書庫35480
はやし浩司
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●幼稚園

 「幼児教育」というと、「幼稚教育」と考えている人は、多い。実は、幼稚園や保育園の現場に
いる先生の中にも、そう考えている人が多い。「幼児教育なんて、だれにでもできる」と。

 しかしこれは、まちがい。大きな、まちがい。

 幼児教育は、大学教育より、奥が深い。それに重要。決して、安易に考えてはいけない。つ
まり、それなりの覚悟と、専門知識が必要である。

 昨日、兵庫県に住んでいるSNさん(母親)から、こんなメールをもらった。

++++++++++++++++

今年の春、A幼稚園から、今のB幼稚園に移りました。
現在、うちの子は、年中児です。

そのB幼稚園の先生から、毎日のように電話がかかってきました。

「お宅の子は、静かに座って、私(=先生)の話が聞けない。家でもしっかりと、しつけてほしい」
と、です。

うちの子が左利きであることについても、「親のあなたが、だらしないから、こうなった」と言われ
ました。

その先生は、年齢は、三八歳。独身です。「私は幼稚園と結婚した」を、口グセにしているよう
な先生です。

前のA幼稚園では、そんなことはなかったので、困っています。

で、子どもに話を聞くと、「となりの子どもが、スプーンを落としたので、拾ってあげた。それを見
ていて、先生が、『どうしてちゃんと座っていられないの!』と、ぼくを叱った」と、言います。子ど
もの言い分を、先生が、まったく聞いていないような気がします。

夏休みが終わってから、うちの子が幼稚園へ行くのをいやがるようになりました。
理由を聞くと、「給食を食べるのがいやだ」と。

そこで先生に相談すると、「お宅の子は、給食をいつまでもノロノロと食べています。それで全
部、食べ終わるまで、ひとりで食べさせています」とのこと。

先生は、「本人のため」ということを、さかんに言いますが、うちでは、好き嫌いもなく、ふつうに
食事をしています。

で、ときどき休むようになったのですが、その先生から、多いときで、一日に、三回ほど、電話
がかかってきます。

「こんなことでは、小学校へ入ってから不登校児になる」と、です。「落ちこぼれになってしまう」
「ダメ人間になってしまう」「このままでは、みんなから、おくれてしまう」と、おどされたこともあり
ます。

で、最近、こんなことがありました。

となりの席の子どもの誕生日プレゼントにと、うちの子が、コンビニで買った小さな人形を、紙
に包んで幼稚園へもっていきました。手紙も添えました。しかしそれを先生が目ざとく見つけ
て、取りあげてしまったのです。

うちの子が泣きながら、「返してほしい」と訴えると、「あんたは、この幼稚園の規則を知らない
の。おもちゃは、もってきてはダメということになっているのよ」と。私にも、「ちゃんと、幼稚園の
規則を守らせてほしい」というような電話が、かかってきました。

幼稚園の先生は、「このままでは、不登校児になる」と、さかんに言っていますが、そうなったと
しても、その原因は、その先生自身にあるような気がします。

また、私が、C幼稚園へ、幼稚園をかえたいと話しているのを、ほかの親から聞いたらしく、「C
幼稚園へは、入園できないようにしてやる。幼稚園協会のほうで、そういう勝手なことは、でき
ないしくみになっている」と、その親に言ったそうです。

園長にも相談しようと思ったのですが、園長は、ほとんど幼稚園にはいません。幼稚園にいる
時間より、銀行にいる時間のほうが、長いとうわさされるような人です。経営第一主義で、いつ
もスリーピースのスーツを着ています。

こういうときは、どうしたらいいでしょうか。このところ、夜も眠られない状態がつづいています。
何か、いいアドバイスをよろしくお願いします。

++++++++++++++++

 いまどき、こういう幼稚園教師がいること自体、驚きである。頭の中に、「幼稚園児はこうある
べきだ」という設計図をもっている。そしてその設計図に、幼児を、無理に、当てはめようとす
る。

 幼稚園とは、行かねばならないところ。
 その幼稚園へ行けない子どもは、落ちこぼれ。
 幼児教育は、小学校へ入学するために、するもの、と。

 実は、幼児教育で、いちばん避けなければならないのは、こういう設計図である。それなりの
学識や経験のある教師が、ハバ広い世界で考えた設計図なら、よい。しかしその学識や知識
もないまま、そして幼児の心理を無視したまま、独断と偏見を、親や子どもに、押しつけてしま
う。

 私が幼児教育の世界に入ったとき、一番、驚いたのは、まさにこの点である。はっきり言え
ば、あまりのレベルの低さに、驚いた!

 「目は、黒ですよ! 髪の毛も、黒ですよ! お顔は、肌色で塗ってね」と教えていた教師が
いた。

 「あの親は、(子どものことで)、私にさんざん、苦労をさせておきながら、盆のつけ届け一つ
よこさない」と、職員室で、大声で怒っていた教師がいた。

 自閉傾向がある子どもを、「根気があるいい子」と、ほめていた教師がいた。

 私に「先生、ハツゴ(発語)障害って、何かねえ?」と、持ち前のダミ声で、質問してきた教師
がいた。その先生は、「ハツゴ」のことを、「初子(=はじめての子ども)」と、誤解していた。

 分離不安で泣き叫ぶ子どもの親に向かって、「親が甘やかして育てると、子どもはそうなる」
と、叱っていた教師がいた。その教師は、園児が一日でも、幼稚園を休むと、「おくれるから、
泣いても、幼稚園でつれてくるように」と、いつも電話ばかりしていた。

 小学校の入試が近づいてきたとき、子どもに「私は合格します」と、何度も、復唱させていた
教師がいた。

 従順で、仮面をかぶったような、おとなしい子どもほど、「できのいい子」とほめていた教師が
いた。

 ガンガンと、低俗な音楽(?)をかけながら、「音楽鑑賞」と、いばっていた教師がいた、など。

 教師だけではない。園長自身も、「?」の人がいた。ある幼稚園の園長は、おかしな宗教を信
じていて、「動物を飼うと、火事になるからダメ」「今年は、東南の方向に住む人から、先生を雇
う」「ハ行で始まる名前の子どもは、できが悪い」などと、平気で口にしていた。

 しかしそれから三五年。本当に幼児教育のレベルは、あがったのか? 改善されたのか? 
教師の質は、向上したのか?

 もちろん研究に熱心な幼稚園や、園長も多い。しかしその一方で、いまだに、このSNさんの
子どもが通っているような幼稚園も、あるには、ある。少なくなったとはいえ、ないわけではな
い。

【SNさんへ……】

 無理をして、同じ幼稚園にいることはありません。そういう幼稚園からは、早く、去ることで
す。

 幼児教育は、その子どもの一生を左右するほど、重要なものです。あなたがひとり、がんば
ったくらいで、その先生の指導方法が変わるとは、思われません。だったら、去ることです。

 とても残念ですが、今、その先生と、あなたの子どもの相性は、最悪の状態と思われます。あ
なたの子どもは、何かを学ぶ前に、あなたの子どもは、学ぶことからさえ、逃げてしまうように
なるかもしれません。そうなれば、それこそ、大失敗というものです。

 私は、幼稚園という場で、かえって伸びる芽をつまれてしまった子どもを、数多く見てきていま
す。ほとんどの親は、「伸びる」ことを考えて幼稚園へ、子どもを送りますが、かえって逆効果に
なる子どもも、いるということです。園や園長の方針が、いくら崇高なものであっても、子どもに
直接影響を与えるのは、現場の先生です。

 ここでいう不登校児にしても、先生が原因と思われるケースも、私は直接、見てきました。ま
た幼児教育をしている先生が、みな、子どもが好きな先生ばかりとは、限りません。よい先生
ばかりとは、限りません。先生自身が、その意識がないまま、子どもを不登校児に追い込んで
いるケースは、いくらでもあります。

 こうしたケースでは、直接、園長に訴えるという方法もありますが、現実問題として、園長の目
は、現場まで届かないのが、ふつうです。

 こういう言い方は、女性のあなたにはたいへん失礼な言い方になるかもしれませんが、そこ
はどうしても、「女の世界」です。一般の世界とは、かなり違った世界だということです。そう言え
ば、わかっていただけると思いますが……。

私も、ちょっとしたことが原因で、実に陰湿きわまりない、いやがらせや、いじめを、同僚の教
師たちから受けたことが、たびたびありました。私という、おとなにならともかく、そうした行為
を、幼稚園児に繰りかえしていた教師もいました。

 幼稚園の教師というと、高邁な人格者を想像しがちですが、中には、そうでない人もいるとい
うことです。残念ですが、率直に言って、これは事実です。

 だったら、サービスの悪いレストランをかえるように、値段の高いデパートをかえるように、幼
稚園も、かえればよいのです。「教育機関」という幻想に、しばられる理由など、どこにもありま
せん。おかしな義理にしばられる必要も、ありません。

 また、幼稚園どうしの連絡網は、ほとんど、ありません。(とくに私立幼稚園どうしの連絡網
は、ありません。うわべはともかくも、幼稚園どうしは、たいへん仲が悪いのがふつうです。)だ
から、そのB幼稚園をやめたからといって、B幼稚園から、つぎのC幼稚園へ連絡が入るという
ことは、ありません。……ありえません。またそのあと、小学校の入学に、何か、さしさわりがあ
るということも、絶対に、ありません。……ありえません。

 いやですね、こういうおどしは……。

 幼児教育は、親がします。親が主体です。この姿勢だけは、しっかりと守ってください。その
上での、幼児教育であり、幼稚園なのです。「家庭で、できないことは、幼稚園でしてもらう。し
かし家庭でできることは、家庭でする」という姿勢です。

 いわんや、SNさんのように、子どもに、マイナスの面が見られるようになったら、無理をして
行かせる理由など、まったくありません。病院へ行って、かえって新しい病気をもらってくるよう
なものです。もっと、親として、主体的に行動してみたら、どうでしょうか。

 この時期の子どもは、まだ、人間関係をうまく調整することはできません。ですから先生と子
どもの相性が悪いと感じたら、思いきって、子どもをその先生から遠ざけます。それは子どもの
心を守るために、むしろ必要な行為と考えてください。

 もちろんだからといって、幼稚園での幼児教育を、否定しているのではありません。ここにも
書いたように、「家庭ではできないこと」、たとえば集団における、集団活動や、社会性などは、
幼稚園という場を通して、子どもは、身につけます。

 しかし本来の役目は、より専門的な幼児教育を実践することです。それについては、私も何
度も書いてきましたので、ここでは省略しますが、中には、そういう意識のない先生も、いると
いうことです。

 あなたには信じられないような話かもしれませんが、一つ、こんな事実を、暴露しましょう。数
年前、その先生はなくなりましたので……。

 私が幼児教育の世界に入ったとき、私は知らなかったのですが、裏で、私を推薦してくれた
女の先生(当時、四五歳くらい)がいました。当時の園長に、「林先生は、いい先生だ」と言って
くれたのです。

 それについては、たいへん感謝していますが、そのあと、何かにつけて、その先生は、私に
恩を売りつけ、金品を、要求してきました。

 私がその先生のうちに、遊び呼ばれたときのことです。「あんたね、だれのおかげで、今、先
生していられると思うの? それなりのちゃんとしたものをもって、礼に来るべきよ」と。

そのときは何だろうと思って、そのまま終わりましたが、あとで別の先生に、「それなりのも
の?」と、聞くと、その先生は、こう教えてくれました。「一〇万円※が、相場でしょうねえ」と。

 そういう世界です。信じられますか? 

 一方、こうした教師の指導に、頭を悩ませている園長(経営者)も、多いです。本当に多いで
す。どこの幼稚園でも、そうではないでしょうか。

 実に不愉快な話をしましたが、一つの参考意見として、このメールを、お考えください。もちろ
ん、そうでない先生も、それ以上にたくさん、います。そうでない幼稚園も、それ以上に、たくさ
ん、あります。そういう先生がいることを信じて、C幼稚園へ移動なさることを、私は、お勧めし
ます。
(031031)

※……この時代、市議会議員などに何か相談するにしても、一〇万円という謝礼が相場でし
た。学校区の変更、転校の手続きなど。同じように、就職の口利き代も、一〇万円というのが、
相場でした。

幼稚園の教師というのは、縁故採用が多かったので、こういう口利きが、日常的になされてい
たようです。たった三五年前ですが、日本はまだ、そういう時代だったのですね。




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●子どもの情緒不安

静岡県Y市の、YNさん(母親)から、子どもの情緒不安についての相談をもらった。よく誤解さ
れるが、情緒が不安定だから、情緒不安というのではない。心の緊張感がとれない状態を、情
緒不安という。

心が緊張しているときに、不安や心配が入り込むと、その不安や緊張を解消しようと、子ども
の心は、一挙に不安定になる。情緒が不安定になるのは、あくまでも、その結果でしかない。

だから子どもが情緒不安症状を示したら、何が、どう作用し、そしてなぜ、心が緊張状態になる
かを、知る。たいていは、愛情問題がからんでいるとみるが、恐怖症、神経症など、何かの大
きなショックが原因で、心が緊張状態になることもある。

++++++++++++++++

こんにちは。五歳の娘についての相談です。

今年四月に年中で家の目の前にある幼稚園に入園し、二か月ほどは楽しそうに通っていて、
新しい友達もしょっちゅう家に誘うなどして、順調にみえました。

が、ある日いつものように園まで送ると、先生を見たとたん泣き出し、「帰る」と、おお泣きし、そ
の日から園内ではすごく情緒不安定になり、先生の話によれば、なんでもないのに泣き出した
り、人がわ〜っと集まると泣き出し、一日中先生と手をつないでいて、給食も自分の席では座
れず、先生のそばにいないと、不安で不安でしょうがないようです。  

娘に理由を聞くと、イロイロ言うのですが、「誰々が怖いから」「牛乳が飲めないから」「折り紙が
できないから」と、聞くたびに理由が変わります。

毎日、幼稚園行きたくないとか、やめるとか言っていたのですが、無理をして連れて行っていま
した。
 
一度体育参観で様子を見たときは、ショックでした。まず、顔つきがいつもと全く違うのです。

終始オドオドした目つきで、先生と少し手が離れだけで、明らかにビクビクした目つきになり、
泣きはらした真っ赤な目で、その場にいるだけで必死な様子でした。
 
娘は不器用なほうだし、遊具で遊ぶのも(鉄棒など)苦手なのですが、今までは、少し、できた
だけで、親が褒めていたので、娘は多分幼稚園に入るまで、自分が周りに比べて、何でも出来
るほうだと思っていたと思うのですが、それが違うと分かり、イヤになってしまったのかな?、と
も思いました。

夏休みの間に、鉄棒で前周りができるようになり、二学期はそれをきっかけに幼稚園の鉄棒を
楽しみに、通っていたのですが、一〇月中気管支炎になり、何日か休んだのを多分きっかけと
して、また不安定になってきました。

朝行く時は大丈夫だけど、園について、私と別れる頃になると泣き出し、クラスの子に誘われ
ても返事もできず、ひきつった顔をしています。

ここ何日かは、また行きたくないと言い出しました。
 
一度夏休み明けに、心配していたのに、損したな〜と思ってしまうほど、あっさり幼稚園でくつ
ろいだ様子で通えていたので、一学期の時のように「ガンバレガンバレ」と無理に通わせたほう
がいいのか、無理させずしばらく気のすむまで休ませた方がいいのか、悩んでいます。
 
はやし先生のページを読んで思い当たったのですが、幼稚園に入るか入らないか……という
時期から、昼寝をしたがらなくなり、理由を聞くと「怖い夢をみるから」というのです。最近も言い
ます。悪夢を見ているということですよね? 寝ている時まで不安な気持ちなのでしょうか?
 
二歳半の弟がいます。私にべったりで、上の娘を抱っこしてなだめていると、怒って割り込んで
きます。上の娘は体が学年で一番大きく重いので、つい背中に乗られると、「重いからやめて」
と言ってしまったり、聞き分けがいいので、何でも我慢させてしまっていたのかもしれないと、後
悔することが、たくさんあります。
 
でも私は、娘のこれからの事を前向きに、どうしたら娘にとって一番いいのかを考えたいので
す。きびしく具体的なアドバイスをお願いします!

++++++++++++++++++

まず、子どもの情緒不安について、以前、
書いた原稿(発表済み)を、参考にしてほしい。

(1)情緒不安
(2)欲求不満
(3)分離不安
(4)基底不安

++++++++++++++++++

(1)子どもの心が不安定になるとき 

●情緒が不安定な子ども

 子どもの成長は、次の四つをみる。@精神の完成度、A情緒の安定度、B知育の発達度、
それにC運動能力。このうち情緒の安定度は、子どもが肉体的に疲れていると思われるとき
をみて、判断する。運動会や遠足のあと、など。

そういうときでも、ぐずり、ふさぎ込み、不機嫌、無口(以上、マイナス型)、あるいは、暴言、暴
力、イライラ、激怒(以上、プラス型)がなければ、情緒が安定した子どもとみる。子どもは、肉
体的に疲れたときは、「疲れた」とは言わない。「眠い」と言う。子どもが「疲れた」というときは、
神経的な疲れを疑う。子どもはこの神経的な疲れにたいへん弱い。それこそ日中、五〜一〇
分、神経をつかっただけで、ヘトヘトに疲れてしまう。

●情緒不安とは……?

 外部の刺激に左右され、そのたびに精神的に動揺することを情緒不安という。二〜四歳の
第一反抗期、思春期の第二反抗期に、とくに子どもは動揺しやすくなる。

 その情緒が不安定な子どもは、神経がたえず緊張状態にあることが知られている。気を許さ
ない、気を抜かない、周囲に気をつかう、他人の目を気にする、よい子ぶるなど。その緊張状
態の中に、不安が入り込むと、その不安を解消しようと、一挙に緊張感が高まり、情緒が不安
定になる。

症状が進むと、周囲に溶け込めず、引きこもったり、怠学、不登校を起こしたり(マイナス型)、
反対に攻撃的、暴力的になり、突発的に興奮して暴れたりする(プラス型)。

表情にだまされてはいけない。柔和な表情をしながら、不安定な子どもはいくらでもいる。この
タイプの子どもは、ささいなことがきっかけで、激変する。母親が、「ピアノのレッスンをしよう
ね」と言っただけで、激怒し、母親に包丁を投げつけた子ども(年長女児)がいた。また集団的
な非行行動をとったり、慢性的な下痢、腹痛、体の不調を訴えることもある。

●原因の多くは異常な体験

 原因としては、乳幼児期の何らかの異常な体験が引き金になることが多い。たとえば親自身
の情緒不安のほか、親の放任的態度、無教養で無責任な子育て、神経質な子育て、家庭騒
動、家庭不和、何らかの恐怖体験など。

ある子ども(五歳男児)は、たった一度だが、祖父にはげしく叱られたのが原因で、自閉傾向
(人と心が通い合わない状態)を示すようになった。また別の子ども(三歳男児)は、母親が入
院している間、祖母に預けられたことが原因で、分離不安(親の姿が見えないと混乱状態にな
る)になってしまった。

 ふつう子どもの情緒不安は、神経症による症状をともなうことが多い。ここにあげた体の不調
のほか、たとえば夜驚、夢中遊行、かん黙、自閉、吃音(どもり)、髪いじり、指しゃぶり、チッ
ク、爪かみ、物かみ、疑惑症(臭いかぎ、手洗いぐせ)、かみつき、歯ぎしり、強迫傾向、潔癖
症、嫌悪症、対人恐怖症、虚言、収集癖、無関心、無感動、緩慢行動、夜尿症、頻尿症など。

●原因は、家庭に!

