書庫4
はやし浩司
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●親子の確執

●名古屋市のSさんへ

 マガジンの読者(母親)の方から、こんな相談をもらった。

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 中学生になる息子がいる。しかし頭の中ではわかっていても、実際に、子どもを前にすると、
思うように、子育てができない。今は、受験期で、どうしてもピリピリとしてしまう。

 私自身も、高学歴で、それを子どもに求めてしまうのか。小学校のときは、何も言うことがな
いほど優秀な子どもだったが、このところ、成績もさがってきた。そのため、よけに、ピリピリし
てしまう。

 『許して忘れる』と、心の中で思うのだが、どうも、うまく子育てができない。どうしたら、いい
か。

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この相談を読んで、最初に思い出し
たのが、つぎの原稿(中日新聞発表
済み)です。

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親が過去を再現するとき

●親は子育てをしながら過去を再現する 

 親は、子どもを育てながら、自分の過去を再現する。そのよい例が、受験時代。

それまではそうでなくても、子どもが、受験期にさしかかると、たいていの親は言いようのない
不安に襲われる。受験勉強で苦しんだ親ほどそうだが、原因は、「受験勉強」ではない。受験
にまつわる、「将来への不安」「選別されるという恐怖」が、その根底にある。それらが、たとえ
ば子どもが受験期にさしかかったとき、親の心の中で再現される。

つい先日も、中学一年生をもつ父母が、二人、私の自宅にやってきた。そしてこう言った。「一
学期の期末試験で、数学が二一点だった。英語は二五点だった。クラスでも四〇人中、二〇
番前後だと思う。こんなことでは、とてもS高校へは入れない。何とかしてほしい」と。二人とも、
表面的には穏やかな笑みを浮かべていたが、口元は緊張で小刻みに震えていた。

●「自由」の二つの意味

 この静岡県では、高校入試が人間選別の重要な関門になっている。その中でもS高校は、最
難関の進学高校ということになっている。私はその父母がS高校という名前を出したのに驚い
た。「私は受験指導はしません……」と言いながら、心の奥で、「この父母が自分に気がつくの
は、一体、いつのことだろう」と思った。

 ところで「自由」には、二つの意味がある。行動の自由と魂の自由である。行動の自由はとも
かくも、問題は魂の自由である。

実はこの私も受験期の悪夢に、長い間、悩まされた。たいていはこんな夢だ。……どこかの試
験会場に出向く。が、自分の教室がわからない。やっと教室に入ったと思ったら、もう時間がほ
とんどない。問題を見ても、できないものばかり。鉛筆が動かない。頭が働かない。時間だけが
刻々と過ぎていく……。

●親と子の意識のズレ

親が不安になるのは、親の勝手だが、中にはその不安を子どもにぶつけてしまう親がいる。
「こんなことでどうするの!」と。そういう親に向かって、「今はそういう時代ではない」と言っても
ムダ。脳のCPU(中央処理装置)そのものが、ズレている。親は親で、「すべては子どものた
め」と、確信している。

こうしたズレは、内閣府の調査でもわかる。内閣府の調査(二〇〇一年)によれば、中学生で、
いやなことがあったとき、「家族に話す」と答えた子どもは、三九・一%しかいなかった。これに
対して、「(子どもはいやなことがあったとき)家族に話すはず」と答えた親が、七八・四%。

子どもの意識と親の意識が、ここで逆転しているのがわかる。つまり「親が思うほど、子どもは
親をアテにしていない」(毎日新聞)ということ。が、それではすまない。

「勉強」という言葉が、人間関係そのものを破壊することもある。同じ調査だが、「先生に話す」
はもっと少なく、たったの六・八%! 本来なら子どものそばにいて、よき相談相手でなければ
ならない先生が、たったの六・八%とは! 

先生が「テストだ、成績だ、進学だ」と追えば追うほど、子どもの心は離れていく。親子関係も、
同じ。親が「勉強しろ、勉強しろ」と追えば追うほど、子どもの心は離れていく……。

 さて、私がその悪夢から解放されたのは、夢の中で、その悪夢と戦うようになってからだ。試
験会場で、「こんなのできなくてもいいや」と居なおるようになった。あるいは皆と、違った方向
に歩くようになった。どこかのコマーシャルソングではないが、「♪のんびり行こうよ、オレたち
は。あせってみたとて、同じこと」と。夢の中でも歌えるようになった。……とたん、少しおおげさ
な言い方だが、私の魂は解放された!

●一度、自分を冷静に見つめてみる

 たいていの親は、自分の過去を再現しながら、「再現している」という事実に気づかない。気
づかないまま、その過去に振り回される。子どもに勉強を強いる。先の父母もそうだ。それまで
の二人を私はよく知っているが、実におだやかな人たちだった。

が、子どもが中学生になったとたん、雰囲気が変わった。そこで……。あなた自身はどうだろう
か。あなた自身は自分の過去を再現するようなことをしていないだろうか。今、受験生をもって
いるなら、あなた自身に静かに問いかけてみてほしい。あなたは今、冷静か、と。

そしてそうでないなら、あなたは一度、自分の過去を振り返ってみるとよい。これはあなたのた
めでもあるし、あなたの子どものためでもある。あなたと子どもの親子関係を破壊しないためで
もある。受験時代に、いやな思いをした人ほど、一度自分を、冷静に見つめてみるとよい。
 
+++++++++++++++++

 親が、子どもに残せるものは、何か? ……ときどき、そんなことを考える。

 私のばあい、財産といっても、ほとんど、ない。コツコツとためた小銭は、多少はあるが、これ
からの老後を考えると、とても、足りない。

 名誉も、地位もない。「○○家」というような、家柄でもない。それにほぼ、一生を終えつつあ
るが、これといって、何かをしてきたわけではない。平凡であるのが悪いとは思わないが、しか
し私の人生は、本当に、平凡だった。

 そういう私が、子どもに残せるものは、何か?

 昔、学生時代に、こんな歌を歌ったことがある。

♪死んだ親が、あとに残す 宝物は何ぞ
力強く男らしい それは仕事の歌
力強く男らしい それは仕事の歌
ヘイこの若者よ ヘイ前へ進め 
さあ、みんな前へ進め(ロシア民謡・津川主一訳詞)

 この歌を、少し、もじるとこうなる。

   ♪死んだ親が、あとに残す、宝物は何ぞ
    子どもを信じきったという、かたい信念
    子どもを守りきったという、強い自信
    そして子どもを愛しきったという、熱い愛情
    さあ、子どもたちよ、それを土台に、前へ進め

 決して、ふざけているのではない。むしろ、今、本気でそう思っている。もちろん私とて、今ま
でに何度も、デッドロックにのりあげたことがある。不安や心配を、そのまま子どもにぶつけた
こともある。決して、よい親でも、父親でもなかった。

 しかし今、自分の子育てを振りかえってみて、心の中で、光り輝き始めているのは、ほかでも
ない、まがりなりにも、子どもを信じ、子どもを守り、子どもを愛したという、その自負心である。
財産でも、名誉でも、地位でもない。学歴でも、ない。その自負心である。

 名古屋市のSさんは、今、子育てをしながら、その混乱の中で、もがき、苦しんでいる。しかし
そうであるかといって、それは、Sさん自身の責任ではない。一方で、私たちの体の中には、日
本独特の学歴信仰、学歴社会、そして受験競争がしみこんでいる。

 いくら「私は私だ」と思っていても、私たちは、こうした体質とは、無縁ではいられない。無意識
の世界は、意識の世界より、はるかに広い。私たちの心は、常に、この無意識の世界に支配
されている。「頭の中ではわかっていても……」というSさんの思いは、そういうところから生ま
れる。

 だから、その体質を変えるのは、容易なことではない。たとえばこんな例がある。

 A氏(三五歳)は、子どものころから、親とともに、ある宗教団体で、信仰を重ねてきた。が、
ある日、その信仰に疑問をもってしまった。A氏に異変が起きたのは、そのときからだった。

 A氏の妻からの手紙だが、こう書いてきた。

 「夫は、国立大学の工学部を出たような人で、それなりにインテリだと思います。そんな夫
が、毎日、毎晩、バチが当たると言って、こわがって、体を震わせています」と。

 決して、オーバーに書いたのではない。むしろ、私は、控えめに書いた。その宗教団体では、
その団体を批判したり、その「長」の悪口を言っただけで、地獄へ落ちるとか、バチが当たると
か言って、信者をおどしている。

 私のような部外者からみると、何ともおかしな話だが、本人にとっては、そうではない。子ども
のときから信仰してきた宗教だけに、よけいに、そうなのだろう。いわんや、明治時代以来、国
策(?)として、日本の教育の「柱」となってきた、学歴信仰をや!

【Sさんへ……】

 今が、正念場だと思います。無意識のうちにも、あなたは自分の少女時代を再現しているの
です。このことは、心理学の世界でも、常識です。つまり親は、子育てをしながら、無意識のう
ちにも、自分の過去を、そのつど再現します。

 今、あなたが、極度の不安状態になるのは、かつてあなたが少女のとき、そうであったから
に、ほかなりません。

 しかし幸いなことに、すでにあなた自身が、自分を客観的に見る目をもっている。これはとて
も重要なことです。ほとんどの親は、そういう目ももたないまま、そしてわけがわからないまま、
「私であって私でない部分」に、振りまわされてしまうのです。

 もちろん客観的に見ることができるからといって、そのまま、問題が解決するということはあり
ません。身にしみこんだ体質というのは、そういうものです。しかしここで恐れたり、ひるんだり
してはいけません。とにかく、前に向って進むのです。あとは、必ず、時間が解決してくれます。

 ちなみに、あなたのまわりにいる人を、観察してみてください。あなたのまわりには、子どもの
受験勉強で、狂奔(きょうほん)している人は、多いはずです。そういう人たちを見ると、つまり
今のあなたの目から見ると、「私であって私でない部分」に、動かされているのが、よくわかる
はずです。客観的に自分を見つめる目をもっているというだけでも、他人を見る目が、大きく違
ってきます。

 今のあなたの子どもは、かつてあなたがそうであったように、苦しんでいます。毎日を悶々と
した状態で、過ごしています。この日本では、こうした受験競争は避けられない道かもしれませ
んが、それでも、あなたの見方が変われば、あなた自身も、それで救われますが、あなたの子
どもも救われます。それともあなたは、自分がそうであったことを、あなたの子どもにしてほしい
ですか? それを望んでいますか?

 そうでないなら、あなたも、勇気を出して、あなたの子どもに、こう言ってみてください。

 「いいのよ。あなたはあなただから。あなたはあなたの信ずる道を行きなさい。あなたはよく
がんばってきた。今も、がんばっている。お母さんは、あなたを信じていますよ」と。

 実は、今、私も、同じような悩みをかかえています。

 三男が、今度、今の大学をやめて、パイロットになると言っています。先日、宮崎県で、その
三次試験を受けてきたところです。最終的な合格発表は、もうすぐですが、親の私の心境は、
複雑です。

 「パパは、反対か?」と、ときどき聞きますが、賛成する親はいないと思います。これから先、
飛行機事故のニュースを聞くたびに、私は、ハラハラしなければなりません。(私自身も飛行機
事故を経験し、飛行機恐怖症ということもあります。)

 しかし、三男が、それを望むというのであれば、私は、それを支えるしかありません。三男を
信じるしかありません。「お前の人生は、お前のものだから、勝手に生きろ」とです。

 親というのは、いつも、その「限界」の中で、生きるものかもしれません。「何とかならないもの
か」と思いつつ、しかしその限界を感じ、そしてそれを受入れる……。が、それとて、簡単なこと
ではありません。

 限界を認めないで、子どもを苦しませるか。反対に限界を認めて、親が苦しむか。最終的に
は、その選択を迫られます。今、Sさんは、その最終的な選択を迫られているといってもよいで
しょう。しかし、決して今の状態が、結論ということでもなければ、またこれから先、ずっとつづく
ということではありません。

 もうすぐあなたも、今の状況から抜け出し、(ただの親)から、(真の親)へと、脱皮するはずで
す。そしてそのとき、あなたは、真の親の喜びを感ずるはずです。それが、私がここでいう、「子
どもを信じきった」「子どもを守りきった」「子どもを愛しきった」という喜びです。

 あとのことは、子どもに任せましょう。そういう親の心を土台にして、どう生きていくかは、もう
親の関知することではないのです。ただ、今、ここであなたが、自分を変えれば、あなたの子ど
もは、今度、自分が親になったとき、今のあなたが感じているような苦しみや悩みは、覚えなく
てもすむだろうということです。

 もうあんな愚劣な、苦しみは、たくさん。コリゴリ。もちろんだからといって、私は、今の制度を
否定しているのではありません。勉強(学問)を否定しているのではありません。しかし考えよう
によっては、もっと別の方法があるのではないかということ。少なくとも、親子の絆(きずな)を、
こなごなにしてまでする価値は、ないということです。もしそれがわからなければ、今のあなた
と、あなたの両親の関係を、冷静に見つめてみることです。

 きついことを書きましたが、何かの参考になればうれしいです。またこのマガジンを、あちこち
に紹介してくださっているとか。ありがとうございます。ご恩は決して忘れません。また何かあれ
ば、ご連絡ください。
(031205)




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●意識について

●絶対的な意識は、ない

 人間のもつ「意識」ほど、いいかげんなものはない。意識には、絶対的なものもなければ、普
遍的なものもない。いろいろな例がある。

 私が、それに最初に気づいたのは、オーストラリアで留学生活をしていたときのことだった。
私には、何も自慢するものがなかった。それで、ことあるごとに、私は、「ぼくは、日本へ帰った
ら、M物産という会社に入社する。日本でナンバーワンの会社だ」と、そう言っていた。

 が、ある日、一番、仲のよかったD君(オーストラリア人)が、こう言った。「ヒロシ、もうそんな
こと言うのは、よせ。君は、知らないかもしれないが、日本人のビジネスマン(商社マン)は、こ
こ、オーストラリアでは、軽蔑されている」と。

 私は、大学四年生になると、何も迷わず、商社マンの道を選んだ。それが私にとって、正しい
道だと信じていた。しかしその商社マンが、オーストラリアでは、軽蔑されていた!

 当時の日本は、高度成長期のまっただ中。新幹線を走らせ、東京オリンピックを成功させ、
大阪万博を開いていた。そういう時代である。同級生たちのほとんどは、銀行マンや証券マン
の道を選んだ。

有名な企業であればあるほど、よかった。大きな企業であればあるほど、よかった。が、そうい
った意識は、実は、そのときの日本という、大きな社会で、作られたものだった。

 D君のこの言葉は、私の一生に関するものだっただけに、私に大きな衝撃を与えた。私は自
分のもっている意識を、そのとき、こなごなに、破壊された。が、同時に、私は未来への展望
を、見失ってしまった。

 それはそれとして、こうした意識を、私たちは、生活のあらゆる部分でもっている。人生観、
哲学観、宗教観にはじまって、好み、嗜好(しこう)、夢や希望などなど。が、どれ一つとて、絶
対的なものは、ない。普遍的なものも、ない。

 たとえば私は、中学一年生のとき、ある女の子が好きになった。好きで好きで、たまらなかっ
た。で、そのときは、その女の子ほど、すばらしい女性は、いないと思った。だから生涯にわた
って、その女の子を好きなままだろうと思った。思っただけではなく、そういうふうに信じてい
た。

 しかしその恋は、やがてシャボン玉がはじけるように消えた。そしてそれにかわって、「どうし
てあんな女の子が好きだったのだろう」と思うようになった。

●子育て観も、同じ
 
 もちろん、子どもに対する親の意識にも、絶対的なものもなければ、普遍的なものもない。そ
のことを思い知らされたのは、こんなことを知ったときだ。

 アメリカでは、学校の先生が、親を呼びつけて、「お宅の子を、落第させます」と言うと、親は、
それに喜んで従う。「喜んで」だ。

 あるいは自分の子どもの成績がさがったりすると、反対に、親のほうから、学校へ落第を頼
みにいくケースもある。

 これはウソでも、誇張でもない。事実だ。アメリカの親たちは、そのほうが、子どものためにな
ると考える。が、この日本では、そうはいかない。そうはいかないことは、あなた自身が、いち
ばん、よく知っている。

 意識というのは、そういうもの。

 そこで、いくつかの教訓がある。一つは、今、自分がもっている意識を、絶対的であるとか、
普遍的なものであるとか、そういうふうに、思ってはいけないということ。

 つぎに、意識というのは、変わりうるものだという点で、自分の意識には、謙虚になること。自
分の意識を、他人や家族に、押しつけてはいけない。

 もう一つは、意識というのは、どんどんと変えていかねばならないということ。変わることを恐
れてはいけない。また一つの意識に、固執してはいけない。

●そのときどきの、「懸命」さ

 こう書くと、意識というのは、流動的ということになる。そういう前提に立つなら、「では、何を信
じたらいいのか」という問題が起きてくる。

 その答は、ただひとつ。「そのときどきで、懸命に生きればいい」ということ。

 よく若い人が、こう言う。「あとになって後悔するよりも、ぼくは、今、自分が信じていることをし
たい」と。

 それはそのとおりで、他人の意見というのは、あくまでも参考にしかならない。仮にその意識
が変化しうるものであっても、そのときは、そのときで、懸命に生きればよい。その結果がどう
なろうとも、それは、そのあとに、考えればよい。

 たとえばわかりやすい例で、考えてみよう。

 だれか女の子に恋をしたとする。そのとき、その女の子が好きだったら、とことん好きになれ
ばよい。その意識が変わるとか、そういうことは考えなくてもよい。その「懸命さ」の中に、重大
な意義がある。

 そして、その女の子と、結婚したとする。が、しばらくは、ラブラブのハネムーンがつづいた
が、そこで意識が変化したとする。落胆と幻滅が、結婚生活をおおうようになり、やがて小さな
すきま風が吹くようになったとする。しかしここで大切なことは、だからといって、結婚したのが
まちがっていたとか、失敗だったとか、そういうふうには考えていけない。

 仮に離婚ということになったとしても、「懸命にその女の子を愛し、結婚にこぎつけた」という事
実は、消えない。またその事実があれば、「失敗」ということは、ありえない。

 むしろ恥ずべきは、合理と打算で、懸命でない人生を送ること。いくら表面的に、うまくいって
いても、あるいはそう見えても、そういう人生には、価値はない。

●懸命に生きるから、結果が生まれる

 そのときは、そのときの意思を信じて、真正面からものごとに、ぶつかっていく。たとえその意
識が、だれかに批判されても、気にすることはない。あなたは、どこまでいっても、あなた。その
あなたを決めるのは、あなたをおいて、ほかにない。

 私も、M物産という会社をやめ、幼稚園の講師になると母に告げたとき、母や、電話口の向
こうで、泣き崩れてしまった。「浩ちゃん、あんたは、道を誤ったア!」と。

 だからといって、母を責めているのではない。母は母で、その当時の常識の中でつくられた
意識に従っていただけである。

 で、その肝心の私はどうかというと、「誤った」とは、まったく思っていない。道をまちがえたと
も思っていない。そのあとの生活は、たしかに苦しかったが、しかし、私は、一度だって、後悔し
たことはない。

 なぜ、後悔しないかといえば、私は私で、そのときどきにおいて、懸命に考え、懸命に結論を
だし、懸命に行動したからにほかならない。つまり、その「懸命」さが、私を救った。むしろ今、
あのとき、M物産をやめてよかったと思うことが多い。

 ときどきワイフは、こう言う。「あのまま、M物産にいれば、あなたは、もう少し、楽な道を歩む
ことができたかもしれないわね」と。

 しかし、もし今ごろ、M物産にいたら、都会のオフィスで、お金の計算ばかりしているだろうと
思う。あるいは私のことだから、出世競争に巻きこまれて、とっくの昔に死んでいるかもしれな
い。死なないまでも、廃人のようになっているかもしれない。

●そして運命

 懸命に生きていくと、そのつど、その先に、進むべき、道が見えてくる。もちろんそれまでに歩
んできた道もあるが、それが運命である。

 もう少しわかりやすく言うと、最大限、つまり懸命に生きていると、そのつど、そこに「限界」が
現れてくる。その限界状況の中で作られていくのが、その人の運命である。

 たとえばこれは極端な例だが、魚はいくらがんばっても、陸にはあがれない。もちろん空も飛
べないし、宇宙へ飛び出すこともできない。

 こうした「限界」は、あらゆる生物にあり、人間もまた、その限界の中で、生きている。もちろ
ん、私も、あなたも、である。それはあるが、しかし、その限界が、運命を決めるわけでもない。
「限界」という、大きなワクは決まっているかもしれないが、その中で、どう生きていくかというこ
とは、その人自身が、決める。

 また、よく誤解されるが、運命というのは、あらかじめ決まっているものでもない。

もしあらかじめ決まっているものなら、懸命に生きても、またそうでなくても、進むべき道は、同
じということになる。しかし、そんなことは、ありえない。さらに一歩、譲って、仮に、運命というも
のがあるとしても、最後の最後のところで、ふんばって生きる。そこに、懸命に生きる人間の価
値がある。意味がある。

 「意識」のことを書いていたら、いつの間にか、「運命」の話になってしまった。どうしてかわか
らないが、そうなってしまった。ひょっとしたら、「意識」と、「運命」は、どこかで関係しあっている
のかもしれない。(あるいはただの脱線かもしれない?)

 しかしこれだけは言える。意識にせよ、運命にせよ、自らのたゆまない努力によって、変えら
れるものであるということ。大切なことは、そのときどきにおいて、懸命に考えること。生きるこ
と。そのあとのことは、そのあとに任せればよい。どんな意識になろうとも、またその結果、どん
な運命になろうとも、それは、そのとき。

 私たちは、ただひたすら、「今の自分」を信じて、前に進めばよい。
(031208)

●人生を生きるには、二つの方法がある。奇跡など、まったくないと考える生き方。もう一つ
は、すべてが奇跡だと考える生き方である。(アルバート・アインシュタイン)

●さらに先に行く者のみが、自分が、遠くにきたことを知ることができる。(T・S・エリオット)

●私は失敗したのではない。私は、ただ、うまくいかない100000もの方法を発見しただけ
だ。(T・エジソン)




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●子どもを知る

 自分を知ることは、むずかしい。同じように、自分の子どもを知ることは、もっと、むずかし
い。

 たいていの親は、いや、ほとんどの親は、「私の子どものことは、私が一番、よく知っている」
と思っている。たしかにそういう部分もあるが、しかし、そう思うのは、少し、待ってほしい。

 印象に残っている事件に、こんな事件がある。私が、二〇代のとき経験した事件である。

 浜松祭の最中、一人の母親が、夜中に、電話をかけてきた。「うちの子(中学生)が、祭で酒
を飲んでいて、警察に補導されてしまった。どうしたらいいかア!」と。

 話を聞くと、母親は、「うちの子は、何も悪くない。友だちに、そそのかされただけだ」と。それ
で、すぐ、私もあちこちに電話をかけ、その方策を考えた。で、その中学生は、一、二時間、警
察の派出所で説教されたあと解放されたので、その事件は、それ以上大げさにになることもな
く、終わった。

 で、翌日になって、その中学生の仲間たちに会ったので、それとなく話を聞くと、みな、こう言
った。「アイツが、親分だった」と。つまり母親は「そそのかされた」と言っていたが、実は、その
中学生が、むしろみなをそそのかして、酒を飲んでいたというのだ。

●仮面をかぶる子どもたち

 こういう例は、本当に多い。もう一つ、こんな事件もあった。

 ある夜、一人の親が、C君(中学生)の家に、怒鳴りこんできた。「お前の息子のせいで、うち
の子が、学校へ行けなくなっている。どうしてくれる!」と。

 C君の父親は、これに対して、「うちの子は、そんな子じゃない! バカなことを言うな!」と追
いかえしてしまった。

が、C君は、たしかに、その友だちを、いじめていた。が、C君は、父親の前では、借りてきたネ
コの子のように、おとなしかった。だからC君の父親には、C君が、学校で、いじめを繰りかえし
ている子どもには、思えなかった。

 これだけではないが、いつしか私は、こんな教訓を学んだ。『うちの子どものことは、私が、一
番、よく知っていると豪語する親ほど、自分の子どものことがわかっていない』と。理由がある。

 つまりそういうふうに、子どものことや、子どもの心を決めてかかる親ほど、傲慢(ごうまん)
で、子どもの姿を見失いやすいということ。子どものほうが、親の前で、仮面をかぶることが多
い。

●子どもを知るために……

 自分の子どもをよく知るためには、謙虚になる。たとえば教える側で、一番、話しにくい親とい
うのは、子どものこととなると、すぐカリカリする親である。

私「最近、何かと、反抗的になっていますが……」
親「うちでは、ふつうです」
私「でも、何か、うちでは変わったことはありませんか」
親「何も、ありません」と。

 こういう言い方をされると、それ以上、会話がつづかなくなってしまう。そこで自分の子ども
を、よく知るためには、とくに先生にたいしては、聞きじょうずになるということ。そのときのコツ
が、『先生と話すときは、わが子でも、他人』である。

 他人と思うことで、自分の子どもを客観的に、見ることができる。そしてその分、先生も話しや
すくなる。

私「最近、何かと、反抗的になってしますが……」
親「たとえば、どんなところでしょうか」
私「ええ、昨日も……」となる。

 自分の子どものことを、正しく、知る。それは子育ての第一歩でもある。一つの大きなテーマ
として、この問題を考えてみてほしい。

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これに関連して、地元のタウン誌に以前発表した原稿を、
いくつか添付します。

++++++++++++++++++++++++

先生と話すときは、わが子は他人 

●話しにくい親たち

 親と話していて、「うちではふつうです」「K塾では問題がありません」と言われることぐらい、会
話がしにくいことはない。たとえば、私「このところ元気がありませんが……」、母「家ではふつう
です」、私「どこかで無理をしていませんか」、母「K塾では問題なく、やっています」と。

 先生と話すときは、わが子でも他人と思うこと。そう思うことで、親は聞き上手になり、あなた
の知らない子どもの別の面を知ることができる。

たとえば子どもが問題を起こしたりすると、ほとんどの親は、「うちの子にかぎって!」とか、「友
だちに誘われただけ」とか言う。しかし大半は、その子ども自身が主犯格(失礼!)とみてよ
い。子どもを疑えということではない。子どもというのはそういうもので、問題を起こす子どもほ
ど、親の前では自分を隠す。ごまかす。

 溺愛ママと呼ばれる母親ほど、親子の間にカベがない。一体化している。だから子どもに何
か問題が起きたりすると、母親は自分のこととして考えてしまう。先生に何か問題がありますな
どと言われたりすると、自分に問題があると言われたように思う。思うから、「子ども(私)には
問題はありません」となる。

しかしこういう盲目性が強ければ強いほど、親は子どもの姿を見失う。そして結果として、子ど
もの問題点を見逃してしまうことになる。

●先生は本音でほめる

 先生というのは、学校の先生も塾の先生も限らず、子どもをほめるときには、本音でほめる。
しかし問題を指摘するときは、かなり遠慮がちに指摘する。

つまり何か先生のほうから問題を指摘されたときには、かなり大きな問題と思ってまちがいな
い。そういう謙虚さが、子どもの問題を知るてがかりとなる。言いかえると、子育てじょうずな人
というのは、一方で聞きじょうず。自分のみならず、自分の子どもをいつも客観的にみようとす
る。

会話をしていても、「先生の意見ではどうですか?」「どうしたらいいでしょうか?」「先生はどう
思いますか?」という言葉がよく出てくる。そうでない人はそうでない。中には、「あんたはいらん
こと、言わないでくれ」と言った母親すらいた。しかしそう言われると、教師としてできることは、
もう何もない。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

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互いに別世界

●子育てには基準がない

 子育てには尺度がない。標準もなければ、平均もない。あるのは「自分」という尺度だけ。そう
いう意味では、親は独断と偏見の世界にハりやすい。

こんなことがあった。S君(年中児)という、これまたどうしようもないドラ息子がいた。自分勝手
でわがまま。ゲームに負けただけで、机を蹴っておおあばれしたりした。

そこである日、私は母親にこう言った。「もっと家事を分担させ、子どもをつかいなさい」と。が、
母親はこう言った。「ちゃんとさせています!」と。そこで驚いて、どんなことをさせていますかと
聞くと、こう言った。「ちゃんと箸並べと靴並べをしてくれます」と。

 一方、こんな子どももいた。ある日、道で通りかかると、Y君(年長男児)は、メモを片手に、町
の中を走り回っていた。父親は会社勤め、母親は洋品店を経営していた。だからこまかい仕事
は、すべてY君の仕事だった。が、別の日、私がそのことでY君をほめると、母親はこう言った。

「いいえ、先生。うちの子は何もしてくれないんですよ」と。

 箸並べや靴並べ程度でほめる親もいれば、家事のほとんどをさせながら、「何もしてくれな
い」とこぼす親もいる。たまたま同じ時期に私はS君とY君に接したので、その違いがよけいに
強烈に記憶に残った。つまり、互いに別世界。

●風通しをよくする

 こうした例は幼児教育の世界では、実に多い。たとえばかなり能力的に遅れがある子どもで
も、「優秀な子ども」と親が誤解しているケースがある一方で、すばらしい能力をもっているにも
かかわらず、「うちの子はだめだ」と親が誤解しているケースがある。

先日も、学校の勉強についていくだけでもたいへんだろうな思われる子ども(小五女児)をもっ
た親が、こう相談してきた。「今度学習内容が三割削減されるというが、それでは学力がさがる
のではないかと心配だ」と。

その母親は、「私立中学では今までどおり教えるというが、それは不公平だ」とも言ったが、こう
したおめでたさ(失礼!)は、多かれ少なかれ、どの親ももっている。それはというもの、結局
は、互いに別世界に住んでいるからにほかならない。互いにもう少し風通しがよければ、こうし
た誤解は防げるのだが……。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)
(031209)




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【辛口教育評論集】

船頭は一人

●父親の悪口は言わない

 そうでなくても難しいのが、子育て。夫婦の心がバラバラで、どうして子育てができるのか。そ
の中でもタブー中のタブーが、互いの悪口。

ある母親は、娘(年長児)にいつもこう言っていた。「お父さんの給料が少ないでしょう。だから
お母さんは、苦労しているのよ」と。あるいは「お父さんは学歴がなくて、会社でも相手にされな
いのよ。あなたはそうならないでね」と。

