書庫56179
はやし浩司
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●EQ(Emotional Quality、人格指数)論

●EQとは……

 IQ(Intelligence Quality、知能指数)に対して、EQ(人格指数)という言葉がある。

 IQは、

 IQ=((精神年齢)÷(生活年齢))×100で、計算される。

 精神年齢というのは、知能テストの結果など。生活年齢というのは、その人(子ども)が、生ま
れてから、テストを受けるまでの年齢をいう。

 要するに、IQで、頭のよしあしがわかるということ。しかしここで誤解してはいけないことは、I
Qが高いから、その人(子ども)の人格の完成度が高いということにはならないということ。えて
して、この日本では、(頭のよい人)イコール、(すぐれた人)イコール、(人格の完成度が高い)
とみる。しかしこれは誤解というより、幻想。幻想というより、ウソ!

 しかしその人(子ども)の人格の完成度は、もっと、別の方向からみなければならない。それ
が、EQである。

●EQ

 EQを最初に提唱したのは、D・ゴールマンである。彼は、ハーバード大学を出たあと、ジャー
ナリストとして活躍しているうちに、「EQ、こころの知能指数」を発表。この本は、たちまちベスト
セラーになり、日本でも翻訳出版された。一九九〇年代の中ごろのことだった。

 一般論として、以前から、IQの高い人(子ども)ほど、心が冷たいとよく言われる。それは、
(頭がよい人間)の特有の症状と考えてよい。

 ある子ども(小五男児)は、こう言った。「みんなバカに見える」と。「算数の授業でも、ほかの
ヤツら、どうしてこんな問題が解けないのかと、不思議に思うことが多い」と。

 彼は進学塾でも、飛び級をして、学習をしていた。

 こうした優越感が、ほかの子どもとの間に、カベをつくる。そして結果として、その子どもだけ
が、遊離してしまう。そしてさらにその結果、他人から見ると、「心の冷たい子ども」ということに
なる。

 しかしこれは、多分に誤解による部分もないとは言えない。

●IQの高い子どもは、誤解されやすい 

 私の印象に残っている子どもに、N君という子どもがいた。私は、彼を、幼稚園の年中児のと
きから、小五まで教えた。

 そのN君が、年中児のときのこと。ふと見ると、彼が、箱の立体図を描いているのがわかっ
た。この時期、箱の立体図を、ほぼ正確に描ける子どもは、数百人に一人もいない。(あるい
は、もっと少ない。)

 それまでは、私は、N君は、どこか得体の知れない子どもとばかり思っていた。しかし彼がそ
う見えたのは、彼にしてみれば、まわりが、あまりにも幼稚すぎたからである。

 以後、N君は、天才的ともいうべき能力を発揮した。が、N君の母親はいつも、こう悩んでい
た。

 「いつも先生や、友だちに、生意気だと言って、嫌われます」と。

 たしかにN君は、一見、生意気に見えた。中学生が方程式を使って解くような問題でも、N君
は、独自の方法で、解いてしまったりした。彼が小学四、五年生のころのことである。

●しかしEQも大切

が、だからといって、私は、(IQの高い子ども)イコール、(人格者)と言っているのではない。事
実は、その逆のことが多い。

 一般的に、IQの高い子どもには、つぎのような特徴が見られる。

(1)自分の優秀性を信ずるあまり、ほかの人(子ども)を、見くだす。
(2)そのため、仲間から遊離しやすく、孤独になりやすい。
(3)協調性がなく、人間関係をうまく調整できず、がり勉になりやすい。
(4)結果的に友人が少なくなる。心を開けなくなる。独善、独断に陥りやすい。

 そこでIQの高い人(子ども)は、同時に、EQを高めなければならない。そのEQは、つぎのよ
うな視点から、判断される。

(1)感情のコントロールは、できるか。
(2)統率力、判断力、指導力はあるか。
(3)弱者や下位の者に対して、共鳴力、共感力はあるか。
(4)決断力、行動力、性格の一貫性はあるか。

 この中で、とくに重要なのは、(3)の、弱者や下位の者に対して、共鳴力、共感力はあるかと
いう点である。わかりやすく言えば、より相手の立場になって、ものを考えられるかということ。

●EQは、思春期までに完成される

 このEQは、思春期までに完成され、それ以後、そのEQが、大きく変化するということは、な
い。つまりこの時期までの、人格の完成度が、その後の、子どもの人格のあり方に、大きく影
響する。

 しかしこの日本では、ちょうどこのころ、子どもたちは、受験勉強を経験する。この受験勉強
の弊害をあげたら、キリがないが、その一つが、ここでいうEQへの悪影響である。

 私は幼児から高校三年生まで、一貫して子どもを教えているが、この受験期にさしかかると、
子どもの心が、大きく変化するのを知っている。この時期を境に、ものの考え方が、どこか非
人間的(ドライ)になり、かつ合理的、打算的になる。

 親は、成績がよくなることだけを考えて子どもに勉強を強いる。あるいは、進学塾へ、入れ
る。が、こうした一方的な教育姿勢が、心の冷たい子どもを作る。そしてその結果、回りまわっ
て、今度は、親自身が、さみしい思いをすることになる。

 「おかげで、いい大学へと、喜んでみせる、そのうしろ。そこには、かわいた秋の空っ風」と。

 受験勉強は、この日本では、避けては通れない道かもしれないが、子育ては、それだけでは
ない。そういう視点から、もう一度、EQを考えてみてほしい。

子育ては、失敗してみて、それが失敗だったと、はじめてわかる。だれも、「うちの子は、だいじ
ょうぶ」「うちにかぎって……」と思って、無理をする。そして失敗する。あああ。私の知ったこと
か!
(040107)

【追記】

 あなたの親類でも近所でもよい。とくに戦後直後の、出世主義の教育を受けた人ほど、そう
だ。

 そういう人の中で、高学歴をもって、有名企業に入った人を観察してみるとよい。
 
 もちろん中には、そうでない人も多いが、一方、全体としてみると、あなたはそういう人ほど、
心の冷たい人だと知るだろう。それについて書いたのが、つぎの原稿である。

+++++++++++++++++++

●受験勉強

 受験勉強は、「勉強」ではない。ただ言われた知識を吸収して、それをいかにうまく吐き出す
か。それで決まる。それが受験勉強。

 問題は、受験勉強がそういうものであるということではなく、そういう受験勉強で、人間の価値
が決まってしまうということ。「価値」という言い方には、語弊(ごへい)があるが、一般世間の人
は、そう考えている。

 昔、とんでもないほど、ヘンチクリンな高校生がいた。どうヘンチクリンかは書けないが、私は
その子どもを、頼まれるまま、半年間、教えた。週二回の家庭教師だった。

で、その子どもは、やたらと頭だけはよかったが、中味はどこか狂っていた。その高校生は、
やがてS大学の医学部に合格したが、親たちの感謝の言葉とは裏腹に、私はその合格を、ど
うしても喜ぶ気にはなれなかった。むしろ「これでいいのかなあ?」と、疑問に思った。

 つぎにその子どもの消息を聞いたのは、一〇年ほどたってから。そのときその子どもは、M
大学の大学病院で講師をしていた。が、さらに一〇年後。その子ども(「子ども」という言い方
は、適切ではないが……)は、驚いたことに、H市内で、開業した。私はその話を聞いたとき、
ワイフにこう言った。「どんなことがあっても、あの医院だけは行くな」と。

 私は無数の子どもたちをみてきた。若いころは、受験塾の講師もしていたから、同じく無数の
受験生を、大学へ送ってきた。しかしあのころの自分を振りかえって言えることは、「もう受験
指導など、こりごり」ということ。ああいう指導を、何の疑問ももたずにできる講師、つまり受験
屋というのは、やはりどこか頭がヘンチクリンと考えてよい。まともな人間なら、数年で、気がヘ
ンになってしまう。

 たとえば……

 合格した子どもに向かって、「おめでとう」を言ったあとに、振りかえって、不合格だった子ども
に、「残念だったね」と言う。まさに金の切れ目が、縁の切れ目。「教育」と言いながら、どこにも
教育の要素など、ない。

受験指導は、あくまでも「指導」。もっとはっきり言えば、要領の問題。小ズルイことを、スイスイ
とうまくできる子どもほど、有利。またそういうことを教えるのが、受験指導。

 つい先日も、その種の本の広告が、新聞に大きく載っていた。並べてみる。

「スイスイ、一流大学、合格法」(仮題)とか。

●直感で、「できない」と思った問題には手をつけるな。
●面接では、あたりさわりのないことを言え。奇抜なことを言うな。
●時間配分をまちがえるな。簡単な問題はミスをするな。
●作文テストは、減点法で勝負、など。

 たしかにその通りだが、こうまで堂々と書かれると、「どうか?」と思ってしまう。しかし現実に
受験競争がある以上、それにさからってもしかたない。が、どこか低レベル。「本当に、これで
いいのかな?」と思うほど、低レベル。ワイフにそのことを話すと、「こういう人間を見ない教育
はこわいわね」と。私も、そう思う。

 もっとも、今、受験生をもつ親や、受験勉強で苦しんでいる子どもに向かって、こんなことを言
ってもはじまらない。それはちょうど、金持ちが、「お金なんてむなしいものです」と言うのに似て
いる? どこかの大学の総長が、「学歴制度なんて、もうありません」と言うのに似ている? そ
のお金や学歴を、死ぬほど乞い求めているいる人だっている。

 しかし今、それこそワラをもつかみたい思いで苦しんでいる人に向かって、受験の心得と
は? それはちょうどガンで苦しんでいる人に向かって、あやしげなガン治療薬を売りつけるよ
うなものだ。そもそも、こういう受験屋に向かって、良心を求めるのがおかしい? だから批判
したり、批評したりしても、ムダ?

 日本の教育制度は、どこか狂っている。その狂った教育制度の中から、これまた狂った子ど
もたちが生まれている。それだけではない。この狂った教育制度が、いかに親子のきずなを破
壊し、ついで家庭を破壊していることか。そしてその結果、それほど「力」のない人が、王座に
君臨する一方、まじめで良心的な人たちが、食いものになっている!

たとえばこの日本では、人生の入り口でほんの少しだけがんばって、高級官僚になれば、あと
は死ぬまで、地位と収入が保証される。仕事も役職も、つぎつぎと回ってくる。しかしその入り
口をはずすと、一生、そういう仕事には、ありつけない。ガードはかたい。採用試験すら受けら
れない。まず、その採用試験すら、ない。それともあなたは、職安の掲示板に、「○○図書館、
館長職、募集中」などという張り紙を見たことがあるだろうか。

 この日本では、どんな形でもよい。役人のポストがあれば、それについたほうが、絶対、有
利。得。安全。無事。生涯、食いはぐれることはない。しかしみなが、そう思ったら、この日本は
どうなる? みなが、そう思って、公務員になったら、この日本はどうなる?

 そういう社会の入り口に、実は、受験競争がある。言いかえると、受験勉強も、ヘンチクリン
な子どもも、結局は、その狂った社会の申し子にすぎない。その狂った社会が、今の日本の社
会の基盤になっている。

 ……と、またまた頭が熱くなってしまった。少し過激な意見になってしまった。自分でもわかっ
ている。しかしこれだけは言える。

 どんな年齢になっても、またどんな回り道をしても、その人がその時点からがんばったとき、
その人の実力が認められるような社会にしないと、本当に日本はダメになるということ。

そんなにがんばらなくても、公的な保護や恩恵を受けてヌクヌクと生きている人が、ふえればふ
えるほど、本当に日本はダメになるということ。それでもよいなら、私は、もう何も言わない。そ
ろそろ、私の心の中には、こんな思いが芽生え始めている。「どうぞ、ご勝手に!」と。「もう、知
ったことか!」と。あるいは、尾崎豊の言葉を借りるなら、「クソ食らえ!」か。このところ、こうい
う問題を考えるのも、疲れてきた。

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こう書くと弁解がましく聞こえるかもしれないが、私は何も、公務員の人を、個人攻撃している
わけではない。だからあなたがもし公務員でも、あるいはあなたの近くに公務員の人がいると
しても、そういう人に、この問題をあてはめないでほしい。

数年前も、「あなたはそう言うが、私の夫は、公務員として、その責務をまじめに果している。そ
ういう人もいるということを忘れないでほしい」という抗議の手紙をもらったことがある。それに
は長々と、その夫の一日のスケジュールまで書かれていた。

しかし私が問題としているのは、個々の公務員といわれている人の問題ではなく、あまりにも
肥大化しすぎた公務員社会、もっと言えば強大化しすぎた官僚制度である。この日本では、何
をするにも、資格だの、免許だの、許可がいる。そしてそういう許認可権のもとじめに、役人が
いて、日本の社会をがんじがらめに、しばりあげている。

ここにメスを入れないと、日本の社会は、本当にダメになる。それを言っている。

どうか誤解のないようにしてほしい。

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●EQ

その人のEQは、先にも書いたように、「弱者や下位の者に対して、共鳴力、共感力はあるか」
で決まる。

 言いかえると、もし、あなたが今、自分で心の冷たさに気づいたら、いつも相手の立場でもの
を考えるようにするとよい。時間はかかるが、やがてあなたは自分のEQを、高めることができ
る。

 かく言う私も、はげしい受験勉強を経験している。そしてその時期を境に、ものの考え方が変
ったのを知っている。しかしそれに気づくのに、一〇年。少しだけ自分を変えるのに、さらに一
〇年はかかった。そんなことを考えながら書いたのが、つぎの原稿である。

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●問題のある子ども

 問題のある子どもをかかえると、親は、とことん苦しむ。学校の先生や、みなに、迷惑をかけ
ているのではという思いが、自分を小さくする。

よく「問題のある子どもをもつ親ほど、学校での講演会や行事に出てきてほしいと思うが、そう
いう親ほど、出てこない」という意見を聞く。教える側の意見としては、そのとおりだが、しかし実
際には、行きたくても行けない。恥ずかしいという思いもあるが、それ以上に、白い視線にさら
されるのは、つらい。

それに「あなたの子ではないか!」とよく言われるが、親とて、どうしようもないのだ。たしかに
自分の子どもは、自分の子どもだが、自分の力がおよばない部分のほうが大きい。そんなわ
けで、たまたまあなたの子育てがうまくいっているからといって、うまくいっていない人の子育て
をとやかく言ってはいけない。

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが、苦手。目が上ばかり向いている。たとえばマスコ
ミの世界。私は昔、R社という出版社で仕事をしていたことがある。あのR社の社員は、地位や
肩書きのある人にはペコペコし、そうでない(私のような)人間は、ゴミのようにあつかった。電
話のかけかたそのものにしても、おもしろいほど違っていた。

相手が大学の教授であったりすると、「ハイハイ、かしこまりました。おおせのとおりにいたしま
す」と言い、つづいてそうでない(私のような)人間であったりすると、「あのね、あんた、そうは
言ってもねエ……」と。それこそただの社員ですら、ほとんど無意識のうちにそういうふうに態
度を切りかえていた。その無意識であるところが、まさに日本人独特の特性そのものといって
もよい。

 イギリスの格言に、『航海のし方は、難破したことがある人に聞け』というのがある。私の立場
でいうなら、『子育て論は、子育てで失敗した人に聞け』ということになる。実際、私にとって役
にたつ話は、子育てで失敗した人の話。スイスイと受験戦争を勝ち抜いていった子どもの話な
ど、ほとんど役にたたない。

が、一般の親たちは、成功者の話だけを一方的に聞き、その話をもとに自分の子育てを組み
たてようとする。たとえば子どもの受験にしても、ほとんどの親はすべったときのことなど考えな
い。すべったとき、どのように子どもの心にキズがつき、またその後遺症が残るなどということ
は考えない。この日本では、そのケアのし方すら論じられていない。

 問題のある子どもを責めるのは簡単なこと。ついでそういう子どもをもつ親を責めるのは、も
っと簡単なこと。しかしそういう視点をもてばもつほど、あなたは自分の姿を見失う。あるいは
自分が今度は、その立場に置かされたとき、苦しむ。

聖書にもこんな言葉がある。「慈悲深い人は祝福される。なぜなら彼らは慈悲を示されるだろ
う」(Matthew5-9)と。この言葉を裏から読むと、「人を笑った人は、笑った分だけ、今度は自分
が笑われる」ということになる。そういう意味でも、子育てを考えるときは、いつも弱者の視点に
自分を置く。そういう視点が、いつかあなたの子育てを救うことになる。
(040107)


(付記)

●人格の完成度

 人格の完成度、つまり内面化の完成度は、いかに相手の立場で、いかに相手の心情になっ
て考えられるかで、決まる。

 同調性……相手の悲しみや苦しみに、どの程度まで、理解し、同調できるか。

 協調性……相手と、どの程度まで、仕事や作業を、仲よく、強調してできるか。

 調和性……周囲の人たちと、いかになごやかな雰囲気をつくることができるか。

 利他性……いかに自分の利益より、他人の利益を優先させることができるか。

 客観性……自分の姿や、置かれた立場を、どの程度まで、客観的にみることができるか。

 言うなれば、自己本位とその人の人格の完成度は、反比例の関係にある。つまり自己本位
の人は、それだけ人格の完成度が低いことになる。

 このことは満1〜2歳の子どもを見ればわかる。たとえば私の孫。

 息子夫婦が、今、孫の歯磨きの習慣づけに苦労している。歯を磨こうとすると、いやがって逃
げてしまうという。そのときのこと、孫(1歳6か月)は、自分で自分の両目を押さえて、見えない
フリをするという。

 つまり「自分が見えなければ、相手も自分を見えないはず」イコール、どこかへ隠れたつもり
でいるらしい。

 あるいはある幼児(年長男児)は、こう言った。

 「ぼくのうしろは、まっくらだ。だから何もない。ぼくがうしろを振り向いたときだけ、そこにうし
ろの世界が現れる」と。

 これらは幼児の自己中心性を表す、典型的な例と言える。しかし同じようなことを、おとなた
ちもしている。

 世界のどこかで、飢餓に苦しみ人たちがいたとする。そういうニュースを新聞で見かけたと
き、そのまま目をそらしてしまう人がいる。テレビのニュースそのものを見ない人もいる。

 先日も、ある小さなラーメン屋に入ったときのこと。ちょうど午後7時になったので、私が店の
主人に、「NHKのニュースを見せていただけませんか」と言ったときのこと。「うちは、ニュース
は見ないから……」と、断られてしまった。

 結局は、世界の狭い人ということになるが、それだけ世界への同調性が、低いということにな
る。つまり世界のニュースに目を閉じることによって、そういった事件は、ないものとして片づけ
てしまう。
(はやし浩司 人格の完成度 同調性 協調性)




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【特集】子どもの叱り方

★子どもに恐怖心を与えないこと。

そのためには、

子どもの視線の位置に体を落とす。(おとなの姿勢を低くする。)
大声でどならない。そのかわり、言うべきことを繰り返し、しつこく言う。
体をしっかりと抱きながら叱る。
視線をはずさない。にらむのはよい。
息をふきかけながら叱る。
体罰は与えるとしても、「お尻」と決める。
叱っても、子どもの脳に届くのは、数日後と思うこと。
他人の前では、決して、叱らない。(自尊心を守るため。)
興奮状態になったら、手をひく。あきらめる。(叱ってもムダ。)

++++++++++++++++++++

子どもを叱るときは、
@目線を子どもの高さにおく。
A子どもの体を、両手で固定する。
B子どもから視線をはずさない。
C繰り返し、言うべきことを言う。

++++++++++++++++++++

@子どもが興奮したら、中止する。
A子どもを威圧して、恐怖心を与えてはいけない。
B体罰は、最小限に。できればやめる。
C子どもが逃げ場へ逃げたら、追いかけてはいけない。
D人の前、兄弟、家族がいるところでは、叱らない。
Eあとは、時間を待つ。
Fしばらくして、子どもが叱った内容を守ったら、
「ほら、できるわね」と、必ずほめてしあげる。

+++++++++++++++++++++

ほめ方

★人前でおおげさにほめること。

古代ローマの劇作家のシルスも、
「忠告は秘かに、賞賛は公(おおやけ)に」
と書いている。
頭をなでるなど、スキンシップを併用する。
繰り返しほめる。
ただしほめるのは、
努力とやさしさにとどめる。
顔、スタイルは、ほめないほうがよい。
「頭」については慎重に!

はやし浩司
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(叱り方・ほめ方)

●叱り方・ほめ方は、家庭教育の要(かなめ)

 子どもを叱るときの、最大のコツは、恐怖心を与えないこと。「威圧で閉じる子どもの耳」と考
える。中に親に叱られながら、しおらしい様子をしている子どもがいるが、反省しているから、
そうしているのではない。怖いからそうしているだけ。親が叱るほどには、効果は、ない。
叱るときは、次のことを守る。
@人がいうところでは、叱らない(子どもの自尊心を守るため)、
A大声で怒鳴らない。そのかわり言うべきことは、繰り返し、しつこく言う。「子どもの脳は耳か
ら遠い」と考える。聞いた説教が、脳に届くには、時間がかかる。
B相手が幼児のばあいは、幼児の視線にまで、おとなの体を低くすること(威圧感を与えない
ため)。視線をはずさない(真剣であることを、子どもに伝えるため)。子どもの体を、しっかりと
親の両手で、制止して、きちんとした言い方で話すこと。にらむのはよいが、体罰は避ける。特
に頭部への体罰は、タブー。体罰は与えるとしても、「お尻」と決めておく。実際、約五〇%の親
が、何らかの形で、子どもに体罰を与えている。
 次に子どものほめ方。古代ローマの劇作家のシルスも、「忠告は秘かに、賞賛は公(おおや
け)に」と書いている。子どもをほめるときは、人前で、大声で、少しおおげさにほめること。そ
のとき頭をなでる、抱くなどのスキンシップを併用するとよい。そしてあとは繰り返しほめる。

とくに子どもの、やさしさ、努力については、遠慮なくほめる。顔やスタイルについては、ほめな
いほうがよい。幼児期に一度、そちらのほうに関心が向くと、見てくれや、かっこうばかりを気に
するようになる。実際、休み時間になると、化粧ばかりしていた女子中学生がいた。

また「頭」については、ほめてよいときと、そうでないときがあるので、慎重にする。頭をほめす
ぎて、子どもがうぬぼれてしまったケースは、いくらでもある。
 叱り方、ほめ方と並んで重要なのが、「励まし」。すでに悩んだり、苦しんだり、さらにはがん
ばっている子どもに向かって、「がんばれ!」はタブー。ムダであるばかりか、かえって子どもか
らやる気を奪ってしまう。「やればできる」式の励まし、「こんなことでは!」式の、脅しもタブー。
結果が悪くて、子どもが落ち込んでいるときはなおさら、そっと「あなたはよくがんばった」式の
前向きの理解を示してあげる。

 叱り方、ほめ方は、家庭教育の要であることはまちがいない。
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こんな怒り方は、がまんのし方は、
子どもを、ダメにする!
はやし浩司

「別冊PHP」(1997年・7月号より転載)

 子育ては、言わば、条件反射の集まりのようなものです。そのとき、その場で、いちいち考え
て子どもを叱ったり、怒ったりする人はいません。たいていの人は、「頭の中ではわかっている
のですが、その場になると、ついカーッとして……」と言います。

 ただ最近の傾向としては、小子化の流れの中で、子どもの機嫌をそこねまいと、叱るべきと
きに叱らない親、怒るべきときに怒らない親がふえています。あるいは強く叱ったあとに、「さっ
きは、ごめんね。お母さんが悪かった」と、子どもに謝る親も珍しくありません。こういう親の心
のスキ間をねらって、子どもはドラ息子、ドラ娘化します。

 また子育てに不安を抱いていたり、子どもに何らかの不信感をもっている親は、どうしても子
どもを必要以上に強く叱ったり、怒ったりします。「いったい、いつになったら、あなたは私の言
うことが聞けるの!」と、です。あとはこの悪循環の中で、子どもはますます自分で考えたり判
断したりすることができなくなり、親の叱り方はますますはげしくなるというわけです。

 が、何が悪いかといって、親の情緒不安ほど悪いものはありません。先週は子どもがお茶を
こぼしたときは何も言わなかった親が、今週は、子どもがお茶をこぼしたりすると、子どもの顔
が青ざめるほど子どもを怒鳴り散らすなど。こういう環境では、子どもの性格は内閉し、さらに
悪い場合には、精神そのものが萎縮してしまいます。

 園や学校などでも、皆が大声で笑うようなときでも、皆と一緒に笑えず、口もとをゆがめてクッ
クッと笑うなど。なお悪いことに、このタイプの親は、静かで従順な子どもほど、「いい子」と誤解
して、ますます子どもを悪い方向に追いやってしまう傾向があります。

 叱り方、がまんのし方は、子育ての中でも要(かなめ)と言えるほど、重要であり、またそれだ
けに難しいことおです。叱るときや、がまんするときは、「ここが教育」と心してあたるようにしま
す。

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ポイント1

朝、ぐずぐずする。……ストレスを発散させてやる

 子どもは、自分の精神状態をうまくコントロールできません。そのため、心理的な抑圧状態が
続いたり、欲求不満が蓄積すると、それを「ぐずる」という方法で、表現します。暴れたり、暴言
を吐いたりするのをプラス型とするなら、ぐずるタイプはマイナス型ということになります。

 だから表面的な症状だけをとらえて、それを悪いことだと決めてかからないこと。対処方法と
しては、ぐずるだけぐずらせながら、(たいていはぐずることによって、子どもはストレスを発散
させる)、様子をみます。それでもぐずるようであれば、原因をさがしますが、情緒が不安定な
子どもの場合、原因そのものがはっきりしないのが、ふつうです。

そういうときは、カルシウム、マグネシウムの多い食生活に心がけながら、スキンシップを、より
濃厚なものにします。叱ったり、つきはなしたりすることは、かえって逆効果で、症状をこじらせ
ます。


ポイント2

忙しいときに、まとわりつく……早めに子離れ、親離れの準備を

 こんなことがありました。あるオランダ人夫妻(夫はイギリス人、妻はオランダ人)の家に遊び
に行ったときのこと。五歳になる女の子が、たまたま読書をしていたお母さんに話しかけてきま
した。そのときお母さんは、ひととおり女の子の言い分に耳を傾けたあと、その女の子にこう言
いました。「お母さんは、今、本を読んでいます。じゃましないでね」と。

 欧米人は(自分の時間)(子どもと接する時間)というのを、実にはっきりと使い分けていま
す。欧米流の子育て法が、必ずしもよいというわけではありませんが、こういう毅然(きぜん)と
した態度が、「私は、私。あなたはあなた」というものの考え方を育てていきます。

 つまるところ子育てというのは、子どもを自立させ、よき家庭人に育てることです。そういう視
点に立つなら、親はできるだけ早い時期に、子離れの準備をし、子どもには親離れの心がまえ
をもたせます。忙しかったら、「忙しいから、あとでね……」と言う。子どもの遠慮する必要はあ
りません。


ポイント3

外出時に言うことを聞かない……自己主張には耳を傾ける

 自己主張とわがままは区別します。また自己主張と、とじこもり(がんこ)は区別します。自己
主張には、それをする理由がありますが、わがままにはありません。「お兄ちゃんは、この前、
○○をしてもらったのに、ぼくはしてもらっていない」と訴えるのは、自己主張ですが、理由もな
く、「あれほしてほしい、これをしてほしい」と騒ぐのは、わがままです。また自分の「カラ」に閉じ
こもり、がんこになることは自己主張とは言いません。

 そこで子どもがワーワーと、その自己主張を始めたら、反論すべきことは反論しながらも、子
どもの言い分には、耳を傾けるようにします。その自己主張をする子どもほど、あとあとたくま
しい子どもになります。根性(がんばる力)や、忍耐力(いやなことをがまんしてする力)も、そこ
から生まれます。

 わがままに対しては、一般的には、無視するという方法で対処します。わがままは言ってもム
ダだという環境を整えるようにします。子どもの「がんこ」については、生まれつきの問題、さら
には情緒の問題がからむため、無理をすれば、かえって逆効果です。


ポイント4

片づけをしない……こまごましたことは言わない

 子どもに「先生の話をよく聞くのですよ」とか、「友だちと仲よくするのですよ」と言っても、意味
がありません。具体性がないからです。そういうときは、「先生が、どんな話をしたか、あとでマ
マに話してね」とか、「この○○を、Aさんにもっていってあげてね。きっとAさん、喜ぶわよ」と言
いなおします。同じように、子どもに、「部屋のあと片づけをしなさい」と言っても、意味がありま
せん。子どもには、その必要性がないからです。

 こういうときは、たとえば「おもちゃは一つ」と教えます。遊ぶおもちゃはいつも一つ、と決めさ
せるわけです。こうすれば、子どもは次のおもちゃで遊びたいがため、前のおもちゃは片づけ
るようになります。

 しかし一言。子どもにとっては、家庭は休息とやすらぎの場所だということを忘れてはなりま
せん。アメリカの劇作家は、こう言っています。「ビロードのクッションの上よりも、カボチャの頭
の上に座ったほうが、気が休まる」と。子どもが外の世界をもつようになったら、こまごまとした
ことを、あまりうるさく言わないことです。


ポイント5

兄弟げんか……よき聞き役に

 兄弟げんかについて、いろいろ言われています。「歳の近い姉妹は、憎しみ相手」とか、「仲
のよい兄弟ほど、よくけんかする」とか、など。さらに下の子どもが生まれると、本能的な嫉妬
心から、上の子どもが赤ちゃんがえりを起こしたり、下の子どもに陰湿かつ執拗(しつよう)ない
じめを繰り返すこともあります。

 しかし常識の範囲内の、ふつうの兄弟げんかなら、させたいだけさせます。子どもは兄弟げ
んかを通して、社会性を学び、問題解決の技法を学びます。互いのライバル心が、子どもどう
しを伸ばすこともあります。

 ただしいくつかのルールがあります。まず暴力に訴え始めたら、制止すること。次に互いの言
い分をよく聞きながらも、親側が判断をくだしたり、一方的に一方を責めたり、罰したりしないこ
とです。

 要するに「よき聞き役」になるということですが、たいていはそれで兄弟げんかはおさまりま
す。


ポイント6

勉強しない……勉強は楽しいものと思わせる

 子どもの勉強ぐせをそぐものに、次の四悪があります。無理、強制、条件、それに比較です。

 能力を超えた勉強を与えることを無理、時間を決めたりノルマを課し、それを強要すること
を、強制といいます。さらに「100点を取ったら、おこづかいを1000円あげる」というのが、条
件。「○○君は、もう小二の漢字が読めるのよ。あなたは読めないわね」というのが、比較で
す。条件づけが日常化すると、子どもは自分自身(「私は私」という考え方)を見失ってしまいま
す。

 ただ幼児の場合、勉強するとかしないとかいうことではなく、「勉強は楽しいものだ」という潜
在意識をつくることに心がけます。イギリスの格言にも、「楽しく学ぶ子どもは、よく学ぶ」という
のがあります。この時期、一度、勉強嫌いにしてしまうと、その後、立ち直るのが、たいへんむ
ずかしくなります。そのためにも四悪は避けます。


ポイント7

泣きやまない……ぼんやりする時間をふやし、ズキンシップを多くする

 子どもの泣き方にもいろいろあります。

 シクシク泣く、くやし泣き。サメザメ泣く、悲し泣き。グズグズ泣く、ぐずる泣き。ワーワー泣く、
訴え泣き。ギャーギャー泣く、ヒステリー泣きなど。また子どもにも、うつ症があります。ささいな
ことを気にして、いつまでも泣く、ジクジク泣いたりします。あるいは突発的に大声をあげて泣き
出したり、暴れたりすることもあります。ほかにかんしゃく発作による、キーキー泣きもありま
す。