 子どもの情緒が不安定になると、たいていの親は原因さがしを、外の世界に求める。しかし
まず反省すべきは、家庭である。

強度の過干渉(子どもにガミガミと押しつける)、過関心(子どもの側からみて神経質で、気が
抜けない環境)、家庭不和(不安定な家庭環境、愛情不足、家庭崩壊、暴力、虐待)、威圧的
な家庭環境など。夫婦喧嘩もある一定のワク内でなされているなら、子どもにはそれほど大き
な影響を与えない。が、そのワクを越えると、大きな影響を与える。子どもは愛情の変化には、
とくに敏感に反応する。

 子どもが小学生になったら、家庭は、「体を休め、疲れた心をいやす、いこいの場」でなけれ
ばならない。アメリカの随筆家のソロー(一八一七〜六二)も、『ビロードのクッションの上より、
カボチャの頭』と書いている。

人というのは、高価なビロードのクッションの上に座るよりも、カボチャの頭の上に座ったほう
が気が休まるという意味だが、多くの母親にはそれがわからない。わからないまま、家庭を「し
つけの場」と位置づける。学校という「しごきの場」で、いいかげん疲れてきた子どもに対して、
家の中でも「勉強しなさい」と子どもを追いまくる。「宿題は終わったの」「テストは何点だった
の」「こんなことでは、いい高校へ入れない」と。これでは子どもの心は休まらない。

●子どもの情緒を安定させるために

 子どもの情緒が不安定になったら、スキンシップをより濃厚にし、温かい語りかけを大切にす
る。叱ったり、冷たく突き放すのは、かえって情緒を不安定にする。一番よい方法は、子どもが
ひとりで誰にも干渉されず、のんびりとくつろげるような時間と場所をもてるようにすること。親
があれこれ気をつかうのは、かえって逆効果。

 ほかにカルシウムやマグネシウム分の多い食生活に心がける。とくにカルシウムは天然の
精神安定剤と呼ばれている。戦前までは、日本では精神安定剤として使われていた。錠剤で
与えるという方法もあるが、牛乳や煮干など、食品として与えるほうがよいことは言うまでもな
い。

なお情緒というのは一度不安定になると、その症状は数か月から数年単位で推移する。親が
あせって何とかしようと思えば思うほど、ふつう子どもの情緒は不安定になる。また一度不安
定になった心は、そんなに簡単にはなおらない。今の状態をより悪くしないことだけを考えなが
ら、子どものリズムに合わせた生活に心がける。

 (参考)

●子どもの神経症について
心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、神経症という。子どもの
神経症は、精神面、身体面、行動面の三つの分野に分けて考える。

@精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状
(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、不安症状(理由もなく悩
む)、抑うつ感(ふさぎ込む)など。混乱してわけのわからないことを言ってグズグズしたり、反
対に大声をあげて、突発的に叫んだり、暴れたりすることもある。

A身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、
頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発
熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面で
の神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号とと
らえて警戒する。

B行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面
に表れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無
関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。パンツ一枚で出
歩くなど、生活習慣がだらしなくなることもある。

++++++++++++++++++

(2)子どもが欲求不満になるとき

●欲求不満の三タイプ

 子どもは自分の欲求が満たされないと、欲求不満を起こす。この欲求不満に対する反応は、
ふつう、次の三つに分けて考える。

@攻撃・暴力タイプ

 欲求不満やストレスが、日常的にたまると、子どもは攻撃的になる。心はいつも緊張状態に
あり、ささいなことでカッとなって、暴れたり叫んだりする。私が「このグラフは正確でないから、
かきなおしてほしい」と話しかけただけで、ギャーと叫んで私に飛びかかってきた小学生(小四
男児)がいた。

あるいは私が、「今日は元気?」と声をかけて肩をたたいた瞬間、「このヘンタイ野郎!」と私を
足げりにした女の子(小五)もいた。こうした攻撃性は、表に出るタイプ(喧嘩する、暴力を振る
う、暴言を吐く)と、裏に隠れてするタイプ(弱い者をいじめる、動物を虐待する)に分けて考え
る。

A退行・依存タイプ

 ぐずったり、赤ちゃんぽくなったり(退行性)、あるいは誰かに依存しようとする(依存性)。こ
のタイプの子どもは、理由もなくグズグズしたり、甘えたりする。母親がそれを叱れば叱るほ
ど、症状が悪化するのが特徴で、そのため親が子どもをもてあますケースが多い。

B固着・執着タイプ

 ある特定の「物」にこだわったり(固着性)、あるいはささいなことを気にして、悶々と悩んだり
する(執着性)。ある男の子(年長児)は、毛布の切れ端をいつも大切に持ち歩いていた。最近
多く見られるのが、おとなになりたがらない子どもたち。赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりを起
こす。

ある男の子(小五)は、幼児期に読んでいたマンガの本をボロボロになっても、まだ大切そうに
カバンの中に入れていた。そこで私が、「これは何?」と声をかけると、その子どもはこう言っ
た。「どうチェ、読んでは、ダメだというんでチョ。読んでは、ダメだというんでチョ」と。子どもの
未来を日常的におどしたり、上の兄や姉のはげしい受験勉強を見て育ったりすると、子どもは
幼児がえりを起こしやすくなる。

 またある特定のものに依存するのは、心にたまった欲求不満をまぎらわすためにする行為と
考えるとわかりやすい。これを代償行為というが、よく知られている代償行為に、指しゃぶり、
爪かみ、髪いじりなどがある。別のところで何らかの快感を覚えることで、自分の欲求不満を
解消しようとする。

●欲求不満は愛情不足

 子どもがこうした欲求不満症状を示したら、まず親子の愛情問題を疑ってみる。子どもという
のは、親や家族の絶対的な愛情の中で、心をはぐくむ。ここでいう「絶対的」というのは、「疑い
をいだかない」という意味。

その愛情に「ゆらぎ」を感じたとき、子どもの心は不安定になる。ある子ども(小一男児)はそれ
までは両親の間で、川の字になって寝ていた。が、小学校に入ったということで、別の部屋で寝
るようになった。とたん、ここでいう欲求不満症状を示した。その子どものケースでは、目つき
が鋭くなるなどの、いわゆるツッパリ症状が出てきた。

子どもなりに、親の愛がどこかでゆらいだのを感じたのかもしれない。母親は「そんなことで…
…」と言ったが、再び川の字になって寝るようになったら、症状はウソのように消えた。

●濃厚なスキンシップが有効

 一般的には、子どもの欲求不満には、スキンシップが、たいへん効果的である。ぐずったり、
わけのわからないことをネチネチと言いだしたら、思いきって子どもを抱いてみる。最初は抵抗
するような様子を見せるかもしれないが、やがて静かに落ちつく。あとはカルシウム分、マグネ
シウム分の多い食生活に心がける。

 なおスキンシップについてだが、日本人は、国際的な基準からしても、そのスキンシップその
ものの量が、たいへん少ない。欧米人のばあいは、親子でも日常的にベタベタしている。よく
「子どもを抱くと、子どもに抱きグセがつかないか?」と心配する人がいるが、日本人のばあ
い、その心配はまずない。

そのスキンシップには、不思議な力がある。魔法の力といってもよい。子どもの欲求不満症状
が見られたら、スキンシップを濃厚にしてみる。それでたいていの問題は解決する。

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(3)子どもが分離不安になるとき

●親子のきずなに感動した!?     

 ある女性週刊誌の子育てコラム欄に、こんな手記が載っていた。日本でもよく知られたコラム
ニストの書いたものだが、いわく、「うちの娘(三歳)をはじめて幼稚園へ連れていったときのこ
と。娘ははげしく泣きじゃくり、私との別れに抵抗した。私はそれを見て、親子の絆の深さに感
動した」と。

そのコラムニストは、ワーワーと泣き叫ぶ子どもを見て、「親子の絆の深さ」に感動したと言うの
だ。とんでもない! ほかにもあれこれ症状が書かれていたが、それはまさしく分離不安の症
状。「別れをつらがって泣く子どもの姿」では、ない。

●分離不安は不安発作

 分離不安。親の姿が見えなくなると、発作的に混乱して、泣き叫んだり暴れたりする。大声を
あげて泣き叫ぶタイプ(プラス型)と、思考そのものが混乱状態になり、オドオドするタイプ(マイ
ナス型)に分けて考える。

似たようなタイプの子どもに、単独では行動ができない子ども(孤立恐怖)もいるが、それはと
もかくも、分離不安の子どもは多い。四〜六歳児についていうなら、一五〜二〇人に一人くら
いの割合で経験する。親が子どもの見える範囲内にいるうちは、静かに落ちついている。が、
親の姿が見えなくなったとたん、ギャーッと、ものすごい声をはりあげて、そのあとを追いかけ
たりする。

●過去に何らかの事件

 原因は……、というより、分離不安の子どもをみていくと、必ずといってよいほど、そのきっか
けとなった事件が、過去にあるのがわかる。はげしい家庭内騒動、離婚騒動など。母親が病
気で入院したことや、置き去り、迷子を経験して、分離不安になった子どももいる。

さらには育児拒否、冷淡、無視、親の暴力、下の子どもが生まれたことが引き金となった例も
ある。子どもの側からみて、「捨てられるのでは……」という被害妄想が、分離不安の原因と考
えるとわかりやすい。

無意識下で起こる現象であるため、叱ったりしても意味がない。表面的な症状だけを見て、「集
団生活になれていないため」とか、「わがまま」とか考える人もいるが、無理をすればかえって
症状をこじらせてしまう。いや、実際には無理に引き離せば混乱状態になるものの、しばらくす
るとやがて静かに収まることが多い。しかしそれで分離不安がなおるのではない。「もぐる」の
である。一度キズついた心は、そんなに簡単になおらない。この分離不安についても、そのつ
ど繰り返し症状が表れる。

●鉄則は無理をしない

 こうした症状が出てきたら、鉄則はただ一つ。無理をしない。その場ではやさしくていねいに
説得を繰り返す。まさに根気との勝負ということになるが、これが難しい。現場で、そういう親子
を観察すると、たいてい親のほうが短気で、顔をしかめて子どもを叱ったり、怒ったりしている
のがわかる。「いいかげんにしなさい」「私はもう行きますからね!」と。

こういう親子のリズムの乱れが、症状を悪化させる。子どもはますます強く被害妄想をもつよう
になる。分離不安を神経症の一つに分類している学者も多い(牧田清志氏ほか)。

 分離不安は四〜五歳をピークとして、症状は急速に収まっていく。しかしここに書いたよう
に、一度キズついた心は、簡単にはなおらない。ある母親はこう言った。「今でも、夫の帰宅が
予定より遅くなっただけで、言いようのない不安発作に襲われます」と。姿や形を変えて、おと
なになってからも症状が表れることがある。

(付記)

●分離不安は小児うつ病?

子どもは離乳期に入ると、母親から身体的に分離し始め、父親や周囲の者との心理的つなが
りを求めるようになる。自我の芽生え、自立心、道徳的善悪の意識などがこの時期に始まる。
そしてさらに三歳前後になると、母親から心理的にも分離しようとするが、この時期に、母子の
間に問題があると、この心理的分離がスムーズにいかず、分離不安を起こすと考えられてい
る(クラウスほか)。小児うつ病の一形態と考える学者も多い。症状がこじれると、慢性的な発
熱、情緒不安症状、さらには神経症による諸症状を示すこともある。

++++++++++++++++++++++

(4)基底不安

心を許さない子ども

 無視、冷淡、親の拒否的態度は、子どもに深刻な影響を与える。乳幼児期に、心のさらけ出
しができないため、親のみならず、他人と良好な人間関係を結べなくなる。子どもは、絶対的な
信頼関係のある親子関係の中で、心をはぐくむことができる。「絶対的な信頼関係」というの
は、どんなことをしても、また何をしても、許されるという信頼関係である。親に対して疑いをい
だかない安心感をいう。

 この信頼関係が欠落すると、子どもは絶対的な安心感を得られなくなり、不安を基底とした
心理状態になる。これを「基底不安」というが、その不安を解消しようと、子どもはさまざまな方
法で、心を防衛する。@服従的態度(ヘラヘラとへつらう)、A攻撃的態度(威圧したり、暴力で
相手を屈服させる)、B回避的行動(引きこもる)、C依存的行動(同情を求める)などがある。
これを「防衛機制」という。

 このタイプの子どもは、孤独と不安を繰りかえしながら、そのつど相手を求めたり、拒絶した
りする。まさに「近づけば遠ざかり、遠ざかれば近づく」の人間関係をつくる。本人はそれでよい
としても、困惑するのは、周囲の人たちである。あるときはベタベタと近づいてきたかと思うと、
つぎに会うと、一転、冷酷な態度をとったりする。親しみと憎しみ、依存と拒絶、密着と離反、親
切と不親切が、同居しているように感ずることもある。

 が、悲劇はつづく。

 他者とのつながりがうまく結べない分だけ、独善的、独断的な行動が多くなる。一見すると主
体的な生き方に見えるかもしれないが、その主体そのものがない。私の印象に残っている女
の子(中二)に、Bさんという子どもがいた。

 Bさんは、がんばり屋だった。能力的には、それほどでもなかったが、そのため勉強も、よくで
きた。親は、そんなBさんを、よくほめた。先生も、ほめた。とくに気になったのは、融通(ゆうづ
う)がきかなかったこと。ジョークを言っても、通じない。このタイプの子どもは、自分だけのカラ
に閉じこもりやすく、がんこになりやすい。

 そのBさんが、ここに書いた、決して心を許さないタイプの子どもだった。そのときまでに、す
でに私のところへ五、六年、通っていたが、いつも心を風呂敷で包んだような感じがした。俗に
いう「いい子」ではあったが、何を考えているか、よくわからなかった。

 決して勉強が好きというわけではなかった。しかしBさんにとっての勉強は、まさに自己主張
の道具だった。(勉強ができる)=(優秀であるという証明)=(みなにチヤホヤされる)というよ
うに、である。ここにも書いたように、一見、主体性があるようで、どこにもない。Bさんは、いつ
も自分の評価を他人の目の中でしていた。

 もうおわかりかと思う。このBさんが、とっていた一連の行為は、自分の心の中の不安を解消
するためであった。勉強という手段を用いて、他人に対して優位に立つことにより、自分にとっ
て居心地のよい世界を、まわりに作るためであった。先にあげた防衛機制の中の、A攻撃的
態度の一つということになる。

 Bさんは、勉強がよくできる分だけ、孤独だった。友だちもいなかった。しかも自分より目立つ
仲間は、すべてライバルだった。Bさんの前で、ほかの子どもをほめたりすると、嫉妬心から
か、Bさんは、よく顔をしかめた。が、そのBさんが、ある日、とうとう勉強でつまずいてしまっ
た。最初は「勉強がわからない」と、よくこぼした。つぎに数か月先のテストのことを心配したり
した。親はBさんに頼まれるまま、進学塾をもう一つふやし、家庭教師もつけた。しかしそうす
ればするほど、Bさんの勉強は空回りをし始めた。

 とたん、Bさんは、プツンしてしまった。ふつうの燃え尽き症候群と違うのは、無気力症状は出
てこないこと。別の形で、攻撃的になるということ。Bさんのケースでは、そのまま、本当にあっ
という間に、非行の道へ入ってしまった。髪の毛を染め、ツメにマニキュアをし、そしてあやしげ
な下着を身につけるようになった。と、同時に、私の教室をやめた。しばらくしてから、ほかの
子どもたちに、Bさんが、学校でも札つきのワルになったという話を聞いた。

 Bさんを知る、ほかの母親たちは、こう言う。「えっ? あのBさんが、ですか?」と。実のとこ
ろ、この私ですら、その変化に驚いたほどである。授業中でも、先生を汚い言葉で罵倒(ばと
う)して、部屋から出て行くこともあるという。

 ……では、どうするかということではない。あなたの子どもは、だいじょうぶかということ。あな
たの子どもは、乳幼児のとき(二〜四歳の第一反抗期)から、あなたに対して、好き勝手なこと
をしていただろうか。わがままというのではない。言いたいことを言い、したいことをしたかとい
うこと。もしそうなら、それでよし。しかし乳幼児のとき、どこかおとなしく、仮面をかぶり、手がか
からない子どもだったとしたら、ここでいう「心を許せない子ども」を疑ってみたらよい。そして今
は、その「いい子」かもしれないが、そのうちそうでなくなるかもしれないと、警戒をしたほうがよ
い。

 心の問題は、簡単にはなおらない。なおらないが、警戒するだけでも、仮に問題が起きたとき
でも、原因がわかっているから、対処しやすいはず。またあなたの子どもが〇〜二歳であるな
ら、これからの反抗期を、うまく通り過ぎることを考える。この時期は、子どもの心を形成すると
いう意味で、きわめて重要な時期である。

++++++++++++++++++++++

【YNさんへ】

 いただいたメールの範囲内で判断するかぎり、下の子どもが生まれたあたりから、欲求不満
が慢性的に累積し、それが不安の原因になっているように思われます。症状としては、集団恐
怖症、対人恐怖症などが疑われますが、もう一歩進んで、小児神経症もしくは、小児うつ病(ド
クターによっては、小児うつ病はないと主張する人もいます)なども、どこかで考えながら、対処
しなければならないと思います。もちろんこれは最悪のばあいです。

 一つ、疑われるのは、その先生との関係です。どこかで大きなショックを、子どもに与えた可
能性も否定できません。先生が、強く叱ったとか、など。「先生を見ておお泣きした」、しかし「そ
の先生のそばを離れない」という、どこか矛盾した行動は、子どもの世界では、よく見られる現
象です。

 たとえばイヤなもの、嫌いなものを、逆に受け入れることによって、表面的には、好きになっ
たようなフリをする。心の中に、まったく正反対の感情を移入するわけです。これを「反動形成」
といいますが、よく知られた例としては、下の弟や妹に対して、表面的には、いい兄や姉を演じ
て見せるケースがあります。

 それ以前の問題としては、基底不安も疑われます。つまりは、YNさんという母親と、その子ど
もの関係です。全幅の信頼関係が、結ばれていたかという問題ですが、これについては、いた
だいたメールの範囲では、よくわかりません。ここでは、そうした信頼関係については、問題な
いという前提で考えます。

 YNさんは、子どもの悪夢について心配していますが、私の調査でも、約五〇%の子ども(年
長児)が、ほとんど毎日、こわい夢を見ていることがわかっています。ただYNさんのお子さんの
ように、「こわい夢を見るから、昼寝をするのがいや」というケースは、珍しく、それだけ、心が
緊張(不安)状態にあるとみます。

 ふつう子どもが悪夢を見るようになったら、(またそう感じたら)、スキンシップを濃厚にし、添
い寝などをしてやります。「気のせい」「わがまま」と突き放せば、かえって子どもの情緒は不安
定になりますから、注意してください。

 ついでに、このタイプの子どもに、「がんばれ!」式の励ましは、タブーですから、ご注くださ
い。言うべきことは、「あなたは、よくがんばっている」式の、ねぎらいの言葉です。これについ
ては、またいつか電子マガジンのほうでとりあげて考えてみます。

 「夏休みあけに症状が軽減した」ということですので、症状は、それほど、こじれていないと判
断できます。しかしながら、この種の問題は、「以前のほうが、まだ症状が軽かった……」という
ことを繰りかえしながら、悪化することがありますので、これも、ご注意ください。

 とくに注意しなければならないのが、小児神経症です。ほかに、身体的な変調を訴えていな
いかを、観察してみてください。腹痛、頭痛、夜尿、爪かみなど。(あとで、原稿を添付しておき
ます。)

 もしこうした症状があわせて見られたら、とにかく家庭では、心を休ませることだけを考えて対
処します。「暖かい無視」という言葉が、最近よく使われますが、子どもを、暖かい愛情で包み
ながら、子ども自身がひとりで、のんびりとくつろげる環境を用意してあげます。

 が、それでも症状が悪化するようであれば、私は、無理をして幼稚園へ行かせる必要はない
と思います。それはYNさんが、ご自分で、判断してください。

 とりあえずしてみることは、

(1)濃厚なスキンシップの復活……下の子が生まれると同時に、上の子どもへの接触が半減
したと考えられます。親からみれば、「平等」ということになりますが、上の子には、そうではな
いということです。これについては、たびたび電子マガジンでとりあげてきましたので、ここで
は、省略します。添い寝、手つなぎ、だっこ、いっしょの入浴など、子どもの心から緊張感がと
れるまで、つづけます。

(2)食事面での対処……不安定に感じたら、CA、MGの多い食生活に切りかえます。要する
には、海産物主体の食生活にするということです。甘い食品、肉類、リン酸食品などは、ひかえ
ます。

(3)なおそうと思わないこと……この種の問題は、「なおそう」とは思わないこと。「今の状態
を、より悪くしないこと」だけを考えて対処します。親は、どうしても、今の状態だけをみて、「最
悪」と考えがちですが、この種の問題には、その下に、さらに二番底、三番底があるということ
です。じゅうぶん、ご注意ください。

(4)半年単位で様子をみる……そのつどの症状の変化に、一喜一憂してはいけません。もう
少し長いスパンで、子どもの心の変化を観察しながら、判断します。できれば「半年前はどうだ
った……」「一年前はどうだった……」というように、です。そのつどの変化に振り回されている
と、子どもの心の状態がわからなくなります。ほとんどの親は、「少しよくなった……」と言って
は、つぎの無理をする。そして症状をこじらせ、悪化させていきます。

 いただいたメールだけでは、お子さんが、どういう状態なのか、よくわかりません。かといっ
て、私の立場では、診断することもできません。ここに書いたことは、あくまでも、参考意見とし
て、お考えください。あとは、あなた自身が、判断してください。

 このあたりが、私が今、あなたにアドバイスできる限界かと思いますので、今日は、このあた
りで失礼します。また何か、あれば、メールをください。
(031103)
 
+++++++++++++++++++++

【参考】子どもの神経症(中日新聞発表済み)

子どもの神経症

 心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、神経症という。脳の機
能が変調したために起こる症状と考えると、わかりやすい。ふつう子どもの神経症は、@精神
面、A身体面、B行動面の三つの分野に分けて考える。そこであなたの子どもをチェック。次
の症状の中で思い当たる症状(太字)があれば、丸(○)をつけてみてほしい。

 精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる。高所恐怖症、
赤面恐怖症、閉所恐怖症、対人恐怖症など)、強迫症状(ささいなことを気にして、こわがる)、
不安症状(理由もなく思い悩む)、抑うつ症状(ふさぎ込んだり、落ち込んだりする)、不安発作
(心配なことがあると過剰に反応する)など。混乱してわけのわからないことを言ったり、グズグ
ズするタイプと、大声をあげて暴れるタイプに分けて考える。ほかに感情面での神経症として、
赤ちゃんがえり、幼児退行(しぐさが幼稚っぽくなる)、かんしゃく、拒否症、嫌悪症(動物嫌悪、
人物嫌悪など)、嫉妬、激怒などがある。

