかしないかは、あくまでも、子ども。子どもの問題。今、あなたはひょっとした
ら、今度は、子どもの前で、「いい親」ぶろうとしている。しかし、もうやめたらよいのです。あり
のままを見せて生きたらよいのです。

 そのかわり、別のところで、子どもにさらけ出しても、恥ずかしくない自分をつくっていく……。
その努力は、忘れてはいけません。

 長い返事になりました。先ほどから、こんな長い返事(文)は、掲示板にのるかどうかと、そん
なことを心配しています。まあ、よろしかったら、トップページから、直接、メールをください。ま
た、返事を書きます。

(約束はできませんが、努めて、書くようにします。このところ、どうも、調子がよくありません。
集中力が、長く続かないというか……。頭がボケてきたというか……。)

 では、また。

【MYさんへ、追伸】

 「許す」というのは、相手の心の中に自分を置き、相手の立場で考え、その相手の悲しみや
苦しみを共有するということです。

 もともと「愛」ほど、つかみどころのない感情はありません。が、「許して、忘れる」ことイコー
ル、愛と考えると、ずっと、わかりやすくなります。が、ここで注意しなければいけないことは、愛
という感覚がないからといって、自分は失格だとか、そういうふうに考える必要は、ないので
す。

 私たちは、神に帰依した、クリスチャンではないのですから。

 いえ、以前、あるクリスチャンの女性と、電話で話したことがあります。クリスチャンといって
も、カルト教団と言われている教団に属していた女性ですが、やたらと、「愛」という言葉を使う
のには、閉口しました。

 「私は夫を愛しています」
 「娘たちを愛しています」
 「父や母を愛しています」と。

 ふつうは、そんなことは、言いませんよね。ふつうの電話ですから……。私はその女性が、愛
という言葉を口にするたびに、「?」マークを重ねました。「本当に、この女性は、愛が何である
のか、わかっているのか?」とです。「ただ狂信的に、そういう言葉を繰り返しているだけではな
いのか?」とです。

 ですから、愛の概念は、それぞれ、みなが、自分の解釈で考えればよいのです。ただ、よく使
う言葉だから、それなりに、自分の考え方をもつのは、大切なことだと思います。別に、どこか
の牧師の言うことに従う必要も、ないのですが……。

 だからよく、「私は、子どもを愛することができません」とか、そういう相談をもらうと、「ふう
ん?」と思ってしまうのも、事実です。「要するに、子どもを、受け入れることができないのだな」
とか、そんなふうに、勝手に解釈しながら、です。

 だからすぐ、私は、「無理をしなくてもいいのに……」「好きになれなかったら、好きになること
もないのに……」と、思ってしまいます。しかたないでしょう。この問題だけは……。

 しかしそんな私でしたが、ある日、気がつきました。こういう仕事をしているものですから、あ
る日、ある中学生(男子)と話しているとき、それに気がついたのです。

 その中学生が、私にこう言いました。

 「先生、ぼくには、すばらしい力があると思う。しかし、親も、学校の先生も、それを認めてくれ
ない」と、です。

 そこで私は、「自分の力を認めてもらうには、何らかの形にしなければいけない。ただ自分
で、『力がある』と思っているだけでは、足りない」と。

 その中学生は、まわりの人たちに、(してもらうこと)だけを求めていたのですね。まわりの人
たちに、(してあげること)は、まったく考えていない……。しかしそれは、まさに自分の姿そのも
のだと、気がついたのです。

 私はさみしい。だれにも、相手にされない。孤独だ。だれも、私を救ってくれない、と。

 しかし他人の気持ちになって、その他人のさみしさや、孤独を救ったことがない人が、どうして
自分のさみしさや、孤独を救ってくれと、人に言うことができるでしょうか。もっと言えば、他人に
ほどこしたことがない人が、どうして他人に向って、自分にほどこしてくれと言うことができるでし
ょうか。

 私の知りあいに、こんな女性(60歳くらい)がいます。

 とにかく、ケチなんですねえ。本当にケチ。「私のものは、私のもの。あなたのものも、私のも
の」と考えるようなケチなんです。で、ある日、私は、その女性が、どうしてそうまでケチなのか
ということに気がつきました。

 その女性は、まさに利己主義のかたまり。異常なまでの依存性もあります。いつも、まわりの
人は、自分のために動くべきだというような、考え方をします。が、その女性自身は、人のため
には、まったく動かない。何もしないのです。

 他人のために動くということは、損だと考えている。そんな雰囲気です。

 だからその女性の口ぐせは、一つ。「さみしい」です。「親なんて、さみしいものだ」「この世間
なんて、さみしいものだ」「生きるというのは、さみしいものだ」と。「渡る世間は、鬼ばかり」「他
人を見たら、泥棒と思え」も、口ぐせでした。

 当然ですよね。さみしいのは……。

 つまり、私は、こう気がついたのです。「孤独というのは、向こうからやってくるものではない。
自分でつくるものだ」とです。

 では、どうしたらよいのか? もうその答は、おわかりですね。

 相手の立場で、一度、相手の心の中に自分を置いて、その悲しみや苦しみを共有すればよ
いのです。私がよく使う、「利己から利他への転換」というのは、そういう意味です。また心理学
の世界でも、それができる人を、人格の完成度の高い人と言います。子どもの心の成長過程
をみるときも、同じように考えます。

 「内面化」という言葉をつかいますが、他者との共鳴性、協調性、共感性のできる子どもを、
人格の完成度の高い子どもとみるわけです。自分勝手でわがままで、自己中心的な子ども(お
となも!)は、それだけ、内面化の遅れた子どもとみます。

 勉強ができるとか、できなとかいうことは関係がありません。むしろ、学歴の高い人ほど、そ
の内面化が遅れる傾向があります。その理由は、もうおわかりですね。

 で、その「相手の立場で、一度、相手の心の中に自分を置いて、その悲しみや苦しみを共有
する」ということですが、これが意外と、簡単なことなのですね。ウソのように簡単! 本当に簡
単!

 ちょっとした訓練でできるようになります。

 静かに目を閉じて、相手の心の中に一度入って、その人から見える自分の姿を想像すれば
よいのです。最初は、「相手からは、どんなふうに見えるのだろう」と、そういうふうに考えれば
よいのです。

 これを繰りかえしていると、その相手が何を考え、どう思っているかが、手に取るようによくわ
かるようになります。とたん、その人の悲しみや苦しみがわかるようになるだけではなく、相手
に対してもっていた、怒りや不快感などが、すべて消えてしまいます。

 長い前置きになりましたが、それが「許す」ということなのですね。

 許すといっても、相手に好き勝手なことをさせることではありません。自分ががまんして、不愉
快な思いをすることでもありません。許すというのは、一度、相手の心の中に入って、相手の立
場で、悲しみや苦しみを共有することなのですね。

 その相手が、子どもであれ、夫(妻)であれ、そして親であれ、友人であれ、だれでも、です。

 が、ここで重要なことは、決して、見かえりを求めないということです。無条件というか、無我と
いうか、そういう状態で、することです。「してあげる」とか、「してやる」とかいう意識をもっては
いけません。反対に、「してあげたのに」とか、「してやったのに」という意識も、もってはいけま
せん。

 どこまでも無条件です。

 その度量の広さが、あなたの心を豊かにします。そして同時に、あなたは、孤独から解放さ
れます。真の自由、さらに真の幸福感は、その孤独から解放されたときに、手にすることがで
きます。

 ……と言っても、今の私が、それができるということではありません。私自身も、やっと、その
糸口をつかんだというか、入り口に達したというか、そういう状態なのです。口で言うのは簡単
なことです。いつでも、そうです。

 しかし、実際、それを実行するのは、たいへんなことです。自分でも、よくわかっています。
が、ここであきらめるわけにはいかない。また立ち止まっているわけにも、いかない。前に進む
しかない。

 今の私の心の状態は、そこに何かモヤモヤとしたものを感じながら、懸命にもがいていると
いう状態です。「あと一歩で、わかるのだが……」とです。「あと一歩で、今まで、追い求めてき
たものが、わかるのだが……」とです。はがゆい思いでいます。

 以上、わけのわからないことを書いたかもしれませんが、MYさんが言うように、『許して、忘
れる』というのは、本当にすばらしい言葉です。それは事実ですから、その言葉を、これからも
大切に! 何かのことで行きづまったりしたら、この言葉を思い出してみてください。きっと、そ
の先に、トンネルの出口を見ることができますよ。

 そうそう、あなたの父親にしても、一度、あなたの父親の立場で、その心の中に入ってみてあ
げてください。そうすれば、あなたの父親が、小さく、どうしようもないほど、つまらない人に見え
てくるはずです。(だからといって、あなたの父親を軽蔑しているとか、そういうことではなりませ
ん。あなた自身が、父親のもつ虚像というか、幻想から、解放されるということです。

 「何だ、父も、ただのふつうの人だったんだ」とです。

 一度、試してみてください。


【MYさんより、第3信】

こんばんは。はやしさん、お返事ありがとうございました。とてもうれしいです。

でも、今ははやしさんご自身の心があまりお元気ではないようですね。お返事をいただけること
は大変うれしく、ありがたく思いますが、どうかご無理をされませんように。

放っておけない性分だとご自身でおっしゃっている方に対してこんな勝手なお願いはいけない
のかもしれませんが、私へのお返事は本当に気の向いたときだけで結構です。私はこうして書
き込むことだけでも十分自己満足していますから。

直接メールを送ることも考えたのですが、なぜ、私が掲示板に書き込んだのか、その理由を書
いておこうと思います。

掲示板であれば、同じ悩みや不安を抱えた人、もしくは今まさに両親との関係に悩んでいる子
供達がロムして、参考になることがあるかもしれないと思ったからです。

「自分」を見つけられないということは本当に苦しいことです。生きていることの意味がわからな
くなります。自分を大切に思えない人間は、他人も大切に思えません。感情を押し殺していると
表現していますが、では本当の自分がどう感じているかさえわからないのです。うれしいのか、
楽しいのか、悲しいのか・・・。それぞれの感情がどういうことなのかを体験していないということ
は哀れです。理性で判断するしかないのです。だから、本心から笑わない、笑えない。

SEX依存症についての
>裸になってすべてをさらけ出しているときだけ、自分でいられたからではないでしょうか。

というのは違います。SEXをしていても、快感を得ることはありませんし、どちらかといえば苦痛
でした。涙を流しながらしていたこともあります。身体は道具でした。寂しさをまぎらわすため
の、誰かにそばにいてもらうための道具でした。SEXさえすれば、特別扱いしてくれる、優しくし
てくれる、だからSEXをするのです。今思えば、一種の自傷行為に近い行動だったと思いま
す。リストカットしたこともあるくらいですから・・・。

つまり、自分自身の存在価値を自分自身が感じられないために、人より頑張り、他人の目の
中でしか自分をみられず、いつも「幸せって何だろう」と考えながら生きてきたのです。気分が
落ち込んで、マイナス思考に傾くと「自分などいなくてもよい」、「いないほうがよい」となり、自傷
行為にはしるのです。もともとは楽天的なのか、気分のよいときは「他人を見返してやる」という
気持ちの下でどんな努力も厭わず行動しています。

「いい親」を演じるのはやめるようにします。「私らしい親」が自然にできるようになればいいなと
思っています。こどもの幸せを祈る気持ちには嘘偽りがないことはしっかり感じていますから。

時間がかかっても、未来の私がすなおな人間になれるように原因を作っていこうと思います。

はやしさん。少なくとも私ははやしさんに救われました。人間は自分自身のことが一番わからな
いのではないでしょうか。鏡を見なければ自分の顔が見えないように・・・。

だから、どうぞ自信をお持ちください。未熟だから未完成だから助け合って生きていくのではな
いでしょうか。「ネバー・エンディング・ストーリー」の中でも「虚無」が世界を暗黒にしてしまうの
を「勇気」と「希望」で阻止して物語は続いていきました。

わたし達人間の生命もそういうものなのではないかと思います。あきらめてしまったらそこで終
わってしまう。誰がどう思おうと、何と言おうと、「未来の子供達のためによりよい世界を残す」
ことは決して間違いではないのですから。最後の一人になったとしてもあきらめずに生き抜くこ
とが、子ども達にしてやれる唯一のことではないでしょうか。

国内でも海外でも心の痛む事件ばかりが毎日あります。一日も早く、地球上のすべての子ども
達が安心して生活できる、「幸せ」を肌で感じられる日がやってくることを切に祈りながら、自分
に出来ることが何なのか、問いかけながら生きていこうと思います。

本当にありがとうございました。

元気出してくださいね。




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19

●学習意欲
 
 子どもたちの学習意欲が、低下しているという。

 ベネッセ未来教育センターの調査によると、

 子どもの学力が低下していると思うか……かなりそう思う。(6・2%)
                      やや思う。(47・0%)

 子どもの学習意欲が低下していると思うか……かなりそう思う。(16・3%)
                      ややそう思う。(51・1%)

 家庭の教育力が低下していると思うか……かなりそう思う。(50・5%)
                    ややそう思う。(40・8%)

 この調査は、全国の市区町村の、3225人の教育長を対象になされた(03年9月〜10
月)。

 この調査結果からわかることは、全国の教育長は、「家庭の教育力については、91%近く
が、低下していると思い、67%が、子どもの学習意欲が低下している」と思っているというこ
と。

 このことは、私も実感している。が、考えてみれば、これはおかしなことだ。

 少子化の流れの中で、出生率は、1・29にまでさがっている。一人の女性が、生涯に産む子
どもの数が、1・29人(2003年度、厚生労働省)だという。

 子どもの数が減った分だけ、それだけ子どもの教育に対する密度が濃くなるはず。またそれ
だけ、ていねいになるはず。が、現実は、その逆である。なぜか?

 これはあくまでも私の実感だが、今、家庭教育は二極化が進んでいると思う。ていねいで、ま
すます密度が濃くなる家庭がある一方で、放任で、ますます無責任な家庭がふえているという
こと。たとえばどこの学校に講演に行っても、必要以上に教育に熱心な親が話題になる一方
で、家庭崩壊、育児崩壊の家庭が、話題になる。

 ある学校の校長は、こう話してくれた。

 「熱心は、熱心なのですが、どこかピントがずれている親が多いのも、事実です」と。たとえば
ささいな問題を、針小棒大に考えて、結局は、大局を見失ってしまうと。

 「たとえば茶髪の子どもがいたとしますね。それで茶髪は好ましくないと、親に伝えると、『個
人の自由だ』『個性だ』と、反論してきます。そこで何度か、その親と面談して、説得にかかるの
ですが、中には、まったく応じてくれない親もいます。

さらに、子どもどうしのちょっとしたけんかを、そら、いじめと騒いだり、先生のちょっとした言葉
の言葉尻をつかまえて、教師の言葉としては、不適切だとか……。実際に、こういうことを繰り
かえしていると、現場の教師は萎縮してしまいます」と。

 今、現場の先生たちは、本当に悲鳴をあげている。通常の学力指導のほか、本来なら家庭
で親がすべき家庭教育まで、押しつけられている。ベネッセ未来教育センターのした調査結果
の裏には、こんな事実が隠されている。
(はやし浩司 学力 子どもの学力 学力低下)



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20

●長男、二男の問題

+++++++++++++++++++++++

茨城県M市にお住まいの、Tさん(母親)から、
長男(7歳)、二男(6歳)の問題について、
質問がありました。

+++++++++++++++++++++++

【Tさんより、はやし浩司へ】

いつもマガジンを拝見させていただいております。
毎日の生活の中で、ハッと振り返る良い時間をもてることに感謝しています。

二人の、男兄弟について質問します。

長男は比較的育てやすく、情緒も安定しており、今までは特に問題はなかったのですが、最近
次男のほうが、上の子に対してライバル心を持つようになりました。

もともと下の子の方が運動神経もいいこともあり、二人の興味対象である野球で、下の子のほ
うが上手になってきました。

それにつれて、勉強のほうも、私が長男に教えていますと、傍から見ていて同じように覚えてい
くので、今では2桁の足し算引き算、および掛け算もいえるようになってきました。

年齢が1歳と少ししか違わないこともあり、長男は最近プライドを傷つけられたのか、下の子を
ずいぶんといじめるようになり、また「自分は生きていても仕方がない」などというようなことを言
うようになり心配しています。

なるべく長男が自信を回復するようなことをするように仕向けていますが、なかなかうまくいきま
せん。勉強も運動も次男の方が上手になるという話は良く聞きますので、(例えばプロ野球の
選手は次男が多いなど)、林先生のところではどのように対処されているのかお伺いしたいと
思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

++++++++++++++++++++++++++

【はやし浩司より、Tさんへ】

 一見、この問題は、兄弟の間の確執のようにみえます。しかし問題の本質は、(親)を間には
さんだ、三角関係にあるとみます。

 長男の心の中に、一度、視点を置いてみると、それがわかります。

 長男は、弟に対して、自分が劣っていることを、問題にしているのではありません。長男は、
親のTさんや、父親の関心が、弟のほうに向いていることを、問題にしているのです。あるいは
自分より、弟のほうに、関心がうつるのを心配しているのです。

 恐らく、下の弟が生まれたときから、何らかのわだかまりが、長男のほうに生じたと思われま
す。その時点から、自分への愛情(手間)は、半分になった。しかもことあるごとに、「お兄ちゃ
んだから……」という「ダカラ論」を、押しつけられた。

 こうして長男のほうに、大きな欲求不満が蓄積するようになったと考えられます。Tさんは、
「育てやすかった」と言っていますが、それはそれだけ、長男のほうが、自分の立場を守るため
に、「いい子」ぶっていただけとも考えられます。

 ものわかりがよい、よい兄を演じていた。親に好かれるために、です。その可能性は、じゅう
ぶん、あります。

 が、その弟のほうが、何かにつけて、優秀ということになってきた……。兄の長男の立場とし
ては、ただごとならぬ状態になってきたわけです。

 こういうケースのばあい、子ども(長男)は、ふつう、つぎの4つのパターンのどれかを、選択し
ます。

(1)親や弟に対して、攻撃的になる。
(2)親に対して、同情を求めるようになる。
(3)親に対して、依存的、服従的になる。
(4)内閉したり、親を拒絶したりするようになる。

 長男が、「自分は生きていても仕方がない」と言うのは、そう言いながら、親に同情を求めた
り、親の反応をうかがっているものと考えてよいようです。こうした(ぐずり)は、すでに、下の子
どもが生まれた、2歳前後からあったはずです。

 もう少し深く、長男の心の中に、視点を置いて考えてみましょう。

 あなたの夫が、あなたよりすてきな愛人を、家の中に連れてきたら、あなたはどうするでしょう
か。少し極端な感じがしないでもないですが、長男の置かれた状況としては、それほどちがわ
ないはずです。

 その愛人は、あなたより、若い。美しい。料理もうまい。……そういうとき、あなたなら、どうす
るでしょうか。嫉妬もせず、平穏に、その愛人と同居できるでしょうか。あなたの夫が、「お前
も、愛人も、平等にかわいがってやる」と言ったとき、あなたは、それに納得するでしょうか。

あなたは「子どもは、家族だ」「兄弟だ」「同じ親子だ」と言うかもしれませんが、それはおとなの
論理にすぎないということです。

 本来なら、長男は、弟を、蹴とばして、外へ追い出したい。しかしそれができない。それをす
れば、自分の立場がなくなってしまう。

 つまりこの問題の奥には、そうした長男の複雑な、つまりはゆがんだ心理があるということで
す。

 そこで対処のし方としては、もう一度、全面的に、長男へのスキンシップ、暖かい愛情を取り
もどします。7歳という年齢から、赤ちゃんがえりはないと思いますが、それに似た、幼児がえり
は、あるかもしれません。何かにつけて、わけのわからないことを言ってぐずるようなら、添い
寝、手つなぎ、一緒の入浴などを、子どもが求めてきたら、ていねいに応じてあげます。

 (1)暖かい無視と、(2)ほどよい親に心がけます。

 「ほどよい親」というのは、「求めてきたときが、与えどき」ということです。長男が、スキンシッ
プを求めるようなしぐさを見せたら、ていねいに、こまめにそれに応じてあげます。数分間程
度、ぐいと抱くだけでも、効果的です。

 決して、「お兄ちゃんだから……」と、ダカラ論で、長男を、突き放してはいけません。子どもに
上下をつけないで、同じ子どもとして扱います。そしてこの際、弟さんには、少しがまんしてもら
います。ここで長男の心をいじけさせると、ひがみやすくなる(依存型)、いじけやすくなる(同情
型)、つっぱりやすくなる(攻撃型)などの症状が出てくるようになります。(すでに出ているようで
すが……。)

 能力的な劣等感は、従って、弟が原因ではありません。それをわからせる、家庭の雰囲気と
いうか、親の態度、姿勢にあります。どこかで、「お兄ちゃんのクセに……」とか、「弟に負ける
なんて……」という雰囲気があるのではありませんか? もしそうなら、これはやはり、長男の
心の問題ではなく、親の育児姿勢の問題ということになります。

 というのも、これから先、この種の劣等感(反対に優越感も)は、いつも子どもの心を襲いま
す。たまたま今は、兄弟という関係の中で、起きているだけです。親としてはつらいところです
が、「あなたはよくがんばっている」式に、子どもの立場で、それをなぐさめてあげるしかありま
せん。

 で、こうしたプロセスを経て、子どもはやさしく、かつたくましくなっていきます。今の段階では、
まず、あなた自身が、兄弟の上下意識をもたないこと。(そういう意味では、あなたは、かなり、
上下意識の強い親かもしれません。)

 そういう上下意識を無意識のうちに感じながら、上の長男が、それを劣等感にしてしまいま
す。そしてその一方で、弟が、ライバル意識から、兄への優越感。さらには、兄をバカにする…
…というふうに転化してしまったら、それこそ家庭教育の失敗ということになります。

 いろいろなことが考えられますが、しかし全体としてみると、実によくある問題であり、かつ、
何でもない問題の部類に属する問題です。しかも、弟さんの立場で考えるなら、どこかぜいたく
な悩みということになるかもしれません。

 ですから、あまり深刻に考えないで、ここに書いたことを参考に、対処してみてください。で、
それで兄弟の仲が悪くなっても、しかたのないこと。(これもよくあるケースです。)

 また兄が、弟をいじめたり、嫌ったりするのも、これまたしかたのないこと。(これもよくあるケ
ースです。)

 完ぺきな兄弟関係を、求めないこと。このあたりは、もう成りゆきに任せるしかないと思いま
す。子どもというより、ある2、3年もすると、あなたの子どもたちも、親離れを始め、自己意識
も育ち、一人の人間として、自立していきます。親として、介入できることにも、限界があるとい
うことです。こういうケースでは、長男のよき相談相手、アドバイザーとして、親が一歩退く。そ
れが結局は、子離れということになります。

 だからとりあえずの方法としては、兄・弟という上下意識を、まず、とりのぞき、二人の子ども
を、「友」として位置づけてみては、どうでしょうか。(まあ、年齢的に、少しむずかしいかもしれ
ませんが……。やや、手遅れ的な部分も、あるということです。)

 そのあとの人間関係は、二人の子どもに任せます。あなたの周辺にも、仲のよい兄弟おいれ
ば、そうでない兄弟もいるはずです。どうなるかは、もう、子どもたち自身が決めることだという
ことです。(それとも、あなた自身は、あなたの兄弟と、仲がよく、今でも、良好な人間関係を保
っていますか?)

