書庫7
はやし浩司
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●心のバランス感覚

駅構内のキオスクで、週刊誌とお茶を買って、レジに並んだときのこと。突然、横から二人の女
子高校生が割りこんできた。

 前の人との間に、ちょうど二人分くらいの空間をあけたのが、まずかった。

 それでそのとき私は、その女子高校生にこう言った。「ぼくのほうが、先ですが……」と。する
とその中の一人が、こう言った。「私たちのほうが、先だわよねえ」と。

 私「だって、私は、あなたたちが、私のうしろで、買い物をしているのを、見ていましたが……」
 女「どこを見てんのよ。私たち、ずっと前から、ここに並んでいたわよねエ〜」と。

 私は、そのまま引きさがった。そして改めて、その女子高校生のうしろに並んだ。

 で、そのあと、私がレジでお金を払って、駅の構内を見ると、先ほどの二人の高校生が、10
メートルくらい先を、どこかプリプリした様子で、急ぎ足に歩いていくところだった。

 事件は、ここで終わった、が、私は、この一連の流れの中で、自分の中のおもしろい変化に
気づいた。

 まず、二人の女子高校生が、割りこんできたときのこと。私の中の二人の「私」が、意見を戦
わせた。

 「注意してやろう」という私と、「こんなこと程度で、カリカリするな。無視しろ」という私。この二
人の私が、対立した。

 つぎに、女子高校生が反論してきたとき、「別の女子高校生と見まちがえたのかもしれない。
だからあやまれ」とささやく私と、「いや、まちがいない。私のほうが先に並んだ」と怒っている
私、。この二人の私が、対立した。

 そして最後に、二人の女子高校生を見送ったとき、「ああいう気の強い女の子もいるんだな。
学校の先生もたいへんだな」と同情する私と、「ああいう女の子は、傲慢(ごうまん)な分だけ、
いろいろな面で損をするだろうな」と思う私。この二人の私が対立した。

 つまり、そのつど、私の中に二人の私がいて、それぞれが、反対の立場で、意見を言った。
そしてそのつど、私は、一方の「私」を選択しながら、そのときの心のあり方や、行動を決め
た。

 こういう現象は、私だけのものなのか。

 もっとも日本人というのは、もともと精神構造が、二重になっている。よく知られた例としては、
本音と建て前がある。心の奥底にある部分と、外面上の体裁を、そのつど、うまく使い分ける。

 私もその日本人だから、本音と建て前を、いつもうまく使い分けながら生きている。こうした精
神構造は、外国の人には、ない。もし外国で、本音と建て前を使い分けたら、それだけで二重
人格を疑われるかもしれない。

 そこで改めて、そのときの私の心理状態を考えてみる。

 私の中で、たしかに二人の「私」が対立した。しかしそれは心のバランス感覚のようなものだ
った。運動神経の、行動命令と、抑制命令の働きに似ている。「怒れ」という私と、「無視しろ」と
いう私。考えようによっては、そういう二人の私が、そのつどバランスをとっていたことになる。

 もし一方だけの私になってしまっていたら、激怒して、その女子高校生を怒鳴りつけていたか
もしれない。反対に、何ら考えることなく、平静に、その場をやりすごしていたかもしれない。

 もちろんそんなくだらないことで、喧嘩しても、始まらない。しかし心のどこかには、正義感も
あって、それが顔を出した。それに相手は、高校生という子どもである。私の職業がら、無視で
きる相手でもなかった。それでどうしても、黙って無視することもできなかった。

 こうした状態を、「迷い」という。そしてその状態はというと、二人の自分が、たがいに対立して
いる状態をいう。だからこうした現象は、私だけの、私特有のものではないと思う。

もともと脳も、神経細胞でできている。運動に、交感神経(行動命令)※と副交感神経(抑制命
令)があるように、精神の活動にも、それに似た働きがあっても、おかしくない。

 そして人間は、その二つの命令の中で、バランスをとりながら、そのつどそのときの心の状態
を決めていく。そのとき、その二つの命令を、やや上の視点から、客観的に判断する感覚を、
私は、「心のバランス感覚」と呼んでいる。つまりそのバランス感覚のすぐれた人を、常識豊か
な人といい、そうでない人を、そうでないという。

 キオスクから離れて、プラットフォームに立ったとき、私はそんなことを考えていた。
(040224)(はやし浩司 心のバランス感覚 心のバランス)

※交感神経……心臓の働きを促進し、胃腸の運動や胃液分泌を抑制し、血管の促進、汗の
分泌の促進などの機能を営む、自律神経。(日本語大辞典)



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●善玉家族意識、悪玉家族意識

 家族意識にも、善玉と、悪玉がある。(善玉親意識と、悪玉親意識については、前に書い
た。)

 家族のメンバーそれぞれに対して、人間として尊重しようとする意識を、善玉家族意識とい
う。

 反対に、「○○家」と、「家(け)」をつけて自分の家をことさら誇ってみたり、「代々……」とか
何とか言って、その「形」にこだわるのを、悪玉家族意識という。

 これは極端な例だが、こんなケースを考えてみよう。

 その家には、代々とつづく家業があったとする。父親の代で、十代目になったとする。が、大
きな問題が起きた。一人息子のX君が、「家業をつぎたくない。ぼくは別の道を行く」と言い出し
たのである。

 このとき、親、なかんずく父親は、「家」と、「息子の意思」のどちらを、尊重するだろうか。父
親は、大きな選択を迫られることになる。

 つまりこのとき、X君の意思を尊重し、X君の夢や希望をかなえてやろう……そういう意味で、
家族の心を大切にするのが、善玉家族意識ということになる。

 一方、「家業」を重要視し、「家を守るのは、お前の役目だ」と、X君に迫るのを、悪玉家族意
識という。

 それぞれの家庭には、それぞれの事情があって、必ずしもどちらが正しいとか、まちがってい
るとかは言えない。しかし家族意識にも、二種類あるということ。とくに私たち日本人は、江戸
時代の昔から、「家」については、特別な関心と、イデオロギー(特定の考え方の型)をもってい
る。

 中には、個人よりも、「家」を大切にする人もいる。……というより、少なくない。それは多分に
宗教的なもので、その人自身の心のよりどころになっている。だからそのタイプの人に、「家制
度」を否定するような発言をすると、猛烈に反発する。

 しかしものごとは、常識で考えてみたらよい。「家」によって、その人の身分が決まった江戸時
代なら、いざ知らず。今は、もうそんなバカげた時代ではない。またそういう時代であってはい
けない。そういう過去の愚劣な風習をひきずること自体、まちがっている。

 ……という私も、学生時代までは、かなり古風な考え方をしていた。その私が、ショックを受け
た経験に、こんなことがある。

 オーストラリアでの留学生活を終えて、日本に帰ってきてからしばらくのこと。メルボルンの校
外に住んでいたR君から、こんな手紙をもらった。彼は少し収入がふえると、つぎつぎと、新し
い家に移り住み、そのつど、住所を変えていた。「今度の住所は、ここだ。これが三番目の家
だ」と。

 それからも彼はたびたび家をかえたが、そのときですら、「R君は、まるでヤドカニみたいだ」
と、私は思った。

 そのことを知ったとき、それまでの私の感覚にはないことであっただけに、私は、ショックを受
けた。「オーストラリア人にとって、家というのは、そういうものなのか」と。

 ……と書いても、今の若い人たちには、どうして私がショックを受けたか、理解できないだろう
と思う。当時の、私の周辺に住んでいる人の中には、私の祖父母、父母含めてだが、だいたい
において、収入に応じて家をかえるという発想をする人は、いなかった。私のばあいも、そうい
うことを考えたことすら、なかった。

 しかもR君のばあいは、より環境のよいところを求めて、そうしていた。15年ほど前、最後に
遊びに行ったときは、居間から海が一望できる、小高い丘の上の家に住んでいた。つまり彼ら
にしてみれば、「家」は、ただの「箱」にすぎない。

 そう、「家」など、ただの「箱」なのである。ケーキや、お菓子の入っている箱と、どこもちがわ
ない。ちがうと思うのは、ただの観念。子どもが手にする、ゲームの世界の観念と同じ。どこも
ちがわない。

 さらに日本人のばあい、自分の依存性をごまかすために、「家」を利用することもある。田舎
のほうへ行くと、いまだに、「本屋」「新屋」「本家」「分家」という言葉も聞かれる。私が最初に
「?」と思った事件に、こんなのがある。

 幼稚園で教え始めたころのこと。一人の母親が私のところへきて、こう言った。

 「うちは本家(ほんや)なんです。息子には、それなりの学校に入ってもらわないと、親戚の人
たちに顔向けができないのです」と。

 私はまだ20代の前半。そのときですら私は、こう言った記憶がある。「そんなこと気にしては
だめです。お子さん中心に考えなくては……」と。

 このように今でも、封建時代の亡霊は、さまざまな形に姿を変えて、私たちの生活の中に入
りこんでいる。ここでいう悪玉家族意識もその一つだが、とくに冠婚葬祭の世界には、色濃く、
残っている。前にも書いたが、たとえば結婚式についても、個人の結婚というよりは、家どうし
の結婚という色彩が強い。

 それはそれとして、子どもの発達段階を調べていくと、子どもはある時期から、親離れを始め
る。そして「家庭」というワクから飛び出し、自立の道を歩むようになる。それを発達心理学の
世界では、「個人化」※という。

 それにたとえて言うと、日本人は、全体として、まだその個人化のできない、未熟な民族とい
うことになる。その一つの証拠が、ここでいう悪玉家族意識ということになる。

※個人化……子どもがその成長過程において、家族全体をまとめる「家族自我群」から抜け
出て、ひとり立ちしようとする。そのプロセスを、「個人化」という(心理学者、ボーエン)。
(040225)(はやし浩司 個人化 悪玉家族意識 善玉家族意識 冠婚葬祭)

【追記】

 この年齢になると、それぞれの人の生きザマが、さらに鮮明になる。たとえば私には、60人
近い、いとこがいるが、そういういとこだけをくらべても、「家」や「親戚づきあい」にこだわる人も
いれば、まったくそうでない人もいる。

 で、問題は、こだわる人たちである。

 こだわるのは、その人の勝手だが、そういう自分の価値観を、何ら疑うことなく、一方的に、
そうでない人たちにまで、押しつけてくる。問答無用のばあいも、多い。「当然、君は、そうすべ
きだ」というような言い方をする。

 一方、それに防戦する人たちは、(私も含めてだが)、それにかわる心の武器をもっていな
い。だからそういうふうに非難されながら、「自分の考え方はおかしいのかな」と、自らを否定し
てしまう。

 それはたとえて言うなら、何ら武器をもたないで、強力な武器をもった敵と戦うようなものであ
る。彼らは、「伝統」「風習」という武器をもっている。

 これも子どもの世界にたとえてみると、よくわかる。

 子どもは、その年齢になると、身体的に成長すると同時に、精神的にも成長する。身体的成
長を、「外面化」というのに対して、精神的成長を、「内面化」という。

 日本人は、子どもを「家族」(=悪玉家族意識)というワクでしばることにより、この内面化を
はばんでしまうことが多い。あるいは中には、内面化すること自体を許さない親もいる。親に少
し反発しただけで、「親に向かって、何だ、その口のきき方は!」と。

 このとき、子どもの側に、それだけの思想的武器があればよいが、その点、親には太刀打ち
できない。親には、経験も、知識もある。しかし子どもには、ない。

 そこで子どもは、自らに、ダメ人間のレッテルを張ってしまう。そしてそれが、内面化を、さら
にはばんでしまう。

 これと同じように、家や親戚づきあいにこだわる人によって否定された、武器持たぬか弱き
人たちは、この日本では、小さくならざるをえなくなる。

 「家は大切にすべきものだ」「親戚づきあいは、大切にすべきものだ」と、容赦なく、迫ってく
る。(本当は、そう迫ってくる人にしても、自分でそう考えて、そうしているのではない。たいてい
の人は、過去の伝統や風習を繰りかえしているだけ。つまりノーブレイン(脳なし)。)

 そこでそう迫られた人たちは、自らにダメ人間のレッテルを張ってしまう。

 しかし、もう心配は、無用。

 今、私のように、過去の封建時代を清算しようと、立ちあがる人たちが、ふえている。いろい
ろな統計的な数字を見ても、もうこの流れを変えることはできない。その結果が、ここに書い
た、「鮮明なちがい」ということになる。



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●結婚

 してはいけない結婚に、つぎのような結婚がある。たまたま今朝、ワイフと、そんな話が出た
ので、自分なりにまとめてみた。

(1)妊娠結婚(できちゃった婚)……妊娠したから結婚する。
(2)犠牲結婚……「私一人ががまんすれば……」と言って結婚する。
(3)同情結婚……「あの人は、一人では生きていかれないから」と、同情して結婚する。
(4)衝動結婚……「結婚でもしてみるか」と、いわば思いつきで結婚する。
(5)見栄結婚……派手な結婚式などをして、自分の力を誇示するために結婚する。
(6)代用結婚……好きな人を忘れるために結婚する。
(7)妥協結婚……「年齢も年齢だから……」と言って、結婚する。
(8)復讐結婚……好きだった男(女)に、復讐するために結婚する。
(9)穴埋め結婚……自分の心のすき間(孤独)をうめるために、結婚する。
(10)家督結婚……世継ぎ、跡取りを求めて結婚する。
(11)政略結婚……別の意図、目的があって、結婚する。
(12)マザコン結婚……母親の世話をするための家政婦として、妻を利用する。

 こうした結婚を、一組の男女がするのは、その男女の勝手。うまくいかなければ、離婚すれ
ばよい。何も「結婚」とか、「離婚」とかいうワクに、とらわれることはない。

 しかし問題は、その結果、子どもが生まれたばあい。こうした無責任な結婚姿勢は、そのまま
子育てに反映される。そしてその影響は、確実に、子どもに現れる。

 『子はかすがい』とは言うが、子どもがいてもいなくても、離婚する人は離婚する。しかし誤解
してはいけないのは、離婚が、悪いのではない。離婚にいたる、家庭騒動が悪い。その騒動が
子どもの心に、深刻な影響を与える。

 そんなわけで、離婚するにしても、「明るく、さわやかに」!

 結婚相手というのは、最初の印象で、決まるのではないか? その相手に、電撃的な衝撃を
感ずる。その衝撃が、やがて結婚という形に発展する。映画『タイタニック』の中の、ジャックと
ローズが、そうだった。

 あとはその衝撃を信じて、結婚すればよい……と書くのは、危険なことだが、結婚というの
は、そういうもの。深く考えずに結婚するのも、また考えすぎて結婚するのも、よくない。

 もっとも、ここにあげたような結婚をしたからといって、不幸になるというわけではない。多か
れ少なかれ、ほとんどの人は、ここに書いたような結婚のうちの、どれかをしている。ジャックと
ローズが感じたような衝撃を覚えて、結婚する人は、マレ?

 そういう意味では、結婚は、ゴールではなく、スタートにすぎない。いろいろな賢人が、結婚に
ついて書き残している。

 あのソクラテスは、かなり不幸な結婚をしたらしい。『結婚すべきか、いなか。どちらにせよ、
汝は、後悔することになろう』(卓談)と。ほかにも無数にある。『悪妻をもたば、汝、哲学者とな
らん』とも、どこかに、書いている。(自分は、哲学者なのに!)

●『よい結婚というものが、きわめて少ないことは、それがいかに貴重で、偉大なものであるか
という証拠である』(モテーニュ「随想録」)

●『男は退屈から結婚する。女は、物好きから結婚する。そしてともに失望する』(ワイルド「何
でもない女」)

●『三週間、たがいに研究しあい、三か月間愛しあい、三か年間喧嘩をし、三十年間がまんし
あう。そして子どもたちがまた、同じことをし始める』(テーヌ「トマ・グランドルジェの生活と意
見」)(以上、明治書院「世界名言辞典」より)

 全体としてみると、否定的な意見のほうが多いのでは……。もともと結婚というのは、そういう
ものかもしれない。つまり、幻想をいだかないこと。

 結婚する前は、たがいにしっかりと見つめあう。しかし結婚したら、たがいに遠くの前だけを
見て、友として、いっしょに歩く。

 ……これが、夫婦を、長くつづけるためのコツではないか。

私たち夫婦も、喧嘩をするたびに、「離婚してやる」「別れましょう」と言いあっている。あまり偉
そうなことは言えない。まあ、たがいに過大な期待はしないこと。「10年後も、20年後も、今の
まま」と、そんなふうに、割り切って生きるのがよいのでは……。
(040228)(はやし浩司 結婚 離婚 結婚観)

【追記】

 私たち夫婦も、周期的に夫婦喧嘩をしている。このところ周期はやや長くなったが、(倦怠
期)→(不平不満期)→(忍従期)→(爆発期=夫婦喧嘩)→(冷却期)→(円満期)→(倦怠期)
というサイクルを繰りかえしている。

 おもしろいのは、そうしたサイクルが、ちゃんとあること。そしてそのときどきにおいて、「今
は、倦怠期だな」「今は、円満期だな」とわかること。

 そういう意味では、夫婦喧嘩というのは、いわば退屈しのぎのようなもの。夫婦も喧嘩をしなく
なったら、おしまい。もともと結婚というのは、そういうもの?

●『幸福な結婚というのは、婚約のときから死ぬときまで、決して退屈しない、永い会話のよう
なもの』(モロア「幸福な結婚」)と。


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●ハキのない子ども

【読者の方より……】

 今週も、たくさんの方より、メールをいただきました。ありがとうございました。その中から、一
つを選んで、ここでテーマとして考えてみたいと思います。

++++++++++++++++++++

●ハキのない子ども

 「ハキのない子どもです。どうしたらいいですか」(埼玉県Yさん)という相談があった。

 しかしハキのあるなしは、教育でどうこうなる問題ではない。また家庭のしつけで、どうこうな
る問題でもない。

 むしろ学校も、家庭も、何もしないほうが、よい。そのほうが、子どもは、ハキのある子どもに
なる。へたにあれこれするから、子どもは、自信をなくし、ハキのない子どもになる。とくに注意
したのが、母子関係。

 母子関係は、心身の発育のためには、きわめて重要な役割を担(にな)う。それは事実だ
が、ある時期を過ぎると、その母子関係が、かえって子どもにとっては、弊害となることがあ
る。そのため母親が、子どもの自立を、はばんでしまう。

 ハキがない原因の多くは、親の過干渉、過保護、過関心と考えてよい。過剰期待や過負担
が、子どもの自我をつぶしてしまうこともある。

そしてここがこわいところだが、一度つぶれた自我は、簡単には、もとにもどらない。少年少女
期(学童期)につぶれたりすると、その子どもは、ほぼ一生、ナヨナヨした子どものままになる。

 発達心理学の世界では、「動機づけ」「自我の同一性」「強化の原理」などという言葉を使っ
て、子どものやる気を説く。で、そのやる気のカギをにぎるのが、「私は私」という自我である。

自我の強い子どもは、ハキがあるということになる。自我が弱い子どもは、そうでないということ
になる。では、どうするか?

わかりやすく言えば、(あるがままの子どもを認め、子ども自身がもつ、力を引き出す)というこ
と。人間には、もともとそういう力が宿っている。

 しかし実際には、ここにも書いたように、一度自我はつぶれると、その回復は容易ではない。
それこそ一年単位の根気が必要である。「去年とくらべてどうだ?」「おととしとくらべてどう
だ?」というような見方をする。

 あせったところで、どうにもならない。またこうした問題が起きると、親は、「子どもをなおそう」
と考える。しかしなおすべきは、親自身である。この視点をもたないと、それこそそのナヨナヨと
した状態は、一生の間、つづくことになる。ご用心!

+++++++++++++++++++++++++

【参考】

子どもの自我がつぶれるとき

●フロイトの自我論 

フロイトの自我論は有名だ。それを子どもに当てはめてみると……。
 
自我が強い子どもは、生活態度が攻撃的(「やる」「やりたい」という言葉をよく口にする)、もの
の考え方が現実的(頼れるのは自分だけという考え方をする)、創造的(将来に向かって展望
をもつ。目的意識がはっきりしている。目標がある)、自制心が強く、善悪の判断に従って行動
できる。

 反対に自我の弱い子どもは、ものごとに対して防衛的(「いやだ」「つまらない」という言葉をよ
く口にする)、考え方が非現実的(空想にふけったり、神秘的な力にあこがれたり、まじないや
占いにこる)、一時的な快楽を求める傾向が強く、ルールが守れない、衝動的な行動が多くな
る。たとえばほしいものがあると、それにブレーキをかけることができない、など。

 一般論として、自我が強い子どもは、たくましい。「この子はこういう子どもだ」という、つかみ
どころが、はっきりとしている。生活力も旺盛で、何かにつけ、前向きに伸びていく。反対に自
我の弱い子どもは、優柔不断。どこかぐずぐずした感じになる。何を考えているかわからない
子どもといった感じになる。

●自我は引き出す

その自我は、伸ばす、伸ばさないという視点からではなく、引き出す、つぶすという視点から考
える。つまりどんな子どもでも、自我は平等に備わっているとみる。子どもというのは、あるべき
環境の中で、あるがままに育てれば、その自我は強くなる。

反対に、威圧的な過干渉(親の価値観を押しつける。親があらかじめ想定した設計図に子ども
を当てはめようとする)、過関心(子どもの側からみて息の抜けない環境)、さらには恐怖(暴力
や虐待)が日常化すると、子どもの自我はつぶれる。

そしてここが重要だが自我は一度つぶれると、以後、修復するのがたいへん難しい。たとえば
幼児期に一度ナヨナヨしてしまうと、その影響は一生続く。とくに乳幼児から満四〜五歳にかけ
ての時期が重要である。

●要は子どもを信ずる

 人間は、ほかの動物と同様、数一〇万年という長い年月を、こうして生きのびてきた。その過
程の中でも、難しい理論が先にあって、親は子どもを育ててきたわけではない。

こうした本質は、この百年くらいで変わっていない。子育ても変わっていない。変わったと思うほ
うがおかしい。要は子ども自身がもつ「力」を信じて、それをいかにして引き出していくかという
こと。子育ての原点はここにある。

++++++++++++++++++++
 
●マイナスのストローク(弱化の原理)

 記録には、こうある。

 「A君。年中児。何を指示しても、『いや』『できない』と逃げてしまう。今日も、絵を描かせよう
としたが、もぞもぞと、何やらわけのわからない模様のようなものを描くだけ。積み木遊びをし
たが、A君だけ、作ろうともしない。一事が万事。先日は、歌を歌わせようとしたが、『歌いたくな
い』と言って、やはり歌わなかった」(19XX年9月)と。

 このA君が印象に残っているのは、母親の視線が、ふつうではなかったこと。母親は、一見お
だやかな表情をしていたが、視線だけは、まるで心を射抜くように強かった。ときにビリビリとそ
れを感じて、授業がやりにくかったこともある。

 こうしたケースで困るのは、まず母親にその自覚がないということ。「その自覚」というのは、A
君をそういう子どもにしたのは、母親自身であるという自覚のこと。つぎに、私はそれを母親に
説明しなければならないのだが、どこからどう説明してよいのか、その糸口すらわからないとい
うこと。A君のケースでも、私と母親の間に、私は、あまりにも大きな距離を覚えた。

 が、母親は、こちらのそういう気持など、まったくわからない。「どうしてうちの子は……?」と
相談しつつ、私の説明をロクに聞こうともせず、返す刀で、子どもを叱る。「もっと、しっかりしな
さい!」「あんな問題、どうしてできないの!」「お母さん、恥ずかしいわ!」と。

 あのユング(精神科医)は、人間の自覚について、それを、意識と、無意識に区別した。そし
てその無意識を、さらに個人的無意識と、集合的無意識に区別した。個人的無意識というの
は、その個人の個人的な体験が、無意識下に入ったものをいう。フロイトが無意識と言ったの
は、この個人的無意識のことをいう。

 集合的無意識というのは、人間が、その原点としてもっている無意識のことをいう。それにつ
いて論ずるは、ここでの目的ではないので、ここでは省略する。問題は、先の、個人的無意識
である。

 この個人的無意識は、ここにも書いたように、その個人の個人的な体験が、無意識の世界
に蓄積されてできる。思い出そうとすれば、思い出せる記憶、あるいは意図的に封印された記
憶なども、それに含まれる。問題は、人間の行動の大半は、意識として意識される意思による
ものではなく、無意識からの命令によって左右されるということ。わかりやすく言えば、この個人
的無意識が、その個人を、裏から操る。これがこわい。

 A君(年中児)の例で考えてみよう。

 A君の母親は、強い学歴意識をもっていた。「幼児期から、しっかり教育すれば、子どもは、
東大だって入れるはず」という、迷信とも言えるべき信念さえもっていた。そのため、いつも「子
どもはこうあるべき」「子育てはこうあるべき」という、設計図をもっていた。ある程度の設計図
をもつことは、親として、しかたのないことかもしれない。しかしそれを子どもに、押しつけては
いけない。無理をすればするほど、その弊害は、そのまま子どもに現れる。

 一方、子どもの立場でみると、そうした母親の姿勢は、子どもの自我の発達を、阻害する。自
我というのは、「私は私という輪郭(りんかく)」のこと。一般論として、乳幼児期に、自我の発達
が阻害されると、どこかナヨナヨとした、ハキのない子どもになる。何をしても自信がもてず、逃
げ腰になる。失敗を恐れ、いつも一歩、その手前で止めてしまう。ここでいうA君が、まさに、そ
ういう子どもだった。

 これについて、B・F・スキナーという学者は、「オペラント(自発的行動)」という言葉を使って、
つぎのような説明している。

 「条件づけには、@強化(きょうか)の原理と、A弱化(じゃくか)の原理がある」と。

 強化の原理というのは、ある行動を人がしたとき、その行動に、プラスのストローク(働きか
け)が加わると、その人は、その行動を、さらに力強く繰りかえすようになるという原理をいう。

 たとえば子どもが歌を歌ったとする。そのとき、まわりの人が、それを「じょうずだ」と言ってほ
めたり、自慢したりすると、それがプラスのストロークとなって、子どもはますます歌を歌いたが
るようになる。

 これに対して弱化の原理というのは、ある行動を人がしたとき、その行動にマイナスのストロ
ークがかかると、その人は、その行動を繰りかえすのをやめてしまうようになるという原理をい
う。あるいは繰りかえすのをためらうようになる。

 たとえば子どもが歌を歌ったとする。そのとき、まわりの人が、「こう歌いなさい」と言って、け
なしたり、笑ったりすると、それがマイナスのストロークになって、子どもは歌を歌わなくなってし
まう。

 A君のケースでは、母親の神経質な態度が、あらゆる面で、マイナスのストロークとなって作
用していた。そしてこうしたマイナスのストロークが、ここでいう個人的無意識の世界に蓄積さ
れ、その無意識が、A君を裏から操っていた。親の愛情だけは、それなりにたっぷりと受けてい
るから、見た目には、おだやかな子どもだったが、A君が何かにつけて、逃げ腰になってしまっ
たのは、そのためと考えられる。

 が、ここで最初の、問題にもどる。そのときのA君がA君のようであったのは、明らかに母親
が原因だった。それはわかる。が、私の立場で、どの程度まで、その責任を負わねばならない
のかということ。与えられた時間と、委託された範囲の中で、精一杯の努力をすることは当然と
しても、しかしこうした問題では、母親の協力が不可欠である。その前に、母親の理解がなけ
れば、どうしようもない。

 そこで私はある日、意を決して、母親にこう話しかけた。

私「ご家庭では、もう少し、手綱(たすな)を、緩(ゆる)めたほうがいいですよ」
母「ゆるめるって……?」
私「簡単に言えば、もっとA君を前向きにほめるということです」
母「ちゃんと、ほめています」
私「そこなんですね。お母さんは、その一方で、A君に、ああしなさいとか、こうしなさいとか言っ
ていませんか?」
母「言っていません。やりたいようにさせています」
私「はあ、そうですか……」と。

 実際のところ、問題意識のない母親に、問題を提起しても、ほとんど意味がない。たいてい
は、「うちでは、ふつうです」「幼稚園では、問題ありません」などと言って、私の言葉を払いのけ
てしまう。さらに、何度かそういうことを言われたことがあるが、こう言う母親さえいる。「あんた
は、黙って、うちの子の勉強だけをみてくれればいいです」と。つまり「余計なことは言うな」と。
 
 ……と、書いて、私も気づいた。私にも、弱化の原理が働いている、と。問題のある子どもの
母親を前にすると、「母親に伝えなければ」という意思はあるのだが、別の心がそれにブレーキ
をかけてしまう。この仕事というのは、報われることより、裏切られることのほうが、はるかに多
い。いやな思い出も多い。さんざん、不愉快な思いもした。そうした記憶が、私を裏から操って
いる? 「質問があるまで、黙っていろ」「あえて問題を大きくすることもない」「言われたことだ
けをしていればいい」「余計なことをするな」と。

 「なるほど……」と、自分で感心したところで、この話は、ここまで。要するに、子どもは、常に
プラスのストロークをかける。かけながら、つまりは強化の原理を利用して、伸ばす。とくに乳幼
児期はそうで、これは子育ての大原則ということになる。
(040228)(はやし浩司 強化の原理 弱化の原理 自我論 ハキのない子ども スキナー 
オペラント)



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●愛

===============
昨夜、ワイフと、ふとんの中で、
こんな会話をした。

「愛にも、いろいろあるね」と。

たとえば溺愛ママと呼ばれる人の中には、、
自分の息子が初恋でもしたりすると、
半狂乱になる人がいる。

溺愛は、愛ではない。自分勝手で、
わがままな愛……。それはわかるが、
では、溺愛ママは、なぜ子どもを溺愛するのか?

そこでもう一度、愛について、
考えなおしてみる。
================

 以前、自分の息子が結婚した夜、「悔しい」「悔しい」と泣き明かした母親がいた。あるいは嫁
いで出た娘に、ストーカー行為を繰りかえしていた母親がいた。その母親は、娘に、「お前をの
ろい殺してやる」と言っていた。

 そしてこんなこともあった。

 ある夏の日のことだった。一人の母親が、私のところに来て、こう言った。「息子が恋をしまし
た。何としてもやめさせてほしい。今は、高校受験をひかえた大切なときですから」と。

 相手の女性は、五、六歳年上の女性だという。本屋で店員をしていた。

 で、私が「恋の問題だけは、私でも、どうにもなりません」と言うと、その母親は、バッグの中
からその女性の写真を何枚か出し、こう泣き叫んだ。「こんな女ですよ!」「こんな女のどこが
いいのですか!」と。

 それはまさに嫉妬に狂う、女の姿だった!

+++++++++++++++++++

 「愛」にも三種類、ある。本能的な愛、代償的愛、それに真の愛である。

 さらに、心理学者のリーは、人間がもちうる恋愛感情を、つぎの六つに分けた。

(1)エロス……肉感的な愛。女性の乳房や、男性の男根に強い性欲を覚える。
(2)ストーゲイ……異性との友情的な愛。
(3)アガペ……絶対的な献身を誓う愛。命すらも捧げる愛。
(4)ルダス……遊びとしての愛。ゲーム感覚で、恋愛を楽しむ。
(5)マニア……愛がすべてになってしまう。はげしい嫉妬や恋慕をいだくことが多い。
(6)プラグマ……実利的な目的をもって、損得の計算をしながら、異性とつきあう愛。

 これは異性間の恋愛感情だが、親子の間の愛も、同じように分類することができる。

(1)エロス……息子や娘を、異性として意識する。肉欲的な感情を、自分の子どもに覚える。
(2)ストーゲイ……自分の子どもと、友情関係をもつ。子どもというより、対等の人間として、子
どもをみる。
(3)アガペ……子どものためなら、すべてを捧げる愛。命すらも惜しくないと感ずることが多
い。
(4)ルダス……子育てをしながら、毎日、子どもと人生を楽しむといったふう。いっしょに料理を
したり、ドライブに行ったりする。
(5)マニア……子どもを自分の支配下におき、自分から離れていくのを許さない。
(6)プラグマ……家計を助ける。あるいは老後のめんどうをみてくれる存在として、子どもを位
置づける。

 これは私が思いつくまま考えた愛なので、正しくないかもしれない。しかしこうして親が子ども
に感ずる愛を分類することによって、自分が子どもに対して、どんな愛をいだいているかを、知
ることができる。

 ふとんの中で、ワイフが、こう言った。

ワ「私は、息子たちに恋人ができたときでも、嫉妬しなかったわ」
私「あたりまえだ。しかしぼくたちに娘がいて、その娘に恋人ができたら、ぼくは、どうだっただ
ろうね」
ワ「あなたのことだから、嫉妬したと思うわ」
私「そうだな……」

ワ「愛があるから、嫉妬するの?」
私「いろいろな愛があるからね。親の世界にも、代償的愛というのがある。いわば愛もどきの
愛ということになる。自分の子どもを、自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいとい
う愛をいう。子どもの受験勉強に狂奔している親というのは、たいていこの種類の親と考えてい
い。代償的愛というのは、もともと身勝手なものだよ」

ワ「じゃあ、どういうのが、真の愛なのかしら?」
私「親子の愛というのは、実感しにくいものだよ。しかし子どもが、大きな病気になったり、事故
にあったときなどに、それがわかる」
ワ「ふつうのときは?」
私「要するに、どこまで子どもを許し、どこまで子どもを忘れるか。その度量の深さこそが、愛
の深さということになるよ」

ワ「じゃあ、私が、あなたに、『私にほかに好きな人ができました。離婚してください』と言った
ら、どうなるのかしら?」
私「『お前の幸福のためなら、ぼくは、引きさがるよ』というのが、真の愛ということになるのか
な。ぼくには、できないけど……」
ワ「そりゃあ、そうでしょう。そうすると、夫婦の愛と、親子の愛は、ちがうのかしら?」

私「ぼくの印象では、人間の脳は、それほど器用にできていないと思う。だから愛を使い分ける
ことはできないはず。同じと考えていいと思う」
ワ「じゃあ、夫婦の間でも、溺愛夫婦というのが、いるのかしら?」
私「いると思うよ。たがいにベタベタの夫婦がね」
ワ「でも、そういう夫婦は、真に愛しあっていることにはならないわね」

私「その可能性は、高い。たがいにたがいの心のすき間を埋めるために、愛しあっているだけ
かもしれない」
ワ「そういう夫婦のときは、どちらか一方が、不倫でもしたら、たいへんなことになるわね」
私「そうかもね……」と。

 実のところ、私は、本当にワイフを愛しているかどうかということになると、あまり自信がない。
だからときどき、ワイフにこう聞くときがある。

 「お前は、ぼくのために犠牲になっているだけではないのか?」「無理をするなよ」と。するとワ
イフは、いつもこう答える。「私は、家族のみんなが、それぞれ幸せなら、それでいいの」と。

 いつかそういうワイフを見て、二男が、こう言った。「ママの生き方はすばらしい」と。しかし私
には、そういう犠牲心というのは、あまりない。リーの分類法によれば、私がもっている愛は、
マニア(嫉妬しやすい愛)と、プラグマ(実利的な愛)を合わせたようなものかもしれない。

 日本的に言えば、独占欲の強い、自分勝手な愛ということになる。

 そこで育児論。

 本能的な愛については、さておき、ほとんどの親は、代償的愛をもって、真の愛と誤解してい
る。つまりは、薄っぺらい愛なのだが、問題は、いつ、その「薄っぺらさ」に、気がつくかというこ
と。

 自分の息子が結婚した夜、「悔しい」「悔しい」と泣き明かした母親。あるいは嫁いで出た娘
に、ストーカー行為を繰りかえしていた母親。

 こうした母親は、そういう意味では、実に薄っぺらい。しかしこうした母親にかぎって、「私は息
子を愛している」「娘を愛している」と公言して、はばからない。

 あのマザーテレサは、こう書いている。

●We can do no great things; only small things with great love.
(偉大なことなど、できませんよ。ただ偉大な愛をもって、小さなことができるだけ。)
 
●I have found the paradox, that if you love until it hurts, there can be no more hurt, only 
more love. 
(それがあなたをキズつけるまで、人を愛するとね、もう痛みはなくなるものよ。ただより深い愛
が残るだけ。皮肉なパラドックスね。)

 恋人であるにせよ、夫婦であるにせよ、そして親子であるにせよ、真の愛というのは、そうい
うものかもしれない。

 子どもの受験勉強で、カリカリしているお父さん、お母さん。少しだけ立ち止まって、今、本当
にあなたは、自分の息子や娘を、愛しているのか、それを考えてみてほしい。

 ひょっとしたら、あなたはただ、自分が感じている不安や心配を、息子や娘にぶつけているだ
けかもしれない。しかしそれは、もちろん、ここでいう真の愛ではない。

 ……ということで、「愛」についての話は、ここまで。問題は、あとは、それをどう実行していく
かということ。それがむずかしい。ホント!