 身体面の神経症……夜驚症(夜中に突然暴れ、混乱状態になる)、夢中遊行(ねぼけてフラ
フラとさまよい歩く)、夜尿症、頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、遺尿(その意識がないまま尿もら
す)、睡眠障害(寝つかない、早朝起床、寝言、悪夢)、嘔吐、下痢、原因不明の慢性的な疾患
(発熱、ぜん息、頭痛、腹痛、便秘、ものもらい、眼病など)、貧乏ゆすり、口臭、脱毛症、じん
ましん、アレルギー、自家中毒(数日おきに嘔吐を繰り返す)、口乾、チックなど。指しゃぶり、
爪かみ、髪いじり、歯ぎしり、唇をなめる、つば吐き、ものいじり、ものをなめる、手洗いグセ
(潔癖症)、臭いかぎ(疑惑症)、緘黙、吃音(どもる)、あがり症、失語症、無表情、無感動、涙
もろい、ため息なども、これに含まれる。一般的には精神面での神経症に先だって、身体面で
の神経症が現われることが多い。

 行動面の神経症……神経症が行動面におよぶと、さまざまな不適応症状となって現われる。
不登校もその一つだが、その前の段階として、無気力、怠学、無関心、無感動、食欲不振、過
食、拒食、異食、小食、偏食、好き嫌い、引きこもり、拒食などが断続的に起こることが多い。
生活習慣が極端にだらしなくなることもある。忘れ物をしたり、乱れた服装で出歩いたりするな
ど。ほかに反抗、盗み、破壊的行為、残虐性、帰宅拒否、虚言、収集クセ、かみつき、緩慢行
動(のろい)、行動拒否、自慰、早熟、肛門刺激、異物挿入、火遊び、散らかし、いじわる、いじ
めなど。

こうして書き出したら、キリがない。要するに心と身体は、密接に関連しあっているということ。
「うちの子どもは、どこかふつうでない」と感じたら、この神経症を疑ってみる。ただし一言。こう
した症状が現われたからといって、子どもを叱ってはいけない。叱っても意味がないばかりか、
叱れば叱るほど、逆効果。神経症は、ますますひどくなる。原因は、過関心、過干渉、過剰期
待など、いろいろある。

 さて診断。丸の数が、一〇個以上……あなたの子どもの心はボロボロ。家庭環境を猛省す
る必要がある。九〜五個……赤信号。子どもの心はかなりキズついている。四〜一個……注
意信号。見た目の症状が軽いからといって、油断してはならない。




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●ネット・アディクション(嗜好)

 自分の意思ではコントロールできなくなったような、とくに強い嗜好性を、アディクション(嗜好)
という。わかりやすく言えば、きわめて強度な、依存性のこと。

 たとえば、アルコール依存症、パチンコ依存症、タバコ依存症などがある。最近では、携帯電
話依存症というのもある。

 トイレに入るとき、部屋の中に携帯電話を忘れ、用を足すのをあと回しにして、その携帯電話
を取りに行った子ども(高校生)がいた。「トイレの中で、携帯電話をしたかったの?」と聞くと、
「別に……」と。

 その話を、ある母親にすると、その母親も、こう言った。「実は、うちもそうなんです。お弁当を
忘れても、取りに戻らないような息子が、携帯電話を忘れたときは、取りに戻ってきます」と。
「先日は、一時間目をサボって、取りに戻ってきました」とも。

 このタイプの子ども(おとなも)には、携帯電話は、必需品以上の必需品。片時も身から離す
ことができない。できないばかりか、身近になければないで、麻薬をやめたときに似た、禁断症
状が生ずる。イライラして、何も、手につかなくなってしまう。

 さらに、ネット依存症というのもある。正確には、「ネット・アディクション」という。

 私は、実は、パソコン通信が始まったころ、そのパソコン通信にハマってしまったことがある。
今から、もう二〇年近くも、前のこと。今のインターネットによく似ていたが、文字情報だけをや
り取りする、簡単なものだった。

 最初は、カタカナだけを送受信できた。が、パソコンに単語辞書を登録すると、今度は、ひら
がなや、限られた数の漢字の情報を、送受信することができるようになった。

 当時は、こうした進歩を、まさに自分の肌で感じながら、一歩ずつ、自分のものとすることが
できた。それが楽しかった。それに、まだパソコン通信をやっている人が少なく、たがいに連絡
をとりあっているうちに、友だちになり、手紙を交換したりするようになったこともある。

 この人口六〇万人の都市ですら、パソコン通信をしている人は、一〇人もいなかったのでは
ないか? あるいはもっと少なかった? 大手電気メーカーの支店へそのつどでかけ、あれこ
れ教えてもらいながら、それをした。何しろ、N社のパソコンでも、四〇〜五〇万円近くもした時
代である。
 
 が、気がついてみると、明けても暮れても、パソコン通信のことばかり。やがて自分にブレー
キをかけるようになったが、しかしそうは簡単なことではなかった。私は、まさにパソコン通信中
毒といった状態になってしまった。

 が、幸いなことに、その前後に、世間に、ワープロ専用機が出回るようになった。私が最初
に、買ったのは、S社の「書院」という機種だった。値段は、二四万円。当時としては、破格に安
いワープロ専用機だった。やがて私の関心は、パソコン通信から、ワープロ専用機へと移って
いった。

 あとはとっかえ、ひっかえ……。半年ごとに新しいワープロ専用機を買いつづけ、一時は、一
〇台近いワープロ専用機が、家の中にころがっていたことがある。

 結果的に、パソコン通信から遠ざかったが、それにかわって登場したのが、インターネットで
ある。しかし私は、すぐには、手を出さなかった。そのこわさを、知っていたからである。が、こ
れは結果的には、まずかった。つまり、乗り遅れた!

 さて、今の私は、どうか?

 ワープロ専用機は、パソコンになった。そのパソコンで、インターネットもできる。(パソコン通
信)+(ワープロ専用機)=(現在のパソコン)ということになる。おかげで、というか、当然という
か、私は、またまたパソコンにハマってしまった。

 まず朝起きると、パソコンに電源を入れる。仕事から帰ってきても、電源を入れる。そしてま
ず、メールをチェック。自分のサイトや、掲示板をチェック。そしてお茶を飲んだりしたあと、今
度は、ワープロとして使い始める。

 しかし私のばあい、パソコンが好きというより(好きだが……)、考えることが楽しい。つまりパ
ソコンは、そのための道具にすぎない。……と、自分勝手な弁解をしているが、依存症とは、
違うと思う。

 インターネットについては、なくてもかまわないと思っている。現に今、必要な人とは、連絡を
とりあってはいるが、あくまでも、その範囲。ワープロについては、ここに書いたとおりである。

 また私は、もともと機械いじりが好きだった。今でもよく覚えているのが、TK−BSというたし
か、T社製のパソコン。マシン語でパチパチとプログラムを打ち込みながら、操作するというパ
ソコンだった。

 つぎに買ったのが、コモドール社製のPET2000。そのあとは、N社製のパソコンへと移って
いった。6000シリーズ、8000シリーズ。そして9000シリーズから、98シリーズへ、と。ワー
プロにせよ、インターネットにせよ、その過程の中から生まれたにすぎない。

 とは言え、私が、パソコン依存症であることには、まちがい、ない。基準があるわけではない
が、一日、五回以上、メールをのぞくようなら、ここでいうネット・アディクションとみてよいそう
だ。(私なんか、一日、一〇回以上、のぞいているぞ! ワープロで文を書いているとき、ふと、
息抜きしたくなったようなとき、のぞいている。)

 ただ私のばあい、ハマりすぎると、頭痛が始まる。それが便利なブレーキとして働く。あのパ
ソコン通信にハマった時代からそうだった。だから、いつもどこかで、自分にブレーキをかけな
がら、パソコンに向っている。たとえば一時間ほど、ワープロとして使ったら、二〇〜三〇分
は、お茶を飲んだり、本を読んだりして、休憩する。だいたい、その前に、頭が、どこか重くな
る。

 ……などなど。書いている内容が、くだらなくなったから、この話は、ここまで。要するに、ハマ
りすぎないように、注意しようということ。もっとも、私のばあい、もう手遅れだと思うが……。今
もこうしてパチパチと文字を入力しているが、頭の中のモヤモヤをたたき出したときの爽快感
は、なにものにも、かえがたい。それがわかっているから、どうしても、やめられない。ホント!
(031104)


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●音読と黙読

【Fさんからの質問に答えて……】

 Fさんから、「音読と、黙読は、どちらがよいですか?」という質問をもらった。当然、黙読がよ
いに決まっている。それについて書いた原稿を、二作、ここに添付する。

+++++++++++++++++++

●音読と黙読は違う

 小学三年生くらいになると、読解力のあるなしが、はっきりしてくる。たとえば算数の文章題。
読解力のない子どもは、問題を読みきれない、読みまちがえる、など。あちこちの数字を集め
て、めちゃめちゃな式を書いたりする。親は「どうしてうちの子は、問題をよく読まないのでしょ
う」とか、「そそっかしくて困ります」とか言うが、ことはそんな簡単なことではない。

 話は少しそれるが、音読と、黙読とでは、脳の中でも使う部分がまったく違う。音読は、一度
自分の声で文章を読み、その音を聞いて文の内容を理解する。つまり左脳がそれをつかさど
る。

一方黙読は文字を図形として認識し、その図形の意味を判断して文の内容を理解する。つま
り右脳がそれをつかさどる。音読ができるから黙読ができるとは限らない。ちなみに文字を覚
えたての幼児は、黙読では文を読むことができない。そんなわけで子どもが文字をある程度読
むことができるようになったら、黙読の練習をさせるとよい。方法は、「口をとじて本を読んでご
らん」と指示する。

ある研究団体の調査によれば、黙読にすると、小学校の低学年児で、約三〇%程度、読解力
が落ちることが」わかっている(国立国語研究所)。

 ではどうするか。もしあなたの子どもの読解力が心配なら、方法は二つある。一つは、あえて
音読をさせてみる。たとえば先の文章題でも、「声を出して問題を読んでごらん」と言って、問題
を声を出させて読ませてみる。読んだ段階で、たいていの子どもは、「わかった!」と言って、
問題を解くことができる。が、それでも効果があまりないときは、こうする。

問題そのものを、別の紙に書き写させる。子どもは文字(問題)を一度文字で書くことによっ
て、文字の内容を「音」ではなく、「形」として認識するようになる。少し時間はかかるが、黙読が
苦手な子どもには、もっとも効果的な方法である。

 読解力は、すべての科目に影響を与える。文章の読解力を訓練しただけで、国語はもちろん
のこと、算数や理科、社会の成績があがったということはよくある。決して軽くみてはいけない。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

++++++++++++++++++++++

子どもの国語力が決まるとき

●幼児期に、どう指導したらいいの?

 以前……と言っても、もう二〇年近くも前のことだが、私は国語力が基本的に劣っていると思
われる子どもたちに集まってもらい、その子どもたちがほかの子どもたちと、どこがどう違うか
を調べたことがある。結果、次の三つの特徴があるのがわかった。

@使う言葉がだらしない……ある男の子(小二)は、「ぼくジャン、行くジャン、学校ジャン」とい
うような話し方をしていた。「ジャン」を取ると、「ぼく、行く、学校」となる。たまたま『戦国自衛隊』
という映画を見てきた中学生がいたので、「どんな映画だった?」と聞くと、その子どもはこう言
った。「先生、スゴイ、スゴイ! バババ……戦車……バンバン。ヘリコプター、バリバリ」と。何
度か聞きなおしてみたが、映画の内容は、まったくわからなかった。

A使う言葉の数が少ない……ある女の子(小四)は、家の中でも「ウン、ダメ、ウウン」だけで
会話が終わるとか。何を聞いても、「まあまあ」と言う、など。母「学校はどうだったの?」、娘「ま
あまあ」、母「テストはどうだったの?」、娘「まあまあ」と。

B正しい言葉で話せない……そこでいろいろと正しい言い方で話させようとしてみたが、どの
子どもも外国語でも話すかのように、照れてしまった。それはちょうど日本語を習う外国人のよ
うにたどたどしかった。私「山の上に、白い雲がありますと、言ってごらん」、子「山ア……、上に
イ〜、白い……へへへへ」と。

 原因はすぐわかった。たまたま子どもを迎えにきていた母親がいたので、その母親にそのこ
とを告げると、その母親はこう言った。「ダメネエ、うちの子ったら、ダメネエ。ホントにモウ、ダ
メネエ、ダメネエ」と。原因は母親だった!

●国語能力は幼児期に決まる

 子どもの国語能力は、家庭環境で決まる。なかんずく母親の言葉能力によって決まる。毎
日、「帽子、帽子、ハンカチ、ハンカチ! バス、バス、ほらバス!」というような話し方をしてい
て、どうして子どもに国語能力が身につくというのだろうか。こういうケースでは、たとえめんどう
でも、「帽子をかぶりましたか。ハンカチを持っていますか。もうすぐバスが来ます」と言ってあ
げねばならない。……と書くと、決まってこう言う親がいる。「うちの子はだいじょうぶ。毎晩、本
を読んであげているから」と。

 言葉というのは、自分で使ってみて、はじめて身につく。毎日、ドイツ語の放送を聞いている
からといって、ドイツ語が話せるようにはならない。また年中児ともなると、それこそ立て板に水
のように、本をスラスラと読む子どもが現れる。しかしたいていは文字を音にかえているだけ。
内容はまったく理解していない。

なお文字を覚えたての子どもは、黙読では文を理解できない。一度文字を音にかえ、その音を
自分の耳で聞いて、その音で理解する。音読は左脳がつかさどる。一方黙読は文字を「形」と
して認識するため、一度右脳を経由する。音読と黙読とでは、脳の中でも使う部分が違う。そ
んなわけである程度文字を読めるようになったら、黙読の練習をするとよい。具体的には「口
を閉じて読んでごらん」と、口を閉じさせて本を読ませる。

●幼児教育は大学教育より奥が深い

 今回はたいへん実用的なことを書いたが、幼児教育はそれだけ大切だということをわかって
もらいたいために、書いた。相手が幼児だから、幼稚なことを教えるのが幼児教育だと思って
いる人は多い。私が「幼稚園児を教えています」と言ったときのこと。ある男(五四歳)はこう言
った。「そんなの誰にだってできるでしょう」と。

しかし、この国語力も含めて、あらゆる「力」の基本と方向性は、幼児期に決まる。そういう意
味では、幼児教育は大学教育より重要だし、奥が深い。それを少しはわかってほしかった。




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●夫婦論

●静岡県H市に住んでいる、MTさんからいただいたテーマについて、考えてみる。MTさん
は、このところ、殺伐とした夫婦関係に悩んでいる。「家庭内離婚」という状態だそうだ。ただ
「子ども(高一男子と、中一男子)がいるので、離婚せず、がんばっている」とのこと。

●されど、夫婦……

 結婚した。子どももできた。あれこれと夢中で生きてきたが、ある日、ふと立ち止まったような
とき、こう思う。

 「こんなはずではなかった……」と。

 妻だけではない。夫も、そうだ。「私は、もっと、いい人と結婚すべきだった」という思いが、「こ
んな人と結婚すべきではなかった」という思いに変わる。あるいは「どうして、こんな夫(妻)と結
婚したのだろう」という思いに変わることもある。

 そこでこのタイプの人は、夫であるにせよ、妻であるにせよ、自分の心を守るために、さまざ
まな心理的変化を示すようになる。自分の心を認めるということは、即、自分が不幸になること
を意味する。さりとて、離婚して、再出発する勇気も、元気もない。知力も財力もない。男のば
あい、生活力そのものがないことも、多い。

 しかし安心してほしい。

 大半の夫婦は、そんなもの。電撃に打たれて、熱烈な恋をして、身も心もこがしながら、相思
相愛で結婚する夫婦など、そうは、いない。たいていは、そのときの成りゆき、雰囲気、あるい
はハプニングで結婚する。心はともかくも、たがいに体を求めあって結婚するというケースもあ
る。

 つまり夫婦というのは、そういうもの。たとえば動物の世界でも、生涯にわたって、一夫一妻
をつらぬく動物は、少ない。人間に近いサルについては、ボス猿を中心とした、一夫多妻の生
活を営んでいる。

 だから人間についても、必ずしも、一夫一妻制に、生涯、こだわる必要はないのではないの
か……というふうに、最近、考えるようになった。少なくとも、離婚することを、「悪」と考えるの
は、まちがっている。

 むしろ、たがいに仮面をかぶりながら、自分の心をごまかし、たがいにキズつけあうほうが、
おかしい? まちがっている?

 そこでこのタイプの夫婦は、究極の選択を迫られる。

 離婚するか、もしくは、妥協して、結婚生活をつづけるか。

 しかしここで注意したいのは、幸福感の充実というものは、毎日、持続的にあるものではない
ということ。一か月のうちの、数日。その数日のうちの、数時間、その数時間のうちに、ほんの
数分もあれば、じょうでき。のこりのあとの時間は、その瞬間のためにあるようなもの。日常的
に、幸福の充実感がないからといって、その結婚生活が失敗とは、言えない。

 そこで大切なことは、いかにして、一対一の人間関係を、いかにして充実させるかということ。
夫婦というワクにこだわる必要はない。「夫だから……」とか、「妻だから……」と考える必要も
ない。そのうち、夫婦を超えた、新しい人間関係が生まれる。

 かく言う私たち夫婦も、何度か、危機的な状況を経験している。今も、危機的? 決して安泰
というわけではない。原因の多くは、私のゆがんだ性格。自分でも、それがわかっている。偉そ
うに人前に立って、これまた偉そうなことをしゃべっているが、本当のところ、心の中は、ボロボ
ロ。夫婦関係も、ボロボロ。親子関係も、ボロボロ。

 ただ、この年齢になると、「居なおる」ということを覚える。「どうせこんなもの」という思いや、
「人生、そう長くない」とか、「だれと結婚しても、同じようなもの」という思いが、強くなる。そして
その分、今の私のように、ほかのことでエネルギーを使うようになる。

 これはある種の、現実逃避からもしれない。あるいは、ある種の、ニヒリズムかもしれない。し
かし大切なことは、夫婦にせよ、親子にせよ、あまり過剰に、期待などしないこと。またその幻
想に、とりつかれるのもよくない。「家族はこうあるべき……」「こうでなくては……」と、考える必
要もない。あなたはあなただし、今のあなたの姿が、あなたの姿なのだ。

 で、MTさんのばあい、問題は、二人の息子である。MTさんは、二人の息子のことを考えて、
離婚しないでいるという。しかし年齢的には、すでに、現実を、じゅうぶん受け入れる年齢にな
っている。あるがままの状態を、あるがままに話せばよいのでは……と、思う。

 この事案に似たようなケースだが、一一月七日、こんな相談をもらった。


++++++++++++++++
 
はじめまして。MRと申します。

貴HPを拝見させていただき、ぜひ相談に乗ってもらいたいと
思いましてメールを書いております。

私には小学一年生の娘がおります。

娘が産まれて間もなく離婚をして、六年間母子家庭で育ててき
ました。
最初の四年間は私の実母と3人で暮らしていましたが、私と折り合
いが悪く、別々に暮らすことになりました。

私が小さいころに母が家を出てから、父方の祖父母と父と兄弟三人
とで暮らしていましたが、祖母がとても気が強い人で、兄を溺
愛し、私を認めようとしない人で、とても厳しく育てられました。

そのせいか、私も娘には厳しいしつけをしてきました。

去年、趣味のサークルのバーベキュー大会で知り合った男性を、
娘が気に入った事がきっかけで、私はその方と今年再婚しました。

二月に主人の暮らす佐賀県に引っ越して来たのですが、それか
ら娘の行動がおかしくなりました。

嘘をついたり、過食をしたり、反抗をしたり・・・

主人も厳しい両親の元にそだったので、間違った行動をする娘
に厳しく接してきました。
もちろんちゃんとしている時には、かわいがって遊んだりしてい
ます。

時には手を上げる事もあり、児童虐待の容疑で通報され、今は児
童相談所に通所もしていますが、まったく良くなりません。

最近ではわざと反抗しているので、「中間反抗期」を疑っている
のですが、娘は「この家に居たくない。何も頑張りたくない」と
言います。

学校ではとてもよい子なので、担任の先生からは私たち親が白い目
で見られています。

娘が気に入ったから大丈夫だと思って再婚したのですが、嫌い
になったのでしょうか?

主人と娘が遊んでいる時は、とても楽しそうで本当の親子のよう
です。
主人も早く仲良く生活がしたいと言っていますが、これから先
どうしたら良いのでしょうか?