 この問題は、そういう視点からも、考えます。

 最後に、自信を回復させる方法としては、一芸論などがあります。「はやし浩司 一芸論」で
検索してくださると、どこかでヒットするはずです。Tさんのケースでは、長男には、二男とは別
の一芸をもたせたほうがよいかもしれませんね。

+++++++++++++++++

参考までに……

+++++++++++++++++

●「これだけは絶対に人に負けない」・子どもの一芸論

 Sさん(中一)もT君(小三)も、勉強はまったくダメだったが、Sさんは、手芸で、T君は、スケ
ートで、それぞれ、自分を光らせていた。

中に「勉強、一本!」という子どももいるが、このタイプの子どもは、一度勉強でつまずくと、あと
は坂をころげ落ちるように、成績がさがる。そういうときのため、……というだけではないが、子
どもには一芸をもたせる。この一芸が、子どもを側面から支える。あるいはその一芸が、その
子どもの身を立てることもある。

 M君は高校へ入るころから、不登校を繰り返し、やがて学校へはほとんど行かなくなってしま
った。そしてその間、時間をつぶすため、近くの公園でゴルフばかりしていた。が、一〇年後。
ひょっこり私の家にやってきて、こう言って私を驚かせた。「先生、ぼくのほうが先生より、お金
を稼いでいるよね」と。彼はゴルフのプロコーチになっていた。

 この一芸は作るものではなく、見つけるもの。親が無理に作ろうとしても、たいてい失敗する。
Eさん(二歳児)は、風呂に入っても、平気でお湯の中にもぐって遊んでいた。そこで母親が、
「水泳の才能があるのでは」と思い、水泳教室へ入れてみた。案の定、Eさんは水泳ですぐれ
た才能を見せ、中学二年のときには、全国大会に出場するまでに成長した。S君(年長児)も
そうだ。

父親が新車を買ったときのこと。S君は車のスイッチに興味をもち、「これは何だ、これは何だ」
と。そこで母親から私に相談があったので、私はS君にパソコンを買ってあげることを勧めた。
パソコンはスイッチのかたまりのようなものだ。その後S君は、小学三年生のころには、ベーシ
ック言語を、中学一年生のころには、C言語をマスターするまでになった。

 この一芸。親は聖域と考えること。よく「成績がさがったから、(好きな)サッカーをやめさせ
る」と言う親がいる。しかし実際には、サッカーをやめさせればやめさせたで、成績は、もっとさ
がる。一芸というのは、そういうもの。ただし、テレビゲームがうまいとか、カードをたくさん集め
ているというのは、一芸ではない。

ここでいう一芸というのは、集団の中で光り、かつ未来に向かって創造的なものをいう。「創造
的なもの」というのは、努力によって、技や内容が磨かれるものという意味である。

そしてここが大切だが、子どもの中に一芸を見つけたら、時間とお金をたっぷりとかける。そう
いう思いっきりのよさが、子どもの一芸を伸ばす。「誰が見ても、この分野に関しては、あいつし
かいない」という状態にする。子どもの立場で言うなら、「これだけは絶対に人に負けない」とい
う状態にする。

 一芸、つまり才能と言いかえてもいいが、その一芸を見つけるのは、乳幼児期から四、五歳
ごろまでが勝負。この時期、子どもがどんなことに興味をもち、どんなことをするかを静かに観
察する。一見、くだらないことのように見えることでも、その中に、すばらしい才能が隠されてい
ることもある。それを判断するのも、家庭教育の大切な役目の一つである。  
(はやし浩司 兄弟の確執 ライバル意識 一芸論)

【付録】

●長子は神経質?

 なお神経質な子どもに関して、こんな興味深いデータがある。東海大学医学部の逢坂文夫氏
らの調査によると、「一番上の子は、下の子よりも神経質」というのだ。

 東京都内の保育園に通う1000人の園児の母親について調べたところ、次のようなことがわ
かったという。

 母親がわが子を神経質と認めた割合は、弟や妹をもつ長子についてがもっとも多く、42・
7%。

これに比べて、一人っ子は、35・1%、第二子は23・7%、第三子以降は、15・8%(母親の
平均年齢は、32・6歳。園児の平均年齢は3・8歳)。「兄弟姉妹の下のほうになるほど、のん
びり屋さんになるようだ」(中日新聞コメント)と。

 また「緊張しやすい」とされた長子の割合も、第二子の約1・5倍だったという。長子ほど、心
理的に不安定な傾向がうかがえる。これらの調査結果からわかることは、子どもが神経質にな
るかどうかということは、生まれつきの性質による部分も無視できないが、生まれてからの環
境にもよる部分も大きいということである。





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21
金権教

●「金権教」というカルト(Money is Everything.)
Most of us believe that money is everything, some consciously and some unconsciously. 
But it is a kind of cult (or sect), or we would know it when we are involved in it. So I call 
it “Money-ism”, or “Money Cult”.

++++++++++++++++++++++

私はカルト(狂信的な信仰)とは無縁と
思っている人でも、ちょっと、待ってほしい。
そういう人でも、無数のカルトを信仰している。

学歴信仰に始まって、親絶対教、学校神話、男尊女卑思想、
家父長意識、民族主義に国粋主義などなど。

人は、ひとつのことを信仰することによって、思考を放棄することができる。
それは同時に、たいへん甘美な世界でもある。

思考、つまり(考えること)には、いつもある種の苦痛がともなう。
難解な数学の問題を前にしたときのことを、思い浮かべてみればよい。
カルトを信仰することによって、その苦痛から、自らを解放することができる。
過去や世俗的習慣を踏襲するのも、そのひとつ。
「昔はこうだった」「みなは、こうしている」と。

金権教について、考えてみたい。
……といっても、どんなカルトでもそうだが、
その中にいる人には、自分のおかしさがわからない。

そのおかしさを知るためには、一度、そのカルトの外に出てみなければならない。
あるいは、やめてみる。
長い間、カルト信仰をしてきたある女性(当時、45歳くらい)は、こう言った。

「退会してみて、はじめて、おかしさがわかった」と。

金権教もそうである。

たまたま現在、隣の中国が、20年前、30年前の日本を再現している。
何もかも、マネー、マネー、一色。
少し前だが、こんな話を、何かの雑誌で読んだことがある。

あるところで、1人の少年が川に落ちて、溺れた。
少年の母親は、まわりの人に、助けを求めた。
狂乱状態だったという。
それを見ていた一人の男性が、こう言ったという。
「〜〜元、出せ。そしたら助けてやる」と。
金額は、忘れた。

戦後の日本も、ひどかった。
が、しかしそこまでは、ひどくなかった。
(……と信じたい。似たような話はあるが……。)
それにしても、溺れる子どもを横目に、金額交渉とは!

心もマネーに毒されると、人は、そこまで言うようになる。
そのおかしさは、日本人の私たちには、よくわかる。
しかし当の中国の人たちには、わからない。

こうした「金と権力がすべて」という世界を、金権教という。
かなり宗教的な色彩が濃いから、「金権教」と呼ぶ。

その金権教の信者は、少なくない。

医師、弁護士に始まって、教師、役人、職人、はては牧師に僧侶にいたるまで。
職種に、関係ない。

しかし自分が金権教の信者であることに気づいている人は、少ない。
が、それを知る方法が、ないわけではない。

(1)金銭的な利益のある仕事だけをする。利益第一主義。
(2)金銭的に損な仕事はしない。ボランティア活動をしない。
(3)貧しい人を、いつも(下)に見る。人の価値を財産で決める。
(4)損得勘定に敏感である。計算高い。
(5)とくに損をしたとき、過剰なまでに反応する。落胆する。
(6)「信じられるのは、金だけ」を、よく口にする。
(7)仕事(=金儲け)中心主義で、家族、家庭を犠牲にしても平気。
(8)周囲の人間を、平気で利用する。その分だけ、いつも孤独。

これらの項目のうち、ほぼすべてが当てはまれば、金権教の信者と考えてよい。
もちろん程度の差もあるが……。

が、その金権教も、やがていつか、行きづまる。
短期的には、事業が失敗したとき。
長期的には、加齢による事業の縮小など。
そういったとき、マネーという本尊が、(イワシの頭)だったことを、思い知らされる。

カルトがこわいのは、ここから。
それを信じている間は、カルトは、その人を側面から支える。
生きる目標になることもある。
しかしそれを疑ったとたん、その人は、その内部から崩壊する。
「自己否定」という言葉があるが、それに近い状態になる。
「私は、何だったのか」と。
それまでの人生が無意味だったことを、思い知らされる。
とたん、大混乱に陥る。

こういうケースのばあい、つぎの2つから、進むべき道を選ぶ。

(1)そのまま金権教に固執する。
(2)新たな価値観を模索する。

このどちらでもないとなると、そこで待っているのは、「破滅」。
自殺という手段を取る人もいるが、それは論外。

こういうケースがある。

あるところに、手かざしで、病気を治すと教えている教団があった。
「手かざし」というのは、患部に手をかざして、病気を治すことをいう。
N氏夫婦は、その教団の熱心な信者だった。
で、あるとき、N氏の長男が、腹痛を訴えた。
(あとで盲腸炎だったということがわかったが……。)
N氏は、長男を病院へ連れていかなかった。
手かざしで治してみせると、がんばった。
しかし長男は、そのまま死んでしまった。
いや、最後の最後のところで、病院へ運ばれたが、そのときは手遅れだった。

こういうケースのばあい、「私たちの信仰はまちがっていました」と認めることは、
自分の子どもを、自分たちで殺してしまったことを認めることに等しい。

実際、N氏夫婦は、そのあと、ますますその信仰にのめりこんでいった。
またそれしか進むべき道がなかった。

……金権教にも、似たようなケースがある。
これは金権教で破滅した、ある男性の話である。

K氏は、昔からの資産家の二男だった。
長男の兄と2人で、事業を起こした。
建売を専門とする、建築会社だった。
高度成長期の、あの波に乗り、事業はトントン拍子で拡大した。
K氏は、有頂天になった。
毎晩、札束を切りながら、豪遊に豪遊を重ねた。

が、そのころから兄(=長男)との折りあいが悪くなった。
利益の配分をめぐっての、争いがつづいた。

そこで会社を2分することにした。
建設部門を兄が、不動産部門を二男のK氏が引き継いだ。

が、とたん、あのバブル経済がはじけた。
K氏は破産。
無一文になった。

その後、1年ほどの期間があったが、私が再びK氏の消息を聞いたときには、
K氏は、精神病院に長期入院しているということだった。
その1年間に、何があったか、それを想像するのは難しくない。
妻とは離婚。2人の娘がいたが、2人とも兄の家に引き取られていた。
人伝えに聞くところによると、「想像を絶する、家庭内騒動がつづいた」とのこと。

金権教の信者の末路(失礼!)は、あわれ。
マネーの切れ目が、人生の終わり。
そうなる。

が、これは、何も特別な人たちだけの問題ではない。
先にも書いたように、「程度の差」こそあれ、みなの問題と考えてよい。
ほとんどの人が、それを信じている。
「信じている」という意識がないまま、信じている。

私自身もそうだったし、今もそうかもしれない。
いつも心のどこかで、それと戦っている。

しかし金権教は、カルト。
宗教で教えるような教義など、どこにもない。
つまりは、人間が本能的にもつ(欲望)と深く、からみあっている。
欲望そのものかもしれない。
だから余計に、タチが悪い。

しかし、これだけは言える。
マネーで幸福は買えない。
しかしマネーがないと、人は、不幸になる。
それはわかる。
が、その一方で、マネーに毒されると、人生そのものを棒に振る。
仮に金持ちのまま終わったとしても、だ。

一度、勇気を出して、自分の心の中をのぞいてみるとよい。

+++++++++++++++++

以前書いた原稿を、1作、掲載します。
日付は、06年4月になっています。
ちょうど2年前に書いた原稿ということになります。

+++++++++++++++++

【金銭的価値観】

●損の哲学

++++++++++++++++++

私の大嫌いなテレビ番組に、
「○○お宝XX鑑定団」というのがある。

私は、あれほど、人間の心をもてあそび、
そしてゆがめる番組はないと思う。

が、この日本では、その番組が、
人気番組になっている。

つまり、日本人の、そして人間の心は、
そこまで、狂っている!

+++++++++++++++++++

●失った鑑賞能力

 ものの価値を、金銭的尺度でしかみないというのは、人間にとって、たいへん悲しむべ
きことである。ものならまだしも、それが芸術的作品や、さらには人間の心にまでおよん
だら、さらに悲しむべきことである。

 テレビの人気番組の中に、「○○お宝XX鑑定団」というのがある。いろいろな人たちが、
それぞれの家庭に眠る「お宝?」なるものを持ちだし、その金銭的価値を判断するという
番組である。

 ご存知の方が多いと思うが、その「もの」は、実に多岐にわたる。芸術家による芸術作
品から、著名人の遺品まで。はては骨董品から、手紙、おもちゃまで。まさに何でもござ
れ! が、私には、苦い経験がある。

 私は子どものころから絵が好きだった。高校生になるころまで、絵を描くのが得意だっ
た。そのころまでは、賞という賞を、ひとり占めにしていた。だからというわけでもない
が、おとなになると、つまり金銭的な余裕ができると、いろいろな絵画を買い集めるよう
になった。それはある意味で、私にとっては、自然な成り行きだった。

 最初は、シャガール(フランスの画家)から始まった。つぎにビュフェ、そしてミロ、
カトラン、ピカソ……とつづいた。

 が、そのうち、自分が、絵画の価値を、金銭的な尺度でしか見ていないのに気がついた。
このリトグラフは、XX万円。サインがあるからYY万円。そして高価な絵画(リトグラ
フ)ほど、よい絵であり、価値があると思いこむようになった。

 しかしこれはとんでもないまちがいだった。

 だいたいそういった値段といったものは、間に入る画商やプロモーターの手腕によって
決まる。中身ではない。で、さらにそのうち、日本では有名でも、現地のフランスでは、
ほとんど知られていない画家もいることがわかった。つまり、日本でいう絵画の価値は、
この日本でのみ通用する、作られた価値であることを知った。

 つまり画商たちは、フランスでそこそこの絵を描く画家の絵を買い集め、それを日本で、
うまく宣伝に乗せて、高く売る。「フランスで有名な画家だ」「○○賞をとった画家だ」と
か、何とか宣伝して、高く売る。そういうことが、この世界では、当時も、そして今も、
ごく当たり前のようになされている。

 が、同時にバブル経済がはじけ、私は、大損をするハメに!

 そういううらみがある。そのうらみは、大きい。

 その絵画の価値は、その人自身の感性が決めること。しかし一度、毒気にさらされた心
というのは、そうは簡単に、もどらない。私は今でも、ふと油断をすると、絵画の価値を、
値段を見て決めてしまう。さらに反対に、内心では、「すばらしい」と思っても、その値段
が安かったりすると、その絵画から目をそらしてしまう。

 私は、こうして絵画に対する、鑑賞能力を失ってしまった。

●損をすることの重要さ 

 お金がなければ、人は、不幸になる。貧困になると、心がゆがむこともある。しかしお
金では、決して、幸福は買えない。豊かな心は、買えない。

 それにいくらがんばっても、人生には、限りがある。限界がある。終着点がある。

 そういう限界状況の中で、私たちが、いかに幸福に、かつ心豊かに生きるかということ
は、それ自体が、人生、最大の命題といってもよい。

 そのお金だが、お金というのは、損をして、はじめて、お金のもつ無価値性がわかる。
もちろん損をした直後というのは、それなりに腹立たしい気分になる。しかし損に損を重
ねていくと、やがて、お金では、幸福は買えないということを、実感として理解できるよ
うになる。ときに、その人の心を豊かにする。よい例が、ボランティア活動である。

 損か得かという判断をするなら、あのボランティア活動ほど、損なものはない。しかし
そのボランティア活動をつづけることで、自分の心の中に豊かさが生まれる。

 反対に、損をしない人たちを見ればよい。いつも金銭的価値に左右され、「お金……」「お
金……」と生きている人たちである。

 そういう人たちは、どこかギスギスしている。どこか浅い。どこかつまらない。

●お金に毒された社会

 話をもとに戻すが、では(豊かさ)と何かというと、それが今、わかりにくくなってし
まっている。とくに戦後の高度成長期に入って、それがさらにわかりにくくなってしまっ
た。

 その第一の原因は、言うまでもなく、(お金)にある。つまり人間は、とくに日本人は、
ものにおよばず、心の価値まで、金銭的尺度で判断するようになってしまった。そしてそ
の幸福感も、相対的なもので、「隣人より、よい生活をしているから幸福」「隣人より、小
さな車に乗っているから、貧乏」というような考え方を、日常的に、ごくふつうにするよ
うになってしまった。

 それはちょうど、高価な絵画を見ながら、「これはすごい絵だ」と思うのに、似ている。
反対に、安い絵画を見ながら、「これはつまらない絵だ」と思うのに、似ている。人がもつ
幸福感まで、金銭的な尺度で判断してしまう。

 そのひとつの現れが、あのテレビ番組である。もちろんそのテレビ番組に責任があるわ
けではない。が、それを支える人たち、イコール、視聴者がいるから、それは人気番組と
なる。

 が、相乗効果というのも否定できない。日本人がもつ貪欲さというものが、テレビ番組
によって、さらに相乗的に倍化するということも、ありえなことではない。つまりこうし
て日本人の心は、ますます毒されていく。

司会者「では、ハウ・マッチ?」
電光板xxxxxxx
司会者「340万円!」と。

 ああいう番組を、何ら疑問ももたないまま、毎週、見つづけていたら、その人の心はど
うなるか? それをほんの少しでも想像してみればよい。つまり、それが私が、あのテレ
ビ番組が嫌いな理由でもある。

 今のように、この日本で、貨幣が流通するようになったのは、江戸時代の中期ごろと言
われている。が、それは実に素朴な貨幣経済社会だったと言える。戦後のことだが、その
ときでさえも、田舎へ行くと、まだ、盆暮れ払いというのが、ごくふつうに行われていた。

 それが今のような、お金万能主義というか、絶対主義の日本になってしまった。そして
何ら恥じることなく、ああした番組が、堂々と、この日本で大手を振って歩くようになっ
てしまった。意識というのはそういうものかもしれないが、全体が毒され、自分が毒され
ると、自分がもっている意識がどのようなものであるかさえわからなくなってしまう。そ
して本来、価値のないものを価値あるものと思いこみ、価値のないものを、価値あるもの
と思いこむ。そして結局は、自分の感性のみならず、限られた人生そのものを、無駄にす
る。

