書庫10
はやし浩司
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●遊離

 表情と心(情意)が、一致する。何でもないことのようだが、つまりそれが自然な形でできる子
どもにとっては、何でもないことのようだが、そうでない子どもには、そうでない。

 うれしいはずなのに、それが表情となって出てこない。悲しいはずなのに、それが表情となっ
て出てこない。

 心が変調し始めると、子どもは、いわゆる(何を考えているかわからない)といったタイプの子
どもになる。教える側からすると、心がつかめなくなる。

 静かで、おとなしい。表情も、ほとんど、変えない。たいていは、どこかニンマリと笑ったような
表情になる。怒ったり、笑ったりすることもない。大声で騒いだり、意見を言うこともない。

 かん黙症の子どもと違うところは、気が向いたようなときは、口を動かして、声らしきものを出
すということ。たいていは蚊が鳴くような小さな声だが、まったくの無口というわけではない。(か
ん黙症の子どもも、同じような表情をするときがある。)

 さらに変調すると、表情と心(情意)が、まったくチグハグになる。心理学では、これを「遊離」
という。

 怒っているはずなのに、ニヤニヤと笑ったり、ことさら穏やかな表情をしたりする。しかしこう
なると、その心が、まったくつかめなくなる。

 能力的には、問題ないことが多い。ペーパーワークなどをさせると、ごくふつうの子どもとし
て、それができたりする。

 で、こうした遊離が起きると、その分だけ、情報を心の中で整理したり、処理したりできなくな
る。ストレスが加わったりすると、そのストレスを処理できなくなり、そのため、ますます心をゆ
がめたりする。

 M君(年長児)という子どもが、印象に残っている。

 いろいろ刺激を与えてみるが、じっと私のほうを見ているだけで、反応がない。穏やかな顔を
しているだけ。どこかニンマリと笑っているといったふう。みなが、ドッと大声で笑うようなときで
も、どこか別の心で笑っているような感じになる。クスクスと笑うようなことはあるが、その程
度。

 しかし問題は、子どもがそうであるということもさることながら、親にその理解がないというこ
と。その日も、そうだった。たまたまM君の母親が、参観にきていたが、そういうM君を見ると、
M君の手を強引に引っ張って、そのまま教室から出ていってしまった。

 こうしたケースは、よくあることだが、M君が、とくに印象に残っているのには、理由がある。

 あとでM君の父親から、電話がかかってきた。いわく、「お前は、うちの息子を萎縮させてしま
った。ついては、責任をとってもらう」と。

 原因は、……というより、保育園や幼稚園へ入園したとき、それがきっかけでそうなることが
多い。対人恐怖症の一つと考えられる。つまりそういうふうに、自分の周囲にカラをつくること
で、外界の世界との接触を避けようとする。

 これを心理学の世界では、「防衛機制」という。かん黙症の子どもの心理も、同じように説明
されるが、ほかに、下の子どもが生まれたことが原因で、そうなることもある。愛情不足が欲求
不満となり、それが遠因となって、ここに示したような症状を示すこともある。家庭不和、騒動、
無視、冷淡、育児拒否など。

 Sさんという女の子(小学生)は、ほとんどといってよいほど、表情がなかった。あとで聞くと、
それが原因とは断定できないが、Sさんは、生後まもなくから、保育所に預けられて、育てられ
たという。

 先のM君のばあいは、母親の威圧的な育児姿勢が原因ではないかと思っている。少なくと
も、M君の母親は、愛情豊かな、心のおだやかな人ではなかった。神経質で、いつもピリピリし
ていた。

 そういう環境の中で、M君は、自分の周辺にカラをつくったのではないか。……もう15年以
上も前のことだが、今、思い出してみると、そんな気がする。

 (子どもの心は、複雑で、こうした一面的な見方が、正しいとは思っていないが……。)

 そこであなたの子どもは、どうだろうか。表情と心(情意)は、一致しているだろうか。あなたの
前で、うれしいときは、満面にうれしそうな表情を浮かべるだろうか。言いたいことを言い、した
いことをしているだろうか。

 もしそうなら、それでよし。

 しかしどうも、うちの子は、何を考えているかわからない……というのであれば、子どもを叱る
のではなく、心のどこかに問題があると考えて、冷静に対処する。

【追記】(気うつ症の子ども)

 遊離というほどではないが、子どもが仮面をかぶり、そのため、その心がわかりにくくなること
がある。

 いわゆる(いい子ぶる)というのが、それ。

 学校でも、いい子でとおす。がんばる。先生にもほめられる。本人も、必要以上に、がんば
る。……がんばってしまう。

 そして結果として、お決まりのオーバーヒート。

 原因は、人間関係がうまく結べないことによる。本来なら、そのつど自分の心を解放するの
がよい。言いたいことを言う。したいことをする。そのほうがよい。

 しかしこのタイプの子どもは、それができず、内へこもってしまう。そしてそれが気うつ症とな
って、外に現れる。

 無気力、倦怠感、脱力感など。その前兆として、元気がなくなったり、食欲をなくしたりする。
腹痛を訴えたり、吐く息が臭くなったり、ため息をもらすようになったりする。

 大切なことは、そういう前兆が現れた段階で、できるだけ早くそれに気づくこと。家庭の中で、
ゆるめる部分は、ゆるめる。生活態度がだらしなくなることもあり、子どもを叱ったりする親が
いるが、逆効果なことは、言うまでもない。

 このタイプの子どものこわいところは、あるところまではがんばれるだけ、がんばってしまうと
いうこと。そしてある日、突然、プツンしてしまうこと。よく知られた(?)例に、『あしたのジョー』
がある。そうなってしまう。

 もしあなたが、自分の子どもについて、「外では無理をしている」と感じたら、家の中では、思
いっきり、手綱(たづな)をゆるめる。コツは、子どもを暖かく無視する。
(040601)




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●平等論

【平等とは……】

●アメリカの実情
 
 SKさん(二児の母親)から、こんなメールをもらった。改めて、「平等とは何か?」、それを考
えさせられた。

++++++++++++++++++++

日本の学校、アメリカの学校。自由と平等。いろいろとらえ方があって、
どっちがいいって簡単にはいえないことだと思います。どちらもにも
利点、不利点があるでしょうから。

私は小学3年から中学2年までアメリカはN州で
生活しました。英語ができない状態で、現地校に放りこままれ、
たくましく大きくなりました。中2で帰国する時には、日本語が
あやしくなっていました。(言語発たちの、大事な時期ですね。)

当時はレーガン大統領の時代。アメリカがいろんな意味でキラキラ
していて、夢があった頃だと思います。でも、経済的に苦しくなり
つつあって、教育費は年々カットされました。先生方がしょっちゅう
授業をボイコットをしていたのを覚えています。

先生のお話にもあったように、あちらでは、町が変われば学校の
あり方が違う。PTAが多くの権限をもち、あらゆる教育内容に
発言するんですよね。

5年間の生活で、最初の2年間を過ごした町では、あまり教育熱心な
町ではなく、ブルーカラーの人、アイリッシュがとても多いところでした。
そちらの町では、学校の予算が削られて、小学校は3年生でおわり、
4、5、6、7が middle school、8学年以降が high schoolあつかいでした。

で、途中で引越、残りの3年を過ごした町はとても教育熱心な町でした。
このRMという町には、6年生以降、8年生まで学校生活を経験
しました。

7年生からは、あらゆる科目が5段階にレベル分けをされていました。
ホームルームは一緒でも、時間割はみな、ちがっています。習う科目と
レベルが、みな、違うんです。

で、全教科レベルが高いところで学習している生徒は、目の前に
「飛び級」がちらついてくる。一番下のところに降ろされている子は
「ドロップアウト」が見えてくる。

どのクラスも、要求されている学習レベルが明確だから、「ドロップアウト」
するべき瞬間が誰の目にも明らかなんですよね。子どもにとっても。
「進級する」のも同じ。

同じ学年で、同じ English教材で学習をしていても、トップレベルのクラスで
扱う新出単語が30個ならば、下のレベルでは、20個だったりするわけです。

私が過ごしていた町では、トップレベルのクラスに入っている子たちは
特別なクラブ活動に参加していました。 Enrichmentと呼ばれたり、
Class for the gifted and talented という名称がつけられていたりしました。

こうやって、エリート意識を、小中学生の頃から植えつけて、切磋琢磨させて
いるんです。毎朝、1時間早めにきて、ディベイト、学校新聞作り、
株と経営、地元学校対抗クイズ大会の練習など、するのです。

で、これらの活動に参加しているお子さんたち、たいていのご父兄が
PTAに中心的に活動していて、学習内容、学習レベルを細かに
チェックしているのです。ご父兄も、お医者さんやら弁護士さんやら
いわゆる「エリート」のお仕事に従事されている方ばかりです。

アメリカの、そういうPTAで幅を利かせている方々というのは、
先生を巻きこんで、自分の子どもたちが、もっともいい教育が受けられる
道を歩めるようにアクションを起こしていくんですよね。

飛び級しかり、Enrichment のような活動しかり。(これはどの町の
学校にもあるシステムだと思います。規模の大小、ありますが。)

大学進学に必要なSAT(Scholastic Assessment Test、
アメリカ大学学部課程への入学適性を審査する学力診断テスト)、
あれも、何度も受ければハイスコアが確実に
見えてくるシステムのテストです。Enrichmentの活動に参加している子たちは
中学2のときから毎年のようにSATを受ける権利がもらえているのです。
そうなれば最終的にハイスコアを提出しやすいですよね。

私も、全教科、トップレベルのクラスにいれてもらっていたので、
Enrichment を通して、たくさんの面白い経験をさせてもらいました。
(校外学習など、いろんなプログラムが準備されているのです。)
私の場合は「英語が第二言語である」というところが、giftedであると
理解されていたようです。

アメリカでは喜んでドロップアウトする。ドロップアウトを受け入れる
授業編成とカリキュラムが組まれているからだと私は理解しています。
でも、もし Enrichmentのようなプログラムからはずされるとなると、
半狂乱になる親はいたと思います。とくに一度英才教育をうけた子どもたち
には、とても酷なことでしょう。

よく私の母がつぶやいていました。「個々人の能力に応じた教育の機会を
与えるのが、アメリカの平等。能力の幅をできるだけ感じさせないように
して、みんなに同じ機会を与えようとするのが、日本の平等。」

どっちが、平等なんでしょうか? 

日本でいうところの、「コース」っていうのは、一体何ものなんでしょう。
人々が過去に歩いて作った道、のことですよね。昔からある道に
安心しているから、その上を歩くんですよね。疑いもしないで……。

学校の先生さまにお任せして、文科省のてがける教科書さえこなして
いればいい、っていう、日本の親の、甘えがあるんですよね。
日本の親は、学校現場に参加していかない。むしろ、「学校に任せて
おけばいい」と、子どもの教育を放棄していく。だから、突然の「ドロップアウト」
宣言に、半狂乱になるんだと思うんですよね。

もちろん、本当は、突然ではないのでしょうけれど。なんとなく先生と
学校と教科書(文科省)にお任せしているから、突然の通たちに
「反応」できないんですよね。

アメリカのように学校、教科書に信頼がないから、PTAが決めていく。
だからフリースクールが増えていく。そうなると団体行動、社会活動を
学ぶ機会は、ここで大幅に縮小していきます。そういう意味では、
アメリカの学校現場が、健全かどうかというのも疑わしいと思うんです。

コースから外れることへの不安。その不安が、子どもたちの学習内容に
つながっていくエネルギーに代わっていくといいと思います。学習内容
3割削減後、すこし振り子が戻ってきたように。

親と子ども、子どもと学校、先生と子ども、先生と親。
もっと信頼関係のパイプが太く、安心できるものになりますように。

++++++++++++++++++++

【SKさんへ……】

●日本とアメリカ

 去年、アメリカのS州立大学(アーカンソー州)へ行ったときのこと。何とそこには、15歳の大
学生がいました。

 アメリカでは、そこまでできるのですね。アメリカでは、珍しいことではありません。

 が、当の教授や学生たちは、みな、「かわいそうだ」と。

 その15歳の少年は、大学にはいるものの、友だちができないからだそうです。もちろん勉強
するだけの、学生生活(?)。一人の大学生は、こう言いました。「それぞれの年齢で、もっとふ
さわしいことを楽しむべきだ」と。

 いろいろ意見は、あるようです。

 そうそうもう一人、その大学で講師をしている人の息子(12歳)ですが、学校へは行かず、自
宅で、父親と勉強している子どももいました。住所と名前を教えてもらったので、一度会いたい
と連絡をしたのですが、たがいに時間がとれなくて、そのまま私は、日本へ帰ってきてしまいま
した。

 それについても、一人の大学生は、「かわいそうだ」と言いました。

 アメリカでは、学校へ行かず、自宅で勉強できるホームスクール制度というのが、発達してい
ます。開拓時代からの名残というか、伝統というか……。もともと広大な国なものですから、「学
校」に対する考え方や概念も、日本とは、かなりちがうようですね。

 現在、推定で、ホームスクーラーの数は、200万人を超えたとされています。いろいろと事情
があって、そういう制度が発達したのでしょうが、その子どもについて、「子どもの意思を無視し
てまで、学校へ行かせないというのは、かわいそうだ」と。

 STさんが、ご指摘の「平等」についての考え方には、正直言って、少なからず、ショックを受
けました。

 「個々人の能力に応じた教育の機会を与えるのが、アメリカの平等。能力の幅をできるだけ
感じさせないようにして、みんなに同じ機会を与えようとするのが、日本の平等」という部分で
す。

 もともと日本とアメリカとでは、教育の視点がちがうようですね。日本では、「国あっての民。そ
のための教育」と考えるようです。

 一方、アメリカでは、あの開拓時代から、教育(子どものための学校)は、自分たちが作るの
だというふうに考えるようです。「民あっての、教育であり、国」という考え方なのではないでしょ
うか。

 さらにこの日本では、明治時代以後、いわゆる『従順でもの言わぬ民』づくりが、教育の基本
であったことも事実です。もちろん教育は、だれの目にも必要だったし、日本の社会を変えると
いう意味では、重要な機能を果たしました。

 (最近になって、「現在の日本の繁栄は、そうした明治時代の人たちが築いた基礎があった
からだ」と主張する人がいます。しかしその途中で、日本全土が、空襲で焼け野原になったこと
も、忘れてはなりません。

 そういう人たちは、敗戦直後、日本が焼け野原になったときは、何と言っていたのでしょうか。
日本人は、いつも結果だけをみて、過去を判断します。仏教というより、チベット密教的な宗教
観が、根底にあるからではないかと思っています。)

 だから日本では、教育は、いつも、国(上)から与えられるもの、一方、アメリカでは、教育
は、いつも、民(民衆)のほうから作りあげていくものと考えるようです。しかしこのちがいは、大
きいですね。

 私も、アメリカでは、ごくふつうの公立小学校が、勝手に、入学学年と卒業学年を定めている
のを知り、驚きました。「うちは満4歳児から入学させ、小学3年生で卒業させる」と、です。「州
政府から、指導はないのですか」と、私が聞くと、「一応、学習6領域についての指導はある。し
かしその基準は、きわめてゆるやかなものだ」(P小学校校長)とのこと。

 知れば知るほど、ウーンと、考えさせられることばかりです。

 話は変りますが、意識というのは、そういうものなのですね。日本で生まれ、日本で育つと、
いつの間にか、教育とは、学校とは、そういうものだと教えこまれてしまう。そして、その上で、
意識というか常識まで、作られてしまう。

 立場は逆になりますが、先日もテレビを見ていたら、隣のK国の大学生たちが、こう言ってい
ました。

 「私たちは、自由です。平等です。今は経済的に苦しいときですが、すばらしい国に生まれ
て、幸福です」と。

 本気でそう思っているのか、それとも、何かの圧力があって、そう言わせられているのかは知
りませんが、そのときも、やはり、ウーンと、考えさせられてしまいました。

 そこで、改めて平等論です。
 
●平等

 「能力の差」を認めるのが、平等なのか。「能力の差」をわかりにくくするのが、平等なのか。

 しかしこの問題は、すべての教師が、学校という教育現場で、日夜悩んでいることでもあるよ
うです。

 能力があり、勉強ができる子どもについては、もっと伸ばしてやりたいと考える。しかしその一
方で、勉強が苦手で、できない子どもについては、できるだけ本人が、それを苦しまないように
してあげたいと考える。

 能力のある子どもについては、伸ばしてあげるのが、平等。能力のない子どもについては、
できるだけ本人がキズつかないようにしてあげるのが、平等、と。

 具体的には、私のばあいは、能力のある子どもは、どんどんと飛び級をさせています。本人
の知的好奇心を、満足させてあげる。(決して、エリート意識をもたせるということではありませ
ん。中には、不必要なエリート意識をもってしまう子どもも、いるにはいます。勉強ができない仲
間をバカにしたりする、など。)

 そして勉強ができなくて苦しんでいる子どもには、復習を中心とした学習に切りかえる。ときに
励まし、ときにほめ、ときになぐさめてあげたりする。

 日本の教育法がよいとか、アメリカの教育法がよいとかいうのではないですね。教育を支え
る背景そのものが、ちがいます。

 日本では、学歴が、ものをいう。最近でこそ、かなり様子が変ってきましたが、それでもものを
いいます。こうした学歴を、会社を定年退職してからも、ぶらさげていばっている人は、いくらで
もいます。

 一方、アメリカでは、学歴というよりも、プロ根性。プロ意識。大学生でも、学歴をもつために
勉強するというよりは、その道のプロになるために勉強するという意識が強い……?

 昨年も、アメリカの大学を訪れた、東大のある教授が、こう言って驚いていました。

 「休み時間になると、学生たちが列をつくって、教授室の前に並ぶんですね。みな、質問だ
の、相談だのを、教授にするためです。日本では見たことがない光景だけに、驚きました」と。

 勉強する意識というか、目的そのものがちがう。だから当然のことながら、「平等」に対する考
え方も、ちがいます。それにつけ加えるなら、平等であるから、よいということにもならないので
はないでしょうか。

 みんながリーダーになっても困るし、かたやみんなが、従属者になっても、困る。社会をつくる
ためには、たがいの役割をそれぞれが自覚し、ある種の調和を保たねばならなりません。それ
にだれしも、リーダーになることを望んでいるわけではない。またリーダーになったからといっ
て、幸福になれるというものでもないですし……。

 ただ親の心としては、こういうことは言えます。

 自分の子どもが優秀(?)であるときには、アメリカ型の平等のほうが、よいと考える。一方、
自分の子どもがそうでない(?)ときは、日本型の平等のほうが、よいと考える。このことは、子
どもの自身にとっても、そうではないでしょうか。

 自分の能力を伸ばしきれず悶々としている子どもは、いくらでもいます。そういう子どもにとっ
ては、(親にとってもそうですが)、日本の教育は矛盾だらけです。

 一方、がんばってもがんばっても、学校の勉強についていくだけでも精一杯という子どもも、
いくらでもいます。そういう子どもにとっては、(親にとってもそうですが)、日本の教育は矛盾だ
らけです。

 そこそこにふつうの子ども(?)だけが、そこそこに満足する。それが日本のでいう「コース」の
本質ではないかと、私は思っています。もちろんその背景には、日本人独得の集団意識、さら
には、長くつづいた封建時代とそれにつづく、学歴社会があります。

 日本人は、みなとちがったことをすることを、極端に恐れます。あるいは自分自身も、自分と
ちがったことをしている人を、排斥しようとしたりします。こうした意識が、コース意識となってい
るわけです。

●これからの日本

 ご指摘のように、日本は、今、多くの問題をかかえています。なおすべきところも多いと思い
ます。

 アメリカも、そうです。アメリカの教育が、すべてよいわけではありません。アメリカはアメリカ
で、多くの問題をかかえています。

 しかし日本にせよ、アメリカにせよ、教育の原点は、一つです。子どものために、子どもの立
場で、子どもの未来を考えて、組みたてる、です。そのためにどうあるべきかを考えます。

 子どもを決して、国家の道具にしたり、国家につごうのよいように、作ってはいけないというこ
とです。国がどうあるべきかは、子どもたちが、将来、子どもたち自身が決めることです。また
そういう「自由」は、最後の「砦(とりで)」として残しておいてあげる。それが子どもを育てる私た
ちの責務であるように思います。

 そういう点では、今の日本の教育には、改善すべき点は、多いと思います。が、先にも書い
たように、日本に生まれ、日本で育っていると、それがわからない。が、アメリカの教育をのぞ
いてみると、それがわかる。そういう意味で、SKさんからいただきました情報は、本当に役に
たちました。ありがとうございました。

 これからもよろしくご指導ください。重ねて、お礼申しあげます。
(はやし浩司 アメリカの学校 アメリカ 小学校)
(040601)


【KSさんからの追伸】

はやし先生

KSです。いろいろ、こちらも考える機会をいただいて、
また、自分の経験してきた学校生活を整理することも
できまして、感謝しております。

さて、どうぞ、マガジンに掲載してください。また
一緒に考えてくれるリーダーが、ふえてくれるのを
楽しみにしております。

【はやし浩司よりKSさんへ(2)】

 昨夜、ビデオショップの宣伝につられて、『Kxxx Bxxx』という、和製、アメリカ映画を見まし
た。

一人の若いアメリカ人女性が、自分の夫や子どもを殺されたことを復讐するため、単身、日本
へ乗りこんできて、日本刀で、バサバサとギャングを切りまくるという映画です。

 評価はいろいろあるでしょうが、私にとっては、見るに耐えないというか、ダ作の中でも、超ダ
作。何とか批評をしたいと思って、ほとんど終わりまで見ましたが、最後は、あきれて、カセット
を取りだしてしまいました。

 突発的にキレて、相手のクビを切り落とすシーンなどもありましたが、娯楽と言うよりは、意味
のない、サツバツとした殺戮(さつりく)映画。おまけに構成は、バラバラ。

 おかしな理由づけのために、4年前のシーンに、突然もどったり。冒頭の二人の女性の格闘
シーンの最中では、子どもが学校から帰ってきて、格闘は中断。そのあと、結局は、その子ど
もの前で、母親をナイフで、刺し殺してしまったり……。

 まあ、はっきり言って、メチャメチャ。

 私は、その映画を見ながら、「日本の映画も、この程度なのかな」と思ってみたり、「これで完
全に、韓国映画、インド映画に敗れた」と思いました。あるいは、「どういう人たちが、こんな映
画をおもしろいと思って見るのかなあ?」とも。

 そう、韓国映画の充実ぶりは、すごいですね。あちこちの大学にも、演劇科があり、いわゆる
アメリカ流の(自然な演技)を、指導しています。

 かたや日本は、どうか? 一部の文化的権威者(たいていは、マスコミで売れている著名人)
が、頂点に君臨し、「これが映画です」というような映画ばかり作っている。この「Kxxx Bxxx」
も、その一つかもしれません。

この映画は、まさに日本の(映画文化)を、象徴していると思いませんか。

 いまだに、日本を、外国から見ると、「奇異な国」という感じがします。「どこか、おかしい」「ど
こか、ふつうでない」という感じです。外国から見ると、どうもわけがわからない。日本人の表情
が見えてこないというか、人間性が伝わってこないというか……。

 その(おかしさ)(ふつうでなさ)に、いつ私たち日本人が気づくかということです。でないと、い
つまでたっても、日本人は、「異質な民族」として、世界のスミに追いやられてしまうのではない
でしょうか。

 「Kxxx Bxxx」を見ていて、それを強く感じました。

【追伸】

●飛び級について

私は、私の生徒について、よく飛び級をさせる。子ども本人に、その能力があり、やる気があ
り、そのとき、どんどん伸びている状態のときは、飛び級をさせる。

 今までに、小学5年生の子ども(OI君)を、高校1年生のクラスで教えたことがある。小学4年
生子ども(NK君)を、中学3年生のクラスで教えたこともある。現在の今でも、2〜4年、飛び級
している子どもは、10人近くいる。

 その飛び級をさせるとき、いつも悩むのは、その子どもの能力というより、つぎの2点である。

(1)精神力は、じゅうぶんあるか?
(2)人格は、どうか?

 飛び級というのは、子ども自身が納得していないばあいは、してはいけない。子ども自身が、
それを望んでいれば、よし。そうでなければ、飛び級しても、長つづきしない。私や親だけの意
向で決めてはいけないということ。

 子ども自身が納得しているばあいには、それが精神力となって発揮される。

 反対に、精神力がじゅうぶんでないと、何かのことで、つまずいたようなとき、それが挫折感と
なって、子どもにはねかえってくる。

 飛び級のこわいところは、ここにある。

 飛び級したあと、学力の伸びが停滞するときがある。そういうとき、教える側は、「またもとの
学年にもどしたい」と考える。しかしもどすのは、簡単ではない。親が、猛烈に反発する。子ども
自身も、大きく、キズつく。

 だから精神力がじゅうぶんでない子どもは、安易に飛び級させてはいけない。

 つぎに飛び級をさせると、中には、おかしなエリート意識をもつ子どもがいる。エリート意識を
もつ一方で、おかしな優越感をもつ。そしてほかの子どもをバカにしたり、軽んじたりする。

 そういう子どもに接すると、人間的な嫌悪感を覚える。で、私はそういう子どもの、横柄な態
度をいましめるのだが、それで自分を改める子どもは、まず、いない。そのときは、「ごめん」と
か、「わかった」とか言うが、またしばらくすると、「お前は、ぼくより年上なのに、こんなこともで
きないのか! バカだなあ」などと、平気で言ったりする。

 「勉強さえできれば、優秀」と思いこんでいる子どもについては、いくら勉強がよくできても、そ
んなわけで、飛び級させることに、どうしても慎重にならざるをえない。




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●母親、4タイプ

 親が、子どもに感ずる愛には、3種類ある。(1)本能的な愛、(2)代償的愛、(3)真の愛。

 本能的な愛というのは、母親が本能として感ずる愛のことをいう。たとえば赤ん坊を抱いたと
き、母親は、いたたまれないほどの、いとおしさを感ずる。それが本能的な愛。

 代償的な愛というのは、親自身の心のすきま(情緒的不安定、未熟、精神的未完成)を埋め
るために、子どもを利用することをいう。身勝手で、自己本位な愛。

 真の愛というのは、人間として子どもを愛することをいう。無条件の愛ともいう。見かえりを求
めない、献身的な愛をいう、

 本能的愛は別にして、(2)の代償的愛、(3)の真の愛のあるなしで、母親は、つぎの4タイプ
に分けられる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
               |   代償的愛    |   真の愛
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(1)溺愛型ママ       |  ○(ある)    |  ○(ある)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(2)真の母親型ママ     |  ×(ない)    |  ○(ある)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(3)ストーカー型ママ    |  ○(ある)    |  ×(ない)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(4)フレンド型ママ     |  ×(ない)    |  ×(ない)
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

(1)溺愛型ママ

 溺愛型ママには、愛情がないわけではない。子どもへのあふれんばかりの愛情はある。しか
し同時に、自分の情緒的未熟性や、精神的欠陥により、その愛に溺れてしまう。そして子ども
を自分の思いどおりにしたいという欲求に、ブレーキをかけられなくなってしまう。

(2)真の母親型ママ

 子どもを一人の人間として見ながら、子どもを愛する。もともと人を愛することには、強烈な孤
独がともなう。その孤独に耐えるのが、真の愛ということになる。

 たとえばあなたの夫(あるいは妻)に、すばらしい愛人ができたとする。あなたの夫(妻)は、
その愛人と生活を始めたいと言い、またそのほうが夫(妻)も幸福になれると、あなたも思う。
そういうとき、あなたはあなたは、どう判断するだろうか。あなたはあなたの夫(妻)を愛するが
ゆえに、あなたの夫(妻)と別れることができるだろうか。

 「あなたの本当の幸福のために、私は引きさがります。どうかその女性(男性)と、幸福になっ
てください」と。

 ここに書いたのは、少し極端な例かもしれないが、親子の間では、似たような状況に追いこま
れることがある。そのとき、あなたは、どうするだろうか?

(3)ストーカー型ママ

 このタイプの母親をもつと、子どもにとっては、まさに悲劇でしかない。子どもそのものが、母
親の奴隷となってしまう。これは極端な例だが、息子が外国へ行っている間に、息子の財産を
食いつぶしてしまった母親さえいる。「親が、(先祖を守るために)、息子の貯金を使って、何が
悪い!」と。

 あるいは結婚して家を出た一人娘に対して、「地獄へ落ちろ。死んでからも、お前をのろって
やる」と脅迫していた母親もいる。

 これらは現実にあった話である。そうでない母親をもっている人には、信じられない話かもし
れない。が、現実には、そういう母親もいる。「母親だから、そういうことはしないはず」と考える
のは、あまりにも、甘い。

(4)フレンド型ママ

 子どもに愛情を感じない母親は、7〜10%はいる。「どうしても、自分の子どもを好きになれ
ない」「弟はかわいいと思うが、兄が、好きになれない」など。だから子どもを愛せないからとい
って、決して自分を責めてはいけない。

 「私は私」「あなたはあなた」と割りきることで、むしろサバサバとした子育てができる。子ども
を、子どもとしてみるのではなく、友としてみる。親子という関係にこだわることはない。

 子どもにとっては決して望ましいタイプの母親とは言えない。が、かえってそういう母親をもっ
たがため、たくましく、自立していく子どもも多い。もちろん子どもの心のどこかに、(空白部分)
ができることは考えられる。しかしそれは子ども自身の努力によって、決して克服できない空白
ではない。

 もしあなたが、このタイプの母親なら、「私は、まあ、こんなものだ」と割りきって、子育てをす
ればよい。気負うことはない。サバサバと子育てをすればよい。
(040601)
(はやし浩司 母親4タイプ 四タイプ 代償的愛 真の愛)



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●家族の問題

●問題のない家族

 例外なく、問題の家族は、いない。金持ちも、貧乏人もない。地位や肩書きの、あるなしも、
関係ない。どんな家族も、それこそすべて、何らかの問題をかかえている。それも、それぞれ
の家族にとっては、深刻な問題ばかり。

 一見、他人の家族には問題がないように見える。しかしそれは、そう見えるだけ。だれも、自
分の家族の問題を話さない。話す必要もない。意図的に隠すことも多い。だから、外からはわ
からない。見えない。

 ほとんどの人は、自分の家族の中で問題が起きたりすると、「どうして私だけが……」と思う。
自分の運命や境遇を、のろったり、うらんだりする。

 ある母親の子どもは、20歳を過ぎてから、うつ病を発症し、そのまま家の中に引きこもってし
まった。
 
 その子どものことで、病院へ行き、その待合室で待っていたとき、その母親は、こう思ったと
いう。「どうして、うちの子だけが……」と。

 そう思うのは、ごく自然なこと。そこでそういうときは、まず、二つのことを頭に置く。

 一つは、問題があるという前提で、生きるということ。生きることには、問題はつきもの。もし
今、あなたが「うちには問題がない」とい思っているなら、それこそつかの間の休息。ゆっくり
と、それを楽しめばよい。

 もう一つは、仮にその問題で悩んでいるとしても、それが最悪ではないということ。さらにその
下には、二番底、三番底がある。そしてあなたが上から落ちてくるのを、「おいで、おいで」と言
いながら、待っている。

 そういう意味で、人生というのは、薄い氷の上を、恐る恐る、歩くのに似ている。ちょっと油断
すると、すぐ氷は割れて、私たちはその下へと落ちていく……。

 子どもの問題とて、例外ではない。子どものできがよければよいで、悪ければ悪いで、親は
そのつど、悩んだり、苦しんだりする。これは子育てのまつわる宿命のようなもの。子育てをす
る以上、親は、その宿命から逃れることはできない。

 では、どうするか?

【人生は、下から見る。子どもは、下から見る】

 「下を見ろ」というのではない。下から、見る。もっと言えば、「生きている」という原点に視点を
置いてみる。「ああ、生きているではないか」と。

 その視点から見ると、ほとんどの問題は、そのまま解決する。

【すべてを、あきらめ、あとは許して、忘れる】

 「そんなはずはない」「まだ何とかなる」と思っている間は、安穏たる日々はやってこない。子
どもも、伸びない。しかし反対に、「まあ、うちの子は、こんなもの」と思ったとたん、気が楽にな
る。子どもの表情も、明るくなる。

 そしてここが子どもの不思議なところだが、親が、そうあきらめたとたん、子どもというのは、
伸び始める。

【他人の子どもに、やさしく】

 自分の子どものことで悩むというのには、実は二面性がある。一つは、自分の子どもに問題
があることを悩む。それはそのとおり。

 が、もう一つの面がある。それは「問題のある子どもを認めない」という自分自身の中に潜
む、邪悪な一面である。

 わかりやすい例で考えてみよう。

 ことさら子どもの学歴にこだわる親がいる。だから子どもの成績(でき、ふでき)に、異常なま
でに神経質になる。

 では、なぜそうなるかといえば、そういう親にかぎって、日ごろから、他人を学歴で判断してい
ると思ってよい。あるいは学歴のない人を、下に見ていると思ってよい。

 人というのは、自分がもつコンプレックス(劣等感)を、裏がえす形で、それに気づかないま
ま、その問題に振りまわされやすい。私がここでいう、(もう一つの面)というのは、それをいう。

 だから、自分の子どものことで悩むのはしかたないとしても、本当にそれと戦うためには、もう
一つの面とも、戦わねばならない。「どうしてうちの子は勉強ができないのか」「こんなことでは、
いい中学へ入れなくなってしまう」と悩んだら、同時に、自分の中に潜む、邪悪な面とも戦う。

 が、これがむずかしい。自分の中に、そういう邪悪な一面があることに気づくだけもむずかし
い。

 で、どうするかといえば、日ごろから、他人や他人の子どもに、暖かくするということ。やさしく
するということ。問題のある人や子どもを理解し、そういった人たちを、自分の中に受け入れて
いくということ。

 その結果として、その邪悪な一面を、自分の中から消すことができる。そしてそれがあなたの
かかえる問題を、根本から、解決する。

【補足】

 ここに書いた話は、わかりにくい話なので、もう少し補足しておく。

 親がかかえる問題には、(表の問題)と、(裏の問題)がある。私は、このことを、ある老人の
話を聞いたときに知った。

 その老人(女性、82歳)は、そのとき体も弱くなり、介護なしでは、トイレにも行けないような
状態になっていた。

 そこでその娘が、その老人を、自分の家に引き取ろうとした。が、その老人は、がんとしてそ
れを拒否した。

 「私は、どんなことがあっても、この家を出ない!」と。

 みなは、住み慣れた家だから、その老人はそう言うのだと思っていた。私も、そう思ってい
た。が、その娘にあたる女性は、私にこう話してくれた。

 「母が、今の家を出たがらない本当の理由が、別にあるのです。実は、母は、若いときから、
その町から出て行く人を、心底、軽蔑し、いつもあざ笑っていました。それで自分が、今度は反
対に、そうなるのを、いやがっているのです」「本当のところは、だれも、笑ってはいないので
す。つまり母は、自分がつくった妄想に、とりつかれているだけです」と。

 こうした例は、子育ての場でも、よく経験する。それが先に書いた、学歴の話である。

 ある母親は、いつも他人を、その出身高校で判断していた。(このH市では、学歴で人を判断
する傾向が強い。)「あの人は、C高校なんですってね」「あの人は、A高校を出たのに、あの程
度の人なんですね」と。

 自分自身は、市内でもナンバー2と言われているB高校を卒業していた。

 で、自分の娘がいよいよ高校受験となったときのこと。が、娘には、その力がなかった。だか
ら毎晩のように、「勉強しなさい!」「ウルサイ!」の大乱闘を繰りかえしていた。

 子どものことで何か問題を感じたら、その問題もさることながら、私がここでいう(もう一つの
面)についても、考えてみるとよい。「なぜ、その問題で悩むのか」と。

 先にも書いたように、(もう一つの面)というのは、なかなか姿を現さない。しかし一度、その正
体を知れば、あとは時間が解決してくれる。

 そういう冷めた見方も、ときには、必要ということである。
(040602)
(はやし浩司 子どもの問題 家族の問題)



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●暴力について

●S県での、小学6年生による、傷害致死事件

 数日前、S県のある小学校で、小学6年生の女子が、同級生の子どもをカッターナイフで切り
つけ、その子どもを殺してしまうという事件が発生した。

 たいへんショッキングな事件で、連日、マスコミは、この事件を報道しつづけている。たまたま
昨日(6・4)、隣のT町の小学校で、講演をしたが、そこでも、話題といえば、この話ばかり。

 で、その事件を受けて、文部科学省は、全国の小中学校に対して、改めて、「命の大切さを
教える指導」を、徹底したという。

 が、この通達は、どこか、的ハズレ(失礼!)。今回の事件は、その子どもが、命の大切さを
知らなかったから起こした事件とは、言えない。反対に、それを知っていたからといって、防げ
た事件とも、言えない。問題の「根」は、もう少し深いところにあるのではないか。

 私は、こう考える。

 人間のあらゆる行動は、行動命令とそれを抑制する、抑制命令の二つによって、コントロー
ルされる。しかしその行動の原動力となる、人間の意思も、実は、この二つによって、コントロ
ールされる。

 たとえば自分にとって不愉快な場面に遭遇(そうぐう)したとき、「怒って、相手を怒鳴ってやろ
う」と考える一方で、「よせよせ、そんなヤツ相手にしても、ムダ」と考えることがある。

 「怒鳴ってやろう」と考えるのが、ここでいう行動命令ということになる。そして「よせよせ」と、
自分をたしなめるのが、抑制命令ということになる。

 今、何らかの理由で、その抑制命令がきかない子どもがふえている。カッとなると、興奮状態
になり、突発的な行動に走ったりする。その動きが鋭いことから、まさに、「キレる」という状態
になる。

 今回のS県での事件を見ていると、(あくまでもマスコミによる報道の範囲内での話だが…
…)、犯行を犯した女子は、その抑制命令が、うまく機能しなかったのではないかと思う。

 その原因については、これから追々、究明されていくだろう。社会不安がその背景にあるとも
考えられるし、さらに環境ホルモン(内分泌かく乱化学物質)による、脳の微細障害説を唱える
学者もいる。さらに脳間伝達物質(セロトニン)の異常分泌説を唱える学者(岩手大学、大沢教
授ほか)もいる。

 昨日(6・5)の報道によれば、その少女は、何かの自己紹介で、映画『バトルロワイヤル』が
好きと書いていたという。ああした愚劣な暴力映画を、子どもたちの世界で野放しにしておいた
私たちにも、責任がないとは言えない。

 子どもの心を落ちつかせるためには、とりあえず、食生活に注意を払ってみたらよい。

 以前、「キレる」ことに関連して、こんな原稿を書いた。

+++++++++++++++++++++++++++

●躁状態における錯乱状態 

 子どもたち(小三児)を並べて、順に答案に丸をつけていたときのこと。それまでF君は、まっ
たく目立たないほど、静かだった。が、あと一人でF君というそのとき、F君が突然、暴れ出し
た。突然というより、激変に近いものだった。

ギャーという声を出したかと思うと、周囲にあった机とイスを足でけって、ひっくり返した。瞬間
私は彼の目を見たが、それは恐ろしいほど冷たく、すごんでいた……。

 キレる状態は、心理学の世界では、「躁(そう)状態における精神錯乱」(長崎大・中根允文氏
ほか)と位置づけられている。

躁うつ病を定型化したのはクレペリン(ドイツの医学者・一八五六〜一九二六)だが、一般的に
は躁状態とうつ状態はペアで考えられている。周期性をもって交互に、あるいはケースによっ
ては、重複して起こることが多い。

それはそれとして、このキレた状態になると、子どもは突発的に凶暴になったり、大声でわめ
いたりする。(これに対して若い人の間では、ただ単に、激怒した状態、あるいは怒りが充満し
た状態を、「キレる」と言うことが多い。ここでは区別して考える。)

●心の緊張状態が原因

 よく子どもの情緒が不安定になると、その不安定の状態そのものを問題にする人がいる。し
かしそれはあくまでも表面的な症状にすぎない。

情緒が不安定な子どもは、その根底に心の緊張状態があるとみる。その緊張状態の中に、不
安が入り込むと、その不安を解消しようと、一挙に緊張感が高まり、情緒が不安定になる。

先のF君のケースでも、「問題が解けなかった」という思いが、彼を緊張させた。そういう緊張状
態のところに、「先生に何かを言われるのではないか」という不安が入りこんで、一挙に情緒が
不安定になった。

言いかえると、このタイプの子どもは、いつも心が緊張状態にある。気を抜かない。気を許さな
い。周囲に気をつかうなど。表情にだまされてはいけない。柔和でおだやかな表情をしながら、
その裏で心をゆがめる子どもは少なくない。

これを心理学の世界では、「遊離」と呼んでいる。一度こういう状態になると、「何を考えている
かわからない子ども」といった感じになる。 

●すなおな子ども論

 従順で、おとなしい子どもを、すなおな子どもと考えている人は多い。しかしそれは誤解。教
育、なかんずく幼児教育の世界では、心(情意)と表情が一致している子どもを、すなおな子ど
もという。

うれしいときには、うれしそうな表情をする。悲しいときには悲しそうな表情をする。不愉快なと
きは、不愉快そうな顔をする。そういう子どもをすなおな子どもという。

しかし心と表情が遊離すると、それがチグハグになる。ブランコを横取りされても、ニコニコ笑
ってみせたり、いやなことがあっても、黙ってそれに従ったりするなど。中に従順な子どもを、
「よくできた子ども」と考える人もいるが、それも誤解。

この時期、よくできた子どもというのは、いない。つまり「いい子」ぶっているだけ。このタイプの
子どもは大きなストレスを心の中でため、ためた分だけ、別のところで心をゆがめる。よく知ら
れた例としては、家庭内暴力を起こす子どもがいる。このタイプの子どもは、外の世界では借
りてきたネコの子のようにおとなしい。

●おだやかな生活を旨とする

 キレるタイプの子どもは、不安状態の中に子どもを追い込まないように、穏やかな生活を何
よりも大切にする。乱暴な指導になじまない。あとは情緒が不安定な子どもに準じて、(1)濃厚
なスキンシップをふやし、(2)食生活の面で、子どもの心を落ちつかせる。カルシウム、マグネ
シウム分の多い食生活に心がけ、リン酸食品をひかえる(※)。

リン酸は、せっかく摂取したカルシウムをリン酸カルシウムとして、体外へ排出してしまう。もち
ろんストレスの原因(ストレッサー)があれば、それを除去し、心の負担を軽くすることも忘れて
はならない。

※……今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。たとえば、ハム、ソーセージ(弾力
性を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けても流
れず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせず、
歯ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味をおだ
やかにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水によく
溶けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。

●人工的に調合するのは、不必要

ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分な食物を生み
出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなどということは、不必要
なことである」と。

つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化物にさまざまな添加物を加えた食品(ジャ
ンク・フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジャンクフードは)疲
労、神経のイライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコール処理不能、アレルギーな
どの原因になっている」とも。

+++++++++++++++++++++

3年ほど前に、こんな原稿を書いた。

東京都や、日本を代表する文化人として、東京都や
フランス政府から表彰されているBT氏を批判するのも
勇気がいることだが、しかしみなさん、もう一度、
本当にああいう人たちを、文化人と呼んでいいのか、
自分に問いかけてみよう。

+++++++++++++++++++++ 

●映画『バトルロワイヤル』

暴力番組を考えるとき  

●まき散らされたゴミ

 ある朝、清掃した海辺に一台のトラックがやってきた。そしてそのトラックが、あたり一面にゴ
ミをまき散らした……。

 『バトル・ロワイヤル』という映画が封切られたとき、私はそんな印象をもった。どこかの島で、
生徒どうしが殺しあうという映画である。

これに対して映倫は、「R15指定」、つまり、一五歳未満の子どもの入場を規制した。が、主演
のB氏は、「入り口でチン毛検査でもするのか」(テレビ報道)とかみついた。監督のF氏も、「戦
前の軍部以下だ」「表現の自由への干渉」(週刊誌)と抗議した。しかし本当にそうか?

 アメリカでは暴力性の強い映画や番組、性的描写の露骨な映画や番組については、民間団
体による自主規制を行っている。

【G】   一般映画
【PG】  両親の指導で見る映画
【PG13】一三歳以下には不適切な映画で、両親の指導で見る映画
【R】   一七歳以下は、おとなか保護者が同伴で見る映画
【NC17】一七歳以下は、見るのが禁止されている映画、と。

 アメリカでは、こうした規制が一九六八年から始まっている。が、この日本では野放し。先日
もビデオショップに行ったら、こんな会話をしている親子がいた。

子(小三くらいの男児)「お母さん、これ見てもいい?」
母「お母さんは見ないからね」
子「ううん、ぼく、ひとりで見るから……」
母「……」と。

見ると、殺人をテーマにしたホラー映画だった。

●野放しの暴力ゲーム

 映画だけではない。あるパソコンゲームのカタログにはこうあった。「アメリカで発売禁止のソ
フトが、いよいよ日本に上陸!」(SF社)と。銃器を使って、逃げまどう住人を、見境なく撃ち殺
すというゲームである。

 もちろんこうした審査を、国がすることは許されない。民間団体がしなければならない。が、そ
のため強制力はない。つまりそれに従うかどうかは、そのまた先にある、一般の人の理性と良
識ということになる。

が、この日本では、これがどうもあやしい。映倫の自主規制はことごとく空洞化している。言い
かえると、日本にはそれを支えるだけの周囲文化が、まだ育っていない。先のB氏のような人
が、フランス政府や東京都から、日本や東京都を代表する「文化人」として、表彰されている!

 海辺に散乱するゴミ。しかしそれも遠くから見ると、砂浜に咲いた花のように見える。そういう
ものを見て、今の子どもたちは、「美しい」と言う。しかし……、果たして……?

(参考)
●テレビづけの子どもたち

「ファミリス」の調査によれば、小学三、四年生で四五・七%の子どもが、また小学五、六年生
で五九・三%の子どもが、それぞれ毎日二時間以上もテレビをみているという。

さらに小学三、四年生で七一%の子どもが、また小学五、六年生で八三・三%の子どもが、そ
れぞれ毎日一時間以上もテレビゲームをしているという(静岡県内一〇〇名の児童について
調査・二〇〇一年)。

さらに二時間以上テレビゲームをしている子どもも、三、四年生で一九・三%、五、六年生で四
一・七%! 

これらのデータから、約六〜七割前後の子どもが、毎日三時間程度、テレビを見たり、テレビ
ゲームをしていることがわかる。

+++++++++++++++++++++

【終わりに……】

 同類の映画に、和製、アメリカ映画の『Kill Bill』がある。意味のない、まったく意味のない、
人を殺すだけの殺戮(さつりく)映画である。

 突発的に、キレ、突発的に、バサバサと人の首を切り落とす。手や足を切り落とす。そんな映
画である。冒頭に、「この映画を、FK監督(バトルロワイヤルの制作監督者)に捧げる」という
ような字幕が流れる。

 私も、美しいパッケージにだまされて(?)、そのビデオを借りてしまった。見てしまった。

 あえて、批評しよう。

(1)子どもの前での殺戮(さつりく)

 二人の女性が、家の中で、殺しあう。そこへその中の一人の女性の娘が、学校から帰ってく
る。で、二人は、殺しあいを停止する。実にわざとらしい演技。

 が、結局は、二人はまた殺しあう。最後に、一人の女性が、娘の母をナイフで殺す。

(2)暴力団の首を切り落とす

 一人の暴力団の親分が、新しい女親分を批判する。そういう会合の席で、突然、その女親分
が、キレて、テーブルの上におどり出たかと思うと、刀を振りまわし、その親分の首を、ばさっと
切り落とす。クビがゴロゴロと、テーブルの上で、ころがる。

(3)無駄な殺戮

 主人公が、ハットリ・ハンゾウという男に刀をつくってもらい、その刀で、暴力団と戦う。相手
は、数百人(?)。バッサバッサと、その相手を切り倒す。意味のない、まったく意味のない殺
戮、また殺戮。しかもどのシーンも、残虐(ざんぎゃく)!