+++++++++++++++++

●子どもを愛するために……

あなたの疲れた心をいやすために、
もう、あきらめなさい。あきらめて、
あるがままを、受け入れなさい。

がんばっても、ムダ。無理をしても、ムダ。
あなたがあなたであるように、
あなたの子どもは、あなたの子ども。

あとは、ただひたすら、許して、忘れる。
あなたの子どもに、どんなに問題があっても、
どんなにできが悪くても、ただ許して、忘れる。

問題のない子どもは、絶対にいない。
その子は、どの子も、問題がないように見える。
しかしそう見えるだけ。みんな問題をかかえている。

あとは、あなたの覚悟だけ。
あなたも、一つや二つ、三つや四つ、
十字架を背負えばよい。

「ようし、さあ、こい!」と。そう宣言したとたん、
あなたの心は軽くなる。子どもの心も軽くなる。
そのとき、みんなの顔に微笑みがもどる。

あなたはすばらしいい親だ。
それを信じて、あとは、あきらめる。
それともほかに、あなたには、
まだ何かすることがあるとでもいうのか?
(040229)(はやし浩司 愛 真の愛 リー エロス アガペ)


【子どもを愛せない親たち】

 その一方で、子どもを愛せない親がいる。全体の10%前後が、そうであるとみてよい。

 なぜ、子どもを愛することができないか。大きくわけけて、その理由は、二つある。

 一つは、自分自身の乳幼児期に原因があるケース。もう一つは、妊娠、出産に際して、大き
なわだかまり(固着)をもったケース。しかし後者のケースも、つきつめれば、前者のケースに
集約される。

 乳児には、「あと追い、人見知り」と言われるよく知られた現象がある。生後5〜7か月くらい
から始まって、満1歳半くらいまでの間、それがつづく。

 ボウルビーという学者は、こうした現象が起きれば、母子関係は、健全であると判断してよい
と書いている。言いかえると、「あと追い、人見知り」がないというのは、乳児のばあい、好まし
いことではない。

 子どもは、絶対的な安心感の中で、心をはぐくむ。その安心感を与えるのは、母親の役目だ
が、この安心感があってはじめて、子どもは、他者との信頼関係(安全感)を、結ぶことができ
るようになる。

 「あと追い、人見知り」は、その安心感を確実なものにするための、子どもが親に働きかけ
る、無意識下の行動と考えることができる。

 で、この母子との間にできた基本的信頼関係が、やがて応用される形で、先生との関係、友
人との関係へと、広がっていく。

 そしてそれが恋愛中には、異性との関係、さらには配偶者や、生まれてきた子どもとの関係
へと、応用されていく。そういう意味で、「基本的(=土台)」という言葉を使う。

 子どもを愛せない親は、その基本的信頼関係に問題があるとみる。その信頼関係がしっかり
していれば、仮に妊娠、出産に際して、大きなわだかまりがあっても、それを乗りこえることが
できる。そういう意味で、ここで、私は「しかし後者のケースも、つきつめれば、前者のケースに
集約される」と書いた。

 では、どうするか?

 子どもを愛せないなら、愛せないでよいと、居なおること。自分を責めてはいけない。ただ、一
度は、自分の生い立ちの状況を、冷静にみてみる必要はある。そういう状況がわかれば、あな
たは、あなた自身を許すことができるはず。

 問題は、そうした問題があることではなく、そうした問題があることに気づかないまま、その問
題に引き回されること。同じ失敗を繰りかえすこと。

 しかしあなた自身の過去に問題があることがわかれば、あなたは自分の心をコントロールす
ることができるようになる。そしてあとは、時間を待つ。

 この問題は、あとは時間が解決してくれる。5年とか、10年とか、そういう時間はかかるが、
必ず、解決してくれる。あせる必要はないし、あせってみたところで、どうにもならない。

【この時期の乳児への対処のし方】

 母子関係をしっかりしたものにするために、つぎのことに心がけたらよい。

(1)決して怒鳴ったり、暴力を振るったりしてはいけない。恐怖心や、畏怖心を子どもに与えて
はならない。
(2)つねに「ほどよい親」であることに、心がけること。やりすぎず、しかし子どもがそれを求め
てきたときには、ていねいに、かつこまめに応じてあげること。『求めてきたときが、与えどき』と
覚えておくとよい。
(3)いつも子どもの心を知るようにする。泣いたり、叫んだりするときも、その理由をさぐる。
『子どもの行動には、すべて理由がある』と心得ること。親の判断だけで、「わがまま」とか、決
めてかかってはいけない。叱ってはいけない。

 とくに生後直後から、「あと追い、人見知り」が起きるまでは、慎重に子育てをすること。この
時期の育て方に失敗すると、子どもの情緒は、きわめて不安定になる。そして一度、この時期
に不安定になると、その後遺症は、ほぼ、一生、残る。




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●パーソナリティ

 フロイトは、その人のパーソナリティを決める要素として、つぎの三つのものをあげた。

 (自我)、(超自我)、それに(エス)。

 わかりやすく言うと、(合理的パーソナリティ)、(道徳的パーソナリティ)、(破滅的パーソナリ
ティ)ということになる。

 その人のパーソナリティは、これら三つのうち、どれが強くて、どれが弱いかで決まる。またそ
のときどきに、どのように変化するかで決まる。(……と、フロイトは、言う。)

 たとえば(合理的パーソナリティ=自我)の強い人は、ものごとを、合理的に判断して、そのつ
ど状況に応じて、的確に行動する。

 (道徳的パーソナリティ=超自我)の強い人は、道徳的観念、倫理的抑制感が強く、いつもそ
の道徳や倫理にのっとった行動をする。

 (破滅的パーソナリティ=エス)の強い人は、わがままで、エゴイスト。ものの考え方が幼稚
で、退行的。約束や目標が守れない。

 たとえば車で走っていたとき、信号にさしかかったとする。そのとき、黄信号になったとする。
車が道路を渡るころには、信号が赤になるタイミングである。そういうとき……。

 (自我)の強い人は、まず、左右の道路を見る。そして車がいないことを確かめて、「赤になっ
てもだいじょうぶだ」と判断して、そのまま道路をわたる。

 (超自我)の強い人は、黄信号になったとき、ブレーキを踏む。「ルールは守るべき」と、無意
識のうちにも、判断するからである。

 (エス)の強い人は、左右を見て、そこに車がいないときは、赤信号でも、道路をわたろうとす
る。

 こうした三つのパーソナリティのうち、どの部分が、ほかの部分よりも優勢であるかによって、
その人のパーソナリティが決まるという。

 で、私のばあいは、もともと、フロイトがいう(エス)が強い人間ではないかと思う。しかしそうい
う私を、(自我)や、(超自我)が、コントロールしているといったふう。ときどき、無理をする。

 たとえば自転車に乗っていて、信号が、赤になりかけていたとする。そのとき、左右に車がな
いと、思わず、そのままわたってしまおうかという衝動にかられる。

 本当の私は、そのまま道路をわたりたいはずなのに、そこで無理をする。「それをしたら、私
は、おしまい」と。つまり歯止めがなくなる。一度、崩れると、どこまでも崩れていく。そんな感じ
がして、その場に止まる。

 だから私は見た目には、フロイトがいう、(超自我の強い人)ということになる。しかし、本当の
私は……。そういう問題もある。

 こうした性格分類は、いろいろな学者がしている。ほかによく知られているのは、オルポート
の人格特性論、ギルフォードの性格検査などがある。
(はやし浩司 自我 超自我 エス)


●ギルフォードの性格検査

 そのギルフォードの性格検査で思い出した。ギルフォードは、その人の性格を、抑うつ症、回
帰性傾向、劣等性、神経質など、13の項目に分類している。

 その中には、ほかに、客観性の欠如、協調性の欠如、思考的外向性などもある。これら三つ
は、とくに私にあてはまるものである。

 (客観性の欠如)というのは、わかりやすく言えば、自己中心的な考え方をし、自分の価値観
だけで、他人を判断することをいう。

 たとえばだれかが私に親切にしてくれたとする。そのとき、私はすなおにそれを喜ぶ前に、そ
の理由や意図を考えてしまう。そして自分がそうであるからという理由だけで、相手もそうであ
ると判断してしまう。

 (協調性の欠如)というのは、要するに、他人を信じないことをいう。友人や、配偶者、さらに
は自分の子どもまでも信じない。

 これは深刻な問題である。やがてすぐ私も老人になり、介護が必要な人間になる。そうなった
とき、他人を信じられないというのは、致命的な欠陥になる可能性がある。私は、そういう老人
を、何人か知っている。「私はそうなりたくない」「ああは、ならない」と思っても、性格(パーソナ
リティ)というのは、そうは簡単には、変えられない。

 (思考的外向性)というのは、いつも何かのことで、外に向って考えていることをいう。

 私は、いつも何かを考えていないと落ちつかない。……というより、いつも何かを考えている。
それはそれでよいのだが、そのうち、頭が、パンパンにつまってくる。たとえて言うなら、頭の中
にゴミがたまるようなもの。それを吐きださないと、苦しくさえなる。

 そこでそれをこうして文章などにして、吐きだす。

 こういう性格に反対あるのが、(のんきさ)ということになる。この(のんきさ)も、ギルフォード
は、性格特性の一つにあげている。

 (のんきさ)の強い人は、あまり考えない。深く考えない。私に欠けるのは、この(のんきさ)か
もしれない。

 このギルフォードの性格検査法を、日本式に改良したのが、谷田部ギヅフォード人格検査法
である。

 参考までに、インターネットで、情報を検索してみた。
(はやし浩司 ギルフォード 性格検査 人格検査)

+++++++++++++++

YーG性格検査(矢田部・ギルフォード性格検査)

D(抑うつ性)
C(回帰性傾向)
I(劣等感)
N(神経質)
O(客観性欠如)、
CO(協調性欠如)
AG(愛想が悪い)
G(一般的活動性)
R(のんきさ)
T(思考的外交)
A(支配性)
S(社会的外交)

これら以上の12の尺度ごとに10の質問がされ、「はい」「わからない」「いいえ」の三者択一で
答える。結果として(1)平均型、(2)不安定積極型、(3)安定消極型、(4)安定積極型、(5)不
安定消極型の5つの性格類型を導きだす。(堀尾英範「私の保健学」より)



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●正直

 京都府にある、A農産F農場(養鶏場)で、鳥インフルエンザが発生した。同時に、大量のニ
ワトリが、死んだ。

 その農場では、そのときすでに数千羽のニワトリが、不審な死に方をしていたにもかかわら
ず、それをあえて無視して、ニワトリを出荷しつづけたという※。そのため、その二週間後に
は、鳥インフルエンザウィルスは、ほぼ西日本全域に広がってしまった(3月2日朝刊※)。

 当の責任者は、「まさか鳥インフルエンザだとは思わなかった」「静かに眠るように死んでいっ
たので、おかしいなとは思っていたが……」などと、テレビの報道記者に答えている。

 しかし同じころ、つまりその養鶏場で、ニワトリが不審な死に方をしていたころ、私の地元の
小学校でも、鳥インフルエンザの話は、子どもたちでさえ知っていた。学校で飼っていたニワト
リが死んだだけで、学校は、そのニワトリを、保険所へ届けていた。いわんや、養鶏場のプロ
が、そんなことを知らぬはずはない。「おかしいな?」ではすまされない話なのである。

 ……という話を、書くのがここでの目的ではない。

 人間の正直さは、どこまで期待できるかという問題である。朝食をとりながら、ワイフと、それ
について話しあった。

私「もしぼくだったら、正直に届け出ただろうか?」
ワ「いつ?」
私「最初にニワトリが死に始め、鳥インフルエンザにかかっているかもしれないと思ったときだ」
ワ「むずかしいところね」と。

 新聞の報道によれば、「通報の遅れが、被害を拡大させた」(Y新聞)ということらしい。そして
農水省の次官も、「(通報が遅れたのが)残念でならない」とコメントを出している。さらに京都
府の知事は、「被害について、県のほうで補償することになっているが、しかし(補償するのは)
考えざるをえない」と述べている。

 「不正直もはなはだしい」ということになるが、本当に、そうか?

 はっきり言えば、日本人は、子どものころから、そういう訓練を受けていない。アメリカの親な
どは、子どもに、「正直でありなさい(Be honest.)」と、日常的によく言う。しかしこの日本で
は、そうでない。むしろ「ずるいことをしてでも、うまく、すり抜けたほうが勝ち」というような教え
方をする。そのさえたるものが、受験競争である。

 それはさておき、今でも『正直者は、バカをみる』という格言が、この日本では、堂々とまかり
とおっている。『ウソも方便』という言葉さえある。「人を法に導くためには、ウソも許される」と。
どこかの宗教団体の長ですらも、「ウソも100ぺんつけば、本当になる」などと言っている。

 これらのことからもわかるように、世界的にみても、日本人ほど、不誠実な民族は、そうはい
ない。ほかにも、たとえば、日本人独特の、「本音(ほんね)と建て前論」がある。

 つまり口で言っていること(=建て前)と、腹の中(=本音)は、ちがう。またそういう本音と建
て前を、日本人は、うまく使い分ける。だから反対に、アメリカ人やオーストラリア人と接したり
すると、「どうしてこの人たちは、こうまで、ものごとにストレートなのだろう」と思う。

 つまりそう「思う」部分だけ、日本人は、正直でないということになる。

 誤解がないように言っておくが、「建て前」とういうのは、「ウソ」ということ。とくに政治の世界
には、この種のウソが多い。

 本音は「銀行救済」なのだが、建て前は、「預金者保護」。本音は「官僚政治の是正」なのだ
が、建て前は、「構造改革」などなど。言葉のマジックをうまく使いながら、たくみに国民をだま
す。

 が、その原因を掘りさげていくと、戦後の日本の金権体質がある。もともと金儲けの原点は、
「だましあい」である。とくに商人の世界では、そうである。そういう「だましあい」が、集合して、
金権体質になった。(……というのは、少し乱暴な意見に聞こえるかもしれないが、大きくみれ
ば、そういうことになる。)

 というのも、この話になると、私より古い世代の人は、みなこう言う。「戦前の日本人のほう
が、まだ正直でしたよ」と。「正直というより、「純朴」だった? どちらにせよ、まだ温もりを感じ
た。

 私が子どものころは、相手をだますにしても、どこかで手加減をした。が、今は、それがな
い。だますときは、徹底的に、相手をだます。それこそ、相手を、丸裸にするまでだます。

 つまり「マネー」万能主義の中で、日本人は、その「心」を見失ったというのだ。

 いろいろ意見はあるだろが、もしあなたなら、どうしただろうか。飼育していたニワトリが何千
羽も死んだ。行政側に報告すれば、処分される。鳥インフルエンザではないかという疑いはあ
る。しかしはっきりしているわけではない。今なら、売り逃げられる。うまく売り逃げれば、損失
をかなりカバーできる。そんなとき、あなたなら、どうしただろうか。

 正直に、行政側に報告しただろうか。それとも、だまってごまかしただろうか。

 こうした一連の心理状態は、交差点で赤信号になったときに似ている。左右の車はまだ動き
出していない。しかし今なら、走りぬけることができる、と。それともあなたは、交差点で、信号
を、しっかりと守っているというのだろうか。

 もしそうなら、あなたは多分、F農場のような立場におかれても、行政側に報告したかもしれ
ない。報告するとはかぎらないが、報告する可能性は高い。

しかし赤信号でも、「走れるうちは走れ」と、その信号を無視するようなら、あなたは100%、行
政側に報告などしないだろう。あなたは、もともとそういう人だ。

つまりこれが、私が前から言っている、『一事が万事論』である。

 日々の行いが月となり、月々の行いが年となる。そしてその年が重なって、その人の人格と
なる。そしてそれが集合されて、民族性になり、さらに人間性になる。

 その日々の行いは、「今」というこの瞬間の過ごし方で決まる。

私「ぼくなら、F農場の責任者のように、だまっていたかもしれない。もともと、そんな正直な人
間ではない」
ワ「でも、やはり正直に報告すべきよ」
私「わかっている。だからぼくは、できるだけ、そういう状況に、自分を追いこまないようにして
いる」と。

 おかしな話だが、私は、道路を自転車で走っているときも、サイフらしきもの(あくまでも、…
…らしきもの)が落ちていても、拾わないで、そのまま走り去ることにしている。拾うことにより、
そのあと迷う自分がこわいからだ。正直に交番へ届ければ、それですむことかもしれない。
が、それもめんどうなことだ。

 だからそのまま見て見ぬフリをして、走り去る。「あれは、ただのゴミだった」と。

 だから私は、F農場の責任者を、それほど責める気にはなれない。責める側に立って、さも
善人ぶるのは簡単なことだが、私には、それができない。「とんだ災難だったなあ」「かわいそう
に……」と、同情するのが、精一杯。

それが私の本音ということになる。
(040302)(はやし浩司 正直)

※……「同農場は2月20日から鶏の大量死が始まっていたのに、府に届けず、25、26日に
は生きた鶏計約1万5000羽を兵庫県の食肉加工会社処理場に出荷、感染の拡大につなが
り、強い批判を浴びていた」(中日新聞)

「当初、行政側が把握していた情報は、結果的にどれも誤りでした。実際にはA農産の養鶏場
から大量死が発覚した後の、先月25日と26日に、あわせておよそ1万羽の生きたニワトリが
兵庫県八千代町の鳥肉加工業者「AB」に出荷されていました。
 
 「AB」で加工された1万羽は、京都、兵庫、島根など14の業者に出荷され、ほとんどは返品
されたり、業者が廃棄しましたが、少なくとも150キロの肉がスーパーや飲食店などに、卸され
ていました」(TBS inews)と。

●『金によってもたらされた忠実さは、金によって裏切られる』(セネカ「アガメムノン」)

【追記】

 正直に対する、国民の意識は、国によって、かなりちがう。オーストラリアでは、親は、いつも
子どもに向かって、「正直でいなさい」と言っている。うるさいほど、それを言っている。

 しかしこの日本で、私は、親が子どもにそう言っているのを、聞いたことがない。「あと片づけ
しなさい」とか、「静かにしなさい」というのは、よく聞くが……。

 これは「誠実さ」に対する感覚が、国によってちがうためと考えてよい。




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●子どもの希望

 98年から99年にかけて、日本青年研究所が、興味ある調査をしている。「将来、就(つ)き
たい職業」についてだが、国によって、かなり、ちがうようだ。

★日本の中学生
    公務員
    アルバイト(フリーター)
    スポーツ選手
    芸能人(タレント)

★日本の高校生
    公務員
    専門技術者  
    (以前は人気のあった、医師、弁護士、教授などは、1割以下)

★アメリカの中高校生
    スポーツ選手
    医師
    商店などの経営者 
    会社の管理者
    芸術家
    弁護士などの法律家

★中国の中学生
    弁護士や裁判官
    マスコミ人
    先端的技術者
    医師
    学者

★中国の高校生
    会社経営者
    会社管理者
    弁護士

★韓国の中学生
    教師
    芸能人
    芸術家

★韓国の高校生
    先端的技術者
    教師
    マスコミ 

 調査をした、日本青少年研究所は、「全般的に見ると、日本は、人並みの平凡な仕事を選び
たい傾向が強く、中国は経営者、管理者、専門技術者になりたいという、ホワイトカラー志向が
強い。韓国は特技系の仕事に関心がある。米国では特技や専門技術系の職業に人気があ
り、普通のサラリーマンになる願望が最も弱い」と、コメントをつけている。

この不況もあって、この日本では、公務員志望の若者がふえている。しかも今、どんな公務員
試験でも、競争率が、10倍とか、20倍とかいうのは、ザラ。さらに公務員試験を受けるための
予備校まである。そういう予備校へ、現役の大学生や、卒業生が通っている。

 今では、地方の公務員ですら、民間の大企業の社員並みの給料を手にしている。もちろん退
職金も、年金も、満額支給される。さらに退職後の天下り先も、ほぼ100%、確保されている。

 知人の一人は満55歳で、自衛隊を退職したあと、民間の警備会社に天下り。そこに5年間
勤めたあと、さらにその下請け会社の保安管理会社に天下りをしている。ごくふつうの自衛官
ですら、今、日本の社会の中では、そこまで保護されている。(だからといって、その人個人を
責めているのではない。誤解のないように!)
 
もちろん、仕事は楽。H市の市役所で働いている友人(○○課課長)は、こう言った。「市役所
の職員など、今の半分でもいいよ。三分の一でも、いいかなあ」と。

 これが今の公務員たちの、偽らざる実感ではないのか。

 こういう現実を見せつけられると、つい私も、自分の息子たちに言いたくなる。「お前も、公務
員の道をめざせ」と。

 本来なら、公務員の数を減らして、身軽な行政をめざさねばならない。しかしこの日本では、
今の今ですら、公務員、準公務員の数は、ふえつづけている。数がふえるだけならまだしも、
公務員の数がふえるということは、それだけ日本人が、公務員たちによって管理されることを
意味する。自由が奪われることを意味する。

 恐らく、国民が、公務員たちによって、ここまで管理されている国は、この日本をおいて、ほ
かにないだろう。ほとんどの日本人は、日本は民主主義国家だと思っている。しかし本当に、
そうか。あるいは、今のままで、本当によいのか。日本は、だいじょうぶなのか。

あなたが公務員であっても、あるいは公務員でなくても、そういうことには関係なく、今一度、
「本当に、これでいいのか」と、改めて考えなおしてみてほしい。
(040302)(はやし浩司 将来の職業 職業意識 アメリカの高校生 公務員志望)

【付記】
ついでに同じく、その調査結果によれば、「アメリカと中国の、中高校生の、ほぼ全員の子ども
が、将来の目標を『すでにはっきり決めている』、あるいは『考えたことがある』と答えた。日本
と韓国では2割が『考えたことがない』と答えている」という。

 アメリカや中国の子どもは、目的をもって勉強している。しかし日本や韓国の子どもには、そ
れがないということ。

 日本では、大半の子どもたちは今、大学へ進学するについても、「入れる大学の、入れる学
部」という視点で、大学を選択している。いくら親や教師が、「目標をもて」と、ハッパをかけて
も、子どもたちは、こう言う。「どうせ、なれないから……」と。

 学校以外に道はなく、学校を離れて道はない……という現状のほうが、おかしいのである。

 人生には、無数の道がある。幸福になるにも、無数の道がある。子どもの世界も、同じ。そう
いう道を用意するのも、私たち、おとなの役目ではないだろうか。

 現在の日本の学校教育制度は、子どもを管理し、単一化した子どもを育てるには、たいへん
便利で、能率よくできている。しかし今、それはあちこちで、金属疲労を起こし始めている。現
状にそぐわなくなってきている。明治や大正時代、さらには軍国主義時代なら、いざ知らず、今
は、もうそういう時代ではない。

 それにもう一つ重要なことは、何も、勉強というテーマは、子ども時代だけのものではないと
いうこと。仮に学生時代、勉強しなくても、おとなになってから、あるいは晩年になってから勉強
するということも、重要なことである。

 私たちはともすれば、「子どもは勉強」、あるいは「勉強するのは子ども」と片づけることによっ
て、心のどこかで「おとなは、しなくてもいい」と思ってしまう。

 たとえば子どもに向かって、「勉強しなさい!」と怒鳴る親は多いが、自分に向って、「勉強し
なさい!」と怒鳴る親は少ない。こうした身勝手さが生まれるのも、日本の教育制度の欠陥で
ある。

 つまりこの日本では、もともと、「学歴」が、それまでの身分制度の代用品として使われるよう
になった。「勉強して知性」をみがくという、本来の目的が、「勉強して、いい身分を手に入れる」
という目的にすりかわってしまった。

 だから親たちは、こう言う。「私は、もう終わりましたから」と。私が、「お母さん、あなたたちも
勉強しないといけませんよ」と言ったときのことである。

 さあ、あなたも、勉強しよう。

 勉強するのは、私たちの特権なのだ。新しい世界を知ることは、私たちの特権なのだ。なの
に、どうして今、あなたは、それをためらっているのか?

【付記2】

 江戸時代から明治時代にかわった。そのとき、時の為政者たちは、「維新」という言葉を使っ
た。「革命」という意味だが、しかし実際には、「頭」のすげかえにすぎなかった。

 幕府から朝廷(天皇)への、「頭」のすげかえである。

 こうして日本に、再び、奈良時代からつづいた官僚政治が、復活した。

 で、最大の問題は、江戸時代の身分制度を、どうやって、合法的かつ合理的に、明治時代に
温存するかであった。ときの明治政府としては、こうした構造的混乱は、極力避けたかったに
ちがいない。

 そこで「学歴によって、差別する」という方式をもちだした。

 当時の大卒者は、「学校出」と呼ばれ、特別扱いされた。しかし一般庶民にとっては、教科書
や本すら、満足に購入することができなかった。だから結局、大学まで出られるのは、士族や
華族、一部の豪族にかぎられた。明治時代の終わりでさえ、東京帝国大学の学生のうち、約7
5〜80%が、士族、華族の師弟であったという記録が残っている。

 で、こうした「学校出」が、たとえば自治省へ入省し、やがて、全国の知事となって、派遣され
ていった。選挙らしいものはあったが、それは飾りにすぎなかった。

 今の今でも、こうした「流れ」は、何も変わっていない。変っていないことは、実は、あなた自身
が、一番、よく知っている。たとえばこの静岡県では、知事も、副知事も、浜松市の市長も、そ
して国会議員の大半も、みな、元中央官僚である。(だから、それがまちがっていると言ってい
るのではない。誤解のないように!)

 ただ、日本が本当に民主主義国家かというと、そうではないということ。あるいは大半の日本
人は、民主主義というものが、本当のところ、どういうものかさえ知らないのではないかと思う。

 つまり「意識」が、そこまで高まっていない? 私もこの国に住んで、56年になるが、つくづく
と、そう思う。

++++++++++++++++++++++
つぎの原稿は、1997年に、私が中日新聞に
発表した原稿です。
大きな反響を呼んだ原稿の一つです。

若いころ(?)書いた原稿なので、かなり過激
ですが、しかし本質は、今も変わっていないと
思います。
++++++++++++++++++++++

●日本の学歴制度

インドのカースト制度を笑う人も、日本の学歴制度は、笑わない。どこかの国のカルト信仰を笑
う人も、自分たちの学校神話は、笑わない。その中にどっぷりとつかっていると、自分の姿が
見えない。

 少しかたい話になるが、明治政府は、それまでの士農工商の身分制度にかえて、学歴制度
をおいた。

 最初からその意図があったかどうかは知らないが、結果としてそうなった。

 明治11年の東京帝国大学の学生の75%が、士族出身だったという事実からも、それがわ
かる。そして明治政府は、いわゆる「学校出」と、そうでない人を、徹底的に差別した。

 当時、代用教員の給料が、4円(明治39年)。学校出の教師の給料が、15〜30円、県令
(今の県知事)の給料が250円(明治10年)。

 1円50銭もあれば、一世帯が、まあまあの生活ができたという。そして今に見る、学歴制度
ができたわけだが、その中心にあったのが、官僚たちによる、官僚政治である。

 たとえて言うなら、文部省が総本山。各県にある教育委員会が、支部本山。そして学校が、
末寺ということになる。

 こうした一方的な見方が、決して正しいとは思わない。教育はだれの目にも必要だったし、学
校がそれを支えてきた。

 しかし妄信するのはいけない。どんな制度でも、行き過ぎたとき、そこで弊害を生む。日本の
学歴制度は、明らかに行き過ぎている。

 学歴のある人は、たっぷりとその恩恵にあずかることができる。そうでない人は、何かにつけ
て、損をする。

 この日本には、学歴がないと就けない仕事が、あまりにも多い。多すぎる。親たちは日常の
生活の中で、それをいやというほど、肌で感じている。だから子どもに勉強を強いる。

 もし文部省が、本気で、学歴社会の打破を考えているなら、まず文部省が、学歴に関係なく、
職員を採用してみることだ。

 過激なことを書いてしまったが、もう小手先の改革では、日本の教育は、にっちもさっちもい
かないところまで、きている。

 東京都では、公立高校廃止論、あるいは午前中だけで、授業を終了しようという、午後閉鎖
論まで、公然と議論されるようになっている。それだけ公教育の荒廃が進んでいるということに
なる。

 しかし問題は、このことでもない。

 学歴信仰にせよ、学校神話にせよ、犠牲者は、いつも子どもたちだということ。今の、この時
点においてすら、受験という、人間選別の(ふるい)の中で、どれほど多くの子どもたちが、苦し
み、そして傷ついていることか。そしてそのとき受けた傷を、どれだけ多くのおとなたちが、今
も、ひきずっていることか。それを忘れてはいけない。

 ある中学生は、こう言った。

 「学校なんか、爆弾か何かで、こっぱみじんに、壊れてしまえばいい」と。

 これがほとんどの子どもの、偽らざる本音ではないだろうか。ウソだと思うなら、あなたの、あ
るいはあなたの近所の子どもたちに、聞いてみることだ。

 子どもたちの心は、そこまで病んでいる。
(はやし浩司 華族 士族 東京帝国大学 自治省)

++++++++++++++++++++++++

●教えずして教える

 教育には教えようとして教える部分と、教えずして教える部分の二つがある。

たとえばアメリカ人の子どもでも、日本の幼稚園へ通うようになると、「私」と言うとき、自分の鼻
先を指さす。(ふつうアメリカ人は親指で、自分の胸をさす。)

そこで調べてみると、小学生の全員は、自分の鼻先をさす。年長児の大半も、自分の鼻先をさ
す。しかし年中児になると、それが乱れる。つまりこの部分については、子どもは年中児から年
長児にかけて、いつの間にか、教えられなくても教えられてしまうことになる。

 これが教えずして教える部分の一つの例だが、こうした部分は無数にある。よく誤解される
が、教えようとして教える部分より、実は、教えずして教える部分のほうが、はるかに多い。ど
れくらいの割合かと言われれば、一対一〇〇、あるいは一対一〇〇〇、さらにはもっと多いか
しれない。

私たちは子どもの教育を考えるとき、教えようとして教える部分に夢中になり、この教えずして
教えてしまう部分、あまりにも無関心すぎるのではないのか。あるいは子どもというのは、「教え
ることで、どうにでもなる」と、錯覚しているのではないのか。しかしむしろ子どもの教育にとって
重要なのは、この「教えずして教える」部分である。

 たとえばこの日本で教育を受けていると、ひとにぎりのエリートを生み出す一方で、大半の子
どもたちは、いわゆる「もの言わぬ従順な民」へと育てあげられる。だれが育てるというのでも
ない。受験競争という人間選別を経る過程で、勝ち残った子どもは、必要以上にエリート意識
をもち、そうでない子どもは、自らに「ダメ人間」のレッテルをはっていく。

先日も中学生たちに、「君たちも、Mさん(宇宙飛行士)が言っているように、宇宙飛行士にな
るという夢をもったらどうか」と言ったときのこと。全員(一〇人)がこう言った。「どうせ、なれな
いもんね」と。「夢をもて」と教えても、他方で子どもたちは別のところで、別のことを学んでしま
う。

 さてあなたは今、子どもに何を教えているだろうか。あるいは何を教えていないだろうか。そし
て子どもは、あなたから何を教えられて学び、教えられなくても何を学んでいるだろうか。それ
を少しだけここで考えてみてほしい。
(はやし浩司 もの言わぬ 従順な民) 
++++++++++++++++++++++

日本人と民主主義

●騒音

 日本人ほど、騒音に無頓着な民族はいない? 私が住むこの地域は、一応、第二種住宅地
域ということになっているが、早朝から深夜まで、その騒音が絶えない……。

 まず朝、五時五五分、きっちりとその時刻に、裏の隣人が、雨戸を開ける。ふつうの開け方
ではない。いっせいに、勢いよく、ガラガラ、ガラガラと開ける。ここに住むようになってから、二
五年間、私たち夫婦は、春夏秋冬、一度、その音で目をさまされる。

 少し時間がたつと、このところ、隣の空き地が、下水道工事の集結場になっていて、工事の
男たちがやってきて、あれこれ作業を始める。

昨日は、あの削岩機で、バリバリと何かを削っていた。ものすごい音だった。窓をしめても、家
中のカベがガタガタ揺れる感じだった。で、そのころになると、前の隣人が、趣味の宝石の研
磨を始める。歯科医院で歯を削られるような音だ。しかもその研摩を、プレハブの小屋の中で
するから、ちょうど全体として、ギターの箱のような共鳴作用を引き起こす。ものすごい音だ。そ
の騒音がガリガリ、ガリガリと、終日、断続的につづく。

 もちろん道路を走る車の騒音も聞こえる。五〇メートルくらい離れたところが、大通りになって
いて、そこをひっきりなしに、車が走る。ふつうの車はそれほど気にならないが、暴走族が乗る
ような改造車だと、それこそバスンバスンと腹に響くような低周波振動が響いてくる。

そうそう道路をはさんで西隣のアパートに、最近一人の学生が入ったらしい。その友人らしき
男が、ときおり、その種の車でやってくる。これもけっこう、うるさい。

 が、それだけではない。断続的に、物干し竿売りや、ワラビ餅売りがやってくる。これがスピ
ーカーの音量を最大限にして、あの声を流す。ほかに粗大ゴミ回収業者、オートバイ回収業者
など。もっともこれは日中の一時期だから、そのときをやり過ごせば、何とかなる。

 私は部屋にこもって、こうして文書を書くのが仕事(?)のようになっているから、こうした騒音
は、つらい。いやいや、最近は、夜中だって、騒音(?)が消えることはない。数軒前の隣人の
飼い犬がこのところ、急にボケだして、一晩中、グニャーグニャーと、おかしなうめき声をあげ
ている。

それがちょうどさかりのついた雄ネコのような声に聞こえる。私の家はともかくも、近所の人た
ちは、さぞかし眠られない毎日を過ごしていることだろう。

●騒音の精神的ルーツ

 そこで私は考える。こうした日本人独特の無頓さは、いったいどこから生まれるのか、と。公
共精神ということになると、少なくとも、このあたりの人たちは、自分のテリトリーの範囲のこと
は大切にするが、しかし一歩、その範囲を離れると、何もしない。

たとえば私がここに住むようになって、この二五年間、近所の空き地のゴミ拾いをしているの
は、私だけ。このあたりは元公務員の人たちが、優雅な年金生活をしている。しかしそういう人
たちがゴミ拾いしているのを、私は見たことがない。そういう意味では、みんな、自分勝手。こ
の勝手さは、いったいどこからくるのか?