 だから、とてもおかしなことだが、本当におかしなことだが、この日本では、そしてこ
の世界では、損をすることによって、人は、人間は、心豊かな人間になることができる。

 損をする人は、幸いなるかな、である。
(はやし浩司 損の哲学 ボランティア精神)


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 金権教 金万能主義 カル
ト)



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22
【分離不安】

【母子分離不安について】

++++++++++++++++++

O市のGさん(30歳・母親)から、満1歳4か月に
なる子ども(男児)の、分離不安についての相談が
あった。

掲載許可をもらえたので、まず、それをそのまま
紹介させてもらう。

++++++++++++++++++

【Gさんより、はやし浩司へ】

突然のご相談で失礼いたします。(メルマガ等は一切購読しない方針のため、申し訳ございま
せん。ホームページは普段よりよく拝見し、子育てに際し何より参考にさせていただいておりま
す。)

私共の長男(1歳4ヶ月)の分離不安のことで悩んでおります。

我が家は長男が誕生して以来、私が在宅勤務という形態での、一応の共働き家庭です。この4
月からは出勤を視野に入れ、長男を保育園に預けることとなりました。それまでは実は私の仕
事の都合上、私の実家で母子が生活し、主人は週に何度か通ってくる生活が1年以上続いて
いました。ですので、長男にとっては現在の自宅は何度か訪れたことのある家に引越しをした
ような状況です。そこへ加え、初めての集団保育ということになりました。

先週(4月第2週)から、午前のみの慣らし保育がはじまりました。案の定、本人の受けたショッ
クは相当なものだったようです。毎朝泣くのはもちろんですが、まもなく、家の中でもちょっと私
の姿が見えないと、たとえ私が声をかけながらでも、火がついたように泣き出すようになりまし
た。

それくらいなら致し方ないかとも思うのですが、しだいに寝てもさめても常に情緒不安定のよう
な状態が続き、よく寝る子だったのに近頃は昼夜を問わず睡眠中も突然泣き出して収まらな
いことが増えました。

つい先々週までは天真爛漫でやんちゃだけがとりえのような子供だったのに、人への警戒心
が顕著になり、笑顔が減り、すぐに私に抱きついてくるようになりました。私に対しても、これま
では何かできると得意げに笑顔でアピールしてきたのに、それも明らかに減ってしまいました。

実は風邪をもらってきてしまったこともあり、今週頭から保育園は欠席し、母子密着していまし
た。すると多少は元気を取り戻した気もするのですが、やはり以前の彼とは違ってしまっていま
す。主人は「それは一過性。誰しも経験することで、それがたとえ半年先でも同じこと。慣れる
もの。だったら今、ほかの子と足並みそろえさせてやるのが一番。欠席させたら彼がかわいそ
う」と考えているようですが、私にはこのまま彼の何か大事な部分が失われてしまうようで悲し
く、不安がつのります。

はやし先生の「子どもを考える」等、いくつか分離不安について触れた記事を拝読し、ますます
悩んでいます。ことの次第によっては、私の仕事を見直して保育園は見合わせもいいと思って
いますが、取り越し苦労でしょうか。またそうしたところで天真爛漫で無邪気だった彼が取り戻
せるのか、アドバイスいただけませんでしょうか。よろしくお願い申し上げます。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【はやし浩司より、Gさんへ】

まず、いくつかの参考となる資料を添付します。

+++++++++++++

【参考(1)】

●子どもが分離不安になるとき

●親子のきずなに感動した!?     

 ある女性週刊誌の子育てコラム欄に、こんな手記が載っていた。日本でもよく知られたコラム
ニストの書いたものだが、いわく、「うちの娘(3歳)をはじめて幼稚園へ連れていったときのこ
と。娘ははげしく泣きじゃくり、私との別れに抵抗した。私はそれを見て、親子の絆の深さに感
動した」と。

そのコラムニストは、ワーワーと泣き叫ぶ子どもを見て、「親子の絆の深さ」に感動したと言うの
だ。とんでもない! ほかにもあれこれ症状が書かれていたが、それはまさしく分離不安の症
状。「別れをつらがって泣く子どもの姿」では、ない。

●分離不安は不安発作

 分離不安。親の姿が見えなくなると、発作的に混乱して、泣き叫んだり暴れたりする。大声を
あげて泣き叫ぶタイプ(プラス型)と、思考そのものが混乱状態になり、オドオドするタイプ(マイ
ナス型)に分けて考える。

似たようなタイプの子どもに、単独では行動ができない子ども(孤立恐怖)もいるが、それはと
もかくも、分離不安の子どもは多い。4〜6歳児についていうなら、15〜20人に1人くらいの割
合で経験する。

親が子どもの見える範囲内にいるうちは、静かに落ちついている。が、親の姿が見えなくなっ
たとたん、ギャーッと、ものすごい声をはりあげて、そのあとを追いかけたりする。

●過去に何らかの事件

 原因は……、というより、分離不安の子どもをみていくと、必ずといってよいほど、そのきっか
けとなった事件が、過去にあるのがわかる。

はげしい家庭内騒動、離婚騒動など。母親が病気で入院したことや、置き去り、迷子を経験し
て、分離不安になった子どももいる。さらには育児拒否、冷淡、無視、親の暴力、下の子ども
が生まれたことが引き金となった例もある。

子どもの側からみて、「捨てられるのでは……」という被害妄想が、分離不安の原因と考えると
わかりやすい。無意識下で起こる現象であるため、叱ったりしても意味がない。表面的な症状
だけを見て、「集団生活になれていないため」とか、「わがまま」とか考える人もいるが、無理を
すればかえって症状をこじらせてしまう。

いや、実際には無理に引き離せば混乱状態になるものの、しばらくするとやがて静かに収まる
ことが多い。しかしそれで分離不安がなおるのではない。「もぐる」のである。一度キズついた
心は、そんなに簡単になおらない。この分離不安についても、そのつど繰り返し症状が表れ
る。

●鉄則は無理をしない

 こうした症状が出てきたら、鉄則はただ一つ。無理をしない。その場ではやさしくていねいに
説得を繰り返す。まさに根気との勝負ということになるが、これが難しい。現場で、そういう親子
を観察すると、たいてい親のほうが短気で、顔をしかめて子どもを叱ったり、怒ったりしている
のがわかる。「いいかげんにしなさい」「私はもう行きますからね!」と。

こういう親子のリズムの乱れが、症状を悪化させる。子どもはますます強く被害妄想をもつよう
になる。分離不安を神経症の一つに分類している学者も多い(牧田清志氏ほか)。

 分離不安は4〜5歳をピークとして、症状は急速に収まっていく。しかしここに書いたように、
一度キズついた心は、簡単にはなおらない。ある母親はこう言った。「今でも、夫の帰宅が予
定より遅くなっただけで、言いようのない不安発作に襲われます」と。姿や形を変えて、おとな
になってからも症状が表れることがある。

(付記)
●分離不安は小児うつ病?

子どもは離乳期に入ると、母親から身体的に分離し始め、父親や周囲の者との心理的つなが
りを求めるようになる。自我の芽生え、自立心、道徳的善悪の意識などがこの時期に始まる。
そしてさらに3歳前後になると、母親から心理的にも分離しようとするが、この時期に、母子の
間に問題があると、この心理的分離がスムーズにいかず、分離不安を起こすと考えられてい
る(クラウスほか)。

小児うつ病の一形態と考える学者も多い。症状がこじれると、慢性的な発熱、情緒不安症状、
さらには神経症による諸症状を示すこともある。


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

【参考資料(2)】

子どもの心が不安定になるとき 

●情緒が不安定な子ども

 子どもの成長は、次の四つをみる。(1)精神の完成度、(2)情緒の安定度、(3)知育の発達
度、それに(4)運動能力。

このうち情緒の安定度は、子どもが肉体的に疲れていると思われるときをみて、判断する。運
動会や遠足のあと、など。そういうときでも、ぐずり、ふさぎ込み、不機嫌、無口(以上、マイナス
型)、あるいは、暴言、暴力、イライラ、激怒(以上、プラス型)がなければ、情緒が安定した子
どもとみる。子どもは、肉体的に疲れたときは、「疲れた」とは言わない。「眠い」と言う。

子どもが「疲れた」というときは、神経的な疲れを疑う。子どもはこの神経的な疲れにたいへん
弱い。それこそ日中、五〜一〇分、神経をつかっただけで、ヘトヘトに疲れてしまう。

●情緒不安とは……?

 外部の刺激に左右され、そのたびに精神的に動揺することを情緒不安という。二〜四歳の
第一反抗期、思春期の第二反抗期に、とくに子どもは動揺しやすくなる。

 その情緒が不安定な子どもは、神経がたえず緊張状態にあることが知られている。気を許さ
ない、気を抜かない、周囲に気をつかう、他人の目を気にする、よい子ぶるなど。その緊張状
態の中に、不安が入り込むと、その不安を解消しようと、一挙に緊張感が高まり、情緒が不安
定になる。症状が進むと、周囲に溶け込めず、引きこもったり、怠学、不登校を起こしたり(マ
イナス型)、反対に攻撃的、暴力的になり、突発的に興奮して暴れたりする(プラス型)。

表情にだまされてはいけない。柔和な表情をしながら、不安定な子どもはいくらでもいる。この
タイプの子どもは、ささいなことがきっかけで、激変する。母親が、「ピアノのレッスンをしよう
ね」と言っただけで、激怒し、母親に包丁を投げつけた子ども(年長女児)がいた。また集団的
な非行行動をとったり、慢性的な下痢、腹痛、体の不調を訴えることもある。

●原因の多くは異常な体験

 原因としては、乳幼児期の何らかの異常な体験が引き金になることが多い。たとえば親自身
の情緒不安のほか、親の放任的態度、無教養で無責任な子育て、神経質な子育て、家庭騒
動、家庭不和、何らかの恐怖体験など。ある子ども(5歳男児)は、たった一度だが、祖父には
げしく叱られたのが原因で、自閉傾向(人と心が通い合わない状態)を示すようになった。また
別の子ども(三歳男児)は、母親が入院している間、祖母に預けられたことが原因で、分離不
安(親の姿が見えないと混乱状態になる)になってしまった。

 ふつう子どもの情緒不安は、神経症による症状をともなうことが多い。ここにあげた体の不調
のほか、たとえば夜驚、夢中遊行、かん黙、自閉、吃音(どもり)、髪いじり、指しゃぶり、チッ
ク、爪かみ、物かみ、疑惑症(臭いかぎ、手洗いぐせ)、かみつき、歯ぎしり、強迫傾向、潔癖
症、嫌悪症、対人恐怖症、虚言、収集癖、無関心、無感動、緩慢行動、夜尿症、頻尿症など。

●原因は、家庭に!

 子どもの情緒が不安定になると、たいていの親は原因さがしを、外の世界に求める。しかし
まず反省すべきは、家庭である。強度の過干渉(子どもにガミガミと押しつける)、過関心(子ど
もの側からみて神経質で、気が抜けない環境)、家庭不和(不安定な家庭環境、愛情不足、家
庭崩壊、暴力、虐待)、威圧的な家庭環境など。夫婦喧嘩もある一定のワク内でなされている
なら、子どもにはそれほど大きな影響を与えない。が、そのワクを越えると、大きな影響を与え
る。子どもは愛情の変化には、とくに敏感に反応する。

 子どもが小学生になったら、家庭は、「体を休め、疲れた心をいやす、いこいの場」でなけれ
ばならない。アメリカの随筆家のソロー(一八一七〜六二)も、『ビロードのクッションの上より、
カボチャの頭』と書いている。人というのは、高価なビロードのクッションの上に座るよりも、カボ
チャの頭の上に座ったほうが気が休まるという意味だが、多くの母親にはそれがわからない。
わからないまま、家庭を「しつけの場」と位置づける。

学校という「しごきの場」で、いいかげん疲れてきた子どもに対して、家の中でも「勉強しなさい」
と子どもを追いまくる。「宿題は終わったの」「テストは何点だったの」「こんなことでは、いい高
校へ入れない」と。これでは子どもの心は休まらない。

●子どもの情緒を安定させるために

 子どもの情緒が不安定になったら、スキンシップをより濃厚にし、温かい語りかけを大切にす
る。叱ったり、冷たく突き放すのは、かえって情緒を不安定にする。一番よい方法は、子どもが
ひとりで誰にも干渉されず、のんびりとくつろげるような時間と場所をもてるようにすること。親
があれこれ気をつかうのは、かえって逆効果。

 ほかにカルシウムやマグネシウム分の多い食生活に心がける。とくにカルシウムは天然の
精神安定剤と呼ばれている。戦前までは、日本では精神安定剤として使われていた。錠剤で
与えるという方法もあるが、牛乳や煮干など、食品として与えるほうがよいことは言うまでもな
い。

なお情緒というのは一度不安定になると、その症状は数か月から数年単位で推移する。親が
あせって何とかしようと思えば思うほど、ふつう子どもの情緒は不安定になる。また一度不安
定になった心は、そんなに簡単にはなおらない。今の状態をより悪くしないことだけを考えなが
ら、子どものリズムに合わせた生活に心がける。

 (参考)
●子どもの神経症について

心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、神経症という。子どもの
神経症は、精神面、身体面、行動面の三つの分野に分けて考える。

(1)精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状
(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、不安症状(理由もなく悩
む)、抑うつ感(ふさぎ込む)など。混乱してわけのわからないことを言ってグズグズしたり、反
対に大声をあげて、突発的に叫んだり、暴れたりすることもある。

(2)身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、
頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発
熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面で
の神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号とと
らえて警戒する。

(3)行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面
に表れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無
関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。パンツ一枚で出
歩くなど、生活習慣がだらしなくなることもある。


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

【参考資料(3)】

子どもの情緒不安

●原因は家庭に ●神経症の原因になることが多い

子どもの情緒の安定度は、子どもが体力的に疲れていると思われるときをみると、わかる。た
とえば運動会や遠足のあとなど。そういうときでも、不安定症状(ぐずり、ふさぎ、イライラなど
の精神的動揺)がなければ、情緒の安定した子どもとみる。あるいは子どもは寝起きをみる。
不機嫌なら不機嫌でも構わないが、毎朝様子が同じというのであれば、やはり情緒が安定した
子どもとみる。

 子どもは二〜四歳の第一反抗期、思春期の第二反抗期に、特に動揺しやすいことがわかっ
ている。経験的には、乳幼児から少年少女期への移行期にあたる満四〜五歳、および小学二
〜四年生にかけて不安定になることがわかっている。この時期を中間反抗期と呼ぶ人もいる。

 情緒が不安定な子どもは、心がいつも緊張状態にある。外見にだまされてはいけない。柔和
な表情を浮かべながら、心はまったく別の方向を向いているということは、よくある。このタイプ
の子どもは、気を許さない。気を抜かない。他人の目を気にする。よい子ぶる。そういう状態の
中に、不安や心配ごとが入り込むと、それらを解消しようと、一挙に緊張感が高まり、情緒が
不安定になる。

症状としては、(1)攻撃的、暴力的になるプラス型と、(2)周囲に溶け込めず、ひきこもったり、
怠学、不登校を繰り返したりするマイナス型にわけて考える。プラス型は、ささいなことで激怒し
たり、さらに症状が進むと集団的な非行行動をとったりする。マイナス型は慢性的な下痢、腹
痛、体の不調を訴えることが多い。

 原因としては、乳幼児期の何らかの異常な体験が引き金になることが多い。家庭騒動や家
庭不和、恐怖体験、暴力、虐待、神経質な子育て、親の拒否的な態度など。

 子どもが情緒不安症状を示すと、親はその原因を外の世界に求めようとする。しかし原因の
第一は、家庭にあると考えて反省する。過干渉、過関心、過負担、過剰期待など。心を束縛し
ているものがあれば、解きほぐす。一番よいのは、子どもの側から見て、親の存在を感じさせ
ないほどまでに、子どもが一人になれる時間と場所を用意すること。あれこれ気をつかうの
は、かえって逆効果。あとはスキンシップを多くして、温かい家庭作りに努める。

 なお一般的には、情緒不安は神経症の原因となることが多い。強迫傾向、潔癖症、嫌悪症、
緩慢行動、恐怖症、虚言癖、収集癖、夜尿症など。症状は千差万別で定型はない。


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

【参考資料(4)】

●子どもの情緒

【SSさんより、はやし浩司へ】

「先生、ご無沙汰しております。
以前、四歳の息子のかん黙について相談させていただきました岐阜のSSです。
現在は五歳六か月になりました。

その後、保母に「言ってごらん」等の声かけをやめてもらったところ、たった三日で彼に笑顔が
戻り、保育園へ行かないというのも治りました。

しかし、慣れるとまたしゃべらそうとしたりの繰り返しで、なかなかうまくいきません。
一度ぽつりとしゃべったのを聞いたパートの先生がうれしくて、「もっと聞かせてよ」という具合
に朝夕のあいさつを強要し、おかげでまた、登園拒否になってしまいました。

先月、口唇裂の修正手術のために二週間入院したのですが、そのことを保母が、ほかの子ど
もたちに伝えたところ、「しゃべれるようになる?」と聞かれ、「そうかもよ」と言い、子どもたちは
「手術をしたらしゃべれる」という認識となったようです。

本人もです。「手術したらしゃべれるようになるよね!」と張り切っていました。

構造的なことと精神的なものは関係ありません。もともと発語について構造的な問題はありま
せん。本人が「しゃべれる」という気持ちになって、本当に他の人としゃべれたら本当にうれしい
ことです。

でも、逆のことを考えたら・・・。

術後、「まだしゃべられないよ」、しばらくして「テープが取れたらしゃべれるよ」と。

抜糸も終わった今はもう、このことにはふれません。

でも、保育園へ行くと私も子どもたちに「しゃべれるようになった?」と聞かれるので、本人もき
っと聞かれているのだろうと思います。

三歳までの間に一〇回以上の入院(完全看護)を経験しているので、母子分離不安が強く、風
邪、入院、冬休みと続き、「保育所へ行かない!」と、かなりの抵抗をするようになりました。

毎朝、布団から出ない、服を着せる→脱ぐ、カバンの中身を出して投げる→入れるの繰りかえ
しを、一時間から二時間ほど、母子で行います。もちろん食事なんて取れません。

やってるうちに私も悲しくなり泣いたり、怒ったり。
だんだん手を上げるまでの時間も短くなってきています。
ここまでして保育園に連れて行く理由を探しても見つからないのですが、保育園に行って、私
の姿が見えなくなると朝の準備もできるし、保育園での生活も楽しんでいるそうです。

今日は服も首を通しただけの状態で、裸足で連れて行きました。
見えなければ見えないで楽しくできるのならば、一度休ませたらクセになる・・・と思って、何とか
やっていますが、毎朝保育所から一人で帰宅すると、ものすごい疲労感と脱力感に教われま
す。

いつまでつづくのか、これで本当にいいのだろうか?