 たしか舞台は、東京。季節は、夏とは言わないが、少なくとも、冬ではない。主人公の女性が
バイクに乗って、料亭へ乗りこむところまでは、冬ではない。しかし部屋を出ると、そこは雪景
色。最後は、その雪景色の日本庭園で、二人の女性が死闘を繰りかえす……。

(4)不自然な構成

 残虐シーンの連続もさることながら、ときどき、そういう殺戮を正当化するために、4年前のシ
ーンにもどる。途中、アニメで、ごまかす。

 「どうしてそこまで殺しあうのか?」という、疑問が、そのつど、現れては消える。構成が、実に
不自然。

 さらに、植物人間となって、病院で寝ている女性を、強姦(ごうかん)しようとするシーンさえ出
てくる。何とも、おぞましい発想。ぞっとするほど、おぞましい発想。人間が、人として、最後の
最後までしてはならない行為。それをつぎつぎと、見せつけられる。

 が、この映画には、『バトルロワイヤル』のように、映倫のアミはかかっていない。しかしこん
な映画を、子どもが見たら、その子どもは、どんな印象をもつだろうか。どんな死生観をもつだ
ろうか。

 学生時代、オーストラリアで、『風林火山』という映画を見た。日本の領事館主催の映写会だ
った。

 半数が日本人だったが、残りの半数は、オーストラリア人だった。オーストラリア人の子ども
たちも、何割かいた。

 その映写会でのこと。

 サムライが、目に矢を受けて倒れるシーンがあった。その瞬間、会場に、ギャーという悲鳴が
走った。オーストラリア人の親たちは、あわてて子どもの目を押さえた。そのままあたりは、騒
然となってしまった。映写会は、中止!

 日本では何でもない映画なのかもしれないが、オーストラリアではそうではない。そういう常識
のちがいというか、どうすれば、日本も、そうした常識をつくることができるだろうか。いろいろと
考えさせられる。

 しかし……。一度、こわれた常識を取りもどすのは、容易ではない。今回のS県で起きた、小
学生による小学生の殺害事件の背景には、こうしたこわれた常識がある。それが原因のすべ
てとは言わないが、関係ないとは、もっと言えない。私たちも、反省すべき点は、おおいに反省
しなければならない。

【母親たちへ……】

 子どもの心を守るのは、結局は、私たち一人ひとりの親であるということ。国でもない。映倫
でも、テレビ局でもない。私たち一人ひとりである。

 これはあくまでも、提案だが、こんなことに注意してみたら、どうだろうか。

(1)低劣番組(文化)の追放

 見るからに低劣なテレビタレントたちが、今夜も、夜の番組をにぎわしている。まずその低劣
性に、まず気がつこうではないか。

 一見、価値ある情報を流しているように見えるときもあるが、一度、「それを知ったからといっ
て、どうなのか?」という視点でながめてみてはどうだろうか。

(2)私たちの中にひそむ、隷属性に気づこう

 この浜松でも、「東京からきた」というだけで、何でもありがたがる傾向が、たいへん強い。こ
うした隷属性というか、劣等感に、まず気がつこうではないか。

 私も、ああしたタレントの世界を知らないわけではない。しかし彼らは、いつも、こう言ってい
る。「東京で有名になって、地方で稼げ」と。それが合言葉にもなっている。

 少し知名度があがると、地方へやってきては、お金を稼ぐ。

(3)「東京」という、関東地方の一地方都市文化

 日本では、東京という関東地方の一地方都市文化が、日本中の文化を牛耳(ぎゅうじ)ってい
る。このおかしさに、私たちは、まず気がつこうではないか。

 「中には……」という言い方はしたくない。しかしその大半は、私たちが手本としなければなら
ないような文化ではない。低劣で低俗。日本人が本来的にもっているはずの、温もりすら感じさ
せない。それに、まず気がつこうではないか。

 ただ一方的に、まさに洪水のように、東京から地方へ、巨大なマスコミのネットワークを通し
て、おかしな文化(?)が流れこんでくる。この異常性に、まず気がつこうではないか。

 少し頭が熱くなったが、こうした中央集権意識は、奈良時代の昔から日本人が、心の中に、
もっているもの。徹底的に、植えこまれたもの。

それを改めるのは、容易ではない。それはわかっているが、しかしこのまま何もしないでいると
いうのも、これまたおかしなことではないのか。
(040605)




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●宇宙のロマン

●夏の夜のロマン、UFO

【息子からのメール】

まず、息子(二男、アメリカ在住のメールを紹介する。

+++++++++++++++++++++

父が、月にやアポロ計画に関する不自然な点に関する情報を載せたサイトのアドレスを僕にく
れた。なかなか面白い情報だと思った。

20世紀のはじめにロウェル、ジオバー二、といった天文学者が始めて精密な火星の表面を記
録したとき、表面に見える沢山の筋は火星人が建設した巨大な運河の跡だと考えられてい
た。星の並び方に星座をみたり、月にウサギが見えるのと同じように、人間は無秩序の中にあ
る偶然の秩序を想像豊かに説明してきた。 

僕は子供のころ、月が地球とまったく同じように自転しているのは、実に不自然だなと思ったの
を覚えている。自然ならちょっとずつずれるはずだと思ったし、月の裏が地球から見えないの
は宇宙人か誰かが微調整している結果だとも思った。 

大学で物理学が専攻だったこともあって、そういった多くの「なぜ」に証拠と説明のしかたを学
んだ。(とりあえず月が地球と同じスピードで自転するのは、地球の潮汐力が共鳴現象を起こ
しているから。)

この前書いたとおり、僕は分からないことがあっても、それがロマンにつながるようなことはもう
ほとんどない。大学で、何か未知なことがあってもそれが僕が期待すること(宇宙人が地球に
来ているとか)である可能性が、どれだけ少ないかということを学んだせいだと思う。 

++++++++++++++++++++

【はやし浩司より】

 二男は、UFOというものを、まったく、100%、信じていない。ときどき、UFOの話をもちかけ
るが、いつもどこか、喧嘩ごしのようになってしまう。

 要するに、何を基準にして話すかだが、私とワイフは、ある夜、巨大なUFOを目撃している。
私たちは、まず、そこから話を始める。

 以下は、このマガジンでも、何度もとりあげた、記事(中日新聞に掲載済み)の原稿である。
まず、それを読んでほしい。

++++++++++++++++++++

●UFO

 ワイフとUFOを見たときの話は、もう一度、ここに転載する。繰り返すが、私たちがあの夜見
たものは、絶対に飛行機とか、そういうものではない。それに「この世のもの」でもない。飛び去
るとき、あたかも透明になるかのように、つまりそのまま夜空に溶け込むかのようにして消えて
いった。飛行機のように、遠ざかりながら消えたのではない。

 私はワイフとその夜、散歩をしていた。そのことはこの原稿に書いたとおりである。その原稿
につけ加えるなら、現れるときも、考えてみれば不可解な現れ方だった。この点については、
ワイフも同意見である。

つまり最初、私もワイフも、丸い窓らしきものが並んで飛んでいるのに気づいた。そのときは、
黒い輪郭(りんかく)には気づかなかった。が、しばらくすると、その窓を取り囲むように、ブーメ
ラン型の黒いシルエットが浮かびあがってきた。そのときは、夜空に目が慣れてきたために、
そう見えたのだと思ったが、今から思うと、空から浮かびあがってきたのかもしれない。つぎの
原稿が、その夜のことを書いたものである。

++++++++++++++++++
 
●見たぞ、UFO!

 見たものは見た。巨大なUFO、だ。ハバが1、2キロはあった。しかも私とワイフの二人で、
それを見た。見たことはまちがいないのだが、何しろ30年近くも前のことで、「ひょっとしたら…
…」という迷いはある。が、その後、何回となくワイフと確かめあったが、いつも結論は同じ。「ま
ちがいなく、あれはUFOだった」。

 その夜、私たちは、いつものようにアパートの近くを散歩していた。時刻は真夜中の一二時を
過ぎていた。そのときだ。何の気なしに空を見あげると、淡いだいだい色の丸いものが、並ん
で飛んでいるのがわかった。

私は最初、それをヨタカか何かの鳥が並んで飛んでいるのだと思った。そう思って、その数を
ゆっくりと数えはじめた。あとで聞くとワイフも同じことをしていたという。が、それを五、六個ま
で数えたとき、私は背筋が凍りつくのを覚えた。その丸いものを囲むように、夜空よりさらに黒
い、「く」の字型の物体がそこに現れたからだ。

私がヨタカだと思ったのは、その物体の窓らしきものだった。「ああ」と声を出すと、その物体は
突然速度をあげ、反対の方向に、音もなく飛び去っていった。

 翌朝一番に浜松の航空自衛隊に電話をした。その物体が基地のほうから飛んできたから
だ。が、どの部所に電話をかけても、「そういう報告はありません」と。もちろん私もそれがUFO
とは思っていなかった。私の知っていたUFOは、いわゆるアダムスキー型のもので、UFOに、
まさかそれほどまでに巨大なものがあるとは思ってもみなかった。

が、このことを矢追純一氏(現在、UFO研究家)に話すと、矢追氏は袋いっぱいのUFOの写真
を届けてくれた。当時私はアルバイトで、日本テレビの「11PM」という番組の企画を手伝って
いた。矢追氏はその番組のディレクターをしていた。あのユリ・ゲラーを日本へ連れてきた人で
もある。

私とワイフは、その中の一枚の写真に釘づけになった。私たちが見たのと、まったく同じ形のU
FOがあったからだ。

 宇宙人がいるかいないかということになれば、私はいると思う。人間だけが宇宙の生物と考
えるのは、人間だけが地球上の生物と考えるくらい、おかしなことだ。そしてその宇宙人(多
分、そうなのだろうが……)が、UFOに乗って地球へやってきても、おかしくはない。

もしあの夜見たものが、目の錯覚だとか、飛行機の見まちがいだとか言う人がいたら、私はそ
の人と闘う。闘っても意味がないが、闘う。私はウソを書いてまで、このコラムを汚したくない
し、第一ウソということになれば、私はワイフの信頼を失うことになる。

 ……とまあ、教育コラムの中で、とんでもないことを書いてしまった。この話をすると、「君は
教育評論家を名乗っているのだから、そういう話はしないほうがよい。君の資質が疑われる」と
言う人もいる。

しかし私はそういうふうにワクで判断されるのが、好きではない。文を書くといっても、教育評論
だけではない。小説もエッセイも実用書も書く。ノンフィクションも得意な分野だ。東洋医学に関
する本も三冊書いたし、宗教論に関する本も五冊書いた。うち四冊は中国語にも翻訳されてい
る。

そんなわけで私は、いつも「教育」というカベを超えた教育論を考えている。たとえばこの世界
では、UFOについて語るのはタブーになっている。だからこそあえて、私はそれについて書い
てみた。

+++++++++++++++++++++

【後日談】

 この記事を新聞で発表してから、ほぼ1年後のこと。ある会場で講演を終えると、ロビーに一
人の男性が、この記事をもって、立っていた。市内で、鍼灸医院を経営する、B氏という名前の
男性だった。

 B氏は、こう言った。

 「私も弟と二人で、同じものを、見ました」と。

 そのあと、B氏とは、何度も会っている。そしてたがいに見たものを、何度も話しあっている。
そのB氏も、こう言った。「現れ方も、消え方も、とても、この世のものとは、思われませんでし
た」と。

 飛行機が遠ざかって消えていくような消え方ではない。それは私たちが見たUFOもそうだっ
たが、空に溶けこむようにして、消えていったという。「溶けこむように」だ。

 「飛行機だったら、遠くへ飛んでいき、だんだん見えなくなって消えていきますよね。しかし私
が見たUFOは、グニャグニャと形を崩し、そのまま夜空に溶けるこむようにして、上昇しながら
消えていきました」と。

 たしかB氏は、「粘土か、煙のようになって消えていった」というようなことを言ったと思う。あと
でワイフもこう言った。「私たちが見たUFOも、そのままの形で、消えていった。星がまわりに
見えたから、雲に隠れたというふうでも、なかった」と。

 大きさは、B氏も「わからなかった」と言いながら、最低でもハバが、500メートルはあったと
言った。飛行機のような小さなものではない。まさに空をおおうほど、大きかったという。

 で、そのあとB氏の弟は、そのショックで、人生観が180度変ってしまい、インドへ仏教の修
行にでかけてしまったという。

 で、宇宙人はいるのか、いないのか?

 私は、一つの手がかりは、月にあるのではないかと思っている。つぎの原稿は、1年と少し前
に書いた原稿である。

++++++++++++++++++++++

●謎のオニール橋

 このところ毎晩、眠る前に、「月の先住者」(ドン・ウィルソン著・たま出版)を読んでいる。かな
り前に買った本だが、それが結構、おもしろい。なかなかよく書けている。要するに、月には、
謎が多いということ。そしてその謎を集約していくと、月は、巨大なUFOということになる、とい
う。

 私が子どものころには、月の危難の海というところに、オニール橋というのがあった。オニー
ル(ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の科学部長であったJ・J・オニール)という科学者が
発見したから、「オニール橋」というようになった(一九五三年七月)。

どこかの科学博覧会に行ったら、その想像図まで展示してあった。一つの峰からつぎの峰にま
たがるような、端から橋まで、二〇キロもあるような橋だったという。

 が、そんな橋が、月の上にあること自体、おかしなことだった。しかもそんな橋が、それまで発
見されなかったことも、おかしなことだった。それまでに、無数の天文学者が、望遠鏡で月をの
ぞいていたはずである。

 しかし、最大の謎は、その後まもなく、そのオニール橋が、その場所から消えたということ。な
ぜか。その本によれば、あくまでも、その本によればの話だが、それは巨大なUFOだったとい
う。(ありえる!)

 そこでインターネットを使って、オニール橋を調べてみた。ヤフーの検索エンジンを使って、
「月 オニール」で検索してみると、いくつか出てきた。結局、オニール橋は、一部の研究者の
「見まちがい」ということで、公式には処理されているようだ。(残念!)

 私自身は、信じているとかいないとかいうレベルを超えて、UFOの存在は、確信している。ワ
イフと私は、巨大なUFOを目撃している。私たちが見たのは、幅が数キロもあるような巨大な
ものだった。だからオニール橋が、巨大なUFOだったとしても、驚かない。

 しかしこういうのを、私たちの世界では、「ロマン」という。つまり、「夢物語」。だからといって、
どうということもないし、また何ができるということでもない。またそれを基盤に、何かをすること
もない。ただの夢物語。

しかし心地よい夢を誘うには、この種の話が、一番。おもしろい。楽しい。それはちょうど、子ど
もたちが、かぐや姫の話を聞いて、夜の空に、ファンタジックな夢をはせるのと同じようなもので
はないか。

 興味のある人は、その本を読んでみるとよい。しかしあまりハマらないように! UFOの情報
は、インターネットで簡単に手に入るが、そのほとんどのサイトは、どこかの狂信的なグループ
(カルト)が、運営している。じゅうぶん注意されたし。

++++++++++++++++++++

【はやし浩司から、息子へ……】

 大前提として、ぼくは、お前には、ウソをつかない。ウソを書くつもりはない。またウソまでつい
て、お前を惑わすようなことはしない。したくない。それとも、ぼくは、今まで、お前の父親とし
て、ウソをついたことがあるだろうか? 約束を守らなかったようなことがあるだろうか?

 そういう前提で話す。

 お前は、すぐ否定するが、あの夜、何か得体の知れないものを、晃子(ワイフ)と見たもの
は、事実だ。翌朝一番に、自衛隊に電話をしたのも、事実だ。少しあとになって、B氏がやって
きて、「同じものを見た」と話してくれたのも、事実だ。

ウソは書かない。ウソをついても、評判を落すことはあっても、ぼくには、得になることは、何も
ない。

 つまりお前と、視点が180度ちがうという理由は、ここにある。ぼくたちは、「見た」という前提
で、話を始める。見ていないお前に、それを信じろというほうが、むずかしいのかもしれないが
……。

 いつかゆっくりと話す機会があったら、話したい。

 ぼくは若いころ、東洋医学の研究に没頭した。本も何冊か書いた。うち一冊は、25年にもな
るが、医学部や、鍼灸学校の教科書として、いまだに使われている。

 その研究をしていたころ、実のおかしな記述に、あちこちで出会っている。東洋医学の原点
(原書)が、人間によって書かれたのではないのではないかという疑いをもつのに、じゅうぶん
なほど、おかしな記述だ。

 それはちょうど、旧約聖書の生い立ちに似ている。いつか、それについて、お前に話してやろ
う。この事実は、恐らく、ぼくしか知らないことだし、ほかにそういう面で、研究している人を、知
らない。

 いつか死ぬまでに、お前だけには、このことを話しておきたい。また日本へ帰ってきたときで
もよいし、もう少し、お前が、宇宙に対して、心を開いてくれてからでもよい。ほかのだれにも、
話すつもりはない。

 こうした事実は、「ぼくが死んだら、そのままぼくとともに消えるもの」と、半分は、もうあきらめ
ている。いつか、文章にすることがあるかもしれないが、今のところ、ない。どうせ、だれも信じ
てくれないし、東洋医学には、心底、幻滅している。

 東洋医学に幻滅したというのではない。日本の東洋医学研究のあり方に、幻滅している。話
せば長くなるが……。

 まあ、しかし、お前が言うように、これはロマンだ。先のB氏だが、そのあと、何度も会ってい
る。うちへも、たびたび遊びに来ている。

 しかしね、おかしなことだが、いつも会話が、途中で切れてしまう。話がつづかない。それもそ
うだろう。たがいに見たのは瞬間だった。たがいにその瞬間について話すだけ。だからどうして
も、ロマンになってしまう。何か、具体的な証拠があるわけではないからね。

 そうそう私と晃子が見たUFOと、B氏兄弟が見たUFOは、別のものだよ。

 一度、会って、正確に見た方向を、地図を広げて確認してみたが、おもしろいことに、ぼくた
ちが見たUFOは、まっすぐ、正確に西から東へ飛んできたものとわかった。

 一方、B氏兄弟が見たUFOは、これまた正確に、まっすぐ東から西へ飛んできたものだとわ
かった。見た日も、ちがっていたけどね。

 今でもときどき、晃子と寝るとき、あの夜のことを思い出す。そして「あれは何だったのか?」
「もう一度、見てみたいね」と、話している。そうして話しているうちに、いつも眠ってしまう。

 そうそう最後に、先日送った、「惑星の謎」の写真だけど、NASAが公表する写真は、そのほ
とんどが、修正済みのものばかりだよ。そういう前提で、写真を見なければいけないよ。どうい
うわけか知らないけど、ね。

 じゃあ、お前も、夜、散歩するようなことがあれば、空を見あげてみるといいよ。

 おやすみ。 そちらは、朝だね。

HAVE A NICE DAY!
(040606)

【追記】

 今夜(6・6)、ワイフとまた、そのUFOの話になった。

ワ「散歩から帰ってきたときだから、時刻は、12時前だったと思う」
私「ぼくは、12時を過ぎていたと思う。そのあと自衛隊に電話しようと思ったけど、毎夜中じゃ
あ、できないと思って、しなかった」
ワ「あれは、不思議だったわ」
私「ホント!」

ワ「だけど、あんなところを、通るものなのかしら? 自衛隊の基地でも見にきたのかしら?」
私「理由は、わからない。観光旅行かもしれないな。そのあと、『く』の字型UFOは、あとこちで
目撃されているよ」
ワ「窓が光っていたわ」
私「光ってはいないよ。ぼんやりとした、淡いだいだい色だった……」

ワ「私には、白っぽく見えたわ。消えかかった、蛍光灯のような感じだった。白といっても、グレ
ーに近かった」
私「窓だと思うけど、まん丸だった」
ワ「そう、まん丸だったわ。車のライトのように……。きちんと並んでいた。飛行機の窓のように
ね」

私「飛行機じゃ、ないよ。まったく音がしなかったよ」
ワ「そう、音がしなかった。静かだったわ」
私「飛行機だったら、わかるよ。浜松市の上空は、飛行機の航路になっている」
ワ「私は、窓を、一生懸命、数えていたわ。6個くらいまで数えたわ」
私「ぼくも、そんなものだった。見にくかったから、最初は、目をこらして一生懸命、数えていた」

ワ「窓は、『く』の字に並んでいたわ。2個くらい、少しずれていた」
私「でも、『く』というよりは、『へ』の字に近かった。手前半分より、向こう側半分のほうが、長か
ったような気がする」
ワ「そうだわ。『く』ではなく、『へ』の字だわ」
私「だから、手前の5、6個につづいて、折れ曲がった向こう側には、ズラズラと窓が並んでい
た感じがした」
ワ「そうだったわ」と。

 そして結論は、いつも同じ。「不思議だったわ」「不思議だった」と。

 私は原稿の中で、幅が1、2キロと書いたが、本当のところは、よくわからない。夜だったし、
それにそれが飛んでいる高度もわからなかった。私の印象では、いつも飛んでいる飛行機の
高度を飛んでいるように見えた。

 100メートルとか、200メートルとかいうような、そんな低い高さではない。最低でも、500メ
ートルとか、それくらいはあったのでは……? つまりそういうところから、「幅が1、2キロはあ
った」と書いた。

 いや、ひょっとしたら、もっと大きかったかもしれない。幅が20キロとか30キロとか……。
今、ここで断言できることは、あのジャンボジェット機とは、比較にならないほど、巨大だったと
いうこと。私が見たUFOを、巨大タンカーだとするなら、ジャンボジェット機は、一人乗りの釣り
舟のようなもの。それくらいのちがいは、感じた。

 だから私たちが見たUFOは、絶対に飛行機などではない! 絶対に!

【追記】

 しかし世に中には、不思議なことがあるもの。私も人並みに、いろいろと不思議なできごとを
経験しているが、しかしあの夜以上に、不思議な経験をしたことがない。ワイフもそう言ってい
る。

 もしあれがUFOだとするなら、(まちがいなくUFOだが)、宇宙人は、確実にいる。またそうい
う前提で、ものごとを考えるべきではないのか。

 どこに住んでいるかは知らない。どこから来たのか、またその目的が何であるかも、知らな
い。しかし時折、彼らは、こうして地球を訪れて、何かをしている。私も、よく、じょうだんまじり
に、「観光旅行だ」と言うが、内心では、観光旅行にちがいないと思っている。宇宙人の御一行
様が、巨大なバスに乗って、地球へやってくる。

 「夜に観光旅行するのか?」と思う人がいるかもしれないが、彼らの視力からすれば、夜で
も、昼のように明るく見えるのかも。反対に、昼間は、明る過ぎて、目を痛めるということもあ
る。それに太陽から降りそそぐ、紫外線や放射線を、避けているのかもしれない。

 いろいろ考えられる。考えられるが、地球人を基準にして、ものを考えてはいけない。彼らの
もつ知力にしても、人間より、数千年とか、数万年単位で、進化しているはず。技術も、そうだ。
私が見たUFOにしても、まるで空に溶けこむようにして、消えている。とてもこの世の乗り物と
は、思われない消え方である。

 では、なぜその宇宙人は、堂々と姿を、私たちの前に現さないのかということになる。

 理由はいくつか考えられる。

(1)宇宙人と人間の間に、あまりにも差がありすぎる。
(2)貪欲な人間に、その技術なり知識が利用されるのを恐れている。
(3)人間そのものが、彼らによって作られた。彼らの遺伝子を組み込まれている。
(4)すでに、あちこちで、人間の形をして、現れている。

 まあ、近々、姿を現すのではないかと、私は思っている。私たちが見たUFOも、その一つとい
うことになる。

 では、眠くなったので、この話は、ここまで。またいつか……。

 以上、あの夜、私とワイフは、何かを見た。それが真実であることを、再度、ここで確認しな
がら……。
(040606)
(はやし浩司 UFO)

++++++++++++++++++++

【壮大なロマン】

●人間は、宇宙人によって、作られた?

 私は、人間は、宇宙人によって、つくられた生き物ではないかと思っている。

 「作られた」というよりは、彼らの遺伝子の一部を、組み込まれたのではないかと、思ってい
る。それまでの人間は、きわめてサルに近い、下等動物であった。

 たとえば人間の脳ミソをみたばあい、大脳皮質と呼ばれる部分だけが、ほかの動物とくらべ
ても、特異に発達している。そこには、100〜140億個とも言われる、とほうもない数の神経
細胞が集まっているという。

 長い時間をかけて、人間の脳は、ここまで進化したとも考えられる。しかし黄河文明にせよ、
メソポタミア文明にせよ、それらは、今からたった7500年前に生まれたにすぎない。たった7
500年だぞ! 

地球の歴史の中では、まさに瞬時に、変化したと言うにふさわしい。 

それ以前はというと、石器時代。さらにそれ以前はというと、人間の歴史は、まったくの暗闇に
包まれてしまう。

 私は、今から7500年前。つまり紀元前、5500年ごろ、人間自体に、何か、きわめて大きな
変化があったのではないかと思っている。そのころを境に、人間は、突然に、賢くなった(?)。

●古代神話

 中国の歴史は、黄帝という帝王で始まる。司馬遷も、『史記』を、その黄帝で書き始めてい
る。それと同じころ、メソポタミアでは、旧約聖書の母体となる、『アッシリア物語』が、生まれて
いる。ノアの箱舟に似た話も、その物語の中にある。

 この黄帝という帝王は、中国に残る伝説によれば、処女懐胎によって、生まれたという。この
話は、どこか、イエスキリストの話に似ている。イエスキリストも、処女懐胎によって生まれてい
る。

 この時期、この地球で、ほぼ同時に、二つの文明が生まれたことになる。黄河文明と、メソポ
タミア文明である。

 共通点はいくつかある。

 黄河流域で使われたという甲骨文字と、メソポタミアに残る楔形(くさびがた)文字は、よく似
ている。さらに、メソポタミア文明では、彩色土器が使われていたが、それときわめてよく似た
土器が、中国の仰韶(ヤンシャオ)地方というところでも、見つかっている。

 メソポタミアのシュメール人と、中国のヤンシャオ人。この二つの民族は、どこかで、つながっ
ている? そしてともに、その周囲の文明とはかけ離れた文明を、築いた。一説によると、シュ
メール人たちは、何の目的かは知らないが、乾電池まで使っていたという。

 もちろん、ここに書いたことは、神話とまではいかないが、それに近い話である。黄河文明に
しても、ヤンシャオ人が作った文明とは、証明されていない。私が勝手に、黄河文明イコール、
ヤンシャオ人と結びつけているだけである。

 ただ、「帝」を表す甲骨文字と、「神」を表す楔形文字は、形のみならず、意味、発音まで、ほ
ぼ、同じである。中国でいう帝王も、メソポタミアでいう神も、どこか、遠い星からやってきたとさ
れる。

●壮大なロマン

 私は、ある時期、シュメール人や、ヤンシャオ人について、いろいろ調べたことがある。今で
も、大きな図書館へ行くと、新しい資料はないかと、必ず、さがす。

 が、いつも、そのあたりで、ストップ。本来なら、中国やイラクへでかけ、いろいろ調べてから、
こうしてものを書くべきだが、それだけの熱意はない。資金もない。それに、時間もない。

 まあ、そうかな?……と思いつつ、あるいは、そうでないのかもしれないな?……と思いつ
つ、35年近くを過ごしてきた。

 しかしこうした壮大なロマンをもつことは、悪いことではない。あちこちに、そういった類(たぐ
い)の、「古代〜〜展」があったりすると、「ひょっとしたら……」と思いつつ、でかける。何か、目
標や目的があるだけでも、そうした展示品を見る目もちがってくる。

 「やっぱり、ぼくの自説は正しいぞ」と思ってみたり、「やっぱり、ぼくの自説はまちがっている
かもしれない」などと、思ってみたりする。

 私は考古学者ではない。多分、この原稿を読んでいるあなたも、そうだ。だから、夢、つまり
ロマンをもつことは許される。まさに壮大なロマンである。

 とくに、眠られぬ夜には、こうしたロマンは、役にたつ。あれこれ頭の中で考えていると、いつ
の間にか、眠ってしまう。あなたも、私がここに書いたことを参考に、古代シュメール人や、中
国のヤンシャオ人に、興味をもってみたらどうだろうか。

 彼らには、私たちの心をとらえてはなさない、何か大きな、不思議な魅力がある。
(040607)

+++++++++++++++++++++

ああ、またUFOのことを書いてしまった!
ワイフにさえ、「この話はよくない」と、クギを
刺されている。

頭のおかしな人たちと、まちがえられるからだ。
(私は、おかしいかもしれない? ゾーッ!)

冒頭に書いたように、息子にさえ、そう思われて
いる。「パパとママは、おかしいよ」と言われた
こともある。

ただとても残念なのは、UFOが、幽霊や心霊現象
などと同列におかれていることだ。いわゆるオカルト
(科学では証明できない神秘的超自然現象)の一つと
して、考えられている。

しかしUFOは、決して、オカルトではない。……と
自分では思っている。科学的に説明できるからだ。

ときどき自分でもわけがわからなくなるときがある。
そういうときは、あの夜見た、巨大なUFOを、
何度も自分の心の中で確認する。「あれは、幻想ではない」
「たしかに、見たぞ!」と。

みなさんは、どう考えるだろうか。

以上、真夏の夜の、大ロマン。おしまい!
おやすみなさい!
 



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●親子の三角関係

【親子の問題】

●親子でつくる三角関係

 本来、父親と母親は一体化し、「親」世界を形成する。

 その親世界に対して、子どもは、一対一の関係を形成する。

 しかしその親子関係が、三角関係化するときがある。父親と、母親の関係、つまり夫婦関係
が崩壊し、父親と子ども、母親と子どもの関係が、別々の関係として、機能し始める。これを親
子の三角関係化(ボーエン)という。

 わかりやすく説明しよう。

 たとえば母親が、自分の子どもを、自分の味方として、取り込もうとしたとする。

「あなたのお父さんは、だらしない人よ」
「私は、あんなお父さんと結婚するつもりはなかったけれど、お父さんが強引だったのよ」
「お父さんの給料が、もう少しいいといいのにね。お母さんたちが、苦労するのは、あのお父さ
んのせいなのよ」
「お父さんは、会社では、ただの書類整理係よ。あなたは、あんなふうにならないでね」と。

 こういう状況になると、子どもは、母親の意見に従わざるをえなくなる。この時期、子どもは、
母親なしでは、生きてはいかれない。

 つまりこの段階で、子どもは、母親と自分の関係と、父親と自分の関係を、それぞれ独立し
たものと考えるようになる。これがここでいう「三角関係化」(ボーエン)という。

 こうした三角関係化が進むと、子どもにとっては、家族そのものが、自立するための弊害に
なってしまう。つまり、子どもの「個人化」が遅れる。ばあいによっては、自立そのものが、でき
なくなってしまう。

●個人化

 子どもの成育には、家族はなくてならないものだが、しかしある時期がくると、子どもは、その
家族から独立して、その家族から抜け出ようとする。これを「個人化」(ボーエン)という。

 が、家族そのものが、この個人化をはばむことがある。

 ある男性(50歳、当時)は、こんなことで苦しんでいた。

 その男性は、実母の葬儀に、出なかった。その数年前のことである。それについて、親戚の
伯父、伯母のみならず、近所の人たちまでが、「親不孝者!」「恩知らず!」と、その男性を、
ののしった。

 しかしその男性には、だれにも話せない事情があった。その男性は、こう言った。「私は、父
の子どもではないのです。祖父と母の間にできた子どもです。父や私をだましつづけた母を、
私は許すことができませんでした」と。

 つまりその男性は、家族というワクの中で、それを足かせとして、悶々と苦しみ、悩んでいた
ことになる。

 もちろんこれは50歳という(おとな)の話であり、そのまま子どもの世界に当てはめることは
できない。ここでいう個人化とは、少しニュアンスがちがうかもしれない。しかしどんな問題であ
るにせよ、それが子どもの足かせとなったとき、子どもは、その問題で、苦しんだり、悩んだり
するようになる。

 そのとき、子どもの自立が、はばまれる。

●個人化をはばむもの 

 日本人は、元来、子どもを、(モノ)もしくは、(財産)と考える傾向が強い。そのため、無意識
にうちにも、子どもが自立し、独立していくことを、親が、はばもうとすることがある。独立心の
旺盛な子どもを、「鬼の子」と考える地方もある。

 たとえば、親のそばを離れ、独立して生活することを、この日本では、「親を捨てる」という。そ
ういう意味でも、日本は、まさに依存型社会ということになる。

 親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子。かわいい子イコール、よい子とした。

 そしてそれに呼応する形で、親は、子どもに甘え、依存する。

 ある母親は、私にこう言った。「息子は、横浜の嫁に取られてしまいました。親なんて、さみし
いもんですわ」と。

 その母親は、自分の息子が結婚して、横浜に住むようになったことを、「嫁に取られた」と言
う。そういう発想そのものが、ここでいう依存性によるものと考えてよい。もちろんその母親は、
それに気づいていない。

 が、こうした依存性を、子どもの側が感じたとき、子どもは、それを罪悪感として、とらえる。
自分で自分を責めてしまう。実は、これが個性化をはばむ最大の原因となる。

 「私は、親を捨てた。だから私はできそこないの人間だ」と。

●子どもの世界でも……

 家族は、子どもの成育にとっては、きわめて重要なものである。それについて、疑いをもつ人
はいない。

 しかしその家族が、今度は、子どもの成育に、足かせとなることもある。親の過干渉、過保
護、過関心、それに溺愛など。

 これらの問題については、たびたび書いてきたので、ここでは、もう少しその先を考えてみた
い。

 問題は、子ども自身が、自立することそのものに、罪悪感を覚えてしまうケースである。たと
えばこんな例で考えてみよう。

 ある子どもは、幼児期から、「勉強しなさい」「もっと勉強しなさい」と追い立てられた。英語教
室や算数教室にも通った。(実際には、通わされた。)そしていつしか、勉強ができる子どもイコ
ール、優秀な子ども。勉強ができない子どもイコール、できそこないという価値観を身につけて
しまった。

 それは親の価値観でもあった。こうした価値観は、親がとくに意識しなくても、そっくりそのま
ま子どもに植えつけられる。

 で、こういうケースでは、その子どもにそれなりに能力があれば、それほど大きな問題にはな
らない。しかしその子どもには、その能力がなかった。小学3、4年を境に、学力がどんどんと
落ちていった。

 親はますますその子どもに勉強を強いた。それはまさに、虐待に近い、しごきだった。塾はも
ちろんのこと、家庭教師をつけ、土日は、父親が特訓(?)をした。

 いつしかその子どもは、自信をなくし、自らに(ダメ人間)のレッテルを張るようになってしまっ
た。

●現実検証能力 

 自分の周囲を、客観的に判断し、行動する能力のことを、現実検証能力という。この能力に
欠けると、子どもでも、常識はずれなことを、平気でするようになる。

 薬のトローチを、お菓子がわりに食べてしまった子ども(小学生)
 電気のコンセントに粘土をつめてしまった子ども(年長児)
 バケツで色水をつくり、それを友だちにベランダの上からかけていた子ども(年長児)
 友だちの誕生日プレゼントに、酒かすを箱に入れて送った子ども(小学生)
 先生の飲むコップに、殺虫剤をまぜた子ども(中学生)などがいた。

 おとなでも、こんなおとながいた。

 贈答用にしまっておいた、洋酒のビンをあけてのんでしまった男性
 旅先で、帰りの旅費まで、つかいこんでしまった男性
 ゴミを捨てにいって、途中で近所の家の間に捨ててきてしまった男性
 毎日、マヨネーズの入ったサラダばかりを隠れて食べていた女性
 自宅のカーテンに、マッチで火をつけていた男性などなど。

 そうでない人には、信じられないようなことかもしれないが、生活の中で、現実感をなくすと、
おとなでも、こうした常識ハズレな行為を平気で繰りかえすようになる。わかりやすく言うと、自
分でしてよいことと悪いことの判断がつかなくなってしまう。

 一般的には、親子の三角関係化が進むと、この現実検証能力が弱くなると言われている(ボ
ーエン)。

●三角関係化を避けるために

 よきにつけ、あしきにつけ、父親と母親は、子どもの前では、一貫性をもつようにすること。足
並みの乱れは、家庭教育に混乱を生じさせるのみならず、ここでいう三角関係化をおし進め
る。

 もちろん、父親には父親の役目、母親には母親の役目がある。それはそれとして、たがいに
高度な次元で、尊敬し、認めあう。その上で、子どもの前では、一貫性を保つようにする。この
一貫性が、子どもの心を、はぐくむ。

++++++++++++++

以前、こんな原稿を書いた。
中日新聞に発表済みの原稿である。

++++++++++++++

●夫婦は一枚岩

 そうでなくても難しいのが、子育て。夫婦の心がバラバラで、どうして子育てができるのか。そ
の中でもタブー中のタブーが、互いの悪口。

ある母親は、娘(年長児)にいつもこう言っていた。「お父さんの給料が少ないでしょう。だから
お母さんは、苦労しているのよ」と。

あるいは「お父さんは学歴がなくて、会社でも相手にされないのよ。あなたはそうならないでね」
と。母親としては娘を味方にしたいと思ってそう言うが、やがて娘の心は、母親から離れる。離
れるだけならまだしも、母親の指示に従わなくなる。

 この文を読んでいる人が母親なら、まず父親を立てる。そして船頭役は父親にしてもらう。賢
い母親ならそうする。この文を読んでいる人が父親なら、まず母親を立てる。そして船頭役は
母親にしてもらう。つまり互いに高い次元に、相手を置く。

たとえば何か重要な決断を迫られたようなときには、「お父さんに聞いてからにしましょうね」
(反対に「お母さんに聞いてからにしよう」)と言うなど。仮に意見の対立があっても、子どもの前
ではしない。

父、子どもに向かって、「テレビを見ながら、ご飯を食べてはダメだ」
母「いいじゃあないの、テレビぐらい」と。

こういう会話はまずい。こういうケースでは、父親が言ったことに対して、母親はこう援護する。
「お父さんがそう言っているから、そうしなさい」と。そして母親としての意見があるなら、子ども
のいないところで調整する。

子どもが学校の先生の悪口を言ったときも、そうだ。「あなたたちが悪いからでしょう」と、まず
子どもをたしなめる。相づちを打ってもいけない。もし先生に問題があるなら、子どものいない
ところで、また子どもとは関係のない世界で、処理する。これは家庭教育の大原則。

 ある著名な教授がいる。数十万部を超えるベストセラーもある。彼は自分の著書の中で、こう
書いている。「子どもには夫婦喧嘩を見せろ。意見の対立を教えるのに、よい機会だ」と。

しかし夫婦で哲学論争でもするならともかくも、夫婦喧嘩のような見苦しいものは、子どもに見
せてはならない。夫婦喧嘩などというのは、たいていは見るに耐えないものばかり。

その教授はほかに、「子どもとの絆を深めるために、遊園地などでは、わざと迷子にしてみると
よい」とか、「家庭のありがたさをわからせるために、二、三日、子どもを家から追い出してみる
とよい」とか書いている。とんでもない暴論である。わざと迷子にすれば、それで親子の信頼関
係は消える。それにもしあなたの子どもが半日、行方不明になったら、あなたはどうするだろう
か。あなたは捜索願いだって出すかもしれない。

 子どもは親を見ながら、自分の夫婦像をつくる。家庭像をつくる。さらに人間像までつくる。そ
ういう意味で、もし親が子どもに見せるものがあるとするなら、夫婦が仲よく話しあう様であり、
いたわりあう様である。助けあい、喜びあい、なぐさめあう様である。

古いことを言うようだが、そういう「様(さま)」が、子どもの中に染み込んでいてはじめて、子ど
もは自分で、よい夫婦関係を築き、よい家庭をもつことができる。

欧米では、子どもを「よき家庭人」にすることを、家庭教育の最大の目標にしている。その第一
歩が、『夫婦は一枚岩』、ということになる。

++++++++++++++++++

●あなたの子どもは、だいじょうぶ?

あなたの子どもの現実検証能力は、だいじょうぶだろうか。少し、自己診断してみよう。つぎの
ような項目に、いくつか当てはまれば、子どもの問題としてではなく、あなたの問題として、家庭
教育のあり方を、かなり謙虚に反省してみるとよい。

( )何度注意しても、そのつど、常識ハズレなことをして、親を困らせる。
( )小遣いでも、その場で、あればあるだけ、使ってしまう。
( )あと先のことを考えないで、行動してしまうようなところがある。
( )いちいち親が指示しないと行動できないようなところがある。指示には従順に従う。
( )何をしでかすか不安なときがあり、子どもから目を離すことができない。

 参考までに、私の持論である、「子育て自由論」を、ここに添付しておく。


++++++++++++++++++

己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経
というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。

釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり
「自分のことは自分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと
「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で
責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基
本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイ
プの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさ
い」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変え
て、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。

ある母親は今の夫といやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになった
ら、あなたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自
分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面で
の過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てを
するなど。

子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。
外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自
分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をし
ているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動に
かられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。警察で
最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。たまたまその場
に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手
がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子
どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。
(040607)
(はやし浩司 現実検証能力 ボーエン 個人化 三角関係 三角関係化)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●三角関係

 お母さんと、子どもの関係は絶対的なもの。

 しかしお父さんと、子どもの関係は、あくまでも(一しずく)! 精液一滴の関係。

 が、お父さんには、お父さんの役目があります。

 お母さんと子どもの、その(絶対的な関係)の修復。それに、社会性の注入です。

 お母さんだけに子育てを任せてしまうと、子どもは、ひとり立ちできない、つまりはひ弱な子ど
もになってしまいます。母性本能といいうのは、それほどまでに強力で、ときに子どもの発育に
は、障害となることもあるということです。

 そこで人間としての社会性を、子どもに注入していくのは、お父さんの役目ということになりま
す。昔風に言えば、狩の仕方や、漁の仕方を教えるというのが、それでしょうか。今風に言え
ば、社会的人間としての、生きザマを見せるということになります。

 そのためにも、お母さんは、いつもお父さんを、子育ての前面に置きます。賢いお母さんな
ら、そうします。お父さんを、子どもの前で、けなしたり、批判したりしてはいけません。

 まずいのは、お父さん、お母さん、それに子どもが三角関係化することです。発達心理学の
世界でも、「三角関係化」といいます。

 子どもが、お母さんとの関係、お父さんとの関係を、別々に、つくるようになります。とくに気を
つけたいのは、父親不在型の家庭環境です。「お父さんなんか、いてもいなくても同じ」とか、
「お父さんは、仕事ばかりで、家に、ほとんどいなかった」というような家庭環境です。

 この三角関係化が進むと、子どもの個性化(独立心)が遅れ、ばあいによっては、親から独
立できなくなってしまいます。40歳、50歳をすぎても、「ママ」「ママ」と言っているおとなは、多
いですね。そうなります。

 お母さんにはお母さんの役目があります。親子の信頼関係を教えていくのが、お母さんの役
目です。この信頼件関係が基本となって、子どもは、他人との信頼関係の結び方を学んでいき
ます。

 ところで、もしあなたが、他人との信頼関係を結ぶのが苦手……というのであれば、一度、あ
なた自身と、あなたの母親の関係は、どうであったかをさぐってみてください。

 この問題は、根が深いですよ。わかりますか? ホント!

 が、だからといって、むずかしく考えないでください。

 子育ての基本は、(1)子どもには心を開き、(2)子どもには、誠実に接する、です。あと二つ
つけ加えるなら、(3)ほどよい親であること。(4)暖かい無視を大切にする、です。

 ね、決して、むずかしいことではないでしょ! むすかしく考えるから、むずかしくなるだけで
す。


●心を開く

 お母さんは、子どもを妊娠して、自分の体内に10か月近く子どもを宿す。子どもが生まれて
からも、乳を与える。

 こうした関係から、お母さんと子どもは、どうしても一体化しやすい。

 一体化するのが悪いのではない。子どもは、その一体化から、親子の信頼関係を学ぶ。そし
てこの信頼関係が基本となって、子どもは、他者との信頼関係の結び方を学ぶ。

 この段階で、信頼関係の結び方に失敗した子どもは、不幸である。ホント!

 他人との人間関係が、どうもうまく結べないという人は、不幸にして、不幸な家庭環境に育っ
た人とみてよい。他人と接すると、疲れる。外の世界で、仮面をかぶる、など。心をうまく開けな
い人とみてよい。

 心を開くというのは、ありのままの自分を、すなおにさらけ出しながら、相手もまた、自分の心
の中に受け入れることをいう。

 さてさて、あなたはそれをしているか? それができるか?

 心を開くことができる人は、ごく自然な形で、それができる。子どもでも、こちらが親切にして
あげたり、やさしくしてあげると、そうした思いが、スーッと心の中に入っていくのがわかる。

 心の開いた子どもとみる。

 そうでない子どもは、そうでない。ひねくれたり、つっぱたり、いじけたりしやすい。

 さあ、あなたも今から、心を開いてみよう。とくに、子どもの前で、開いてみよう。そういうあな
たの姿をみて、あなたの子どもは、あなたに対して、心を開くことを学ぶ。


●子どもには、誠実に

 世の中には、いろいろな親がいる。「親だから……」という『ダカラ論』ほど、あてにならないも
のはない。また「親だから……」という『ダカラ論』を、みなに押しつけてはいけない。

 たとえば、子どもの財産をまきあげた親。子どもを生涯、奴隷のように虐待していた親。さら
によくあるのは、よい親であるという仮面をかぶり、子どもにウソばかりついている親などがい
る。

 こうした親をもった子どもは、不幸である。K氏(45歳)の例で、考えてみよう。

 K氏が今の奥さんと結婚したとき、K氏の母親は、あちこちへ電話をかけ、「息子を、横浜の
嫁に取られてしまった」と、泣いて訴えた。それ以後も、何かあるたびに、K氏に、離婚すること
をすすめた。「あんな嫁とは別れてしまえ」と。

 しかしK氏の母親は、K氏やK氏の奥さんの前では、やさしい母親を演じつづけた。そして
弱々しい母親、貧しく質素な母親を演ずることによって、K氏から生活費を取りあげた。K氏
は、こう言う。

 「私が『お母さん、生活費はあるか?』と聞くと、いつも母は、今にも死にそうな声で、『心配し
なくていい。母さんは、毎日、イモを食べているから……』というような言い方をします。それで
いたたまれなくて、生活費を送るのですが、ハンパな額ではありません。叔父や叔母が死ぬた
びに、香典だけで、40万円とか50万円とかを、請求してきます」と。

 K氏に言わせると、K氏の母親は、「まさにウソのかたまり」だ、そうだ。「一つとて、本当のこ
とがないのです」と。

 そういうK氏の訴えに対して、「どんな親でも、親は親だから、従うべき」「子どもは、親の悪口
を言ってはいけない」という意見もある。実は、K氏の親類は、みなそう言っているという。

 だからK氏は、そういった話をだれにも相談できず、親類たちの重い視線を感じながら、悶々
とした毎日を送っている。

 「良好な親子関係があれば、まだ救われますが、私と母の関係は、私が結婚したときに、す
でに崩壊していました」と。

 この世の中には、誠実でない人もいるだろう。とくにビジネスの世界では、そうかもしれない。
しかしそれは家族というワクの、その外の世界でのこと。家族の中では、(中だけでは)(中だけ
でも)、誠実であること。

 これは人間として守らねばならない、最後の最後の砦(とりで)ということになる。その砦を壊
したら、残るものは、何もない。



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●スペインの教育事情

【スペイン在住のIさんより】

+++++++++++++++++++++

スペイン在住のIさんより、こんなメールが届きました。

転載許可(※承諾求め)をいただけましたので、紹介し
ます。

++++++++++++++++++++++

皆様 お元気ですか。

久しくご無沙汰しています。筆不精で、最近、メールを出していないので、

近況報告方々、メールを書いています。

Y子(娘)はYear 8(中学2年レベル)がもうすぐ終わりで、

期末試験の勉強に追われています。

科目別ですと、historyではフランス革命を勉強しています。日本語でも

難しいテーマを、英語で勉強するのですから、本人も大変です。

Englishはシェークスピアと日本でも話題になったHoles(日本名:穴)

が教科書で、毎日、宿題が結構出るので、日本の通信教育のワークまでなかなか手が回

らないので、日本に戻った時、苦労しそうです。

Y子は最近、コンピューターのマイクロソフトのメッセンジャーで友達と毎日、

チャット(英語、スペイン語、その略語が氾濫していて、

ちょっと大人には解読不能)をするのが日課でかなり、はまっています。

私は友達になったスペイン語の先生と油絵を描きながら、スペイン語を

習っています。

最近(2週間前)、ポール・マッカートニーのコンサートが近くのサッカー場で

あり、家族3人で行ってきました。久しぶりのロック・コンサートで、

盛りあがりました。幸代には初めてのロック・コンサートでしたが、クラスの友達も

大勢、見に来ていました。

ウィングス時代のJetで始まり、半分くらいはビートルズ時代の歌で、

Long and winding road や Hey.Judeなど、感激しました。

コンサートはいわゆるスペイン時間で、始まったのが夜の10時15分で終わったの

は夜中の1時過ぎでした。これはスペインでは普通です。

スペインはとにかく、日本に比べ、2〜3時間くらいすべて遅いのです。

今では我が家の夕飯もいつも9時から9時30分くらいです。

郷に入れば、郷に従えです。

早いもので、スペインに来て、もうすぐ3年になります。

6月末で幸代の学校が夏休みに入りますので、私と幸代は7月の中旬に日本に

一時帰国する予定です。

いろいろ予定があるので、会えるかどうか、わかりませんが、

時間があれば、お会いしましょう。

皆様の近況も、メールで教えてくださいね。

ではまた。

スペイン IYより

++++++++++++++++++

【IYさんへ】

●日本では……

 日本では、K国による拉致事件が、一応一段落したという感じです。まざ全面解決というわけ
ではありませんが……。

 先週、九州で、小学6年生の子どもが、同級生を殺傷するという事件が発生しました。今、親
たちの間では、この話で、もちきりです。

 スペインにも、似たような事件がありますか? 同じ事件でも、あまりにも殺伐(さつばつ)とし
ていて、つかみどころがありません。

週刊誌や新聞などの情報によると、その小学生は、映画『バトルロワイヤル』の熱心なファンだ
ったとか。自分でも、それに似せた小説まで書いて、HPで紹介していたといいます。

 ああいう映画を一方で野放しにしておいて、こういう事件が起きるたびに、「なぜ?」「どうし
て?」を繰りかえす。日本人も、もうそろそろそういうおかしさに、気づくべきときにきているので
はないでしょうか。

 私の立場では、本当に腹立たしい感じです。というのも、その映画については、公開当初、原
稿を書き、「こういうものは子どもに見せてはいけない」と、中日新聞にコラムを書いていたりし
たからです。

 当の映画監督のFY氏や、主演のBT氏らは、「戦前の言論統制と同じだ」(写真週刊誌)と、
息巻いていましたが……。

 それ以後も、この種の意味のない殺戮(さつりく)映画が、つぎつぎと、公開されています。先
週も、美しいパッケージにだまされて、「Kill Bill」という映画を見てしまいました。残虐シーンだ
けの、まったく意味のない映画でした。

 ああいう映画を見て育つ子どもは、いったい、どうなるのでしょうか?