 アメリカやオーストラリアと比較するのもヤボなことだが、欧米では、その地域の景観すら、地
域住民がたがいに守りあっている。その地域全体の家の形のみならず、屋根や家の色まで統
一しているところも少なくない。

自分の家だけ芝生を伸び放題にしておくことなど、言語道断。オーストラリアでも、そうだ。ある
日、友人がこう言った。

「(土地の値段は安いので)、いくらでも土地は買えるが、しかし管理がたいへんだから、適当
な広さがあればいい」と。

自治体ぐるみで看板の設置を規制しているところも多い。あるいは看板の色を規制していると
ころも多い。先日、アメリカから帰ってきた二男ですら、クモの巣のように空をおおう電線を見
て、こうこぼした。「アメリカでは考えられない」と。いわんや、騒音をや! 基本的なところで、
考え方がまったく違う。

 日本人に公共心がないのは、日本の社会制度にもよる。明治以来、あるいはそれ以前か
ら、「教育」と言えば、「もの言わぬ従順な民づくり」が、基本になっている。

日本は奈良時代の昔から、現在にいたるまで、カンペキな官僚主義国家である。今の今でも、
日本が民主主義国家だと思っているのは、日本人だけ。ウソだと思うなら、一度、外国に住ん
でみることだ。日本でいう民主主義は、彼らがいう民主主義とは、まったく異質なものであるこ
とがわかる。

この日本では、「国あっての民」と考える。国民(この「国民」という漢字すら、それを表している
が……)、は、国の道具でしかない。

一方、欧米では、フランス革命以来、「民あっての国」と考える。この違いは大きい。たとえばこ
んなことがある。

 南オーストラリア州にある友人の家へ遊びに行ったときのこと。ボーダータウンという小さな
田舎町だが、その町を案内しながら、友人がいちいちこう説明してくれた。

「ヒロシ、あの道路整備に、税金を一二〇〇万ドル使った。しかし経済効果は、七〇〇〇万ド
ルしかない。税金のムダづかいだ。いいか、ヒロシ、それだけの税金を使うなら、穀物倉庫を
作り変えたほうがいい。経済効果は、二倍以上になる」と。

こうした会話を、私はこの日本で聞いたことがない。いや、反対に、あってもなくてもよいような
高速道路ばかりつくり、一方、住民は、「作ってもらった」「作ってもらった」と喜ぶ。こうした日本
人の意識が、一八〇度ひっくりかえるためには、この日本では、まだ五〇年はかかる。あるい
はもっとかかる。

●そろそろ意識を変えるべきとき?

 さて騒音の話。かく言う私も、こうした騒音に耐えて、二五年になる。あるいは子どものころか
ら、「生活」というのは、そういうものだと思い込まされている。しかし、もうそろそろ、日本人も
意識を変えるべきときにきているのではないか。

 「社会は私たちがつくるのだ」「国は私たちがつくるのだ」という意識である。もうひとつ、つい
でに言わせてもらうなら、「教育は私たちがつくるのだ」という意識もある。

何でもかんでも、一方的に国から与えられるだけというのでは、あまりにもさみしいのではない
か。あまりにも受け身すぎるのではないか。日本人が周辺の騒音に無頓着なのも、そのひとつ
ということになる。教科書も制度も、中身も。そんな国は、民主主義国家ではない。またそんな
国では、民主主義など、育たない。ちがうだろうか?
(040303)(はやし浩司 日本人の意識 騒音意識 民主主義)




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●【家族論】

●家族の限界

 家族には、家族としての機能がある。助けあい、認めあい、励ましあい、教えあい、守りあうと
いう役割である。

しかしその家族は、同時に、個人の自立を、はばむことがある(心理学者のレイン、クーパー
ほか)。

最近では、(近代的自我)という言葉が使われる。未来志向型の個人の確立をいう。その近代
的自我の確立に、ときとして、家族は、足かせになるという(レイン、クーパー)。

 そのレインやクーパーは、人間には、二つの志向性があるという。(個人志向)と(共同体志
向)である。

 (個人志向)というのは、「だれにもじゃまされず、自分の道を進みたい」という、志向性をい
う。

 (共同体志向)というのは、どこかの共同体に属し、その共同体とともに、運命を共有したいと
いう、志向性をいう。日本では、家族。さらには、親戚、近所づきあいが、その共同体ということ
になる。

 私やあなたという、一人の人間をみたばあい、こうした志向性が、混在しているのがわかる。
人に干渉されるのを嫌う反面、他人には、干渉しようとする。その反対に、無視されるのを嫌う
反面、他人の行動を、無視しようとする。

●孤独論

 こうした心理的反応の根幹にあるのが、「孤独」である。

 個人志向が強ければ、人は、孤独を感ずる。だから共同体とかかわりをもとうとする。反面、
共同体志向が強ければ、孤独はいやされるが、あれこれ干渉されて、それをうるさく感ずる。

 こうした孤独感は、どこからくるのか?

 それは恐らく、人間が魚であった時代から、始まっているのではないか? ……というのも、
かなり飛躍した考え方に見えるかもしれないが、魚の群れを見ていたとき、私は、そう思ったこ
とがある。

 あの魚は、たいてい、群れをつくって行動する。つまり「群れ」をつくることで、自分たちの安全
性を確保する。だからそれぞれの魚にとって、群れをはずれて行動することなど、考えられな
い。その(群れ意識)の根底にあったのが、(群れからはずれる恐怖)、つまり孤独ということに
なる。その(恐怖感)が、(孤独)のもつ恐怖感の原点になった?

 もちろん人間と魚はちがう。しかしその人間は、遠い昔、魚から、進化した。現に、胎児は、
母親の胎内で、一度は、魚に似た形になる。人間の心の中に、(魚的意識)が残っていたとこ
ろで、何も、おかしくはない。

 もっとつきつめていくと、知的動物としての人間は、(個人志向)を求める。しかし原始的動物
としての人間は、(共同体志向)を求める。このハザマで、人間は、右往左往する。さらにつき
つめていくと、知的動物としての、自我の確立を、レインやクーパーのいう、(近代的自我)の確
立と呼んでもよいのではないか。

 ただ、ここで一つ、大きな問題にぶつかる。

●家族意識

 欧米と日本とでは、「家族」に対する意識が、かなりちがう。さらに欧米と日本とでは、「親戚」
「近所」に対する意識が、かなりちがう。また欧米と言っても、広い。また日本といっても、都会
と田舎では、まるで別世界のように、ちがう。

 だからいっしょくたにして考えることはできない。が、レインやクーパーは、「家族が、近代的
自我の確立に障害になる」と言ったが、この日本では、その家族に、親戚や近所を含めてもよ
いのでは。

 実際、農村部に住んでみると、息苦しいまでの重圧感を覚えることがある。人間関係が、た
がいにクモ巣のようにからんでいて、たがいにたがいを、密接に、かつ濃密に干渉しあってい
る。話は、少し、それるが、こんな例がある。

 私の友人が、岐阜県のS町のはずれに、小さな酒屋を開いた。それまで都会に住んでいた
が、田舎暮らしにあこがれ、そこに家族ともども、移住した。

 が、一年たっても、ほとんど客はこなかった。ときどき街道を通る人が、買い物をする程度だ
った。値段を安くし、さらにおまけまでつけたが、それでもダメだった。

 一年もたったころ、やっと、その理由がわかった。

 そのS町には、もう一軒、酒屋があった。昔からの酒屋で、その酒屋は、その村の有力者が
経営していた。つまりほかの村人たちは、その有力者に遠慮して、友人の酒屋では買い物をし
なかった。

 この例で、友人がもった意識、つまり(都会から脱出して、田舎暮らしをしてみたい)という意
識が、ここでいう(近代的自我)ということになる。しかしその(近代的自我)をはばんだのが、村
という共同体のもつ、(共同体意識)ということになる。

 村の人たちは、自分たちの(共同体志向)を優先させるため、その友人の(近代的自我)を、
はばんだということになる。

 こうした現象は、家族の中でも、起こりえる。それが冒頭に書いた、「近代的自我の確立に、
ときとして、家族は、足かせになる」という意味である。

 つまり私たちは、子どもを育てながら、「育てる」ことばかりを考えるあまり、私たちという親
が、子どもの自我の確立を、はばむことがあるということ。過干渉もそうだが、ほかに、過関
心、過保護、溺愛、過剰期待などもある。

●親自身の問題

 しかしそれ以上に、深刻に考えなければならないのは、親自身が、自我の確立ができていな
いばあいである。そういう親に向かって、「子どもの自我を尊重しなさい」と言っても、ムダであ
る。そもそもそれを理解するだけの、「下地」ができていない。

 はからずも、私は、最近、こんな経験をした。

 姉との電話の中で、姉が、「頭数をそろえるために、義理のいとこの息子の結婚式にかりだ
された」と言ったときのこと。私は、「どうしてそんなムダなことをするのか?」と、思わず言って
しまった。

 しかしその義理のいとこ氏にとっては、それが彼の価値観であり、その価値観は、さらに奥深
い、彼自身のカルト的信仰と結びついている。だからそういう義理のいとこ氏に向って、「ムダ
ですよ」と言っても、意味がない。親が親だから、今度は、その先の義理のいとこの息子氏に
向って、「見栄を張るのは、やめなさい」と言っても、さらに意味がない。

 意識というのは、そういうもの。もっとわかりやすく言えば、子どもの自立論を説く前に、親自
身が、自立していなければならないということ。もっとわかりやすく言えば、近代的自我の確立
ができていない親に向かって、「あなたの子どもの自我を確立させましょう」と言っても、ムダ。
まったくの、ムダ。

 そもそも日本人というのは、慣れあい社会の中で、相互に依存しながら、生きている。もちろ
んすべてが悪いばかりではない。そういった慣れあいが、独特の温もりをつくっているのも事
実。

 しかしその一方で、そうした慣れあい社会が、レインやクーパーのいう、(近代的自我)の確
立をはばんでいるのも事実である。それがよいのか悪いのか。あとは、それぞれの人が判断
すればよいということになる。

●止められない「流れ」

 ただ、これだけは言える。

 今、日本は、そして日本人は、国際化の波にもまれながら、レインやクーパーの言う、(金内
的自我)の確立をめざして、一歩、前に踏み出そうとしている。そしてその流れは、若い人たち
から始まり、もうその流れを変えることはできないということ。

 私の二男は、こう言った。「パパ、ぼくは、ありのままのぼくで行くよ。それをみんなに見てもら
うよ」と。

 二男が出身校の、地元の中学校での講演会で、講師として招かれたときのことである。二男
は穴のあいたTシャツに、ヨレヨレのジーパン姿だった。見るに見かねて、私が「もう少し、マシ
な服を着ていけ。人前に立つのだから……」と言ったときのことだった。

 これからは、こういう若者がふえてくる。もっともっと、ふえてくる。そういう流れは、もう、私や
あなたに、止めることはできない。
(040304)(はやし浩司 近代的自我 レイン クーパー 家族論 個人志向 共同体志向 
孤独 孤独論 孤独の原点 原R)

【異論・反論】

 この私の意見に対して、ある人(女性、50歳くらい)に話すと、その女性は、こう言った。

 「群れと、共同体とは、ちがうのでないかしら?」「都会には、人がたくさんいるけど、孤独を感
ずる人は、感ずるのでは?」と。

 ナルホド! 鋭い! 忘れていた!

発達心理学の世界でも、「群れ」と、「共同体」は、分けて考える。「群れ」には、相互意識がな
い。「共同体」は、人間の、複雑にからみあった相互意識が、ある。

 私は、この原稿を書きながら、「魚の群れ(=相互意識がない)」と、「共同体(=相互意識)」
を、混同している。これは致命的なミスである。

 しかし「孤独感」の原点といえば、「孤独にまつわる恐怖感」をいう。そしてその「恐怖感」は、
人間が魚だった時代から、もっていたのではないかという点については、まちがいないと思う。

 この原稿の中にも書いたように、人間も、母親の胎内の中では、一度は、魚だった。つまり
「群れ」から離れるということは、そのまま「死」を意味した。つまり、それが孤独から感ずる、恐
怖感の原点であるように思う。

 なお、子どもの世界では、「群れ」と「共同体」は、分けて考える。ただ子どもどうしが集まって
いるのは、「共同体」とは言わない。だから子どもを、群れの中に入れただけでは、集団教育に
は、ならない。これについては、また別のところで考えてみたい。




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10

●家族自我群

●カナダにお住まいの、Kさんからのメール

 カナダに住んでいる、Kさん(女性、32歳)から、こんなメールをもらった。いろいろと考えさせ
られるメールだった。今夜は、このメールをテーマに、いろいろ考えてみたい。

 Kさんは、10年ほど前、日本へ旅行にやってきた、カナダ人の男性と結婚。現在、夫とともに
モントリオール校外に住んでいる。現在、娘さんが、二人(上が7歳、下が4歳)いる。

 Kさんの夫は、日本でいう老人ホームのようなところで、介護士をしている。

【Kさんからのメール】++++++++++++++

 いろいろご心配をおかけしました。
 母は、くも膜下出血でした。応急処置が、よかったのか、一命をとりとめました。
 ありがとうございました。

 母が倒れたと聞いた、その2日後に、飛行機のチケットが取れましたので、藤枝のほうへ、
(カナダから)、帰ってきました。
夫の仕事のこともありましたから、二人の娘も連れてきました。

しかし病院へかけつけてみると、父と姉が、はげしく言い争っていました。
病院の治療費、保険、それに父の借金のことなどが、原因のようでした。
で、その日は、父とはあまり話をしないで、家にもどりました。

翌日、朝、姉から電話がありました。
そしていきなり、「父さんは、K子(=Kさんのこと)に、一目会わせたら、母さんは死んでもいい
と言っている。私も楽にさせてあげたい」と。

 私は、この言葉に驚きました。それが四年ぶりにあった、姉の言う言葉でしょうか。
 実の娘が、「死んでもいい」と、言うのです。

 で、そのあともたいへんでした。病院のほうから、「二週間後に、治療費の、43万円を払って
ほしい」と言われました。「そんなお金は、ない」と私が言うと、姉が、「あんたは、今まで親のめ
んどうをみてこなかったから、それくらい払うべき」と言うのです。

 モントリオールにいる夫に電話すると、夫も、驚いていました。
 「日本では、そんなにお金がかかるのか」と、です。

 結局、母の治療費の大部分は、保険でカバーされることがわかりました。

 で、こうしてバタバタしている間に、一週間が過ぎてしまいました。二人の娘のうち、下の子の
花粉症がひどくなったので、一度、カナダへ帰ることにしました。

 で、帰るとき、姉の嫁ぎ先(栃木県のF町)へ、姉にあいさつに行きました。
 そこでのことです。

 姉の義理の父親が、私の顔を見るやいなや、こう言いました。

 「この親不孝者。親が、死ぬかもしれないというときに、お前は、病院を離れて、家で寝てい
たというじゃないか。

 お前は、だれに育ててもらったと思っているのか。そういうときは、お前は、死んでもかまわな
いから、命がけで、母親の看病をすべきだ。

 カナダで、のうのうと暮らしている自分が、恥ずかしくないのか!」と。

 私は、その言葉を聞いて、涙がポロポロと出てきました。

 今も、母は、藤枝市のF中央病院で、呼吸器をとりつけたまま、昏睡状態です。脳にたまった
血は、うまく取れたのですが、意識は、まだもどりません。

 カナダを離れることもできませんし、さりとて、日本へ戻っても、することがありません。
 父も、私とは、口をききたくないようです。今の夫と結婚するについても、母は、納得してくれ
ましたが、父は、猛反対でした。

 一度、「お前は、親を捨てた」「オレも、お前を捨てた」と言われたこともあります。

 私たちの家族は、そんな家族です。

こんなこと書いても、何ら、問題は解決しませんが、気が楽になりました。
 最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

+++++++++++++【以上、Kさんからのメール】

 このメールの内容を、車の中でワイフに話すと、ワイフは、こう言った。

 「それじゃ、子どもは、まるで、親のモノあつかいね」と。

 そう、私も、そう思う。たしかに私も、三人の息子を、育てたが、「育ててやった」という意識
は、ほとんど、ない。むしろ、人生を楽しませてもらった。感謝しこそすれ、息子たちに、私に感
謝しろと思ったことはない。

 まったく「ない」とは言わないが、しかしそれを口にしたら、おしまい。……と思っている。

 私とワイフは、息子たちを、望んで産んだ。しかし産んだ以上は、育てるのは、親の義務では
ないのか。どこまでいっても、親の義務。私はワイフに、こう言った。

 「栃木の義理の父親ね、卑怯だと思う。そういうふうに、自分の実娘でもない人向って、『親不
孝者!』と怒鳴るのは、おかしい。いえね、そういうふうに、怒鳴りながら、自分では、正論を言
っているつもりなんだろうね。

 そしてね、そういう言葉の裏で、嫁、つまりKさんの姉に、『お前は、オレには、そういうことを
するなよ』って、言っているんだよ。昔風の親が、よく使う手だよ。

 ぼくの知っている女性(75歳くらい)は、いつも、息子や娘たちに、いつもこう言っているよ。

 『Aさんとこの息子は、偉いもんじゃ。今度、母親を、沖縄へ連れていってやったそうだ』『Bさ
んとこの息子は、ひどいもんじゃ。親のめんどうをみるのがいやで、親を、老人ホームへ追い
やったそうだ』と。

 つまりそういう間接的な言い方をしてね、『お前も、ワシを、温泉へ連れて行け』『お前は、ワ
シを老人ホームへ入れるな』と言っているんだね。

 卑怯な言い方だよ」と。

ワ「Kさんという娘さん自身の、幸福は、どうなるのかしら」
私「いろいろな考え方があると思うけど、ぼくが、その親なら、娘のKさんに、こう言うだろうね。
『カナダから、わざわざ来なくてもいい。来られるときに来ればいい。心配するな』と」
ワ「私も、そうよ。……でも、日本では、親の死に目に会わない子どもは、親不孝者ということに
なっているでしょう」

私「ぼくは、かまわないよ。死ぬとき、お前だけがいてさえくれればね。ほかの人たちは、うるさ
いだけ」
ワ「私もかまわないわ。でも、できたら、息子たちにだけは会いたいわ」
私「だから、今のうちに、うんと会っておけばいい。どうせ死ぬときは、わからないよ」

ワ「そうよ。わからないわよ。その栃木の義理の父親ね、いやな人ね。自分の娘でもない、嫁
の妹に、そんなふうに言うなんて!」
私「きっと、権威主義的な人なんだよ。何も考えず、過去を繰りかえしているだけ。ノーブレイン
の人だよ。今でも、そういう人は、多いよ」
ワ「まだまだ、日本人も、後進国的ね」

私「そうだよ。世界的に見ると、日本人のしていることは、アフリカの原住民のしていることと、
そうはちがわないよ。少なくとも、世界の人は、日本人をそういう目で見ている。それがわから
ないところが、日本人の悲劇だね」
ワ「でも、Kさん、その言葉でキズついたと思うわ」
私「かわいそうだね。ぼくなら、『何も心配しなくてもいい。お母さんの心は、もう安らかだよ。葬
式ということになってもたいへんだから、日本へはこなくてもいいよ。こちらで、しっかりとしてお
くから』と言ってあげるよ」

ワ「私も、そう思うわ。カナダからだと、20時間は、かかるしね」
私「たいへんだよ。大切なのは、今、生きている人が、心穏やかに、安らかに生活することだ。
死んでいく人は、そういう人の幸福を、じゃましてはいけない」
ワ「たとえ、親でも?」
私「そうだよ。ぼくは、子どもに心配をかけたくない。負担もかけたくない。最後の最後までね…
…」

ワ「でも、あなたの葬式は、どうするの?」
私「だれも、来なくても、かまわない。本当に、かまわない。お前だけがいればね。静かに、だ
れにも知られずに、死にたい。通夜(つや)もいらない。あんな儀式、ムダだと思う。葬式なん
て、もっとムダだと思う。大切なことは、それまで、『今』を懸命に生きることだよ」
ワ「私が先に、死んだら……?」

私「ぼくが、ひとりで葬式をしてあげるよ。それとも、みんなに来てほしいかい?」
ワ「そうね、息子たちだけは、来られたら来てほしいわ」
私「わかった。一応、声はかけてみるよ。あとの判断は、息子たちに任せればいい」
ワ「そうね。無理を強いないでね。S(アメリカに住む二男)は、遠いし。いつかヒマなとき、来てく
れればいいわ」
私「そういうふうに言っておくよ」と。

 話をもとに戻すが、子どもは、決して、親のモノではない。

 どうして日本人よ、そんな簡単なことがわからないのか。子どもといっても、一人の人格をもっ
た人間だ。決して、モノと、見てはいけない。

 いつか日本人の意識が変って、親が、子どもを一人の人間としてみるときがきたら、この日
本も、やっと一人前の国になる。私たちが今、親としてすべきことは、そういう日本をめざして、
一歩でも、二歩でも、前に向って歩くこと。

【Kさんへ】

 今度、日本へ来て、大きなカルチャーショックを受けられたみたいですね。
 でもね、振り向かなくてもいいですよ。栃木の義理の父親の言っていることのほうが、おかし
いのです。まちがっているのです。

 そういうノーブレインな人がいるかぎり、日本は、よくなりません。日本は、まだ、あの江戸時
代という、封建時代の亡霊を、色濃く、引きずっているのです。

 過去の因習をもちだす人は、何も考えない、ノーブレインな人という意味です。「過去が正し
い」という前提でものを言うから、話になりません。一見、正論に見えますが、正論でも何でもな
いのです。ただの亡霊です。

 そういう亡霊とは、私のような人間が戦います。あなたはあなたで、前向きに生きていけばい
いのです。

 今どき、「親孝行」だの、「親不孝」だの、そんなこと言っているほうが、おかしいのです。それ
とも、そんな単語が、英語やフランス語にありますか? 

 だいたい「孝行論」を説くのは、子どもをもった、おとなたちです。おかしいですね。自分の子
どもに向かって、「自分を大切にしろ」と教えるのですから……。

 もちろん子どもが、自分で考えて、そうするなら、話は別です。しかしね、Kさん、親子というの
は、ひとつのワクにすぎません。親子といえども、そこは純然たる、一対一の人間関係です。

 もともと強い立場にいる親が、もともと弱い立場にいる子どもに向かって、「産んでやった」
「育ててやった」と、恩を着せるほうが、おかしいのです。日本人は、いつになったら、そのおか
しさに気づくのでしょうか。

 あなたはじゅうぶん、娘として、義務を果たしました。今は、お母さんは、意識がないので、何
とも言いませんが、きっと、私と同じことを考えていると思いますよ。

 「もう苦しまなくてもいいのよ」って、そう言っていると思いますよ。

 だからKさん、勇気を出して、前に進んでください。応援します。

 栃木のお父さんね、あんな人は、無視しなさい。化石のような人ですから。それからお姉さん
の件ですが、あまり気にしないように。お母さんが倒れて、きっと気が動転していたのだと思い
ます。

 仮に関係がおかしくなっても、しかたないでしょう。イギリスの格言にも、『二人の人に、いい顔
はできない』というのがありますね。

 しかたないことです。人生を長く生きれば生きるほど、味方になる人もいれば、敵になる人も
いるのです。私は、あなたの味方になります。ですから、こんなちっぽけな島国のことなど気に
せず、二人の娘さんを、カナダ人として、たくましく育てることだけを考えてください。

 どうか、がんばってください。またメールをください。
(040305)(はやし浩司 家族論 原S)

【付記】

 自分の子どもを育てながら、「私は、子どもの犠牲になっている」と感ずる、親は、少なくな
い。

 理由は、いろいろある。望まない結婚であったとか、望まない子どもであったとか、など。古い
因習を引きずっていることもある。昔は、子どもを、家の財産と考えた。

 日本の親がよく口にする、「産んでやった」「育ててやった」という言葉は、そういうところから
生まれる。

 で、さらにそれが進むと、「大学を出してやった」という言葉にもなる。

 たしかに今、子どもを大学へ送ると、かなりの負担が、親にのしかかってくる。そのため、ほと
んどの家庭では、まさに爪に灯をともすようにして、家計を切りつめ、子どもの学費を送る。

 そのとき、親子関係が、それなりに円満なものであれば、親も、苦労を喜びにかえることがで
きる。しかしそうでないときに、そうでない。

 中には、親のメンツのために、子どもを大学へ送るケースもある。こういうとき子どもは子ども
で、「(親がうるさいから)、大学へ行ってやる」などと言う。

 実際、そういうケースを、私は、知っている。

 アメリカなどでは、この点、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、さがさなければならな
いほど、少ない。奨学金を得るか、さもなければ、自ら借金をしながら、大学へ通う。

 そういうシステムが、完成している。

 で、Kさんのケースでは、Kさんの父親は、Kさんに向って、「親を捨てた」と言う。カナダ人と
結婚して、カナダに住むようになったことを、「捨てた」と。

 しかし、今、そういう時代ではない。「日本だ」「カナダだ」と言っているほうがおかしい。もっと
もKさんの父親が言っている「捨てた」という意味は、「親のめんどうをみる範囲から、離れた」
という意味と考えてよい。「自分のめんどうをみてくれない。だから捨てた」と。

 子ども自身の幸福を考えたら、絶対に出てこない言葉である。だいたい、これほど島国的な
言葉も、ない。またそんなことを言われたら、一番、キズつくのは、Kさん自身である。

 人間というのは、もともと孤独な存在だ。しかしその人間は、結婚し、子どもをもうけることで、
その孤独を忘れることができる。

 しかし孤独が消えるわけではない。「忘れることができる」だけ。やがて子どもたちが巣立つこ
ろ、再び、その孤独が、そこに見えるようになる。そのとき、その孤独に、しっかりと耐えるの
も、まさに親の役目ということになる。

 決して、子どもが、その孤独をもたらすのではない。子どもに向かって、「お前は、親を捨て
た」という暴言を吐く親は、その事実に気がついていない。

 そう、昔、まだ息子たちが小さかったころのこと。仕事の帰りに町で、おもちゃを買って帰るの
が、私の日課になっていた。

 そんなとき、自転車のカゴの中で揺れるおもちゃの箱を見ながら、どれほど、家路を急いだこ
とか。

 家へ帰ると、息子たちがみな、「パパ、お帰り!」と、飛びついてきた。

 私は、息子たちのおかげで、自分の人生を、本当に楽しむことができた。教えられたことも多
い。教えたことよりも、教えられたことのほうが、多いのでは……?

 今、その子育てを、ほとんど終えたが、そういう自分の過去を振りかえってみて、私は、息子
たちのために、犠牲になったという思いは、ミジンもない。

 むしろ、息子たちのおかげで、生きることに張りあいが生まれた。生きがいも生まれた。もし
息子たちがいなかったら、私は、こうまでがんばらなかっただろうと思う。その生きる原動力さ
え、私は息子たちからもらった。

 現に今。私は56歳。体力的にも、限界に近づきつつある。しかし三男が大学を卒業するま
で、まだ三年もある。その三年について、「どんなことをしてでも、あと三年はがんばるぞ」という
思いで、ふんばっている。毎日、健康を維持するために、運動にでかけるのも、そのためだ。

 そういう力も、結局は、息子たちが、くれた。もし私とワイフだけなら、きっと今ごろは、何をす
るでもなし、しないでもなし。そこらの年金生活者と同じような、意味のない人生を繰りかえして
いるだろうと思う。

 こう書きながらも、この日本には、Kさんの姉の、その義理の父親(栃木の父親)のような人も
いる。Kさんの父親のような人すら、いる。また、それなりにうまくいっている親子も、少なくな
い。(それが悪いと言っているのではない。誤解のないように!)

 それは事実だし、そういう人たちの意識を変えることは、容易ではない。あるいは不可能かも
しれない。

 が、今、この日本は、大きく変わろうとしている。フランス革命のような派手な革命ではない
が、しかし今、それに匹敵するような、意識革命が、日本人の心の奥で、深く静かに、進行して
いる。

 こうした流れを、『サイレント革命』と呼んでいる人もいる。日本人の意識が、あらゆる面で、
大きく変わりつつある。

 家族の意識、夫婦の意識、親子の意識、結婚の意識、親戚の意識、「家」に対する意識、職
業意識などなど。すべてが、変りつつある。

 もうこの流れを止めることは、だれにもできない。

 さあ、あなたも、あなたの子どもに、こう言ってみよう。

 「私は、あなたの友だちよ。いっしょに、人生を楽しみましょう!」と。

 たったそれだけのことが、あなたの中に巣くっている、古い意識を、こなごなに破壊する。そし
てあなたの意識が、ちょうどドミノ倒しのドミノのように、日本の中に残っている封建時代の亡霊
たちを、こなごなに破壊する。

 話がどこかバラバラになってしまったが、犠牲心があるということ自体、あなたの子育ては、
どこかおかしいということになる。その「おかしさ」に、できるだけ、早く気づくこと。それはあなた
の子どものためというよりは、あなた自身の、豊かな老後のためである。




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11

●官僚主義国家

●予算案、衆議院を通過

+++++++++++++++++++++++++++

以下、時事評論的で、あまりおもしろくないので、興味の
ない方は、とばしてください。すみません。

私の性格としては、こういう文章が得意で、書くのが好き
なのです。

+++++++++++++++++++++++++++

 04年度の国家予算案が、衆議院を通過した。

 それによると……という話では、よくわからない。
 そこで、わかりやすく説明すると、こういうことになる。

 たとえて言うなら、今の日本の国家経済は、年収が420万円の人が、借金に借金を重ねて、
820万円の生活を維持しているようなもの。(税収42兆円。一般合計82兆円)

 で、そのたまりにたまった借金が、8130万円。(来年度で、810兆円)つまり年収の、約20
倍! 

(実際には、地方財政、公団、公社の借金もある。あの旧国鉄債務だけでも、プラス20兆円も
ある。特殊法人の負債額だけでも、255兆円(00年)。これらを合計すると、軽く1000兆円を
超える。つまり一家にたとえると、1億円以上の借金ということになる。ゾーッ。1億円の借金だ
ぞ!)

 老人(年金受給者)をかかえているため、420万円のうち、半額以上が、その老人の生活費
のために使っている。しかたないので、今年も、1620万円(国債発行額は、162兆円)の借
金。

 年収420万円の人が、その2倍もかかる生活をつづけ、毎年、1620万円も借金をしたら、
どうなるか? 少し、家計簿をつけたことのある人なら、わかるはず。それにしても、8130万
円とは! そんな借金、どうすればいいのだ!

 ……実は、これが日本の現状である。

 が、オヤジも、同居老人も、仕事はしない。かろうじてがんばっているのは、民間会社に勤め
る、息子夫婦。少しは貯金もたまったようだ。オヤジも、同居老人も、それをアテにして、道楽
ざんまいの生活。今年も、庭や、玄関先を美しくするために、お金をかけることにした。その
額、320万円!

 あああ……という思いで、今日は、「日本の官僚主義」について、考えてみたい。

 念のため申しあげるなら、こうしたムダな生活のツケは、すべて、つぎの世代の子どもたち
が、払うことになる。

わかっていますか? 全国の、お父さん、お母さん!

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 月末のある日の、午後。郵便局で、立ったまま並んで待っていると、五、六人の老人たちが、
それぞれが、100万円近い、札束を、手づかみで、袋に入れてもって帰る。

 年金受給者たちである。しかもその額からして、みな、元公務員の人たち。ごくありふれた光
景かもしれないが、この世相のなかで見ると、どこか異様な感じがする。

 現在、現役の公務員(国家公務員と地方公務員)だけで、この日本には、450万人もいる。
が、実際には、これだけではない。

国家公務員と地方公務員の数だけをみれば確かにそうだが、日本にはこのほか、公団、公
社、政府系金融機関、電気ガスなどの独占的営利事業団体がある。

これらの職員の数だけでも、「日本人のうち7〜8人に一人が、官族」(徳岡孝夫氏)だそうだ。
が、これですべてではない。

この日本にはさらに、公務員のいわゆる天下り先機関として機能する、協会、組合、施設、社
団、財団、センター、研究所、下請け機関がある。この組織は全国の津々浦々、市町村の
「村」レベルまで完成している。あの旧文部省だけでも、こうした外郭団体が、1800団体近くも
ある。

 もうめちゃめちゃな数といってよい。しかも驚いていけないのは、この「数」は、今の今も、肥
大化している。まさに日本が、官僚主義国家といわれるゆえんは、こんなところにある。

 以前、こんな原稿を書いた。一部、重複するが、許してほしい。

++++++++++++++++++

●日本は官僚主義国家

 日本が民主主義国家だと思っているのは、日本人だけ。学生時代、私が学んだオーストラリ
アの大学で使うテキストには、「日本は官僚主義国家」となっていた。「君主(天皇)官僚主義国
家」となっているのもあった。

日本は奈良時代の昔から、天皇を頂点にいだく官僚主義国家。その図式は、二一世紀になっ
た今も、何も変わっていない。首相も、野党第一党の党首も、みな、元中央官僚。

全国四七の都道府県のうち、二七〜九の府県の知事は、元中央官僚。七〜九の県では副知
事も元中央官僚。七〜九の県では副知事も元中央官僚(〇〇年)。さらに国会議員や大都市
の市長の多くも、元中央官僚(筆者、調査)。

たとえばこの静岡県でも、知事も副知事も、みんな元中央官僚。浜松市の市長も、元中央官
僚。この地域選出の国会議員のほとんども元中央官僚。「長」は、中央から、ありがたくいただ
き、その長に仕えるというのが、このあたりでも政治の構図になっている。(だからといって、そ
れがまちがっているというのではない。誤解のないように!)

その結果、どうなった? 

 今、浜松市の北では、第二東名の道路工事が、急ピッチで進んでいる。その工事がもっとも
進んでいるのが、この静岡県。しかも距離は各県の中ではもっとも長い(静岡県は、太平洋岸
に沿って細長い県)。

実に豪華な高速道路で、素人の私が見ただけでもすぐわかるほど、金がかかっている。現存
の東名高速道路とは、格段の差がある。もう少し具体的にデータを見てみよう。

 この第二東名は、バブル経済の最盛期に計画された。そのためか、コストは、一キロあた
り、236億円。通常の一般高速道(過去五年)の5・1倍のコストがかかっている。一キロあたり
236億円ということは、一メートルあたり2300万円。総工費11兆円。国の年間税収が約42
兆円(04年)程度だから、何とこの道だけで、その四分の一も使うことになる。

片側三車線の左右、六車線。何もかも豪華づくめの高速道路だが、現存の東名高速道路にし
ても、使用量は、減るか、横ばい状態(02年)。つまり今の東名高速道路だけで、じゅうぶんと
いうこと。

国交省高速国道課の官僚たちは、「ムダではない」(読売新聞)と居なおっているそうだが、こ
れをムダと言わずして、何という。何でもないよりはあったほうがマシ。それはわかるが、そん
な論理で、こういうぜいたくなものばかり作っていて、どうする?