以上のことを保母と懇談などで話をしても「過保護な親」のレッテルを貼られていますので、言
えば言うほど悪い方へ向いているようです。

子どもがどうこうよりも、見えない障害を解ってもらえない、障害をもっているお子さんをお持ち
の母親どうしでも、「親としゃべれるだけ、いいじゃない」と相談も聞いてもらえない。

自分自身の心の余裕の問題のような気がします。

「待つ」ことができなくなってきました。

保育園が悪いわけではなく、私と離れるのが保育園だけなので、母子分離不安だと思います。

ほか、通院や母子通園などは、自分から起きてきて、着替えもちゃんとできます。

公立の保育園をやめ、最初からやり直した方がいいのでしょうか?
強制的に分離されていたあの頃の時間に立ち戻って、徐々に手を離していく。
それも必要なのかと思ったりします。

「生きてるだけでいいじゃない」と思っていたあの頃。
病院を出て、健常者の社会で生きていくためにはそれだけではいけないようです。
精神面が置き去りのまま、就学まであと一年という中で頑張っています。

「お母さんがいなくても、全然平気でしたよ」と、保母さんは言います。
本当に平気なのだろうか。見えなくなって気持ちの切り替えがちゃんとできているのなら、保育
園をやめないほうがいいし、無理にでも連れて行けばいい。

どっちつかずの態度が一番悪いと知りつつも、迷ってばかりの毎日です。
何かアドバイスを頂けたらと思い、メールしました。
どうぞよろしくご指導ください。」
(岐阜市SSより)

++++++++++++++++++++++++++++

【はやし浩司より、SSさんへ】

 メール、ありがとうございました。

 以前いただいたメールはさておき、ここではかん黙症と分離不安を中心に考えていきます。
少しSSさんの相談の件とは離れますが、お許しください。

 かん黙も含めて、「ふつうでない(何も、どこかにふつうがあるわけではないのですが……)症
状」を子どもが見せても、まず第一に、子どもには、その自覚はないということです。自分を客
観的に見ることができないからです。だから「しゃべりなさい」「どうしてしゃべらないの」「ほかの
子は、みんなしゃべっているでしょ」式の言い方をしても、無意味だということです。

 しかしもうすぐ、子どもに自意識が育ってきます。自分の姿を、客観的に見ることができる能
力と言ってもよいでしょう。だいたい小学三、四年生ごろだと思ってください。そのころになると、
自分と他人の違いを、自分で判断できるようになります。「ぼくは、ほかの子と違うぞ」「こんなこ
とをしていると、損をするぞ」とです。

 そういう自意識が育ってくると、自分で自分をコントロールするようになります。そうなると、こ
の種の心の問題は、急速に改善します。ほとんどのかん黙症の子どもが、この時期を境に、
症状が消えるのは、そのためです。ただ、情緒不安症状(心の緊張感が取れない、取りにく
い、緊張しやすい)は、そのまま残ります。しかしこれは多かれ少なかれ、だれにでもあること
で、しかたのないことですね。

 問題は、今、そういう症状があることではなく、この時期、あれこれ無理をして、症状をこじら
せてしまうことです。かん黙児(こう診断名をつけることは許されませんが、一般論として)のば
あい、自信喪失になったり、かん黙とは別の失語症になったりすることもあります。ですから今
は、こじらせないことだけを考えて、気楽に構えてください。ここに書きましたように、時期がくれ
ばなおります。そしてその時期まで、あと三、四年です。

 そんなわけで、今、「あなたはおかしい」式のラベルを張らないこと。子どもに、わからせない
ことです。残念ながら、保育園では、ほかの子どもたちが、「しゃべれるようになる?」とか、勝
手に騒いでいるようですが、これは、少しまずいですね。保育園でも話題にしないよう、つまり
無視してくれるよう、保母さんに話してみられてはいかがでしょうか。

 育児は、そうでなくても、たいへんな重労働です。「ものすごい疲労感と脱力感に教われます」
というのは、何もSSさんだけのことではありません。いろいろな調査によっても、約七〇%強
の母親たちが、そう感じています。つまり育児というのは、もともとそういうものだという前提で
つきあうしかないようです。

 で、かん黙にせよ、分離不安にせよ、ポイントは、いかにして子どもの心の緊張感をとるかと
いうことです。それには、まず子どもを絶対的な安心感、全幅的な愛情で包むことです。「絶対
的」というのは、子どもの側からみて、「不安や疑いをいだかない」という意味です。最近の研究
では、こうした子どもの情緒の問題は、生後まもなくから乳児期の、親の接し方のどこかに問
題があったからということがわかってきました(イギリス、ボウルビー、ケンネルほか)。しかし過
去をとやかく言っても、はじまりません。

 今もそうで、子どもに示す愛情の質、とくにスキンシップの質を高めます。濃厚なスキンシップ
が効果的なことは言うまでもありません。多少の抱きグセがつくかもしれませんが、子どもが望
む間は、手をつなぐ、抱っこしてあげる、添い寝をしてあげるなど、そのつどスキンシップを農
耕にしてください。

中に「依存心がつくからダメだ」という人もいますが、スキンシップと依存心は関係ありません。
むしろスキンシップを繰りかえすことにより、ストレスが多いと出るホルモンが、抑制されること
がわかっています(マイアミ大学、T・フィールド博士ら)。さらにサイレントベビーの名づけ親で
ある、柳沢さとし氏は、こう述べています。

「母親たちは、添い寝やおんぶをしなくなった。抱きグセがつくからよくないという誤解も根強
い。(泣かない赤ちゃんの原因として)、育児ストレスが背景にあるようだ」(読売新聞)と。

 概してみても、日本人は、スキンシップの少ない民族です。ですからSSさんが、思い切ってス
キンシップを多くしても、国際標準からは、まだほど遠いほど少ないとみてよいのです。遠慮せ
ず、お子さんを抱きなさい。今しかないですよ。子どもの肌のぬくもりを感ずることができるの
は!

 「健常者」という言葉は、いやですね。日本人がアメリカ人を見て、「ガイジン」というのに似て
います。

 私の長男は、今、知的な障害者のある人たちが集まって運営する会社で、指導者としての仕
事をしています。彼が自ら選んだ仕事ですが、「みんな、まじめな人たちばかりだ。一日だっ
て、休む人はいない」と言っています。まじめにまさる美徳はありませんね。長男は、障害のあ
る人たちに、むしろいろいろなことを教えられているようです。

つまりですね、今日があり、明日があるように、一〇年後にも、二〇年後にも、「今日」はありま
す。まったく今と同じような「今日」があります。ですから、恐れないで、必要以上に心配しない
で、前に進んでください。世間の人たちは、決して冷たい人ばかりではないですよ。このマガジ
ンを読んでいる読者の方々みな、(多分)、SSさんの味方ですよ。みんなが、あなたのお子さ
んを守ります。またそういう社会を作ります。みんなで、めざそうではありませんか! 心豊か
な、弱者に温かい社会を、です!

 今日は今日で、やるべきことをやりましょう。懸命に、です。虚脱感や脱力感を覚えたら、「よ
くやった」と自分で自分をほめてあげましょう。それでいいのです。「これでいいのか?」と迷っ
たら、すかさず、「やるべきことはやった」と自分をなぐさめます。私はいつもそうしています。だ
って、先のことを悩んでも、しかたないですよね。どうせ生きていかなければならないのですか
ら……。

 あまりよい回答になっていないかもしれませんが、もしまだマガジンをお読みでないようでした
ら、ぜひ、ご購読ください。無料です。申し込みは、「はやし浩司のホームページ」から、「マガジ
ンコーナー」へ。どうぞおいでください。

 なお、勝手にメールを転載させていただくことにしましたが、どうかご了解ください。一月二六
日号に掲載させていただく予定です。つごうの悪いところがあれば、至急、お知らせください。
改めます。
(03−1−18)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【参考資料(5)】

【Q4】私(母親)が、家計を支えるため、仕事に出ることになりました。子どもがまだ2歳と1歳
なので、このまま家をあけるようになって、よいものかどうか悩んでいます。子どもと接する時
間が少なくなりますが、とくに注意したらよいことはどんなことでしょうか。私が仕事をしている
間、私の父と母が、子どものめんどうをみてくれることになっています。

【A、はやし浩司より】
 親子のふれあいは、量ではなく、質の問題です。量が多いからよいということにもなりませ
ん。また少ないから、心配ということにもなりません。以前書いた、二つの原稿を、どうか参考
にしてください。

+++++++++++++++++++++++

●愛情は、量ではなく、質

 スキンシップについて、どの程度が適量なのかという具体的な調査はない。ないが、全体とし
てみると、日本人は欧米の人とくらべても、極端に少ない。親子のみならず、夫婦、友人の間
でも少ない。日本人は肌を合わせるということについて、独特の文化をもっていて、それがこう
した違いを生みだしたとも言える。

 ただこういうことは言える。スキンシップは量ではなく、質の問題である、と。こんなことがあっ
た。その子ども(年長男児)の家庭は、母親の言葉を借りるなら、「擬似母子家庭」。父親は仕
事が忙しく、子どもと接する時間がほとんどなかった。が、その子どもには、母子家庭の子ども
に見られるような心のゆがみがほとんどなかった。で、ある日、私は母親にその秘訣を聞いて
みた。すると母親はこう教えてくれた。「夫は日曜日になると、子どもをいつも抱いています。ま
たたまに朝や夜、顔をあわせるときがあると、夫は子どもを腕に寄せ、力いっぱい抱いていま
す」と。

 もちろんベタベタのスキンシップがよいわけではない。ときどき一日中ペットの犬を胸に抱い
ている人を見かける。あのタイプの人は犬をかわいがっているというより、自分自身の情緒的
欠陥を「抱く」という行為で補っているに過ぎない。こういうのを代償的行為というが、子どもの
爪かみ、指しゃぶりと同じに考えてよい。もっとも相手が犬というペットなら、それほど弊害はな
いが、子どもだと、その弊害は子どもに表れる。精神や情緒の発育そのものが遅れることもあ
る。

 子どもをどの程度抱けばよいかという質問はよくある。しかしここにも書いたように、スキンシ
ップは質の問題。抱く側が、「愛していますよ」「安心していいのよ」という明確な意思をもって抱
くようにすればよい。またそういう意思を表示するためのスキンシップであれば、回数は多くて
もかまわない。

 なおこのスキンシップには、人知を超えた不思議な力がある。「人知を超えた」というのも、少
しおおげさに聞こえるかもしれないが、私はその不思議な力に驚かされることがしばしばある。
そんなことも考えながら、子どもへのスキンシップを考えるとよい。

+++++++++++++++++++++++

●ある母親の相談

 今日、一人の母親から、こんな相談を受けた。何でも三歳になる娘が、父親になつかなくて、
困っているというのだ。「父親は、子どもが起きる前に仕事に行き、いつも子どもが寝てから、
仕事から帰ってきます。それで父子が接触する時間がないのです」と。

 しかしこの母親は、大きな誤解している。娘が父親になつかないのは、接触時間が少ないか
らだと、この母親は言う。これが誤解の第一。

 ずいぶんと前だが、私は接触時間と、子どもへの影響を調べたことがある。その結果、「愛
情は、量ではなく、質の問題である」という結論を出した。こんな例がある。

 その子ども(年中男児)は、やはり父親との接触時間がほとんどなかった。母親は、「うちは
疑似母子家庭です」と笑っていたが、そういう環境であるにもかかわらず、その子どもには、心
のゆがみが、ほとんどみられなかった。そこで母親にその秘訣(ひけつ)を聞くと、こう話してく
れた。

 「夫(父親)は、休みなど、たまに顔をあわせると、子どもを力いっぱい、抱きます。そして休
みの日などは、いつもベタベタしています」と。

 要するに子どもの側からみて、絶対的な安心感があるかどうかということ。この絶対的な安
心感があれば、子どもの心はゆがまない。「絶対的」というのは、その疑いすらいだかないとい
う意味。そういうわけで、愛情は、量ではなく、質の問題ということがわかった。

 で、冒頭の母親の話だが、子どもの様子を聞くと、こう話してくれた。

 「私のひざなら、何時間でもじっと座っているのですが、夫(父親)のひざだと、すぐ体を起こし
て逃げていきます。そこでエサで魚を釣るように、娘がほしがりそうなものを見せて、抱っこしよ
うとするのですが、それでも、うまくいきません」と。

●心を開く

 ふつう子どもがスキンシップを避けるという背景には、親か、子か、あるいは両方かもしれな
いが、たがいに心を開いていないことがある。このことがわからなければ、男女の関係を思い
浮かべてみればよい。夫婦でも、こまやかな情愛が行き交い、たがいに心を開きあっていると
きは、抱きあうと、体がしっくりとたがいになじむ。しかしそうでないときは、男の側からみると、
何かしら丸太を抱いているような感じになる。抱き心地がたいへん悪い。

 子どももそうで、たがい心を開いているときは、子どもを抱くと、子どもはそのままベッタリと親
に体をすりよせてくる。さらに心が通いあうと、呼吸のリズム、さらには心臓の鼓動のリズムま
で同調してくる。こういう状態のとき、子どもの心は、絶対的な安心感に包まれていると考えて
よい。もちろん情緒も安定している。

 が、抱いても、抱き心地が悪いとか、あるいは抱っこしても、子どもがすぐ逃げていくというの
であれば、どちらかが心を開いていないということになる。このケースのばあい、子どもが心を
開いていないということになるが、実は、その原因は、子どもにあるのではない。父親のほうに
ある。子どもが心を開けない状態を、父親自身がつくりだしている。もっとはっきり言えば、父
親が、心の開き方を知らない。子どもは、それに応じているだけ。

●原因は父親の幼児期に

 このケースでは、私はここまでしか話を聞かなかったので、これ以上のことは書けない。しか
し一般論として、こういうケースでは、父親自身の幼児期を疑ってみる。たいてい、父親自身
が、何らかの理由で、その親から、じゅうぶんな愛情を受けていないことが多い。そういう意味
で、親像というのは、親から子へと、代々、受け継がれていく。よくあるケースは、その親の親
が、昔風の権威主義的なものの考え方をしていたようなとき。

 A氏(四〇歳)の父親は、昔からの醤油屋を経営していた。祖父は、旧陸軍の少将にまでなっ
た人だった。そういう家風だから、家族の序列も、厳格だった。風呂でも、祖父が一番、ついで
父が二番、そのA氏(長男)が三番が……と。祖父はおろか、父親にさえ口答えするなどという
ことは、考えられなかったという。

 そういう家庭でA氏は、生まれ育ったから、「親子の間で、心を開きあう」ということなどという
ことは、ありえなかった。この話を私がA氏に話したときも、A氏は、「心を開く」という意味すら
理解できなかった。そればかりか、自分自身も、そういう権威主義的なものの考え方にどっぷ
りとつかっていて、「父親には、父親としてのデンとした権威が必要でではないでしょうか」など
と、私に言ったりした。

 たしかに権威主義は、「家」の秩序を守るには、たいへんうまく機能する。しかし「人間」を考
えると、権威主義は、弊害になることはあっても、利点は何もない。

 だからA氏の子育ては、いつもギクシャクしていた。A氏の妻が、現代的な女性で、権威を認
めないような人だったから、ときどき夫婦ではげしく対立したこともある。A氏は家事はもちろん
のこと、子どもの世話も、まったくといってよいほどしなかった。子どもの運動会や遊戯会、さら
には父親参観会にも、一度も顔を出したことがない。それはA氏の体にしみこんだ「質」のよう
なものだった。「父親がそんなことするものではない」という意識があったのかもしれない。い
や、その意識以前に、そういう親像そのものが、頭の中になかった。

●親像がない?

 これは私の推察だが、冒頭にあげた父親にしても、父親としての親像の入っていない親とみ
てよい。不幸にして、不幸な家庭に育ったのかもしれない。あるいは今の年代の親の親たち
は、日本がちょうど高度成長期を迎え、だれもかれもが、仕事、仕事で、子育てなどかまってい
るヒマさえなかった。そういうことがあったのかもしれない。ともかくも、親像がないため、どうし
ても子育てが、ギクシャクしてくる。(これとは反対に、自然な形で親像が入っている親は、これ
また自然な形で子育てができる。)

 こういうケースでは、「子どもが親になつかない」という視点で考えるのではなく、親自身が、
子どもに対して、いかにして心を開くかという視点で、問題を考える。とくにここに書いたように、
心のどこかで権威主義的なものの考え方をする人は、つい「親に向かって」とか、「私は親だ」
という親意識を出してしまう。その親意識が、子どもの心を閉ざしてしまう。

 ……と書いても、この問題の根は深い。本当に深い。日本人が、民族の基盤としてもってい
る土台にまで、その根がおよんでいる。だから、そんなに簡単にはなおらない。「では明日か
ら、権威主義を捨て、対等の立場で、子どもには心を開きます」とは、いかない。私もその母親
と別れるとき、一応言うべきことは言ったが、内心では、「むずかしいだろうな」と思った。ただ
最後にこう言った。「今度、父親を相手にした講演会で、そういう話をしてください」と。

+++++++++++++++++++++++++

 お子さんは2歳のお子さんについては、人見知りの時期も過ぎているので、心配はないと思
います。しかし、1歳のお子さんについては、私はまだ、母親の温もりが重要な時期だと思いま
すので、働きに行くにしても、慎重にしたらよいかと思います。WHOも認めているように、満2
歳までは、親が、親の手で子どもを育てるのが望ましいことは、言うまでもありません。

 そこでどうしても働きに行くということであれば、子どもの側からみて、絶対的な安心感を覚え
られるような環境づくりを大切にします。「絶対的」というのは、「疑いを抱かない」という意味で
す。安定した、穏やかな家庭環境を何よりも大切にします。あなたの夫や、両親の理解が、不
可欠なことは言うまでもありません。コツは、「母親が急にいなくなった」というような不安感を、
子どもに与えないようにすることです。

 子どもが不安にならなければよいのですが、無理をすれば、母子分離不安になったり、それ
が原因で、将来にわたって、「基底不安」を、子どもが覚えるようになるかもしれません。そうい
う心配はあります。

(基底不安の状態になると、生きザマのあらゆる部分で、不安を覚えるようになります。何をし
ても、何をしていても、不安、という状態です。それこそ、せっかくの休日に、旅行に行っても、
その旅行先で、休み明けの仕事のことを、不安に思ったりする、など。そういう人は、多いです
よ。)

 これ以上のことは私には言えませんので、ご家族の方と、よく話しあってみてください。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【参考資料(6)】

【YKさんの相談より】

 今年から、幼稚園へ通うようになりました。現在、三歳です。毎日のように、幼稚園へ行きたく
ないと、ぐずります。「ママといっしょにいたい」と言います。以前は、泣きながら幼稚園へ行きま
したが、今は、やっと泣かなくなりました。外の世界では、思ったことも、言えなく、がまんしてし
まうので、それではないかと思います。見ていると、それなりに友だちと、遊んではいますが…
…。どのように接したらよいのか、私自身もわからなくなりました。

【はやし浩司より、KYさんへ】

 こういう相談では、最悪のケースから考えていきます。それはドクターの診断に似ています。
「この病気か? でないとするなら、この病気か?」とです。

 KYさんのケースでは、いくつか、疑われます。思いついたままですが、たとえば、(1)母子分
離不安、(2)対人(集団)恐怖症、(3)強迫症など。下にお子さんがいるなら、(4)赤ちゃんが
えりによる、情緒不安や、神経症なども疑ってみます。

 いただいた文面だけでは、何とも判断しかねますが、よい方向に向っているのは事実のよう
ですから、(1)無理をしない、(2)質の高い愛情表現、(3)食生活の改善、(4)暖かい無視を
組み合わせて、対処します。

 「無理をしない」というのは、お子さんの心を大切に、という意味です。心理学(カウンセリン
グ)の世界でも、(1)自己一致、(2)肯定的尊重、(3)共感を大切にします。しかしこれは同時
に、子育ての世界でも、そのまま応用できます。

 自己一致……要するに、お子さんをだますためのウソは言わないということ。「幼稚園へ行か
ないと、先生に怒られる」式のおどしがよくないことは、言うまでもありません。

 肯定的尊重……よき聞き役になれということです。そしてお子さんが何を言っても、「そうね」
「ママもそう思うわ」と、お子さんの心をくみあげてやります。

 共感……お子さんの立場で、考えてあげるということです。「幼稚園へ行きなさい!」と突き放
すのではなく、「毎日、たいへんね」と、ねぎらってあげます。

 つぎに「質の高い愛情表現」ですが、お子さんが求めてきたときには、濃密なスキンシップで
こたえてあげます。ぐいと力強く抱くなどが、効果的です。お子さんに、安心感を覚えさせるよう
にするのが、コツです。

 「食生活の改善」は、お子さんの心がどこか不安定になったら、CA、MGの多い食生活にこ
ころがけます。海産物、魚類がよいことは、言うまでもありません。同時に、甘い食品を一掃し
ます。

 最後に「暖かい無視」ですが、幼稚園から帰ってきたら、こまごまとしたことは言わないで、お
子さんの側から見て、くつろげる家庭環境を用意します。とくに神経疲れを起こしているような
ら、家の中では、ゆるめます。多少生活態度がぞんざいになっても、「ああ、うちの子は、外の
世界でがんばっている」と思いなおすようにします。

 ここに「神経症のチェックシート」を同封しておきますので、一度、家庭で、自己診断してみてく
ださい。得点が平均点より、高いようでしたら、ここに書いたことを参考にしてみてください。し
かし平均点より下ということであれば、今のところ、心の問題はないものと思われますから、お
子さんを暖かく見守る程度で、よいかと思います。

 いくつか参考にしていただけそうな原稿を、ここにはりつけておきます。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【参考資料(7)】

【掲示板の投稿より】

息子が、小学校に入学してからそろそろ2ヶ月になりますが、ひとりで(友達がいても)、私が玄
関まで送っていかないと、学校へ行けません。

玄関で私の手を握ってなかなか離れないこともあります。しばらくは仕方ない事と思って続けて
きましたが、まわりの子供たち(同級生)が、羨(うらや)ましがっています。

今朝、玄関で同じクラスの子が、「ウチのお母さんは来ないもん」と言って、玄関の戸を押さえ、
私を外へ出さないようにしていました。

もう一人の子がそれをやめさせようとして、その子とケンカになりそうになったんです。

長女は「ママ早く来て」と泣きそうな顔で見ていました。このまま私が付いていけば、友達とも仲
良くできなくなるのでは?と。でもいっしょに行かなければ学校へは行けないし、どうすればい
いのか困っています(Yより)。 