●浜名湖花博へどうぞ

 暗い話はさておき、この浜松では、今、浜名湖花博という博覧会が開かれています。私とワイ
フも一度行ってみましたが、思ったより……というか、主催者のきめのこまかい配慮が随所に
見られる、本当にすばらしい博覧会でした。

 たまたま来年、愛知県で、「愛・地球博」(あいち=あい・ち・きゅうはく)が開かれます。こちら
は閣議了承された、国際博ですが、ひょっとしたら、規模こそ小さいですが、愛知万博よりも楽
しめるのではないかと思っています。

 お金をかければよいというものでもないでしょうし……。夏には夏の花が展示されるとか。浜
松へお帰りの際には、ぜひ、訪れてみてください。

 ここ数日、浜松は、雨もようです。すでに梅雨入りしたとか。外から帰ってきたりすると、家の
中が、ムッとするほどカビ臭く感ずることがあります。ムシムシします。今のところ気温はそれ
ほど高くないので、扇風機だけで、何とかしのいでいます。

 日本はあいかわらず不景気ですが、そんなことをある先生に話しましたら、叱られてしまいま
した。「林君は、何でも悲観的に考えすぎるよ」とです。

 いわく、(少し難解な文章ですが、そのまま引用します。)

「日本は貿易で毎年数兆円から10数兆円の黒字を出し、これまで累積した海外投資から数兆
円の所得収支を得〈利息〉、バブル期以降に急増した海外旅行に約5兆円を費やし〈サービス
収支の赤字〉、途上国に1兆円強の政府援助(ODA)を行ない、〈移転収支の赤字〉、最終的
に10兆円前後の黒字を再び海外投資して、海外純資産をさらに増やし続けている国である。 

現時点でも日本は世界最大の経常収支黒字国であり、EU全体に匹敵する世界最大の海外
純資産を蓄積している国である。 海外純資産の累積が増大して、これより得る利息〈所得収
支〉が徐々に増え、現在では毎年7兆円にも達している。国民一人当たりで6万円のもなる」
(科学技術振興事業団・科学技術振興機構「報告書」より・2003年)と。 

 この報告書を読んでいると、何となく、うれしくなりますね。わかりやすく言えば、日本は国内
景気はともかくも、海外では、巨大な金融国家として、利息を集めまくっているというのです。そ
の額、一人当たり、毎年6万円!

 利息が、6万円です。私の家族は5人ですから、30万円。……しかしそういうお金は、いった
い、どこへ消えていくのでしょうね?

 日本政府が、金融機関だけを、特別に保護している理由は、こんなところにあるのかもしれ
ません。ともあれ、日本の景気は上向いているということですが、私には、その実感は、あまり
ありません。

 気になっているのは、先日駅前のEデパートへ行ってみたら、一つ数万円もするサイフが、並
び始めたということです。バブル期には、Mデパート(その後、倒産)では、その種のものが、ズ
ラリと並んでいました。

 またこの日本では、ミニバブルというか、そういう現象が、一部の人たちの間で起き始めてい
るように思います。波にのった企業経営者や、一部の特権階級の人たち。それに特殊な利権
とつながり、特殊な仕事をしている人たちです。

 そういう人たちのところには、「こんなに儲けていいのだろうか」と、思うほど、お金が集まって
いるようです。うらやましいかぎりですね。ホント!

●本題

 さて、本題。

 お嬢さんの生活を知って、私のまわりの子どもたちの生活と、あまりにもちがっているので、
正直言って、驚きました。国際的というか、日本の外では、それが当たり前なのですね。

 いろいろな言葉にまざって、いろいろな文化が飛びかう……。想像するだけでも、楽しくなりま
す。お嬢さんは、まちがいなく、国際人になりますね。あるいはもう立派な、国際人!

 夜の生活というか、このあたりに住む南米の人たちも、夜な夜な、パーティを開いて騒いでい
ます。先日、どこかの会場で講演をしたら、市議会議員の人が、さかんに苦情を言っていまし
た。「うるさくて、たまらない」とです。

 しかし「時間」に対する感覚そのものがちがうのだから、しかたないかもしれません。が、それ
にしても、夜中の1時すぎまで、コンサートとは!! 私も以前、ブエノスアイレエス(アルゼンチ
ンの首都)へ行ったとき、みなが、ゾロゾロと、夜中の1時、2時まで、通りを歩いていたのに
は、驚きました。日本でいう、午後7時とか、8時の感じでした。

 ポール・マッカートニーの「Hey Jude」は、こちらでもDVD版になって、発売になっていま
す。静かなソロで始まり、最後は、合唱団、オーケストラをバックに大合唱というものです。聞い
ているうちに、どんどん盛りあがってきます。すばらしいですね、あの曲は。何度聞いても、あき
ません。

 で、私のほうは、今度、浜松に、舟木xxという、歌手が来るので、ワイフと聞きに行こうかどう
かと迷っている最中です。私の世代には、たまらない歌手です。「死ぬまでに一度は、聞いてお
かねば……」と思っています。(かなりスケールがちがうようです!)

 今は、スズメたちも子育てが一段落したときです。山へ行くと、ホトトギスが鳴いています。ビ
ワの実もたくさんできましたが、昨日行ってみたら、カラスにきれいに食べられてしまっていまし
た。今週から来週にかけては、アジサイが満開になります。日本は、そういう季節です。

 もうすぐすると、ヒグラシが鳴き始めます。それが鳴くと、本格的な夏です。今年の夏は暑くな
るだろうというのが、気象庁の予報です。

 どうか、お体を大切に。今日は、これで失礼します。

 自宅の電話番号を書いておきます。もし時間があれば、連絡してください。
       44x−xxxx、です。

                         はやし浩司

++++++++++++++++++++++

【追記】

 浜松にも、たくさんの外国人が住むようになりました。一方、それ以上の数の日本人が、海外
で生活をするようになりました。

 こういう時代になってみると、「国とは何か」と、改めて考えさせられます。

 私の三男も、今、オーストラリアにいますが、同居している学生は、韓国人です。いっしょに旅
行したりしているようです。いろいろ世話にもなっているようで、そういう関係を知ると、「日本
人」だの、「韓国人」だのと言っているほうが、おかしく思われてきます。

 世界の人は、みんな友人なのです。それはちょうど、横浜に住んでいる人も、神戸に住んで
いる人も、みんな日本人と言うのに似ています。会ったことがない人でも、これから先、死ぬま
で会うこともない人でも、日本人は日本人なのです。

 そういう中、スペインに住み、日本人学校に通い、フランスの歴史を勉強する……。私は、率
直に、それをすばらしいことだと思います。

 で、私たちも、やがて老後は、どこか外国で……と考えています。ワイフは、「元気なうちに決
心しないといけない」とさかんに、言っています。私もそう思うのですが、なかなかふんぎりがつ
きません。IYさんの話を読みながら、頭の中で、想像して楽しむのが、精一杯というところで
す。

 では、またどうかメールをください。みんな、楽しみにしています。




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●虚言癖

【子どもの虚言癖】

++++++++++++++++++

兵庫県にお住まいの、HGさんより、
子どもの虚言癖についての相談があった。
子どもの虚言癖についての相談は多い。
以前のもらった相談と重ねて、この
問題を考えてみたい。

++++++++++++++++++

はじめまして。小学校2年生の男子(長男)についての相談です。 
子供の嘘について相談します。 

息子のばあい、空想の世界を言っているような嘘ではなく、
「自分の非を絶対に認めない」嘘です。 

先日担任の先生からお電話があり、こんなことがあったそうです。 

(1)何かの試合の後、「○○君のせいで負けたんだ」と発言。直接その子に言ったようではな
かったが、言われた子は泣き出してしまった。 担任が注意しようとすると、「僕、言っていない」
の一点張り。しかし、先生も周囲にいた複数のクラスメートが、言ったことを聞いている。 

(2)工作の材料にバルサの板のようなものを4枚、持ってきた子がいた。気がつくと3枚しかな
く、探していたところ、いつのまにかうちの子が1枚持っており、「自分が持ってきたものだ」と言
い張る。 

そこで本当に家から持ってきたものなのかどうか、先生から問い合わせという形で、電話があ
りました。

 しかし、当日家から持っていた形跡はなく、問いつめると 

子:「家の近所で拾った」 
私:「どこで拾ったか、連れて行って」 
子:「わかんない。通学路で拾った」 
私:「通学路のどのあたり?」 
子:「○○の坂を上がって、右に曲がったところ」 
私:「○○君は教室まで4枚、あったって」 
子:「・・・」 

という感じで、つじつまを合わせようと必死。最後に私が「○○君が持っていたのが欲しくなっち
ゃったんだ?」と聞くと、小さくコクリ。最後まで「自分が取ってしまった」とは言いませんでした。 

また、休日においても、先日お友達と野球場に行った際、お友達(4生)と弟(5歳)との3人で、
高いところから通路へ石投げに興じてしまいました。そこへ野球場を管理するおじさんから「そ
んなことしちゃいかん!」と一喝。

私は現場を見ていなかったので、「何やったの!?」と聞くと、またしても「僕、何にもやってい
ない」の一点張り。(お友達は「自分もやったが、○○(うちの子)も一緒にやった」と言いまし
た)。しばらくして父親が登場(草野球の試合をしていました)、「おまえもやったんだろ?」と威
厳ある態度で聞くと小さくコクリ、でした。  
石投げについては、私の聞き方がまずかったかな? (嘘を言うことが可能な質問)とも思いま
すが、平然と周知の事実について頑なに嘘を突き通すことについて、子供の心の中がどうなっ
ているのかわからなくなりそうです。

小学校1年の頃までは嘘を言うと、なんとなく顔や態度に出るのであまり気にはしていませんで
したが、最近はそれがなくなり「絶対正しい!」という自信さえ漂わせています。 

生きていくうえでは嘘は必要なものでもありますが、それより以前に自分に打ちかって、正直に
言うことや誠実であることの大切さをわかってもらうには、今後、どう対応していったら良いので
しょうか? 

どうぞよろしくお願いします。 
(兵庫県A市在住、HGより)

++++++++++++++++++

【HGさんへ】

 以前、書いた原稿を、まずここに掲載しておきます。

++++++++++++++++++

子どものウソ

Q 何かにつけてウソをよく言います。それもシャーシャーと言って、平然としています。(小二
男)

A 子どものウソは、つぎの三つに分けて考える。(1)空想的虚言(妄想)、(2)行為障害によ
る虚言、それに(3)虚言。

空想的虚言というのは、脳の中に虚構の世界をつくりあげ、それをあたかも現実であるかのよ
うに錯覚してつく、ウソのことをいう。行為障害による虚言は、神経症による症状のひとつとして
考える。習慣的な万引きや、不要なものを集めるなどの、随伴症状をともなうことが多い。

これらのウソは、自己正当化のためにつくウソ(いわゆる虚言)とは区別して考える。

ふつうウソというのは、自己防衛(言いわけ、言い逃れ)、あるいは自己顕示(誇示、吹聴、自
慢、見栄)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚がある。

母「だれ、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せなさい」、子
「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから…」と。

 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。
「ゆうべ幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのが、それ。  

その思い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言
という。こんなことがあった。

 ある日一人の母親から、電話がかかってきた。ものすごい剣幕である。「先生は、うちの子の
手をつねって、アザをつくったというじゃありませんか。どうしてそういうことをするのですか!」
と。私にはまったく身に覚えがなかった。そこで「知りません」と言うと、「相手が子どもだと思っ
て、いいかげんなことを言ってもらっては困ります!」と。

 結局、その子は、だれかにつけられたアザを、私のせいのにしたらしい。

イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせては
ならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世界
にハマるようであれば、注意せよという意味である。

このタイプの子どもは、現実と空想の間に垣根がなく、現実の世界に空想をもちこんだり、反
対に、空想の世界に限りないリアリティをもちこんだりする。そして一度、虚構の世界をつくりあ
げると、それがあたかも現実であるかのように、まさに「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャ
ーシャーとつく。ウソをウソと自覚しないのが、特徴である。

どんなウソであるにせよ、子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」だけを
繰り返しながら、最後は、「もうウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めたり、
はげしく叱れば叱るほど、子どもはますますウソの世界に入っていく。

++++++++++++++++++++++++

 ここまでは、いわば一般論。雑誌の性格上、この程度までしか書けない。つぎにもう少し、踏
みこんで考えてみる。

 子どものウソで、重要なポイントは、子ども自身に、ウソという自覚があるかどうかということ。
さらにそのウソが、人格的な障害をともなうものかどうかということ。たとえばもっとも心配なウ
ソに、人格の分離がある。

 子どものばあい、何らかの強烈な恐怖体験が原因となって、人格が分離することがある。た
とえばある女の子(二歳)は、それまでになくはげしく母親に叱られたのが原因で、一人二役(と
きには、三人役)の独り言を言うようになったしまった。それを見た母親が、「気味が悪い」とい
って、相談してきた。

 このタイプの子どものウソは、まったくつかみどころがないのが特徴。ウソというより、まったく
別人になって、別の人格をもったウソをつく。私の知っている女の子(小三、オーストラリア人)
がいる。「私は、イタリアの女王」と言うのだ。そこで私が「イタリアには、女王はいない」と説明
すると、ものごしまで女王ぽくなり、「私はやがて宮殿に迎えいれられる」というようなことを繰り
かえした。

 つぎに心の中に、別の部屋をつくり、その中に閉じこもってしまうようなウソもある。これを心
理学では、「隔離」という。記憶そのものまで、架空の記憶をつくってしまう。そしてそのウソを繰
りかえすうちに、何が本当で、何がウソなのか、本人さえもわからなくなってしまう。親に虐待さ
れながらも、「この体のキズは、ころんでけがをしてできたものだ」と言っていた、子ども(小学
男児)がいた。

 つぎに空想的虚言があるが、こうしたウソの特徴は、本人にその自覚がないということ。その
ためウソを指摘しても、あまり意味がない。あるいはそれを指摘すると、極度の混乱状態にな
ることが多い。

私が経験したケースに、中学一年生の女の子がいた。あることでその子どものウソを追及して
いたら、突然、その女の子は、金切り声をあげて、「そんなことを言ったら、死んでやる!」と叫
び始めた。

 で、こうした子どもの虚言癖に気づいたら、どうするか、である。

 ある母親は、メールでこう言ってきた。「こういう虚言癖は、できるだけ早くなおしたい。だから
子どもを、きびしく指導する」と。その子どもは、小学一年生の男の子だった。

 しかしこうした虚言癖は、小学一年生では、もう手のほどこしようがない。なおすとか、なおさ
ないというレベルの話ではない。反対になおそうと思えば思うほど、その子どもは、ますます虚
構の世界に入りこんでしまう。症状としては、さらに複雑になる。

 小学一年生といえば、すでに自意識が芽生え、少年期へ突入している。あなたの記憶がそ
のころから始まっていることからわかるように、子ども自身も、そのころ人格の「核」をつくり始
める。その核をいじるのは、たいへん危険なことでもある。へたをすれば、自我そのものをつ
ぶしてしまうことにも、なりかねない。

そのためこの時期できることは、せいぜい、今の状態をより悪くしない程度。あるいは、ウソを
つく環境を、できるだけ子どもから遠ざけることでしかない。仮に子どもがウソをついても、相手
にしないとか、あるいは無視する。やがて子ども自身が、自分で自分をコントロールするように
なる。年齢的には、小学三,四年生とみる。その時期を待つ。

 ところで私も、もともとウソつきである。風土的なもの、環境的なものもあるが、私はやはり母
の影響ではないかと思う。それはともかくも、私はある時期、そういう自分がつくづくいやになっ
たことがある。ウソをつくということは、自分を偽ることである。自分を偽るということは、時間を
ムダにすることである。だからあるときから、ウソをつかないと心に決めた。

 で、ウソはぐんと少なくなったが、しかし私の体質が変わったわけではない。今でも、私は自
分の体のどこかにその体質を感ずる。かろうじて私が私なのは、そういう体質を押さえこむ気
力が、まだ残っているからにほかならない。もしその気力が弱くなれば……。ゾーッ!

 そんなわけで小学一年生ともなれば、そういう体質を変えることはできない。相談してきた母
親には悪いが、虚言癖というのはそういうもの。その子ども自身がおとなになり、ウソで相手を
キズつけたり、キズつけられたりしながら、ウソがもつ原罪感に自分で気がつくしかない。また
親としては、そういうときのために、子どもの心の中に、そういう方向性をつくることでしかない。
それがどんなウソであるにせよ……。
(030605)

【補足】
 以前、こんな原稿(中日新聞掲載済み)を書いた。内容が重複するが、参考までに……。

+++++++++++++++++

子どもがウソをつくとき

●ウソにもいろいろ

 ウソをウソとして自覚しながら言うウソ「虚言」と、あたかも空想の世界にいるかのようにして
つくウソ「空想的虚言」は、区別して考える。

 虚言というのは、自己防衛(言い逃れ、言いわけ、自己正当化など)、あるいは自己顕示(誇
示、吹聴、自慢、見栄など)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚
がある。母「誰、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せなさ
い」、子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから……」と。

 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。
「昨日、通りを歩いたら、幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのがそれ。その思
い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言とい
う。こんなことがあった。

●空想の世界に生きる子ども

 ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう言った。「うちの子(年長男児)
が手に大きなアザをつくってきました。子どもに話を聞くと、あなたにつねられたと言うではあり
ませんか。どうしてそういうことをするのですか。あなたは体罰反対ではなかったのですか!」
と。ものすごい剣幕だった。

が、私には思い当たることがない。そこで「知りません」と言うと、その母親は、「どうしてそうい
うウソを言うのですか。相手が子どもだと思って、いいかげんなことを言ってもらっては困りま
す!」と。

 その翌日その子どもと会ったので、それとなく話を聞くと、「(幼稚園からの)帰りのバスの中
で、A君につねられた」と。そのあと聞きもしないのに、ことこまかに話をつなげた。が、そのあ
とA君に聞くと、A君も「知らない……」と。結局その子どもは、何らかの理由で母親の注意をそ
らすために、自分でわざとアザをつくったらしい……、ということになった。こんなこともあった。

●「お前は自分の生徒を疑うのか!」

 ある日、一人の女の子(小四)が、私のところへきてこう言った。「集金のお金を、バスの中で
落とした」と。そこでカバンの中をもう一度調べさせると、集金の袋と一緒に入っていたはずの
明細書だけはカバンの中に残っていた。明細書だけ残して、お金だけを落とすということは、常
識では考えられなかった。そこでその落としたときの様子をたずねると、その女の子は無表情
のまま、やはりことこまかに話をつなげた。

「バスが急にとまったとき体が前に倒れて、それでそのときカバンがほとんど逆さまになり、お
金を落とした」と。しかし落としたときの様子を覚えているというのもおかしい。落としたなら落と
したで、そのとき拾えばよかった……?

 で、この話はそれで終わったが、その数日後、その女の子の妹(小二)からこんな話を聞い
た。何でもその女の子が、親に隠れて高価な人形を買ったというのだ。値段を聞くと、落とした
という金額とほぼ一致していた。が、この事件だけではなかった。そのほかにもおかしなことが
たびたび続いた。「宿題ができなかった」と言ったときも、「忘れ物をした」と言ったときも、その
つど、どこかつじつまが合わなかった。

そこで私は意を決して、その女の子の家に行き、父親にその女の子の問題を伝えることにし
た。が、私の話を半分も聞かないうちに父親は激怒して、こう叫んだ。「君は、自分の生徒を疑
うのか!」と。そのときはじめてその女の子が、奥の部屋に隠れて立っているのがわかった。
「まずい」と思ったが、目と目があったその瞬間、その女の子はニヤリと笑った。

ほかに私の印象に残っているケースでは、「私はイタリアの女王!」と言い張って、一歩も引き
さがらなかった、オーストラリア人の女の子(六歳)がいた。「イタリアには女王はいないよ」とい
くら話しても、その女の子は「私は女王!」と言いつづけていた。

●空中の楼閣に住まわすな

 イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせて
はならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世
界にハマるようであれば、注意せよという意味である。

このタイプの子どもは、現実と空想の間に垣根がなくなってしまい、現実の世界に空想をもちこ
んだり、反対に、空想の世界に限りないリアリティをもちこんだりする。そして一度、虚構の世
界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのように、まさに「ああ言えばこう言う」式の
ウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自覚しないのが、その特徴である。

●ウソは、静かに問いつめる

 子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」を繰り返しながら、最後は、「も
うウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めたり、はげしく叱れば叱るほど、子
どもはますますウソがうまくなる。

 問題は空想的虚言だが、このタイプの子どもは、親の前や外の世界では、むしろ「できのい
い子」という印象を与えることが多い。ただ子どもらしいハツラツとした表情が消え、教える側か
ら見ると、心のどこかに膜がかかっているようになる。いわゆる「何を考えているかわからない
子ども」といった感じになる。

 こうした空想的虚言を子どもの中に感じたら、子どもの心を開放させることを第一に考える。
原因の第一は、強圧的な家庭環境にあると考えて、親子関係のあり方そのものを反省する。
とくにこのタイプの子どものばあい、強く叱れば叱るほど、虚構の世界に子どもをやってしまう
ことになるから注意する。

++++++++++++++++++++

【FGさんからの相談より】

 ある日学校の保健室の先生から呼び出し。小学二年生になった息子を迎えにいくと、私に抱
きついて泣きじゃくる。

 理由を聞こうとすると、保健室の先生が、「昨夜から何も食べていないとのこと。昨夜もおな
かが痛く、嘔吐もしたとのこと……」と。

 しかし息子は、元気だった。昨夜の夕食もしっかりと食べたし、嘔吐もなかった。

 こうしたウソは、息子が三歳くらいのときから始まった。このままでは、仲間からウソつきと呼
ばれるようになるのではないかと、心配。どうしたらいいでしょうか。(神奈川県K市在住、FGよ
り)

++++++++++++++++++++

 ほかにもいくつかの事例が書いてあったが、問いただせば、ウソと本人が自覚する程度のウ
ソということらしい。それまでは、虚構の世界に、自らハマってしまうよう。

 このタイプの子どもは、自分にとって都合の悪いことが起こると、それを自ら、脳の中に別の
世界をつくり、自分をその中に押しこんでしまう。そしてある程度、何回もそれを反復するうち、
現実と虚構の世界の区別がつかなくなってしまう。

いわば偽の記憶(フォールスメモリー)をつくることによって、現実から逃避、もしくは現実的な
問題を回避しようとする。これを心理学の世界では、防衛機制という。つまり現実の世界で、心
が不安定になるのを避けるために、その不安定さを避けるために、自分の心を防衛するという
わけである。

 原因は……、理由は……、引き金は……、ということを、今さら問題にしても意味はない。幼
児期の子どもには、こうしたウソをつく子どもは珍しくない。ざっとみても、年長児のうち、一〇
〜二〇人に一人には、この傾向がある。やや病的かなと思われるレベルまで進む子どもでも、
私の経験では、三〇〜四〇人に一人。日常的に空想の世界にハマってしまうようであれば、問
題だが、そんなわけで、ときどき……ということであれば、つぎのように対処する。

(3)その場では、言うべきことを言いながらも、決して、追いつめない。子どもを窮地に立たせ
れば立たせるほど、立ちなおりができなくなる。完ぺき主義の親ほど、注意する。

(4)小学三、四年生を境に、自己意識が急速に発達し、子ども自身が自分で自分をコントロー
ルするようになるので、その時期を目標に、つまりそういう自己意識で自らコントロールできる
ような布石だけはしておく。ウソをつけば、友だちに嫌われるとわかれば、またそういう経験を
実際にするうちに、自分で自分をコントロールするようになる。

 子ども(幼児、小学校の低学年児)のばあい、ウソを強く叱ると、「ウソをついたこと」を反省す
る前に、恐怖を覚えてしまい、つぎのとき、さらにウソの世界が拡大してしまうことになる。ウソ
は相手にしない。ウソは無視するという方法が、好ましい。しかし子どもが病的なウソをつくよう
になると、ほとんどの親はあわててしまい、「将来はどうなる?」「このままではうちの子は…
…?」と、深刻にに騒ぐ。

 しかし心配無用。人間は、どこまでも社会的な動物である。その社会でもまれることにより、
また、自己意識が発達することにより、自ら自分を修復する能力をもっている。大切なことは、
この自己修復能力を、大切にすること。この相談のFGさんのケースでも、ここ数年のうちに、
子どものウソは、急速に収まっていく。要は、今、あわてて症状をこじらせないこと。
(はやし浩司 虚言 ウソ 嘘 空想的虚言 虚言癖 子どもの嘘 子どものウソ)

++++++++++++++++++

【HGさんへ(2)】

 いただきましたメールによれば、やや病的な虚言癖があると思われます。(叱る)→(ますま
すウソがうまくなる)→(ますます強く叱る)の悪循環の中で、ウソがウソと自覚できる範囲を超
えて、虚構の世界にまで、子どもを追いこんでしまっているような感じがします。

 どこか育児姿勢が、過干渉ぎみ、もしくは過関心ぎみになっていないかを、反省してみてくだ
さい。今の状態では、はげしく説教したり、道理をわからせようと無理をしても、それをすれば
するほど、逆効果です。

 こういうときは、つまりウソとわかった段階で、無視するのが一番です。子どもに白状させるま
で、子どもを追いこんでも意味がありません。また追いこんではいけません。(あるいはあなた
自身が、お子さんに、根強い不信感をもっているのかもしれません。あるいはあなた自身が、
子どもに心を開いていない可能性もあります。不安先行型、心配先行型の子育てをしていませ
んか。頭から、ウソと決めてかかっている、など。)

 あなたはおとななのですから、そして親なのですから、一歩、退いて子どもを包むようにして
みる必要があります。子どもに対して、対等意識が強すぎると思います。相手は、子どもです。
未熟で未完成で、その上、未経験です。

 (それとも、あなた自身は、ウソをつかない、聖人のような人でしょうか?)

 子どもは、よくウソをつきます。そういうとき大切なことは、それを叱ることではなく、相手にし
ないことです。もちろん重要なことで、ウソを言うなら、それについては叱らねばなりません。
が、ほとんどのばあい、その段階では、すでに、症状はかなりこじれているとみます。

 大切なことは、子どもの虚言癖をなおそうとしないこと。簡単には、なおりません。大切なこと
は、今の状態をより悪くしないことだけを考えて、数か月単位で、様子をみることです。

 まずいのは、無理になおそうとすることです。ウソをつくことを責めるのではなく、なぜウソを
つくのか。ウソをつかねばならないのか。またそこまでなぜ、あなたが子どもを追いつめるの
か。それを謙虚に反省すべきです。

 きびしいことを書きましたが、この問題は、一見、子どもの問題のように見えますが、実は、
あなたという親の問題です。もっとはっきり言えば、あなたの育児姿勢そのものに問題があり、
そしてそれが結果として、今の状態をつくりだしているということです。

 ですから、つぎのことを守ってください。

(1)一応、冷静に、子どもの話を聞き、おかしいと思うことは言う。しかし証拠をつきつけて叱っ
たり、追いつめてはいけません。
(2)言うべきことは言いながらも、あるところで、さっと引きさがります。こうした虚言癖のある子
どものばあい、とことん追いつめるのは、タブーです。
(3)あとは暖かい無視を大切に。子どものウソは、相手にしないこと。叱っても、恐らく今の段
階では、(叱られじょうず)になっているので、意味はありません。
(4)あとは半年単位で様子をみますが、子どもの心を開放させることも忘れないように。母子
の間の信頼関係が、かなり不安定な状態にあるとみます。
(5)もう少し年齢が大きくなると、自己意識が育ってきます。その自己意識を、大切に伸ばしま
す。自分で考え、自分で行動する力を養います。

 以上ですが、あくまでもここに書いたことは参考意見です。学校の先生とも緊密に連絡をと
り、ていねいに対処してください。

 今が最悪の状態ではなく、この状態をさらにこじらせると、もっとやっかいな状態になります。
そのためにも、今の状態を、これ以上悪くしないことだけを考えて、対処します。どうかくれぐれ
も、ご注意ください。
(040607)

【追伸】

 話せば長くなりますが、あなた(母親)と、子どもの間の関係についても、冷静に反省してみて
ください。

 あなたはあなたの子どもを、生まれたときから、全幅に信頼していたかという問題です。もし
そうなら、それでよし。そうでなければ、あなた自身が、もっと子どもを信頼して、心を開かなけ
ればなりません。

 ある母親は、自分の子どもが母親のサイフから、お金を盗んで使っていたことについて、一
応は叱りながらも、内心では、「だれでも一度はするものよ」と、笑ってすませたといいます。

 そういう(笑ってすます)ような度量は、結局は、親子の信頼関係から生まれます。あなたも、
そういう度量がもてるように、努力してみてください。

 あんたのウソなんか、私には通用しませんよ。ハハハ、バカめ!、と。




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10

●学費

●切り捨て御免

 開拓時代からの伝統かもしれない。アメリカでは、教会を中心とした、互助精神が、きわめて
よく発達している。「きわめて」というのは、あくまでも日本と比較しての話だが、二男(アメリカ
在住)が少し前、こんな話をしてくれた。

 私が「もし、お前が失業したら、お前たちの生活はどうなるのか?」と聞いたときのこと。二男
は、こう言った。「教会のみんなが助けてくれる。そのために、ぼくたちは今、そういうふうに困
っている人を、みんなで助けている」と。

 具体的には、生活のめんどうまでみるのだそうだ。

 弱者にどれだけやさしい社会かで、文明の高さは決まる。モノや金ではない。立派なビルや
道路ではない。心の豊かさで、決まる。

 が、かたやこの日本では、おかしな封建思想が、いまだに大手を振って、大道を歩いてい
る。その一つが、「切り捨て御免」。

 映画『ラストサムライ』に中で、こんなシーンがあった。

 武士たちが戦場から帰ってきたとき、村人たちは、その武士たちを、立ったまま、頭をさげて
迎えていた。しかしあれはウソ。

 明治のはじめでさえ、田舎のほうでは、農民や町民は、士族(旧武士階級)の人たちとは、頭
をあげて、視線を合わせることなど、絶対にできなかったという。

私はその話を、当時生きていた人たちから、直接聞いたことがある。「刀の鞘(さや)が、遠くか
らカチャカチャと聞こえてきただけで、みんな、道端により、そこで地面に頭をつけて通りすぎる
のを待ちました」と。

 武士にたてついたら、最後。その場で、クビを切り落とされても、文句は言えない。それを昔
は、「切り捨て御免」といった。もっとも、江戸時代といっても、300年もつづいた。江戸時代の
終わりごろには、さすがにそういうことはなかったというが、しかし武士階級がもつ傲慢(ごうま
ん)さが、消えたというわけではない。

 こう書くからといって、私は何も、武士道を否定しているのではない。しかし安易な美化論に
は、はげしい嫌悪感を覚える。封建時代がどういう時代であったかという反省もないまま、武士
道だけを一方的に美化するのは、危険なことでもある。

 たとえばここでいう「切り捨て御免」にしても、そうした精神は、日本の社会の随所に残ってい
る。

 私が子どものころには、まだ職業による身分差別が、色濃く残っていた。今でも広く差別問題
が議論されているが、そうした「差別」は、ごく当たり前のことだった。職業だけではない。

 外国から来た人、身体に障害のある人などなど。そういう人たちは、日本の社会から排斥さ
れていた。が、それだけではない。事業に失敗した人、貧しい人、そういう人たちですら、日常
的に、差別されていた。

 こうした差別意識、そしてそれにつづく、弱者、敗者への差別意識は、まさに封建時代の負
の遺産といってもよい。そしてそれが今でも、日本字独特の(冷たさ)となって、残っている。

 もちろん子育てとて、例外ではない。

 少し話はそれるが、以前、その(冷たさ)をテーマに、こんな原稿(中日新聞投稿済み)を書い
たことがある。

+++++++++++++++++

子育てには、本当にお金がかかりますね。
どうしてこんなにかかるのでしょうか?
しかたないと思う前に、ちょっとだけ
みんなで考えてみましょう。

+++++++++++++++++

●大学生の親、貧乏ざかり

 少子化? 当然だ! 

都会へ今、大学生を一人出すと、毎月の仕送りだけで、月平均11万7000円(九九年東京地
区私大教職員組合調べ)。もちろん学費は別。が、それだけではすまない。

アパートを借りるだけでも、敷金だの礼金だの、あるいは保証金だので、初回に40〜50万円
はかかる。それに冷蔵庫、洗濯機などなど。パソコンは必需品だし、インターネットも常識。…
…となると、携帯電話のほかに電話も必要。入学式のスーツ一式は、これまた常識。世間は
子どもをもつ親から、一体、いくらふんだくったら気がすむのだ! 

 そんなわけで昔は、「子ども育ち盛り、親、貧乏盛り」と言ったが、今は、「子ども大学生、親、
貧乏盛り」と言う。大学生を二人かかえたら、たいていの家計はパンクする。

 一方、アメリカでもオーストラリアでも、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、さがさなけ
ればならないほど、少ない。たいていは奨学金を得て、大学へ通う。企業も税法上の控除制度
があり、「どうせ税金に取られるなら」と、奨学金をどんどん提供する。

しかも、だ。日本の対GNP比における、国の教育費は、世界と比較してもダントツに少ない。
欧米各国が、7〜9%(スウェーデン9・0、カナダ8・2、アメリカ6・8%)。日本はこの十年間、
毎年4・5%前後で推移している。大学進学率が高いにもかかわらず、対GNP比で少ないとい
うことは、それだけ親の負担が大きいということ。

日本政府は、あのN銀行という一銀行の救済のためだけに、4兆円近い大金を使った。それだ
けのお金があれば、全国200万人の大学生に、一人当たり200万円ずつの奨学金を渡せ
る!

 が、日本人はこういう現実を見せつけられても、だれも文句を言わない。教育というのはそう
いうものだと、思い込まされている。いや、その前に日本人の「お上」への隷属意識は、世界に
名だたるもの。戦国時代の昔から、そういう意識を徹底的に叩(たた)き込まれている。

いまだに封建時代の圧制暴君たちが、美化され、大河ドラマとして放映されている! 日本人
のこの後進性は、一体どこからくるのか。親は親で、教育といいながら、その教育を、あくまで
も個人的利益の追求の場と位置づけている。

 世間は世間で、「あなたの子どもが得をするのだから、その負担はあなたがすべきだ」と考え
ている。だから隣人が子どもの学費で四苦八苦していても、だれも同情しない。こういう冷淡さ
が積もりに積もって、その負担は結局は、子どもをもつ親のところに集中する。

 日本の教育制度は、欧米に比べて、30年はおくれている。その意識となると、50年はおくれ
ている。かつてジョン・レノンが来日したとき、彼はこう言った。「こんなところで、子どもを育てた
くない!」と。

「こんなところ」というのは、この日本のことをいう。彼には彼なりの思いがいろいろあって、そう
言ったのだろう。が、それからほぼ三十年。この状態はいまだに変わっていない。もしジョン・レ
ノンが生きていたら、きっとこう叫ぶに違いない。「こんなところで、孫を育てたくない」と。

 私も三人の子どもをもっているが、そのまた子ども、つまりこれから生まれてくるであろう孫の
ことを思うと、気が重くなる。日本の少子化は、あくまでもその結果でしかない。

++++++++++++++++++

 このエッセーの中で、私が一番言いたかったことは、つぎの部分。

……世間は世間で、「あなたの子どもが得をするのだから、その負担はあなたがすべきだ」と
考えている。だから隣人が子どもの学費で四苦八苦していても、だれも同情しない。こういう冷
淡さが積もりに積もって、その負担は結局は、子どもをもつ親のところに集中する。

 日本人は、元来、やさしい民族かもしれない。そこまでは否定しない。しかし社会のしくみとな
ると、そうではない。冷たい。とくに弱者、敗者には、冷たい。私はその(冷たさ)こそが、まさに
封建時代の負の遺産だと思う。

 そのことは、たとえば隣のK国をみればわかる。K国では、せっかく世界が食糧援助をして
も、まず幹部や軍人たちがそれを横取りしてしまうという。日本の封建時代の武士階級も、似
たようなものだった。つまり今の今でも、日本は、その(冷たさ)を、引きずっている。その一つ
が、子育ての世界にも残っているということ。

 勝てば官軍。負ければ賊軍。そういう思想が、回りまわって、日本独特の冷たい社会をつくっ
た。そしてそれが、子育ての場にも、残っている……というのは、少し考えすぎだろうか。

【学費は親の負担?】

 明治のはじめ、今にみる学校制度ができた。
 そのとき、上級学校(中等学校)へ進学できるのは、士族、華族、豪商の子弟など、ごくかぎ
られた子どもたちだけであった。ふつうの子どもたちは、義務教育の尋常(じんじょう)小学校を
出るだけで、精一杯。

 その先の上級学校(高等学校、帝国大学)となると、学費も高額になった。ふつうの家庭の子
どもでは、教科書一冊買えなかったという記録も、残っている。

 つまり時の明治政府は、旧幕府時代の身分制度を、学歴制度に置きかえて、士族、華族の
特権を守った。

 もちろん、だれの目にも教育は必要だった。それに日本が、他のアジア諸国にくらべて、より
はやく先進国の仲間入りができたのは、日本の教育制度のおかげだった。それはだれも否定
しない。

 しかしこうした流れの中で、つまり学歴制度が、もともと差別を目的としたものであったため
に、「学費は親が負担すべきもの」という日本的な常識が、できあがっしまった。わかりやすく言
えば、当時の日本、つまり明治時代においては、学費の出せる人と、そうでない人で、人間を
選別していたということになる。

 アメリカの学生ともなると、親のスネをかじって大学へ通っている子どもなど、さがさなければ
見つからないほど、少ない。ほとんどは奨学金を得て通っているか、あるいは自分で借金をし
て通っている。

 さらに今では、(30年前もそうだったが……)、入学後の転学は自由。入学後も、転校は自
由。アメリカの学生たちは、「お金を出して、よりよい知識を買う」と意識を、はっきりともってい
る。

 こうしたもろもろのちがいが、集合されて、今に見る、日本とアメリカの大きなちがいを作っ
た。




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11

●自立と孤独

【共同体志向YS個人化】
 
●依存性と孤独

 子どもは、その年齢になると、家族から離れて、独立しようとする。これを心理学では、「個人
化」という。

 その個人化には、孤独感がともなう。いいかえると、孤独感といかにして戦うかが、個人化の
成否を決める。

 ……少し、むずかしい話で、ごめん。

 要するに、ひとり立ちすればするほど、孤独感は強くなるということ。

 一方、家族や仲間、親類の中に身を置けば、それなりに孤独感はいやされる。そこで子ども
は、(おとなもそうだが……)、家族や仲間、親類とのつながりを深めようとする。これを、心理
学では、「共同体志向」と呼ぶ。

 わかりやすく言えば、依存性のこと。

 個人化と共同体志向は、ちょうど、相対立する関係にある。同じように、孤独感と依存性は、
ちょうど、相対立する関係にある。

個人化を進めれば進めるほど、人は孤独感を覚える。その孤独感をいやすために、人は、家
族や仲間、親類とのつながりを求めるようになる。

 大切なことは、そのバランス。極端な個人化は、その子どもをして、どこか偏屈な人間にす
る。

 一方、これまた極端な共同体志向は、ベタベタな人間関係をつくりやすい。その子どもをし
て、自立できない、ひ弱な人間にする。

 もともと日本人は、欧米人とくらべたばあい、共同体志向の強い民族と言われている。親子
でも、ベタベタの人間関係をつくりながら、その温もりの中に、どっかりと身を置き、孤独感をい
やそうとする。

 またまた、むずかしい話で、ごめん。

 結論を先に言えば、子どもを自立させるということは、いかにして孤独に強い子どもにするか
ということにもなる。

 今日は朝から一日、ずっと、この問題について、考えていた。つづきは、電子マガジンのほう
で……。7月12日号のマガジン(無料版)に掲載するつもり。

では、おやすみなさい。

++++++++++++++++++

●共同体志向

 共同体(仲間)の中で、「個」を押し殺して生きていくことは、それ自体は、たいへん居心地が
よいものである。ベタベタの人間関係。その中で、ベタベタに甘えながら生きていく……。

 こうした人間関係は、今でも、田舎のほうへ行くと、よく見られる。

 濃密な近所づきあい。濃密な親戚づきあい。濃密な親子関係など。

 しかしこうした共同体志向が強ければ強いほど、その人は、「個」の確立ができなくなる。わ
かりやすく言えば、「私は私」という生き方ができなくなる。だいたいにおいて、共同体が、それ
を許さない。『出るクギはたたかれる』という諺(ことわざ)は、そういうところから生まれた。

 こうした関係は、よくカルト教団内部で、観察される。

 世間の評判はともかくも、カルト教団内部では、信者どうしは、兄弟以上の兄弟、親子以上の
親子関係になる。親密になる。その居心地のよさこそが、カルト教団の魅力ということにもな
る。

 しかし信者自身は、自分が「個」を犠牲にしているとは、思わない。教祖、もしくは指導者の人
間ロボットになりながらも、「自分は正しいことをしている」と思いこまされる。「思いこまされる」
というよりは、自ら、そう思いこむ。

 濃密な近所づきあい。濃密な親戚づきあい。濃密な親子関係。これを繰りかえす人にも、同
じような傾向が見られる。個性があるようで、どこにもない。みんなと同じような生き方をしなが
ら、そう生きることが正しい道だと思いこんでいる。

 が、それだけではない。

 共同体(仲間)とちがった生き方をする人を、「変わり者」とか言って、排斥する。相手の立場
で、相手の問題を考えようとさえしない。共同体とちがった生き方そのものを、認めない。

 少し前、カナダに住んでいる女性の話を書いた。その女性はカナダ人と結婚して、現在は、
バンクーバー市に住んでいる。

 そういう遠方に住んでいることもあって、母親が倒れたとき、日本へ、すぐに来ることができな
かった。が、その女性に対して、その女性の伯父にあたる人が、「この親不孝者め!」と。カナ
ダから帰ってきた夜、実家に泊まったことについても、「娘なら、徹夜で看病すべきだ」と。

 つまり自分の価値観を一方的に、押しつけてくる。

 こうした傲慢さは、共同体志向の強い人の特徴でもある。背後に大きな共同体をかかえてい
るから、その分だけ、強い。ものの考え方、言い方が、どこか確信的になる。

 一方、共同体志向が弱く、「個」を中心とした生き方をしている人は、どうしても相対的に弱い
立場に立たされる。「生きていくのは、私」「私は、ひとりで生きている」という状態に立たされ
る。

 日本人は、元来、この共同体志向がきわめて強い民族である。なぜそうなったかということに
ついては、いろいろ議論もあるだろう。しかし今、結果として、そうである。

 私が子どものころには、さらに強かった。

 私の父母にしても、親戚にしても、たがいに濃密な、(つまりベタベタな)人間関係をつくり、そ
れが無数のクモの糸のように、複雑にからんでいた。何かにつけ、叔父、叔母がそこにいて、
それにさらに無数の縁者が、からんでいた。

 近所づきあいが、さらにその上に、からんでいた。

 こういう世界で、「個」を追求することなど、夢のまた夢。共同体志向の強い人たちは、そこに
一種、独特の世界を構成する。そしてその世界が、地球の中心であるかのような錯覚をする。

 こうした共同体志向の強い人のものの考え方をまとめると、こうなる。

(1)自己中心性(自分が正しいと思いこむ)
(2)独尊性(自分の住む世界が、世界の中心と錯覚する)
(3)排他性(共同体にそぐわない人間を、排斥する)
(4)相互監視性(相互に、こまかく監視し、干渉する。世間体という言葉をよく使う)
(5)相互隷属性(封建的な上下意識が強く、上下関係を作りやすい)
(6)異常な依存性(他人や、共同体内部の人間に依存性をもつ)
(7)仮面性(共同体を個に優先させるため、仮面をかぶりやすい)
(8)無責任性(他人に甘く、また自分にも甘い。ナーナーの人間関係をつくる)
(9)冠婚葬祭中心型社会(ことさら冠婚葬祭を重要視する)
(10)カルト性(自分の考え方は絶対正しいと思いこむ)

 共同体志向が強ければ強いほど、共同体の利益、関係を重要視する。そのため、自ら「個」
を押し殺す。あるいは自分をだましたり、ごまかしたりする。いわゆる仮面をかぶることが多く
なり、共同体の中では、いい人ぶる。善人ぶる。波風をたてるよりは、円満な人間関係を大切
にする。

 こうした社会は、それを受け入れる人には、たいへん住み心地のよい世界である。

 それなりにまじめ(?)に生活をし、それなりに良好な関係を保っていれば、自分もよい人と見
られる。それなりに尊敬もされる。が、最大のメリットは、その中で、生きることにまつわる、「孤
独」をいやすことができる。

●個人化

 こうした共同体志向に対して、子どもは成長とともに、共同体から離れ、個人として生きたい
という願望が生まれる。これを心理学の世界でも、「個人化」という。

 家族という束縛から、自らを解放し、その影響力のおよばない、遠くへ行きたいという願望
が、それである。
 
 私も、日本の大学を卒業して、オーストラリアへ渡るとき、留学先をどこの大学にしたいかを
たずねられたとき、こう答えた。「日本から一番、遠いところにある大学を望みます」と。

 こうした感覚は私だけのものかと思っていたら、最近、私の息子が同じことを口にしたのに
は、驚いた。「パパ、ぼくは日本から一番遠いところにある大学で、英語の勉強したい」と。

 個人化というときは、つぎの項目を、意味する。

(1)家族からの解放
(2)地域社会からの解放
(3)伝統、文化からの解放

 個人化するときは、当然のことながら、そのつど、自分の中の共同体志向性と戦わねばなら
ない。しかしそれは、同時に、孤独との戦いを意味する。

●孤独との戦い

 孤独とは、究極の地獄と考えてよい。

 イエス・キリスト自身も、その孤独に苦しんだ。マザーテレサは、つぎのように書いている。こ
の中でいう「空腹(ハンガー)」とは、孤独のことである。

When Christ said: "I was hungry and you fed me," he didn't mean only the hunger for bread 
and for food; he also meant the hunger to be loved. Jesus himself experienced this 
loneliness. He came amongst his own and his own received him not, and it hurt him then and 
it has kept on hurting him. The same hunger, the same loneliness, the same having no one to 
be accepted by and to be loved and wanted by. Every human being in that case resembles 
Christ in his loneliness; and that is the hardest part, that's real hunger. 