私達は離婚したほうが良いのでしょうか?
お力をお貸しください。よろしくお願いします。

         佐賀県S市、MRより

++++++++++++++++++++++

 MRさんのケースでは、どこか、親としての気負いを強く感ずる。MRさん自身が指摘している
ように、MRさんは、あまり心豊かな家庭に育っていない。

 一般論として、「きびしい家庭」というのは、基本的に親の愛情の欠落した家庭とみてよい。
愛情が欠落すると、子どものすることなすこと、気になってしかたない。その(気になってしかた
ない部分)が、(きびしさ)となって、子どもにはねかえってくる。

 わかりやすく言うと、MRさんの中には、豊かな親像が入っていない。そのため、そうでない親
より、心豊かな家庭を築くのが、むずかしい立場にある。これはたとえて言うなら、みなより、一
〇メートルとか、二〇メートル、遅れて、一〇〇メートル競争に臨むようなものである。

 メールを読むかぎり、MRさんは、それに気づかないまま、MRさん自身の過去に振りまわさ
れている。わかりやすく言うと、MRさんが、子どもにきびしいのも、そして児童虐待の容疑がか
けられたのも、MRさん自身の責任というよりは、MRさん自身の過去の責任である。もっとい
えば、MRさんの親の責任である。

 ここで重要なことは、だからといって、MRさんが、自分の過去をのろってもしかたないという
こと。重要なことは、自分の過去を冷静にみつめること。自分を知ること。なぜ、今の自分がそ
うなのかを、自分で知ること。

 これはとても勇気のいることである。ほとんどの人は、その勇気がないまま、この問題から逃
げてしまう。そして同じ失敗を、繰りかえす。

 で、MRさんの相談だが、このメールを読むかぎり、離婚しなければならない理由など、どこ
にもない。離婚するかしないかは、夫婦の問題であって、子どもの問題ではない。現に、娘と父
親の関係は、良好である。MRさんと、夫の関係も、このメールを読むかぎり、良好である。

 問題は、MRさんと娘の関係だが、この程度の不協和音は、いまどき、珍しくも何ともない。た
だ年齢が、小学一年生ということだから、本来なら、親子関係(とくに母子関係)は良好でなけ
ればならない。しかしだからといって、つまり良好でないからといって、MRさんは、自分を責め
てはいけない。

 仮に離婚すれば、それで母子関係は、正常になるのだろうか? 今の状況からすれば、悪
化することはあっても、好転することは、考えられない。

 MRさんは、自分が受けた子育てを、そのまま、自分の娘に繰りかえしている。「自分がきび
しい子育てをされたから、娘にもきびしくしている」と。あるいは何か問題があると、すぐ「離婚」
という解決方法につなげてしまう。

 このことからもわかるように、MRさんは、自分の心的外傷(トラウマ)を、そのまま娘に対し
て、繰りかえしている。問題は、そこに気づくこと。そしてその心的外傷が、虐待容疑の理由に
もなっている!

【MRさんへ】

 私は、メールを読むかぎり、離婚しなければならないような理由など、どこにもないと思いま
す。あなたと子ども(娘さん)の関係がギクシャクしていることを除けば、何も、問題はないでは
ないですか。


 あなたは自分の中の問題に振りまわされているだけです。「いい家庭を築こう」「いい親でい
よう」と。が、娘の心がうまくつかめない。「だから、私は母親として失格だ」「妻として失格だ」
「だから、離婚しなければ」とです。

 どうしてそんなに不幸が好きなのですか? あなたはあえて自分から、不幸を追い求めてい
るだけのような気がします。

 幸福というのは、つくるものではなく、残り火の中から、火箸でかき分けるようにして、さがし
て、見つけるものです。が、あなたは、その残り火すら、足で踏んで消している。あえて悲劇の
主人公になろうとしている。

 あなたと子どもの関係がおかしかったら、あなたの子どもは、夫に任せて、あなたはあなたで
好きなことをすればよいのです。どうせ親子というのは、そういうもの。やがてあなたの子ども
が、小学三、四年生(もうすぐですよ……)になれば、親離れしていきます。そういうものです。

 勇気を出して、小さな幸福に、しがみついてください。しがみつくのです。小さいからダメとか、
そういうふうに考えてはいけません。最後の残り火が残っているかぎり、その残り火を、大切
に。決して、自分で、消してはいけません。

 そうしてがんばっているのは、あなただけではない。みんなそうなのです。私もそうだし、あな
たの隣の人もそうなのです。外から見ると、幸福そうに見えますが、それはあくまでも、外見。
みんなそれぞれの問題をかかえて、必死になってがんばっているのです。

 あなたと子どもの関係について言えば、あなたは母親として、つまりは、(へたくそな母親)で
す。しかし、それでいいのです。あなたはやるべきことを、今、懸命にやっている。それでいい
のです。

 大切なことは、前にも書いたように、(へたくそな母親)であることを認め、子どもの前で謙虚
になることです。「私は、こんな母親だけど、ごめんね」とです。あなたが謙虚になれば、あなた
の子どもは、必ず、あなたに心を開きます。

 あとは「許して忘れる」。これだけを心の中で念じながら、子どもと根比べをしてください。負け
ても、負けても、ただひたすら負けるのです。ほら、昔から、日本では、こう言うでしょ。『負ける
が、勝ち』と。それでよいのです。

 今、あなたが「何かに勝とう」と思えば、その先は、離婚しかありません。しかし今、ここで負け
を認めれば、その先には、すばらしい幸福が待っています。約束します。だから勇気を出して、
負けを認めなさい。

 あなたは、失格ママです。ヘタクソママです。
 あなたは、どうしようもないほど、バカな母親です。
 あなたは、妻としても、失格です。
 あなたが、がんばったところで、どうにもなりません。
 あなたの力など、まったく価値がありません。

 さあ、それを勇気を出して、認めなさい。そして子どもや夫の前で、頭をさげる。それでよいの
です。あなたから、今の張りつめた気負いが取れたとき、あなたは、その向こうに、広くて、お
おらかな世界を見るはずです。

 「離婚すべきでしょうか」という質問には、答は、もう一つです。「どこにも、離婚しなければな
らない理由など、ない」です。今ある幸福を、しっかりと握って、もう放してはだめですよ。繰りか
えしますが、勇気を出して、見栄もプライドも、外聞も捨てて、それにしがみつくのです。

 「あなたを、愛している」「みんなを、愛している」「こんな私だけど、いっしょにいて!」とです。

 このつづきは、またあとで考えてみます。

+++++++++++++++++++++++

●夫婦とは……

 ついでながら、夫婦について、考えてみる。

 フランシス・ベーコンは、こう言った。『若い男にとっては、妻は、女主人であり、中年の男にと
っては、友であり、老年の男にとっては、看護婦である』(「結婚と独身生活」)と。

 男の側から見た、夫婦というのは、そういうものかもしれない。では、女の側から見た、夫婦
というのは、どういうものか。最初に思い浮かんだのが、イプセンの「人形の家」で夫婦は、どう
いうものか。それを如実に表したのが、イプセンの『人形の家』である。

 『私はあなたの人形妻になりました。ちょうど父の家で、人形子であったように……』と。

 最初は他人どうしで始まる夫婦だが、何年もいっしょに暮らしていると、1+1=1になってし
まう。たがいにからみあう木のようなもので、一体化してしまう。どこからどこまでが、「私」で、ど
こから先が、「妻」なのか、「夫」なのか、わからなくなってしまう。

 そういう点では、ベーコンも、イプセンも、たがいの間に、一線を引いている。1+1=2の原
則を、貫いている? 夫婦でいながら、どこか他人行儀。それがよいことなのか、悪いことなの
かという議論はさておき、世の中には、(1+1=1夫婦)と、(1+1=2夫婦)がいる。あるい
は、(1+1=1+1夫婦)というのも、いる?

【1+1=1夫婦】

 ショッピングセンターの中でみかける夫婦でも、服装の趣味から、雰囲気、様子までそっくり
の夫婦がいる。ワイフは、「奥さんが、ダンナの衣服をそろえていると、夫婦も、ああなるのよ」
と言うが、そうかもしれない。『似たもの夫婦』とは、よく言ったものだ。

 で、農村へ行くと、この(1+1=1夫婦)に、よくであう。仕事も、生活も、あらゆる面で、夫婦
が、一体化している。原付リアカーで、うしろに奥さんを乗せて、トコトコと走っている夫婦が、そ
の一例である。

 こうした夫婦は、二人に、分けることはできない。どちらか一方が欠けても、仕事も、生活も、
できなくなる。二人の境界が、溶けて混ざりあうように、密着している。

【1+1=2夫婦】

 宇宙飛行士の夫婦に、そういう人がいる。奥さんのMさんは、アメリカで宇宙飛行士として活
躍している。ダンナさんは、日本に残って、「家」を守っている……。

 ダンナさんは、得意になって本まで書いているが、しかしそういう夫婦の形が理想的だとは、
だれも思っていない。だいたいにおいて、「夫婦」と呼んでよいものか、どうか?

 もっとも最近の傾向としては、(1+1=2夫婦)が、標準的になりつつある。概して言えば、サ
ラリーマン家庭では、そうではないか。夫の仕事の中に、(妻の存在)を組みこむということ自
体、無理がある。それで、「夫は夫、妻は妻」となる。

 本来は、やはり(1+1=1夫婦)が自然だとは思うが、社会も変わってきたので、そうばかり
は言っておられない。(1+1=1・5夫婦)とか、(1+1=2夫婦)というのがあっても、しかたな
いということになる。どこかで夫婦としての接点があれば、それでよいということか。

 どちらを選ぶかというよりも、どちらの夫婦になるかということは、生活の「形」が決めること。
あくまでも、成り行き。夫婦というのは、結果として、(1+1=1夫婦)になったり、(1+1=2夫
婦)になったりする。

 たがいに個性的に生きるなら、(1+1=2夫婦)がよいということにもなるが、私のように、も
ともと依存性が強い男には、そういう夫婦は、さみしい気もする。仮に、ワイフが、アメリカへ行
き、そこで宇宙飛行士として活躍し始めたら、それを受入れる前に、別れてしまうだろうと思う。

 その宇宙飛行士にしても、今は花形職業(?)だが、たかが宇宙飛行士ではないのか。明治
のはじめ、東京、新橋間を走る、あのチンチン電車の運転手は、まさに英雄だったという。そう
いうチンチン電車の運転手になるため、妻が、逆単身赴任で、東京に出た。状況的には、それ
と、どこも違わない。このタイプの夫婦は、(1+1=2夫婦)ではなく、(1+1=1+1夫婦)とい
うことになるのかもしれない。

 (私が言いたいのは、宇宙飛行士になるため、夫婦が別々に暮らすというが、それほどまで
の価値が、宇宙飛行士という職業に、あるかということ。)

 夫婦は、同居して、夫婦なのである。守りあい、教えあい、励ましあって、夫婦なのである。セ
ックスだって、重要な要素だ。この大原則は、昔も、今も、変わらない。あるいは、これからは、
(1+1=1+1夫婦)というのも、ごくふつうのことになるのかもしれない。が、それを決めるの
も、やはり成り行き。

 わかりやすく言えば、夫婦に形はない。最初はみな、同じでも、その形は、それぞれが決め
る。大切なことは、それがどんな形であっても、たがいに認めあい、尊重するということ。自分
の形を、決して、他人に押しつけてはいけない。

 ここまでのところをワイフに読んで聞かせたら、ワイフは、こう言った。「ホモの人どうしが、結
婚するということもあるからねエ……」と。

 ナルホド! ワイフの一言が、私の夫婦論を、根底から粉々に、破壊してしまった!

 つきつめれば、一人の人間と、一人の人間が、それぞれに納得すれば、それでよいというこ
とか。「夫婦」という名称にこだわるほうが、おかしいということになる。となると、ここに書いた、
(1+1=1夫婦)も、(1+1=2夫婦)も、そうして考えること自体、無意味ということになる。

 ああああ。

 私が今まで考えてきたことは、無意味ということか。私はときどき、この(1+1=1夫婦)と、
(1+1=2夫婦)の話を、あちこちでしてきたのだが……。

 となると、話は、振り出しにもどってしまう。「夫婦とは、何か?」と。このつづきは、また別の
機会に……。

+++++++++++++++++++++
 
【MRさんよりの返事】

はやし様

早速の返答を、ありがとうございます。

はやし様の言うとおりで、読んでいて、涙が出ました。
私は主人を愛しています。
できれば離婚はしたくないのです。

主人も娘の事で悩んだりはしていますが、私との夫婦関係には何
も問題がないので「幸せだ」と言ってくれています。

私は血の繋がらない親子関係は、難しいと思い込み
主人の親戚たちにも、何とか娘を認めてもらおうと必死でした。

主人の母は主人をとても愛しているので、主人が悩んでいると、私へ
の当たりが強くなります。
「あなたがしっかりしてちょうだい」と・・・。

娘はとても良い子です。
明るくてやさしくて思いやりもあれば、礼儀も正しいです。
娘がずっと欲しがっていたお父さんができたのです。
みんなで仲良く暮らしたいです。

主人には前妻さんとの間に、私の娘より一歳年上の男の子がいます。
まったく面会などはないのですが、その子と比べられるのが
一番イヤで、娘に必要以上に良い子を要求していたのだと反省し
ています。

良い母、良い妻、良い嫁・・・。
頑張りすぎていたのかも知れませんね。

これからは肩の力を抜いて、楽しんで生活したいと思います。

はやし様ありがとうございました。

+++++++++++++++++++++

【MRさんへA】

 参考になるかどうかわかりませんが、
以前書いた原稿を、二作、添付しておきます。
夫婦、孤独、愛について、書いたものです。

+++++++++++++++++++++

●心について

●反動感情
 人は、ときとして、本当の自分の心を隠し、それと正反対の感情をもつことがある。私は、こ
れを勝手に「反動感情」と呼んでいる。心理学の世界に、「反動形成」という言葉がある。反動
形成というのは、自分の心を抑圧すると、その反動から、正反対の自分を演ずるようになるこ
とをいう。

たとえば性的興味を押し殺したような人は、他方で、人前では、まったく性には関心がないよう
に振るまうことがある。性に対して、ある種の罪悪感をもった人が、そうなりやすい。ほかに、た
とえば神経質な人が、外の世界では、おおらかな人間のフリをするのも、それ。その反動形成
に似ているから、「反動感情」とした。

●Aさんのケース
 私がAさん(三四歳女性、当時)に会ったのは、私が四〇歳くらいのことだった。もともとは奈
良県の生まれの人で、夫の転勤とともに、このH市にやってきた。どこかその古都の雰囲気を
感じさせる、静かな人だった。Aさんは、いつもこう言っていた。「私は、夫を愛しています」「娘
を愛しています」と。

 当時、「愛する」という言葉を、ふだんの会話の中で使う人は、それほど多くはなかった。それ
で私の印象に強く残ったのだが、話を聞くと、どうもそうではなかった。つまり私は最初、Aさん
の家庭について、心豊かな、愛に包まれた、すばらしい家族を想像していた。が、そうではなか
ったということ。

 Aさんは、不本意な結婚をした。そしてそのまま、不本意な子どもを産んだ。それがそのとき
六歳になる娘だった。

Aさんには、結婚前に、ほかに好きな人がいたのだが、ささいなことがきっかけで、別れてしま
った。今の夫と結婚したのは、その好きな人を忘れるため? あるいは、その好きな人に、腹
いせをするため? ともかくも、それを感じさせるような、どこか、ゆがんだ結婚だった。

 Aさんは、夫とは、フィーリングが合わなかった。合わなかったというより、「(信仰を始める前
までは)、夫の体臭をかいだだけで、気持ちが悪くなったこともある」(Aさん)という。が、離婚は
しなかった。……できなかった。Aさんの実家と、夫の実家は、同業で、たがいにもちつ、もた
れつの関係にあった。離婚すれば、ともに実家に迷惑がかかる。

 そこでAさんは、キリスト教系宗教団体に入信。そのまま熱心な信者になった。そしてその教
え(?)に従い、「愛する」という言葉を、よく使うようになった?

●反動形成

 たとえばあなたがXさんを、嫌ったとする。そのときXさんと、それほど近い関係でなければ、
あなたは、そのままXさんと距離をおくことで、Xさんを忘れようとする。「いやだ」という感覚を味
わうのは、不愉快なこと。人は、無意識のうちにも、そういう不快感を避けようとする。

 が、そのXさんと、何かの理由で離れることができないときは、一時的には、Xさんに反発する
ものの、やがて、それを受け入れ、反対に、自分の心の中で、反対の感情を作ろうとする。反
対の感情を作ることで、その不快感を克服しようとする。これが私がいう、「反動感情」である。
このばあい、あなたはXさんを、積極的に自分の心の中に入れこもうとする。わかりやすく言え
ば、好きになる。(正確に言えば、好きだというフリをする。)好きになることで、不快感を克服し
ようとする。

 よくある例としては、@相手につくし、服従する方法。A相手に対して敗北を認め、自分を劣
位に置く方法。B自分の弱さを強調し、相手の同情を誘う方法などがある。自分という「主体」
を消すことで、相手に対する感情を消す。そして結果的に、「好き(affection)」という状態をつく
るが、このばあい、「好き」といっても、それはネガティブな好意でしかない。若い男女が、電撃
的に打たれるような恋をしたときに感ずるような、「好き(love)」とは、異質のものである。

 特徴としては、自虐的(自分さえ犠牲になれば、それですむと考える)、厭世的(自分や社会
は、どうなってもよいと考える)な人間関係になる。これに関してよく似たケースに、「ストックホ
ルム症候群」※というのがある。これはたとえば、テロリストの人質になったような人が、そのテ
ロリストといっしょに生活をつづけるうち、そのテロリストに好意をいだくようになり、そのテロリ
ストのために献身的に働き始めるようになることをいう。

 先にあげたAさんのケースでも、Aさんは、口グセのように、「愛しています」と、よく言ったが、
どこか不自然な感じがした。あるいは、Aさんは、そう思いこんでいただけなのかもしれない。A
さんは、夫や子どもに尽くすことで、自らの感情を押し殺してしまっていた?

●偽(にせ)の愛

 Aさんが口にする「愛」は、反動感情でつくられた、いわば偽の愛ということになる。しかし夫
婦はもちろんのこと、親子でも、こうした偽の愛を、本物の愛と信じ込んでいる人は、いくらでも
いる。

 Bさん(四〇歳女性)は、こう言った。夫が、一週間ほど、海外出張で上海へ行くことになった
ときのこと。「飛行機事故で死んでくれれば、補償金がたくさんもらえますね」と。「冗談でし
ょ?」と言うと、ま顔で、「本気です」と。しかしそのBさんにしても、表面的には、仲のよい夫婦
に見えた。たがいにそう演じていただけかもしれない。そこで「じゃあ、どうして離婚しないので
すか?」と聞くと、「私たちは、そういう夫婦です」と。

 親子でも、そうだ。C氏(四五歳男性)は、高校生になる息子と、家の中では、あいさつすらし
なかった。たがいに姿を見ると、それぞれの部屋に姿を、隠してしまった。しかしC氏は、人前
では、よい親子を演じた。演ずるだけではなく、息子が中学生のときは、その学校のPTAの副
会長まで努めた。

 一方、息子は息子で、ある時期まで、父親に好かれようと、懸命に努力した。私がよく覚えて
いるのは、その息子がちょうど中学生になったときのこと。父親に、敬語を使っていたことだ。
父親に電話をしながら、「お父さん、迎えにきてくださいますか」と。

 しかしこうした偽の愛は、長くはつづかない。仮面をかぶればかぶるほど、たがいを疲れさせ
る。問題は、そのどちらかが、その欺瞞(ぎまん)性に気づいたときである。今度は、その反動
として、その絆(きずな)は粉々にこわれる。もっともそこまで進むケースは、少ない。たいてい
は、夫婦であれば、どちらかが先に死ぬまで、その偽の愛はつづく。つづくというより、もちつづ
ける。

 ここまで書いて、ヘンリック・イプセンの「人形の家」を思い出した。娘時代は、親の人形として
生活し、結婚してからは、夫の人形として生活した、ある女性の物語である。その中でも、よく
知られた会話が、夫ヘルメルと、妻ノラの会話。

ヘルメルが、ノラに、「(家事という)神聖な義務を果せ」と迫ったのに対して、ノラはこう答える。
「そんなこともう信じないわ。あたしは、何よりもまず人間よ、あなたと同じくらいにね」(「人形の
家」岩波書店)と。そのノラが、親に感じていた愛、あるいは夫に感じていた愛が、ここでいう反
動感情で作られた愛ではないかということになる。もし、ノラが「愛」のようなものを感じていたと
したら、ということだが……。

 しかしこの問題は、結局は、私たち自身の問題であることがわかる。私たちは今、いろいろな
人とつきあっている。が、そのうちの何割かの人たちは、ひょっとしたら、嫌いで、本当は、つき
あいたくないのかもしれない。無理をしてつきあっているだけなのかもしれない。あるいは「私
はそういうつきあいはしていない」と、自信をもって言える人は、いったい、どれだけいるだろう
か。

 さらにあなたの子どもはどうかという問題もある。あなたの子どもは、あなたという親の前で、
ごく自然な形で、自分をすなおに表現しているだろうか。あるいは反対に、無理によい子ぶって
いないだろうか。そしてそういうあなたの子どもを見て、あなたは「私たちはすばらしい親子関
係を築いている」と、思いこんでいないだろうか。

ひょっとしたら、あなたの子どもは、あなたと良好な関係にあるフリをしているだけかもしれな
い。本当はあなたといっしょに、いたくない。いたくないが、し方がないから、いっしょにいるだ
け、と。もしあなたが、「うちの子は、いい子だ」と思っているなら、その可能性は、ぐんと高くな
る。一度、子どもの心をさぐってみてほしい。
(030314)

?ストックホルム症候群……スウェーデンの首都、ストックホルムで起きた銀行襲撃事件に由
来する(一九七三年)。その事件で、六日間、犯人が銀行にたてこもるうち、人質となった人た
ちが、その犯人に協力的になった現象を、「ストックホルム症候群」と呼ぶ。のちにその人質と
なった女性は、犯人と結婚までしたという。

?イプセンの「人形の家」……自己の立場と、出世しか大切にしない夫、ヘルメル。好意でした
ことをののしられてから、ノラは、一人の人間としての自分に気づく。それがここに取りあげた
会話。最後に、ノラは、偽善的な夫に愛想をつかし、ヘルメルと、三人の子どもを残して、家を
出る。

【付記】

 父親に虐待されていた子ども(小二男児)がいた。いつも体中に大きなアザを作っていた。そ
こでその学校の校長が、地元の教育委員会に相談。児童相談所がのり出して、その子どもを
施設へ保護した。

 が、悲しいかな、そこが子ども心。そんな父親でも、施設の中では、「お父さんに会いたい、会
いたい」と泣いていたという。そこで相談員が、「あなたはお父さんのことを好きなの?」と聞く
と、その子どもは、「好き」と答えたという。

 こうした子どもの心理も、反動感情で説明できる。つまり父親の虐待に対して、その子ども
は、本当の自分の感情とは反対の感情をもつことで、与えられた状況に適応しようとした。そ
の子どものばあい、「いやだ」と言って、家を飛びだすわけにもいかない。また父親に嫌われた
ら、生きていくことすらできない。そこでその子どもは、「好きだ」という感情を、自分の中につく
ることで、自分の心を防衛したと考えられる。



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●真理と孤独

 キリストや釈迦は、多くの人を救った。しかしキリストや釈迦自身は、どうだったか? 救われ
たか? もっと言えば、孤独ではなかったか?※

 キリストにも釈迦にも、弟子はいた。しかし師と弟子の関係は、あくまでも師と弟子の関係。
師は、あくまでも智慧(ちえ)を与える人。弟子は、あくまでもその智慧を受け取る人。弟子たち
はそれでよいとしても、師であるキリストや釈迦は、どうだったのか? それでよかったのか?