母親としては娘を味方にしたいと思ってそう言うが、やがて娘の心は、母親から離れる。離れ
るだけならまだしも、母親の指示に従わなくなる。

 この文を読んでいる人が母親なら、まず父親を立てる。そして船頭役は父親にしてもらう。賢
い母親ならそうする。この文を読んでいる人が父親なら、まず母親を立てる。そして船頭役は
母親にしてもらう。つまり互いに高い次元に、相手を置く。

たとえば何か重要な決断を迫られたようなときには、「お父さんに聞いてからにしましょうね」
(反対に「お母さんに聞いてからにしよう」)と言うなど。仮に意見の対立があっても、子どもの前
ではしない。

父、子どもに向かって、「テレビを見ながら、ご飯を食べてはダメだ」、
母「いいじゃあないの、テレビぐらい」と。

こういう会話はまずい。こういうケースでは、父親が言ったことに対して、母親はこう援護する。
「お父さんがそう言っているから、そうしなさい」と。そして母親としての意見があるなら、子ども
のいないところで調整する。子どもが学校の先生の悪口を言ったときも、そうだ。「あなたたち
が悪いからでしょう」と、まず子どもをたしなめる。相づちを打ってもいけない。もし先生に問題
があるなら、子どものいないところで、また子どもとは関係のない世界で、処理する。これは家
庭教育の大原則。

●夫婦は一枚岩

 ある著名な教授がいる。数十万部を超えるベストセラーもある。彼は自分の著書の中で、こう
書いている。「子どもには夫婦喧嘩を見せろ。意見の対立を教えるのに、よい機会だ」と。

しかし夫婦で哲学論争でもするならともかくも、夫婦喧嘩のような見苦しいものは、子どもに見
せてはならない。夫婦喧嘩などというのは、たいていは見るに耐えないものばかり。

 子どもは親を見ながら、自分の夫婦像をつくる。家庭像をつくる。さらに人間像までつくる。そ
ういう意味で、もし親が子どもに見せるものがあるとするなら、夫婦が仲よく話しあう様であり、
いたわりあう様である。助けあい、喜びあい、なぐさめあう様である。古いことを言うようだが、
そういう「様」が、子どもの中に染み込んでいてはじめて、子どもは自分で、よい夫婦関係を築
き、よい家庭をもつことができる。

欧米では、子どもを「よき家庭人」にすることを、家庭教育の最大の目標にしている。その第一
歩が、『夫婦は一枚岩』、ということになる。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~
hhayashi/)

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子どもの叱り方ほめ方

●叱り方・ほめ方は、家庭教育の要(かなめ)

 子どもを叱るとき、最も大切なことは、恐怖心を与えないこと。『威圧で閉じる子どもの耳』と
覚えておく。中に親に叱られながら、しおらしくしている子どもがいる。が、反省しているから、そ
うしているのではない。怖いからそうしているだけ。親が叱るほどには、効果は、ない。叱るとき
は、次のことを守る。

@人がいるところでは、叱らない(子どもの自尊心を守るため)
A大声で怒鳴らない。そのかわり言うべきことは、繰り返し言う。「子どもの脳は耳から遠い」と
覚えておく。話した説教が、脳に届くには、時間がかかる。
B相手が幼児のばあいは、幼児の目線にまで、おとなの体を低くする(威圧感を与えないた
め)。視線をはずさない(真剣であることを示すため)。子どもの体を、しっかりと親の両手で固
定し、きちんとした言い方で話す。にらむのはよいが、体罰は避ける。特に頭部への体罰は、
タブー。体罰は与えるとしても、「お尻」と決めておく。C興奮状態になったら、手をひく。あきら
める。そしてここが重要だが、D叱ったことについて、子どもが守れるようになったら、「ほら、
できるわね」と、ほめてしあげる。

 つぎに子どものほめ方。古代ローマの劇作家のシルスも、『忠告は秘かに、賞賛は公(おお
やけ)に』と書いている。

子どもをほめるときは、人前で、大声で、少しおおげさにほめる。そのとき頭をなでる、抱くなど
のスキンシップを併用するとよい。そしてあとは繰り返しほめる。特に子どもの、やさしさ、努力
については、遠慮なくほめる。が、顔やスタイルについては、ほめないほうがよい。幼児期に一
度、そちらのほうに関心が向くと、見てくれや、かっこうばかりを気にするようになる。

実際、休み時間になると、化粧ばかりしていた女子中学生がいた。また「頭」については、ほめ
てよいときと、そうでないときがあるので、慎重にする。頭をほめすぎて、子どもがうぬぼれてし
まったケースは、いくらでもある。

 叱り方、ほめ方と並んで重要なのが、励まし方。すでに悩んだり、苦しんだり、さらにはがん
ばっている子どもに向かって、「がんばれ!」はタブー。意味がないばかりか、かえって子ども
から、やる気を奪ってしまう。「やればできる」式の励まし、「こんなことでは!」式の、脅しもタブ
ー。結果が悪く、子どもが落ち込んでいるようなときはなおさら、「あなたはよくがんばった」式
の前向きの理解を示してあげる。

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子育てリズム論

 子育てはリズム。親子でそのリズムが合っていれば、それでよし。しかし親が四拍子で、子ど
もが三拍子では、リズムは合わない。いくら名曲でも、二つの曲を同時に演奏すれば、それは
騒音でしかない。そこでテスト。

 あなたが子どもと通りをあるいている姿を、思い浮かべてみてほしい。そのとき、@あなた
が、子どもの横か、うしろに立ってゆっくりと歩いていれば、よし。しかしA子どもの前に立っ
て、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩いているようであれば、要注意。

今は、小さな亀裂かもしれないが、やがて断絶…ということにもなりかねない。このタイプの親
ほど、親意識が強い。「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」と豪語する。へたに子
どもが口答えでもしようものなら、「何だ、親に向かって!」と、それを叱る。

そしておけいこごとでも何でも、親が勝手に決める。やめるときも、親が勝手に決める。子ども
は子どもで、親の前では従順に従う。そういう子どもを見ながら、「うちの子は、できのよい子」
と錯覚する。が、仮面は仮面。長くは続かない。

 ところでアメリカでは、親子の間でも、こんな会話をする。父「お前は、パパに何をしてほしい
のか」、子「パパは、ぼくに何をしてほしいのか」と。この段階で、互いにあいまいなことを言うの
を許されない。それだけに、実際そのように聞かれると、聞かれたほうは、ハッとする。緊張す
る。それはあるが、しかし日本人よりは、ずっと相手の気持ちを確かめながら行動している。

 このリズムのこわいところは、子どもが乳幼児のときに始まり、おとなになるまで続くというこ
と。その途中で変わるということは、まず、ない。ある女性(三二歳)は、こう言った。

「今でも、実家の親を前にすると、緊張します」と。別の男性(四〇歳)も、父親と同居している
が、親子の会話はほとんど、ない。どこかでそのリズムを変えなければならないが、リズムは、
その人の人生観と深くからんでいるため、変えるのは容易ではない。しかし変えるなら、早いほ
うがよい。早ければ早いほどよい。

もしあなたが子どもの手を引きながら、子どもの前を歩いているようなら、今日からでも、子ど
もの歩調に合わせて、うしろを歩く。たったそれだけのことだが、あなたは子育てのリズムを変
えることができる。いつかやがて、すばらしい親子関係を築くことができる。

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常識は偏見のかたまり

アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が十八歳のときにもっ
た偏見のかたまりである」と。

●学校は行かねばならぬという常識…アメリカにはホームスクールという制度がある。親が教
材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州政
府が家庭教師を派遣してくれる。

日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも
九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人を超えた。毎年一五%前後の割合で
ふえ、〇一度末には二〇〇万人になるだろうと言われている。

それを指導しているのが、「LIF」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は家庭でこそで
きる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をし
たりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子ども
の受け入れを表明している。

●おけいこ塾は悪であるという常識…ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ通
う。早い子どもは午後一時に、遅い子どもでも三時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単位
で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。

そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは
学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が千円前後。こうした親の負担を
軽減するために、ドイツでは、子ども一人当たり、二三〇マルク(日本円で約一四〇〇〇円)の
「子どもマネー」が支払われている。

この補助金は、子どもが就職するまで、最長二七歳まで支払われる。こうしたクラブ制度は、カ
ナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性に合わせてクラブに通う。

日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学外教育に対する世間の評価はまだ低
い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任
をもたない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号
すら親には教えない。

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っていることでも、世界
ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。

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あのとき母だけでも…

 あのとき、もし、母だけでも私を支えていてくれてていたら…。が、母は「浩ちゃん、あんたは
道を誤ったア」と言って、電話口の向こうで泣き崩れてしまった。私が「幼稚園で働いている」と
言ったときのことだ。

 日本人はまだあの封建時代を清算しいていない。その一つが、職業による差別意識。

この日本には、よい仕事(?)と悪い仕事(?)がある。どんな仕事がそうで、どんな仕事がそう
でないかはここに書くことはできない。が、日本人なら皆、それを知っている。先日も大手の食
品会社に勤める友人が、こんなことを言った。

何でもスーパーでの売り子を募集するのだが、若い女性で応募してくる人がいなくて、困ってい
る、と。彼は「嘆かわしいことだ」と言ったので、私は彼にこう言った。「それならあなたのお嬢さ
んをそういうところで働かせることができるか」と。

いや、友人を責めているのではない。こうした身勝手な考え方すら、封建時代の亡霊といって
もよい。目が上ばかり向いていて、下を見ない。「自尊心」と言えば聞こえはいいが、その中身
は、「自分や、自分の子どもだけは別!」という差別意識でしかない。が、それだけではすまな
い。こうした差別意識が、回りまわって子どもの教育にも暗い影を落としている。

この日本にはよい学校とそうでない学校がある。よい学校というのは、つまりは進学率の高い
学校をいい、進学率が高い学校というのは、それだけ「上の世界」に直結している学校をいう。

 「すばらしい仕事」と、一度は思って飛び込んだ幼児教育の世界だったが、入ってみると、事
情は違っていた。その底流では、親たちのドロドロとした欲望が渦巻いていた。それに職場は
まさに「女」の世界。しっと縄張り。ねたみといじめが、これまた渦巻いていた。私とて何度、年
配の教師にひっぱたかれたことか!

 母に電話をしたのは、そんなときだった。私は母だけは私を支えてくれるものとばかり思って
いた。が、母は、「あんたは道を誤ったア」と。その一言で私は、どん底に叩き落とされてしまっ
た。それからというもの、私は毎日、「死んではだめだ」と、自分に言って聞かせねばならなか
った。いや、これとて母を責めているのではない。母は母として、当時の常識の中でそう言った
だけだ。

 子どもの世界の問題は、決して子どもの世界だけの問題ではない。問題の根源は、もっと深
く、そして別のところにある。

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よい先生VS悪い先生

 私のような、もともと性格のゆがんだ男が、かろうじて「まとも?」でいられるのは、「教える」と
いう立場にあるからだ。

子ども、なかんずく幼児に接していると、その純粋さに毎日のように心を洗われる。何かトラブ
ルがあって、気分が滅入っているときでも、子どもたちと接したとたん、それが吹っ飛んでしま
う。よく「仕事のストレス」を問題にする人がいる。しかし私の場合、職場そのものが、ストレス
解消の場となっている。
 
その子どもたちと接していると、ものの考え方が、どうしても子ども的になる。しかし誤解しない
でほしい。「子ども的」というのは、幼稚という意味ではない。子どもは確かに知識は乏しく、未
経験だが、決して、幼稚ではない。

むしろ人間は、おとなになるにつれて、多くの雑音の中で、自分を見失っていく。醜くなる人だっ
ている。「子ども的である」ということは、何ら恥ずべきことではない。特に私の場合、若いとき
から、いろいろな世界をのぞいてきた。教育の世界や出版界はもちろんのこと、翻訳や通訳の
世界も経験した。いくつかの会社の輸出入を手伝ったり、医学の世界をかいま見たこともあ
る。しかしこれだけは言える。

園や学校の先生には、心のゆがんだ人は、まずいないということ。少なくとも、ほかの世界より
は、はるかに少ない。

 そこで「よい先生」論である。いろいろな先生に会ってきたが、目線が子どもと同じ高さにいる
先生もいる。が、中には上から子どもを見おろしている先生もいる。このタイプの先生は妙に
権威主義的で、いばっている。

そういう先生は、そういう先生なりに、「教育」を考えてそうしているのだろうが、しかしすばらし
い世界を、ムダにしている。それはちょうど美しい花を見て、それを美しいと感動する前に、花
の品種改良を考えるようなものだ。昔、こんな先生がいた。ことあるごとに、「親のしつけがなっ
ていない」「あの子は問題児」とこぼす先生である。決して悪い先生ではないが、しかしこういう
先生に出会うと、子どもから明るさが消える。

 そこでよい先生かどうかを見分ける簡単な方法……。休み時間などの様子を、そっと観察し
てみればよい。そのとき、子どもたちが先生の体にまとわりついて、楽しそうにはしゃいでいれ
ば、よい先生。そうでなければ、そうでない先生。よい先生かどうかは、実は子どもたち自身
が、無意識のうちに判断している。

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アメリカの小学校

 アメリカでもオーストラリアでも、そしてカナダでも、学校を訪れてまず驚くのが、その「楽し
さ」。まるでおもちゃ箱の中にでも入ったかのような、錯覚を覚える。

たとえば、アメリカ中南部にある公立の小学校(アーカンソー州アーカデルフィア、ルイザ・E・ペ
リット小学校。児童数三七〇名)。教室の中に、動物の飼育小屋があったり、遊具があったり
する。

 アメリカでは、教育の自由化が、予想以上に進んでいる。

まずカリキュラムだが、州政府のガイダンスに従って、学校が独自で、親と相談して決めること
ができる。オクイン校長に、「ガイダンスはきびしいものですか」と聞くと、「たいへんゆるやかな
ものです」と笑った。

もちろん日本でいう教科書はない。検定制度もない。たとえばこの小学校は、年長児と小学一
年生だけを教える。そのほか、プレ・キンダガーテンというクラスがある。四歳児(年中児)を教
えるクラスである。費用は朝食代と昼食代などで、週六〇ドルかかるが、その分、学校券(バウ
チャ)などによって、親は補助されている。驚いたのは四歳児から、コンピュータの授業をして
いること。また欧米では、図書室での教育を重要視している。この学校でも、図書室には専門
の司書を置いて、子どもの読書指導にあたっていた。

 授業は、一クラス一六名前後。教師のほか、当番制で学校へやってくる母親、それに大学か
ら派遣されたインターンの学生の三人であたっている。アメリカというと、とかく荒れた学校だけ
が日本で報道されがちだが、そういうのは、大都会の一部の学校とみてよい。周辺の学校もい
くつか回ってみたが、どの学校も、実にきめのこまかい、ていねいな指導をしていた。

 教育の自由化は、世界の流れとみてよい。たとえば欧米の先進国の中で、いまだに教科書
の検定制度をもうけているのは、日本だけ。オーストラリアにも検定制度はあるが、それは民
間組織によるもの。しかも検定するのは、過激な暴力的表現と性描写のみ。「歴史的事実につ
いては検定してはならない」(南豪州)ということになっている。

アメリカには、家庭で教えるホームスクール、親たちが教師を雇って開くチャータースクール、さ
らには学校券で運営するバウチャースクールなどもある。行き過ぎた自由化が、問題になって
いる部分もあるが、こうした「自由さ」が、アメリカの教育をダイナミックなものにしている。

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世界の文化論

 子どもを見ていると、世界の文化が見えるときがある。

昔、ある幼稚園へ行くと、一人の女の子(年中児)が、小さな丸だけをつなげて、黙々と絵を描
いていた。そこで担任の先生に、「あの子はどういう子ですか?」と聞くと、その先生はこう言っ
た。「根気のあるいい子ですよ」と。しかしその子は、本当に「いい子」か? 内閉した心が、行
き場をなくすと、子どもはそういう症状を示す。自閉症の初期症状と言ってもよい。一方、伸び
やかな子どもは、何かにつけて、大ざっぱ。

……という知識があると、文化の見方も変わってくる。たとえば金沢。

その金沢の伝統工芸を、一口で言えば、「精緻(せいち)」。実にこまかい細工を、ていねいす
る。まき絵や金箔工芸は言うにおよばず、和菓子にまで、その伝統は生きている。そうした工
芸は高く評価されているが、しかしその背景には、押しつぶされた人間の「自我」がある。

あの前田藩を美化する人も多いが、しかし実際には、あの前田藩という時代は、日本でも、そ
して世界でも類を見ないほど、暗黒かつ恐怖政治の時代であった。今でも金沢市には尾張町
とか近江町とかいう町名がある。それぞれの地方から強制的に移住させられた人が住んだ町
内である。また金沢城の中には、藩主が、生身の人間をぶらさげて、刀の試し切りをしたところ
も残っている。そういう世界では、民衆は内閉するしかなかった……。

一方これとは対照的なのが、アメリカ中南部地方。テキサス州を例にとればよい。あそこでは、
すべてがもう、大ざっぱ。やることなすこと、すべてが大ざっぱだから、恐れ入る。

家具にしても、表向きは結構見栄えのするものを作る。が、内側から見ると、ア然とする。どう
ア然とするかは、機会があれば、ご自身で確かめてみてほしい。言い換えると、テキサスの人
に、精緻な仕事を期待しても無理。不可能。絶対にできない。そういう雰囲気すら、ない。レスト
ランの料理にしても、量だけはやたらと多いが、料理というより、あれは家畜のエサ(失礼!)。
    

金沢の文化と、テキサスの文化は、きわめて対照的である。しかしそれはとりもなおさず、日本
人とアメリカ人の違い。さらには、日本の歴史とアメリカの歴史の違いでもある。で、結論から
言えば、日本の文化は、内閉文化。アメリカの文化は、開放文化ということになる。これは子ど
もの世界から見た、世界の文化論ということになる。

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過去を再現する親たち

 親は、子どもを育てながら、自分の過去を再現する。そのよい例が、受験時代。

それまではそうでなくても、子どもが、受験期にさしかかると、たいていの親は、言いようのない
不安感に襲われる。受験勉強で苦しんだ親ほどそうだが、原因は、「勉強」そのものではない。
受験にまつわる、「将来への不安」「選別されるという恐怖」が、その根底にある。それらが、た
とえば子どもが受験期にさしかかったとき、親の心の中で再現される。

 ところで「自由」には、二つの意味がある。行動の自由と魂の自由である。行動の自由はとも
かくも、問題は魂の自由である。実はこの私も受験期の悪夢に、長い間、悩まされた。たいて
いはこんな夢だ。

……どこかの試験会場に出向く。が、自分の教室がわからない。やっと教室に入ったと思った
ら、もう時間がほとんどない。問題を見ても、できないものばかり。鉛筆が動かない。頭が働か
ない。時間だけが刻々とすぎる……。

 親が不安になるのは、親の勝手だが、親はその不安を子どもにぶつけてしまう。そういう親
に向かって、「今はそういう時代ではない」と言っても、ムダ。脳のCPU(中央処理装置)そのも
のが、ズレている。親は親で、「すべては子どものため」と、確信している。が、それだけではな
い。

こうした不安が、親子関係そのものを破壊してしまう。「青少年白書」でも、「父親を尊敬してい
ない」と答えた中高校生は、五五%もいる。「父親のようになりたくない」と答えた中高校生は、
八〇%弱もいる(平成十年)。この時期、「勉強せよ」と子どもを追いたてればたてるほど、子ど
もの心は親から離れる。

 私がその悪夢から解放されたのは、夢の中で、その悪夢と戦うようになってからだ。試験会
場で、「こんなのできなくてもいいや」と居なおるようになった。あるいは皆と、違った方向に歩く
ようになった。どこかのコマーシャルソングではないが、「♪のんびり行こうよ、オレたちは。あ
せってみたとて、同じこと」と、夢の中でも歌えるようになった。…とたん、少し大げさな言い方だ
が、私の魂は解放された!

 たいていの親は、自分の過去を再現しながら、「再現している」という事実に気づかないまま、
その過去に振り回される。子どもに勉強を強いる。そこで…。まず自分の過去に気づく。それ
で問題は解決する。受験時代に、いやな思いをした人ほど、一度自分を、冷静に見つめてみ
てほしい。

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日本は民主主義国家?

オーストラリアで学生が使うテキストに、「日本は官僚主義国家」と書いてあるのがあった。「君
主(天皇)官僚主義国家」というのもあった。私はそれに猛反発した。が、それから三十年…
…。日本はやはり官僚主義国家だった。

世界で、日本が民主主義国家だと思っているのは、恐らく日本人だけではないのか。

 よく政府は、「日本の公務員の数は欧米とくらべても、それほど多くはない」と言う。しかしこれ
はウソ。国家公務員と地方公務員の数だけをみれば、確かにそうだが、日本にはこれ以外
に、公団、公社、特殊法人、電気ガスなどの独占的公益事業団体、政府系金融機関がある。
これだけでも、日本人のうち、七〜八人に一人が、公務員もしくは、準公務員ということになる
(徳岡孝夫氏)。が、実際には、これだけではない。

これらの公務員の天下り先として機能する、事業所、協会、センター、各種研究機関、社団、
財団などがある。あの旧文部省だけでも、こうした外郭団体が、一八〇〇近くもある。こうした
団体が日本の社会そのものを、がんじがらめにしている。

国の借金だけでも六六六兆円(国の税収は五〇兆円)。そのほか、特殊法人の負債額が二五
五兆円(〇〇年)。そこで構造改革……ということになるが、これがまた容易ではない。明治の
昔から、全国の津々浦々まで、官僚が日本を支配するという構図そのものが、すでにできあが
っている。

たとえば全国四七都道府県のうち、二七〜九の府県の知事は、元中央官僚。七〜九の県で
は副知事も元中央官僚(〇〇年)。さらに国会議員や大都市の市長の多くも、元中央官僚。
「日本は新しいタイプの社会主義国家」と言う学者もいる。こういう日本の現状の中で、行政改
革だの構造改革だのを口にするほうが、おかしい。実際、こうした団体の職員数は、今の今も
肥大化し続けている。

 しかし、問題はこのことではない。こうした世界では、この不況などどこ吹く風。完全な終身雇
用に年功序列。満額の退職金に年金。生涯を保障される天下り先が用意されている。つまりこ
うした不公平社会が、学歴社会の温床となり、それがそのまま日本の教育そのものをゆがめ
ている。

ある父親はこう言った。「息子には、できるなら役人になってほしい」と。そのためか今では、ち
ょっとした(失礼!)公務員試験でも倍率が百倍を超える。なぜそうなのかというところにメスを
入れない限り、日本の教育に明日はない。

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世にすさまじきは……

 世にすさまじきは、母親の世界。この世界、子どもをはさんでの血みどろの争いは、日常茶
飯事。その底流ではドロドロの欲望が渦を巻いている。「言ったの言わない」「やったのやらな
い」が高じて、先生や学校を巻き込んでの大騒動になることも珍しくない。裁判ザタになることも
ある。

部外者が見れば、バカげた争いだが、本人たちにはそうでない。母親も、こと子どものこととな
ると、妥協しない。容赦しない。「子どものため」と称して、本気で争う。たいていその裏でしっと
がからむため、争いも陰湿かつ長期化する。が、そこに人間の愚かさがある。人間の悲しさが
ある。

 生きているということは、不思議なことだ。昔、学生時代の友人がこう言った。「生きているこ
と自体が、奇跡だ」と。私が「奇跡なんてものは、ない」と言ったときのことだ。

しかし今、自分の人生を振り返ってみると、彼の言ったことが正しいような気がする。この光と
分子が織り成す空間で、時間を追いかけながら、「私」という人間が生きている。「あなた」とい
う人間も生きている。これを奇跡と言わずして、何という!

 原因は母親自身の異常なまでの、子どもへの過関心だが、さらにその背景に、溺愛。さらに
は親自身の情緒的未熟性や精神的欠陥がある。はっきり言えば、「病気」。このタイプの母親
は、子どもを自分の支配下において、子どもを自分の思いどおりにしたいだけ。あるいは自分
と子どもの間にカベがない。子どもどうしのけんかが、そのまま親のけんかになってしまう。

 子どもを愛するということは、子どもの中で咲く花を、希望の光で暖かく包んであげることだ。
その友人がこう教えてくれた。「彼はあなたの前を歩く。あなたのガイドとして。彼はあなたのう
しろを歩く。あなたの守護者として。彼はあなたの横を歩く。あなたの友として」と。ここでいう
「彼」というのは、「神」のことだが、しかしそれが本来あるべき、親の姿ではないのか。

 きついことを書いてしまったが、視点をほんの少し広くもてば、子どもを巻き込んだ争いなど、
バカげてできないはずだ。こうした争いの中で、一番キズついているのは、まさに子ども自身。
それともあなたはいつか、子どもと一緒に「今」という時を、楽しく思い出すことができるともでも
いうのか。あなたは子どもの人生をけがしているだけ。どうして母親たちよ、それがわからな
い!

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日本の英語教育

 D氏(四五歳)はこう言った。「まだ日本語もよくわからない子どもに、英語を教える必要はな
い」と。つまり小学校での英語教育は、ムダ、と。しかしこの論法が通るなら、こうも言える。「日
本もまだよく旅行していないのに、外国旅行をするのはムダ」「地球のこともよくわかっていない
のに、火星などに探査機を送るのはムダ」と。

 オーストラリアの中学校では、中一レベルで、たとえば外国語にしても、ドイツ語、フランス
語、中国語、インドネシア語、それに日本語の中から選択できるようになっている。「将来多様
な社会に柔軟に適応できるようにするため」(M大K教授)だそうだ。

オーストラリアのほか、ドイツやカナダでも、学外クラブが発達していて、子どもたちは学校が
終わると、中国語クラブや日本語クラブへ通っている。こういう時代に、「英語を教える必要は
ない」とは!

 英語を知ることは、外国を知ることになる。外国を知ることは、結局は、この日本を知ること
になる。D氏はこうも言った。「中国では、ウソばかり教えている。日本軍は南京で一〇万人し
か中国人を殺していないのに、三〇万人も殺したと教えている」と。私が「一〇万人でも問題で
しょう。一万人でも問題です」と言うと、「あんたはそれでも日本人か」と食ってかかってきた。

 日本の英語教育は、将来英語の文法学者になるには、すぐれた体系をもっている。数学も
国語もそうだ。理由は簡単。もともとその道の学者が作った体系だからだ。だからおもしろくな
い。だから役にたたない。

こういう教育を「教育」と思い込まされている日本人はかわいそうだ。子どもたちはもっとかわい
そうだ。たとえば英語という科目にしても、大切なことは、文字や言葉を使って、いかにして自
分の意思を相手に正確に伝えるか、だ。それを動詞だの、三人称単数だの、そんなことばかり
教えるから、子どもはますます英語嫌いになる。

ちなみに中学一年の入学時には、ほとんどの子どもが「英語、好き」と答える。が、一年の終わ
りには、ほとんどの子どもが、「英語、嫌い」と答える。

 さて冒頭のD氏はさらにこう言った。「日本はいい国ではないですか。犯罪も少ないし。どうし
てそれを変えなければならないのですか」と。しかしこういう人がふえればふえるほど、日本は
国際社会からはじき飛ばされる。相手にされなくなる。

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権威主義と出世主義

●権威主義の親…「私は親」「あなたは私の子ども」という意識が強い。子どもを「物」のように
扱う。このタイプの親の典型的な会話。「先生、息子なんて育てるもんじゃないですね。横浜の
嫁に取られてしまいまして…。さみしいもんですわ」と。息子が横浜の女性と結婚したことを、こ
のタイプの親は「取られた」と言う。「娘を嫁にくれてやる」とか、「嫁をもらう」とか言うこともあ
る。

 さらに上下意識が強くなると、「親に向かって!」「お前は、だれのおかげで…!」とか言うこと
が多くなる。

●出世主義の親…「立派な」とか「偉い」とかいう言葉をよく使う。「立派な家を建てましたね」
「あの人は偉いもんだ」とか。子どもには、「立派な人になれ」「偉い人になれ」とか言う。あるい
は一方的に子どもに高い学歴を求める。

このタイプの親は、見栄やメンツを重んじる。世間体を気にする。派手な結婚式をしたり、家の
格式を重んじたりする。職業による差別意識も強い。私が幼稚園の教師をしていることについ
て、「どうせ、お前は学生運動か何かしていて、ロクな仕事につけなかったのだろう」と言った人
(男性六十歳)がいた。。そういうものの考え方をする。

 権威主義にせよ、出世主義にせよ、それが強ければ強いほど、親子関係はぎくしゃくしてく
る。親にとっては、居心地がよい世界かもしれないが、子どもにとっては、居心地が悪い。要す
るに親は、子どもの者の心が見えなくなる。子どもはますます心を隠す。その分だけ、子どもの
心は親から離れる。この悪循環が、時として親子の間に、深刻な亀裂をつくる。

「断絶」というような、なまやさしいものではない。成人してからも、「親と会うだけで、不安にな
る」という人はいくらでもいる。「盆や正月に実家へ帰ることができない」という人(女性三十歳)
もいる。さらに悲劇は続く。息子や娘がそういう状態にあっても、このタイプの親はそれに気づ
かない。たいていの親は、自分では「私こそ親の鏡」と思い込んでいる。

 日本人は明治以後においても、あの封建時代を清算していない。もっと言えば心の奥底で、
いまだにそれを支えている。美化する人さえいる。しかし封建意識は伝統でも文化でもない。あ
の江戸時代という時代は、世界の歴史の中でも類がないほど、暗黒かつ恐怖政治の時代だっ
た。いまだにその名残を日本の子育ての中に見ることができる。 

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日本語と英語

 日本語と英語は、必ずしも一致しない。こんなことがあった。昔、オーストラリアの学生に、
「君はどの島から来たのか」と聞かれたことがあった。私はムッとして、「島ではない。本州(メイ
ン・コンチネント)だ」と言うと、彼のみならず、周囲の者まで、どっと笑った。私が冗談を言った
と思ったらしい。

英語で、メイン・コンチネントというと、中国大陸や欧州大陸のような大陸をいう。驚いたのは、
オーストラリアの大学で使うテキストでは、日本は「官僚主義国家」となっていたことだ。「君主
(天皇)官僚主義国家」となっているテキストもあった。日本が民主主義国家だと思っているの
は、恐らく日本人だけではないか。ほかに自衛隊は、英語でズバリ、「軍隊」となっていた。安
保条約は、「軍事同盟」となっていた。まだある。

 ある日のこと。私がオーストラリアの学生に「もし君たちの国(カントリー)が、インドネシア軍
に襲われたら、君たちはどうするか」と聞いたときのこと。オーストラリアではインドネシアが、仮
想敵国になっている。すると皆、「逃げる」と答えた。「祖父の故郷のイギリスへ帰る」と言った
のもいた。

何という愛国心。私があきれていると、「ヒロシ、この広い国を、どうやって守れるのか」と。英
語でカントリーというときは、「郷土」という土地をいう。そこで質問を変えて、「では、君たちの家
族が襲われたらどうするか」と聞くと、皆、血相を変えて、こう言った。「そのときは命がけで戦
う」と。

同じようなことだが、「愛国心」を英語では、「ペイトリアティズム」という。もともとは、「父なる大
地を愛する」を意味するラテン語の「パトリス」に由来する。つまり彼らが愛国心と言うときは、
「郷土を愛する心」という意味でそれを言う。

 また日本語で「偉い人」と言いそうなときには、彼らは「リスペクティド・マン」という。「尊敬され
る人」という意味だ。しかし「偉い人」と「尊敬される人」の間には、越えがたいほど、大きな谷間
がある。日本では肩書きや地位のある人を、「偉い人」という。肩書きや地位のない人は、あま
り偉い人とは言わない。一方、英語で「尊敬される人」というときは、地位や肩書きは、ほとんど
問題にしない、などなど。

 一見欧米風の生活をしている日本人だが、中身はどうか…? 英語をよく知っている人も、
そうでない人も、一度これらの問題をよく考えてみてほしい。

【補足】

愛国心教育について

「愛国心は世界の常識」(政府首脳)という。しかし本当にそうか?