 キリストが言った。「私は空腹だった。あなたが食事を与えてくれた」と。彼はただ食物として
のパンを求める空腹を意味したのではなかった。彼は、愛されることの空腹を意味した。キリ
スト自身も、孤独を経験している。つまりだれにも受け入れられず、だれにも愛されず、だれに
も求められないという、孤独を、である。彼自身も、孤独になった。そしてそのことが彼をキズつ
け、それからもキズつけつづけた。どんな人も孤独という点では、キリストに似ている。孤独は、
もっともきびしい、つまりは、真の空腹ということになる。

 あのアリストテレスでさえ、「世界中のあらゆるものを手に入れたとしても、だれも、孤独
(friendless condition)は選ばないだろう(No one would choose a friendless existence on 
condition of having all the other things in the world. )」と述べている。

 孤独を、安易に考えてはいけない。「生きるということは、まさに孤独の闘い」と言っても、言
い過ぎではない。と、同時に、それは個人化が、いかにけわしい道であるかを意味する。

 もっとも若いときは、その孤独の意味すらわからない。健康で、死への恐怖もない。毎日がス
リルと興奮の連続。そんな感じですぎていく。孤独を感ずることがあるとするなら、何かのことで
つまずき、ふと立ち止まったようなときだ。

 「私は私」という生きザマを貫くことは、同時に、その孤独を背負うことを意味する。その孤独
に耐えた人だけが、「私は私」という生きザマを貫くことができる。そうでない人は、「私は私」と
いう生きザマを放棄し、共同体志向の中で、身をいやすことになる。

 ……というふうに、簡単には図式化できない部分もあるが、しかしこの言い方は、おおむねま
ちがっていないと思う。問題は、どうすれば、「私は私」という生きザマを貫きながら、それにま
つわる孤独と戦うことができるかということになる。

 そのヒントとして、マザーテレサは、「愛」があると、書いている。

●ムラ意識としての、共同体志向

 敵をつくらない。あたりさわりのない人生。与えられた範囲で、静かに、仮面をかぶりながら
生きていく。親類の中や、近隣社会で、冠婚葬祭があれば、ほどよくそれとつきあい、うしろ指
をさされたり、嫌われることだけは、避ける。

 こうした生きザマが、いかに居心地のよいものであるかは、それを知っている人は知ってい
る。ほどほどの幸福感。ほどほどの満足感。そして充足感。何よりも、すばらしいのは、その中
にどっぷりとつかっていると、孤独感そのものが、いやされる。

 多くの日本人は、そして日本の若者たちは、個人化をめざし、その中でもがき苦しむうちに、
やがて共同体の中に組み込まれていく。自ら、それを求めていくこともある。

 ある男性は、若いころは、きわめて個人化志向の強い人だった。そういう男性でも、ほぼ10
年単位で会ううちに、彼が、どんどんと変化していくのを感じた。

 丸くなったというか、穏やかになったというか……? それをこの日本では、円熟という。しか
しその分だけ、若いころのあの燃えるような情熱は、消えうせていた。いくら何かを話しかけて
も、「敵をつくらない」という、どこか奥歯にものをはさんだような、ものの言い方をする。

 が、それは、同時に、私という人間を警戒していることを示す。「林を味方にすれば、すべて
の人を敵に回すぞ」と。

 もちろんそういうことはないのだが、共同体志向の強い人にすれば、私のような生き方をして
いる人間は、要注意人間ということになる(?)。……らしい。

 私もそれがわかるから、最近は、居なおって生きている。もっとはっきり言えば、相手にしな
い。「どうせ、そういう人たちには、私の生きザマなど理解できないだろう」とか、「あの人たち
は、あの人なりに、ハッピーなのだから、そっとしておいてやろう」とか、そんなふうに考える。

 多くの人は、共同体志向と、個人化のはざまでもがき、苦しみながら、そしてその間を行った
り来たりしながら、やがては、共同体志向を強めていくものなのか。こう決めてかかるのは危険
なことかもしれないが、そのカギを握るのが、私は、孤独だと思う。

 ずいぶんと荒っぽい意見を書いてしまったようだが、この先は、もう少し時間をおいて考えて
みたい。書いている私自身が、「そうかな?」とか、「そうとは言い切れないのでは?」と思いな
がら書いているのだから、どうしようもない。

 どこか無責任な意見を、どうか許してほしい。みなさんは、私の意見をどう思うだろうか。私
は、その(どう思うか)という部分が、あなたの個人化の表れだと思うのだが……。
(040610)
(はやし浩司 個人化 共同体志向 孤独 孤独論)

【追記】

 共同体志向性の強い人は、私のような生きザマを認めない。認めること自体、自分たちの敗
北を認めることになる(……らしい)。

 たとえばA氏(65歳くらい)という男性がいる。ときどき、私が書いた本や原稿を盗み読みし
て、「林は、偉そうなことばかり書いている」と批評する。部分的な記述をとらえて、私を攻撃し
てくることもある。「林は、お前のことを、こんなふうに書いている」と、別の人に、つげ口をする
こともある。

 が、そのA氏自身はどうかというと、自分では、何もしない。もちろん自分の意見を発表しな
い。いつも小さな穴にひっこんでいて、まわりの様子をうかがっているだけ。静かに、穏やか
に、敵をつくらないように生きることが、(完成された人間)の生き方だと思っているようなところ
がある。

 そのA氏だが、私に、いろいろなことを言った。

 「林君、総理大臣なんかなっても、意味はないよ。30年もすれば、名前だって忘れられるよ」
 「人間は、ひとりでは生きていかれないよ」と。

 ことさら冠婚葬祭にはこだわっていて、「その人の人生は、その人の葬式をみればわかる」と
言ったこともある。そのせいかどうかは知らないが、私にも、こう言った。

 「林君、ぼくは、君には何も望まないが、ぼくが先に死んだら、線香の一本だけでいいから、
頼むよな」と。

 (どうして日本人は、こうまで葬式にこだわるのか? ……今、ふと、そんな疑問が生じた。こ
の問題は、また別のところで考えてみたい。※)

 私自身は、A氏のような生き方には興味はないし、そういう生き方がすばらしいとは思わな
い。A氏は、Aさんの住んでいる地域で、それなりにハッピーな生活をしているのだから、私が、
とやかく言う必要はない。また言ってはならない。それがわかるから、私は相手にしない。

 が、どうして反対に、私のような生き方を認めてくれないのかということになる。私のことなど
かまわないで、放っておいてほしいと思うのだが、いつもあれこれちょっかいを出してくる。

 そう、A氏は、あたかも私が失敗するのを、楽しみにしているかのようなところがある。私が失
敗したとき、「それみろ!」と言うのを、どこかで心待ちにしているような雰囲気さえある。「林の
ような生き方が、うまくいくはずがない。やっぱり、林は、ああなった」と。

 ああ、いやだ! A氏よ、もう私の書く文章なんか気にしないでほしい! 

【※補記】

 結果にこだわる生き方は、チベットの山岳密教に、色濃く残っている。日本に伝わる大乗仏
教は、釈迦仏教というより、この山岳密教の影響を強く受けている。三蔵法師は、そのチベット
までしか行っていない? もう少しがんばって、ガンダーラを回って、インドまで行っていてくれ
たら、こういうことはなかったのに、と、私は、そう思っている。

 「今」を懸命に生きる。結果は、そのあとをついてくる。どういう死に方をしても、それでその人
の人生が、総括されるものではない。

 共同体志向性の強い人は、当然のことながら、(人とのつながり)を最優先する。冠婚葬祭を
重要視するのも、そのため。とくに、葬儀を大切にする。

 もちろん死者をていねいに弔うのは、その人の「生」を大切にするためにも、重要。しかし意
味もない葬儀も、少なくない。儀礼だけの葬儀も、少なくない。しかしそういう葬儀は、かえっ
て、死者を冒涜(ぼうとく)することになるのではないか。

 この先のことは、まだ私にも、よくわからないが……。多分、私自身はどこかの老人ホーム
で、ひとり静かに死ぬことになるのだろう。死体は、そのままホルマリンか何かにつけられて、
大学の死体安置室へ。

 そういう私の死にザマを知ったら、きっとあのA氏は、喜ぶだろうな。ハハハ。




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12

【母親、三態】

●独立を許さない親

 子どもが、親から離れ、独立していくのを許さない親がいる。子育てを生きがいにしてきた、
どこか溺愛タイプの父親、母親に、多い。

 最初に申し添えるなら、溺愛は、「愛」ではない。自分の心のすき間を埋めるための、自分勝
手な愛をいう。もともと情緒的に未熟な人、精神的に未完成の人が、何らかのきっかけで、溺
愛に走るケースが、多い。

 ある母親は、自分の一人娘が結婚したあと、その娘にこう言ったという。「あなたを、一生か
かって、のろい殺してやる。親を捨てるとは、どういうこと。あなたが地獄へ落ちるのを楽しみに
している」と。

 この話は、本当にあった話である。ワイフが、その女性に会って、直接、確かめている。そし
て私には、こう言った。「世の中には、いろいろな親がいるのねえ」と。

 が、その子ども自身にとっても、これは不幸なことである。

 親が、子どもを溺愛し、その結果、子どもの自立、独立を許さないのは、親の勝手。親のエ
ゴ。が、そのエゴにからまれ、もがき苦しむ子どもも、少なくない。

 前にも書いたことがあるが、実母の葬式に出なかったことを、いまだに悔やんでいる男性(5
5歳)がいる。実母は、10年ほど前、その男性が45歳のときに、なくなっている。

 いろいろ人には言えない事情があるらしい。それはそれとして、問題は、なぜその男性が、
悔やむかということ。もし私がその母親なら、天国なら天国からでもよいが、その男性にこう言
うだろう。「気にしなくてもいいのよ! あなたはあなたで、幸福になってね」と。

 子どもは、ある年齢に達すると、「家族」というワク、これを心理学の世界では、「家族自我
群」というが、そのワクから、のがれようとする。最初は、抵抗、反抗という形で、それを表現す
る。ときに家族、なかんずく親を否定することもある。

 こうしたを心理学の世界では、「内的促し」という。「内的」というのは、心の世界をいう。肉体
を「外的」というのに対して、精神を「内的」という。子どもは、自立、独立するために、精神の完
成を自ら、求めるようになる。

が、こうした子どもの行為に対して、とくにこの日本では、それを悪いことと決めてかかる傾向
が強い。親に反抗しただけで、「親に向かって、何だ!」と、怒鳴り散らす父親や母親は、多
い。「非行」というレッテルを張ることも珍しくない。

 これを「内的つぶし」という。この言葉は、私が考えたものだが、親自身が、子どもの自立や
独立を、つぶしてしまうことも、珍しくない。そしてさらにその結果として、子どもは、自ら、罪悪
感をもつようになる。先の男性が、その一例である。

 「私は、親の葬儀にも出なかった。私は、できそこないの息子だ」と。

 子どもは、小学3、4年生をさかいに、急速に親離れを始める。生意気になり、親に口答えす
るようになる。反抗もするようになる。しかしそれは、国際的な基準でみるかぎり、ごく自然な
(流れ)であり、そういう流れの中で、子どもは、自立していく。

 もちろん日本には日本の風土、文化というものがある。親子関係も、どこか特殊? いまだ
に「父親に求められるのは、威厳である」と説く人も、少なくない。最近では、家庭教育に武士
道をもちだす人まで、現れた。

しかしそれらは、ほとんどのばあい、どこか不自然な子育て観といってもよい。日本の子どもだ
けは特別と考えるのは、おかしい。日本式の子育てが正しくて、外国の子育てはおかしいと考
えるのは、さらにおかしい。安易にそれを受け入れれば受け入れるほど、あなたは、(自然な
形での子どもの姿)を見失う。


●子どもを支配する親

 「代償的過保護」という言葉がある。

 ふつう、過保護というときは、その背景に、親の深い愛情がある。その愛情が、転じて、親は
子どもを、保護過多、つまり過保護にする。

 が、代償的過保護には、その背景に、親の深い愛情があっても、希薄。子どもを自分の支配
下に置いて、子どもを自分の思いどおりにしたいという過保護を、代償的過保護という。

ただ、この代償的過保護は、見た目には、過保護と、たいへんよく似ている。区別がつかな
い。それにたいていのばあい、子どもに対して代償的過保護を繰りかえしながら、親自身は、
それを親の深い愛情と誤解している。

よくある例は、「子どもはかわいい」「かわいい」を口ぐせにしながら、その一方で、子どもが、自
立したり、独立していくことを、許さない、など。「渡る世間は鬼ばかり」と、子どもを、ほとんど外
出させなかった母親もいる。子どもといっても、30歳を過ぎた子どもである。

 ……というような話は、前にも書いた。

 ここでは、その先を書く。

 こうした代償的過保護のもとで育つと、子どもは、当然のことながら、自立できない、ひ弱な
子どもになる。(反対に、親に猛反発する子どももいる。その割合は、7対3くらい。)

 が、それだけではない。

 子どもは、ある年齢に達すると、急速に親離れを始める。自立のための準備期間に入る。そ
の年齢は、小学3、4年生ごろ、満10歳前後とみる。

 これを発達心理学の世界では、「内的促し」(ボーエン)という。このころから、子どもは、自立
をめざし、内的、つまり精神面での完成をめざすようになる。

 この時期、子どもは、家族的自我群(家族としてのまとまりのある意識)から逃れ、自分を確
立していく。が、ここで誤解してはいけないのは、内的促しをするからといって、その子どもが、
家族を否定するようになるのではないということ。

 子どもは、内的促しをしながら、その一方で、家族との調和をはかる。つまりこうして子ども
は、精神的にバランスのとれた人間へと、成長していく。

 が、代償的過保護のもとで育つと、子どもは、この精神の発達を、阻害(そがい)されることに
なる。そしてその結果、自立できないばかりか、現実検証能力を失う。30歳をすぎても、親の
サイフからお金を盗んで使っていた男性がいた。親といっても、安い給料の、サラリーマンだっ
た。

 自分で、してよいことと、悪いことの区別がつかなくなる。自分ですべきことと、してはいけない
ことの区別がつかなくなる。

 総じて言えば、代償的過保護には、親の過関心と過干渉がともなう。ある女性は、こう言っ
た。「母が兄を見る目つきは、いつもキリで心を突き刺すように、鋭かった」と。親自身の精神
的未熟性がその背景にあるので、問題の解決は、容易ではない。

 なお、子どもの受験勉強に狂奔する親がいる。明けても暮れても、頭の中は、子どもの進学
問題でいっぱい。……というような親は、ここでいう代償的過保護傾向の強い親とみてよい。一
見、子どもの将来を心配しているようだが、その実、自分の不安や心配を、子どもにぶつけて
いるだけ。

 もう少し極端な例としては、ストーカーがいる。嫌われても嫌われても、その男性(女性)をお
いかけまわす。相手が迷惑していることすら、理解できない。つまり自分が置かれた現実を理
解できない。

 少し話がバラバラになってきたので、この話はここまで。

【代償的過保護・自己診断テスト】

( )いつも子どもの行動を知っていないと、落ちつかない。不安。心配。
( )いつも子どもにあれこれ指示を出し、命令している。勝手な行動を許さない。
( )子どものために、自分の人生を犠牲にしていると思うことが多い。
( )子どもの世話をやくのが、親の努めだと思う。めんどうみのよい親がよい親と思う。
( )うちの子は、外の世界では、ひとり立ちして生きていくのは無理だと思う。

 ここに書いたことが、いくつか思い当たれば、あなたは本当に子どもを愛しているか。何か、
おおきなわだかまり(固着、こだわり)をもっていないか。それを反省してみる。それと同時に、
あなた自身も、一人の人間として、ひとり立ちできているかどうかも、反省してみるとよい。


●子どもを否定する親

 Kさん(60歳、女性)は、いつも自分の長男氏(34歳)について、「あの子は、バカで……」と
言っていた。いろいろな母親がいるが、自分の息子を、「バカ」という親は少ない。

 で、ある日、私がそれとなくKさんに、「そんなふうに言ってはいけない。ぼくには、そうは思え
ない」と話すと、Kさんは、こう言った。「あの子は、生まれつき、ああです」と。

 そのKさん。親類の間では、「仏様」と呼ばれていた。もう一人、1歳年下の妹がいたが、子ど
も思いのよい母親と思われていた。人前では、おだやかで、やさしい母親を演じていた。

 しかしその長男氏は、ハキがなく、いつも何かにおびえたように、オドオドしていた。明らか
に、母親の否定的な育児姿勢が、その長男氏の自我を押しつぶしてしまっていた。

 こんなことがあった。

 そのKさんの横に、10坪くらいの空き地があった。花壇や畑になっていた。しかしそこを駐車
場にすれば、車が4、5台、駐車できる。そこで私が、その長男氏に、貸し駐車場にしたらよい
のではと話すと、その長男氏は、こう言った。

 「そんなことを言うと、母さんに叱られる」と。

 30歳をすぎても、母親の威圧(幻惑)に、おびえていた。

私「駐車場にして貸せば、あそこだったら、毎月、10万円くらいの収入が見込める」
長「植木鉢は、どうする?」
私「横へ並べておけばいい」
長「そんなこと言ったら、母さんに叱られる」と。

 強烈な母親のイメージ。長男氏は、その呪縛の中で、もがき苦しんでいた。

 こうした否定的な育児姿勢が日常化すると、子どもは、つぎのような症状を見せるようにな
る。

(1)自信喪失
(2)判断力の低下
(3)自我の喪失
(4)現実検証能力の喪失
(5)強度な依存性(服従性)
(6)基底不安をもちやすい
(7)常識ハズレの行動
(8)萎縮性、自閉傾向など。

 Kさんは、長男に、こんな言い方をしているという。

(客が来たとき、Kさんは、長男氏に、お茶をもってくるように言った。そのときのこと)、「早くも
って来なさい。どうせ、ぐずぐずもってくるんでしょ。ぐずぐずしていると、お客さんが、帰ってしま
うでしょ」と。

(客がくれた、みやげの菓子を長男氏に渡しながら)、「菓子だよ。あんたがもらっても、私には
くれないけど、私は、ちゃんとあんたに、あげているよ」と。

(長男氏が菓子を食べていると)、「いらないと言っているくせに、どうせ全部、食べてしまうので
しょ。あとで腹が痛いというんじゃ、ないよ!」と。

 長女は、私にこう訴えた。「母は、いつも一言、多いのです。その一言が、兄の心をキズつけ
ます。しかし母は、それに気づいていません。が、何よりも不幸なのは、そういうあつかいを受
けながら、兄が、母のその呪縛を解き放つことができないでいることです。ベタベタの依存性が
ついてしまって、兄は、母の指示がないと、ひとりでは何もできなくなってしまっています」と。

 「うちの子は、何をしてもだめだ」「何をしても心配だ」と、もしあなたがそう思っているなら、そ
れはあなたの子どもの問題ではない。あなた自身の問題と考えてよい。

 あなたの中にある、わだかまりやこだわり(固着)をさぐってみたらよい。望まない結婚であっ
たとか、望まない子どもであったとか、など。

 こうしたわだかまりやこだわりが、姿を変えて、否定的な育児姿勢になることは多い。子ども
の側からみて、何が不幸かといって、そういう親をもつことくらい、不幸なことはない。

 もしあなたがそうなら、まずそのわだかまりや、こだわりに気づくこと。気づくだけでよい。少し
時間がかかるが、あとは時間が解決してくれる。

 ついでに一言。

 よく「うちの子は生まれつき……」と言う親がいる。実に不愉快な、しかも卑怯な言い方であ
る。

 あの赤子を見て、「生まれつき……」などとわかる人は、絶対にいない。えてして、親は、自分
の育児の失敗を、「生まれつき」という言葉でごまかす。親として、絶対に口にしてはいけない
言葉である。
(はやし浩司 個人化 幻惑 個人志向 共同体志向 家族自我群 現実検証能力)
(040612)



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13

●子どもの喫煙

●オーストラリア

 オーストラリアでは、交通ルールが、ますますきびしくなった。制限速度を、たった5キロ、オ
ーバーしただけで、即、罰金だという。交差点でもそうだそうだ。黄信号で交差点に入ると、どこ
かでカメラで監視されていて、即、罰金だという。

 今日、オーストラリアから帰ってきた三男が、そう言った。「日本では、めちゃめちゃだよ。赤
信号でも、信号を無視して、交差点へつっこんでくる車がある」と私が話したら、オーストラリア
では、絶対に考えられないという。

 そう言えば、去年、私の家にホームステイした、オーストラリアの友人も、そう言っていた。「ど
うして日本人は、ロジカルではないのか?」と。話を聞くと、交差点でも、日本では、停止線のと
ころで、きちんと止めるドライバーは、いない」「どうしてか?」と。

 みやげに、タバコを一個、もってきた。もちろん吸うためではない。パッケージを私に見せる
ためである。オーストラリアでは、タバコの値段が、めちゃめちゃ、高いという。一個、8〜10オ
ーストラリアドル(800円)くらいだそうだ。

 そのパッケージの表(横や裏ではなく、表)には、約3分の1ほどをさいて、こう書いてある。
「喫煙は、肺がんを引き起こす(Smoking causes lung cancer)」と。

 そのパッケージを見ながら、日本がいかに遅れているかを、改めて思い知らされる。たとえば
喫煙率にしても、若い女性を中心に、喫煙率は、むしろふえているという。

 ちなみに、日本人の喫煙率は、つぎのようになっている(95年)。

 男性……53・8%
 女性……15・2%

 問題は、中高校生である。毎日、喫煙している子どもの割合は、つぎのようになっている。

 中学生男子……2・6%
 中学生女子……1・0%

 高校生男子……19・4%
 高校生女子…… 6・5%

 全体としては低下傾向にあるが、20歳代の女性については、上昇傾向にあるという。しかし
高校男子の5人に1人が、毎日、タバコを吸っているとは! 町の中を歩くと、JTの巨大な看
板が、あちこちに立っている。偽善のかたまりのようなテレビコマーシャルも、相変わらず流さ
れている。

 そういうのを見ると、「日本も、まだまだだなあ」と思う。

 ついでにタバコを吸うと、肺がんだけではなく、あらゆるがんについて、死亡率が2倍から、数
十倍になることが知られている。

 お金を出して、毒を買うようなもの。どうして国は、もっとタバコを規制しないのか。

 5、6年前、同年齢の友人が、肺がんで死んだ。健康なときは、たいへんなヘビースモーカー
で、1日2箱も吸っていたという。

 が、その死に方が、壮絶だった。毎日、どす黒い血を、1リットル近くも吐いて、死んだという。
そういう恐ろしさを、政府は、厚生省は、もっと国民や子どもたちに、知らせるべきではないの
か。「因果関係がじゅうぶん証明されていない」では、すまない話なのである。

【偽善】

 偽善といえば、JTのコマーシャルほど、偽善なものはない。あのコマーシャルを見るたびに、
「何が、マナーだ」と笑ってしまう。まさに偽善の典型。偽善がどういうものかわからない人は、J
Tのコマーシャルを見ればよい。あれが、まさしく偽善である。

 世の中には、偽善者が実に多い。どこかのカルト教団の指導者、テレビタレント、ニュースキ
ャスター、それに政治家などなど。そう言えば、教師にも、教育評論家にもいる。(私のこと
か?)

 どうすれば、その人の偽善を見抜くことができるか? おもしいテーマなので、今度、別の機
会にじっくりと考えてみたい。

+++++++++++++++++++++

●偽善

 偽善者は、悪人より、タチが悪い。イギリスの格言にも、こんなのがある。『悪魔は、善人の
顔をして、あなたのところへやってくる』と。

 『悪魔は、目的のためには、聖書をも引用する』というのもある。
 『ブタを盗んで、骨を施(ほどこ)す』というのもある。

 ……と言いながら、この世の中、すべてが偽善。偽善でないものをさがすほうが、むずかし
い。あなたにしても、身のまわりに、あらゆるものが、どこかで人間の欲望と利益にからんでい
る。そのからんだところで、善は悪に変身する。

 少し前、JTのコマーシャルにこんなのがあった。

 ある男がタバコを吸おうとすると、そこへ小さな少女が通りかかる。その男は、一瞬手を休
め、その少女が通りすぎるまで、タバコを吸うのをやめる。

 あるいは美しい野原で、一人の男がタバコを吸っている。その男の近くには、灰皿が置いて
ある。男は、真っ青な空の白い飛行機雲を見ながら、タバコを吸う。

 一連のJTのコマーシャルが、まさしく偽善の典型とみてよい。本当に善を訴えるなら、「どう
か、タバコを吸わないでください」「私どものタバコを買わないでください」というような内容のコマ
ーシャルにすればよい。

 JTは、ブタの骨を人に与えながら、ブタを盗んだことを隠している。

 が、JTだけを責めても意味はない。先にも書いたように、私たちの言動、行動すべてが、ど
こかで偽善とからんでいる。たとえば、この私。

 講演などに行くと、結構、善人ぶっている。自分でもおかしいほど、善人ぶることがある。しか
し本当の私は、ときどき、こう思っている。「どうして私のような人間が、こんなところに立ってい
るのだろう」と。

 数日前も、ある幼稚園で講演をした。そのときのこと。あろうことか最前列に座っていた、二
人の女性が、最初からヒソヒソと、内緒話。本人たちは、隠れてそうしているつもりだろうが、演
壇からは、それが実によく見える。目につく。

 そこで私は、その二人をにらみつけながら、語気を強くして話しつづける。が、二人は、話を
やめる気配はない。だから今度は、机を叩きながら、その二人をにらみつづける。

 多分、その二人からは、私の視線が見えないのだろう。その会場は、幼稚園とはいえ、どこ
かの公立中学校の体育館のように広かった。

 こうなってくると、まさに講演は、その二人との戦いといった感じになる。私は自分の怒りを、
声の中にまぶして、その二人にぶつける。(おい、こら、ちゃんと話を聞け!)と。その一方で、
「いい子に育てる、第一の秘訣は、子どもを使うことです!」と叫ぶ。

 裏の意図をもちながら、表では、まったく別の自分を演ずる。これは偽善とは関係のない話
かもしれないが、そういうことは、日常的に、よく経験する。そしてそれが、予期せぬばしょで、
偽善になったりする。

 ただ許せないのは、偽善で、金をもうけたり、名誉や地位を手にしている連中である。とくに
マスコミの世界には、この種の人間が多い。有名であることを利用して、どこかで難民救済運
動のリーダーになったり、国連の人道支援の先頭に立ったりする。

 そういった活動をする前に、つまりそこにいたるまで、何かの積み重ねがあれば話もわかる
が、そういうのは、まったくない。もう20年ほど前のことになるだろうか。

 あるテレビタレントが、アフリカの難民救済運動のキャンペーンに現地へでかけた。そしてそ
こで、難民の子どもを抱いて、写真撮影をした。が、その撮影が終わると、そのテレビタレント
は、消毒薬で、自分の手や服を懸命にふいていたという。

 たまたまその場に居合わせた別のカメラマンが、その模様をカメラに収め、内部告発をしてし
まった。その写真は、当時の週刊誌に載ったので、私のような人間でも知るところとなった。

 たしかにアフリカのようなところで、難民の子どもを抱くのは、勇気のいることである。それは
わかるが、あとで消毒するくらいなら、最初から、子どもなど抱かないことだ。日本へ帰ってきて
から、涙ながらに、救済運動などしないことだ。

 ……と、グチを書いても始まらない。大衆を動かすためには、別のパワーが必要である。少
し前、自分では国民年金のための積立金を払っていなかった女性タレントが、国民年金の何と
かキャンペーンのポスターガールになって、問題になったことがある。

 では、その女性タレントが、偽善者だったかどうかというと、私は、そうは思わない。その女性
タレントにしてみれば、タレントとしての、演技の一つにすぎなかったのかもしれない。

 そんなわけで、偽善かどうかを見抜くことは、むずかしい。ただ注意しなければならないこと
は、偽善者がはびこればはびこるほど、この社会は、住みにくくなるということ。

 そこでこうした偽善者にだまされないために、私たちは、どう心を防御(ぼうぎょ)したらよいの
かということになる。

 方法としては、その人の一貫性をみるというのがある。

(1)その人の過去と現在への、連続性をみる。
(2)その人の活動と、その人の周辺をみる。

 その人が今、そうであることについては、過去からの積み重ねがあるはずである。たとえば
人知れず、難民救済運動をしてきたとか、そういう積み重ねである。有名になったあと、どこか
らの団体から、その仕事(?)をするようになったというのであれば、まず100%、偽善を疑っ
てみてよい。

 つぎに、その活動と、その人の周辺を比較してみる。日ごろは、ドイツ製の大型高級車に乗
り、超の上に超がつくような豪邸に住み、カメラの前では、質素な作業服を着て、難民の救済
を訴えるというのであれば、ます100%、偽善を疑ってみてよい。

 私が冷静な判断力をもてば、そうした偽善者は、自然と姿を消す。まずいのは、ノーブレイン
の状態で、そういう偽善者に操られるまま、操られること。結果として、悪に手を貸すことにな
る。

 昔の人は、よくこう言った。「悪人のエサになるようなことだけは、するな」と。英語の格言に
も、『A liar is worse than a thief.(ウソつきは、泥棒よりタチが悪い)』というのがある。「私は悪
いことをしない」というだけでは、決して、善人にはなれない。

 善人になるためには、悪と積極的に戦わねばならない。




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14

●自己同一性(アイデンティティ)

 若いお母さんでも、「アイデンティティ」という言葉を口にする時代になった。すごいことだと、
私は思う。「みんな、勉強しているんだな」と思う。

 そこでもう一度、そのアイデンティティについて、考えてみたい。日本では、「自己同一性」と訳
されている。

【アイデンティティ】

 もともとは、エリクソンが提唱した、精神分析概念をいう。他人とはちがう、本当の自分、ある
いは「自分らしさ」をいう。

 アイデンティティの確立した人は、自己の単一性、連続性、不変性、独自性の感覚があると
いう(「日本語大辞典」)。そしてその結果、「ある特定の対象や集団との間で、是認された役割
と連帯感がもてる」(同)ようになるという。

 順にかみくだいて、考えてみよう。

(1)自己の単一性

 わかりやすさ……簡単に言えば、そういうことになる。「わかりやすい」というのは、「この子
は、こういう子だ」という、つかみどころをいう。教える立場でいうなら、「こういうことをすれば、
この子は喜ぶだろうな」というふうに、予測のたてやすい子どもということになる。

(2)連続性

 いつも同じ調子であること。気分にムラがなく、性格や気質が安定している。感情が変化する
ことがあっても、「なぜそうなるのか」「なぜそうなったのか」ということが、わかりやすい。突然、
わけのわからないことをする……ということがないことをいう。

(3)不変性

 いわゆるシンのしっかりした子ども、ということになる。自分の意見をもち、その意見に従っ
て、行動する。フラつきがなく、目標に向ってがんばることができる。約束も、しっかりと守る。

(4)独自性

 日本的に言えば、個性のこと。集団の中にいても、その子どもらしさが、光ることをいう。他人
と協調しながらも、いつも「私」をもっている。独自性のない子どもは、どこか軟弱。その場、そ
の場で、他人に迎合したり、同調したりする。

 こうしてアイデンティティの問題を考えていくと、いつも、「では、私はどうか?」という問題に行
きつく。

 実のところ、この私は、そのアイデンティティが、軟弱な人間といってよい。ときどき、自分にさ
え、自分がどこにいるかわからなくなることがある。犬にたとえていうなら、だれにでもシッポを
振る。そんな人間である。

 そういう私だから、若いころは、集団とのかかわりが、苦手だった。いや、表面的には社交的
で、だれとでもうまく交際した。愛想もよく、口もじょうずだった。だから私が、「実は、本当のこと
を言うと、ぼくは、集団が苦手だ」などと言うと、みんな、「ウソつけ」とか、「そんなはずはないだ
ろ」とか、言ったりした。

 しかし本当の私は、そうではなかった。自分をさらけ出せない分だけ、集団の中では疲れた。
エリクソンが唱えるところの、単一性、独自性に欠けた。

 なぜ、私がそうなったかといえば、理由はいろいろ考えられる。しかし自分の記憶をいくらた
どっても、満5、6歳を境に、それ以前は闇に包まれてしまう。自分を客観的に見ることができ
ない。そんなわけで、あくまでもこれは私の推察によるものだが、私は、きわめて精神的に貧し
い乳幼児期から幼児期を過ごしたのではないかと思う。

 で、こうしたアイデンティティは、いつも集団とのかかわりの中で、評価される。いくらアイデン
ティティがあっても、集団とうまくかかわれないというのであれば、それはアイデンティティとは言
わない。「ある特定の対象や集団との間で、是認された役割と連帯感がもてる」ということが、
重要になってくる。

 つまりは、個人と集団との調和が、エリクソンの説く、アイデンティティということになる。「私が
すべて。私以外は、みな、無価値」と考えるのは、アイデンティティでもなんでもない。ただの独
善という。

 そのアイデンティティを、子どもの中に育てるためには、どうするか?

【アイデンティティを育てる】

 アイデンティティをどう育てるか……というよりも、どうすれば、アイデンティティを、つぶさない
ですむかと考えるほうが、実際的である。

 というのも、このアイデンティティは、自然な状態では、どの子どもも、みな、平等にもってい
る。それが、親の過干渉、過関心、溺愛、過保護、さらには育児放棄、否定的な育児姿勢の中
で、つぶされてしまう。そういうケースは、少なくない。

 たとえば否定的な育児姿勢を考えてみよう。

 A子さん(年中女児)が、「私は、おとなになったら、花屋さんになりたい」と言ったとする。その
とき大切なことは、「そうね、花屋さんって、すてきな仕事ね」と、親はそれを前向きにとらえてあ
げる。

 そういう育児姿勢の中で、子どもは、自分の役割を、前向きに形成していくことができる。自
分で花の本を読んだり、種を育ててみたりする。

 が、このとき親が、「花屋さんなんて、ダメ」「あなたは算数教室と英語教室に行くのよ」と、そ
れを否定したとする。(否定するつもりはなくても、否定することがあるので注意する。)

 すると子どもは、自分の意思に自信がもてなくなり、ばあいによっては、自己否定したり、さら
に罪悪感をもつようになる。役割混乱から、情緒不安定になることもある。

 よくある例は、親が、子どもの進路を勝手に変えてしまうようなケース。「成績がさがったか
ら、サッカークラブをやめなさい」とか、「受験が近づいたから、バスケットクラブをやめなさい」
とか言うのが、それ。子どもによっては、あたかも山が崩れるかのように、人格そのものを、崩
壊させてしまうことがある。

 が、実際のところ、否定的な育児姿勢といっても、それは日常的なものである。そしてさらに
その背景はといえば、親の子どもへの不信感がある。「うちの子は、何をしてもだめ」という不
信感が、姿を変えて、否定的な育児姿勢になることが多い。

 そしてそれは、言葉によるというよりは、あくまでも「親の姿勢」によるところが大きい。たとえ
ば、こんな会話。

親「そのお弁当箱を洗っておいてよ。いいこと、しっかり洗うのよ。どうせあなたのことだから、
いいかげんな洗い方をするのでしょうけど……」

親「やっぱり、いいかげんな洗い方ね。もう一度、洗いなさい。あれだけしっかり洗いなさいと言
ったのに、どうして、しっかりと洗えないの。ほら、まだごはんの食べカスが残っているでしょ」

親「あんたみたいな子はね、ずるいから、いつか悪いことをして、警察につかまるかもしれない
わよ。そうなったとき、お母さんの言っている意味が、はじめてわかるのよ」と。

 過干渉にしても、過関心にしても、同じように考えてよい。子どもへの不信感が、子どもへの
過干渉になったり、過関心になったりする。ここでいう否定的な育児姿勢になることもある。

【いつも前向きに……】

 エリクソンは、こう説く。

 赤ん坊がおなかをすかして泣いたとき、すかさず母親が乳を与えたとする。すると子どもは、
自分が泣くことで、母親を動かしたことを知る。

 あるいは赤ん坊がおむつをぬらして、同じように泣いたとする。母親はそれを見て、おむつを
かえたとする。すると子どもは、自分が泣くことで、母親を動かしたことを知る。

 こうした一連の行動をとおして、赤ん坊は、自分が求められていることを知る。「自信」という
言葉が適切かどうかは知らないが、子どもは自分に自信をもつようになる。「安心感」と言いか
えてもよい。この自信や安心感が、「核(コア)」を形成する。

 エリクソンは、それをそのまま、「コア・アイデンティティ」と呼んだ。

 が、反対に、赤ん坊が泣いたとき、それをそのつど、否定したらどうなるだろうか。赤ん坊が
おなかをすかして泣いたとき、無視したり、冷淡にあしらったりする。あるいは、「待っていなさ
い!」と叱って、あとまわしにしたりする。

 そうなると、子どもは、自分のしていることに自信がもてなくなる。不安になる。「私はまちがっ
たことをしているのではないか」と思う。この状態が、子どもから、(私らしさ)をうばっていく。

 が、それだけではすまない。

 このコア・アイデンティティは、まさにその人の核(コア)になる。子どもというのは、この核をふ
くらませる形で、年齢とともに成長していく。もっとわかりやすく言えば、母子関係を、やがて、た
とえば、先生との関係、友人との関係へと、応用していく。

 が、最初の段階で、つまり母子との関係で、核(コア)づくりに失敗した子どもは、たとえば、先
生との関係、友人との関係で、良好な人間関係を結べなくなる。ここでいうアイデンティティも、
同じように考えてよい。

 もうおわかりかと思う。

 子どものアイデンティティを育てるためには、いつも子どもを前向きにほめていく。とくに乳幼
児期は、「子どもを、こうしよう」「ああしよう」と考えるのではなく、ありのままを認めながら、「そ
れでいいのだ」と教えていく。

 この時期は、多少、うぬぼれ気味、自信過剰気味のほうが、あとあとその子どもは、伸びる。
「ぼくは、すばらしい人間だ」「私は、何でもできる」と。そういう思いが、ここでいうアイデンティテ
ィを明確にする。そしてそれが、その子どもを、さらに前向きに伸ばしていく。

 最後に私のばあいだが、私は、30歳をすぎるころから、自分さがしを始めたように思う。そ
れまでの私は、私が何であるか、どこにいるか、何を望んでいるかさえ、よくわからなかった。

 が、40歳をすぎるころからは、そのつど、居なおるようになった。たとえば私は、あのパーテ
ィが苦手だった。酒を飲めないこともある。大声で騒ぎながら、意味もないゲームをしたり、歌
を歌ったりする……。苦手というより、苦痛だった。

 だからそのころから、そういったパーティに出るのをやめるようにした。「私は私だ」と。

 それまでの自分は、みなに嫌われたくない。好かれたい。そういう思いを優先させ、がまんし
ていた。が、そのがまんをするのを、やめた。

 この傾向は50歳をすぎてから、さらに強くなった。「私は、もっと私らしく生きるぞ」と思うよう
になった。が、だからといって、自分のアイデンティティを確立したわけではない。今でも、ふと
油断すると、自分がどこにいるかわからなくなるときがある。

 そういう意味で、この問題は、まさに10年単位の問題と考えてよい。もしこの文章を読んでい
るあなたが、同じような問題をかかえているとしたら、10年単位で考えたらよいということ。決し
て、1年や2年で解決する問題ではない。

 ここでいうアイデンティティの問題には、そういう問題も、含まれるということ。

(はやし浩司 アイデンティティ アイデンティティー 自己同一性 コア コアアイデンティティ コ
ア・アイデンティティ エリクソン)
(040615)

【追記】

 今、ふと思ったが、私の年代の人間には、私のようにヘラヘラと、やたらと愛想がよく、だれ
にでもシッポを振る人間が多いのでは……?

 戦後の貧しい時期に育児を経験したためかもしれないが、ひょっとしたら、あのギューギュー
のつめられた、寿司詰め教育にも、その原因があるのではないか、と。

 私の時代には、50人クラスが当たり前だった。中学校のときは、1クラス55人だった。

 いつも先生が、何かをガンガンと叫んでばかりいたような気がする。考えてみれば、それもそ
うで、先生もたいへんだったなあと思うと同時に、ああいう世界では、そもそもアイデンティティ
をもつことすら、許されなかったのではないか。

 あくまでも、今、ふとそう思ったというだけのことだが、近く、この問題についても考えてみた
い。





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15

●平和教育

●愛国心

 教育基本法について、自民党と公明党が、中間報告を提出した。

 「教育基本法改正に関する協議会」は、6月16日、教育基本法についての、中間報告をまと
めた。それによると、

(1)焦点の「愛国心育成」については、自公両党の主張を併記して、調整を参議院選挙後にも
ちこした。

 自民党は、愛国心育成に関して、「郷土と国を愛し」と主張した。しかしS価学会を支持母体と
する公明党は、「郷土と国を大切にし」と主張した。創価学会としては、「愛」という言葉を使うわ
けにはいかならしい。「愛」というのは、彼らが言うところの「邪宗」が使う言葉である。

(2)宗教教育については、「宗教に対する寛容の態度が大事」などとする現行法の理念をその
まま踏襲することになった。

 これは公明党の意向に沿ったものだという。

 そのうち日本中の子どもが、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えながら、授業に入るようになる
かもしれない。
(はやし浩司 教育基本法 愛国心)


●愛国心

 しかし一般庶民の一人して、私はこう思う。

 愛国心などというものは、もっと自発的なもので、国から押しつけられるものではない。いわ
んや、教育で教えられるものでもない。

 たとえば現在の政治家たちをみてみよう。どの政治家も、いざ戦争となったら、イの一番に、
後方へ、真っ先に逃げるような政治家ばかりである。命がけで、国民の前に立って、戦うよう
な、そんな雰囲気のある政治家は、悲しいかな、一人もいない。

 私たちは、そういう雰囲気を、彼らの言動を通して、日常的に、感じ取っている。

 たとえば今度の国会でも、国民年金が一つの大きな焦点になった。しかし国会議員たちは、
みな、月額50万円〜60万円の年金を手にすることができる。

 そういう大特権を一方でしっかりと握りながら、政治家たちは、国民の負担を大きくし、年金
額を減らした。が、それだけならまだしも、与党の党首、野党の党首以下、国民年金の保険料
を払っていなかった議員が、続出!

 私たちは、そういう政治家の姿を見て、「何が、愛国心だ」と笑ってしまう。もし愛国心とやらを
人に説くなら、まず自分たちが、率先して、年金の不公平を是正してみせることだ。

 愛国心などというものは、国が国として示す、高い理念や理想を見ながら、庶民の間から、自
発的に生まれてくるもの。自由、平等、正義だ。K国のような独裁国家ならいざ知らず、自分た
ちは好き勝手なことを、し放題しておきながら、庶民や子どもたちに向かって、「国を愛せ」は、
ない。

 が、自民党のみなさん、公明党のみなさん、どうぞ、ご心配なく。

 私たち庶民は、何も政治家に言われなくても、そのときがきたら、ちゃんと敵と戦う。国を愛す
る。国のために、死ぬ。

 ただ誤解しないでほしいのは、その戦闘で、敵に追いつめられ、最後のときを迎えるとき、私
が歌うのは、『君が代』ではない。『ふるさと』だ。敵につっこんで死ぬときは、『天皇陛下、バン
ザーイ!』ではない。『妻よ、息子たちよ、さようなら!』だ。

 私にとっての愛国心とは、そういうものをいう。

 どうぞ、どうぞ、ご心配なく!

++++++++++++++++++

●ふるさと


うさぎ追いし 彼の山
こぶな釣りし 彼の川
夢は今も めぐりて
忘れがたき ふるさと 


如何にいます 父母
つつがなしや 友がき
雨に風に つけても
思いいずる ふるさと 


志を 果たして
いつの日にか 帰らん
山は青き ふるさと
水は清き ふるさと

(作詞 高野辰之 作曲 岡野貞一)


●若いころ

 若いころ、外国へ行くたびに……というか、外国に住んでいて、悲しいことやつらいことがある
たびに、私は、あの『♪ふるさと』を、口ずさんだ。

 すばらしい歌だ。いろいろ意見はあるようだが、もし私が、「日本で一番すばらしい曲は?」と
聞かれれば、私はまよわず、この『♪ふるさと』をあげる。

 この歌のすばらしいところは、3拍子であること。歌い方によっては、軽快なワルツにもなる
し、少しゆっくりと6拍子で歌えば、心温まるのどかな歌にもなる。そのときどきの心の状態に
合わせて、楽しくも、またしんみりと歌うことができる。

 そう、この歌を歌いながら、私は、何度、涙を流したことか。なぐさめられ、励まされたことか。
日本を思い、心を休めたことか。

 ほかにもすばらしい歌として、『♪赤とんぼ』をあげる人も多い。人それぞれだが、先日、アメ
リカに住む二男が送ってくれたビデオ(CD)を見ていたら、こんなシーンがあった。

 アメリカ人になりきろうとがんばっている二男だが、孫の誠司に、ギターを弾きながら、『♪ふ
るさと』を歌って聞かせていた。

 私はそのシーンを見たとき、あたかも自分が外国にいるような錯覚にとらわれた。そして昔、
外国で自分が流した涙と同じものを流した。

 それは頬をも溶かすほど、熱い涙だった。

 だから改めて、言う。

自民党のみなさん、公明党のみなさん、どうか、ご心配なく。

 私たち庶民は、何も政治家に言われなくても、そのときがきたら、ちゃんと敵と戦う。国を愛す
る。国のために、死ぬ。

 その覚悟は、できている!
(はやし浩司 愛国心 教育基本法 ふるさと)


●平和教育

 人格の完成度は、その人が、いかに「利他」的であるかによって決まる。「利己」と「利他」を
比較してみたばあい、利他の割合のより大きい人を、より人格のすぐれた人とみる。

 同じように国家としての完成度は、いかに相手の国の立場でものを考えることができるかで
決まる。経済しかり、文化しかり、そして平和しかり。

 自国の平和を唱えるなら、相手国の平和を保障してこそ、はじめてその国は、真の平和を達
成することができる。もし子どもたちの世界に、平和教育というものがあるとするなら、いかに
すれば、相手国の平和を守ることができるか。それを考えられる子どもにすることが、真の平
和教育ということになる。

 私たちは過去において、相手の国の人たちに脅威を与えていなかったか。
 私たちは現在において、相手の国の人たちに脅威を与えていないか。
 私たちは将来において、相手の国の人たちに脅威を与えるようなことはないか。

 つまるところ、平和教育というのは、反省の教育ということになる。反省に始まり、反省に終
わる。とくにこの日本は、戦前、アジアの国々に対して、好き勝手なことをしてきた。満州の植
民地政策、真珠湾の奇襲攻撃、それにアジア各国への侵略戦争など。

 もともと自らを反省して、責任をとるのが苦手な民族である。それはわかるが、日本人のこの
無責任体質は、いったい、どうしたものか。

 たまたま先週と今週、2週にわたって、「歴史はxxxx動いた」(NHK)という番組を見た。日露
戦争を特集していた。その特集の中でも、「どうやって○○高地を占領したか」「どうやってロシ
ア艦隊を撃滅したか」という話は出てくるが、現地の人たちに、どう迷惑をかけたかという話
は、いっさい、出てこなかった。中国の人たちにしてみれば、まさに天から降ってきたような災
難である。

 私は、その番組を見ながら、ふと、こう考えた。

 「もし、今のK国が、日本を、ロシアと取りあって、戦争をしたら、どうなるのか」と。

「K国は、50万人の兵隊を、関東地方に進めた。それを迎え撃つロシア軍は、10万人。K国
は箱根から小田原を占領し、ロシア軍が船を休める横須賀へと迫った……、と。

 そしてそのときの模様を、いつか、50年後なら50年後でもよいが、K国の国営放送局の司
会者が、『そのとき歴史は変わりました』と、ニンマリと笑いながら、得意げに言ったとしたら、ど
うなるのか。日本人は、そういう番組を、K国の人たちといっしょに、楽しむことができるだろう
か」と。

 日露戦争にしても、まったく、ムダな戦争だった。意味のない戦争だった。死んだのは、何十
万人という日本人、ロシア人、それに中国人たちだ。そういうムダな戦争をしながら、いまだに
「勝った」だの、「負けた」だのと言っている。この日本人のオメデタサは、いったい、どこからく
るのか。

 日本は、歴史の中で、外国にしいたげられた経験がない。それはそれで幸運なことだったと
思うが、だからこそ、しいたげられた人の立場で、ものを考えることができない。そもそも、そう
いう人の立場を、理解することさえできない。

 そういう意味でも、日本人がもつ平和論というのは、実に不安定なものである。中には、「日
本の朝鮮併合は正しかった。日本は、鉄道を敷き、道路を建設してやった」と説く人さえいる。

 もしこんな論理がまかりとおるなら、逆に、K国に反対のことをされても、日本人は、文句を言
わないことだ。ある日突然、K国の大軍が押し寄せてきて、日本を占領しても、文句を言わない
ことだ。

 ……という視点を、相手の国において考える。それが私がここでいう、平和教育の原点という
ことになる。「日本の平和さえ守られれば、それでいい」という考え方は、平和論でもなんでもな
い。またそんな視点に立った平和論など、いくら説いても意味はない。

 日本の平和を守るためには、日本が相手の国に対して、何をしたか。何をしているか。そし
て何をするだろうか。それをまず反省しなければならない。そして相手の国の立場で、何をす
べきか。そして何をしてはいけないかを、考える。

 あのネール(インド元首相)は、こう書いている。

 『ある国の平和も、他国がまた平和でなければ、保障されない。この狭い相互に結合した世
界では、戦争も自由も平和も、すべて連帯している』(「一つの世界を目指して」)と。

 考えてみれば、「平和」の概念ほど、漠然(ばくぜん)とした概念はない。どういう状態を平和と
いうか、それすら、よくわからない。が、今、平穏だから、平和というのなら、それはまちがって
いる。今、身のまわりで、戦争が起きていないから、平和というのなら、それもまちがっている。

こうした平和というのは、つぎの戦争のための準備期間でしかない。休息期間でしかない。私
たちが、恵まれた社会で、安穏としたとたん、世界の別のところでは、別のだれかによって、つ
ぎの戦争が画策されている。

 過去において、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えていたか。
 今、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えているか。
 さらの将来、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えるだろうか。

 そういうことをいつも、前向きに考えていく。またそれを子どもたちに教えていく。それが平和
教育である。
(はやし浩司 平和教育 平和 平和論)




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16

●子離れ

●愛媛県のFさんより

 愛媛県のFさんより、こんな相談が届いた。

 『息子は、中学1年生。全寮制の中高一貫高に通っている。
 しかし自分から、黙々と勉強する様子はない。週末に家に帰ってきても、家の中でゴロゴロし
ているだけ。

 私は、親として、将来は安定した仕事についてほしいと願っている。そのためにも大学受験だ
けは、しっかりと受けてほしいと願っている。

 先生(はやし浩司)のHPを読むと、親がうるさく言えば言うほど、子どもは勉強しなくなると
か。さらに、今より、悪い状態に追いこんでしまうこともあるとか。

 そのあたりは、よく理解できた。しかし今、ここで教育の方針を変更すると、息子は、かえっ
て、勉強しなくなってしまうのではないかと心配。親の教育方針を変更することによって、子ども
が、混乱することはないのか。

 何か、よいアドバイスがほしい」と。

【Fさんへ……】

 子どもが受験期にさしかかると、たいていの親は、言いようのない不安感に襲われる。無意
識のうちにも、自分の受験時代を心の中で、再現するためである。 

 そして明治時代からつくりあげられた学歴意識、さらには、それ以前からあった職業による身
分差別意識が、あるからである。

 子育てというのは、そういうもの。さらにそれにまつわる意識というのは、そういうもの。代々、
親から子へと、無意識のうちに伝えられる。

 多分、Fさんは、「勉強というのは、ガリガリとするもの」という先入観をもっている。メールの
中で、「私は、親に言われなくても、勉強した。どうしてうちの子は、ガミガミ言わないと、勉強し
ないのか」と書いていた。

 Fさんは、どこか戦前的な教育観をもっているように見える。古いタイプの教育観である。

 否定的なことばかり書いたが、Fさんの子どもは、全寮制の学校に通っている。そしてたまの
週末、家に帰ってくる。そんなとき、つまり心と体を休めるために帰ってきたとき、親から、ま
た、「勉強しなさい」と言われたら、子どもはどうなるのか?