 園や学校などで、いい子ぶり、ストレスをためやすい子どもほど、注意します。このタイプの子
どもの対処方法は、まず@一人でぼんやりとできる時間と場所を用意してあげること。家族の
人があれこれ気をつかうのは、かえって逆効果です。次にAカルシウム、マグネシウム分の多
い食生活にこころがけ、Bやさしいスキンシップを大切にします。スキンシップには、人知を超
えた(?)不思議な力があります。魔法の力といってよいかもしれません。特に情緒が不安定な
子どもには、有効です。理由もなく、いつまでも泣き続けるようであれば、このスキンシップを濃
厚にしてみてください。


ポイント8

ものを大切にしない……ハングリーな子どもは伸びる

 ものを大切にしないというのは、いわゆるドラ息子(娘)症候群の一つですが、このタイプの子
どもが裕福な家庭の子どもばかりかというと、そうではないというのが、最近の傾向です。

 その背後には、飽食と甘やかしがあるわけですが、小子化がそれに拍車をかけます。子ども
が何かをほしがる前に、何でもホイホイと与えてしまう、などです。

 子どもの生活力を養う秘訣は、常に子どもをややハングリーな状態に置くことですが、家庭で
はこんなテストをしてみてください。紙とクレヨンを与え、「ここに魔法の木があります。あなたの
ほしいものが、何でもできる不思議な木です。木を描いて、あなたのほしいものをいっぱい描い
てみてください」と指示します。子どもが次々とほしいものを描けばよし。「ほしいものがない」と
か、何か一種類のものだけを描くようであれば、飽食を疑ってみます。生活力の旺盛な子ども
ほど、あらゆる方向に触覚が向いていて、その分だけ、ほしいものをいっぱいもっています。


ポイント9

言葉づかいが悪い……人前できちんと話せればよしとする

 子どもの口にフタをすることはできません。神様でもできません。つまり子どもの口が悪いの
は、当たり前。また言葉づかいが悪いからといって、それを責めても意味がありません。ムダ
です。むしろ悪い言葉も使えないほど、子どもを追いやってしまってはいけません。時にはお母
さんに向かって、「ババア」と言うこともありますが、ものを自由に言うということも、幼児の心の
発達には必要なのです。

 むしろ言葉で注意しなければならないのは、@正しい言葉であるか、A豊かな言葉である
か、です。「ジュース、ほしい」ではなく、「私はジュースを飲みたいです」と言えるかどうか。また
夕日を見たとき、ただ「わー、すごい、すごい」だけではなく、「美しい」「感動的」「ロマンチック
ね」と、いろいろな言葉で表現できるかどうか、です。こうした基本的な言葉能力は、家庭環
境、特に母親の言葉能力によるところが大きい、です。もしあなたの子どもの言葉能力が貧弱
であれば、子どもを責めるのではなく、あなた自身が反省すべきだということです。


ポイント10

テレビゲームばかりする……頭ごなしの禁止命令は避ける

 もう一〇年以上も前から、教育界では、この問題について大論争が続けられています。そし
てその結論は、「時代の流れには逆らわない」です。

 私が子どものころには、マンガの功罪がさかんに論じられていたように思います。一時は「マ
ンガ禁止令」まで出されたことがあります(岐阜県)。しかし当時すでに手塚治虫氏が活躍して
いましたから、今から思えば、ずいぶんと時代錯誤の禁止令だったと思います。

 ただマニアは別です。テレビゲームに夢中になるあまり、現実と空想の世界の区別がつかな
くなってしまったり、四六時中、そのことが頭から離れなくなったり……、というのは、もう「ゲー
ム」ではありません。ある男の子(小五)は、真夜中にまで起きて、一人でゲームをしていまし
た。こうなればやめさせます。

 ふつうは時間と場所を決めて許すとか、反射運動型のゲーム(指先の器用さだけを競うゲー
ム)は避けるという方法で対処します。

(注意)「テレビゲーム」の悪影響については、私がその後、あちこちの原稿で指摘しています。


ポイント11

おねしょ……マイナスは無視。プラスはほめる。

 最近の研究では、おねしょは、多尿症や頻尿症と並んで、大脳生理学の分野で、機能障害
の一つとして説明されるようになってきています。つまり叱ってもムダであるばかりか、かえって
症状をこじらせたり、長引かせたりしまいますから注意してください。よく毎晩、真夜中に子ども
を起こしてトイレへ連れていくというようなことをする人がいますが、子どもをかえって神経質に
してしまい、やはり逆効果です。

 ではどうするか? 子どものおねしょは、「ほめてなおす」です。つまりおねしょをした朝は、そ
れを無視。おねしょをしなかった朝は、それをほめるという方法です。そしてあとはあきらめま
す。

 あるお母さんは、「ようし、あと一、二年は覚悟するぞ。したければしなさい」と宣言しました
が、そう宣言したとたん、いつの間にかおねしょはなおってしまったそうです。

 おねしょというのはそういうものです。子どもにとっては、とても気持ちのよいもの(濡れたふと
んは別!)であることを、理解してあげてください。
(以上、「PHP別冊」、投稿済み)



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●親子の触れあい

 (財)経済広報センターの調査によれば、「全国のサラリーマンや、家庭の主婦たちの七〇%
以上が、家庭内で、親子の触れあう機会が、減少したと感じている」ことが、わかったという(0
3年末)。

 「家庭で親が。子どもに、社会のルールを教えたり、親子でスキンシップをとったりする機会
が、自分の子どものころとくらべて、どう変化しているか」という質問に対して、

    減った  ……75・4%
    ふえている……10・1%

 「小学校入学前の子どもに対して、親として実際に心がけたスキンシップについて」という質
問については、

    毎日、必ず会話をする ……50・8%
    食事をいっしょにする ……46・8%
    毎晩、本を読んであげる……32・0%

    毎日、一日に一回は抱きしめる……31・2%(30歳代以下)
                  …… 7・0%(60歳以上)  
    
 この調査結果をみると、最近の親たちは、昔とくらべて、親子の触れあう機会が減ったと感
じ、その一方で、「子どもを抱く」というスキンシップが、ふえていることがわかる。親子の触れあ
いが減ったのは、それだけ親の側に時間的余裕が少なくなったことを示すということになるの
だが……?

 また「抱く」というスキンシップがふえたのは、欧米の影響を受けたためと考えられる。実際、
アメリカ人にせよ、オーストラリア人にせよ、とくにアメリカ人だが、本当に、スキンシップを大切
にしている。「大切にしている」という意識さえ、ないのかもしれない。日本人の私たちから見る
と、ベタベタしている。

 日本では、いまだに、「抱きグセ」が問題になるが、親側が、ベタベタと子どもを抱くのがよくな
いことは、常識。しかし子どもの側がそれを求めてきたら、こまめに、かつていねいに応じてあ
げる。

 ぐいと抱いてあげるだけでもよい。手をつないであげるだけでもよい。こうした親側の対応
が、子どもの心(情緒)を、安定させる。

 最後に「触れあい」だが、「減った」と感ずる親の意識は、「渇望感」と考えてよい。

実際に、ほかの調査などでは、親子がともに過ごす時間は、それほど、減っていない。にもか
かわらず、「減った」と感ずるのは、わかりやすく言えば、親側の欲求不満。同じ時間、子どもと
接していても、子どもと心が通いあえば、親は満足する。そうでなければ、そうでない。心の触
れあいは、量ではなく、質の問題である。

 たとえば私のばあいも、子ども(生徒)たちと触れあう時間は、それほど変っていないはずな
のに、何かしら、触れあう時間が減ったように感ずることがある。しかしそれは時間の問題とい
うよりは、中身の問題。つまりそれだけ、子どもたちの心がつかめなくなったためと、私は考え
ている。

 最近の子どもたちの価値観は、急速に変化しつつある。多様化しつつある。そのため、自分
の子ども時代の価値観を、そのまま当てはめることができなくなってきた。

 親たちが子どもに感ずる、渇望感は、そういうところから生まれる。そしてそしてそれが、回り
まわって、親をして、「触れあいが減った」と感じさせているのでは?

 だからどうしたらよいか……ということは、別に考えるとして、今は、そういう過渡期にあると
考えるのが正しい。昔のように、単一な親がいて、単一な子どもがいる。そしてそこに単一な親
子関係があるという時代は、もう終わった。

 今は、多様化した親がいて、多様化した子どもがいる。そして多様化した親子関係があると
いう時代になりつつある。だから結果として、親子の間で、心が行きかう部分が減少した。私は
そう考える。

 ちなみに私が子どものころは、家族旅行というのは、ほとんど、なかった。今では、毎週のよ
うに、みな、それをしている。「触れあう機会が、ふえたか、減ったか」ということになれば、確実
にふえている。
(040109)




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●溺愛(でき愛)

●ある男性の追跡観察から……

「追跡」というほど、大げさなものではないかもしれない。しかし私は、R君という子どもをとおし
て、「溺愛は愛ではない」ということを学んだ。

 溺愛は、愛ではない。多くの人は、親の愛が、異常に高揚した状態を、溺愛と考えている。つ
まり溺愛は、愛の一種である、と。しかしそれはまちがっている。……という前置きは、それくら
いにして、そのR君について、思い出すまま、ここに書く。

●R君のこと

私が最初に、そのR君を知ったのは、R君が、高校一年生のときのことだった。そのときすで
に、R君と母親の関係は、かなりこじれていたという。しかしそれについては、そのとき私は、知
らなかった。

 ある夜のこと。R氏の母親から電話がかかってきた。受話器を取ると、母親は、こう言った。

 「先生、あのR雄が、夏休みに、アメリカへホームスティしたいと言っています。しかしつい先
日も、ああいう飛行機事故があったでしょう。何とか、思いとどまらせて、いただけないでしょう
か。R雄も、先生の言うことなら、聞きます。

 でね、先生、たいへん申し訳ないのですが、私から、こういう電話をしたということを、R雄に
は、内密にお願いしたいのです。くれぐれも、よろしくお願いします」と。

●あやつられるR君

しばらくしてR君と会った。で、それとなく、ホームスティの話を切り出してみた。するとR君は、こ
う言った。

 「お母さんは、行ってもいいと言っているけど、一度、先生に相談してみろと言っている。先生
が、いいと言えば、ホームスティしてきてもいいと言っている」と。

 R君の母親は、明らかに二枚舌を使っていた。しかし私は、母親が私に言ったことは、R君に
は話せなかった。スポンサーあっての、仕事である。スポンサーの意向に逆らうことはできな
い。そのとき私は、ある進学塾の塾長に頼まれて、R君の家庭教師をしていた。

「しかし今は、勉強したほうがいいと思うけど……」と私。
「来年になったら、受験勉強をすればいい。今年は、まだ、ぼくは、自分のしたいことをしたい」
とR君。
「ぼくは、あまり賛成しないな」
「どうして? この前まで、行けるなら行ってこいって、先生、言ってたじゃない」
「……」と。

●R君の過去

R君には、二人の姉がいた。上の姉は、そのとき、二二、三歳だったと思う。下の姉は、R君よ
り、数歳、年上だった。私は、下の姉も、彼女が中学生から高校生にかけて、同じ進学塾で、
四年間教えた経験がある。

 その姉が、ある日、こう話してくれた。「R雄は、今でも、お母さんといっしょに、お風呂に入っ
ている」と。R君は、そのとき、小学六年生だった。「赤ん坊のときから、ずっと寝るときも、一緒
よ」と。

 それだけではないが、私は、R君の母親が、R君を、溺愛しているのを知った。

「R雄がね、六年のとき、修学旅行に行ったのよ。そのとき、うちのお母さん、泣いていたのよ。
『どうしたの?』と声をかけると、『ひとりであの子は、だいじょうぶかしら』とね。お母さんは、そ
う言って、泣いていたのよ」と。

●母と子の対立

そのR君が急速に、親離れを始めたのは、R君が、中学三年生になったころではなかったか。
R君が、母親にはげしい罵声を浴びせかけ、時には、母親に対して、暴力をふるうようになった
という。

 そのときはまだ私はR君を教えていなかったから、生徒の弟の話として、一定の距離を置い
て聞いていた。しかし、こういうケースは、珍しくない。

 溺愛された子どもが、ある日突然、その溺愛を、重荷に感ずるようになる。

 ふつう、子どもというのは、その成長過程において、ちょうど昆虫が、一枚ずつカラを脱皮す
るようにして、成長していく。幼児期から少年期。少年期から思春期へ、と。しかし溺愛児に
は、それがない。ないまま、大きくなる。

症状としては、いつも満足げで、ハキがない。ちょうどひざに抱かれたペットのようだから、私
は、「ペット児」と呼んでいる。ずいぶんと失礼な呼び方に聞こえるかもしれないが、症状として
は、たいへんそれに近い。

 が、ある日、子ども自身が、それに気づく。そしてこう叫ぶ。「オレをこんなオレにしたのは、お
前だろ!」と。

今まで脱げなかったカラを、そのとき、一挙に脱ごうとする。しかしふつうの脱ぎ方ではない。い
くつもの反抗期を重ねたような反抗の仕方をする。暴力をともなうことも、珍しくない。

 そのときのR君が、そうだった。

●ホームスティを断念

結局、R君は、私の意見を聞き、ホームスティを断念した。「大学へ入ってからしても、遅くな
い」という私の意見に従ってくれた。が、私には、何かしら、割り切れないものが残った。

 実のところ、それからのR君については、私は、あまりよく覚えていない。ふつうの生徒とし
て、まじめに勉強してくれたと思う。そして、地方の大学だったが、国立大学へ入学した。と、同
時に、私との関係は、切れた。

 そのR君のことを、ほとんど忘れかかっていたときのこと。そのR君が、大学四年の夏休み
に、私の家にやってきた。そしてこう言った。

「先生、今の大学を卒業したら、ぼく、オーストラリアの大学へ進学しようと思っているのです。
ついては、先生の推薦状を書いてもらえませんか」と。

 私の推薦状など、一片の価値もない。しかしR君は、「どうしても、先生に、推薦してもらいた
い」と。

 で、結局、私が、R君の留学先の世話をすることになってしまった。大学の選定から、書類の
提出。学生ビザの取得から、航空チケットの購入まで。

●駅ではじめてわかった

私は、そういうこともあって、三月に、R君が、オーストラリアへ旅立つ日、駅まで、R君を見送り
にでかけた。

 父親と母親も、そこに来ていた。数人のR君の友人たちも、そこにきていた。それに少し遠巻
きにしながら、二人の姉たちもいた。

 が、その雰囲気が、どうもおかしい。私は、決して感謝されるのを目的で、R君を助けたわけ
ではない。しかし、私は、当然、両親は、私に感謝しているものとばかり思っていた。しかしR君
の両親は、私から視線をはずし、どこかよそよそしかった。

「しまった!」と、そのとき、はじめてわかった。

 私はR君の言うことだけを信じて、そのつど、両親の了解を求めることをしなかった。とくに母
親は、私に冷たかった。列車がプラットフォームを離れたときでさえ、母親は、私には、一言も
口をきかなかった。父親は、「いろいろお世話になりました」と言ったが、それだけだった。

●姉から電話

それから一〇年あまり。縁というのは、おかしなものだ。ある幼稚園へ講演に行ったら、そこに
R君の下の姉がいた。姉は、そこで幼稚園の先生をしていた。そしてそれがきかっけで、私
は、R君というより、母親とR君の関係についての、相談を受けるようになった。

 しかし姉から聞いた話は、私の常識では、理解できないものだった。

 R君は、日本へ帰ってきたあと、名古屋市に本社を置く、資材会社に就職した。そしてそこで
一人の女性と知りあい、同棲(どうせい)生活を始めた。

 そのことがわかった夜のこと、R君の母親は、まさに狂乱状態になり、なりふり構わず、泣き
じゃくったという。「悔しい」「悔しい」と。つまりR君が、一人の女性と同棲するようになったこと
を、「悔しい」と言うのだ。

 が、R君の母親は、R君の前では、そんな様子は、おくびにも出さず、相変わらず、やさしい、
理解のある母親を演じてみせたという。

●父親の死、そして……

が、まもなくして、父親が死んだ。で、母親は、上の姉夫婦と同居することになった。そのころか
ら、母親の様子が、また少しずつ、変わってきた。R君の母親は、ことあるごとに、R君の家を
訪問し、そのつど、R君から、五〜一〇万円単位の、小遣いをせびるようになったという。

 最初は、「お前のかわりに、貯金をしておいてあげる」「あとですぐ返す」とか言っていたが、そ
のうち、泣き声を混ぜ、生活がきびしいと言ったりした。

 しかしそんなはずはなかった。父親が死んだとき、母親には、数千万円の生命保険がおり
た。また祖父の代から、敷地の横で、計六室ある、アパートも経営していた。上の姉は、大手
の自動車会社で、設計技師をしていた。裕福というわけではないが、お金に苦労するような環
境ではなかった。

 が、R君の母親は、R君から、お金を取りつづけた。「法事があるから」「伯父の葬儀があるか
ら」「盆に、寺の住職を呼ぶから」「甥(おい)が結婚するから」と。

 そのつど理由はさまざまだったが、それはもう、執念に近いものだった。

●嫉妬が転じて、うらみに

溺愛から嫉妬。そしてその嫉妬から、うらみに。

R君の母親の心情の変化を、簡単に言えば、そういうことになる。母親は、R君が、幸せになる
のを、許さなかった。そしてそのうらみは、いつしか、R君から、奪い取れるものは、すべて取れ
という姿勢に変わった。

 しかし母親は、R君(もうR君というよりは、R氏と言ったほうが正しいかもしれないが……)の
前では、やさしい、気弱な母親を演じてみせた。R君が、母親に、「お母さん、お金はあるか?」
と聞くと、母親は、こう言ったという。

「母さんはね、みんなの残り物を食べているから、心配しなくていいよ。旅行も、○○さん(伯
父)が、ときどき連れていってくれるから、それでいいよ」と。

 母親は、決して「お金がない。」「お金がほしい」と言わない。R君を、言葉巧みに、誘導した。
そしてそのたびに、R君は、五〜一〇万円のお金を、母親に届けた。


●そして事件が起きた

そのとき母親は、上の姉夫婦と同居していた。しかしあまり居心地のよい世界ではなかったら
しい。母親は、敷地の横に、自分の家、つまり離れを建てることにした。

 その間の、こまかいいきさつは、私は知らないが、その建設資金は、R君が出すことになっ
た。R君名義の家ということで、R君が、銀行から、お金を借りた。毎月、五、六万円の返済額
だったというが、決して楽なお金ではなかった。ボーナス月には、二〇万円近い、お金の返済
を迫られた。

 そんなとき、事件が起きた。

 R君が、半年の予定で、中国の上海に出張に行くことになった。子どもがいなかったこともあ
って、R君の妻も、いっしょに行くことになった。そのときのこと。何かあってはいけないからとい
うことで、R君は、自分の土地の権利書と印鑑などを、母親に預けた。

 土地は、名古屋市の校外に買い求めた、四〇坪あまりの土地の権利書だった。R君は、ゆく
ゆくは、そこに、自分の家を建てるつもりだった。

 しかし、だ。半年後にR君が、日本へ帰ってみると、その土地は、母親によって、他人に転売
されていた。

●母親と決裂

その夜、R君は、母親に泣いて抗議した。長い電話だったが、最後に母親は、こう言ったとい
う。「親が、先祖を守るために、息子のお金を使って、何が悪い。お前を大学を出すために、私
が、いくらお金を使ったと思っている。まず、そのお金を、返せ!」と。

 それは、いつもの、あのやさしい、ネコなで声で話す母親の声ではなかった。ぞっとするほ
ど、冷たく、はげしい言い方だったという。

 R君は、こう言う。

「親をだます子どもの話は、よく聞きますが、世の中には、子どもをだます親だっているので
す。この一件で、私と母親の関係は切れました。

 今でも、あのやさしい母が、心の中にいないわけではありません。ですから母を思うと、心の
中が、バラバラになってしまいます。

 で、それから一〇か月もの間、私は、毎晩、怒りと悔しさで、体がほてり、眠ることさえ、まま
になりませんでした。そのたびに妻が、私を介抱してくれました。

 しかしその一〇か月が過ぎたとき、私の中に、別の怒りが、ムラムラとわき起こってきまし
た。私の子ども時代を溺愛というクサリで、がんじがらめにした母への怒りです。

 今でも母はそのことを口にして、『お前をかわいがってやった』『だいじに育ててやった』と言い
ます。

 親類の伯父や、叔母も、『R雄は、お母さんにだいじに育ててもらったではないか』と言いま
す。

 つまり、まったくとぼけています。それからもう一〇年近くになりますが、あの話、つまり土地
の転売の話になると、母は、突然人が変わったように狂乱状態になります。手がつけられませ
ん。

 ですから私も、その話には、触れないようにしています」と。

●溺愛は、愛ではない

 親は、情緒的な未熟性、精神的な欠陥(けっかん)があって、子どもを溺愛するようになる。

 その愛は、どこかストーカーがもつ、「愛(?)」に似ている。一方的な思いこみによって、相手
を、自分の心のすき間を埋めるための道具として、使う。母親のばあいも、溺愛を、深い親の
愛と誤解することが多い。中には、子どもを溺愛しながら、「私こそ、親のカガミ」と思いこんで
いる人もいる。

 しかし自分勝手で、身勝手な愛であることには、ちがいない。こういうのを、代償的愛と呼ぶ。

 つまりは、「愛もどきの愛」ということになる。一見「愛」に見えるが、それは愛ではない。親子
のばあいは、子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりに動かそうとする。

 だからこのタイプの母親は、子どもが自立していくのを望まない。あるいは、それをさまざまな
形で、阻止(そし)しようとする。最初に、私に電話をかけてきたときがそうだった。R君の母親
は、R君が、アメリカへホームスティすることに反対したのではない。飛行機事故を心配したの
でもない。R君の母親は、R君が、自分から離れていくのを、恐れた。

 いつか通りで会ったとき、R君の母親は、私にこう言った。

「先生、息子なんて、育てるもんじゃ、ないですね。あのR雄は、名古屋の嫁に取られてしまい
ました。親なんて、さみしいもんですわ」と。

 その言葉だけは、今も、鮮明に記憶の中に、残っている。
(040112)

●「親は絶対」……もしあなたが今、そう思っているなら、そういう考え方は、改めたほうがよ
い。あなたがそう思うのは、あなたの勝手だが、そう思うことによって、今度は、あなたは無意
識のうちにも、あなたの子どもに対して、子どもがそう思うのを、求めるようになる。何か、子ど
もがあなたに反抗したりすると、「何よ、親に向かって!」と。

こうした親意識(私は「悪玉親意識」と呼んでいるが……)は、あなたの子どもがそれを受け入
れれば、それなりに親子関係はうまくいくが、そうでないときは、親子の間に、大きなキレツを
入れることになる。くれぐれも、注意してほしい。

●悪玉親意識……親意識には、善玉親意識と悪玉親意識がある。「私は親だから、親の責任
と義務を果たす」と考えるのは、善玉親意識。一方、「親に向かって!」と親風を吹かすのを、
悪玉親意識という。悪玉親意識は、悪玉コレステロールのようなもので、長い時間をかけて、
親子のパイプをつまらせる。




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●依存心

●依存性

 子どもに依存心をつけさせる育児法は、いくらでもある。まず「親がいなければ、何もできな
い」という意識を、徹底的に植えつける。

 親の優位性、親の絶対性、親の尊厳性など。こうしたものを、あらゆる機会を通して、子ども
に植えつける。

 先日、ある家庭に行ったら、そこの女性(七〇歳くらい)が、手乗り文鳥を飼っているのを知っ
た。そしてしばらくしていると、その女性が、その文鳥に向って、自らは、戸のうしろに身をかくし
ながら、こう話しかけた。

 「ホラホラ、(私は)行ってしまうよ。行ってしまうよ」と。

 それに答えて文鳥が、さみしそうな声で、ピーッ、ピーッと鳴いた。

 私はそれを見ていて、「手なづける」というのは、こういう方法をいうのだと知った。と、同時
に、それが日本型の子育ての基本になっていることを知った。

●手なづける

ペットを飼う人は、当然のことながら、飼い主に対して、依存心をもたせるようにペットを育て
る。エサの与え方がポイントで、主人の言うことを聞かなければ、エサを与えないというような育
て方をする。

 しかしこれはペットのばあい。

 ペットは、それでよいとしても、人間の子どもは、それではいけない。むしろ依存心をつけさえ
ないように育てることこそ、重要。そうでなくても、子どもは、親に依存しやすい。その(しやす
い)という性質を逆手にとって、子どもの心を操ってはいけない。

 少し前だが、Nテレビのある番組で、日本でも有名な演歌歌手のI氏が、涙ながらに、自分の
母親について語っていた。いわく「私は、母に、女手一つで、育てていただきました。産んでい
ただきました。私は、その恩に報いたく、東京に出て、歌手になりました」と。

 日本では、こうした話は、即、美談としてもてはやされる。あの番組を見て、涙をこぼした人も
多いはず。

 しかしI氏の母親は、本当にすばらしい母親なのだろうか。もちろんI氏は、「すばらしい母」と
言っていたが、しかし子どもを、そこまで追いつめたのは、いったいだれなのかということにな
る。

 私は、その陰に、I氏の母親自身がいたと思う。I氏の母親は、たぶん、I氏が子どものときか
ら、I氏に向って、「産んでやった」「育ててやった」を口グセにしていたと思う。

●依存心をもたせるのは卑怯(ひきょう)

子どもは、ひとりでは、生きていかれない存在である。その子どもの弱点を、逆に利用して、子
どもに依存心をもたせる育児法は、そもそもまちがっている。

 それはたとえて言うなら、経済的に弱者の立場にある妻に向って、夫が、「この家から出て行
け」と言うのに似ている。相手を身動きできない状態にして、その相手を思いどおりにする。実
は、子どもは、生まれながらにして、いつもその状態にある。

 ほかにたとえば、母親が子どもに、父親の悪口を告げるのも、それ。「あなたのお父さんは、
稼ぎが少ないでしょう。だからお母さんは、苦労するのよ」と。子どもは、母親の言うことに、反
論することさえできない。

 そういう弱者の立場にある子どもに、つまり、もとから依存しなければ生きていかれない子ど
もに、依存心をもたせるのは、実は、簡単なこと。簡単すぎるほど、簡単なこと。そういう親の
立場を利用して、あえて、子どもに依存心をもたせるのは、まさに卑怯、ということになる。

●依存心をもつ子どもたち

親に対して依存心をもった子どもたちが、自分の親への依存性に気づくことは、まず、ない。こ
れは脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、自分で自分がおかしいということがわからな
い。わからないまま、たとえば一方的に親に依存したり、その依存性をごまかすために、親を
美化したり、権威化したりする。

 「私が親にこれだけ依存するのは、それだけ親がすばらしいからだ」と。

 こうして親子の間で、ベタベタの人間関係を形成する。俗に言う、マザコン人間は、こうして生
まれる。ためしにあなたの近くにいるマザコンタイプに、親を批判するようなことを言ってみると
よい。

 このタイプの人は、自分では、決してマザコンだとは思っていない。思っていないばかりか、そ
うであることが、人生の哲学になっていることが多い。だからあなたに、こう反論する。「そういう
話は、聞きたくない!」「親の悪口を言うヤツは、許さない!」と。

●再び、日本型の子育て論

日本では、古来より、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子として
きた。そして親孝行をことさら重要視、それを子育ての「柱」にすえてきた。今でも、孝行論を家
庭教育の柱にしている、教育団体は、多い。

だからといって、孝行論を否定しているのではない。親を粗末にしてよいと言っているのでもな
い。しかし日本人は、今まで、孝行論を盾(たて)にとり、その甘い関係を、あまりにも美化しす
ぎてきた。親は、その孝行論に甘え、子どももまた、親に対して犠牲になることを、美徳と考え
てきた。

 こうした日本文化の特殊性は、外国へ出てみると、よくわかる。

 もちろんアメリカにも、オーストラリアにも、親思いの子どもは、いくらでもいる。子ども思いの
親も、これまたいくらでもいる。しかしそこにあるのは、純然たる、一対一の人間関係。その関
係の中で、親子でも、一対一の人間として、認めあっている。尊敬しあっている。……と、そこ
まで大げさでなくても、日本の親子関係とは、明らかに違う。

●子どもに求めない 

 仮にあなたが、依存心ベタベタの、マザコンタイプの人間であるとしても、それはそれで構わ
ない。あなたは、どこまでいっても、あなただ。

 しかしそれを今度は、あなたの子どもに求めてはいけない。子どももまた、どこまでいっても、
子どもだ。

 えてしてマザコンタイプの人は、ここにも書いたように、脳のCPUそのものが、どこかズレて
いるため、自分でそれに気づくことはない。それはたとえていうなら、カルト教団の信者のような
もの。おかしなことを一方でしながら、自分では、おかしなことをしているとは、思っていない。

●親であることのきびしさ

 では、どう考えたらよいのか。

 まず、親自身が、親であることのきびしさを、認識する。そのきびしさを、認識するところか
ら、子育てを始める。

 いつかあなたの子どもは、あなたの人間性を見ぬくときがやってくる。今までは、それでも、
「親だから……」「子だから……」という甘えの中で、その人間性をごまかすことができた。しか
しこれからは、そういう時代ではない。また、そうであってはいけない。

 子育ての第一の目標は、子どもを自立させること。そのためには、親自身も、また、自立しな
ければならない。子どもはそういう親の姿を見て、自らも、自立することを学ぶ。

 イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二
〜一九七〇)は、こう書き残している。

『子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施(ほどこ)す
けれど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを
与えられる』と。

 この言葉のもつ意味は、深い。
(040113)



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●子どもの国語力

●幼児期に、どう指導したらいいの?

 以前……と言っても、もう二〇年近くも前のことだが、私は国語力が基本的に劣っていると思
われる子どもたちに集まってもらい、その子どもたちがほかの子どもたちと、どこがどう違うか
を調べたことがある。結果、次の三つの特徴があるのがわかった。

@使う言葉がだらしない……ある男の子(小二)は、「ぼくジャン、行くジャン、学校ジャン」とい
うような話し方をしていた。「ジャン」を取ると、「ぼく、行く、学校」となる。たまたま『戦国自衛隊』
という映画を見てきた中学生がいたので、「どんな映画だった?」と聞くと、その子どもはこう言
った。「先生、スゴイ、スゴイ! バババ……戦車……バンバン。ヘリコプター、バリバリ」と。何
度か聞きなおしてみたが、映画の内容は、まったくわからなかった。

A使う言葉の数が少ない……ある女の子(小四)は、家の中でも「ウン、ダメ、ウウン」だけで
会話が終わるとか。何を聞いても、「まあまあ」と言う、など。母「学校はどうだったの?」、娘「ま
あまあ」、母「テストはどうだったの?」、娘「まあまあ」と。

B正しい言葉で話せない……そこでいろいろと正しい言い方で話させようとしてみたが、どの
子どもも外国語でも話すかのように、照れてしまった。それはちょうど日本語を習う外国人のよ
うにたどたどしかった。私「山の上に、白い雲がありますと、言ってごらん」、子「山ア……、上に
イ〜、白い……へへへへ」と。

 原因はすぐわかった。たまたま子どもを迎えにきていた母親がいたので、その母親にそのこ
とを告げると、その母親はこう言った。「ダメネエ、うちの子ったら、ダメネエ。ホントにモウ、ダ
メネエ、ダメネエ」と。原因は母親だった!