 英語で「愛国心」というのは、「ペイトリアチズム」という。ラテン語の「パトリオス(父なる大
地)」に由来する。つまりペイトリアチズムというのは、「父なる大地を愛する」という意味であ
る。私にはこんな経験がある。

 ある日、オーストラリアの友人たちと話していたときのこと。私が「もしインドネシア軍が君たち
の国(カントリー)を攻めてきたら、どうする」と聞いた。オーストラリアでは、インドネシアが仮想
敵国になっている。が、皆はこう言った。「逃げる」と。「祖父の故郷のスコットランドに帰る」と言
ったのもいた。何という愛国心! 

私が驚いていると、こう言った。「ヒロシ、どうやってこの広い国を守れるのか」と。英語でカント
リーというときは、「国」というより、「郷土」という土地をいう。そこで質問を変えて、「では君たち
の家族がインドネシア軍に襲われたらどうするか」と聞いた。すると皆は血相を変えて、こう言
った。「そのときは容赦しない。徹底的に戦う」と。

 一方この日本では、愛国心というと、そこに「国」という文字を入れる。国というのは、えてして
「体制」を意味する。つまり同じ愛国心といっても、欧米でいう愛国心と、日本でいう愛国心は、
意味が違う。内容が違う。

 たとえばこの私。私は日本人を愛している。日本の文化を愛している。この日本という大地を
愛している。しかしそのことと、「体制を愛する」というのは、別問題である。体制というのは、未
完成で、しかも流動的。そも「愛する」とか「愛さない」とかいう対象にはならない。愛国心という
言葉が、体制擁護の方便となることもある。左翼系の人が、愛国心という言葉にアレルギー反
応を示すのは、そのためだ。

 そこでどうだろう。愛国心という言葉を、「愛人心」「愛土心」と言い換えてみたら。「郷土愛」で
もよい。そうであれば問題はない。私も納得できる。右翼の人も、左翼の人も、それに反対す
る人はいまい。子どもたちにも胸を張って、堂々とこう言うこともできる。

「私たちの仲間の日本人を愛しましょう」「私たちが育ててきた日本の文化を愛しましょう」「緑
豊かで、美しい日本の大地を愛しましょう」と。その結果として、現在の民主主義体制があると
いうのなら、それはそれとして守り育てていかねばならない。当然のことだ。

++++++++++++++++++++

日本の教育レベル

 東大のある教授(理学部)が、こんなことを話してくれた。「化学の分野には、一〇〇〇近い
分析方法が確立されている。が、基本的に日本人が考えたものは、一つもない」と。

あるいはこんなショッキングな報告もある。世界的な標準にもなっている、TOEFL(国際英語
検定試験)で、日本人の成績は、一六五か国中、一五〇位(九九年)。「アジアで日本より成績
が悪い国は、モンゴルぐらい。北朝鮮とブービーを争うレベル」(「週刊新潮」)だそうだ。

オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本に
は数えるほどしかいない。あの天下の東大には、一人もいない(〇〇年)。ちなみにアメリカだ
けでも、二五〇人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い。

「日本の教育は世界最高水準にある」と思うのは勝手だが、その実態は、たいへんお粗末。

 日本の銀行は、護送船団方式でつぶれた。政府の手厚い保護を受け、その中でヌクヌクと
生きてきたため、国際競争力をなくしてしまった。しかし日本の教育は、銀行の比ではない。護
送船団ならぬ、丸抱え方式。教育というのは、二〇年先、三〇年先を見越して、「形」を作らね
ばならない。が、文部省の教育改革は、すべて後手後手。

南オーストラリア州にしても、すでに一〇年以上も前から、小学三年生からコンピュータの授業
をしている。メルボルン市にある、ほとんどのグラマースクールでは、中学一年で、中国語、フ
ランス語、ドイツ語、インドネシア語、日本語の中から、一科目選択できるようになっている。

 いろいろ言われているが、地方分権、規制緩和が一番必要なのは、実は教育の世界なので
ある。もっとはっきり言えば、文部省による中央集権体制を解体する。だいたいにおいて、頭ガ
チガチの文部官僚たちが、日本の教育を支配するほうがおかしい。日本では明治以来、「教
育というのはそういうものだ」と思っている人が多い。が、それこそまさに世界の非常識。あの
富国強兵時代の亡霊が、いまだに日本の教育界をのさばっている!

 今まではよかった。「社会に役立つ人間」「立派な社会人」という出世主義のもと、優良な会社
人間を作ることができた。「国のために命を落とせ」という教育が、姿を変えて、「会社のために
命を落とせ」という教育に置き換わった。企業戦士は、そういう教育の中から生まれた。が、こ
れからはそういう時代ではない。

日本が国際社会で、「ふつうの国」「ふつうの国民」と認められるためには、今までのような教育
観は、もう通用しない。いや、それとて、もう手遅れなのかもしれない。よい例が、日本の総理
大臣だ。

 G8だか何だか知らないが、日本の総理は、出られたことだけを喜んで、はしゃいでいる。そ
うではないのかもしれないが、私にはそう見える。総理なのだから、通訳なしに、日本のあるべ
き姿、世界のあるべき姿を、もっと堂々と主張すべきではないのか。が、そういう迫力はどこに
もない。列国の元首の中に埋もれて、ヘラヘラしているだけ。

そういう総理しか生み出せない国民的体質、つまりその土壌となっているのが、ほかならぬ、
日本の教育なのである。言いかえると、日本の教育の実力は、世界でも一五〇位レベル? 
政治も一五〇位レベル? どうして北朝鮮の、あの悪政を、笑うことができるだろうか。




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●親の気負い

●読者(福岡県在住)の方からの投稿より、つぎのようなメールをいただきました。掲載の許可
がいただけましたので、紹介します。

+++++++++++++++++++

はやし様へ

最初に貴殿のホームページを拝見し、その後、いろいろアドバイスいただき、ありがとうござい
ました。私自身、色々と不安定な状態だったこともあって、お礼が、遅くなりました。

最近、やっと落ち着いた状態になれたことから、「お礼」申しあげます。

最初に御挨拶のメールをお送りしたのは、たしか今年の、10月初めごろだったと思います。

貴殿のホームページに出会ったのは、その1ケ月ほど前でした。
その頃、私はかなり追い詰められた状態でした。子供との関係についてで、悩んでいました。

自分でもその原因がわからず、ただ、「いらいら」した毎日を過ごし、「空回り」を繰り返しており
ました。

子供の教育には、人一倍、熱心だと自負し、とくに「しつけ」には厳しかったです。

子どもはは、7歳の息子と、3歳の娘の、2人です。「かたづけ」や「言葉使い」など、かなりきび
しく接していたと思います。

私が子供時代、金銭的にも愛情的にかなり苦しんだこともあって、息子や娘たちは、「十分な
余裕をもたせてやりたい、将来きちっとした人間にさせたい。」と気負っていました。

ただ、息子は、「がんこ」な性格で時として反抗的な態度を取ることがあり、私も感情的に手を
あげていました。

そんな繰り返しがどんどん増え、徐々にエスカレートしていくことに自分でも「あせり」と「不安」を
感じる日々でした。

「なぜ、なぜなんだ。こんなに息子や娘の幸せな成長を望んでいるのに。俺のような苦しい子
供時代は、させないようにがんばっているのに。」

もう、おわかりですよね。

そうです。原因は、私自身にありました。
私の子供時代は、幸せではありませんでした。
幼少の頃から両親は、不仲。喧嘩ばかり見せられました。母は、父親の「悪口」ばかり。

「お前たちさえ、いなければとっくに離婚している。」といつも聞かされました。

父親も酒好きでお金にルーズな人だったので金銭的にも、精神的にもかなり「貧しい」家庭でし
た。

父親の悪口を言う時の母は、いやでしたが、私たち(私と姉)の面倒を見てくれるのは母であ
り、母の味方につくしかなく、結果として父親を嫌うしかなかった。

夜遅くに父親が帰宅、まもなく喧嘩が始まる。酔った父が母に暴力を振るったらどうしようかと
びくびくしながら、布団の中で息を殺していた。

なんとかしたいが、なんの力もない子供の自分にはどうにもできない。父親が帰らない夜は「ほ
っ」とする。

そんな日々でした。

こどもにとって親は、絶対的な存在であるはずです。絶対的な「愛情」の。だから、時として叱ら
れ、たとえ殴られてもその存在感は変わらない。

10歳のこどもが親を嫌いになれるはずはない。でも私は父親を嫌いました。無理やりにそう自
分の心を曲げたのだと思います。

ただ、ただ、逃げたい。そんな毎日だったと思います。だからわたしは、結婚しても決して「こど
も」を望まなかったが、強く望む家内に押し切られるようにして父親になりました。

でも不思議なもので、息子が生まれ、病院で初めて彼を抱いた瞬間、身体に電気が流れるよ
うな感覚を感じ、すばらしい「充実感」に包まれました。

今、思い出しても「最高」の気分でした。「俺も父親になれた。この子には、生まれてきてよかっ
たと思えるようにしてやる。絶対に俺のような辛い思いはさせない。」 

そう心に誓ったことを覚えています。

その「気負い」だけが、「ずれた」方向に突っ走ってしまったようです。
反抗され、感情的に息子を殴っていた頃の私は、「なぜだ。なぜ判らない。俺の子供のころの
ような苦労をさせないために、お前たちのために必死でがんばっているのに、なぜわからな
い。」

そう、泣きながら殴り続けていたと思います。「いけない。このままでは、いけない。」と思いなが
ら。

気がつけば、子供達と接することが怖くなり、また「おっくう」に感じだし、休みの日は、用事が
あると言っては、こどもから逃げて一人で出かけるようになっていました。

そんな時、先生の「ホームページ」に出会いました。

私自身が原因であること。私の「生い立ち」が傷となり、同じことが繰り返されつつあることに気
づきました。と、同時に背筋が寒くなりました。心底、怖かったです。

同じ「不幸」を繰り返さないために、息子や娘が「生まれてきて良かった。」と思えるように、私
がまずすべきことは、自分を変えることです。リセットすることです。

自分を「変える」ことは、難しいことですね。約3ヶ月、かなり苦労しましたが、なんとか「まし」に
なったようです。事あるごとに、息子が生まれ、初めて抱いた時のことを思い出す様にしていま
す。

「指の数を数え、泣き声を聞き、その体温を感じ、五体満足に生まれてくれたことを喜んだ。」、
その瞬間を。

最近は、息子や娘に手をあげることも、怒鳴ることもなくなりました。時として彼らがすねて、反
抗した時も抱き寄せ、言い聞かせることができています。そうすると、決まって「こめんなさい」と
言ってくれます。まるで魔法のように。。。

休みの日は、必ず二人の手をひいて、公園に遊びに行きます。いっしょに過ごす時間が増える
ほど、今まで見えていなかった(見ようとしていなかった)ものが見えるようになりました。

「これ以上、何をこの子達に望むつもりだ。」と思えます。
先日、息子が「パパと公園に来るのは楽しい。」と言ってくれました。たったそれだけの言葉で
すが、涙が出そうになりました。初めて聞いた言葉でした。

情けない最低の父親でした。

間に合ったのでしょうか? 間に合ったと信じたいです。
これからも努力します。息子や娘の中に「もう一人の私」を育てないために。

長々と書いてしまいましたが、救って頂いた「感謝」とお受け取り下さい。
以前、「中傷や批判も多いし、メルマガなんか止めてしまおうと思うこともある。」と書かれてい
ましたね。

大変な活動をしかも無償でやっておられる苦労には、頭が下がります。くだらない中傷や批判
など、無視すべきでしょう。そもそもホームページやメルマガというものは、「情報源」であり、受
け側が自分のフィルタを通して受け取るべき性質のものです。

必要ない情報、賛成できない内容は、読み飛ばせば良いのです。

それをわざわざ批判するような人間は、「単なる自意識過剰な暇人」でしょう。

可能な限り、続けてください。「救われるべき人、気づくべき人」が必ずいるはずです。
少なくとも私は、救われた。

人一倍、子育てに熱心な親。自分の生い立ちに多少なりとも「傷」を持っているからこそ、そう
なる人。

実は、そんな人が一番、危険なのでしょう。皮肉なことですが。そんな方々をこれからも救って
あげて下さい。

今後のさらなる活躍を心からお祈り致します。

                     福岡県T市、DT(父親、三九歳)

+++++++++++++++++++++++

【DTさんへ】

 自分を知るということは、本当に、むずかしいですね。私も、自分の姿が、おぼろげながらわ
かり始めたのは、四五歳を過ぎてからではなかったかと思います。「私のことは、私が一番、よ
く知っている」と、思っていました。……思いこんでいました。

 そして私自身の「欠陥(けっかん)」が、実は、乳幼児期につくられたものであることに気づい
たのは、そのあとのことです。

 私たちの中には、(私であって、私である)部分と、(私であって、私でない)部分とがありま
す。その(私であって、わたしでない)部分は、実は、その人の乳幼児期につくられるのです
ね。しかも私の中には、その(私であって、私でない)部分のほうが、はるかに大きいのです。

 どの人も、(私は私だ)と思いこんで、(私であって、私でない)部分に、動かされているだけな
のですね。よい例が、性欲です。

 フロイトは、人間のすべての行動力の原点になっているエネルギー(=リピドー)は、(性的エ
ネルギー)だと言っています。いろいろな反論もあるようですが、たしかにそういう部分は、あり
ますね。そのことは、女性たちが化粧する姿を見ていると、よくわかります。

 先日も、ローカル線に乗っていたら、反対側に座っていた若い女性が、人目もはばからず、
懸命に、化粧をしていました。ああいう姿を見ると、「ああこの女性も、(私であって、私でない)
部分に、動かされているんだな」と。

 わかりやすく言うと、(私であって、私でない)部分が、大きな土台で、(私であって、私である)
部分というのは、その上に咲いた、小さな花のようなものかもしれません。私たちは、何かにつ
けて、(私であって、私でない)部分に振りまわされているだけ?、ということになります。

 子育ても、まさに、そのとおり。

 いちいち頭の中で考えながら、子育てをしている人は、まず、いません。「頭の中では、わか
っているのですが、いざ、その場になると……」というのが、たいていの親たちの、偽らざる感
想です。

 もっとはっきり言えば、子育てというのは、条件反射のかたまりのようなものかもしれません。
いつも、(私であって、私でない)部分が、勝手に、反応してしまいます。もう少し深刻な例では、
子どもを愛せない母親たちです。

 公式の調査でも、そういう母親は、約七%はいるということですが、このことは、幼児を調べ
てみても、わかります。

 それとなく幼児(年中児、年長児)のそばに、ぬいぐるみを置いてあげるのですが、「かわいイ
〜」とか何とか言って、プラスの反応を示す子どもは、約八〇%。残りの二〇%の子どもは、反
応を示さないばかりか、中には、足で、キックする子どもさえいます。

 すでにこの時期、母性愛(父性愛)は、ほぼ、完成されているのですね。

 では、その原因は何かとさぐっていくと、ここでいう乳幼児期にあるということがわかってきま
す。この時期、両親の愛に、たっぷりと恵まれ、不安や心配のない環境の中で育てられた子ど
もは、自然と、母性愛(父性愛)を身につけ、そうでない子どもは、そうでないということです。

 ……と考えていくと、いつも、「では、私自身はどうか?」という問題にぶつかります。幼児教
育のおもしろさは、ここにありますが、その話は、また別の機会にするとして、「では、私自身
は、どうなのか?」と。

 ここで重要なことは、(子どもを愛することができる)親も、(子どもを愛することができない)親
も、それはその人自身が、自分でそうなったというよりは、生まれ育った環境の中で、そのよう
に、つくられたということです。

 私も、結構、不幸な家庭で育っています。まったく育児をしない父親。反面、私を溺愛した母
親。そんな私が、かろうじて(?)、自分でありつづけることができたのは、祖父母が同居してい
たからに、ほかなりません。加えて、戦後直後の混乱期。今の常識から考えれば、もう、めち
ゃ、めちゃな時代でした。

 いつしか私は、(私であって、私でない)部分さがしを、始めるようになりました。

 恐怖症的体質は、どうして、そうなったのか。
 分離不安的体質は、どうして、そうなったのか。
 なぜ、私は興奮性が強いのか。

 子育てについても、どうして私の子育てのし方は、ぎこちないのか、などなど。

 ……こうして考えていくと、実は、(私であって私である)部分というのは、ほとんど、ないことに
気づきました。「ない」というより、私は、(私であって私でない)部分を、「私」と思いこんでいた
だけと、思い知らされました。

 これもよい例ですが、ときどき町の中を歩いていると、車の中から、通りを歩く女性を、ギラギ
ラとした目つきで、見つめている若い男たちを、見かけます。ナンパしようとしているのですね。
ときどき、ヒワイな笑みを浮かべあって、たがいにニヤニヤしあっています。

 そういうとき、その男たちは、自分では、自分の意思でそうしていると思っているかもしれませ
んが、やはり、性欲という、(私であって私でない)部分に、動かされているだけということになり
ます。「動かされている」というより、「操られている」と言ったほうが、正確かもしれません。

 そう、まさに操られているわけですが、子育ての世界にも、たとえば、「虐待」というのがありま
す。

 虐待する親に会って、話を聞いたりすると、そういう親たちも、自分の意思ではどうにもならな
い部分で、操られているのがわかります。虐待する親にしても、いつもいつも、虐待しているわ
けではないのですね。あるときの、ある瞬間に、突発的に、カーッとなって、虐待してしまうので
す。自分の意思ではないものに操られて、です。

 ……またまた話が脱線しそうになったので、この話も、ここまでにしておきます。

 しかしDTさんへ、いろいろな問題があるにせよ、こうした(私であって私でない)部分が引きお
こす問題は、それに気づくだけで、ほぼ解決したとみます。あとは時間が解決してくれます。

 問題は、そうした問題があることではなく、そうした問題があることに気がつかないで、それに
引きずりまわされることです。そして同じ失敗を、繰りかえす……。DTさんも、幸いなことに、
今、それに気づき始めています。私は、それを、率直に、喜んでいます。

 で、あえて、一言、アドバイスさせてもらうなら、「居なおりなさい」ということ。

 「いい親でいよう」とか、「いい家庭をつくろう」とか、そういうふうに、考えてはいけません。自
分が不完全であることを認めた上で、「私は、私だ!」「不完全で、どうしようもない私だが、私
は、私だ!」と居なおるのです。DTさんだけではない。みんな、十字架の一つや二つ、あるい
は三つや四つは、背負っています。そしてみんな、ボロボロの心を、懸命に修復しながら、がん
ばって生きています。

 不完全であることを、恥じることはないし、そういう自分を、失格者だと思うことも、ないので
す。しかたないでしょう。それが人間ですから……。

 ほとんど役にたたない、長い返事になってしまいましたが、メール、ありがとうございました。
むしろ私のほうが、勇気づけられ、励まされました。ありがとうございました。これからも、よろし
くお願いします。

 なお、抗議というわけではありませんが、昨日、実に愉快な(失礼!)FAXをもらいました。そ
れについては、別の原稿で、書いてみます。ときどき、こういうことがあるから、人生は、おもし
ろいですね。
(031210)



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●被害妄想

 育児ノイローゼから、子どもの受験ノイローゼ。母親たちが、陥りやすい「うつ病?」の一種
に、こうしたノイローゼがある。

 子どもが選別されるという恐怖。子どもの将来への不安や心配。そういうものが、混然一体と
なって、母親たちの心をゆがめる。

 しかしたいていの人は、この段階で、自分がおかしいと気がつく。こういうのを「病識」という。
が、中には、その病識がない人がいる。

 夫が、妻の異変に気づき、夫が、妻に、「病院へ行ってみたら」と勧めるのだが、妻が、がん
として、それを拒否したりする。「私は、何ともない!」と。

 「こうした病識のない人が一番、困る」と、いつか、かかりつけの内科医(ドクター)が、そう言
っていたのを、覚えている。つまり、それだけ、脳の中枢部が変調していることになる。

 こうしたノイローゼになるのは、その母親の勝手だが、そういった母親が、「自分は、まとも」と
いう前提で、周囲の人たちを巻きこんで、騒ぐことがある。その中でも、周囲の人たちが、もっ
とも迷惑するのが、被害妄想。

 私も、もともと、うつ気質の人間だから、その被害妄想というのが、どういうものか、よく知って
いる。

 まず、ささいなことが気になる。そして一度、気になると、それが、心のカベにペタッと張りつ
く。そして一度、張りつくと、そのことばかり、気になる。

 私のばあい、たいていこの段階で、ワイフに相談する。「今のぼくは、おかしいか?」と。する
と、ワイフは、「おかしい」と答えてくれる。そこで私は、自分の心に、ブレーキをかける。

 ここで注意しなければならないことは、一度、気になり始めると、それがあらゆる方向に、飛
び火しやすいということ。「あれも、ダメだ」「これも、ダメだ」と考えやすくなる。つまり妄想が、生
まれる。この妄想が、こわい。

 で、さらに私のばあい、一度、こういう状態になったら、そのことについては、結論を出さない
ようにする。つまり、塩漬けにする。そしてできるだけ、その問題からは、遠ざかる。

 が、母親たちにとっては、そうではない。子育ては、毎日のことであり、それから逃れることが
できない。しかも問題は、好むと、好まざるとにかかわらず、向こうから、つぎからつぎへと、や
ってくる。

 Kさん(四三歳、母親)は、このところ、マンションの階下の人が出す騒音が気になってしかた
ないという。料理をする音。人が歩く音。音楽を聞く音など。夫は、床に耳をあてなければ聞こ
えないような音だというが、Kさんには、それが聞こえるという。

 が、この段階で、ふつうの人は、(「ふつう」という言い方には、問題があるが……)、その瞬
間には、そう思うことはあっても、その問題は、すぐ忘れる。しかしノイローゼ気味の人は、そう
でない。

 「最近、うちの子の成績がさがってきたのは、階下の人が出す、騒音が原因にちがいない」
「私が不眠になったのは、階下の人の家の冷蔵庫のモーターが発する、低周波振動によるも
のだ」と。

 こうしてとりとめのない、妄想の世界に入っていく。

 この段階でも、病識のある人は、自分のほうがおかしいと気づき、行動にブレーキをかける。
しかし、その病識がないと、今度は、新たな行動に出る。階下の人のところへ行き、「息子が、
うるさくて勉強できないと言っています。もっと、静かに歩いてください!」と。

 もっともそういうふうに、直接、声を出していく人は、まだ性質(たち)がよいほう。中には、階
下の人に対して、執拗ないやがらせを始める人がいる。真夜中に無言電話をかけてみたり、
玄関先に、ゴミをまき散らしてみるなど。

 こうなると、もう育児ノイローゼとか、受験ノイローゼという範囲を超えてしまう。

 以前、育児ノイローゼについて書いた原稿(中日新聞発表済み)があるので、それを添付す
る。

++++++++++++++++++++

母親が育児ノイローゼになるとき

●頭の中で数字が乱舞した    

 それはささいな事故で始まった。まず、バスを乗り過ごしてしまった。保育園へ上の子ども(四
歳児)を連れていくとちゅうのできごとだった。

次に風呂にお湯を入れていたときのことだった。気がついてみると、バスタブから湯がザーザ
ーとあふれていた。しかも熱湯。すんでのところで、下の子ども(二歳児)が、大やけどを負うと
ころだった。

次に店にやってきた客へのつり銭をまちがえた。何度レジをたたいても、指がうまく動かなかっ
た。あせればあせるほど、頭の中で数字が勝手に乱舞し、わけがわからなくなってしまった。

●「どうしたらいいでしょうか」

 Aさん(母親、三六歳)は、育児ノイローゼになっていた。もし病院で診察を受けたら、うつ病と
診断されたかもしれない。しかしAさんは病院へは行かなかった。子どもを保育園へ預けたあ
と、昼間は一番奥の部屋で、カーテンをしめたまま、引きこもるようになった。食事の用意は何
とかしたが、そういう状態では、満足な料理はできなかった。

そういうAさんを、夫は「だらしない」とか、「お前は、なまけ病だ」とか言って責めた。昔からの
米屋だったが、店の経営はAさんに任せ、夫は、宅配便会社で夜勤の仕事をしていた。

 そのAさん。私に会うと、いきなり快活な声で話しかけてきた。「先生、先日は通りで会ったの
に、あいさつもしなくてごめんなさい」と。私には思い当たることがなかったので、「ハア……、別
に気にしませんでした」と言ったが、今度は態度を一変させて、さめざめと泣き始めた。そして
こう言った。

「先生、私、疲れました。子育てを続ける自信がありません。どうしたらいいでしょうか」と。冒頭
に書いた話は、そのときAさんが話してくれたことである。

●育児ノイローゼ

 育児ノイローゼの特徴としては、次のようなものがある。
@生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞、
A思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の低
下)、
B精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、日
常活動への興味の喪失)、
C睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。さらにその状態が進むと、Aさんのように、
D風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかったり(注意力欠陥障害)、
Eムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)、
Fささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)、
G同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど感情のコントロールができなくな
る(感情障害)、
H他人との接触を嫌う(回避性障害)、
I過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。
Jまた必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)。こうした兆候が見られ
たら、黄信号ととらえる。育児ノイローゼが、悲惨な事件につながることも珍しくない。子どもが
間にからんでいるため、子どもが犠牲になることも多い。

●夫の理解と協力が不可欠

 ただこうした症状が母親に表れても、母親本人がそれに気づくということは、ほとんどない。
脳の中枢部分が変調をきたすため、本人はそういう状態になりながらも、「私はふつう」と思い
込む。あるいは症状を指摘したりすると、かえってそのことを苦にして、症状が重くなってしまっ
たり、さらにひどくなると、冷静な会話そのものができなくなってしまうこともある。

Aさんのケースでも、私は慰め役に回るだけで、それ以上、何も話すことができなかった。

 そこで重要なのが、まわりにいる人、なかんずく夫の理解と協力ということになる。Aさんも、
子育てはすべてAさんに任され、夫は育児にはまったくと言ってよいほど、無関心であった。そ
れではいけない。子育ては重労働だ。私は、Aさんの夫に手紙を書くことにした。この原稿は、
そのときの手紙をまとめたものである。

++++++++++++++++++++

 育児ノイローゼであるにせよ、子どもの受験ノイローゼであるにせよ、大切なことは、自分が
そうであることに、自分で気がつくこと。気がつけば、問題のほとんどは、解決したとみてよい。

 この世の中、自分、一人が生きていくだけでも、本当に、たいへん。わずらわしいことが、多
すぎる。その上、子どもの心配、仕事や健康の心配。日本や世界の心配。心が、かなりタフな
人でも、そのつど、そういったウズに巻きこまれてしまう。

 仮にあなたが、育児ノイローゼや、受験ノイローゼになったとしても、何も、恥ずべきことでは
ない。まじめな親、懸命に子育てをしている親ほど、そうなる。ただ、とても残念なことだが、そ
ういう人ほど、たとえばこうした私の文章を読まない。つまり言いかえると、今、こうして私の文
章を読んでいる「あなた」は、まず、心配ないということ。

 どうか、ご安心ください。
(031212)




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●虐待

【三重県S市のHSさんより、虐待の相談がありました。】

●虐待

 母親のうち、約五〇%が、子どもに、体罰を加えている。そしてそのうち、七〇%が、かなり
はげしい、体罰を加えている。計算してみると、約三分の一の母親が、はげしい体罰を加えて
いることになる※。(虐待といっても、暴力的な体罰だけが、虐待ではない。)

 この中でも、とくにはげしい体罰を、虐待という。が、虐待パパであるにせよ、虐待ママである
にせよ、いつもいつも、子どもを虐待しているわけではない。ある一定の周期性がある。

虐待期……ささいなことや、ちょっとしたきっかけで、子どもにはげしい体罰を加える。

移行期……興奮がやがておさまり、それにかわって、子どもに対する、いとおしさが生まれる。

平静期……むしろ子どもへのサービスが、平均的な親よりも、濃厚となることが多い。子ども
の機嫌を必要以上にとったり、子どもに好かれようと、あれこれ努力をする。

油断期……「虐待してはいけない」という思いが強い間は、それがブレーキとして働く。しかしそ
の緊張感が、急速に薄れていく。

虐待期……ささいなことや、ちょっとしたきっかけで、子どもにはげしい体罰を加える。

 このタイプの親の虐待には、ギリギリの限界まで、まさに破滅的な暴力を繰りかえすという特
徴がある。「叱る」という範囲を超え、子どもの存在そのものを否定してしまう。バットで、長男
の顔を殴りつけていた母親(F市)の話を、聞いたことがある。

 この周期には、個人差がある。一週間単位の親もいれば、一か月単位、あるいはそれ以上
の親もいる。ただここにも書いたように、平静期には、むしろ「いい親」でいることが多い。