 恐らくFさんは、不安神経症の持ち主? せっかくの休みに、家族とどこかへ旅行に出かけて
も、その旅行を楽しむ前に、旅行から帰ったあとの仕事を心配するようなタイプ? いつも「今」
を、未来のために犠牲にするタイプかもしれない。

 こういうケースで、まず親がすべきことは、いつも子どもを、暖かく、家の中に迎えてやるこ
と。おいしい料理を作って、待っていてあげること。心と体を休める場所を、用意しておいてあ
げること。

 そしてそれ以上に大切なことは、「今」というこの一瞬、一秒を、親子の絆(きずな)を確かめ
あって生きること。その重要性とくらべたら、大学受験など、Fさんが出す、腸内ガス(失礼!)
のようなもの。何でもない。

 基本的に、Fさんは、自分の子どもを信じていない。「何をしても心配だ」という、どこか心配先
行型の子育てをしている。不安先行型かもしれない。そしてその原因はといえば、Fさん自身
の、貧弱な幼少時代にある。

 心豊かな家庭環境で、親の愛情をたっぷりと受けて育ったとは、とても思えない(失礼!)。
子どもを、全幅に信頼できない。いつも何か不安だ。……という人は、そういう過去を、まず疑
ってみる。

 たとえば、Fさんは、「私は親に言われなくても、勉強した」と書いている。一見、すばらしい子
どもに見えるかもしれないが、実は、内心で、そう追い立てられていただけではないのか。ある
いは、自分の攻撃性を勉強に向け、自分にとって居心地のよう世界をつくろうとしていただけで
はないのか。

 「勉強が楽しい」という子どもも、中にはいる。しかし本当に、勉強を楽しんでしているかどうか
ということになると、疑わしい。とくに受験勉強は、そうである。

 実は、このことを、私は、最近、三男を見ていて、発見した。

 三男は、遊ぶときには、目一杯、遊ぶ。Y大学という大学にいたときも、家に帰ってくるとき
は、参考書一冊、もってこない。教科書一冊、もってこない。

 で、私はある日、恐る恐る聞いた。「宿題のようなものは、ないのか?」と。

 すると三男は笑ってこう言った。「そんなの、向こう(大学)でするよ」と。

 三男の生きザマは、私には欠ける生きザマだったので、私はそれをたいへん新鮮に感じた。
そしてこう思った。「ぼくも、見習わなければ」と。

 子どもを信ずることは、むずかしい。本当に、むずかしい。しかし親の信頼感をしっかりと感じ
ている子どもは、決して、道を踏みはずさない。ときにフラつくことはあるかもしれないが、しか
しそのまま、また、まっすぐ前を向いて歩き出す。

 大切なことは、そのときどきにおいて、動じないこと。「お母さんは、あなたを信じていますから
ね」という姿勢だけを、徹底的に貫くこと。そういう思いが子どもに伝わったとき、子どもは、自
分で自分を軌道修正するようになる。

 Fさんが言う、「安定した仕事」というのは、どういう仕事を言うのか。それがわからないわけで
もないが、しかしそんな仕事を、子どもに求めても無理。時代も変った。子どもたちの意識も変
った。その先、子どもがどんな道に進もうとも、その選択は、子どもに任せるしかない。

 そして子どもが、どんな選択をしても、親がすべきことはただひとつ。子どもを最後の最後ま
で、信ずるということ。

 ある子どもは、進学高校を中退し、どこかの劇団に入団した。今は、いろいろなアトラクショ
ン・ショーで、ぬいぐるみを着て踊っている。当初、親は、「絶望するほど苦しんだ」(母親の弁)
が、今は、楽しそうにこう言う。「あの子は幸せそうに踊っているのを見ると、私まで、ウキウキ
してきます」と。

 そんなわけで、Fさんの相談は、一見、子育ての相談のように見える。しかし実際には、Fさん
自身の心の問題と考えてよい。

 なぜ、もっと、自分の子どもを信ずることができないのか? ……すべての問題は、ここに集
中する。

++++++++++++++++++

子どもたちへ

思う存分、この広い世界を、飛んでみなさい
青い空、白い雲、そして緑の大地
あなたは風を切って、この空を飛ぶのです。

新しい世界を見て、新しい友だちに会い、
恋をして、結婚して、家族をもって、
そして自分の人生を歩んでいくのです。

そしていつか、心と体が疲れたら、
いつでも、もどってきなさい。
大きな鳥が、古い巣で、羽を休めるように、
あなたも、羽を休めるために、もどってきなさい。

いつでも、あなたの家の窓は開いていますよ。
いつでも、テーブルの上には、暖かいスープがありますよ。
あなたは、静かに目を閉じて、子どものころのように、
ソファに、身を沈めれば、それでいいのです。

++++++++++++++++++

Fさんへ

あなたの子どもは、とっくの昔に、
古い巣箱を飛び立っていますよ。

もうあなたの思い知らぬ世界を、
飛び回っていますよ。

大切なことは、しっかりと
子離れすること。

古い親意識など、もう捨てなさい。
捨てて、あなたはあなたで、
最後の自分の人生を生きなさい。
輝かせなさい。

あなたにすべきことがあるなら、
子どもを信じ、いつ子どもが
もどってきてもよいように、
窓をあけ、部屋を掃除し、
そしてテーブルの上に、暖かい
スープを用意しておくことです。

子どもの人生は、子どもに任す。
もうその時代に入っています。

+++++++++++++++++++

 一言つけ加えるなら、母親主導型の、母親だけの子育てほど、危険なものはないということ。
子どもは、母性本能のとりこになってしまい、その分、自立できなくなってしまう。

 極端なばあいには、ナヨナヨとした人生観、強度の依存性をもつ。現実検証能力の喪失(常
識はずれになりやすいということ)、精神の未発達を引き起こすこともある。ふつう、自己中心
的なものの考え方をもつようになる。いわゆるマザコンタイプの子どもになると考えると、わかり
やすい。

 こうして考えてみると、Fさんの子どもの問題というよりは、どこか子離れできない、Fさん自身
の問題ということになるのかもしれない。

 仮に将来、子どもが、自らコースを離れ、Fさんからみて、不安定な職業についたからといっ
ても、Fさんがすべきことはただ一つ。最後の最後まで、自分の子どもを信ずる、ということ。

 「あなたは、あなたが正しいと思う道を進みなさい。お母さんは、あなたを信じ、あなたを支持
しますからね」と。

 最後にもう一言。

 Fさんは、教育方針を転換するのではない。今までの方針の上に、新しい方針を載せるだ
け。親とて、年齢や経験を積み重ねて、賢くなる。より賢くなるということは、方針転換でも何で
もない。

 Fさん、あなた自身も、自信をもって、子どもといっしょに、前に進みなさい!
(040620)

(追記)この原稿は、小生発行のマガジン、7月21号に掲載します。どうかよろしくご了解くださ
い。




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17

●中年期クライシス

●中年期クライシス(危機)

 若い人たちを見ていると、「いいなあ」と思うことがある。「苦労がなくて」と。しかし同時に、「い
いのかなあ?」と思うときもある。目の前に、中年の危機がすぐそこまできているのに、それに
気づいていない?

 危機。「クライシス」という。そして中高年の男女が感ずる危機を、総称して、「中年期クライシ
ス」という。

 健康面(心臓疾患、高血圧症、糖尿病などの、生活習慣病)、精神面(抑うつ感、うつ病)のク
ライシス。仕事面、交遊面のクライシスなど。もちろん夫婦関係、親子関係のクライシスもあ
る。

 こうしたクライシスが、それこそ怒涛(どとう)のように押し寄せてくる。若い人は、遠い未来の
話と思うかもしれないが、そのときになってみると、あっという間に、そうなる。それがまた、中
年期クライシスのこわいところでもある。

●中年期クライシス、私のばあい

 私は、もうそろそろ中年期を過ぎて、初老期にさしかかっている。もうすぐ満57歳になる。

 まず健康面だが、このところ、ずっと、どうも心が晴れない。軽いうつ状態がつづいている。そ
れに仮性うつ病というか、頭が重い。ときどき偏頭痛の前ぶれのような症状が起きる。

 仕事は楽で、ほどほどに順調だが、何かと悩みごとはつきない。ときどき「私は、もう用なしな
のか」と思うことがある。息子たちも、ほぼ、みな、巣立った。ワイフも、あまり私の存在をアテ
にしていないようだ。「あんたが死んだら、私、息子といっしょに住むわ」などと、平気で言う。

 私を心配させないためにそう言うのだろうが、どこかさみしい。

 性欲は、まだふつうだと思うが、しかしここ数年、女性が、急速に遠ざかっていくのが、自分で
もわかる。若い母親たちのばあい、(当然だが……)、もう私を「男」と見ていない。それが自分
でも、よくわかる。

 だから私も、気をつかうことが、ぐんと少なくなった。「どうせ私を男とみてくれないなら、お前
たちを、女とみてやるかア!」と。

 しかしこの世の中、「女」あっての、「男」。女性たちに「男」にみてもらえないのは、さみしい。

 そう、中年期クライシスの特徴は、この(さみしさ)かもしれない。

 たとえばモノを買うときも、「あと○○年、もてばいい」というような考え方をする。何かにつけ
て、未来的な限界を感ずる。

 あるいは今は、ワイフも私も、かろうじて健康だが、ときどき、「いつまで、もつだろうか?」と
考える。「そのときがきても、覚悟ができているだろうか?」と。そういう私の中年期クライシスを
まとめると、こうなる。

(1)健康面の不安……体力、気力の衰え。自信喪失。回復力の遅れなど。
(2)精神面の不安……落ちこむことが多くなった。うつ状態になりやすい。
(3)家族の不安……子どもたちがみな、健康で幸福になれるだろうかという心配。
(4)老後の不安……収入面、仕事面での不安。何か事故でもあれば、万事休す。
(5)責任感の増大……「私は倒れるわけにはいかない」という重圧感。

 こうしたもろもろのストレスが、心を日常的に、おしつぶす。そしてそれが、食欲不振、頭重
感、抑うつ感、不安神経症へとつながる。「心が晴れない」というのは、そういう状態をいう。

●何とかごまかして、前向きに生きる

 自分の心を冷静に、かつ客観的にみることは大切なことだが、ときとして、自分の心をだます
ことも必要なのかもしれない。

 楽しくもないのに、わざと楽しいフリをしてみせて、まわりを茶化す。おもしろくもないのに、わ
ざとおもしろいと騒いでみせて、まわりをごまかす。

 しかしそれも、疲れる。あまりひどくなると、感情が鈍麻することもあるそうだ。よく言われる、
「微笑みうつ病」というのも、それ。心はうつ状態なのに、表情だけはにこやか。いつも満足そう
に、笑っている。

 そう言えば、Mさんの奥さん(60歳くらい)も、そうかもしれない。通りであっても、いつも、ニコ
ニコと笑っている。が、実際、話してみると、どこか上(うわ)の空。会話が、まったくといってよ
いほど、かみあわない。

 ただ生きていくことが、どうしてこんなにも、つらいのか……と思うことさえ、ある。ある先輩
は、ずいぶんと昔だが、つまりちょうど今の私と同年齢のときに、こう言った。

 「林君、中年をすぎたら、生活はコンパクトにしたほうがいいよ。それに人間関係は、簡素化
する」と。

 生活をコンパクト化するということは、出費を少なくするということ。60歳を過ぎたら、広い土
地に大きな家はいらない。小さな家で、じゅうぶん。

 人間関係を簡素化するということは、交際範囲を狭くし、交際する人を選ぶということ。ムダ
に、広く浅く交際しても、意味はない。

 が、なかなか、その切り替えができない。「家を小さくする」といっても、実際には、難題であ
る。心のどこかには、「がんばれるだけ、がんばってみよう」という思いも残っている。

 交際範囲については、最近、こう思うようになった。

 親戚や知人の中には、私のことを誤解して、あれこれ悪く言っている人もいる。若いころの私
だったら、そういう誤解を解くために、何かと努力もしただろうが、今は、もうしない。「どうでも
勝手に思え」という、どこか投げやり的な、居なおりが、強くなった。

 どうせ、みんな、私も含めて、あと20年も生きられない。そういう思いもある。

 が、考えたところで、どうにかなる問題ではない。だから結論はいつも、同じ。

 そのときまで、前向きに生きていこう、と。生きている以上、ここで死ぬわけにはいかない。責
任を放棄するわけにもいかない。だから生きていくしかない。自分をごまかしても、偽っても、生
きていくしかない。

 そしてそれが中年期クライシスにある私たちの、共通の思いではないだろうか、……と、今、
勝手にそう思っている。
(040619)
(はやし浩司 中年期クライシス 中年クライシス 中年期の危機)



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18

●学習性無力感

 二度、中学受験で失敗した女の子がいた。
 一度目の合格発表のある前に、別の学校の入学試験を受けた。が、その両方とも、失敗。
そこで三度目の中学を受験することにしたが、もうそのときには、完全に戦意喪失。それまで
スイスイと解けた簡単な問題すら、できなくなってしまった。

 こういうのを、「学習性無力感」という。

 犬の実験でも、電気ショックを与えつづけると、その犬は、その場から逃げようとする気力す
ら、なくすという(セリングマン)。

 何度か失敗しているうちに、「自分はダメだ」というレッテルを、自ら張ってしまう。そして本来
ならできるはずのことまで、できないと思いこんで、逃げてしまう。10年ほど前のことだが、こん
なことがあった。

 Wさんという中学3年生の女の子がいた。

 能力的には、それほど恵まれている子どもではなかった。が、親が、それを認めなかった。
親は、「何としても、A私立女子高校へ……。それがだめなら、B私立女子高校へ……」と、W
さんを追いたてた。

 私はある日、Wさんにこう言った。「今の力では、A高校も、B高校も、無理だと思う。だから
君のほうから、君の力について、お母さんに正直に言ってみたらどうだろうか」と。

 が、Wさんは、決して、それを親には言わなかった。言えば言ったで、Wさんは、自分の立場
をなくしてしまう。こういうケースは、多い。つまり子どもは、親に、自分の能力のなさを、言わな
い。子どもは、「やればできる」と思わせることによって、自分の立場をつくる。自分の能力を告
白することは、自分の立場を失うことになる。

 で、A私立女子高校とB私立女子高校の受験に失敗。そこで今度は、C私立高校を受験する
ことになったが、そのころになると、教室でもただぼんやりとしているだけ。ときどきため息をつ
いては、意味もなく、参考書をめくるだけになってしまった。

 今、多くの親たちは、「勉強しなさい」と、子どもを追い立てている。しかしそれでうまくいけば
よいが、そうでないときに、子どもは、大きな挫折感を味わう。中に、無責任な教育者(?)がい
て、「そういう挫折感を乗りこえてこそ、子どもは、たくましく成長する」などと説いたりする。

 しかしこの時期の子どもには、まだその力はない。そのため挫折感から、そのまま無気力に
なっていく子どもは、少なくない。それだけならまだしも、さらに罪悪感すら覚える子どももいる。

 子どもを信ずるということと、過剰な期待を寄せるというのは、まったく別のことである。この
視点をふみはずすと、子どもを、無気力な子どもにしてしまうことがある。くれぐれも、慎重であ
ってほしい。


●孤独な人間

だれにも相手にされず、心を開いて話しあえる友もなく、生きる目的もない。
ただその日が、過ぎるのを待ち、夜になったら、どこかカビ臭いベッドの中にもぐる。

ときどきだれかに電話をしてみる。話しかけてみる。
しかしだれも、振り向いてくれない。だれも、耳を傾けてくれない。

人を愛することも知らない。愛されることも知らない。
長い人生だったが、だれか、人のために働いたことは、一度もない。

仕事がないといっては、嘆き。仕事が多過ぎるといっては、不平をもらす。
だれかに何とか、してほしい。しかしその何とかしてくれる人もいない。

神や、仏は、どこにいる? いや、家には昔からの立派な仏壇はあるにはある。
しかしそんなのはただの箱。ただの飾り。家の格式を証明するための、ただの勲章。

乾いた心を、どう癒す。襲いくるさみしさをどう、紛(まぎ)らわす。
孤独は、まさに地獄。人間が、そこに感ずる、まさにこの世の無間地獄。




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19

●マザコン論

楽天日記の読者の方(ANさん)から、こんなメールをもらった。

++++++++++++++++++

日本では母親を大切にすると、「マザコン」と言われます。
それは"悪"である、と。
私はアメリカしか知りませんが、(しかもアーカンソーでは、子供はみないくつになっても母親を
大切にしています。

でも同じことを日本ですれば、「気持ち悪いマザコン男」と言われます。
この差は何なのか、何の違いがこうさせるのか、よく考えるのですが、私には結論がみつかり
ません。

はやしさんはご存知ですか???

ちなみに、私は「日本人は……」「日本では……」という表現が嫌いです。
すべてひとまとめにするのはおかしい、と。
でもこれに関してだけは、思ってしまいます。

全然、議題がそれましたね。すいません。(^^;
私も"ある母親"になる可能性はあるのかもしれないなぁ、と思いまして。
長文ですいませんでした。
読んでくれて、ありがとうございました! (6月22日0時17分)

+++++++++++++++++

AN様へ

 メール、ありがとうございました。

 少し考えてみました。

 一つは、「大切にする」ことと、「マザコン」は、まったく別のことです。このあたりに、大きな誤
解があるように思います。

 それについて、一言、説明しておきたいと思いましたので、ここに書いておきます。どこか論
文調で、きつい言い方に聞こえるかもしれませんが、お許しください。

 決してAN様に腹をたてているとか、AN様のメールを不愉快に思っているとか、そういうこと
ではありません。

 「なるほどな」と思いつつ、読ませていただきました。私は、こう見えても、結構、すなおな面が
あるのです。ハイ!

 以下、私の意見です。参考にしてください。

+++++++++++++++++

 マザーコンプレックス。略して、「マザコン」という。マザコンは、基本的には、「親を大切にす
る」という概念とは、まったく異質のものである。

 母親への強度の依存性を特徴として、その母親が、本来的にもつ母性的呪縛から、解放さ
れない状態を、マザーコンプレックスという。

 子どもは、その成長とともに、肉体的発育のみならず、精神的発育を完成する。これを発達
心理学の世界でも、「内面化」という。その過程の中で、子どもは、「家族」というワク(これを
「家族自我群」という)をこえて、自立、独立していく。これを心理学の世界では、「個人化」とい
う。

 わかりやすく言えば、その子どもの基本的信頼関係をつくるためには、母親の存在は絶対で
あり、そういう意味では、母子関係は、父子関係とはちがう、独自性をもつ。

 しかしその絶対性が強すぎると、子どもは、その絶対性に押しつぶされてしまうことがある。
わかりやすく言えば、ひとり立ち(個人化)できない、ひ弱な子どもになってしまうということ。

 こうした母子関係を調整するのが、父親の役目ということになる。それについては、何度も書
いてきたので、ここでは省略する。

 で、こうして母親が本来的にもつ母性的呪縛から、解放されない子どもが、生まれる。その代
表的な言葉が、「産んでやった」「育ててやった」という言葉である。(それに答えて、子どもは
「産んでいただきました」「育てていただきました」と言う。)

 こうした呪縛は、一方で、独立しようとする子どもに、大きなブレーキとして働く。それだけでは
ない。親に孝行できない自分に対して、罪悪感をもつこともある。たとえば「親不孝者」という烙
印(らくいん)を押された子どもは、生涯、「私は、人間として失格者だ」と思うことによって、あら
ゆる面で、自分はダメ人間と思いこんでしまう。

 母親の葬式に出られなかったというだけで、一日とて晴れることもなく、悶々と過ごしている男
性すらいる。

 母子関係というのは、それほどまでに重大な関係なのである。

 俗にマザコンというと、冬彦さん(テレビドラマ『ずっとあなたが好きだった』の主人公)を思い
浮かべる。典型的なサンプルとしては、わかりやすいが、しかし、マザーコンプレックスというの
は、あくまでも内面世界の問題である。

 さて、「日本では、母親を大切にすると、マザコンと呼ばれる」という意見について、この方
は、大きな誤解をしている。

 「大切にする」ということと、ここでいうマザコンとは、まったく異質のものであり、別のものであ
る。

 話せばあまりにも長くなるので、つまり遠い距離を感ずるので、簡単に言えば、こうなる。

 親子関係といえども、つきつめれば、一対一の人間関係で決まるということ。子どもがどう思
うかは別にして、親は、親子であるという、『デアル関係』に甘えてはいけないということ。子ども
が親を大切にするかどうかは、それはあくまでも、子どもの問題。親が反対に、子どもに向かっ
て、「親を大切にしなさい」と求めるのは、そもそも方向性が、逆だということ。

 親が子育てをする目的は、ただ一つ。子どもを、自立させること。そういう意味で、母性本能
に溺れてしまうと、ベタベタの親子関係をつくり、よって、子どもの自立(これを「内的促し」とい
う)を、阻害してしまうことが多い。それについて、私は、注意しなさいと言っている。

 最後に、アメリカと言っても、広い。面積だけを見ても、アジア全土を含めたほど、広い。カル
フォニア州だけでも、日本ほどある。テキサス州にいたっては、日本の2倍の広さがある。

 もちろん全世界の人種が集まっている。その中には、アジア系もいる。そういうアメリカの中
でも、中南部地方では、この方が指摘しているように、大家族主義というか、伝統的に、家族
意識がきわめて強い。

 しかしその家族は、同じ家族主義といっても、日本の家族主義とは、異質のものである。それ
とも、この方は、アメリカで、親が子どもに向かって、「親に向かって、何よ!」という、あのあま
りにも日本的な、どこまでも日本的な言葉を耳にしたことがあるとでもいうのだろうか。

 「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」という言葉でもよい。そんな言葉を
言っている、アメリカ人を、見たり聞いたりしたことがあるだろうか。

 私が「日本は……」「日本人は……」というときは、こういう意識のちがいを説明するときに使
う。決して、日本人が劣っているという意味で使っているのではない。

 もちろん日本には、日本のよさがある。一方、アメリカには、アメリカの問題がある。さらにこ
の日本の中でも、都会に住む日本人と、地方の農村地帯に住む日本人は、ものの考え方もち
がう。生活環境そのものも、ちがう。「日本は……」「日本人は……」という意見を書くときは、当
然のことながら、慎重でなければならない。

 これについては、私も、反省している。この方が指摘したとおりである。

 最後に、私は何も、親を含めて、人を大切にすることまで、否定しているのではない。親であ
れ、だれであれ、「大切にしたい」と思えば、その人を大切にすればよい。また親を大切にする
からといって、マザコンというわけではない。

 どうか、どうか、誤解のないように!

+++++++++++++++++++++

AN様へ

 メール、ありがとうございました! おおいに反省すべき点は、反省し、これからの執筆活動
に役立てさせていただきたいと思います。

 なお、いただきましたメールですが、小生発行のマガジン、7月23日号(予定)に、掲載させ
ていただいてよいでしょうか。よろしくご理解の上、ご了解ください。お願いします。

 私も、あのConway(アーカンソー州)に住む人たちの生き方を見ていると、あくまでも、息子
夫婦の過ごし方を見ての話ですが、「たがいの家族を大切にしているなあ」と思っています。

 しかしおもしろいと思うのは、それぞれが独立精神が強くて、80歳を過ぎた、祖父母にして
も、息子や娘と、決して同居しないということです。(そういう発想そのものが、ないように感じま
す。)

 嫁の母方の祖母にしても、いよいよ動けなくなり、嫁の両親の家の近くに引っ越してきました
が、それでも、かなり離れたところに部屋を借りて住んでいます。父方の祖父母は、リトルロッ
ク(州都)に住んでいます。

 こうした老後の過ごし方は、オーストラリアでも、一般的に見られます。年をとったら、都会の
マンション(アパート)に移り、さらに動けなくなったら、老人ホームへ入るという生き方です。

 日本でも、こうした生き方をする老人がふえてきたように思いますが、基本的な部分で、「家
族」に対する考え方がちがうのも、事実です。

 これからもその「事実」を追求し、この日本の社会を、より住みやすく、わかりやすいものにす
るためにも、がんばってものを書いていきたいと思います。また何かご意見をいただけるようで
したら、ご指摘ください。

 では、今日は、これで失礼します。重ねて、ご意見に感謝します。

                             はやし浩司

++++++++++++++++++++++++++

【フランス在住のRNさんより……】

 フランスの事情について、フランスに住んでおられる、Rさんから、
 こんなメールが、届きました。

 参考になると思いますので、許可を得て、掲載します。

++++++++++++++++++++++++++

今、はやしさんの楽天日記の、今日の文を読んで少し思ったことがあったので
ちょっと、フランスでは……参考になればと思って、メールしました。

こちら、私が住んでいるブルターニュ地方も、家族のつながりを大切にしている人が
多いです。

夫のADも、実家の日曜大工、芝刈り、畑を耕したりなにか問題があると
10km先の両親のところに行きます。

義母と夫の行動は、とっても似ているんですよね。
母を大切にするのと、マザコンは本当に違うと思います。

とくに両親を大切にすると言うことに関して。
夫の両親は、いつまでも私たちだけで生活していきたいと
言っていますし、あまり動けなくなったら、町が管理している家に住んでもいいわ!
と言っているぐらいです。

そしたら、あなたたちこの家を、買わない? ハハハ、なんて話ができるぐらいです。

前回、日本に帰ったときに父になにかあったら
母は自分の分だけでも仕事をして、自分で生活していきたい、ということでしたが
姉をはじめ、親戚は、長男のところ(東京)に行ってみてもらうのがいいと。
それが普通だ、と何かにつけて、長男、長男……。

「日本人は……」と、私もこの言葉を使いたくないのですが、
このときばかりは驚きました。
年老いたら、だれに、めんどうをみてもらうかの話ばかり!

フランスでは、こんな言い方、聞いたことがありません。

数か月、叔父が入院しましたが、あんなところに押し込められてと言う感じです。
老人ホームには、悪いイメージがあるようです。

私からしてみれば、長期治療のこともあるし、病院のおかげで母も働けるし
医療設備が発達していて、本当に感謝しているのですが……。
まわりから見ている人は、家で看護するのが当たり前と考えているような感じがします。

看護にしても、家でするにが、当たり前、だそうです。

保険が行き届いたフランスと比べてしまうからでしょうか。
日本とフランスとでは、親子の関係の違いを感じます。

長くなってすいません。

             フランス  RNより

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【RNさんへ……】

 さっそくのメール、ありがとうございました。

 私も、欧米と日本の家族観のちがいには、しばしば驚かされています。

 これからの日本は、ますます少子高齢化、都市型生活が進みますから、必然的に欧米型に
ならざるをえないと思います。住環境も貧弱だし……。

 老人ホームに対する悪いイメージは、60歳以上の人が、強くもっているようです。40歳代の
人、50歳代の人にも、多く、みられます。どこかで、そういう悪いイメージをもってしまったので
しょうね。「施設」というだけで、拒絶反応を示す人も少なくありません。

 歳をとったら、どこかでひとりで暮らす。息子や娘には、できるだけめんどうをかけたくない。
……というふうに考えるか、歳をとったら、身内に囲まれて、甘えて暮らしたい。……というふう
に考えるか、そのちがいかもしれません。

 実はね、この問題は、子育て全般にも関連してくるのです。

 こうした日本独特の依存型社会というか、もちつもたれつの甘えの世界というか、それがこれ
また日本独特の子育て観をつくりあげているのです。

 親は、無意識のうちにも、どこかで自分の老後を想定しながら、子育てをする。子どもの独
立、自立を願うよりも、自分の支配下において、子どもを、自分の思いどおりに動かそうとす
る。

 「ママ……」「ママ……」と甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子とするわけで
す。

 そのために、親は、子どもに嫌われるようなことを避ける。反対に、歓心をかったり、機嫌を
とったりする。ばあいによっては、子どもにコビを売ったり、さらには、弱々しい親を演じてみせ
たり、恩を着せたりする。

 もっとも、日本に住んで、外国から日本を見たことがない人には、それがわかりません。それ
が日本の風土や、文化になっているからです。へたに批判をしようものなら、(今の私のよう
に)、猛反発をくらうだけです。

 もう何十人もいましたよ。

 「君の意見は、現実的ではない」「欧米といっても広いだろ」という意見から、「それでもお前
は、日本人か!」「そんなに日本に文句があるなら、オーストラリアでも行けばいいだろ」という
のまで。

 「日本のよさまで否定するな」とか、「親孝行を否定するのは、日本人として、失格」とか言っ
てきた人までいます。「先祖を粗末にするヤツは、教育者としてふさわしくない。即刻、講演活
動をやめろ」と怒鳴りこんできた女性まで、いました。

 RNさんには信じられないような話かもしれませんが、すべて事実で、むしろ控えめに書いて
いるほどです。

 しかしだれかが、声をあげないと、日本はいつまでもこのまま。みなも気がつかないだろうし、
日本も変らないだろうと思います。そのためにずっと書きつづけていますが、正直に告白して、
このところ、少し、疲れてきました。

 「もう、どうにでもなれ」という思いも、生まれてきました。

 最後に、楽天の掲示板まで読んでくださって、ありがとうございました。このところマガジンも
低調で、8月号からどうしようかと悩んだり、迷ったりしています。またフランスの事情など、レポ
ートしてくだされば、うれしいです。

 今日は、これで失礼します。日本は、台風一過、昨日は、暑いですが、クリアな空を楽しむこ
とができました。今日は、幾分暑さがやわらぎ、過ごしやすくなりました。

 メール、転載の件、よろしくご了解ください。7月23日号で使わせてください。

                            はやし浩司

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●悪玉家族意識VS善玉家族意識

 いまだに江戸時代の、名家意識をひきずっている人は少なくない。封建時代には、「家」がす
べてであった。身分も、仕事も、そして人間としての価値も、それで決まった。

 こうした封建時代の亡霊に根ざした家族意識を、悪玉家族意識という。

 悪玉家族意識のものでは、家族一人ひとりは、すべて、「家」のモノでしかない。

 一方、家族の人権を、一人ずつていねいに尊重しようとする動きも、このところ、急速に大き
くなってきている。これを善玉家族意識という。「家」というものがあるとするなら、あくまでも、そ
の結果でしかない。

 今から思えば、笑い話のようなことかもしれないが、こんなことがあった。

 35年前、オーストラリアに渡ったときのこと。私は、向こうの人たちが、自由に、土地を移動
し、ついでに家を住みかえているのを知って、驚いたことがある。

 土地や家に、ほとんど執着心をもっていないのである。お金ができたら、より環境のよい、よ
り広い家に移る。老後になって、維持がたいへんになったら、売って、アパート(フラット)に移
る。そういうことを、早い人で、数年単位で繰り返していた。

 これは私には、大きな驚きだった。つまり彼らのそうした生きザマは、それまでの私には、ま
ったくない感覚であった。

 どちらがよいとか、悪いとかいうことではない。「家」あっての家族と考えるか、「家族」あって
の家と考えるかのちがいである。しかし、ただこれだけは言える。

 今、悪玉家族意識は、音をたてて崩壊しつつある。地方の農村地域に行くと、まだ残っている
ところもあるが、それも、いつまでつづくかわからない。私の姉ですら、農家に嫁いでいったが、
こう言っている。

 「浩ちゃん、大切なのは、みんなが幸せになることよ」と。

 「家」を守ったところで、その家族が幸福になるわけではない。むしろ、その重圧感で、何が
本当に大切かを見失ってしまっている人のほうが多いのでは? だから、私は、あえて「悪玉」
と呼ぶ。

 この悪玉家族意識は、総じて、だれの心の中にも、残っている。結婚式にしても、「家」と「家」
の結合という意識が残っている。花婿、花嫁という個人ではなく、「家」である。そういう悪玉家
族意識が一掃されたとき、私は、この日本の家庭にも、本物の個人主義イコール、民主主義
がやってくると思う。道は遠いが、がんばろう!


●父の日

 先日、ワイフが、「明日は、父の日ね」と言った。それで私が、「じゃあ、ブラジャー買ってあげ
ようか。ウルトラ・ソフトというのもあるよ」と。

ワイフ「どうして、ブラジャーなの?」
私「乳(ちち)の日だア」
ワイフ「バカみたい……」
私「じゃあ、パンツでもいい。やわらかい素材の……」
ワイフ「何、それ?」
私「だって、チンチの日だろ」と。

 最後に、「何をプレゼントしてくるの?」と聞いたら、「あなたは、夫で、父じゃないでしょ」だっ
てさ。

 同じようなものだと思うのだが……。

 長男も、たまたま家にいる三男も、何も祝ってくれなかった。父の日の翌日、アメリカに住む
二男から、電話があっただけ。「何か、用か?」と聞くと、「今日は、父の日だから」と。アメリカ
は、何でも、日本より、半日、遅れている。ハハハ。

 何ともさみしい父の日でした!

 (私のように、何も祝ってもらえない人も多いはず。だったら、勝手にこういう日を、決める
な! かえってさみしい思いをする人だって、多いぞ。)


●電子マガジンをどうしようか?

 このところ、パソコンに向うと、どうも気が重くなる。迷いがあるからだと思う。「どうしよう
か?」と考えているうちに、30分とか、それくらいの時間が、過ぎてしまう。
 
 朝、起きたとき、「マガジンは、7月いっぱいで、休止しようか」と思う。が、パソコンを開くと、
読者が1人、ふえていた。うれしいと同時に、「申し訳ないな」と思う。そしておもむろに、キーボ
ードをたたき始める。こんな毎日の、繰りかえし。

 がんばろう。がんばるしかない。今が、一番、苦しいとき。目標まで、あと500号! 私は、自
分のために書いている。だれのためでもない。自分のためだ。

 ワイフは、「もっと量を少なくしたら……」と、いつも言う。しかし私は、毎回、A4サイズ用紙(1
500字程度)で、20枚程度を目標にしている。それ以下の枚数にしたら、意味がない。10枚
でも、マガジン。5枚でも、マガジン。3枚でも、マガジン。たった1枚でも、マガジンはマガジン
になってしまう!

 だから20枚は、書く。……そう思って、今調べてみると、やっと12枚。以前なら、半日でそれ
くらいは書いた。今は、一日かかる。あと8枚。8枚書いて、7月23日号にする。がんばろう。

(意味のない原稿を書いて、すみません。いつも「量が多すぎる」という苦情をいただきます。そ
のうち元気がなくなれば、枚数も減ると思いますので、今、しばらく、お許しください。)

【追記】

 先日、子育て相談の受け付けを、お断りしますという連絡をしたら、その相談件数が、ガクリ
と減った。実際には、今日(23日)は、ゼロ。相談を受けても、その返事すら書けない。それで
受け付けを断ることにした。(ごめん!)

 ……こうして私は、どんどんと、現役から遠ざかっていく。幼児教室にしても、一日、1クラス
が限度。2クラスもすると、そのままバテてしまう。つまりそれくらい重労働に感ずるようになっ
てしまった。

 いろいろ悩んでおられる方には、申しわけないが、あとにつづく若い後輩たちに、がんばって
もらうことにする。ただ差別するように申しわけないが、友人、知人、賛助会員、BW関係者の
方からの相談は、今までどおり、受け付けている。どうか遠慮なく、相談してほしい。まだ完全
に、引退したわけではないので……。

+++++++++++++++++++++++++++

●家族自我群というクサリ

 今、Sさんは苦しんでいる。悩んでいる。事情は、こうだ。

 Sさんの母親は、数か月前、脳梗塞で倒れた。以来、意識が弱くなった。話しかければ、多少
の反応はあるという。しかしもう、家族の顔を見分けることもできない。

 そのSさんは、今、カナダのモントリオールに住んでいる。小学生と幼稚園へ通う、二人の子
どももいる。簡単に往復できる距離ではない。

 しかし、Sさんが苦しんでいるのは、そのことではない。ときどき日本に住む、兄夫婦や、妹に
電話をするのだが、いつも冷たくあしらわれてしまうという。

 「妹に電話をしても、『あんたなんか、もう家族ではない』というようなことまで言われます。母
の容態を聞くのですが、『あんたなんかに、話す義務はない』とか、「あんたなんかに、聞く権利
はない」とまで言われます」と。

 「私は、決して母のことをどうでもいいなんて思っているのではありません。そればかりか、一
日とて、心の晴れる日はありません。また遠いところに住んでいることを理由にして、日本へ帰
らないというのではありません。私には私の家族があり、いろいろと事情があるのです」とも。

 姉夫婦にせよ、妹にせよ、Sさんは、親の反対を押し切って、カナダ人と結婚して、親を捨て
た娘」というふうに考えられているのかもしれない。どこか化石のような考え方だが、今でも、そ
ういうふうに考える人は少なくない。

 子どもは、親のそばにいて、親の老後のめんどうをみるべきという考え方である。

 話は少し専門的になるが、「家族」には、家族としての呪縛(じゅばく)がある。これを心理学
の世界では、「家族自我群」という。

 子どもは、成長とともに、この家族自我群からの脱却をめざす。これを個人化という。つまり
家族という束縛から離れて、一人の人間として、自立しようとする。

 が、こうした自立への方向性を、親自身がはばんでしまうことがある。自立そのものを許さな
い親も、少なくない。タイプとしては、つぎの4つに分けられる。

(1)攻撃型(子どもに、親を捨てるとは何ごとかと、迫るタイプ。)
(2)同情型(弱々しい親をことさら演じながら、あなたなしでは生きていかれないと訴えるタイ
プ。)
(3)依存型(生活面で、どっぷりと子どもに依存してしまうタイプ。)
(4)服従型(子どもに服従することにより、その見返りに保護を求めるタイプ。)

 これら4つのタイプの親に共通するのは、親自身の精神的未熟性、情緒的欠陥性、さらに日
本独特の、子どもをモノと考える所有意識である。もちろん文化的背景もある。こうした要素が
複雑にからんで、結果として、子どもの自立をはばんでしまう。

 が、問題は、さらにつづく。

 子どもが自立したばあい、こうした子どもを親は、(そしてそうした親の考え方に同調する周
囲の人たちは)、「できそこない」というレッテルを張ってしまう。

 このレッテルが、子どもの側からみると、今度は、罪悪感となってはねかえってくる。「私はで
きそこないの子だ」と。この罪悪感が、ちょうど、真綿でクビをしめるように、ジワジワとその人
を苦しめる。

 それはふつうの苦しみではない。家族自我群というのは、それほどまでに根が深く、心の奥
底までその根は伸びている。一生の間、「私はダメな人間」と、思いこんでしまう人さえいる。

 本来なら、こうした苦しみを子どもに与えないため、親は、ある時期がきたら、じょうずに子離
れをし、子どもには、親離れをしむける。「あなたはあなたの人生を生きなさいよ。私は私の人
生を生きますからね」と。

 こうした親の、本来のやさしさが、子どもの心を救う。

 で、Sさんの話に戻る。

 Sさんは、今、二重の苦しみを味わっている。一つは、母親を心配する子どもとしての苦し
み。もう一つは、母親のめんどうをみられないという罪悪感。本来なら、こういう状態に子どもを
追いこまないように、母親自身が、何らかの方法を講じておくべきだった。

 遺言とまではいかないにしても、言葉や、指導で、娘たちを指導しておくべきだった。しかし残
念ながら、その母親には、それだけの度量がなかった。だから今、姉夫婦や妹は、Sさんを、
「できそこない」と責める。「自分だけ、カナダで楽な思いをしている」「親のめんどうを、私たち
に押しつけている」と。

 私がその母親なら、カナダの娘に向って、こう言うだろう。

 「わざわざ、来なくてもいいよ。葬式にも来なくていいよ。いつか、気が向いて、何かのことで
日本へ来たときに、墓参りか何かしてくれればいいよ」と。

 そしてほかの二人の娘には、こう言うだろう。

 「Sを責めてはいけないよ。Sには、Sの生活があるんだから。みんな、仲よくしてよ」と。

 近くにいて、そのつど適当にめんどうをみるよりも、遠くに離れて、その罪悪感に苦しむほう
が、ずっと苦しい。つらい。

 さらにこの日本では、「子どもが親のめんどうをみるのは、当たり前」と、信じて疑わない人も
いる。信じているというより、それ以外の考え方のできない人である。そういう親をもつと、結局
は、子どもが不幸になる。ノー天気というか、親のために犠牲になっている子どもの姿を見な
がら、「うちの息子は、親孝行のいい息子だ」と、誤解してしまう。

 それぞれの子どもには、それぞれの人生がある。長男も二男もない。そうした人生を、親の
ために犠牲にさせてはいけない。家のために犠牲にさせてはいけない。もちろん子どもが自分
で考えて、自分で、そうするというのであれば、話は別。しかし親は、子どもに、それを求めて
はいけない。強要してはいけない。

 参考になるかどうかは、わからないが、私は三人の息子たちに、そういう意識をもったこと
は、一度もない。今の今でも、苦労は尽きないが、もし三人の息子たちがいなければ、私は、
今の今でも、こうまでがんばらないだろうと思う。

 「まだ最低でも、3年は、がんばらなくては」という思いが、私の今のエネルギーになっている。
「あと3年で、三男は、大学を卒業する」と。

【Sさんへ……】

 こうなると、もう意識の勝負ですね。あなたの意識を、二つも三つも、飛躍させるしかありませ
ん。そしてその結果として、あなたの姉、妹を超えるしかありません。

 ちょうどおとなが幼児をみるように、あなたの姉や妹をみます。「何て、くだらないことを言って
いるのよ」と、です。つまり相手にしないこと。

 今のままだと、あなた自身も、姉や妹と、同じレベルに落ちてしまい、やがてその罪悪感に苦
しむようになってしまいます。それほどまでに、ここにも書いたように、この問題は、心の奥深く
に根ざしています。

 そのためにも、あなたの意識を高めます。が、それにしても、いやな姉や妹ですね(失
礼!)。遠まわしな言い方で、結局は、あなたを苦しめている。まさに自己中心型の人たちで
す。つまりは、それだけ精神の完成度の低い人とみます。

 その意識が高まれば、あなたは姉や妹を、ずっと下のほうに見ることができるようになりま
す。あわれで、かわいそうな人たちに見えてくるはずです。そうなれば、あなたはここでいう家
族自我群から、解放されます。

 どうせ悪く思われているのだから、いいではないですか。悪く思わせておきなさい。あなたの
まわりを見てください。この地球上には、60億人もの人たちがいるのですよ。こんな小さな国
の、小さな心の人たちなど、相手にしないことです。

 私も、いろいろな問題をかかえています。あなたのかかえている問題より、はるかに深刻な
問題です。

 で、ある日、こう思いました。「もう、相手にしない。悪く思いたければ、思え。勝手に、そう思
え」と。

 そう言えば、家族自我群というのは、ストーカーに似ていると思いませんか。こちらは、「もう
放っておいてくれ」と思っているのに、執拗にベタベタとつきまとう。逃げても逃げても、つきまと
う。相手は、勝手な思いこみだけで、私を追いかけまわす。……そんな感じがします。

 私は子どものころから、親たちから、「産んでやった」「育ててやった」「食わせてやった」と、そ
れこそ耳にタコができるほど、聞かされて育てられました。また大学へ入ると、「学費を出して
やった」「大学まで、卒業させてやった」と、これまた耳にタコができるほど、聞かされて育てら
れました。

 親戚の伯父や伯母にも、そう言われましたよ。「お前は、親に産んでもらったんだからな」と。
「歩き方や、話し方まで、親に、教わったのだからな」とも。

 結局は、その分だけ、親のめんどうをみろということだったのでしょうか。

 ここでいう「勝手な思いこみ」というのは、それを言います。

 で、私は私の長男をもったときから、心に決めました。はっきりと決めました。「私は、そういう
恩着せがましい子育てはしないぞ」と。

 しかしSさんは、生涯、その罪悪感から逃れることはできないでしょう。繰りかえしますが、こ
の問題は、それくらい、根が深いということです。

 だったら、どうするか?