静岡県のI知事は、高速道路の工事凍結が検討されたとき(02年)、イの一番に東京へでか
け、先頭に立って凍結反対論をぶちあげていたが、そうでもしなければ、自分の立場がないか
らだ。

 みなさん、もう少し、冷静になろう! 自分の利益や立場ではなく、日本全体のことを考えよ
う。私とて、こうしてI知事を批判すれば、県や市関係の仕事が回ってこなくなる。損になること
はあっても、得になることは何もない。またこうして批判したからといって、一円の利益にもなら
ない。

 あの浜松市の駅前に立つ、Aタワーにしても、総工費が2000億円とも3000億円とも言わ
れている。複雑な経理のカラクリがあるので、いったいいくらの税金が使われたのか、また使
われなかったのか、一般庶民には、知る由もない。

が、できあがってみると、市民がかろうじて使うのは、地下の大中の二つのホールだけ。あの
程度のホールなら、400億円でじゅうぶんと教えてくれた建築家がいた。事実、同じころ、東京
の国立劇場は、その400億円で新築されている。豪華で問題になった、東京都庁ビルは、た
ったの1700億円!

浜松市は、「黒字になった」と、さかんに宣伝しているが、土地代、建設費、人件費のほとんど
をゼロで計算しているから、話にならない。が、それでムダな工事が終わるわけではない。そ
の上、今度は、静岡空港!

 これから先、人口がどんどん減少する中、いわゆる「箱物」ばかりをつくっていたら、その維
持費と人件費だけで、日本は破産してしまう。このままいけば、2100年には、日本の人口は、
今の三分の一から四分の一の、3000〜4000万人になるという。

日本中の労働者すべてが、公務員、もしくは準公務員になっても、まだ数が足りない。よく政府
は、「日本の公務員の数は、欧米と比べても、それほど多くない」と言う。が、これはウソ。まっ
たくのウソ!

国家公務員と地方公務員の数だけをみれば確かにそうだが、日本にはこのほか、公団、公
社、政府系金融機関、電気ガスなどの独占的営利事業団体がある。これらの職員の数だけで
も、「日本人のうち7〜8人に1人が、官族」(徳岡孝夫氏)だそうだ。が、これですべてではな
い。

この日本にはほかに、公務員のいわゆる天下り先機関として機能する、協会、組合、施設、社
団、財団、センター、研究所、下請け機関がある。この組織は全国の津々浦々、市町村の
「村」レベルまで完成している。あの旧文部省だけでも、こうした外郭団体が、1800団体近くも
ある。

 ちなみに、今の今、公務員(国家、地方公務員)だけでも、450万人もいる! 450万人だ
ぞ!

 今、公務員の人も、準公務員の人も、私のこうした意見に怒るのではなく、少しだけ冷静に考
えてみてほしい。「自分だけは違う」とか、「私一人くらい」とあなたは考えているかもしれない
が、そういう考えが、積もりに積もって、日本の社会をがんじがらめにし、硬直化させ、そして日
本の未来を暗くしている。

この大恐慌下で、今、なぜあなたたちだけが、安穏な生活ができるか、それを少しだけ考えて
みてほしい。もちろんあなたという個人に責任があるわけではない。責任を追及しているのでも
ない。

が、日本がかかえる借金は、1000兆円を超えた。国家税収がここにも書いたように、たった
の42兆円(04年)。国家税収の25倍以上! あなたたちの優雅な生活は、その借金の上に
成り立っている! 

 元公務員の人たちも、そうだ。毎年、「年金の支払いなどのため、一般会計の半額以上が、
特別会計(借金)に組み入れられている」(読売新聞)という事実を、あなたがたは、いったい、
どう考えているのか。わかりやすく言えば、あなたがたが手にする、月額30万円前後の年金
の半額以上は、国が借金に借金を重ねて、払っているということ。

 こういう私の意見に対して、メールで、こう反論してきた人がいた。「公共事業の70%は、人
件費だ。だから公共事業はムダではない」と。

 どうしてこういうオメデタイ人がいるのか。やらなくてもよいような公共事業を一方でやり、その
ために労働者を雇っておきながら、逆に、「70%は人件費だから、ムダではない」と。

これはたとえていうなら、毎日5回、自分の子どもに、やらなくてもよいような庭掃除をさせ、そ
のつどアルバイト料を払うようなものだ。しかも借金までして! それともあなたは、こう言うとで
もいうのだろうか。「アルバイト料の70%は、人件費だ。だからムダではない!」と。

 日本が真の民主主義国家になるのは、いつのことやら? 尾崎豊の言葉を借りるなら、「しく
まれた自由」(「卒業」)の中で、それを自由と錯覚しているだけ? 政府の愚民化政策の中で、
それなりにバカなことをしている自由はいくらでもある。またバカなことをしている間は、一応の
自由は保障される。

巨人軍のM選手が、都内を凱旋(がいせん)パレードし、それに拍手喝さいするような自由は
ある。人間国宝の歌舞伎役者が、若い女性と恋愛し、チンチンをフォーカスされても、平気でい
られるような自由はある(02年)。しかし日本の自由は、そこまで。その程度。しかしそんなの
は、真の自由とは言わない。絶対に言わない。

 少し頭が熱くなってきたから、この話は、ここでやめる。しかし日本が真の民主主義国家にな
るためには、結局は、私たち一人ひとりが、その意識にめざめるしかない。そしてそれぞれの
地域から、まずできることから改革を始める。政治家がするのではない。役人がするのではな
い。私たち一人ひとりが、始める。道は遠いが、それしかない。

●官僚政治に、もっと鋭い批判の目を向けよう!
●ムダなことにお金を使わず、子どもの養育費、学費の負担を、もっと軽くしよう!

+++++++++++++++++++++++

●公務員志望が、ナンバーワン

 02年度の冬のボーナスの結果が、出た。それによると、民間企業は、昨年度より、全体に4
〜5%の下落。しかしこの大恐慌下にあっても、公務員のボーナスだけは、反対にふえつづけ
ている。全体に3〜4%の増加!

 数年前、財団法人日本青少年研究所(千石保理事長)などが東京、ソウル、ニューヨーク、
パリの中学二年生と高校二年生、計約3700人を対象に実施。その結果、希望する職業は、
日本では公務員や看護婦などが上位。米国は医師や政治家、フランスは弁護士、韓国は医
師や先端技術者が多かった。

人生の目標では、日本の生徒は「人生を楽しむ」が61・5%と最も多く、米国は「地位と名誉」
(40・6%)、フランスは「円満な家庭」(32・4%)ということがわかった(〇〇年七月)。

 それぞれの公務員の人に、責任があるわけではない。またそういう人の、責任を追及してい
るわけでもない。ただしかし、このままでよいかということ。こうまで日本で、公務員や準公務員
がふえ、またこうまでこうした人たちが優遇されると、日本の社会そのものが、活力をなくしてし
まう。もちろん経済力も落ちる。そのことは、旧ソ連を見ればわかる。今の北朝鮮をみればわ
かる。

元公務員の人たちも、そうだ。毎年、「年金の支払いなどのため、一般会計の半額以上が、特
別会計(借金)に組み入れられている」(読売新聞)という事実を、あなたがたは、いったい、ど
う考えているのか。わかりやすく言えば、あなたがたが手にする、月額30万円前後の年金の
半額以上は、国が借金に借金を重ねて、払っているということ。
 
お金は天から降ってくるものではない。地からわいてくるものでもない。しかしこの日本では、そ
んなわかりきったことすら、わからなくなってきている? H市の市役所に勤めるE氏(四五歳)
は、はからずもこう言った。「デフレになったおかげで、私ら、生活が楽になりました」と。

●知事も市長も、国会議員も、元官僚

 本来なら、政治によって、日本の流れを変えなければならないが、その政治そのものが、官
僚の思うがままに、動かされている。

総理大臣以下、野党の党首すら、元中央官僚。全国四七の都道府県のうち、27〜9の府県
の知事は、元中央官僚。7〜9の県では副知事も元中央官僚。7〜9の県では副知事も元中
央官僚(〇〇年)。さらに国会議員や大都市の市長の多くも、元中央官僚。明治の昔から、全
国の津々浦々まで、官僚が日本を支配するという構図そのものが、すでにできあがっている。
こういう国で、構造改革、つまり官僚体制の是正を期待するほうが、おかしい。

その結果、国の借金だけでも813兆円(国の税収は42兆円)(04年)。そのほか、特殊法人
の負債額だけでも255兆円(〇〇年)。「日本は新しいタイプの社会主義国家」と言う学者もい
る。が、だ。さらに驚くべきことは、こういう日本にあっても、公務員や準公務員、さらに官僚体
制にぶらさがる団体の職員数は、減るどころか、今の今も肥大し続けている!

●日本はこれでよいのか?

 この国がこれから先、どうなるか、そんな程度のことなら、中学生や高校生でもわかる。日本
は、やがて行きつくところまで、行く。が、こうなってしまったのは、結局は、日本人が、そのつ
ど、「考える」ということを放棄してしまったからではないのか。その責任は、政府にあるのでは
ない。官僚にあるのでもない。私たち自身にある。

もう一五年も前になるだろうか。明日は国政選挙の日というとき、一人の子ども(小五男児)
が、こう言った。「明日は、浜名湖で、パパとウィンドサーフィンをする」と。私が「お父さんは、選
挙には行かないのか?」と聞くと、「あんなの行かないって、言っている」と。こういう無関心が、
積もりに積もって、今の日本をつくった。

 選挙のたびに、低投票率が問題になるが、その低投票率をもっとも喜んでいるのは、皮肉な
ことに、官僚たちではないのか。国民の政治意識が薄くなればなるほど、好き勝手なことがで
きる。

 また私のようなものが、こんなことを訴えても、何にもならない。彼らにしてみれば、その立場
にない私の意見など、腹から出るガスのようなものだ。その立場にある人でも、この日本では、
反官僚主義をかかげたら、それだけで、排斥されてしまう。仕事すら回ってこない。

あるいはこれだけ公務員や準公務員が多くなると、あなたの家族の中にも、一人や二人は、
必ずそういう人がいる。あるいはあなた自身がそうかもしれない。そういう現実があるから、内
心ではおかしいと思っていても、だれも反旗をひるがえすことができない。へたに騒げば、自分
で自分のクビをしめることになる。

 公務員が、人気業種ナンバーワンというのは、そういう意味でも、実に悲しむべき、現象と考
えてよい。あなたもこの問題を、一度、じっくりと考えてみてほしい。

【追記】

すこし前、K県A高校の校長が、「フリーター撲滅論」を唱えた。「フリーターというのは、まともな
仕事ではない」と。「撲滅」というのは、「たたきつぶす」という意味である。私はこの言葉に、猛
烈に反発した。

その校長が言うところの、「まともな仕事」というのは、どういう仕事のことを言うのか。仕事にま
ともな仕事も、まともでない仕事も、ない。

私は幼稚園講師になったとき、さんざんこの言葉を浴びせかけられた。母にも言われた。叔父
にも言われた。高校時代の担任にも言われた。その言葉で、私はどれほど自信をなくし、キズ
ついたことか。具体的には、30歳をすぎるまで、自分の職業を隠した。

しかし社会的なきびしさという点では、自分で選んだ道とはいえ、その校長とは、比較にならな
い。そういうきびしさが、日本を下から支えているのだ。決して、こういう校長が、日本を下から
支えているのではない。それがわからなければ、一度でよいから、この大不況下で、職業安定
所を出入りする元サラリーマンの気持ちになって考えてみることだ。

それともリストラにあった人は、「まともな人間ではない」とでも、言うのだろうか?


++++++++++++++++++++++

●公務員国家

 子どもをリーダーにするために……と書いて、ハタと困ってしまった。親たちがそれを望んで
いないケースも多い。いろいろな調査結果をみても、最近の親たちは、「子どもたちに就(つ)い
てほしい仕事」として、「公務員」を選んでいるのがわかる。理由は、「安定」と「楽」。

 しかし「教育」というのは、「個人」の立場と、「全体」の立場の二つで考えなければならない。
全体というのは、現時点では、「国」ということになる。国の未来を考えるなら、「競争」と「きびし
さ」がないと発展しない。つまり今までの日本がここまで発展できたのは、その競争ときびしさ
があったからである。またこれから先、日本の未来が暗いのは、その競争ときびしさが、どこか
へ消えてしまったからである。

たとえば今、アジアの経済拠点は、シンガポールに移ってしまった。2015年を境に、日本と中
国の立場は逆転するだろうと言われている。今の今、かろうじて日本が今の日本の立場を守
ることができるのは、日本全体が、いわば世界のサラ金的な役割をしているからにほかならな
い。

 そういう世界情勢も一方でにらみながら、教育を考えなければならない。もっとはっきり言え
ば、仮にこれ以上、(すでに限界を超えて肥大化しているが……)、公務員がふえて、そういう
人たちが、権利の王国に安住するようになったら、日本は、おしまいということ。

国家公務員、地方公務員の数だけで、450万人前後と言われている。が、それだけではな
い。電気ガス事業団体、公団、公社、さらにはこうした人たちの天下り先機関まで含めると、日
本人の労働者のうち、7〜8人に一人が、公務員もしくは、準公務員と言われている。

 それぞれの人には、もちろん責任はない。しかし公務員というのは、本来的にリーダーシップ
をもちにくい職種の人たちである。それはわかる。また組織上、そういうリーダーシップをもて
ばもつほど、集団からは敬遠されるしくみになっている?

 こうした現状を打破するには、二つの方法がある。一つは、思い切って公務員の数を減ら
す。もう一つは、公務員の世界にも、競争ときびしさの原理を導入する。あるいは二つを、同時
進行させる。

公務員になったから、死ぬまで安泰という制度のほうが、おかしい。少なくとも、日本を取り巻く
世界の国々は、そういう常識では動いていない。
(040306)(はやし浩司 公務員 準公務員 原S)

【後記】

 こういう意見を述べると、「林は、共産党員か」と言う人もいる。しかし私はここで、はっきりと
明言しておく。

 私は、共産党員でも、何でもない。「おかしいことは、おかしい」と言う、ただの常識人である。

 それに私が信奉するのは、共産主義ではない。民主主義である。むしろ今の日本の社会
は、「新しいタイプの社会主義国家」と評する学者がいる。これだけ公務員社会が肥大化してく
ると、それもまちがっていない。私は、その「新しいタイプの社会主義国家」にすら、反対してい
るのである。

 どうか、誤解のないように。

 それに同じ公務員でも、学校の先生たちは、まったく別。忙しさという点だけでも、一般公務
員とは、比較にならない。

今、全国の自治体では、教員だけは、約20%アップの給料体系をとっている。しかしそれで
も、足りないのではないのかというのが、私の実感である。

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もう一つ、ショッキングな事実を、掲載しておきます。

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日本の教育を考える     

●遅れた教育改革

 少し、古い資料で恐縮だが、二〇〇二年一月の段階で、東証外国部に上場している外国企
業は、たったの三六社。この数はピーク時の約三分の一(九〇年は一二五社)。

さらに二〇〇二年に入って、マクドナルド社やスイスのネスレ社、ドレスナー銀行やボルボも撤
退を決めている。

理由は「売り上げ減少」と「コスト高」。売り上げが減少したのは不況によるものだが、コスト高
の要因の第一は、翻訳料だそうだ(毎日新聞)。悲しいかな英語がそのまま通用しない国だか
ら、外国企業は何かにつけて日本語に翻訳しなければならない。

 これに対して金融庁は、「投資家保護の観点から、上場先(日本)の母国語(日本語)による
情報開示は常識」(同新聞)と開き直っている。

日本が世界を相手に仕事をしようとすれば。今どき英語など常識なのだ。しかしその実力はア
ジアの中でも、あの北朝鮮とビリ二を争うしまつ。日本より低い国はモンゴルだけだそうだ(TO
EFL・国際英語検定試験で、日本人の成績は、一六五か国中一五〇位・九九年)。

日本の教育は世界の最高水準と思いたい気持ちはわからないでもないが、それは数学や理
科など、ある特定の科目に限った話。日本の教育水準は、今ではさんたんたるもの。今では分
数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レベルの問題で、正
解率は五九%」(国立文系大学院生について調査、京大・西村)だそうだ。

●日本の現状

 東大のある教授(理学部)が、こんなことを話してくれた。「化学の分野には、一〇〇〇近い
分析方法が確立されている。が、基本的に日本人が考えたものは、一つもない」と。

オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本に
は数えるほどしかいない。あの天下の東大には、一人もいない。(退職教授でも、たったの一
人だけ。)

ちなみにアメリカだけでも、二五〇人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い。

「日本の教育は世界最高水準にある」と思うのはその人の勝手だが、その実態は、たいへん
お粗末。今では小学校の入学式当日からの学級崩壊は当たり前。はじめて小学校の参観日
(小一)に行った母親は、こう言った。「音楽の授業ということでしたが、まるでプロレスの授業で
した」と。

●低下する教育力

 こうした傾向は、中学にも、そして高校にも見られる。やはり数年前だが、東京の都立高校
の教師との対話集会に出席したことがある。その席で、一人の教師が、こんなことを言った。

いわく、「うちの高校では、授業中、運動場でバイクに乗っているのがいる」と。すると別の教師
が、「運動場ならまだいいよ。うちなんか、廊下でバイクに乗っているのがいる」と。そこで私が
「では、ほかの生徒たちは何をしているのですか」と聞くと、「みんな、自動車の教習本を読んで
いる」と。

さらに大学もひどい。大学が遊園地になったという話は、もう一五年以上も前のこと。日本では
大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生はこう言った。
「ぼくたちには考えられない」と。

大学制度そのものも、日本のばあい、疲弊している! つまり何だかんだといっても、「受験」
が、かろうじて日本の教育を支えている。もしこの日本から受験制度が消えたら、進学塾はも
ちろんのこと、学校教育そのものも崩壊する。

確かに一部の学生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。内閣府の調査でも、
「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、二六%もいる(二〇〇〇年)。九八年の調査
よりも八%もふえた。むべなるかな、である。

●規制緩和は教育から

 日本の銀行は、護送船団方式でつぶれた。政府の手厚い保護を受け、その中でヌクヌクと
生きてきたため、国際競争力をなくしてしまった。しかし日本の教育は、銀行の比ではない。護
送船団ならぬ、丸抱え方式。教育というのは、二〇年先、三〇年先を見越して、「形」を作らね
ばならない。

が、文部科学省の教育改革は、すべて後手後手。南オーストラリア州にしても、すでに一〇年
以上も前から、小学三年生からコンピュータの授業をしている。メルボルン市にある、ほとんど
のグラマースクールでは、中学一年で、中国語、フランス語、ドイツ語、インドネシア語、日本語
の中から、一科目選択できるようになっている。

もちろん数学、英語、科学、地理、歴史などの科目もあるが、ほかに宗教、体育、芸術、コンピ
ュータの科目もある。芸術は、ドラマ、音楽、写真、美術の各科目に分かれ、さらに環境保護
の科目もある。もう一つ「キャンプ」という科目があったので、電話で問い合わせると、それも必
須科目の一つとのこと(メルボルン・ウェズリー・グラマースクール)。 

 さらにこんなニュースも伝わっている。外国の大学や高校で日本語を学ぶ学生が、急減して
いるという。カナダのバンクーバーで日本語学校の校長をしているM氏は、こう教えてくれた。

「どこの高等学校でも、日本語クラスの生徒が減っています。日本語クラスを閉鎖した学校もあ
ります」と。こういう現状を、日本人はいったいどれくらい知っているのだろうか。

●規制緩和が必要なのは教育界

 いろいろ言われているが、地方分権、規制緩和が一番必要なのは、実は教育の世界。もっと
はっきり言えば、文部科学省による中央集権体制を解体する。地方に任すものは地方に任
す。せめて県単位に任す。

だいたいにおいて、頭ガチガチの中央に居座る文部官僚たちが、日本の教育を支配するほう
がおかしい。日本では明治以来、「教育というのはそういうものだ」と思っている人が多い。が、
それこそまさに世界の非常識。あの富国強兵時代の亡霊が、いまだに日本の教育界をのさば
っている!

 今まではよかった。「社会に役立つ人間」「立派な社会人」という出世主義のもと、優良な会社
人間を作ることができた。「国のために命を落とせ」という教育が、姿を変えて、「会社のために
命を落とせ」という教育に置きかわった。

企業戦士は、そういう教育の中から生まれた。が、これからはそういう時代ではない。日本が
国際社会で、「ふつうの国」「ふつうの国民」と認められるためには、今までのような教育観は、
もう通用しない。いや、それとて、もう手遅れなのかもしれない。

 いや、こうした私の意見に対して、D氏(六五歳・私立小学校理事長)はこう言った。「まだ日
本語もよくわからない子どもに、英語を教える必要はない」と。つまり小学校での英語教育は、
ムダ、と。

しかしこの論法がまかり通るなら、こうも言える。「日本もまだよく旅行していないのに、外国旅
行をするのはムダ」「地球のこともよくわかっていないのに、火星に探査機を送るのはムダ」
と。私がそう言うと、D氏は、「国語の時間をさいてまで英語を教える必要はない。しっかりとし
た日本語が身についてから、英語の勉強をしても遅くはない」と。

●多様な未来に順応できるようにするのが教育

 これについて議論を深める前に、こんな事実がある。アメリカの中南部の各州の小学校で
は、公立小学校ですら、カリキュラムを教師と親が相談しながら決めている。

たとえばルイサ・E・ペリット公立小学校(アーカンソー州・アーカデルフィア)では、四歳児から
子どもを預かり、コンピュータの授業をしている。近くのヘンダーソン州立大学で講師をしてい
る知人にそのことについて聞くと、こう教えてくれた。

「アメリカでは、多様な社会にフレキシブル(柔軟)に対応できる子どもを育てるのが、教育の目
標だ」と。

事情はイギリスも同じで、在日イギリス大使館のS・ジャック氏も次のように述べている。「(教
育の目的は)多様な未来に対応できる子どもたちを育てること」(長野県経営者協会会合の
席)と。

オーストラリアのほか、ドイツやカナダでも、学外クラブが発達していて、子どもたちは学校が
終わると、中国語クラブや日本語クラブへ通っている。こういう時代に、「英語を教える必要は
ない」とは!

●文法学者が作った体系

 ただ英語教育と言っても、問題がないわけではない。日本の英語教育は、将来英語の文法
学者になるには、すぐれた体系をもっている。数学も国語もそうだ。将来その道の学者になる
には、すぐれた体系をもっている。理由は簡単。

もともとその道の学者が作った体系だからだ。だからおもしろくない。だから役に立たない。こう
いう教育を「教育」と思い込まされている日本人はかわいそうだ。子どもたちはもっとかわいそ
うだ。たとえば英語という科目にしても、大切なことは、文字や言葉を使って、いかにして自分
の意思を相手に正確に伝えるか、だ。

それを動詞だの、三人称単数だの、そんなことばかりにこだわっているから、子どもたちはま
すます英語嫌いになる。ちなみに中学一年の入学時には、ほとんどの子どもが「英語、好き」と
答える。が、一年の終わりには、ほとんどの子どもが、「英語、嫌い」と答える。

●数学だって、無罪ではない 

 数学だって、無罪ではない。あの一次方程式や二次方程式にしても、それほど大切なものな
のか。さらに進んで、三角形の合同、さらには二次関数や円の性質が、それほど大切なものな
のか。

仮に大切なものだとしても、そういうものが、実生活でどれほど役に立つというのか。こうした教
育を正当化する人は、「基礎学力」という言葉を使って、弁護する。「社会生活を営む上で必要
な基礎学力だ」と。

もしそうならそうで、一度子どもたちに、「それがどう必要なのか」、それを説明してほしい。「な
ぜ中学一年で一次方程式を学び、三年で二次方程式を学ぶのか。また学ばねばならないの
か」と、それを説明してほしい。

その説明がないまま、問答無用式に上から押しつけても、子どもたちは納得しないだろう。現
に今、中学生の五六・五%が、この数学も含めて、「どうしてこんなことを勉強しなければいけ
ないのかと思う」と、疑問に感じているという(ベネッセコーポレーション・「第三回学習基本調
査」二〇〇一年)。

●教育を自由化せよ

 さてさきほどの話。英語教育がムダとか、ムダでないという議論そのものが、意味がない。こ
ういう議論そのものが、学校万能主義、学校絶対主義の上にのっている。

早くから英語を教えたい親がいる。早くから教えたくない親もいる。早くから英語を学びたい子
どもがいる。早くから学びたくない子どももいる。早くから英語を教えるべきだという人がいる。
早くから教える必要はないという人もいる。

要は、それぞれの自由にすればよい。今、何が問題かと言えば、学校の先生がやる気をなくし
てしまっていることだ。雑務、雑務、その上、また雑務。しつけから家庭教育まで押しつけられ
て、学校の先生が今まさに窒息しようとしている。

ある教師(小学五年担任、女性)はこう言った。「授業中だけが、体を休める場所です」と。「子
どもの生きるの、死ぬのという問題をかかえて、何が教材研究ですか」とはき捨てた教師もい
た。

そのためにはオーストラリアやドイツ、カナダのようにクラブ制にすればよい。またそれができ
る環境をつくればよい。「はじめに学校ありき」ではなく、「はじめに子どもありき」という発想で
考える。それがこれからの教育のあるべき姿ではないのか。

また教師の雑務について、たとえばカナダでは、教師から雑務を完全に解放している。教師は
学校での教育には責任をもつが、教室を離れたところでは一切、責任をもたないという制度が
徹底している。

教師は自分の住所はおろか、電話番号すら、親には教えない。だからたとえば親がその教師
と連絡をとりたいときは、親はまず学校に電話をする。するとしばらくすると、教師のほうから親
に電話がかかってくる。こういう方法がよいのか悪いのかについては、議論が分かれるところ
だが、しかし実際には、そういう国のほうが多いことも忘れてはいけない。



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12

●離婚のあとに……
 
 Aさん(38歳、秋田県H市在住)。5年前、二人の子どもを夫に預けて、離婚。原因は、Aさん
の不倫。そのAさんは、現在、そのときの不倫相手と再婚。「今は、最高に幸福な生活を送って
いる」(Aさんのメール)とのこと。

 が、その一方で、Aさんは、二人の子どもに対する、恋慕に苦しんでいる。二人の子どもは、
上の子どもが、11歳(兄)、8歳(妹)。「会いたいが、会うべきではない」「もし子どもたちが、自
分を求めていたら、どうしたらいいのか」「この5年間、まったく連絡をとっていない」と。

 前夫が再婚しているかどうかも、知らないという。現在、前夫の住んでいるところとは、70キ
ロくらい離れているとのこと。(以上、Aさんからのメールを要約。)

++++++++++++++++++

 メールの内容によれば、離婚相談のとき、Aさんは、「自分のわがままで離婚するのだから、
二人の子どもは、前夫に渡した」とのこと。しかしその文面からは、引き裂かれた母子の苦しみ
が、にじみ出ていた。それで私に、「アドバイスしてほしい」と。

 しかし私は、こういう事例については、まったく無力でしかない。とても残念だが、私の心に
は、Aさんを理解するだけの「心のポケット」がない。つまり人というのは、同じような苦しみや悲
しみを経験して、はじめて他人の苦しみや悲しみを理解できるようになる。それを昔、学生時代
の私の恩師は、「心のポケット」と呼んだ。

 ただ、想像できなくはない。そしてそれほどまでの事例ではなくても、子どもと別れた母親の
事例は、いくつか経験している。ひとつずつ、順に、心の紐(ひも)をほどいてみよう。

 Aさんは、不倫をした。しかしそれは決して、「浮気」と言えるような、浅いものではなかった。
その証拠に、Aさんは、二人の子どもと別れて、その不倫相手の男性と再婚している。

 そういうAさんを、だれが責めることができるだろうか。Aさんは、真剣だった。まじめだった。
そして自分の心の、「強烈な命令」に従って、前夫と離婚した。その強烈な命令は、Aさん自身
の心の迷いという範囲を超えた、まさに「人間として、その根底から、わき起こる命令」だったに
ちがいない。

 Aさんは、何も、まちがったことはしていない。もしAさんの行為がまちがっているというのな
ら、人間そのものがまちがっていることになる。

 Aさんは、結婚していた。二人の子どももいた。しかし電撃に打たれるような恋をした。そして
それに打ちのめされるようにして、離婚した。そこらの浮ついた男女が、遊びでする浮気とは、
中身も深みも、ちがっていた。

 で、その結果として、二人の子どもを、夫のもとに置いて、離婚した。そのときの判断が正し
かったかどうかは別として、Aさんにしてみれば、Aさんが感ずる「罪」に対する、せめてもの「つ
ぐない」だったかもしれない。Aさんは、こう言う。「前夫にすべてを捨てろというのは、できなか
った」と。

 不幸か不幸でないかといえば、こうした結末は、二人の子どもにとっては、不幸に決まってい
る。とくに今の状態では、二人の子どもは、「母は、私たちを捨てた」と思っている。またそう思
って、当然である。

 いくらAさんが、「そうでない」と思っていても、それはAさんの身勝手。事実として、Aさんは、
二人の子どもを捨てた。この親としての「罪」は、決してつぐなえるようなものではない。夫に子
どもたちを渡すことで、Aさんは、夫に対しては、つぐなったつもりでいるが、それは夫に対し
て、だけ。

 そこでAさんは、子どもへの思いが断ちきりがたく、思い悩んでいる。「どうしたら
いいか」と。

 Aさんは、不倫相手と再婚はしたものの、一日とて、心の晴れる日はなかったはず。「今は最
高に幸福です」とは書いているが、それは精一杯の虚勢であるにちがいない。朝起きれば、子
どものこと。昼の時報を聞けば、子どものこと。夜、床に入れば、子どものこと。近所の同年齢
の子どもを見ては、自分の子どものこと。それを思いやりながら、「今ごろは、9歳になったは
ず」「今ごろは、10歳になったはず」と。一日とて、いや一分とて、子どものことを忘れたことは
ないはず。

 それはものすごい閉塞(へいそく)感である。おまけに、Aさんを見る、世間の目は冷たい。恐
らく、親戚中から、白い目で見られている。「ひどい女だ」「子どもを捨てた、悪女だ」と。

 世間的な常識を言えば、そういうことになる。これに対して、Aさんが、抵抗したり、否定したり
したところで、意味はない。先に書いた、「強烈な命令」の前には、世間的な常識など、道端の
スミにたまったホコリのようなもの。この強烈な命令が、いかに強烈であるかは、あの川端靖
成をみればわかる。ノーベル文学賞までとった文学の大家でも、晩年、10代の女性と、恋をし
ている!

 しかしこうした閉塞感は、何もAさんだけが経験しているものではない。Aさんは、子どもと生
き別れたが、死に別れた人だって多い。さらに子どもではなく、親や兄弟と、生き別れたり、死
に別れたひともいる。夫や妻と、生き別れたり、死に別れた人だっている。恋人と生き別れた
り、死に別れた人となると、五万といる。あるいはもっと多い。

 それぞれが、それぞれに重い十字架を背負っている。こんな例もある。

 B氏(50歳)は、そのとき、母親と決別状態にあった。だから母危篤(きとく)の報を受けたと
きも、母親のもとには走らなかった。やがてすぐ母親はなくなったが、葬儀にも出なかった。B
氏が、45歳のときのことだった。

 そのB氏には、一人の妹がいた。身体に障害があり、介護がないと、満足にトイレへも行けな
い状態だった。しかしB氏は、その妹を、叔母に預けた。(本当は、見るに見かねて、叔母が、
その妹のめんどうをみることになった。決して、叔母のほうから、引きとったわけではなかっ
た。)

 このケースでも、B氏は、世間からは白い目で見られた。親戚からも、「ひどい息子」とののし
られた。しかしそのB氏が、実は、父親の子どもではなく、祖父と母親との間にできた子どもだ
った。それにいろいろと複雑な家庭の事情がからんだ。B氏は、母親を、心底、うらんでいた。

 が、それから5年。

 B氏の心が晴れることは、一日もなかった。B氏は、母親の死に目にもあわなかったことを悔
やんだ。葬儀に出なかったことも悔やんだ。そのときは「正しい決断」と思っていたが、時がた
つにつれて、心が変化するということは、よくある。

 毎日が、その「悔やみ」との戦いでもあった。今になってB氏は、こう言う。「どうして私は、もっ
と早く母を許せなかったのか」と。

 こうした事例は、形こそちがえ、いくらでもある。幸福な家庭は、どれもよく似ているが、不幸
な家庭は、みなちがう。顔もちがう。しかしつきつめれば、「不幸な思い」は、どの人も共通して
いる。

 だからAさんについても、「あなただけではないですよ」と言いつつも、しかし今、Aさんが感じ
ているであろう閉塞感は、B氏とは比較にならないほど、重いものであるにちがいない。私やあ
なたが安易に、アドバイスできるような内容のものではない。メールには、「私は幸福です」とは
あるが、幸福になれるはずはない。

 これから先、Aさんがすべきことは、(今は、まだ子どもたちが小さいから、しないほうがよ
い)、いつか、二人の子どもたちの前で、両手をついてあやまることである。しかしそのときで
も、二人の子どもが許してくれるとはかぎらない。しかしそれでも、Aさんは、あやまるべきであ
る。

 そういう日は、必ず、やってくる。でないと、この種の閉塞感は、日増し、年ごとに大きくなり、
ますますAさんを苦しめる。「忘れよう」「忘れよう」と、もがけばもがくほど、クモの巣のからん
だ、あり地獄の中に落ちていく。はっきり言えば、今、Aさんが感じている「幸福感」などというも
のは、紙のように薄いガラスでできた、箱のようなもの。

 つまりAさんは、こうした現実を、はっきりと認識しなければならない。逃げてはいけない。認
識する。それは同時に、とても苦しいことだが、それは自分がかかえた大病と、真正面から向
きあうのに、似ている。心の中の(わだかまり)を理解しないかぎり、その人は、そのわだかまり
と、戦うことすら、できない。

 本来なら、メールをくれたAさんに対して、「こうしたらいいですよ」というような返事を書かねば
ならない。しかし職業柄、どうしても、私の視点は、捨てられた二人の子どものほうに、向かっ
てしまう。「どれほど、さみしい思いをしただろうか」「つらい思いをしただろう」と。恐らく今の今
も、二人の子どもは、Aさんを慕いながら、その一方で、それ以上に、Aさんをうらんでいる。

 不倫がすべて悪というわけではない。

 真剣であるなら、不倫も許される。ある女性(35歳)は、一人の男性(43歳)と、一年にわた
って不倫をつづけた。週一回ほど会っては、濃厚なセックスを繰りかえした。しかしその女性
は、結局は、その男性と別れた。

 その女性は、別のところで、こんなことを言っている。「私は不倫をしました。あの世では、ま
ちがいなく地獄に落ちます。その覚悟はできています。ただ不倫をした分だけ、私は今の夫に
尽くしています。ですから不倫をしたおかげで、おかしなことですが、夫婦の仲もよくなりました」
と。

 いろいろな不倫があるが、そういう不倫もある。今さら過去を取り消すことはできないが、Aさ
んも、まだその段階であれば、いろいろ打つ手はあったのだろう。しかしその前に、その不倫
は、前夫の知るところとなってしまった。
 
【Aさんへ】 

 メール、ありがとうございました。

 多分、私に相談してくださっても、問題の根本が、解決しないかぎり、あなたの心が整理され
ることはないと思います。お力になりたいのですが、私は、あまりにも無力です。ゆいいつあな
たができることと言えば、二人のお子さんの幸福を願うことだけですが、しかしそれとて、もう、
あなたとは、関係のない世界のことです。

 あなたは「ひょっとしたら、二人の子どもが、今でも私を求めているかもしれない」「私はそれ
に答えてあげたい」というようなことを書いておられますが、それは、その通りであると同時に、
まったく、その通りではありません。

 自分たちを捨てた(この表現は適切ではないかもしれませんが、お子さんたちは、そう思って
います)母親を、二人の子どもたちも、まさに毎日、恋焦がれています。それは当たり前のこと
ではないですか! しかし同時に、内心の奥深くではそうであるとしても、それと同じくらい、あ
なたという母親をうらんでいます。それも当たり前のことではないですか!