 一方、子どもの側にしても、虐待されながらも、親を慕う傾向が見られる。施設へ保護して
も、それでも、「ママ(パパ)のところにもどりたい」とか言う子どもは、多い。あるいは自分を虐
待する親に、献身的に尽くすという傾向も見られる。悲しい、子どもの心理である。

 こうした虐待を、子ども(夫や妻)に対して繰りかえすときは、自分自身の中の、「わだかまり
(固着)」を疑ってみる。あるいは、自分自身も、子どものころ、そうした暴力行為を、日常的に
経験していた可能性も高い。

 そのわだかまりが、何であるかをまず、知る。望まない結婚であったとか、望まない子どもで
あったとか、など。経済的困苦や、妊娠や出産に対する不安や、心配が、わだかまりになるこ
ともある。

 ある母親は、子ども(中一男子)に、はげしい体罰を加えていた。ときに、瀬戸物の花瓶を投
げつけることもあったという。その理由について、その母親は、こう話した。

 「自分を捨てた男の横顔に、息子がそっくりだったから」と。その母親は、ある時期、ある男性
と同棲していたが、そのときできた子どもが、その中学一年生の男の子だった。

 こどもがを虐待する親を、一方的に悪いと決めてかかってはいけない。その親自身も、大き
なキズをもっている。それは社会的、環境的キズと言ってもよい。その親自身も、そのキズを、
どうしてよいのか、わからないでいる。

 もちろんあなたが、虐待ママやパパであるとしても、自分を責める必要はない。あなたはあな
ただ。しかしもし、あなたにほんの少しでも、勇気があるなら、冷静に、自分の過去をのぞいて
みるとよい。そしてあなたの心を、裏から操っている、わだかまりが何であるかを、さぐってみる
とよい。

 あとは、時間が、解決してくれる。

++++++++++++++++++++++

※……東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏は、虐待の診断基準を作成し、虐待の度合
を数字で示している。

妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」などの一七項目を作
成し、それぞれについて、「まったくない……〇点」「ときどきある……一点」「しばしばある……
二点」の三段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待あり」が、有効回答(四
九四人)のうちの九%、「虐待傾向」が、三〇%、「虐待なし」が、六一%であった。この結果か
らみると、約四〇%弱の母親が、虐待もしくは虐待に近い行為をしているのがわかる。

 一方、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、七%。そしてその大半が何らか
の形で虐待していることもわかったという(同、総合研究所調査)。「愛情面で自分の母親との
きずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかがえる」とも。
(031212)

++++++++++++++++

以前、こんな原稿を書きました。
(中日新聞発表済み)

++++++++++++++++

●虐待される子ども
                    
 ある日曜日の午後。一人の子ども(小五男児)が、幼稚園に駆け込んできた。富士市で幼稚
園の園長をしているI氏は、そのときの様子を、こう話してくれた。

「見ると、頭はボコボコ、顔中、あざだらけでした。泣くでもなし、体をワナワナと震わせていまし
た」と。虐待である。逃げるといっても、ほかに適当な場所を思いつかなかったのだろう。その
子どもは、昔、通ったことのある、その幼稚園へ逃げてきた。

 カナーという学者は、虐待を次のように定義している。

@過度の敵意と冷淡、
A完ぺき主義、
B代償的過保護。

ここでいう代償的過保護というのは、愛情に根ざした本来の過保護ではなく、子どもを自分の
支配下において、思い通りにしたいという、親のエゴに基づいた過保護をいう。その結果子ども
は、

@愛情飢餓(愛情に飢えた状態)、
A強迫傾向(いつも何かに強迫されているかのように、おびえる)、
B情緒的未成熟(感情のコントロールができない)などの症状を示し、さまざまな問題行動を起
こすようになる。

 I氏はこう話してくれた。「その子どもは、双子で生まれたうちの一人。もう一人は女の子でし
た。母子家庭で、母親はその息子だけを、ことのほか嫌っていたようでした」と。私が「母と子の
間に、大きなわだかまりがあったのでしょうね」と問いかけると、「多分その男の子が、離婚した
夫と、顔や様子がそっくりだったからではないでしょうか」と。

 親が子どもを虐待する理由として、ホルネイという学者は、

@親自身が障害をもっている。
A子どもが親の重荷になっている。
B子どもが親にとって、失望の種になっている。
C親が情緒的に未成熟で、子どもが問題を解決するための手段になっている、の四つをあげ
ている。

それはともかくも、虐待というときは、その程度が体罰の範囲を超えていることをいう。I氏のケ
ースでも、母親はバットで、息子の頭を殴りつけていた。わかりやすく言えば、殺す寸前までの
ことをする。そして当然のことながら、子どもは、体のみならず、心にも深いキズを負う。学習
中、一人ニヤニヤ笑い続けていた女の子(小二)。夜な夜な、動物のようなうめき声をあげて、
近所を走り回っていた女の子(小三)などがいた。

 問題をどう解決するかということよりも、こういうケースでは、親子を分離させたほうがよい。
教育委員会の指導で保護施設に入れるという方法もあるが、実際にはそうは簡単ではない。

父親と子どもを半ば強制的に分離したため、父親に、「お前を一生かかっても、殺してやる」と
脅されている学校の先生もいる。あるいはせっかく分離しても、母親が優柔不断で、暴力を振
るう父親と、別れたりよりを戻したりを繰り返しているケースもある。

 結論を言えば、たとえ親子の間のできごととはいえ、一方的な暴力は、犯罪であるという認識
を、社会がもつべきである。そしてそういう前提で、教育機関も警察も動く。いつか私はこのコ
ラムの中で、「内政不干渉の原則」を書いたが、この問題だけは別。子どもが虐待されている
のを見たら、近くの児童相談所へ通報したらよい。

「警察……」という方法もあるが、「どうしても大げさになってしまうため、児童相談所のほうがよ
いでしょう。そのほうが適切に対処してくれます」(S小学校N校長)とのこと。




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【幼児の腕力】

 幼児の腕力について、質問があった。「どの程度まで認めたら、よいのか」と。

 最初に思い出したのは、K君という年中児(満五歳)の子どもだった。

●手加減しなかったK君

私はよく、子どもたちと「戦いごっこ」をする。プロレスに似た遊びだが、当然、たがいに手加減
をしながら、遊ぶ。あくまでも、それは、遊びである。その「戦いごっこ」のときのこと。

 K君が、前に出てきて、私に、戦いをいどんできた。身長も、平均的な子どもと比べても、や
や小柄なほうだった。が、戦い方がちがった。

 私が体をかがめると、まるでカミソリでスパスパと切りこむように、私にキックや、パンチを加
えてきた。一撃で、私のメガネは、吹っ飛んでしまった。瞬間、「この子は、空手でもやっている
のか!」と思ったほどである。

 そして小さな手だが、げんこつをつくったまま、ピシッ、ピシッと、私の顔面を殴ってきた。鼻先
を殴られて、ひるんでいると、今度は、足で、私の腹部を蹴ってきた。動きが速いというか、正
確というか……。ドス、ドスと、K君の足が私の腹にめりこんだ。瞬間、息ができなるほどの、痛
さを感じた。私は、「ちょっと待ちなさい!」と叫ぶのが、精一杯だった。

 小学二、三年生の子どもでも、そこまで痛くない。それに遊びは遊びだ。しかしK君には、そ
れがなかった。小さい体だが、本気で、殴ったり、蹴ったりしてきた。

キレた状態になると、子どもも、そういった様子を見せることがある。しかしK君には、キレた子
ども特有の、あの冷たさは感じなかった。K君は、柔和な笑いを浮かべたまま、私を殴ったり、
蹴ったりした。むしろそれを楽しんでいるかのようだった。


●K君の様子

 そのK君について、一つ気になったのは、下に妹が生まれてから、かなりはげしい赤ちゃん
がえりを起こしていたこと。ものごし、言い方などが、赤ちゃんのそれになってしまっていた。ネ
チネチとした話し方や、母親にベタベタ甘える様子のほか、分離不安、退行性などの症状も、
見られた。

 子どもというのは、その年齢になると、その年齢にふさわしい人格の「核」ができてくる。年長
児は、年長児らしく、小学生は、小学生らしくなる。

 しかし心が変調すると、その退行性が現れる。この時期だと、幼児がえりというよりは、赤ち
ゃんがえりに合わせて、その子どもの人格の「核」まで、軟弱になる。約束が守れなくなったり、
生活習慣そのものが、ルーズになったりするなど。全体に、精神面、行動面に、強い幼稚性が
現れるようになる。

 原因は、家庭教育の失敗とみる。

 下の子どもが生まれるまでは、目いっぱい、甘やかす。しかし下の子どもが生まれたとたん、
一転、今度は、「お兄ちゃんだから」と、子どもを、突き放す。そしてそれに対して、不満を訴え
たりすると、「わがまま」と決めてかかって、押さえつける。

 こうした一貫性のない育児姿勢が、子どもの心をゆがめる。K君が、その柔和な、……という
より、幼稚ぽい表情とは裏腹に、はげしい攻撃性を身につけたのは、そういう背景によるもの
と思われる。

 そこでそのことを、母親に相談すると、母親は、こう言った。「幼稚園に、よくない友だちがい
て、その友だちから、そういうことを学んだようです」と。

しかしK君のもっていた攻撃性は、学んだくらいでは、身につくものではなかった。大きな欲求
不満が、心の根底にあって、それが姿を変えたと見るのが正しい。

 こういう例は、少なくない。


●嫉妬の恐ろしさ

 乳幼児の心について、刺激してならないものが、二つ、ある。攻撃心と、嫉妬心である。この
二つをいじると、子どもの心は、ゆがむ。

 そしてこれら二つは、人間が人間になる前からもっていた感情であるだけに、扱い方をまち
がえると、人間性そのものまで、ゆがめる。

 同じような例だが、弟(一歳半)を、逆さづりにして、頭から落としていた子ども(年長男児)が
いた。つまり、この種の嫉妬がからむと、子どもは、相手(下の子)を、殺すところまでする。そ
の男の子のことだが、両親の前では、たいへんできのよい兄を演じていた。その光景を見た、
母親は、こう言った。

 「隣との家の、兄は、弟にそれをしていました。それを見たとき、私は、思わず、ギャーッと叫
んでしまいました」と。

 ほかに、自転車で弟に体当たりを繰りかえしていた兄。チョークを、お菓子と偽って、妹に食
べさせていた兄などの例がある。

 一般的に、世の親たちは、赤ちゃんがえりを、軽く考える傾向がある。しかしこれはとんでも、
まちがい。

 赤ちゃんがえりは、その根底で、その子どもの心そのものをゆがめる。ゆがめるだけならま
だしも、生涯にわたって、その子ども(人)に、さまざまな悪影響を、およぼす。たとえば善悪の
バランス感覚にうとくなるなど。

 この時期、子どもは子どもでも、それなりの分別が、できてくる。つまり、(してよいこと)と、(し
て悪いこと)の、区別ができるようになる。が、善悪のバランス感覚が崩れてくると、それができ
なくなる。

 コンセントに粘土を詰めてみたり、色水を友だちにかけたりするなど。ここでいう「遊びに手加
減を加えない」というのも、それに含まれる。ふつうなら、(「ふつう」という言い方には、いろいろ
問題はあるが……)、こういう「遊び」では、子どものほうも、手加減をする。年中児という年齢
は、それができて当然の年齢である。


●心の欲求不満の解消を、最優先に

 こうした一連の症状が見られたら、心の欲求不満の解消を最優先に考える。とくに注意した
いのが、親の短絡的な育児姿勢と、情緒不安。頭ごなしに、ガミガミ言えば言うほど、子ども
は、自分で考える力をなくす。

 しかし実際には、私たちの目にとまるころには、手遅れとなっているケースが多い。K君にし
ても、それまでに、妹が生まれてから、すでに、三年近くもたっていた。その三年の間に、症状
は、こじれにこじれていた。

 また母親にしても、それまでに育児姿勢を、急激に変えることは、不可能といってもよい。さら
に退行症状(赤ちゃんぽいしぐさ、様子、態度)は、一度身につくと、なおすのは、容易ではな
い。

 ふつうはそのまま性格(性質)として、子どもの中に定着してしまう。小学校の高学年になって
も、中学生になっても、どこかに幼稚ぽさは、残る。親は、そういう自分の子どもの姿を見て、
「なおそう」と考えるが、無理をすればするほど、かえって、子どもの症状は、悪化する。

 G君という、小学六年生の子どもがいた。彼には、はげしいチックと、吃音(どもり)が見られ
た。やることなすこと、幼稚ぽいので、そのたびに、母親がきつくG君を叱っていた。こうした悪
循環に入るケースも、少なくない。

 そう、そのG君で、記憶に残っている事件に、こういうのがあった。

 学校帰りに、通り道にある家の中の犬小屋に石をなげて、遊んでいた。そしてそのとき、その
家の、大きな窓ガラス(縦二メートル、幅一メートルくらい)を、割ってしまった。家の人が学校に
通報し、調べたところ、G君とわかった。

 しかしG君の母親は、「うちの子が、そんなことをするはずがない」と、最後の最後まで、がん
ばった。G君は、母親の前では、いつもネチネチと甘えていた。
 

●幼児の腕力

 幼児の腕力は、どの程度まで認めてよいかという議論は、そんなわけで、ほとんど、意味が
ない。冒頭にあげたK君の母親は、さかんに、「どこまで(暴力を)認めていいのでしょう?」と言
っていたが、問題の本質がちがう。

 大切なことは、そうした行為の根底にあるのが、赤ちゃんがえりであり、さらにその原因であ
る、「嫉妬」であることに、気がつくこと。そして全体として、K君の心のケアをすること。それに
気がつかないと、そのつど、対症療法だけで、あたふたとしてしまう。

 またキレやすい子どもについては、別のところで考えたので、ここでは省略する。K君につい
ても、症状をこじらせれば、そのキレやすい子どもになることは、じゅうぶん考えられた。小学
校へ入ると同時に、K君は、私の教室から、去っていった。その後の、ことは、知らない。

【腕力をふるう子どもについて……】

 暴力をふるうたびに、そのつど、ていねいに、かつ、静かに説得する。叱ったり、威圧しても
意味がないばかりか、かえって、逆効果になることが多い。

 以前、そのタイプの子どもに、空手を習わせた親がいたが、それでうまくいくケースもあれ
ば、そうでないケースもある。やはりその前に、大切なことは、善悪のバランス感覚を育てるこ
と。静かに考える時間を、子どもに、もたせるようにするとよい。あるいは、ひとりで、考えるよう
に、しむける。

 しかしたいていこのタイプの子どもにかぎって、あまり考えない。考えて行動するという習慣そ
のものがない。その場、その場で、気が向いたまま行動する。

 もしそうなら、親自身が、自ら考える姿勢を見せる。「考える」ということがどういうことなのか、
子どもの前で、見せる。見せながら、子どもの体にしみこませていく。

++++++++++++++++++++++

キレる子どもについて、以前、書いた原稿を
添付します。これは私の本で、すでに発表済み
の原稿です。

++++++++++++++++++++++

キレる子ども

●躁状態における錯乱状態 

 子どもたち(小三児)を並べて、順に答案に丸をつけていたときのこと。それまでF君は、まっ
たく目立たないほど、静かだった。が、あと一人でF君というそのとき、F君が突然、暴れ出し
た。突然というより、激変に近いものだった。

ギャーという声を出したかと思うと、周囲にあった机とイスを足でけって、ひっくり返した。瞬間
私は彼の目を見たが、それは恐ろしいほど冷たく、すごんでいた……。

 キレる状態は、心理学の世界では、「躁(そう)状態における精神錯乱」(長崎大・中根允文氏
ほか)と位置づけられている。

躁うつ病を定型化したのはクレペリン(ドイツの医学者・一八五六〜一九二六)だが、一般的に
は躁状態とうつ状態はペアで考えられている。周期性をもって交互に、あるいはケースによっ
ては、重複して起こることが多い。

それはそれとして、このキレた状態になると、子どもは突発的に凶暴になったり、大声でわめ
いたりする。(これに対して若い人の間では、ただ単に、激怒した状態、あるいは怒りが充満し
た状態を、「キレる」と言うことが多い。ここでは区別して考える。)

●心の緊張状態が原因

 よく子どもの情緒が不安定になると、その不安定の状態そのものを問題にする人がいる。し
かしそれはあくまでも表面的な症状にすぎない。

情緒が不安定な子どもは、その根底に心の緊張状態があるとみる。その緊張状態の中に、不
安が入り込むと、その不安を解消しようと、一挙に緊張感が高まり、情緒が不安定になる。

先のF君のケースでも、「問題が解けなかった」という思いが、彼を緊張させた。そういう緊張状
態のところに、「先生に何かを言われるのではないか」という不安が入りこんで、一挙に情緒が
不安定になった。

言いかえると、このタイプの子どもは、いつも心が緊張状態にある。気を抜かない。気を許さな
い。周囲に気をつかうなど。表情にだまされてはいけない。柔和でおだやかな表情をしながら、
その裏で心をゆがめる子どもは少なくない。これを心理学の世界では、「遊離」と呼んでいる。
一度こういう状態になると、「何を考えているかわからない子ども」といった感じになる。 

●すなおな子ども論

 従順で、おとなしい子どもを、すなおな子どもと考えている人は多い。しかしそれは誤解。教
育、なかんずく幼児教育の世界では、心(情意)と表情が一致している子どもを、すなおな子ど
もという。

うれしいときには、うれしそうな表情をする。悲しいときには悲しそうな表情をする。不愉快なと
きは、不愉快そうな顔をする。そういう子どもをすなおな子どもという。しかし心と表情が遊離す
ると、それがチグハグになる。ブランコを横取りされても、ニコニコ笑ってみせたり、いやなこと
があっても、黙ってそれに従ったりするなど。

中に従順な子どもを、「よくできた子ども」と考える人もいるが、それも誤解。この時期、よくでき
た子どもというのは、いない。つまり「いい子」ぶっているだけ。このタイプの子どもは大きなスト
レスを心の中でため、ためた分だけ、別のところで心をゆがめる。よく知られた例としては、家
庭内暴力を起こす子どもがいる。このタイプの子どもは、外の世界では借りてきたネコの子の
ようにおとなしい。

●おだやかな生活を旨とする

 キレるタイプの子どもは、不安状態の中に子どもを追い込まないように、穏やかな生活を何
よりも大切にする。乱暴な指導になじまない。あとは情緒が不安定な子どもに準じて、@濃厚
なスキンシップをふやし、A食生活の面で、子どもの心を落ちつかせる。カルシウム、マグネシ
ウム分の多い食生活に心がけ、リン酸食品をひかえる(※)。

リン酸は、せっかく摂取したカルシウムをリン酸カルシウムとして、体外へ排出してしまう。もち
ろんストレスの原因(ストレッサー)があれば、それを除去し、心の負担を軽くすることも忘れて
はならない。

※……今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。たとえば、ハム、ソーセージ(弾力
性を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けても流
れず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせず、
歯ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味をおだ
やかにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水によく
溶けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。

●人工的に調合するのは、不必要

ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分な食物を生み
出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなどということは、不必要
なことである」と。つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化物にさまざまな添加物を
加えた食品(ジャンク・フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジャ
ンクフードは)疲労、神経のイライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコール処理不
能、アレルギーなどの原因になっている」とも。
(031213)



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●反動形成

 自分の心を偽るため、人は、時として、まったく正反対の人間を演ずることがある。泥棒が、
身近な人のまわりでは、まじめな人を演ずる、など。あるいは、女遊びばかりしている父親ほ
ど、自分の娘に対しては、男性関係にきびしい、というのも、ある。こうした心理的反応を、反
動形成という。

 子どもの世界でも、よく知られた例として、こんなことがある。本当は、弟(妹)が、憎くてしか
たないのだが、親の前では、たいへんよい兄(姉)を演ずるというのが、それ。このタイプの子
どもは、人には、「いいお兄ちゃん(お姉ちゃん)」という印象を与えることが多い。またそういう
印象を与えることによって、自分の立場を守ろうとする。

 その反動形成についてだが、私は、ときどき、私のワイフは、その反動形成をしているので
はないかと思うことがある。「本当は、私を心底、嫌っているのかもしれない。しかし別れるに別
れられないから、いい妻を演じているだけ」と。

 こういうケースは、決して、少なくない。もう少し深刻な例としては、ストックホルム症候群※と
いうのがある。威圧的かつ暴力的な夫をもつと、妻は、いつしかその夫に対して、献身的に尽く
すようになることがある。傍目(はため)には、たいへんよい妻になる。また妻自身も、夫を愛し
ている(?)と思いこむようになる。

 あのストックホルム事件のときも、そのあと人質となった女性は、犯人の男と結婚までしてい
る!

 で、ある午後、私は、ワイフにこう聞いた。

私「お前は、本当は、ぼくのことを恨んでいるのかもしれない。嫌いなのかもしれない。しかしそ
ういう感情を表に出すと、自分自身が不幸になるから、それを心の中で押し殺しているだけか
もしれない」
ワ「……」
私「お前は、自分の本心が、どこにあるか、考えたことがあるだろうか。今の今でも、本当は、
この生活、とくに、このぼくから、逃げたいと思っているのかもしれない。ちがうか?」と。

 しかしこうした反動形成は、日常生活の中では、よく見られる。頭から、それが悪いことと決
めてかかってはいけない。その反動形成があるからこそ、生活が、スムーズに流れるというこ
とも、ある。

 夫婦のばあいもそうで、相思相愛のまま、何一〇年も、いっしょに暮らすことができると考え
るほうが、おかしい。おかしいというより、無理。その間には、幾多の山があり、谷もある。とき
には、喧嘩もするし、その結果、離婚だって考える。

 そういうのを乗り越えて、夫婦は、夫婦。かろうじて夫婦。

 だからその間に、つまりそういう生活の中で、いつしか自分の心を偽り、その反動形成とし
て、別の自分を演じたからといって、それが悪いこととは、言えないのでは。どうにもならなけれ
ば、それを受け入れるしかない!
 
 では、私はどうか?

 本当の私は、もっと別の「私」かもしれない。こうして教育論を書いている私も、家の中で、よ
き夫である私も、また生徒たちの前では、よき教師である私も、いわばニセの私? そういう私
は、本当は、本当の私ではないのかもしれない。

 本当の私は、もっと動物的で、醜く、汚い? そういう私が、心のどこかで聖職者意識をもち、
そして聖職者のようなフリをしている。だれかが、「セックス」の話をすれば、露骨に、そういう話
題を嫌ってみせる……。これは、まさしく、反動形成以外の、何ものでもない。

 たとえて言うなら、私は、心の中の野獣を、懸命にオリの中に閉じこめながら、かろうじて聖
職者ぶっているだけかもしれない。そう、今の今でも、私の心の奥底では、無数の野獣たち
が、ガオーガオーと、声をあげている。ほえている!

 だから私は、反動形成を否定することが、できない。言うなれば、どの人も、反動形成のかた
まり? 無数の反動形成を積み重ねながら、「自分」というものを、つくりあげている。

 本当の私は、家族など、すべて捨てて、ひとりで、放浪の旅に出たいのかもしれない。好き勝
手なことをし、好き勝手な場所で寝て、好き勝手なものを食べる。実際、街角で、ホームレスの
人たちを見ると、何とも言えない親近感さえ覚える。

 だから、反動形成として、ワイフが、私のことを愛しているフリをしているとしても、私は、それ
はそれでよいのではと思っている。一方、反動形成として、私が、家族の前で、家族を愛してい
るフリをしているとしても、それはそれでよいのではと思っている。みんな、そのフリをしながら、
今の社会をまとめあげている。つまり、人間というのは、もともと、そういうもの。

 考えてみれば、人間の歴史が始まって、まだ、五五〇〇年足らず。それ以前は、私たち人間
も、野や山の動物たちと、それほど違った生活をしていたわけではない。もし人間の原点がそ
こにあるとするなら、まさに、現代の人間は、反動形成の上に成りたっている、架空の動物とい
うことになる。

 さあて、今日も私は、聖職者面(づら)して、仕事に出かける。そしてさもわかりきったような顔
をして、子どもたちの前に立つ。どこかで、そういう自分に疑問を感じながら……。
(031215)

※ストックホルム症候群……スウェーデンの首都、ストックホルムで起きた銀行襲撃事件に由
来する(一九七三年)。その事件で、六日間、犯人が銀行にたてこもるうち、人質となった人た
ちが、その犯人に協力的になった現象を、「ストックホルム症候群」と呼ぶ。のちにその人質と
なった女性は、犯人と結婚までしたという。




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10

●子どものやる気

掲示板より

【子どものやる気】

●年少の女児です。園に行くようになり、今までやっていた、(楽しんでというつもりで、無理強
いはしてませんが)、プリントや知育遊びなどがなかなかできません。

今はお友達と毎日でも遊びたいようで、それを優先していますが、(りかちゃんごっこやお絵か
きが好きです)、カルタを教えてあげようかなとか色々考えるのですが、とにかくお友だちと遊び
たいようです。

お友達を交えて、カルタや色んなことすればいいだけのことなのでしょうが、今やりたいこと(お
友達と遊ぶ)をしていていいのでしょうか?(Sさんより)

【動機づけを大切に!】

 子どものやる気は、薄いガラスの箱に入った、ガソリンのようなもの。量も少ないが、しかし無
理をすれば、そのガラス箱は、割れてしまう。

 たいていの親は、「やればできるはず」と、無理をする。しかしやり方をまちがえると、やる気
を引き出す前に、その箱を割ってしまう。が、一度割れた箱は、もとには、もどらない。今、こう
して失敗していく親が、多い。あまりにも、多い。

 言いかえると、この時期は、いかにやらせるかではなく、いかにやる気をつぶさないかに注意
する。一方、そのやる気を伸ばすのは、たいへん。本当にたいへん。どうたいへんかは、実
は、私自身が、一番、よく知っている。

 たとえば年中児(五歳児)を、教えたとする。しかしたいていの年中児は、この時期、ほとん
ど、反応がない。ないまま、数か月が過ぎる。教えても、教えても、ボーッとしたような様子を示
す。

 しかしこれを、私は「情報の蓄積期」と、呼んでいる。この時期、子どもは、頭の中で、情報を
懸命に蓄積しようとする。そしてそれが臨界点を超えたとき、一気に、頭の中で、火がつく。もと
もとやる気は、ガソリンのようなものだから、火がつくと、あとは爆発的に、伸び始める。

 これについて、書いた原稿が、つぎの原稿である。

++++++++++++++++++++

●幼児の伸びは、階段的

 幼児は成長するにつれて、さまざまな変化を見せる。それは当然だが、しかしその伸び方を
観察してみると、一次曲線的に、なだらかに伸びるのではないのがわかる。ちょうど階段をの
ぼるように、トントンと伸びる。

 たとえば年中児(満四歳児)をしばらく教えてみる(蓄積期)。しかしすぐには、変化は起きな
い。中にはまったく反応を示さない子どももいる。

が、そういう時期(熟成期)が、しばらくつづくと、ある日を境に、突然、別人のように変化し始め
る(爆発期)。同じようなことはたとえば、言葉の発達にも、見られる。生まれてから一歳半くら
いまで、子どもはほとんど言葉を話さない。しかしある日を境にして、急に言葉を話すようにな
り、一度話すようになると、言葉の数が、そのあと、まさに爆発的にふえ始める。

 これをチャート化すると、つぎのようになる。

 (蓄積期)→(熟成期)→(爆発期)

 教える内容にもよるが、たとえば文字にしても、満四・五歳(四歳六か月)までは、教えても教
えても、教えたことがどこかへそのまま消えてしまうかのような錯覚にとらわれることがある。し
かし満四・五歳を境に、急速に文字に関心を示すようになり、そのまま、たいていの子どもは、
とくに教えなくても、ある程度の文字が読み書きできるようになる。
 
 こうした特性を知っていれば問題はないが、知らないと、親はどうしても、無理をする。その無
理が、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまうことがある。

文字にしても、満四・五歳にひとつのターゲットをおき、それまでは、「文字はおもしろい」「文字
は楽しい」ということだけを教えていく。具体的には、子どもをひざに抱いてあげ、温かい息をふ
きかけながら本を読んであげるとよい。こうした積み重ねがあってはじめて、子どもは、文字に
対して前向きな姿勢をもつようになる。

 私も、幼児を教えるようになったころ、こうした特性を知らず、苦労をした。何とか効果を出そ
うと、あせって無理をしたこともある。しかしやがて、そうではないことを知った。(蓄積期)や(熟
成期)には、無理をせず、教えるべきことは教え、言うべきことは言いながらも、あとはその時
がくるのを待つ。それがわかってからは、教える側の私も気が楽になったし、子どもたちの表
情も、みちがえるほど、明るくなった。

 このことは家庭教育についても言える。子どもに何かを教えようとするときも、教えるべきこと
は教え、言うべきことは言いながらも、あとはその時がくるのを待つ。決して、あせってはいけ
ない。決して無理をしてはいけない。その時がくるのを、辛抱づよく待つ。これは子どもの学習
指導の、大鉄則と考えてよい。

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 このSさんの子どもは、まだ四歳ということになる。ガラスの箱にしても、さらに薄い。この時
期、たとえば勉強嫌いにしてしまうと、それから立ちなおらせるためには、その数倍、あるいは
数十倍の努力が、必要となる。

 たとえば年中児でも、「名前を書いてみよう」と話しかけただけで、体をこわばらせる子どもと
なると、約二〇%はいる。中には、泣き出してしまう子どもさえいる。

 無理な学習が、子どもに文字に対する恐怖心を、植えつけたと考える。

 しかしこの時期に一度、こうなると、(文字嫌い)→(本嫌い)へと進み、あとは、何をしても、効
果がないということになってしまう。つまり、親のできることには、いつも限界があるということ。
その限界について書いたのが、つぎの原稿である。

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●馬に、水を飲ますことはできない

 イギリスの格言に、『馬を水場へ連れて行くことはできても、水を飲ますことはできない』という
のがある。

要するに最終的に子どもが勉強するかしないかは、子どもの問題であって、親の問題ではない
ということ。いわんや教師の問題でもない。大脳生理学の分野でも、つぎのように説明されてい
る。

 大脳半球の中心部に、間脳や脳梁(のうりょう)という部分がある。それらを包み込んでいる
のが、大脳辺縁系といわれるところだが、ただの「包み」ではない。認知記憶をつかさどる海馬
もこの中にあるが、ほかに価値判断をする扁桃体、さらに動機づけを決める帯状回という組織
があるという(伊藤正男氏)。