 必要なことだけはしながら、あとは居なおる、です。今の状態では、あなたの母親は、施設に
入るのが、自分のためにも、またあなたたち姉妹のためにも、一番、よいのです。それがダメ
だというのなら、それはもう、あなたの母親の、エゴです。わがままです。

そしてもしその罪悪感を覚えたら、その罪悪感に苦しむのではなく、昇華させ、そしてそれを、
あなたの子どもたちに還元すればよいのです。

 あなたはすばらしい母親になれますよ。

 では。日本は、台風一過、気持ちのよい日が、つづいています。

                     6月23日       はやし浩司



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20

●感情的知能(EQ)

 知能指数をIQというのに対して、感情的知能指数を、EQという(サロベイ)。

 知能指数は、その子どもの、知的能力の優劣を表す。これに対して、感情的知能指数は、そ
の子どもの、社会適応能力を表す。最近の研究では、……というより常識として、頭のよい子
どもイコール、社会に適応できる子どもとは、かぎらない。

わかりやすく言うと、IQと、EQは、まったく別。もう少し、内容を詳しくみてみよう。

(1)他人への同調性、調和性、同情性、共感性があるか。
(2)自己統制力があり、自分をしっかりとコントロールできるか。
(3)楽観的な人生観をもち、他人と良好な人間関係を築くことができるか。
(4)現実検証能力があり、自分の立場を客観的に認知できるか。
(5)柔軟な思考力があり、与えられた環境にすなおに順応することができるか。
(6)苦労に耐える力があり、目標に向かって、努力することができるか。

 EQは、実際のペーパーテストでは、測定できない。あくまでもその子どもがもつ、全体的な雰
囲気で判断する。

 しかしこれは子どもの問題というより、子どもをもつ、親の問題である。「子どもを……」と考え
たら、「私はどうか?」と考える。「私は、どうだったか?」でもよい。

 そこで私の自己判定。


(1)他人への同調性、調和性、同情性、共感性があるか。

 私には二面性があると思う。いつも他人に合わせて、へつらったり、機嫌をとったりする反
面、協調性がなく、ちょっとしたことで、反目しやすい。

(2)自己統制力があり、自分をしっかりとコントロールできるか。

 人前では、統制力があり、自分をコントロールすることができる。あるいは無理にコントロー
ルしてしまう。もう少し、自分をすなおにさらけ出せたらと、よく思う。

(3)楽観的な人生観をもち、他人と良好な人間関係を築くことができるか。

 これについても、二面性がある。ときに楽観的になりすぎる反面、もともと不安神経症(基底
不安)型人間。気分が落ちこんでいたりすると、ものごとを、悪いほうへ悪いほうへと考えてしま
う。取りこし苦労をしやすい。

(4)現実検証能力があり、自分の立場を客観的に認知できるか。

 ときとして猛進型。そういうときになると、まわりの様子がわからなくなる。と、同じに、自分を
客観的に見られなくなる。ときとばあいによって、異なる。

(5)柔軟な思考力があり、与えられた環境にすなおに順応することができるか。

 むしろ環境のほうを、自分に合わせようとする。無理をする。思考力は、若いころにくらべて、
柔軟性をなくしたように思う。がんこになった。保守的になった。

(6)苦労に耐える力があり、目標に向かって、努力することができるか。

 それはあると思うが、本来、私は、短気で、あきっぽい性格。いつもそういう自分と戦いなが
ら、無理に無理を重ねている感じ。そういう意味でも、私は、いつも自分をごまかして生きてい
ると思う。

 以上、こうして自分の姿をながめてみると、私は優柔不断で不安定、かつ一貫性がないこと
がわかる。二重人格性もある。だから、私はこういう人間だというふうに、はっきりと判定するこ
とができない。

 わかりやすく言うと、(本物の私)と、(社会で表面的に生きている私)とは、別人であるという
こと。

 本物の私は、ズボラで、小心者。怠け者で、小ズルイ。スケベで、わがまま。それでいて、負
けず嫌い。めんどうなことが、嫌い。わずらわしいことも嫌い。

 そういう私が、精一杯、自分をごまかして、生きている。「そうであってはいけない」と思いなが
ら、別の人格を演じている。外の職場という世界だけではなく、内の家庭という世界でもそうな
のかもしれない。

 だから私のような生き方をしているものは、疲れる。どこにいても、疲れる。本来なら、どこか
の橋の下で、だれにも会わずに、ぼんやりと過ごすのが一番、私の性(しょう)に合っているの
かもしれない。

 しかしそれでは、この世の中では、生きていかれない。そこで私は、別の私をつくりあげたと
も考えられる。一見まじめなのは、反動形成(反動として、別の人格をつくりあげること)による
ものかもしれない。

 ……とまあ、自分のことだから、少し、きびしく判定してみた。

 こうしたEQ判定は、欧米の学校では、伝統的になされている。学力だけでは、よい瀬席はと
れない。大学の選抜試験にしても、学力の成績以上に、担当教師による、人物評価がものを
いう。

 日本も、やがてそういう方向に沿って、これからの「生徒評価」も変わってくると思う。たとえ
ば、「学力、189点/250。EQ点202点/250。合計391点/500」と。現在でも、大学入
試に関しては、センター試験(学力試験)と、つづく個別大学での面接試験(人物評価)がなさ
れているが、だれも、これでじゅうぶんだとは、思っていない。
 
 教育というのは、子どもの何を教育する場なのか、改めて考えなおしてみる必要がある。
(はやし浩司 感情的知能 感情的知能指数 子どもの社会的適応能力 EQ Emotional 
Quality)




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21
【家族自我群による幻惑】

●今朝・あれこれ(3月3日)(March 3rd)
My mother was carried to a hospital by ambulance car, since she lost consciousness in that 
morning. She received some medical checks but she recovered her consciousness around 
that time. And in the next day I sent her back to the Center. In the car with my mother, I 
thought a lot of things. My mother is me myself of 20 0r 30 years later. 

+++++++++++++++

このところ母の容体が、よくない。
今年に入ってから、これで2回、
救急車で、病院へ運ばれた。

今朝は、朝食後、意識がなくなって
しまったという。

あわててかけつけると、母は、酸素
吸入器を口につけ、ハーハーと
あえいでいた。血圧は、90弱〜70
前後。

母にしては、異常な低さである。

大声で声をかけると、意識はもどった。
つきそいの看護士の方が、「一時的
だといいですね」と言った。

母を見ていると胸が詰まった。
姉だけには連絡を……と思って
電話をかけたが、つぎの言葉が出て
こなかった。

「今朝まで、ちゃんと朝食をとって
いました」とのこと。
午後からはワイフに任せた。
私は自宅にもどった。

……この静けさは何か?
この穏やかで、やわらいだ気分は何か?

カーテンを見ると、白い光が、
木々の小枝の影を、くっきりと
映し出している。

その向こうで、隣の屋根瓦が、キラキラと
光っている。

風もない。
寒さも、やわらいだ。

ワイフからの連絡を待つ。
今の私には、それしか、することがない。
静かに、静かに、どこまでも、静かに。

+++++++++++++++

(3月5日)

幸い、母は、たいしたこともなく、
「様子見入院」だけですんだ。

で、病院に1泊して、翌日(=昨日)、センターに戻った。
帰りは、タクシー会社の、寝台つきバンだった。
そのバンの中で、いろいろ考えた。

センターでは、母は、(お荷物)に
なり始めているらしい。
今年に入って、寝たきりの状態がつづいている。
だからといって、センターの人を責めているのではない。
センターとしても、できることには限界がある。
それはわかる。

一方、病院側には、病院側の論理がある。
治療が目的。
「治る見込みのある患者を治すのが、病院の役目」。
どこかの医師も、そう言っていた。老人を預かる施設ではない。

とくに母のように、とくにどこかが悪いという
わけでもない老人は、患者ではない。

医師もこう言った。「何かあっても、延命措置は
取りません」「寿命ですから」と。

その日の午後には、心電図検査を予定して
いたが、私がキャンセルした。

私が「しても意味はないですね」と言うと、
医師も、すんなりと、「そうですね」と。

……私たちも、いつかは、母のようになる。
母のようになるのが、どうこうというのではない。
現在の母が置かれているのと、同じような、立場に置かれる。

そのとき、医師も含めて、周囲の人たちは、
私たちを、どう扱うか。

「いつ死んでも仕方ない」という扱い方をするだろう。
治療といっても、治療の方法すらない。

一方、たとえば病院に、1週間も入院していると、
センターのほうでは、母の居場所が末梢されてしまう。
そうでなくても、入居を待っている人は多い。

医師もこう言った。

「そうなったら、どこかのセンターに再入居する
しかないですね」と。

しかし今度は、そうは簡単にいかない。
再入居するのに、数か月待ちということになったら、
その間、母は、どこにいればよいのか。

「やはりセンターに戻してもらったほうがいい」という
ことで、母は、センターに戻してもらった。

老人介護、老人医療には、いろいろ問題があるようだ。
そんなことを帰りのバンの中で、考えた。

見た目には、スヤスヤと眠っている母を見ながら……。

+++++++++++++++

介護のコツは、介護のことを考えているときと、
そうでないときで、頭の切り替えを、しっかりと
すること。

仕事にもどったり、家庭にもどったりしたら、
介護のことは忘れる。母のことは、忘れる。

「死んだら、死んだとき」と。

なかなかむずかしいことかもしれないが、
そこまで割り切らないと、気苦労だけが倍加してしまう。

ものごとは、なるようにしかならない。
「なるようにしかならない」と自分に言い聞かせて、
心の中を、サッと洗う。

ところで、こんな話を聞いた。

参観に来ていた母親に、「親の介護もたいへんですよ」と、
私がふと漏らすと、その母親は、こう言った。

「私の夫なんかは、母(=夫の実の母親)を見舞ったことは、
めったにありませんよ」と。

その母(=夫の実の母親)というのは、入院して、2年になるという。
事故で頭をけがしてからというもの、認知症に
なってしまったという。

年齢を聞くと、その母(=夫の実の母親)は、まだ60歳とか。

私「若いのに……。60歳で、寝たきりですか……」
母「そうですね」
私「でも、また、どうして? どうして、2年も……?」
母「いろいろありましたから」と。

親子の間で、私には想像もつかないような確執があったらしい。

私「親子関係といっても、さまざまですからね」
母「そうですね」
私「……」と。

+++++++++++++++++++

それぞれの家庭には、それぞれの事情がある。
外からでは、ぜったいにわからない。
だからあなたがもっている(常識)だけで、
その家庭を判断してはいけない。
一方的な話だけを聞いて、判断するのも正しくない。

仏教の世界にも、「怨憎会苦(おんぞうえく)」という
言葉がある。

「憎い相手と会う苦しみ」という意味だが、
親子であっても、どこかで歯車が狂うと、そうなる。
親子であるがゆえに、その苦しみも大きい。

さらに兄弟、姉妹となると、憎しみ合っている人は、
ゴマンといる。
遺産問題、金銭問題がからんでくると、兄弟、姉妹でも、
それこそ、血みどろの争いになる。
そういう例も、これまたゴマンとある。

そういう相手と会う……それはまさに、「怨憎会苦」。
「四苦八苦」のひとつにもなっている。

では、どうするか?
そうしたトラブルから、いかにして自分を救出するか?

つまりは、相手が、サルかイヌに見えるまで、
自分を高めるしかない。
(言葉はキツイが、それくらいに思わないと、この問題は
解決しないので、そう書く。)
が、「サルだと思え」「イヌだと思え」と言っても、
それはむずかしい。

だから自分を高める。
芸術に親しみ、本を読み、教養のある人と話をする。
その結果として、相手が、サルかイヌに見えるまで、
自分を高める。

私のばあいも、同じような立場に立たされたことが、
何度か、ある。
そういうときは、心の中で、歌を歌っていた。

(一度は、思わず、口が動いてしまい、相手に
バレそうになってしまったこともあるが……。)

言いたい人には言わせておけばよい。
思いたい人には、思わせておけばよい。

相手は、サルはサル。イヌはイヌ。どうせその程度の人間。
人間と言うよりは、サルかイヌ。
あなたが相手にしなければならないような人ではない。
また「わからせよう」と思っても、ムダ。
それだけの知恵もない。頭もない。

あとは無視。適当につきあって、それですます。

++++++++++++++++++

こんな例を、ワイフが話してくれた。

「2年どころか、10年間、一度も、実の母親を
見舞っていない人もいるわよ」と。

その人を、Z氏(50歳、男性)としておく。

実の母親というのは、10年前に認知症になり、
今年85歳になるという。

「どうして、そうなったの?」と聞くと、ワイフが、
こう話してくれた。

ワ「もとはと言えば、Z氏が、今の奥さんと結婚するため、
家を出たのが始まりみたい。
1人息子だったのね。
そこでZ氏の母親が、猛反対。『結婚して家を出るなら、
今までお前にかけた、養育費を全部、返せ!』という
ことになったのね。
一時は、裁判沙汰にまでなったそうよ。
で、親子の関係は、それで切れてしまったというわけ」

私「養育費を返せというのも、ふつうではないね」
ワ「でも、そういう親も、多いわよ。私の知っている
別の人(=男性)なんか、いまだに実の親に、『お前にかけた、
学費を全部、返せ」と言われているそうよ。額は、
3000万円だってエ!」
私「でも、そんなことを親のほうが言えば、親子関係は、
おしまいだよ」
ワ「そうね。親もそのつもりではないかしら。Z氏の
母親にしてもそうよ。つまり親のほうから、先に縁を
切ってきたというわけ。だから、それでおしまい」

私「Z氏が家を出たというのも、わかるような気がする。
そういう親だから、家にはいたくなかったんだろうね。
つまりそういうことをしそうな親だということが、Z氏には
わかっていたんだよ」
ワ「そう、Z氏が家を出たから、親子関係が切れたのではなく、
すでに、Z氏が家にいるころから、切れていたのね。
それにZ氏の母親は、気づかなかっただけなのね」と。

表面的な部分だけを見れば、Z氏は、「子らしからぬ子」と
いうことになる。

事実、ごく最近まで、Z氏は、母親の兄(伯父)に、「お前は
親不孝者」と、ののしられていたそうだ。

Z氏の苦しみも、また大きい。……大きかった。

ワ「だから、今でも、Z氏は、実家の近くにさえ近寄らない
そうよ」
私「わかるね、その気持ち。とても、よくわかる」
ワ「Z氏にしてみれば、子どものときからの積み重ねも
あるから……。私の友だち(女性)にも、結婚して以来、
一度も実家に帰っていない人がいるわよ」
私「何年くらい?」
ワ「私より10歳くらい若いから、ざっと計算しても、
20年近くじゃ、ないかしら……」
私「20年ネエ〜。よほどのことがあったんだろうね」
ワ「そうね……。よほどのことがあったんでしょうね」と。

そんなわけで、もし今、あなたが、どこかのだれかに、
その家の家庭問題であれこれ言っているようなら、
すぐやめたほうがよい。

あなたは気がついていないかもしれないが、
言われたほうの人は、死ぬほど苦しい思いをしているはず。
あなたは親切心のつもりで言っているかもしれない。
もしそうなら、おカネを出してやったらよい。

それができないなら、だまっていること。
口を出すことくらいなら、だれにだって、できる!

ともかくも、これから母を見舞いに行ってくる。

+++++++++++++++

その前に、以前、「親捨て」と、親類の人からだけではなく、
近所の人たちにも、呼ばれている人がいました。
その人について書いた原稿を、ここにあげてみます。

+++++++++++++++

●親捨てる子ども(Son and daughters who abandon their parents)

 今でもある地方へ行くと、「親捨て」という言葉が残っている。「親のめんどうを見ない、親不孝
者」の人のことを、そう呼ぶのだそうだ。

 ただ単なる言葉だけの問題ではない。その地方では、一度、親捨てと呼ばれたら、親戚づき
あいができなくなるのは、もとより、近所の人たちからさえも、白い目で見られるという。現実に
は、「郷里へ帰ることさえできなくなる」(ある男性からのメール)とのこと。

 その地方では、そういう形で、むしろ子どもを積極的に、自我群のもつ束縛の中に、組みこも
うとする。それは自分自身の老後のためかもしれない。親を捨てた子どもをきびしく排斥するこ
とによって、その一方で、自分の息子や娘に対して、「親を捨てると、たいへんなことになるぞ」
と、警告することができる。

 が、それだけではない。

 「親捨て」のレッテルを一度張られた子どもは、その重圧感に、一生、悩み、苦しむことにな
る。 

 こんなメールが、Nさんという方から、届いた。

++++++++++++++++

●Y市のNさんよりメール
 
 Y市に住んでいる、Nさんより、母親(実母)についての相談があった。

 Nさんは、現在、31歳。2児の母親。

 Nさんの母親(実母)は、プライドの高い人で、人から、何か指摘されたりすると、カッとなりや
すい人のようである。そしていつも、夫(Nさんの実父)の顔色をうかがって、生活しているような
ところがあるという。

 Nさんにとって、Nさんの生まれ育った家庭は、とても「暖かい家庭」とは言えなかったようであ
る。一度、Nさんが家出をしたとき、こんなことがあったという。Nさんが、高校生のときのことで
ある。

 Nさんの母親は、Nさんを迎えにきたとき、Nさんに、「私がかわりに家出をするから、あなた
はもどってきなさい」と言ったという。その一件で、Nさんは、母親との信頼関係が、崩れたよう
に感じたという。

 「私は恵まれた家庭に育っていない。しかし自分の子どもたちには、家族の温もりを教えてあ
げたい」「幸福な気持ちで、生きてほしい」「どうしたらいいか」「また、両親に、もっと自分たちの
ことを気づいてほしい。どうしたらいいか」と。

【Nさんへ……】

 エッセー形式で、返事を書いてごめんなさい。Nさんのかかえておられる問題は、広く、つまり
あちこちの家庭で起きている問題です。そういう意味で、エッセー形式にしました。どうか、ご理
解ください。

【家族自我群からの解放】

 「家族意識」には、善玉意識と悪玉意識がある。これについては、すでにたびたび書いてき
た。

 「家族だから、みんなで助けあって生きていこう」というのが、善玉家族意識。「家族として、お
前には勝手な行動は許さない」と、家族同士をしばりあげるのを、悪玉家族意識という。

 この悪玉家族意識には、二面性がある。(ほかの家族をしばる意識)と、(自分自身がしばら
れる意識)である。

 「お前は、長男だから、家を守るべき」「お前は、息子なのだから、親のめんどうをみるべき」
と、子どもをしばりあげていく。これが(ほかの家族をしばる意識)ということになる。

 一方、子どもは子どもで、「私は長男だから、家をまもらなければならない」「息子だから、親
のめんどうをみなければならない」と、自分自身をしばりあげていく。これが、(自分自身がしば
られる意識)である。

 問題は、後者である。

 それなりに良好な親子関係ができていれば、自分で自分をしばりあげていく意識も、それなり
に、良好な親子関係をつくる上においては、プラス面に作用する。しかしひとたび、その親子関
係がくずれたとき、今度は、その意識が、その人を、大きな足かせとなって、苦しめる。

 ばあいによっては、自己否定にまで進む。

 ある男性は、実母の葬儀に出なかった。いろいろ事情はあったのだが、そのため、それ以
後、自らに、ダメ人間のレッテルを張ってしまった。

 「私は親を捨てた、失格者だ」と。

 その男性の住む地方では、そういう人のことを、「親捨て」と呼ぶ。そして一度、「親捨て」のレ
ッテルを張られると、親戚はもちろんのこと、近所の人からも、白い目で見られるようになると
いう。

 こうした束縛性を、心理学の世界でも、「家族自我群」と呼ぶ。そうでない人、つまり良好な親
子関係にある人には、なかなか理解しにくい意識かもしれない。しかしその意識は、まさにカル
ト。家族自我群に背を向けた人は、ちょうど、それまで熱心な信者だった人が、その信仰に背
を向けたときのような心理状態になる。

 ふつうの不安状態ではない。ばあいによっては、狂乱状態になる。

 家族としての束縛性は、それほどまでに濃厚なものだということ。絶対的なものだということ。
親自身も、そして子ども自身も、代々、生まれながらにして、徹底的に、脳ミソの中枢部にたた
きこまれる。

 こうした意識を総称して、私は「親・絶対教」と呼んでいる。日本人のほとんどが、多かれ少な
かれ、この親・絶対教の信者と考えてよい。そのため、親自身が、「私は親だから、子どもたち
に大切にされるべき」と考えることもある。子どもが何かを、口答えしただけで、「何だ、親に向
かって!」と、子どもに怒鳴り散らす親もいる。

 私がいう、悪玉親意識というのが、それである。

 ずいぶんと、回り道をしたが、Nさんの両親は、こうした悪玉家族意識、そして悪玉親意識を
もっているのではないかと、思われる。わかりやすく言えば、依存型人間。精神的に未熟なま
ま、おとなになった親ということになるのかもしれない。Nさん自身も、メールの中で、こう書いて
いる。

 「(母も)、そろそろ自分の人生を生きることを選んで欲しいと、心から願っています」と。

 Nさんの母親は、いまだに子離れができず、悶々としている。そしてそれが、かえってNさんへ
の心理的負担となっているらしい。

 実際、親離れできない子どもをかかえるのも、たいへんだが、子離れできない親をかかえる
のも、たいへんである。「もう、私のことをかまわず、親は親で、自分の道を見つけて、自分で
生きてほしい」と願っている、子どもは、いくらでもいる。

【親であるという幻想】

 どこかのカルト教団では、教祖の髪の毛を煎じて飲んでいるという。その教祖のもつ霊力を、
自分のものにするためだそうだ。

 しかし、そういう例は、少なくない。考えてみれば、おかしなことだが、実は、親・絶対教にも、
似たようなところがある。

 ……という話はさておき、(というのも、すでに何度も触れてきたので)、私も、すでに56歳。
その年齢になった人間の一人として、こんなことが言える。

 「親という言葉のもつ、幻惑から、自分を解放しなさい」と。

 子どもから見ると、親は絶対的な存在かもしれない。が、その親自身は、たいしたことがない
ということ。そのことは、自分がその年齢の親になってみて、よくわかる。

 多分、20代、30代の人から見ると、56歳の私は、年配者で、それなりの経験者で、かつそ
れなりの人格者だと思うかもしれない。しかしそれは、幻想。ウソ。

 ざっと私のまわりを見ても、50歳をすぎて、40代のときより、進歩した人など、一人もいな
い。人間というのは、むしろある時期を境に、退化するものらしい。惰性で生きるうち、その範
囲の生活的な技術は身につけるかもしれない。が、知性にせよ、理性にせよ、そして道徳観に
せよ、倫理観にせよ、むしろ自ら、退化させてしまう。

 わかりやすく言えば、歳をとればとるほど、くだらない人間になる人のほうが、多いというこ
と。それはまさに健康や体力と似ている。よほどの訓練をしないと、現状維持すら、むずかし
い。

 これは現実である。まちがいのない現実である。

 しかし親に対する幻想をもつ人は、その幻想に、幻惑される。「そんなはずはない」「親だから
……」と。

 Nさんも、どうやら、そうした幻惑に苦しんでいるようである。

 だから、私は、こう言いたい。「Nさん、あなたの母親は、くだらない人です。冷静にそれを見
抜きなさい。親だからといって、遠慮することは、ない」と。

 ただ誤解しないでほしいのは、だからといって、Nさんの母親をどうこうと言っているのではな
い。親・絶対教の人にこう書くと、かえって猛烈に反発する。以前、同じようなことを書いたと
き、こう言ってきた人がいた。

 「いくら何でも、他人のあなたに私の母のことを、そこまで悪く言われる筋あいはない」と。

 私が言いたいのは、親といっても、その前に一人の人間であるということ。そういう視点から、
親を見て、自分を見たらよいということ。親であるという幻惑から、まず、自分を解放する。

 この問題を解決するためには、それが第一歩となるということ。

【親のことは、親に任せる】

 Nさんのかかえるような問題では、子どもとしてできることには、かぎりがある。私の経験で
は、親自身に、特別な学習能力があるなら話は別だが、それがないなら、いくら説得しても、ム
ダだということ。

 そもそも、それを理解できるだけの、能力的なキャパシティ(容量)がない。おまけに脳細胞そ
のものが、サビついてしまっている。ボケの始まった人も、少なくない。

 さらにたいていの親(親というより、親の世代の年配者)は、毎日を惰性で生きている。進歩
などというのは、望みようもない。

 そういう親に向かって、「あなたの人生観はまちがっている」と告げても意味はないし、仮にそ
れを親が理解したとしたら、今度は、親自身が、自己否定という地獄の苦しみを味わうことにな
る。

 つまり、そっとしておいてあげることこそ、重要。カルトを信仰している、信者だと思えばよい。
その人が、その人なりに、ハッピーなら、それはそれでよい。私たちがあえて、その家の中に、
あがりこみ、「あなたの信仰はまちがっている」などと言う必要はない。また言ってはならない。

 この世界では、そうした無配慮な行為を、「はしごをはずす行為」という。「あなたはまちがって
いる」と言うなら、それにかわる、(心のよりどころ)を用意してあげねばならない。そのよりどこ
ろを用意しないまま、はしごをはずしてはいけない。
 
 要するに、Nさん自身が、親自身に幻想をいだき、その幻惑の中で、もがいている。家族自
我群という束縛から、解放されたいと願いつつ、その束縛というクサリで体をしめつけ、苦しん
でいる。

 だから、Nさん自身が、まず、その幻想を捨てること。「どうせ、くだらない人間よ」「私が本気
で相手にしなければならない人間ではない」と。

 「親だから、こんなはずはない」と思えば思うほど、Nさん自身が、そのクサリにからまれてし
まう。私は、それを心配する。

 ある男性(50歳くらい)は、私にこう言った。

 「私の父親は、権威主義で、いつもいばっていました。『自分は、すばらしい人間だ』『私は、
みなから、尊敬されるべきだ』とです。しかし過去をあれこれさぐってみても、父が、他人のため
に何かをしたということは何もないのですね。それこそ近所の草刈り一つ、したことがない。そ
れを知ったとき、父に対する、幻想が消えました」と。

 あえて言うなら、Nさんの母親は、どこか自己愛的な女性ということになる。かわいいのは自
分だけ。そういう自分だけの世界で、生きている。批判されるのを嫌う人というのは、たいてい
自己愛者とみてよい。自己愛者の特徴の一つにもなっている。

 幼児的な自己中心性が肥大化すると、人は、自己愛の世界に溺れるようになる。Nさんのメ
ールを読んでいたとき、そんな感じがした。

【お子さんたちのこと】

 Nさんは、子どもへの影響を心配している。「子どもたちに、幸福な家庭を見せてあげたい」
と。

 心配は無用。

 Nさんの子どもたちは、Nさんの子どもたちへの愛情の中から、自分たちの進むべき道を見
つけていく。つまりそうして子どもたちの将来を心配するNさんの愛情こそが、大切ということ。

 たしかに子どもというのは、自分の置かれた環境を再現する形で、おとなになってから、子育
てをする。しかしそれは、決して、物理的な環境だけではない。

 もちろん問題がないわけではない。しかしどれも克服できる問題ばかり。現に今、Nさんは、
私にメールをくれることで、真剣に子どもたちのことを考えている。

 こういう姿勢があるかぎり、子どもたちは、必ず、自分の進むべき道を自分で見つける。

 大切なのは、「形」ではなく、「自分で納得できる人生」である。

 だから子どもたちに対する愛情だけは、見失わないように。

【改めてNさんへ……】

 以上、大急ぎで返事を書きました。あちこち何かしら言い足りないところもありますが、参考
にしていただければ、うれしいです。

 Nさんの問題をテーマにしてしまいましたが、どうか、ご了解の上、お許しください。x月x日号
を今夜配信しなければならないのですが、この数日、ほとんど原稿を書いていません。

 それでx月x日号の原稿とかねて、返事を書かせてもらいました。お許しください。

 では、今夜は、これで失礼します。未推敲のまま原稿を送ります。よろしくお願いします。




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22
●子どもの自立

+++++++++++++++

Yさん(女性、母親)からのメール
が届いた。

夫のカードローンが、家計を圧迫している。
子どもが、タオルを一日中、吸っている。
夫に、おかしな性癖(?)があるなどなど。

そのため離婚を考えているが、どうしたら
よいか、と。

+++++++++++++++

 子育ての究極の目標は、子どもを自立させること。それは常識だが、その自立のカギをにぎ
るのは、そんなわけで、母親ということになる。わかりやすく言えば、母親が、自分自身のもつ
(限界)に気づき、その(限界)と、戦うこと。

 さらに言えば、子どもがその年齢に達したら、母親自身が、子どもの自立をうながしながら、
子ども自身が、親離れできるように仕向ける。たとえて言うなら、親鳥が、ヒナを、巣から追い
出すような行為をいう。これはただ単なる子離れとは、異質のものである。

 親が子離れするのは、子どもが親離れしたあと、必然的な結果として起こるもの。

 当然、父親の強力も必要となる。先にも書いたように、父親の役割は、ともすれば濃密になり
やすい母子関係に、クサビを打ちこむこと。そして、子どもを外の世界に連れ出し、(狩りのし
方)を教えること。

 もっと言えば、母親が、その母性本能に溺れ、母親だけの子育てをするのは、危険なことで
すら、ある。その危険さに、母親自身が気づく。それがここでいう(限界)ということになる。

●Yさんのケース

 Yさんのメールを読むと、Yさんの周辺には、さまざまな問題が、くもの巣のようにからんでい
るのがわかる。(メールは、掲載許可がいただけなかったので、ここでは紹介できません。)

 Yさんには、つらい話かもしれないが、順に、Yさんの問題点を整理してみよう。

(1)恵まれなかった、幼少時代。貧弱な愛情問題。
(2)父親不在の家庭環境。父親像の薄い、家庭環境。
(3)濃密な親子関係。個人化の遅れ。自我群の束縛。
(4)心を開けない、家庭環境。母子関係の不全。
(5)母親への強度な依存性。マザーコンプレックス。
(6)両親の離婚。それにともなう、心の葛藤。
(7)Yさん自身の信頼関係の不足。そして仮面。
(8)不安神経症と、基底不安。基本的不信関係。
(9)夫の単身赴任。どこか心さみしい結婚生活。
(10)夫や子どもにさえ、心を開けない心の閉鎖性。

 Yさんには、心の状態を正確に知ってほしかったから、あえて書き出してみた。Yさんに与える
衝撃には、はかり知れないものがある。それはわかっている。しかしこの問題だけは、自分が
何であるか、それをまず知る必要がある。「私」を超えた、「私」を、である。それがわからない
と、いつまでも、私であって私でない部分に、振りまわされるだけということになる。

●時は心の癒(いや)し人

 「私」がわかれば、あとは、時間が解決してくれる。『時は、心の癒(いや)し人』という言葉は、
私が考えた。すぐには、解決しない。しかし「私」が何であるかがわかれば、あとは、はやい。

 あるいは「私」が何であるかわれば、別の「私」が、それをコントロールするようになる。「これ
は本当の私だ」「これは本当の私ではないぞ」と。Yさんも、心に大きなキズをもっている。その
キズが、今のYさんをつくりあげた。

 「勉強が好きだった」と言うYさん。しかし本当のところは、勉強が好きだったというよりは、勉
強を通して、自分にとって、居心地のよい世界をつくっていただけなのかもしれない。どこか自
虐的な勉強をしながら、母の関心をひき、母の期待に答えようとした。

 しかし本当にYさんは、もっと、安心して、つまりは不安なく暮らせる、安定した家庭を求めて
いたのかもしれない。が、その希望は、うまく、かなわなかった。

 ……と、いろいろ考えられる。が、ここで重要なことは、「過去は、過去」として、明確に割り切
ること。実のところ、Yさんは、もう一つの問題をかかえている。「世代連鎖」という問題である。

●世代連鎖

 こうした問題は、世代連鎖しやすい。事実、Yさんの母親は、Yさんに離婚をすすめている。周
囲に離婚の経験のない人は、こういうケースでも、「離婚」という言葉を、安易に口にしない。そ
ういう発想そのものがない。一方、身近で離婚を見聞きした人ほど「離婚」という言葉を、口に
しやすくなる。

 そのYさんの両親は、Yさんが、子どものときに離婚している。離婚することが悪いというので
はない。離婚する人には、離婚するだけの理由がある。「結婚」という形にこだわる必要はな
い。しかし問題は、その離婚にまつわる心の葛藤、家庭内の騒動、そして「心」の崩壊である。

 Yさんの子どもは、今、まさに、Yさんが少女時代に体験したのと同じ体験を、繰りかえそうと
している。そのことにYさんは、まだ気づいていない。実のところ、Yさんが、心を開けないなら開
けないで、それは構わない。

 しかしそういうYさんを母親にもち、人知れず、一番悲しみ、苦しんでいるのは、子ども自身で
ある。それを忘れてはいけない。もっと言えば、Yさんの子どももまた、人に対して心の開けな
い人になってしまっている可能性がある。しかも悲劇的なことに、そのことに、Yさん自身が気
がついていない可能性がある。

 言うまでもなく、心の開いている人からは、心の開いていない人がよくわかる。しかし心を開
けない人からは、心の開いていない人がわからない。他人も、自分と同じようだと考えてしま
う。

 こうして、親から子へと、心が伝わっていく心が、心として、世代を超えて伝わってしまう。これ
を世代連鎖という。行為や行動が伝わるのではない。行為や行動は、あくまでも、その結果で
しかない。

【Yさんへ……】

●あなたはすべてをもっている

 かなりきびしいことを書いてしまいました。どうか、冷静に読んでください。私はあなたを怒ら
せるつもりも、不愉快にするつもりも、ありません。

 あなたに、心の平安を取りもどしてほしいのです。安らかで、落ちついた世界です。

 今、あなたはすべてをなくし、不幸のどん底にいると思っているかもしれません。しかしこれ
は、たいへんな誤解です。

 実は、今、あなたは、(すべてのもの)をもっているのです。やさしく、子ども思いの夫。家庭と
家族。健康。若さ。人生。やさしい母親。あなたの母親には、どこか問題はありますが、しかし
この日本では、平均的というより、平均以上!

 あなたはすべてをもっているのです。あなた自身も、です。聡明な知恵、知識、学識、経験、
常識。すべてです。

 ただ一つ、問題があるとするなら、あなたは、自分だけの世界に閉じこもってしまっている。あ
なたの夫ですら、信じていない。あなたの子どもですら、信じていない。

 ここが最大の問題です。あなたは自分のことしか考えていませんが、(たしかにそういう意味
では、自己中心的ですね)、そういうあなたを妻にもち、母にもち、さみしい思いをしているの
は、あなたの夫であり、子どもです。

●借金など、何でもない問題

 はっきり言いましょう。カードローンによる借金など、大きな問題ではありません。事業に失敗
し、破産しても、夫婦で助けあいながら、懸命に生きている人は、この世界には、ゴマンといま
すよ。深刻な子どもの問題をかかえながら、懸命に生きている人は、さらに五万といますよ。い
ちいちそんなことを離婚事由にしていたら、この世の中には、結婚する人などいなくなります。

 (あなたが離婚を考えていることについて、あるいはもっとほかにも、理由があるのかもしれ
ませんが……。夫が単身赴任をしていたという事実が、どうも心にひかかります。どうして単身
赴任など、させたのですか? あるいはその前から、夫婦関係が、おかしくなっていたのです
か? 私は単身赴任などいう制度そのものに、若いときから、猛反対してきました。「家族がバ
ラバラにされて、何のための仕事か!」とです。)

 それにしても、今、あなたにとって大切なことは、命を削るような転機を迎えることではなく、や
るべきことを自分に向ってすることです。

 もしあなたにまだ、いちるの望みがあるなら、そして夫に対する愛が残っているなら、負けを
認めなさい。心を開いて、負けを認めなさい。がんばる必要はありません。勇気を出して、心を
空に向って、解き放つのです。勇気を出して、です。体は、あとからついてきます。

●もっとさらけ出して生きる

 がんばってはいけません。プライドにしがみついてはいけません。ありのままを、あなたの夫
や子どもの前で、さらけ出すのです。それでダメなら、ダメでいいではないですか。ダメで、ダメ
もと。

 「子どもを白目でにらんだり、指を吸ったり、バスタオルが離せなかったり……」と、あなたは
書いています。

 いいじゃないですか、白目でにらみたかったら、にらめば。どうしてそれが悪いことなのです
か。

 いいじゃないですか、指を吸いたかったら、吸えば。どうしてそれが悪いことなのですか。

 いいじゃないですか、バスタオルが離せなかったら、もっていれば。どうしてそれが悪いことな
のですか。

 私も、神経が不安定になると、ワイフのおっぱいをずっと吸っていますよ。ある雑誌の告白手
記に書いてありましたが、毎晩、夫のペニスを吸わないと眠られない若妻だっているそうです。
毎晩、チューチューと吸いながら、眠るのだそうです。

 さらに私の知人(もちろん男性)の中には、一流企業の役員をしているのがいますが、その彼
の密かな趣味は、大きな尻をもった女性に、その尻で、顔を踏みつけられることだそうです。わ
かりますか? みな、それぞれです。人、それぞれです。

 みんなそれぞれの方法で、自分の心の問題と戦っているのです。「これはいいことで、これは
悪いこと」と、決めてかからないこと! したいことをしなさい。言いたいことを言いなさい。あな
たの夫や子どもには、したいことをさせてあげなさい。言いたいことを、言わせてあげなさい。
他人にはできないかもしれませんが、夫婦や家族に対してならいい。だから、夫婦であり、家
族なのです。

 おかしな基準をもつこと自体、Yさん、あなたには、家族像が入っていないということです。勝
手な空想で、理想の夫婦像などつくらないこと。

●あとは、居直る

 あなたはあなた。どこまでいっても、あなたはあなた。居直りなさい。仮におかしな性癖があっ
たとしても、(ぜんぜん、おかしくないですが……)、そんなこと気にすることはありません。

 Yさんが、今、かかえている問題は、一見、Yさんを包む家族の問題に見えますが、ひょっとし
たら、Yさんがほんの少しだけ、心の向きを変えれば、すべて、解決する問題のように思いま
す。ある意味で、何でもないですよ!

 どこにでもある。だれしもかかえている。多かれ少なかれ、みな、です。

 イランの笑い話に、こんなのがあります(イラン映画「桜桃の味」より)。

 ある男が、病院へやってきて、ドクターにこう言いました。「ドクター、私は腹を指で押さえる
と、腹が痛い。頭を指で押さえると、頭が痛い。足を指で押さえると、足が痛い。私は、いった
い、どこが悪いのでしょうか?」と。

 するとそのドクターは、こう答えたそうです。「あなたは、どこも悪くない。ただ指の骨が折れて
いるだけですよ」と。

 いいですか、あなたは今、すべてのものを持っている。(すべてのもの)です。(私は生きてい
る)という原点から、もう一度、自分をながめてみてください。それですべてが、解決しますよ。

●すばらしい母親

 Yさんは、若いのに、じゅうぶん、自分を冷静に見つめる視点をもっておられます。すばらしい
ことです。そこらのママ(失礼!)とは、中身もできもちがいます。メールの内容から、それがわ
かります。

 それに子どもが男児だから、よけいに戸惑っておられるのかもしれません。Yさんには、「男
像」というのが、脳の中に、インプットされていないのです。しかし、それは仕方のないこと。大
半の母親がそうです。

 方法があるとしたら、頭の中で空想することによって、あなたの子どもの中に、自分を置いて
みることです。子どもの目を通して、自分がどう見えるかを、空想してみるのです。

 たとえば今、私のワイフイは、居間で、あれこれあと片づけしています。そのワイフの視点の
中に、自分を置いてみます。そうすると、ワイフの目を通した、自分が見えてきます。

 ワイフはきっとこう思っているはずです。「何も、手伝ってくれないで、パソコンの画面にばかり
向っている」と。

 こうして相手の心の中に入ることによって、あなた自身の自己中心性を、克服することができ
ます。意外と簡単ですから、一度、試してみてください。

 Yさんの心をふさいでいる重石(おもし)は、相当なものです。しかしもう、あとは時間の問題で
す。なぜなら、すでに、Yさんは、その重石が何であるか、気づいているからです。

 あとは、勇気を出して、自分の心を空に向って、解き放ってください。体はあとからついてきま
す。





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23
【自己の統合性】

●『生きる』
When we say, " We live" or "We are alive", what does this really mean? I hereby think about 
this theme.

●自己の統合性

少し前、「自己の統合性」についての原稿を書いた。
それが、最近になって、気になってしかたない。
自分で書いた原稿が気になるというのも、どこか
おかしな話だが、時として、自分は自分に教えられる
ものなのか?

まず、そのとき書いた原稿をそのまま紹介する。
日付は、2007年10月になっている。

+++++++++++++++

どうすれば、(自分のすべきこと)と、
(していること)を一致させることが
できるか。

それが統合性の問題ということになる。

が、それを一言で言い表した人がいた。

マルチン・ルーサー・キング・Jrである。

+++++++++++++++

 マルチン・ルーサー・キングは、こう述べた。

If a man hasn't discovered something that he will die for, he isn't fit to live. ー Martin Luther 
King Jr.
死ぬための何かを発見することに失敗した人は、生きるのに適していないということ。(マーティ
ン・ルーサー・キング・Jr)

 そこで自問してみる。私には今、命がけでしなければならないようなことがあるか、と。併せ
て、私は今、命がけでしていることがあるか、と。

 老後の問題とは、まさに、その(命がけ)の問題と言いかえてもよい。のんべんだらりと、毎
日、釣りばかりをしている人生など、とんでもない人生で、そういった人生からは、何も生まれ
ない。残らない。ハイデッガーの言葉を借りるなら、そういう人は、「ただの人」。ハイデッガー
は、軽蔑の念をこめて、そう言った。「DAS MANN(ただの人)」と。(わかったか、『釣りバカ
日誌』の浜ちゃん!)

 しかし老後の統合性というのは、実は、たいへんな問題と考えてよい。何度も書くが、一朝一
夕に確立できるような代物(しろもの)ではない。それこそ10年単位、20年単位の熟成期間が
必要である。その熟成期間を経て、始めて、そこに根をおろす。芽を出す。花を咲かせるかど
うかは、これまた別問題。

 命がけでしても、花を咲かせないまま終える人となると、ゴマンといる。いや、たいはんが、そ
うではないか?

 「私はただの凡人」と居直る前に、みなさんも、ぜひ、自分に一度、問うてみてほしい。「私に
は、命がけでしなければならない仕事があるか」と。

 ここまで書いて、昔見た映画、『生きる』を思い出した。第7回毎日映画コンクール(日本映画
大賞)受賞した作品である。毎日映画コンクールのblogより、内容を抜粋して、そのままここに
紹介させてもらう。

「……市役所の市民課長である渡邊勘治(志村喬)は30年間、無欠勤だったが、その日、初
めて欠勤した。病院で胃ガンと診察され、あと4か月の命だと宣告されたからである。勘治は
親を思わない息子・光男(金子信雄)夫婦にも絶望し、預金を下ろして街に出る。

 勘治は屋台の飲み屋で知り合った小説家(伊藤雄之助)と意気投合、小説家は、勘治に最
期の快楽を味わってもらおうとパチンコ屋、キャバレー、ストリップと渡り歩く。だが、勘治の心
は満たされない。朝帰りした勘治は、市民課の女事務員小田切とよ(小田切みき)と出会う。彼
女は退職届を出すところだった。

 「あんな退屈なところでは死んでしまう」との、とよの言葉に、勘治は事なかれ主義の自分の
仕事を反省。目の色を変えて仕事を再開する。その勘治の目に止まったのが、下町の悪疫の
原因となっていた陳述書だった……」と。

 この映画は、黒澤明監督の傑作として、1953年、ベルリン映画祭で、銀熊賞を受賞してい
る。

そのあと渡邊勘治は、残された人生を、町の人のためと、小さな公園作りに、生きがいを求め
る。最後に、公園のブランコに乗りながら、「生きることの意味を悟って死んでいく」(「きれい塾
hp」)と。

 今でもあの歌、「ゴンドラの歌」が、私の耳に、しみじみと残っている。

+++++++++++

●ゴンドラの歌(吉井勇作詞、中山晋平作曲)

1 いのち短し 恋せよ乙女
  朱き唇 褪せぬ間に
  熱き血潮の 冷えぬ間に
  明日の月日は ないものを


2 いのち短し 恋せよ乙女
  いざ手をとりて 彼(か)の舟に
  いざ燃ゆる頬を 君が頬に
  ここには誰れも 来ぬものを


3 いのち短し 恋せよ乙女
  黒髪の色 褪せぬ間に
  心のほのお 消えぬ間に
  今日はふたたび 来ぬものを

++++++++++++

 私も、そろそろ、そういう年齢になりつつある。がんばります!

+++++++(以上、07年10月に書いた原稿より)+++++++

この原稿を読み返してみて、「では、今の私はどうなのか?」と自問する。
私は、すべきことをしているのか、と。
その前に、私には、命がけでしなければならないことがあるのか、と。

何度も書くが、(命がけでしなければならないこと)というのは、
そうは、簡単に見つからない。

見つかっても、それを命がけでするようになるまでには、10年とか20年とかいう、
熟成期間が必要である。

「定年退職になりました。明日からボランティア活動に専念します」という
わけにはいかない。

そこでもう一度、黒澤明監督の『生きる』を思い浮かべる。
死の宣告を受けた渡邊勘治(市の職員)は、最後の仕事として、
小さな公園作りに、生きがいを求める。
まるで人が変わったかのような猛烈な仕事ぶりを発揮する。

脚本はだれが書いたか知らないが、つまり、この映画は、それが「生きる」という
ことだということを、私たちに教えている。

で、実は、こんなことがあった。

私は、子どもたちを教えるということに、このところ、少なからず、
自信を失い始めていた。
いくら声高に叫んでも、またその弊害を説いても、私の教室のような小さな教室は、
大手の進学塾にはかなわない。

年齢というより、このところ体力的な限界を感ずることも多くなった。
そんな中、私にとっては、ありえないことが起きた。
地元のタウン誌が、私の教室を、広告費無料で、紹介してくれた※。
うれしかった。が、それ以上に、驚いた。
「こんな教室でも、応援してくれる人がいるんだな」と。

とたん、おかしなことだが、それまでの迷いが消えた。
私は何も変わっていない。
10年前、20年前の私とくらべても、むしろ今のほうが、体の調子もよい。
頭の回転が鈍ったという感覚も、ない。

むしろ、精神面では、人間的に丸く(?)なったような感じがする。
今では、どんなドラ息子でも、またドラ娘でも、笑って対処できる。
笑って対処しながら、その子どもを、私のリズムに乗せてしまうことができる。

若いころの私なら、「お前は、退塾!」と叫んでいたかもしれない。
そんな子どもでも、私は自由に操ることができる。

何も年齢など気にすることはない。

そうそうたまたま昨日(2月7日)は、こんなこともあった。

先月、地元の小学校で講演をさせてもらった。
自分では、ひどいできだったとばかり思っていた。
集中力も弱くなった。
聞きにきてくれた人の心も、うまくつかめない。
それに話す内容も、どこか、陳腐。つまらない。
その講演のあとも、「ぼくの講演は、もう、みなに、あきられ始めている」と思った。
「そろそろ潮時かな?」とさえ思った。

が、家に帰ってみると、その感想が届いていた※。
「一部……」ということだが、24人の方からの感想がコピーしてあった。
私はそれを読んでいるうちに、目頭が熱くなった。

うれしかった。
どういうわけか、うれしかった。

「まだまだがんばれる」という思いは、「私は何も変わっていない」
「何も変える必要はない」という思いに変わった。

人生には天井(=限界)があるのかもしれない。
が、今は、そんなことを気にする必要はない。
気にしてはいけない。
やるべきことを、まずやる。
その先に何があるか、私にもわからないが、とにかく、前に進む。

「♪若者は、また、歩き始める」(「若者たち」より)、である。

注※……「中日ショッパー、県西部、豊橋版」
注※……感想は、HP→プロフィール→講演の感想に収録しておきました。





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24
【信頼関係】(父親の役割vs母親の役割】

【信頼関係vs不信関係】(Confidential Relationship between Parents and Children)

Can you open your heart to other people including your husband or wife? If not, please read 
this article and know yourself.

++++++++++++++

あなたは他人に対して、心を
開くことができるか?