 5年という歳月は、あまりにも長すぎます。母への恋慕が、うらみに変るのは、一日でじゅうぶ
んです。もちろんあなたには、あなたの言い分があります。夫のもとに子どもを置いていったの
は、夫への罪滅ぼしということですね。それはわかりますが、言いかえると、あなたは自分の子
どもを、取り引きの材料にしてしまったのです。

 多分、あなたは親意識の強い女性なのでしょう。子どもの心を確かめることもなく、また聞くこ
ともなく、一方的に、そうしてしまった? いただいたメールでも、子どもたち自身の心が、まっ
たく見えてきません。

 では、どうするか?

 答は簡単です。

 あなたは重い十字架を、死ぬまで背負います。重い、重い、十字架です。この十字架からの
がれる方法は、残念ながら、ありません。いくら弁解しても、いくら自己正当化しても、この十字
架からのがれることは、できません。

 あなたの二人の子どもが幸福になっても、仮に不幸になれば、なおさら、あなたの心が晴れ
ることはありません。そういう現実を、しっかりと見つめ、あなたはあなたで、懸命に今を生きて
いくしかないでしょう。

 だからといって、私はあなたを責めているのではありません。あなた自身ですら、「あなたが
あなたである前」の、「人間」という、まさにその人間から発する「強烈な命令」によって、自分の
行動を決めたのです。

 ゆいいつの望みは、そういう「強烈な命令」を、いつか、あなたの二人の子どもも、理解する
日が、やってくるかもしれないということ。まさにあなたは、(命がけの恋)をしたわけです。しか
しその命がけの恋は、二人の子どもの心に、ナイフを突き刺してしまった! そのキズを、だれ
が、どうやっていやすことができるというのでしょうか。

 私は、不可能だと思います。

 しかしね、Aさん。

 これが人生なのですね。今はまだおわかりにならないかもしれませんが、そういった自分も含
めて、「人間って、そういうもの」と、わかるときがやってきます。40代とか、50代になると、で
す。

 いろいろなドラマを繰りかえしながら、同時に、無数のドラマを、人間は、あとに残していく…
…。つまり「私」という人間を、「人間」という視点から、見ることができるようになります。そして、
ですね、そこが不思議なところですが、そういう人間に、「美しさ」を見ることができるようになり
ます。

 あなたも、いつか、そうして悩み、苦しみながらも、そういう自分の中に、「美しさ」を見ること
ができるようになります。ですから、今は、懸命に生き、懸命に幸福を求め、そして同時に、懸
命に悩み、苦しんだらよいのです。

 逃げてはだめです。真正面から、ぶつかっていきます。そういう中から、あなたは、別のあな
たを見出していく。そしていつか、気がついたとき、あなたはふつうの人をはるかに超えた、す
ばらしい人になっています。

 いいですか? だれしも、一つや二つ、そういう十字架を背負って生きています。この一年間
だけでも、こんな事例があります。

 一人息子(19歳)を、自殺に追いこんでしまった両親。同じく妻を、自殺に追いこんでしまった
夫。少し前には、自宅に放火して、娘を殺してしまった母親など。一見、極端な例に見えるかも
しれませんが、そういう人たちが背負った十字架とくらべると、あなたの背負った十字架など、
軽いものです。軽い、軽い、本当に、軽い!

 だからあなたはあなたで、前向きに生きていきなさい。

 あなたはあなたというより、人間が本性としてもつ「強烈な命令」に従った。それはまちがって
いない。以前、こんな原稿(この返事のあとに添付)を書きましたので、送ります。中日新聞に
掲載してもらったものです。何かの参考になると思います。

 そしてあなたは今の苦しみや悲しみを、つぎの段階にまで昇華させます。そうそう、先に書い
た、B氏ですが、今は、ボランティアで、老人福祉をしています。もう少し具体的には、自分にも
別の仕事があるので、妻に、その仕事をしてもらっています。その妻の仕事を、応援していま
す。

 なぜB氏が、そうなのか? そうしているのか? あなたなら、その理由がわかるはずです。

 たしかにあなたの二人の子どもは、あなたに捨てられた。これは事実です。心に大きなキズ
を負った。これも事実です。

 しかし二人の子どもは、必ず、それを乗りこえます。すでに乗りこえているかもしれません。子
どもの側からしても、その程度の問題をかかえている子どもは、いくらでもいます。今どき、離
婚など、珍しくも何ともないです。アメリカでも30%の夫婦が、離婚しています。意外と意外、こ
の日本でも、離婚率は、ヨーロッパ各国より、高くなりつつあります。

 ですから離婚の数だけ、あなたの二人の子どものような子どもも、いるわけです。(だからと
いって、あなたが背負った十字架を軽く感じてもらっては困りますよ。)

 私があなたなら、その分だけ、あなたの今の夫に、尽くします。尽くして、尽くして、徹底的に
尽くします。あなた自身の幸福というよりは、あなたの夫の幸福を、最優先します。そしてでき
れば、あなたの周囲に、あなたの助けを必要としている子どもたちのために、尽くします。

 ある女性(現在45歳くらい)は、今の夫と結婚する少し前、別の男性と遊んで、妊娠してしま
いました。それで中絶したのですが、そのときつけた子宮のキズが原因で、妊娠できない体に
なってしまいました。

 それでその女性は、それ以後、今に至るまで、何かの団体で、不幸な子どもたちの福祉活動
を繰りかえしています。つまりあなた自身も、何らかの形で、今の苦しみや悲しみを、昇華させ
ることができるはずということです。

 が、だからといって、あなたの心が晴れることにはならないでしょう。死ぬまで、晴れることは
ないでしょう。あなたがまじめで、そして懸命に戦えば戦うほど、そうです。しかし人生というの
は、もともと、そういうものなのですね。そうでない人生を、さがすほうが、むずかしいくらいで
す。

 とにかく前向きに生きていきましょう。もう、どうにもならないことは、どうにもならないのです。
大切なことは、今日できることを、懸命にすること。明日は、その結果として、必ず、やってきま
す。そして明日のことは、明日に任せればよいのです。

 そしていつか、あなたの二人の子どもは、あなたを求めてやってきます。そのとき、あなたは
もうこの世の人ではないかもしれない。(もちろんその前に求めてきたら、あなたは全幅に心を
開いて、子どもたちを受け入れます。)

 そんなときでも、あなたはあなたの二人の子どもが、部屋の中に入ってくることができるよう
に、しっかりと窓だけはあけておいてあげてください。「私の母は、すばらしい母だった」と思うよ
うな、そんな人をめざしてください。それが今できる、あなたの子どもたちへの、せめてもの罪
滅ぼしではないでしょうか。

 長い返事で、参考になったかどうかはわかりませんが、どうかどうか、前向きに生きてくださ
い。

++++++++++++++++++++

母親がアイドリングするとき 

●アイドリングする母親

 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに幸せの
ハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではないが、その充
実感がない……。

今、そんな女性がふえている。Hさん(三二歳)もそうだ。結婚したのは二四歳のとき。どこか不
本意な結婚だった。いや、二〇歳のころ、一度だけ電撃に打たれるような恋をしたが、その男
性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と何となく交際を始め、数年後、これまた
何となく結婚した。

●マディソン郡の橋

 R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。「どこにでもある田舎道の
土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」(村松潔氏訳)と。

主人公のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れていた生
命の叫びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。つまりフランチェスカは、「日
に日に無神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻に閉じこもって」生活をしてい
たが、キンケイドに会って、一変する。

彼女もまた、「(戦後の)あまり選り好みしてはいられないのを認めざるをえない」という状況の
中で、アメリカ人のリチャードと結婚していた。

●不完全燃焼症候群

 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のような状態
をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。Hさんはそうした不
満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何が不満だ」「お前は幸
せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるストレスは相当なものだ。

昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、こん
な話をしてくれた。「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わってしまっ
た。だから今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買いに行く」と。

「女を買う」と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということだった。晩
年の今氏は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だった。私は今氏
の「生」への執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そういうものか。その人の人生の
中で、いつまでも重く、心をふさぐ。

●思い切ってアクセルを踏む

 が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がいたが、
下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手伝ううち、
医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさんは、ヘルパー
の資格を取るために勉強を始めた、などなど。

「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、道路を走り出した人は多い。だから今、あなた
がアイドリングしているとしても、悲観的になることはない。時の流れは風のようなものだが、止
まることもある。しかしそのままということは、ない。

子育ても一段落するときがくる。そのときが新しい出発点。アイドリングをしても、それが終着
点と思うのではなく、そこを原点として前に進む。方法は簡単。勇気を出して、アクセルを踏
む。妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それでまた風は吹き始める。人生
は動き始める。
(040312)




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13

●無知&無理解

 子どもというのは、その年齢になると、その年齢なりの変化を見せる。とくに大きく変化するの
は、満10歳くらいからで、この時期になると、子どもは、急速に親離れをし始める。

 が、中には、それを許さない親がいる。あるいは、あまりにも無知で、そうした子どもの心の
変化を理解できない。

 このタイプの母親は、もともと子どもへの依存心が強い。支配欲も強く、子どもを自分の思い
どおりに動かそうとする。そういうこともあって、子どもが自分から離れていくのを許さない。だ
からあの手、この手を使って、子どもの(自由なる行動)を、制限しようとする。

 もっともよく使われる手が、子どもの趣味や、好みに干渉すること。

 「親の言うことを聞けなければ、サッカークラブをやめなさい!」
 「親に反抗したら、塾をやめさせる!」
 「親にさからったから、家を出て行け!」など。

 つまり親の意思に反したら、生きていくことさえできないという状態をつくる。そして子どもをし
ばる。

 悪玉親意識の強い人ほど、こうした手を使う。しかしこの方法は、まさに両刃の剣である。

 うまくいっても、子どもには、依存心がついてしまう。失敗すれば、(たいていは、失敗する
が)、親の関係は、その時点で断絶する。

 こんな例がある。

 あるとき、サッカークラブのコーチの家に、ひとりの母親から電話がかかってきた。そしていき
なり、「息子(小5)は、今月いっぱいで、クラブを退会します」と。そこでコーチが、理由を聞く
と、「親を親とも思わない態度が許せない。反省するまで、サッカーをやめさせます」と。

 こういう例は、決して、少なくない。

で、こういうケースでは、コーチでも、無力でしかない。母親の言うとおり、その翌日、コーチは、
その子どもの退会処理をした。が、その二日後、またその母親から電話。

 「息子も、よく反省したようです。今週から、またクラブに通わせますから、よろしく」と。

 しかしこの言葉にコーチが、激怒した。クラブが、親の都合だけで、よいように、もてあそばれ
たのではたまらない。が、そこはぐいとこらえた。その子どもは、クラブには、必要な子どもだっ
た。

 しかし、同じことが、また起きた。そのちょうど2か月後、今度は、その子ども自身から、電話
がかかってきた。泣きべそをかいていた。そしてコーチに、こう言った。

 「コーチ、……今月いっぱいで、……クラブをやめます」と。

 明らかに親に、そう言わせられているといったふうである。コーチは、「お母さんに、あやまっ
て、また来ることはできないのか?」と聞くと、「できないみたい……」と。

 家の中での騒動を、コーチは、その言い方の中に感じたという。で、その日は、そのままにし
ておいた。……というより、コーチは、すでにその子どもを、心の中では、レギュラーをはずして
いた。

 親の無知と無理解。この二つに振り回される子どもは、少なくない。親子だけではない。学校
の先生、塾やおけいこ塾の先生。さらにはクラブの監督やコーチなど。こういうケースは、私
も、よく経験する。しかし結論を言えば、こうなる。

 親も行きつくところまで自分で行かないと、気がつくことはない。

【追記】

 子どもを育てながら、心のどこかで犠牲心を感ずる親は、少なくない。不幸にして不幸な結婚
をした親ほど、そうかもしれない。

 そしてその犠牲心が、そののち、さまざまな形に姿を変える。ここでいう悪玉親意識も、その
一つということになる。

 親風を吹かしながら、子どもを自分の支配下に置こうとする。これを私は「代償的愛」と呼ん
でいる。一見、子どものことを考えながら、子どものことなど、何も考えていない。自分の心のス
キマを埋めるための道具として、子どもを利用する。

 しかしそれに気づく親は、少ない。あれこれ世話を焼きながら、それを「子どものため」と誤解
する。「あの子は、自分がいないと、何もできない子どもです」などと、平然と言う。つまり子ども
に依存心をもたせながら、自分自身も、子どもに依存しようとする。

 こうした相互依存関係が、それなりにうまくいくケースも、少なくない。しかしそのときでも、そ
こに、子離れできない親、親離れできない子どもという、つまりはベタベタの親子関係が生まれ
る。

 ここに書いた「サッカーをやめろ」と言われた子ども(小5)のばあいも、親子がそのまま断絶
してしまう可能性は、きわめて高い。もう少し子どもが大きくなれば、「バカヤロー!」「うるさ
い!」の大乱闘になることも考えられる。そういうケースは、少なくない。

 しかしそれだって、まだよいほうだ。ゆがんだ心が外に向えば、非行。内に向えば、家庭内暴
力。ただではすまない。だから私は、あえて言う。

 「親も行きつくところまで自分で行かないと、気がつくことはない」と。

 
●愚かな人VS賢人

 愚かな人には、賢い人は理解できない。が、賢い人には、愚かな人が、よくわかる。自分に
ついても、同じ。人は以前より賢くなって、それまでの愚かさがわかる。

 このことは、文章を書く人なら、みな、知っている。

 私も、ときどき、20年前、30年前に、自分で書いた文章を読みかえすときがある。そのと
き、そのつど、自分の愚かさに、あ然とするときがある。

 (だからといって、若いころに書いた文章が、つまらないと言っているのではない。反対に、そ
の感性や、純粋さに驚くこともある。)

 では、愚かな人と賢い人のちがいは、どこにあるのか。

 私は、そのちがいは、思考力の深さと、考える習慣によると思う。どこか手前味噌のような意
見だが、しかし「考える」ということは、山登りに似ている。高い山に登れば登るほど、それまで
の山が低く見える。予想していたよりも、はるかに低く見える。

 同じように、一つの考えを自分のものにすると、それまでの自分が、愚かに見える。ものすご
く愚かに見える。

 あとは、その繰りかえし。(だからといって、私が賢人というわけではない。誤解のないよう
に!)

 これは一つの例だが、今日も、道路へ、平気でゴミを捨てている若者を見かけた。何かの紙
くずを、手のひらの中で、クルクルと丸めて捨てていた。

 私から見ると、その若者は、愚かな人に見える。しかしその若者自身は、自分がそうであるこ
とには気づいていない。(ゴミを捨てない人)が、どういう人であるかさえ、知らないからである。
つまり愚かな人からは、賢い人がわからない。 

 こういう例は、多い。子育ての世界にも、多い。

 こちらからは、親の考え方や、育て方、それに子どもの問題点や、これから先、どうなるかと
いうことまで、手に取るようにわかる。しかし、その親には、それがわからない。わからないま
ま、私にあれこれ指示してくる。

 ……という話は、ここまで。立場上、スポンサーの悪口は書けない。ただそういうときは、私の
ほうが、バカなフリをして、つまり知らぬフリをして、その場をやり過ごす。それも大切な教育技
術の一つだと、私は思っている。





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14

●モノにこだわる子ども 

 私が浜松市に住むようになったころのこと。講師をしていた進学塾の塾長に、ある中学生の
家庭教師を頼まれた。

 相手は、中学2年生の男子だった。

 たいへん頭のよい子どもだったが、どこか、心がつかめなかった。たとえばこちらが、Aのつ
もりで話をしていても、それを、Bとか、Cとかに、ねじまげてしまうようなところがあった。

 彼の名前を、A君としておく。

 そのA君は、中学へ入学するころから、時計を集め始めた。それ以前からも、時計には興味
があったらしい。A君の父親は、市内の大通りで、時計店を営んでいた。

 A君と対峙してすわるたびに、彼は、自分の時計を誇らしげに、私に見せた。当時でも、珍し
い、ドイツやスイスの時計を、A君はもっていた。数にすれば、40〜50個はもっていたのでは
なかったか。

 A君は、集めた時計を一度、綿でくるんだあと、箱にしまい、そしてそれを、金庫の中にしまっ
た。大切にしたいという思いから、そうしたのだろう。が、そのあと、彼は、母親や姉、妹に、金
庫の前を歩かせなかった。金庫の置いてある部屋の掃除も、させなかった。「その振動で、時
計の動きが、おかしくなる」と。

 しかしどういうわけか、A君は、私にだけは、時計を、自由に、いじらせてくれた。もっとも、こ
のことはずっとあとになって、母親から聞いたことである。「A雄は、林先生にだけは、気を許し
ていたみたいです」と。

 が、A君の奇行は、ますますはげしくなった。手に入れたいと思う時計があると、その時計を、
父親の経営する店から盗んできて、それを、一日中、特殊な液剤をつけて、みがいていた。

 が、そんなある日、事件が起きた。

 それを知った父親が、つまり家族にさえ、金庫の置いてある部屋を掃除させないということを
知った父親が、その金庫ごと、庭へ放り投げてしまったのである。

 そのときA君が、どういう反応を示したかは、私は知らない。しかしその数日後、A君に会って
みると、A君の様子は、一変していた。ヌボーッとした表情のまま、それでいて、顔は上気し、せ
かせかと落ち着きがなくなってしまっていた。目つきだけが、異様にギョロギョロしていたのが、
心に残った。

 明らかにA君は、もうふつうの子どもではなくなっていた。

 で、そのあとしばらくして、A君は、精神科の医院へ通院するようになり、さらにそのあと、部
屋の中に閉じこもるようになってしまった。私は何度も家庭教師をやめたいと申しでたが、母親
がときには、涙まじりに、「やめないでほしい」と、私に頼んだ。

 私だけが、A君の話し相手になっていた。

●今から思うと……

 そのとき私はまだ23歳。

 何がなんだかわからない状態で、A君の家庭教師をしていた。それにどんな心の問題があっ
たにせよ、私は、A君が嫌いではなかった。今でも、そのときA君がくれたオメガの時計を、一
つ、もっている。

 私が母親を通してその時計を返そうとしたことがある。しかし母親が、「A雄があげると言った
のですから、もっていてください」と言って、受け取ってくれなかった。「それはA雄が、一番大切
にしていた時計ですから……」と。

 ただここで言えることは、A君にどんな問題があったにせよ、金庫を放り投げた父親の行為
は、適切ではなかったということ。当時の父親の気持ちがわからないわけではないが、そういう
行為は、あまりにも無謀である。

 とくにこうした収集癖のある子どものばあい、(多かれ少なかれ、そうした収集癖は、だれにで
もあるものだが……)、それを強引にやめさせようとするのは、危険な行為と考えてよい。自分
の心を防衛するために、つまりは代償行為として、子どもが、モノにこだわるケースは、少なく
ないからである。

 わかりやすく言えば、子どもはモノに執着することによって、不安や心配から、自分を回避さ
せようとする。心理学の世界でも、これを「防衛機制」という。だからその子どもが大切にしてい
るものというのは、いわば心の聖域と覚えておくとよい。それがカードであれ、ゲームであれ、
何でも、である。

 たとえば自閉症やアスペルガー障害の子どもは、よく、ある特定のモノに、異常なまでにこだ
わることがある。これを、「固執行動」というが、こうした固執行動は、病気にたとえるなら、あく
までも「熱」。

風邪をひいて熱を出して苦しんでいる子どもに、水をかけてなおすようなことはしない。同じよう
に、モノにこだわる子どもから、そのモノを取りあげたところで、自閉症やアスペルガー障害
が、なおるわけではない。かえって症状は、ひどくなる。

 子どもが何か、ある特定のモノにこだわる様子を見せたら、親は、「なぜそうなのか?」という
視点で、子どもの心の奥底を見なければならない。

●Z君のケース

 もう一人、印象に残っている少年にZ君(高校生)がいた。彼は高校へ進学すると同時に、不
登校を繰りかえすようになり、やがて中退してしまったが、そのZ君は、レコードにこだわってい
た。

 もっている枚数もすごかったが、それらのレコードが、1ミリの狂いもなく、棚に並べられてい
た。母親の話によると、家族のだれかが、ほんの少しさわっただけでも、Z君には、それがわか
ったそうだ。「だから、部屋の掃除なんて、とてもできません」と。

 Z君も、今でいう、広汎性発達障害の一つだったかもしれない。こんな事件があった。

 Z君には、5歳年下の弟がいた。その弟が、その中の一枚のレコードを勝手に持ち出し、友
人に与えてしまったことがあったという。

 Z君は、すぐその異変に気づいた。で、ふつうなら(「ふつう」という言葉は適切ではないかもし
れないが……)、Z君は、弟を叱り、レコードを取りかえせばよかった。しかしZ君には、それが
できなかった。オドオドしながら、「レコードがない」と、何度も、母親にそれを訴えた。

 が、ここでZ君に、もう一つ、悲劇が重なった。

 母親が、こうした心の病気に、あまりにも無知だったということ。今から25年ほど前のことだ
から、しかたないと言えばそれまでだが、母親は、いつもZ君を叱りつづけた。「レコードの一枚
くらい、どうしたの!」「バカ言わないでよ!」と。

 そのためZ君は、ますます萎縮した。そしてそれがきっかけで、つぎの事件が起きた。

 ときどきZ君は、わざとみなの前でころんだり、倒れてみせるようになった。それを見たことが
ある人は、こう言った。「体を棒のように、まっすぐにしたままの状態で、地面にバタンと倒れま
した」と。

 自傷行為である。精神的に追いつめられた人が、よく見せる行為である。が、この段階でも、
母親は、Z君を叱りつづけた。「バカなことを、しないで!」と。

 本来なら母親はZ君を病院へ連れていかねばならなかった。しかし「世間体が悪い」という理
由だけで、それをしなかった。当時はまだ、(今でも、そういう風潮はどこかに残っているが)、
家族の一員が、精神科の医院に通院するというのは、「恥ずかしいこと」「隠すべきこと」と考え
る人が多かった。

 Z君の母親は、その世間体を、人一倍、気にする人だった。

●その後……

 A君にせよ、Z君にせよ、それから30年近い年月が過ぎた。で、その結果だが、A君は、その
後、いろいろあったようだが、立ちなおることができた。この原稿を書く前、消息をたずねると、
現在は、コンピュータのソフト会社を経営しているという。

 しかしZ君は、そのまま症状が悪化してしまい、いまだに母親とともに、ふつうでない生活をし
ているという。Z君の妹氏から聞いたところによると、Z君は、そのあと放火事件を起こし、近所
でも大騒動になったことがあるという。

 幸い火事は、隣のコンクリートを黒くこがした程度ですみ、また警察も、たき火の不始末と処
理してくれたため、大事にはならなかったという。ただ残念なのは、そういう状態になりながら
も、母親は、Z君を叱りつづけたということ。

 私の印象では、母親自身にも、Z君に対して、何か、大きなわだかまりがあったように思う。
たとえば望まない結婚で、望まない子どもであったとか、など。よくわからないが、少なくとも、Z
君は、母親の愛情に恵まれてはいなかった。

 で、こうした二つのケースを見たとき、その分かれ道は、どこにあるかといえば、結局は、「愛
情」の問題に行きつく。

 母親の豊かな愛情に包まれたA君。一方、母親の冷淡、無視、拒否的態度の中で育てられ
たZ君。

 この二例だけではないが、親の愛情のあるなしが、その後の子どものあり方に、大きな影響
を与えるのは事実である。仮にA君の母親が、Z君の母親のようであったなら、A君は、Z君の
ようになっていただろう。そして仮にZ君の母親が、A君の母親のようであったなら、Z君は、A
君のようになっていただろう。

 そういう意味で、親の愛情、とくに母親の愛情には、特別の力がある。魔法の力といってもよ
い。

 「モノにこだわる子ども」というテーマで書いていたら、いつの間にか、母親の愛情の話になっ
てしまった。しかし決して、関連性がないわけではない。

 もしあなたの子どもが、何か、モノに異常なまでにこだわる様子を見せたら、あなた自身の子
どもへの愛情がどうなのか、ほんの少しだけ、心の中をのぞいてみるとよい。そのときあなた
が心の中に、何か温もりを感ずればよし。その温もりがあれば、その温もりが、いつかやがて
あなたの子どもの心を溶かす。
(040316)(はやし浩司 固執行動 広汎性発達障害 モノにこだわる子ども 物にこだわる
子ども ものにこだわる子供 物にこだわる子供 こだわり)





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15

●子どもの神経症(心身症)

【長野県にお住まいのSSさんより】

はやし先生はじめまして 四月に入学を控えている6才と1才(ともに12月生ま
れ)の男児をもつ、N市(長野県)の、SSと申します。

長男のことで悩んでおります。ネットで色々検索し、先生のHPにたどり着きました。
これまでモヤモヤと長男についておかしいと思っていた事が神経症の症状にすべてあ
てはまり、また自分にも心あたりがあります。

神経症の診断をしてみたところA24、B12と高得点でした。

(A24というのは、現在、思い当たる症状の合計点。それが24点ということ。またB12というの
は、過去にそういう症状があったという症状の合計点。それが12点ということ。平均はそれぞ
れ3〜5点。24点というのは、異常な高得点と考えてよい。障害が現れる一歩手前の状態と考
えてよい。診断テストを希望の方は、はやし浩司のサイト→トップページ→ビデオでごあいさつ
→資料庫へ。はやし浩司、注)

今のところ一番ひどいのは、手洗いと臭いかぎの潔癖症と疑惑症、靴下をつねに上にひっぱ
っている症状です。一緒にいるとガマンしきれずとがめてしまいます。

以前はやたらと手を洗っていたのですが、近頃はかなり儀式化しており、たとえば入
浴後パジャマを着終わると手を洗う、決まった取っ手を触ったら洗うなどです。

今夜も、「お風呂に入ってきれいになって、きれいなパジャマを着たんだから手を洗わな
くても大丈夫だよ」と言うと「僕はオチンコを触ったら絶対に手を洗いたいんだ」
「あと、ちょっとでも汚い物を触った時も手を洗いたいんだ」と言いました。

この子の神経症の原因はやはり家庭にあると思います。初めての育児で私はかなり気
負い型の育児をしてきました。

結婚したと同時に夫の両親と同居しています。初孫とあって育児にも何かと口を出さ
れ、よくイライラしていました。

その事で夫ともよく衝突し、息子が2歳になる頃に義父が亡くなりました。一家の中
心だった義父が亡くなり家の中は一気に険悪めちゃくちゃになり

私は孤立しました。息子が3歳になった頃、半年間は完全に家庭内別居でした。
離婚も真剣に考え、決心した所で夫と歩み寄る事ができ少しずつ関係修復に努めてき
ました。

しかし、その間は私の情緒が乱れに乱れ、間近にいた長男は相当傷ついていると思い
ます。
親の修羅場を見せてしまった罪悪感は今も消えずずっとその事が気がかりでした。

夫とはお互い努力を重ねて関係修復し、長男が年中になった春、ちょうど2年前に次
男を妊娠しました。

妊娠初期から切迫流産の危機で入院、長男は実家に預けました。
退院後もつわりがひどく、次は早産の危険もあるハイリスク妊婦のため
安静生活をよぎなくされました。ずっと抱っこもしてあげられず、息子はけなげに耐
え気遣ってくれていました。相当のストレスだったと思います。

その頃はつめ噛みと小さい頃気に入っていた、しまじろうの人形をまたひっぱり出して
きて肌身離さず持っていました。

妊娠後期、少しずつ動けるようになり息子との時間を持てるようになりました。検診
について行きたがったので、幼稚園を休ませ、のんびりバスにゆられて(普段は車生
活です)、のんびり過ごしました。私が動けるようになると同時に情緒も安定するのが
よくわかりました。

そして5歳の誕生日の4日後に次男誕生。一緒に妊娠生活を乗り越えてくれた長男は
当然のように出産にも立ち会いました。しかし、難産で私が苦しむ姿(痛い、死にそ
うーと叫んだ)を見てかなりのショックを受けたようで、それ以後、不安症が出てきま
した。

そして出産したとたん、それまでいい子にしていたガマンが爆発するかのように赤ち
ゃん返り。半年間は長男優先で育児をしてきたつもりです。

そして、今回の症状が出始めた昨年夏ごろ、次男が動くようになり後回しにはいかな
くなりました。と同時に次男のベビーベッドをやめ息子二人と三人で寝るようになり
ました。が、これが次男真ん中で私と長男は離れる形態になってしまったのです。長
男は夫と就寝ですが夜中目覚めると私と次男の間にねじ入ってきました。

秋から冬にかけ手洗いの症状はエスカレートしました。幼稚園に相談すると、とくに
園生活に問題はなく少しトイレが近いかな、との事でした。スキンシップを大切にと
のアドバイスを受けましたが、私を含め皆であの手この手で手洗いを阻止しようとそち
らへ意識が向いてしまっていました。

手洗い意外にもいじけ、すねるのもひどく何か叱るだけで、「ママ僕の事きらいなん
だ、MMちゃん(弟)の方が大事なんだ」と、毎日毎日何回もネチネチと言い続けてき
ました。その都度「そんな事ないよ。二人とも大事だよ」と返して来ましたがあまりの
しつこさに「こんなに大事って言うのにどうしてそんなにわからないの!」と怒鳴っ
てしまった事も数回あります。

振り返ると、長男にずっといいお兄ちゃんを求めてしまっていました。嫌がるのにお
もちゃを貸すように強要しました。手洗いなどの潔癖は弟がおもちゃをなめて汚すよ
うになってから出てきました。

「どうしてそんなに手を洗うの?」と聞くと「僕は汚れた手でおもちゃを触っておも
ちゃが汚れるのがいやなんだ」と言いました。私への悪態も日に日にひどくなってい
ます。

先生のHPを知り、著書も読ませていただきました。

スキンシップは心がけていましたが、やはり要所要所で足りなかったようです。ベッド
のレイアウトも変え、私が真ん中で長男次男と川の字で寝るようになると、体は授乳で
次男側を向いていても嬉しそうに、私の背中へ寄り添ってきます。次男が遊びに夢中に
なっている時に長男においでと呼ぶと、これまた嬉しそうに膝の上に座って甘えます。

寝る前の絵本や長男の小さい頃の思い出話もとても喜びます。

一番驚いたのは「TGちゃん(長男)が一番大事だよ。ママは大好きだよ。」と、初
めて'一番好きだよ'と言ったとたんに、口癖だった「ママは僕の事が嫌い」という
イジケがなくなったのです。

そして、可愛がっていた次男を拒絶するようになりました。帰宅拒否でしょうか?
のんびりマイペースで遊べる義母の居間に入り浸っています。

もっと早く先生の育児論を知っていたら、ここまでひどい症状には至らなかったと思っ
ています。

私は今のままスキンシップを心がけていけば大丈夫でしょうか?  手洗いは好きにさせ
ていいのですか? 思いこんでいることに対し、洗う必要がないよと言わなくていいです
か?