つまり「やる気」のあるなしも、大脳生理学の分野では、大脳の活動のひとつとして説明されて
いる。(もともと辺縁系は、脳の中でも古い部分であり、従来は生命維持と種族維持などを維
持するための機関と考えられていた。)

 思考をつかさどるのは、大脳皮質の連合野。しかも高度な知的な思考は新皮質(大脳新皮
質の新新皮質)の中のみで行われるというのが、一般的な考え方だが、それは「必ずしも的確
ではない」(新井康允氏)ということになる。

脳というのは、あらゆる部分がそれぞれに仕事を分担しながら、有機的に機能している。いくら
大脳皮質の連合野がすぐれていても、やる気が起こらなかったら、その機能は十分な結果は
得られない。つまり『水を飲む気のない馬に、水を飲ませることはできない』のである。

 新井氏の説にもう少し耳を傾けてみよう。「考えるにしても、一生懸命で、乗り気で考えるばあ
いと、いやいや考えるばあいとでは、自ずと結果が違うでしょうし、結果がよければさらに乗り
気になるというように、動機づけが大切であり、これを行っているのが帯状回なのです」(日本
実業出版社「脳のしくみ」※)と。

 親はよく「うちの子はやればできるはず」と言う。それはそうだが、伊藤氏らの説によれば、し
かしそのやる気も、能力のうちということになる。能力を引き出すということは、そういう意味
で、やる気の問題ということにもなる。やる気があれば、「できる」。やる気がなければ、「できな
い」。それだけのことかもしれない。

++++++++++++++++++++

 で、話を先に進める前に、親がもつ、いくつかの誤解について、話しておきたい。

 この時期多い誤解は、「やればできるはず」という誤解。そして、「勉強をいやがるのは、忍耐
力がないため」と考える。しかし誤解は、誤解。

 その誤解にあわせて、四つの誤解について、まとめてみた。

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●誤解

 家庭教育にはたくさんの誤解がある。その中でもとくに目立つ誤解が、つぎの五つ。この誤
解を知るだけでも、あなたの子育ては大きく変わるはず。

@忍耐力……よく「うちの子はサッカーだと一日中している。ああいう力を勉強に向けさせた
い」という親がいる。しかしこういう力は忍耐力とは言わない。好きなことをしているだけ。

子どもにとって忍耐力というのは、「いやなことをする力」をいう。たとえば台所の生ゴミを手で
始末するとか、風呂場の排水口にたまった毛玉を始末するとか、そういうことができる子どもを
忍耐力のある子どもという。

Aやさしさ……大切にしているクレヨンを、だれかに横取りされたとする。そういうときニッコリと
笑いながら、そのクレヨンを譲りわたすような子どもを、「やさしい子ども」と考えている人がい
る。しかしこれも誤解。このタイプの子どもは、それだけ」ストレスをためやすく、いろいろな問
題を起こす。

子どもにとって「やさしさ」とは、いかに相手の立場になって、相手の気持ちを考えられるかで決
まる。もっと言えば、相手が喜ぶように自ら行動する子どもを、やさしい子どもという。そのやさ
しい子どもにするには、買い物に行っても、いつも、「これがあるとパパが喜ぶわね」「これを買
ってあげるから、妹の○○に半分分けてあげてね」と、日常的にいつもだれかを喜ばすように
しむけるとよい。

Bまじめさ……従順で、言われたことをキチンとするのを、「まじめ」というのではない。まじめと
いうのは、自己規範のこと。こんな子ども(小三女子)がいた。バス停でたまたま会ったので、
「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、こう言った。「これから家で夕食を食べます
から、いらない。缶ジュースを飲んだら、ごはんが食べられなくなります」と。こういう子どもを「ま
じめな子ども」という。

Cすなおさ……やはり言われたことに従順に従うことを、「すなおな子ども」と考えている人は
多い。しかし教育の世界で「すなおな子ども」というときは、つぎの二つをいう。一つは、心の状
態(情意)と、顔の表情が一致している子どもをいう。怒っているときには、怒った顔をする。悲
しいときには悲しい顔をする、など。情意と表情が一致しないことを、「遊離」という。

不愉快に思っているはずなのに、笑うなど。教える側からすると、「何を考えているかわからな
い」といった感じの子どもになる。こうした遊離は、子どもにとっては、たいへん望ましくない状
態と考えてよい。たとえば自閉傾向のある子ども(自閉症ではない)がいる。このタイプの子ど
もの心は、柔和な表情をしたまま、まったく別のことを考えていたりする。

 もう一つ、「すなおな子ども」というときは、心のゆがみがない子どもをいう。何らかの原因で
子どもの心がゆがむと、子どもは、ひがみやすくなったり、いじけたり、つっぱたり、ひねくれた
りする。そういう「ゆがみ」がない子どもを、すなおな子どもという。

Dがまん……子どもにがまんさせることは大切なことだが、心の問題とからむときは、がまん
はかえって逆効果になるから注意する。たとえば暗闇恐怖症の子ども(三歳児)がいた。子ど
もは夜になると、「こわい」と言ってなかなか寝つかなかったが、父親はそれを「わがまま」と決
めつけて、いつも無理にふとんの中に押し込んでいた。

がまんさせるということは、結局は子どもの言いなりにならないこと。そのためにも 親側に、一
本スジのとおったポリシーがあることをいう。そういう意味で、子どものがまんの問題は、決して
子どもだけの問題ではない。

++++++++++++++++++++++

 もともと勉強には、ある種の苦痛がともなう。その苦痛を乗り越える力が、忍耐力ということに
なる。

 その忍耐力を鍛えようとするなら、勉強を利用するのではなく、家事を利用する。あとあとの
失敗の可能性を避けるために、そうする。家事なら、失敗しても、それほど、後遺症は残らな
い。しかし勉強というのは、一度、失敗すると、子どもを勉強嫌いにしてしまう。

++++++++++++++++++++++

 少し先の話になるが、失敗例のいくつかを、ここにあげてみる。こうした失敗がわかれば、
今、ガラスの箱をこわすことが、どんなに危険なことか、それがわかるはず。

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●のびたバネは、必ず縮む
 
 無理をすれば、子どもはある程度は、伸びる(?)。しかしそのあと、必ず縮む。とくに勉強は
そうで、親がガンガン指導すれば、それなりの効果はある。しかし決してそれは長つづきしな
い。やがて伸び悩み、停滞し、そしてそのあと、今度はかえって以前よりできなくなってしまう。
これを私は「教育のリバウンド」と呼んでいる。

 K君(中一)という男の子がいた。この静岡県では、高校入試が、人間選別の関門になってい
る。そのため中学二年から三年にかけて、子どもの受験勉強はもっともはげしくなる。実際に
は、親の教育の関心度は、そのころピークに達する。

 そのK君は、進学塾へ週三回通うほか、個人の家庭教師に週一回、勉強をみてもらってい
た。が、母親はそれでは足りないと、私にもう一日みてほしいと相談をもちかけてきた。私はと
りあえず三か月だけ様子をみると言った。が、そのK君、おだやかでやさしい表情はしていた
が、まるでハキがない。

私のところへきても、私が指示するまで、それこそ教科書すら自分では開こうとしない。明らか
に過負担が、K君のやる気を奪っていた。このままの状態がつづけば、何とかそれなりの高校
には入るのだろうが、しかしやがてバーントアウト(燃え尽き)。へたをすれば、もっと深刻な心
の問題をかかえるようになるかもしれない。

 が、こういうケースでは、親にそれを言うべきかどうかで迷う。親のほうから質問でもあれば
別だが、私のほうからは言うべきではない。親に与える衝撃は、はかり知れない。それに私の
ほうにも、「もしまちがっていたら」という迷いもある。だから私のほうでは、「指導する」というよ
りは、「息を抜かせる」という教え方になってしまった。

雑談をしたり、趣味の話をしたりするなど。で、約束の三か月が終わろうとしたときのこと。今度
は父親と母親がやってきた。そしてこう言った。「うちの子は、何としてもS高校(静岡県でもナ
ンバーワンの進学高校)に入ってもらわねば困る。どうしても入れてほしい。だからこのままめ
んどうをみてほしい」と。

 これには驚いた。すでに一学期、二学期と、成績が出ていた。結果は、クラスでも中位。その
成績でS高校というのは、奇跡でも起きないかぎり無理。その前にK君はバーントアウトしてし
まうかもしれない。「あとで返事をします」とその場は逃げたが、親の希望が高すぎるときは、受
験指導など、引き受けてはならない。とくに子どもの実力がわかっていない親のばあいは、な
おさらである。

 親というのは、皮肉なものだ。どんな親でも、自分で失敗するまで、自分が失敗するなどとは
思ってもいない。「まさか……」「うちの子にかぎって……」と、その前兆症状すら見落としてしま
う。そして失敗して、はじめてそれが失敗だったと気づく。

が、この段階で失敗と気づいたからといって、それで問題が解決するわけではない。その下に
は、さらに大きな谷底が隠れている。それに気づかない。だからあれこれ無理をするうち、今
度はそのつぎの谷底へと落ちていく。K君はその一歩、手前にいた。

 数日後、私はFAXで、断りの手紙を送った。私では指導できないというようなことを書いた。
が、その直後、父親から、猛烈な抗議の電話が入った。父親は電話口でこう怒鳴った。「あん
たはうちの子には、S高校は無理だと言うのか! 無理なら無理とはっきり言ったらどうだ。失
敬ではないか! いいか、私はちゃんと息子をS高校へ入れてみせる。覚えておけ!」と。

 ついでに言うと、子どもの受験指導には、こうした修羅場はつきもの。教育といいながら、教
育的な要素はどこにもない。こういう教育的でないものを、教育と思い込んでいるところに、日
本の教育の悲劇がある。

それはともかくも、三〇年以上もこの世界で生きていると、そのあと家庭がどうなり、親子関係
がどうなり、さらに子ども自身がどうなるか、手に取るようにわかるようになる。が、この事件
は、そのあと、意外な結末を迎えた。私も予想さえしていなかったことが起きた。それから数か
月後、父親が脳内出血で倒れ、死んでしまったのだ。こういう言い方は不謹慎になるかもしれ
ないが、私は「なるほどなあ……」と思ってしまった。

 子どもの勉強をみていて、「うちの子はやればできる」と思ったら、「やってここまで」と思いな
おす。(やる・やらない)も力のうち。そして子どもの力から一歩退いたところで、子どもを励ま
し、「よくがんばっているよ」と子どもを支える。そういう姿勢が、子どもを最大限、伸ばす。たと
えば日本で「がんばれ」と言いそうなとき、英語では、「テイク・イッツ・イージィ」(気を楽にしなさ
い)と言う。そういう姿勢が子どもを伸ばす。

ともかくも、のびたバネは、遅かれ早かれ、必ず縮む。それだけのことかもしれない。

++++++++++++++++++++++

●谷底の下の谷底

 子どもの成績がさがったりすると、たいていの親は、「さがった」ことだけをみて、そこを問題
にする。その谷底が、最後の谷底と思う。しかし実際には、その谷底の下には、さらに別の谷
底がある。そしてその下には、さらに別の谷底がある。こわいのは、子育ての悪循環。

一度その悪循環の輪の中に入ると、「まだ以前のほうがよかった」ということを繰り返しながら、
つぎつぎと谷底へ落ち、最後はそれこそ奈落の底へと落ちていく。

 ひとつの典型的なケースを考えてみる。

 わりとできのよい子どもがいる。学校でも先生の評価は高い。家でも、よい子といったふう。
問題はない。成績も悪くないし、宿題もきちんとしている。が、受験が近づいてきた。そこで親
は進学塾へ入れ、あれこれ指導を始めた。

 最初のころは、子どももその期待にこたえ、そこそこの成果を示す。親はそれに気をよくし
て、ますます子どもに勉強を強いるようになる。「うちの子はやればできるはず」という、信仰に
近い期待が、親を狂わす。

が、あるところまでくると、限界へくる。が、このころになると、親のほうが自分でブレーキをかけ
ることができない。何とかB中学へ入れそうだとわかると、「せめてA中学へ。あわよくばS中学
へ」と思う。しかしこうした無理が、子どものリズムを狂わす。

 そのリズムが崩れると、子どもにしても勉強が手につかなくなる。いわゆる「空回り」が始ま
る。フリ勉(いかにも勉強していますというフリだけがうまくなる)、ダラ勉(ダラダラと時間ばかり
つぶす)、ムダ勉(やらなくてもよいような勉強ばかりする)、時間ツブシ(たった数問を、一時間
かけてする。マンガを隠れて読む)などがうまくなる。

一度、こういう症状を示したら、親は子どもの指導から手を引いたほうがよいが、親にはそれ
がわからない。子どもを叱ったり、説教したりする。が、それが子どもをつぎの谷底へつき落と
す。

 子どもは慢性的な抑うつ感から、神経症によるいろいろな症状を示す。腹痛、頭痛、脚痛、
朝寝坊などなど。神経症には定型がない。が、親はそれを「気のせい」「わがまま」と決めつけ
てしまう。あるいは「この時期だけの一過性のもの」と誤解する。「受験さえ終われば、すべて解
決する」と。

 子どもはときには涙をこぼしながら、親に従う。選別されるという恐怖もある。将来に対する
不安もある。そうした思いが、子どもの心をますますふさぐ。そしてその抑うつ感が頂点に達し
たとき、それはある日突然やってくるが、それが爆発する。

不登校だけではない。バーントアウト、家庭内暴力、非行などなど。親は「このままでは進学競
争に遅れてしまう」と嘆くが、その程度ですめばまだよいほうだ。その下にある谷底、さらにそ
の下にある谷底を知らない。

 今、成人になってから、精神を病む子どもは、たいへん多い。一説によると、二〇人に一人と
も、あるいはそれ以上とも言われている。回避性障害(人に会うのを避ける)や摂食障害(過食
症や拒食症)などになる子どもも含めると、もっと多い。子どもがそうなる原因の第一は、家庭
にある。

が、親というのは身勝手なもの。この段階になっても、自分に原因があると認める親はまず、
いない。「中学時代のいじめが原因だ」「先生の指導が悪かった」などと、自分以外に原因を求
め、その責任を追及する。もちろんそういうケースもないわけではないが、しかし仮にそうでは
あっても、もし家庭が「心を休め、心をいやし、たがいに慰めあう」という機能を果たしているな
ら、ほとんどの問題は、深刻な結果を招く前に、その家庭の中で解決するはずである。

 大切なことは、谷底という崖っぷちで、必死で身を支えている子どもを、つぎの谷底へ落とさ
ないこと。子育てをしていて、こうした悪循環を心のどこかで感じたら、「今の状態をより悪くしな
いことだけ」を考えて、一年単位で様子をみる。

あせって何かをすればするほど、逆効果。(だから悪循環というが……。)『親のあせり、百害
あって一利なし』と覚えておくとよい。つぎの谷底へ落とさないことだけを考えて、対処する。

++++++++++++++++++++

では、幼児の学習は、どう考えたらよいのか。それには、ここにも書いたように、ガラスの箱を
こわさにように注意するということと、『灯をともして、引き出す』ということになる。

 子どもの学習意欲をつぶすものに、無理、強制、条件、比較がある。

++++++++++++++++++++

●学習の四悪

 子どもを勉強嫌いにする四悪に、無理、強制、条件、それに比較がある。子どもの能力を超
えた学習を強要するのを、無理。時間や量を決めてそれを子どもに課するのを、強制。「テスト
で百点を取ったら、自転車を買ってあげる」というのが、条件。そして「お隣のA君は、もうカタカ
ナが書けるのよ。あなたは……」というのを、比較。この四悪が日常化すると、子どもは確実に
やる気をなくす。勉強嫌いになる。

●無理・強制・条件・比較

@無理……子どもに与える教材やワークは、子どもの能力より、ワンランクさげるのがコツ。で
きる、できないよりも、子どもが勉強を楽しんだかどうかを大切にする。イギリスの格言にも、
『楽しく学ぶ子は、よく学ぶ』というのがある。前向きに学習する子どもは伸びるし、そうでない
子どもは伸びない。

しかも子どもというのは一度うしろ向きになると、いくら時間とお金をかけても、一方的にムダに
なるだけ。親があせればあせるほど、かえって勉強から遠ざかってしまう。そういうのをこの世
界では、「空回り」というが、この空回りを感じたら、さらに思いきって内容をワンランクさげる。

A強制……やはりイギリスの格言に、『馬を水場へ連れていくことはできても、馬に水を飲ませ
ることはできない』というのがある。子どもを馬にたとえるのも失礼なことかもしれないが、要す
るに親にできることにも限度があるということ。最終的に子どもが勉強するかしないかは、子ど
もの問題。

よく親は、「うちの子はやればできるはず」と言うが、やる、やらないも、「力」のうち。「やればで
きるはず」と思ったら、「やってここまで」と思いなおす。あきらめる。そのあきらめが子どもの心
に風穴をあけ、かえって子どもを伸ばす。

B条件……条件は、年齢とともにエスカレートしやすい。小学生のうちは、自転車ですむかもし
れないが、高校生になれば、バイク、大学生になれば、自動車になる。あなたにそれだけの財
力があれば話は別だが、そうでなければやめたほうがよい。

さらに条件が日常化すると、「勉強は自分のためにする」という意識が、薄くなる。かわって、
「(親のために)勉強してやる」という意識をもつようになる。実際に「親がうるさいから、大学へ
行ってやる」と言った高校生すらいた。そうなる。

反対に子どものほうから何か条件を出してくることもあるが、そういうときは、「勉強は自分のた
めにするもの」と突っぱねる。こうしたき然とした姿勢が、時間はかかるが、結局は子どもを自
立させる原動力となる。

C比較……この比較が日常化すると、子どもから「私は私」という意識が消える。いつも他人
の目を気にした生き方になってしまう。見えや体裁、それに世間体を気にするようになる。そう
なればなったで、結局は自分を見失い、自分の人生そのものをムダにする。
 
……というのは、少しおおげさに聞こえるかもしれないが、日本人ほど、他人の目を気にしなが
ら生きる民族も少ない。長い間、島国という閉鎖的な社会で、しかも封建時代という暗い時代
を経験したためにそうなった。そのため幸福観も相対的なもので、「隣の人よりもよい生活だか
ら、私は幸福」「隣の人よりも悪い生活だから、私は不幸」というような考え方をする。

たとえば日本人は、「あなたは幸福なほうよ。みんなはもっと苦しいのだから」と言われたりする
と、それだけでへんに納得してしまう。しかしこの生き方は、これからの生き方ではない。要す
るに、無理、強制、条件、比較は、子どもを手っ取り早く勉強させるにはよい方法だが、長い目
で見れば、結局は逆効果。かえって子どものやる気をつぶす。

++++++++++++++++++++

 最後に、子どものやる気を、伸ばす方法について。

 この時期は、(できる・できない)よりも、(楽しんだかどうか)を、みながら指導する。たとえば
私の教室(BW教室)でも、一時間程度、子どもを、笑いっぱなしにしながら、指導する。そうい
う(楽しさ)が、子どもの心の中に、前向きな姿勢を育てる。

 Sさんは、プリント学習を問題にしているが、プリント学習ほど、つまらないものはない。(教え
る側にとっては、楽だが……。)そういうことも考えて、つまり子どもの心がどのようにできつつ
あるかを考えて、もう一度、見なおしてみたらよい。

 最後に、子どもの方向性について。

++++++++++++++++++++

●子どもの方向性を知るとき 

●図書館でわかる子どもの方向性

 子どもの方向性を知るには、図書館へ連れて行けばよい。そして数時間、図書館の中で自
由に遊ばせてみる。そしてそのあと、子どもがどんな本を読んでいるかを観察してみる。サッカ
ーが好きな子どもは、サッカーの本を読む。動物が好きな子どもは、動物の本を読む。

そのとき子どもが読んでいる本が、その子どもの方向性である。その方向性にすなおに従え
ば、子どもは本が好きになる。さからえば、本が嫌いになる。無理をすれば子どもの伸びる
「芽」そのものをつぶすことにもなりかねない。ここでいくつかのコツがある。

●無理をしない

 まず子どもに与える本は、その年齢よりも、一〜二年、レベルをさげる。親というのは、どうし
ても無理をする傾向がある。六歳の子どもには、七歳用の本を与えようとする。七歳の子ども
には、八歳用の本を与えようとする。この小さな無理が、子どもから本を遠ざける。

そこで「うちの子どもはどうも本が好きではないようだ」と感じたら、思いきってレベルをさげる。
本の選択は、子どもに任す。が、そうでない親もいる。本屋で子どもに、「好きな本を一冊買っ
てあげる」と言っておきながら、子どもが何か本を持ってくると、「こんな本はダメ。もっといい本
にしなさい」と。こういう身勝手さが、子どもから本を遠ざける。

●動機づけを大切に

 次に本を与えるときは、まず親が読んでみせる。読むフリでもよい。そして親自身が子どもの
前で感動してみせる。「この本はおもしろいわ」とか。これは本に限らない。子どもに何かものを
与えるときは、それなりのお膳立てをする。これを動機づけという。

本のばあいだと、子どもをひざに抱いて、少しだけでもその本を読んであげるなど。この動機づ
けがうまくいくと、あとは子どもは自分で伸びる。そうでなければそうでない。この動機づけのよ
しあしで、その後の子どもの取り組み方は、まったく違ってくる。まずいのは、買ってきた本を袋
に入れたまま、子どもにポイと渡すような行為。子どもは読む意欲そのものをなくしてしまう。無
理や強制がよくないことは、言うまでもない。

●文字を音にかえているだけ?

 なお年中児ともなると、本をスラスラと読む子どもが現れる。親は「うちの子どもは国語力が
あるはず」と喜ぶが、たいていは文字を音にかえているだけ。内容はまったく理解していない。
親「うさぎさんは、どこへ行ったのかな」、子「……わかんない」、親「うさぎさんは誰に会ったの
かな?」、子「……わかんない」と。

もしそうであれば子どもが本を読んだら、一ページごとに質問してみるとよい。「うさぎさんは、
どこへ行きましたか」「うさぎさんは、誰に会いましたか」と。あるいは本を読み終えたら、その
内容について絵をかかせるとよい。本を読み取る力のある子どもは、一枚の絵だけで、全体
のストーリーがわかるような絵をかく。そうでない子どもは、ある部分だけにこだわった絵をか
く。

また本を理解しながら読んでいる子どもは、読むとき、目が静かに落ち着いている。そうでない
子どもは、目がフワフワした感じになる。さらに読みの深い子どもは、一ページ読むごとに何か
考える様子をみせたり、そのつど挿し絵をじっと見ながら読んだりする。本の読み方としては、
そのほうが好ましいことは言うまでもない。

●文字の使命は心を伝えること

 最後に、作文を好きにさせるためには、こまかいルール(文法)はうるさく言わないこと。誤
字、脱字についても同じ。要は意味が伝わればよしとする。そういうおおらかさが子どもを文字
好きにする。

が、日本人はどうしても「型」にこだわりやすい。書き順もそうだが、文法もそうだ。たとえば小
学二年の秋に、「なかなか」の使い方を学ぶ(光村図書版)。「『ぼくのとうさん、なかなかやる
な』と、同じ使い方をしている『なかなか』はどれか。『なかなかできない』『なかなかおいしい』
『なかなかなきやまない』」と。こういうことばかりに神経質になるから、子どもは作文が嫌いに
なる。小学校の高学年児で、作文が好きと言う子どもは、五人に一人もいない。大嫌いと言う
子どもは、一〇人に三人はいる。

(付記)

●私の記事への反論

 「一ページごとに質問してみるとよい」という考えに対して、「子どもに本を読んであげるときに
は、とちゅうで、あれこれ質問してはいけない。作者の意図をそこなう」「本というのは言葉の流
れや、文のリズムを味わうものだ」という意見をもらった。図書館などで、子どもたちに本の読
み聞かせをしている人からだった。

 私もそう思う。それはそれだが、しかし実際には、幼児を知らない児童文学者という人も多
い。そういう人は、自分の本の中で、幼児が知るはずもないというような言葉を平気で並べる。
たとえばある幼児向けの本の中には、次のような言葉があった。「かわべの ほとりで、 ひと
りの つりびとが うつら うつらと つりいとを たれたまま、 まどろんでいた」と。

この中だけでも、幼児には理解ができそうもないと思われる言葉が、「川辺」「釣り人」「うつら」
「釣り糸」「まどろむ」と続く。こうした言葉の説明を説明したり、問いかけたりすることは、決して
その本の「よさ」をそこなうものではない。が、それだけではない。意味のわからない言葉から
受けるストレスは相当なものだ。ためしにBS放送か何かで、フランス語の放送をしばらく聞い
てみるとよい。フランス語がわかれば話は別だが、ふつうの人ならしばらく聞いていると、イライ
ラしてくるはずだ。

+++++++++++++++++++++++

※【付録】

●知識と思考

 知識は、記憶の量によって決まる。その記憶は、大脳生理学の分野では、長期記憶と短期
記憶、さらにそのタイプによって、認知記憶と手続記憶に分類される。

認知記憶というのは、過去に見た景色や本の内容を記憶することをいい、手続記憶というの
は、ピアノをうまく弾くなどの、いわゆる体が覚えた記憶をいう。条件反射もこれに含まれる。

で、それぞれの記憶は、脳の中でも、それぞれの部分が分担している。たとえば長期記憶は
大脳連合野(連合野といっても、たいへん広い)、短期記憶は海馬、さらに手続記憶は「体の運
動」として小脳を中心とした神経回路で形成される(以上、「脳のしくみ」(日本実業出版社)参
考、新井康允氏)。

 でそれぞれの記憶が有機的につながり、それが知識となる。もっとも記憶された情報だけで
は、価値がない。その情報をいかに臨機応変に、かつ必要に応じて取り出すかが問題によっ
て、その価値が決まる。

たとえばAさんが、あなたにボールを投げつけたとする。そのときAさんがAさんであると認識す
るのは、側頭連合野。ボールを認識するのも、側頭連合野。しかしボールが近づいてくるのを
判断するのは、頭頂葉連合野ということになる。

これらが瞬時に相互に機能しあって、「Aさんがボールを投げた。このままでは顔に当たる。あ
ぶないから手で受け止めろ」ということになって、人は手でそれを受け止める。しかしこの段階
で、手で受け止めることができない人は、危険を感じ、体をよける。この危険を察知するのは、
前頭葉と大脳辺縁系。体を条件反射的に動かすのは、小脳ということになる。人は行動をしな
がら、そのつど、「Aさん」「ボール」「危険」などという記憶を呼び起こしながら、それを脳の中で
有機的に結びつける。

 こうしたメカニズムは、比較的わかりやすい。しかし問題は、「思考」である。一般論として、思
考は大脳連合野でなされるというが、脳の中でも連合野は大部分を占める。で、最近の研究で
は、その連合野の中でも、「新・新皮質部」で思考がなされるということがわかってきた(伊藤正
男氏)。

伊藤氏の「思考システム」によれば、大脳新皮質部の「新・新皮質」というところで思考がなされ
るが、それには、帯状回(動機づけ)、海馬(記憶)、扁桃体(価値判断)なども総合的に作用す
るという。

 少し回りくどい言い方になったが、要するに大脳生理学の分野でも、「知識」と「思考」は別の
ものであるということ。まったく別とはいえないが、少なくとも、知識の量が多いから思考能力が
高いとか、反対に思考能力が高いから、知識の量が多いということにはならない。

もっと言えば、たとえば一人の園児が掛け算の九九をペラペラと言ったとしても、算数ができる
子どもということにはならないということ。いわんや頭がよいとか、賢い子どもということにはなら
ない。そのことを説明したくて、あえて大脳生理学の本をここでひも解いてみた。
(031217)




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11

●無知の無知

 自分の無知を、無知であることぐらい、恐ろしいことはない。そのことは、何か、新しいことを
知ったときに、思い知らされる。

 ときどき私は、「こんなことも知らなかったのか」と、自分で思うときがある。あるいは、「どうし
てこのことを、もっと早く知らなかったのか」と思うときもある。「私は、いったい、何をしていたの
か」と。

 一方、たいへん失礼なことだが、だれかと話していて、「どうして、この人は、こんなことも知ら
ないのか」と、思うときもある。が、そう思ったとたん、「では、自分はどうなのか」と。

 まず、自分の無知を知る。そして、そのためには、他人だけではなく、まわりのあらゆるもの
に対して、謙虚になる。まずいのは、傲慢(ごうまん)になること。人は、傲慢になったとたん、自
分を見失う。

 釈迦は、こうした「心の浄化」を、「精進(しょうじん)」と、呼んだ。「死ぬまで。精進せよ」と。仏
教の実践者は、よく「悟りを開く」などという言葉を使うが、そんなことは、そこらの人間には、あ
りえない。あるとするなら、その人が、そう思いこんでいるだけ。そのまわりの人が、そう思いこ
んでいるだけ。

 ついでに申し添えるなら、釈迦仏教、なかんずく大乗仏教が、なぜに、こうまで混乱したかと
いえば、「我こそが仏である」と、勝手なことを言う人が、あまりにも多かったからである。今で
も、少なくない。「悟りを開いたものは、すべて仏である」という考えに、もとづく。

 さらにこの日本では、死んだ人すべてを、「仏様」という。こういう安易な、「仏観」が、さらに釈
迦仏教を、混乱させている。

 しかし道は、険(けわ)しい。少しぐらい精進したくらいで、先に進むことはできない。少し進め
ば、さらにその先には、道がある。行っても、行っても先がある。つまりそれを謙虚に認めるこ
とが、無知を知るということになる。

 このことは、子どもを教えていると、わかる。

 私は、幼稚園講師になったころ、最初に、アンケート調査したのは、「子どもの住環境と、
騒々しさの関係」である。

 私は「静かな団地に住む子どもは、もの静かで、町中の繁華街の中に住む子どもは、騒々し
い」という先入観をもって、調査を始めた。結果は、みごとに、ハズレ!