●国語能力は幼児期に決まる

 子どもの国語能力は、家庭環境で決まる。なかんずく母親の言葉能力によって決まる。毎
日、「帽子、帽子、ハンカチ、ハンカチ! バス、バス、ほらバス!」というような話し方をしてい
て、どうして子どもに国語能力が身につくというのだろうか。こういうケースでは、たとえめんどう
でも、「帽子をかぶりましたか。ハンカチを持っていますか。もうすぐバスが来ます」と言ってあ
げねばならない。……と書くと、決まってこう言う親がいる。「うちの子はだいじょうぶ。毎晩、本
を読んであげているから」と。

 言葉というのは、自分で使ってみて、はじめて身につく。毎日、ドイツ語の放送を聞いている
からといって、ドイツ語が話せるようにはならない。また年中児ともなると、それこそ立て板に水
のように、本をスラスラと読む子どもが現れる。しかしたいていは文字を音にかえているだけ。
内容はまったく理解していない。

なお文字を覚えたての子どもは、黙読では文を理解できない。一度文字を音にかえ、その音を
自分の耳で聞いて、その音で理解する。音読は左脳がつかさどる。一方黙読は文字を「形」と
して認識するため、一度右脳を経由する。音読と黙読とでは、脳の中でも使う部分が違う。そ
んなわけである程度文字を読めるようになったら、黙読の練習をするとよい。具体的には「口
を閉じて読んでごらん」と、口を閉じさせて本を読ませる。

●幼児教育は大学教育より奥が深い

 今回はたいへん実用的なことを書いたが、幼児教育はそれだけ大切だということをわかって
もらいたいために、書いた。相手が幼児だから、幼稚なことを教えるのが幼児教育だと思って
いる人は多い。私が「幼稚園児を教えています」と言ったときのこと。ある男(五四歳)はこう言
った。「そんなの誰にだってできるでしょう」と。しかし、この国語力も含めて、あらゆる「力」の基
本と方向性は、幼児期に決まる。そういう意味では、幼児教育は大学教育より重要だし、奥が
深い。それを少しはわかってほしかった。

+++++++++++++++++++++

教育が型にはまるとき

●「ちゃんと見てほしい」

 「こんな丸のつけ方はない」と怒ってきた親がいた。祖母がいた。「ハネやハライが、メチャメ
チャだ。ちゃんと見てほしい」と。

私が子ども(幼児)の書いた文字に、花丸をつけて返したときのことである。あるいはときどき、
市販のワークを自分でやって、見せてくれる子どもがいる。そういうときも私は同じように、大き
な丸をつけ、子どもに返す。が、それにも抗議。「答がちがっているのに、どうして丸をつけるの
か!」と。

●「型」にこだわる日本人

 日本人ほど、「型」にこだわる国民はいない。よい例が茶道であり華道だ。相撲もそうだ。最
近でこそうるさく言わなくなったが、利き手もそうだ。「右利きはいいが、左利きはダメ」と。

私の二男は生まれながらにして左利きだったが、小学校に入ると、先生にガンガンと注意され
た。書道の先生ということもあった。そこで私が直接、「左利きを認めてやってほしい」と懇願す
ると、その先生はこう言った。

「冷蔵庫でもドアでも、右利き用にできているから、なおしたほうがよい」と。そのため二男は、
左右反対の文字や部分的に反転した文字を書くようになってしまった。書き順どころではない。
文字に対して恐怖心までもつようになり、本をまったく読もうとしなくなってしまった。

 一方、オーストラリアでは、スペルがまちがっている程度なら、先生は何も言わない。壁に張
られた作品を見ても、まちがいだらけ。そこで私が「なおさないのですか」と聞くと、その先生
(小三担当)は、こう話してくれた。「シェークスピアの時代から、正しいスペルなんてものはない
のです。発音が違えば、スペルも違う。イギリスのスペルが正しいというわけではない。言葉
は、ルール(文法やスペル)ではなく、中身です」と。

●「U」が二画?

 今、小学校でも、英語学習がなされている。その会議が一五年ほど前、この浜松市であっ
た。その会議を傍聴してきたある出版社の編集長が、帰り道、私の家に寄って、こう話してくれ
た。

「Uは、まず左半分を書いて、次に右半分を書く。つまり二画と決まりました。同じようにMとW
は四画と決まりました」と。私はその話を聞いて、驚いた。英語国にもないような書き順が、こ
の日本にあるとは!

そう言えば私も中学生のとき、英語の文字は、二五度傾けて書けと教えられたことがある。今
から思うとバカげた教育だが、しかしこういうことばかりしているから、日本の教育はおもしろく
ない。つまらない。

たとえば作文にしても、子どもたちは文を書く楽しみを覚える前に、文字そのものを嫌いになっ
てしまう。日本のアニメやコミックは、世界一だと言われているが、その背景に、子どもたちの
文字嫌いがあるとしたら、喜んでばかりはおられない。

だいたいこのコンピュータの時代に、ハネやハライなど、毛筆時代の亡霊を、こうまでかたくな
に守らねばならない理由が、一体どこにあるのか。「型」と「個性」は、正反対の位置にある。子
どもを型に押し込めようとすればするほど、子どもの個性はつぶれる。子どもはやる気をなく
す。

●左利きと右利き

 正しい文字かどうかということは、次の次。文字を通して、子どもの意思が伝われば、それで
よし。それを喜んでみせる。そういう積み重ねがあって、子どもは文を書く楽しみを覚える。

オーストラリアでは、すでに一五年以上も前に小学三年生から。今ではほとんどの幼稚園で、
コンピュータの授業をしている。一〇年以上も前に中学でも高校でも生徒たちは、フロッピーデ
ィスクで宿題を提出していたが、それが今では、インターネットに置きかわった。先生と生徒
が、常時インターネットでつながっている。こういう時代がすでにもう来ているのに、何がトメだ、
ハネだ、ハライだ! 

 冒頭に書いたワークにしても、しかり。子どもが使うワークなど、半分がお絵かきになったとし
ても、よい。だいたいにおいて、あのワークほど、いいかげんなものはない。それについては、
また別のところで書くが、そういうものにこだわるほうが、おかしい。

左利きにしても、人類の約五%が、左利きといわれている(日本人は三〜四%)。原因は、どち
らか一方の大脳が優位にたっているという大脳半球優位説。親からの遺伝という遺伝説。生
活習慣によって決まるという生活習慣説などがある。

一般的には乳幼児には左利きが多く、三〜四歳までに決まるが、どの説にせよ、左利きが悪
いというのは、あくまでも偏見でしかない。冷蔵庫やドアにしても、確かに右利き用にはできて
いるが、しかしそんなのは慣れ。慣れれば何でもない。

●エビでタイを釣る

 子どもの懸命さを少しでも感じたら、それをほめる。たとえヘタな文字でも、子どもが一生懸
命書いたら、「ほお、じょうずになったね」とほめる。そういう前向きな姿勢が、子どもを伸ばす。
これは幼児教育の大原則。昔からこう言うではないか。「エビでタイを釣る」と。しかし愚かな人
はタイを釣る前に、エビを食べてしまう。こまかいこと(=エビ)を言って、子どもの意欲(=タイ)
を、そいでしまう。

(付記)
●私の意見に対する反論

 この私の意見に対して、「日本語には日本語の美しさがある。トメ、ハネ、ハライもその一つ。
それを子どもに伝えていくのも、教育の役目だ」「小学低学年でそれをしっかりと教えておかな
いと、なおすことができなくなる」と言う人がいた。

しかし私はこういう意見を聞くと、生理的な嫌悪感を覚える。その第一、「トメ、ハネ、ハライが
美しい」と誰が決めたのか? それはその道の書道家たちがそう思うだけで、そういう「美」を、
勝手に押しつけてもらっては困る。要はバランスの問題だが、文字の役目は、意思を相手に伝
えること。「型」ばかりにこだわっていると、文字本来の目的がどこかへ飛んでいってしまう。

私は毎晩、涙をポロポロこぼしながら漢字の書き取りをしていた二男の姿を、今でもよく思い
出す。二男にとっては、右手で文字を書くというのは、私たちが足の指に鉛筆をはさんで文字
を書くのと同じくらい、つらいことだったのだろう。二男には本当に申し訳ないことをしたと思っ
ている。この原稿には、そういう私の、父親としての気持ちを織り込んだ。

(参考)

●経済協力開発機構(OECD)が調査した「学習到達度調査」(PISA・二〇〇〇年調査)によ
れば、「毎日、趣味で読書をするか」という問いに対して、日本の生徒(一五歳)のうち、五三%
が、「しない」と答えている。

●この割合は、参加国三二か国中、最多であった。また同じ調査だが、読解力の点数こそ、
日本は中位よりやや上の八位であったが、記述式の問題について無回答が目立った。無回答
率はカナダは五%、アメリカは四%。しかし日本は二九%! 文部科学省は、「わからないも
のには手を出さない傾向。意欲のなさの表れともとれる」(毎日新聞)とコメントを寄せている。

●子どもを伸ばす、こんな方法
        
 あなたは白いご飯に、チョコレートをかけて食べることができるか。ミルクか、ココアでもよい。
「できない」と思っているなら、一度、ためしてみたらよい。

そういうのを発想の転換という。一度、うちへホームステイしたオーストラリア人が、そういう食
べ方を教えてくれた。彼らは、豆腐にジャムをつけて食べていた!

 子どもの頭をよくしたいと思っているなら、そういう刺激を与える。もっと言えば、「あれっ!」と
思うような意外性を大切にする。意外性が大きければ大きいほど、脳の中の神経組織が発達
する。

マンネリはよくない。マンネリは、知能発達の大敵と考える。……といっても、お金をかけろとい
うことではない。発想の転換は、ごく身近で始まる。また身近であればあるほど、刺激も大き
い。庭の草木の葉っぱを、ちぎってかんでみる。おもちゃのトラックの中に、寿司を並べてみ
る、など。そうそう私も昔、子どものころだったが、動物の形をしたパンを見て驚いたことがあ
る。あのとき感じた新鮮さは、いまだに忘れない。

 ふつう頭のよい子どもは、発想が豊かで、おもしろい。パンをくりぬいて、トンネル遊び。スリ
ッパをひもでつないで、電車ごっこなど。時計を水の入ったコップに入れて遊んでいた子ども
(小三)がいた。母親が「どうしてそんなことをするの?」と聞いたら、「防水と書いてあるから、
その実験をしているのだ」と。

ただし同じいたずらでも、コンセントに粘土をつめる。絵の具を溶かして、車にかけるなどのい
たずらは、好ましいものではない。善悪の判断にうとい子どもは、とんでもないいたずらをす
る。

 その頭をよくするという話で思いだしたが、チューイングガムをかむと頭がよくなるという説が
ある。アメリカの「サイエンス」という雑誌に、そういう論文が紹介された。

で、この話をすると、ある母親が、「では」と言って、ほとんど毎日、自分の子どもにガムをかま
せた。しかもそれを年長児のときから、数年間続けた。で、その結果だが、その子どもは本当
に、頭がよくなってしまった。この方法は、どこかぼんやりしていて、何かにつけておくれがちの
子どもに、特に効果がある。……と思う。

 また年長児で、ずばぬけて国語力のある女の子がいた。作文力だけをみたら、小学校の
三、四年生以上の力があったと思う。で、その秘訣を母親に聞いたら、こう教えてくれた。「赤ち
ゃんのときから、毎日本を読んで、それをテープに録音して、聴かせていました」と。母親の趣
味は、ドライブ。外出するたびに、そのテープを聴かせていた。

 今回は、バラバラな話を書いてしまったが、もう一つ、バラバラになりついでに、こんな話もあ
る。子どもの運動能力の基本は、敏しょう性によって決まる。その敏しょう性。一人、ドッジボー
ルの得意な子ども(年長男児)がいた。

その子どもは、とにかくすばしっこかった。で、母親にその理由を聞くと、「赤ちゃんのときから、
はだしで育てました。雨の日もはだしだったため、近所の人に白い目で見られたこともありま
す」とのこと。子どもを将来、運動の得意な子どもにしたかったら、できるだけはだしで育てると
よい。




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●常識

 幼稚園児に絵を描かせる。すると、たいていの子どもは、赤い色か、オレンジ色の太陽を描
く。

私「太陽は、本当に赤いの?」
子「そうだよ」
私「本当に、そう? 見たことある?」
子「あるよ。赤だよ」と。

 年長児のほとんどは、赤い太陽を描く。年中児だと、少し乱れるが、たいてい赤い太陽を描
く。ここ五〜六年、白い太陽や、黄色い太陽を描く子どもがふえてきた。しかしそれでも、大半
の子どもは、赤い太陽を描く。

 そこで小学二年生の子どもたちと、こんな会話をしてみた。

私「太陽は、赤いと、小さい子たちが言うけど、君たちは、どう思う?」
子「いいんじゃ、ない……」
私「でも、本当は、赤くないよ」
子「赤いよ。ぼく、見たことがあるよ」

私「本当に赤かったの?」
子「赤だよ」
私「アメリカでは、黄色だよ。中国では、白色だよ」
子(みんな)「ウソーッ!」と。

 「白」は、もともと、太陽を表す「日」という漢字から生まれた。だから中国では、「太陽は白い」
ということになっている。

 ……つまり、こうして子どもたちの常識、きわめて日本的な常識が作られていく。そしてその
常識は、一度、作られると、変えるのは、容易ではない。

私「白い太陽じゃ、おかしいの?」
子「おかしいよ。白い太陽なんて……」
私「でも、一度、白い太陽を描いてみてごらん」
子「やっぱり、おかしいよ」と。

 私がもっている常識。あなたがもっている常識。私が、その常識を、はじめて意識して疑った
のは、オーストラリアに留学したときだ。

 最初に案内された部屋は、ベッドが北向き(頭が北を向いていたという意味で北向き)に置い
てあった。

 私は、日本でも、とくに迷信深い家で、育った。母が、そうだった。だからふとんを敷いても、
枕を北側に置いただけで、母に叱られた。「死に枕だ!」と。

 そういう私がまず、ベッドを見て、驚いた。もっともすぐ、オーストラリアでは、南と北が、日本
の感覚とは逆、と気がついた。向こうでは、北が暖かいということになっている。が、今でもあの
とき感じたショックを忘れない。

 あるいは、こんなことも。あるとき、イギリス人の家庭に食事に誘われたときのこと。テーブル
に塩をこぼしたが、「不吉なこと」と、その場で言われてしまった。その人は、その塩を、右手で
つまむと、左の肩越しに、うしろへ捨てていた。「日本では、神聖な象徴として、塩をまくことが
あるのですが……」と、その人に言うと、その人は、仰天したような顔をして、驚いた。

 さらにメルボルンのボタニカル・ガーデン(植物園)では、トイレの柵にがわりに、竹が植えら
れていた。日本では神聖な木ということになっているのに! 

またギリシャ人は、何かあるたびに、相手にプップッと、ツバをかけていた。何でもそうすると、
魔よけになるのだそうだ。

 その人がもっている常識などというのは、実にいいかげんなもの。もちろん私のもっている常
識も、あなたがもっている常識も、だ。例外は、ない。大切なことは、そうした常識を、いつも疑
ってみること。決して、「絶対」と思ってはいけない。

 あのアインシュタインは、こう言っている。『常識とは、その人が一八歳までに作った考え方』
と。

 人が自由になる道は、決して一つではない。そしてその方法も、決して一つではない。自由に
なるための一つの方法として、あなたの中にある「常識」を疑ってみる。ときには、ぶちこわして
みる。意外と私たちは、「常識」というクサリで、体も心も、がんじがらめになっている。それが、
それでわかる。

 その一つのヒントとして、太陽の色について、考えてみた。

【常識を疑う】

 人間の行動は、すべて常識のかたまりと思ってよい。髪型から服装まで。歩き方から話し方
まで。

 行動面はそれでよいとしても、問題は、精神面である。

 このことを強く感じたのは、私がある友人に、「ぼくは、自転車通勤をしている」と話したときの
ことである。彼は、F県で、公認会計士をしている。彼は、こう言った。

 「そんな恥ずかしいこと、よくできるな。ぼくら、もし自転車に乗っていたら、それだけで、近所
の人に、バカにされてしまうよ」と。

 もちろん、私は、平気である。恥ずかしいなどと思ったことは、一度も、ない。しかし彼の世界
では、運転手つきの高級乗用車に乗ってはじめて、一人前に扱われるらしい?

 こんなこともあった。

 ガソリンスタンドを経営している、K氏と話していたときのこと。K氏は、こう言った。

 「林さんは、時間どおりの仕事をしていますが、もし今の私にそれをしろと言われたら、私は、
気が狂ってしまいますよ」と。

 K氏は、こう言った。つまり、私の仕事のように、午前X時から、午前X時Y分までというよう
な、三〇分きざみの仕事など、できない、と。つまりこまかいスケジュールにそった仕事は、で
きない、と。

 私はその話を聞きながら、「私は反対に、来るかこないかわからないような客を待って、一日
中、ぼんやりしているような仕事はできない」と思った。

 こうした私のもつ常識が、ある人と大衝突したことがある。ある雑誌社で、編集部の部長をし
ている人が、私にこう言った。「林さん、私たちは、あなたのような生き方をしている人を、認め
るわけにはいかないのだよ。それを認めるとね、私たちは、自己否定をしなければならない。
私たちは、何のために生きてきたのかとね」と。

 彼がこの話を言うまでには、いろいろないきさつがある。

 彼らの世界では、「人間は、ひとりでは生きていかれない」が、一つの合言葉になっている。
組織あっての人間、というのが、彼らの常識でもある。だから彼らは、フリーターという職業を
認めない。フリーターがしているような仕事は、仕事と認めていない。

 しかし私は、この三五年間、フリーターとして生きてきた。それは彼らにとっては、驚きである
と同時に、脅威でもある。彼らにしてみれば、私という人間は、成功しないまでも、決して、ふつ
うの生活をしてはならない人間なのである。

 つまり彼らは、常日ごろから、私たちのような人間を、否定しながら生きてきた。だから私の
ような人間が、彼らの正面に立つと、今度は、彼らが自らを否定しなければならなくなる。彼
は、それを言った。

 常識とは、何か。考えれば考えるほど、その奥が深いのがわかる。しかしこの常識というカベ
を破らないかぎり、私たちは、精神の自由を手に入れることはできない。本文の中にも書いた
ように、私たちは、ごく日常的に、「常識」というクサリで、体も心も、がんじがらめになっている
からである。


●こわれる子どもの心

この浜松市は、子どもの受験という意味では、無風地帯だった。「受験競争」があるとしても、
中学二年から、三年にかけてであった。早い人(子ども)でも、中学一年からだった。

 しかし数年前、市内の進学高校のひとつが、中高一貫校になってから、その様子は、一変し
た。当初、競争倍率は、六〇倍近くになった。とたん、雰囲気が変わった。

 受験競争が、低学年化した。小学五年前後から、親たちは、受験競争を意識するようになっ
た。それまで主に小学五、六年から生徒を集めていた大手、中堅の進学塾が、のきなみ小学
三年から、生徒を募集するようになった。

 それだけではない。

 市内の私立中学校、さらに以前からあった、S附属小学校への受験競争が、激化した。具体
的には、競争倍率が、少子化の流れとは逆行して、高くなった。

 こうした受験競争の低年齢化で、子どもたちの様子も、一変した。本当に一変した。と、同時
に、親たちの様子も一変した。(本当は、親たちが変わったから、子どもが変ったのかもしれな
いが、私には、先に、子どもが変ったように見える。)

 難解なワークブックをかかえる子どもが、ふえた。勢いづいた進学塾は、東京の私立中学校
の入試問題をもってきて、子どもの指導をするようになった。とたん、親たちは、パニック状
態!

 もともとできるはずもない問題集である。そういうものをかかえて、子どもも、親も、「それが受
験勉強だ」と思いこむようになった。私のところへも、別の進学塾の問題集をもってきて、「先生
のところで、指導してほしい」と言ってきた、親がいた。さらに、どこかの進学塾で、テストを受け
たらしい。その結果、「成績が悪かった。何とかしてほしい」と言ってきた親もいた。

 常識で考えれば、とんでもない非常識なのだが、親には、それがわからない。パニック状態と
いうのは、そういう状態をいう。

 本当に、おかしな世界になってしまった。

 親は気がついていないかもしれないが、小学生のうちから、受験競争で、子どもを追えば、ど
うなるか? 心のかわいた、冷たい子どもになってしまう! 親にしてみれば、「いい学校へ入
ってくれさえすれば……」と思う。その気持ちはわからないでもない。これだけ保護格差という
か、不公平が蔓延(まんえん)した国になると、学歴のもつ意味は大きい。

 遠い昔だが、爪先で、ポンと月謝袋をはじいて、「おい、先生、あんたのほしいのは、これだ
ろ!」と、私に月謝を渡した高校生がいた。

 彼は市内でも、一番という進学校に通う子どもだった。彼にしても、中学生になったばかりの
ころは、まだ心の暖かい子どもだった。楽しい子どもだった。しかし二年、三年と受験勉強を経
験するうちに、子どもも、そういう子どもになる。

 日本の教育水準は、高い? ……とんでもない! 学力の低下は著しい。しかしそれ以上
に、日本人は、心の教育を忘れてしまった。それはちょうど、友情や、愛情の大切さを説く前
に、援助交際の仕方を教えてしまうようなもの。一件、華々しい社会だが、その下では、人間の
ドス黒い欲望が、ウズを巻いている!

 ……今さら、こんなことを私が言ってもはじまらない。今の日本は、そういう子どもや、そういう
子どもたちがおとなになった人の上に、成りたっている。先日も、ある経営者が、同乗したタク
シーの中で、こう言った。「弱肉強食は、当たり前でしょ。力のあるものが、それなりにいい生活
をする。やる気のないものは、貧乏になればいいのです」と。

 彼は、大都市の中心部で、コンピュータのソフト会社を経営している。しかし私たちが求めて
いる社会は、本当に、そういう社会なのか。そうであってよいのか。最後に、こんな話も。

 東京都のM市に住む、友人がこんな話をしてくれた。

 何でもある母親が、小学生の息子を、公園へ連れていったという。そしてその公園で、寝泊り
するホームレスの人たちを見せながら、こう言ったという。

 「あんたも、しっかり勉強しなければ、ああいう人たちになるのよ」と。

 その友人は、笑い話のひとつとして、その話をしたが、この話を笑って聞ける人は、今、この
日本に、いったいどれだけいるだろうか。
(040119)
 



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【子どもの心、ワンポイント】

●観察学習

子どもは、自分で体験することよりも、周囲の人たちを見ながら、学習することが多い。量的に
は、はるかに多い。

たとえばA君が、園の玄関で、スリッパを並べて先生にほめられたとする。それをB君が見てい
て、「スリッパを並べれば、先生にほめられる」ということを、学ぶ。これが観察学習である。

だからたとえば幼児教室などでも、全員に同じことをさせる必要はない。一人、二人のモデル
を決めて、その子どもを、ほめたり、たたえたりする。それをほかの子どもたちが見て、自ら
も、学んでいく。


●内面化

 体の発達を、外面化という。たとえばその年齢になると、それにふさわしい身体的な発育が
見られる。運動やスポーツによって、それが増幅される。これが外面化である。

 一方、精神の発達も、進む。しかし精神というのは、年齢に応じて発達するわけではない。

 たとえばAさんが、母親を助けたとする。重い荷物をもったり、食卓の用意を手伝ったするな
ど。

 そのときAさんは、母親や、家族のみんなにほめられる。こうしてAさんは、母親を助けること
を繰りかえすようなり、やがて、自然に、そういう行為ができるようになる。これが内面化であ
る。

 子どもの精神の発達は、この内面化がどのように、どのような形で定着しているかをみなが
ら、判断する。

 たとえば約束をどこまで守れるか。目標をどこまで達成できるか。誘惑にどこまで抵抗力を示
せるか。どこまで忍耐強く、がまんできるかなど。乳幼児期は、まさにこの内面化の方向性をつ
くる、きわめて重要な時期といえる。

 たとえば子どもが、小さな約束を守ったとする。そのとき親は、その兆候をとらえて、それをほ
める。そしてそれを繰りかえす。こうして子どもは、約束を守ることの大切さを学び、やがて、自
然な形で、約束を守れるようになる。

頭からガミガミ言えばよいというものではない。むしろ叱ることによって、内面化が阻害されるこ
とのほうが、多い。「どうして、あなたは約束を守れないの!」(ピシャ!)と。こうした指導にな
れた子どもは、やがて自分で考える力をなくし、ますます非常識なことをするようになる。内面
化が遅れる。

 もっとも最近では、親自身が、精神的に未熟な人が多い。もう手遅れというか、そういう親を
もった子どもは、不幸である。しかし本当の不幸は、そのことではない。その未熟性に、親も、
子どもも、よほどのことがないかぎり、気がつかないことである。


●無力感

無力感は、自らつくり出すもの、学ぶものである。

たとえば、今の私が、そうかもしれない。

る時期、猛烈な勢いで本を発表したことがある。しかしそのつど、「これこそ!」と思って出して
みたものの、どれも売れなかった。ほとんどは、初版でそのまま絶版。たまに増刷がかかる程
度。よく誤解されるが、本というのは、増刷に増刷が重なって、はじめて利益になる。そうでなけ
れば、赤字。少なくとも、本を書く時間の分だけ、家庭教師でもしていたほうが、まし。そのほう
が、収入は多い。

 で、そのあと、いくつかの出版社から、出版の打診があったが、もうそのときには、やる気を
なくしていた。「かえって出版社に迷惑をかけてしまう」と。

 で、今は、無気力状態。実のところ、かろうじて、こうして毎日、マガジン用の原稿を書いてい
るが、本当に、「かろうじて」。中には、熱心に読んでくれる読者の方もいるかもしれないが、し
かし……(カット! グチになる)。

 で、今はもう、自分のために書いている。「1000号まで」という目標は、そのためにある。

 こういうのを、「学習性無力感」という。何度も失敗し、カベにぶつかるうちに、無気力症状
が、生まれてくることをいう。

 で、今の学校の教育で一番こわいのは、子どもたちに、無意識のうちにも、この学習性無気
力感を植えつけていくこと。いくら勉強しても、できるようにならない。少しくらいできるようになっ
ても、目立たない。評価されない。

 こうして子どもによっては、自ら、「ダメ人間」のレッテルを張っていく。さらに、いわゆる「もの
言わぬ従順な民」と、育てられていく。「ああ、やはり、自分は、ダメな人間だ」と。

 本来なら、子どもにこうした学習性無力感が見られたら、学年をさげるか、学校を去ったほう
がよい。しかし日本の現状では、それは無理。このあたりに、日本の教育がもつ、構造的な欠
陥というか、限界がある。このつづきは、またの機会に!


●神経性習癖

満たされない心の葛藤(かっとう)が、慢性的につづくと、子どもは、独特の症状を示すようにな
る。行動的な習癖としては、ものいじり、爪かみ、髪いじいり、鉛筆やものをかむ、おねしょ、頻
尿、チック、偏食、拒食、多食など。

(詳しくは、神経症診断シートをご覧ください。自己診断できるようになっています。はやし浩司
のHPのトップページから、「ビデオでごあいさつ」へお進みください。インターディスクに収録して
あります。)

 原因は、ここに書いたように、「満たされない心の葛藤が、慢性的につづいている」と考える。
またそれが原因のほとんどと考えてよい。

 神経質な育児姿勢(過関心、過保護、溺愛、過干渉など)、拒否的な育児姿勢(育児放棄、
暴力、虐待、家庭崩壊、家庭不和など)、子ども自身の問題(集団恐怖症、対人恐怖症、過敏
傾向、神経質など)がある。下の子が生まれたことによる、赤ちゃんがえりでも、同じような症
状を示すこともある。

 こうした症状が見られたら、「家庭教育の失敗」と考えて、子どもの心の中を、静かにのぞく。
原則として、子どもの行動には、ムダがない。すべての行動には、必ず、原因がある。その原
因を考える。

 つぎに親がすべきことは、「ほどよい親であること」「暖かい無視を繰りかえすこと」。

 ほどよい親というのは、子どもが何らかの愛情表現をしてきたり、求めてきたときは、それ
に、こまめに、かつていねいに応じてあげるということ。親の側から、やりすぎるのは、よくな
い。溺愛は、さらによくない。

 なおこうした神経症による、神経性習癖は、黄信号と考えて、警戒する。放置したり、無理を
すれば、情緒障害、さらには精神障害へと進行することもある。



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●だらしない子ども

ある母親からの相談。「うちの子ども(中二男子)は、何をしてもだらしなくて、困っ
ています。風呂へ入っても、タオルや石鹸は、そのまま。脱いだ服もそのまま。学校帰
りに飲んだ缶ジュースの空き缶は、玄関の下駄箱の上に。トイレも、汚しっぱなし。食
事をしても、片づけすらしません」と。

 こういうケースでは、まず三つのことを考える。@行為障害。A過干渉。それにB親自
身の子どもへの愛情。

 何ごとにもだらしなくなるというのは、行為障害の一つとみてよい。このタイプの子ど
もは、万事に、例外なく、だらしなくなる。そのためほかにも、たとえば回避性障害(人
との接触を避ける)、摂食障害(過食、拒食など)、無駄な買い物グセなどの症状が、見ら
れることが多い。

つぎに親の異常な過干渉や、過関心が、乳幼児期から慢性的につづくと、子どもは、内
面化(精神の発達)が遅れ、自分で考えて、自主的に行動できなることがある。このタイ
プの子どもは、いわゆる(とんでもない行為や行動)をすることが多い。カーテンやのれ
んに、ライターで火をつけて遊んでいた子ども(中一男子)などがいた。

 三つ目に疑ってみるべきは、親自身の問題。子どもへの愛情が不足し、何らかの大きな
わだかまりがあると、親は、子どものすべての行動が気になるようになる。本来なら、大
きな問題ではないことまで、ことさら大げさに悩んでしまうなど。「だらしない」という基
準をどこに置くかで、子どもの見方も、大きく変わってくる。

 こういうときは、まず、近所や知りあいの親に、「あなたのうちでは、どうですか?」と
聞いてみるとよい。たいていどこの家の子どもも、だらしないもの。とくに中学生ともな
ると、学校や友人との間で、神経をすり減らすことも多い。そのため、家の中では、かえ
ってぞんざいな態度をとることが多い。つまり子どもは、無意識のうちにも、外の世界で
神経を使った分だけ、家の中で、だらしなくなる。心のバランスをとる。

 最後に、人というのは、(もちろん親も)、他人の行動には気がついても、自分の行動に
は気がつかないもの。人が、(もちろんこどもが)、だらしないと感じたら、「では、自分は
どうなのか?」と考えてみるとよい。結構、自分自身も、だらしないもの。

 私も自分が結構、だらしないので、あまり他人のことはとやかく言わない。言われるの
も好きではない。

+++++++++++++++++
以前書いた原稿を、ここに掲載します。
(中日新聞投稿済み)
+++++++++++++++++

●帰宅拒否をする子ども

 不登校ばかりが問題になり、また目立つが、ほぼそれと同じ割合で、帰宅拒否の子ども
がふえている。S君(年中児)の母親がこんな相談をしてきた。

「幼稚園で帰る時刻になると、うちの子は、どこかへ行ってしまうのです。それで先生
から電話がかかってきて、これからは迎えにきてほしいと。どうしたらいいでしょうか」
と。

 そこで先生に会って話を聞くと、「バスで帰ることになっているが、その時刻になると、
園舎の裏や炊事室の中など、そのつど、どこかへ隠れてしまうのです。そこで皆でさがす
のですが、おかげでバスの発車時刻が、毎日のように遅れてしまうのです」と。

私はその話を聞いて、「帰宅拒否」と判断した。原因はいろいろあるが、わかりやすく言
えば、家庭が、家庭としての機能を果たしていない……。まずそれを疑ってみる。

 子どもには三つの世界がある。「家庭」と「園や学校」。それに「友人との交遊世界」。幼
児のばあいは、この三つ目の世界はまだ小さいが、「園や学校」の比重が大きくなるにつれ
て、当然、家庭の役割も変わってくる。また変わらねばならない。

子どもは外の世界で疲れた心や、キズついた心を、家庭の中でいやすようになる。つま
り家庭が、「やすらぎの場」でなければならない。が、母親にはそれがわからない。S君の
母親も、いつもこう言っていた。「子どもが外の世界で恥をかかないように、私は家庭での
しつけを大切にしています」と。

 アメリカの諺に、『ビロードのクッションより、カボチャの頭』(アメリカの劇作家のソ
ロー)というのがある。つまり人というのは、ビロードのクッションの上にいるよりも、
カボチャの頭の上に座ったほうが、気が休まるということを言ったものだが、本来、家庭
というのは、そのカボチャの頭のようでなくてはいけない。あなたがピリピリしていて、
どうして子どもは気を休めることができるだろうか。そこでこんな簡単なテスト法がある。

 あなたの子どもが、園や学校から帰ってきたら、どこでどう気を休めるかを観察してみ
てほしい。

もしあなたのいる前で、気を休めるようであれば、あなたと子どもは、きわめてよい人
間関係にある。しかし好んで、あなたのいないところで気を休めたり、あなたの姿を見る
と、どこかへ逃げていくようであれば、あなたと子どもは、かなり危険な状態にあると判
断してよい。もう少しひどくなると、ここでいう帰宅拒否、さらには家出、ということに
なるかもしれない。

 少し話が脱線したが、小学生にも、また中高校生にも、帰宅拒否はある。帰宅時間が不
自然に遅い。毎日のように寄り道や回り道をしてくる。あるいは外出や外泊が多いという
ことであれば、この帰宅拒否を疑ってみる。

家が狭くていつも外に遊びに行くというケースもあるが、子どもは無意識のうちにも、
いやなことを避けるための行動をする。帰宅拒否もその一つだが、「家がいやだ」「おもし
ろくない」という思いが、回りまわって、帰宅拒否につながる。

裏を返して言うと、毎日、園や学校から、子どもが明るい声で、「ただいま!」と帰って
くるだけでも、あなたの家庭はすばらしい家庭ということになる。
(040121)(はやし浩司 だらしない だらしない子ども)




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10

●回顧性と展望性

 過去をかえりみることを、「回顧」という。未来を広く予見渡すことを、「展望」という。

 概して言えば、若い人は、回顧性のハバが狭く、展望性のハバが広い。老人ほど、回顧
性のハバが広く、展望性のハバが、狭い。

 幼児期から少年、少女期にかけて、展望性のハバは広くなる。数日単位でしか未来を見
ることができなかった子どもでも、成長とともに、数か月後、数年後の自分を見渡すこと
ができるようになる。つまりそのハバを広げていく。

 言いかえると、展望性と回顧性のバランスを見ることによって、その人の精神年齢を知
ることができる。つまり未来に夢や希望を託す度合が、過去をなつかしむ度合より大きけ
れば、その人の精神年齢は、若いということになる。そうでなければ、そうでない。

 ある女性(八〇歳くらい)は、会うと、すぐ、過去の話をし始める。なくなった夫や、
その祖父母の話など。こうした行為は、まさに回顧性の表れということになるが、こうし
た回顧性は、老人の世界では、ごくふつうのこと。広く見られる。

 一方、若い人は、未来しかみない。時間は無限にあり、その未来に向かうエネルギーも、
永遠のものだと思う。それは同時に、若さの特権でもあるが、問題は、そのハバである。

 自分の未来を、どの範囲まで、見ているか?
 一年後はともかくも、二〇年後、三〇年後は、見ているか?