もしそうでないとするなら、
一度、この原稿を読んでみて
ほしい。

さみしい思いをするのは、あなたの
勝手だとしても、あなたの周囲の
人たちまで、さみしい思いを
しているはず。

++++++++++++++

●乳児期に形成される信頼関係

乳児期においては、母子の関係は、絶対的なものである。
それもそのはず。
乳児は、母親の胎内から生まれ、その母親から乳を受ける。命を育(はぐく)む。
その絶対的な関係を通して、乳児は、母子との間で、信頼関係を結ぶ。
「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味である。

こうしてできる太い絆(きずな)を、「ボンディング」と呼ぶ。

この信頼関係が基本となって、乳児はやがて、他人との信頼関係を結ぶことができるようにな
る。
成長するにつれて、その信頼関係を拡大する。
父親との関係、保育園や幼稚園での教師との関係、さらには、友人との関係など。

そういう意味で、この母子との間にできる信頼関係を、「基本的信頼関係」という。

その信頼関係は、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)があってはじめて成り立つ。

乳児の側からすれば、「どんなことをしても許される」という、疑いすらもたない安心感ということ
になる。

母親の側からすれば、「どんなことをしても受け入れる」という、疑いすらもたない包容力という
ことになる。

が、この信頼関係の構築の失敗する例は、少なくない。
何らかの原因で、この絶対性がゆらぐ。
育児拒否、親の否定的な育児姿勢、無視、冷淡。
夫婦不和、家庭不和、家庭騒動などなど。

子どもの側からすれば、絶対的な安心感をもてなくなる。
母親の側からすれば、絶対的な包容力をもてなくなる。

こうして乳児は、母親に対して不信感をもつようになる。
ただの不信感ではない。
自分の母親ですら信ずることができない。
乳児は、そして子どもは、その不信感を常に抱くようになる。

こうした心理的な状態を、「基本的不信関係」という。
が、一度、その不信関係ができると、子どもは、いわゆる「心の開けない子ども」になる。
その可能性は、きわめて高くなる。

が、不幸は、それで終わるわけではない。

結婚してからも、配偶者にすら、心を開くことができない。
さらに自分の子どもにすら、心を開くことができない。
あなたはそれでよいとしても、あなたの周囲の人も、さみしい思いをする。

そしてそれがさらに世代連鎖して、その子ども自身も、心を開くことができなくなる可能性も高く
なる。

「基本的信頼関係」というのは、そういうもの。
決して、軽く考えてはいけない。

……ということで、今、ここで、もう一度、あなた自身の心の中をのぞいてみてほしい。

あなたは、あなたの子どもや夫を、何の疑いもなく、信じているか?
あなたは、あなたの子どもや夫に、何の疑いもなく、心を開いているか?

反対に、こうも言える。

程度にもよるが、母子との間の基本的信頼関係の構築に失敗した人は、万事に、疑り深く、猜
疑心が強く、ついでに嫉妬心も強い。
もちろん他人に対して心を開けない分だけ、孤独。寂しがり屋。

そこで孤独であることを避けようと、人の中に入っていくが、心を許すことができない。
ありのままの自分をさらけ出すことができない。
自分をつくる。飾る。見栄を張る。虚勢を張る。世間体を気にする。
そのため、人と接触すると、精神疲労を起こしやすい。
人と会うのがおっくうで、会うたびに、ひどく疲れを覚える人というのは、このタイプの人と、まず
疑ってみる。

もしそうなら、まずあなた自身の心の中を静かにのぞいてみるとよい。

あなた自身の乳児期の様子がわかれば、さらによい。
あなたは両親の豊かな愛情に恵まれ、ここでいう基本的信頼関係を構築することができた
か?
あなたの両親は、そういう両親であったか?
先に述べた、ボンディングは、しっかりとできていたか。

もしそうでないとするなら、あなたはひょっとしたら、基本的信頼関係の構築に失敗している可
能性がある。
だとするなら、さらに今、あなたは自分の子どもとの関係において、基本的信頼関係の構築に
失敗している可能性がある。

しかしこの問題は、あなた自身の問題というよりは、今度は、あなたの子ども自身の問題という
ことになる。

親から子へと世代連鎖していくものは多いが、その中でも、こうして生まれる基本的不信関係
は、深刻な問題のひとつと考えてよい。

たとえば、母子の間の基本的信頼関係の構築に失敗すると、子どもは、「母親から保護される
価値のない、自信のない自己像」(九州大学・吉田敬子・母子保健情報54・06年11月)を形
成することもわかっている。

さらに、心の病気、たとえば慢性的な抑うつ感、強迫性障害、不安障害の(種)になることもあ
る。最近の研究によれば、成人してから発症する、うつ病の(種)も、この時期に形成されるこ
ともわかってきている。

わかりやすく言えば、その子どもの心の、あらゆる部分に大きな影響を与えていくということ。
だからこの問題は、けっしてあなた自身だけの問題に、とどまらないということ。

基本的信頼関係のできている人は、自然な形で、当たり前のように、心を開くことができる。
が、そうでない人は、そうでない。だれに対しても、心を開くことができない。

では、どうするか?

この問題だけは、(1)まず、自分がそういう人間であることに気づくこと。(2)つぎに機会をとら
えて、自分をさらけ出すことに努めること。(3)あとは時間を待つ。時間といっても、10年単
位、20年単位の時間がかかる。

それについては、何度も書いてきたので、別の原稿を参考にしてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 基本的信頼関係 ボンディング
 母子関係 はやし浩司)

+++++++++++++++

この原稿に関して、いくつか
お役に立てそうな原稿を
集めてみました。

+++++++++++++++

【子どもを愛せない親たち】

 その一方で、子どもを愛せない親がいる。全体の10%前後が、そうであるとみてよい。

 なぜ、子どもを愛することができないか。大きくわけて、その理由は、二つある。

 一つは、自分自身の乳幼児期に原因があるケース。もう一つは、妊娠、出産に際して、大き
なわだかまり(固着)をもったケース。しかし後者のケースも、つきつめれば、前者のケースに
集約される。

 乳児には、「あと追い、人見知り」と言われるよく知られた現象がある。生後5〜7か月くらい
から始まって、満1歳半くらいまでの間、それがつづく。

 ボウルビーという学者は、こうした現象が起きれば、母子関係は、健全であると判断してよい
と書いている。言いかえると、「あと追い、人見知り」がないというのは、乳児のばあい、好まし
いことではない。

 子どもは、絶対的な安心感の中で、心をはぐくむ。その安心感を与えるのは、母親の役目だ
が、この安心感があってはじめて、子どもは、他者との信頼関係(安全感)を、結ぶことができ
るようになる。

 「あと追い、人見知り」は、その安心感を確実なものにするための、子どもが親に働きかけ
る、無意識下の行動と考えることができる。

 で、この母子との間にできた基本的信頼関係が、やがて応用される形で、先生との関係、友
人との関係へと、広がっていく。

 そしてそれが恋愛中には、異性との関係、さらには配偶者や、生まれてきた子どもとの関係
へと、応用されていく。そういう意味で、「基本的(=土台)」という言葉を使う。

 子どもを愛せない親は、その基本的信頼関係に問題があるとみる。その信頼関係がしっかり
していれば、仮に妊娠、出産に際して、大きなわだかまりがあっても、それを乗りこえることが
できる。そういう意味で、ここで、私は「しかし後者のケースも、つきつめれば、前者のケースに
集約される」と書いた。

 では、どうするか?

 子どもを愛せないなら、愛せないでよいと、居なおること。自分を責めてはいけない。ただ、一
度は、自分の生い立ちの状況を、冷静にみてみる必要はある。そういう状況がわかれば、あな
たは、あなた自身を許すことができるはず。

 問題は、そうした問題があることではなく、そうした問題があることに気づかないまま、その問
題に引き回されること。同じ失敗を繰りかえすこと。

 しかしあなた自身の過去に問題があることがわかれば、あなたは自分の心をコントロールす
ることができるようになる。そしてあとは、時間を待つ。

 この問題は、あとは時間が解決してくれる。5年とか、10年とか、そういう時間はかかるが、
必ず、解決してくれる。あせる必要はないし、あせってみたところで、どうにもならない。

【この時期の乳児への対処のし方】

 母子関係をしっかりしたものにするために、つぎのことに心がけたらよい。

(1)決して怒鳴ったり、暴力を振るったりしてはいけない。恐怖心や、畏怖心を子どもに与えて
はならない。
(2)つねに「ほどよい親」であることに、心がけること。やりすぎず、しかし子どもがそれを求め
てきたときには、ていねいに、かつこまめに応じてあげること。『求めてきたときが、与えどき』と
覚えておくとよい。
(3)いつも子どもの心を知るようにする。泣いたり、叫んだりするときも、その理由をさぐる。
『子どもの行動には、すべて理由がある』と心得ること。親の判断だけで、「わがまま」とか、決
めてかかってはいけない。叱ってはいけない。

 とくに生後直後から、「あと追い、人見知り」が起きるまでは、慎重に子育てをすること。この
時期の育て方に失敗すると、子どもの情緒は、きわめて不安定になる。そして一度、この時期
に不安定になると、その後遺症は、ほぼ、一生、残る。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【父親VS母親】

●母親の役割

 絶対的なさらけ出し、絶対的な受け入れ、絶対的な安心感。この三つが、母子関係の基本で
す。「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味です。

 母親は、自分の体を痛めて、子どもを出産します。そして出産したあとも、乳を与えるという
行為で、子どもの「命」を、はぐくみまず。子どもの側からみれば、父親はいなくても育つという
ことになります。しかし母親がいなければ、生きていくことすらできません。

 ここに母子関係の、特殊性があります。

●父子関係

 一方、父子関係は、あくまでも、(精液、ひとしずくの関係)です。父親が出産にかかわる仕事
といえば、それだけです。

が、女性のほうはといえば、妊娠し、そのあと、出産、育児へと進みます。この時点で、女性が
男性に、あえて求めるものがあるとすれば、「より優秀な種」ということになります。

 これは女性の中でも、本能的な部分で働く作用と考えてよいでしょう。肉体的、知的な意味
で、よりすぐれた子どもを産みたいという、無意識の願望が、男性を選ぶ基準となります。

 もちろん「愛」があって、はじめて女性は男性の(ひとしずく)を受け入れることになります。「結
婚」という環境を整えてから、出産することになります。しかしその原点にあるのは、やはりより
優秀な子孫を、後世に残すという願望です。

 が、男性のほうは、その(ひとしずく)を女性の体内に射精することで、基本的には、こと出産
に関しては、男性の役割は、終えることになります。

●絶対的な母子関係VS不安定な父子関係

 自分と母親の関係を疑う子どもは、いません。その関係は出産、授乳という過程をへて、子
どもの脳にしっかりと、焼きつけられるからです。

 しかしそれにくらべて、父子関係は、きわめて不安定なものです。

 フロイトもこの点に着目し、「血統空想」という言葉を使って、それを説明しています。つまり
「母親との関係を疑う子どもはいない。しかし父親との関係を疑う子どもはいる」と。

 「私は、ひょっとしたら、あの父親の子どもではない。私の父親は、もっとすぐれた人だったか
もしれない」と、自分の血統を空想することを、「血統空想」といいます。つまりそれだけ、父子
関係は、不安定なものだということです。

●母親の役割

 心理学の世界では、「基本的信頼関係」という言葉を使って、母子関係を説明します。この信
頼関係が、そのあとのその子どもの人間関係に、大きな影響を与えるからです。だから「基本
的」という言葉を、使います。

 この基本的信頼関係を基本に、子どもは、園の先生、友人と、それを応用する形で、自分の
住む世界を広げていきます。

 わかりやすく言えば、この時期に、「心を開ける子ども」と、「そうでない子ども」が、分かれる
ということです。心を開ける子どもは、そののち、どんな人とでも、スムーズな人間関係を結ぶ
ことができます。そうでなければ、そうでない。

 子どもは、母親に対して、全幅に心を開き、一方、母親は、子どもを全幅に受け入れる…
…。そういう関係が基本となって、子どもは、心を開くことを覚えます。よりよい人間関係を結
ぶ、その基盤をつくるということです。

 「私は何をしても、許される」「ぼくは、どんなことをしても、わかってもらえる」という安心感が、
子どもの心をつくる基盤になるということです。

 一つの例として、少し汚い話で恐縮ですが、(ウンチ)を考えてみます。

 母親というのは、赤ん坊のウンチは、まさに自分のウンチでもあるわけです。ですから、赤ん
坊のウンチを、汚いとか、臭いとか思うことは、まずありません。つまりその時点で、母親は、
赤ん坊のすべてを受け入れていることになります。

 この基本的信頼関係の結び方に失敗すると、その子どもは、生涯にわたって、(負の遺産)
を、背負うことになります。これを心理学の世界では、「基本的不信関係」といいます。

 「何をしても、心配だ」「どんなことをしても、不安だ」となるわけです。

 もちろんよりよい人間関係を結ぶことができなくなります。他人に心を開かない、許さない。あ
るいは開けない、許せないという、そういう状態が、ゆがんだ人間関係に発展することもありま
す。

 心理学の世界では、このタイプの人を、攻撃型(暴力的に相手を屈服させようとする)、依存
型(だれか他人に依存しようとする)、同情型(か弱い自分を演出し、他人の同情を自分に集め
る)、服従型(徹底的に特定の人に服従する)に分けて考えています。

どのタイプであるにせよ、結局は、他人とうまく人間関係が結べないため、その代用的な方法
として、こうした「型」になると考えられます。

 もちろん、そのあと、もろもろの情緒問題、情緒障害、さらには精神障害の遠因となることも
あります。

 何でもないことのようですが、母と子が、たがいに自分をさらけ出しあいながら、ベタベタしあ
うというのは、それだけも、子どもの心の発育には、重要なことだということです。

●父親の役割

 この絶対的な母子関係に比較して、何度も書いてきましたように、父子関係は、不安定なも
のです。中には、母子関係にとってかわろうとする父親も、いないわけではありません。あるい
は、母親的な父親もいます。

 しかし結論から先に言えば、父親は、母親の役割にとってかわることはできません。どんなに
がんばっても、男性は、妊娠、出産、そして子どもに授乳することはできません。そのちがいを
乗り越えてまで、父親は母親になることはできません。が、だからといって、父親の役割がない
わけではありません。

 父親には、二つの重要な役割があります。(1)母子関係の是正と、(2)社会規範の教育、で
す。

 母子関係は、特殊なものです。しかしその関係だけで育つと、子どもは、その密着性から、の
がれ出られなくなります。ベタベタの人間関係が、子どもの心の発育に、深刻な影響を与えてし
まうこともあります。よく知られた例に、マザーコンプレックスがあります。

こうした母子関係を、是正していくのが、父親の第一の役割です。わかりやすく言えば、ともす
ればベタベタの人間関係になりやすい母子関係に、クサビを打ちこんでいくというのが、父親
の役割ということになります。

 つぎに、人間は、社会とのかかわりを常にもちながら、生きています。つまりそこには、倫理、
道徳、ルール、規範、それに法律があります。こうした一連の「人間としての決まり」を教えてい
くのが、父親の第二の役割ということになります。

 (しなければならないこと)、(してはいけないこと)、これらを父親は、子どもに教えていきま
す。人間がまだ原始人に近い動物であったころには、刈りのし方であるとか、漁のし方を教え
るのも、父親の重要な役目だったかもしれません。

●役割を認識、分担する

 「母親、父親、平等論」を説く人は少なくありません。

 しかしここにも書いたように、どんなにがんばっても、父親は、子どもを産むことはできませ
ん。また人間が社会的動物である以上、社会とのかかわりを断って、人間は生きていくことも
できません。

 そこに父親と、母親の役割のちがいがあります。が、だからといって、平等ではないと言って
いるのではありません。また、「平等」というのは、「同一」という意味ではありません。「たがい
の立場や役割を、高い次元で、認識し、尊重しあう」ことを、「平等」と、言います。

 つまりたがいに高い次元で、認めあい、尊重しあうということです。父親が母親の役割にとっ
てかわろうとすることも、反対に、母親の役割を、父親の押しつけたりすることも、「平等」とは
言いません。

 もちろん社会生活も複雑になり、母子家庭、父子家庭もふえてきました。女性の社会進出も
目だってふえてきました。「母親だから……」「父親だから……」という、『ダカラ論』だけでもの
を考えることも、むずかしくなってきました。

 こうした状況の中で、父親の役割、母親の役割というのも、どこか焦点がぼけてきたのも事
実です。(だからといって、そういった状況が、まちがっていると言っているのでは、ありませ
ん。どうか、誤解のないようにお願いします。)

 しかし心のどこかで、ここに書いたこと、つまり父親の役割、母親の役割を、理解するのと、
そうでないのとでは、子どもへの接し方も、大きく変わってくるはずです。

 そのヒントというか、一つの心がまえとして、ここで父親の役割、母親の役割を考えてみまし
た。何かの参考にしていただければ、うれしく思います。
(はやし浩司 父親の役割 母親の役割 血統空想)

【追記1】

 母子の間でつくる「基本的信頼関係」が、いかに重要なものであるかは、今さら、改めてここ
に書くまでもありません。

 すべてがすべてではありませんが、乳幼児期に母子との間で、この基本的信頼関係を結ぶ
ことに失敗した子どもは、あとあと、問題行動を起こしやすくなるということは、今では、常識で
す。もちろん情緒障害や精神障害の原因となることもあります。

 よく知られている例に、回避性障害(人との接触を拒む)や摂食障害などがあります。

 「障害」とまではいかなくても、たとえば恐怖症、分離不安、心身症、神経症などの原因となる
こともあります。

 そういう意味でも、子どもが乳幼児期の母子関係には、ことさら慎重でなければなりません。
穏やかで、静かな子育てを旨(むね)とします。子どもが恐怖心を覚えるほどまで、子どもを叱
ったりしてはいけません。叱ったり、説教するとしても、この「基本的信頼関係」の範囲内でしま
す。またそれを揺るがすような叱り方をしてはいけません。

 で、今、あなたの子どもは、いかがでしょうか。あなたの子どもが、あなたの前で、全幅に心を
開いていれば、それでよし。そうでなければ、子育てのあり方を、もう一度、反省してみてくださ
い。

【追記2】

 そこで今度は、あなた自身は、どうかということをながめてみてください。あなたは他人に対し
て、心を開くことができるでしょうか。

 あるいは反対に、心を開くことができず、自分を偽ったり、飾ったりしていないでしょうか。外
の世界で、他人と交わると、疲れやすいという人は、自分自身の中の「基本的信頼関係」を疑
ってみてください。

 ひょっとしたら、あなたは不幸にして、不幸な乳幼児期を過ごした可能性があります。

 しかし、です。

 問題は、そうした不幸な過去があったことではありません。問題は、そうした不幸な過去があ
ったことに気づかず、その過去に振り回されることです。そしていつも、同じ、失敗をすることで
す。

 実は私も、若いころ、他人に対して、心を開くことができず、苦しみました。これについては、
また別の機会に書くことにしますが、恵まれた環境の中で、親の暖かい愛に包まれ、何一つ不
自由なく育った人のほうが、少ないのです。

 あなたがもしそうであるかといって、過去をのろったり、親をうらんだりしてはいけません。大
切なことは、自分自身の中の、心の欠陥に気づき、それを克服することです。少し時間はかか
りますが、自分で気づけば、必ず、この問題は、克服できます。
(040409)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもをよい子にする、三大鉄則

 子どもを、よい子にする、三大鉄則。

【1】親子の信頼関係
【2】子どもの生活力
【3】善なる心の育成

 親子の信頼関係は、母子関係の中ではぐくまれる。母子の間の(さらけ出し)(受け入れ)が
基本となり、その上で、信頼関係が築かれる。

 子どもの生活力は、子どもを使うこと。日常生活の中で、使って使って、使いまくること。そう
いう(生活)を通して、身につく。

 善なる心の育成は、つまりは親がその見本を見せる。しかし見せるだけでは足りない。親自
身が、それを実践し、その中に、子どもを巻きこんでいく。

++++++++++++++++++++++

今までに書いた原稿の中から、【1】【2】【3】に
関するものを、いくつか選んでみました。
参考にしていただければ、うれしいです。

++++++++++++++++++++++

【1】信頼性

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外ではな
い。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、反対
にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような調子で、同じ
ようなパターンで、答えてあげること。こうしたあなたの一貫性を見ながら、子どもは、あなたと
安定的な人間関係を結ぶことができる。こうした安定的な人間関係が、ここでいう信頼関係の
基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基本的
信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの三つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。これ
を第一世界という。園や学校での世界。これを第二世界という。そしてそれ以外の、友だちとの
世界。これを第三世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第二世界、つづいて第三世界へと、応用していく。
しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第二世界、第三世界での信頼関係を
築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の基本となる。だ
から「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親側の情
緒不安や、親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなばあい、子ど
もは、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、人間関係になる。
これを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分野で
現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ねたみ症状な
どは、こうした基本的不信関係から生まれる。第二世界、第三世界においても、良好な人間関
係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れる。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安心して」
というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分をさらけ出せる環境」を
いう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役目ということになる。義務といっ
てもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよい。

「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じように接す
る。
きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くなるというの
は、避ける。

+++++++++++++++++++++

 よくても悪くても、親は、子どもに対して、一貫性をもつ。子どもの適応力には、ものすごいも
のがある。そういう一貫性があれば、子どもは、その親に、よくても、悪くても、適応していく。

 ときどき、封建主義的であったにもかかわらず、「私の父は、すばらしい人でした」と言う人が
いる。A氏(六〇歳男性)が、そうだ。「父には、徳川家康のような威厳がありました」と。

 こういうケースでは、えてして古い世代のものの考え方を肯定するために、その人はそう言
う。しかしその人が、「私の父は、すばらしい人でした」と言うのは、その父親が封建主義的で
あったことではなく、封建主義的な生き方であるにせよ、そこに一貫性があったからにほかなら
ない。

 子育てでまずいのは、その一貫性がないこと。言いかえると、子どもを育てるということは、い
かにしてその一貫性を貫くかということになる。さらに言いかえると、親がフラフラしていて、どう
して子どもが育つかということになる。

++++++++++++++++++

【2】子どもの心

 「家庭教育」というと、「知識教育」だけを考える人は、多い。ほとんどが、そうではないか。し
かしそれと同じくらい、あるいはそれ以上に大切なのは、「情操教育」である。わかりやすく言え
ば、「心を育てる教育」ということ。

 ……と、書くと、「そんなのは、何でもないこと」と思う人は多い。が、それはとんでもない誤解
である。今、生まれても泣かない子ども(サイレント・ベービー)や、表情のない子どもが、ふえ
ている。年中児で、約二〇%の子どもが、大声で笑うことができない。感情が乏しい子どもとな
ると、何割かがそうであるというほど、多い。

 そこでつぎのようなポイントをみて、あなたの子どもの「心」が、正しく発達しているかどうか、
判断してみてほしい。

●すなおな感情……うれしいときには、うれしく思う。悲しいときには悲しく思う。たとえばペット
が死んだようなとき、悲しく思う、など。こうしたすなおな感情が消えると、うれしいはずと思うよ
うなときでも、反応を示さなかったり、悲しいはずだと思うようなときでも、悲しまなかったりす
る。以前、父親の葬式のとき、葬式に来た人と、楽しそうにはしゃいでいた子ども(小一男児)
がいた。

●すなおな感情表現……こうした感情の動きにあわせて、こまやかな表情ができる。うれしい
ときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔をする。そうした微妙な表情が、
だれの目にもわかるほど、すなおに表情で表現する。それができないと、仮面をかぶったりす
るようになる。さらにひどくなると、親が見ても、何を考えているかわからない子どもになる。

●豊かな表情……つぎに、その感情表現が豊かであるかどうかということ。たとえば父親が仕
事から帰ってきたようなとき、「ワーイ!」と歓声をあげて、父親に抱きつくなど。ただしギャーギ
ャーと大声を出して騒ぐなど、必要以上に興奮するというのは、豊かな表情とは言わない。今、
その表情の乏しい子どもがふえている。

●ゆがみのない心……ひねくれる、つっぱる、いじける、すねる、ひがむなどの、いわゆる「心
のゆがみ」がないことをいう。心がゆがむ、そのほとんどの原因は、愛情問題と考えてよい。幼
児のばあい、とくに注意しなければならないのが、「嫉妬(しっと)」。たとえば下の子どもが生ま
れたようなとき、上の子どもの心のケアをしっかりとすること。「あなたはお兄(姉)ちゃんでしょ」
式の押しつけは、してはいけない。

●大きくて、明るい声……心の伸びやかさは、そのまま声の調子となって、外に表れる。大き
い声で、ハリがあり、腹に力を入れ、息をしっかりと出し、口を大きく動かして話ができれば、よ
し。幼稚園や保育園、あるいは学校から帰ってきたようなとき、明るい声で、「ただいま!」と言
えるようであれば、問題ない。

●自分を飾らない心……正直な心をということになる。子どものばあい、とくに注意したのが、
いい子ぶること。「お母さんが、料理をしています。あなたはどうしますか?」などと質問すると、
ふだんは、ほとんど手伝いなどしていないにもかかわらず、「手伝います」などと、心にもないこ
とを言う。しかし、そういう姿勢は、子どもの姿としては、決して望ましいことではない。イヤだっ
たら、正直に、「イヤ!」とはっきり言う。そういう姿勢を大切にする。伸ばす。

●迎合しない姿勢……へつらう、こびを売る、相手に取り入るなど。この時期、愛想がよいと
か、あるいは愛想がよすぎるというのは、決して望ましいことではない。愛想のよい子どもは、
それだけ自分の心をごまかしていることになる。こういう姿勢が定着すると、やがて心が二面
性をもつようになる。まわりの人からみても、いわゆる何を考えているか、わかりにくくなる。

●心を開く……心を開いている子どもは、親切にしたり、やさしくしたりすると、その親切ややさ
しさが、そのままスーッと子どもの心の中に、しみこんでいくのがわかる。そうでない子どもは、
そうでない。そういった親切ややさしさが、はねかえされるような感じになる。ふつう子どもは、
抱いてみるとそれがわかる。心を開いている子どもは、抱いた人に対して、体の力を抜き、身
を任せる。そうでない子どもは、抱く側の印象としては、体をこわばらせるため、何かしら丸太
を抱いているような感じになる。

●年齢にふさわしい人格……その年齢に比して、子どもっぽい(幼稚っぽい)というのは、好ま
しいことではない。人格の「核」形成の遅れた子どもは、その分、子どもぽいしぐさや様子が残
る。全体の中で比較して判断するが、親の溺愛や過干渉が日常化すると、人格の核形成が遅
れる。

●考える姿勢……何かテーマを出したとき、ペラペラと調子よく答えるのは、決して望ましい姿
ではない。多くの人は、「知識」と、「思考」を混同している。とくにこの日本では、昔から、物知り
の子どもほど、頭のよい子と評価する傾向が強い。しかし知識が多いからといって、頭のよい
子ということにはならない。頭のよい子というのは、深く考えて、新しい考えに、自分でたどりつ
くことができる子どもをいう。子どもが何か考えるしぐさを見せたら、静かにそれを見守るように
して、それをさらに伸ばす。

●受容的な態度……何か新しい考えを示したとき、すなおにそれを受け入れる姿勢を見せれ
ばよし。そうでなく、かたくなに、それを拒否したり、がんこに否定するようであれば、注意する。
とくにこの時期、カラにこもり、がんこになる様子を見せたら、注意する。頭から叱るのではな
く、子どもの立場で、心をほぐすように、話して聞かせるのがよい。

●融通がきく思考……いつまでも伸びつづける子どもは、それだけ頭がやわらかい。臨機応
変に、ものごとに対処したり、つぎつぎと新しい考えを生み出す。たとえば親どうしが会話をして
いても、まわりのものから、新しい遊びを発明したりするなど。そうでない子どもは、「退屈〜
ウ」「早く帰ろう〜ウ」とか言って、親を困らすことが多い。

●自然な動作……心がゆがみ、それが恒常化すると、動作そのものが、どこかぎこちなくな
る。さらに言動がおかしくなることもある。動作が緩慢になったり、不自然な反応を示すこともあ
る。

●強い意志……意味もなく、かたくなに固執するのを、がんこという。しかしそれなりの理由や
目的があり、それに従って自分の行動を律することを、「根性」という。子どもにその根性を感じ
たら、そっとしておく。根性は、いろいろな意味で、子ども自身を伸ばす。

●忍耐力……好きなことをいつまでもしているのは、忍耐力とは言わない。たとえばテレビゲ
ームならテレビゲームなど。幼児教育においては、忍耐力というのは、「いやなことをする力」
のことを言う。ためしに台所のシンクにたまった、生ゴミを子どもに始末させてみてほしい。風
呂場の排水口にたまった毛玉でもよい。そのとき、「ハイ」と言って、平気でできれば、かなり忍
耐力のある子どもということになる。

●親像……ぬいぐるみを与えてみれば、子どもの中に、親像が育っているかどうかを、判断で
きる。もしそのとき、さもいとおしそうに、ぬいぐるみを抱いたり、頬を寄せるようであれば、親
像が育っているとみる。そうでない子どもは、無関心であったり、反対に足で蹴ったりする。ち
なみに、約80%の幼児は、「ぬいぐるみ、大好き」と答え、残りの約20%の子どもは、無関心
であったり、足で蹴っ飛ばしたりする。当然のことながら、親の良質な愛情に恵まれた子どもほ
ど、心が温かくなり、ここでいう親像が育つ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 信頼関係)



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25
●エリクソンの心理社会的発達

+++++++++++++++++

渋谷昌三氏が書いた「心理学用語」の中に、
興味ある表が載っていた。

そのまま転載させてもらう(P175)。
(「心理学用語」・渋谷昌三・かんき出版)

*********************
エリクソンの心理社会的発達
*********************

段階        心理社会的危機

―――――――――――――――――――――

乳児期        信頼 対 不信
乳児前期      自律性 対 恥、疑い
乳児後期      自主性 対 罪悪感
児童期       勤勉性 対 劣等感
青年期     自我同一性 対 同一性拡散
成人前期      親密性 対 孤独
成人後期      世代性 対 停滞
老年期     自我の統合 対 絶望

*********************

 この中でとくにわかりやすいのは、(あくまでも現在の私の立場での話だが……)、老年期で
ある。

 エリクソンは、老年期は、「自我の統合」を構築すべき時期だとする。いろいろに解釈できる
が、要するに、老齢期を前向きにとらえて、その中で、(自分のすべきこと)と、(現実にしている
こと)を統合させていく。

 それが「自我の統合」、もしくは、「自我の統合性」ということになる。

 が、その構築に失敗すると、その先で待っているのは、「絶望」ということになる。

 そこでもう少し、過去にさかのぼってみる。エリクソンは、成人前期には、「親密性」の構築を
しなければならないと説く。わかりやすい例では、恋愛、さらにそれにつづく結婚がある。その
親密性の構築に失敗すれば、「孤独」になる。もちろん親密性の追求は、何も、恋愛や結婚だ
けにかぎらない。友との友情でもよい。近親者とのつながりでもよい。

 さらに進んで、成人後期には、「世代性」の構築をしなければならないと説く。

 世代性というのは、「私」というワクを超えて、私がもつ価値観、経験、知識を、つぎの世代に
伝えようとすることをいう。

 たとえば私にしても、ある時期から、「私の子ども」「他人の子ども」という垣根が消えたように
思う。年齢的には、45歳前後ではなかったか。それまでの私は、「私の子どもは、私の子ども」
「他人の子どもは、他人の子ども」というような考え方をしていた。

 が、この世代性の構築に失敗すると、悶々たる日々を過ごすことになる。それをエリクソンが
「停滞」と言ったかどうかは知らないが、「明日も今日と同じ」「来年も今年と同じ」という日々が
つづくことになる。

 そして老年期。

 これについては冒頭に書いたとおりだが、この時期、「絶望」は、まさに「地獄」。私の祖父は
いつも口ぐせのように、こう言っていた。「地獄も極楽も、この世にある」と。絶望は、この世の
地獄ということになる。

 その先に、ほんのわずかでも希望があれば、人間は生きていくことができる。しかしその希
望をなくしたら……。

 生きているといっても、生かされているだけ。死ぬこともできず、さりとて、殺してくれる人もい
ない。死の待合室で、死に神が来るのを、ただじっと待っているだけ……。

 では、どうすればよいのか?

 実は心理学では、「どうすればよいのか」という部分については、教えない。エリクソンにして
も、「自我の統合性こそ重要」と説くが、ではどうすれば、私たちは、絶望から逃れることができ
るのかというところまでは、説かない。

 ここから先は、哲学、宗教の関する世界ということになる。わかりやすく言えば、私たち1人ひ
とりの(生きざま)の問題ということになる。というのも、大半の人は、そこまで考えない。

 考えても、孫の世話と庭いじり。それが老後のあるべき姿と考える。もちろんそれを否定して
いるのではない。しかしそれはあくまでも一部であって、すべてではない。またそれができる人
は、今の世の中では、幸福なほうの人かもしれない。

 孫といっても、親子がそのものが断絶しているケースも少なくない。庭といっても、庭すらない
家庭も多い。

 さらに一歩進んで、「大人旅」(=数か月から数年をかけてする大旅行をいう)とか、「楽農生
活」(=趣味で農業を営みながら、自然を楽しみながら生きることをいう)とかいう言葉も、あ
る。

 もちろん宗教に走る人もいる。布教活動に専念する人もいる。が、それでも「絶望」から救わ
れない人も多い。 

 「自我の統合性」の問題は、それほどまでに大きな問題であるということ。何度も繰りかえす
が、一朝一夕にできるものではない。

 エリクソンの「心理社会的発達」の表を見ながら、改めて、そんなことを考えた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist エリクソン 心理社会的発達 統
合性 自我の統合性 自我の統合 自己同一性)





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26
【八正道】

●仏教聖典
(Buddah's Teaching)

仏教伝道協会発行の「仏教聖典」を座右の書とするようになって、そろそろ1年になる。
この本は、どこの旅館やホテルにも置いてある。そこでこの本のことを知った。
一度、あるホテルのマネージャーに売ってくれないかと頼んだことがあるが、断られた。
そこで協会のほうへ直接注文して、取り寄せた。料金は後払いでよいということだった。

内容については、私のBLOGやマガジンのほうでも、たびたび、
引用させてもらっている。

まず「因縁(いんねん)」について……。

因と縁のことを、「因縁」という。
因とは、結果を生じさせる直接的原因。縁とは、それを助ける外的条件である。
あらゆるものは、因縁によって生滅するので、このことを「因縁所生」などという。
この道理をすなおに受け入れることが、仏教に入る大切な条件とされる。
世間では転用して、悪い意味に用いられることもあるが、本来の意味を逸脱したもので
あるから、注意を要する。
なお縁起というばあいも、同様である。(同書、P318)

+++++++++++++++++

仏教聖典、いわく、

『この人間世界は苦しみに満ちている。
生も苦しみであり、老いも、病も、死も、みな苦しみである。
怨みのあるものと会わなければならないことも、
愛するものと別れなければならないことも、
また求めて得られないことも苦しみである。
まことに執着(しゅうじゃく)を離れない人生は、すべて苦しみである。
これを苦しみの真理、「苦諦(くたい)」という』(P42)

こうした苦しみが起こる原因として、仏教は、「集諦(じったい)」をあげる。
つまりは、人間の欲望のこと。この欲望が、さまざまに姿を変えて、苦しみの原因となる。

では、どうするか。

この苦しみを滅ぼすために、仏教では、8つの正しい道を教える。
いわゆる「八正道」をいう。

正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

(1)正見 ……正しい見解
(2)正思惟……正しい思い
(3)正語 ……正しい言葉
(4)正業 ……正しい行い
(5)正命 ……正しい生活
(6)正精進……正しい努力
(7)正念 ……正しい記憶
(8)正定 ……正しい心の統一(同書)をいう。

仏教聖典には、こうある。

『これらの真理を人はしっかりと身につけなければならない。
というのは、この世は苦しみに満ちていて、この苦しみから逃れようとするものは、
だれでも煩悩を断ち切らなければならないからである。
煩悩と苦しみのなくなった境地は、さとりによってのみ、到達し得る。
さとりはこの8つの正しい道によってのみ、達し得られる(同書、P43)。

以前、「空」について書いたことがある。

+++++++++++++++

●すべて「空」

 大乗仏教といえば、「空(くう)」。この空の思想が、大乗仏教の根幹をなしているといっても過
言ではない。つまり、この世のすべてのものは、幻想にすぎなく、実体のあるものは、何もな
い、と。

 この話は、どこか、映画、『マトリックス』の世界と似ている。あるいは、コンピュータの中の世
界かもしれない。

 たとえば今、目の前に、コンピュータの画面がある。しかしそれを見ているのは、私の目。そ
のキーボードに触れているのは、私の手の指、ということになる。そしてその画面には、ただの
光の信号が集合されているだけ。

 私たちはそれを見て、感動し、ときに怒りを覚えたりする。

 しかし目から入ってくる視覚的刺激も、指で触れる触覚的刺激も、すべて神経を介在して、脳
に伝えられた信号にすぎない。「ある」と思うから、そこにあるだけ(?)。

 こうした「空」の思想を完成したのは、実は、釈迦ではない。釈迦滅後、数百年後を経て、紀
元後200年ごろ、竜樹(りゅうじゅ)という人によって、完成されたと言われている。釈迦の生誕
年については、諸説があるが、日本では、紀元前463年ごろとされている。

 ということは、私たちが現在、「大乗仏教」と呼んでいるところのものは、釈迦滅後、600年以
上もたってから、その形ができたということになる。そのころ、般若経や法華経などの、大乗経
典も、できあがっている。

 しかし竜樹の知恵を借りるまでもなく、私もこのところ、すべてのものは、空ではないかと思い
始めている。私という存在にしても、実体があると思っているだけで、実は、ひょっとしたら、何
もないのではないか、と。

 たとえば、ゆっくりと呼吸に合わせて上下するこの体にしても、ときどき、どうしてこれが私な
のかと思ってしまう。

 同じように、意識にしても、いつも、私というより、私でないものによって、動かされている。仏
教でも、そういった意識を、末那識(まなしき)、さらにその奥深くにあるものを、阿頼那識(あら
やしき)と呼んでいる。心理学でいう、無意識、もしくは深層心理と、同じに考えてよいのでは
(?)。

 こう考えていくと、肉体にせよ、精神にせよ、「私」である部分というのは、ほんの限られた部
分でしかないことがわかる。いくら「私は私だ」と声高に叫んでみても、だれかに、「本当にそう
か?」と聞かれたら、「私」そのものが、しぼんでしまう。

 さらに、生前の自分、死後の自分を思いやるとよい。生前の自分は、どこにいたのか。億年
の億倍の過去の間、私は、どこにいたのか。そしてもし私が死ねば、私は灰となって、この大
地に消える。と、同時に、この宇宙もろとも、すべてのものが、私とともに消える。

 そんなわけで、「すべてが空」と言われても、今の私は、すなおに、「そうだろうな」と思ってしま
う。ただ、誤解しないでほしいのは、だからといって、すべてのものが無意味であるとか、虚(む
な)しいとか言っているのではない。私が言いたいのは、その逆。

 私たちの(命)は、あまりにも、無意味で、虚しいものに毒されているのではないかということ。
私であって、私でないものに、振りまわされているのではないかということ。そういうものに振り
まわされれば振りまわされるほど、私たちは、自分の時間を、無駄にすることになる。

●自分をみがく

 そこで仏教では、修行を重んじる。その方法として、たとえば、八正道(はっしょうどう)があ
る。これについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。正見、正思惟、正語、
正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

 が、それでは足りないとして生まれたのが、六波羅密ということになる。六波羅密では、布
施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目と位置づける。

 八正道が、どちらかというと、自己鍛錬のための修行法であるのに対して、六波羅密は、「布
施」という項目があることからもわかるように、より利他的である。

 しかし私は、こうしてものごとを、教条的に分類して考えるのは、あまり好きではない。こうした
教条で、すべてが語りつくされるとは思わないし、逆に、それ以外の、ものの考え方が否定され
てしまうという危険性もある。「まあ、そういう考え方もあるのだな」という程度で、よいのではな
いか。

 で、仏教では、「修行」という言葉をよく使う。で、その修行には、いろいろあるらしい。中に
は、わざと体や心を痛めつけてするものもあるという。怠(なま)けた体には、そういう修行も必
要かもしれない。しかし、私は、ごめん。

 大切なことは、ごくふつうの人間として、ごくふつうの生活をし、その生活を通して、その中で、
自分をみがいていくことではないか。悩んだり、苦しんだりしながらして、自分をみがいていくこ
とではないか。奇をてらった修行をしたからといって、その人の人格が高邁(こうまい)になると
か、そういうことはありえない。

 その一例というわけでもないが、よい例が、カルト教団の信者たちである。信者になったとた
ん、どこか世離れしたような笑みを浮かべて、さも自分は、すぐれた人物ですというような雰囲
気を漂わせる。「お前たち、凡人とは、ちがうのだ」と。

 だから私たちは、もっと自由に考えればよい。八正道や、六波羅密も参考にしながら、私たち
は、私たちで、それ以上のものを、考えればよい。こうした言葉の遊び(失礼!)に、こだわる
必要はない。少なくとも、今は、そういう時代ではない。

 私たちは、懸命に考えながら生きる。それが正しいとか、まちがっているとか、そんなことを
考える必要はない。その結果として、失敗もするだろう。ヘマもするだろう。まちがったこともす
るかもしれない。

 しかしそれが人間ではないか。不完全で未熟かもしれないが、自分の足で立つところに、
「私」がいる。無数のドラマもそこから生まれるし、そのドラマにこそ、人間が人間として、生きる
意味がある。

 今は、この程度のことしかわからない。このつづきは、もう少し頭を冷やしてから、考えてみた
い。
(050925記)
(はやし浩司 八正道 六波羅密 竜樹 大乗仏教 末那識 阿頼那識)

++++++++++++++++

八正道の中でも、私は、正精進こそが、
もっとも重要だと思う。

とくに、今の私のように、健康で、何一つ
不自由のない生活をしているものにとっては、
そうである。

けっして今の状況を、怠惰に過ごしてはいけない。
時間にはかぎりがあり、人生にも、それゆえに
限界がある。

それこそ死を宣告されてから、悟りを求めても、
遅いということ。

たとえば肺ガンを宣告されてから、タバコをやめたり、
胃ガンを宣告されてから、飲酒をやめても、遅い。

健康であるなら、さらに今の生活が満ち足りたものであるなら、
なおさら、私たちは、精進に精進を重ねる。

一瞬、一秒たりとも、無駄にできる時間はない。
また無駄にしてはいけない。

正精進について書いた原稿がある。
一部内容がダブるが、許してほしい。

++++++++++++++++++++

●正精進

 釈迦の教えを、もっともわかりやすくまとめたのが、「八正道(はっしょうどう)」ということにな
る。仏の道に至る、修行の基本と考えると、わかりやすい。

 が、ここでいう「正」は、「正しい」という意味ではない。釈迦が説いた「正」は、「中正」の「正」
である。つまり八正道というのは、「八つの中正なる修行の道」という意味である。

 怠惰な修行もいけないが、さりとて、メチャメチャにきびしい修行も、いけない。「ほどほど」
が、何ごとにおいても、好ましいということになる。が、しかし、いいかげんという意味でもない。

 で、その八正道とは、(1)正見、(2)正思惟、(3)正語、(4)正業、(5)正命、(6)正念、(7)
正精進(8)正定、をいう。広辞苑には、「すなわち、正しい見解、決意、言葉、行為、生活、努
力、思念、瞑想」とある。

 このうち、私は、とくに(8)の正精進を、第一に考える。釈迦が説いた精進というのは、日々
の絶えまない努力と、真理への探究心をいう。そこには、いつも、追いつめられたような緊迫感
がともなう。その緊迫感を大切にする。

 ゴールは、ない。死ぬまで、努力に努力を重ねる。それが精進である。で、その精進について
も、やはり、「ほどほどの精進」が、好ましいということになる。少なくとも、釈迦は、そう説いてい
る。

 方法としては、いつも新しいことに興味をもち、探究心を忘れない。努力する。がんばる。が、
そのつど、音楽を聞いたり、絵画を見たり、本を読んだりする。が、何よりも重要なのは、自分
の頭で、自分で考えること。「考える」という行為をしないと、せっかく得た情報も、穴のあいた
バケツから水がこぼれるように、どこかへこぼれてしまう。

 しかし何度も書いてきたが、考えるという行為には、ある種の苦痛がともなう。寒い朝に、ジョ
ギングに行く前に感ずるような苦痛である。だからたいていの人は、無意識のうちにも、考える
という行為を避けようとする。

 このことは、子どもたちを見るとわかる。何かの数学パズルを出してやったとき、「やる!」
「やりたい!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になる子どももいる。中には、となりの
子どもの答をこっそりと、盗み見する子どももいる。

 子どもだから、考えるのが好きと決めてかかるのは、誤解である。そしてやがて、その考える
という行為は、その人の習慣となって、定着する。

 考えることが好きな人は、それだけで、それを意識しなくても、釈迦が説く精進を、生活の中
でしていることになる。そうでない人は、そうでない。そしてそういう習慣のちがいが、10年、20
年、さらには30年と、積もりに積もって、大きな差となって現れる。

 ただ、ここで大きな問題にぶつかる。利口な人からは、バカな人がわかる。賢い人からは、愚
かな人がわかる。考える人からは、考えない人がわかる。しかしバカな人からは、利口な人が
わからない。愚かな人からは、賢い人がわからない。考えない人からは、考える人がわからな
い。

 日光に住む野猿にしても、野猿たちは、自分たちは、人間より、劣っているとは思っていない
だろう。ひょっとしたら、人間のほうを、バカだと思っているかもしれない。エサをよこせと、キー
キーと人間を威嚇している姿を見ると、そう感ずる。

 つまりここでいう「差」というのは、あくまでも、利口な人、賢い人、考える人が、心の中で感ず
る差のことをいう。

 さて、そこで釈迦は、「中正」という言葉を使った。何はともあれ、私は、この言葉を、カルト教
団で、信者の獲得に狂奔している信者の方に、わかってもらいたい。彼らは、「自分たちは絶
対正しい」という信念のもと、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と、相手を切って捨て
る。

 こうした急進性、ごう慢性、狂信性は、そもそも釈迦が説く「中正」とは、異質のものである。と
くに原理主義にこだわり、コチコチの頭になっている人ほど、注意したらよい。
(はやし浩司 八正道 精進 正精進)

【補足】

 子どもの教育について言えば、いかにすれば、考えることが好きな子どもにするかが、一つ
の重要なポイントということになる。要するに「考えることを楽しむ子ども」にすればよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 正見、正思惟、正語、正業、正
命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道 仏教聖典 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

【生・老・病・死】

+++++++++++++++++

生きていくのもたいへん。
老いていくのも、これまたたいへん。
病気はこわい。
死ぬのは、さらにこわい。

+++++++++++++++++

●損をすることの美徳

損をすることの美徳。
最近、そのすばらしさが、よくわかるようになった。
私のばあい、とくに、金銭面においては、損ばかりしてきた。
今も、している。

投資で失敗したとか、そういうことではない。

一方、金銭面で得をしたという話は、ない。
ただ一度だけ、ワイフの実父がなくなったとき、
現金で、10万円の遺産が入ったことがある。

あとにも先にも、そういう形で、「得?」をしたのは、それだけ。
しかし私たちは、その10万円で、庭石を買った。
義父の思い出ということで、そうした。

こうなってくると、わずかな損得など、どうでもよくなってしまう。
寛大になったというわけではない。
どうでもよくなってしまう。

そのかわり、(時間)というか(命)の大切さが、よくわかるようになった。
どうせ死ねば、この世もろとも、すべてのものが、私の目の前から消える。
そうそう、子どものころ、こんなことがあった。
何歳のときだったかは、覚えていないが、たぶん、私が小学5、6年生の
ころのことではなかったか。

私は夢の中で、自分がほしかったものを手に入れた。
それが何だったのかは忘れたが、ほしかったものを手に入れた。
が、そのとき同時に、どういうわけか、それが夢だと、わかった。
「これは夢だ」「それはわかっているが、しかしこれがほしい」と。
そこで私は、その(もの)を、しっかりと手で握った。
夢の中で、握った。目をさましてからも、手放さないために、である。

が、目がさめてみると、その(もの)は消えていた。(当然である!)
自分の手を見たが、その(もの)はなかった。

この世界のものも、すべて、それと同じと考えてよい。
「あの世がある」と信じている人もいるかもしれないが、だったら、
なおさら、そうである。

そこにある(モノ)にしても、光と分子が織りなす幻覚でしかない。
大切なのは、それを私が、今、見ているという(時間)。
そしてその(実感)。

その(時間)は、刻一刻とすぎていく。
その大切さに、病気になってから気づいても、遅い。
老いてから気づいても、遅い。

もしあなたが今、若くて健康なら、今から、それに気づく。
そして今というこの(時点)から、命のかぎり、自分を燃やす。
燃やして燃やしつくす。

が、それでも、(真実)に近づくことはむずかしい。
不可能かもしれない。
しかしその前向きな姿勢こそ、大切。
そこに生きる意味がある。価値がある。

で、「老」がやってきたら、どうするか?
私もその入り口に立ったわけだが、もしそのとき健康であるなら、
老など、気にしなくてもよい。
年齢というのは、ただの(数字)にすぎない。

(病気)については、どうか?
それが一時的なものであれば、治せばよい。
心の病気も、同じ。

ただ病気というのは、あくまでも(過去)の結果としてやってくるもの。
もし今、あなたが健康なら、「健康とは作るものではなく、守るもの」と
考えて、運動を大切にしたらよい。
運動をする習慣を大切にしたらよい。

怠惰な生活を繰りかえしていて、どうして健康を維持できるというのか。
10年後、20年後をいつも念頭に置きながら、運動を大切にする。
もちろんタバコは吸わない。酒は飲まない。

言いかえると、たいした運動もせず、喫煙、飲酒を繰りかえしているなら、
病気になっても、あわてないこと。それこそ身勝手というもの。

あとは、その日がくるまで、毎日、感謝して生きる。
感謝しながら、その心を、社会に還元していく。
「死」がやってきたら、そのときは、そのとき。
じたばたしない。

法句経の中にもこんな一節がある。

ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずねる。
「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。
どうすればこの死の恐怖から逃れることができるか」と。

それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。
私も一度、脳腫瘍を疑われて、死を覚悟したことがある。
そのとき私は、この釈迦の言葉で救われた。

それからすでに30年になるが、それからの30年間は、まさに(もらいもの)。
その(もらいもの)と比べたら、金銭的な(損)など、何でもない。
むしろ損をすることによって、(執着)から、自分を解放させることができる。

その解放感がたまらない。

冒頭で、「損をすることの美徳」と書いたのはそういう意味だが、
損をすることを恐れないこと。
あえて自分から損をする必要はないが、すべきことはする。
その結果として、損をするなら、損をすることを恐れないこと。

むしろ反対に、時間を無駄にしている人を見るたびに、私は、こう思う。
「ああ、もったいないことをしている!」と。
その人が若くて、健康なら、なおさらである。

それぞれの人は、(やるべきこと)をもっている。
それは人によって、みなちがう。
心理学の世界では、真・善・美の追求が、それであると教える。
が、それにこだわる必要はない。私も、こだわっていない。

ついでに「希望論」について。

人は何もなくても、希望さえあれば生きていくことができる。
しかしその「希望」とは何か。
旧約聖書の中に、こんな説話が残っている。

ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。
(洪水で滅ぼすくらいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、
神に聞いたときのこと。

神はこう答えている。「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという
希望をなくしてしまう。
つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。

旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 生・老・病・死 四苦論 損
論 希望論)





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27
●ソシオメトリー

●好きな子、嫌いな子(Those whom we like, those whom we don't like)
Here I introduce an easy way to know its each relationship between children, developed by 
Morea. Just advice children to write the names, with whom he or she wants to sit next or 
with whom he or she doesn't want to sit next. Then we can know who is suitable as a leader 
of the class or who is supposed to be bullied in the future. Then we can apply this for 
preventing of bullying among children.)