+++++++++++++++++++++++++

【はやし浩司より】

 軽い母子分離不安かと思われます。無理をしてもいけないので、自然体で、対処するしかな
いようです。

 ただ相談の内容とは別に、私には、ほほえましい光景が浮かんできます。「うちの息子たちも
そうだったなあ」と、です。

 「ああいう楽しいときは、どこへ消えてしまったのだろう?」と思うときさえあります。そのとき
は、何かと問題があるように思われ、あれこれ四苦八苦したものですが、子育ても終わってみ
ると、そういう光景が、たまらなく、いとおしく思われてきます。

 母親として、負担が大きいようであれば、少しずつ手を抜いていくという方法もありますし、ま
あ、あまりおおげさに考えないほうが、よいのではないかと思います。

 子どもが学校へ入学すると、親も、何かにつけ神経質になります。今のあなたが、そうかもし
れませんが、少し、子どもから目をそらすということも考えてみてください。あまり深く意味を考
えないで、それが儀式になっているなら、そのままつづけても、さほど、問題はありません。

 私も職場に行くときは、必ず、ワイフが玄関先まで出てきます。夫妻分離不安?……というよ
り習慣的な儀式になっています。今では、ほとんど意味はありません。たまにワイフが玄関先
まで出てこないときもありますが、そういうときは、多少、気分が落ちつかないということはあり
ます。

 しかし外へ出て数分もしれば、忘れます。

 今は、そういう楽しい思い出をたくさん充電しておいてください。ついでに写真でもとってあげ
たらいいですよ。やがて、生意気な子どもになりますから、そのとき、「あなたね、偉そうなこと
を言うけど、1年生のとき、ママのそばから離れなかったのよ」とか何とか、言って、そのとき、
からかってあげなさい。

 私の書いた原稿を、1作、添付します。

++++++++++++++++++++++++++

●子どもが巣立つとき

 階段でふとよろけたとき、三男がうしろから私を抱き支えてくれた。いつの間にか、私はそん
な年齢になった。腕相撲では、もうとっくの昔に、かなわない。自分の腕より太くなった息子の
腕を見ながら、うれしさとさみしさの入り交じった気持ちになる。

 男親というのは、息子たちがいつ、自分を超えるか、いつもそれを気にしているものだ。息子
が自分より大きな魚を釣ったとき。息子が自分の身長を超えたとき。息子に頼まれて、ネクタイ
をしめてやったとき。

そうそう二男のときは、こんなことがあった。二男が高校に入ったときのことだ。二男が毎晩、
ランニングに行くようになった。しばらくしてから女房に話を聞くと、こう教えてくれた。「友だちの
ために伴走しているのよ。同じ山岳部に入る予定の友だちが、体力がないため、落とされそう
だから」と。

その話を聞いたとき、二男が、私を超えたのを知った。いや、それ以後は二男を、子どもという
よりは、対等の人間として見るようになった。

 その時々は、遅々として進まない子育て。イライラすることも多い。しかしその子育ても終わっ
てみると、あっという間のできごと。「そんなこともあったのか」と思うほど、遠い昔に追いやられ
る。「もっと息子たちのそばにいてやればよかった」とか、「もっと息子たちの話に耳を傾けてや
ればよかった」と、悔やむこともある。

そう、時の流れは風のようなものだ。どこからともなく吹いてきて、またどこかへと去っていく。そ
していつの間にか子どもたちは去っていき、私の人生も終わりに近づく。

 その二男がアメリカへ旅立ってから数日後。私と女房が二男の部屋を掃除していたときのこ
と。一枚の古ぼけた、赤ん坊の写真が出てきた。私は最初、それが誰の写真かわからなかっ
た。が、しばらく見ていると、目がうるんで、その写真が見えなくなった。

うしろから女房が、「Sよ……」と声をかけたとき、同時に、大粒の涙がほおを伝って落ちた。

 何でもない子育て。朝起きると、子どもたちがそこにいて、私がそこにいる。それぞれが勝手
なことをしている。三男はいつもコタツの中で、ウンチをしていた。私はコタツのふとんを、「臭
い、臭い」と言っては、部屋の真ん中ではたく。女房は三男のオシリをふく。長男や二男は、そ
ういう三男を、横からからかう。

そんな思い出が、脳裏の中を次々とかけめぐる。そのときはわからなかった。その「何でもな
い」ことの中に、これほどまでの価値があろうとは! 

子育てというのは、そういうものかもしれない。街で親子連れとすれ違うと、思わず、「いいな
あ」と思ってしまう。そしてそう思った次の瞬間、「がんばってくださいよ」と声をかけたくなる。レ
ストランや新幹線の中で騒ぐ子どもを見ても、最近は、気にならなくなった。「うちの息子たち
も、ああだったなあ」と。

 問題のない子どもというのは、いない。だから楽な子育てというのも、ない。それぞれが皆、
何らかの問題を背負いながら、子育てをしている。しかしそれも終わってみると、その時代が
人生の中で、光り輝いているのを知る。もし、今、皆さんが、子育てで苦労しているなら、やが
てくる未来に視点を置いてみたらよい。心がずっと軽くなるはずだ。 

++++++++++++++++++++++

 あなたも、今をもっと、楽しんでください。子育ては、すばらしいですよ!!

 では!

++++++++++++++++++++++

【参考資料(8)】

【子どもを愛せない親たち】

 その一方で、子どもを愛せない親がいる。全体の10%前後が、そうであるとみてよい。

 なぜ、子どもを愛することができないか。大きくわけけて、その理由は、二つある。

 一つは、自分自身の乳幼児期に原因があるケース。もう一つは、妊娠、出産に際して、大き
なわだかまり(固着)をもったケース。しかし後者のケースも、つきつめれば、前者のケースに
集約される。

 乳児には、「あと追い、人見知り」と言われるよく知られた現象がある。生後5〜7か月くらい
から始まって、満1歳半くらいまでの間、それがつづく。

 ボウルビーという学者は、こうした現象が起きれば、母子関係は、健全であると判断してよい
と書いている。言いかえると、「あと追い、人見知り」がないというのは、乳児のばあい、好まし
いことではない。

 子どもは、絶対的な安心感の中で、心をはぐくむ。その安心感を与えるのは、母親の役目だ
が、この安心感があってはじめて、子どもは、他者との信頼関係(安全感)を、結ぶことができ
るようになる。

 「あと追い、人見知り」は、その安心感を確実なものにするための、子どもが親に働きかけ
る、無意識下の行動と考えることができる。

 で、この母子との間にできた基本的信頼関係が、やがて応用される形で、先生との関係、友
人との関係へと、広がっていく。

 そしてそれが恋愛中には、異性との関係、さらには配偶者や、生まれてきた子どもとの関係
へと、応用されていく。そういう意味で、「基本的(=土台)」という言葉を使う。

 子どもを愛せない親は、その基本的信頼関係に問題があるとみる。その信頼関係がしっかり
していれば、仮に妊娠、出産に際して、大きなわだかまりがあっても、それを乗りこえることが
できる。そういう意味で、ここで、私は「しかし後者のケースも、つきつめれば、前者のケースに
集約される」と書いた。

 では、どうするか?

 子どもを愛せないなら、愛せないでよいと、居なおること。自分を責めてはいけない。ただ、一
度は、自分の生い立ちの状況を、冷静にみてみる必要はある。そういう状況がわかれば、あな
たは、あなた自身を許すことができるはず。

 問題は、そうした問題があることではなく、そうした問題があることに気づかないまま、その問
題に引き回されること。同じ失敗を繰りかえすこと。

 しかしあなた自身の過去に問題があることがわかれば、あなたは自分の心をコントロールす
ることができるようになる。そしてあとは、時間を待つ。

 この問題は、あとは時間が解決してくれる。5年とか、10年とか、そういう時間はかかるが、
必ず、解決してくれる。あせる必要はないし、あせってみたところで、どうにもならない。

【この時期の乳児への対処のし方】

 母子関係をしっかりしたものにするために、つぎのことに心がけたらよい。

(1)決して怒鳴ったり、暴力を振るったりしてはいけない。恐怖心や、畏怖心を子どもに与えて
はならない。
(2)つねに「ほどよい親」であることに、心がけること。やりすぎず、しかし子どもがそれを求め
てきたときには、ていねいに、かつこまめに応じてあげること。『求めてきたときが、与えどき』と
覚えておくとよい。
(3)いつも子どもの心を知るようにする。泣いたり、叫んだりするときも、その理由をさぐる。
『子どもの行動には、すべて理由がある』と心得ること。親の判断だけで、「わがまま」とか、決
めてかかってはいけない。叱ってはいけない。

 とくに生後直後から、「あと追い、人見知り」が起きるまでは、慎重に子育てをすること。この
時期の育て方に失敗すると、子どもの情緒は、きわめて不安定になる。そして一度、この時期
に不安定になると、その後遺症は、ほぼ、一生、残る。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【はやし浩司より、O市のGさんへ】

 以上、今まで書いた原稿の中から、いくつかを選んでみました。どうか、参考にしてください。

 この中にも書いたように、母子分離不安を、(1)小児うつ病の一様態ととらえる学者もいま
す。ですから、けっして、安易に考えないこと。「集団に慣れさせること」で、「治る」というような
問題ではありません。

 無理に集団生活の中に放り込めば、表面的には、症状は消えたかのように見えますが、「消
えた」のではなく、「潜った」とみます。また場面が変われば再発しますし、とても残念なことです
が、「根」は、生涯にわたって残ります。

 さらに対処のし方が悪いと、一義的には、神経症などの諸症状、かんしゃく発作、さらには情
緒不安、情緒障害の引き金を引くこともあります。くりかえしますが、決して、安易に考えてはい
けません。満1歳4か月という年齢は、そういう年齢です。

 (一般的には、満1歳半〜2歳までが、とくに重要な時期と言われています。「後追い、人見知
り」についても、生後半年前後から、満1歳半前後までつづくことが知られています。この時期、
乳幼児は、濃密な母子関係を通して、基本的信頼関係の基礎をつくります。)

 では、どうするか?

(1)「求めてきたときが与えどき」と考えます。

 子どもの方から、スキンシップを求めるなど、何かのアクションがあったら、すかさず、(間髪
を入れず)、抱いてあげます。「あとでね……」「忙しいから……」という言葉は、タブーです。

 抱いてあげると、ほんの短い時間で満足しますので、子どものほうが体を放すしぐさを見せた
ら、そっと放してあげます。(たいてい数秒ですみます。)

(2)「治す」「直す」と考えるのではなく、「忘れさせる」ことを大切に

 この問題は、「時期がくれば治る」という問題ではありません。先ほども書いたように、「潜る」
だけです。

 最近の研究によれば、おとなになってから(うつ病)になるケースのほとんどは、この時期の
親の対処のし方のまずさにあることがわかってきました。(今年(08年)になってから、そういう
記事を見かけました。どこかに記録したはずですが、見つかりません。またさがしておきま
す。)

 ですから、「直そう」と考えるのではなく、「忘れさせる」ことを第一に考えて、対処します。この
時期は、同じような状況を作らないことに心がけます。こじらせればこじらせるほど、あとあと、
心のキズ(=トラウマ)が深くなります。

(3)「今よりも悪くしないことだけを考えながら、半年単位で、様子をみる」です。

 年齢からして、あせって集団生活の中に、子どもを放り込むような乱暴なことをすれば、かえ
って症状は重くなります。

 子どもの心は、ある意味ではタフですが、こと、愛情問題がからむと、きわめてデリケートな
反応を示します。たった1〜2日、母親から離されたことが原因で、母子分離不安になってしま
った子ども(1歳・男児)もいます。

 仕事の問題は、私には何とも言えません。お子さんの様子の程度にもよります。濃密な愛情
を注ぎ、お子さんが、安心感を覚えれば、それでよし。そうでなければ、この時期は、「無理をし
ない」を大鉄則に、考えられた方がよいかと思います。仕事の問題は、お子さんの症状に見な
がら、Gさんのご主人とよく相談して、決めてください。

 その時期は、先にも書きましたが、遅くとも満2歳までです。その前後に、子どもは、乳児期
から幼児期への脱皮をはかります。このころ、少しずつ、親のほうが、子どもの親離れを誘導
していきます。

(4)Gさんのお子さんだけではない、みな、そうです。

 といっても、母子分離不安そのものは、たいへん多く、程度の差もありますが、大部分の子ど
もが何らかの形で、経験します。「うちの子だけが……」と、深刻に悩まないこと。

 またそれだけをもって、「子育てに失敗した」とか、そんなふうに、おおげさに考えてはいけま
せん。どんな親も、こうした問題をかかえ、それを克服しながら、成長しいきます。大切なこと
は、これを機会に、子どもの心を真正面からとらえるようにすることです。それは同時に、あな
た自身の心を知る手がかりにもなります。

 また分離不安になったからといって、お子さんの天真爛漫な様子が消えるということはありま
せん。Gさんとの愛情に、安心感を覚えているときは、(=疑っていないときは)、天真爛漫な様
子を、いつでも見せてくれます。ご安心ください。

 つまりこの程度の問題は、みな、共通してかかえる問題だということです。「うちの子も、母子
分離不安になりました……」というふうに考えて、どうか前向きに対処してください。どんな子ど
もも、こうした問題を、1つや2つ、あるいは3つや4つはかかえながら、成長していきます。(同
時に、母親も成長していきます。)

 以上、どこか荒削りの原稿ですが、詳しくは、私のマガジンの5月16日号前後で取りあげさ
せていただきます。あくまでも参考資料として、ご利用ください。

 相談、ありがとうございました。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 分離不安 母子分離不安 後追
い、人見知り あと追い 小児うつ)


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23
【親・絶対教】

●田んぼの中の水鳥(A water bird in the rice field)
My mother often said to me, "I have raised up you", or "I have brought you into this world". 
But one day I rejected it, shouting, "When did I ask you to bring me up here?"

+++++++++++++++++

信号待ちで車を止めたとき、
田んぼの中に、大きな水鳥が
いるのを知った。

私がそちらを見ると、水鳥も、
こちらを見ていた。

サギの一種だと思う。
細い首をこちらに向けたまま、
じっとそこに立っていた。

+++++++++++++++++

私の母は、ことあるごとに、私に
こう言った。

「産んでやった」「育ててやった」と。

大学へ入ると、「学費を出してやっている」
「お父ちゃんに感謝しろよ」「J(=兄)に感謝しろよ」と。

それこそ耳にタコができるほど、それを
言って聞かされた。

それで私が、高校1年か、2年生になった
ときのこと。
私は、ついにキレた。
ある日、私は、こう叫んだ。

「だれが、お前に産んでくれと頼んだア!」と。

そう、だれが産んでくれと頼んだ?
たしかに私は生まれた。
が、だからといって、そのことで、
親に感謝しろと言われても困る。

親は親で、勝手に私を産んだだけではないのか。

……というようなことを、私は、水鳥を見ながら
思い出した。

水鳥は、そこにいる。
それほどよい環境に住んでいるとも思われない。
農薬の影響で、餌も、少なくなったにちがいない。

その水鳥のことは知らないが、
季節に応じて、極地方から東南アジアまで、
旅をするのも、いるそうだ。

水鳥にしてみれば、(生きること)イコール、
(苦労の連続)ということになる。

車が動き出したとき、私は、ワイフにこう言った。

私「あの水鳥たちは、何のために生きているのかねえ?」
ワ「そうねえ……」
私「生きていても、苦労の連続で、楽しみなんか、ほとんどないと思う」
ワ「空からの美しい景色を楽しむということは、ないのかしら?」
私「どうだろう? そんな余裕はないかもしれないよ」

ワ「だったら、自然の中で生かされているだけ?」
私「ぼくは、そう思う。ゆいいつの楽しみと言えば、交尾をして、
雛(ひな)を育てることかな?」
ワ「しかし、それだって、苦労のひとつよ」
私「そこなんだよな。本能の命ずるまま、交尾して、雛をかえしているだけ?」
ワ「でも、水鳥は水鳥で、それでハッピーなのかもしれないわよ」と。

この世に生まれたからといって、よいことなど、数えるほどもない。
一見華やかに見える恋愛にしても、それにつづく苦労のはじまりでしかない。
まさに生まれてから、死ぬまで、苦労の連続。
もっとはっきり言えば、私たち人間にしても、死ぬことができないから、
生きているだけ?
生かされているだけ?

水鳥と私たち人間は、どこがどうちがうというのか。

母は、「産んでやった、(だから私に感謝しろ)」と、私に言いたかったのだ。
「育ててやった、(だから私に感謝しろ)」と、私に言いたかったのだ。

戦後のあの混乱期ということもあった。
今になってみると、母の気持ちを理解できなくはない。
母は母なりに、苦労もあったのだろう。
しかしこと(私)について見れば、私は、望んでこの世に生まれたわけではない。
そもそも(私)という主体すら、なかった。

たまたま生まれてみたら、私が人間であったというに過ぎない。
はやし浩司という名前の、人間であったにすぎない。

言いかえると、その(私)が、水鳥であったとしても、何ら、おかしくない。
私と水鳥の間には、一見、越えがたい距離があるようで、その実、距離など、ない。

私「あの水鳥も、死ぬこともできず、ただ生かされているだけかもしれないね」
ワ「生まれた以上、生きていくしかないって、ことよね」
私「そう。とにかく、生きていくしかない。いつか、死ぬときがくるまで、ね」
ワ「子どもたちは、どうかしら? この世に生まれてきて、よかったと思っている
かしら?」
私「そういうふうに、思ってくれれば、うれしいけどね」と。

が、だからといって、生きることが無駄であるとか、生きていても、
虚(むな)しいだけとか、そんなことを言っているのではない。

大切なのは、生き方。
その生きざま。

私自身は、この世に生まれてきて、よかったと思っている。
とくにこれといって、よいことはあまりなかったが、しかし今日まで、
無事、こうして生きてこられただけでも、ありがたい。

ワ「結局は、あなたがいつも言っている、『私論』に行き着くのね」
私「そうなんだよな。あの水鳥は、自分では、『私は私』と思って
いるかもしれない。危険が迫れば、飛んで逃げる。しかしその実、
どこにも、『私』がない」
ワ「あの水鳥が、人間に向かって踊り始めたら、おもしろいわね」
私「そう。もしそんなことをすれば、全国のニュースになるよ」
ワ「そのとき、あの水鳥は、『私』をつかんだことになるのよね」と。

「私をつかんだ」というよりは、「私らしい生き方の第一歩を
踏み出した」というほうが、正しい。

ワ「でも、あなたのお母さんって、どうして、そういう言い方をしたのかしら?」
私「G県の人たちは、ほかの県の人たちと、少しちがうよ。Mという、親絶対教の発祥の
地にもなっている」
ワ「静岡県では、そんなことを口にする人は、少ないわよ」
私「ぼくも、聞いたことがない……。G県には、それだけ民族的な土着性が
残っているということかな。人の交流も少ないし……」と。

私も自分の息子たちに、同じような言葉を言いそうになったことはある。
息子たちが、私に生意気な態度を示したときだ。
しかし私は、言わなかった。

むしろ事実は逆で、私は息子たちに感謝している。
息子たちは、いつも私に生きる希望を与えてくれた。
生きる目標を作ってくれた。
私にとっては、生きがいそのものだった。
もし息子たちがいなければ、私は、こうまでがんばらなかったと思う。
がんばることもできなかった。

ついでに言えば、息子たちががんばっている姿を見ることで、
私は、自分の命を、つぎの世代にバトンタッチすることができる。
(死の恐怖)すら、それで和らげることができる。

そうそう私が、母にはじめて反発したとき、母は、狂った
ように泣き叫び、こう言った。

「バチ当たり! お前はだれのおかげで、ここまで
大きくなれたア! その恩を忘れるな!」と。

それは母の言葉というよりは、母自身も、そういう言葉を、
さんざん聞かされて育ったにちがいない。
そういう環境の中で生まれ、育った。
母にしてみれば、きわめて常識的な
言葉にすぎなかったということになる。

私「あの水鳥の親は、そんなバカなことは言わないね」
ワ「言わないわよ」
私「やるべきことをやって、雛たちを空へ放つ」
ワ「それが子育ての原点なのね」
私「ぼくは、そう思う。ハハハ」
ワ「ハハハ」と。

……それにしても、美しい水鳥だった。

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子育ての原点について
書いた原稿です。
(中日新聞経済済み)

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●家族の真の喜び
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむけ
る。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。

「私はダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。が、近所
の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえている。

いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生きていてく
れるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようになる。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言っ
た父親もいた。

が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが大きくなり、そし
て互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったまま、口をつぐんで
しまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずね
る。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることが
できるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたこ
とを喜べ、感謝せよ」と。

私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救わ
れた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親を
みると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだでは
ないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかり
ではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。しかしそれでも
巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしかない。

親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつもドア
をあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子先生は手記の中にこう書
いている。

「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれない。が、そ
れでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受
賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残している。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決
して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」
と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。

+++++++++++++++

ついでに一言。

親風、叔父風、年長風、そのどれも、
吹かせば吹かすほど、
人間関係は疎遠になる。

親子であれば、そこに
大きなキレツを入れる。

以下、4年前(04年)に
書いた原稿です。

+++++++++++++++

【親・絶対教】

++++++++++++++++++++++++

「親は絶対」と思っている人は、多いですね。
これを私は、勝手に、親・絶対教と呼んでいます。
どこかカルト的だから、宗教になぞらえました。

今夜は、それについて考えてみます。

まだ、未完成な原稿ですが、これから先、この原稿を
土台にして、親のあり方を考えていきたいと
思っています。

          6月27日

++++++++++++++++++++++++
          
●親が絶対!