 いくら展望性があるといっても、それが数か月どまりでは、どうにもならない。「明日も
何とかなる」では、どうにもならない。

 そこで、このことをもう少しわかりやすくまとめてみると、こうなる。

(1) 回顧性と展望性のハバが広い人……賢人
(2) 回顧性のハバが広く、展望性のハバが狭い人……老人一般
(3) 回顧性のハバが狭く、展望性のハバが広い人……若い人一般
(4) 回顧性と展望性のハバが狭い人……愚人

 (1)〜(3)は、比較的、わかりやすい。問題は(4)の愚人である。

 過去を蹴(け)散らし、その場だけの享楽に身を燃やす人は、ここでいう愚人というこ
とになる。

 このタイプ人は、過去に対して、一片の畏敬(いけい)の念すらない。同時に、明日の
こともわからない。気にしない。その日、その日を、「今日さえよければ」と生きる。健康
も、またしかり。

 暴飲暴食を繰りかえし、今だけよければ、それでよいというような考え方をする。もち
ろん運動など、しない。まさにしたい放題。

 で、問題は、どうすれば、そういう子どもにしないですむかということ。一歩話を進め
ると、どうすれば、子どもがもつ展望性のハバを広くすることができるかということ。

 ためしに、あなたの子どもと、こんな会話をしてみてほしい。

親「あなたは、おとなになったら、どんなことをしないか?」
親「そのために、今、どんなことをしたらいいのか?」
親「で、今、どんなことをしているか?」と。

 以前、こんな女の子がいた。小学三年生の女の子だった。たまたまバス停で会ったので、
近くの自動販売機で、何かを買ってあげようかと提案したら、その女の子は、こう言った。

 「私、これから家に帰って夕食を食べます。今、ジュースを飲んだら、夕食が食べられ
なくなるから、いいです」と。

 その女の子は、自分の未来を、しっかりと展望していた。で、その女の子で、もう一つ、
印象に残っていることで、こんなことがあった。

 正月のお年玉として、かなりのお金を手にしたらしい。その女の子は、それらのお金を
すべて貯金すると言う。

 そこで私が、その理由を聞くと、「お金を貯金して、フルートを買う。そのフルートで、
音楽を練習して、私はおとなになったら、音楽家になる」と。

 一方、そうでない子は、そうでない。お金を手にしても、すぐ使ってしまう。浪費して
しまう。飲み食いのために、使ってしまう。

 少し前だが、タバコを吸っている女子高校生とこんな会話をしたことがある。

私「タバコって、体に悪いよ」
女「知ってるヨ〜」
私「ガンになるよ」
女「みんな、なるわけじゃ、ないでしょう……?」

私「奇形出産のほとんどは、タバコが原因でそうなるっていう話は、どう?」
女「でも、そんな出産したという話は、聞かないヨ〜」
私「みんな、流産という形で、処置してしまうから……」
女「結婚したら、やめるヨ〜」

私「で、タバコって、おいしいの?」
女「別においしくないけどサ〜。吸ってないと、何となく、さみしいっていうわけ」
私「だったら、やめればいいじゃん」
女「また、病気にでもなったら、そのとき、考えるわ」と。

 先の「フルートを買う」と答えた子どもは、ハバの広い展望性をもっていることになる。
しかしタバコを吸っていた子どもは、ほどんど、その展望性のハバがないことになる。

 こうしたちがいが、なぜ起きるかと言えば、結局は、私の説く「自由論」に行き着く。「自
らに由(よ)る」という意味での、自由論である。

 それについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。しかし結局は、子
どもは、(自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとれる子ども)にする。展望性のハバ
の広い子どもになるかどうかは、あくまでもその結果の一つでしかない。
(040125)(はやし浩司 回顧 展望 老後論 自由論)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●展望性と回顧性(2)

 自分の未来や将来は、どうなのか。どうあるべきなのか。それを頭の中で組み立てるこ
とを、展望性という。未来や将来に、夢や希望をはせらすことも、それに含まれる。

 一方、自分の過去は、どうであったのか。どこにどんな問題があったのかを反省するこ
とを、回顧性という。思い出にひたったり、過去をなるかしむのも、それに含まれる。

 賢人は、ハバ広い展望性と、回顧性を、いつも同時にもつ。しかし愚人は、そのどちら
もハバが狭い。その場だけを、享楽的に過ごす。それでよしとする。

 概して言えば、若い人は、よりハバの広い展望性をもち、老人は、よりハバの広い回顧
性をもつと言われている。そこであなた自身の展望性と、回顧性が、どの程度のハバをも
っているかを知るとよい。それによって、あなたの精神年齢を、推定することができる。

 もしあなたが今でも、未来に向かって、目標や目的をもち、生き生きとしているなら、
展望性のハバは広いということになり、あなたは精神的に若いということになる。しかし
いつも過去をなつかしんだり、過去の栄華や、過去の思い出にひたってばかりいるという
のであれば、あなたの精神年齢は、老人のそれということになる。

 その展望性と回顧性は、満60歳前後を境として、入れかわると言われている。つまり
満60歳を過ぎると、展望性よりも回顧性のほうが、強くなるという(心理学者のB・ボ
ナーら)。

 実は、私も何かにつけて、このところ回顧性が強くなったように思う。昨夜も、ある飲
食店で、オーストラリアの旅行案内書を読んでいたときのこと。その一頁に、ジーロン(メ
ルボルンの南にある町)から、ローン(避暑地)を経て、アデレード(南オーストラリア
州の州都)にのびる街道のことが、書いてあった。

 「グレート・オーシャン・ロード」という名前の道路である。第一次大戦の退役軍人ら
が建設した道と聞いている。

 その街道の記事が、その本に載っていた。

 その記事を読んでいたときのこと、いつしか私の目は、涙で、うるんできてしまった。
私には、思いで深い街道だった。今でも、私の机の上には、その街道の写真が飾ってある。

 「また行きたいな」という思いと、「もう死ぬまで行けないかもしれない」という思いが、
その記事を読んでいるとき、複雑に交錯した。

 つまりそのとき、自分の心の中で、ここでいう展望性と回顧性が、同時に交錯したこと
になる。もちろん若いときは、そういう感情をもつことは、なかった。「もう死ぬまで……」
などとは、考えもしなかった。未来は、永遠につづくように思っていた。

 だからといって、回顧性をもつことが悪いということではない。若いころの自分を回顧
することで、私の中の心のハバを広くすることができる。ただ、それにひたりすぎるのは、
よくない。あくまでも、過去は過去。未来を、よりよく生きるために、過去は、ある。

 あえて言うなら、こうして過去を回顧することによって、生きることにまつわる「いと
おしさ」のようなものを知ることができる。生きることのすばらしさというか、美しさと
いうか、そういうものである。おかしな感覚だが、懸命に生きてきた、自分が、どういう
わけか、かわいい。いとおしい。そして当然のことながら、なつかしい。

 が、そのままここに、立ち止まるわけには、いかない。

 私は、今、こうしてここに生きている。そして、まだまだ生きなければならない。生き
ることをあきらめるわけには、いかない。そこで大切なのは、いかにして、展望性のハバ
を広くするかということ。

 一〇年後も、二〇年後も、今日と同じように、「今」はある。青い空がそこにあって、冬
であれば、冷たい風が吹いている。そのとき、私は、いったいどうなっているだろうか。
今のままなら、多分、一〇年後も、今と同じように元気で、生きていると思う。しかし二
〇年後は、わからない。そのときも、私は今の私のように、まだ心の荒野の中を、前に向
って進んでいるだろうか……。健康や生活は、どうだろうか……。

 展望性と回顧性。この二つには、より心豊かに生きるための、重要なカギが隠されてい
るように思う。今は、その程度のことしか、わからないが、この先、機会があれば、また
ゆっくりと考えてみたい。
(040201)




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11

●母親狂騒曲

 埼玉県在住の、Tさん(母親、年長男児をもつ)から、こんなメールが、届いた。

 「うちの住んでいるところは、新興住宅地。文化性は、まったく、なし。母親のステー
タスも、ダンナの職種で決まる。

 S放送局や、T銀行、N自動車に勤めるダンナが多いこともある。で、そういうところ
に勤めるダンナをもつ、妻たちが、いばるわけ。

 で、近くに、このあたりでも有名な、……というか、名門というか、そういう小学校が
ある。名前はSS小学校。入試が近づくと、その話ばかり。『どうして、あんな子が受ける
の?』『あんな子が合格するくらいなら、私、この町を出る!』『幼稚園には、内緒で、S
Sを受けるそうよ。先生に言いつけてやる』と。

 出るは出るは、低次元な話ばかり。若い母親たちが、集まれば、こんな話ばかりしてい
る。あとはそしてお決まりの、悪口、中傷。

 『あの人、子どもが受験するならするで、一言、言ってくれればいいのに、礼儀知らず。
今度は、○○会から、排除よ』
 『Xさんは、幼稚園へ迎えに行くだけなのに、いつもY車(大型の外車)よ。歩いても、
五分もかからないのに。でも、幼稚園への寄付は、たったの一万円だったそうよ』

 このあたりでは、SS小学校に合格した子どもを、『勝ち組』。落ちた子どもを、『負け組』
といって、差別する。そこらの学習塾でも、差別する。SS小学校の子どもだと、ハイハ
イと言って、即、入塾。

 しかしそれ以外の小学校の生徒だと、塾長もとつぜん、ふんぞりかえって、『うちはア…
…』と、しぶってみせる。

 イヤーな雰囲気の地域。

 私は転勤族だから、北は函館から、南は、博多まで、みんなよく知っている。しかし埼
玉県のここは、最低。最悪。『このあたりが地球の中心』と思っているような人ばかり。バ
カみたい。外から見れば、ただの新興住宅地なのに。

 私、奈良にも住んだことあるが、奈良は最高! 京都も近いし。ああいうところの、奥
深い文化に接したことがない連中ばかり。

 子どものことで、見栄やメンツを張るなんて、つまらない。私は、自由人。そういう目
で見ると、みんな????。本当に、いやになってしまう。先生、こういう地域を、どう
思う?」
(たいへん過激な文章だったので、林の方で、要約)

++++++++++++++++++++

 親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。……私が、このことを知ったの
は、こうした親どうしの、ドロドロのウズに巻き込まれたとき。

 それは想像を絶するほど、低次元な世界だった。

 しかしTさん、そういう親でも、二年、三年と、子育てで苦労すると、やがて人間的な
丸みや深みができてくる。つまり、親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。

 だから大切なことは、(今の母親たち)を見て、それがすべてとは思ってはいけないとい
うこと。大切なことは、そういう母親たちが、少しでも、前に向って、伸びることを、手
助けすること。どの母親も、そういう意味では、すばらしい母親になる可能性をもってい
る。

 私も、幼児教育をして、三五年になるが、当初より、「幼児教育は、母親教育」というこ
とを、見抜いていた。(ここが、私のすごいところ。エヘン!)

 だから今、あなたがなすべきことは、そういう母親たちを、つまりは反面教師として、
自分の姿を見ていくこと。すでにあなたは、そういう視点をもっている。つまりあなたは、
そういう意味で、ほかの母親たちを、一歩、リードしている。

 もしあなたがリードしていなければ、あなたは今、ほかの母親たちと同じことをしてい
たかもしれない。あなたは子どもを育てながら、実は、その向こうにある、(人間)を見て
いる。そしてその反射的効果として、(自分)を見ている。

 今のあなたのまわりの(現状)を否定するのではなく、まず(現状)とは、そういうも
のであることを知る。すべては、そこから始まる。わかりやすく言えば、「今の若い母親た
ちは、ダメだ」と、言うのではなく、あなたの立場で言うなら、そういう母親たちの中に、
自分の愚かな姿を見て、それをバネとして、前に進むこと。

 私は、もう、そういう修羅場を、五万と見てきた。恐らく、一歩離れたところにいる、
学校や園の先生たちは、そういう世界を知らないだろう。どの母親も、先生の前では、別
人のように振る舞ってみせる。

 しかし、ね、Tさん。それが人間のドラマのおもしろさということになる。私たちは、
不完全で、どうしようもない人間。その人間が、懸命に、無数のドラマを展開している。
そこでどうだろう。

 「同じ人間」と思うのではなく、こちらのほうが一歩上に出て、あたかも自然動物園の
中の動物を観察するような目をもってみたら。そうすれば、母親どうしの醜い狂騒も、こ
れまた、ほほえましく見えてくるもの。

 より高い視点に立ってみると、それまでの世界が、小さく、つまらないものに見えてく
る。「自分を伸ばす」ということは、そういうことをいう。

 およばずながら、私は、あなたのような人のために、こうした文章を書いている。どう
か、どうか、これからも私のマガジンを読んでほしい。私はいつか、必ず、この荒野の先
に何があるか、それを見てやる。そしてみなさんに、報告してやる。

 さあ、あなたも、魂の自由人として、心の中の荒野を歩いてみたら……。その世界は、
スリリングで、楽しい。実に、楽しい。いっしょに、前に向って、歩いていこう。

 So take my hands 
 To walk this land with me.
 To walk this golden land with me.
(ポールニューマン主演、パットブーンが
歌った、「栄光への脱出」より)

(はやし浩司 狂騒 母親狂騒 受験 子どもの受験)



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12

●愚人と賢人

 ずいぶんと昔だが、私に面と向かって、こう言った女の子(中三)がいた。

 「あんた(=私のこと)も、くだらねエ仕事、してるねエ。私やア、おとなになったら、
あんたより、もう少し、マシな仕事をすっからア」と。

 私は、その女の子を見ながら、怒るよりも先に、「なるほどなア」と思った。私のしてい
る仕事は、その程度だということは、自分でも、よくわかっている。しかし私は、その女
の子の前では、本当の私の姿を見せていない。見せる必要も、ない。

 まただからといって、その女の子を、責めているのでもない。最近の若い人たちは、多
かれ少なかれ、みな、そうだ。何も、彼女が、特別というわけでもない。この時期の子ど
もは、生意気になることで、自分を主張しようとする。

 それに、多分、今でも、子どもたちから見る私は、バカで、ドジで、どこかダサイ、初
老の男なのだろう。私も、あえて子どもたちの前で、そういう男を演じてみせている。

 で、私は、一つの事実に気がついた。

 愚人には、賢人がわからない。どの人が賢人であるか、その区別さえできない、と。

 たとえばこんなことがある。

 幼児クラスで、私が、わざと、「3+4」の問題を、まちがえてみせたとする。すると、
子どもたちは、「先生、ちがう!」と騒ぎだす。常識で考えれば、(あくまでもおとなの常
識でだが……)、私という人間が、そんな簡単な足し算で、まちがえるはずはない。

 しかし子どもたちには、それがわからない。中には、本気で怒ってしまう子どもさえ、
いる。「あんた、本当に、先生!」と。

 しかし賢人には、愚人がよくわかる。あたかも手に取るかのように、よくわかる。何を
どう考え、どう思っているか。そしてその先、どういう結論をだすかまで、わかる。この
足し算のケースでいうなら、子どもが怒りだすところまで、わかる。

 つまり冒頭にあげた女の子は、そのレベルの子どもということになる。(私が賢人である
かという話は、別にして……。)少なくとも、私は、その女の子よりは、賢人である。だか
ら、「なるほどなア」と思った。またそう思うことで、自分の心を、処理した。

 で、私は、そのあと、その女の子と、こんな会話をした。

私「君は、将来、どんな仕事をするの?」
女「まあね、いろいろ」
私「たとえば……」
女「まあね。でもね、先生、私も将来、何もすることがなくなったら、塾の講師でもすっ
から。そのときは、先生、よろしくね」と。

 つまりその女の子は、対、私との関係では、愚人ということになる。自分が愚人である
とさえ、気づいていない。(だから、愚人ということになるが……。)だから私が、どうい
う人間であるかさえ、わからない。理解もできない。

 こうして私は、一つの結論を導いた。それが、つぎの一文である。

 『愚人は、決して、自分を愚人と思わない。しかし賢人は、いつも自分を愚人と思う。
そして愚人からは、賢人がわからない。自分と同じ人間だと思う。が、賢人からは、愚人
がよくわかる。これが愚人と賢人のちがいである』である。

●愚人論

 簡単な例では、『堂々巡り』という言葉がある。あるいは、『小田原評定』というのもあ
る。同じことを繰りかえし考えるだけで、前に進まないことをいう。これを、「思考のルー
プ」という。

 一度、このループ状態にはいると、進歩が止まるのみならず、ばあいによっては、後退
する。

 たとえば昨夜、私はテレビのチャンネルをかえるとき、あるバラエティ番組をのぞいて
みた。夜の九時台だった。

 見ると、お笑いタレントとしてよく知られている、Sという男が、ペラペラと何かをし
ゃべっていた。軽妙なタッチで、若い人たちには、それなりに受けはよい。しかし私は、
ふと、こう思った。「この男は、五年前にも、そして一〇年前にも、同じことを言っていた
ぞ」と。

 実のところ、同じかどうかはわからない。しかし昔、彼がしゃべったのを何度か聞いた
ことがあるが、どの一つも、記憶に残っていない。何かしら、いっしょに笑ったような覚
えはあるが、それだけ。

 お笑いタレントのSが、ループ状態に入って、同じようなことをしゃべるのは、構わな
い。それが彼の仕事である。問題は、それを見たり聞いたりする、視聴者である。実は、
この視聴者も、ループ状態に入る。

 もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 たとえばプロ野球が、ある。

 私はあるとき、プロ野球を見ながら、こう考えたことがある。

 「毎年、毎年、こうしてプロ野球は、繰りかえされる。しかし中身は、同じではないか」
と。

 もちろん中身は、ちがう。試合の内容も、ちがう。しかし三〇年前のプロ野球も、最近
のプロ野球も、プロ野球は、プロ野球。パターンこそちがうが、「プロ野球」という全体の
ワクは、同じ。

 ワイフと、こんな会話をした。

私「たとえばその日の献立を考える。そのとき、『何を食べようか』と考える。考えながら、
頭の中で、いくつかの料理を思い浮かべる。そのとき思い浮かべる料理の内容はちがうか
もしれないが、献立を考えるというワクは、同じ」
ワ「だから、どうなの?」
私「思考も、これによく似ている。いろいろなことを考えるが、一定のワクができると、
そのワクの中だけで、同じようなパターンを繰りかえすようになる。しかしこうなると、
思考は、進歩を停止する」

 思考が停止した状態になると、明日も今日と同じ、あさっても、その明日と同じという
状態になる。しかしこうなれば、その人は、死んだも同然。

私「人間は考えるから、人間なのだ」
ワ「いつものあなたのセリフよ」
私「そうだ。考えることによって、前に進むことができる」
ワ「考えなかったら……?」

 私は、老人たちの会話を例にあげた。どこかの公園に集まって、毎日、毎日、同じ会話
を繰りかえしている、あの老人たちである。

 もちろんそれが悪いというのではない。人は、人、それぞれ。またほとんどの人は、み
な、そうなる。しかし若い人は、そうであってはいけない。

私「若い人でも、思考のループに入ってしまう人はいくらでもいる」
ワ「そういう人は、死んでいるの?」
私「思考的には、そういうことになる」

 そこで問題は、どうすればそのループ状態から、抜け出ることができるかということ。
いや、その前に重要なことは、自分が、ループ状態にあることに気がつかなければならな
い。

 たとえば、今のあなたを、一〇年前のあなたとくらべてみればよい。二〇年前のあなた
とくらべてみればよい。が、それがわからなければ、あなたの近くにいる、叔父や叔母を
一人選んで、その人を外から観察してみればよい。

 あなたなら、あなた。その人なら、その人が、一〇年前と同じ、あるいは二〇年前と同
じというのであれば、あなたや、その人は、ループ状態にいるとみる。このタイプの人は、
一〇年一律なことばかりを、口にする。そして同じことを、同じパターンで繰りかえす。

 では、どうするか。そういうループ状態から抜け出るには、どうするか。このことを、
あの釈迦は、『精進(しょうじん)』という言葉を使って説明した。つまり常に、今のカラ
を破り、前に進む。そこに生きる、人間の尊さがある。人間の価値がある、と。

私「大切なことは、考えること。この一語に、行きつく」
ワ「どう考えるの?」
私「いいか、思想というのは、言葉でできている。だから考えるということは、ものを書
くことということにもなる。人間は、書きながら考え、考えながら、書く。そうすると、
荒野の荒地に、ときどき小さな、光るものを見つけることがある。あとは、その光るもの
を、どこまでも追いつづければいい」と。

ワ「それが精進ってことね」
私「そう。あえて言うなら……」
ワ「何よ……」
私「先へ進めば進むほど、相対的に、まわりの人が、幼稚に見えてくる」
ワ「愚かに見えてくるということ?」

私「はっきり言えば、そういうことになるかもしれない。だから一〇年前、あるいは二〇
年前につきあった人と、会ってみればいい。そういう人と会って話してみたとき、自分が、
昔のままだと感じたら、たがいにループ状態にいるとみていい。しかし相手が愚かに見え
たら、自分はループ状態から、抜け出たとみていい」と。

 こうして人間は、死ぬまで、歩きつづける。求めて、求めて、歩きつづける。もちろん
ゴールは、ない。そう言いきるのは危険なことかもしれない。しかしゴールは、ない。荒
野は、どこまでも果てしなく、つづく。そしてゴールだと思っても、必ず、その先は、あ
る。

 最後にもう一度。

 愚人は、決して、自分を愚人と思わない。しかし賢人は、いつも自分を愚人と思う。そ
して愚人からは、賢人がわからない。自分と同じ人間だと思う。が、賢人からは、愚人が
よくわかる。これが愚人と賢人のちがいである。
(040127)(はやし浩司 愚人 賢人 愚人論 賢人論)




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13

●思考の老化

 体が衰えるように、思考も、老化する。「古くなる」ということではない。老化する。

 その第一の症状。融通性がなくなり、小回りがきかなくなる。がんこになり、自分の考
えに、固執する。相手に対して、許容範囲が狭くなる。

 こうした老化を防ぐためには、若い人と接するとよい。とくに子どもが、よい。子ども
といっしょになって、騒いだり、笑ったりすると、よい。

 思考が老化すると、当然のことながら、若い世代の人たちと、コミュニケーションが、
うまくとれなくなる。が、問題は、それだけではない。

 私が「思考の老化」を感じたのは、こんな事件があったときのこと。ある日、事務所で、
ひとりでぼんやりとしていると、三五歳くらいの女性が、突然、やってきた。そしてこう
言った。

 「先生、南京虐殺事件では、日本軍は、三〇万人も、殺していません。せいぜい、三万
人だそうです。どうして中国は、こうまで日本を悪く言うのでしょうか。許せません」と。

 当時、マスコミで、南京虐殺事件が話題になっていた。そしてある月刊誌が、「南京虐殺
事件はなかった。三〇万人説は、中国側のでっちあげ」と、報道していた。その女性は、
その記事を読んだらしい。

 しかし、私はこう言った。「三万人でも、問題でしょう。三〇〇〇人でも、三〇〇人でも、
問題でしょう。どうしてそのとき日本軍が、南京にいたのですか?」と。

 するとその女性は、ますます血相を変えて、こう叫んだ。「それは、中国が日本を攻めた
からです!」と。

 残念ながら、明治以後、中国は、今にいたるまで、日本という国に対して、一度だって、
爆弾を落としたことはない。ただの一度もない。私がそれを言うと、その女性は最後には、
「あなたはそれでも、日本人ですかア!」と、言いはなった。

 実に不愉快だった。それは私の全人格を否定されたかのような、不快感だった。その女
性が帰ったあとも、私は、しばらく心の中の胸騒ぎを消すことができなかった。

 で、しばらくして、つまり冷静になってから、私は、その女性のことを、あれこれ思い
浮かべてみた。決して、「古さ」を感じさせるような女性ではなかった。都会的なファッシ
ョンで、身を包んでいた。六〇代や七〇代の、戦争を経験した人が、そう言うなら、まだ
わかる。しかしその女性は、私より、ずっと、若かった。

 私も、実は、「三〇万人説」は、でっちあげだと思う。たった数日で、それだけの人を殺
そうと思ったら、想像を絶する作業になってしまう。あのドイツのアウシュビッツ収容所
ですら、一日、数万人が限度だったという。

 しかし残虐な殺し方であったことは事実のようだ。生き埋めにして、家族に、その上か
ら足で踏みつけさせたという。地の中からは、生き埋めになった人の肺が、ボスンボスン
と、はぜる音が聞こえたという。

 ……ということがきっかけで、私は「思考の老化」について、考えるようになった。

 その女性は、私より、はるかに若かった。しかしどこか身勝手で、かたくなだった。そ
ういう姿勢を見ながら、「今時、老人だって、そんな考え方はしないのに……」と思った。
そしてそれが、「思考の老化」を考える、きっかけになった。

 思考が老化すると、相手の立場でものを考えられなくなる。このことは、反対に、発達
心理学の立場で考えてみればわかる。

 子どもは、成長するにつれて、相手に対する同調性や協調性を身につける。そしてそれ
がさらに進むと、相手の立場で、仮に自分が経験していなくても、相手の悲しみや苦しみ
を、共有することができるようになる。これを「共有性」という。

 しかしここで注意しなければならないことは、どの子どもも、みな、平等にそうなるわ
けではない。共有性どころか、同調性や協調性も未発達なまま、おとなになってしまう子
どもも、少なくない。

 私は、学生時代に、すでにその南京虐殺事件のことは、本で読んで知っていた。実にお
ぞましい事件で、自分が同じ日本人であることを、のろったことさえある。そういう思い
が基盤にあるから、「三〇〇〇人でも問題でしょう」という言葉が、自然と、口から出てく
る。

 が、その女性は、「(たった)三万人!」と言う。

 つまりこれが私が言う、「思考の老化」である。

 思考というのは、老化すればするほど、同調性や協調性、さらには、共有性まで失う。「が
んこ」という言葉で表現されるような、簡単なことではない。相手の立場で、ものを考え
ることができなくなってしまう。もっとはっきり言えば、他人の悲しみや苦しみが、理解
できなくなってしまう。

 子どもたちと接していると、彼らがもつ生命力に、はっと驚くことがある。その生命力
は、ものすごい。たとえ私が落ちこんでいても、その生命力に触れたとたん、気分そのも
のが晴れてしまう。それこそ、小さな魚が死んだだけで、涙をポロポロとこぼしたりする。
そういった「心の若さ」がなくなった状態が、「思考の老化」ということになる。

 老人になればなるほど、他人の悲しみや苦しみが理解できるようになると考えるのは、
ウソ。むしろ思考そのものが、老化してしまい、かえって鈍感になってしまう人のほうが、
多い。それはちょうど、健康に似ている。健康を維持するために、いつも体を鍛えるよう
に、思考もまた、鍛えなければならない。
(040128)(はやし浩司 思考の老化 脳の老化 老化論)

【追記】

 ワイフにこのことを話しているとき、ふと「思考も英語の単語と同じ」と言ってしまっ
た。ワイフは、「?」というような顔をしていたが、こういうこと。

 英語の単語も、使わなければ、忘れてしまう。一度、覚えたからといって、ずっと記憶
の中に残るというわけではない。

 思考力も、それと同じで、常に、磨かないと、すぐ鈍ってしまう。と、同時に、そのと
きから、思考の老化が始まる。


++++++++++++はやし浩司

●思考の老化(2)

 古いことを言うから、老化していることにはならない。反対に、新しいことを言うから、
老化していないということにはならない。

 たとえばその人が武士道を説き、明治の英雄をたたえたからといって、その人の思考が、
老化しているということにはならない。反対に、コンピュータを使って、ロックのCDを
聞いているからといって、老化していないということにはならない。

 思考が老化している人には、つぎのような特徴がある。

(1) がんこ……自分の考え以外は、受けつけない。「自分は絶対正しい」という、きわめ
て強い自己中心性がみられる。

(2) 単一性……行動、言動が、単一化、ワンパターン化する。日々の行動、月単位の行
動、さらに年単位の行動が、単調になる。またそうでないと、気が休まらない。

(3) 鈍感性……繊細(せんさい)な会話ができなくなる。ものの考え方が、おおざっぱ
で、いいかげん。相手の立場で考えて、こまかい気配りができない。

(4) 非融通性……その場、その場で、臨機応変に行動ができなくなる。自分の興味のあ
る範囲だけに関心をもち、年齢とともに、その範囲が、より狭くなる。

(5) 思考力の減退……感情論や、その場の雰囲気で、ものを言う。他人の受け売り的な
意見が多くなる。自分で考えることができない。

 要するに柔軟な思考性をなくすことをいう。そしてその結果として、それまでの自分に
固執するあまり、新しい世界を否定したりするようになる。

 R氏(七〇歳男性)も、その一人。

 玄関を入ると、織田信長と徳川家康の肖像画が飾ってある。江戸時代には武家だったと
かで、その奥には、古びた鎧(よろい)兜(かぶと)が、並べてある。

 今、R氏の家では、R氏と息子氏との、争いが絶えない。R氏の住んでいる地域には、
昔からの儀式が、あれこれ残っている。毎月のように、それがある。「それをしろ!」と迫
るR氏。「いやだ!」とこばむ息子氏。

 息子氏は、こう言う。「軒につける飾りつけ一つをとっても、位置がおかしいとか、ずれ
ているとか、とにかくうるさくて困る」と。

 そのR氏は、このところ、ますますがんこになってきた。「最近の若いものたちは、先祖
を粗末にする」が、口グセにもなっている。

 そのR氏に、意見を言うものは、いない。いや、以前、一人、隣の村に住む、甥(おい)
が、意見を言ったことがある。そのとき、その甥氏は、R氏に怒鳴りつけられた上、大き
なナタで、追いまわされたという。

 思考が老化すると、結局は、だれにも相手にされなくなる。しかしR氏には、そういう
さみしさそのものが、わからない。「自分は絶対に正しい」と思うのは、R氏の勝手だが、
その返す刀で、「お前は、まちがっている!」と言う。

 その思考の老化を防ぐために、いろいろな方法が考えられる。旅行がよいとか、趣味が
よいとか、多くの人と接するとよいとか、など。

 しかしそれも必要条件かもしれないが、それだけでは、思考の老化を防ぐことはできな
い。思考の老化を防ぐためには、常に、その思考力をみがかねばならない。またみがくた
めの環境を用意しなければならない。

 私は、個人的には、幼児や子どもと接するとよいと思っているが、みながみな、そうい
う環境を求められるわけではない。

 思考力というのは、油断をすると、すぐ停滞する。停滞するならまだしも、退化する。
そしていつの間にか、愚にもつかないようなことを口にするようになる。どういった人物
であったかを、自分で検証することもなく、「信長」だの、「家康」だのと言っている人は、
たいていこのタイプの人とみてよい(失礼!)。

 反対に、思考が若い人は、柔軟性があると同時に、繊細(せんさい)さがある。デリケ
ートな話をしても、スーッと、心にしみていくのがわかる。つまりは、そういう人は、思
考力が若いということになる。

 ……と書いて、この問題は、私自身の問題でもある。

 このところ自分でも、思考力が老化しているのがわかる。その一、感受性が、たしかに
弱くなった。その二、考えが堂々巡りする。その三、がんこになった。その四、集中力が
なくなり、サエが弱くなった、その五……。いろいろある。

 とくにサエがなくなってきたのが、気になる。数年前に書いた原稿と、最近書いた原稿
を、読みくらべてみると、それがわかる。このところ、書いている文章は、どこか、かっ
たるい? 甘い? 浅い?