 真理の荒野をひとりで歩くことは、それ自体は、スリリングで楽しい。しかし同時に、それは孤
独な世界でもある。(私が求めている真理など、真理ではないかもしれないが、それでもそう感
ずることがよくある。)とくに、現実の世界に引き戻されたとき、その孤独を強く感ずる。「人生
は……」などと考えていたところへ、幼児がやってきて、「先生、ママがいなア〜イ」と。

 そこで心の調整をしなければならないが、私のばあい、思索の世界から離れたときは、その
反動からか、今度は極端に、バカになる。バカになって、心の緊張感を解く。孤独から離れる。
もしあなたが、私の近くへやってきて、私を知ったら、私のことを、ひょうきんで、おもしろい男だ
と思うだろう。私は子どものみならず、おとなに対しても、笑わせ名人で、いつも周囲の人たち
をゲラゲラ笑わせている。私のワイフですら、「あんたといると、退屈しない」と言っている。昨夜
も寝るまで、ワイフを笑わせてやった。

 が、反対に、そういう外での私しか知らない人は、私の作品を読んだりすると、「これ、本当に
あなたの文ですか?」と聞いたりする。そこまではっきりと言わないまでも、驚く人は多い。「あ
の『はやし浩司』って、あなたのことでしたか?」と言った人もいる。

 が、キリストや釈迦は、そうではない。あるいはひょっとしたら、ひょうきんで、おもしろい人だ
ったかもしれないが、そういう話は、伝わっていない。……となると、やはり、キリストや釈迦
は、どうやって、孤独と戦ったかということになる。ふつうなら……という言い方はしてはいけな
いのだろうが、しかしふつうなら、何らかの形で自分の心をいやさないと、とても孤独には、耐
えられない。

 もっともキリストにせよ、釈迦にせよ、私たちをはるかに超越した世界に住んでいたのだか
ら、孤独ということはなかったかもしれない。……となると、また別の問題が生まれてくる。

 もし、仮に、だ。もし、あなたが、ある惑星に落とされたとする。そしてその惑星は、サルの惑
星で、サルたちが、サルのまま、野蛮な生活をしていたとする。一方、あなたには、知性があ
る。言葉もある。道徳も、倫理もある。もしあなたがそういう世界に落とされたとしたら、あなた
はどうなるだろうか。あなたは神や仏のように祭られるだろう。しかしあなたはその世界がも
つ、孤独に耐えられるだろうか。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 幼児教育をしていて、ゆいいつ、つまらないと思うのは、いくら幼児と接しても、私と幼児の間
には、人間関係が生まれないということ。この点、大学生や高校生を教える先生は、うらやまし
い。教えながら、人間対人間の関係になる。そこから人間関係が生まれる。が、幼児教育に
は、それがない。で、そういう幼児だけの世界にいると、ときどき、言いようのない孤独感に襲
われるときがある。私が考えていることの、数千分の一も、子どもたちには伝わらない。説明し
てあげようと思うときもあるが、あまりの「へだたり」に、呆然(ぼうぜん)とする。

 つまり、人は、その世界を超越すればするほど、その分だけ、孤独になる? キリストや釈迦
のような「人」であれば、なおさらだ。となると、話は、また振りだしに戻ってしまう。「キリストや
釈迦は、多くの人を救った。しかしキリストや釈迦自身は、どうだったか? 救われたか? も
っと言えば、孤独ではなかったか?」と。

 もちろんキリストや釈迦を、私たちと同列に置くことはできない。本当にそうであったかどうか
は、私にはわからないが、彼らは真理に到達した「人」たちである。もしそうなら、その時点で、
孤独からは解放され、その時点で、さらに真の自由を手に入れていたことになる。あるいは、
キリストや釈迦は、私たちが考えもつかないような世界で、もっと別の考え方をしていたのかも
しれない。

 考えていくと、この問題は、結局は、私自身の問題ということになる。真理などというのは、簡
単に見つかるものではない。恐らく私が、何百年も生き、そして考えつづけたとしても、見つか
らないだろう。もしそうであるとするなら、私はその真理に到達するまで、つまり死ぬまで、その
一方で、この孤独と戦わねばならない。

もちろん、キリストや釈迦のように、真理に到達すれば、あらゆる孤独から解放されるのだろ
う。が、そうでないとしたら、一生、解放されることはない? しかも、だ。皮肉なことに、真理に
近づけば近づくほど、ほかの人たちからの孤立感が大きくなり、そしてその分だけ、孤独感は
ますます強くなる?

 そういう意味で、真理と孤独は、密接に関連している。紙にたとえて言うなら、表と裏の関係と
いってもよい。世界の賢者たちも、この二つの問題で、頭を悩ました。いくつかをひろってみよ
う。

●この世の中で、いちばん強い人間とは、孤独で、ただひとり立つ者なのだ。(イプセン「民衆
の敵」)
●われは孤独である。われは自由である。わらは、われ自らの王である。(カント「断片」)
●つれづれわぶる人は、いかなる心ならむ。まぎるる方なく、ただ一人(ひとり)あるのみこそよ
けれ。(吉田兼好「徒然草」)
●孤独はすぐれた精神の持ち主の運命である。(ショーペンハウエル「幸福のための警句」)
●人はひとりぼっちで死ぬ。だから、ひとりぼっちであるかのごとく行為すべき。(パスカル「パ
ンセ」)

 簡単に「孤独」と言うが、孤独がもつ問題は、そういう意味でも、かぎりなく大きい。人生にお
ける最大のテーマと言ってもよい。そうそうあの佐藤春夫(一八九二〜一九六四、詩人・作家)
は、こう書いている。『神は人間に孤独を与へた。然も同時に人間に孤独ではゐられない性質
も与へた』と。この言葉のもつ意味は、重い。

※マザーテレサの言葉より……

●孤独論

 孤独は、あらゆる人が共通してもつ、人生、最大の問題といってよい。だからもしあなたが
今、孤独だからといって、それを恥じることはない。隠すこともない。大切なことは、その孤独
と、いかにうまく共存するかということ。さあ、あなたも声を出して叫んでみよう。「私はさみしい」
と。マザーテレサは、つぎのように語っている。

 訳はかなりラフにつけたので、必要な方は、原文をもとに、自分で訳してほしい。

When Christ said: "I was hungry and you fed me," he didn't mean only the hunger for bread 
and for food; he also meant the hunger to be loved. Jesus himself experienced this 
loneliness. He came amongst his own and his own received him not, and it hurt him then and 
it has kept on hurting him. The same hunger, the same loneliness, the same having no one to 
be accepted by and to be loved and wanted by. Every human being in that case resembles 
Christ in his loneliness; and that is the hardest part, that's real hunger. 

キリストが言った。「私は空腹だった。あなたが食事を与えてくれた」と。彼は、ただ食物として
のパンを求める空腹を意味したのではなかった。彼は、愛されることの空腹を意味した。キリ
スト自身も、孤独を経験している。つまりだれにも受け入れられず、だれにも愛されず、だれに
も求められないという、孤独を、である。彼自身も、孤独になった。そしてそのことが彼をキズつ
け、それからもキズつけつづけた。どんな人も孤独という点では、キリストに似ている。孤独は、
もっともきびしい、つまりは、真の空腹ということになる。




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●子どもの虚言癖

愛知県名古屋市のHTさんより、こんな相談をもらった。

+++++++++++++++++++

はやし様

先日は、相談にのっていただき、ありがとうございました。
子ども(小学一年生、女児)のことで相談と言いながら、
夫婦のことで相談していたように思い、肝心の、
娘のことで、相談にのってもらうのを忘れていました。

あのあと、
「私は主人と、娘の仲が悪いのだと思い、主人が娘にきびしいから
だと決めつけていたけど、私が悪かったんだと思う」
と主人に話をしました。

主人は、「俺が短気なのが悪いんだろうな。でもまちがったことをし
ている娘にやさしくはできないよ」
と言いました。

そして話しあい、私は娘と仲よくしたいので、態度を改めることに
しました。

今までは娘のウソをやめさせるために、「ウソをついたら叩くよ」と言
い、ウソをついた分だけ、叩いてきました。

お尻が真っ青になるまで叩かれても、娘は、ウソをつくのはやめませんで
した。

また、家では「ウソをつくとペナルティ」という約束ごとがあります。

ペナルティは廊下の雑巾がけなのですが、いろんな理由をつけ
ては、どうにかしてやらないようにしようと頑張っているので
すが、結局、私に言われて泣きながらやっています。

そこで叩くのをやめて(ペナルティはやらせています)、はや
し様がHPで書いている通りに、「うそをつぶす」ことを、はじめました。

一回目は娘が、ウソを認めるまで一時間半かかりました。
二回目も・・・。

毎日、何回もウソをつくのでそのたびに話をするのは大変でした。
ウソを認めるまでにはまだ時間がかかります。
ウソを認めたくないから「絶対に本当です。私を信じてくだ
さい」などと、わかりやすいウソのばあいでも言います。

何一〇回でも言うのです。「信じてください。ウソじゃない」と

それでもウソを認めたときには、「もうウソはつかないのよ」と、それで
済ませています。

娘には、この接し方でよいのでしょうか?
本当にそれで娘のウソは、なおるのでしょうか?

娘の実の父(離婚した前夫)は、信じられないくらい、ウソつきでした。

私の財布から生活費を盗んでは、「泥棒じゃないのかい? 警察
に届けようよ」とか、

パチンコをしていて帰りが遅くなれば、「友だちにつかまった」
とかなど、わかりやすいウソをたくさんつく人でした。

娘がウソをつくと、彼と重なってイライラするのです。
あんな風にはなってもらいたくない!、と・・・

あともう一つ、娘のことで気になるのは「過食」です。

娘と二人で暮らしていたとき、私は大検の資格を取るために、毎日
勉強していました。

娘とは一緒の布団で寝ていましたが、同じ時間に布団に入ること
はありませんでしたし、仕事も忙しかったので、あまりかまって
やれず、ぐずると叱りつけていました。

去年九月に合格したのを境に、少しずつ娘の過食がはじまりました。

今年二月に、名古屋に越してきてから、ひどくなりました。
さらに四月に小学校に入学して、給食がはじまると、二人分の給食
を食べるようになったのです。

娘はクラスで一番背が小さく、動くのが嫌いなので、どんどんと太
っていきました。

食べ物の量が多く、消化できないため、口臭と便秘がひどいです。

私や主人がどんなに怒っても、給食を食べ過ぎた分だけ、夕食を
減らしても一向に効果がありません。

学校から帰って来てからも友だちと遊んだりしないので、主人が
家でできる体操を教えました。

それをやるのも嫌がります。

小さいときから食べる事は大好きでしたが、体がちいさいので小
食でした。

朝食のパンが食べられなくてゴミ箱の底に隠したときもありました。

それが今では・・・?

今は娘のことを考えて、パンも自分で焼き、娘の好きな和食を作
っています。

和食はローカロリーなのでよいと思っていますが、学校で食べ
るので、効果がありません。

学校ではおかわりをしないように、先生にも娘にも言ってあります。

これらのことすべてを、児童相談所へ相談しても、何も具体的なことを言
ってはくれません。

私の話を聞くだけでなに、一つアドバイスもしてくれません。

一度「好きなだけ食べさせなさい」と言われたことがあり、好きに
させたのですが、体調が悪くなり、胃もたれや腹痛があっても
食べるのをやめませんでした。

今は娘の体調を考えて、給食を食べ過ぎたときには、夕食を抜いた
りしています。

「中間反抗期」「環境の変化」「主人との折り合いの悪さ」
「やきもち」など・・・

いろんなことを疑ったのですが、やはり原因は私でしょうか?

娘のため、じぶんのため、主人のため。
がんばっていきたいと思います。

はやし様、どうかお力をお貸しください。
よろしくお願いします。

++++++++++++++++++++

子どものウソについては、たびたび書いてきましたので
その中から、三作を選んで、ここに掲載します。

まず、子どものウソについて、よく理解してください。
一部、内容がダブりますが、お許しください。

+++++++++++++++++++++

(1)子どもの虚言癖

●子どものウソ

 子どものウソは、つぎの三つに分けて考える。

@空想的虚言(妄想)
A行為障害による虚言
Bそれに虚言。

空想的虚言というのは、脳の中に虚構の世界をつくりあげ、それをあたかも現実であるかのよ
うに錯覚してつくウソのことをいう。行為障害による虚言は、神経症による症状のひとつとして
表れる。習慣的な万引き、不要なものをかいつづけるなどの行為障害と並べて考える。これら
のウソは、自己正当化のためにつくウソ(いわゆる虚言)とは区別して考える。空想的虚言に
ついては、ほかで書いたのでここでは省略する。

 で、行為障害によるウソは、ほかにも随伴症状があるはずなので、それをさぐる。心理的な
要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、神経症というが、ふつう神経症に
よる症状は、つぎの三つに分けて考える。

@精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状
(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、虚言癖(日常的にウソをつ
く)、不安症状(理由もなく悩む)、抑うつ感(ふさぎ込む)など。混乱してわけのわからないことを
言ってグズグズしたり、反対に大声をあげて、突発的に叫んだり、暴れたりすることもある。

A身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、
頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発
熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面で
の神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号とと
らえて警戒する。

B行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面
に表れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無
関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。パンツ一枚で出
歩くなど、生活習慣がだらしなくなることもある。

 こうした症状があり、そのひとつとして虚言癖があれば、神経症による行為障害として対処す
る。叱ったり、ウソを追いつめても意味がないばかりか、症状をさらに悪化させる。愛情豊かな
家庭環境を整え、濃厚なスキンシップを与える。あなたの親としての愛情が試されていると思
い、一年単位で、症状の推移を見守る。「なおそう」と思うのではなく、「これ以上症状を悪化さ
せないことだけ」を考えて対処する。神経症による症状がおさまれば、ウソも消える。

+++++++++++++++++++++

(2)ウソにもいろいろ

 ウソをウソとして自覚しながら言うウソ「虚言」と、あたかも空想の世界にいるかのようにして
つくウソ「空想的虚言」は、区別して考える。

 虚言というのは、自己防衛(言い逃れ、言いわけ、自己正当化など)、あるいは自己顕示(誇
示、吹聴、自慢、見栄など)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚
がある。母「誰、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せなさ
い」、子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから……」と。

 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。
「昨日、通りを歩いたら、幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのがそれ。その思
い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言とい
う。こんなことがあった。

●空想の世界に生きる子ども

 ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう言った。「うちの子(年長男児)
が手に大きなアザをつくってきました。子どもに話を聞くと、あなたにつねられたと言うではあり
ませんか。どうしてそういうことをするのですか。あなたは体罰反対ではなかったのですか!」
と。ものすごい剣幕だった。が、私には思い当たることがない。

そこで「知りません」と言うと、その母親は、「どうしてそういうウソを言うのですか。相手が子ど
もだと思って、いいかげんなことを言ってもらっては困ります!」と。

 その翌日その子どもと会ったので、それとなく話を聞くと、「(幼稚園からの)帰りのバスの中
で、A君につねられた」と。そのあと聞きもしないのに、ことこまかに話をつなげた。が、そのあ
とA君に聞くと、A君も「知らない……」と。結局その子どもは、何らかの理由で母親の注意をそ
らすために、自分でわざとアザをつくったらしい……、ということになった。こんなこともあった。

●「お前は自分の生徒を疑うのか!」

 ある日、一人の女の子(小四)が、私のところへきてこう言った。「集金のお金を、バスの中で
落とした」と。そこでカバンの中をもう一度調べさせると、集金の袋と一緒に入っていたはずの
明細書だけはカバンの中に残っていた。明細書だけ残して、お金だけを落とすということは、常
識では考えられなかった。

そこでその落としたときの様子をたずねると、その女の子は無表情のまま、やはりことこまか
に話をつなげた。「バスが急にとまったとき体が前に倒れて、それでそのときカバンがほとんど
逆さまになり、お金を落とした」と。しかし落としたときの様子を覚えているというのもおかしい。
落としたなら落としたで、そのとき拾えばよかった……?

 で、この話はそれで終わったが、その数日後、その女の子の妹(小二)からこんな話を聞い
た。何でもその女の子が、親に隠れて高価な人形を買ったというのだ。値段を聞くと、落とした
という金額とほぼ一致していた。が、この事件だけではなかった。そのほかにもおかしなことが
たびたび続いた。「宿題ができなかった」と言ったときも、「忘れ物をした」と言ったときも、その
つど、どこかつじつまが合わなかった。

そこで私は意を決して、その女の子の家に行き、父親にその女の子の問題を伝えることにし
た。が、私の話を半分も聞かないうちに父親は激怒して、こう叫んだ。「君は、自分の生徒を疑
うのか!」と。そのときはじめてその女の子が、奥の部屋に隠れて立っているのがわかった。
「まずい」と思ったが、目と目があったその瞬間、その女の子はニヤリと笑った。

ほかに私の印象に残っているケースでは、「私はイタリアの女王!」と言い張って、一歩も引き
さがらなかった、オーストラリア人の女の子(六歳)がいた。「イタリアには女王はいないよ」とい
くら話しても、その女の子は「私は女王!」と言いつづけていた。

●空中の楼閣に住まわすな

 イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせて
はならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世
界にハマるようであれば、注意せよという意味である。

このタイプの子どもは、現実と空想の間に垣根がなくなってしまい、現実の世界に空想をもちこ
んだり、反対に、空想の世界に限りないリアリティをもちこんだりする。そして一度、虚構の世
界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのように、まさに「ああ言えばこう言う」式の
ウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自覚しないのが、その特徴である。

●ウソは、静かに問いつめる

 子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」を繰り返しながら、最後は、「も
うウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めたり、はげしく叱れば叱るほど、子
どもはますますウソがうまくなる。

 問題は空想的虚言だが、このタイプの子どもは、親の前や外の世界では、むしろ「できのい
い子」という印象を与えることが多い。ただ子どもらしいハツラツとした表情が消え、教える側か
ら見ると、心のどこかに膜がかかっているようになる。いわゆる「何を考えているかわからない
子ども」といった感じになる。

 こうした空想的虚言を子どもの中に感じたら、子どもの心を開放させることを第一に考える。
原因の第一は、強圧的な家庭環境にあると考えて、親子関係のあり方そのものを反省する。
とくにこのタイプの子どものばあい、強く叱れば叱るほど、虚構の世界に子どもをやってしまう
ことになるから注意する。

+++++++++++++++++++++

(3)ウソと空想的虚言

 幼児教育では、ウソをウソと自覚しながらつく虚言と、空想的虚言(妄想)は、区別して考え
る。虚言というのは、自己防衛や自己正当化のためにつくウソだが、その様子から、それがウ
ソとわかる。……わかりやすい。

母「誰かな? ここにあったお菓子を食べたのは?」
子「ぼくじゃないよ」
母「じゃあ、手を見せてごらん。手にお菓子のカスが残っているはずよ」
子「残っていない。ぼく、ちゃんとなめたから」と。

 これに対して、空想的虚言は、現実と空想の間に垣根がない。自分の頭の中に虚構の世界
をつくりあげ、それがあたかも現実のできごとであるかのように、ウソをつく。本人もウソをウソ
と自覚しない。まさに「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャーシャーとつく。こんなことがあっ
た。ある夜遅く、一人の母親から電話がかかってきた。そしていきなりこう怒鳴った。

「今日、うちの子が、腕に大きなアザを作ってきました。先生が手でつねったそうですね。どうし
てそんなことをするのですか!」と。そこで私が、「知りません」と言うと、「相手が子どもだと思
って、いいかげんなことを言ってもらっては困ります。正直に言いなさい!」と。

 翌日、園へ行くと、園長のところに一通の手紙が届いていた。その母親が朝早く届けたもの
だ。読むと、「はやし先生が、うちの子どもに体罰を加えている。よく監視しておいてほしい。な
お、この手紙のことは、はやし先生には内密に」と。そこで私がその子どもをつかまえて、それ
となく腕のアザのことを聞くと、こう言った。「ママが、つねったから」と。私は何がなんだか、さっ
ぱりわけがわからなくなってしまった。そこでどういう状況でつねられたかを聞くと、その子ども
は、こと細かに、そのときの様子を説明し始めた。

 英語に、『子どもが空中の楼閣を想像するのは構わないが、その楼閣に住まわせてはならな
い』という格言がある。空想するのは自由だが、空想の世界にハマるようであれば注意せよと
いう意味である。

が、実際の指導で難しいのは、子どもというより、親自身にその自覚がないこと。このタイプの
子どもは、親の前や外の世界では、信じられないほど、よい子を演ずる。柔和な笑みを絶やさ
ず、むしろできのよい子という印象を与える。

これを幼児教育の世界では、「仮面をかぶる」という。教える側から見ると、心に膜がかかった
かのようになり、何を考えているかわからない子どもといった感じになる。が、親にはそれもわ
からない。別のケースだが、私がそれをある父親に指摘すると、「君は、自分の生徒を疑うの
か! 何という教師だ!」と、反対に叱られてしまった。

 原因は、強圧的(頭からガミガミ言う)、閉塞的(息が抜けない)、権威主義的(押しつけ)な子
育て。こういう環境が日常化すると、子どもは虚構の世界をつくりやすくなる。姉妹でも同じよう
な症状を示した子どももいたので、遺伝的な要素(?)も無視できない。が、原因の第一は、家
庭環境にあるとみる。

子どもの心を解放させることを第一に考え、「なぜ、どうして?」の会話をやさしく繰り返しなが
ら、ウソをていねいにつぶす。頭から叱れば叱るほど、心は遊離し、妄想の世界に子どもを追
いやることになる。

+++++++++++++++++++++

【HTさんへ】

 虚言癖にしても、過食症にしても、まず、神経症が基本にあることが疑われます。しかし問題
とすべきは、まだお嬢さんが、小学一年生だ、ということです。(一年生ですよ!)少しきびしす
ぎるというより、酷な感じがします。もっとはっきり言えば、痛々しい……?