 静かな団地に住んでいる子どもでも、騒々しい子どもは、いくらでもいる。反対に、町中の繁
華街に住む子どもでも、静かな子どもは、いくらでもいる。そうした住環境は、子どもの性格と
は、まったく関係ないことがわかった。

 これが私の幼児教育の第一歩だった。が、もしあのとき、そうした視点をもたなかったら、今
でも、「町の繁華街に住む子どもは騒々しい」という先入観だけで、持論を組みたてていたかも
しれない。

 私は、無知だった。

 だからそれから一〇年間、当時の園長に頼んで、毎週のように、アンケート調査を繰りかえし
た。その回答用紙だけでも、ダンボール箱につめて、六畳間くらいの倉庫がいっぱいになった
ほどである。

 今でも、私は、毎日のように新しい発見をする。そしてそのたびに、冒頭に書いたように、「な
ぜ、今まで、こんなことに気づかなかったのか」と思う。そしてますます謙虚になる。

 と、同時に、無知な人を見ると、それがよくわかる。とくに幼児教育の世界では、そうだ。よく
その人(学者)の意見を聞いていると、「この人は、私が三〇歳のときのレベルだな」とか、「こ
の人は、私が四〇歳くらいのときに気づいたことを話している」と思うことがある。

 しかしそう思うのは、正直言って、楽しい。何とも言えない、優越感を覚える。が、もちろん、そ
の反対のこともある。「この人は、ものすごい人だ」と思うときである。そういうときは、本当に、
頭をハンマーで叩かれたような気分になる。

 自分の無知を知る。それは、一見、簡単なようなことで、本当にむずかしい。たいていの人
は、無知であることに気がつかないまま、自分のカラにこもってしまう。そしてその場で、釈迦が
説くところの、精進を止めてしまう。

 繰りかえすが、かく言う私だって、偉そうなことは言えない。ふと油断すると、無知であること
を忘れてしまう。そしてそれこそ偉そうなことを、口にしてしまう。しかし、これは、本当に、恐ろ
しいことだ。

 最近になって、その「恐ろしさ」が、ますますわかるようになった。つまり以前の私は、この点
についても、無知だった。
(031218)

【忙しい人へ】

 ときどき、政治家の人たちは、どこで勉強するのだろうかと思う。毎日、分きざみの生活をし
ていて、どうして自分で考える時間をもつことができるのだろうか、と。

 「考える」ためには、「ぞれだけの時間」が、必要である。静かに考える時間である。それはま
さに、「習慣」と言えるようなもので、習慣として、静かに考える。そういう時間である。

 あるいは、そんな習慣がなくても、政治家になれるのか? 私には、よくわからないが……。




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12

●仮面をかぶらせるもの

●男の教師

 こんな話を聞いた。

 ある学校に、不登校児(小五男児)がいる。その子どもは、学校の校門までは、母親といっし
ょに行くのだが、そこから中へは、入らない。

 で、教師(女性)が、迎えに行くのだが、どのように説得しても、中へ入ろうとしない。が、別の
教師(男性)が迎えに行くと、しぶしぶながらだが、中へ入っていくという。

 この話をしながら、その女性教師は、こう言った。「やはり、男と女のちがいなのでしょうか」
と。

 似たような話は、家庭でもある。

 母親の言うことは聞かないが、父親の言うことは、聞く、と。

●気力

 一つの気力は、脳から、同時に発せられる、二つの指令によって、コントロールされる。活動
命令と抑制命令である。

 活動命令は、気力を、亢進させる。一方、抑制命令は、気力を、抑制する。もし抑制命令が
なければ、人間の気力は、限りなく亢進され、やがて、精神は限界を超え、破滅する。一方、行
動命令がなければ、人間は、活動することすらやめる。

 この二つの命令が、ほどよく調和したとき、人間の気力も、ほどよく調和する。このことは、躁
うつ状態を、周期的に繰りかえす人をみればわかる。

 躁状態のときは、人と会い、快活に会話をし、新しい事業に挑戦したりする。しかしひとたびう
つ状態になると、気分は沈み、なにごとにおいても、やる気をなくす。

●やる気のメカニズム

人間のやる気には、脳の中の辺縁系にある帯状回という組織が、深くかかわっているのでは
ないかということが、最近の研究でわかってきた。

 それを助長するのが、達成感(自己効力感)と言われているものである。

 何かのことで達成感を覚え、それで満足すると、この帯状回の中で、モルヒネ様の物質(エン
ドロフィン系、エンケファリン系)の物質が、放出される。そしてその人(子ども)を、心地よい、
陶酔感に導く。

 この心地よさが、つぎのやる気へとつながっていく。

●不登校児のメカニズム

不登校児を観察してみると、この行動命令と抑制命令が、随所で、バラバラであることに気づ
く。決して、「学校へ行きたくない」と思っているのではない。本人自身は、「学校へ、行きたい」
と思っている。

 しかもまったくの無気力というわけではない。学校を休んだ日には、家の中で、まったくふつう
の子どもとして、行動する。ビデオを見たり、ゲームをしたり。友だちと会うこともできる。

 しかしいざ、学校へ行くという段階になると、脳の底の暗闇から、わき出るような抑制間に包
まれる。そしてその抑制命令が、子どもの行動を、裏から操る。つまり、ここで意識的な行動命
令と、無意識的な抑制命令の衝突が起きる。

 ある子ども(年長児)は、車の柱に両手を巻いて、園へ行くのを拒否した。母親と、女性教師
の二人が、その子どもを、車から引き離そうとしたが、失敗。「信じられないほど、ものすごい力
でした」と、あとになった母親は、そう言った。

 その信じられないような「力」の背景にあるのが、ここでいう「脳の底の暗闇からわき出るよう
な抑制命令」ということになる。

 この行動命令と抑制命令が、不自然な形でアンバランスになった状態が、いわゆる学校拒
否症による不登校と考えられる。

●遊離
 
 こうした命令系統が乱れてくると、子どもは、多重人格性をおびてくる。あるいはその前に、
「わけのわからない子」といった、状態になる。よく知られている例が、「遊離」と言われている
現象である。心(情意)と、表情が、不一致を起こす現象と考えると、わかりやすい。

 学校拒否症の子どもにも、広く観察されるこの現象は、一方、学校恐怖症の予防としても応
用できる。つまり遊離症状が見られたら、学校拒否症の、初期症状とみることもできる。

●症状

 遊離が始まると、心の動きと、表情が、ちぐはぐになる。いやがっているハズなのに、柔和な
笑みを浮かべる、など。あるいは悲しんでいるはずなのに、無表情でいる。

 教える側からみると、いわゆる「何を考えているかわからない子ども」ということになる。ただ
注意しなければならないのは、この段階でも、家の中、とくに親の前では、ふつうの子どもであ
ることが多いということ。

 親自身も、自分の子どもだけしか見ていないから、客観的に、自分の子どもがどういう状態で
あるかがわからない。そこで問題点を指摘しても、親自身がそれを理解できないばかりか、
「私の子どものことは、私が一番よく知っている」という過信と誤解のもと、それをはねのけてし
まう。

 こうして症状は、ますますこじれていく。そして結果として、子どもは、心の中にたまったストレ
スを発散できないまま、それをためこんでいく。

●臨界点

 こうしたストレスでこわいのは、臨界点を超えると、一挙に、爆発に向かうこと。その前の段階
として、神経症による症状が、出てくる。

 ただ神経症による症状は、千差万別で、定型がない。チックや吃音(どもり)などが、よく知ら
れている。夜尿や腹痛、頭痛もある。

 で、こうした神経症を手がかりに、心の内部での変化を知ることができる。私は、そのための
診断シートを、作成したことがある。

(診断シート)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page143.html
(このページの末尾に添付)

 こうした経過的な症状を経たのち、臨界点を超えて、爆発する。そして不登校へと進んでい
く。

 A・M・ジョンソンがいうところの、「学校拒否症」(School refusal)は、まさにこうした経緯を
経て、発症する。

●前兆をとらえる

 大切なことは、「どうなおそうか」ではなく、発症にいたるまでに、その前兆をいかにうまくとら
え、そしてその段階で、適切に対処するかである。風邪にたとえるなら、軽い発熱があった段
階で、体を休ませるということになる。

 しかし、これとて、簡単ではない。

 この日本では、(勉強から遠ざかること)イコール、(落ちこぼれ)と考える。たいていの親は、
そう考えて、「そんなはずはない」「うちの子にかぎって」と、その前兆そのものを、否定してしま
う。そしてさらに無理を重ねる。

 こうして親も、子どもも、行き着くところに、行く。学校拒否症は、あくまでも、その結果でしか
ない。

●さて、冒頭の話

 男の先生だから従う……というのは、その子どもの学校拒否症が、なおったということではな
い。仮面をかぶったとみる。あるいは、別の人格に、自分を押しこんだとみる。

 こうして現象は、幼児には、珍しくない。やさしい先生の前では、態度がぞんざいになり、きび
しい先生の前では、おとなしくなるなど。

 こうした変化というのは、だれにでもあるものだが、その時点で、指導する側のものは、「どち
らが本物の、本人なのか」という、見きわめは、いつもしなければならない。無理をしてがんば
っている子どもを、さらに「がんばれ!」と、追いつめることは、危険なことでもある。

 がんばったら、その分、どこかで息抜きをさせる。この調整があってはじめて、子どもは、自
分を保つことができる。

 で、冒頭の話だが、男の先生に従ったという時点で、その子どもは、自分をだましたことにな
る。一見、うまくいったように見えるが、その子どもの心の問題は、何も解決されてはいない。

 こうしたストレス(心的ひずみ)は、そのまま子どもの心の中に蓄積される。そして、ここにも書
いたように、それがさまざまな形で、心のゆがみとなって、外に現れる。

●ほどよく、暖かい無視

 こうした子どもの心の問題は、無理をしないが、大原則。子どもの視点で、子どもの立場で、
考える。

 学校に行く前に、子どもが「おなかが痛い」と言ったとする。そのとき、子どものおなかは、本
当に痛いのだ。

 あるいは子どもの足が、校門の前で、たちすくんでしまったとする。そのとき、子どもの足は、
本当に、重いのだ。

 安易に「気のせい」、「わがまま」と決めつけてはいけない。むしろ親がすべきことは、子ども
の立場で、子どもの心を理解することである。そしてねぎらうことである。

 「あなたは、よくがんばっている」と。

 仮に子どもが、四時間なら、学校へ行きそうだったら、三時間できりあげる。それを親が、
「せめて六時間まで。それが無理なら、五時間まで」と無理をするから、症状は悪化する。

 あとは、ほどよい親であることに努めながら、暖かい無視で、子どもを包む。これについて
は、今まで何度も書いてきたので、ここでは省略する。
(031220)




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13

●女児のADHD

 圧倒的に男児に多いが、女児にも、ADHD児はいる。その比率は、四対一とも、五対一とも
言われている。しかも女児のADHDは、男子のそれとは、症状が、やや異なる。

 女児のばあい、@いつもケチャケチャと騒いだり、はしゃいだりする。言動が活発。Aしばし
ば抑えがきかない。自分勝手な行動が目立つ。B明るく天衣無縫といった印象を与える。創造
力、空想力が豊か。Cよくしゃべり、一度しゃべると、他人の話を聞かず、一方的にしゃべりつ
づける。異常な多弁性、など。

 全体に、お茶目な感じがするが、同時に、善悪の判断にうとく、してよいことと、悪いことの区
別がつかないことが多い。無遠慮、無警戒、無頓着などの特徴も見られる。

 こうした女児のADHDは、男児のADHDほど、まだ理解されていず、当然のことながら、誤解
も多い。

 数年前だが、こんな事件があった。

 その子ども(年長女児)は、ここでいうADHD児であった。しかし専門の機関で、そう診断され
たわけではない。

 で、母親は、その子どもを叱りつづけた。しかしADHDは、叱ってなおるような問題ではない。
そのため、その叱り方は、ますますはげしくなった。

 ここで問題が起きた。その女の子の祖父母、つまり父親の実父母が、それを「虐待」と、騒ぎ
出したのである。「嫁が、孫を虐待している!」と。

 この事件を知ったとき、私は、その子どもの問題点を、両親と祖父母に伝えるべきかどうか、
かなり迷った。しかし私には、診断権限はない。しかも親から、具体的に相談があったわけで
はない。

 結局、最後の最後まで迷ったが、私は、ADHDの話はしなかった。祖父母の訴えで、一度、
母親は、児童相談所の指導を受けることになった。しかしそれでも、私は、ADHDの話はしな
かった。……できなかった。

 あとで聞いたら、この話はこじれにこじれて、離婚騒動にまで発展したという。

 こうした誤解(?)にもとづく悲喜劇は、多い。母親が、もう少し正確に子どもの症状を把握
し、その問題点を知っていたら、その対処のし方も、ちがっていたかもしれない。少なくとも、叱
ってなおるような問題ではないとわかっていただけでも、ちがっていたかもしれない。

 もちろん母親は、子どもを虐待していたのではない。その騒々しさに手を焼いていただけ。あ
るいは、何とか、静かに人の話を聞けるようにしただけ。そういう姿を、垣間見た祖父母は誤
解した。それでこの事件は、起きた。

(付記)
 たまたまテレビを見ていたら、タレントのK女史が、ペラペラとしゃべっていた。昔からよくしゃ
べる人だとは思っていたが、その一方的にしゃべる姿を見ていたら、ふと、この女性は子ども
のころ、ADHD児ではなかったかと思った。それで、この原稿を書いた。
(031220)



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14

●思考力

 子どもの思考力は、つぎの四つに分けて考える。

@思考の俊敏(しゅんびん)性 
A思考の拡散(かくさん)性
B思考の柔軟(じゅうなん)性
C思考の深遠(しんえん)性

@思考の俊敏(しゅんびん)性というのは、反応の早さをいう。たとえば丸と三角形を、それぞ
れ、5〜10個描いたカードを見せ、「丸はいくつ?」と聞く。思考が俊敏な子どもは、瞬時に判
断し、数を数え、その数を言う(年中児)。

A思考の拡散(かくさん)性というのは、思考の広がりをいう。たとえば空き缶を見せ、「この空
き缶を使うと、どんなことで役にたちますか」と聞く。思考の拡散性にすぐれている子どもは、
「鉛筆立てになる」「コップにもなる」「紙粘土でおおえば、花瓶になる」と、つぎつぎと新しいアイ
デアを考え出していく。

B思考の柔軟(じゅうなん)性というのは、臨機応変にものごとを考えていく力をいう。「雨が降
ったら、かさをさす」「かさがなければ、雨宿りする」「近くに家がなければ、大きな木の下に隠
れる」「木がなければ、カバンをかさにする」と。

C思考の深遠(しんえん)性というのは、いわゆる思考の深さをいう。「石ころは、ふぉこから生
まれますか」と聞くと、「土の中」と答えたりする。そこで、「では、どうして土の中から生まれるの
ですか」と聞くと、しばらく考えたあと、「土がかたまって石になる。みんなが、踏みつけるから、
石になる」などと、答えたりする。

こうした思考力で、最近、とくに気になるのは、突飛もないことを言う子どもがふえていること。
また突飛もないことを口にする子どもを、「おもしろい」とか、「すぐれている」と、誤解するケー
スが、多いこと。

 以前、私は、『イメージが乱舞する子ども』というテーマで、エッセーを書いたことがある。(ここ
に添付。中日新聞経済済み。)

 たとえば言っていることが支離滅裂。前後の脈絡そのものがない。言葉だけではなく、行動
も、支離滅裂なことが多い。

 バタンと、突然床に倒れて、「ああ、今日は、カレーライス、食べた」と叫ぶ。そしてそのまま両
手を広げて、「天井、天井、天井には、ゴキブリが二匹!」と。今度はパッと飛び起き、「先生、
今度、たこ焼きを食べに行こう。行こう、行こう」と。私がとまどっていると、つぎの瞬間には、隣
の子どもにおおいかぶさり、「おお、お前、なかなかやるじゃん」と。

 目まぐるしく動きまわり、そのつど、興味の対象も、動く。ADHD児と異なる点は、それなりに
抑えがきくということ。強く叱ったりすると、静かに作業をしたりする。ADHD児のように、無意
識的な行動というよりは、どこかで計算しながら、意識的に行動する。

 私は、テレビやテレビゲームなどの、映像文化の悪影響を疑っている。このタイプの子ども
は、たいてい、家の中では、テレビゲーム漬けの生活をしていたりする。つまり脳の、ある特異
な分野だけが、異常に刺激されるため、そうなると考えている。

 ちなみに、子どもたちのしているテレビゲームをのぞいてみるとよい。そのあまりの速さに、
みなさんも、驚くことと思う。

+++++++++++++++++++

子どもの脳が乱舞するとき

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、あ
あ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポ
ンと飛ぶ。

頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよう。動作も一
貫性がない。騒々しい。ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔
をして、直立! そしてそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感
情も激しく変化する。目が回るなんていうものではない。まともに接していると、こちらの頭のほ
うがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学二、三年になると、症状が
急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。

三〇年前にはこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ一〇年、急速にふえた。小一
児で、一〇人に二人はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子ども
が、一クラスに数人もいると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒
ぐ。こちらを抑えればあちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答え
た先生が、六六%もいる(九八年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。「指導の疲れから、病
欠、休職している同僚がいるか」という質問については、一五%が、「一名以上いる」と回答し
ている。

そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子どもについては、九〇%以上
の先生が、経験している。ほかに「弱いものをいじめる」(七五%)、「友だちをたたく」(六六%)
などの友だちへの攻撃、「授業中、立ち歩く」(六六%)、「配布物を破ったり捨てたりする」(五
二%)などの授業そのものに対する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが
最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。「新しい荒れ」とい言葉を使う人もい
る。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの
教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわからなくなった」とこぼす。

日教組が九八年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を
感ずる」というのが、二〇%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」
(一四%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(一〇%)と続く。そしてそ
の結果として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、八%、「かなり感ずる」「やや感ず
る」という先生が、六〇%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲー
ムをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。

家庭にしても、昔のような崩壊家庭は少なくなった。むしろここにあげたように、ごくふつうの、
そこそこに恵まれた家庭の子どもが、意味もなく突発的に騒いだり暴れたりする。そして同じよ
うな現象が、日本だけではなく、アメリカでも起きている。

実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的にテレビや
ゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。「テレビを見ているときだけ、静
かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても返事もしませんでした」と言った母親もい
た。たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、動きが速い。速すぎる。しかもその間に、ひっ
きりなしにコマーシャルが入る。ゲームもそうだ。動きが速い。速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりや
すく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。

その証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くこと
ができない。浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮
城に魚が、おしっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろ
いが、直感的で論理性がない。

ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつかさどるのは、左脳であ
る(R・W・スペリー)。テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経
験したことがない新しい刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えら
れる。その一つが、ここにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊を
あげる。

(付記)

●ふえる学級崩壊

 学級崩壊については減るどころか、近年、ふえる傾向にある。一九九九年一月になされた日
教組と全日本教職員組合の教育研究全国大会では、学級崩壊の深刻な実情が数多く報告さ
れている。「変ぼうする子どもたちを前に、神経をすり減らす教師たちの生々しい告白は、北海
道や東北など各地から寄せられ、学級崩壊が大都市だけの問題ではないことが浮き彫りにさ
れた」(中日新聞)と。「もはや教師が一人で抱え込めないほどすそ野は広がっている」とも。

 北海道のある地方都市で、小学一年生七〇名について調査したところ、
 授業中おしゃべりをして教師の話が聞けない……一九人
 教師の指示を行動に移せない       ……一七人
 何も言わず教室の外に出て行く       ……九人、など(同大会)。

●心を病む教師たち

 こうした現状の中で、心を病む教師も少なくない。東京都の調べによると、東京都に在籍する
約六万人の教職員のうち、新規に病気休職した人は、九三年度から四年間は毎年二一〇人
から二二〇人程度で推移していたが、九七年度は、二六一人。さらに九八年度は三五五人に
ふえていることがわかった(東京都教育委員会調べ・九九年)。

この病気休職者のうち、精神系疾患者は。九三年度から増加傾向にあることがわかり、九六
年度に一時減ったものの、九七年度は急増し、一三五人になったという。この数字は全休職
者の約五二%にあたる。(全国データでは、九七年度は休職者が四一七一人で、精神系疾患
者は、一六一九人。)さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、うつ病、うつ状態が約
半数をしめていたという。原因としては、「同僚や生徒、その保護者などの対人関係のストレス
によるものが大きい」(東京都教育委員会)ということである。

●その対策

 現在全国の二一自治体では、学級崩壊が問題化している小学一年クラスについて、クラスを
一クラス三〇人程度まで少人数化したり、担任以外にも補助教員を置くなどの対策をとってい
る(共同通信社まとめ)。また小学六年で、教科担任制を試行する自治体もある。具体的に
は、小学一、二年について、新潟県と秋田県がいずれも一クラスを三〇人に、香川県では四
〇人いるクラスを、二人担任制にし、今後五年間でこの上限を三六人まで引きさげる予定だと
いう。

福島、群馬、静岡、島根の各県などでは、小一でクラスが三〇〜三六人のばあいでも、もう一
人教員を配置している。さらに山口県は、「中学への円滑な接続を図る」として、一部の小学校
では、六年に、国語、算数、理科、社会の四教科に、教科担任制を試験的に導入している。大
分県では、中学一年と三年の英語の授業を、一クラス二〇人程度で実施している(二〇〇一
年度調べ)。
(031222)




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15

●スケベ心

 今朝(03・12月)の朝刊に、こんな記事が載っていた。

 いわく、「わいせつ教職員、(全国で)、懲戒(過去最高)一四八人」と。

 つまり生徒や児童に、わいせつ行為をして、懲戒バツを受けた教職員が、一四八人もいたと
いうのだ。

 「……このうち、懲戒免職は、九七人(前年度比四四人増)と、やはり過去最高」(Y新聞)と。

 しかしこの世界の人なら、みな、知っているが、こんなのは、まさに氷山の一角。表ザタにな
る事件など、一〇に一つもない。新聞に載るような事件になるのは、一〇〇に一つもない。そ
のほとんどは、闇から闇へと、葬られる。(だからといって、先生を責めているのではない。誤
解のないように!)

 そこで私のこと。ここらあたりで、正直に書いておくことは、決して、ムダにはならないと思う。

 私は、教育評論家という肩書きをもっている。いわば聖職者(?)。少なくとも、世間の人は、
そう見ている。また私は、自分の写真を見ても、そのタイプの人間だと思う。どこからどう見て
も、おもしろくない顔をしている。

 しかし性欲は、ふつうにある。あえて言うなら、「濃い男」。世の中には、同性愛者と呼ばれる
人もいるそうだが、私には、その気(け)は、まったくない。だからどうにもこうにも、そういう人た
ちの気持が理解できない。

 では、その私が、女生徒に色気を感ずるかといえば、そういうことは、めったにない。過去に
おいて、数度あったような気もするが、しかしはっきりと意識できるような色気を感じたことはな
い。

 ただこの世界には、無防備な女の子もいるわけで、平気で、胸をブラブラと見せる女子高校
生もいるにはいた。まさに目のやり場に困るような子どもである。あるいは、平気で、足を広げ
てすわる女の子も少なくない。

 一度、夏の暑い日だったが、教室へ来るやいなや、「暑い、暑い」と言って、制服をぬいでし
まった女子中学生もいた。薄い下着だけで、平気で体をあおっていたので、私はそれを強く叱
った。その中学生のためというよりは、そういう光景を、だれかに見られたら、私のほうが、へ
んに誤解されてしまう。

 むしろ、私が色気を感ずるのは、母親のほうだ。当然のことながら、幼児を連れてやってくる
母親は、みな、若くてきれいな人ばかり。で、あるとき、私はこう思った。

 「毎日、おいしそうな料理を見せつけられるだけで、食べることができない」と。不謹慎な言い
方だが、私は、そう思った。そういう若い母親たちを、私は、ただ遠くから見ているだけ。で、私
は、さらに、こう思ったこともある。「私を挑発するな! 私だって、男だ!」と。

 しかしそうした思いをもったからといって、どうこうということは、なかった。そこで冒頭の新聞
記事の話。自分の生徒に色気を感ずることは、先生だって、ふつうの人間だから、ある。

 ただ私のばあいは、中学生や高校生も、少数だが教えているが、ほとんどが、幼児のときか
ら教えている子どもである。言うなれば、自分の子どものようなもの。まさか自分の子どもに、
色気を感ずる父親はいまい。立場は、よく似ている。

 それに私のばあい、一対一で会うということは、ほとんど、ない。一年の間でも、一、二日くら
いしかない。会っても、一時間を超えることはない。

 こうして考えると、こういうハレンチ教師がいるということが悪いということではなく、スキだらけ
の、現在の、教育システムに問題があるということになる。新聞のコメントに、ある評論家が、
何となくもっともらしい意見を添えていたが、どこか的(まと)はずれのような気がした。

 こうした事件を防ぐためには、たとえば教師は、生徒との交際を、教室内に限る。職員室内
に限る。教育指導はするが、それ以外の指導は、原則としてしない。校内でも、一対一の接触
は、原則として、禁止する。一時間以上の個人的な会話は禁止する、など。こまかく、校則を作
ればよい。

 だいたいにおいて、今の教育システムの中では、無理かもしれないが、先生に、高邁(こうま
い)な道徳心を求めること自体、まちがっている。何も、その道の人格者が、先生になるわけで
はない。ないことは、あなただって知っている。「先生だから、そういうことはしないはず」という、
「ハズ論」で考えるほうが、おかしい。

 だったら、システムの中で、先生を監督するしかない。またそういうシステムをつくるしかな
い。そしてそれができないというのなら、こうしたハレンチ行為に対して、いちいち文句を言わな
いこと。……というのは、少し言い過ぎかもしれないが、こうした事件は、これからも、起こる。
いくらトップが、騒いでも、起こる。マスコミが騒いでも、起こる。

 監督を強化するという方法もあるだろうが、しかしそうすればしたところで、ますます巧妙化す
るだけ。あるいは地下へもぐるだけ。文部科学省は、「厳格な対応が定着してきた現れで、(懲
戒免職者が)ふえた。今後、きびしい姿勢が、抑止効果につながるのを期待している」(同新
聞)とコメントを出している。

 しかしそういうコメントを出す、文部科学省の役人は、みな、聖人なのか?

 私は、自分の中にある、「男」としての自分を知っている。で、あるとき、私は、ある先生に、こ
う話したときがある。その先生というのは、かなり著名な教育者として知られていた先生であ
る。

 私が、「女子高校生の胸や乳房が見えたりすると、ドキッとします。そういうときは、どうしたら
いいですか?」と聞いたときのこと。その先生は、こう言った。「見ておけばいいのです。黙って
……」と。

 何とも、奥歯にものをはさんだような言い方になってしまったが、私は、ここに書いたことが、
現実だと思う。
(031224)



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16

●子どもの受験

【息子の受験】

●合格発表

 クリスマスの日。一二月二五日。今日は、宮崎県にある、M航空大学の合格発表の日。発表
は、午前一〇時だという。今では、合格発表も、インターネットで通知される。

 今は、その三五分前。午前九時二五分。どこか気分がフワフワしている。先ほど、ワイフに、
「発表は、午前一〇時だ」と告げると、「結果は、E君に教えてはだめよ。自分で見たいと言って
いるから」と。

 Eは、昔から、そういう子どもだ。私なら、だれかに合格発表を見てもらう。見かけはともかく
も、私は、気が小さい。しかしEは、「自分で見るから、いい」と。

 度胸があるのか、ないのか。今のY国立大学の合格発表のときも、自分で、横浜まで、見に
行った。その前のK高校のときも、そうだった。そして今度も、「自分で見るから、言うな」と。

私「Eは、どこかへ行っているのか?」
ワ「今日は、バイトで、アパートに帰ってくるのが、二時ごろだってエ」
私「また、あいつ、アルバイト、しているのか?」
ワ「そうみたい……」と。

 朝、目をさましたとき、ふとんの中で、Eのことを考えていた。しかし何度も経験したとはいえ、
合格発表の日というのは、いやなものだ。どこか落ちつかない。何というか、自分自身が、ヒモ
で、空中に、つりさげられているような気分。

●Eのこと

 今の大学が、自分に合わないと言い出したのは、ちょうど、去年の今ごろだった。理由はよく
わからないが、「ぼくは、平凡な道を歩きたくない」と言ったのは、よく覚えている。そしてつづい
て、「ぼくは、国際線のパイロットになりたい」と言った。

 いろいろ反対したい気持はあったが、Eは、昔から、そういう子どもだった。それにそのとき
も、こう言った。「ぼくは、パパのように、生きてみたい」と。「どこかの会社に入って、部屋の中
に閉じこもって、設計するより、空を飛んでみたい」とも。

 それを横で聞いていて、ワイフもこう言った。「父親が父親だから、反対はできないわね」と。
私がM物産という商社をやめて、幼稚園の講師になったことを言った。「しかしな……」と言い
かけたが、やめた。

 私は、こう言いたかった。「しかしな、大学だけは、ちゃんと出たぞ」と。

 あとのことは、よく覚えていない。「勝手にしろ」と言ったような気はする。いや、そのあと、E
は、こうも言った。「パパ、ぼくの夢は、パパに、本物の操縦感を握らせてやることだよ」と。

 これを聞いたときは、私は、正直言って、ホロリとした。

 私の趣味は、MSフライトシミュレーター(パソコンゲーム)で、空を飛ぶこと。ほとんど毎日、
パソコンの画面を見ながら、空を飛んでいる。そういう私を、Eは、いつも横で見ていた。

私「しかし、お前が、パイロットになったら、ぼくは毎日、ハラハラしていなければならない。もう
少し安全な職業を選べないのか?」
E「今では、車の運転より、安全だよ」
私「飛行機事故のニュースを聞くたびに、ドキッとしなければならない」
E「じゃあ、パパは、反対なの?」
私「反対じゃない。お前がその道へ進むというのなら、反対はしない」

E「じゃあ、賛成だね」
私「バカめ。賛成する親なんて、いない。Y国立大学をやめて、パイロットになるというのは、こ
の日本では、金メダルを捨てて、銅メダルを取るようなものだ」
E「ぼくは、そう思わない……」
私「……そうだな。パパも、そう思わなかった。M物産をやめて、幼稚園の講師になったとき、
みなは、笑ったけど、ぼくは、そうは思わなかった」と。

 Eは、Y国立大学の工学部を、センター試験の結果では、学部第X位の成績で入学している。
そして入学した当初は、「ぼくは、宇宙船の設計士になる」と、息巻いていた。

●親として……

 Eは、今度の入学試験に落ちたら、Y国立大学をやめるつもりでいるらしい。雰囲気で、それ
がわかる。何度か、「学歴だけは、身につけておけ。それが日本だ」と言った覚えはある。「お
金と同じだ。あれば、便利だから」と。しかし、そのつど、Eは、暗い表情をして見せた。

 しかし私の覚悟は、もうできている。私は、親として、Eの選択を支持するしかない。今度の入
学試験に落ちたあと、大学を中退するというのなら、それはそれでよい。Eのことだから、どん
な世界に入っても、自分で自分の道を見つけるだろう。

 しかしこの不安は、いったい、どこからくるのか。「万が一……」という不安ともちがう。「選別
される」という不安ともちがう。あえて言うなら、「落ちたとき、息子をしっかりと支えきれるだろう
か」という、親としての不安か?