 あなたは、親に産んでもらったのです。
 その恩は、忘れてはいけません。
 親があったからこそ、今、あなたがいるのです。

 産んでもらっただけではなく、育ててもらいました。
 学校にも通わせてもらいました。
 言葉が話せるようになったのも、あなたの親のおかげです。

 親の恩は、山より高く、海よりも深いものです。
 その恩を決して忘れてはいけません。
 親は、あなたにとって、絶対的な存在なのです。

 ……というのが、親・絶対教の考え方の基本になっている。

●カルト

 親・絶対教というのは、根が深い。親から子へと、代々と引き継がれている。しかも、その人
が乳幼児のときから、徹底的に、叩きこまれている。叩きこまれるというより、脳の奥深くに、し
みこまされている。青年期になってから、何かの宗教に走るのとは、わけがちがう。

 そもそも「基底」そのものものが、ちがう。

 子どもは、母親の胎内で、10か月近く宿る。生まれたあとも、母親の乳を得て、成長する。
何もしなくても、つまり放っておいても、子どもは、親・絶対教にハマりやすい。あるいはほんの
少しの指導で、子どもは、そのまま親・絶対教の信者となっていく。

 が、親・絶対教には、もともと根拠などない。「産んでやった」という言葉を口にする親は多
い。しかしそれはあくまでも結果でしかない。生まれる予定の子どもが、幽霊か何かの姿で、親
の前に出てきて、「私を産んでくれ」と頼んだというのなら、話は別。しかしそういうことはありえ
ない。

 少し話が飛躍してしまったが、親・絶対教の基底には、「親がいたから、子どもが生まれた」と
いう概念がある。親あっての、子どもということになる。その概念が基礎になって、親は子ども
に向かって、「産んでやった」「育ててやった」と言うようになる。

 それを受けて子どもは、「産んでいただきました」「育てていただきました」と言うようになる。
「恩」「孝行」という概念も、そこから生まれる。

●親は、絶対!

 親・絶対教の信者たちは、子どもが親にさからうことを許さない。口答えなど、もってのほか。
親自身が、子どもは、親のために犠牲になって当然、と考える。そして自分のために犠牲にな
っている、あるいは献身的につくす子どもをみながら、「親孝行のいい息子(娘)」と、それを誇
る。

 いろいろな例がある。

 父親が、脳内出血で倒れた夜、九州に住んでいたKさん(女性、その父親の長女)は、神奈
川県の実家の近くにある病院まで、電車でかけつけた。

 で、夜の9時ごろ、完全看護ということもあり、またほかにとくにすることもなかったので、Kさ
んは、実家に帰って、その夜は、そこで泊まった。

 が、それについて、妹の義理の父親(義理の父親だぞ!)が、激怒した。あとで、Kさんにこう
言ったという。「娘なら、その夜は、寝ずの看病をすべきだ。自分が死んでも、病院にとどまっ
て、父親の容態を心配するのが、娘の務めではないのか!」と。

 この言葉に、Kさんは、ひどく傷ついた。そして数か月たった今も、その言葉に苦しんでいる。

 もう一つ、こんな例がある。一人娘が、嫁いで家を出たことについて、その母親は、「娘は、親
を捨てた」「家をメチャメチャにした」と騒いだという。「こんなことでは、近所の人たちに恥ずか
しくて、外も歩けない」と。

 そうした親の心情は、常人には、理解できない。その理解できないところが、どこかカルト的
である。親・絶対教には、そういう側面がある。

●子が先か、親が先か

 親・絶対教では、「親あっての、子ども」と考える。

 これに対して、実存主義的な立場では、つぎのように考える。

 「私は生まれた」「生まれてみたら、そこに親がいた」「私がいるから、親を認識できる」と。あく
までも「私」という視点を中心にして、親をみる。
 
 親を見る方向が、まったく逆。だから、ものの考え方も、180度、変ってくる。

 たとえば今度は、自分の子どもをみるばあいでも、親・絶対教の人たちは、「産んでやった」
「育ててやった」と言う。しかし実存主義的な考え方をする人は、「お前のおかげで、人生を楽し
く過ごすことができた」「有意義に過ごすことができた」というふうに、考える。子育てそのもの
を、自分のためととらえる。

 こうしたちがいは、結局は、親が先か、子どもが先かという議論に集約される。さらにもう少し
言うなら、「産んでやった」と言う親は、心のどこかに、ある種の犠牲心をともなう?

たとえばNさんは、どこか不本意な結婚をした。俗にいう「腹いせ婚」というのかもしれない。好
きな男性がほかにいたが、その男性が結婚してしまった。それで、今の夫と、結婚した。

そして、今の子どもが生まれた。その子どもどこか不本意な子どもだった。生まれたときから、
何かにつけて発育が遅れた。Nさんには、当然のことながら、子育てが重荷だった。子どもを
好きになれなかった。

そのNさんは、そんなわけで、子どもには、いつも、「産んでやった」「育ててやった」と言うように
なった。その背景にあるのは、「私が、子どものために犠牲になってやった」という思いである。

 しかし親にとっても、子どもにとっても、それほど、不幸な関係はない。……と、私は思うが、
ここで一つのカベにぶつかる。

 親が、親・絶対教の信者であり、その子どももまた、親・絶対教であれば、その親子関係は、
それなりにうまくいくということ。子どもに犠牲を求めて平気な親と、親のために平気で犠牲にな
る子ども。こうした関係でも、親子関係は、それなりにうまく、いく。

 問題は、たとえば結婚などにより、そういう親子関係をもつ、夫なり、妻の間に、他人が入っ
てくるばあいである。

●夫婦のキレツ

 ある男性(55歳)は、こう言った。「私には、10歳、年上の姉がいます。しかしその姉は、は
やし先生が言うところの、親・絶対教の信者なのですね。父は今でも、元気で生きていますが、
父の批判をしただけで、狂ったように、反論します。『お父さんの悪口を言う人は、たとえ弟でも
許さない』とです」と。

 兄弟ならまだしも、夫婦でも、こうした問題をかかえている人は多い。

 よくある例は、夫が、親・絶対教で、妻が、そうでないケース。ある女性(40歳くらい)は、昔、
こう言った。

 「私が夫の母親(義理の母親)と少しでも対立しようものなら、私の夫は、私に向って、こう言
います。『ぼくの母とうまくできないようなら、お前のほうが、この家を出て行け』とです。妻の私
より、母のほうが大切だというのですね」と。

 今でこそ少なくなったが、少し前まで、農家に嫁いだ嫁というのは、嫁というより、家政婦に近
いものであった。ある女性(70歳くらい)は、こう言った。

 「私なんか、今の家に嫁いできたときは、召使いのようなものでした。夫の姉たちにすら、あご
で使われました」と。

●親・絶対教の特徴

 親・絶対教の人たちが決まってもちだすのが、「先祖」という言葉である。そしてそれがそのま
ま、先祖崇拝につながっていく。親、つまり親の親、さらにその親は、絶対という考え方が、積も
りにつもって、「先祖崇拝」へと進む。

 先祖あっての子孫と考えるわけである。どこか、アメリカのインディアン的? アフリカの土着
民的? 

 しかし本当のことを言えば、それは先祖のためというよりは、自分自身のためである。自分と
いう親自身を絶対化するために、また絶対化してほしいがために、親・絶対教の信者たちは、
先祖という言葉をよく使う。

 ある男性(60歳くらい)は、いつも息子や息子の嫁たちに向って、こう言っている。「今の若い
ものたちは、先祖を粗末にする!」と。

 その男性がいうところの先祖というのは、結局は、自分自身のことをいう。まさか「自分を大
切にしろ」とは、言えない。だから、少し的をはずして、「先祖」という言葉を使う。

 こうした例は、このH市でも見られる。21世紀にもなった今。しかも人口が60万人もいる、大
都市でも、である。

中には、先祖崇拝を、教育理念の根幹に置いている評論家もいる。さらにこれは本当にあった
話だが、(こうして断らねばならないほど、ありえない話に思われるかもしれないが……)、こん
なことがあった。

 ある日の午後、一人の女性が、私の教室に飛びこんできて、こう叫んだ。「あんたは、先祖を
粗末にしているようだが、そういう教育者は、教育者と失格である。あちこちで講演活動をして
いるようだが、即刻、そういった活動をやめなさい」と。

 まだ30歳そこそこの女性だったから、私は、むしろ、そちらのほうに驚いた。彼女もまた、
親・絶対教の信者であった。

 しかしこうした言い方は、どこか卑怯(失礼!)ではないのか。

 数年前、ある寺で、説法を聞いたときのこと、終わりがけに、その寺の住職が私たちのこう言
った。

 「お志(こころざし)のある方は、どうか仏様を供養(くよう)してください」と。その寺では、「供
養」というのは、「お布施」つまり、マネーのことをいう。まさか「自分に金を出せ」とは言えない。
だから、(自分)を、(仏様)に、(お金)を、(供養)に置きかえて、そう言う。

 親・絶対教の信者たちが、息子や娘に向って、「お前たちのかわりにご先祖様を祭ってやる
からな」と言いつつ、金を取る言い方に、よく似ている。

 実際、ある母親は、息子の財産を横取りして、使いこんでしまった。それについてその息子
が、泣きながら抗議すると、その母親は、こう言い放ったという。

 「親が、先祖を守るため、自分の息子の金を使って。何が悪い!」と。

 世の中には、そういう親もいる。

●親・絶対教信者との戦い

 「戦い」といっても、その戦いは、やめたほうがよい。それはまさしく、カルト教団の信者との戦
いに似ている。親・絶対教が、その人の哲学的信条になっていることが多く、戦うといっても容
易ではない。

 それこそ、10年単位の戦いということになる。

 先にも書いたように、親・絶対教の信者であっても、それなりにハッピーな人たちに向って、
「あなたはおかしい」とか、「まちがっている」などと言っても、意味はない。

 人、それぞれ。

 それに仮に、戦ったとしても、結局は、その人からハシゴをはずすことで終わってしまう。「あ
なたはまちがっている」と言う以上は、それにかわる新しい思想を用意してやらねばならない。
ハシゴだけはずして、あとは知りませんでは、通らない。

 しかしその新しい思想を用意してやるのは、簡単なことではない。その人に、それだけの学
習意欲があれば、まだ話は別だが、そうでないときは、そうでない。時間もかかる。

 だから、そういう人たちは、そういう人たちで、そっとしておいてあげるのも、私たちの役目と
いうことになる。

たとえば、私の生まれ故郷には、親・絶対教の信者たちが多い。そのほかの考え方ができな
い……というより、そのほかの考え方をしたことがない人たちばかりである。そういう世界で、
私一人だけが反目しても、意味はない。へたに反目すれば、反対に、私のほうがはじき飛ばさ
れてしまう。

 まさにカルト。その団結力には、ものすごいものがある。

 つまり、この問題は、冒頭にも書いたように、それくらい、「根」が深い。

 で、この文章を読んでいるあなたはともかくも、あなたの夫(妻)や、親(義理の親)たちが、
親・絶対教であるときも、今、しばらくは、それに同調するしかない。私が言う「10年単位の戦
い」というのは、そういう意味である。

●自分の子どもに対して……

 参考になるかどうかはわからないが、私は、自分の子どもたちを育てながら、「産んでやっ
た」とか、「育ててやった」とか、そういうふうに考えたことは一度もない。いや、ときどき、子ども
たちが生意気な態度を見せたとき、そういうふうに、ふと思うことはある。

 しかし少なくとも、子どもたちに向かって、言葉として、それを言ったことはない。

 「お前たちのおかげで、人生が楽しかったよ」と言うことはある。「つらいときも、がんばること
ができたよ」と言うことはある。「お前たちのために、80歳まで、がんばってみるよ」と言うこと
はある。しかし、そこまで。

 子どもたちがまだ幼いころ、私は毎日、何かのおもちゃを買って帰るのが、日課になってい
た。そういうとき、自転車のカゴの中の箱や袋を見ながら、どれだけ家路を急いだことか。

 そして家に帰ると、3人の子どもたちが、「パパ、お帰り!」と叫んで、玄関まで走ってきてくれ
た。飛びついてきてくれた。

 それに今でも、子どもたちがいなければ、私は、こうまで、がんばらなかったと思う。寒い夜
も、なぜ自転車に乗って体を鍛えるかといえば、子どもたちがいるからにほかならない。

 そういう子どもたちに向かって、どうして「育ててやった」という言葉が出てくるのか? 私はむ
しろ逆で、子どもたちに感謝しこそすれ、恩を着せるなどということは、ありえない。

 今も、たまたま三男が、オーストラリアから帰ってきている。そういう三男が、夜、昼となく、ダ
ラダラと体を休めているのを見ると、「これでいいのだ」と思う。

 私たち夫婦が、親としてなすべきことは、そういう場所を用意することでしかない。「疲れた
ら、いつでも家にもどっておいで。家にもどって、羽を休めなよ」と。

 そして子どもたちの前では、カラ元気をふりしぼって、明るく振るまって見せる。

●対等の人間関係をめざして

 親であるという、『デアル論』に決して、甘えてはいけない。

 親であるということは、それ自体、たいへんきびしいことである。そのきびしさを忘れたら、親
は親でなくなってしまう。

 いつかあなたという親も、子どもに、人間として評価されるときがやってくる。対等の人間とし
て、だ。

 そういうときのために、あなたはあなたで、自分をみがかねばならない。みがいて、子どもの
前で、それを示すことができるようにしておかなければならない。

 結論から先に言えば、そういう意味でも、親・絶対教の信者たちは、どこか、ずるい。「親は絶
対である」という考え方を、子どもに押しつけて、自分は、その努力から逃げてしまう。自ら成長
することを、避けてしまう。

 昔、私のオーストラリアの友人は、こう言った。

 「ヒロシ、親には三つの役目がある。一つは、子どもの前を歩く。ガイドとして。もう一つは、子
どものうしろを歩く。保護者(プロテクター)として。そしてもう一つは、子どもの横を歩く。子ども
の友として」と。

 親・絶対教の親たちは、この中の一番目と二番目は得意。しかし三番目がとくに、苦手。友と
して、子どもの横に立つことができない。だから子どもの心をつかめない。そして多くのばあ
い、よき親子関係をつくるのに、失敗する。

 そうならないためにも、親・絶対教というのは、害こそあれ、よいことは、何もない。

【追記】

 親・絶対教の信者というのは、それだけ自己中心的なものの見方をする人と考えてよい。子
どもを自分の(モノ)というふうに、とらえる。そういう意味では、精神の完成度の低い人とみる。

 たとえば乳幼児は、自己中心的なものの考え方をすることが、よく知られている。そして不思
議なことがあったり、自分には理解できないことがあったりすると、すべて親のせいにする。

 こうした乳幼児特有の心理状態を、「幼児の人工論」という。

 子どもは親によって作られるという考え方は、まさにその人工論の延長線上にあると考えて
よい。つまり親・絶対教の人たちは、こうした幼稚な自己中心性を残したまま、おとなになったと
考えられる。

 そこでこう考えたらどうだろうか。

 子どもといっても、私という人間を超えた、大きな生命の流れの中で、生まれる、と。

 私もあるとき、自分の子どもの手先を見つめながら、「この子どもたちは、私をこえた、もっと
大きな生命の流れの中で、作られた」と感じたことがある。

 「親が子どもをつくるとは言うが、私には、指一本、つくったという自覚がない」と。

 私がしたことと言えば、ワイフとセックスをして、その一しずくを、ワイフの体内に射精しただけ
である。ワイフにしても、自分の意思を超えた、はるかに大きな力によって、子どもを宿し、そし
て出産した。

 そういうことを考えていくと、「親が子どもを作る」などという話は、どこかへ吹っ飛んでしまう。

 たしかに子どもは、あなたという親から生まれる。しかし生まれると同時に、子どもといえで
も、一人の独立した人間である。現実には、なかなかそう思うのも簡単なことではないが、しか
し心のどこかでいつも、そういうものの考えた方をすることは、大切なことではないのか。

【補足】

 だからといって、親を粗末にしてよいとか、大切にしなくてよいと言っているのではない。どう
か、誤解しないでほしい。

 私がここで言いたいのは、あなたがあなたの親に対して、どう思うおうとも、それはあなたの
勝手ということ。あなたが親・絶対教の信者であっても、まったくかまわない。

 重要なことは、あなたがあなたの子どもに、その親・絶対教を押しつけてはいけないこと。強
要してはいけないこと。私は、それが結論として、言いたかった。
(はやし浩司 親絶対教 親は絶対 乳幼児の人工論 人工論)

+++++++++++++++++++++++

以前、こんな原稿を書いたことがあります。
内容が少しダブりますが、どうか、参考に
してください。

+++++++++++++++++++++++

●かわいい子、かわいがる

 日本語で、「子どもをかわいがる」と言うときは、「子どもにいい思いをさせること」「子どもに楽
をさせること」を意味する。

一方、日本語で「かわいい子ども」と言うときは、「親にベタベタと甘える子ども」を意味する。反
対に親を親とも思わないような子どもを、「かわいげのない子ども」と言う。地方によっては、独
立心の旺盛な子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

 この「かわいい」という単語を、英語の中にさがしてみたが、それにあたる単語すらない。あえ
て言うなら、「チャーミング」「キュート」ということになるが、これは「容姿がかわいい」という意味
であって、ここでいう日本語の「かわいい」とは、ニュアンスが違う。もっともこんなことは、調べ
るまでもない。「かわいがる」にせよ、「かわいい」にせよ、日本という風土の中で生まれた、日
本独特の言葉と考えてよい。

 ところでこんな母親(七六歳)がいるという。横浜市に住む読者から届いたものだが、内容
を、まとめると、こうなる。

 その男性(四三歳)は、その母親(七六歳)に溺愛されて育ったという。だからある時期まで
は、ベタベタの親子関係で、それなりにうまくいっていた。が、いつしか不協和音が目立つよう
になった。きっかけは、結婚だったという。

 その男性が自分でフィアンセを見つけ、結婚を宣言したときのこと。もちろん母親に報告した
のだが、その母親は、息子の結婚の話を聞いて、「くやしくて、くやしくて、その夜は泣き明かし
た」(男性の伯父の言葉)そうだ。

そしてことあるごとに、「息子は、横浜の嫁に取られてしまいました」「親なんて、さみしいもので
すわ」「息子なんて、育てるもんじゃない」と言い始めたという。

 それでもその男性は、ことあるごとに、母親を大切にした。が、やがて自分のマザコン性に気
づくときがやってきた。と、いうより、一つの事件が起きた。いきさつはともかくも、そのときその
男性は、「母親を取るか、妻を取るか」という、択一に迫られた。

結果、その男性は、妻を取ったのだが、母親は、とたんその男性を、面と向かって、ののしり始
めたというのだ。「親を粗末にする子どもは、地獄へ落ちるからな」とか、「親の悪口を言う息子
とは、縁を切るからな」とか。その前には、「あんな嫁、離婚してしまえ」と、何度も電話がかかっ
てきたという。

 その母親が、口グセのように使っていた言葉が、「かわいがる」であった。その男性に対して
は、「あれだけかわいがってやったのに、恩知らず」と。「かわいい」という言葉は、そういうふう
にも使われる。

 その男性は、こう言う。

「私はたしかに溺愛されました。しかし母が言う『かわいがってやった』というのは、そういう意味
です。しかし結局は、それは母自身の自己満足のためではなかったかと思うのです。

たとえば今でも、『孫はかわいい』とよく言いますが、その実、私の子どものためには、ただの
一度も遊戯会にも、遠足にも来てくれたことがありません。母にしてみれば、『おばあちゃん、
おばあちゃん』と子どもたちが甘えるときだけ、かわいいのです。

たとえば長男は、あまり母(=祖母)が好きではないようです。あまり母には、甘えません。だか
ら母は、長男のことを、何かにつけて、よく批判します。私の子どもに対する母の態度を見てい
ると、『ああ、私も、同じようにされたのだな』ということが、よくわかります」と。

 さて、あなたは、「かわいい子ども」という言葉を聞いたとき、そこにどんな子どもを思い浮か
べるだろうか。子どもらしいしぐさのある子どもだろうか。表情が、愛くるしい子どもだろうか。そ
れとも、親にベタベタと甘える子どもだろうか。一度だけ、自問してみるとよい。
(02−12−30)