 それにこのところ、他人の悲しみや苦しみに、鈍感になってきた。そのため、失敗する
ことが多くなった。人をキズつけるようなことを、平気で書いてしまう。言葉の使い方も、
乱暴になってきた。こまかい気配りが、苦手になってきた……。

 こうして人は、老いていくものなのか。あるいはこの問題は、老いていくとき、避けら
れないものなのか。ちょうど皮膚にシワができ、足腰が弱くなるように、だ。いくらがん
ばって運動しても、若いときのような健康は、取りもどすことはできない。

 最後に、数年前、こんな人に会った。ほぼ三〇年ぶりに会ったのだが、まったく会話が
かみあわなかった。

 その人(男性、私と同年齢)は、こう言った。

 「毎日、会社と自宅を往復するだけ。夜は、スポーツ新聞を読んで、野球の中継を見る。
休みは、天気のよい日は、魚釣り。雨の日は、パチンコ」と。

 しかしこういう人生に、いったい、どういう意味があるというのだろうか。人も、平凡
にかまけると、そういう生活を送るようになる。
(こういう失礼なことを、平気で書くようになったこと自体、私の思考も老化を始めてい
るということになるのだが……?)
(040128)



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14

●不安

 世の中には、収入の心配をしなくてもよい人というのが、いる。そういう人には、収入
が不安定な人がもつ不安感など、理解できないだろう。しかし不安は、不安。それは自営
業の人がもつ、宿命のようなもの。いくら「私は、自由だ!」と叫んだところで、この不
安感だけは、どうしようもない。

 私も、この三五年間、ずっと不安だった。今も不安だし、これからも不安なままだろう。
私は、若いころ、ある人に、こう言ったことがある。

 「サラリーマンの人が給料として手にする二〇万円と、自営業の人が手にする二〇万円
とでは、同じ二〇万円でも、中身がちがう」と。

 サラリーマンの人には、来月も、来年も、ほぼその額がもらえるという安心感がある。
しかし自営業の人には、それがない。来月のことはわからない。来年のことは、さらにわ
からない。

 「だから、自営業の人が、サラリーマンの人と同じだけの安心感を得ようと思ったら、
少なくとも、その二倍の四〇万円はないと、無理だ」と。

 が、あるときから、私は、その不安と戦うことをやめた。その不安を、心の中に受け入
れるようにした。しかしそれは決して、楽な決断ではなかった。

 「もし、今の仕事がダメになったら、家と土地を売ればいい。それで何とか、しばらく
の間は食いつないで、あとは年金と貯金で、暮らせばいい」と。

 そこまで割り切ったとき、この不安感の大部分は、解消された。

 ……で、今夜も、自転車で家に帰るとき、ふと、こんなことを考えた。「ぼくは、健康じ
ゃないか。家に帰れば、暖かい家庭もある。何が、不足なのだ」と。

 私はもう、「林家」という、「家」には、こだわっていない。私とワイフが死んだとき、
この家や、そして「はやし浩司」という名前が、この世から消えていても、どうというこ
とはない。「墓」には、さらにこだわっていない。

 つまりこの不安を心の中に受け入れるということは、自分を、そこまで納得させなけれ
ばならない。

 今、多くの人が、その不安の中で生きている。「来月は、どうなるのだろう?」「来年は、
どうなるのだろう?」と、思い悩んでいる人は、いくらでもいる。私もその一人だから、
偉そうなことは言えないが、ただこれだけは、言える。そういう不安感をかかえているの
は、あなた一人ではない。みんな、そうなのだ、と。

 だから……。

 みなさん、がんばって生きていこう。生きられるだけ、がんばって、生きていこう。そ
の先に何があるか、私にもわからないが、とにかくがんばって生きていこう。

+++++++++++++++++++++

以前、こんな原稿を書きました。この原稿を
書いていて、思い出しましたので、ここに掲
載しておきます。

+++++++++++++++++++++

●悲しき人間の心

 母親に虐待されている子どもがいる。で、そういう子どもを母親から切り離し、施設に
保護する。しかしほとんどの子どもは、そういう状態でありながらも、「家に帰りたい」と
か、「ママのところに戻りたい」と言う。それを話してくれた、K市の小学校の校長は、「子
どもの心は悲しいですね」と言った。

 こうした「悲しみ」というのは、子どもだけのものではない。私たちおとなだって、い
つもこの悲しみと隣りあわせにして生きている。そういう悲しみと無縁で生きることはで
きない。家庭でも、職場でも、社会でも。

 私は若いころ、つらいことがあると、いつもひとりで、この歌(藤田俊雄作詞「若者た
ち」)を歌っていた。

 ♪君の行く道は 果てしなく遠い
  だのになぜ 歯をくいしばり
  君は行くのか そんなにしてまで

 もしそのとき空の上から、神様が私を見ていたら、きっとこう言ったにちがいない。「も
う、生きているのをやめなさい。無理することはないよ。死んで早く、私の施設に来なさ
い」と。

しかし私は、神の施設には入らなかった。あるいは入ったら入ったで、私はきっとこう
言ったにちがいない。「はやく、もとの世界に戻りたい」「みんなのところに戻りたい」と。
それはとりもなおさず、この世界を生きる私たち人間の悲しみでもある。

 今、私は懸命に生きている。あなたも懸命に生きている。が、みながみな、満ち足りた
生活の中で、幸福に暮らしているわけではない。中には、生きるのが精一杯という人もい
る。あるいは生きているのが、つらいと思っている人もいる。まさに人間社会というワク
の中で、虐待を受けている人はいくらでもいる。が、それでも私たちはこう言う。「家に帰
りたい」「ママのところに戻りたい」と。

今、苦しい人たちへ、
いっしょに歌いましょう。
いっしょに歌って、助けあいましょう!

 若者たち

             
       君の行く道は 果てしなく遠い
       だのになぜ 歯をくいしばり
       君は行くのか そんなにしてまで

       君のあの人は 今はもういない
       だのになぜ なにを探して
       君は行くのか あてもないのに

       君の行く道は 希望へと続く
       空にまた 陽がのぼるとき
       若者はまた 歩きはじめる

       空にまた 陽がのぼるとき
       若者はまた 歩きはじめる

            作詞:藤田 敏雄

 そうそう、学生時代、NW一彦という友人がいた。一〇年ほど前、くも膜下出血で死ん
だが、円空(えんくう・一七世紀、江戸初期の仏師)の研究では、第一人者だった。

その彼と、金沢の野田山墓地を歩いているとき、私がふと、「人間は希望をなくしたら、
死ぬんだね」と言うと、彼はこう言った。「林君、それは違うよ。死ぬことだって、希望だ
よ。死ねば楽になれると思うのは、立派な希望だよ」と。

 それから三五年。私はNW君の言葉を、何度も何度も頭の中で反復させてみた。しかし
今、ここで言えることは、「死ぬことは希望ではない」ということ。今はもうこの世にいな
いNW君に、こう言うのは失敬なことかもしれないが、彼は正しくない、と。

何がどうあるかわからないし、どうなるかわからないが、しかし最後の最後まで、懸命
に生きてみる。そこに人間の尊さがある。生きる美しさがある。だから、死ぬことは、決
して希望ではない、と。

……いや、本当のところ、そう自分に言い聞かせながら、私とて懸命にふんばっている
だけかもしれない……。ときどき「NW君の言ったことのほうが正しかったのかなあ」と
思うことがこのところ、多くなった。今も、「若者たち」を歌ってみたが、三番を歌うとき、
ふと、心のどこかで、抵抗を覚えた。「♪君の行く道は 希望へと続く……」と歌ったとき、
「本当にそうかなあ?」と思ってしまった。

++++++++++++++++++++++

 しかし、ね、みなさん。

 未来の子どもたちのために、まじめな人が、安心して暮らせる社会を、今、つくりまし
ょう。明日や、あさってではない。今、です。

 正直者が、損をする。小ズルイ人だけが、得をする。そんな社会と、みんなで力をあわ
せて、戦いましょう。

 いえね、決して、むずかしいことではありません。簡単なことです。

 ルールを守る。迷惑をかけない。ウソをつかない。約束を守る。自分に正直に生きる。
たったこれだけのことで、今、そういう社会を、私たちは手にすることができます。

 そのあとのことは、そのあとの人たちに任せればよいのです。私たちは、今、すべきこ
とを懸命にする。それでよいのです。
(040128)




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15

●絶望論

 巨大な隕石が地球に向かっている。もしそれが地球と衝突すれば、地球そのものが、破
壊されるかもしれない。もちろん地球上の、あらゆる生物は死滅する。

 SF映画によく取りあげられるテーマだが、もしそういうことになったら……。人々は、
足元をすくわれるような絶望感を味わうに違いない。自分が何であるかさえわからない絶
望感と言ってもよい。だれと話しても、何を食べても、また何をしても、自分がどこにい
るかさえわからない。そんな絶望感だが、しかしこうした絶望感は、隕石が地球に衝突す
るという大げさな話は別として、つまり大小さまざまな形で、人を襲う。そしてそのつど
人々は何らかの形で、日々に、その絶望感を味わう。

 仕事がうまく、いかないとき。人間関係が、つまずいたとき。大きな病気になったとき。
社会情勢や、経済情勢が不安定になったとき。国際問題が、こじれたとき、など。人間に
は、希望もあるが、同時に絶望もある。しかしこの二つは、対等ではない。希望からは絶
望は生まれないが、希望は、絶望の中から生まれる。人々はそのつど、絶望しながら、そ
の中から懸命に希望を見出そうとする。そしてそれが、そのまま生きる原動力となってい
く。

 SF映画の世界では、たいてい何人かの英雄が現れて、その隕石と戦う。ロケットに乗
って、宇宙へ飛び出す。観客をハラハラさせながら、隕石を爆破する。衝突から軌道をは
ずす。そしてハッピーエンド。

 が、現実の世界では、こうはいかない。大きくても、小さくても、絶望は絶望のまま。
ハッピーエンドで終わることなど、十に一つもない。たいていは何とかしようともがけば
もがくほど、そのままつぎの絶望の中へと落ちていく。そしてそのたびに、身のまわりか
ら小さな希望を見出し、それにしがみついていく……。

 何とも暗い話になってしまったが、そこでハタと、人々は気づく。絶望を、絶望と思う
から、絶望は絶望になる。しかし最初から、「望み」がなければ、絶望など、ない。つまり、
「今」をそのまま受け入れて生きていけば、絶望など、ないことになる、と。わかりやす
く言えば、そのつど、「まあ、こんなもの」と、受け入れて生きていえば、絶望することは
ない。

 仕事がうまくいかなくても、結構。人間関係が、つまずいても、結構。大きな病気にな
っても、結構。社会情勢や、経済情勢が不安定になっても、結構。国際問題が、こじれて
も、これまた結構、と。

少し無責任な生き方になるかもしれないが、こうした楽天的な、とらえ方をすれば、絶
望は絶望でなくなってしまう。ということは、絶望は、まさに人間自らがつくりだした、
虚妄(きょもう)ということになる。

いや、こう書くと、「林め、何を偉そうに!」と思う人がいるかもしれないが、「絶望は
虚妄である」と言ったのは、私ではない。あの魯迅(一八八一〜一九三六・中国の作家、
評論家)である。彼は、こんな言葉を残している。

『絶望が虚妄なることは、まさに希望と同じ』(「野草」)

 「希望も、そして絶望も、人間が自ら生み出した幻想、つまり虚妄である。希望が虚妄
であるのと同じように、絶望もまた虚妄にすぎない」と。

が、そうは言っても、究極の絶望は、いうまでもなく、「死」である。この死だけは、そ
のまま受け入れることはむずかしい。死の恐怖から生まれる絶望も、また虚妄と言えるの
か。あるいは死にまつわる絶望からも、希望は生まれるのか。実のところ、これについて
は、私はまだよくわからない。が、こんなことはあった。 

 昔、私の友人だった、N君は、こう言った。「林君、死ぬことだって、希望だよ。死ねば
楽になれると思うのは、立派な希望だよ」と。私が彼に、「人間は希望をなくしたら、つま
り、絶望したら、死ぬのだろうね」と言ったときのことだ。しかしもし、絶望が虚妄であ
るとするなら、「死ねば楽になれるという希望」もまた、虚妄ということになる。つまり「死
に向かう希望」など、ありえない。

もっとわかりやすく言えば、「死ぬことは、決して希望ではない」ということになる。こ
の点からも、N君の言ったことは、まちがっているということになる……? もう一度、
この問題は、頭を冷やして、別のところで考えてみたい。

●一年後に……

 上の原稿を書いてから、ちょうど一年になる。改めて、自分の書いた「絶望論」を読み
なおしてみる。

 その前に、「絶望」とは、何かという問題がある。

 がっかりしたり、落胆することは、絶望ではない。似ているが、絶望ではない。ただ異
質のものかというと、そうでもない。『落胆は、絶望の母』と言った、キーツ(「希望につ
いて」・イギリスの詩人)がいる。『失敗は、成功の母』をもじった言葉である。

 改めて考えてみるきっかけとなったのは、子どもの受験で失敗して、落ちこんでしまっ
たという母親からの電話である。

 世間の人は、「たかがそれくらいのことで……」と思うかもしれないが、その母親にとっ
ては、そうではない。子どもの受験に、生涯のすべてをかける。そしてその結果をみて、
子どもの情来のすべてを判断をする。

 どんな母親にとって、子どもの将来は、最高に輝くものでなければならない。ふつうの
未来、平凡な未来というのは、母親にとっては、敗北でしかない。そのため、子どもが受
験に失敗したとき、母親は、強い敗北感を味わう。そしてそれが絶望感へと変る。

 二〇年ほど前だが、息子(中三)が、高校受験に失敗したとき、自殺を試みた母親がい
た。一度目は、未遂で終わったが、そのあと、一か月ほどしてから、今度は別の方法で、
本当に自殺してしまった。

 ただその母親のばあい、いろいろな薬ものんでいたし、ほかにもいくつかの問題があっ
た。また一度目の自殺のときは、交通事故として片づけられた。二度目の自殺のときは、
……(この話は、ここには書けない)……ということで、片づけられた。

 だから子どもの受験が、直接自殺に結びついたとは考えにくいが、大きな引き金になっ
たことは事実である。私はその母親から、たびたび相談を受ける立場にあった。

 しかし希望にせよ、絶望にせよ、それはその人間が、勝手につくりだした虚妄であるこ
とには、ちがいない。

 つぎに書いたのが、「希望論」。先の「絶望論」と同じころ、書いた。
 
●希望論

 希望にせよ、その反対側にある絶望にせよ、おおかたのものは、虚妄である。『希望とは、
めざめている夢なり』(「断片」)と言った、アリストテレス。『絶望の虚妄なることは、ま
さに希望と相同じ』(「野草」)と言った、魯迅などがいる。

さらに端的に、『希望は、つねに私たちを欺く、ペテン師である。私のばあい、希望をな
くしたとき、はじめて幸福がおとずれた』(「格言と反省」)と言った、シャンフォールがい
る。

 このことは、子どもたちの世界を見ているとわかる。

 もう一〇年にもなるだろうか。「たまごっち」というわけのわからないゲームが、子ども
たちの世界で流行した。その前後に、あのポケモンブームがあり、それが最近では、遊戯
王、マジギャザというカードゲームに移り変わってきている。

 そういう世界で、子どもたちは、昔も今も、流行に流されるまま、一喜一憂している。
一度私が操作をまちがえて、あの(たまごっち)を殺して(?)しまったことがある。そ
のときその女の子(小一)は、狂ったように泣いた。「先生が、殺してしまったア!」と。
つまりその女の子は、(たまごっち)が死んだとき、絶望のどん底に落とされたことになる。

 同じように、その反対側に、希望がある。ある受験塾のパンフレットにはこうある。

 「努力は必ず、報われる。希望の星を、君自身の手でつかめ。○×進学塾」と。

 こうした世界を総じてながめていると、おとなの世界も、それほど違わないことが、よ
くわかる。希望にせよ、絶望にせよ、それはまさに虚妄の世界。それにまつわる人間たち
が、勝手につくりだした虚妄にすぎない。その虚妄にハマり、ときに希望をもったり、と
きに絶望したりする。

 ……となると、希望とは何か。絶望とは何か。もう一度、考えなおしてみる必要がある。
キリスト教には、こんな説話がある。あのノアが、大洪水に際して、神にこうたずねる。「神
よ、こうして邪悪な人々を滅ぼすくらいなら、どうして最初から、完全な人間をつくらな
かったのか」と。それに対して、神は、こう答える。「人間に希望を与えるため」と。

 少し話はそれるが、以前、こんなエッセー(中日新聞掲載済み)を書いたので、ここに
転載する。

++++++++++++++++++++

子どもに善と悪を教えるとき

●四割の善と四割の悪 

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四
割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさない
で、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、
「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をす
る者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマり
やすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生
徒を、プールの中に放り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対しては
どうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびし
いのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強して
いる親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動
物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界にな
ってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の
世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書
についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすく
らいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。
神はこう答えている。「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希
望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それ
がわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世
界だけをどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になった
が、それが問題ではない。問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身に
ある。そうでないというのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んで
いることについて、あなたはどれほどそれと闘っているだろうか。

私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校
生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際を
していたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。

「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手
の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。
こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それ
が問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人

 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけで
もない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社
会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。(中日新聞投稿済み)

++++++++++++++++++++++

 このエッセーの中で、私は「善悪論」について考えた。その中に、「希望論」を織りまぜ
た。それはともかくも、旧約聖書の中の神は、「もし人間がすべて天使のようになってしま
ったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこと
もするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。それ
が希望だ」と教えている。

 となると、絶望とは、その反対の状態ということになる。キリスト教では、「堕落(だら
く)」という言葉を使って、それを説明する。もちろんこれはキリスト教の立場にそった、
希望論であり、絶望論ということになる。だからほかの世界では、また違った考え方をす
る。

冒頭に書いた、アリストテレスにせよ、魯迅にせよ、彼らは彼らの立場で、希望論や絶
望論を説いた。が、私は今のところ、どういうわけか、このキリスト教で教える説話にひ
かれる。「人間は、努力によって、神のような人間にもなれる。それが希望だ」と。

 もちろん私は神を知らないし、神のような人間も知らない。だからいきなり、「そういう
人間になるのが希望だ」と言われても困る。しかし何となく、この説話は正しいような気
がする。言いかえると、キリスト教でいう希望論や絶望論に立つと、ちまたの世界の希望
論や絶望論は、たしかに「虚妄」に思えてくる。つい先日も、私は生徒たち(小四)にこ
う言った。授業の前に、遊戯王のカードについて、ワイワイと騒いでいた。

 「(遊戯王の)カードなど、何枚集めても、意味ないよ。強いカードをもっていると、心
はハッピーになるかもしれないけど、それは幻想だよ。幻想にだまされてはいけないよ。
ゲームはゲームだから、それを楽しむのは悪いことではないけど、どこかでしっかりと線
を引かないと、時間をムダにすることになるよ。カードなんかより、自分の時間のほうが、
はるかに大切ものだよ。それだけは、忘れてはいけないよ」と。

 まあ、言うだけのことは言ってみた。しかしだからといって、子どもたちの趣味まで否
定するのは、正しくない。もちろん私たちおとなにしても、一方でムダなことをしながら、
心を休めたり、癒(いや)したりする。が、それはあくまでも「趣味」。決して希望ではな
い。またそれがかなわないからといって、絶望する必要もない。大切なことは、どこかで
一線を引くこと。でないと、自分を見失うことになる。時間をムダにすることになる。

●絶望と希望

 人は希望を感じたとき、前に進み、絶望したとき、そこで立ち止まる。そしてそれぞれ
のとき、人には、まったくちがう、二つの力が作用する。

 希望を感じて前に進むときは、自己を外に向って伸ばす力が働き、絶望を感じて立ち止
まるときは、自己を内に向って掘りさげる力が働く。一見、正反対の力だが、この二つが 
あって、人は、外にも、そして内にも、ハバのある人間になることができる。

 冒頭にあげた、「子どもの受験で失敗して、落ちこんでしまった母親」について言うなら、
そういう経験をとおして、母親は、自分を掘りさげることができる。私はその母親を慰め
ながらも、別の心で、「こうして人は、無数の落胆を乗り越えながら、ハバの広い人間にな
るのだ」と思った。

 そしていつか、人は、「死」という究極の絶望を味わうときが、やってくる。必ずやって
くる。そのとき、人は、その死をどう迎えるか。つまりその迎え方は、その人がいかに多
くの落胆を経験してきたかによっても、ちがう。

 『落胆は、絶望の母』と言った、キーツの言葉の意味は、そこにある。
(040130)



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16

●今を生きる

 今を生きることの大切さは、言うまでもない。こんな議論がある。

 ある仏教系の宗教団体の信者が、こう言った。「キリストは、最期は、はりつけになった。
無残な最期である。つまりそれこそが、キリスト教がまちがっているという証拠だ」と。

 その教団では、「結果」を重要視する。「結果を出せ」が、信仰の柱になっている。しか
し、本当に、そうか?

 遠い昔、戦前のことだが、北海道で、こんな事件があった。

 あるとき、あるところで、ブレーキが故障して、列車が坂を暴走し始めた。そのまま放
っておけば、大事故につながる。そこで車掌は、とっさの判断で、自分の体を、線路と車
輪の間に投げ出し、自分の体を犠牲にして、その列車を止めたという。

 もしその宗教団体の教えが正しいとするなら、その車掌は、まちがっていたことになる。
その車掌は、無残な死に方をした。しかし私が仏なら、(神でもよいが)、そういう車掌を、
イの一番に、天国に迎え入れる。

 生きることに、「結果」はない。もしあるとするなら、日々の生活の、一瞬、一瞬が、そ
の結果である。

 もし(財産ができた)、(地位を得た)、(大学に合格した)ということが、「結果」という
のなら、その結果のあとに、何がくるというのか。まさか、それで終わりというわけでも、
ないだろう。

 その教団では、「その人の結果は、臨終の姿(死に際の様子)を見ればわかる」とも教え
る。そして葬式が終わると、「いい死に顔だった」「すばらしい死に顔だった」と、たがい
に言いあう。

 しかし長い間、たとえばがんなどで苦しんだ人の死に顔は、決して美しいものではない。
はげしい痛みと、苦痛が、その人の死に顔を、そういう様相にする。

しかしがんで死ぬかどうかは、確率の問題。その信仰をしたから、がんにならないとか、
しなかったから、がんになるとか、そういうことは、ありえない。あるいは、その教団の
信者には、がんになった人はいないとでもいうのだろうか。

 私たちが将来、どんな死に方をしたとしても、それまでの人生が、それで総括されるわ
けではない。大切なのは、「今」だ。今というときを、どう生きるか、だ。それでその人の
人生は決まる。

 以前、こんな原稿を書いた(中日新聞掲載済み)。

+++++++++++++++++++++

●今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもな
っている格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れて
しまって、結局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生
き方をしてはいけません」と教えている。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人が
いる。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大
学へ入るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。

こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、
ここでいう愚かな生き方そのものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自分
の人生を、自分のものにすることができない。あるいは社会へ出てからも、そういう生き
方が基本になっているから、結局は自分の人生を無駄にしてしまう。「やっと楽になったと
思ったら、人生も終わっていた……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、
偽らずに生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、
一人の高校生が自殺に追いこまれるという映画である。

この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反対の
位置にある。これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。し
かし今、あなたの周囲を見回してみてほしい。

あなたの目に映るのは、「今」という現実であって、過去や未来などというものは、どこ
にもない。あると思うのは、心の中だけ。だったら精一杯、この「今」の中で、自分を輝
かせて生きることこそ、大切ではないのか。子どもたちとて同じ。子どもたちにはすばら
しい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子ども時代は子ども時代として、精一杯
その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないのか。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生き
る」ということは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力すると言
っても、そのつどなすべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。

たとえば私は生徒たちには、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではな
いか。それでいい。結果はあとからついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったもの
を、真っ先に追い求めたら、君たちの人生は、見苦しくなる」と。

 同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親た
ちは子どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。

日本では「がんばれ!」と拍車をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらな
くてもいいのよ」と。ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本
の、子育て観の基本的な違いを感ずる。その違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』
の本当の意味がわからないのではないか……と、私は心配する。

++++++++++++++++++++

 ある母親は、息子(中三)が高校受験に失敗した日のこと、私にこう言った。

 「先生、すべてがムダでした。あの子を小さいときから、英語教室や、算数教室に通わ
せましたが、結局はムダでした……」と。

 結果だけをみて、人生を判断する人は、そういう考え方をする。日本の仏教そのものが、
結果を重視する。だから、日本人は、多かれ少なかれ、何かにつけて結果をみて、ものご
とを判断する。そういう傾向が強い。

 しかし結果などというものは、放っておいても、あとから必ずついてくる。その結果が
どうであれ、大切なことは、今を懸命に生きること。あとのことは、あとに任せばよい。
あのアインシュタインも、こう言っている。

「私は未来のことについては、決して何も考えない。未来はやがてきっとやってくるか
ら」(「語録」)と。

旧約聖書の中にも、こうある。『汝、明日のことを語るなかれ。それは一日の生ずるとこ
ろの如何なるを、知らざればなり』(箴言27−1)と。

 最初の話に、もどる。

 私やあなただって、明日、交通事故か何かで、無残な死に方をするかもしれない。しか
しだからといって、今、懸命に生きている私やあなたが、否定されるわけではない。

 もっと身近な例では、事業に失敗したとか、あるいは会社をクビになったからといって、
その人の人生すべてが、否定されるわけではない。その人が、懸命に生きてきたという事
実までは、だれにも消すことはできない。

 大切なのは、「今」なのだ。どこまでいっても、「今」なのだ。繰りかえすが、今、どう
生きているか、なのだ。結果は、放っておいても、必ず、あとからついてくる。
(030131)



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17

●知的生物論

●火星

 【ワシントン31日共同】米航空宇宙局(NASA)は、米東部時間1月31日朝(日
本時間同日夜)、火星に着陸した無人探査車の2号機オポチュニティーを、着陸用の台から
火星の表面に降ろす作業に成功した。

 何でも、オポチュニティーの近くには、(水があったことを示す)痕跡が確認されたとい
う。これからその分析を始めるそうだが、もし水があったことが確認されたら、宇宙の歴
史は、ひっくり返るかもしれない。

 その一。水があったということは、火星の気温は、0度から100度までの範囲であっ
たということになる。もちろん大気もあったということになる。そうであれば、そこには、
何らかの生物が住んでいた可能性が、きわめて高くなる。

 その二。水も大気もあった火星が、なぜ今のような火星になってしまったかということ。
火星でも、たとえば今の地球が経験しているような温暖化現象が、あったとでもいうのだ
ろうか。その可能性もきわめて、高くなる。

 もっとも私のような素人がこんなことを論じても、意味はない。しかし空想することは、
私でも、できる。こうした空想は、何も、専門家の特権ではない。

 一説によれば、火星にも、昔、知的生物がいたという。そしてその生物が進化して、地
球の人間のような知的生物になったという。その知的生物が、化石燃料(石油や石炭)な
どを燃やし、温暖化を引き起こした?

 こういう話は、おもしろいと同時に、ぞっとする。火星の過去と現在は、まさに地球の
未来でもあるからである。あるいは本当に、いつか、地球も、今の火星のようになってし
まうのだろうか。現に今、地球の温暖化は、不気味なほど、確実に、かつ急速に進行しつ
つある。日本は、海に囲まれた島国だから、それほど温暖化を感じないが、オーストラリ
アでは、そうではない。

 去年の夏も暑かったそうだが、今年も、あのメルボルン市でさえ、連日40度を超える
猛暑がつづいたという。35年前には、世界でも、一年をとおして、気候がもっとも温暖
なところとして知られていた都市である。

メルボルン市のことを、別名、「ガーデン・シティ(田園都市)」という。市の三分の一
が、公園。町の中に公園があるというよりは、公園の中に町があるといった感じの都市で
ある。そのメルボルン市ですら、ここ五、六年、たいへん住みにくくなってきているとい
う。

ほかの国々における異常気象については、いまさら言うまでもない。

 どこかの科学者が、こう言っていた。「火星を知るということは、地球の未来を知ること
だ」と。

なぜ火星が今のような火星になってしまったかがわかれば、そのこと自体が、人類に対
する大きな警鐘になることだけは、まちがいないようだ。


●中途半端な知的生物
 
 「知的生物」について、一言。

 人間は、一応、知的生物ということになっている。しかし本当に知的生物かというと、
それは疑わしい。火星に探査ロケットを打ち上げる能力をもっている一方で、サルでもし
ないような愚劣なこともしている。

 そういう意味では、人間は、中途半端な知的生物ということになる。

 しかし何ごとも、中途半端であることが、一番、悪い。危険。たとえばこんなことがあ
る。

 山荘へ行く途中に、小さな山がつづくところがある。国道からそれて、山のわき道に入
ったところだが、その山の一角からは、いつも、モクモクと黒煙があがっている。晴れの
日も、雨の日も、一年中である。

周囲には、工事現場から出たと思われる廃材が、山のようになっている。

一度私たちは車を止めて中へ入ってみたが、人影はなかった。一角だけが、高い塀で囲
まれ、その中で、廃材を燃やしていた。黒煙は、いつもそこから出ている。

 ここに人間の愚劣さが、ある。(サルでもしないような愚劣なこと)というのは、そうい
う行為をいう。恐らくというより、まちがいなく、その業者は、モグリである。モグリで
廃材を処理している。いくら生きるためとはいえ、そんな形で、公害をまき散らしたら、
この地球は、いったい、どうなる? 