今、長男をここまでしてしまった罪悪感でかなり自信がなくなっています。こんな小
さいうちに神経症を発してしまい、将来が不安でたまりません。治る事にこだわって
いけないと頭で思っても心がついていきません。心配で不安で長男が卒園し、春休み
になった今、苦しくてプレッシャーでつぶれそうです。

先生、お忙しい中あつかましいですが、どうかアドバイスお願いします

+++++++++++++++++++++

【SSさんへ】

 神経症の診断結果は、高得点ですね。平均は、Aが5点、Bが3点です。20点以上というと、
かなりいろいろな症状が出ていると同時に、精神的にも、大きなダメージを受けていると思いま
す。

 まず第一に、早く気づかれてよかったということ。「遅すぎた」というのではなく、「早くてよかっ
た」ということです。5〜6歳という年齢は、まだじゅうぶん、修復が可能な年齢ということです。

青年期に、こうした症状が出てくると、もろもろの障害(摂食障害、行為障害、不安障害、回避
性障害、妄想性、睡眠障害)へ、そのまま結びついていきます。精神障害になることもありま
す。

 で、順に、問題点を洗ってみます。

 TG君(長男)の心を不安定にしている最大の原因は、赤ちゃんがえりです。つぎに乳幼児期
の家庭騒動、家庭不安です。この時期、子どもは、絶対的な安心感の中で、心をはぐくみま
す。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味です。

 しかしそれができなかった。TG君は、この先、何かにつけて、不安先行型の人生観をもつも
のと思われます。赤ちゃんがえりそのものは、症状的には消えていきますが、それが原因でゆ
がんだ心(ひがみやすい、いじけやすい、つっぱりやすいなど)は、これからも残っていきます。

 だからといって、SSさんの育児が失敗だったというのではありません。多かれ少なかれ、み
なそうだということです。問題のない家庭はないし、そのため、問題のない子どもは、いませ
ん。もっとはっきり言えば、この程度の問題なら、みんなもっているということ。

 どの家庭も、どの子どもも、外から見ると、みんなうまくいっているように見えますが、それは
あくまでも、「外見」。だから、今までは今までとして、これからは先だけを見て、前に進むことで
す。

 私がSSさんで、すばらしいと思うのは、まだお若いはずなのに、よくも、ここまでご自身のこと
を知っておられるということ。また子育てを、よくも、ここまで客観的に見ておられるということ。

 いろいろあったご様子ですが、SSさんは、その結果、かなり精神的に成長なさったと思いま
す。あなたの年齢で、ここまで自分をしっかりと見つめておられる方は、そんなにいません。そ
の点について、まず、自信をもつこと。

 ふつうは、それにさえ気づかないで、我流、独断、独善で、ますます子どもの心をゆがめてし
まうものです。

 気になっている点から、順に話していきます。

●疑惑症、潔癖症について……

 これらはあくまでも、「外に出た症状」です。インフルエンザで言えば、「熱」のようなものです。

 熱を冷ますために、水をかけてはいけないように、症状だけをみて、それを抑えようとしても、
うまくいきません。かえって症状をこじらせます。

 原因は、慢性的な欲求不満と、ストレスです。

 方法は、スキンシップに始まり、スキンシップに終わります。親側からベタベタする必要はあり
ません。『求めてきたときが、与えどき』と覚えておきます。子どもがそれとなく求めてきたら、そ
のときは、濃密に、子どもが満足するまで、ぐいと抱いてあげたりします。

 多少の抱き癖、依存性なども生まれますが、ここは無視してください。

 幸いにも、SSさんは、たいへん愛情豊かな方だと思われます。この世界では、『愛は万能』と
いいます。愛が基本的にあれば、子どもの心はゆがみません。しかし愛がないと、いくら体裁
をとりつくろっても、失敗します。

 コツは、『許して、忘れる』です。(私のHPのあちこちに、それについて書いてありますので、
またヒマなときに、お読みください。)

 こうした行為(手洗い、臭いかぎ)を、「悪」と決めてかかるのではなく、『暖かい無視』をしま
す。ときには、子どもの心になって、「あなたは、きれい好きなのね。お母さんも、手を洗うわ」
と、いっしょに洗ってみてください。

 まずいのは、子どもに罪悪感をもたせることです。扱い方をまちがえると、さらにやっかいな
神経症(心身症)を併発します。火遊び、不登校、動物虐待など。だから今は、「なおそう」と思
うのではなく、「これ以上、症状を悪化させない」ことだけを考えて対処してください。

●赤ちゃんがえり……

 赤ちゃんがえりについては、今の対処法でよいと思われます。弟さんには悪いですが、全幅
に、TG君に、愛情を注ぎなおします。年齢的にも、自己意識が芽生えてくるころですから、症
状が消えるまでに、それほど時間はかからないと思います。

 子どもは、小学3、4年生ごろから親離れを始めます。これから数年が、勝負ですね。勝負と
いうことは、濃密かつ良好な親子関係を取りもどす、最後のチャンスということです。

 また幼稚園では、先生が、「問題ない」とおっしゃったことですが、それだけTG君は、外の世
界では無理をしているのかもしれません。家の中では、その分、荒れたり、ぐずったりするかも
しれません。家の中では、ゆるめてあげてください。

とくに4月からは、小学校が始まりますので、神経質な育児姿勢は、禁物です。(慎重に子ども
の心を観察してみてください。無理強いはしてはいけませんよ。かなり不安定になっていますか
ら、妄想性が、対人恐怖症になり、それが原因で、学校恐怖症、さらには不登校へと進む可能
性は、ないとは言えません。)

 あくまでも子どもの心になって考えるということです。ときどきぐずったら、「そうね、だれだっ
て、ときどきは学校へ行きたくないときもあるわね」式の理解を示してあげてください。KG君に
は、とくに、それが必要です。

●子育てのプレッシャー……

 子どもというのは、不思議なもので、親が何かをしたから、育つものでも、また何もしなかった
から、育たないものでもありません。

 重要なことは、(子ども自身がもつ育つ力)を信ずることです。たしかにSSさんの育児姿勢
は、気負い先行型です。「いい親でいよう」「いい親はこういうものだ」「いい子どもを育てよう」
と、気負っておられる様子がよくわかります。

 さらに「私は親だ」「子どもの問題の責任は、すべて親にある」という、どこかN県独特の親意
識もあるようです。

 子ども自身のもつ力を、もっと信じなさい。それはちょうど、子どもが風邪をひいて寝ていると
きのようなものです。親は、子どもの風邪をなおすために、薬をのませたりしますが、本当に子
どもの風邪をなおすのは、子ども自身がもつ治癒力のようなものです。体力といっても、よいか
もしれません。

 私たちができることと言えば、せいぜい、その(子ども自身がもつ力)を、横から援助すること
でしかないのです。すべてを、あなた自身が、背負ってはいけません。

 (多分、そういう意味で、あなた自身も、あまり恵まれた家庭環境で育っていない可能性もあ
ります。とくにあなたの父親との関係を疑ってみてください。)

 いいですか、今のKG君の症状が、これから先、いつまでもつづくと考えるのは、正しくありま
せん。同時に、しかし失敗すれば、さらに二番底、三番底へと落ちていきます。今の症状がす
べてではないということです。

ですからここは、先に書いたように、「これ以上、症状を悪化させない」ことだけを考えて対処し
てください。しかもその様子は、半年単位でみます。「今日、改善したから、明日なおる」という
問題では、決してありません。

 このあと、いくつか、参考になりそうな原稿をいくつか張りつけておきます。参考にしてくだされ
ば、うれしいです。

 なお、いただきましたメールは、少し私のほうで改変し、小生発行の電子マガジンのほうで使
わせてください。もし都合の悪い点があれば、至急、お知らせください。改めます。同じような問
題をかかえておられる、ほかの母親たちのためにも、よろしくご協力くださいますよう、お願い
申しあげます。

+++++++++++++++++

●子どもの情緒不安

 子どもの発達をみるときは、次の四分野をみる。

情緒の安定度、精神の完成度、知能の発達度、それに運動能力。

そのうちの情緒の安定度は、体力的に疲れたと思われるときに観察して、判断する。

たとえば運動会や遠足から帰ってきたようなとき。そういうときでも、不安定症状(ぐずる、ふさ
ぎ込む、ピリピリする、イライラするなどの精神的動揺)がなければ、情緒の安定した子どもと
みる。

あるいは子どもは寝起きをみる。毎朝、不機嫌なら不機嫌でもよい。寝起きの様子が安定して
いれば、情緒の安定した子どもとみる。子どもは2〜3歳の第一反抗期、思春期の第二反抗
期に、特に動揺しやすいということがわかっている。

経験的には、乳幼児期から少年少女期への移行期(4〜5歳)、および小学2年から4年ぐらい
にかけても、不安定になることがわかっている。この時期を中間反抗期と呼ぶ人もいる。

 情緒が不安定な子どもは、心が絶えず緊張状態にあるのが知られている。外見にだまされ
てはいけない。柔和な笑みを浮かべながら、心はまったく別の方向を向いているということは、
よくある。

このタイプの子どもは、気を許さない、気を抜かない、周囲に気をつかう、他人の目を気にす
る。よい子ぶることもある。そういう状態の中に、不安や心配が入り込むと、それを解消しよう
と一挙に緊張感が高まり、情緒が不安定になる。

症状としては、攻撃的、暴力的になるプラス型。周囲に溶け込めず、引きこもったり、怠学、不
登校を繰り返したりするマイナス型に分けて考える。

プラス型は、ささいなことでカッとなることが多い。さらに症状が進むと、集団的な非行行動をと
ったり、慢性的な下痢、腹痛、体の不調を訴えるようになったりする。

原因としては、乳幼児期の何らかの異常な体験が引き金になることが多い。たとえば親の放
任的態度、無教養で無責任な子育て、神経質な子育て、家庭騒動、家庭不和、恐怖体験な
ど。ある子ども(5歳男児)は、たった一度だが、祖父にはげしく叱られたのが原因で、自閉傾
向(親と心が通い合わない状態)を示すようになった。

また別の子ども(3歳男児)は、母親が入院している間、祖母に預けられたことが原因で、分離
不安(親の姿が見えないと混乱状態になる)になってしまった。

 子どもの情緒が不安定になると、親はその原因を外の世界に求めようとする。しかし原因の
第一は、家庭環境にあると考え、反省する。子どもの側から見て、息が抜けないような環境な
ど。子どもの心に負担になっているもの、心を束縛しているようなものがあれば、取り除く。

一番よい方法は、家庭の中に、誰にも干渉されないような場所と時間を用意すること。あれこ
れ親が気をつかうこと(過関心)は、かえって逆効果。

子どもが情緒不安症状を示したら、スキンシップを大切にし、温かい語りかけを大切にする。
叱ったり、冷たく突き放すのは、かえって子どもの情緒を不安定にする。

なお一般的には、情緒不安は、神経症(心身症)の原因となることが多い。たとえば、夜驚(や
きょう)、夢中遊行、かん黙、自閉、吃音(どもり)、髪いじり、指しゃぶり、チック症、爪かみ、物
かみ、疑惑症(臭いかぎ、手洗いぐせ)、かみつき、歯ぎしり、強迫傾向、潔癖症、嫌悪症、対
人恐怖症、虚言、収集癖、無関心、無感動、緩慢行動、夜尿症、頻尿症など。症状は千差万
別で、定型がない。

++++++++++++++++++++++

●子どもの神経症

 心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、神経症という。脳の機
能が変調したために起こる症状と考えると、わかりやすい。

ふつう子どもの神経症は、精神面、身体面、行動面の三つの分野に分けて考える。そこであな
たの子どもをチェック。次の症状の中で思い当たる症状(太字)があれば、丸(○)をつけてみ
てほしい。

 精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる。高所恐怖症、
赤面恐怖症、閉所恐怖症、対人恐怖症など)、強迫症状(ささいなことを気にして、こわがる)、
不安症状(理由もなく思い悩む)、抑うつ症状(ふさぎ込んだり、落ち込んだりする)、不安発作
(心配なことがあると過剰に反応する)など。混乱してわけのわからないことを言ったり、グズグ
ズするタイプと、大声をあげて暴れるタイプに分けて考える。ほかに感情面での神経症として、
赤ちゃんがえり、幼児退行(しぐさが幼稚っぽくなる)、かんしゃく、拒否症、嫌悪症(動物嫌悪、
人物嫌悪など)、嫉妬、激怒などがある。

 身体面の神経症……夜驚症(夜中に突然暴れ、混乱状態になる)、夢中遊行(ねぼけてフラ
フラとさまよい歩く)、夜尿症、頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、遺尿(その意識がないまま尿もら
す)、睡眠障害(寝つかない、早朝起床、寝言、悪夢)、嘔吐、下痢、原因不明の慢性的な疾患
(発熱、ぜん息、頭痛、腹痛、便秘、ものもらい、眼病など)、貧乏ゆすり、口臭、脱毛症、じん
ましん、アレルギー、自家中毒(数日おきに嘔吐を繰り返す)、口乾、チックなど。指しゃぶり、
爪かみ、髪いじり、歯ぎしり、唇をなめる、つば吐き、ものいじり、ものをなめる、手洗いグセ
(潔癖症)、臭いかぎ(疑惑症)、緘黙、吃音(どもる)、あがり症、失語症、無表情、無感動、涙
もろい、ため息なども、これに含まれる。一般的には精神面での神経症に先だって、身体面で
の神経症が現われることが多い。

 行動面の神経症……神経症が行動面におよぶと、さまざまな不適応症状となって現われる。
不登校もその一つだが、その前の段階として、無気力、怠学、無関心、無感動、食欲不振、過
食、拒食、異食、小食、偏食、好き嫌い、引きこもり、拒食などが断続的に起こることが多い。
生活習慣が極端にだらしなくなることもある。忘れ物をしたり、乱れた服装で出歩いたりするな
ど。ほかに反抗、盗み、破壊的行為、残虐性、帰宅拒否、虚言、収集クセ、かみつき、緩慢行
動(のろい)、行動拒否、自慰、早熟、肛門刺激、異物挿入、火遊び、散らかし、いじわる、いじ
めなど。こうして書き出したら、キリがない。

要するに心と身体は、密接に関連しあっているということ。「うちの子どもは、どこかふつうでな
い」と感じたら、この神経症を疑ってみる。ただし一言。こうした症状が現われたからといって、
子どもを叱ってはいけない。叱っても意味がないばかりか、叱れば叱るほど、逆効果。神経症
は、ますますひどくなる。原因は、過関心、過干渉、過剰期待など、いろいろある。

 さて診断。丸の数が、10個以上……あなたの子どもの心はボロボロ。家庭環境を猛省する
必要がある。9〜5個……赤信号。子どもの心はかなりキズついている。4〜1個……注意信
号。見た目の症状が軽いからといって、油断してはならない。

++++++++++++++++++

●愛情は落差の問題

 下の子どもが生まれたりすると、よく下の子どもが赤ちゃんがえりを起こしたりする。(赤ちゃ
んがえりをマイナス型とするなら、下の子をいじめたり、下の子に乱暴するのをプラス型という
ことができる。)

本能的な嫉妬心が原因だが、本能の部分で行動するため、叱ったり説教しても意味がない。
叱れば叱るほど、子どもをますます悪い方向においやるので、注意する。

 こういうケースで、よく親は「上の子どもも、下の子どもも同じようにかわいがっています。どう
して上の子は不満なのでしょうか」と言う。親にしてみれば、フィフティフィフティ(50%50%)だ
から文句はないということになる。が、上の子どもにしてみれば、その「五〇%」というのが不満
なのだ。

つまり下の子どもが生まれるまでは、一〇〇%だった親の愛情が、五〇%に減ったことが問
題なのだ。もっとわかりやすく言えば、子どもにとって愛情の問題というのは、「量」ではなく「落
差」。それがわからなければ、あなたの夫(妻)が愛人をつくったことを考えてみればよい。あな
たの夫が愛人をつくり、あなたに「おまえも愛人も平等に愛している」とあなたに言ったとした
ら、あなたはそれに納得するだろうか。

 本来こういうことにならないために、下の子を妊娠したら、上の子どもを孤立させないように、
上の子教育を始める。わかりやすく言えば、上の子どもに、下の子どもが生まれてくるのを楽
しみにさせるような雰囲気づくりをする。

「もうすぐあなたの弟(妹)が生まれてくるわね」「あなたの新しい友だちよ」「いっしょに遊べるか
らいいね」と。まずいのはいきなり下の子どもが生まれたというような印象を、上の子どもに与
えること。そういう状態になると、子どもの心はゆがむ。ふつう、子ども(幼児)のばあい、嫉妬
心と闘争心はいじらないほうがよい。

 で、こうした赤ちゃんがえりや下の子いじめを始めたら、(1)様子があまりひどいようであれ
ば、以前と同じように、もう一度一〇〇%近い愛情を与えつつ、少しずつ、愛情を減らしていく。
(2)症状がそれほどひどくないよなら、フィフティフィフティ(五〇%五〇%)を貫き、そのつど、
上の子どもに納得させるのどちらかの方法をとる。あとはカルシウム、マグネシウムの多い食
生活にこころがける。

++++++++++++++++

●子どもの分離不安

 ある女性週刊誌の子育てコラム欄に、こんな手記が載っていた。日本でもよく知られたコラム
ニストのものだが、いわく、「うちの娘(むすめ)(三歳児)をはじめて幼稚園へ連れていったとき
のこと。娘ははげしく泣きじゃくり、私との別れに抵抗した。私はそれを見て、親子の絆の深さ
に感動した」と。

とんでもない! ほかにも詳しくあれこれ症状が書かれていたが、それを読むと、それは、「別
れをつらがって泣く子どもの姿」ではない。分離不安の症状そのものだった。

 分離不安症。親の姿が見えなくなると、混乱して泣き叫んだり暴れたりする。大声をあげて泣
き叫ぶタイプ(プラス型)と、思考そのものが混乱状態になり、オドオドするタイプ(マイナス型)
に分けて考える。

私はこのほかに、ひとりで行動ができなくなってしまうタイプ(孤立恐怖)にも分けて考えている
が、それはともかくも、このタイプの子どもは多い。四〜六歳児についていうなら、一五〜二〇
人に一人くらいの割合で経験する。

親がそばにいるうちは、静かに落ち着いているが、親の姿が見えなくなったとたん、ギャーッと
ものすごい声をはりあげて、そのあとを追いかけたりする。

 原因は……、というより、分離不安の子どもをみていくと、必ずといってよいほど、そのきっか
けとなった事件が、過去にあるのがわかる。はげしい家庭内騒動、離婚騒動など。母親が病
気で入院したことや、置き去りや迷子を経験して、分離不安になった子どももいた。

さらには育児拒否、虐待、下の子どもが生まれたことが引き金となった例もある。子どもの側
からみて、「捨てられるのではないか」という被害妄想が、分離不安の原因と考えるとわかりや
すい。

無意識下で起こる現象であるため、叱ったりしても意味がない。表面的な症状だけを見て、「集
団生活になれていないため」とか、「わがまま」とか考える人もいる。無理をすればかえって症
状をこじらせてしまう。

いや、実際には無理に引き離せば、しばらくは混乱状態になるものの、やがて静かに収まるこ
とが多い。しかしそれで症状が消えるのではない。「もぐる」のである。一度キズついた心は、そ
んなに簡単になおらない。この分離不安についても、そのつど繰り返し症状が現われる。

 こうした症状が出てきたら、鉄則はただ一つ。無理をしない。その場ではやさしくていねいに
説得を繰り返す。まさに根気との勝負ということになるが、これが難しい。現場で、そういう親子
を観察すると、たいてい親のほうが短気で、顔をしかめて子どもを叱ったりしているのがわか
る。「いいかげんにしなさい!」とか、「私はもう行きますからね」とか。こういう親子のリズムの
乱れが、症状を悪化させる。子どもはますます被害妄想をもつようになる。

 分離不安は四〜五歳をピークとして、症状は急速に収まっていく。しかしここにも書いたよう
に、一度キズついた心は、簡単にはなおらない。ある母親はこう言った。「今でも、夫の帰宅が
予定より遅くなっただけで、言いようのない不安感に襲われます」と。姿や形を変えて、おとな
になってからも症状が現われることがある。
(040320)



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16

●赤ちゃんがえりのあとに……

 下の子どもが生まれると、上の子どもが、赤ちゃんがえりを起こすことは、よくある。それはそ
れだが、そのとき、上の子どもが、下の子どもに、執拗な攻撃性を示すことがある。

 ふつうの攻撃性ではない。「殺す」寸前のところまでする。そのため、下の子どもが、上の子
どもに、恐怖心さえもつようになることがある。

 ……という話は、この世界では常識だが、今日、こんなメールを、ある女性(埼玉県U市在
住、TEさん)から、もらった。

 その女性は、三人兄弟(上から、兄、自分、妹)の、まん中の子どもだった。兄とは、4歳ちが
い。妹ととは、1歳ちがいだった。いわく……。

 「私は、もの心つくころから、兄にいじめられました。そんな記憶しかありません。父や母に訴
えても、相手にしてもらえませんでした。兄は、父や母の前では、借りてきたネコの子のように、
おとなしく、静かだったからです。

 で、私は毎日、学校から家に帰るのがいやでなりませんでした。兄は、父や母の目を盗んで
は、私と妹を、(とくに私を)、いじめました。何をどういじめたかわからないようないじめ方でし
た。意地悪というか、いやがらせというか、そういういじめ方でした。

 よく覚えているのは、私が飲んだ牛乳に、兄が、何かへんなものを入れたことです。おかしな
味がしたので、すぐ吐き出したのですが、かえって母に叱られてしまいました。『どうして、そん
なもったいないことをするのか!』とです。

 で、私が中学生になったとき、とうとうキレてしまいました。兄ととっくみあいの喧嘩になり、兄
の顔に、花瓶をぶつけてしまいました。そのため兄は、下あごの骨を折ってしまいました。

 たいへんな事件でしたが、それ以後は、兄のいじめは止まりました」と。

 ……と書いて、私は、今、おかしな気分でいる。

 今の仕事を35年近くもしてきたにもかかわらず、こういう問題があることに気づかなかった。
自分の盲点をつかれた感じである。赤ちゃんがえりを起こした子どもについては、よく考えてき
た。が、しかし、その赤ちゃんがえりを起こした兄や姉の下で、いじめに苦しんだ、弟や妹のこ
とについては、考えたことがなかった。

 つまり赤ちゃんがえりを起こす子どもの側だけで、私は、ものを考えてきた。そして赤ちゃん
がえりを起こした子どもについて、「被害者」という前提で、その対処法を書いてきた。しかしそ
の赤ちゃんがえりを起こした子どもは、一方で、下の子どもに対しては、加害者でもあった。

 実際、このタイプの子どものいじめには、ものすごいものがある。ここにも書いたように、(下
の子どもを殺す)寸前までのことをする。そういう意味で、動物がもつ嫉妬という感情は、恐ろし
い。人間がもつ本性そのものまで、狂わす。

 弟を、家のスミで、逆さづりにして、頭から落とした例。自転車で体当たりした例。シャープペ
ンシルで、妹の手を突き刺した例。チョークをこまかく割って、妹の口の中につっこんだ例など
がある。

 このタイプのいじめには、つぎのような特徴がある。

(1)執拗性……繰りかえし、つづく。
(2)攻撃的……下の子を、殺す寸前までのことをする。
(3)仮面性……上の子が、親の前では、仮面をかぶり、いい子ぶる。
(4)計画的……策略的で、「まさか」と思うような計画性をもつ。
(5)陰湿性……ネチネチと陰でいじめる。

 この中で、とくに注意したいのが、(3)の仮面性である。もともと親の愛情を、自分に取りかえ
すための無意識下の行為であるため、親の前ではいい子ぶることが多い。そのため下の子ど
もが、上の子どものいじめを訴えても、親が、それをはねのけてしまう。親自身が、「まさか」と
思ってしまう。

 で、さらに一歩、踏みこんで考えてみると、実は、こうした陰湿な攻撃性をもつことによって、
上の子ども自身も、心のキズを負うということ。将来にわたって、対人関係において、支障をも
ちやすい。こうした陰湿な攻撃性は、外の世界でも、別の形で現れやすい。

 たとえば学校などで、陰湿ないじめを繰りかえす子どもというのは、たいてい、長男、長女と
みてよい。

 そういう意味でも、人間の心は、それほど、器用にはできていない。結局は、その子ども自身
も、苦しむということになる。

 さらにいじめられた下の子どもも、大きな心のキズをもつ。たとえば兄に対してそういう恐怖
心をもったとする。その恐怖心が潜在意識としてその人の心の中にもぐり、その潜在意識が、
自分が親となったとき、自分の子どもへのゆがんだ感情となって、再現されるということも考え
られる。

 実はここに書いた、埼玉県のTEさんも、そうだ。最初は、「上の兄(8歳)を、どうしても愛する
ことができない」という悩みを、私に訴えてきた。その理由としては、TEさん自身の子ども時代
の体験が、じゅうぶん、考えられる。断定はできないが、その可能性は高い。

 何度も今までにそう書いてきたが、決して赤ちゃんがえりを、軽く考えてはいけない。この問
題は、乳幼児期の子どもの心理においては、重大な問題と考えてよい。
(はやし浩司 赤ちゃんがえり 赤ちゃん返り 負の性格 下の子いじめ 攻撃性)


●負の性格

 「負の性格」という言葉は、私が考えた。

 その人がもつ、好ましくない性格を、「負の性格」という。たとえば、いじけやすい、ひがみやす
い、つっぱりやすい、ひがみやすい、くじけやすい、こだわりやすいなど。

 こうした性格は、その人を、長い時間をかけて、負の方向にひっぱっていく。他人との関係
で、いろいろなトラブルの原因となることもある。

 問題は、こうした負の性格があることではなく、そういう負の性格に気づかないことである。気
づかないまま、その負の性格に、操られる。そして自分では気づかないまま、同じ失敗を繰り
かえす。

 こうした現象は、子どもたちを見ていると、よくわかる。ひとつのパターンに沿って、子どもは
行動しているのだが、子ども自身は、自分の意思でそうしていると思いこんでいる。
 
 ただここで注意しなければならないのは、仮にひがみやすい性格であっても、その子どもが、
いつも、そうだということにはならないということ。

 相手によっては、素直になることもある。明るく振る舞うこともある。そういう意味で、人間の
心というのは、カガミのようなものかもしれない。相手に応じて、さまざまに変化する。

 言いかえると、子どもを伸ばそうと考えたら、この性質をうまく利用する。こうした変化は、子
どもほど、顕著に現れる。そして仮に負の性格があっても、それをなおそうとは考えないこと。
簡単にはなおらないし、また「それが悪い」と決めてかかると、子ども自身も、自信をなくす。

 で、問題は、私たちおとなである。

 こうした子どもの問題を考えていくと、その先には、いつも、私たちがいる。「私たち自身はど
うか?」と。

 考えてみれば、私も、いじけやすい、くじけやすい、それにひがみやすい。そういう負の性格
をいっぱい、かかえている。で、そういう性格が、おとなになってから、なおったかというと、そう
いうことはない。今でも、いじけやすい、くじけやすい、それにひがみやすい。

 ただ、そういう自分であることを知った上で、じょうずにつきあっている。どこか、ふと袋小路
に入りそうになると、「ああ、これは本当の私ではないぞ」と思いなおすようにしている。「自分を
知る」ということは、そういうことをいう。

 だれしも、二つや三つ、四つや五つ、負の性格をもっている。ない人は、いない。要は、それ
といかにじょうずにつきあうかということ。そういうこと。
(はやし浩司 負の性格 いじけやすい ひがみやすい)




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17

●知能テスト

+++++++++++++++++++++

春休みが終わって、あちこちの園で、知能テスト
が実施されている。

それについて、M県にお住まいの、AAさんから、
「知能テストについて、詳しく教えてほしい」
「うちの子(年長児)は、IQ・105と診断さ
れたが、どういう意味か」という質問をもらった。

+++++++++++++++++++++

 現在、「ビネー式知能検査法」と呼んでいるものは、フランスの心理学者ビネーによって開発
された知能テスト法をいいます。

 それがアメリカで改良され、現在広く使われている、「スタンフォード・ビネー検査法」という知
能テストになりました。私たちが、「知能テスト」と呼んでいるものは、この「スタンフォード・ビネ
ー検査法」のことをいいます。

 この「スタンフォード・ビネー検査法」の特徴は、子どもの知能を、(IQ、intelligent Quality)で、
評化した点です。「うちの子のIQは……」というときの、「IQ」です。つぎのような計算式で求め
ます。

  精神年齢
    IQ(知能指数)=-――――――――――x100
               生活年齢

 (精神年齢)というのは、検査テストの結果。(生活年齢)というのは、満6・0歳であれば、6x
12=72ということになります。満10・0歳であれば、10x12=120ということになります。

 たとえば満6・0歳(精神年齢が72)の子どもが、テストで、80点をとったとします。すると、そ
のIQは、80÷72x100=111ということになります。

 このスタンフォード・ビネー検査法で、130を超えると、天才、69以下だと、精神遅滞と判定
されます。ただし、いくつかの問題点があります。

(1)訓練によって、点数が伸びる……幼児教室によっては、こうしたテストを事前に実施してい
るところがあります。ずるいですね。たとえばこの時期、慎重な子どもは、丸を描くときも、ゆっ
くりと、ていねいに描きます。つまりそれだけ時間がかかります。そこでその丸をはやく、描か
せます。少しだけ、時間がかせげるようになります。

ですから実際、ある程度訓練すると、10〜30点くらいは、点数が伸びるのは事実です。しかし
……??? 

(2)知能テスト、イコール、頭の性能ではない……知能テストで、よい成績をおさめたからとい
って、その子どもの頭がよいということにはなりません。この種のテストは、要領のよい子ども
が、よい成績をおさめます。

またこの時期大切なのは、思考の柔軟性(やわらかさ)です。頭のやわらかい子どもは、その
まま伸びつづけます。そうでない子どもは、伸び悩みます。さらに空想力、想像力、創造力とな
ると、こうしたテスト法では、測定できません。たとえば一定のオブジェ(形)を与え、その形を利
用した絵を描かせるというテスト法(ドローイング・オブジェ法)があります。

このテスト法は、子どもの創造力を知るには、すぐれた方法ですが、しかし採点方法が定型化
できないという欠陥があります。採点は、あくまでも教える側の直感力が基準になります。

(3)あくまでも標準値と比較しての話……スタンフォード・ビネー検査法は、あくまでも標準値
(生活年齢)と比較して、どうだというテスト法をいいます。ですから、約3分の2の子どもは、85
〜115の範囲に入るといわれています。必ずしも、絶対的なものではないということです。

たとえば仮に、満6歳のとき、IQが、120と診断されたとしても、生活年齢があがれば、それが
110になり、100になることもありえるわけです。もっとわかりやすく言えば、どこか早熟タイプ
の子どものほうが、よい成績をおさめるということです。

「子どものころは神童。二十歳を過ぎたら、ただの人」(失礼!)ということも、ありえないことで
はないということになります。

 このように知能テストというのは、あくまでもそのときの、能力のある部分を測定するにすぎな
いということです。ですからそれで仮に悪い点を取ったからといって、それほど深刻に考える必
要は、(まったく)ありません。

 もし子どもの知能を伸ばそうと考えたら、それよりも大切なことは、「考える習慣」を身につけ
させることです。(もの知りで要領のよい子ども)ではなく、(深く、よく考える子ども)です。

 つぎに大切なのは、(思考のやわらかさ)です。

 ところで、こんなことがありました。

 先日、あるところで、ある女性に会いました。年齢は、32歳ということでした。その女性に、私
は、こんなジョークを言ったのです。

 「ある男性が、バイアグラと、鉄分の入った錠剤を飲んで寝たら、翌朝、体は、北をさしてい
た」と。

 しかしその女性は、キョトンした顔で、まったく反応を示しませんでした。ジョークを話した私の
ほうが、驚いたほどです。内容を説明するといっても、きわどい話なので、それもできませんで
した。

 そのとき私は、「この女性は、頭のかたい人だな」と思ってしまいました。ふつうなら、ゲラゲラ
と笑うはずなのですが……。

 子どもでも、伸びる子どもは、頭がやわらかいです。ずいぶん前ですが、ワールドカップのと
き、私はふと、こんなことを口にしてしまいました。「アルゼンチンのサポーターの中には、女の
人はいないんだってエ」と。

 すると子どもたち(年長児)が、「どうしてエ?」と。

 そこで私が、だって、「アル・ゼン・チンだもんね」と。

 このジョークは、幼児には無理かなと思った瞬間、一人だけ、ニヤニヤと笑った子どもがいま
した。そういう子どもは、伸びます。

 この時期、大切なことは、子どもの頭をやわらかくする訓練です。具体的には、私の教室のコ
マーシャルになって恐縮ですが、「同じことを、同じパターンでは教えない」です。いろいろな角
度から、いろいろな方法で刺激していきます。

 たとえばBW(私の教室)では、年間、44のテーマに分けて、一度たりとも同じレッスンをしな
いように心がけています。そういう刺激が、子どもの頭をやわらかくします。子どもたちのもつ
自由な発想を、うまく集約しながら、それを一つの考え方に結びつけていきます。

 というわけで、あくまでも知能検査(IQ)は、一つの目安にすぎません。

 最後に一言。書店などには、こうしたテストの訓練用のワークがおいてありますが、風邪薬を
いくらのんでも、風邪の予防にはならないと同じように、こうしたテストをしたからといって、頭が
よくなるとは限りません。大切なのは、生活の場で、無数の刺激を受けながら、深く考える習慣
です。どうか、それを大切にしてください。

 方法としては、いつも、子どもに向かって、「あなたはどう思う?」「あなたはどうしたらいいと
思う?」と、話しかけることです。ぜひ、応用してみてください。

 参考までに、前に書いた原稿(中日新聞掲載済み)を、添付しておきます。

++++++++++++++++

子どもが伸びるとき

●伸びる子どもの四条件

 伸びる子どもには、次の四つの特徴がある。(1)好奇心が旺盛、(2)忍耐力がある、(3)生
活力がある、(4)思考が柔軟(頭がやわらかい)。

(1)好奇心……好奇心が旺盛かどうかは、一人で遊ばせてみるとわかる。旺盛な子どもは、
身のまわりから次々といろいろな遊びを発見したり、作り出したりする。趣味も広く、多芸多
才。友だちの数も多く、相手を選ばない。数才年上の友だちもいれば、年下の友だちもいる。

何か新しい遊びを提案したりすると、「やる!」とか「やりたい!」とか言って、食いついてくる。
反対に好奇心が弱い子どもは、一人で遊ばせても、「退屈〜ウ」とか、「もうおうちへ帰ろ〜ウ」
とか言ったりする。

(2)忍耐力……よく誤解されるが、釣りやゲームなど、好きなことを一日中しているからといっ
て、忍耐力のある子どもということにはならない。子どもにとって忍耐力というのは、「いやなこ
とをする力」のことをいう。

たとえばあなたの子どもに、掃除や洗濯を手伝わせてみてほしい。そういう仕事でもいやがら
ずにするようであれば、あなたの子どもは忍耐力のある子どもということになる。あるいは欲望
をコントロールする力といってもよい。目の前にほしいものがあっても、手を出さないなど。こん
な子ども(小三女児)がいた。

たまたまバス停で会ったので、「缶ジュースを買ってあげようか?」と声をかけると、こう言っ
た。「これから家で食事をするからいいです」と。こういう子どもを忍耐力のある子どもという。こ
の忍耐力がないと、子どもは学習面でも、(しない)→(できない)→(いやがる)→(ますますで
きない)の悪循環の中で、伸び悩む。

(3)生活力……ある男の子(年長児)は、親が急用で家をあけなければならなくなったとき、妹
の世話から食事の用意、戸じまり、消灯など、家事をすべて一人でしたという。親は「やらせれ
ばできるもんですね」と笑っていたが、そういう子どもを生活力のある子どもという。エマーソン
(アメリカの詩人、「自然論」の著者、一八〇三〜八二)も、『教育に秘法があるとするなら、そ
れは生活を尊重することである』と書いている。

(4)思考が柔軟……思考が柔軟な子どもは、臨機応変にものごとに対処できる。同じいたずら
でも、このタイプの子どものいたずらは、どこかほのぼのとした温もりがある。食パンをくりぬい
てトンネルごっこ。スリッパをつなげて電車ごっこなど。反対に頭のかたい子どもは、一度「カ
ラ」にこもると、そこから抜け出ることができない。ある子ども(小三男児)は、いつも自分の座
る席が決まっていて、その席でないと、どうしても座ろうとしなかった。

 一般論として、「がんこ」は、子どもの成長にとって好ましいものではない。かたくなになる、意
固地になる、融通がきかないなど。子どもからハツラツとした表情が消え、動作や感情表現
が、どこか不自然になることが多い。教える側から見ると、どこか心に膜がかかったような状態
になり、子どもの心がつかみにくくなる。

●子どもを伸ばすために

子どもを伸ばす最大の秘訣は、常に「あなたは、どんどん伸びている」という、プラスの暗示を
かけること。そのためにも、子どもはいつもほめる。子どもを自慢する。ウソでもよいから、「あ
なたは去年(この前)より、ずっとすばらしい子になった」を繰り返す。

もしあなたが、「うちの子は悪くなっている」と感じているなら、なおさら、そうする。まずいのは
「あなたはダメになる」式のマイナスの暗示をかけてしまうこと。とくに「あなたはやっぱりダメな
子ね」式の、その子どもの人格の核に触れるような「格」攻撃は、タブー中のタブー。

その上で、(1)あなた自身が、自分の世界を広め、その世界に子どもを引き込むようにする
(好奇心をますため)。また(2)「子どもは使えば使うほどいい子になる」と考え、家事の手伝い
はさせる。「子どもに楽をさせることが親の愛」と誤解しているようなら、そういう誤解は捨てる
(忍耐力や生活力をつけるため)。そして(3)子どもの頭をやわらかくするためには、生活の場
では、「アレッ!」と思うような意外性を大切にする。