 私はEを信じている。……信じたい。Eは、幼児のころから、そういう子どもだった。負けず嫌
いで、がんばり屋だった。小学校を卒業するときも、中学校を卒業するときも、市長賞(中学の
ときは、ライオンズ賞に名称を変更)を、もらっている。「市長賞」というのは、その学校で最優
秀の男女二名に与えられる賞をいう。

 そして小学校のときは、児童会会長。中学校のときも、生徒会会長を経験している。卒業式
のときは、答辞を朗読した。

 そのEで、特筆すべきことは、彼が中学生のとき、彼のファンクラブができたこと。一五〇〜
一六〇名のメンバーが、名前を連ねていた。大半は、女の子だったが、男の子も混じってい
た。私は、学生時代、女の子には、まったくもてなかったが、Eは、ちがった。Eが行くところに
は、いつも、ゾロゾロと女の子がついて歩いた。

 Eは、私の息子でありながら、私の息子でないような気がした。そういうおもしろさが、Eの子
育てには、いつもあった。だからある日、私はEに、こう言った。「お前のおかげで、人生を、じ
ゅうぶん楽しませてもらったよ。ありがとう」と。

●結果を見る

 今、時刻は九時五五分。Eの受験番号は、「40XX」。M航空大学のHPは、すでに、「お気に
入り」に登録してある。ワンクリックだけで、結果を知ることができる。

 今まで、何度も経験してきたはずなのに、どこか緊張する。どうしてか? 「クリックするだけ
だ」と、自分に言って聞かせる。しかし指が、何かを迷っている。

 こうした受験では、合格したことを考えて結果を見るのではなく、不合格のときを考えて、結果
を見る。……というようなことは、他人には、よく言ってきた。今は、その言葉を、自分に言って
聞かせる。

 受験者数は、約七〇〇名。うち、一次試験(筆記試験)、二次試験(運動と身体検査)と、残っ
たのは、六九名。一応、これで定員の七〇人のワクの中に入っている。三次試験(面接と実
技)は、先月、宮崎市であった。Eは、「だいじょうぶだよ」と笑っていた。しかし……。倍率は、
一〇倍以上! こんなメチャメチャな入学試験は、そうはない。

 私も学生時代、試験で失敗したことは、一度もなかった。失敗しそうな試験は、最初から受け
なかった。しかし受ける試験には、全力を投入した。ふと、そんなことを頭の中で、考えた。

 時刻は、今、ちょうど、一〇時になった。

 一〇時だ! 私はまたクリックするのを、ためらった。「この原稿を書き終えたら、見るつも
り」と、勝手に逃げる。

 深呼吸して、イスに座りなおして、腹に力を入れる……。

 そのとき、突発的に、私は、ワイフを書斎に呼んだ。「これから結果を見るから、来ないか?」
と。ワイフは、それを聞きながら、「もう一〇時?」と言いながら、書斎へやってきた。

私「ワンクリックで、結果を見ることができる」
ワ「ドキドキするわ」
私「そうだな。覚悟はできているか?」
ワ「できているわ」
私「ようし、見るぞ!」

 結果は……

私「あったね。40XXだな。この番号に、まちがいないか?」
ワ「そうよ。まちがい、ないわ」
私「よかったな。最終合格者は、五九人だ」
ワ「三次で、一〇人も落ちたのね。かわいそう……」
私「……」
ワ「よかったわ」と。

 あっけない合格発表だった。と、そう思った瞬間、同時に、肩からガクリと力が抜けた。

 部屋を出るとき、ワイフは、こう言った。「E君には、内緒よ。自分で結果を見たいと言ってい
るから」と。私はそれに答えて、「ウン、わかっている」と。

 ワイフが部屋を出ていったあと、私は、ゆっくりと、深い息を吸った。そしてそれ以上に長く時
間をかけて、息を吐いた。フーーーーーッ、と。
(031225)

+++++++++++++++++++++

その三男について、以前、こんなエッセー(中日新聞
掲載済み)を、書いたことがあります。

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子育てのトゲが心に刺さるとき

●三男からのハガキ  
富士山頂からハガキが届いた。見ると三男からのものだった。登頂した日付と時刻に続いて、
こう書いてあった。「一三年ぶりに雪辱を果たしました。今、どうしてあのとき泣き続けたか、そ
の理由がわかりました」と。 
 一三年前、私たち家族は富士登山を試みた。私と女房、一三歳の長男、一〇歳の二男、そ
れに七歳の三男だった。が、九合目を過ぎ、九・五号目まで来たところで、そこから見あげる
と、山頂が絶壁の向こうに見えた。

そこで私は、多分そのとき三男にこう言ったと思う。「お前には無理だから、ここに残っていろ」
と。女房と三男を山小屋に残して、私たちは頂上をめざした。つまりその間中、三男はよほど
悔しかったのだろう、山小屋で泣き続けていたという。

●三男はずっと泣いていた! 
 三男はそのあと、高校時代には山岳部に入り、部長を務め、全国大会にまで出場している。
今の彼にしてみれば富士山など、そこらの山を登るくらい簡単なことらしい。

その日も、大学の教授たちとグループを作って登山しているということだった。女房が朝、新聞
を見ながら、「きっとE君はご来光をおがめたわ」と喜んでいた。が、私はその三男のハガキを
見て、胸がしめつけられた。あのとき私は、三男の気持ちを確かめなかった。私たちが登山し
ていく姿を見ながら、三男はどんな思いでいたのか。

そう、振り返ったとき、三男が女房のズボンに顔をうずめて泣いていたのは覚えている。しかし
そのまま泣き続けていたとは!

●後悔は心のトゲ 
 「後悔」という言葉がある。それは心に刺さったトゲのようなものだ。しかしそのトゲにも、刺さ
っていることに気づかないトゲもある。私はこの一三年間、三男がそんな気持ちでいたことを知
る由もなかった。何という不覚! 

私はどうして三男にもっと耳を傾けてやらなかったのか。何でもないようなトゲだが、子育ても
終わってみると、そんなトゲが心を突き刺す。私はやはりあのとき、時間はかかっても、そして
背負ってでも、三男を連れて登頂すべきだった。

重苦しい気持ちで女房にそれを伝えると、女房はこう言って笑った。

「だって、あれは、E君が足が痛いと言ったからでしょ」と。
「Eが、痛いと言ったのか?」
「そう、E君が痛いから歩けないと泣いたのよ。それで私も残ったのよ」
「じゃあ、ぼくが登頂をやめろと言ったわけではないのか?」
「そうよ」と。

とたん、心の中をスーッと風が通り抜けるのを感じた。軽い風だった。さっそくそのあと、三男に
メールを出した。「登頂、おめでとう。よかったね」と。




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17

●幼児の表情

●浜松市に住んでいるKさん(母親)より、こんなメールをもらった。

「もうすぐ、長男が生まれます。とくに注意したらいいことは、どんなことですか?」と。

 Kさんは、妊娠したときから、私のマガジンを読んでくれている。最初、「まだ、子どもはいませ
んが、読んでみます」と、メールをくれた。それから一年あまり。以来、ときどき、こうして交信し
ている。

 私は、こんな返事を書いた。

++++++++++++++++++++++++++

●よい子に育てる法

 子どもをよい子にするかどうか。それは、〇歳から、満一・五歳までの育て方で決まる。この
時期、子どもは、子どもの心を大切に、無理をしないで、かつ穏やかに育てる。静かに育てる。
ほどよい愛情を、適切に与える。コツは、「求めてきたときが、与えどき」。愛嬢不足はよくない
が、与えすぎもよくない。

 箇条書きにすると、こうなる。

(1)決して、大声をあげて、叱ったり、威圧したりしない。暴力は、もってのほか。短気な親ほ
ど、注意する。ここにも書いたように、穏やかであることが、何よりも重要。
(2)どんなに子育てがたいへんでも、たとえば、夜泣きがひどくても、ただひたすら、忍耐。がま
ん。その辛抱(しんぼう)強さが、子どもの心をまっすぐに育てる。
(3)親の情緒不安は、百害あって、一利なし。親は、つとめて、一貫性のある子育てをする。た
った一度、強く叱ったことが原因で、子どもの心がゆがむということは、この時期、よくある。
(4)「ほどよい親」に徹する。何ごとも、ほどほど、に。子どもが愛情を求めてきたら、いとわ
ず、与える。「求めてきたときが、与えどき」と、心得る。
(5)「教えよう」、「なおそう」という意識は、最小限に。子どもといっしょに、子どもの友として、も
う一度、人生を楽しむつもりで、子育てをする。

 こういう状態を守りながら、あとは、成りゆきにまかす。ちょうど水が、流れやすい場所を求め
て、自分で流れていくように、子どもの進んでいく道は、子どもに任す。親の過干渉、過関心、
過保護は、最小限に。こうした育児姿勢は、子どもが進むべき道を、ふさいでしまう。くれぐれ
も、ご用心。

 今、表情のない子どもや、表情のとぼしい子どもが、ふえている。全体の約二〇%が、そのタ
イプの子どもとみてよい。この時期の、不適切な育児姿勢が、表情のない子どもや、乏しい子
どもにする。うれしいときには、うれしそうな顔をする。怒ったときには、怒った顔をする。この時
期は、そういうことが自然にできる子どもをめざす。

 つまり、心がまっすぐ伸びている子どもは、顔の表情が、自然で豊か。が、中に、不愉快に思
っているはずなのに、無表情だったり、ニンマリと、意味のない笑みを浮かべる子どもがいる。
そういう子どもは、すでに心のどこかが、ゆがみ始めているとみる。

 幼児の表情を、決して、安易に考えてはいけない。
(031226)

【Kさんへ、補足】

 子育てというと、知育教育だけを考える人は、少なくありません。しかしそれ以上に大切なの
は、「心」です。この時期は、その心をどう伸ばすかだけを考えながら、子育てをしてみてくださ
い。

 その心が伸びているかどうかを知るバロメーターが、ここでいう表情ということになります。

 しかし決して、むずかしいことではありません。あるがままの状態で、あるがままに育てれば
よいのです。あとは、子ども自身がもつ力で、子ども自身が伸びてくれます。表情が自然で、豊
かな子どもになります。私たちがすべきことは、それを手助けすることだけです。

 よく表情の乏しい子どもを見ながら、「うちの子は、生まれつき、ああです」と弁解する親がい
ます。しかし生まれつき、表情が乏しい子どもは、絶対にいません。乏しいのではなく、豊かに
なるのを、親が、何らかのショックを与えて、止めてしまったと考えます。

 とくに〇歳のときは、ショックを与えるような叱り方をしてはいけません。これはタブー中のタブ
ーと考えてください。仮に大泣きしても、何かの理由があるはずです。その理由を懸命にさがし
ながら、それを受け入れ、許します。この時期の子どもの行動には、すべてそれなりの理由が
あるのです。決して、「わがまま」とか、決めて対処してはいけません。

 〇〜一歳児の子育ては、たいへんです。本当に、たいへんです。一瞬たりとも、気が抜けな
い状態がつづきます。まさに根気の勝負です。その心づもりで、がんばってください。応援しま
す。

【補足2】

 先日も、大型店の食堂で、上の子ども(三歳くらい)を、「あんたは、お兄ちゃんでしょ!」と叱
っている母親をみかけました。

 しかしこんな身勝手な論理は、ありません。三歳くらいの子どもに、(兄・弟)という上下関係
が、どうして理解できるというのでしょうか。いわんや、その自覚をもて、とは! それがわから
なければ、夫に「お前は、オレの第一夫人だろ! だからちゃんと、第二夫人(愛人)のめんど
うをみろ!」と言われたときのことを、想像してみてください。あなたは、それに納得するでしょう
か。

 親はときとして、身勝手な論理を、子どもに押しつけます。たとえば私がいう、『ダカラ論』『ハ
ズ論』『ベキ論』の多くは、親が勝手に決めた論理です。これからの子育てで、この三つを使う
ときは、慎重にしてみてください。それだけでも、あなたの子育ては、大きく変わるはずです。

★ダカラ論……「あなたは兄ダカラ……」と、「ダカラ」という言葉を使って、子どもに何かを押し
つける。

★ハズ論……「三歳児なら、ここまでできるハズ」と、ほかの子どもと比較しながら、何かを押し
つける。

★ベキ論……頭ごなしに、子どもの心を確かめることなく、親の設計図に合わせて、子どもに
向かって、「あなたは、これをすベキ」と、押しつける。
 



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18

●親論

●親を美化する人

 だれしも、「親だから……」という幻想をもっている。あなたという「親」のことではない。あなた
の「親」についてで、ある。

 あなたは自分の親について、どんなふうに考えているだろうか。「親は、すばらしい」「親だか
ら、すべてをわかっていてくれるはず」と。

 しかしそれが幻想であることは、やがてわかる。わかる人には、わかる。親といっても、ただ
の「人」。ただの人であることが悪いというのではない。そういう前提で見ないと、結局は、あな
たも、またあなたの親も、苦しむということ。

 反対に、親を必要以上に美化する人は、今でも、多い。マザーコンプレックス、ファーザーコ
ンプレックスをもっている人ほど、そうだ。それこそ、森進一の『♪おふくろさん』を聞きながら、
毎晩のように涙を流している。

 つまりこのタイプの人は、自分のコンプレックスを隠すために、親を美化する。「私が親を慕う
のは、それだけ、私の親がすばらしいからだ」と。

●権威主義

 もともと日本人は、親意識が強い民族である。「親は絶対」という考え方をする。封建時代か
らの家(先祖)意識や、それにまつわる権威主義が、それを支えてきた。たとえば江戸時代に
は、親から縁を切られたら、そのまま無宿者となり、まともに生きていくことすら、できなかっ
た。

 D氏(五四歳)は、近所では、親思いの、孝行息子として知られている。結婚して、もう三〇年
近くになるが、今でも、給料は、全額、母親に渡している。妻もいて、長女もすでに結婚したが、
今でも、そうしている。はたから見れば、おかしな家族だが、D氏自身は、そうは思っていない。
「親を粗末にするヤツは、地獄へ落ちる」を口グセにしている。

 D氏の妻は、静かで、従順な人だった。しかしそれは、D氏を受け入れたからではない。あき
らめたからでもない。最近になって、妻は、こう言ってD氏に反発を強めている。「私は結婚した
ときから、家政婦以下だった。私の人生は何だったの。私の人生を返して!」と。

 自分自身が、マザーコンプレックスにせよ、ファーザーコンプレックスにせよ、コンプレックス
をもつのは、その人の勝手。しかしそれを妻や子どもに、押しつけてはいけない。

 D氏について言えば、「親は絶対!」と思うのは、D氏の勝手。しかしだからといって、自分の
妻や子どもに向って、「自分を絶対と思え」「敬(うやま)え」と言うのは、まちがっている。が、D
氏には、それがわからない。

●親を見抜く

 まず、親を見抜く。一人の人間として、見る。しかしほとんどの人は、この段階で、「親だから
……」という幻想に、振りまわされる。とくにマザーコンプレックス、ファーザーコンプレックスの
強い人ほど、そうである。

 かりに疑問をもつことはあっても、それを自ら、否定してしまう。中には、他人が、自分の親を
批判することすら、許さない人がいる。

 U氏(五七歳)がそうである。

 U氏の父親は、数年前に死んだが、その父親は、金の亡者のような人だった。人をだまし
て、小銭を稼ぐようなことは朝飯前。その父親について、別の男性が、「あんたの親父(おやじ)
さんには、ずいぶんとひどい目にあいましたよ」と、こぼしたときのこと。U氏は、猛然とその男
性にかみついた。それだけではない。「あれは、全部、私がしたことだ。私の責任だ。親父の悪
口を言うヤツは、許さん」と。そのとき、そう言いながら、その男性の胸を手でつかんだという。

 U氏のような人にしてみれば、そういうふうに、父親をかばうことが、生きる哲学のようにもな
っている。私にも、ある日、こう言ったことがある。

 「子どもというのは、親から言葉を習うものです。あなただって、親から言葉を習ったでしょう。
その親を粗末にするということは、人間として、許されないことです」と。

 「親を見抜く」ということは、何も「粗末にする」ことではない。親を大切にしなくてもよいというこ
とでもない。見抜くということは、一人の人間として、親を、客観的に見ることをいう。つまりそう
することで、結局は、今度は、親である自分を知ることができる。あなたの子どもに対して、自
分がどういう親であるかを、知ることができる。
 
●きびしい親の世界

親であることに、決して甘えてはいけない。つまり、親であることは、それ自体、きびしいことで
ある。

マザーコンプレックスや、ファーザーコンプレックスが悪いというのではない。えてして、そういう
コンプレックスをもっている人は、その反射的作用として、自分の子どもに対して、同じように考
えることを求める。

 そのとき、あなたの子どもが、あなたと同じように、マザーコンプレックスや、ファーザーコンプ
レックスをもてば、よい。たがいにベタベタな関係になりながら、それなりにうまくいく。

 しかしいつも、そう、うまくいくとは、かぎらない。親を絶対化するということは、同時に親を権
威化することを意味する。そして自分自身をまた、親として、権威づけする。「私は、親だ。お前
は、子どもだ」と。

 この権威が、親子関係を破壊する。見た目の関係はともかくも、たがいの心は、離れる。

●親は親で、前向きに

 親は親で、前向きに生きていく。親が子どものために犠牲になるのも、また子どもが親のた
めに犠牲になるのも、美徳でも何でもない。親は、子どもを育てる。そしていつか、親は、子ど
もの世話になる。それは避けられない事実だが、そのときどきにおいて、それぞれは、前向き
に生きる。

 前向きに生きるというのは、たがいに、たがいを相手にせず、自分のすべきことをすることを
いう。かつてあのバートランド・ラッセルは、こう言った。「親は、必要なことはする。しかしその
限度をわきまえろ」と。

 つまり親は、子どもを育てながら、必要なことはする。しかしその限度を超えてはならない、
と。このことを、反対に言うと、「子どもは、子どもで、その限度の中で、懸命に生きろ」というこ
とになる。また、そうすることが、結局は、親の負担を軽減することにもなる。

 今、親の呪縛に苦しんでいる子どもは、多い。あまりにも、多い。近くに住むBさん(四三歳、
女性)は、嫁の立場でありながら、夫の両親のめんどうから、義理の弟の子どものめんどうま
で、押しつけられている。義理の弟夫婦は、今、離婚訴訟の最中にある。

 Bさんの話を聞いていると、夫も、そして夫の家族も、「嫁なら、そういうことをするのは、当
然」と考えているようなフシがある。Bさんは、こう言う。

 「(義理の)父は、長い間、肝臓をわずらい、週に二回は、病院通いをしています。その送り迎
えは、すべて、私の仕事です。(義理の)母も、このところ、さらにボケがひどくなり、毎日、怒鳴
ったり、怒ったりばかりしています。

 そこへ、(義理の)兄の子どもです。今、小学三年生ですが、多動性のある子どもで、一時間
もつきあっていると、こちらの頭がヘンになるほどです」と。

 こうしたベタベタの関係をつくりあげる背景に、つまりは、冒頭にあげた、「幻想」がある。家
族は、その幻想で、Bさんを縛り、Bさんもまた、その幻想にしばられて苦しむ。しかしこういう
形が、本当に「家族」と言えるのだろうか。またあるべき「家族」の姿と言えるのだろうか。

●日本の問題

 日本は、今、大きな過渡期を迎えつつある。旧来型の「家」意識から、個人型の「家族」意識
への変革期にあるとみてよい。家があっての家族ではなく、家族あっての家という考え方に、変
りつつある。

 しかし社会制度は、不備のまま。意識改革も遅れている。そのため、今、無数の家々で、無
数の問題も、起きている。悲鳴にも近い叫び声が聞こえている。

 では、私たちは、どうしたらよいのか。またどうあったらよいのか。

 私たちの親については、しかたないとしても、私たち自身が変ることによって、つぎの子ども
たちの世代から、この日本を変えていかねばならない。その第一歩として、私たちがもっている
幻想を捨てる。

 親子といえども、そこは純然たる人間関係。一対一の人間関係。一人の人間と、一人の人間
の関係で、成りたつ。「親だから……」と、親意識をふりかざすことも、「子どもだから……」と、
子どもをしばることも、これからは、やめにする。

 一方、「親だから……」「子どもだから……」と、子どもに甘えることも、心して、最小限にす
る。ある母親は、息子から、土地の権利書をだましとり、それを転売してしまった。息子がその
ことで、母親を責めると、母親は、平然とこう言ったという。「親が、先祖を守るため、息子の財
産を使って、何が悪い!」と。

 こういうケースは、極端な例かもしれないが、「甘え」も、行き着くところまで行くと、親でも、こ
ういうものの考え方をするようになる。

 もちろん子どもは子どもで、その重圧感で悩む。その息子氏とは、この数年会っていないの
で、事情がわからないが、最後にその息子氏は、私にこう言った。「それでも親ですから……」
と。息子氏の苦悩は、想像以上に大きい。

 さてあなたは、その幻想をもっていないか。その幻想で苦しんでいないか。あるいは、その幻
想で、あなたの子どもを苦しめていないか。一度、あなたの心の中を、のぞいてみるとよい。
(031227)

【追記】

 正月が近づくと、幼児でも、「お正月には、実家へ帰る」とか言う子どもがいる。しかし「実家」
とは何か? もし祖父母がいるところが、実家なら、両親のいるところは、「仮の家」ということ
になる。

 家族に、実家も、仮の家もない。こうした、封建時代の遺物のような言い方は、もうやめよう。

 農村地域へ行くと、「本家(屋)」「新家(屋)」という言い方も残っている。二〇年近くも前のこと
だが、こんなことを言った母親がいた。「うちは、あのあたりでも、本家だから、息子には、それ
なりの大学に入ってもらわねば、世間体が悪いのです」と。

 日本人の意識を「車」にたとえるなら、こうした部品の一つずつを変えていけないと、車の質
は変わらない。




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19

●基底不安

 何をしていても、不安。仕事をしていても、不安。遊んでいても、不安。寝ていても、不安。家
族といても、不安。友だちといても、不安。……そういう人は、少なくない。世間では、こういう人
を、不安神経症というらしいが、「根」は、もっと深い。

 乳幼児期の母子関係が不全だと、子どもは、生涯にわたって、ここでいう「不安を基底とした
生き方」をするようになる。これを「基底不安」という。この時期、子どもは、母親との関係にお
いて、絶対的な安心感を学ぶ。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。

 この絶対的安心感が、何らかの問題があって不足すると、子どもの心は、きわめて不安定な
状態に置かれる。心はいつも緊張した状態に置かれ、それが原因で、子どもの情緒は不安定
になる。それだけではない。この安心感があってはじめて、子どもは、自分のすべてをさらけ出
すことを学ぶ。そしてそれが、それにつづく人間関係の基本になる。

 このさらけ出しのできない子どもは、少なくない。自分をさらけ出すことに、大きな不安を覚え
る。「相手によく思われているだろうか」「相手は、自分のことを悪く思わないだろうか」「どうす
れば、自分は好かれるだろうか」「自分は、いい人間に見えるだろうか」と、そんなふうに考え
る。

 子どもでいえば、不自然なほど、愛想がよくなったり、反対に仮面をかぶったりするようにな
る。さらに症状が悪化すると、心の状態と顔の表情が遊離し、いわゆる何を考えているかわか
らない子どもになる。これに強いショックが加わると、多重人格性をもつこともある。

 うれしいときには、うれしそうな顔をする。怒ったときには、怒った顔をする。何でもないことの
ようだが、感情の表現が、すなおで、自然ということだけでも、子どもの心は、まっすぐに育って
いることを示す。

 一方、子どもの世界、とくに乳幼児期において、無表情というのは、好ましくない。うれしいは
ずなのに、どこかぼんやりとしている。同年齢の子どもと会っていても、反応を示さない。感情
表現がとぼしく、どこかヌボーッとしている、など。

 親は、「生まれつき、こうです」と言うが、そういうことは、あ・り・え・な・い。たいていは親の神
経質な育児姿勢、過干渉、過関心、威圧、暴力、暴言が、原因で、そうなる。親の短気、情緒
不安が、原因で、そうなることもある。

 子どもが、〇歳〜二歳の間は、絶対に子どもを怒鳴ってはいけない。おびえるほどまで、子
どもを叱ったり、威圧したりしてはいけない。無理な訓練や、学習をさせてはいけない。この時
期、必要なのは、暖かい愛情に包まれた、心豊かな人間関係である。親の立場で言うなら、た
だひたすら、がまん。忍耐。そしてあふれんばかりの、愛情である。

 この時期は、子どもを伸ばすことは、あまり考えなくてもよい。子どもの心を、つぶさないこと
だけを考える。どんな子どもも、すでに伸びる芽をもっている。あとは、それに『灯をともして』、
それを『引き出す』だけ(欧米の常識)。

 少子化のせいなのか? 今、子育てで失敗する親が、あまりにも多い。手をかける。時間を
かける。手間をかける……。それ自体は悪いことではないが、神経質な育児姿勢が、かえって
子どもの伸びる芽をつんでしまう。子どもの「私は私」という意識までつぶしてしまうこともある。

 この時期、一度、子どもの自信をつぶしてしまったら、もう、あとは、ない。生涯、ハキのな
い、ナヨナヨとした子どもになってしまう。自ら、「私はダメ人間」というレッテルを張ってしまい、
伸びることをやめてしまう。そういう状態に、子どもを追いこんでおきながら、「どうして、うちの
子は、ハキがないのでしょう」は、ない。「どうすれば、もっとハキハキする子どもになるでしょう
か」は、ない。

 子育てには、失敗はつきもの。しかし失敗してからはでは遅い。なおそうと考えても、その数
倍、あるいは数一〇倍の努力とエネルギーが必要。しかし、実際には、それはもう不可能。

 話がそれたが、この基底不安にしても、乳幼児期につくられ、それはその人を、ほぼ一生に
わたって、支配する。外から見ただけではわからないし、またこのタイプの人ほど、その不安と
戦うことで、その道では成功者となることが多い。そのため、まわりの人は、それこそ「ただの
不安神経症」と、安易に考えやすい。

 しかしその人自身は、生涯にわたって、その不安から解放されることはない。人と交わって
も、心を開けないなど。中には、家族にさえ、心を開けない人もいる。不幸かそうでないかとい
うことになれば、これほど、不幸なこともない。

 もしあなたが、ここでいう、不安を基底とした生き方をしているなら、その「根」は、あなた自身
の乳幼児期にある。まず、それを知る。そしてそれがわかれば、こうした不安感を消すことはで
きないにしても、コントロールすることは、できるようになる。

 どんな人でも、一つや二つ、こうした心の問題をかかえている。ない人は、いない。あとは、そ
れに気づき、仲よくつきあえばよい。
(031231)




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20

●日本の教育改革

公立小中学校・放課後補習について

 文部科学省は、公立小中学校の放課後の補習を奨励するため、教員志望の教育学部の大
学生らが児童、生徒を個別指導する「放課後学習相談室」(仮称)制度を、二〇〇三年度から
導入した。

 文部科学省の説明によれば、「ゆとり重視」の教育を、「学力向上重視」に転換する一環で、
全国でモデル校二〇〇〜三〇〇校を指定し、「児童、生徒の学力に応じたきめ細かな指導を
行う」(読売新聞)という。

「将来、教員になる人材に教育実習以外に、実戦経験をつませる一石二鳥の効果をめざす」と
も。父母の間に広まる学力低下への懸念を払しょくするのがねらいだという。具体的には、つ
ぎのようにした。

 まず全国都道府県からモデル校を各五校を選び、@授業の理解が遅れている児童、生徒に
対する補習を行う、A逆に優秀な児童、生徒に高度で発展的な内容を教えたり、個々の学力
に応じて指導した。

 しかし残念ながら、この「放課後補習」は、確実に失敗しつつある。理由は、現場の教師な
ら、だれしも知っている。順に考えてみよう。

第三、学校での補習授業など、だれが受けたがるだろうか。たとえばこれに似た学習に、昔か
ら「残り勉強」というのがある。先生は子どものためにと思って、子どもに残り勉強を課するが、
子どもはそれを「バツ」ととらえる。「君は今日、残り勉強をします」と告げただけで泣き出す子
どもは、いくらでもいる。「授業の理解が遅れている児童、生徒」に対する補習授業となれば、
なおさらである。残り勉強が、子どもたちに嫌われ、ことごとく失敗しているのは、そのためであ
る。

第四、反対に「優秀な児童、生徒」に対する補習授業ということになると、親たちの間で、パニ
ックが起きる可能性がある。「どうしてうちの子は教えてもらえないのか」と。あるいはかえって
受験競争を助長することにもなりかねない。今の教育制度の中で、「優秀」というのは、「受験
勉強に強い子ども」をいう。どちらにせよ、こうした基準づくりと、生徒の選択をどうするかという
問題が、同時に起きてくる。

 文部科学省よ、親たちは、だれも、「学力の低下」など、心配していない。問題をすりかえない
でほしい。親たちが心配しているのは、「自分の子どもが受験で不利になること」なのだ。どうし
てそういうウソをつく! 

新学習指導要領で、約三割の教科内容が削減された。わかりやすく言えば、今まで小学四年
で学んでいたことを、小学六年で学ぶことになる。しかし一方、私立の小中学校は、従来どおり
のカリキュラムで授業を進めている。

不利か不利でないかということになれば、公立小中学校の児童、生徒は、決定的に不利であ
る。だから親たちは心配しているのだ。

 非公式な話によれば、文部科学省の官僚の子弟は、ほぼ一〇〇%が、私立の中学校、高
校に通っているというではないか。私はこの話を、技官の一人から聞いて確認している! 「東
京の公立高校へ通っている子どもなど、(文部官僚の子どもの中には)、私の知る限りいませ
んよ」と。

こういった身勝手なことばかりしているから、父母たちは文部科学省の改革(?)に不信感をい
だき、つぎつぎと異論を唱えているのだ。どうしてこんな簡単なことが、わからない!