 HTさんが、前夫のウソに苦しんだという話は、よくわかります。心理学的には、こうしたわだ
かまりが、(固着)となって、HTさんを、ウラから操っていると思われます。HTさん自身が、すで
にそのことについて、お気づきのとおりです。

 つまり、子どものウソが、気になってしかたないわけです。そのため、HTさんは、お嬢さんの
ウソに、過剰反応なさっておられるのではないでしょうか。

 はっきり言いましょう。子どものウソくらいで、一時間半も、子どもを責めてはいけません。小
学一年生でしたら、せいぜい、五分。親からみて、ウソだとわかっているなら、相手にしないこ
と。「ウソはだめだよ〜」とか言って、笑ってすますのが、ふつうです。そういうふうには、できな
いのでしょうか。

とくに、ここでいう神経症による虚言癖は、責めれば責めるほど、かりにそのウソをつぶすこと
はできても、それ以上に深刻な、別の症状を引き起こすことが、よくあります。過食が、まさに、
それです。

 (しかし実際には、症状は、もっとたくさん出ているはずです。多分、見落とされていると思い
ます。口臭や便秘もそうですが、ほかに腹痛、頭痛、夜尿など……。)

 あなたは、前夫との、不愉快な思い出(わだかまりや、こだわり)を、無意識のうちにも、お嬢
さんに、ぶつけていませんか? あなたは子どものウソがいやなのではありません。あなたの、
前夫に対する、(うらみ)や(嫌悪感)を、子どものぶつけている? 私には、そうとしか思えない
のですが、いかがでしょうか。

 「いろんなことを疑ったのですが、やはり原因は私でしょうか?」ということですが、原因はとも
あれ、今、お嬢さんが一番、必要としているのは、「やすらぎを感ずる、暖かい家庭」です。

 思春期が近くなって、節食障害(過食症)になる子どものケースは、たくさん知っていますが、
小学一年生という年齢の子どもについては、私も、はじめてです。このあたりの深刻さを、どう
か、ご理解ください。

 メールを読むかぎり、問題の原因は、子どもにあるのではなく、あなた自身にあると思われま
す。あなたは、子どもを愛しているのではなく、子どもを自分の思いどおりにしたいだけでは、な
いでしょうか。これを私は、「代償的愛」と呼んでいます。

一見、子どものことを心配しているようですが、その実、自分の心配や不安を子どもにぶつけ、
子どもをその心配や不安を解消するための道具にしているだけではないかということです。ま
ずもって、どうか、それに気づいてください。

 では、どうするか?

 子どもは『許して、忘れます』。これを繰りかえします。どんなことがあっても、それを繰りかえ
します。あとは、根気くらべです。それともあなたは、風邪で熱を出している子どもに、水をかけ
たり、熱を出している子どもを、叱ったりするとでもいうのでしょうか。

 お嬢さんは、かなり重度の神経症による症状を、いくつか示していると考えらえます。つまり、
心が風邪をひいた状態です。この心の風邪は、外から見えない分だけ、安易に考えがちです
が、しかし実際には、半年から、一年単位で、症状は推移します。

 ウソにしても、一度や二度くらい、強く叱ったくらいで、なおるはずもないのです。どうして暖か
い愛情で、お子さんを包んであげないのですか。私には、あなたよりも、お嬢さんの、声なき悲
鳴のほうが、気になってしかたありません。

 それに誤解も、多いようです。

 たとえば口臭にしても、「食べものが多いから」では、ありません。神経を病んでいるからで
す。

 また「給食を食べ過ぎたときには、夕食を抜いたりしています」とのこと。どうして、そんな残酷
なことをするのですか! かえって夕食を抜けば、血糖値がさがり、脳間伝達物質が変調し、
過食(摂食障害)がすすむだけです。少量でもよいから、規則正しい食生活にこころがけてくだ
さい。

 「中間反抗期」というのは、幼児から少女への、脱皮期をいいます。「反抗」するのではなく、
自己主張がはげしくなることを意味します。ウソをついたり、過食するのは、「反抗」とは、言い
ません。

 「ウソをついた分だけ、子どもを叩く」「お尻が真っ青になるまで叩かれても、娘は、ウソを、つ
くのは、やめません」とのこと。

 痛い思いをさせても、この種のウソには、効果はありません。……あるはずもないのです。ま
た、お尻が真っ青になるまで、子どもを叩いていけません。絶対に、いけません。こういうのを、
世間では、「虐待」と言います。あなたには、その重大さが、わかっていますか?

 実のところ、あなたの心も、またキズつき、病んでいると考えたほうが、よさそうです。あなた
はあなたなりに、がんばっている。それはわかります。しかし一方で、あなたは、自分がかかえ
る、不安や心配を、お嬢さんに、そのままぶつけている。

 本来なら、あなた自身の内部で処理しなければならない問題を、子どもにぶつけているので
す。

 今、あなたに必要なことは、『許して、忘れる』です。

 お嬢さんを、許して、忘れなさい。子どもに愛を与えるために、許し、子どもから愛を得るため
に、忘れるのです。まだ間にあいます。だから、今から、そうしなさい。

 ウソをなおそうと思うのではなく、ウソとわかった段階で、無視すればよいのです。相手は、ま
だ小学一年生の、子どもでしょう! 未熟で未完成で、未経験な子どもでしょう! 体力でも、
知力でも、あなたにかなうわけがないのです。

 決しておとなの優位性を、子どもに押しつけてはいけません。はっきり言えば、本気で相手に
してはいけません。

 子どもの神経症の特効薬は、濃密なスキンシップです。抱く、手をつなぐ、いっしょに入浴す
る、添い寝をする。そしてあなたが子どもに言うべきことは、もっと謙虚な気持ちで、子どもにわ
びる言葉です。

 「ごめんね。私は、こんなママだけど、許してね」と、です。子どもがつくウソくらい、何ですか!
 子どもは、みんな、ウソつきですよ。それともあなたは、ウソをつかない、高潔な人ですか? 
自信をもって、そう言えますか?

 たしかに私は、「子どものウソは、質問責めにして、つぶせ」と書きました。しかし、それは、理
づめで、つぶせという意味です。威圧したり、恐怖心を与えたり、あるいは体罰を加えたりとい
うことではありません。どうか、誤解しないでください。

 HTさん、繰りかえしますが、「まだ間にあいます」。ですから、あなたにその気があるなら、こ
こで子育ての方向を、大きく、軌道修正してください。もし時間があるなら、私のホームページ
を、片っぱしから、読んでみてください。そしてあなたの、子育てのしかた、そのものを変えてみ
てください。

 やがてあなたも、あなた自身の中に、巣をつくっている、トラウマ(心的外傷)に気づくときがき
ます。それに気づけば、今のトンネルを抜け出ることができます。

 とりあえずは、私の『許して、忘れる』の原稿を読んでみてください。Eマガのほうでも、最近、
特集しましたので、そちらから読んでいただいても結構です。Eマガのバックナンバーの項目か
ら、拾ってみてください。
http://www.emaga.com/bn/bn.cgi?hhayashi2

 あなたは今、(ごくふつうの母親)から、(真の母親)に、脱皮しようとしています。あなたの子
どもが、それを、体を使って、あなたに教えているのです。あなたが、あなた自身の中の(あな
た)に気づけば、あなたは、必ず、(真の母親)になれます。

 どうか勇気を出して、足を一歩、前に踏みだしてみてください。また力になります。

 繰りかえします。『許して、忘れる』ですよ。それだけを心に念じて、お嬢さんに接してみてくだ
さい。

 たいへんきびしいことを書きましたが、あなたは、すばらしい、ここでいう(真の親)になる、一
歩手前にいます。あなた自身が、今、脱皮の苦しみを味わっています。しかしトンネルから、抜
け出るのは、もうすぐです。

 そのトンネルから抜け出れば、今のあなたは、大きく変わります。

 憎んだり、うらんだりするなら、あなたの前夫に対して、そうしなさい。あなたの過去に対して、
そうしなさい。憎んで、憎んで、憎みまくるのです。うらんで、うらんで、うらみまくるのです。ヘト
ヘトになるまで、そうします。

 しかしあなたの子どもに対しては、してはなりません。あなたの子どもは、関係ないのです。
今のままでは、あなたが受けたトラウマ以上のトラウマを、あなたの子どもに与えることになっ
てしまいます。深い、どこまでも深い、心のキズです。

 その分、つまりあなたにエネルギーがあるなら、そのエネルギーは、あなたや家族の幸福の
ために、使用します。子どもを見ないで、前向きに、あなた自身の幸福を、追求します。ここに
も書いたように、子どもなど、相手にしないことです。たかが小学一年生の子どもでしょう!

 子どもがウソを言ったら、「♪バレバレヨ〜」とか何とか言って、笑ってすまします。そしてあと
は、『許して、忘れる』。その度量の広さが、あなたの子どもの心に、風穴をあけます。そしてそ
れが、結果として、子どものウソを、こなごなにつぶします。ほかの神経症による症状が消えた
とき、そのウソも消えます。約束します。ですから、ウソをつぶすのではなく、あなた自身のトラ
ウマと戦うのです。

 あなたが一歩でも前進すれば、あなたは、ほかの親たちより、数歩も、幸福に近づくはずで
す。なぜなら、あなたは、不幸というものが、どういうものか、すでに知っている。そして幸福と
いうものが、どういうものか、すでに知っている。

 ですから不幸であったことを、恥じることはないのです。その不幸を土台として、幸福になれ
ばよいのです。決して、その幸福を、手放しては、いけませんよ。あなたは、もうすぐ、ほかの
人よりも、何倍も、幸福になります。約束します。

 お父さんも、「まちがったことは嫌い」などと、肩に力を入れないで、もう少し気楽に考えたらよ
いのです。決していいかげんになれということではありません。おもしろい父親になれということ
です。どこかギスギスな感じがしないでも、ありません。子育てを、もっと、気楽に楽しんでくださ
い。子ども自身がもつ、自ら伸びる力をもっと信じて……!

 今日はこれで失礼しますが、また何か悩んだり、苦しんだりしたら、メールで書いて送ってくだ
さい。では、今日は、ここで失礼します。
(031112)



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●生きる

一年近くも前に書いた、原稿を読みなおしてみる。未発表の原稿である。「一年前には、こんな
ことを考えていたのだなあ」と思うと、同時に、「?」と思うところも、ないわけではない。改めて、
推敲(すいこう)してみる。

++++++++++++++++++

●賢い人、愚かな人

 どんな山にも登ってみるものだ。低い山だと思ってみても、登ってみると意外と視野が広い。
たとえば浜松市の北西に舘山寺温泉という温泉街がある。その温泉街の反対側に、小さな湖
をはさんで大草山という山がある。ロープウエィで一〇分足らずで登れる小さな山だが、そんな
山でも浜松市はもちろんのこと、遠くは太平洋すら一望できる。

 人もそうだ。どんなささいなことでもよい。賢くなった状態から、そうでない人を見ると、その人
の愚かさがぐんとよくわかる。しかし愚かな人にはそれがわからない。対等だと思っている。も
っとはっきり言えば、賢い人には愚かな人がわかるが、愚かな人には賢い人はわからない。

 ……と考えて、実は人は、もちろん私も、賢い部分と愚かな部分をいつも同時にもっている。
さらに賢いか愚かかということは、あくまでも相対的なものでしかない。私より賢い人はいくらで
もいる。つまり私が賢いと思っているのは、それは愚かな人に対してだけである。

一方、そういう私を愚かだと思っている人はいくらでもいる。たとえば同じAさんならAさんとくら
べても、「この部分はAさんより賢いぞ」と思う部分もあれば、「そうでない」という部分もある。さ
らに自分のことについても、同じことが言える。

何か新しいことがわかったとする。すると、それまでの自分が愚かに見えることがある。それは
無数の道を同時に走るマラソンのようなものだ。一本の道をマラソンで走るなら、Aさんが一
番、Bさんが二番と、その順位がよくわかる。だれが賢くて、だれがそうでないか、よくわかる。
が、無数の道を同時に走ったら、それはわからない。少し入り組んだ話になってしまったが、要
は、いかにして人は賢くなるかということ。

 方法はいくらでもある。しかしここで重要なことは、技術や知識では人は賢くならないというこ
と。いくらすぐれた技術をもっていたとしても、また世界中の科学者の名前を知っていたとして
も、それは「賢い」とは言わない。もっとわかりやすい例で言えばこうだ。

たとえば一人の幼稚園児が、剣玉をスイスイとしてみせても、また掛け算の九九をソラでペラ
ペラと言っても、賢い子どもとは言わない。となると、人の賢さは何によって決まるかというこ
と。ここが重要だ。一つの方法としては、人間が本来的にもっている「愚かさ」を、徹底的に追
及するという方法がある。その愚かさを追及することによって、他方で賢さを浮かびあがらせ
る。

 たとえば夜の繁華街を歩く。そこにはケバケバしいネオンサインが立ち並び、遊ぶ男と遊ぶ
女が、あたかもゾンビのように動き回っている。せっかくすばらしい健康と、明晰(めいせき)な
頭脳をもちながら、彼らは流れ行く「時」を、流れていくままムダにしている。

あるいは威圧や暴力を売り物にして、他人から金銭をまきあげている人がいる。ウソやゴマカ
シばかりをして、コソコソと生きている人がいる。もっと身近な例では、空き缶やゴミを空き地へ
平気で捨てていく人がいる。

こうした人たちに愚かさの原型があるとするなら、賢くなるためには、そうした世界からの脱却
をめざせばよい。しかしここ別の問題が起きる。仮に脱却するとしても、学校の先生が子ども
たちに校則のようにあたえるような、教条主義ではいけない。

一つ、夜遊びはしないこと。二つ、暴力を振るわないこと。三つ、ウソはつかないこと。四つ、ゴ
ミを捨てないこと、と。

 こうした教条を守る人は、一見賢い人に見えるかもしれないが、しかし賢い人とは言わない。
人の賢さというのは、もっと根源的なもので、その人の底辺から上に向かって湧き出るようなも
のをいう。つまりそういう「教え」があるからするのではなく、「自らがつかんだ知恵」によってし
なければならない。「知性」や「智慧」と言ってもよい。問題のすべては、ここに集まる。「自らが
つかんだ知恵」だ。
 


●裸の王様
 
「裸の王様」という寓話がある。王様は立派な衣服を身に着けていると思っていたが、王様が
裸であることを見抜いたのは、子どもたちだった。通俗世間の人の目はごまかせても、子ども
の目はごまかせない。

先日も「来週は講演で東京へ行くことになっている」と話したら、ぐるりとあたりを見回したあと、
「どうしてあんたなんかが……」と言った子ども(中二女子)がいた。私はいつもそういう目にさら
されているから、そう言われても気にしない。「さあね、きっと人選ミスだよ」と笑うと、その子ど
もも、「そうだよねえ」とうれしそうに笑った。それが裸の王様を見抜いた子どもの目だ。

 肩書きや地位やあれば、こうまでバカにされなくてすむだろうなと思うことは、しばしばある。
事実、この日本では、肩書きや地位やものを言う。そしてそれにぶらさがって生きている人は、
いくらでもいる。

一度、どこかでそういう肩書きや地位を身につけると、あとは、次から次へと、死ぬまで要職が
回ってくる……。しかし肩書きや地位にどれほどの意味があるというのか。たとえばだれかが
箱いっぱいのサツマイモを届けてくれたとする。地位や肩書きのある人は、そういう好意を、果
たして好意と受け取れるだろうか。どこかで「下心」を感ずるに違いない。一方、私のような、何
の地位も肩書きもない人間は、そういう好意を好意として、すなおに受け入れることができる。

+++++++++++++++++

●過去の亡霊

 定年まぎわの人には、ひとつの大きな特徴がある。多分内側に見せる顔は、もっと別の顔な
のだろうが、外側に向かっては悲しいほど、虚勢を張ってみせる。

「定年退職をしたら、地元の郷里に帰って市長でもしようかな」と言った中央官僚がいた。「国
際特許の翻訳会社でもおこして、今の会社の顧問をする」と言った大手の自動車会社の社員
もいた。

しかし悲しいかな、そこはサラリーマン。その人がその人なのは、「組織」という看板を背負って
いるからにほかならない。また定年まぎわの人は、それなりにその組織でもある程度の地位に
いる人が多い。自分という存在が、会社というワクを飛び越えてしまう。それで自分の姿を見失
う。

 が、現実はすぐやってくる。たいていの人は、「こんなはずはない」「こんなはずはない」と思い
つつ、その現実をいやというほど見せつけられる。退職と同時に、山のように届いていた盆暮
れのつけ届けは消え、訪れる人もめっきりと減る。

自分が優秀だと思い込んでいた「力」も、現実の世界ではまったく通用しない。それもそのはず
だ。その人が優秀だったのは、「組織」という小さな、特殊な世界でのこと。そのワクの中での
処理にはたけていたのかもしれないが、そんな力など、広い世界から見れば、何でもない。そ
の「何でもない」という部分が、わかっていない。

 で、そのあと、このタイプの人は大きく分けて、二つの道を歩む。一つは、過去の経歴を忘
れ、人生を再出発する人。もう一つは、過去の経歴にしがみつき、その亡霊と決別できない
人。

もともと肩書きや地位とは無縁だった人は別だが、しかし肩書きや地位が立派(?)だった人
ほど、退職後、社会に同化できない。できないまま、悶々とした日々を過ごす。

M氏(六三歳)は、退職まで、県の出先機関の「副長」まで勤めた人である。覚せい剤などの密
売を取り締まっていたが、そのため現役時代には、暴力団の幹部ですらMさんの前では、借り
てきた猫の子のようにおとなしかったという。が、六〇歳で退職。それまでも近所の人には、あ
いさつもしなかったが、その傾向は退職後さらに強くなった。いくつかの民間会社に再就職を
試みたが、どれもていねいに(?)断られてしまった。

 「私はすぐれた人間だ」と思うのは自尊心だが、その返す刀で、「ほかの人は劣っている」と
思うのは、自己中心性の表れとみる。「私は私」と思うのは、個人主義だが、「相手も私に合わ
せるべきだ」と考えるのは自己中心性の表れとみる。

●老化現象?