+++++++++++++++++

以前、こんな原稿を書いた。
この原稿が、思わぬところで、
反響を呼んでいる。

「反響」といっても、
たいしたものではないが、
まず一読してほしい。

++++++++++++++++

【あなたは過関心ママ?】

●過関心は子どもをつぶす

 子どもの教育に関心をもつことは大切なことだが、しかしそれが度を超すと、過関心になる。
こんなことがあった。

ある日一人の母親が私のところへやってきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、
『好きな子どうし、並んでいい』と言ったが、うちの子(小二男児)のように友だちがいない子ども
はどうすればいいのか。そういう子どもに対する配慮に欠ける行為だ。これから学校へ抗議に
行くので、あなたも一緒に来てほしい」と。さらに……。

 子どもが受験期になると、それまではそうでなくても、神経質になる親はいくらでもいる。「進
学塾のこうこうとした明かりを見ただけで、カーッと血がのぼる」と言った母親もいたし、「子ども
のテスト週間になると、お粥しかのどを通らない」と言った母親もいた。しかし過関心は子ども
の心をつぶす。が、それだけではすまない。母親の心をも狂わす。

●育児ノイローゼ

 子どものことでこまかいことが気になり始めたら、育児ノイローゼを疑う。症状としては、ささ
いなことで極度の不安状態になったり、あるいは激怒しやすくなるのほか、つぎのようなものが
ある。(1)どこか気分がすぐれず、考えが堂々巡りする、(2)ものごとを悲観的に考え、日常生
活がつまらなく見えてくる。さらに症状が進むと、(3)不眠を訴えたり、注意力が散漫になったり
する、(4)無駄買いや目的のない外出を繰り返す、(5)他人との接触を避けたりするようにな
る、など。

 こうした症状が見られたら、黄信号ととらえる。育児ノイローゼが、悲惨な事件につながること
も珍しくない。子どもが間にからんでいるため、子どもが犠牲になることも多い。

●汝(なんじ)自身を知れ

 過関心にせよ、育児ノイローゼにせよ、本人自身がそれに気づくことは、まずない。気づけば
気づいたで、問題のほとんどは解決したとみる。そういう意味でも、自分のことを知るのは本当
にむずかしい。『汝自身を知れ』と言ったのはキロン(スパルタの七賢人の一人)だが、哲学の
世界でも、「自分を知ること」が究極の目的になっている。

で、このタイプの親は明けても暮れても、考えるのは子どものことばかり。子育てそのものにす
べての人生をかけてしまう。たまに子どものできがよかったりすると、さらにそれに拍車がかか
る。いや、その親はそれでよいのかもしれないが、そのためまわりの人たちまでその緊張感に
巻き込まれ、ピリピリしてしまう。学校の先生にしても、一番かかわりたくないのが、このタイプ
の親かもしれない。

●生きがいを別に

 子育ては人生の「大事」だが、しかし目標ではない。そこでこう考える。『子育ては子離れ』と。
子育てを考えたら、一方で手を抜くことを考える。手を抜くことを恐れてはいけない。子どもとい
うのは不思議なもので、手を抜けば抜くほど、たくましく自立する。

要するに「程度を超えない」ということだが、それがまた親子のきずなを深める。あのバートラン
ド・ラッセル(イギリスの哲学者、ノーベル文学賞受賞者)もこう言っている。『子どもに尊敬され
ると同時に子どもを尊敬し、必要な訓練はほどこすけれども、決して程度を超えない親のみ
が、家族の真の喜びを与えられる』と。

●一人の人間として

 あなたが母親なら、母親ではなく、妻でもなく、女性でもなく、一人の人間として、生きがいを
子育て以外に求める。ある母親は、娘が小学校へ入学すると同時に手芸の店を開いた。また
別の母親は、医療事務の講師をするようになった。地域の会に積極的に参加するようになった
人もいるし、何かのボランティア活動をするようになった人もいる。

そういう形で、つまり子育て以外のところで、自分を燃焼させる場をつくり、その結果として子育
てから遠ざかる。

+++++++++++++++++++++

●ソフト開発

この中で、私は、「好きな子どうし並ばせてみる」ということについて、書いた。
ここに書いた母親は、それを問題にした。

しかしこの方法、つまり「好きな子どうし並ばせてみる」というのは、
心理学的に、子どもどうしの人間関係を知るひとつの方法として、
たいへん有効である。子どもの深層心理を知り、さらには、(いじめの問題)
を解くカギになる。

もっと言えば、この方法は、モレノという学者が考えた、「ソシオメトリー」
として、心理学の世界では、確立された方法のひとつである。

具体的に方法を説明しよう。

私の教室に、7人の子どもがいる。全員、小4である。
その子どもたちに、一枚の紙を渡す。

「あなたはだれと並んで座りたいですか。名前を1人書きなさい」
「またあなたは、だれと並んで座りたくないですか。名前を1人書きなさい」と。

「秘密は守ります」「だれにも見せない」ということを、何度も念を押す。
この方法を応用するためには、何よりも、教師と生徒の間の信頼関係が大切。
その信頼関係がなければ、この方法を、応用することはできない。

で、7人の子どもがこう書いたとする。

A:いっしょに座りたい人……C
  いっしょに座りたくない人……F

B:いっしょに座りたい人……D
  いっしょに座りたくない人……C

C:いっしょに座りたい人……A
  いっしょに座りたくない人……F

D:いっしょに座りたい人……C
  いっしょに座りたくない人……G

E:いっしょに座りたい人……D
  いっしょに座りたくない人……G

F:いっしょに座りたい人……C
  いっしょに座りたくない人……E

G:いっしょに座りたい人……E
  いっしょに座りたくない人……F

そこでこれらの関係を図表化してみる。
A、B、C、D、E、F、Gの7人を、それぞれ線でつないでみる。

すると、Cに、人気が集まり、一方、Fが人気がないのがわかる。
Cとライバル関係にあるBは、Dに好意を寄せている。
Gも孤立しているが、Bの仲間に入れることは可能である……などなど。
そういうこともわかる。

つまりこの方法によって、そのクラスが、どういう人間関係で構成されているか、
おおまかに知ることができる。
同時に、人気のある子どもや、そうでない子どもを知ることによって、どの子どもを
リーダーにすると、クラスがまとまり、またどの子どもが、仲間はずれにされているかが、
わかる。

仲間はずれにされている子どもは、当然、将来、いじめの対象になることも考えられる。
またその相関図がわかれば、どうすれば、いじめを防ぐことができるかもわかる。

ここでは7人の子どもを例にあげたが、簡単なプログラミングで、
50人単位、100人単位の人間関係を知るソフトも可能である。

(二男に頼めば、すぐソフトを開発してくれると思うが……。
BASIC言語でもよければ、私にもできる。EXCELでは無理だと思う。
どなたかスポンサーになってくれる人は、いないか?)

プリグラミングの条件として……。

(1)「座りたい人」を(+1)にする。
(2)「座りたくない人」を(−1)にする。
(3)(+)の得点の多い人を、青い円で表示する。
   得点に応じて、円の大きさを変える。
   たとえば(+3)の人は、円の半径を30ドットにする。
   (+5)の人は、円の半径を50ドットにする。
   (−)の得点の多い人を、赤い円で表示する。
(4)それぞれの相関関係を、図表化する。
たとえば、いっしょに座りたい人に向かっては、青線表示。
座りたくない人に向かっては、赤線表示。
(5)その相関関係を、シャッフルしながら、まとめていく。
(方法としては、赤線、青線の長さが最短になるように表示する。)
(6)こうして人気のある人、人気のない人が一目でわかるようにする。
ライバル関係(派閥の長関係)にある人は、黄色の線でつなぐ。
その人を救済する立場にある人を、緑の線でつなぐ。

教育関係(学校)では、この方法で、教師は、いじめの対象となりやすい子どもを
事前に知ることができる。
またどうすれば、その子どもを、ワクの中に取り込めるかもわかる。

時間があれば、ソフトの開発をぜひやってみたい。

(私はこう見えても、20代の終わりごろから、30代のはじめ、自分で
ソフトを開発して遊んでいた。一度だけだが、私が開発した、「宇宙空間移動
ゲーム」は、地元のパソコンソフト会社が、買いあげてくれた。)
(これは自慢話!)

ともかくも、そういうこともあるから、学校の先生が、「好きな子どうし並んでみなさい」
と言っても、親は、過剰に反応しないこと。
子どもの人間関係を、それによって、簡単に知ることができる。
ひょっとしたら、その先生も、この方法を試してみたのかもしれない。

……ということで、以前書いた原稿を、ここで再度、とりあげてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist モレア ソシオメトリー 人間相
関図 いじめの問題 いじめの予防策 いじめ予防法)



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28
【善人vs悪人】

●すばらしい人たち、二人の知人

●二人の知人

 石川県金沢市の県庁に、S君という同級生がいる。埼玉県所沢市のリハビリセンターに、K
氏という盲目の人がいる。親しく交際しているわけではないが、もし私が、この世界で、もっとも
すばらしい人を二人あげろと言われたら、私は迷わず、この二人をあげる。この二人ほどすば
らしい人を、私は知らない。

この二人を頭の中で思い浮かべるたびに、どうすれば人は、そういう人になれるのか。またそ
ういう人になるためには、私はどうすればよいのか、それを考えさせられる。

 この二人にはいくつかの特徴がある。誠実さが全身からにじみ出ていることもさることなが
ら、だれに対しても、心を開いている。ウラがないと言えば、まったくウラがない。その人たちの
言っていることが、そのままその人たち。楽しい話をすれば、心底、それを楽しんでくれる。悲し
い話をすれば、心底、それを悲しんでくれる。子どもの世界の言葉で言えば、「すなおな」人た
ちということになる。

●自分をさらけ出すということ

 こういう人になるためには、まず自分自身を作り変えなければならない。自分をそのままさら
け出すということは、何でもないようなことだが、実はたいへんむずかしい。たいていの人は、
心の中に無数のわだかまりと、しがらみをもっている。しかもそのほとんどは、他人には知られ
たくない、醜いものばかり。

つまり人は、そういうものをごまかしながら、もっとわかりやすく言えば、自分をだましながら生
きている。そういう人は、自分をさらけ出すということはできない。

 ためしにタレントの世界で生きている人たちを見てみよう。先日もある週刊誌で、日本の四タ
ヌキというようなタイトルで、四人の女性が紹介されていた。元野球監督の妻(脱税で逮捕)、
元某国大統領の第二夫人(脱税で告発)、元外務大臣の女性(公費流用疑惑で議員辞職)、
演劇俳優の女性の四人である。

四番目の演劇俳優の女性は別としても、残る三人は、たしかにタヌキと言うにふさわしい。昔
風の言い方をするなら、「ツラの皮が、厚い」ということか。こういう人たちは、多分、毎日、いか
にして他人の目をあざむくか、そればかりを考えて生きているに違いない。仮にあるがままの
自分をさらけ出せば、それだけで人は去っていく。だれも相手にしなくなる。つまり化けの皮が
はがれるということになる。

●さて、自分のこと

 さて、そこで自分のこと。私はかなりひねた男である。心がゆがんでいると言ったほうがよい
かもしれない。ちょっとしたことで、ひねくれたり、いじけたり、つっぱったりする。自分という人
間がいつ、どのようにしてそうなったかについては、また別のところで考えることにして、そんな
わけで、私は自分をどうしてもさらけ出すことができない。ときどき、あるがままに生きたら、ど
んなに気が楽になるだろうと思う。

が、そう思っていても、それができない。どうしても他人の目を意識し、それを意識したとたん、
自分を作ってしまう。

 ……ここまで考えると、その先に、道がふたつに分かれているのがわかる。ひとつは居なお
って生きていく道。もうひとつは、さらけ出しても恥ずかしくない自分に作り変えていく道。いや、
一見この二つの道は、別々の道に見えるかもしれないが、本当は一本の道なのかもしれな
い。もしそうなら、もう迷うことはない。二つの道を同時に進めばよい。

●あるがままに生きる

 話は少しもどるが、自分をごまかして生きていくというのは、たいへん苦しいことでもある。疲
れる。ストレスになるかどうかということになれば、これほど巨大なストレスはない。あるいは反
対に、もしごまかすことをやめれば、あらゆるストレスから解放されることになる。人はなぜ、と
きとして生きるのが苦痛になるかと言えば、結局は本当の自分と、ニセの自分が遊離するから
だ。そのよい例が私の講演。

 最初のころ、それはもう20年近くも前のことになるが、講演に行ったりすると、私はヘトヘトに
疲れた。本当に疲れた。家に帰るやいなや、「もう二度としないぞ!」と宣言したことも何度かあ
る。もともとあがり症だったこともある。私は神経質で、気が小さい。しかしそれ以上に、私を疲
れさせたのは、講演でいつも、自分をごまかしていたからだ。

 「講師」という肩書き。「はやし浩司」と書かれた大きな垂れ幕。それを見たとたん、ツンとした
緊張感が走る。それはそれで大切なことだが、しかしそのとたん、自分が自分でなくなってしま
う。精一杯、背伸びして、精一杯、虚勢を張り、精一杯、自分を飾る。ときどき講演をしながら、
その最中に、「ああ、これは本当の私ではないのだ」と思うことさえあった。

 そこであるときから、私は、あるがままを見せ、あるがままを話すようにした。しかしそれは言
葉で言うほど、簡単なことではなかった。もし私があるがままの自分をさらけ出したら、それだ
けで聴衆はあきれて会場から去ってしまうかもしれない。そんな不安がいつもつきまとった。そ
のときだ。私は自分でこう悟った。「あるがままをさらけ出しても、恥ずかしくないような自分にな
ろう」と。が、今度は、その方法で行きづまってしまった。

●自然な生活の中で……

 ところで善人も悪人も、大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ入り口が違
っただけ。ほんの少しだけ生きザマが違っただけ。もし善人が善人になり、悪人が悪人になる
としたら、その分かれ道は、日々のささいな生活の中にある。

人にウソをつかないとか、ゴミを捨てないとか、約束を守るとか、そういうことで決まる。つまり
日々の生活が、その人の月々の生活となり、月々の生活が年々の生活となり、やがてその人
の人格をつくる。

日々の積み重ねで善人は善人になり、悪人は悪人になる。しかし原点は、あくまでもその人の
日々の生活だ。日々の生活による。むずかしいことではない。中には滝に打たれて身を清め
るとか、座禅を組んで瞑想(めいそう)にふけるとか、そういうことをする人もいる。私はそれが
ムダとは思わないが、しかしそんなことまでする必要はない。あくまでも日々の生活。もっと言
えば、その瞬間、瞬間の生きザマなのだ。

 ひとりソファに座って音楽を聴く。電話がかかってくれば、その人と話す。チャイムが鳴れば
玄関に出て、人と応対する。さらに時間があれば、雑誌や週刊誌に目を通す。パソコンに向か
って、メールを書く。その瞬間、瞬間において、自分に誠実であればよい。人間は、もともと善
良なる生き物なのである。だからこそ人間は、数十万年という気が遠くなる時代を生き延びる
ことができた。

もし人間がもともと邪悪な生物であったとするなら、人間はとっくの昔に滅び去っていたはずで
ある。肉体も進化したが、同じように心も進化した。そうした進化の荒波を越えてきたということ
は、とりもなおさず、私たち人間が、善良な生物であったという証拠にほかならない。私たちは
まずそれを信じて、自分の中にある善なる心に従う。

 そのことは、つまり人間が善良なる生き物であることは、空を飛ぶ鳥を見ればわかる。水の
中を泳ぐ魚を見ればわかる。彼らはみな、自然の中で、あるがままに生きている。無理をしな
い。無理をしていない。仲間どうし殺しあったりしない。時に争うこともあるが、決して深追いをし
ない。その限度をしっかりとわきまえている。そういうやさしさがあったからこそ、こうした生き物
は今の今まで、生き延びることができた。もちろん人間とて例外ではない。

●生物学的な「ヒト」から……
 
で、私は背伸びをすることも、虚勢を張ることも、自分を飾ることもやめた。……と言っても、そ
れには何年もかかったが、ともかくもそうした。……そうしようとした。いや、今でも油断をする
と、背伸びをしたり、虚勢を張ったり、自分を飾ったりすることがある。これは人間が本能として
もつ本性のようなものだから、それから決別することは簡単ではない(※1)。

それは性欲や食欲のようなものかもしれない。本能の問題になると、どこからどこまでが自分
で、そこから先が自分かわからなくなる。が、人間は、油断をすれば本能におぼれてしまうこと
もあるが、しかし一方、努力によって、その本能からのがれることもできる。大切なことは、そ
の本能から、自分を遠ざけること。遠ざけてはじめて、人間は、生物学的なヒトから、道徳的な
価値観をもった人間になることができる。またならねばならない。

●ワイフの意見

 ここまで書いて、今、ワイフとこんなことを話しあった。ワイフはこう言った。「あるがままに生
きろというけど、あるがままをさらけ出したら、相手がキズつくときもあるわ。そういうときはどう
すればいいの?」と。こうも言った。「あるがままの自分を出したら、ひょっとしたら、みんな去っ
ていくわ」とも。

 しかしそれはない。もし私たちが心底、誠実で、そしてその誠実さでもって相手に接したら、そ
の誠実さは、相手をも感化してしまう。人間が本来的にもつ善なる心には、そういう力がある。
そのことを教えてくれたのが、冒頭にあげた、二人の知人たちである。

たがいに話しこめば話しこむほど、私の心が洗われ、そしてそのまま邪悪な心が私から消えて
いくのがわかった。別れぎわ、私が「あなたはすばらしい人ですね」と言うと、S君も、K氏も、こ
ぼれんばかりの笑顔で、それに答えてくれた。

 私は生涯において、そしてこれから人生の晩年期の入り口というそのときに、こうした二人の
知人に出会えたということは、本当にラッキーだった。その二人の知人にはたいへん失礼な言
い方になるかもしれないが、もし一人だけなら、私はその尊さに気づかなかっただろう。

しかし二人目に、所沢市のK氏に出会ったとき、先の金沢氏のS氏と、あまりにもよく似ている
のに驚いた。そしてそれがきっかけとなって、私はこう考えるようになった。「なぜ、二人はこう
も共通点が多いのだろう」と。そしてさらにあれこれ考えているうちに、その共通点から、ここに
書いたようなことを知った。

 S君、Kさん、ありがとう。いつまでもお元気で。

●みなさんへ、

あるがままに生きよう!
そのために、まず自分を作ろう!
むずかしいことではない。
人に迷惑をかけない。
社会のルールを守る。
人にウソをつかない。
ゴミをすてない。
自分に誠実に生きる。
そんな簡単なことを、
そのときどきに心がければよい。
あとはあなたの中に潜む
善なる心があなたを導いてくれる。
さあ、あなたもそれを信じて、
勇気を出して、前に進もう!
いや、それとてむずかしいことではない。
音楽を聴いて、本を読んで、
町の中や野や山を歩いて、
ごく自然に生きればよい。
空を飛ぶ鳥のように、
水の中を泳ぐ魚のように、
無理をすることはない。
無理をしてはいけない。
あなたはあなただ。
どこまでいっても、
あなたはあなただ。
そういう自分に気づいたとき、
あなたはまったく別のあなたになっている。
さあ、あなたもそれを信じて、
勇気を出して、前に進もう!
心豊かで、満ち足りたあなたの未来のために!
(02−8−17)※

(追記)

※1……自尊心

 犬にも、自尊心というものがあるらしい。

 私はよく犬と散歩に行く。散歩といっても、歩くのではない。私は自転車で、犬の横を伴走す
る。私の犬は、ポインター。純種。まさに走るために生まれてきたような犬。人間が歩く程度で
は、散歩にならない。

 そんな犬でも、半時間も走ると、ヘトヘトになる。ハーハーと息を切らせる。そんなときでも、
だ。通りのどこかで飼われている別の犬が、私の犬を見つけて、ワワワンとほえたりすると、私
の犬は、とたんにピンと背筋を伸ばし、スタスタと走り始める。それが、私が見ても、「ああ、か
っこうをつけているな」とわかるほど、おかしい。おもしろい。

 こうした自尊心は、どこかで本能に結びついているのかもしれない。私の犬を見ればそれが
わかる。私の犬は、生後まもなくから、私の家にいて、外の世界をほとんど知らない。しかし自
尊心はもっている? 

もちろん自尊心が悪いというのではない。その自尊心があるから、人は前向きな努力をする。
私の犬について言えば、疲れた体にムチ打って、背筋をのばす。しかしその程度が超えると、
いろいろやっかいな問題を引き起こす。それがここでいう「背伸びをしたり、虚勢を張ったり、自
分を飾ったりする」ことになる。言いかえると、どこまでが本能で、どこからが自分の意思なの
か、その境目を知ることは本当にむずかしい。

卑近な例だが、若い男が恋人に懸命にラブレターを書いたとする。そのばあいも、どこかから
どこまでが本能で、どこから先がその男の意思なのかは、本当のところ、よくわからない。

 自尊心もそういう視点で考えてみると、おもしろい。


++++++++++++++++++++

以上、善人論、悪人論について書いた原稿を
掲載してみた。

理由は、実は、つぎの2つの記事を読んで
ほしかったからである。

2つも、ヤフー・ニュース(3月20日)に
載っていた記事である。

++++++++++++++++++++

●ヤフーの記事より転載(要約)

まれない環境に育ったからと言って、犯罪が正当化されるわけではない。そうわかってはいて
も、被告の境遇に同情を禁じ得ないときがある。

 18日、東京地裁の初公判。女性の顔面を殴るなどして手提げバッグを奪ったとして、強盗致
傷の罪に問われた男性被告(35)もその1人だった。

 起訴状によると、被告は今年1月8日、東京都足立区の路上を歩いていた女性=当時(50)
=を路上に押し倒し、ガードパイプに女性の後頭部をたたきつけるなどした上で、現金約6万5
000円やキャッシュカードなどが入った手提げバックを奪った。女性の頭部などに全治10日
のケガを負わせた。罪状認否で被告は起訴事実を認めた。

 被告は、郷里の家族とは音信不通の状態だったという。
 弁護人「家族は父母と兄、妹がいる?」
 被告「母は中学3年のときに死にました」
 弁護人「父親とは18年間、会っていない?」
 被告「はい」

 父親との折り合いが悪かった被告は、中学校を卒業すると、東京の寿司屋で働き始めた。そ
れ以降、職を転々としながら働き続けた。犯行前に勤務していたのは警備会社だった。

 弁護人「12月28日にもらった給料はどうした?」
 被告「その日は家賃と弁護士費用を払った」
 弁護人「いくらですか?」
 被告「家賃は3万8000円、任意整理の弁護士費用が1万5000円」

 被告はその後、パチスロでさらに2、3万円を浪費した。次の勤務日、被告は出社しなかっ
た。
 被告は消費者金融に約210万円の借金があったほか、上司にも2、3万円の借金があっ
た。

 弁護人「なぜ(上司への)2、3万円の借金で行くのをやめた?」
 被告「何度も怒られて、注意されて、もう無理かなと思って」

 年末年始はゲームセンターでのゲームや、パチスロをして過ごした。自宅に帰るのも面倒だ
ったので、新宿の漫画喫茶に寝泊まりした。

 弁護人「そのうち金がなくなるのは目に見えている。どんなことを考えていたの?」
 被告「どうなってもいいや」
 弁護人「どうなると思った?」
 被告「死ぬか、犯罪を起こすか」

 なぜ被告は犯罪の引き金を引いたのだろうか。

 弁護人「なぜ決意した?」
 被告「おなかがすいたし、自殺する勇気がない」
 弁護人「頭を下げて仕事に戻るという選択肢は?」
 被告「その時点ではどうなってもいいやと」
 被告は犯行を「後悔している」と述べ、弁護人からの問いに泣きじゃくった。
 弁護人「時計の針を戻せたら、どこでどうすればよかった?」
 被告「生まれてこなければよかった。どこでって、生まれたこと自体がもう…」

 検察側の求刑は懲役7年だった。客観的な犯行事実を見れば、「金がほしい」という犯行の
動機は短絡的で、ガードパイプに頭部をたたきつけるという犯行の態様も危険極まりなく、求
刑が重いのも理解できる。金がなくなった経緯も自業自得だ。だが、心の中でそう単純に切り
捨てられなかった。

 中学校を卒業したらすぐ故郷を離れて上京し、家族の愛情も知らず、ただ働いて生きていく
だけだった被告の「生まれてこなければよかった」という言葉が心に引っかかった。罪滅ぼしが
済んだ後は、これからの人生で「生まれてきてよかった」と思える瞬間を自分の力で見いだして
ほしい。

 判決は3月28日に言い渡される。(末崎光喜)

+++++++++++++++++

同じく、3月19日に、こんな記事も載っていた。

+++++++++++++++++

●でも思うようにもうからず…

 東京地裁の被告人席に座った熟年夫婦。サラリーマンとして勤め上げて定年退職した夫(6
3)と、その妻(57)の第二の人生は、夫唱婦随の乱交パーティー主催だった。

 夫婦が問われたのは売春防止法違反罪。起訴状によると、夫婦は平成19年11月15日、
東京都品川区五反田のホテルにいた4人の男性に3人の女性を派遣して、売春を斡旋(あっ
せん)。罪状認否で夫婦は「間違いありません」と起訴事実を認めた。

 検察側の冒頭陳述などによると、夫婦は昭和52年に結婚。夫は広告代理店を定年まで勤
め上げた。妻は専業主婦だった。

 夫婦には月20万円の年金収入があったが、夫は16年4月ごろ売春斡旋業をスタート。一人
で続けるのは難しくなり、約1年後に妻を引き入れた。妻は嫌がったものの、結局は夫の求め
に応じた。インターネットで客を募集し、月に2回ほど乱交パーティーを主催していた。

 男性被告が代理店に勤務している間は、どこにでもある普通の家庭だった。それがなぜ売
春斡旋のような裏の仕事に手を染めるようになったのか。

 弁護人「どうして売春斡旋を始めたのか」
 夫「売春クラブをやっている女性の友人から誘われて」
 弁護人「その女性とはどうやって知り合ったのか」
 夫「会社時代に飲み屋で知り合った」
 裁判官「よりによってなぜこんな仕事を」
 夫「友人ができるなら自分にもできると思った」

 乱交パーティーの売り上げは20万円。このうち、ホテル代、食事代、避妊具代などに2万
円。派遣する女性への支払いが3人で12万円。純利益は6万円にしかならなかったという。

 「思ったほどもうからなかった」。夫は法廷でうなだれた。

 弁護人は妻に一緒にやり始めた理由を聞いた。

 弁護人「嫌だと思っていたのになぜ一緒に始めたのか」
 妻「家が古いから立て替える資金ができるといわれて。そんなに怖いと思っていなかった」

 生活費と家の建て替え資金。この2つの理由で飛び込めるほど気軽な稼業ではない気がし
たが、それ以上の理由は、被告人の口からは語られなかった。

 弁護側証人として、夫婦と同居していた二男が出廷。「こんなことをしていたなんて、まったく
知らなかった」と絶句した。

 妻は「両親がこんなことをして、裁判所に来てもらうことは、何とも言いようがない」と述べ、お
えつを漏らした。

 最後に裁判官は妻を諭した。「夫を止めるべきだった。二度とないように、あなたがしっかりし
ないといけない」。

 検察側は夫婦いずれにも懲役2年、罰金30万円を求刑した。判決は29日に言い渡される。
(末崎光喜)

++++++++++++++++++

以上が、ヤフー・ニュースに載っていた2つの
記事である。

あなたは、これら2つの記事を読んで、どう感じたで
あろうか。

もちろん犯罪にもいろいろある。同じ犯罪でも、
被害者や遺族の立場で見ると、まるでちがって
見えるということもある。

冒頭で、記事を書いた末崎氏が述べているように、
「まれない環境に育ったからと言って、犯罪が正当化されるわけではない。
そうわかってはいても、被告の境遇に同情を禁じ得ないときがある」というのは、
まさに正論である。

善人と呼ばれる人でも、そのうちの何割かは、「悪」である。
一方、悪人と呼ばれている人でも、そのうちの何割かは、「善」である。

要は、バランスの問題。
ときに善が崩れて人(=子ども)は、悪人になり、
悪が暴走して人(=子ども)は、悪人になる。
根っからの善人など、いない。
根っからの悪人など、いない。
むしろ善人ぶっている人のほうが、不気味。
仮面をかぶりながら、かぶっていること自体に、気がついていない。

……話が脱線しそうなので、ここまで。
子どもを見るときの参考になれば、うれしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 善人論 悪人論 善悪 子ども
の善悪)



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29
●ネット中毒(Internet poisoning)

According to the newspaper of today, about 210000 young people (6-19 years old) in Korea 
are under the condition they need some kind of medical treatment for the internet poisoning.

韓国の東亜N報が、こんな記事を載せている(08年3月24日)。

+++++++++++++++++

米オレゴン健康科学大学のジェラルド・ブロック博士は、
米精神科学会誌の3月号のコラムで、「インターネット中毒は、
精神障害診断マニュアル(DSM―V)に含まれるべきだ」
という韓国青少年保護委員会の昨年のシンポジウム資料などを引用して、
韓国の事例を紹介した。 

ブロック博士は、「韓国ではインターネットカフェでの10件の
心肺関連死亡事故や、1件のゲーム関連殺人事件が起きた後、
インターネット中毒を最も深刻な公衆保健問題と思うようになった」と述べ、
「韓国には1043人の専門カウンセラーがおり、190の病院や治療センターが
学校と連携をとっている」と紹介した。 

同氏はまた、「韓国政府の資料によれば、6〜19歳の青少年のうち約21万人が、
(インターネットのため)苦しんでおり、治療が必要だ」と述べ、
「そのうち80%は心理学的な薬物投与が、また20〜40%は、
入院や治療が必要かもしれない」と明らかにした。 

ブロック博士はまた、「韓国の高校生たちは1週間に平均23時間を
ゲームに費やし、(現在のインターネット中毒者のほか)、120万人ぐらいが
追加で中毒になりかねない危険性をはらんでいるという」と紹介した。 

+++++++++++++++++

日本での調査はないが、この日本でも、事態は、同じようなものと思ってよい。
死亡事故や関連殺人事件が、起きてからでは遅い。早急に、日本でも対策を
立てるべきではないのか。

韓国の状況を、もう一度、整理してみる。

(1)6〜19歳の青少年のうち約21万人が、治療が必要な状態である。
(2)そのうち80%は心理学的な薬物投与が、また20〜40%は、
入院や治療が必要と推定される。
(3)そのため韓国には、「韓国には1043人の専門カウンセラーがおり、
190の病院や治療センターが学校と連携をとっている

あまりよく知られていないが、この日本では、テレビゲームを批判しただけで、
たいへんなことになる。抗議の嵐が殺到する。私自身も、経験している。

テレビゲームそのものが、カルト化している。常識で考えれば、おかしなことだが、
その常識が狂い始めている。テレビゲームといっても、それに没頭している人に
とっては、ただのゲームではない。

だから「6〜19歳の青少年のうち約21万人が、治療が必要な状態である」と
いっても、その治療を求めているのは、当の青少年たちではない。恐らく、これらの
青少年たちは、治療そのものを、がんこに拒否するはず。

自分がおかしいという認識(=病識)すら、ない。

もちろんインターネット、イコール、ゲームということではない。
反対に、ゲーム、イコール、インターネットということでもない。

さらに言えば、たとえば「検査で正常である」と診断されたからといって、
「問題ない」ということでもない。
テレビゲームを支持する学者たちは、「検査」という言葉をよく使う。
ゲーム脳を否定する学者もいるが、彼らは決まってこう言う。
「検査してみたが、どこにも異常は見られない」と。

しかし教育の現場では、少しちがった見方をする。子どもの微妙な変化をとらえて、
おかしいと言う。様子や行動を観察して、「おかしい」と言う。
それについてはたびたび書いてきたので、ここでは省略する。

子どもの世界では、常に、『疑わしきは、罰する』。
先手、先手で守ってこそ、はじめて、子どもの世界を守ることができる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ゲーム脳、ネット中毒、インター
ネット中毒)





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30
【金権教】

●「金権教」というカルト(Money is Everything.)
Most of us believe that money is everything, some consciously and some unconsciously. But 
it is a kind of cult (or sect), or we would know it when we are involved in it. So I call it "
Money-ism", or "Money Cult".

++++++++++++++++++++++

私はカルト(狂信的な信仰)とは無縁と
思っている人でも、ちょっと、待ってほしい。
そういう人でも、無数のカルトを信仰している。

学歴信仰に始まって、親絶対教、学校神話、男尊女卑思想、
家父長意識、民族主義に国粋主義などなど。

人は、ひとつのことを信仰することによって、思考を放棄することができる。
それは同時に、たいへん甘美な世界でもある。

思考、つまり(考えること)には、いつもある種の苦痛がともなう。
難解な数学の問題を前にしたときのことを、思い浮かべてみればよい。
カルトを信仰することによって、その苦痛から、自らを解放することができる。
過去や世俗的習慣を踏襲するのも、そのひとつ。
「昔はこうだった」「みなは、こうしている」と。

金権教について、考えてみたい。
……といっても、どんなカルトでもそうだが、
その中にいる人には、自分のおかしさがわからない。

そのおかしさを知るためには、一度、そのカルトの外に出てみなければならない。
あるいは、やめてみる。
長い間、カルト信仰をしてきたある女性(当時、45歳くらい)は、こう言った。

「退会してみて、はじめて、おかしさがわかった」と。

金権教もそうである。

たまたま現在、隣の中国が、20年前、30年前の日本を再現している。
何もかも、マネー、マネー、一色。
少し前だが、こんな話を、何かの雑誌で読んだことがある。

あるところで、1人の少年が川に落ちて、溺れた。
少年の母親は、まわりの人に、助けを求めた。
狂乱状態だったという。
それを見ていた一人の男性が、こう言ったという。
「〜〜元、出せ。そしたら助けてやる」と。
金額は、忘れた。

戦後の日本も、ひどかった。
が、しかしそこまでは、ひどくなかった。
(……と信じたい。似たような話はあるが……。)
それにしても、溺れる子どもを横目に、金額交渉とは!

心もマネーに毒されると、人は、そこまで言うようになる。
そのおかしさは、日本人の私たちには、よくわかる。
しかし当の中国の人たちには、わからない。

こうした「金と権力がすべて」という世界を、金権教という。
かなり宗教的な色彩が濃いから、「金権教」と呼ぶ。

その金権教の信者は、少なくない。

医師、弁護士に始まって、教師、役人、職人、はては牧師に僧侶にいたるまで。
職種に、関係ない。

しかし自分が金権教の信者であることに気づいている人は、少ない。
が、それを知る方法が、ないわけではない。

(1)金銭的な利益のある仕事だけをする。利益第一主義。
(2)金銭的に損な仕事はしない。ボランティア活動をしない。
(3)貧しい人を、いつも(下)に見る。人の価値を財産で決める。
(4)損得勘定に敏感である。計算高い。
(5)とくに損をしたとき、過剰なまでに反応する。落胆する。
(6)「信じられるのは、金だけ」を、よく口にする。
(7)仕事(=金儲け)中心主義で、家族、家庭を犠牲にしても平気。
(8)周囲の人間を、平気で利用する。その分だけ、いつも孤独。

これらの項目のうち、ほぼすべてが当てはまれば、金権教の信者と考えてよい。
もちろん程度の差もあるが……。

が、その金権教も、やがていつか、行きづまる。
短期的には、事業が失敗したとき。
長期的には、加齢による事業の縮小など。
そういったとき、マネーという本尊が、(イワシの頭)だったことを、思い知らされる。

カルトがこわいのは、ここから。
それを信じている間は、カルトは、その人を側面から支える。
生きる目標になることもある。
しかしそれを疑ったとたん、その人は、その内部から崩壊する。
「自己否定」という言葉があるが、それに近い状態になる。
「私は、何だったのか」と。
それまでの人生が無意味だったことを、思い知らされる。
とたん、大混乱に陥る。

こういうケースのばあい、つぎの2つから、進むべき道を選ぶ。

(1)そのまま金権教に固執する。
(2)新たな価値観を模索する。

このどちらでもないとなると、そこで待っているのは、「破滅」。
自殺という手段を取る人もいるが、それは論外。

こういうケースがある。

あるところに、手かざしで、病気を治すと教えている教団があった。
「手かざし」というのは、患部に手をかざして、病気を治すことをいう。
N氏夫婦は、その教団の熱心な信者だった。
で、あるとき、N氏の長男が、腹痛を訴えた。
(あとで盲腸炎だったということがわかったが……。)
N氏は、長男を病院へ連れていかなかった。
手かざしで治してみせると、がんばった。
しかし長男は、そのまま死んでしまった。
いや、最後の最後のところで、病院へ運ばれたが、そのときは手遅れだった。

こういうケースのばあい、「私たちの信仰はまちがっていました」と認めることは、
自分の子どもを、自分たちで殺してしまったことを認めることに等しい。

実際、N氏夫婦は、そのあと、ますますその信仰にのめりこんでいった。
またそれしか進むべき道がなかった。

……金権教にも、似たようなケースがある。
これは金権教で破滅した、ある男性の話である。

K氏は、昔からの資産家の二男だった。
長男の兄と2人で、事業を起こした。
建売を専門とする、建築会社だった。
高度成長期の、あの波に乗り、事業はトントン拍子で拡大した。
K氏は、有頂天になった。
毎晩、札束を切りながら、豪遊に豪遊を重ねた。

が、そのころから兄(=長男)との折りあいが悪くなった。
利益の配分をめぐっての、争いがつづいた。

そこで会社を2分することにした。
建設部門を兄が、不動産部門を二男のK氏が引き継いだ。

が、とたん、あのバブル経済がはじけた。
K氏は破産。
無一文になった。

その後、1年ほどの期間があったが、私が再びK氏の消息を聞いたときには、
K氏は、精神病院に長期入院しているということだった。
その1年間に、何があったか、それを想像するのは難しくない。
妻とは離婚。2人の娘がいたが、2人とも兄の家に引き取られていた。
人伝えに聞くところによると、「想像を絶する、家庭内騒動がつづいた」とのこと。

金権教の信者の末路(失礼!)は、あわれ。
マネーの切れ目が、人生の終わり。
そうなる。

が、これは、何も特別な人たちだけの問題ではない。
先にも書いたように、「程度の差」こそあれ、みなの問題と考えてよい。
ほとんどの人が、それを信じている。
「信じている」という意識がないまま、信じている。

私自身もそうだったし、今もそうかもしれない。
いつも心のどこかで、それと戦っている。

しかし金権教は、カルト。
宗教で教えるような教義など、どこにもない。
つまりは、人間が本能的にもつ(欲望)と深く、からみあっている。
欲望そのものかもしれない。
だから余計に、タチが悪い。

しかし、これだけは言える。
マネーで幸福は買えない。
しかしマネーがないと、人は、不幸になる。
それはわかる。
が、その一方で、マネーに毒されると、人生そのものを棒に振る。
仮に金持ちのまま終わったとしても、だ。

一度、勇気を出して、自分の心の中をのぞいてみるとよい。

+++++++++++++++++

以前書いた原稿を、1作、掲載します。
日付は、06年4月になっています。
ちょうど2年前に書いた原稿ということになります。

+++++++++++++++++

【金銭的価値観】

●損の哲学

++++++++++++++++++

私の大嫌いなテレビ番組に、
「○○お宝XX鑑定団」というのがある。

私は、あれほど、人間の心をもてあそび、
そしてゆがめる番組はないと思う。

が、この日本では、その番組が、
人気番組になっている。

つまり、日本人の、そして人間の心は、
そこまで、狂っている!

+++++++++++++++++++

●失った鑑賞能力

 ものの価値を、金銭的尺度でしかみないというのは、人間にとって、たいへん悲しむべきこと
である。ものならまだしも、それが芸術的作品や、さらには人間の心にまでおよんだら、さらに
悲しむべきことである。

 テレビの人気番組の中に、「○○お宝XX鑑定団」というのがある。いろいろな人たちが、それ
ぞれの家庭に眠る「お宝?」なるものを持ちだし、その金銭的価値を判断するという番組であ
る。

 ご存知の方が多いと思うが、その「もの」は、実に多岐にわたる。芸術家による芸術作品か
ら、著名人の遺品まで。はては骨董品から、手紙、おもちゃまで。まさに何でもござれ! が、
私には、苦い経験がある。

 私は子どものころから絵が好きだった。高校生になるころまで、絵を描くのが得意だった。そ
のころまでは、賞という賞を、ひとり占めにしていた。だからというわけでもないが、おとなにな
ると、つまり金銭的な余裕ができると、いろいろな絵画を買い集めるようになった。それはある
意味で、私にとっては、自然な成り行きだった。

 最初は、シャガール(フランスの画家)から始まった。つぎにビュフェ、そしてミロ、カトラン、ピ
カソ……とつづいた。

 が、そのうち、自分が、絵画の価値を、金銭的な尺度でしか見ていないのに気がついた。こ
のリトグラフは、XX万円。サインがあるからYY万円。そして高価な絵画(リトグラフ)ほど、よい
絵であり、価値があると思いこむようになった。

 しかしこれはとんでもないまちがいだった。

 だいたいそういった値段といったものは、間に入る画商やプロモーターの手腕によって決ま
る。中身ではない。で、さらにそのうち、日本では有名でも、現地のフランスでは、ほとんど知ら
れていない画家もいることがわかった。つまり、日本でいう絵画の価値は、この日本でのみ通
用する、作られた価値であることを知った。

 つまり画商たちは、フランスでそこそこの絵を描く画家の絵を買い集め、それを日本で、うまく
宣伝に乗せて、高く売る。「フランスで有名な画家だ」「○○賞をとった画家だ」とか、何とか宣
伝して、高く売る。そういうことが、この世界では、当時も、そして今も、ごく当たり前のようにな
されている。

 が、同時にバブル経済がはじけ、私は、大損をするハメに!

 そういううらみがある。そのうらみは、大きい。

 その絵画の価値は、その人自身の感性が決めること。しかし一度、毒気にさらされた心とい
うのは、そうは簡単に、もどらない。私は今でも、ふと油断をすると、絵画の価値を、値段を見
て決めてしまう。さらに反対に、内心では、「すばらしい」と思っても、その値段が安かったりす
ると、その絵画から目をそらしてしまう。

 私は、こうして絵画に対する、鑑賞能力を失ってしまった。

●損をすることの重要さ 

 お金がなければ、人は、不幸になる。貧困になると、心がゆがむこともある。しかしお金で
は、決して、幸福は買えない。豊かな心は、買えない。

 それにいくらがんばっても、人生には、限りがある。限界がある。終着点がある。

 そういう限界状況の中で、私たちが、いかに幸福に、かつ心豊かに生きるかということは、そ
れ自体が、人生、最大の命題といってもよい。

 そのお金だが、お金というのは、損をして、はじめて、お金のもつ無価値性がわかる。もちろ
ん損をした直後というのは、それなりに腹立たしい気分になる。しかし損に損を重ねていくと、
やがて、お金では、幸福は買えないということを、実感として理解できるようになる。ときに、そ
の人の心を豊かにする。よい例が、ボランティア活動である。

 損か得かという判断をするなら、あのボランティア活動ほど、損なものはない。しかしそのボラ
ンティア活動をつづけることで、自分の心の中に豊かさが生まれる。

 反対に、損をしない人たちを見ればよい。いつも金銭的価値に左右され、「お金……」「お金
……」と生きている人たちである。

 そういう人たちは、どこかギスギスしている。どこか浅い。どこかつまらない。

●お金に毒された社会

 話をもとに戻すが、では(豊かさ)と何かというと、それが今、わかりにくくなってしまっている。
とくに戦後の高度成長期に入って、それがさらにわかりにくくなってしまった。

 その第一の原因は、言うまでもなく、(お金)にある。つまり人間は、とくに日本人は、ものにお
よばず、心の価値まで、金銭的尺度で判断するようになってしまった。そしてその幸福感も、相
対的なもので、「隣人より、よい生活をしているから幸福」「隣人より、小さな車に乗っているか
ら、貧乏」というような考え方を、日常的に、ごくふつうにするようになってしまった。

 それはちょうど、高価な絵画を見ながら、「これはすごい絵だ」と思うのに、似ている。反対
に、安い絵画を見ながら、「これはつまらない絵だ」と思うのに、似ている。人がもつ幸福感ま
で、金銭的な尺度で判断してしまう。

 そのひとつの現れが、あのテレビ番組である。もちろんそのテレビ番組に責任があるわけで
はない。が、それを支える人たち、イコール、視聴者がいるから、それは人気番組となる。

 が、相乗効果というのも否定できない。日本人がもつ貪欲さというものが、テレビ番組によっ
て、さらに相乗的に倍化するということも、ありえなことではない。つまりこうして日本人の心は、
ますます毒されていく。

司会者「では、ハウ・マッチ?」
電光板xxxxxxx
司会者「340万円!」と。

 ああいう番組を、何ら疑問ももたないまま、毎週、見つづけていたら、その人の心はどうなる
か? それをほんの少しでも想像してみればよい。つまり、それが私が、あのテレビ番組が嫌
いな理由でもある。

 今のように、この日本で、貨幣が流通するようになったのは、江戸時代の中期ごろと言われ
ている。が、それは実に素朴な貨幣経済社会だったと言える。戦後のことだが、そのときでさえ
も、田舎へ行くと、まだ、盆暮れ払いというのが、ごくふつうに行われていた。

 それが今のような、お金万能主義というか、絶対主義の日本になってしまった。そして何ら恥
じることなく、ああした番組が、堂々と、この日本で大手を振って歩くようになってしまった。意識
というのはそういうものかもしれないが、全体が毒され、自分が毒されると、自分がもっている
意識がどのようなものであるかさえわからなくなってしまう。そして本来、価値のないものを価値
あるものと思いこみ、価値のないものを、価値あるものと思いこむ。そして結局は、自分の感
性のみならず、限られた人生そのものを、無駄にする。

 だから、とてもおかしなことだが、本当におかしなことだが、この日本では、そしてこの世界で
は、損をすることによって、人は、人間は、心豊かな人間になることができる。

 損をする人は、幸いなるかな、である。
(はやし浩司 損の哲学 ボランティア精神)


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Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 金権教 金万能主義 カルト)




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