 教育改革は、まず官僚政治の是正から始めなければならない。旧文部省だけで、いわゆる
天下り先として機能する外郭団体だけでも、一八〇〇団体近くある。この数は、全省庁の中で
もダントツに多い。

文部官僚たちは、こっそりと静かに、こういった団体を渡り歩くことによって、死ぬまで優雅な生
活を送れる。……送っている。そういう特権階級を一方で温存しながら、「ゆとり学習」など考え
るほうがおかしい。

この数年、大卒の就職先人気業種のナンバーワンが、公務員だ。なぜそうなのかというところ
にメスを入れないかぎり、教育改革など、いくらやってもムダ。ああ、私だって、この年齢になっ
てはじめてわかったが、公務員になっておけばよかった! 死ぬまで就職先と、年金が保証さ
れている! ……と、そういう不公平を、日本の親たちはいやというほど、思い知らされてい
る。だから子どもの受験に狂奔する。だから教育改革はいつも失敗する。

 もう一部の、ほんの一部の、中央官僚が、自分たちの権限と管轄にしがみつき、日本を支配
する時代は終わった。教育改革どころか、経済改革も外交も、さらに農政も厚生も、すべてボ
ロボロ。何かをすればするほど、自ら墓穴を掘っていく。

その教育改革にしても、ドイツやカナダ、さらにはアメリカのように自由化すればよい。学校は
自由選択制の単位制度にして、午後はクラブ制にすればよい(ドイツ)。学校も、地方自治体に
カリキュラム、指導方針など任せればよい(アメリカ)。設立も設立条件も自由にすればよい(ア
メリカ)。いくらでも見習うべき見本はあるではないか!

 今、欧米先進国で、国家による教科書の検定制度をもうけている国は、日本だけ。オースト
ラリアにも検定制度はあるが、州政府の委託を受けた民間団体が、その検定をしている。しか
し検定範囲は、露骨な性描写と暴力的表現のみ。歴史については、いっさい、検定してはいけ
ないしくみになっている。

世界の教育は、完全に自由化の流れの中で進んでいる。たとえばアメリカでは、大学入学後
の学部、学科の変更は自由。まったく自由。大学の転籍すら自由。まったく自由。学科はもち
ろんのこと、学部のスクラップ・アンド・ビュルド(創設と廃止)は、日常茶飯事。なのになぜ日本
の文部科学省は、そうした自由化には背を向け、自由化をかくも恐れるのか? あるいは自分
たちの管轄と権限が縮小されることが、そんなにもこわいのか?

 改革をするたびに、あちこちにほころびができる。そこでまた新たな改革を試みる。「改革」と
いうよりも、「ほころびを縫うための自転車操業」というにふさわしい。もうすでに日本の教育は
にっちもさっちもいかないところにきている。このままいけば、あと一〇年を待たずして、その教
育レベルは、アジアでも最低になる。あるいはそれ以前にでも、最低になる。小中学校や高校
の話ではない。大学教育が、だ。

 皮肉なことに、国公立大学でも、理科系の学生はともかくも、文科系の学生は、ほとんど勉強
などしていない。していないことは、もしあなたが大学を出ているなら、一番よく知っている。

その文科系の学生の中でも、もっとも派手に遊びほけているのが、経済学部系の学生と、教
育学部系の学生である。このことも、もしあなたが大学を出ているなら、一番よく知っている。
いわんや私立大学の学生をや!

そういう学生が、小中学校で補習授業とは! 日本では大学生のアルバイトは、ごく日常的な
光景だが、それを見たアメリカの大学生はこう言った。「ぼくたちには考えられない」と。大学制
度そのものも、日本の場合、疲弊している!

 何だかんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を支えている。もしこの日本から受
験制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも崩壊する。確かに一部の
学生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。

内閣府の調査でも、「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、二六%もいる(二〇〇
〇年)。九八年の調査よりも八%もふえた。むべなるかな、である。

 もう補習をするとかしなとかいうレベルの話ではない。日本の教育改革は、三〇年は遅れ
た。しかも今、改革(?)しても、その結果が出るのは、さらに二〇年後。そのころ世界はどこま
で進んでいることやら! 

日本の文部科学省は、いまだに大本営発表よろしく、「日本の教育レベルはそれほど低くはな
い」(※1)と言っているが、そういう話は鵜呑みにしないほうがよい。今では分数の足し算、引
き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。

「小学生レベルの問題で、正解率は五九%」(国立文系大学院生について調査、京都大学西
村和雄氏)(※2)だそうだ。

 あるいはこんなショッキングな報告もある。世界的な標準にもなっている、TOEFL(国際英語
検定試験)で、日本人の成績は、一六五か国中、一五〇位(九九年)。「アジアで日本より成績
が悪い国は、モンゴルぐらい。北朝鮮とブービーを争うレベル」(週刊新潮)だそうだ。

オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本に
は数えるほどしかいない。あの天下の東大でも、たったの一人。ちなみにアメリカだけでも、二
五〇人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い(田丸謙二氏指摘)。

 「構造改革(官僚主導型の政治手法からの脱却)」という言葉がよく聞かれる。しかし今、この
日本でもっとも構造改革が遅れ、もっとも構造改革が求められているのが、文部行政である。
私はその改革について、つぎのように提案する。

(9)中学校、高校では、無学年制の単位履修制度にする。(アメリカ)
(10)中学校、高校では、授業は原則として午前中で終了する。(ドイツ、イタリアなど)
(11)有料だが、低価格の、各種無数のクラブをたちあげる。(ドイツ、カナダ)
(12)クラブ費用の補助。(ドイツ……チャイルドマネー、アメリカ……バウチャ券)
(13)大学入学後の学部変更、学科変更、転籍を自由化する。(欧米各国)
(14)教科書の検定制度の廃止。(各国共通)
(15)官僚主導型の教育体制を是正し、権限を大幅に市町村レベルに委譲する。
(16)学校法人の設立を、許認可制度から、届け出制度にし、自由化をはかる。

 が、何よりも先決させるべき重大な課題は、日本の社会のすみずみにまではびこる、不公平
である。

この日本、公的な保護を受ける人は徹底的に受け、そうでない人は、まったくといってよいほ
ど、受けない。わかりやすく言えば、官僚社会の是正。官僚社会そのものが、不公平社会の温
床になっている。この問題を放置すれば、これらの改革は、すべて水泡に帰す。今の状態で教
育を自由化すれば、一部の受験産業だけがその恩恵をこうむり、またぞろ復活することにな
る。

 ざっと思いついたまま書いたので、細部では議論もあるかと思うが、ここまでしてはじめて「改
革」と言うにふさわしい。

ここにあげた「放課後補習制度」にしても、アメリカでは、すでに教師のインターン制度を導入し
て、私が知るかぎりでも、三〇年以上になる。オーストラリアでは、父母の教育補助制度を導
入して、二〇年以上になる(南オーストラリア州ほか)。

大半の日本人はそういう事実すら知らされていないから、「すごい改革」と思うかもしれないが、
こんな程度では、改革にはならない。少なくとも「改革」とおおげさに言うような改革ではない。

で、ここにあげた(1)〜(8)の改革案にしても、日本人にはまだ夢のような話かもしれないが、
こうした改革をしないかぎり、日本の教育に明日はない。日本に明日はない。なぜなら日本の
将来をつくるのは、今の子どもたちだからである。

(※1)
 国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・一九九九年)の調査によると、日本の中学
生の学力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港についで、第五位。以下、オ
ーストラリア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続くそうだ。理科については、台湾、シンガポー
ルに次いで第三位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメリカ、マレーシア、と。

この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学校課長は、「順位はさがったが、(日本の教育
は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持していると言える」(中日新聞)とコメントを寄せて
いる。東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏が、「今の改革でだいじょうぶというメッセージを与え
るのは問題が残る」と述べていることとは、対照的である。

ちなみに、「数学が好き」と答えた割合は、日本の中学生が最低(四八%)。「理科が好き」と答
えた割合は、韓国についでビリ二であった(韓国五二%、日本五五%)。学校の外で勉強する
学外学習も、韓国に次いでビリ二。一方、その分、前回(九五年)と比べて、テレビやビデオを
見る時間が、二・六時間から三・一時間にふえている。

で、実際にはどうなのか。東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、興味ある調査結果を公表
している。教授が調べた「学力調査の問題例と正答率」によると、つぎのような結果だそうだ。

この二〇年間(一九八二年から二〇〇〇年)だけで、簡単な分数の足し算の正解率は、小学
六年生で、八〇・八%から、六一・七%に低下。分数の割り算は、九〇・七%から六六・五%に
低下。小数の掛け算は、七七・二%から七〇・二%に低下。たしざんと掛け算の混合計算は、
三八・三%から三二・八%に低下。全体として、六八・九%から五七・五%に低下している(同じ
問題で調査)、と。

 いろいろ弁解がましい意見や、文部科学省を擁護した意見、あるいは文部科学省を批判し
た意見などが交錯しているが、日本の子どもたちの学力が低下していることは、もう疑いようが
ない。

同じ澤田教授の調査だが、小学六年生についてみると、「算数が嫌い」と答えた子どもが、二
〇〇〇年度に三〇%を超えた(一九七七年は一三%前後)。反対に「算数が好き」と答えた子
どもは、年々低下し、二〇〇〇年度には三五%弱しかいない。原因はいろいろあるのだろう
が、「日本の教育がこのままでいい」とは、だれも考えていない。

少なくとも、「(日本の教育が)国際的にみてトップクラスを維持していると言える」というのは、も
はや幻想でしかない。

+++++++++++++++++++++

(※2)
 京都大学経済研究所の西村和雄教授(経済計画学)の調査によれば、次のようであったとい
う。

調査は一九九九年と二〇〇〇年の四月に実施。トップレベルの国立五大学で経済学などを研
究する大学院生約一三〇人に、中学、高校レベルの問題を解かせた。結果、二五点満点で平
均は、一六・八五点。同じ問題を、学部の学生にも解かせたが、ある国立大学の文学部一年
生で、二二・九四点。多くの大学の学部生が、大学院生より好成績をとったという。)
(040105改)




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21
●民主主義の原点(The Principle of the democracy?)

++++++++++++++

国あっての民なのか、民あっての
国なのか。

(Should the people be existed before the government?
Or should the government be existed before the people?)

日本では、国あっての民と考える。
しかしそれは民主主義の原点では
ない。

In Japan we think people are existed because the government is existed.
But this is not a common sense of the world.

トーマス・ペインの有名な文章を
紹介する。

Here I introduce Thomas Paine's artcle about the Democracy.

++++++++++++++

Thomas Paine said it best.

"It has been thought," he wrote in The Rights of Man in 1791, "…that government is a 
compact between those who govern and those who are governed; but this cannot be true, 
because it is putting the effect before the cause; for as man must have existed before 
governments existed, there necessarily was a time when governments did not exist, and 
consequently there could originally exist no governors to form such a compact with. The 
fact therefore must be, that the individuals themselves, each in his own personal and 
sovereign right, entered into a compact with each other to produce a government: and this 
is the only mode in which governments have a right to arise, and the only principle on which 
they have a right to exist."

1791年にトーマス・ペインは、「人間憲章」の中で、つぎのように書いている。

「政府(=国)は、統治するものと、統治されるものの協約であると考えられてきた。しかしこれ
は事実のはずはない。なぜなら因果関係が、逆だからである。人間は、政府が存在する前に
すでに存在していた。政府が存在しなかった時代が、必然的にあった。このような協約のある
統治者はもともといなかった。それゆえに、それぞれが不可侵の権利をもった個人そのものが
存在し、それがそれぞれに協約を結び、政府を生み出した。そしてこのようなムードの中で、政
府は立ち上がる権利を擁し、またそれだけが政府が存在する権利をもつところの原則である」
と。

しかしいまだに、「国にあっての民」と考えている人は多い。さらに引き下がって、「家あっての、
家族」と考えている人も多い。ついでに言えば、「親あっての、子」と考えている人も多い。よい
例が、一家心中である。

(In Japan, even still now many people think that we can exist because the government 
existes before people. Similarly at the same time families can exist because the "House" 
exists before the families. And also children can exist because Parents exist before the 
children. Take up "Family Suiside".)

死にたければ親だけが死ねばよい。子どもを巻き添えにするとは、卑怯だ! 子どもには子ど
もの人生がある。命がある。

(Why should children be involved in the Family Suicide in Japan? If you want to kill yourself, 
you only kill yourself. Don't get children be involved in the Family Suicide in any case, since 
children themselves have right to live and life and the right to exisit?)

家族にしても、そうだ。江戸時代という封建時代ならいざ知らず、今どき、「家」のために家族が
犠牲になるなんて、バカげている。さらに言えば、民あっての、国である。それが民主主義の原
点である。

(Also as the the "House", we are not living in the world of feudal age called "Edo-Period" 
and therefore it may be stupid for each member of the families sacrifice for the house. 
Moreover the government can exist because we, the people, exist before the government. 
This is the principle of the democracy.)

それとも日本は、今、この場に及んで、王政復古を成し遂げようとしているのか? 「武士道こ
そ、日本が誇るべき、精神的根幹である」と説く人がいる。そういった内容の本が、100万部
単位で売れている。

(Or are we about to repeat again the Restoration? It is very sad thing to know that more 
people worship the Knight-ship (Samurai soldiers) and their spitits, saying "This is Japan",. 
Millions of books on this are being sold in Japan.)

それはそれで結構なことだが、封建時代の負の側面、負の遺産に目をくれることなく、一方的
に武士道なるものを礼賛するのも、どうか? こうした動きは、むしろ、民主主義の後退を招く
だけ。

(We should pay attention also together on the dark side of the feudal age and its spitits at 
the same time when we worship them. Or it would slow down the pace of Democracy.)

改めて、トーマス・ペインの「人間憲章」を読みなおしてみたい。

(Here again we would like to make sure what Thomas Paine writes in the "The Rights of Man
".
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist Democracy in Japan the 
principle of the democracy Samurai Spirits samurai soldiers)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司


●「国」とは何か?(What is "Kuni"?)

What is "Kuni" in Japanese?
In English "Kuni" is translated into "country", but it doesn't mean "Kuni". It means "Land". 
Also when they say "Patriotism", it means "to love our Father's Land". How about "Nation
"? When they say "Nationalism", it is not at all praised or rather despised because in most 
cases nationalism causes unwanted and cruel wars.

In the orienatal world, "Kuni" means "My land with my people for the Leader". It is one of 
the most difficult word for the western people to understand.

Here again I would like to quote Thomas Paine's "the Rights of Man" to think about the 
democracy.

By the way when I searched my name with Yahoo's search Engine, I found some blogs in 
which they say, "Hiroshi Hayashi is a communist" or, in another blog, "Hiroshi Hayashi did a 
sexual abuse to two girls while he was researching his studies at K. University in Hyogo pref.
" Of course these are lies! I am not a communist or I have never been to K. University 
before for my study.

Why are the people criticized like this in Japan, when we talk about the democracy? Do we 
really want "the Restoration" again? The government can exist because we exisit as 
Thomas Paine said like this "for as man must have existed before governments existed".

Which will you take, "the Government for People" or "People for the Gopvernment"?

We say "Japan is a country of Democracy". But the democracy we know is quite different 
one from the democracy they say in the western world. This is the point.

++++++++++++++++++

英語で、「国」というときは、「Country」と
いう言葉を使う。

しかし「Country」というときは、「領土」を
意味する。

また英語で、「愛国心」というときは、
「Patriotism」という。

しかし「Patriotism」という単語は、「父なる
大地を愛する」というラテン語に由来する。

さらに英語には、日本語で言う「国」に近い
単語として、「Nation」がある。しかしこの
「Nation」に、「Nationalism」と、「-ism」が
つくと、狭小な民族主義を意味するようになる。

「Nationalism」というのは、軽蔑されるべき
ものであって、決して賞賛されるべきものでは
ない。

では、日本を含めて、東洋でいうときの「国」
とは何か。

そこで昨日、トーマス・ペインの「人間憲章」
(The Rights of Man)を取りあげてみた。

「国あっての民なのか」「民あっての国」なのか。

同じ民主主義と言いながら、西洋でいう
民主主義と、東洋(日本を含む)でいう
民主主義には、大きなちがいがある。
日本では、「国あっての民」と、ほとんどの
人たちが考えている。

なおこの「人間憲章」が、1791年という年に
なされていることに注目してほしい。今から、
ほぼ200年以上も前のことである。

+++++++++++++++++++

 驚いたことに、ほんとうに驚いたことに、昨日、「幼児教育家」で検索してみたら、この私が、
共産党員(?)と書いてあるBLOGを発見した。いわく「共産党員とは確認されていないが……
その疑いは、濃厚である」と。

 さらに驚いたことに、この私が、「K大学で、幼児研究をしている際、2人の女児にわいせつ
行為を働いた」※というのもあった。

 これらのBLOGには、コメント欄があったので、私は、即刻、削除するよう書いておいた。

 念のため申し添えるが、私は共産党員ではない。選挙のたびに支持政党が変わるので、自
分では、「浮動票の王様」と呼んでいる。自民党にも、公明党にも、民主党にも票を入れる。率
直に言って、共産党に票を入れることは、めったに、ない。

 K大学での研究中に、2人の女児にわいせつ行為を働いたというのは、事実無根もよいとこ
ろ。だいたいK大学(兵庫県、国立大学)には、一度も行っていない。15年ほど前、その大学
から、講師にならないかという話はあったが、それは、断った。

 その上で、もう一度、考えてみたい。

 どうしてこの日本では、民主主義を訴えると、共産党員ということになるのか? 封建主義を
否定し、王政復古に反対すると、どうして共産党員ということになるのか? 何か、まずいこと
でもあるのか? 

 「民あっての国(Governmnet=政府)」などということは、何も、トーマス・ペインの言葉を引用
するまでもなく、当たり前のことではないか。

 日本でいう民主主義は、西洋でいう民主主義とは、まったく異質のものと考えてよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist democracy nationalism 
patriotism)

(注※)私のHPのいちばん下、(Hiroshi Hayashi)で検索すると、数ページ目に、この問題のBL
OGがある。興味のある人は、読んでみたらよい。プラス、笑ってほしい。





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22
【教育の自由化】

【教育の自由化】

The liberalization of the education is the tide of the world.

OECDが発表した、全世界の子どもの学力調査の結果を、もう一度、見てほしい。それがつぎ
の表である(06年)。

【世界の子どもたちの学力(learning Ability of the youth of the wrorld)】

(読解力)(Reading Ability)

1位  韓国(Korea)
2位  フィンランド(Finland)
3位  香港(Hong-Kong)
……
15位 日本(Japan)

(数学的応用力)(Math Application)

1位  台湾(Twaiwan)
2位  フィンランド(Finland)
3位  香港(Hong-Kong)
……
10位 日本

(科学的応用力)(Science Application)

1位  フィンランド(Finland)
2位  香港(Hong-Kong)
3位  カナダ(Canada)
……
6位  日本(Japan)

++++++++++++++

 この表を見て驚くのは、フィンランドが、どの分野でも、上位1〜2位に入っているということ。

 以下、「imidas」(special版、集英社)の記事を、箇条書きに、まとめさせてもらう。

 フィンランドでは、

(1)経済不況の中で、行政改革法を迫られ、規制緩和の方法を選んだ。
(2)中央政府の権限を小さくした。
(3)ほぼすべての権限を現場に渡すことにした。
(4)こうすることで中間管理のコストをさげた。
(5)教科書検定を廃止した。
(6)学校査察も中止した。
(7)政府は教育水準を維持するための情報を提供した。
(8)学校と地方自治体が、カリキュラムを決め、個々の教師が教育方法を決めている。
(9)16歳までは、他人と比較するテストは、行われていない。
(10)教師の仕事は、正解を教えることではなく、学びを支援することである。
(11)フィンランドの教師たちは授業以外に、ほとんど負担がない。
(12)学級定員は、20人程度。(小学校は16人程度)
(13)社会が勉学条件の格差を埋め、ひとりも落ちこぼれをつくらないという教育体制をとって
いる。(以上、要約)

 つづくつぎの段落には、こうある。そのまま抜粋させてもらう(P147)。

「フィンランドの学習理論は、社会構成主義であると説明されている。子どもが置かれた状況に
応じ、自ら意欲をもち、知り得たことや考えで整理したものが知識であるとみなす。したがって、
教育の仕事は、子どもたちが知識を編成していく方法(メタ知識)を育てることだとみなされてい
る」と。

+++++++++++++

 教育の自由化については、今まで、何度も、かつ繰りかえし書いてきた。たとえばスペインで
は、社会科の授業にしても、教科書のようなものはない。中学校レベルでも、それぞれの子ど
もに、テーマが与えられる。「あなたはフランス革命について調べなさい」「あなたはトラファルガ
ーの海戦について調べなさい」と。

 子どもたちは、1年をかけて、それを勉強し、1年の終わりに、みなの前で発表する。

 またカナダでは、教師は教室内でのことについてはすべての責任を負うが、子どもが教室を
一歩でも離れたら、いっさい、責任をもたなくてもよいしくみが、すでにできている。学校の設立
も、自由化されている。教える言語についても、不問。(アメリカは、言語は英語にかぎられて
いる。)

 アメリカでは、大学生の学部変更、転籍、転学は、自由である。小学校教育については、学
校ごとに、カリキュラムを編成できるようになっている。公立学校であっても、州政府からの、お
おまかなガイダンスがあるのみ。もちろん日本でいうような「教科書」はない。当然のことなが
ら、「教科書検定」もない。

 これが世界の流れであるということを、私は、何度も書いてきた。訴えてきた。どうして日本人
よ、目を覚まさないのか! 明治以来、富国強兵策の中で作られてきた、「もの言わぬ従順な
民づくり」が、教育ではない! またそれを教育と思ってはいけない!

 こうしたおかしさを、フィンランドの教育が、すべて語っている。今までに書いてきた原稿の中
から、いくつかを選んでみる。まず。スペイン在住の、Iさん(日本人)からのメールを紹介する。
このメールでは、それぞれの子どもがテーマを与えられ、それについて学習している点に、注
目してほしい。

+++++++++++

【スペイン在住のIさんより】

+++++++++++++++++++++

スペイン在住のIさんより、こんなメールが届きました。

転載許可をいただけましたので、紹介し
ます。

++++++++++++++++++++++

皆様 お元気ですか。

久しくご無沙汰しています。筆不精で、最近、メールを出していないので、

近況報告方々、メールを書いています。

Y子(娘)はYear 8(中学2年レベル)がもうすぐ終わりで、

期末試験の勉強に追われています。

科目別ですと、historyではフランス革命を勉強しています。日本語でも

難しいテーマを、英語で勉強するのですから、本人も大変です。

Englishはシェークスピアと日本でも話題になったHoles(日本名:穴)

が教科書で、毎日、宿題が結構出るので、日本の通信教育のワークまでなかなか手が回

らないので、日本に戻った時、苦労しそうです。

Y子は最近、コンピューターのマイクロソフトのメッセンジャーで友達と毎日、

チャット(英語、スペイン語、その略語が氾濫していて、

ちょっと大人には解読不能)をするのが日課でかなり、はまっています。

私は友達になったスペイン語の先生と油絵を描きながら、スペイン語を

習っています。

最近(2週間前)、ポール・マッカートニーのコンサートが近くのサッカー場で

あり、家族3人で行ってきました。久しぶりのロック・コンサートで、

盛りあがりました。幸代には初めてのロック・コンサートでしたが、クラスの友達も

大勢、見に来ていました。

ウィングス時代のJetで始まり、半分くらいはビートルズ時代の歌で、

Long and winding road や Hey.Judeなど、感激しました。

コンサートはいわゆるスペイン時間で、始まったのが夜の10時15分で終わったの

は夜中の1時過ぎでした。これはスペインでは普通です。

スペインはとにかく、日本に比べ、2〜3時間くらいすべて遅いのです。

今では我が家の夕飯もいつも9時から9時30分くらいです。

郷に入れば、郷に従えです。

早いもので、スペインに来て、もうすぐ3年になります。

6月末で幸代の学校が夏休みに入りますので、私と幸代は7月の中旬に日本に

一時帰国する予定です。

いろいろ予定があるので、会えるかどうか、わかりませんが、

時間があれば、お会いしましょう。

皆様の近況も、メールで教えてくださいね。

ではまた。


+++++++++++++++++

つぎの原稿は、日本人がもつ常識、
とくに教育にもつ常識について
批判的に書いたものです。

+++++++++++++++++

【常識が偏見になるとき】 

●たまにはずる休みを……!

「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいてい
の人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこ
そ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。

アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもっ
た偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たと
えば……。

●日本の常識は世界の非常識

★学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親が
教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州
政府が家庭教師を派遣してくれる。

日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも
九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人を超えた。毎年一五%前後の割合で
ふえ、二〇〇一年度末には二〇〇万人に達するだろうと言われている。

それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は
家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開い
たり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、
こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。

★おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ通
う。早い子どもは午後一時に、遅い子どもでも三時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単位
(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。

そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは
学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が一二〇〇円前後(二〇〇一年
調べ)。こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども一人当たり、二三〇マルク(日
本円で約一四〇〇〇円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職
するまで、最長二七歳まで支払われる。

 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性
に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対
する世間の評価はまだ低い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をも
つが、それ以外には責任をもたない」という制度が徹底している。

そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、親が
先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクーバー市日本文
化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。「そういうときは、まず親が学校に電話を
します。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話がかかってきます」と。

★進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中
高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で七〇校近くあった。が、私はそれを見て驚い
た。どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、は
さんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。この話をオーストラリアの友人に
話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そこで私が、では、オーストラリアで
はどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子
も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子ども
は、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。なおそのグラマースクー
ルには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同時にその足で学校へ行
き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。

●そこはまさに『マトリックス』の世界

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことで
も、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身
の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあ
るべきか。さらには子育てとは何か、と。

その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、「私
はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を信仰してい
る。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世
界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかない
まま、仮想の価値に振り回されている……。

●解放感は最高!

 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと
動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に
行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育して
いるのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよ
い。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。

※……一週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後
三時まで学校で勉強し、火曜日は午後一時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めるこ
とができる。

●「自由に学ぶ」

「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」を
引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。

 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて
よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。
それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政
治を行うための手段として用いられてきている」と。

 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社
会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を
破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。

いわく、「民主主義国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始
まっているではないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるというこ
とを忘れてはならない」と。

 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に
は、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率は
むしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくな
い。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所シス
テムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべき
ではないのか」と(以上、要約)。

 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえてい
る。なお二〇〇〇年度に、小中学校での不登校児は、一三万四〇〇〇人を超えた。中学生で
は、三八人に一人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、四〇〇〇人多い。
 
++++++++++++++++

 制度を変えるためには、意識を変えなければならない。ところが教育というのは、なかんずく
教育観というのは、親から子へと、代々と引き継がれるという要素が強い。そこでその意識を
変えるためには、その意識を見直すという作業が必要となる。

 そのもっとも簡単な方法は、日本という国を、一度、外からながめてみること。すると、そのお
かしさが、よくわかる。

 フィンランドの教育法にも、いろいろな問題点があると聞いている。しかし教育の自由かは、
もう世界の流れ。この(流れ)を止めることは、だれにもできない!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 教育の自由化 自由化 自由な
教育 フィンランド 教育自由化論)


++++++++++++++

(付記)

●世界の子どもたちの学力(learning Ability of the youth of the wrorld)

(読解力)(Reading Ability)

1位  韓国(Korea)
2位  フィンランド(Finland)
3位  香港(Hong-Kong)
……
15位 日本(Japan)

(数学的応用力)(Math Application)

1位  台湾(Twaiwan)
2位  フィンランド(Finland)
3位  香港(Hong-Kong)
……
10位 日本

(科学的応用力)(Science Application)

1位  フィンランド(Finland)
2位  香港(Hong-Kong)
3位  カナダ(Canada)
……
6位  日本(Japan)

++++++++++++++

 この結果を、小学5年生の子どもたち(6人)に話してみた。子どもたちは、読書について話し
始めた。

I talked about this result to some six kids of Grade 5th of school. They started talking about 
themselves.

 驚いたことに、その中の2人が、1年に、300冊近くも本を読んでいることを知った。300冊と
いえば、1日に、ほぼ1冊ということになる。

With my surprise I know two of them are reading 300 books per year. Almost one book a day!

 「どうしてそんなにたくさん読むの?」と聞いたら、「学校で、読書競争があるから」と。中に1
人、親から、読書時間を制限されている子どもがいることもわかった。その子どもは、1日に、
1時間までと決められているそうだ。

I asked them why you read so many books a year and one of them told me that there is a 
class-competition of reading. Moreover I was surprised to know that one of them is limitied 
to read books less than an hour a day!

 読書は、あらゆる学力の基本である。社会科にしても、理科にしても、読書が基本。とくに小
学生のばあい、社会科は、社会科的な国語、理科は、理科的な国語と理解するとよい。

Reading is essential and we say in Japanese "reading is the pillar of education". As for 
socioloy and scienace, they are only parts of reading.

 が、それだけではない。

But it is not all.

 読書を日常的にしている子どもには、ある種、独特の(深み)がある。沈思黙考タイプという
か、目つきが、いつも静かに落ち着いている。理知的というか、じっと周囲の様子を観察してい
るといった雰囲気がある。

Those kids who read books in their daily life look different from those who do not. Those kids 
who read more books have a kind of a very special mood and they give us an impression of 
deep-thinking. They are more logical and even when we do our conversation, they always 
try to observe things around them.

 読書がいかに大切かは、今さら言うまでもない。欧米では、読書(reading)を、教育の柱にし
ている。学校教育は、読書に始まり、読書に終わると言っても過言ではない。

It is no use to say that reading is so important. In western world, reading is one of the most 
important subject to learn. School education starts from reading and it is everything.

 一方、読書をまったくと言ってよいほど、しない子どももいる。このタイプの子どもは、どこか、
軽い。中身がない。バラエティ番組の中のタレント風といった感じ。ものの考え方が、表面的。
直感的。よくしゃべる。小学5、6年生になると、その差がはっきりとしてくる。

On the contrary there are some who do not read books at all. This type of kids also have a 
kind of special mood. They are "light" in thinking and we feel no deepness in their thoughts 
just like TV talents of cheap varaiety programs. They talk a lot. The difference comes clear 
when they are about the age of thre grade 5th.

 さらに日常的に作文をしている子どもは、ものの考え方が論理的。言葉の使い方そのもの
が、ちがう。読書、作文は、子どもの教育の(要=かなめ)と考える。

And also there are some who write things in their daily life. They are more logical and when 
they talk they use more proper words to express themselves. Reading and writing are the "
pillar" of education, I am quite sure.
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist reading writing learning ability 
of the Japanese students)






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