 しかしそういう人たちを、責めても、意味はない。この私とて、そしてあなたとて、同
じ立場に置かれたら、同じことをするかもしれない。あるいは日常的に、同じようなこと
をしているかもしれない。つまり私がいう、(中途半端)という意味は、そこにある。

 つまりこの中途半端さがなくならないかぎり、人間は、決して知的生物には、なりえな
い。言うなれば人間は、今、動物園に住む動物たちと、いわゆる知的生物の中間あたりを、
フラフラしているような状態ではないか。冒頭に書いたように、火星に探査ロケットをあ
げながら、その一方で、サルでもしないようなことをしている。

 言うまでもなく、人間が知的生物になるためには、考えること。ただひたすら考えるこ
と。考えて、考え抜くこと。まず考える。行動は、必ず、あとからついてくる。そしても
し、広く、人間教育というものがあるとするなら、それは考える習慣を、どうやって身に
つけるかということに行き着く。

 以前、子どもの教育に関して、こんな原稿を書いた(中日新聞掲載済み)。

++++++++++++++++

知識と思考を区別せよ!

思考と情報を混同するとき 

●人間は考えるアシである

パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをな
す』とも。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出
すというのは、別のことである。たとえばこんな会話。

A「昼に何を食べる?」、B「スパゲティはどう?」、A「いいね。どこの店にする?」、B
「今度できた、角の店はどう?」、A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパ
ゲティはおいしいと話していたな」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二
人は何も考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として
外に取り出しているにすぎない。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラペラと言ったとする。しかしだからといっ
て、その園児は頭がよいということにはならない。算数ができるということにはならない。

●考えることには苦痛がともなう

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識の
うちにも、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。

中には考えることを他人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こ
んな会話をしたことがある。私が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうです
か」と言ったときのこと。その人はこう言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられ
る。まちがいは、ない」と。

●人間は思考するから人間

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『わ
れ思う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まち
がっているとかいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。

ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしてい
るの?」と声をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中
から生まれるものだと思っていた。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その
子どもは子どもなりに、懸命に考えて、そうしていた。つまりそれこそが、パスカルのい
う「人間の偉大さ」なのである。

●知識と思考は別のもの

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけ
させることが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。

それがムダだとは思わないが、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠
牲にしてしまう。かえって子どもから考えるという習慣を奪ってしまう。もっと言えば、
賢い子どもというのは、自分で考える力のある子どもをいう。

いくら知識があっても、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わない。頭
のよい悪いも関係ない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言
っている。「バカなことをする人のことを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここ
をまちがえると、教育の柱そのものがゆがんでくる。私はそれを心配する。

(付記)

●日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み
教育」が基本になっている。

さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の本山教育である。つまり日本
の教育は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画一的な子どもをつ
くるのが基本になっている。もっと言えば「従順でもの言わぬ民」づくりが基本になって
いる。

戦後、日本の教育は大きく変わったとされるが、その流れは今もそれほど変わっていな
い。日本人の多くは、そういうのが教育であると思い込まされているが、それこそ世界の
非常識。

ロンドン大学の森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。
自分で考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自
己判断のできる人間を育てなければ、二〇五〇年の日本は本当にダメになる」(「コウとう
けん」・九八年)と警告している。

●低俗化する夜の番組

 夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっ
ているのがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせ
て、会話として外に取り出しているにすぎない。

一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考えていない。思考というのは、
本文にも書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人によっては本当に頭が痛
くなることもある。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らない。そのため考
えるだけでイライラしたり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、考えるこ
と自体を避けようとする。

 ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるというこ
ともある。私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。
また文にして残すという方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。

私にとって生きるということは、考えること。考えるということは、書くこと。モンテ
ーニュ(フランスの哲学者、一五三三〜九二)も、「『考える』という言葉を聞くが、私は
何か書いているときのほか、考えたことはない」(随想録)と書いている。ものを書くとい
うことには、そういう意味も含まれる。

+++++++++++++++++++

 今、人間は、たいへんな危機的な状況にあると考えてよい。まさに地球そのものが、亡
びるかもしれないという状況である。言うなれば、人間の知的能力が、まさにためされて
いるときということになる。

 そこでどうだろう、こう考えてみたら。

 つまり人間は、知的生物ではないという前提で、人間を自らながめてみる、と。もっと
はっきり言えば、私たち人間は、自分たちを知的生物と思いこんでいるだけ、と。そうい
う前提で、もう一度、私たち自身を、見なおしてみる。

 火星はともかくも、この宇宙には、無数の知的生物がいるとされる。この地球上で、人
間だけが決してゆいいつの生物でないのと同じように、宇宙では、この人間だけが決して、
ゆいいつの知的生物ではない。

 しかも人間というのは、ひょっとしたら、宇宙に住む知的生物たちから見たら、きわめ
て原始的な生物かもしれない。そういう視点をもって、もう一度、人間自身をみてみる。
わかりやすく言えば、私たちのもつ知的レベルに対して、謙虚になるということ。すべて
は、そこから始まる。

 はからずも、私は昨日、市の動物園へ行ってみた。そしていつも、あのサルの集団を見
ると、考えさせられる。実は、昨日も、そうだった。

 あのサルたちは、絶対に、自分たちは、バカだと思っていない。自分がバカだとわかる
のは、自分自身がそのつど、はるかに高い視点をもったときである。しかしその高い視点
をもつことができないサルには、それがわからない。

 同じように、ほとんどの人間は、自分がバカだとは思っていない。それがわかるだけの
高い視点すらもっていない。

 では、どうするか? ……結局は、先のエッセーの中に書いたように、「考える」こと。
すべては、ここへ行き着く。考えて、考え抜く。そうすることで、人間は、ほんの数セン
チかもしれない。数ミリかもしれない。しかしそれでも、ほんの少しだけ、高い視点から
自分を見ることができる。それまでの自分が、バカだったと気づくことができる。

 何ともこみいったエッセーになってしまったが、要するに、私たち人間は、実に中途半
端な知的生物であるということ。私は、それが言いたかった。
(040201)



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18

●ピーターパン・シンドローム

ピーターパン症候群という言葉がある。日本では、「ピーターパン・シンドローム」とも
いう。いわゆる(おとなになりきれない、おとな子ども)のことをいう。

この言葉は、シカゴの心理学・精神科学者であるダン・カイリーが書いた「ピーターパ
ン・シンドローム」から生まれた。もともとこの本は、おとなになりきれない恋人や息子、
それに夫のことで悩む女性たちのための、指導書として書かれた。

 症状としては、無責任、自信喪失、感情を外に出さない、無関心、自己中心的、無頓着
などがあげられる。体はおとなになっているが、社会的責任感が欠落し、自分勝手で、わ
がまま。就職して働いていても、給料のほとんどは、自分のために使ってしまう。

 これに似た症状をもつ若者に、「モラトリアム人間」と呼ばれるタイプの若者がいる。さ
らに親への依存性がとくに強い若者を、「パラサイト人間」と呼ぶこともある。「パラサイ
ト」というのは、「寄生」という意味。

 さらに最近の傾向としては、おもしろいことに、どのタイプであれ、居なおり型人間が
ふえているということ。ピーターパンてきであろうが、モラトリアム型であろうが、はた
またパラサイト型であろうが、「それでいい」と、居なおって生きる若者たちである。

 つまりそれだけこのタイプの若者がふえたということ。そしてむしろ、そういう若者が、
(ふつうのおとな?)になりつつあることが、その背景にある。

 概して言えば、日本の社会そのものが、ピーターパン・シンドロームの中にあるのかも
しれない。

 国際的に見れば、日本(=日本人)は、世界に対して、無責任、自信喪失、意見を言わ
ない(=感情を外に出さない)、無関心、自己中心的、無頓着。

 それはともかく、ピーターパン人間は、親のスネをかじって生きる。親に対して、無意
識であるにせよ、おおきなわだかまり(固着)をもっていることが多い。このわだかまり
が、親への経済的復讐となって表現される。

 親の財産を食いつぶす。親の家計を圧迫する。親の生活をかき乱す。そしてそれが結果
として、たとえば(給料をもらっても、一円も、家計には入れない)という症状になって
現れる。

 このタイプの子どもは、乳幼児期における基本的信頼関係の構築に失敗した子どもとみ
る。親子、とくに母子の関係において、たがいに(さらけ出し)と(受け入れ)が、うま
くできなかったことが原因で、そうなったと考えてよい。そのため子どもは、親の前では、
いつも仮面をかぶるようになる。ある父親は、こう言った。「あいつは、子どものときから、
何を考えているか、よくわかりませんでした」と。

 そのため親は、子どもに対して、過干渉、過関心になりやすい。こうした一方的な育児
姿勢が、子どもの症状をさらに悪化させる。

 子どもの側にすれば、「オレを、こんな人間にしたのは、テメエだろう!」ということに
なる。もっとも、それを声に出して言うようであれば、まだ症状も軽い。このタイプの子
どもは、そうした感情表現が、うまくできない。そのため内へ内へと、こもってしまう。
親から見れば、いわゆる(何を考えているかわからない子ども)といった、感じになる。
ダン・カイリーも、「感情を外に表に出さない」ことを、大きな特徴の一つとして、あげて
いる。

 こうした傾向は、中学生、高校生くらいのときから、少しずつ現れてくる。生活態度が
だらしなくなったり、未来への展望をもたなくなったりする。一見、親に対して従順なの
だが、その多くは仮面。自分勝手で、わがまま。それに自己中心的。友人との関係も希薄
で、友情も長つづきしない。

 しかしこの段階では、すでに手遅れとなっているケースが、多い。親自身にその自覚が
ないばかりか、かりにあっても、それほど深刻に考えない。が、それ以上に、この問題は、
家庭という子どもを包む環境に起因している。親子関係もそれに含まれるが、その家庭の
あり方を変えるのは、さらにむずかしい。

 現在、このタイプの若者が、本当に多い。全体としてみても、うち何割かがそうではな
いかと思えるほど、多い。そしてこのタイプの若者が、それなりにおとなになり、そして
結婚し、親になっている。

 問題は、そういう若者(圧倒的に男性が多い)と結婚した、女性たちである。ダン・カ
イリーも、そういう女性たちのために、その本を書いた。

 そこでクエスチョン。

 もしあなたの息子や、恋人や、あるいは夫が、そのピーターパン型人間だったら、どう
するか?

 親のスネをかじるだけ。かじっても、かじっているという意識さえない。それを当然の
ように考えている。そしてここにも書いたように、無責任、自信喪失、感情を外に出さな
い、無関心、自己中心的、無頓着。

 答は一つ。あきらめるしかない。

 この問題は、本当に「根」が深い。あなたが少しくらいがんばったところで、どうにも
ならない。そこであなたがとるべき方法は、一つ。

 相手に合わせて、つまり、そういう(性質)とあきらめて、対処するしかない。その上
で、あなたなりの生活を、つくりあげるしかない。しかしかろうじてだが、一つだけ、方
法がないわけではない。

 その若者自身が、自分が、そういう人間であることに気づくことである。しかしこのば
あいでも、たいていの若者は、それを指摘しても、「自分はちがう」と否定してしまう。脳
のCPU(中央演算装置)の問題だから、それに気づかせるのは、容易ではない。

 が、もしそれに気づけば、あとは時間が解決してくれる。静かに時間を待てばよい。
(040201)(はやし浩司 ピーターパン シンドローム)



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19

【愚かさの自覚】

●動物園で

 動物園で、サルの集団を見ていたときのこと。ふと私はこう思った。「この世界が、すべ
てサルになってしまったら、私はどうすればいいのか」と。

 多分、私には、孤独な世界になることだろう。言葉が通じない。ある程度のコミュニケ
ーションはとれるとしても、それ以上の会話ができない。音楽や絵画の美しさを、どう表
現し、どう伝えたらよいのか。人生や宇宙について、どう語ったらよいのか。

 そのとき、また、こうも思った。

 私から見れば、サルは愚かに見える。本当に愚かかどうかは別にして、そう見える。し
かし肝心のサルたちは、そうは思っていないだろう、と。

 その人が愚かかどうかは、その人より高い視点をもってはじめて、それがわかる。自分
のことについても、そうだ。

 自分が愚かかどうかは、そのときはわからない。しかし自分が、より高い視点をもった
とき、はじめて、それまでの自分が、愚かだったとわかる。

●たとえば……

 たとえば幼稚園児の前で、「3+4」の問題を、わざとまちがえて見せる。「ええと、答
は、6だったかな?」と。すると、子どもたちは、ムキになって、それに反発する。「先生、
7だよ」「7だよ」と。

 もちろん私は演技でまちがえているのだが、子どもたちには、それがわからない。私が
本当にまちがえたと思っている。

 子どもたちにしてみれば、「3+4」の問題は、最高度に高度な問題ということになる。
その先に、無限に広がる数学の世界があることなど、知る由もない。だから子どもたちは
子どもたちのレベルで、私を判断する。

 ある子どもは、こう言った。「あんた、それでも、本当に先生?」と。女の子だったが、
彼女の私を見る目は、冷たかった。

 こうした例は、本当に多い。つまり自分が愚かだったということは、自分がより賢くな
ってはじめてわかる。そのときの自分には、わからない。そのときどきにおいて、どんな
人も、自分が最高だと思っている。だからよけいに、わからない。

●再びサルの話

 そこでサルの話にもどる。

 サルは、自分が愚かだとは思っていない。恐らく人間が、賢い動物だとも思っていない。
そもそも、自分の愚かさをはかるための尺度をもっていない。またそれ以上に、人間の賢
さを知るための尺度を、もっていない。

 しかし、問題は、このことではない。

 問題は、私たち自身のことである。つまり今の私は、自分では、愚かだとは思っていな
い。その愚かさを知るための尺度をもっていないからだ。

 しかしその一方で、私のばあい、こうして毎日、ものを書き、いつも何かを発見してい
ると、過去の自分が愚かに見えることがある。たとえば今、十年前に書いた文章を読み返
してみたりすると、それがよくわかる。

 「どうして、こんなバカなことを書いたのだろう」「まちがいだらけではないか」と。

●愚かな人には、賢い人がわからない

 いつか私は、こう書いた。賢い人からは、愚かな人が、愚かとよくわかる。しかし愚か
な人は、賢い人を見ても、その賢さが理解できない。そればかりか、自分と同等の人間だ
と思ってしまう、と。

 このことは、愚かな人と会話をしていると、よくわかる。愚かな人は、明らかに自分を
基準にして、ものを話す。最近でも、こんなことがあった。

 ある女性(六〇歳くらい)が、こう言った。「Aさんって、知ってるかね。あの人も、出
世したもんだよ。さぞかし死んだ、ご両親も、墓の中で喜んでいることだろうね」と。

 こういう話はよく聞く。しかしその女性は、そのあと、私にこう言った。「トラは死んだ
あと、革(かわ)を残すというじゃないですか。あんたも、そうなるよう、努力しなさい
よ」と。

 いろいろ言いたいことはあったが、あまりにも大きな距離を感じて、私はだまって聞く
しかなかった。その女性の思考能力は、恐らく二〇歳とか、三〇歳とか、そのあたりで停
止したとみてよい。あるいは一〇歳前後かもしれない。

●そこで私自身の問題

 そこで私自身の問題。つまり私は、どうすれば、自分の愚かさを知ることができるかと
いうこと。方法としては、より高い視点に自分を置くしかないが、しかし今のこの時点に
おいては、不可能ということになる。

 それはちょうど、たとえて言うなら、この空間を飛びかうテレビの電波を見ろというよ
なもの。まだ存在しない「脳みそ」で、今の愚かさなど、わかるはずもない。繰りかえす
が、自分の愚かさというのは、自分がより高い視点に立ったとき、はじめてわかる。それ
までは、どんなに逆立ちしても、わからない。

●謙虚になる

 だから、こういうことは言える。

 私たちは愚かだという前提で、自分を見るということ。つまり自分自身に謙虚になると
いうこと。「私はバカなんだ」「私には、まだ知らないことが山のようにあるのだ」と。

 決して慢心をもってはいけない。決して自分が最高だと思ってはいけない。決して自分
が正しいと思ってはいけない。

 そこで私は、一つの教訓を、手に入れた。

 賢い人は、自分が愚かだと知っている。しかし愚かな人は、自分が愚かだとは、思って
いない、と。

 サルはいつになったら、自分の愚かさに気づくだろうか。しかしサルがそれに気づくこ
とはない。だからサルは、やはり、愚かということになる。

 ついでに誤解がないように言っておきたいことがある。知識があるからといって、賢い
ということにはならない。このことについては、もう何度も書いてきたので、ここでは省
略する。
(040201)(はやし浩司 愚かさの自覚 愚人論)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●愚かさの自覚

 毎年、新しい母親に、会う。新しい母親に会うたびに、私は、こう思う。「どうして、人
は、こうまで毎年、同じことを繰りかえすのか」と。

 そして私は、同じ、指導を繰りかえす。10年前と同じ、指導を繰りかえす。20年前
と同じ、指導を繰りかえす。そして30年前と同じ、指導を繰りかえす。

 そんなわけで、私は、新しい母親の相談を受けながらも、その先の先まで、よくわかる。
それぞれの母親は、「私の子どもは特別」「この問題は私だけの問題」と考える。が、人間
がかかえる問題というのは、細かい部分はさておき、それほど、ちがうものではない。

 かなり特殊なケースでも、私には、そうではない。過去にいくつか、似たような事例を
経験している。だから私はそういう過去の事例に当てはめながら、母親を指導する。が、
それすらも、新しい母親には、理解できない。

 たとえばかん黙症の子どもがいたとする。このタイプの子どもは、簡単にはなおらない。
またなおそうと思ってはいけない。その子どもに合わせながら、自然体で接するのがよい。
だから私は新しい母親に、こう言う。

 「そういう子どもだと思って、のんびりやりなさい。どんな子どもでも、一つや二つ、
親の意に添わないことがあるものですよ」と。

 しかし新しい母親には、それがわからない。あちこちの病院を巡ったり、無理な指導を
繰りかえす。あげくのはてには、「幼稚園の先生の指導が悪い」などと言い出したりする。
そして子どもの症状を、かえって悪化させてしまう。

 そして再び、私のところへ……。

 実はこうした一連の行為についても、その新しい母親を見た瞬間、私には、わかる。「こ
の母親は、私の言うことなど、聞かないだろうな」「つぎにこういう行動に出るだろうな」
と。私が失望するときというのは、そういうときをいう。「どうせ、私など、相手にされて
いないのだ」と。

 ……と書きながら、実は、私が書きたいのは、このことではない。

 これは新しい母親についての話だが、「人生」という場において、私たちは、みな、ここ
でいう新しい母親と同じことをしている。

 だれか遠くに、人生を、何度も経験した人がいたとする。そういう人から見れば、今の
私の行動など、あたかも手に取るようにわかるにちがいない。

 しかしどんな人も、自分の人生を、一度しか経験しない。子育てでたとえて言うなら、
私たちは、みな、新しい母親なのだ。だから私たちはみな、「私の人生は特別」「私の問題
は、私だけのもの」と思う。

 そこで私はこう考えた。

 もし新しい母親が、何らかの方法で、自分の愚かさを知ることができたとする。「無知の
自覚」ということになるのかもしれない。それができたとする。そのとき、その方法がわ
かれば、それを、自分の人生に、応用することができる、と。

 少しわかりにくい話になったので、もう少し、かみくだいて考えてみよう。

 若い母親は、はじめて母親になったような人たちである。だからすべての経験が、はじ
めての経験で、自分のかかえる問題を、客観的に見ることができない。

 しかし私には、わかる。毎年、同じような母親に接し、同じような問題をいっしょに考
えてきた。

 同じように、私は、今、一つの人生を生きている。すべての経験が、はじめての経験で、
自分のかかえる問題を、客観的に見ることができない。

 そこでもし若い母親が、自分の愚かさ、つまり無知であることを自分で知る方法が見つ
かれば、その方法を、今度は、私が自分の人生を知る方法として、応用できる。自分のか
かえる問題を、客観的に見ることができる、と。

 そこで新しい母親たちを観察すると、謙虚な母親と、そうでない母親がいることがわか
る。

 謙虚ということは、つまりは、心のどこかで、無意識であるにせよ、自分の愚かさを自
覚していることを意味する。しかしそうでない母親は、そうでない。何か私が説明しよう
としても、「あんたごときに何がわかるの」というような態度をして見せる。

 つまり、ここに一つのヒントがある。

 自分の愚かさを知るためには、まず謙虚になること、と。「私はバカだ」と思うのもよい。
「この世界には、私の知っていることよりも、知らないことのほうが、はるかに多い」と
思うのもよい。ともかくも、そういう形で、謙虚になる。

 たとえば新しい母親でも、少し謙虚になれば、私のような指導者の助けを借りなくても、
自分で問題を発見して、それを解決できるはず。同じように、私自身も、この人生を生き
る上で、少し謙虚になれば、だれかの助けを借りなくても、自分で問題を発見して、それ
を解決できるはず。

 しかし「謙虚になる」ということは、同時に、それまでの人生に対して、敗北を認める
ことにもなる。「私は正しい」と思って生きるのは、それ自体が、生きる自信につながる。
しかし「私はまちがっているかもしれない」と思って生きるのは、不安だ。心配だ。

 また謙虚になるといっても、具体的には、どうしたらよういのか、などなど。問題はつ
づく。

 ……これらの問題は、どうクリアしたらよいのか。それについては、また別のところで
考えることにして、ともかくも今は、「謙虚になる」。謙虚になることによって、自分の愚
かさを知ることができる。そしてそれがわかったとき、人は、つぎのステップへと進むこ
とができる。
(040202)

【今日の発見】

● 自分が愚人であると知っている人を、賢人という。自分が愚人であると気づいていない
人を、愚人という。賢人は、どこまで謙虚で、自分を知ろうとする。しかし愚人は、傲
慢で、自分を知ろうとしない。




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20

●人格の完成度

 子どもの人格の完成度は、つぎの五つをみて、判断する。

(1) 協調性……ほかの子どもたちと協調して、いっしょに行動できる。
(2) 同調性……ほかの子どもの苦しみや悲しみが理解できる。
(3) 和合性……集団の中で、なごんだ雰囲気をつくることができる。
(4) 独自性……誘惑に強く、「私は私」という信念を感ずることができる。
(5) 自尊性……自分を大切にしている。将来に対して展望をもっている。
(6) 自立性……単独で行動ができる。
(7) 自律性……道徳規範や倫理規範がしっかりとしている。

 人格の完成度の高い子どもは、年齢に比して、どこかどっしりとした落ちつきがある。
おとなびて見える。そうでない子どもは、そうでない。どこかセカセカとしていて、幼い
感じがする。(ただし子どもによっては、仮面をかぶるケースもあるので、必ずしも外見だ
けでは、判断できない。)

 しかし、つまり人格の完成度は、子どもだけの問題ではない。「では、私はどうだったの
か?」「今の私はどうなのか?」という問題と、からんでくる。

(1) 協調性……私は若いころから、あまり協調性がない。人から、「君はイノシシみたい
だ」と、よく言われた。たまたま私がイノシシ年(昭和22年生まれ)だったから、
そう言われたのかもしれない。何でもやりだしたら、とことんする。また私は、昔
から、団体旅行が、あまり好きではなかった。数人もしくは、一、二人の友人とブ
ラブラと旅をするのは、好きだった。

(2) 同調性……他人の苦しみや悲しみが、理解できるようになったのは、最近のことで
はないか。たとえば友人の父親や母親が死んだときも、わりとクールだった。「ああ、
そう」という感じだった。その友人の気持ちになって、いっしょに泣くというよう
なことは、しなかった。できなかった。

(3) 和合性……笑わせ名人で、ひょうきんなところはあったが、みんなと仲よくやろう
という気持ちは、あまりなかった。正義感だけは、やたらと強く、そのためよく敵
をつくった。殴り合いの喧嘩をしたことも、ときどきある。


(4) 独自性……私はもともと、誘惑に弱い。その場で、すぐ相手に迎合してしまうよう
なところがある。そのため、あとで、後悔することも多い。たとえば私は、政治家
にはなれないと思う。目の前にワイロを積まれたら、それを断る勇気はない。……
と思う。

(5) 自尊性……自分を大切にするという意味では、たしかに大切にしている。とくに「は
やし浩司」の名前は、大切にしている。当たり前のことだが、一度だって、他人の
文章や、内容を盗用したことはない。だれかがどこかで同じようなことを言ってい
るときには、私のほうから、自分の意見を取りさげる。そういうことはよくある。


(6) 自立性……今、私は見た目には、単独行動を繰りかえしている。しかしだからとい
って、自立性があるわけではない。もし今、ワイフがいなくなったら、私はガタガ
タになると思う。病気になったりしても、同じ。

(7) 自律性……自分を律する力は、弱い。いつもそういう弱い自分と戦っている。ふと
油断すると、悪いことばかりを考えている。だから自分で、いくつかの教条をつく
り、それに従って行動している。あとで、あれこれ悩んだり、後悔したくないから
である。

 以上のようなことを並べて考えてみると、私の人格は、きわめて軟弱なことがわかる。
とても人に誇れるようなものではない。原因と理由は、いろいろあるが、それについては、
またの機会に考えるとして、こうした人格は、かなりはやい時期に、その方向性が決まる
と考えてよい。

 私の経験では、小学校に入学するまでには、ほとんどその形が決まるのではないかと思
っている。つまりそのころまでの家庭教育が、人格の形成には、きわめて重要な意味をも
つということ。決して、安易に考えてはいけない。
(040202)(はやし浩司 子どもの人格 子供の人格 人格論)



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21

●【生・老・病・死】

+++++++++++++++++

生きていくのもたいへん。
老いていくのも、これまたたいへん。
病気はこわい。
死ぬのは、さらにこわい。

+++++++++++++++++

●損をすることの美徳

損をすることの美徳。
最近、そのすばらしさが、よくわかるようになった。
私のばあい、とくに、金銭面においては、損ばかりしてきた。
今も、している。

投資で失敗したとか、そういうことではない。

一方、金銭面で得をしたという話は、ない。
ただ一度だけ、ワイフの実父がなくなったとき、
現金で、10万円の遺産が入ったことがある。

あとにも先にも、そういう形で、「得?」をしたのは、それだけ。
しかし私たちは、その10万円で、庭石を買った。
義父の思い出ということで、そうした。

こうなってくると、わずかな損得など、どうでもよくなってしまう。
寛大になったというわけではない。
どうでもよくなってしまう。

そのかわり、(時間)というか(命)の大切さが、よくわかるようになった。
どうせ死ねば、この世もろとも、すべてのものが、私の目の前から消える。
そうそう、子どものころ、こんなことがあった。
何歳のときだったかは、覚えていないが、たぶん、私が小学5、6年生の
ころのことではなかったか。

私は夢の中で、自分がほしかったものを手に入れた。
それが何だったのかは忘れたが、ほしかったものを手に入れた。
が、そのとき同時に、どういうわけか、それが夢だと、わかった。
「これは夢だ」「それはわかっているが、しかしこれがほしい」と。
そこで私は、その(もの)を、しっかりと手で握った。
夢の中で、握った。目をさましてからも、手放さないために、である。

が、目がさめてみると、その(もの)は消えていた。(当然である!)
自分の手を見たが、その(もの)はなかった。

この世界のものも、すべて、それと同じと考えてよい。
「あの世がある」と信じている人もいるかもしれないが、だったら、
なおさら、そうである。

そこにある(モノ)にしても、光と分子が織りなす幻覚でしかない。
大切なのは、それを私が、今、見ているという(時間)。
そしてその(実感)。

その(時間)は、刻一刻とすぎていく。
その大切さに、病気になってから気づいても、遅い。
老いてから気づいても、遅い。

もしあなたが今、若くて健康なら、今から、それに気づく。
そして今というこの(時点)から、命のかぎり、自分を燃やす。
燃やして燃やしつくす。

が、それでも、(真実)に近づくことはむずかしい。
不可能かもしれない。
しかしその前向きな姿勢こそ、大切。
そこに生きる意味がある。価値がある。

で、「老」がやってきたら、どうするか?
私もその入り口に立ったわけだが、もしそのとき健康であるなら、
老など、気にしなくてもよい。
年齢というのは、ただの(数字)にすぎない。

(病気)については、どうか?
それが一時的なものであれば、治せばよい。
心の病気も、同じ。

ただ病気というのは、あくまでも(過去)の結果としてやってくるもの。
もし今、あなたが健康なら、「健康とは作るものではなく、守るもの」と
考えて、運動を大切にしたらよい。
運動をする習慣を大切にしたらよい。

怠惰な生活を繰りかえしていて、どうして健康を維持できるというのか。
10年後、20年後をいつも念頭に置きながら、運動を大切にする。
もちろんタバコは吸わない。酒は飲まない。

言いかえると、たいした運動もせず、喫煙、飲酒を繰りかえしているなら、
病気になっても、あわてないこと。それこそ身勝手というもの。

あとは、その日がくるまで、毎日、感謝して生きる。
感謝しながら、その心を、社会に還元していく。
「死」がやってきたら、そのときは、そのとき。
じたばたしない。

法句経の中にもこんな一節がある。

ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずねる。
「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。
どうすればこの死の恐怖から逃れることができるか」と。

それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。
私も一度、脳腫瘍を疑われて、死を覚悟したことがある。
そのとき私は、この釈迦の言葉で救われた。

それからすでに30年になるが、それからの30年間は、まさに(もらいもの)。
その(もらいもの)と比べたら、金銭的な(損)など、何でもない。
むしろ損をすることによって、(執着)から、自分を解放させることができる。

その解放感がたまらない。

冒頭で、「損をすることの美徳」と書いたのはそういう意味だが、
損をすることを恐れないこと。
あえて自分から損をする必要はないが、すべきことはする。
その結果として、損をするなら、損をすることを恐れないこと。

むしろ反対に、時間を無駄にしている人を見るたびに、私は、こう思う。
「ああ、もったいないことをしている!」と。
その人が若くて、健康なら、なおさらである。

それぞれの人は、(やるべきこと)をもっている。
それは人によって、みなちがう。
心理学の世界では、真・善・美の追求が、それであると教える。
が、それにこだわる必要はない。私も、こだわっていない。

ついでに「希望論」について。

人は何もなくても、希望さえあれば生きていくことができる。
しかしその「希望」とは何か。
旧約聖書の中に、こんな説話が残っている。

ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。
(洪水で滅ぼすくらいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、
神に聞いたときのこと。

神はこう答えている。「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという
希望をなくしてしまう。
つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。

旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 生・老・病・死 四苦論 損
論 希望論)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司


●仏教聖典
(Buddah's Teaching)

仏教伝道協会発行の「仏教聖典」を座右の書とするようになって、そろそろ1年になる。
この本は、どこの旅館やホテルにも置いてある。そこでこの本のことを知った。
一度、あるホテルのマネージャーに売ってくれないかと頼んだことがあるが、断られた。
そこで協会のほうへ直接注文して、取り寄せた。料金は後払いでよいということだった。