●独立の気力な者は、人に依頼して悪事をなすことあり。(福沢諭吉「学問のすゝめ」)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●親風、親像、親意識

 親は、どこまで親であるべきか。また親であるべきでないか。

 「私は親だ」というのを、親意識という。この親意識には、二種類ある。善玉親意識と、悪玉親
意識である。

 「私は親だから、しっかりと子どもを育てよう」というのは、善玉親意識。しかし「私は親だか
ら、子どもは、親に従うべき」と、親風を吹かすのは、悪玉親意識。悪玉親意識が強ければ強
いほど、(子どもがそれを受け入れればよいが、そうでなければ)、親子の間は、ギクシャクして
くる。

 ここでいう「親像」というのは、親としての素養と考えればよい。人は、自分が親に育てられた
という経験があってはじめて、自分が親になったとき、子育てができる。そういう意味では、子
育てができる、できないは、本能ではなく、学習によって決まる。その身についた素養を、親像
という。

 この親像が満足にない人は、子育てをしていても、どこかギクシャクしてくる。あるいは「いい
親であろう」「いい家庭をつくろう」という気負いばかりが強くなる。一般論として、極端に甘い
親、反対に極端にきびしい親というのは、親像のない親とみる。不幸にして不幸な家庭に育っ
た親ほど、その親像がない。あるいは親像が、ゆがんでいる。

 ……というような話は、前にも書いたので、ここでは話を一歩、先に進める。

 どんな親であっても、親は親。だいたいにおいて、完ぺきな親など、いない。それぞれがそれ
ぞれの立場で、懸命に生きている。そしてそれぞれの立場で、懸命に、子育てをしている。そ
の「懸命さ」を少しでも感じたら、他人がとやかく言ってはいけない。また言う必要はない。

 ただその先で、親は、賢い親と、そうでない親に分かれる。(こういう言い方も、たいへん失礼
な言い方になるかもしれないが……。)私の言葉ではない。法句経の中に、こんな一節があ
る。

『もし愚者にして愚かなりと知らば、すなわち賢者なり。愚者にして賢者と思える者こそ、愚者と
いうべし』と。つまり「私はバカな親だ」「不完全で、未熟な親だ」と謙虚になれる親ほど、賢い親
だということ。そうでない親ほど、そうでないということ。

 一般論として、悪玉親意識の強い人ほど、他人の言葉に耳を傾けない。子どもの言うことに
も、耳を傾けない。「私は正しい」と思う一方で、「相手はまちがっている」と切りかえす。

子どもが親に向かって反論でもしようものなら、「何だ、親に向かって!」とそれを押さえつけて
しまう。ものの考え方が、何かにつけて、権威主義的。いつも頭の中で、「親だから」「子どもだ
から」という、上下関係を意識している。

 もっとも、子どもがそれに納得しているなら、それはそれでよい。要は、どんな形であれ、また
どんな親子であれ、たがいにうまくいけばよい。しかし今のように、価値観の変動期というか、
混乱期というか、こういう時代になると、親と子が、うまくいっているケースは、本当に少ない。

一見うまくいっているように見える親子でも、「うまくいっている」と思っているのは、親だけという
ケースも、多い。たいていどこの家庭でも、旧世代的な考え方をする親と、それを受け入れるこ
とができない子どもの間で、さまざまな摩擦(まさつ)が起きている。

 では、どうするか? こういうときは、親が、子どもたちの声に耳を傾けるしかない。いつの時
代でも、価値観の変動は、若い世代から始まる。そして旧世代と新生代が対立したとき、旧世
代が勝ったためしは、一度もない。言いかえると、賢い親というのは、バカな親のフリをしなが
ら、子どもの声に耳を傾ける親ということになる。

 親として自分の限界を認めるのは、つらいこと。しかし気負うことはない。もっと言えば、「私
は親だ」と思う必要など、どこにもない。冒頭に書いたように、「どこまで親であるべきか」とか、
「どこまで親であるべきではないか」ということなど、考えなくてもよい。無論、親風を吹かした
り、悪玉親意識をもったりする必要もない。ひとりの友として、子どもを受け入れ、あとは自然
体で考えればよい。

 なお「親像」に関しては、それ自体が大きなテーマなので、また別の機会に考える。





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24
【マザーコンプレックス】

●依存と愛情(Mother Complex)

+++++++++++++++++

「マザコン」というと、男性だけにある
特異な現象と思っている人は多い。

しかし女性にも、マザコンの人は
いくらでもいる。
同性というだけで、目立たない。

これについては、何度も書いてきた。
ここでは、さらにもう一歩、話を進めて
みたい。

これには男性も女性も関係ないが、
母親にベタベタと甘えているからといって、
それだけ、母親への愛情が深いかという
と、そういうことはない。

マザコン性というのは、母親への依存性を
いう。
依存性イコール、愛情の深さではない。

よくあるケースは、それまではマザコンで
あった女性が、母親が認知症になったとたん、
母親への虐待し始めるというもの。

依存できなくなったときが、縁の切れ目(?)
ということか。

もちろん、中には、そのままの状態で、見た目には
良好な(?)人間関係をつづける親子もいる。
しかしそういうケースは、少ない。

つまりマザコンタイプの人は、常に「理想の
女性像(マドンナ)」を、母親に求める。
母親は、常に、その理想の女性でなければ
ならない。

が、母親がその期待(?)に応えられなく
なったとき、マザコンタイプの人は、それを
すなおに受け入れることができない。
あるいはそれを許すことができない。

たいてい、その段階で、はげしく葛藤する。

ある女性(60歳くらい)は、自分の母親が
認知症になりつつある段階で、そのつど、
パニック状態になってしまった。

母親が、就寝中に尿を漏らしただけで、親戚中に
電話をかけたりした。

「お母さんが、オシッコを漏らしたア〜!」と。

が、先にも書いたように、依存性イコール、愛情の
深さではない。

たとえば夫婦についても、そうで、配偶者に
強い依存性があるからといって、つまり見た目には
ベタベタに仲のよい夫婦に見えたとしても、
たがいに深い愛情があるとはかぎらない。

言うまでもなく、「愛」というのは、どこまで
相手を「許して忘れるか」、その度量の深さで決まる。
つまりその分だけ、愛には、常に孤独と苦しみが
ともなう。

さらに言えば、愛には熟成期間が必要。
たがいに困苦を乗り越え、その結果として、
人は「愛」を自覚することができるようになる。

一方、依存性は、その人自身の情緒的欠陥、精神的
未熟性に起因する。
情緒的欠陥、精神的未熟性をカバーするために、
相手、つまり母親(父親、配偶者)に依存する。

「母親に依存する」ということと、「母親を愛する」
ということは、まったく異質なものである。

このことは子どもの世界を見れば、よくわかる。

親に依存している子どもは多いが、親を愛している
子どもというのは、皆無とみてよい。
あっても、「思いやり」程度。
たとえば病気になった親を、看病するとか、など。
年少の子どもであれば、なおさらである。

子どもが「愛」を自覚するのは、思春期前夜から
思春期にかけてである。

また話は少しそれるが、よく「マザコン男性ほど、
離婚率が高い」と、言われる。
それもそのはずで、つまりその分だけ、マザコン男性は、
配偶者に、理想の女性(マドンナ)像を求めすぎる。
あるいは押しつけすぎる。
それが夫婦の間に、キレツを入れる。

さらにマザコンタイプの人ほど、自分がマザコン的で
あることを正当化したり、ごまかすため、
母親を、ことさら美化する傾向が強い。

(ファザコンも同じように考えてよい。)

「私の親を批判したり、悪口言ったりするヤツは、
たとえ女房、子どもでも許せない」と息巻くのは、
たいていこのタイプの男性と考えてよい。
(男性にかぎらない。女性でもよい。)

話をもどす。

人間関係、とくに親子関係、夫婦関係を見るときは、
この(依存)と(愛情)に焦点をあてて考えて
みるとよい。

また別の人間関係が見えてくるはず。

+++++++++++++++++++

以前書いた原稿を添付します。

+++++++++++++++++++

●マザコンの果てにあるもの

++++++++++++++++

マザコンについて、補記します。

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 子どもをでき愛する親は、少なくない。しかしでき愛は、(愛)ではない。自分の心のすき間を
埋めるために、親は、子どもをでき愛する。自分の情緒的不安定さや、精神的欠陥を補うため
に、子どもを利用する。つまりは、でき愛の愛は、愛もどきの、愛。代償的愛ともいう。

 これについては、何度も書いてきたので、ここでは、省略する。

 でき愛する親というのは、そもそも、依存性の強い親とみる。つまりそれだけ自立心が弱い。
で、その結果として、自分の子どもがもつ依存性に、どうしても、甘くなる。このタイプの親は、
自分にベタベタ甘えてくれる子どもイコール、かわいい子イコール、いい子と考えやすい。

 そのため自分にベタベタ甘えるように、子どもを、しむける。無意識のまま、そうする。こうして
たがいに、ベタベタの人間関係をつくる。

 いわゆるマザコンと呼ばれる人は、こういう親子関係の中で生まれる。いくつかの特徴があ
る。

 子どもをでき愛する親というのは、でき愛をもって、親の深い愛と誤解しやすい。でき愛ぶり
を、堂々と、人の前で、誇示する親さえいる。

 つぎにでき愛する親というのは、親子の間に、カベがない。ベタベタというか、ドロドロしてい
る。自分イコール、子ども、子どもイコール、自分という、強い意識をもつ。ある母親は、私にこ
う言った。

 「息子(年中児)が、友だちとけんかをしていると、その中に割りこんでいって、相手の子ども
をなぐりつけたくなります。その衝動をおさえるのに、苦労します」と。

 本来なら、こうした母子間のでき愛を防ぐのは、父親の役目ということになる。しかし概して言
えば、でき愛する母親の家庭では、その父親の存在感が薄い。父親がいるかいないかわから
ないといった、状態。

 で、さらに、マザコンというと、母親と息子の関係を想像しがちだが、実は、娘でも、マザコン
になるケースは少なくない。むしろ、息子より多いと考えてよい。しかも、息子がマザコンになる
よりも、さらに深刻なマザコンになるケースが多い。

 ただ、目だたないだけである。たとえば40歳の息子が、実家へ帰って、70歳の母親といっし
ょに、風呂に入ったりすると、それだけで大事件(?)になる。が、それが40歳の娘であったり
すると、むしろほほえましい光景と、とらえられる。こうした誤解と偏見が、娘のマザコン性を見
逃してしまう。

 ……というようなことも、何度も書いてきたので、ここでは、もう少し、先まで考えてみたい。

 冒頭にも書いたように、でき愛は(愛)ではない。したがって、それから生まれるマザコン性も
また、愛ではない。

 子どもをでき愛する親というのは、無私の愛で子どもを愛するのではない。いつも、心のどこ
かで、その見返りを求める。

 ある母親は、自分の息子が、結婚して横浜に住むようになったことについて、「嫁に息子を取
られた」と、みなに訴えた。そしてあちこちへ電話をかけて、「悔しい、悔しい」と、泣きながら、
自分の胸の内を訴えた。

 で、今度は、その反対。

 親にでき愛された子どもは、息子にせよ、娘にせよ、親に対して、ベタベタの依存性をもつ。
その依存性が、その子どもの自立をはばむ。

 よく誤解されるが、一人前の生活をしているから、自立心があるということにはならない。マザ
コンであるかどうかというのは、もっと言えば、親に依存性がもっているかどうかというのは、心
の奥の内側の問題である。外からは、わからない。

 一流会社のバリバリ社員でも、またいかめしい顔をした暴力団の親分でも、マザコンの人は
いくらでもいる。

 で、このマザコン性は、いわば脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、本人自身が、それ
に気づくことは少ない。……というより、まず、ない。だれかが、その人のマザコン性を指摘した
りすると、こう答えたりする。

 「私の母は、それほどまでにすばらしい人だからです」「私の母は、世の人のためのカサにな
れと教えてくれました」と。

 つまりマザコンの人は、息子であるにせよ、娘であるにせよ、親に幻想をいだき、親を絶対視
しやすい。美化する。親絶対教の信者になることも少なくない。つまり、自分のマザコン性を、
正当化するために、そうする。

 で、その分だけ、親を愛しているかというと、そうでもない。でき愛で愛された子どももまた、同
じような代償的愛をもって、それを(親への深い愛)と、誤解しやすい。

 本来なら、子どもは、小学3、4年生ごろ(満10歳前後)で、親離れをする。また親は親で、子
どもが中学生くらいになったら、子離れをする。こうしてともに、自立の道を歩み始める。

 が、何らかの理由や原因で、(多くは、親側の情緒的、精神的問題)、その分離がままならな
くなることがある。そのため、ここでいうベタベタの人間関係を、そのまま、つづけてしまう。

 で、たいていは、その結末は、悲劇的なものとなりやすい。

 80歳をすぎて、やや頭のボケた母親に向って、「しっかりしろ」と、怒りつづけていた息子(50
歳くらい)がいた。

 マザコンの息子や娘にしてみれば、母親は絶対的な存在である。宗教にたとえるなら、本尊
のようなもの。その本尊に疑いをいだくということは、それまでの自分の生きザマを否定するこ
とに等しい。

 だからマザコンであった人ほど、母親が晩年を迎えるころになると、はげしく葛藤する。マザ
コンの息子にせよ、娘にせよ、親は、ボケてはならないのである。親は、悪人であってはならな
いのである。また自分の母親が見苦しい姿をさらけ出すことを、マザコンタイプの人は、許すこ
とができない。

 そして母親が死んだとする。依存性が強ければ強いほど、その衝撃もまた、大きい。それこ
そ、毎晩、空をみあげながら、「おふくろさんよ、おふくろさ〜ん」と、泣き叫ぶようになる。

 さらにマザコンタイプの男性ほど、結婚相手として、自分の母親の代用としての妻を求めるよ
うになる。そのため、離婚率も高くなる。浮気率も高くなるという調査結果もある。ある男性(映
画監督)は、雑誌の中で、臆面もなく、こう書いている。

 「私は、永遠のマドンナを求めて、女性から女性へと、渡り歩いています」「男というのは、そう
いうものです」と。(自分がそうだからといって、そう、勝手に決めてもらっては、困るが……。)
自ら、「私は、マザコンです」ということを、告白しているようなものである。

 子育ての目的は、子どもをよき家庭人として自立させること。子どもをマザコンにして、よいこ
とは、何もない。
(はやし浩司 マザコン 息子のマザコン 娘のマザコン 代償的愛 親の美化 偶像化)

【補記】

【マザコンの問題点】

(親側の問題)

(1)情緒的未熟性、精神的欠陥があることが多い。
(2)その時期に、子離れができず、子どもへの依存性を強める。
(3)生活の困苦、夫婦関係の崩壊などが引き金となり、でき愛に走りやすい。
(4)子どもを、自分の心のすき間を埋めるための所有物のように考える。
(5)親自身が自立できない。子育てをしながら、つねに、その見返りを求める。
(6)父親不在家庭。父親がいても、父親の影が薄い。
(7)でき愛をもって、親の深い愛と誤解しやすい。
(8)親子の間にカベがない。子どもがバカにされたりすると、自分がバカにされたかのように、
それに猛烈に反発したり、怒ったりする。
(9)息子の嫁との間が、険悪になりやすい。このタイプの親にとっては、嫁は、息子を奪った極
悪人ということになる。

(息子側の問題)

(1)親に強度の依存性をもつ。50歳をすぎても、「母ちゃん、母ちゃん」と親中心の生活環境
をつくる。
(2)親絶対教の信者となり、親を絶対視する。親を美化し、親に幻想をもちやすい。
(3)結婚しても、妻よりも、母親を優先する。妻に、「私とお母さんと、どちらが大切なのよ」と聞
かれると、「母親だ」と答えたりする。
(4)妻に、いつも、母親代わりとしての、偶像(マドンナ性)を求める。
(5)そのため、マザコン男性は離婚しやすく、浮気しやすい。
(6)妻と結婚するに際して、「親孝行」を条件にすることが多い。つまり妻ですらも、親のめんど
うをみる、家政婦のように考える傾向が強い。

(娘側の問題)

(1)異常なマザコン性があっても、周囲のものでさえ、それに気づくことが少ない。
(2)母親を絶対視し、母親への批判、中傷などを許さない。
(3)親絶対教の信者であり、とくに、母親を、仏様か、神様のように、崇拝する。
(4)母親への犠牲心を、いとわない。夫よりも、自分の生活よりも、母親の生活を大切にする。
(5)母親のまちがった行為を、許さない。人間的な寛容度が低い。母親を自分と同じ人間(女
性)と見ることができない。
(6)全体として、ブレーキが働かないため、マザコンになる息子より、症状が、深刻で重い。
(はやし浩司 マザコン マザコンの問題点 娘のマザコン マザコン息子 マザコン娘 (はや
し浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi 
Hayashi education essayist writer Japanese essayist 永遠のマドンナ 理想の女性像)

【父性】

子どもがマザコン化する背景には、「父性」の欠落がある。
本来なら、子どもがある年齢に達したら、濃密な母子関係の間に、
父親が割り込み、母子関係を是正しなければならない。

そのとき父親の存在が希薄であったりすると、子どもはマザコン化しやすい。

「ファザコン」は、逆の立場で、同じように考えてよい。






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25
【考えることの大切さ】

【生きることは考えること】(I think, therefore I am)
Why are we here? The answer is very simple. Because we think. In other words, if we don't 
think, we are the same animals which live and die there in the nature.

+++++++++++++++++

生きるということは、どういう
ことなのか?

+++++++++++++++++

私たちは生きているというよりは、
生かされているだけ?

今朝、そんなことを考えた。

たとえば「見る」ということを考えてみる。

目の前には、コナラの木がある。
淡い黄緑色の葉をつけ始めた。
水色の空を背景に、春のそよ風の中で、
やさしく揺れている……。

で、「見る」ということは、コナラの木に
反射された「光」を、目が、感受している
からにほかならない。

そこで私は、ふと考える。

「どうして空気は見えないのか」と。
「窒素や酸素は、見えないのか」と。

物理学的に言えば、空気は、光をそのまま
通してしまうから、ということになる。

が、ほんとうに、そうだろうか。
そう考えてよいのだろうか。

そこで見えるということを、
こう考えなおしてみたらどうだろうか。

「もし空気を見ることができたとしたら、
人間の目は、どうなっていただろうか」と。

紫色なら紫色でもよい。
青色なら青色でもよい。
もし私たちが空気の色を見ることができた
とするなら、空気以外のものは、見えない
ことになる。

そこは紫色だけの世界。
青色だけの世界。

たとえて言うなら、土の中に住むミミズの
ようなもの。

ミミズは、土の中で、土しか見ていない。
土しか、見ることができない。
しかも光のない世界だから、そこは暗闇の
世界。

となると、ミミズの目が退化してしまった
ように、人間の目も退化してしまっていたに
ちがいない。

見えるものが空気だけでは、目としての意味はない。

が、そのままでは、困る。
空気にじゃまされて、その向こうのものが
見えないとしたら、人間は、そのつど、
種々の物体と、衝突を繰りかえすことになる。

あっちでゴツン、こっちでゴツンと……。
崖があれば、そのまま、まっさかさまに、落ちていく……。

そこで、もし、人間が空気を見ることができたとするなら、
(あるいは空気が見えるものであったとするなら)、
人間は(目)に代わるものを、進化させていたに
ちがいない。

深海に住むイルカは、超音波で、物体をさぐる
ことができるという。
あるいは、暗い洞窟に住むコウモリのようでもよい。
人間も、そういった能力を進化させたにちがいない。