人も老人になると、この自己中心性が強くなる。脳の老化現象ともいえるものだが、アルツハイ
マーの初期症状の一つでもあるそうだ。(物忘れがひどくなるという主症状のほか、繊細さの欠
如、がんこになるなど。)

言いかえると、この自己中心性とどう戦うかが、脳の老化の防止策にもなる(?)。いや、防止
にはならないかもしれないが、少なくとも人に嫌われないですむ。私の遠い親戚に、こんな男性
(六七歳)がいた。

高校の校長を最後に、あとは悠々自適の生活をしていたが、会う人ごとに、「君は何をしている
のかね?」と。そしてその人が、その男性より肩書きや地位の高い人だと、必要以上にペコペ
コし、そうでないと威張ってみせた。私にもそうだった。

私が「幼稚園で働いています」と言うと、こう言った。「君はどうせ学生運動か何かをしていて、
ロクな仕事にありつけなかったのだろう」と。こういう人は嫌われる。その男性は数年前、八〇
歳近くになって他界したが、葬式から帰ってきた母がこう言った。「あんなさみしい葬式はなか
った」と。
  
その人の進歩はいつどのようにして停止するのか。ものを書いていると、それがよくわかる。た
とえば私は、毎日いろいろなことを考えているようで、実際には堂々巡りをしているときがあ
る。教育もそうだ。ある日気がついてみると、一〇年前、あるいは二〇年前と同じことをしてい
ることに気づくときがある。こういった部分については、私の進歩はその時点で停止しているこ
とになる。

 そういった視点で見ると、人がまた別の角度から見えてくる。この人はどこまで進歩している
だろうか。あるいはこの人はその人のどの時点で進歩を止めているだろうか、という視点でそ
の人を見ることができるようになる。

●進歩とは……

ただ「進歩」といっても、二種類ある。一つは、常に新しい分野に進歩していくという意味での
「進歩」と、今の専門分野をどこまでほりさげていくかという意味での「進歩」である。この二つは
よく似ているようだが、実のところまったく異質のものである。

 たとえば医療の分野に興味をもった人が、そのあと今度は法律の分野に興味をもつというの
は、前者だ。一方、その分野の研究者が自分の研究を限りなく掘り下げていくというのは、後
者だ。

どちらにせよ、人は油断すると、その進歩を自ら停止してしまう。そしてある一定の限られた範
囲だけで、それを繰り返すようになる。こうなるとその人はもう死んだも同然……といった状態
になる。

毎日、読む新聞はといえば、スポーツ新聞だけ、仕事から帰ってくると野球中継を見て、たま
の休みは一日中、パチンコ屋でヒマをつぶす。これは極端な例だが、そういう人に「進歩」を求
めても意味がない。(実際、野球にしても、毎年大きな変化があるようで、一〇年前、二〇年前
の野球と、どこも違わない。パチンコにしてもそうだ。)

 これは職業には関係ない。たとえばここに銀行マンがいたとする。彼は毎日、銀行業務に追
われていたとする。しかしある時期までくると、その業務はそれまでの繰り返しになる。マイナー
な変化はあるだろうが、それは「進歩」と言えるほどの変化ではない。世間一般の「仕事」という
業務からみると、ささいな変化だ。

そこでその銀行マンは、さらに専門化していくが、それはまさに重箱の底をほじるような世界へ
と入っていくようなものだ。自分自身では「進歩」と思い込んでいるかもしれないが、それは本当
に「進歩」と言えるようなものなのか。

 一方、農家のお百姓さんがいる。「百姓」というだけあって、オールマイティだ。そのオールマ
イティさは、プロのお百姓さんに会ってみるとわかる。私の親しい友人にKさんという人がいる。
農業高校を出たあと、農業一筋の人だが、彼のオールマイティさには、驚くしかない。

農業はもちろんのこと、大工仕事から、土木作業、農機具の修理まで何でもこなす。先日遊び
に行ったら、庭先で、工具を研磨機で研いでいた。もちろん山村の生活で使うようなありとあら
ゆる道具に精通している。しかも自然相手の生活だから、そのつど作物は変わる。キーウィ生
産もしているし、花木の生産もしている。そういうKさんともなると、いつもどこかで挑戦的に進
歩しているのがわかる。(まあ、もっとも全体としてみれば、Kさんはお百姓さんというワクを超
えてはいないが……。)

●知識と教養

 そこで私はこう考えた。専門的にその世界へどんどんと入っていってつかむのが、「知識」。
一方、外の世界へ自分の世界を広げていくのを、「教養」と。そういう意味で知識と教養は別物
である。そして知識のある人が必ずしも、教養があるということにはならない。反対に教養のあ
る人が知識があるということにもならない。こんなことを言った人がいる。

「知識と教養は別物です。……教養を身につけた人間は、知識階級よりも職人や百姓のうちに
多く見出される」と。福田恒存が「伝統に対する心構」の中で書いている一節である。このこと
は子どもを見ればすぐわかる。勉強ができるから人格的にすぐれた人物ということにはならな
い。

むしろ勉強のできない子どものほうにこそ、人格的にすぐれた子どもを見ることが多い。(そも
そもこの日本では、人格的にすぐれた子どもほど、あの受験勉強になじまないという教育その
ものの中に致命的な欠陥がある。)

 ところが進歩をしようとしても、今度は脳の物理的な限界を感ずることがある。記憶という分
野にしても、自分でもはっきりとそれがわかるほど、年々退化している。そして構造そのものも
退化するというか、がんこになることがわかる。自分では進歩しつづけたいと思いつつ、それが
どこか限界に達しつつあるように感ずる。進歩をこころがけていない人はなおさらで、その人は
その時点で完全に停止してしまう。

これも一つの例だが、私の近所には定年退職したあと、のんびりと(?)年金生活をしている人
が何人かいる。しかし彼らの生活を見ていると、五年前、さらには一〇年前の生活とどこも違
わない。それはちょうど、子どもがブロックで遊びながら、小さな家を作っては、また壊すという
作業に似ている。壊したあとから、また同じものを作っているから、何となく生きているようには
見えるが、また小さな家を作ってはこわしてしまう。そんな感じだ。

 どこか、否定的なことばかり書いてきたが、では、どう考えたらよいのか。もう一度、考えを整
理してみたい。

●生きザマを求めて……

 たとえば家柄や学歴にこだわる人は多い。地位や肩書きにこだわる人も多い。人はそれぞ
れだが、この「こだわり」が強ければ強いほど、現実の自分を見失う。言うならばこれらはバー
チャル(仮想現実)の世界。そういうものにこだわっている人は、テレビゲームに夢中になって
いる子どもと、どこも違いはしない。あるいはどこがどう違うというのか。

 人は生きるために食べる。食べるために働き、仕事をする。それが人間の原点だ。生きる本
分だ。しかしバーチャルな世界に生きている人にはそれがわからない。仕事をするために生き
ている。中には仕事のために生きることそのものを犠牲にする人さえいる。いや、仕事がムダ
と言っているのではない。要は「今」をどう生きるかであり、その本分を忘れてはいけないという
こと。たとえば、こんな人がいる。

 マクドナルドといえば、世界最大のハンバーガーチェーンだが、その創始者は、R・マクドナル
ド氏。九八年の七月に八九歳でなくなっている。そのマクドナルド氏が、その少し前、彼はテレ
ビのインタビューに答えてこう言っている。

氏は、一九四〇年にハンバーガーショップを始めたが、それからまもなく、一九五〇年にはレ
ストランの権利を、R・クロウ氏に売り渡している。それについて、レポーターが、「損をしたと思
いませんか」と聞いたときのこと。

「もしあのままあの会社にいたら、今ごろはニューヨークのオフィスで、弁護士と会計士に囲ま
れて、つまらない生活をしていることでしょう。(農場でのんびりと暮らしている)今の生活のほう
が、ずっと幸せです」と。

 子どもの教育も同じ。たしかにこの日本には学歴社会があり、それにまつわる受験競争もあ
る。それはそれだが、ではなぜ私たちが子どもを教育するかといえば、心豊かで幸福な生活を
送ってほしいからだ。その本分を忘れてはいけない。その本分を忘れると、学歴や受験のため
に子育てをすることになってしまう。

言うなれば教育そのものをゲーム化してしまう。そして本来大切にすべきものを粗末にし、本
来大切でないものを、大切だと思い込んでしまう。しかしそれは同時に、子ども自身が子どもの
人生を見失うことになる。

 先日も姉(六〇歳)と話したら、こんなことを言った。このところ姉の友だちがポツリポツリとな
くなっていくという。それについて、「どの人も仕事だけが人生のような人だった。何のために生
きてきたのかねえ……」と。

生きる本分を忘れた人の生き様は、それ自体、さみしいものだ。その人が生きたはずの「人
生」がどこからも浮かびあがってこない。それこそ「ただ生きた」というだけになってしまう。それ
ともあなたは、あなたの子どもにそういう人生を送らせたいと思っているか。いやいやその前
に、あなた自身は生きる本分を忘れないで生きているだろうか。一度、いっしょに、自問してみ
ようではないか。
(031117)



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●学習障害児

 とくに知的能力には問題がないと思われるのに、ある特殊な分野のみ、(あるいは広く全体と
して)、「できない」という段階を超えて、「勉強ができない」子どもを、「学習障害児(LD)」と呼ん
でいる。

 学習障害児は、大きく、つぎの八つの分野にわけて考える。

(1)読みができない。……たとえば、本を読ませてみると、独特のたどたどしさを、示す。「秋に
なりとてもすがすがしくなりました」という文章を、「秋・にな・りとて・もすが・すがし・くなりま・し
た」と読む。だから本人も、意味がつかめないばかりか、聞いている人も、何の話かわからなく
なってしまう。

一つずつの言葉が、意味のある言葉として、把握できないための現象と考えてよい。

(2)書きができない。……何度書いても、覚えない、すぐ忘れるを、繰りかえす。英語の単語を
覚えさせても、一時間にやっと、数個(中一レベル)。しかもその直後には、すぐ忘れてしまう。

記憶そのものがされない、記銘障害。保持することができない、保持障害。あるいは記憶とし
て取り出すことができない、想起障害に分けて考える。

(3)計算ができない。……数に独特の、鈍感さを示す。「12は、10と2に分けられる」(小一レ
ベル)と教えても、「12」の概念そのものが理解できない。「10と2で、12」ということも、理解で
きない。

よく観察すると、「ハチ」と言ったとき、「ハチ」という言葉のみにこだわり、「8個」もしくは、「○○
○○○○○○」というふうに、具体的に考えていないのがわかる。

足し算はともかくも、引き算が、できない。「5から3をとる」「引く」という概念そのものが、理解
できない。「4−2」の問題も、4に一度2を足し、そこから2を引いたりする。そのため、答が、4
になったりする。子どもによって、独特の考え方をする。どんな考え方をしているかは、子ども
によって、ちがう。

(4)会話ができない。……言葉のつながりが混乱していて、会話をしていても、何を話している
か、わからなくなる。独特の話し方をする。

たとえば「私が冷蔵庫をあけて、牛乳を飲もうとしたら、兄がやってきて、それを横取りした」と
いうことを話すときも、「私、冷蔵庫を開けると、やってきて、牛乳が、飲んだ、お兄ちゃん」と。

ビジュアルな情景を頭に描きながら、会話をすることができない。そのため、直前の言葉に、
会話そのものが、支配されてしまう。そのため、相手の話を聞くこともなく、一方的に話す傾向
が強くなる。

(5)聞くことができない。……単語の意味はわかっても、「……なので」「……だから」「……のと
き」「……だけれども」というふうに、文をつなげると、意味がわからなくなる。

「昨日は雨だったから、みんなはカサをもってきました」と話しても、「雨」と、「カサ」を直接、結
びつけてしまう。だからたとえば、「雨のカサがどうしたの?」と聞き返したりする。「どうしてカサ
をもってきたの?」と聞いても、「きれいだったから」と答えたりする。

(6)話すことができない。……的確な言葉を、自分で選ぶことができない。そのため、どうして
も、使う言葉の数が少なくなる。「イヤ」「ダメ」「ウウン」というあいまいな言い方で、その場を、
ごまかすことが多い。

たとえば「友だちに、マンガの本を取られた」と言うべきときでも、「マンガ、ぼくのマンが、いや」
というような言い方をする。

(7)論理的に考えることができない。「君は、セキがひどいから、今日は、保健室でマスクをも
らってきて、それをつけてください」と話しても、それを理解することができない。

「保健室へ行くのがイヤ」「マスクをつけるのがイヤ」と、へんなところでがんばってしまう。

そこで、「君が悪いからではない。セキがひどいと、みんなに、うつるかもしれない。みんなが迷
惑をするからだよ」と何度も話すのだが、どこかヌカにクギのような反応しか示さない。

(8)推論することができない。……「お皿が三枚あって、ミカンが、二個ずつ乗っている。そこか
らミカンを、四個取って、食べた。今、残っているミカンはいくつかな」(小三レベル)という問題
を出したとする。

そうでない子どもは、全体の個数(六個)を求め、そこから四を引いて、「答は二個」と言う。

しかしこのタイプの子どもは、数字そのものが、頭の中で乱舞してしまう。答を求めると、「3」
「2」「4」の数字を、勝手に足したり、引いたりして、答を出す。

 原因は、脳の中で、@情報が整理されないケース(ここでいう(1)や(4)など)、A記憶能力
(記銘、保持、想起)に問題があるケース(ここでいう(2)など)、B脳の間の、情報の受け渡し
がうまくできないケース(ここでいう(6)や(7)など)に分けて考える。

 脳の中枢神経系および、脳間伝達物質のどこかに機能的な障害があるのが、原因と思われ
る。しかしここにも書いたように、症状が複雑、かつ千差万別で、また、ある特定分野に、強く
障害が現れることもあって、その把握がむずかしい。

 一般の遅進児とちがい、どこか独特の、ヌボーッとした表情を示すことはある。しかしそういう
表情をしているから、学習障害児ということにはならない。また言動が活発な子どもの中にも、
ここでいう学習障害児と呼んでよい子どもも、よく見られる。

【W君のケース】

 私は、W君を、小学一年の終わりから、中学二年の終わりまで、最終的には、週三回、家庭
教師として、教えた。

 W君の第一印象は、集中力が、極端に不足していたこと。学習に集中できるのは、ほんの数
分。ものごとにあきっぽく、それでいて、退屈する様子でもない。

 母親は、「文字を覚えない」「言葉の発達が遅れている」などと言ったが、とくに記憶が苦手だ
った。

 ……ここまで書いて、以前、そのW君について書いた原稿のことを思い出した。直接、学習
障害児について書いたものではないが、それをここに添付する。

++++++++++++++++++

●ただより高いものはない

 昔から『ただより高いものはない』という。教育の世界ほどそうで、とくに受験勉強のような「き
わもの」は、割り切ってプロに任せたほうがよい。

実のところ、私も若いころ、受験塾の講師もしたことがあるが、身内や親戚、あるいは親しい知
人の子どもについては、引き受けなかった。理由はいくつかある。

 まず受験勉強ほど、その子どものプライバシーに切り込むものはない。学校での成績を知る
ということは、そういうことをいう。つぎに成績があがればよいが、そうでなければ、たいていは
人間関係そのものまでおかしくなる。ばあいによっては、うらまれる。

さらに身内や親類となると、そこに「甘え」が生じ、この甘えが、金銭関係をルーズにする。私も
ある時期、遠い親戚の子ども(小二のときから中二まで)預かったことがあるが、最後は月謝と
いっても、ほとんどただに近いものだった。しかし最初こそ感謝されても、半年、一年とたつと、
それが当たり前になってしまう。が、本当の問題は、これだけではない。

 受験指導というが、子どもの側からみると、「しごき」以外の何ものでもない。子どもの側で考
えてみれば、それがわかる。勉強がしたくて勉強する子どもなど、いない。偏差値はどうだ、順
位はどうだ、希望校はどこだとやっているうちに、子どもの心はどんどんと離れていく。

私もある時期、ほんの数年前までだが、受験期の子どもについては、無料で(本当に無料
で!)、七月から一一月ごろまで、ほとんど毎晩部屋を開放して受験指導をしたことがある。夜
七時から一一時ごろまで、である。

教えたといっても、ときどき顔を出し、勉強の進みぐあいをみたり、わからないところを教えた
程度だが、しかし率直に言えば、親に感謝されたことはあっても、子どもに感謝されたことは一
度もなかった。

受験勉強というのは、もともとそういうもの。「教育」という名前を使う人もいるが、受験指導は
指導であって、教育ではない。もともと豊かな人間関係が育つ土壌など、どこにもない。

 そこで本論。中に子どもの受験勉強を、親類や知人に頼む人がいる。そのほうが安いだろう
とか、ていねいにみてもらえるだろうとか考えて、そうするが、実際には、冒頭に書いたように、
ただより高いものはない。相手がプロなら、成績がさがれば、「クビ!」と言うこともできるが、
親類や知人ではそういうわけにもいかない。ズルズルしている間に、あっという間に受験期は
過ぎてしまう。そんなわけで教訓。

受験勉強は、多少お金を出しても、その道のプロに任せたほうがよい。結局はそのほうが安全
だし、長い目で見て、安あがりになる。

++++++++++++++++

 W君の指導を断ったのは、親の期待にそえないと判断したため。少し成績が伸びれば、「も
っと……」と言う。しかしさがれば、「どうして……」「もっと時間をふやしてほしい」と言う。それ
で、私のほうが疲れてしまった。この静岡県では、中二から中三が、受験競争のピークを迎え
る。親たちが、もっとも神経質になるのは、この時期である。

 そのW君は、時間ツブシが、うまかった。つぎにエッセーは、その「時間ツブシ」について、書
いたもの。直接W君についてではない。時間ツブシというのが、どういうものか、わかってもらえ
ると思う。

++++++++++++++++

●三〇分で五分

 子どもの勉強は、三〇分やって五分と思うこと。つまり三〇分の間で、五分間だけ勉強らしき
ことをすればよいとみる。家庭でする勉強というのは、しょせんそういうもの。

小学一年生や二年生が、家へ帰ってから、一時間も二時間も、黙々と漢字の書き取りをする
ほうがおかしい。もしそうなら、心の病気を疑ってみたほうがよい。

 無理や強制が日常化すると、子どもは勉強から逃げるようになる。これは当然のことだが、さ
らにその症状が進むと、@フリ勉、A時間つぶしがうまくなる。フリ勉というのは、いかにも勉強
していますという様子だけを見せる勉強法をいう。が、その実、何もしていない。たとえば一時
間で、計算問題を数問解くだけ、あるいは英文を数行書くだけなど。つぎに時間つぶし。つめを
ほじったり、鉛筆をかんだりして、時間ばかりムダにする。先生や親の視線を感ずると、そのと
きだけ、いそいそと本のページをめくってみせたりする。

 こうしたフリ勉や時間つぶしをするようになったら、家庭教育のあり方をかなり反省したほうが
よい。……というより、一度、こういう症状(これを「空回り」という)が身につくと、それをなおす
のは容易ではない。たいてい(親が叱る)→(ますますフリ勉、時間つぶしがうまくなる)の悪循
環の中で、子どもは勉強から遠ざかっていく。

 要は集中力の問題。ダラダラと時間をかけるよりも、短時間にパッパッと勉強を終えるほう
が、子どもの勉強としては望ましい。実際、勉強ができる子どもというのは、そういう勉強のし
方をする。私が今知っている子どもに、K君(小四男児)という子どもがいる。彼は中学一年レ
ベルの数学の問題を、自分の解き方で解いてしまう。

そのK君だが、「家ではほとんど勉強しない」(母親)とのこと。「学校の宿題も、朝、学校へ行っ
てからしているようです」とも。

 ついでながら静岡県の小学五、六年生についてみると、家での学習時間が三〇分から一時
間が四三%、一時間から一時間三〇分が三一%だそうだ(静岡県出版文化会発行「ファミリ
ス」県内一〇〇名について調査・二〇〇一年)。

 小学六年生で、だいたい一時間程度勉強すれば、ほぼ平均的とみてよい。

++++++++++++++++

 たとえば一時間、W君の横にすわっていたとする。するとW君は、「さも、考えています」という
ようなフリをして、頭をかかえて、下を向いている。そして私の視線を感じたときだけ、鉛筆を動
かすフリをする。

 しかし実際には、一時間で、英語の単語を数個しか書いていない! ……つまりこういう勉強
を繰りかえす。もちろん、時間の割には、効果はない。まったく、ない。

 こうした学習障害児で問題なのは、親にそれだけの自覚と、理解がないこと。「やればできる
はず」と、子どもを追いたてる。症状を、こじらせるだけ、こじらせてしまう。つまり「障害」がある
上に、子どもを、勉強嫌いにしてしまう。

 W君にしても、最初私のところへやってきたとき、バッグいっぱいのワークブックをもってき
た。しかも、難解なものばかり! こうした無理が、子どもの症状をこじらせてしまう。

 ……と、ショッキングなことばかり書いたが、こうした「障害」(この言葉は、本当に不愉快だが
……)をもった子どもこそ、暖かいケアが必要なことは言うまでもない。たしかに勉強は苦手だ
が、だからといって、それは子どもの責任ではない。子どもを伸ばすコツは、「苦手分野を克服
することではなく、得意分野をさらに伸ばす」である。得意な分野が、さらに伸びれば、苦手な
分野も、つられて伸びるということは、よくある。つまりどんな子どもにも、それぞれ、よい面が
ある。そのよい面をみつけ、それを伸ばす。

 もう一人、印象に残っている子どもに、T君がいた。そのT君について書いたのが、つぎの原
稿である。

++++++++++++++++

●どんな雲にも銀のふちどり

 イギリスの格言に、『どんな雲にも銀のふちどり』という格言がある。つまりどんな雲にも、そ
のまわりには銀色に輝くふちどりがあることを言ったもの。「どんなに苦しいときでも、必ず希望
があるから、その希望を捨ててはいけない」と。

 ひとつの固定した視点からみると、どうしても絶望的にならざるをえない子どもというのは、た
しかにいる。T君(中一男子)がそうだった。何を教えても、ザルで水をすくうように、その教えた
ことがどこかへ消えていく。

教室といっても、私の教室は一クラス五、六人の小さな教室だが、しかしT君のような生徒がい
ると、ほかの生徒がどんどんとやめていく。それくらいT君というのは学校でも有名な(?)子ど
もだった。

で、彼が中学三年生になるころには、生徒は二人だけになってしまった。いや、少しでもT君が
ふざけた態度をしたら、それを理由に私はT君を教室から追い出していたかもしれない。が、T
君はただひたすらに私のところで勉強をした。

そんなある日のこと、私はT君にこう言った。「どんな大工でも建てたところからどんどん壊され
たら、怒るぞ」と。教えても教えてもそれがムダになっていく自分のはがゆさを、K君にぶつけ
た。が、それでも、T君は涙をこぼしながら、私に従った。

 希望というのは、視点を変えると、それが希望でなくなるときがある。しかし視点を変えると、
今まで以上に明るく輝き始めるときがある。あるいは希望など何もないと思っていたところに、
実はすばらしい希望が隠されていたりすることがある。

大切なことは、そのつど視点を変えたり、あるいはもう一度、自分を振り返ってみることだ。もっ
と言えば希望は向こうからやってくるものではない。見つけるもの。

 そののち、T君は高校進学をあきらめ、調理師の専修学校に入学。今は家業であるラーメン
屋を手伝っている。で、ある日、そのラーメン屋へ行ってみると、T君がちょうど配達のラーメン
をどこかへ届けるところだった。