内容については、私のBLOGやマガジンのほうでも、たびたび、
引用させてもらっている。

まず「因縁(いんねん)」について……。

因と縁のことを、「因縁」という。
因とは、結果を生じさせる直接的原因。縁とは、それを助ける外的条件である。
あらゆるものは、因縁によって生滅するので、このことを「因縁所生」などという。
この道理をすなおに受け入れることが、仏教に入る大切な条件とされる。
世間では転用して、悪い意味に用いられることもあるが、本来の意味を逸脱したもので
あるから、注意を要する。
なお縁起というばあいも、同様である。(同書、P318)

+++++++++++++++++

仏教聖典、いわく、

『この人間世界は苦しみに満ちている。
生も苦しみであり、老いも、病も、死も、みな苦しみである。
怨みのあるものと会わなければならないことも、
愛するものと別れなければならないことも、
また求めて得られないことも苦しみである。
まことに執着(しゅうじゃく)を離れない人生は、すべて苦しみである。
これを苦しみの真理、「苦諦(くたい)」という』(P42)

こうした苦しみが起こる原因として、仏教は、「集諦(じったい)」をあげる。
つまりは、人間の欲望のこと。この欲望が、さまざまに姿を変えて、苦しみの原因となる。

では、どうするか。

この苦しみを滅ぼすために、仏教では、8つの正しい道を教える。
いわゆる「八正道」をいう。

正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

(1)正見 ……正しい見解
(2)正思惟……正しい思い
(3)正語 ……正しい言葉
(4)正業 ……正しい行い
(5)正命 ……正しい生活
(6)正精進……正しい努力
(7)正念 ……正しい記憶
(8)正定 ……正しい心の統一(同書)をいう。

仏教聖典には、こうある。

『これらの真理を人はしっかりと身につけなければならない。
というのは、この世は苦しみに満ちていて、この苦しみから逃れようとするものは、
だれでも煩悩を断ち切らなければならないからである。
煩悩と苦しみのなくなった境地は、さとりによってのみ、到達し得る。
さとりはこの8つの正しい道によってのみ、達し得られる(同書、P43)。

以前、「空」について書いたことがある。

+++++++++++++++

●すべて「空」

 大乗仏教といえば、「空(くう)」。この空の思想が、大乗仏教の根幹をなしているといっても過
言ではない。つまり、この世のすべてのものは、幻想にすぎなく、実体のあるものは、何もな
い、と。

 この話は、どこか、映画、『マトリックス』の世界と似ている。あるいは、コンピュータの中の世
界かもしれない。

 たとえば今、目の前に、コンピュータの画面がある。しかしそれを見ているのは、私の目。そ
のキーボードに触れているのは、私の手の指、ということになる。そしてその画面には、ただの
光の信号が集合されているだけ。

 私たちはそれを見て、感動し、ときに怒りを覚えたりする。

 しかし目から入ってくる視覚的刺激も、指で触れる触覚的刺激も、すべて神経を介在して、脳
に伝えられた信号にすぎない。「ある」と思うから、そこにあるだけ(?)。

 こうした「空」の思想を完成したのは、実は、釈迦ではない。釈迦滅後、数百年後を経て、紀
元後200年ごろ、竜樹(りゅうじゅ)という人によって、完成されたと言われている。釈迦の生誕
年については、諸説があるが、日本では、紀元前463年ごろとされている。

 ということは、私たちが現在、「大乗仏教」と呼んでいるところのものは、釈迦滅後、600年以
上もたってから、その形ができたということになる。そのころ、般若経や法華経などの、大乗経
典も、できあがっている。

 しかし竜樹の知恵を借りるまでもなく、私もこのところ、すべてのものは、空ではないかと思い
始めている。私という存在にしても、実体があると思っているだけで、実は、ひょっとしたら、何
もないのではないか、と。

 たとえば、ゆっくりと呼吸に合わせて上下するこの体にしても、ときどき、どうしてこれが私な
のかと思ってしまう。

 同じように、意識にしても、いつも、私というより、私でないものによって、動かされている。仏
教でも、そういった意識を、末那識(まなしき)、さらにその奥深くにあるものを、阿頼那識(あら
やしき)と呼んでいる。心理学でいう、無意識、もしくは深層心理と、同じに考えてよいのでは
(?)。

 こう考えていくと、肉体にせよ、精神にせよ、「私」である部分というのは、ほんの限られた部
分でしかないことがわかる。いくら「私は私だ」と声高に叫んでみても、だれかに、「本当にそう
か?」と聞かれたら、「私」そのものが、しぼんでしまう。

 さらに、生前の自分、死後の自分を思いやるとよい。生前の自分は、どこにいたのか。億年
の億倍の過去の間、私は、どこにいたのか。そしてもし私が死ねば、私は灰となって、この大
地に消える。と、同時に、この宇宙もろとも、すべてのものが、私とともに消える。

 そんなわけで、「すべてが空」と言われても、今の私は、すなおに、「そうだろうな」と思ってしま
う。ただ、誤解しないでほしいのは、だからといって、すべてのものが無意味であるとか、虚(む
な)しいとか言っているのではない。私が言いたいのは、その逆。

 私たちの(命)は、あまりにも、無意味で、虚しいものに毒されているのではないかということ。
私であって、私でないものに、振りまわされているのではないかということ。そういうものに振り
まわされれば振りまわされるほど、私たちは、自分の時間を、無駄にすることになる。

●自分をみがく

 そこで仏教では、修行を重んじる。その方法として、たとえば、八正道(はっしょうどう)があ
る。これについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。正見、正思惟、正語、
正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

 が、それでは足りないとして生まれたのが、六波羅密ということになる。六波羅密では、布
施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目と位置づける。

 八正道が、どちらかというと、自己鍛錬のための修行法であるのに対して、六波羅密は、「布
施」という項目があることからもわかるように、より利他的である。

 しかし私は、こうしてものごとを、教条的に分類して考えるのは、あまり好きではない。こうした
教条で、すべてが語りつくされるとは思わないし、逆に、それ以外の、ものの考え方が否定され
てしまうという危険性もある。「まあ、そういう考え方もあるのだな」という程度で、よいのではな
いか。

 で、仏教では、「修行」という言葉をよく使う。で、その修行には、いろいろあるらしい。中に
は、わざと体や心を痛めつけてするものもあるという。怠(なま)けた体には、そういう修行も必
要かもしれない。しかし、私は、ごめん。

 大切なことは、ごくふつうの人間として、ごくふつうの生活をし、その生活を通して、その中で、
自分をみがいていくことではないか。悩んだり、苦しんだりしながらして、自分をみがいていくこ
とではないか。奇をてらった修行をしたからといって、その人の人格が高邁(こうまい)になると
か、そういうことはありえない。

 その一例というわけでもないが、よい例が、カルト教団の信者たちである。信者になったとた
ん、どこか世離れしたような笑みを浮かべて、さも自分は、すぐれた人物ですというような雰囲
気を漂わせる。「お前たち、凡人とは、ちがうのだ」と。

 だから私たちは、もっと自由に考えればよい。八正道や、六波羅密も参考にしながら、私たち
は、私たちで、それ以上のものを、考えればよい。こうした言葉の遊び(失礼!)に、こだわる
必要はない。少なくとも、今は、そういう時代ではない。

 私たちは、懸命に考えながら生きる。それが正しいとか、まちがっているとか、そんなことを
考える必要はない。その結果として、失敗もするだろう。ヘマもするだろう。まちがったこともす
るかもしれない。

 しかしそれが人間ではないか。不完全で未熟かもしれないが、自分の足で立つところに、
「私」がいる。無数のドラマもそこから生まれるし、そのドラマにこそ、人間が人間として、生きる
意味がある。

 今は、この程度のことしかわからない。このつづきは、もう少し頭を冷やしてから、考えてみた
い。
(050925記)
(はやし浩司 八正道 六波羅密 竜樹 大乗仏教 末那識 阿頼那識)

++++++++++++++++

八正道の中でも、私は、正精進こそが、
もっとも重要だと思う。

とくに、今の私のように、健康で、何一つ
不自由のない生活をしているものにとっては、
そうである。

けっして今の状況を、怠惰に過ごしてはいけない。
時間にはかぎりがあり、人生にも、それゆえに
限界がある。

それこそ死を宣告されてから、悟りを求めても、
遅いということ。

たとえば肺ガンを宣告されてから、タバコをやめたり、
胃ガンを宣告されてから、飲酒をやめても、遅い。

健康であるなら、さらに今の生活が満ち足りたものであるなら、
なおさら、私たちは、精進に精進を重ねる。

一瞬、一秒たりとも、無駄にできる時間はない。
また無駄にしてはいけない。

正精進について書いた原稿がある。
一部内容がダブるが、許してほしい。

++++++++++++++++++++

●正精進

 釈迦の教えを、もっともわかりやすくまとめたのが、「八正道(はっしょうどう)」ということにな
る。仏の道に至る、修行の基本と考えると、わかりやすい。

 が、ここでいう「正」は、「正しい」という意味ではない。釈迦が説いた「正」は、「中正」の「正」
である。つまり八正道というのは、「八つの中正なる修行の道」という意味である。

 怠惰な修行もいけないが、さりとて、メチャメチャにきびしい修行も、いけない。「ほどほど」
が、何ごとにおいても、好ましいということになる。が、しかし、いいかげんという意味でもない。

 で、その八正道とは、(1)正見、(2)正思惟、(3)正語、(4)正業、(5)正命、(6)正念、(7)
正精進(8)正定、をいう。広辞苑には、「すなわち、正しい見解、決意、言葉、行為、生活、努
力、思念、瞑想」とある。

 このうち、私は、とくに(8)の正精進を、第一に考える。釈迦が説いた精進というのは、日々
の絶えまない努力と、真理への探究心をいう。そこには、いつも、追いつめられたような緊迫感
がともなう。その緊迫感を大切にする。

 ゴールは、ない。死ぬまで、努力に努力を重ねる。それが精進である。で、その精進について
も、やはり、「ほどほどの精進」が、好ましいということになる。少なくとも、釈迦は、そう説いてい
る。

 方法としては、いつも新しいことに興味をもち、探究心を忘れない。努力する。がんばる。が、
そのつど、音楽を聞いたり、絵画を見たり、本を読んだりする。が、何よりも重要なのは、自分
の頭で、自分で考えること。「考える」という行為をしないと、せっかく得た情報も、穴のあいた
バケツから水がこぼれるように、どこかへこぼれてしまう。

 しかし何度も書いてきたが、考えるという行為には、ある種の苦痛がともなう。寒い朝に、ジョ
ギングに行く前に感ずるような苦痛である。だからたいていの人は、無意識のうちにも、考える
という行為を避けようとする。

 このことは、子どもたちを見るとわかる。何かの数学パズルを出してやったとき、「やる!」
「やりたい!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になる子どももいる。中には、となりの
子どもの答をこっそりと、盗み見する子どももいる。

 子どもだから、考えるのが好きと決めてかかるのは、誤解である。そしてやがて、その考える
という行為は、その人の習慣となって、定着する。

 考えることが好きな人は、それだけで、それを意識しなくても、釈迦が説く精進を、生活の中
でしていることになる。そうでない人は、そうでない。そしてそういう習慣のちがいが、10年、20
年、さらには30年と、積もりに積もって、大きな差となって現れる。

 ただ、ここで大きな問題にぶつかる。利口な人からは、バカな人がわかる。賢い人からは、愚
かな人がわかる。考える人からは、考えない人がわかる。しかしバカな人からは、利口な人が
わからない。愚かな人からは、賢い人がわからない。考えない人からは、考える人がわからな
い。

 日光に住む野猿にしても、野猿たちは、自分たちは、人間より、劣っているとは思っていない
だろう。ひょっとしたら、人間のほうを、バカだと思っているかもしれない。エサをよこせと、キー
キーと人間を威嚇している姿を見ると、そう感ずる。

 つまりここでいう「差」というのは、あくまでも、利口な人、賢い人、考える人が、心の中で感ず
る差のことをいう。

 さて、そこで釈迦は、「中正」という言葉を使った。何はともあれ、私は、この言葉を、カルト教
団で、信者の獲得に狂奔している信者の方に、わかってもらいたい。彼らは、「自分たちは絶
対正しい」という信念のもと、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と、相手を切って捨て
る。

 こうした急進性、ごう慢性、狂信性は、そもそも釈迦が説く「中正」とは、異質のものである。と
くに原理主義にこだわり、コチコチの頭になっている人ほど、注意したらよい。
(はやし浩司 八正道 精進 正精進)

【補足】

 子どもの教育について言えば、いかにすれば、考えることが好きな子どもにするかが、一つ
の重要なポイントということになる。要するに「考えることを楽しむ子ども」にすればよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 正見、正思惟、正語、正業、正
命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道 仏教聖典 はやし浩司)





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22

【日本の教育】

●ゆとり教育

産経新聞(2月17日)は、「未来像…学力低下はさらに進む!!」と題して、つぎのよう
に伝える。

『昨年12月下旬、福島県相馬市から県立S高校の2年生14人が、元文部大臣の有M朗
人氏(77)を東京に訪ねてやってきた。

 生徒たちは研究発表の資料を携えていた。「学力低下の要因の1つは『ゆとり教育』」「授
業で習うことが社会で役に立たないから、学習意欲・関心が低下している」「教員の質も問
題だ」…。資料には有M氏を詰問するかのような学力低下の“分析結果”が並んでいた』。

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私が過去に書いてきた原稿を集めて
みた。

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【日本の教育】

●英語教育

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外国人の客が、私の家にいるときは、
みな、英語で話すようにしている。

ワイフも、カタコト英語だが、懸命に
英語で話す。

それは客に不安感を与えないための、
最低限のマナーではないのか。

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●英語教育に「待った!」をかけた、文科相

 I文科相は、こう言った。「私は、(小学校での英語教育を)必修化する必要は、まった
くないと思う。美しい日本語ができないのに、外国の言葉をやったってダメ」と。

 こういうのを、パラドックスという。わかるかな?

 『張り紙を刷るな』という張り紙を張る。
 『私は逆らっていない』と言って、相手に逆らう。

 『美しい日本語ができないのに、外国の言葉をやったってダメ』と言って、きたない日
本語を話す。

 「外国の言葉をやったってダメ」? ……美しい日本語では、「外国の言葉を学んでも、
意味がありません」という。

 もう10数年も前から、同じような論理で、小学校での英語教育に反対している教授が
いる。しかし今どき、「英語教育が必要ない」なんて……!!

●予定では…… 

中央教育審議会の外国語専門部会は、2006年3月、「小学5年生から、週1時間程度、
英語教育を必修化する必要がある」という提言をまとめた。が、それに「待った」をか
けたのが、ほかならぬ、I文科相だった。それが冒頭に書いた言葉である。

「やったって、ダメ」と。

 そこで各小学校では、総合学習の時間を利用して、英語教育というよりは、英語活動を
するようになった。英語でゲームをしたり、リズム運動をしたりしている。結果、文科省
の調べによれば、公立小学校の93・6%が、何らかの(英語の活動)を、授業の中に取
り入れている。

 しかし現実には、過半数の学校では、月1回か、それ以下だという(以上、「朝日キーワ
ード」2007)。

●現実はどうか?

 日本が国際社会で勝ち抜き、生き残るためには、国際語としての英語教育は、MUST! 
数年前に書いた原稿を、そのままここに転載する。

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●遅れた教育改革

 2002年1月の段階で、東証外国部に上場している外国企業は、たったの36社。こ
の数はピーク時の約3分の1(90年は125社)。さらに2002年に入って、マクドナ
ルド社やスイスのネスレ社、ドレスナー銀行やボルボも撤退を決めている。

理由は「売り上げ減少」と「コスト高」。売り上げが減少したのは不況によるものだが、
コスト高の要因の第一は、翻訳料だそうだ(毎日新聞)。悲しいかな英語がそのまま通用
しない国だから、外国企業は何かにつけて日本語に翻訳しなければならない。

 これに対して金融庁は、「投資家保護の観点から、上場先(日本)の母国語(日本語)に
よる情報開示は常識」(同新聞)と開き直っている。日本が世界を相手に仕事をしようとす
れば。今どき英語など常識なのだ。しかしその実力はアジアの中でも、あの北朝鮮とビリ
2を争うしまつ。日本より低い国はモンゴルだけだそうだ(TOEFL・国際英語検定試
験で、日本人の成績は、一六五か国中一五〇位・九九年)。

日本の教育は世界の最高水準と思いたい気持ちはわからないでもないが、それは数学や
理科など、ある特定の科目に限った話。日本の教育水準は、今ではさんたんたるもの。
今では分数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レ
ベルの問題で、正解率は59%」(国立文系大学院生について調査、京大・西村)だそ
うだ。

●日本の現状

 東大のある教授(理学部)が、こんなことを話してくれた。「化学の分野には、1000
近い分析方法が確立されている。が、基本的に日本人が考えたものは、1つもない」と。

オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。し
かし日本には数えるほどしかいない。あの天下の東大には、一人もいない(2002年
時)。

ちなみにアメリカだけでも、250人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと
多い。「日本の教育は世界最高水準にある」と思うのはその人の勝手だが、その実態は、
たいへんお粗末。今では小学校の入学式当日からの学級崩壊は当たり前。はじめて小学
校の参観日(小1)に行った母親は、こう言った。「音楽の授業ということでしたが、
まるでプロレスの授業でした」と。

●低下する教育力

 こうした傾向は、中学にも、そして高校にも見られる。やはり数年前だが、東京の都立
高校の教師との対話集会に出席したことがある。その席で、一人の教師が、こんなことを
言った。いわく、「うちの高校では、授業中、運動場でバイクに乗っているのがいる」と。
すると別の教師が、「運動場ならまだいいよ。うちなんか、廊下でバイクに乗っているの
がいる」と。そこで私が「では、ほかの生徒たちは何をしているのですか」と聞くと、「み
んな、自動車の教習本を読んでいる」と。

さらに大学もひどい。大学が遊園地になったという話は、もう15年以上も前のこと。
日本では大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生
はこう言った。「ぼくたちには考えられない」と。大学制度そのものも、日本のばあい、
疲弊している! つまり何だかんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を
支えている。

もしこの日本から受験制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも
崩壊する。確かに一部の学生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。内
閣府の調査でも、「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、26%もいる(2
000年)。98年の調査よりも8%もふえた。むべなるかな、である。

●規制緩和は教育から

 日本の銀行は、護送船団方式でつぶれた。政府の手厚い保護を受け、その中でヌクヌク
と生きてきたため、国際競争力をなくしてしまった。しかし日本の教育は、銀行の比では
ない。護送船団ならぬ、丸抱え方式。教育というのは、20年先、30年先を見越して、「形」
を作らねばならない。

が、文部科学省の教育改革は、すべて後手後手。南オーストラリア州にしても、すでに
10年以上も前から、小学3年生からコンピュータの授業をしている。

メルボルン市にある、ほとんどのグラマースクールでは、中学1年で、中国語、フラン
ス語、ドイツ語、インドネシア語、日本語の中から、一科目選択できるようになってい
る。もちろん数学、英語、科学、地理、歴史などの科目もあるが、ほかに宗教、体育、
芸術、コンピュータの科目もある。

芸術は、ドラマ、音楽、写真、美術の各科目に分かれ、さらに環境保護の科目もある。
もう一つ「キャンプ」という科目があったので、電話で問い合わせると、それも必須科
目の一つとのこと(メルボルン・ウェズリー・グラマースクール)。 

 さらにこんなニュースも伝わっている。外国の大学や高校で日本語を学ぶ学生が、急減
しているという。カナダのバンクーバーで日本語学校の校長をしているM氏は、こう教え
てくれた。「どこの高等学校でも、日本語クラスの生徒が減っています。日本語クラスを
閉鎖した学校もあります」と。こういう現状を、日本人はいったいどれくらい知っている
のだろうか。

●規制緩和が必要なのは教育界

 いろいろ言われているが、地方分権、規制緩和が一番必要なのは、実は教育の世界。も
っとはっきり言えば、文部科学省による中央集権体制を解体する。地方に任すものは地方
に任す。せめて県単位に任す。

だいたいにおいて、頭ガチガチの文部官僚たちが、日本の教育を支配するほうがおかし
い。日本では明治以来、「教育というのはそういうものだ」と思っている人が多い。が、
それこそまさに世界の非常識。あの富国強兵時代の亡霊が、いまだに日本の教育界をの
さばっている!

 今まではよかった。「社会に役立つ人間」「立派な社会人」という出世主義のもと、優良
な会社人間を作ることができた。「国のために命を落とせ」という教育が、姿を変えて、「会
社のために命を落とせ」という教育に置きかわった。企業戦士は、そういう教育の中から
生まれた。が、これからはそういう時代ではない。日本が国際社会で、「ふつうの国」「ふ
つうの国民」と認められるためには、今までのような教育観は、もう通用しない。いや、
それとて、もう手遅れなのかもしれない。

 いや、こうした私の意見に対して、D氏(65歳・私立小学校理事長)はこう言った。「ま
だ日本語もよくわからない子どもに、英語を教える必要はない」と。

つまり小学校での英語教育は、ムダ、と。しかしこの論法がまかり通るなら、こうも言
える。「日本もまだよく旅行していないのに、外国旅行をするのはムダ」「地球のことも
よくわかっていないのに、火星に探査機を送るのはムダ」と。私がそう言うと、D氏は、
「国語の時間をさいてまで英語を教える必要はない。しっかりとした日本語が身につい
てから、英語の勉強をしても遅くはない」と。

●多様な未来に順応できるようにするのが教育

 これについて議論を深める前に、こんな事実がある。アメリカの中南部の各州の小学校
では、公立小学校ですら、カリキュラムを教師と親が相談しながら決めている。

たとえばルイサ・E・ペリット公立小学校(アーカンソー州・アーカデルフィア)では、
4歳児から子どもを預かり、コンピュータの授業をしている。近くのヘンダーソン州立
大学で講師をしている知人にそのことについて聞くと、こう教えてくれた。

「アメリカでは、多様な社会にフレキシブル(柔軟)に対応できる子どもを育てるのが、
教育の目標だ」と。事情はイギリスも同じで、在日イギリス大使館のS・ジャック氏も
次のように述べている。「(教育の目的は)多様な未来に対応できる子どもたちを育てる
こと」(長野県経営者協会会合の席)と。

オーストラリアのほか、ドイツやカナダでも、学外クラブが発達していて、子どもたち
は学校が終わると、中国語クラブや日本語クラブへ通っている。こういう時代に、「英語
を教える必要はない」とは!

●文法学者が作った体系

 ただ英語教育と言っても、問題がないわけではない。日本の英語教育は、将来英語の文
法学者になるには、すぐれた体系をもっている。数学も国語もそうだ。将来その道の学者
になるには、すぐれた体系をもっている。理由は簡単。

もともとその道の学者が作った体系だからだ。だからおもしろくない。だから役に立た
ない。こういう教育を「教育」と思い込まされている日本人はかわいそうだ。子どもた
ちはもっとかわいそうだ。たとえば英語という科目にしても、大切なことは、文字や言
葉を使って、いかにして自分の意思を相手に正確に伝えるか、だ。それを動詞だの、三
人称単数だの、そんなことばかりにこだわっているから、子どもたちはますます英語嫌
いになる。ちなみに中学一年の入学時には、ほとんどの子どもが「英語、好き」と答え
る。が、一年の終わりには、ほとんどの子どもが、「英語、嫌い」と答える。

●数学だって、無罪ではない 

 数学だって、無罪ではない。あの一次方程式や二次方程式にしても、それほど大切なも
のなのか。さらに進んで、三角形の合同、さらには二次関数や円の性質が、それほど大切
なものなのか。仮に大切なものだとしても、そういうものが、実生活でどれほど役に立つ
というのか。こうした教育を正当化する人は、「基礎学力」という言葉を使って、弁護する。

「社会生活を営む上で必要な基礎学力だ」と。

もしそうならそうで、一度子どもたちに、「それがどう必要なのか」、それを説明してほ
しい。「なぜ中学1年で一次方程式を学び、3年で二次方程式を学ぶのか。また学ばねば
ならないのか」と、それを説明してほしい。その説明がないまま、問答無用式に上から
押しつけても、子どもたちは納得しないだろう。

現に今、中学生の56・5%が、この数学も含めて、「どうしてこんなことを勉強しなけ
ればいけないのかと思う」と、疑問に感じているという(ベネッセコーポレーション・「第
3回学習基本調査」2001年)。

●教育を自由化せよ

 さてさきほどの話。英語教育がムダとか、ムダでないという議論そのものが、意味がな
い。こういう議論そのものが、学校万能主義、学校絶対主義の上にのっている。早くから
英語を教えたい親がいる。早くから教えたくない親もいる。早くから英語を学びたい子ど
もがいる。早くから学びたくない子どももいる。早くから英語を教えるべきだという人が
いる。早くから教える必要はないという人もいる。

要は、それぞれの自由にすればよい。今、何が問題かと言えば、学校の先生がやる気を
なくしてしまっていることだ。雑務、雑務、その上、また雑務。しつけから家庭教育ま
で押しつけられて、学校の先生が今まさに窒息しようとしている。ある教師(小学5年
担任、女性)はこう言った。

「授業中だけが、体を休める場所です」と。「子どもの生きるの死ぬのという問題をかか
えて、何が教材研究ですか」とはき捨てた教師もいた。

そのためにはオーストラリアやドイツ、カナダのようにクラブ制にすればよい。またそ
れができる環境をつくればよい。「はじめに学校ありき」ではなく、「はじめに子どもあ
りき」という発想で考える。それがこれからの教育のあるべき姿ではないのか。

また教師の雑務について、たとえばカナダでは、教師から雑務を完全に解放している。
教師は学校での教育には責任をもつが、教室を離れたところでは一切、責任をもたない
という制度が徹底している。教師は自分の住所はおろか、電話番号すら、親には教えな
い(バンクーバー市)。

だからたとえば親がその教師と連絡をとりたいときは、親はまず学校に電話をする。す
るとしばらくすると、教師のほうから親に電話がかかってくる。こういう方法がよいの
か悪いのかについては、議論が分かれるところだが、しかし実際には、そういう国のほ
うが多いことも忘れてはいけない。

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 「英語を学んだから、日本語がおろそかになる」というのは、根拠のない、まったくの
デマ。ウソ。たしかに乳幼児期に、バイリンガルの環境で子どもを育てると、言語中枢そ
のものの発達に、支障をきたすという報告は、しばしば耳にしている。しかし満5、6歳
以上の子どもには、そうした影響はない。むしろこの時期のほうが、発音にせよ、感覚的
に言語をとらえるため、すなおに身につけてくれる。

 さらに言えば、「美しい日本語」というのは、母親の会話能力によって決まる。母親が、
子どもに向って、「テメエ、殺すぞ!」(実際、ある人がコンビニで耳にした会話)という
ような言い方をしていて、どうして子どもが美しい日本語を話すようになるというのか。

 文章能力(=作文力)にいたっては、英語を学ぶことによって、よい刺激を受けること
はあっても、それで文章がへたになるということは、ない。

 I文科相の発言を聞いていると、「日本もこの程度」と思うと同時に、「日本も、ここま
でだな」と思う。

 ちなみに、現在、アジアの経済の中心地は、東京から、シンガポールに移動している。
アメリカでも、日本の経済ニュースですら、シンガポール発で、配信されている。

 ついでに日本の子どもたちの学力について。5年前に書いた原稿だが、その後、日本の
子どもたちの学力が、よりさがったという話は聞くが、あがったという話は、聞いていな
い。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
英語教育 日本の英語教育)

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【公立小中学校・放課後補習について】

 文部科学省は、公立小中学校の放課後の補習を奨励するため、教員志望の教育学部の大
学生らが児童、生徒を個別指導する「放課後学習相談室」(仮称)制度を、二〇〇三年度か
ら導入する方針をかためた(〇二年八月)。

 文部科学省の説明によれば、「ゆとり重視」の教育を、「学力向上重視」に転換する一環
で、全国でモデル校二〇〇〜三〇〇校を指定し、「児童、生徒の学力に応じたきめ細かな指
導を行う」(読売新聞)という。「将来、教員になる人材に教育実習以外に、実戦経験をつ
ませる一石二鳥の効果をめざす」とも。父母の間に広まる学力低下への懸念を払しょくす
るのがねらいだという。具体的には、つぎのようにするという。

 まず全国都道府県からモデル校を各五校を選び、(1)授業の理解が遅れている児童、生
徒に対する補習を行う、(2)逆に優秀な児童、生徒に高度で発展的な内容を教えたり、個々
の学力に応じて指導するという。

 しかし残念ながら、この「放課後補習」は、確実に失敗する。理由は、現場の教師なら、
だれしも知っている。順に考えてみよう。

第一、学校での補習授業など、だれが受けたがるだろうか。たとえばこれに似た学習に、
昔から「残り勉強」というのがある。先生は子どものためにと思って、子どもに
残り勉強を課するが、子どもはそれを「バツ」ととらえる。「君は今日、残り勉強
をします」と告げただけで泣き出す子どもは、いくらでもいる。「授業の理解が遅
れている児童、生徒」に対する補習授業となれば、なおさらである。残り勉強が、
子どもたちに嫌われ、ことごとく失敗しているのは、そのためである。

第二、反対に「優秀な児童、生徒」に対する補習授業ということになると、親たちの間
で、パニックが起きる可能性がある。「どうしてうちの子は教えてもらえないのか」
と。あるいはかえって受験競争を助長することにもなりかねない。今の教育制度
の中で、「優秀」というのは、「受験勉強に強い子ども」をいう。どちらにせよ、
こうした基準づくりと、生徒の選択をどうするかという問題が、同時に起きてく
る。

 文部科学省よ、親たちは、だれも、「学力の低下」など、心配していない。問題をすりか
えないでほしい。親たちが心配しているのは、「自分の子どもが受験で不利になること」な
のだ。どうしてそういうウソをつく! 新学習指導要領で、約三割の教科内容が削減され
た。わかりやすく言えば、今まで小学四年で学んでいたことを、小学六年で学ぶことにな
る。

しかし一方、私立の小中学校は、従来どおりのカリキュラムで授業を進めている。不利
か不利でないかということになれば、公立小中学校の児童、生徒は、決定的に不利であ
る。だから親たちは心配しているのだ。

 非公式な話によれば、文部科学省の官僚の子弟は、ほぼ一〇〇%が、私立の中学校、高
校に通っているというではないか。私はこの話を、技官の一人から聞いて確認している! 
「東京の公立高校へ通っている子どもなど、(文部官僚の子どもの中には)、私の知る限り
いませんよ」と。こういった身勝手なことばかりしているから、父母たちは文部科学省の
改革(?)に不信感をいだき、つぎつぎと異論を唱えているのだ。どうしてこんな簡単な
ことが、わからない!

 教育改革は、まず官僚政治の是正から始めなければならない。旧文部省だけで、いわゆ
る天下り先として機能する外郭団体だけでも、一八〇〇団体近くある。この数は、全省庁
の中でもダントツに多い。文部官僚たちは、こっそりと静かに、こういった団体を渡り歩
くことによって、死ぬまで優雅な生活を送れる。……送っている。そういう特権階級を一
方で温存しながら、「ゆとり学習」など考えるほうがおかしい。

この数年、大卒の就職先人気業種のナンバーワンが、公務員だ。なぜそうなのかという
ところにメスを入れないかぎり、教育改革など、いくらやってもムダ。ああ、私だって、
この年齢になってはじめてわかったが、公務員になっておけばよかった! 死ぬまで就
職先と、年金が保証されている! ……と、そういう不公平を、日本の親たちはいやと
いうほど、思い知らされている。だから子どもの受験に狂奔する。だから教育改革はい
つも失敗する。

 もう一部の、ほんの一部の、中央官僚が、自分たちの権限と管轄にしがみつき、日本を
支配する時代は終わった。教育改革どころか、経済改革も外交も、さらに農政も厚生も、
すべてボロボロ。何かをすればするほど、自ら墓穴を掘っていく。その教育改革にしても、
ドイツやカナダ、さらにはアメリカのように自由化すればよい。学校は自由選択制の単位
制度にして、午後はクラブ制にすればよい(ドイツ)。学校も、地方自治体にカリキュラム、
指導方針など任せればよい(アメリカ)。設立も設立条件も自由にすればよい(アメリカ)。
いくらでも見習うべき見本はあるではないか!