しかしそうなったとするなら、今度は、コナラの木も、
ずいぶんとちがったものに見えているはず。

そこは白黒の世界? 
枝は黒い影、葉はうすい影……。

つまり「見る」ということをひとつ取りあげても、
人間にたいへんつごうよく、そのように、
できるようになったにすぎないということがわかる。

「見る」と言っても、そのように見させられて
いるだけ、ということ。

で、人間は、こう思う。

「気持ちいいな」
「やはり山の緑はいい」
「とくに春先の若葉の色がいい」
「水色の空も、美しい」と。

しかしこれについても、こう言える。

「そういうふうに思うのも、実はしくまれた
感動である」と。

というのも、太古の昔、人間は、猿に近い
動物であったという。

さらにその前は、魚に近い動物であったという。

緑が美しいと思うのは、私たちが猿であった時代の
名残かもしれない。

淡い水色の空を美しいと思うのは、私たちが
魚であった時代の名残かもしれない。

猿であった時代には、私たちは森の木々に
守られて生きた。

魚であった時代には、透明な水の中で、
餌をさがしながら生きた。

それがそのまま今、(感覚)として反映されている。

反対に、不毛の砂漠を見たり、大きな火を見たり
したとき、不安になることがある。

それも、進化の過程で、つくりあげられた(感覚)
ということになる。

つまりこうして考えていくと、(生きる)といっても、
私たちは、実は(生かされているだけ)という
ことがわかってくる。

中には、「私は生きている」「自分の力で生きている」と
思っている人もいるかもしれない。
が、実は(生かされているだけ)と。

そのことは、野原で遊ぶ小鳥たちを見ればわかる。

どの小鳥も、それぞれがてんでバラバラに、
好き勝手なことをしている。

しかし小鳥は小鳥。
その(ワク)の中でしか、生きていない。
つまり、そのワクの中で、生かされているだけ。

居心地がよいから、小鳥は、野原にいる。
餌があるから、そこで遊ぶ。

人間も、またしかり。
「私は私」と思っている人も多いが、実は、
内なる命令に、従っているだけ。
わかりやすく言えば、(ワク)の中で、
生かされているだけ。

食欲や生存欲、性欲については、今さら
説明するまでもない。

私たちの生活のほとんどは、そのバリエーションの
上に成り立っていると言っても過言ではない。

そこにレストランがあるのも、仕事をするのも、
また結婚するのも、そうだ。
もとを正せば、その向こうに、食欲があり、
生存欲があり、性欲があるからにほかならない。

となると、改めて、(生きる)とは何か、
考えてしまう。
あるいは(生きる)ということは、どういうことなのか、
考えてしまう。

……といっても、私の結論は、いつも同じ。

こうした(ワク)の外にあるものは何かと
問われれば、それは(考えること)に
ほかならない。

この(考える)ということだけは、だれにも
じゃまされない。
この(考える)という部分だけは、
(ワク)の外にある。

言いかえると、私たち人間は、考えることによって、
(ワク)の外に出ることができる。
(生きる)ということを、私たち自身のものとする
ことができる。

もっと端的に言えば、私たちは考えるからこそ、
人間ということになる。

裏を返していうと、考えない人というのは、
人間ではない、つまりそこらの動物と同じ
ということになる。
……というのは、少し言い過ぎということは
わかっている。

しかしこの視点を踏み外すと、では私たちは
何のために生きているか、それがわからなく
なってしまう。

あるいは「生きている」と思いこんで、
生きているだけということになってしまう。

朝起きて、毎日、同じことを繰りかえす。
そして同じように一日を終えて、床につく。

しかしそれでは、冒頭に書いたように、
ただ生かされているだけということになる。

それを避けるためのゆいいつの手段といえば、
(考えること)ということになる。

以前、「生きることは考えること」という題で、
こんな原稿を書いたことがある。

書いてから、すでに6、7年になるが、
今でも、その思いに変わりはない。

++++++++++++++++++

●生きることは、考えること

 毎週土曜日は、朝四時ごろ目がさめる。そうしてしばらく待っていると、配達の人が新聞を届
けてくれる。聞きなれたバイクの音だ。が、すぐには取りにいかない。いや、ときどき、こんな意
地悪なことを考える。配達の人がポストへ入れたとたん、その新聞を中から引っ張ったらどうな
るか、と。きっと配達の人は驚くに違いない。

 今日で「子どもの世界」は終わる。連載一〇九回。この間、二年半あまり。「混迷の時代の子
育て論」「世にも不思議な留学記」も含めると、丸四年になる。

しかし新聞にものを書くと言うのは、丘の上から天に向かってものをしゃべるようなもの。読者
の顔が見えない。反応もわからない。だから正直言って、いつも不安だった。中には「こんなこ
とを書いて!」と怒っている人だっているに違いない。

私はいつしか、コラムを書きながら、未踏の荒野を歩いているような気分になった。果てのない
荒野だ。孤独と言えば孤独な世界だが、それは私にとってはスリリングな世界でもあった。書く
たびに新しい荒野がその前にあった。

 よく私は「忙しいですか」と聞かれる。が、私はそういうとき、こう答える。「忙しくはないです
が、時間がないです」と。つまらないことで時間をムダにしたりすると、「しまった!」と思うことが
多い。

女房は「あなたは貧乏性ね」と笑うが、私は笑えない。私にとって「生きる」ということは、「考え
る」こと。「考える」ということは、「書く」ことなのだ。私はその荒野をどこまでも歩いてみたい。そ
してその先に何があるか、知りたい。ひょっとしたら、ゴールには行きつけないかもしれない。し
かしそれでも私は歩いてみたい。そのために私に残された時間は、あまりにも少ない。

 私のコラムが載っているかどうかは、その日の朝にならないとわからない。大きな記事があ
ると、私の記事ははずされる。バイクの音が遠ざかるのを確かめたあと、ゆっくりと私は起きあ
がる。そして新聞をポストから取りだし、県内版を開く。私のコラムが出ている朝は、そのまま
読み、出ていない朝は、そのまままた床にもぐる。たいていそのころになると横の女房も目をさ
ます。そしていつも決まってこう言う。

「載ってる?」と。その会話も、今日でおしまい。みなさん、長い間、私のコラムをお読みくださ
り、ありがとうございました。」 

++++++++++++++++++++++

みなさんへ、

生きているって、すばらしいことですね。
これからも、そのすばらしさを、このマガジンを
とおして、追求していきたいと思います。
今回は、「おわび号」ということで、その
「生きる」について、書いてみました。

これからも、どうか、マガジンを、お読み
ください。


++++++++++++++++++

同じような内容の原稿ですが、もう一作
添付します。

++++++++++++++++++

●雑感

 六月に静岡市で講演会をもつ。私はどうしてもその講演会を、成功させたい。「成功」というの
は、心残りなく、自分を出しきるということ。講演をしていて、一番、つらいのは、終わったあと、
「ああ言えばよかった」「こう言えばよかった」と後悔すること。どこか中途半端なまま終わるこ
と。正直に告白するが、そういう意味では、私はいまだかって、一度とて成功したためしがな
い。

 それに「アメリカのある学者がこう言っています」などという、いいかげんな言い方はしたくな
い。言うとしても、きちんと、「マイアミ大学の、T・フィールド博士はこう言っています」という言い
方をしたい。そのためにも、下調べをしっかりとしておきたい。

 ここで「静岡市」にこだわるのは、静岡県の静岡市、つまり県庁所在地だからである。同じ静
岡県の中でも、浜松市で講演するのと、静岡市で講演するのとでは、意味が違う。それに私の
講演では、東は大井川を越えると、とたんに集まりが悪くなる。さらにその東にある静岡市とな
ると、もっと悪くなる。恐らく予定の半分も集まらないだろう。だからよけいに、成功させたい。

 しかし私はときどき、こう思う。講演のため、数百人もの人を前にしたときだ。「どうしてこの私
がこんなところにいるのだろう?」と。それは実におかしな気分だ。「この人たちは、何を求め
て、ここに来ているのだろう」と思うこともある。だから私は、来てくれた人には、思いっきり、役
にたつ話をすることにしている。私利私欲という言葉があるが、講演では、「私」そのものを捨
てる。かっこよくみせようとか、飾ろうという気持ちも捨てる。こういうとき政治家だったら、自分
をより高く売りつけて、票に結びつけようとするだろう。が、私には、そういった目的もない。

よく主催の方が本を売ってくれると申し出てくれることもあるが、ほとんどのばあい、私のほう
が、それを断っている。そういう場を利用して、本を売りつけるというのは、私のやり方ではな
い。

 ひとつ心配なことがある。それはこの数年、体力や気力が急速に衰えてきたこと。講演の途
中で、ふと自分でも何を話しているかわからなくなるときがある。あるいは頭の中がボーッとし
てきて、話し方そのものがいいかげんになることもある。言葉が浮かんでこなかったり、話そう
と思っていたことを忘れてしまうこともある。こうした傾向は、これから先、ますます強くなるので
は……?

 生きている証(あかし)として、私は講演活動をつづける。私にとって生きることは考えること。
考えるということは、書くこと。その結果として、私の意見に耳を傾けてくれる人がいるなら、私
は自分の経験と能力を、そういう人にささげる。本当のところ、「メリット」を考えても、それは、
あまりない。もちろん「仕事」にはならない。しかし以前のように、疑問をもつことは少なくなっ
た。

三〇代のころは、「なぜ講演をするのか」「なぜしているのか」ということを、よく考えた。が、今
は、それはない。そういうことは、ほとんど考えない。今は、やるべきことのひとつとして、講演
活動を考えている。

どうせやがて消えてなくなる体。心。そして命。死ねば、二度と見ることもないこの世界だが、そ
こに生きたという証になれば、私はそれでよい。

++++++++++++++++

●このマガジンの読者の方で、静岡市周辺に住んでおられる方がいらっしゃれば、どうか、講
演会においでください。まだ私が元気なうちに、私の話を聞いてください。一生懸命、みなさん
の子育てで役立つ話をします!
03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課 電話054−246−6136

(03−1−22)記


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●情報と思考

++++++++++++++++++++

情報と思考は、別。
もの知りな子どもイコール、頭がよいということ
にはならない。

たとえば掛け算の九九をペラペラと言ったからと
いって、その子どもは、頭がよい子どもとは言わない。
いわんや、算数ができる子どもとは、言わない。

++++++++++++++++++++

 もちろんテレビ番組の影響だが、子どもたちの世界でも、「IQサプリ」「知能サプリ」という言葉
が、日常的に使われるようになった。昔でいう、「トンチ」、あるいは「ダジャレ」と考えればよい。
いわゆる、脳みその体操のようなものだが、英語でいう、クイズとか、リドルも、それに含まれ
る。

 かたくなった脳みそを刺激するには、よい。体でいえば、今まで使ったことのない筋肉を動か
すようなもの。しかし誤解してはいけないのは、そういうことができるからといって、頭がよいと
いうことには、ならない。またそういう問題で訓練をしたからといって、頭がよくなるということで
もない。頭のよさは、論理性と分析力によって決まる。もっと言えば、論理性と分析力は、一
応、ひらめき思考とは、区別して考える。

 そのことは、子どもの世界を見ていると、よくわかる。

 中に、つぎからつぎへと、パッパッと、言動が変化していく子どもがいる。言うことなすこと、ま
さに天衣無縫。ひらめきというか、勘がよいから、何かクイズのようなものを出したりすると、そ
の場でスイスイと解いてみせたりする。

 が、そういう子どもが頭がよいかというと、そういうことはない。トンチや、ダジャレがうまい子
どもイコール、頭がよいということではない。(もちろん中には、その両者をかね備えた子どもも
いるが……。)

 むしろ現実には、いわゆる頭のよい子どもというのは、静かで、落ちついている。どっしりとし
ている。私はよく、『子どもの頭のよさは、目つきを見て判断したらいい』と言う。このタイプの子
どもは、目つきが鋭い。何か問題を出しても、食い入るようにそれをじっと見つめる。

 もちろんこのタイプの子どもは、知能サプリ的な問題でも、スイスイと解くことができる。が、そ
の解き方も、論理的。理由を聞くと、ちゃんとした説明が返ってくる。

 で、私も、そういった番組を、ときどき見る。たまたま昨日(11・19)は、こんな問題が出され
ていた(「IQサプリ」)。

 四角い紙の真中に、小さい文字で、「つ」と書いてある。これを「失格」とするなら、「合格」は、
どんな紙に、どう書けばよいか、と。

 四角い紙の真中に「つ」が書いてあるから、「四角の中に、つ」、だから、「し(つ)かく」と。

 この方法で、「合格」を表現しようとすると、五角形の中に、「う」を書けばよいということにな
る。「五角形の中に、(う)だから、ご(う)かく」と。

 「なるほど」と思いたいが、しかし、これは論理の問題というよりは、まさにダジャレ。こうした
問題が、論理性と結びつくためには、そこに法則性がなければならない。が、その法則性は、
どこにもない。その法則性がないから、こうした問題には、発展性がない。もちろん実益もな
い。

 たとえばこうした問題を土台にして、(形)と(最小の文字)で、言葉を表現できるようにすれ
ば、それが論理性ということになる。

 三角と、(あ)で、「錯覚」
 四角と、(い)で、「鹿」
 五角と、(う)で、「誤解」とかなど。(少し苦しいかな……。)

 つまり、ダジャレは、どこまでもダジャレ。が、それよりも恐ろしいと思うのは、こうした意味の
ないダジャレが、いくら娯楽番組とはいえ、全国津々浦々に、放送されているということ。その
ために、日本人の何割かが、くだらないダジャレにつきあい、時間をムダにする。言いかえる
と、それまでの巨大メディアを使ってまで、こんなことを全国に知らせしめる必要があるのかと
いうこと。

 ケバケバしい舞台。チャラチャラした出演者たち。その出演者たちが、意味もなく、ギャーギ
ャーと騒いだり、笑ったりしている。知恵をみがく番組というのなら、それなりに知性を感ずる番
組でなければならない。が、おかしなことに、その知性を感じない。

私は、今の今も、多くの子どもたちを見ている。そういう子どもたちと比較しても、この種の番組
は、質というか、レベルが、2つも、3つも低い。つまりそれが、こうした番組のもつ限界というこ
とになる。

【補足】

●情報と思考力

 もの知りイコール、賢い人ということにはならない。つまりその人がもつ情報量と、賢さは、必
ずしも一致しない。たとえば幼稚園児が、掛け算の九九をペラペラと口にしたからといって、そ
の子どもは、頭のよい子ということにはならない。もちろん算数のできる子ということにはならな
い。

 しかし長い間、この日本では、もの知りな子どもイコール、優秀な子と考えられてきた。受験
勉強の内容そのものが、そうなっていた。一昔前までは、受験勉強といえば、明けても暮れて
も暗記、暗記また暗記の連続だった。

 さらにそれで勉強がよくできるからといって、人格的にすぐれた人物ということにはならない。
もっとわかりやすく言えば、有名大学を出たからとって、人格的にすぐれた人物ということには
ならない。

 しかし私が子どものころは、そうではなかった。学級委員と言えば、勉強がよくできる子ども
から選ばれたりした。勉強のできない子どもが、まれに学級委員に選ばれたりすると、先生
が、その選挙のやりなおしを命じたりしていた。

 話がそれたが、その子どものもつ情報量と、その子どもがもつ思考力とは、関係はない。(も
ちろん、中には、その両方を兼ね備えている子どももいる。あるいはその両方ともに、欠ける
子どももいる。)

 そこでさらに一歩、情報と思考について、考えてみる。

 情報というのは、ただ単なる知識にすぎない。その情報が、思考と結びつくためには、その情
報を、選択→加工→連続化しなければならない。最後にその情報を、論理的に組みあわせ
て、実生活に応用していく。それが思考である。

 これをまとめると、つぎのようになる。

(1)情報量(情報そのものの量)
(2)情報の選択力(必要な情報と、そうでない情報の選択)
(3)情報の加工力(情報を別の情報に加工する力)
(4)情報の連続性(バラバラになった情報を、たがいに結びつける)
(5)情報の応用性(情報を、実用的なことに結びつける)

 (1)の情報量をベースとするなら、(2)〜(5)が、思考力の分野ということになる。

 言うなれば、「IQサプリ」にせよ、「知能サプリ」にせよ、(1)の段階だけで、停止してしまって
いる。「だからどうなの?」という部分が、まるでない。ムダだとは思わないが、しかしその繰り
かえしだけでは、意味がない。

 以前、こんな原稿を書いた(中日新聞発表済み)。情報と思考のちがいがわかってもらえれ
ば、うれしい。

++++++++++++++++++++++

●知識と思考を区別せよ!

思考と情報を混同するとき 

●人間は考えるアシである

パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをなす』と
も。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、
別のことである。たとえばこんな会話。

A「昼に何を食べる?」
B「スパゲティはどう?」
A「いいね。どこの店にする?」
B「今度できた、角の店はどう?」
A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパゲティはおいしいと話していたな」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も
考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出し
ているにすぎない。

もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラペラと
言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはならない。算数ができ
るということにはならない。

●考えることには苦痛がともなう

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちに
も、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。

中には考えることを他人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話
をしたことがある。私が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったとき
のこと。その人はこう言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」
と。

●人間は思考するから人間

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『われ思
う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まちがっていると
かいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。

ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしている
の?」と声をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中から生ま
れるものだと思っていた。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子ども
なりに、懸命に考えて、そうしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なの
である。

●知識と思考は別のもの

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせる
ことが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。

それがムダだとは思わないが、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にして
しまう。かえって子どもから考えるという習慣を奪ってしまう。もっと言えば、賢い子どもというの
は、自分で考える力のある子どもをいう。

いくら知識があっても、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わない。頭のよし悪
しも関係ない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言っている。「バカなこ
とをする人のことを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここをまちがえると、教育の柱その
ものがゆがんでくる。私はそれを心配する。

(付記)

●教育の欠陥

日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み教
育」が基本になっている。さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の本山教育
である。

つまり日本の教育は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画一的な子
どもをつくるのが基本になっている。もっと言えば「従順でもの言わぬ民」づくりが基本になって
いる。

戦後、日本の教育は大きく変わったとされるが、その流れは今もそれほど変わっていない。日
本人の多くは、そういうのが教育であると思い込まされているが、それこそ世界の非常識。ロン
ドン大学の森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で
考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自己判断ので
きる人間を育てなければ、二〇五〇年の日本は本当にダメになる」(「コウとうけん」・九八年・
田丸先生指摘)と警告している。

●低俗化する夜の番組

 夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっている
のがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話と
して外に取り出しているにすぎない。

一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考えていない。思考というのは、本文にも
書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人によっては本当に頭が痛くなることもあ
る。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らない。そのため考えるだけでイライラし
たり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、考えること自体を避けようとする。

 ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるということもある。
私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。また文にして残す
という方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。

私にとって生きるということは、考えること。考えるということは、書くこと。モンテーニュ(フラン
スの哲学者、1533〜92)も、「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときのほ
か、考えたことはない」(随想録)と書いている。ものを書くということには、そういう意味も含ま
れる。
(はやし浩司 情報と思考 考える葦 パスカル パンセ フォレスト・ガンプ (はやし浩司 家
庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi 
education essayist writer Japanese essayist 思考 情報 生きる 生きるということは、考える
こと なぜ人は生きるか)





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まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし 静岡県 浜松幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒
 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論
家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ. writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武
義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド
(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと英語の木 (CAI) 教材研究  はやし浩司 教材作成 教材制作 総合目
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子育て アドバイス アドバイザー 子供の悩み 子どもの悩み 子育て情報 ADHD 不登校 学校恐怖症 怠学 はやし浩司 はやし浩
司 タイプ別育児論 赤ちゃんがえり 赤ちゃん言葉 悪筆 頭のいい子ども 頭をよくする あと片づけ 家出 いじめ 子供の依存と愛着
 育児ノイローゼ 一芸論 ウソ 内弁慶 右脳教育 エディプス・コンプレックス おてんばな子おねしょ(夜尿症) おむつ(高層住宅) 
親意識 親の愛 親離れ 音読と黙読 学習机 学力 学歴信仰 学校はやし浩司 タイプ別育児論 恐怖症 家庭教師 過保護 過剰行
動 考える子ども がんこな子ども 緩慢行動 かん黙児 気うつ症の子ども 気負い 帰宅拒否 気難しい子 虐待 キレる子ども 虚言
(ウソ) 恐怖症 子供の金銭感覚 計算力 ゲーム ケチな子ども 行為障害 心を開かない子ども 個性 こづかい 言葉能力、読解力
 子どもの心 子離れ はやし浩司 タイプ別育児論 子供の才能とこだわり 自慰 自意識 自己嫌悪 自殺 自然教育 自尊心 叱り方
 しつけ 自閉症 受験ノイローゼ 小食 心的外傷後ストレス障害 情緒不安 自立心 集中力 就眠のしつけ 神経質な子ども 神経症
 スキンシップ 巣立ち はやし浩司 タイプ別育児論 すなおな子ども 性教育 先生とのトラブル 善悪 祖父母との同居 大学教育 体
罰 多動児男児の女性化 断絶 チック 長男・二男 直観像素質 溺愛 動機づけ 子供の同性愛 トラブル 仲間はずれ 生意気な子
ども 二番目の子 はやし浩司 タイプ別育児論 伸び悩む子ども 伸びる子ども 発語障害 反抗 反抗期(第一反抗期) 非行 敏捷
(びんしょう)性 ファーバー方式 父性と母性 不登校 ぶりっ子(優等生?) 分離不安 平和教育 勉強が苦手 勉強部屋 ホームスク
ール はやし浩司 タイプ別育児論 本嫌いの子ども マザーコンプレックス夢想する子ども 燃え尽き 問題児 子供のやる気 やる気
のない子ども 遊離(子どもの仮面) 指しゃぶり 欲求不満 よく泣く子ども 横を見る子ども わがままな子ども ワークブック 忘れ物が
多い子ども 乱舞する子ども 赤ちゃんがえり 赤ちゃん帰り 赤ちゃん返り 家庭内暴力 子供の虚言癖 はやし浩司 タイプ別育児論
はじめての登園 ADHD・アメリカの資料より 学校拒否症(不登校)・アメリカ医学会の報告(以上 はやし浩司のタイプ別育児論へ)東
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