よく「転勤族の子どもは頭がいい」と言われるのは、それだけ刺激が多いことによる。マンネリ
化した単調な生活は、子どもの知恵の発達のためには、好ましい環境とは言えない。
(はやし浩司 ビネー スタンフォード 知能検査 知能テスト IQ 生活年齢 精神年齢 子ど
もの知的能力 知的能力 知能)
(040325)


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18

●本能

 本能、つまり本能的行動には、(1)種別性、(2)生得性、(3)固定性、(4)不可逆性の4つが
あるという(深堀元文氏ほか)。

(1)種別性……同じ鳥でも、水をこわがる鳥もいれば、こわがらない鳥もいる。このように種別
によって、本能的行動がちがうことをいう。

(2)生得性……だれに習わなくても、クモは、クモの巣の作り方を知っていることをいう。

(3)固定性……一定のパターンで行動し、学習によって変えることができないことをいう。

(4)不可逆性……一つのパターンで行動していたとき、途中でじゃまが入ったようなとき、その
パターンがこわれることをいう。つまり途中から、もとの行動パターンにもどることができないこ
とをいう。(以上、同氏、「心理学のすべて」より。)

 そこで最大の命題。本能を、自分の意思でコントロールできるかということ。こんなジョークが
ある。(これは私が学生時代に、人から聞いた、ジョーク。)

++++++++++++++

 ある寺の僧侶が、寺の後継者をだれにするかで、悩んでいた。自分の命が、それほど長くな
いことを知っていた。

 そこで目立った、7人の弟子たちを本堂に集めて、こう言った。

 「これから、お前たちの中から、一人を選ぶ。お前たちの中で、もっとも、煩悩(ぼんのう)に
わずらわされないものを、わしの後継者とする」と。

 そこでその僧侶は、7人の弟子たちに、ペニスの先に、鈴をしばりつけるように言った。弟子
たちは、言われたとおりに、自分のペニスの先に、鈴をつけた。

 そしてしばらく僧侶と弟子たちが、瞑想(めいそう)にふけっていると、そこへ素っ裸の女性
が、入ってきた。美しい女性だった。そして弟子たちの前で、足を広げて、踊りだした。

 すると、どうだろう。あちこちから、かすかだが、鈴の音が聞こえてきた。チリチリ……、チリチ
リ……と。

 その音を聞いて、僧侶は、がっかりした。「何たることよ!」と。

 が、一人だけ、鈴の音が聞こえてこない弟子がいた。僧侶はそれを知って、その弟子のとこ
ろにきて、こう言った。

 「お前こそ、この寺を継ぐべき男だ」と。

 するとそれに答えてその弟子は、申しわけなさそうな顔をして、こう言った。

 「いえ、ご僧侶様。私の鈴は、とっくの昔に、どこかへ飛んでいってしまいました……」と。

+++++++++++++++

 聖職者は、性的関心をもってはならないとされる。少し前まで、教職者も、聖職者とみなされ
ていた。しかしそんな話は、とんでもない幻想。ウソ。どこかの学校の校長だって、夜な夜な、う
らビデオを見ながら、マスターベーションしている。

 本能的行動というのは、そういうもので、その人の意思の力で、どうこうなるものではない。い
わんや、コントロールできるものではない。

無理に、自分に『ダカラ論』をかぶせて、「私は教師だから」とがんばる人も、中にはいるにはい
る。

 たとえばだれかが、ヒワイな話をしたりすると、露骨にそれを嫌ってみせたりする。しかしそう
いうのを、心理学の世界では、「反動形成」という。つまりは、大仮面。『ダカラ論』をかぶせるて
いるうちに、自分でまったく別の自分をつくりあげてしまう。

 むしろこうした本能的行動が、人間のあらゆる活力の源泉になっている。あのフロイトだっ
て、リピドーという言葉を使ってそれを説明している※。「リピドー」つまり、生きる力は、性的エ
ネルギーである、と。

 女がいるから、男はがんばる。男がいるから、女はがんばる。一見、複雑にみえる人間社会
だが、すべては、そこから始まり、そこで終わる。もしその人から、性的エネルギーを奪ってし
まったら……。その人は、もう生きるシカバネでしかない。

 そこで結論。

 私たちは本能的行動によって、日々の生活の中で生かされている。しかしその本能的行動
は、いわば「無」から、「有」を生む行動といってもよい。そのことがわからなければ、森に立つ
木々を見ればよい。

 森に立つ木々には、本能的行動はない。だから、何と、その世界は、殺風景なことよ。ドラマ
など生まれる余地がない。(人間が木々を見て感動するのは、それは人間の勝手。木々たち
には、そういう感動はない。)

 一方、動物は、その「無」から、「有」を生みだす。その原動力が、性的エネルギーである。

 もっとわかりやすく言えば、人間は、ほかの動物たちもみなそうだが、一見無意味な本能的
行動に支配されながら、その中から、「生きる」という「有」を生みだしているということになる。も
し映画『タイタニック』の中の、ジャックとローズが、男と女でなかったら、あの映画は、ただの船
の沈没映画。

 しかしジャックとローズは、本能的行動に支配されて行動した。そしてあのドラマをつくりあげ
た。そしてその結果として、観客を、感動させた。つまり私たちが生きる意味は、そこにある。

 本能とは何か? ……それをつきつめていくと、実は、それが、「無」から「有」を生み出す、
原動力となっていることを知る。つまりは、動物と、この自然界を分ける、壁であることを知る。
気が遠くなるほどの長い進化の過程で、人間は、(あるいはその前の動物としての人間は)、
ただの物質としての生命体から、意思をもった生命体として、自らを区別することができた。

 ……どこかの哲学者が書くような、わかりにくい文章になってしまって恐縮なのだが、要する
に、本能的行動こそが、私たちが人間であるという証拠、そのものにほかならない。

 大切なのは、そうした本能を前向きのとらえるということ。そしてその前に、何が本能で、また
本能的行動であるかを、冷静に知るということ。つまりは、いかに意思の力でコントロールして
いくかということ。たとえて言うなら、本能は、野生を走る野生馬のようなものかもしれない。

 その馬に乗る私たちは、その馬をうまくコントロールする。野生馬そのものは、悪でも何でも
ない。むしろ野生馬を否定すれば、私たち自身の存在もあやうくなる。

 今日までの結論は、そういうことになる。このつづきは、もう少し頭がすっきりしてから、考え
てみたい。今朝の私は、どこかぼんやりとしている。頭がうまく働かない。
(はやし浩司 本能 本能的行動 本能論)
(040326)

(※)フロイトのこの学説に対して、ユングなどは、それを否定している。ここではフロイトの学説
にそって、話をすすめてみたが、だからといって、私がフロイトの信奉者というわけではない。
誤解のないように!




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19

●家庭内宗教戦争

 こういう時代なのかもしれない。今、人知れず、家庭内で、宗教戦争を繰りかえしている人は
多い。夫婦の間で、そして親子の間で。

 たいていは、ある日突然、妻や子どもが、何かの宗教に走るというケースが多い。いや、本
当は、その下地は、かなり前からできているのだが、夫や親が、それを見逃してしまう。そして
気がついたときには、もうどうにもならない状態になっている。

 ある夫(43歳)は、ある日、突然、妻にこう叫んだ。

 「お前は、いったい、だれの女房だア!」と。

 明けても暮れても、妻が、その教団のD教導の話ばかりするようになったからである。そして
夫の言うことを、ことごとく否定するようになったからである。

 家庭内宗教戦争のこわいところは、ここにある。価値観そのものが、ズレるため、日ごろの、
どうでもよい部分については、それなりにうまくいく。しかし基本的な部分では、わかりあえなく
なる。

 その妻は、夫にこう言った。

 「私とあんたとは、前世の因縁では結ばれていなかったのよ。それがかろうじて、こうして何と
か、夫婦の体裁を保つことができているのは、私の信仰のおかげよ。それがわからないの
オ!」と。

 そこでその夫は、その教団の資料をあちこちから集めてきて、それを妻に見せた。彼らが言
うところの「週刊誌情報」というのだが、夫には、それしか思い浮かばなかった。

 が、妻はこう言った。「あのね、週刊誌というのは、売らんがためのウソばかり書くのよ。そん
なの見たくもない!」と。

 こうした隔離性、閉鎖性は、まさにカルト教団の特徴でもある。ほかの情報を遮断(しゃだん)
することによって、その信者を、洗脳しやすくする。信者自身が、自ら遮断するように、しむけ
る。

だからたいていの、……というより、ほとんどのカルト教団では、ほかの宗派、宗教はもちろん
のこと、その批判勢力を、ことごとく否定する。「接するだけでも、バチが当たる」と教えていると
ころもある。


●ある親子のケース

 富山県U市に住む男性、72歳から相談を受けたのは、99年の暮れごろである。あと少し
で、2000年というときだった。

 U市で、農業を営むかたわら、その男性は、従業員20人ほどの町工場を経営していた。そ
の一人息子が、仏教系の中でもとくに過激と言われる、SS教に入信してしまったという。

 全国で、15万人ほどの信者を集めている宗教団体である。もともとは、さらに大きな母体団
体から分離した団体だと聞いている。わかりやすく言えば、その母体団体の中の、タカ派と呼
ばれる信者たちだけが、別のSS教をつくって独立した。それがSS教ということになる。

 教義の内容も過激だったが、布教方法も過激であった。毎朝、6時にはその所属する会館に
集まり、彼らが言うところの、「勤行」を始める。それが約1時間。それが終わると、集会、勉強
会。そして布教活動。

 相談してきた男性は、こう言った。

 「ひとり息子で、工場のほうを任せていたのですが、このところ、ほとんど工場には、姿を見せ
なくなりました。週のうちの3日は、まるまるその教団のために働いているようなものです。

 それに困ったのは、最近では、従業員はもちろんのこと、やってくる取り引き先の人にまで、
勧誘を始めたことです。

 何とか、やめさせたいのですが、どうしたらいいですか」と。

 部外者がこういう話を聞くと、「信仰の自由がある」「息子がどんな宗教を信じようが、息子の
勝手ではないか」と思うかもしれない。しかし当事者たちは、そうではない。その深刻さは、想
像を絶するものである。

 「本人は、楽しいと言っていますが、目つきは、もう死んだ魚のようです。今は、どんなことを
言っても、受けつけません。親子の縁を切ってもいいとまで言い出しています」とも。


●カルトの下地

 よく誤解されるが、カルト教団があるから、信者がいるのではない。それを求める信者がいる
から、カルト教団は生まれ、そして成長する。

 だから自分の家族が、何かのカルト教団に入信したとしても、そのカルト教団を責めても意味
はない。原因のほとんどは、その信者自身にある。もっと言えば、そういう教団に身を寄せね
ばならない、何かの事情が、その人自身に、あったとみる。

 冒頭に書いた、ある夫(43歳)の例も、そうだ。妻の立場で、考えてみよう。

 どこか夫は、権威主義的。男尊女卑思想。仕事だけしていれば、男はそれでよいと考えてい
るよう。その一方で、女は育児と家庭という押しつけくる。そういう生活の中で、日々、窒息しそ
うになってしまう。

 何のための人生? なぜ生きているのか? どこへ向えばよいのか? 生きがいはどこにあ
る? どこに求めればよいのか? 何もできないむなしさ。力なさ。そして無力感。

 しかし不安。世相は混乱するばかり。社会も不安。心も乱れ、つかみどろこがない。何のた
めに、どう生きたらよいのか。心配ごともつきない。自分のことだけならともかくも、子どもはど
うなるのか? 国際情勢は? 環境問題は?

 そんなことをつぎつぎと考えていくと、自分がわからなくなる。いくら「私は私だ」と叫んでも、そ
の私はどこにいるのか? 生きる目的は何か? それを教えてくれる人は、どこにいるのか?
 どこにどう救いを求めたらよいのか?

 ……そういう状態になると、心に、ポッカリと穴があく。その穴のあいたところに、ちょうどカギ
穴にカギが入るかのように、カルト教団が入ってくる。

 それは恐ろしく甘美な世界といってもよい。彼らがいうとところの神や仏を受け入れたとた
ん、それまでの殺伐(さつばつ)とした空虚感が、いやされる。暖かいぬくもりに包まれる。

 信者どうしは、家族以上の家族となり、兄弟以上の兄弟となる。とたん、孤独感も消える。す
ばらしい思想を満たされたという満足感が、自分の心を強固にする。

 しかし……。

 それは錯覚。幻想。幻覚。亡霊。

 一度、こういう状態になると、あとは、指導者の言いなり。思想を注入してもらうかわりに、自
らの思考力をなくす。だから、とんでもないことを信じ、それを行動に移す。

 少し前だが、死んでミイラ化した人を、「まだ生きている」とがんばった信者がいた。あるいは
教祖の髪の毛を煎じてのむと、超能力が身につくと信じた信者がいた。さらに足の裏を診断し
てもらっただけで、100万円、500万円、さらには1000万円単位のお金を教団に寄付した信
者もいた。

 常識では考えられない行為だが、そういう行為を平気でするようになる。

 が、だれが、そういう信者を笑うことができるだろうか。そういう信者でも、会って話をしてみる
と、私やあなたとどこも違わない、ごくふつうの人である。「どこかおかしのか?」と思ってみる
が、どこもちがわない。

 だれにでも、心の中にエアーポケットをもっている。脳ミソ自体の欠陥と言ってもよい。その欠
陥のない人は、いない。


●どうすればよいか?

 妻にせよ、子どもにせよ、どこかのカルト教団に身を寄せたとしたら、その段階で、その関係
は、すでに破壊されたとみてよい。夫婦について言うなら、離婚以上の離婚という状態になった
と考えてよい。親子について言うなら、もうすでに親子の状態ではないとみる。親はともかくも、
子どものほうは、もう親を親とも思っていない。

 しかしおかしなことだが、あるキリスト系の教団では、カルト教団であるにもかかわらず、離婚
を禁止している。またある仏教系の教団では、カルト教団であるのもかかわらず、先祖の供養
を第一に考えている。

 そして家族からの抵抗があると、「それこそ、この宗教が本物である」「悪魔が、抵抗を始め
た」「真の信仰者になる第一歩だ」と教える。

 こうなったら、もう方法は、三つしかない。

(1)断絶する。夫婦であれば、離婚する。
(2)家族も、いっしょに入信する。
(3)無視して、まったく相手にしないでおく。

 私は、第3番目の方法をすすめている。富山県U市に住む男性(72歳)のときも、こう言っ
た。

 「息子さんには、こう言いなさい。『ようし、お前の信仰が正しいかどうか、おまえ自身が証明し
てみろ。お前が、幸福になったら、お前の信仰を認めてやろう。ワシも入信してやろう。どう
だ!』と。

 つまり息子さん自身に、選択と行動を任せればよいのです。会社の経営者としては、すでに
適格性を欠いていますので、クビにするか、会社をつぶすかの、どちらかを覚悟しなさい。夫婦
でいえば、すでに離婚したも同然と考えます。

 そしてこう言うのです。『これは、たがいの命をかけた、幸福合戦だ』とです。そしてあとは、ひ
たすら無視。また無視です。

 この問題だけは、あせってもダメ。無理をしても、ダメ。それこそ5年、10年単位の時間が必
要です。頭から否定すると、反対に、あなたの存在そのものが、否定されてしまいます。

 あなたは親子の関係を修復しようと考えていますが、すでにその関係は、こわれています。
今の息子さんの信仰は、あくまでもその結果でしかありません」と。


●常識の力を大切に!

今の今も、こうしたカルト教団は、恐ろしい勢いで勢力を伸ばしている。信者数もふえている。
つまりそれだけ心の問題をかかえた人がふえているということ。

 では、それに対して抵抗する私たちは、どうすればよいのか。どう自分たちを守ればよいの
か。

 私は、常識論をあげる。常識をみがき、その常識に従って行動すればよい、と。

 むずかしいことではない。おかしいものは、おかしいと思えばよい。たったそれだけのことが、
あなたの心を守る。

 家族、妻や子どもに向かっては、いつもこう言う。「おかしいものは、おかしいと思おうではな
いか。それはとても大切なことだ」と。

 そしてそのために、常日ごろから、自分の常識をみがく。これも方法は、簡単。ごくふつうの
人として、ふつうの生活をすればよい。ふつうの本を読み、ふつうの音楽を聞き、ふつうの散歩
をする。もちろんその(おかしなもの)を遠ざける努力だけは、怠ってはいけない。(おかしなも
の)には、近づかない。近寄らない。近寄らせない。

 あとは、自ら考えるクセを大切にする。習慣といってもよい。何を見ても、ふと考えるクセをつ
ける。そういうクセが、あなたの心を守る。

 さあ、今日も、はやし浩司は戦うぞ! みなさんといっしょに、戦うぞ!

 世の正義のため、平和のため、平等のために! ……と少し力んだところで、このつづき
は、またの機会に! 同じような問題をかかえていらっしゃる方は、どうか掲示板のほうに、書
き込みをしてください。



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20

●突発的な衝動的行為

 この回転ドア事件の子どもの話とは別に、突発的に衝動的な行為に走る子どもが、ここ10
年、20年と、10年単位でふえているように思う。

 ADHD児にかぎらない。どこかゲーム感覚というか、突然、あるとき、突飛もないことをする。

 脳の微細障害説を唱える学者もいる。最近のテレビゲームの影響を唱える学者もいる。環
境ホルモン(内分泌かく乱物質)説を唱える学者もいる。もちろん生来の遺伝子の問題をとらえ
る学者もいる。

 以前、こんな原稿を書いた。中日新聞で発表してもらったら、何人かの先生から、電話をもら
った。反響の大きかった原稿である。

++++++++++++++++++++

子どもの脳が乱舞するとき

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、あ
あ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポ
ンと飛ぶ。

頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよう。動作も一
貫性がない。騒々しい。ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔
をして、直立! そしてそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感
情も激しく変化する。目が回るなんていうものではない。まともに接していると、こちらの頭のほ
うがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学二、三年になると、症状が
急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。三〇年前に
はこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ一〇年、急速にふえた。小一児で、一〇人
に二人はいる。

今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子どもが、一クラスに数人もいると、そ
れだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒ぐ。こちらを抑えればあちらが騒
ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答え
た先生が、六六%もいる(九八年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。

「指導の疲れから、病欠、休職している同僚がいるか」という質問については、一五%が、「一
名以上いる」と回答している。そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子
どもについては、九〇%以上の先生が、経験している。

ほかに「弱いものをいじめる」(七五%)、「友だちをたたく」(六六%)などの友だちへの攻撃、
「授業中、立ち歩く」(六六%)、「配布物を破ったり捨てたりする」(五二%)などの授業そのも
のに対する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが
最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。「新しい荒れ」とい言葉を使う人もい
る。

ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの教師
はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわからなくなった」とこぼす。

日教組が九八年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を
感ずる」というのが、二〇%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」
(一四%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(一〇%)と続く。

そしてその結果として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、八%、「かなり感ずる」「や
や感ずる」という先生が、六〇%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲー
ムをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。

家庭にしても、昔のような崩壊家庭は少なくなった。むしろここにあげたように、ごくふつうの、
そこそこに恵まれた家庭の子どもが、意味もなく突発的に騒いだり暴れたりする。そして同じよ
うな現象が、日本だけではなく、アメリカでも起きている。

実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的にテレビや
ゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。

「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても返事もし
ませんでした」と言った母親もいた。

たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、動きが速い。速すぎる。しかもその間に、ひっきり
なしにコマーシャルが入る。ゲームもそうだ。動きが速い。速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりや
すく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。

その証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くこと
ができない。浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮
城に魚が、おしっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろ
いが、直感的で論理性がない。

ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつかさどるのは、左脳であ
る(R・W・スペリー)。テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。

こうした今まで人間が経験したことがない新しい刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えてい
ることはじゅうぶん考えられる。その一つが、ここにあげた「脳が乱舞する子ども」ということに
なる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊を
あげる。

++++++++++++++++++++

●予測できない、今の子どもの行動

 いつなんどき、事故が起きるかわからない……。しかもまったく予想外のことで……。

 それが今の、教育現場の現状である。

 突発的な行動。衝動的な行動。突飛もない行動。またそういう行動を繰りかえす子どものほう
が、仲間でも受けがよい。たいていはリーダー格というより、中心格。ワーワーと騒ぎながら、
ほかの子どもたちを、自分のリズムに引き込んでいく。

 この段階になると、「なぜ事故が起きるか?」という疑問は、あまり重要ではない。「どうしたら
事故を避けられるか?」が、重要である。もっと正直に言えば、「どうすれば、その責任を回避
できるか」が、重要である。

当然のことながら、ひとたび事故が起きれば、その責任は、すべて教師におおいかぶさってく
る。

 ある教師(小学校)はこう言った。「帰校するとき、子どもたちどうしが、けんかをしました。そ
のとき、A君がB君に、けがをさせました。そういうけがでも、『学校の責任だ』と怒鳴りこんでく
る親がいます」と。

 この事件にはつづきがある。

 そこでその教師が、「帰校時のことまでは、私は責任は負えない」と言った。常識で考えれば
当然の意見である。その教師は、正直な人だった。しかし母親は、それに納得しなかった。「学
校でのいじめがベースにあって、それが原因で、今回の事件が起きた」と。

 そこで校長をまじえて、三者で、話しあうことになった。……という話をここで書くのは目的で
はない。

 学校での行事はともかくも、今では、生徒を連れて出歩くなどということは、まさに自殺行為
(ほかに適当な言葉がない)としか、言いようがない。以前は、どこのおけいこ塾でも、夏になる
と、キャンプに行ったり、登山に行ったりした。しかし、今は、そういうことをする塾は、ほとんど
ない。よほど無頓着な塾は別として、もし事故でも起きたら……。それだけで、その塾は、閉鎖
に追いこまれてしまう。

 私もこういう仕事をして34年になる。そして最初の10年間ぐらいは、毎年、夏休みは春休み
には、キャンプや、登山、ハイキングなどに子どもたちをつれていった。しかしそんなとき、埼玉
県で学習塾を開いていた仲間のT氏(当時、私と同年齢)が、事故を起こした。その話を聞いて
から、そうした行事は、やめた。

 キャンプをしていたテントに、上から石が落ちてきた。だれかが上から投げたという話もある。
幸い命には別状がなかったが、一人の女生徒が、頭におおけがをして、1か月以上も入院し
た。そのとき請求された補償額が、3000万円(当時)!

 T氏は、あちこちからお金を借りて、その3000万円を用意した。が、そのあと、T氏は、塾を
たたんだ。最後に電話で話したとき、T氏はこう言った。

 「林さん、よけいなことはしないほうがいいよ。無料奉仕の野外活動でも、責任を問われるよ」
と。

 たしかに最近の子どもたちの行動は、つかみどろこがない。予想が立たない。こうした質的な
変化に加えて、わがまま。ぜいたく。自分勝手。「手のつけようがない」というのは、少し大げさ
かもしれないが、それに近い。

 だからその結果として、教育現場の教師たちは、ますます萎縮し始めている。隣のS市の小
学校で校長をしているW氏は、こう言った。

 「総合的な学習を利用して、いろいろなことをしたいのですが、あれこれ考えていくと、どうして
も小さくならざるをえまぜん。

たとえば近くに、結構広い池があるのですが、いかだ遊びはもちろん、模型の船を浮かばせて
遊びたいと思っても、そんな遊びは、不可能です。学校の外へつれていくことさえ、できませ
ん。事故でも起きたら、それこそたいへんです」と。

 子ども様々(さまさま)となった今、むしろおとなのほうが、子どもに頭をさげるようになってし
まった。ウソだと思うなら、電車の中を見てみればよい。子どもが席に座って、親やおとなたち
が、通路に立っている!

 何かがおかしい。何かが狂っている。そういう状態のまま、子どもたちだけがどこか、別の方
向へ進み始めている。その結果、教育現場の教師たちは、ますます萎縮し始めている。

 そうそうI町のI小学校の校長も、こう言っていた。

 「今では、生徒の頭をポカリとたたいても、親が、体罰だと怒ってきます。そういう時代です」
と。

 私も子どもが嫌いではない。しかしここ20年近く、こうした野外活動をしていない。




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21
【特集・東洋医学】

●目で見る漢方診断

++++++++++++++++++++

みなさんは、「漢方(医学)」をご存知ですね。
広くは、「東洋医学」とも言います。

最近では、「東洋医学」と呼ぶほうが、
一般的になっているようです。

その「漢方」、ルーツは、「黄帝内経・素問」と、
「黄帝内経・霊枢」という、2冊の書物です。
それぞれ、「こうていだいけ・そもん」
「こうていだいけい・れいすう」と読みます。

「書物」というよりは、「バイブル」と呼んだ
ほうが、正しいかもしれません。

私たちが現在、東洋医学と呼んでいるものは、
これら、黄帝内経・素問、黄帝内経・霊枢に
始まり、同じく、黄帝内経・素問、黄帝内経・
霊枢に終わると言っても過言ではありません。

今度、私のHPのほうで、私が若いときに
書いた、『目で見る漢方診断』を、全ページ、
公開することにしました。

そのこともあって、かつて黄帝内経について
書いた原稿を、ここに再録することにしました。

「漢方!」と、どうか、逃げないでください。
黄帝内経には、日常で役立つ健康法が、
いっぱい書かれています。

もしみなさんが、ここに再録した原稿を
読んでくださり、またHPに収録した
『目で見る漢方診断』に目を通してくだされば、
あなたは、ちょっとした、漢方の「通(つう)」
になれますよ。

おもしろい世界です。
どうか、一度、ドアをたたいてみてください。

Welcome to Chinese Medical Science!

++++++++++++++++++

●謎の書物、黄帝内経(こうていだいけい)

 若いころ、東洋医学の勉強をしているとき、私は、こんなことに気づいた。「ひょっとしたら、東
洋医学のバイブルと言われている、『黄帝内経(こうていだいけい)』は、人間によって書かれた
ものではないのではないか」と。言うまでもなく、東洋医学は、この黄帝内経に始まって、黄帝
内経によって終わる。

 とくに、黄帝内経・素問(そもん)は、そうである。しかしもともとの黄帝内経は、そののち、多く
の医家たちによって、原型をとどめないほどまでに、改ざん、加筆されてしまった。今、中国に
残る、黄帝内経は、その結果だが、皮肉なことに、原型に近い黄帝内経は、京都の仁和寺(に
んなじ)に残っている。

 その仁和寺の黄帝内経には、いくつか不思議な記述がある。それについて書くのが、ここの
目的ではないので、省略するが、私はいつしか、中国の「帝王」と、メソポタミアの「神」が、同一
人物でないかと思うようになった。

黄河文明を築いた、仰韶(ヤンシャオ)人と、メソポタミア文明を築いた、シュメール人には、と
もに、不可思議な共通点がある。それについて書くのも、ここの目的ではないので、省略する。

 むずかしい話はさておき、今から、約5500年ほど前、人類に、とてつもないほど、大きな変
化が起きたことは、事実のようだ。突然変異以上の、変異と言ってもよい。そのころを境に、サ
ルに近い原始人が、今に見る、人間になった。

 こうした変化の起爆剤になったのが、何であるのか、私にはわからない。わからないが、一
方、こんな事実もある。

●月の不思議

 月の南極の写真を見ていたときのこと。ちょうど南極付近に、きれいな円形の2つのクレータ
ーがある。「きれいな」と書いたが、実際には、真円である。まるでコンパスで描いたような真円
である。

 そこで2つのクレーターの直径を調べてみた。パソコンの画面上での測定なので、その点は
不正確かもしれないが、それでも、一方は、3・2センチ。もう一方も、3・2センチ! 実際の直
径は、数10キロはあるのもかもしれない。しかしその大きさが、ピタリと一致した!

 しかしこんなことが、実際、ありえるのだろうか。

 もともとこのあたりには、人工的な構造物がたくさん見られ、UFO研究家の間でも、よく話題
になるところである。実際、その二つのクレーターの周囲には、これまた謎に満ちた影がたくさ
ん写っている。

 そこでさらに調べてみると……というのも、おかしな言い方だが、ともかくも、あちこちのサイト
を開いてみると、こうした構造物があるのは、月だけではないことがわかった。火星はもちろ
ん、水星や、金星にもある。エウロパやエロスにもある。つまりいたるところにある。

 こうした写真は、アメリカのNASAから漏れ出たものである。一説によると、月だけでも、NA
SAは、数10万枚の写真をもっているという。公開されているのは、そのうちの数パーセントに
すぎないという。しかも、何かつごうの悪い写真は、修整されたりしているという。しかし、クレー
ターまでは、消せない。それが、ここに書いた、2つのクレーターである。

【写真に興味のある人は、私のホームページから、(右下・ビデオであいさつ)→(動画コーナ
ー)へと進んでみてほしい。一覧表の中から、月のクレーターを選んでクリックすれば、その写
真を見ていただける。】

●下からの視点、上からの視点

 地球上に、それこそカビのようにはいつくばって東洋医学の勉強をした私。そしてその私が、
天を見あげながら、「ひょっとしたら……」と考える。

 一方、宇宙には、すでに無数のエイリアンたちがいて、惑星間を回りながら、好き勝手なこと
をしている。中には、月そのものが、巨大なUFOだと主張する科学者さえいる。

 もちろん私は、宇宙から地球を見ることはできない。しかし頭の中で想像することはできる。
そしてこれはあくまで、その想像によるものだが、もし私がエイリアンなら、人間の改造など、何
でもない。それこそ、朝飯前? 小学生が電池をつないで、モーターを回すくらい簡単なことで
はないか。

 この2つの視点……つまり下から天をみあげる視点と、天から人間を見る視点の2つが、合
体したとき、何となく、この問題の謎が解けるような気がする。「この問題」というのは、まさに
「人間に、約5500年前に起きた変化」ということになる。

 その5500年前を境に、先に書いたように、人間は、飛躍的に進化する。しかもその変化
は、メチャメチャ。その一つが、冒頭にあげた、『黄帝内経』である。黄帝というのは、司馬遷の
「史記」の冒頭を飾る、中国の聖王だが、だからといって、黄帝内経が、黄帝の時代に書かれ
たものと言っているのではない。

 中国では古来より、過去の偉人になぞらえて、自説を権威づけするという手法が、一般的に
なされてきた。黄帝内経は、そうして生まれたという説もある。しかし同時期、メソポタミアで起
きたことが、そののち、アッシリア物語として記録され、さらにそれが母体となって旧約聖書が
生まれている。黄帝内経が、黄帝とまったく関係がないとは、私には、どうしても思われない。

●秋の夜のロマン

 あるとき、何らかの理由で、人間が、エイリアンたちによって、改造された。今でいう、遺伝子
工学を使った方法だったかもしれない。

 そして人間は、原始人から、今でいう人間に改造された。理由はわからない。あるいはエイリ
アンの気まぐれだったかもしれない。とりあえずエイリアンたちが選んだ原始人は黄河流域に
住んでいた原始人と、チグリス川、ユーフラテス川流域に住んでいた原始人である。

 改造された原始人は、もうつぎの世代には、今でいう現代人とほとんど違わない知的能力を
もつようになった。そこでエイリアンたちは、人間を教育することにした。言葉を教え、文字を教
えた。証拠がないわけではない。

 中国に残る甲骨文字と、メソポタミアに残る楔形(くさびがた)文字は、たいへんよく似てい
る。形だけではない。

 中国では、「帝」を、「*」(この形に似た甲骨文字)と書き、今でも「di」と発音する。「天から来
た、神」という意味である。一方、メソポタミアでは、「神」を、同じく、「*」(この形に似た楔形文
字)と書き、「dingir」と発音した。星という意味と、神という意味である。メソポタミアでは、神(エ
ホバ)は、星から来たと信じられていた。(詳しくは、私が書いた本「目で見る漢方診断」(飛鳥
新社)を読んでいただきたい。)

 つまり黄河文明でも、メソポタミア文明でも、神は「*」。発音も、同じだったということ。が、こ
れだけではない。言葉の使い方まで、同じだった。

 古代中国では、「帝堯(ぎょう)」「帝舜(しゅん)」というように、「位」を、先につけて呼ぶならわ
しがあった。(今では、反対に「〜〜帝」とあとにつける。)メソポタミアでも、「dingir 〜〜」とい
うように、先につけて呼んでいた。(英語国などでも、位名を先に言う。たとえば、「キング・ジェ
ームズ」とか、など。)

 こうして今に見る人間が生まれたわけだが、それがはたして人間にとって幸福なことだったの
かどうかということになると、私にも、よくわからない。

 知的な意味では、たしかに人間は飛躍的に進化した。しかしここでも、「だからどうなの?」と
いう部分がない。ないまま進化してしまった。それはたとえて言うなら、まさにそこらに群れるサ
ルに知恵だけ与えたようなものである。

 わかりやすく言えば、原始的で未発達な脳の部分と、高度に知的な脳の部分が、同居するこ
とになってしまった。人間は、そのとたん、きわめてアンバランスな生物になってしまった。人間
がもつ、諸悪の根源は、すべてここにある?

 ……これが私の考える、私の大ロマンである。もちろん、ロマン。SF(科学空想)。しかしそん
なことを考えながら天の星々を見ていると、不思議な気分に襲われる。どんどんと自分が小さく
なっていく。そしてその一方で、それとは反比例して、どんどんと自分が大きくなっていく。「人間
は宇宙のカビ」と思う一方で、「人間は宇宙の創造主」と思う。相矛盾した自分が、かぎりなく自
分の中で、ウズを巻く。

 あさって(27日)も、天気がよければ、望遠鏡で、月をのぞくつもり。山荘から見る夜空は、ど
こまでも明るい。
(030925)

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ついでにもう1作!

日付を見ると、2004年の
原稿ということになっています。

内容が一部、ダブりますが、
お許しください。

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【壮大なロマン】

●人間は、宇宙人によって、作られた?

 私は、人間は、宇宙人によって、つくられた生き物ではないかと思っている。

 「作られた」というよりは、彼らの遺伝子の一部を、組み込まれたのではないかと、思ってい
る。それまでの人間は、きわめてサルに近い、下等動物であった。

 たとえば人間の脳ミソをみたばあい、大脳皮質と呼ばれる部分だけが、ほかの動物とくらべ
ても、特異に発達している。そこには、100〜140億個とも言われる、とほうもない数の神経
細胞が集まっているという。

 長い時間をかけて、人間の脳は、ここまで進化したとも考えられる。しかし黄河文明にせよ、
メソポタミア文明にせよ、それらは、今からたった7500年前に生まれたにすぎない。たった7
500年だぞ! 