 今、欧米先進国で、国家による教科書の検定制度をもうけている国は、日本だけ。オー
ストラリアにも検定制度はあるが、州政府の委託を受けた民間団体が、その検定をしてい
る。しかし検定範囲は、露骨な性描写と暴力的表現のみ。歴史については、いっさい、検
定してはいけないしくみになっている。

世界の教育は、完全に自由化の流れの中で進んでいる。たとえばアメリカでは、大学入
学後の学部、学科の変更は自由。まったく自由。大学の転籍すら自由。まったく自由。
学科はもちろんのこと、学部のスクラップアンドビュルド(創設と廃止)は、日常茶飯
事。なのになぜ日本の文部科学省は、そうした自由化には背を向け、自由化をかくも恐
れるのか? あるいは自分たちの管轄と権限が縮小されることが、そんなにもこわいの
か?

 改革をするたびに、あちこちにほころびができる。そこでまた新たな改革を試みる。「改
革」というよりも、「ほころびを縫うための自転車操業」というにふさわしい。もうすでに
日本の教育はにっちもさっちもいかないところにきている。このままいけば、あと一〇年
を待たずして、その教育レベルは、アジアでも最低になる。あるいはそれ以前にでも、最
低になる。小中学校や高校の話ではない。大学教育が、だ。

 皮肉なことに、国公立大学でも、理科系の学生はともかくも、文科系の学生は、ほとん
ど勉強などしていない。していないことは、もしあなたが大学を出ているなら、一番よく
知っている。その文科系の学生の中でも、もっとも派手に遊びほけているのが、経済学部
系の学生と、教育学部系の学生である。このことも、もしあなたが大学を出ているなら、
一番よく知っている。いわんや私立大学の学生をや! そういう学生が、小中学校で補習
授業とは!

 日本では大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生
はこう言った。「ぼくたちには考えられない」と。大学制度そのものも、日本の場合、疲
弊している!

 何だかんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を支えている。もしこの日本
から受験制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも崩壊する。確か
に一部の学生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。内閣府の調査でも、「教
育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、二六%もいる(二〇〇〇年)。九八年の調査
よりも八%もふえた。むべなるかな、である。

 もう補習をするとかしなとかいうレベルの話ではない。日本の教育改革は、三〇年は遅
れた。しかも今、改革(?)しても、その結果が出るのは、さらに二〇年後。そのころ世
界はどこまで進んでいることやら! 

日本の文部科学省は、いまだに大本営発表よろしく、「日本の教育レベルはそれほど低く
はない」(※1)と言っているが、そういう話は鵜呑みにしないほうがよい。今では分数
の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レベルの問題
で、正解率は五九%」(国立文系大学院生について調査、京都大学西村和雄氏)(※2)
だそうだ。

 あるいはこんなショッキングな報告もある。世界的な標準にもなっている、TOEFL
(国際英語検定試験)で、日本人の成績は、一六五か国中、一五〇位(九九年)。「アジア
で日本より成績が悪い国は、モンゴルぐらい。北朝鮮とブービーを争うレベル」(週刊新潮)
だそうだ。オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロして
いる。しかし日本には数えるほどしかいない。あの天下の東大には、一人もいない。ちな
みにアメリカだけでも、二五〇人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い(田
丸謙二氏指摘)。

 「構造改革(官僚主導型の政治手法からの脱却)」という言葉がよく聞かれる。しかし今、
この日本でもっとも構造改革が遅れ、もっとも構造改革が求められているのが、文部行政
である。私はその改革について、つぎのように提案する。

(1)中学校、高校では、無学年制の単位履修制度にする。(アメリカ)
(2)中学校、高校では、授業は原則として午前中で終了する。(ドイツ、イタリアなど)
(3)有料だが、低価格の、各種無数のクラブをたちあげる。(ドイツ、カナダ)
(4)クラブ費用の補助。(ドイツ……チャイルドマネー、アメリカ……バウチャ券)
(5)大学入学後の学部変更、学科変更、転籍を自由化する。(欧米各国)
(6)教科書の検定制度の廃止。(各国共通)
(7)官僚主導型の教育体制を是正し、権限を大幅に市町村レベルに委譲する。
(8)学校法人の設立を、許認可制度から、届け出制度にし、自由化をはかる。

 が、何よりも先決させるべき重大な課題は、日本の社会のすみずみにまではびこる、不
公平である。この日本、公的な保護を受ける人は徹底的に受け、そうでない人は、まった
くといってよいほど、受けない。わかりやすく言えば、官僚社会の是正。官僚社会そのも
のが、不公平社会の温床になっている。この問題を放置すれば、これらの改革は、すべて
水泡に帰す。今の状態で教育を自由化すれば、一部の受験産業だけがその恩恵をこうむり、
またぞろ復活することになる。

 ざっと思いついたまま書いたので、細部では議論もあるかと思うが、ここまでしてはじ
めて「改革」と言うにふさわしい。ここにあげた「放課後補習制度」にしても、アメリカ
では、すでに教師のインターン制度を導入して、私が知るかぎりでも、三〇年以上になる。
オーストラリアでは、父母の教育補助制度を導入して、二〇年以上になる(南オーストラ
リア州ほか)。

大半の日本人はそういう事実すら知らされていないから、「すごい改革」と思うかもし
れないが、こんな程度では、改革にはならない。少なくとも「改革」とおおげさに言う
ような改革ではない。で、ここにあげた(1)〜(8)の改革案にしても、日本人には
まだ夢のような話かもしれないが、こうした改革をしないかぎり、日本の教育に明日は
ない。日本に明日はない。なぜなら日本の将来をつくるのは、今の子どもたちだからで
ある。
(02−8−28)※
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(※1)
 国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・一九九九年)の調査によると、日本
の中学生の学力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港についで、第五位。
以下、オーストラリア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続くそうだ。理科については、
台湾、シンガポールに次いで第三位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメ
リカ、マレーシア、と。

この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学校課長は、「順位はさがったが、(日本の教
育は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持していると言える」(中日新聞)とコメ
ントを寄せている。東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏が、「今の改革でだいじょうぶとい
うメッセージを与えるのは問題が残る」と述べていることとは、対照的である。

ちなみに、「数学が好き」と答えた割合は、日本の中学生が最低(四八%)。「理科が好き」
と答えた割合は、韓国についでビリ二であった(韓国五二%、日本五五%)。学校の外で
勉強する学外学習も、韓国に次いでビリ二。一方、その分、前回(九五年)と比べて、
テレビやビデオを見る時間が、二・六時間から三・一時間にふえている。

で、実際にはどうなのか。東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、興味ある調査結果を
公表している。教授が調べた「学力調査の問題例と正答率」によると、つぎのような結
果だそうだ。

この二〇年間(一九八二年から二〇〇〇年)だけで、簡単な分数の足し算の正解率は、
小学六年生で、八〇・八%から、六一・七%に低下。分数の割り算は、九〇・七%から
六六・五%に低下。小数の掛け算は、七七・二%から七〇・二%に低下。たしざんと掛
け算の混合計算は、三八・三%から三二・八%に低下。全体として、六八・九%から五
七・五%に低下している(同じ問題で調査)、と。

 いろいろ弁解がましい意見や、文部科学省を擁護した意見、あるいは文部科学省を批判
した意見などが交錯しているが、日本の子どもたちの学力が低下していることは、もう疑
いようがない。同じ澤田教授の調査だが、小学六年生についてみると、「算数が嫌い」と答
えた子どもが、二〇〇〇年度に三〇%を超えた(一九七七年は一三%前後)。

反対に「算数が好き」と答えた子どもは、年々低下し、二〇〇〇年度には三五%弱しか
いない。原因はいろいろあるのだろうが、「日本の教育がこのままでいい」とは、だれも
考えていない。少なくとも、「(日本の教育が)国際的にみてトップクラスを維持してい
ると言える」というのは、もはや幻想でしかない。

+++++++++++++++++++++

(※2)
 京都大学経済研究所の西村和雄教授(経済計画学)の調査によれば、次のようであった
という。

調査は一九九九年と二〇〇〇年の四月に実施。トップレベルの国立五大学で経済学など
を研究する大学院生約一三〇人に、中学、高校レベルの問題を解かせた。結果、二五点
満点で平均は、一六・八五点。同じ問題を、学部の学生にも解かせたが、ある国立大学
の文学部一年生で、二二・九四点。多くの大学の学部生が、大学院生より好成績をとっ
たという。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
学力 日本の子どもの学力 子供の学力 英語力 (はやし浩司 家庭教育 育児 育
児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education 
essayist writer Japanese essayist 教育の自由化 ゆとり教育 ゆとり教育の弊害 逆
行する日本の教育 自信をなくす日本の若者たち)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●教育の自由化

++++++++++++++++++++

アメリカの教育は、実用的。その基礎を
つくったのが、ジョン・デューイ。

アメリカを代表する、哲学者、兼、教育者である。

++++++++++++++++++++

 アメリカの教育を考えるとき、ジョン・デューイをはずして語ることはできない。18
59〜1952年の人物である。彼は、「哲学と教育は密接に関連性をもつべきだ」と考
え、哲学を教育の場で実践しようとした、最初の教育者であると考えてよい。

 彼は、日常経験を最重要視し、教育もまた、実用的(道具的)であるべきだと主張した。
それ以前、つまりちょうど彼が生まれたころ、アメリカは、法律によって、「実用的なこ
とを教えることが教育」であると、自らの教育の方向性を定めている(1862年)。そ
の方向性に、デューイは、まさに理論的根拠を与え、補強したことになる。そののち、ア
メリカには、農業、工業など、実用的な教育を目ざした学校が、無数に設立された。

 どうして教育は、実用的であってはいけないのか?

 一方、この日本では、明治時代までの本山教育が、教育の基礎になっている。「寺子屋」
という教育システムそのものが、それを踏襲したものと考えてよい。小僧を教育する本山
では、毎日、一方的な詰めこみ教育が、その柱となっていた。その本山教育に、ドイツ流
のアカデミック教育が混入した。

 それが今にみる、日本の教育の原型と考えてよい。

 が、今、日本の教育は、大きな転換期を迎えつつある。おおざっぱに言えば、アカデミ
ックな教育から、実用的な教育へと脱皮しつつある。もっとわかりやすく言えば、アメリ
カ流実用主義的教育へと、脱皮しつつある。よい例が、英語である。

 日本の英語教育は、将来、英語の文法学者になるためには、すぐれた体系を整えていた。
それもそのはず。もともと日本の英語教育は、その道の学者たちによって組み立てられて
いたからである。だから、おもしろくない。だから役にたたない。だいたい、子どもたち
の中で、将来、英語の文法学者になるのは、何%いるのだろうか? そこで今の、小学校
における英語教育が始まった。実用面に重きをおいた、英語教育である。

 数学教育も、理科教育も、同じ。さらに歴史教育も、同じ。暗記につづく、暗記。その
方式こそが、本山における小僧教育そのものと言ってよい。明けても暮れても、修行とい
う名目の、読経、写経。

 なぜ私たちが歴史を学ぶかといえば、過去の経験を、未来に生かすためである。年表を
暗記し、登場人物を暗記するような歴史教育に、どんな意味があるというのか。たとえば
スペインの小学校では、1年をかけて、1つのテーマについて、子どもたちは学ぶという
(スペイン在住の読者より)。その報告を寄せてくれた人の子どもは、1年をかけて、フ
ランス革命について勉強をしているとのこと。

 こうした教育が、なぜ、この日本では、できないのか?

 デューイは、とことん日常的経験にこだわった。そしてやがて「概念は、道具である」
という、ある意味で、当然とも言えるべき結論に達した。わかりやすく言えば、道具にな
らない概念には、価値がない、と。空理空論だけでは、人は生きてはいかれない。またそ
ういう幻想を、教育にいだいてはいけない。

 アメリカの中学校では、たとえば中古車を買うというテーマで、数学の授業を始める。
そのテーマを通して、金利計算、損得の計算、少数の計算などなどを教える。ついでに小
切手の使い方まで、教える。学んでいることが、そのまま社会に出てからも役立つ内容と
なっている。

 重要なのは、自ら考える子どもを育てること。知識ではない。自ら考える子どもである。

 日本の教育の最大の欠陥といえば、自ら考える子どもを育てないこと。いまだに明治以
来の、「もの言わぬ従順な民づくり」が、教育の柱になっている。またそのワクから一歩
も、抜け出ていない。むしろこの日本では、考える子どもを、異端視する傾向が強い。そ
ういう子どもを嫌う傾向すらある。

 何も考えないで、受験勉強だけをしていれば、それでよいのか? またそういう子ども
を、優秀な子どもと言ってよいのか?

 ジョン・デューイ流教育論にも、問題がないわけではない。しかしなぜ今、デューイか
と言えば、この混沌とした混乱状況を見ればわかる。それもそのはず。旧態依然の教科書
教育の上で、それをねじまげながら、ただ何とかしようともがいている。たとえて言うな
ら、歌舞伎という舞台の上だけで、現代映画を作ろうとするようなもの。この方式には、
おのずと、無理がある。

 どうしてこの日本は、アジアのほかの国に先がけて、(検定)教科書を撤廃しないのか。

 今は、どう考えても、もう、そういう時代ではない。中央で作った教科書を、地方があ
りがたくいただきながら、子どもたちを教育する。そんな時代ではない。日本以外の先進
国で、どの国が、検定教科書など、使っているか? 文科省は、「日本の教科書は、検定
であって、中国や韓国のように国定ではない」という、どこか「?」な答弁を繰りかえし
ている。検定も、国定も、どこもちがわない。

 自由なる教育こそが、日本を発展させる。

 これから先のことはわからないが、しかしなぜ今、アメリカがアメリカであるかといえ
ば、そこに自由な教育があったからにほかならない。ホームスクール(日本のフリースク
ール)をはじめとして、アメリカでは、学校の設立そのものが、完全に自由化されている。
もちろん失敗も多いという話も伝わってきているが、そのダイナミズムこそが、一方で、
アメリカの原動力にもなっている。

 ジョン・デューイが、すでに100年前の人と知って、改めて、私は驚く。この100
年間の間に、日本の教育は何を学んだのか。日本の文部省は、何を学んだのか。ほかの省
庁が、戦後こぞって欧米化を推し進めたのに対して、日本の文部省だけは、あえてそれに
背を向けた。なぜか? どうしてか? 

 われわれはもう、文科省が心配しているような愚民ではない。
(はやし浩司 デューイ 日本の教育 教育の自由化)

【付記】

 韓国や中国が、日本の教科書にいちゃもんをつけてきたら、日本は、こう言えばよい。
「日本には、もう、そんなものは、ありませんヨ〜」と。「そんなものを使っている国は、
全体主義国家だけだヨ〜。ハハハ」と。

 気持ちいいだろうな。もし、そう言えたら、さぞかし、気持ちいいだろうな。

 それに教科書という名称は、もうやめたらよい。「テキスト」でじゅうぶん。で、オー
ストラリアにも、テキストの検定制度というのがあるには、ある。しかしその検定をする
のは、純然たる民間団体。しかも検定するのは、暴力と性についての描写のみ。歴史につ
いては、検定してはいけないことになっている(南オーストラリア州など)。

 自由とは、「自らに由る」こと。日本が真に自由な国となるためには、まず教育から、
自由化すること。子どもたちの世界から、自由化すること。なぜなら、この国の未来は、
その子どもたちがつくるのだから。

 で、中には、「教科書がなければ、国がバラバラになる」と説く人がいる。それがどっ
こい。もしそうなら、アメリカやオーストラリアは、とっくの昔にバラバラになっている
はず。ちがいますか?

 さらについでに、「日本の天皇制がなくなれば、日本人の心はバラバラになる」と説く
人もいる。「日本人のアイデンティティは、天皇制にある」と説く人さえいる。

 本当に、そうかな? そう思いこまされているだけではないのかな?

 もしそうなら、中国や韓国は、とっくの昔にバラバラになっているはず。国の歴史とい
うことになれば、中国や韓国のほうが、日本のそれより、はるかに長〜イ。日本だって、
中国の歴史の一部にすぎない。「東洋史」という考え方は、そういう視点においた歴史観
をいうのですね。少なくとも、世界の歴史学者たちは、そう見ている。

 日本の歴史を、1500年とするなら、中国の歴史は、5500年。線で表現すると、
こうなる。もとから、かないっこない。

 日本***************(15)
 中国************************************

******************(55)

 日本人も、ここらで、そろそろ意識革命する時期にきているのではないのかな? そう、
意識革命。おかしな復古主義にこだわるのではなく、未来に向かって、前向きに進んでい
く。そのための意識革命。

 それができたとき、日本は、アジアの中でも、真の先進国になれると思うのだがなあ…
…。(つぶやきでした。)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●学歴信仰は、迷信?(有M文部大臣への反論)

 大学の教授は、高校の先生より、エライ。
高校の先生は、中学の先生より、エライ。中学の
先生は、小学校の先生より、エライ。
小学校の先生は、幼稚園の先生より、エライ。少なくと
も、大学の教授は、幼稚園の先生より、エライ。
誰しも、心の中でそう思っている。こういうのを
学歴信仰という。

 家計がひっくり返っても、親は爪に灯をともしながら、
息子のために学費を送り続ける。が、
肝心の息子様はそんな親の苦労など、どこ吹く風。
少しでも仕送りが遅れたりすると、ヤンヤ
の催促。それでも親は、「大学だけは出てもらいたい」と思う。
そしてそれが「親の務めだ」と思
う。こういうのを学歴信仰という。

 浜松にもA高校からD高校まで、ランクがある。
やっとの思いでD高校へ入れそうになると、親
は「C高校を」と希望する。そしてC高校が合格圏
に入ってくると、今度は「A高校。それが無理
なら、何とかB高校を……」と希望する。親の希望には
際限がないが、そういう思いが、誰にで
もある。こういうのを学歴信仰という。

 新聞記事だけなので、有M文部大臣の発言の真意は
わからないが、文部大臣が、母校のA
高校へ来て、「学歴信仰があるというのは迷信」と
述べたとか(99年2月)。つまり「日本には
学歴信仰はない」と。東大の総長という学歴の頂点に
立ったような人が、しかもその信仰の総
本山の、そのまた法主の立場にある有M文部大臣が、
そういう発言をするところに、日本のこ
っけいさがある。学歴信仰がなかったら、誰も、
受験勉強などしない。誰も自分の息子を塾や
予備校に通わせない。もし本当にないのなら、
成績に関係なく、東大の学生を入学させたらい
い。あるいは文部省は、学歴に関係なく、役人を雇ったらいい。

 学歴のある人には、学歴は不要だ。しかし学歴のない人は、
それを死ぬほどほしがる。お金
と同じだ。金持ちが、いくら「お金では幸福は買えません」と
言ったところで、その日のお金に困
っている庶民には、説得力はない。私もある時期、
自分の学歴にしがみついて生きていた。特
にこの教育の世界ではそうで、もし私に学歴がなかったら、
私の教育論になど、誰も耳を傾け
てくれなかっただろう。反対に肩書きや地位がないため、
いかに辛酸をなめさせられたことか。

 話は変わるが、ニュージーランドのある小学校では、
その年から手話を教えるようになったと
言う。教室の壁には、手話の仕方が描いた絵が、
ペタペタとはってあった(テレビ番組より)。理
由は、その年から、聴力のない子どもが入学してきたからだという。
こういう姿勢、つまりその
子どもに合わせて、学校が自由にカリキュラムを組むという姿勢の中に、
私は学校の本来、あるべき姿を見た。

反対にもし日本の小学校で、こういう身体に障害のある子どもが
入学してきたら、教師や父母は、どのように反応するだろうか。
さまざまな問題が起きるであろうし、その起きる背景に、
学歴信仰がある。天下の文部大臣にさからって恐縮だが、
文部大臣ももう少し庶民の側におりて、ものを考えてほしいと
思う。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 この原稿を書いた時点(01年)と今では、
障害児に対する考え方が、大きく変わってきた。
15年ほど前のことだが、ある小学校(静岡県)で、
1人の身体に障害のある子どもを入学させようとしたことがある。
そのとき、「そういう子どもが入ってくると、
子どもたちの勉強の進度にさしさわりが出る」と、
反対運動を起こした親たちがいた。テレビなどでも、
報道されたので、覚えている人も多いと思う。

 たった15年前には、日本はまだそういう国だった。
が、今、そんな反対運動をすれば、反対に、その親たちが
袋叩きにあうだろう。日本の教育というより、
親たちの意識が、たしかに今、変わりつつある。
(はやし浩司 学歴信仰 学校神話 受験カルト)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●「公」について(What is “Public”?)

 以前、教育改革国民会議は、つぎのような報告書を、中央教育審議会に送った。いわく
「自分自身を律し、他人を思いやり、自然を愛し、個人の力を超えたものに対する畏敬(い
けい)の念をもち、伝統文化や社会規範を尊重し、郷土や国を愛する心や態度を育てると
ともに、社会生活に必要な基本的知識や教養を身につけることを、教育の基礎に位置づけ
る」と。

 こうした教育改革国民会議の流れに沿って、教育基本法の見なおしに取り組む中央教育
審議会は、〇二年一〇月一七日、中間報告案を公表した。それによれば、「国や社会など、
『公』に主体的に参画する意識や、態度を涵養(かんよう)することが大切」とある。

 一読するだけで頭が痛くなるような文章だが、ここに出てくる「涵養(かんよう)」とは
何か。日本語大辞典(講談社)によれば、「知識や見識をゆっくりと身につけること」とあ
る。が、それにしても、抽象的な文章である。実は、ここに大きな落とし穴がある。こう
した審議会などで答申される文章は、抽象的であればあるほど、よい文章とされる。その
ほうが、官僚たちにとっては、まことにもって都合がよい。解釈のし方によっては、どの
ようにも解釈できるということは、結局は、自分たちの思いどおりに、答申を料理できる。
好き勝手なことができる。

 しかし否定的なことばかりを言っていてはいけないので、もう少し、内容を吟味してみ
よう。

 だいたいこの日本では、「国を守れ」「国を守れ」と声高に叫ぶ人ほど、国の恩恵を受け
ている人と考えてよい。お寺の僧侶が、信徒に向かって、「仏様を供養してください」と言
うのに似ている。具体的には、「金を出せ」と。しかし仏様がお金を使うわけではない。実
際に使うのは、僧侶。まさか「自分に金を出せ」とは言えないから、どこか間接的な言い
方をする。要するに「自分を守れ」と言っている。

 もちろん私は愛国心を否定しているのではない。しかし愛「国」心と、そこに「国」と
いう文字を入れるから、どうもすなおになれない。この日本では、国というと、体制を意
味する。戦前の日本や、今の北朝鮮をみれば、その意味がわかるはず。「民」は、いつも「国」
の道具でしかなかった。

 そこで欧米ではどうかというと、たとえば英語では、「patriotism」という。もともとは、
ラテン語の「パトリオータ(父なる大地を愛する人)」という語に由来する。日本語では、
「愛国心」と訳すが、中身はまるで違う。この単語に、あえて日本語訳をつけるとしたら、
「愛郷心」「愛土心」となる。「愛国心」というと反発する人もいるかもしれないが、「愛郷
心」という言葉に反発する人はいない。

 そこで気になるのは、「国や社会など、『公』に主体的に参画する意識や、態度を涵養(か
んよう)することが大切」と答申した、中教審の中間報告案。

 しかしご存知のように、今、日本人の中で、もっとも公共心のない人たちといえば、皮
肉なことに、公務員と呼ばれる人たちではないのか。H市の市役所に三〇年勤めるK市(五
四歳)も私にこう言った。「公僕心? そんなもの、絶対にありませんよ。私が保証します
よ」と。

とくに長年、公務員を経験した人ほどそうで、権限にしがみつく一方、管轄外のことは
いっさいしない。情報だけをしっかりと握って、それを自分たちの地位を守るために利
用している。そういう姿勢が身につくから、ますます公僕心が薄れる。恐らく戦争にな
れば、イの一番に逃げ出すのが、官僚を中心とする公務員ではないのか。そんなことは、
先の戦争で実証ずみ。ソ連が戦争に参画してきたとき、あの満州から、イの一番に逃げ
てきたのは、軍属と官僚だった。

 私たちにとって大切なことは、まずこの国や社会が、私たちのものであると実感するこ
とである。もっとわかりやすく言えば、国あっての民ではなく、民あっての国であるとい
う意識をもつことである。とくに日本は民主主義を標榜(ひょうぼう)するのだから、こ
れは当然のことではないのか。そういう意識があってはじめて、私たちの中に、愛郷心が
生まれる。「国や社会など、『公』に主体的に参画する意識」というのは、そこから生まれ
る。

 これについて、教育刷新委員会(委員長、安倍能成・元文部大臣)では、「本当に公に使
える人間をつくるには、個人を一度確立できるような段階を経なければならない。それが
今まで、日本に欠けていたのではないか」(哲学者、務台理作氏)という意見が大勢をしめ
たという(読売新聞)。私もそう思う。まったく同感である。言いかえると、「個人」が確
立しないまま、「公」が先行すると、またあの戦時中に逆もどりしてしまう。あるいは日本
が、あの北朝鮮のような国にならないともかぎらない。それだけは何としても、避けなけ
ればならない。

 再び台頭する復古主義。どこか軍国主義の臭いすらする。教育の世界でも今、極右勢力
が、力を伸ばし始めている。S県では、武士道を教育の柱にしようとする教師集団さえ生
まれた。それを避けるためにも、私たちは早急に、務台氏がいう「個人の確立」を目ざさ
ねばならない。このマガジンでも、これからも積極的に、この問題については考えていき
たい。
(02−11−4)

(読者のみなさんへ)
 私の意見に賛成してくださいそうな人がいたら、この記事を転送していただけませんか。
みなさんがそれぞれの立場で、民主主義を声を高くして叫べば、この日本は確実によくな
ります。みんなで、子孫のために、すばらしい国をつくりましょう!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 公僕意識 公教育 道徳教
育)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●明治の偉勲たち(Our leaders in Meiji Period)

 明治時代に、森有礼(もり・ありのり)という人がいた。1847〜1889年の人で
ある。教育家でもあり、のちに文部大臣としても、活躍した。

 その森有礼は、西洋的な自由主義者としても知られ、伊藤博文に、「日本産西洋人」と評
されたこともあるという(PHP「哲学」)。それはともかくも、その森有礼が結成したの
が、「明六社」。その明六社には、当時の若い学者たちが、たくさん集まった。

 そうした学者たちの中で、とくに活躍したのが、あの福沢諭吉である。

 明六社の若い学者たちは、「封建的な身分制度と、それを理論的に支えた儒教思想を否定
し、不合理な権威、因習などから人々を解放しよう」(同書)と、啓蒙運動を始めた。こう
した運動が、日本の民主化の基礎となったことは、言うまでもない。

 で、もう一度、明六社の、啓蒙運動の中身を見てみよう。明六社は、

(1)封建的な身分制度の否定
(2)その身分制度を理論的に支えた儒教思想の否定
(3)不合理な権威、因習などからの人々の解放、を訴えた。 

 しかしそれからちょうど100年。私の生まれた年は、1947年。森有礼が生まれた
年から、ちょうど、100年目にあたる。(こんなことは、どうでもよいが……。)この日
本は、本当に変わったのかという問題が残る。反対に、江戸時代の封建制度を、美化する
人たちまで現われた。中には、「武士道こそ、日本が誇るべき、精神的基盤」と唱える学者
までいる。

 こうした人たちは、自分たちの祖先が、その武士たちに虐(しいた)げられた農民であ
ったことを忘れ、あたかも自分たちが、武士であったかのような理論を展開するから、お
かしい。

 武士たちが、刀を振りまわし、為政者として君臨した時代が、どういう時代であったか。
そんなことは、ほんの少しだけ、想像力を働かせば、だれにも、わかること。それを、反
省することもなく、一方的に、武士道を礼さんするのも、どうかと思う。少なくとも、あ
の江戸時代という時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治の時
代であったことを忘れてはならない。

 その封建時代の(負の遺産)を、福沢諭吉たちは、清算しようとした。それがその明六
社の啓蒙運動の中に、集約されている。

 で、現実には、武士道はともかくも、いまだにこの日本は、封建時代の負の遺産を、ひ
きずっている。その亡霊は、私の生活の中のあちこちに、残っている。巣をつくって、潜
んでいる。たとえば、いまだに家父長制度、家制度、長子相続制度、身分意識にこだわっ
ている人となると、ゴマンといる。

 はたから見れば、実におかしな制度であり、意識なのだが、本人たちには、それが精神
的バックボーンになっていることすら、ある。

 しかしなぜ、こうした制度なり意識が、いまだに残っているのか?

 理由は簡単である。

 そのつど、世代から世代へと、制度や意識を受け渡す人たちが、それなりに、努力をし
なかったからである。何も考えることなく、過去の世代の遺物を、そのままつぎの世代へ
と、手渡してしまった。つまりは、こうした意識は、あくまでも個人的なもの。その個人
が変わらないかぎり、こうした制度なり意識は、そのままつぎの世代へと、受け渡されて
しまう。

 いくら一部の人たちが、声だかに、啓蒙運動をしても、それに耳を傾けなければ、その
個人にとっては、意味がない。加えて、過去を踏襲するということは、そもそも考える習
慣のない人には、居心地のよい世界でもある。そういう安易な生きザマが、こうした亡霊
を、生き残らせてしまった。

 100年たった今、私たちは、一庶民でありながら、森有礼らの啓蒙運動をこうして、
間近で知ることができる。まさに情報革命のおかげである。であるなら、なおさら、ここ
で、こうした封建時代の負の遺産の清算を進めなければならない。

 日本全体の問題として、というよりは、私たち個人個人の問題として、である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 負の遺産 復古主義 教育
の復古主義 武士道 封建主義の亡霊 封建主義的教育)




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家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ. writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武
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罰 多動児男児の女性化 断絶 チック 長男・二男 直観像素質 溺愛 動機づけ 子供の同性愛 トラブル 仲間はずれ 生意気な子
ども 二番目の子 はやし浩司 タイプ別育児論 伸び悩む子ども 伸びる子ども 発語障害 反抗 反抗期(第一反抗期) 非行 敏捷
(びんしょう)性 ファーバー方式 父性と母性 不登校 ぶりっ子(優等生?) 分離不安 平和教育 勉強が苦手 勉強部屋 ホームスク
ール はやし浩司 タイプ別育児論 本嫌いの子ども マザーコンプレックス夢想する子ども 燃え尽き 問題児 子供のやる気 やる気
のない子ども 遊離(子どもの仮面) 指しゃぶり 欲求不満 よく泣く子ども 横を見る子ども わがままな子ども ワークブック 忘れ物が
多い子ども 乱舞する子ども 赤ちゃんがえり 赤ちゃん帰り 赤ちゃん返り 家庭内暴力 子供の虚言癖 はやし浩司 タイプ別育児論
はじめての登園 ADHD・アメリカの資料より 学校拒否症(不登校)・アメリカ医学会の報告(以上 はやし浩司のタイプ別育児論へ)東
洋医学 漢方 目で見る漢方診断 東洋医学基礎編 はやし浩司 東洋医学 黄帝内経 素問 霊枢 幼児教育 はやし浩 林浩司 林
浩 幼児教育研究 子育て評論 子育て評論家 子どもの心 子どもの心理 子ども相談 子ども相談 はやし浩司 育児論 子育
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