地球の歴史の中では、まさに瞬時に、変化したと言うにふさわしい。 

それ以前はというと、新石器時代。さらにそれ以前はというと、人間の歴史は、まったくの暗闇
に包まれてしまう。

 私は、今から7500年前。つまり紀元前、5500年ごろ、人間自体に、何か、きわめて大きな
変化があったのではないかと思っている。そのころを境に、人間は、突然に、賢くなった(?)。

●古代神話

 中国の歴史は、黄帝という帝王で始まる。司馬遷も、『史記』を、その黄帝で書き始めてい
る。それと同じころ、メソポタミアでは、旧約聖書の母体となる、『アッシリア物語』が、生まれて
いる。ノアの方舟に似た話も、その物語の中にある。

 この黄帝という帝王は、中国に残る伝説によれば、処女懐胎によって、生まれたという。この
話は、どこか、イエスキリストの話に似ている。イエスキリストも、処女懐胎によって生まれてい
る。

 この時期、この地球で、ほぼ同時に、二つの文明が生まれたことになる。黄河文明と、メソポ
タミア文明である。

 共通点はいくつかある。

 黄河流域で使われたという甲骨文字と、メソポタミアに残る楔形(くさびがた)文字は、よく似
ている。さらに、メソポタミア文明では、彩色土器が使われていたが、それときわめてよく似た
土器が、中国の仰韶(ヤンシャオ)地方というところでも、見つかっている。

 メソポタミアのシュメール人と、中国のヤンシャオ人。この二つの民族は、どこかで、つながっ
ている? そしてともに、その周囲の文明とはかけ離れた文明を、築いた。一説によると、シュ
メール人たちは、何の目的かは知らないが、乾電池まで使っていたという。

 もちろん、ここに書いたことは、神話とまではいかないが、それに近い話である。黄河文明に
しても、ヤンシャオ人が作った文明とは、証明されていない。私が勝手に、黄河文明イコール、
ヤンシャオ人と結びつけているだけである。

 ただ、「帝」を表す甲骨文字と、「神」を表す楔形文字は、形のみならず、意味、発音まで、ほ
ぼ、同じである。中国でいう帝王も、メソポタミアでいう神も、どこか、遠い星からやってきたとさ
れる。

●壮大なロマン

 私は、ある時期、シュメール人や、ヤンシャオ人について、いろいろ調べたことがある。今で
も、大きな図書館へ行くと、新しい資料はないかと、必ず、さがす。

 が、いつも、そのあたりで、ストップ。本来なら、中国やイラクへでかけ、いろいろ調べてから、
こうしてものを書くべきだが、それだけの熱意はない。資金もない。それに、時間もない。

 まあ、そうかな?……と思いつつ、あるいは、そうでないのかもしれないな?……と思いつ
つ、35年近くを過ごしてきた。

 しかしこうした壮大なロマンをもつことは、悪いことではない。あちこちに、そういった類(たぐ
い)の、「古代〜〜展」があったりすると、「ひょっとしたら……」と思いつつ、でかける。何か、目
標や目的があるだけでも、そうした展示品を見る目もちがってくる。

 「やっぱり、ぼくの自説は正しいぞ」と思ってみたり、「やっぱり、ぼくの自説はまちがっている
かもしれない」などと、思ってみたりする。

 私は考古学者ではない。多分、この原稿を読んでいるあなたも、そうだ。だから、夢、つまり
ロマンをもつことは許される。まさに壮大なロマンである。

 とくに、眠られぬ夜には、こうしたロマンは、役にたつ。あれこれ頭の中で考えていると、いつ
の間にか、眠ってしまう。あなたも、私がここに書いたことを参考に、古代シュメール人や、中
国のヤンシャオ人に、興味をもってみたらどうだろうか。

 彼らには、私たちの心をとらえてはなさない、何か大きな、不思議な魅力がある。
(040607)


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そして「黄帝内経」へ……。

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●神々の言葉

 私はどういうわけか、黄帝内経(こうていだいけい)という書物に興味をもっている。漢方(東
洋医学)のバイブルと言われている本である。東洋医学のすべてがこの本にあるとは言わない
が、しかしこの本がその原点にあることは間違いない。

 その黄帝内経を読むと、最初に気づくのは、バイブルとは言いながら、聖書の記述方法と逆
であること。黄帝内経は、黄帝という聖王と、岐伯(きはく)という学者の問答形式で書かれてい
るが、黄帝はもっぱら聞き役に回っているということ。そしてその疑問や質問、さらには矛盾に
つぎつぎと答えているのは、岐伯のほうであるということ。

 一方聖書(新約聖書)のほうは、弟子たちが、「主、イエスキリストは、このように言った」とい
う形式で書かれている。つまり弟子たちが聞き役であり、キリストから聞いた話をその中に書い
ている。

 そこでなぜ、黄帝内経では、このような記述方法を使ったかということ。もし絶対的な権威と
いうことになるなら、「黄帝はこう言った」と書いたほうがよい。(そういう部分もあるが……。)岐
伯の言葉ではなく、黄帝の言葉として、だ。しかしこれには二つの理由がある。

 黄帝内経という書物は、医学書として分類されている。前一世紀の図書目録である、漢書
「藝文志」に医書として分類されていることによる。ここで医書として分類されたことが正しいか
どうかという疑問はある。さらに「医書」という言葉を使っているが、現代流に、だからといって
「科学、化学、医学」というふうに厳密に分類されていたかどうかという疑問はある。

が、それはさておき、仮に医書であるとしても、それは今で言う、科学の一分野でしかない。科
学である以上、絶対的な権威を、それにもたせるのは、きわめて危険なことでもある。その科
学に矛盾が生じたときのことを考えればよい。矛盾があれば、黄帝という聖王の無謬性(一点
のまちがいもない)にキズがつくことになる。ここが宗教という哲学と大きく違う点である。つまり
黄帝内経の中では、岐伯の言葉として語らせることによって、「含み」をもたせた。

 もうひとつの理由は、仮に医書なら医書でもよいが、体系化できなかったという事情がある。
黄帝内経は、いわば、健康医学についての、断片的な随筆集という感じがする。しかし断片的
な随筆を書くのと、その分野で体系的な書物を書くのは、まったく別のことである。たとえばこ
の私は、こうして子育てについての随筆をたくさん書いているが、いまだに「教育論」なるもの
は、書いていない。これから先も、多分、書けないだろうと思う。

もう少しわかりやすい例で言えば、日々の随筆は書くことはできても、人生論を書くことはでき
ない。できないというより、たいへん困難なことである。つまり黄帝内経は医学書(科学書でもよ
いが)といいながら、体系化できるほどまでに完成されていない。これは実は聖書についても同
じことが言えるが……。

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謎はつづきます……。

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●黄帝内経(こうていだいけい)の謎

 私が黄帝内経(こうていだいけい)という書物に、最初に興味をもったのは、その中につぎの
ような記述があることを知ったときのことだ。

 黄帝が岐伯(ぎはく)に、「この宇宙はどうなっているか」と聞いたときのこと。岐伯は、「岐伯
曰地為人之下太虚之中者也」(「五運行大論篇」)と答えている。

これを訳すと、「地は人の下にあります。しかも宇宙の真中に位置します」(小曾戸丈夫氏訳)、
あるいは「地は人の下にあり、虚空の中央にあるものです」(薮内清氏訳)となる。

しかしもう少し、漢文に厳密に翻訳すると、こうなる。「地は、人の下にあって、太虚の中にあ
る」と。「地が、人の下にある」というには、常識だが、(またなぜこうした常識をあえて付け加え
たかというのも、おもしろいが)、「太虚の中にある」というのは、当時の常識と考えてよいの
か。漢書「藝文志」という図書目録が編纂されたのは、前一世紀ということになると、少なくと
も、それ以前の常識、あるいはこの部分が仮に唐代の王冰(おうひょう)の増さんによるものだ
としても、西暦七六二年の常識ではなかったはずである。

ここでいう「太虚」というのは、「虚」の状態よりも何もない状態をいう。小曾戸氏も薮内氏も、
「太虚」の訳をあいまいにしているが、太虚というのは、空気という「気」もない状態と考えるの
が正しい。「空気」というのは、読んで字のごとく、「カラの気」という意味。気のひとつである。そ
の気がない状態を、虚。さらに何もない状態を太虚という。今風に言えば、まさに真空の状態と
いうことになる。

 もしここで王冰の増さんによるとするなら、なぜ王冰が、当時の常識的な天文学の知識に沿
って、この部分を書かなかったかという疑問も残る。当時の中国は、漢の時代に始まった、蓋
天(がいてん)説、こん天説、さらには宣夜説が、激論を戦わせていた時代である。

恐らく事実は逆で、あまりにも当時の常識とはかけ離れていたため、王冰は、この部分の増さ
んには苦心したのではなかろうか。(あくまでも王冰の増さん説にのっとるならの話だが……。)
その証拠に、その部分の前後には、木に竹をつぐような記述が随所に見られる。つまりわざと
医学書らしく無理をして改ざんしたと思われるようなところがある。

さらに百歩譲って、もしこの部分が、大気の流れをいうものであるとするなら、こんなことをこん
なところに書く必要はない。この文につづくつぎのところでは、気象の変化について述べている
のである。王冰としても、散逸した黄帝内経を改ざんしながらも、改ざんしきれなかったのでは
ないかと思う。

 話はそれたが、私はこの一文を読んだとき、電撃に打たれるような衝撃を受けた。当時の私
は、「黄帝」を、司馬遷の「史記」の第一頁目をかざる、黄帝(「五帝本紀第一」)の黄帝ととらえ
た。その黄帝との問答であるとするなら、その時代は、推定でも、紀元前参五〇〇年。今から
五五〇〇年前ということになる。

(だからといって、黄帝内経がそのころの書物というのは、正しくないが……。)少なくとも、この
一文が、私が漢方にのめりこむきっかけになったことには、まちがいない。

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もう少し、深く考えてみましょう!

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●黄帝内経(こうていだいけい)は改ざんされたか

 黄帝内経(こうていだいけい)は、時代によって、そして写本化されるたびに、改ざんされた。
それぞれの研究家や医家たちが、自分たちにつごうがよいように、古い文句を削り、新しい文
句を付け加えた。これは動かしがたい事実である。

 たとえば「五運行大論篇」においても、天地の動静を岐伯(ぎはく)が説明したあと、薮内氏の
訳した本のほうでは、「上の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右から三六五日余でまたも
との位置にもどる」とあるが、王冰が編さんとしたとされる黄帝内経を訳した、小曾戸氏のほう
では、「歳運は五年で交替するのに六気は六年で交替するのですから、運と気のめぐり方には
一年のずれを生じます……」とある。

薮内氏のほうは、中国本土にも残っていない黄帝内経(京都の仁和寺所蔵)を翻訳したものと
思われる。つまり、より原書に近いとみてよい。

一方、王冰の黄帝内経は、無理に医書に位置づけようとした痕跡が随所に見られる。この部
分もそうだが、さらにこれはとても残念なことだが、翻訳した小曾戸氏の翻訳にも、その傾向が
見られる。たとえば小曾戸氏は、随所に、「気」という言葉を補って翻訳している。たとえば……

 「上者右行」を、「司天の気は右にめぐり」と訳すなど。(原文には「気」などという言葉はどこ
にもない!)

 こうした改ざんは、意味不明で、難解な文章を何とか理解しようしたために改ざんされたとも
とれるが、もうひとつは当時の常識に当てはめようとしたためになされたとも考えられる。

中国には、地球説はおろか、地動説すらなかったという常識に従ったとも考えられる。そういう
時代に、地球説を唱え、地動説を唱えたらどうなるか。ヨーロッパでそれをしたため、弾圧され
た人すらいた。コペルニクスが、その人である(一五四三年「天球の回転について」)。宇宙創
造に関する記述は、それ自体が宗教と密接に結びついている。さらに中国では、中国式権威
主義がはびこり、その権威からはずれた学説は、容赦なく排斥された。そういう時代的背景を
忘れてはいけない。

 が、それでも地動説の片りんが残った! 私たちが黄帝内経を科学書として着目しなければ
ならない点は、まさにこの一点にある。そして今、私が黄帝内経の中の地動説を唱えるについ
て、多くの人は、「解釈の曲解だ」「なるほどそういうふうに考えれば考えられないこともない」と
いうように反論する。しかしこの視点はおかしい。

もしこの部分が、あからさまに地球説をいい、地動説をいっていたとしたら、まっさきに削除さ
れたであろうということ。それにゆえにあいまいに改ざんされたともとれるし、あいまいであるが
ゆえに、今に残ったというふうに考えられる。今、あいまいだからといって、さらにその内容を負
(マイナス)の方向に引くことは許されない。

私たちが今すべきことは、そのあいまいな部分を、よりプラスの方向に引きつけて、その向こう
にある事実を見ることなのである。「そういうふうにも解釈できる」という言いかたではなく、「改
ざんしてもしきれなかった」という言いかたにすべきでなのである。


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いよいよ核心部分です!

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●三六五日余で、もとに戻るものは何か

 黄帝内経(こうていだいけい)には、黄帝が、天地の動静はどうかと聞いたことに対して、「上
の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右から三六五日余でまたもとの位置にもどる」とあ
る。ここで考えることは、「何が、戻るか」である。

 今、高校生に、「天地の動きの中で、三六五日余でもどるものは、何か」と聞けば、彼らは迷
わずこう答える。「地球」と。そう、地球の公転である。地球は、太陽のまわりを、三六五日余で
一周し、またもとの位置に戻ってくる。こんなことは常識。

 しかし黄帝内経読むときは、あえてこの常識は否定される。第一、私たちは黄帝内経は、医
学書であって、科学の本ではないという前提で読む。第二、私たちは黄帝内経の時代に、そん
な常識はなかったという前提で読む。しかしもう一度、この部分を、すなおに読んでほしい。こう
ある。

 「黄帝は問う。天地の動静はどうかと」。この部分をすなおに読めば、黄帝は地球の動きにつ
いて聞いたものだということがわかる。季節の移り変わりを聞いたものではない。いわんや大
気の変化を聞いたものではない。そういうふうに思わせるように改ざんされただけ、と考えるほ
うが正しい。その理由はいくつかある。

 もし季節の変化や大気の変化を述べるためになら、この文章を地球説、地動説のあとに書く
必要はない。関連性がまったくなくなってしまう。

 つぎにもし季節の変化大気の変化を述べているとしても、そんなことは当時の常識で、改め
て書くまでもないことである。仮に季節の移り変わりを書いたものであるとするなら、それこそま
さに木に竹をつぐような文章になってしまう!

 ただ翻訳自体もわかりにくくなっている。これを訳した薮内氏自身も、「中国には地球説はお
ろか、地動説すらなかった」(「中国の科学」)と述べている。薮内氏自身も、そういう前提で訳し
ている。だからあえて、わかりにくく訳した。とくに私の頭を悩ましたのは、「左右から」という部
分である。何が、左右から、なのか。あるいは薮内氏は、「……から」と訳したが、本当にそれ
は正しいのか。「左右に」もしくは、「左右に(回って)」と訳したらいけないのか。もし「左右に(回
って)」と訳すと、意味がすっきりする。

 「上の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右に回って三六五日余でまたもとの位置にもど
る」と。

 地球の公転するさまを、南の位置(上の司天)からみると、時計回りに回っている。つまり右
転している。北の位置(下の在泉)からみると、時計とは反対回りに回っている。つまり左転し
ている。こうして右転、左転しながら、回る、と。黄帝内経のこの部分は、まさにそれをいったも
のである。

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ここから先は、ロマンです。
壮大なロマンです。

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●火星探査機

 二〇〇四年一月五日。アメリカ航空宇宙曲の無人火星探査機『スピリット』が、火星への着
陸に成功した。

 アメリカから日本のどこかにホールインワンをしたようなものだと、マスコミは書いていた。着
陸地点はかつて湖があったと推測される、赤道付近のグセフ・クレーターだ、そうだ。水があっ
たとするなら、生物がいた可能性は、きわめて高い。

 このニュースを聞いたとき、またまた私のロマンが、かぎりなくふくらんだ。火星には、生物が
いたのではないか。しかもその生物は、自ら、火星そのものを破壊してしまうほど、高度な文明
をもっていたのではないか、と。

 一説によれば、火星が今のような火星になってしまったのは、そこに住む生物によって、環
境破壊が進んだからだという。ちょうど、今の地球で起きていることと同じようなことが、火星で
も起きたということになる。

 この地球も、あと一〇〇年とか、二〇〇年もすると、温暖化がさらに加速され、ゆくゆくは、今
の火星のようになるかもしれないと言われている。つまり、火星にも、かつて環境破壊を起こす
ほどの生物がいたということになる。

 犬やネコのような生物ではない。人間のような生物である。

●人間は、火星人の子孫? 

 ここから先は、荒唐無稽(こうとうむけい)な、ロマン。空想。そういう前提での話だが、しかし
もし、人間が、それらの火星人によって作られた生物だとするなら、これほど、楽しい話は、な
い。

 最近、人間は、遺伝子の中のDNAを組みかえる技術を、身につけた。この方法を使えば、
陸を歩く魚だって、作れることになる。空を飛ぶ、リスだって、作れることになる。

 もし火星人たちも同じような技術をもっていたとしたら、自分たちの脳ミソをもった、サルを作
ることなど、朝飯前だっただろう。いや、ひょっとしたら、人間は、そうした技術によって、火星人
ではないにしても、だれかによって作られたのかもしれない。

 そこで、これはあくまでも、仮定の話だが、もし火星人たちが、地球に住んでいたサルを見つ
け、そのサルの遺伝子の中に、自分たちの遺伝子を組みこんだとする。そしてこの地球上に、
新しい生物が生まれたとする。で、そのあとのこと。火星人たちは、その新しく生まれた生物
に、何をするだろうか。

 私が、火星人なら、その生物たちを、教育しただろうと思う。言葉を教え、文字を教え、そして
生活に必要な知識を教えただろうと思う。

 もちろんこれは、ロマン。空想。しかし順に考えていくと、どうしても、そうなる。つまり、私が若
いころ出あった、東洋医学、なかんずく黄帝内経(こうていだいけい)は、こうして生まれた本で
はないかと、いつしか、私は、そう考えるようになった。

●壮大なロマン

 私は、いつでも、どこでも、コロリと眠ってしまう割には、よく、夜、ふとんの中に入っても、眠ら
れないときがある。

 そういうとき、私は、この壮大なロマンを、頭の中に描く。

 かつて仰韶人と、シュメール人は、同一の「神」をもっていた。仰韶人の神(帝王)は、黄帝。
シュメール人の神は、エホバ。天を駆けまわる神々は、黄河流域に住む仰韶人に、科学を。そ
してチグリス・ユーフラテス川にすむ、シュメール人には、宗教を与えた。

 こうして地球上で、人間による文明は、始まった……。

 しかしこういう話をまともに書くと、まず、私の脳ミソが疑われる。実際、こうした荒唐無稽な話
をかかげて、おかしな活動をしている宗教団体は、いくつか、ある。

 ただ私のばあい、こうした話はこうした話として、生活の一部に、しまっておくことができる。ロ
マンは、ロマン。空想は、空想。いつもいつも、頭の中で、考えているわけではない。

 が、こういう壮大なロマンを頭の中でめぐらせていると、いつの間にか、眠ってしまう。それは
ちょうど、私が子どものころ、『鉄腕アトム』や、『鉄人28号』を、頭の中で想像しながら眠ったと
同じ。そのころの習慣が、そのまま残っている。そう、私には、その種の話でしか、ない。また
読者のみなさんも、そういうレベルの話として、このエッセーを読んでほしい。

 では、おやすみなさい!
(040105)

+++++++++++++++++

謎の民族、それがシュメール人です。
何でも乾電池まで使っていたという説
があります。

よくオーパーツの一つとして、あちこちの
雑誌にもよく登場します。

しかし知れば知るほど、不思議な民族で
あるのは、事実です。

+++++++++++++++++

●シュメール人

 古代メソポタミアに、不思議な民族が住んでいた。高度に知的で、周囲文化とは、かけ離れ
た文明を築いていた。

 それがシュメール人である。

 彼らが書き残した、「アッシリア物語」は、そののち、旧約聖書の母体となったことは、よく知ら
れている。

 そのシュメール人に興味をもつようになったのは、東洋医学を勉強していたときのことだっ
た。シュメール人が使っていた楔型(くさびがた)文字と、黄河文明を築いたヤンシャオ人(?)
の使っていた甲骨文字は、恐ろしくよく似ている。

 ただしメソポタミア文明を築いたのは、シュメール人だが、黄河文明を築いたのが、ヤンシャ
オ人であったかどうかについては、確かではない。私が、勝手にそう思っているだけである。

 しかしシュメール人がいう「神」と、甲骨文字で書く「神」は、文字の形、発音、意味が、同じで
あるということ。形は(米)に似ている。発音は、「ディンガー」と「ディン」、意味は「星から来た
神」。「米」は、「星」を表す。

 ……という話は、若いころ、「目で見る漢方診断」(飛鳥新社)という、私の本の中で書いた。
なぜ、東洋医学の中で……と思われる人も多いかと思うが、その東洋医学のバイブルとも言
われている本が、『黄帝内経(こうていだいけい)・素問・霊枢』という本である。この中の素問
は、本当に不思議な本である。

 私は、その本を読みながら、「この本は、本当に新石器時代の人によって書かれたものだろ
うか」という疑問をもった。(もちろん現存する黄帝内経は、ずっとあとの後漢の時代以後に写
本されたものである。そして最古の黄帝内経の写本らしきものは、何と、京都の仁和寺にある
という。)

 それがきっかけである。

 で、このところ、再び、そのシュメール人が、宇宙人との関係でクローズアップされている。な
ぜか?

 やはりシュメールの古文書に、この太陽系が生まれる過程が書いてあったからである。年代
的には、5500年前ごろということになる。仮に百歩譲って、2000年前でもよい。

 しかしそんな時代に、どうして、そんなことが、シュメール人たちには、わかっていたのか。そ
ういう議論はさておき、まず、シュメール人たちが考えていたことを、ここに紹介しよう。

 出典は、「謎の惑星『ニビル』と火星超文明(上)(下)・ゼガリア・シッチン・ムーブックス」(学
研)。

 この本によれば、

(1)最初、この太陽系には、太陽と、ティアトマと水星しかなかった。
(2)そのあと、金星と火星が誕生する。
(3)(中略)
(4)木星、土星、冥王星、天王星、海王星と誕生する。
(5)そこへある日、ニビルという惑星が太陽系にやってくる。
(6)ニビルは、太陽系の重力圏の突入。
(7)ニビルの衛星と、ディアトマが、衝突。地球と月が生まれた。(残りは、小惑星帯に)
(8)ニビルは、太陽系の圏内にとどまり、3600年の楕円周期を描くようになった、と。

 シュメール人の説によれば、地球と月は、太陽系ができてから、ずっとあとになってから、ティ
アトマという惑星が、太陽系の外からやってきた、ニビルという惑星の衛星と衝突してできたと
いうことになる。にわかには信じがたい話だが、東洋や西洋に伝わる天動説よりは、ずっと、ど
こか科学的である。それに現代でも、望遠鏡でさえ見ることができない天王星や海王星、さら
には冥王星の話まで書いてあるところが恐ろしい。ホント。

 どうしてシュメールの人たちは、そんなことを知っていたのだろうか。

 ここから先のことを書くと、かなり宗教的な色彩が濃くなる。実際、こうした話をベースに、宗
教団体化している団体も、少なくない。だからこの話は、ここまで。

 しかしロマンに満ちた話であることには、ちがいない。何でも、そのニビルには、これまたとん
でもないほど進化した生物が住んでいたという。わかりやすく言えば、宇宙人! それがシュメ
ール人や、ヤンシャオ人の神になった?

 こうした話は、人間を、宇宙規模で考えるには、よい。その地域の経済を、日本規模で考え
たり、日本経済を、世界規模で考えるのに似ている。視野が広くなるというか、ものの見方が、
変わってくる。

 そう言えば、宇宙へ飛び出したことのある、ある宇宙飛行士は、だれだったか忘れたが、こう
言った。「人間の姿は、宇宙からはまったく見えない。人間は、地上をおおう、カビみたいなも
のだ」と。

 宇宙から見れば、私たち人間は、カビのようなものらしい。頭の中で想像できなくはない。た
だし、カビはカビでも、地球をむしばむ、カビ? が、そう考えていくと、日本人だの、中国人だ
のと言っていることが、おかしく見えてくる。

 それにしても、周期が、3600年。旧約聖書の時代を、紀元前3500年ごろとするなら、一
度、そのころ、ニビルは、地球に接近した。

 つぎにやってきたのが、キリストが誕生したころということになる。

 で、今は、西暦2005年だから、この説に従えば、つぎにニビルがやってくるのは、西暦360
0年ごろ、つまり1600年後。

 本当にニビルには、高度な知能をもった生物がいるのだろうか。考えれば考えるほど、ロマ
ンがふくらむ。若いころ、生徒たちを連れて、『スターウォーズ』を見に行ったとき感じたようなロ
マンだ。「遠い、遠い、昔、銀河系の果てで……」というオープニングで始まる、あの映画であ
る。

 ワイフも、この話には、たいへん興味をもったようだ。昨日もいっしょに書店の中を歩いてい
ると、「シュメール人について書いた本はないかしら」と言っていた。今日、仕事の帰りにでも、
またさがしてみよう!

 待っててよ、カアーチャン!(4・29)

【付記】

 しかし空想するだけで、ワクワクしてくるではないか。

 遠い昔、別の天体から、ニビルという惑星がやってきて、その惑星の衛星が、太陽系の別の
惑星と衝突。

 地球と月が生まれた。

 そのニビルという惑星には、知的生物、つまり私たちから見れば、宇宙人が住んでいた。ひ
ょっとしたら、今も、住んでいるかもしれない。

 そのニビルは、3600年周期で、地球に近づいてきて、地球人の私たちに、何かをしてい
る? 地球人を改造したのも、ひょっとしたら、彼らかもしれない? つぎにやってくるのは、多
分、1600年後。今は、太陽系のはるかかなたを航行中!

 しかしそう考えると、いろいろな、つまりSF的(科学空想小説的)な、謎が解消できるのも事
実。たとえば月の年代が、なぜ、この地球よりも古いのかという謎や、月の組成構造が、地球
とはなぜ異なっているかという謎など。

 また月が、巨大な宇宙船であるという説も、否定しがたい。「月の中は空洞で、そこには宇宙
人たちの宇宙基地がある」と説く、ロシアの科学者もいる。

 考えれば、考えるほど、楽しくなってくる。しかしこの話は、ここまで。あとは夜、月を見なが
ら、考えよう。ワイフは、こういう話が大好き。ほかの話になると眠そうな表情をしてみせるが、
こういう話になると、どんどんと乗ってくる。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●謎のシュメール

 『謎の惑星(ニビル)と火星超文明』(セガリア・シッチン著)(北周一郎訳・学研)の中で、「ウ
ム〜」と、考えさせられたところを、いくつかあげてみる。

 メソポタミアの遺跡から、こんな粘土板が見つかっているという。粘土板の多くには、数字が
並び、その計算式が書いてある。

+++++++++++++

1296万の3分の2は、864万
1296万の2分の1は、648万
1296万の3分の1は、432万
1296万の4分の1は、324万
……
1296万の21万6000分の1は、60

++++++++++++

 問題は、この「1296万」という数字である。この数字は、何か?

 その本は、つぎのように説明する(下・78P)

++++++++++++

 ペンシルバニア大学のH・V・ヒルプレヒトは、ニップルとシッパルの寺院図書館や、ニネヴェ
のアッシュールバニバル王の図書館から発掘された、数千枚の粘土板を詳細に調査した結
果、この1296万という天文学的数字は、地球の歳差(さいさ)運動の周期に関するものである
と結論づけた。

 天文学的数字は、文字どおり、天文学に関する数字であったのである。

 歳差とは、地球の地軸が太陽の公転面に対してゆらいでいるために発生する、春分点(およ
び秋分点)の移動のことである。

 春分点は、黄道上を年々、一定の周期で、西へと逆行していく。このため、春分の日に太陽
のうしろにくる宮(ハウス)は、一定の周期で、移り変わることになる。

 ひとつの宮に入ってから出るまでにかかる時間は、2160年。したがって、春分点が1周して
もとの位置に帰ってくるには、2160年x12宮=2万5920年かかるのである。

 そして1296万とは、2万5920x500、つまり春分点が、黄道上を500回転するのに要する
時間のことなのだ。

 紀元前4000年前後に、歳差の存在が知られていたということ自体、すでに驚異的である
が、(従来は、紀元前2世紀にギリシアのヒッパルコスが発見したとされていた)、その移動周
期まで求められていたいうのだから、まさに驚嘆(きょうたん)に値する。

 しかも、2万5920年という値は、現代科学によっても証明されているのだ。

 さらに、春分点が、黄道上を500回転するのに要する時間、1296万年にいたっては、現
在、これほど長いビジョンでものごとを考えるのできる天文学者は、何人いることだろう。

+++++++++++++++

 シュメールの粘土板の言い方を少しまねて書いてみると、こうなる。

3153万6000の12分の1は、262万8000
3153万6000の720分の1は、4万3800
3153万6000の4万3200分の1は、730
3153万6000の8万6400分の1は、365……

 これは私が、1分は60秒、1時間は60分、1日は24時間、1年は365日として、計算したも
の。これらの数字を掛け合わせると、3153万6000となる。つまりまったく意味のない数字。

 しかしシュメールの粘土板に書かれた数字は、そうではない。1年が365日余りと私たちが
知っているように、地球そのものの春分点の移動周期が、2160年x12宮=2万5920年と、
計算しているのである。

 もう少しわかりやすく説明しよう。

地球という惑星に住んで、春分の日の、たとえば午前0時JUSTに、夜空を見あげてみよう。そ
こには、満天の夜空。そして星々が織りなす星座が散らばっている。

 しかしその星座も、毎年、同じ春分の日の、午前0時JUSTに観測すると、ほんの少しずつ、
西へ移動していくのがわかる。もちろんその移動範囲は、ここにも書いてあるように、1年に、2
万5920分の1。

 しかしこんな移動など、10年単位の観測を繰りかえしても、わかるものではない。第一、その
時刻を知るための、そんな正確な時計が、どこにある。さらにその程度の微妙な移動など、ど
うすれば観測結果に、とどめることができるのか。

 たとえていうなら、ハバ、2万5920ミリ=約30メートルの体育館の、中央に置いてある跳び
箱が、1年に1ミリ移動するようなもの。100年で、やっと1メートルだ。

 それが歳差(さいさ)運動である。が、しかしシュメール人たちは、それを、ナント、500回転
周期(1296万年単位)で考えていたというのだ。

 さらにもう一つ。こんなことも書いてある。

 シュメール人たちは、楔形文字を使っていた。それは中学生が使う教科書にも、書いてあ
る。

 その楔形文字が、ただの文字ではないという。

●謎の楔形文字

 たとえば、今、あなたは、白い紙に、点を描いてみてほしい。点が1個では、線は描けない。し
かし2個なら、描ける。それを線でつないでみてほしい。

 点と点を結んで、1本の線が描ける。漢字の「一」に似た文字になる。

 つぎに今度は、3個の点にしてみる。いろいろなふうに、線でつないでみてほしい。図形として
は、(△)(<)(−・−)ができる。

 今度は、4個で……、今度は、5個で……、そして最後は、8個で……。

 それが楔形文字の原型になっているという。同書から、それについて書いてある部分を拾っ
てみる(92P)。

++++++++++++++

従来、楔形文字は、絵文字から発達した不規則な記号と考えられているが、実は、楔形文字
の構成には、一定の理論が存在する。

 「ラムジーのグラフ理論」というものを、ご存知だろうか?

 1928年、イギリスの数学者、フランク・ラムジーは、複数の点を線で結ぶ方法の個数と、点
を線で結んだ結果生ずる図形を求める方法に関する論文を発表した。

 たとえば6個の点を線で結ぶことを考えてみよう。点が線で結ばれる、あるいは結ばれない
可能性は、93ページの図(35)に例示したような図形で表現することができる。

 これらの図形の基礎をなしている要素を、ラムジー数と呼ぶが、ラムジー数は一定数の点を
線で結んだ単純な図形で表される。

 私は、このラムジー数を何気なくながめていて、ふと気がついた。これは楔形文字ではない
か!

+++++++++++++

 その93ページの図をそのまま紹介するわけにはいかないので、興味のある人は、本書を買
って読んでみたらよい。

(たとえば白い紙に、4つの点を、いろいろなふうに描いてみてほしい。どんな位置でもよい。そ
の点を、いろいろなふうに、結んでみてほしい。そうしてできた図形が、楔形文字と一致すると
いう。

 たとえば楔形文字で「神」を表す文字は、漢字の「米」に似ている。4本の線が中心で交わっ
ている。この「米」に似た文字は、8個の点をつないでできた文字ということになる。)

 つまり、楔形文字というのは、もともと、いくつかの点を基準にして、それらの点を結んででき
た文字だというのだ。そういう意味では、きわめて幾何学的。きわめて数学的。

 しかしそう考えると、数学などが生まれたあとに、文字が生まれたことになる。これは順序が
逆ではないのか。

 まず(言葉)が生まれ、つぎにその言葉に応じて、(文字)が生まれる。その(文字)が集合さ
れて、文化や科学になる。

 しかしシュメールでは……?

 考えれば考えるほど、謎に満ちている。興味深い。となると、やはりシュメール人たちは、文
字を、ニビル(星)に住んでいた知的生命体たち(エロヒム)に教わったということになるのだろ
うか。

 いやいや、その知的生命体たちも、同じ文字を使っているのかもしれない。点と、それを結ぶ
線だけで文字が書けるとしたら、コンピュータにしても、人間が使うような複雑なキーボードは
必要ない。

 仮に彼らの指の数が6本なら、両手で12本の指をキーボードに置いたまま、指を動かすこと
なく、ただ押したり力を抜いたりすることで、すべての文字を書くことができる。想像するだけで
も、楽しい! 本当に、楽しい!

 ……ということで、今、再び、私は、シュメールに興味をもち始めた。30年前に覚えた感動が
もどってきた。しかしこの30年間のブランクは大きい。(チクショー!)

 これから朝食だから、食事をしながら、ワイフに、ここに書いた二つのことを説明してやるつも
り。果たしてワイフに、それが理解できるかな?

 うちのワイフは、負けず嫌いだから、わからなくても、わかったようなフリをして、「そうねえ」と
感心するぞ! ハハハ。
(はやし浩司 楔形文字 ラムジー グラフ理論 ニビル エロヒム 地球の歳差運動 運動周
期)

【付記】

 食事のとき、ワイフに、ここに書いたことを説明した。が、途中で、ワイフは、あくびを始めた。
(ヤッパリ!)

私「ちゃんと、聞けよ。すごい謎だろ?」
ワ「でもね、あまり、そういうこと、書かないほうがいいわよ」
私「どうして?」
ワ「頭のおかしい人に思われるわよ、きっと……」
私「どうしてだよ。おかしいものは、おかしい。謎は、謎だよ」
ワ「どこかの頭のおかしい、カルト教団の信者みたいよ」
私「ちがうよ、これは数学だよ。科学だよ」
ワ「でも、適当にしておいたほうがいいわよ」と。

 以上が、ワイフの意見。

++++++++++++++++++

さてどうですか?

東洋医学に興味をもってくださいましたか?

よろしかったら、『目で見る漢方診断』を
一度、ご覧になってみてください。

私のHPのトップページより、お読み
いただけるようにしてあります。

現在、改訂版を、HPにアップロードして
います。
より読みやすく、編集しています。

よろしく!

+++++++++++++++++++
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 黄帝内経 素問 霊枢 漢方 
目で見る漢方診断 はやし浩司 東洋医学 経穴編)



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