私が母親に、「元気そうですね」と声をかけると母親はこう言って笑った。「まじめだけがとりえ
でねえ」と。T君にとっては、その「まじめ」こそが、銀のふちどりだったということになる。

+++++++++++++++++

 こうした学習障害児で、教えていてつらいのは、あることがせっかくできるようになっても、学
校の勉強が、いつもさらに先に進んでしまうということ。たとえば掛け算がやっと理解できるよう
になったころには、学校では、もう割り算の学習が終わっているなど。

 こうしてこのタイプの子どもは、「なまけ者」「落ちこぼれ」というレッテルを張られ、人知れず
苦しみ、そしてキズつく。もちろん自信もなくすが、そのまま心をゆがめることもある。

 先のW君だが、こんな事件があった。

 W君は、中学二年生だったが、私の事情で、小五のクラスで勉強してもらったことがある。そ
のときのこと。W君が、私の目を盗んでは、小五の男の子を、いじめていた。「お前、こんなの
もできないのか。バカだなあ」と。

 ふつうの言い方ではなく、陰湿ないじめ方だった。

 で、W君は、六年間、私の教室に通ってくれたが、その間、W君にしてみても、苦痛の連続で
はなかったかと思う。よく図書館や、近くの本屋、ゲームセンターや、飲食店につれていってや
ったが、そういうことをしても、彼の心を救うことはできなかった。

 事実、W君が私の教室をやめるとき、W君は、どこか私を蹴飛ばすようにして、やめていっ
た。以後、W君はもちろんのこと、母親からも、一度も連絡はない。

 このあたりが、「私の限界」だと思う。つまり、こうした障害のある子どもを、「ワク」の中に、無
理の押しこもうとすること自体、まちがっている。たとえば勉強の遅れている子どもに、残り勉
強をさせたとする。教える側は、子どものためと思って、そうするが、子ども自身は、それを自
分のためとは、とらえない。「バツ」ととらえる。つまり残り勉強までさせて、「ワク」に閉じこめよ
うとすること自体が、まちがっている。

だからといって、あきらめろということではない。しかし一方、だからといって、今のままでよいと
は、だれも思っていない。

 日本の教育、なかんずく、受験教育の世界では、「みなが、一〇〇点でも困る。差がつかな
いから。しかしみなが、〇点だと、もっと困る。差がわからないから」が基本になっている。つま
り、人間選別が、その基本になっている。

 こういう世界では、「できる子ども」が、生まれる一方、その反面、必然的に、「できない子ど
も」が生まれる。そしてその「できない子ども」は、その底辺へと追いやられる。「学習障害児」と
いう言葉も、そういう「できない子ども」の間から、生まれてきた言葉である。

 教育のレベルの高さは、弱者にいかにやさしいかで決まる。進学率や、進学実績ではない。
日本では、進学率の高い学校ほど、「よい学校」ということになっているが、それこそが日本の
社会の不平等性の象徴ということになる。

 学習障害児であるにせよ、ないにせよ、要は、一人ひとりにあった教育が可能になるよう、私
たちは、前に向かって努力しなければならない。今、その第一歩が、始まったばかりである。

 こうして、「障害児」というレッテルを張り、その分析をすることは、私はあまり好きではない
が、ここに書いたことが、その第一歩のヒントになれば、うれしい。
(031117)




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10

●断絶する親子

 埼玉県U市にお住まいの、SHさん(女性・主婦)の方から、義父母との問題について、メール
をいただきました。それについて、考えてみたいと思います。ただ、そのあと、SHさんからのメ
ールの掲載について、承諾が得られませんでしたので、こちらでメールの内容を、要約させて
いただきます。

+++++++++++++++++++

【SHより、はやし浩司へ】

 私の夫と、両親(私にとっては、義父母)とは、断絶しています。きっかけは、夫が、職を変え
たことについて、その職を認めてくれなかったこと。「そんな職は、中卒の仕事だ」と、軽蔑した
ことです。その精神性の低さには、驚くばかりです。

 また義母が、何かにつけて、私たち夫婦に干渉してきたこともあります。「こうあるべき」という
親子像をつくり、それを私たちに押しつけてきました。

 それで夫が、ある日、とうとう、義父母に、絶縁を申し出ました。

 夫には、姉(私の義姉になります)がいますが、義父母と義姉は、ともに子離れできない、親
離れできない関係にあります。ベタベタの関係です。そのため義姉は、私から見ると、まさにド
ラ娘という感じがします。

 その義姉も、あれこれ、私たちに干渉してきます。間に一人、叔母がいるのですが、その叔
母も、あれこれ干渉してきます。

 義父母は、モノや権力に執着する人です。私が生まれ育った家庭とは、あまりにもちがうた
め、とまどっています。その上、義父は、かんしゃく発作のある人で、自分の気に入らないこと
があると、大声を出したり、暴れたりします。

 このまま断絶していていいとは思いませんが、こういうときは、どうしたらいいのか、どうかアド
バイスをお願いします。
(埼玉県U市、SHより)

++++++++++++++++++

【SHさんへ】

 こうしたケースでは、親を説得して……とか、親に理解してもらおう……と考えても、意味はあ
りません。ムダです。親自身が、何らかの方法(たとえば、私のマガジンを読むとか……)で、
自分で気がつくしかありません。

 私の身内のケースも含めて、親が変わったという事例は、ありません。その親自身の人生観
がからんでいるため、ことはやっかいです。ヘタに責めると、親自身が、役割混乱を起こしてし
まいます。自己否定から、自己嫌悪に陥ることもあります。つまりは、混乱状態になるというこ
とです。狂乱状態になることも、珍しくありません。

 今、思い出した事例に、こんな話があります。

 その家では、父親と息子の、喧嘩(けんか)が絶えませんでした。そこで息子が、近くの占い
師にみてもらったところ、「あなたの家には、神様と、仏様がいる。どちらか一方にしなさい」と。

 そのあたりでは、どこの家でも、神様と仏様の両方を祭っています。で、その息子は、その占
い師の言葉を真に受けて、家に帰って、「神様を処分する」と言い出したのです。

 さあ、たいへん! ふつうでも一触即発の状態なのに、息子が、神様を処分すると言いだし
たのです。この事件は、父親と息子の間で、「殺す」「殺してやる」の大騒動になってしまいまし
た。妻が止めに入ったときには、父親が、ナタを息子に振りおろす寸前だったといいます。

 あなたの義父母についていうなら、義父は、かなりの権威主義者ですね。昔ながらの男尊女
卑思想のもち主かもしれません。学歴信仰、出世主義的なものの考え方も、見え隠れします。
見栄、メンツ、世間体だけで生きている人かもしれません。この世界には、「そんな仕事」も、
「こんな仕事」もありません。「中卒の仕事」も、「大卒の仕事」もありません。

 こういうケースでは、問題がこじれると、とことんこじれます。親子であるだけに、問題は、か
えって深刻になります。(他人なら、たがいに蹴飛ばして、別れることもできますが、親子だと、
それもできません。)

 で、行くつく先は、断絶か、さもなければ、妥協して生きるかのどちらかになります。しかしそ
れとて、簡単なことではありません。そこに親類、縁者がからんでくるからです。あなたのばあ
いは、義姉や叔母など。

 こういうとき、外国の人は、おもしろい割り切り方をします。たとえば『二人の人に、いい顔は
できない』という格言があります。たとえ親でも、よい顔ばかりはしておられないという意味で
す。夫の立場で、「妻を選ぶか(結果として、親と断絶するか)、親を選ぶか(結果として、妻と
離婚するか)」となれば、まちがいなく、夫は、妻を選びます。

 断絶するにしても、そのあたりまで割り切らないと、問題は、解決しません。つまり「親戚(義
姉、叔母ほか)に、どう思われようが、知ったことではないという、割り切りです。親とは断絶し
ながら、しかし義姉や叔母とは、うまくつきあうというのは、さらに難しいことです。

 改めて「断絶」という言葉は使わないで、ここは自然の成り行きにまかせるのが、最善かと思
います。この種の問題は、ここにも書いたように、こじれると、とことん、こじれます。そのため、
それに巻きこまれた当事者たちは、とことん、神経をすり減らします。

 もちろん義父には、いくつかの問題があります。戦後の高度成長期にサラリーマンをしてきた
人は、独特の、社会観をもっています。仕事第一主義もそうです。金権主義もそうです。それか
ら「モノ」への執着心も、ほかの世代にくらべて、強いです。

 つまりは、義父の世代は、私の世代ということになりますが、この世代は、戦前というか、江
戸時代の身分制度という亡霊も、引きずっています。仕事によって、人間を判断するというか、
人間の価値を、その仕事で決めるようなところがあります。いわゆる「いい仕事」と、「悪い仕
事」を区別します。

 「いい仕事」というのは、いわゆる学歴によって裏打ちされたような仕事をいいます。「悪い仕
事」というのは、そうでない仕事をいいます。おかしいですね。本当に、おかしいですね。

 しかしこうしたおかしさを、この世代にぶつけても、意味はありません。この世代の人たちは、
そういう価値観の中で生きてきました。ですからここで、「あなたがたの価値観はおかしい」など
と言うと、この世代の人たちは、役割混乱を起こしてしまうのです。

 私は、あなたの義父と同じ世代の人間ですが、しかし若いころ、幸いにも、世界中を渡り歩い
ていました。オーストラリアにしばらく留学していたこともあります。そういう経験をとおして、そ
の「おかしさ」に、若いころ、気づくことができました。

 このことは、私の『世にも不思議な留学記』の中に書いておきました。また機会があれば、H
Pのほうから、のぞいてみてください。(近く、HTML版のマガジンのほうで、写真入りで、みなさ
んに、お届けするつもりでいます。)

 いわば私たちは、化石のような世代です。しかし同時に、あわれむべき世代でもあります。

 私たちの世代は、一方で親に仕(つか)え、一方で、子どもに仕える世代です。わかりやすく
言うと、私のばあいも、二三、四歳のころから、収入の約半分は、実家の母に届けていました。
しかし親となった今、今度は、息子たちに対しては、お金は、いまだに出ていく一方です。こうい
うのを、『両取られ』というのですね。

 あなたの義父のぼやきも、そんなところにあります。

 親の権威も失墜しました。「親だから……」という、威光も通じなくなりました。昔の子どもな
ら、「お父様」「お母様」と、ひざまづいたものですが、今は、そういう時代でもありません。

SHさんの義父母は、「親は絶対」と教えられて育ってきた世代です。で、今度は、自分が親の
立場になり、「親の私は絶対」と考えるわけです。そしてそれに応じない子どもは、「できそこな
い」となるわけです。

考えてみれば、おかしな間隔ですが、しかし感覚というか、意識は、そんなに簡単には変えら
れません。今、SHさんが感じておられる世代ギャップというのは、そのあたりから生まれてきて
います。

 この問題は、成りゆきに任せるしかありません。努力して、どうにかなる問題でもありません。
少し前までなら、SHさん夫婦のような方は、「親不孝者」(多分、あなたの義父は、そう思って
いるはずです)と、ののしられたものですが、今は、そういう時代でもありません。

 親子関係も、基本的には、一対一の人間関係です。人間と人間の関係です。こわれるとき
は、こわれます。またこわれたからといって、だれの責任とか、また失敗とかいうことでは、あり
ません。

 問題はこわれることによって、その当事者が、苦しむことです。たいていは、お節介焼きの叔
父や叔母がいて、それに介入してきます。「親子はこうあるべきだ」という通俗的な常識を押し
つけてきます。

しかしね、SHさん、世の中には、親をだます子どもはいくらでもいますが、子どもをだます親だ
って、いくらでもいるのです。子どもを虐待している親だって、います。そういう親をもった子ども
に対して、「親孝行をしろ」「親を絶対と思え」と言っても、酷というものです。

 どこかきびしいことを書きましたが、親であるということは、それくらいきびしいことなのです。
今まで、日本人は、いわゆる甘えの構造(ベタベタの依存関係)の中で、その「きびしさ」を、見
落としてきたのではないでしょうか。

 あなたの義父は、「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」と考えているかも
しれません。しかしこれほど、身勝手な考え方もありません。勝手に産んでおいて、「産んでや
った」とは! 産んだ以上、育てるのが義務ではありませんか。それを「育ててやった」とは!

 しかし、です。今さら、こんなことを義父母に言っても、意味はありません。あなたはあなた
で、義父母たちは、そういう世代だと知った上で、納得すればよいのです。本来なら、そういう
「おかしさ」を気づかせてあげたいのですが、それは前にも書いたように、それを知れば、あな
たの義父母は、かえって大混乱するだけです。だから、ここは、そっとしておいてあげましょう。

 ただ全体として、SHさんの生きザマが、内向きなのは、少し気になります。「内向き」というの
は、本来、相手にしてはいけない、あるいは相手にもならない人たちを、相手にしすぎていると
いうことです。

 私の近所にも、そういう老人がいます。私のほうは、まったく相手にしていないのですが、何
かにつけて、私を相手にしてくる老人です。本人は、大まじめなのですね。私のほうが無視す
ればするほど、ムキになってくるという感じです。(この話は、SHさんとは、逆の話ということに
なりますか?)

 要するに、義父母など相手にしないこと。あなた自身が、「精神性が低い」という言葉を使って
おられます。そう、精神性は、低いのです。「親だから、それなりの精神性をもっているはず」と
いう幻想をもちやすいですが、人間も、四〇歳をすぎると、精神性の向上は、停止します。そし
てそれ以後は、かえって低下します。(人にもよりますが……。)

 ウソだと思うなら、新幹線に乗ってごらんなさい。周囲の迷惑も考えずに、ギャーギャーと大
声で騒いでいるのは、そのレベルのオバチャン連中(失礼!)たちです。ただひたすら、ペチャ
クチャと、意味のないことをしゃべっているオバチャン連中(失礼!)もいます。しかもその話の
内容の、低俗なことと言ったら、ありません。むしろ、幼児たちのほうが、聞き分けがよいくらい
です。ホント!

 今、義父母が気になるというのは、ひょっとしたら、あなたも、その義父母と同じレベルにいる
ことが疑われます。だから気になる……。だから対立する……。だから断絶する……。

 そこでどうでしょう。たとえば私のHPの「随筆集」でも、片っ端から読んでみて、(コマーシャル
ですみません……)、そういう人たちを乗り越えてみては……。もし私の随筆集を読んでくださ
れば、そのあと、義父母が、小さく、とるに足りない人たちだとわかってくるはずです。

 そしてあなたはあなたで、前向きに、外に向かって、何かにぶつかっていけばよいのです。あ
なたにも、したいことがあるでしょう。できることがあるでしょう。それを追求するのです。そして
結果として、精神性の低い義父母など、相手にしなくなることです。

 私も、この幼児教育の世界に入るとき、母には泣かれました。母は、半狂乱になりました。そ
のことは、別のところでまた書きますが、たとえば私が子ども時代には、「役者(今のタレント)」
たちは、最下層の人間に思われていました。「マンガ家」というだけで、バカにされたものです。
「幼稚園の講師」というのは、さらに下でした。

 そういう価値観がいかにおかしいかは、すでにSHさんが、お気づきのとおりです。

 以上のことから、私はつぎのようにアドバイスします。

(1)義父母との関係の修復は、自然体に任せなさい。まだお元気のようですから、今しばらく、
放っておいてあげればよいでしょう。あまり深く考えないで。また肩に力を入れないで。あなた
のほうは、会いたければ会いに行けばよいし、会いたくなければ、会わなくてもよいのです。

(2)今、あなたの価値観と義父母の価値観は、はげしく対立しています。で、あなたの価値観
はともかくも、相手(つまりは敵)の価値観を、まず知ることです。どんな価値観を、またどうし
て、そういう価値観をもつようになったか、をです。意外と単純な価値観ですよ。あるいは、「価
値観」と呼べるような価値観ではないかもしれません。

私なども、よく、旧世代の人たちに、叩かれます。本当に、よく叩かれます。「君は、日本人の
美徳である、孝行論を否定するのか?」「先祖を否定する教育者は失格だ!」「君には、日本
人としてのアイデンティティはないのかね?」「欧米かぶれしすぎている」とか。ごく最近も、「君
のような頭でっかちの人間が、教育論を説いてもらっては困る」と言ってきた人もいます。

(3)義父母のような世代は、相手にしないことです。本気に相手にしても、意味はありません。
私も、いろいろな原稿を書いていますが、またいろいろな人と議論しますが、相手が、その程
度の「精神性」しかもっていないとわかったときには、相手にしないようにしています。「適当に
……」という言い方は、誤解を生みやすいですが、適当に、つきあっておけばよいのです。

たとえばその人が、「親を粗末にするものは、地獄へ落ちる」などと言ったら、「そうですよ。そう
ですとも」と言ってあげればよいのです。それが、相手を乗り越えるという意味です。一度、た
めしてみてください。相手を、人格者だと思わないこと。未熟な幼児だと思えばよいのです。

わかりやすく言えば、頭のネジがサビついたような人は、相手にしないこと。一見、ズルい言い
方に聞こえるかもしれませんが、その人はその人なりに、懸命に生きてきたのです。ですから
精神性はともかくも、その「懸命さ」を感じたら、一歩退いてあげる。そういう意味で、「相手にし
ない」です。

 こうした問題をかかえて悩んでいるのは、あなただけではありません。今、本当に多いです。
こうした問題のない家庭のほうが、少ないのではないかと思います。そういう意味では、今、日
本は、大きな過渡期にきています。今、SHさんが経験しておられる混乱は、まさにその過渡期
の混乱ということになります。

 私たちが、今、すべきことは、そういう過渡期にあって、この流れを、決して逆行させてはなら
ないということです。もっとも、その過渡期も、ほぼ終盤を迎えたというか、終わりつつあります
が……。

 最後に、一言。

子どもが親のために犠牲になるのは、美徳でも何でもないのです。それともあなたは、あなた
の子どもがあなたのために犠牲になるのを、よしとしますか。それでよいですか。

 一方、同時に、親が子どものために犠牲になるのも、もう美徳でも何でもないのです、それと
もあなたは、あなたの親が、あなたに、「私の人生は、おまえのために尽くした。お前こそが、
私の生きがいだった」と言ったとき、それを喜びますか。それでよいですか。

 そういう視点で、これからの親子関係を、いっしょに考えていきましょう。ここに書いたことが、
何かの参考になれば、うれしいです。
(031118)



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11

●さらけ出し

 たがいの信頼関係を結ぶためには、たがいに(さらけ出し)、そしてそれを、たがいに(受け
入れ)なければならない。

 この(さらけ出し)と、(受け入れ)があってはじめて、その上に、信頼関係が、結ばれる。

 ここで「たがいに」という言葉を使ったが、それは一方的なものであってはいけない。相互的
なものでなければならない。たとえば親子の関係で、考えてみよう。

 たとえば母親が、子どもの前で、プリプリと、ガスを放出したとしよう。これはいわば、母親の
(さらけ出し)になる。

 そのときその臭いをかいだ子どもが、「ママ、臭いよ! こんなところでしないで!」と叫んで
笑えば、子どもは、それを(受け入れた)ことになる。

 一方、今度は、子どもが、ガスを放出したとする。同じように母親が、「臭いわねえ。こんなと
ころでしないで!」と子どもを叱り、子どもも、ヘラヘラと笑ってすませば、(さらけ出し)と、(受け
入れ)が、できたことになる。

 わかりやすいので、ガスを例にあげたが、私がいう(さらけ出し)と、(受け入れ)とは、こういう
ことをいう。

●さらけ出しの障害

このさらけ出しは、ここにも書いたように、相互的なものでなければならない。しかしそのさらけ
出しが、たがいにうまくできないときがある。何らかの障害があって、どこかで心にブレーキを
かけてしまうようなばあいである。私は、その障害として、二つのものを考える。

その二つというのは、物理的障害と、精神的障害である。何だか、理科の学習のようになって
きたが、ほかによい言葉が、思い浮かばなかったので、この言葉を使う。

 物理的障害というのは、たとえば親側の威圧、権威主義、あるいは育児拒否、冷淡、無視
で、子どもの側から、さらけ出しができないことをいう。母親の中に潜む、何かのわだかまり
や、こだわりが原因となることが多い。望まない結婚であったとか、望まない子どもであったと
か、など。家庭騒動や、経済問題、健康問題が、「わだかまり」になることもある。

 この物理的障害が、子どもの(さらけ出し)の障害になる。

 精神的障害というのは、母親自身の心に問題があって、子どもの側からの(さらけ出し)を、
受け入れることができない状態をいう。あるいは母親自身が、自分をさらけ出すことができない
状態をいう。

 母親自身が、不幸にして不幸な家庭に育てられた、など。そういう意味で、子育てというの
は、世代を超えて、親から子どもへと、連鎖しやすい。母親自身が、子どものころ、その親に、
何かの理由があって、自分をさらけ出すことができなかった。だから今度は、自分の子どもに
対して、自分をさらけ出すことができない……というようにである。

 この精神的障害が、子どもの(さらけ出し)の障害になる。

●母子関係の不全
 
 母子関係の不全が、子どもにいかに大きな影響を与えるか。今さら、ここで改めて言うまでも
ない。

 たとえば乳幼児期の母子関係の不全が、そのあと、子どもの心のみならず、身体の発育に
も、深刻な影響を与えるということがわかっている。たとえば乳児院や孤児院での、子どもの死
亡率が高いなどの事実は、以前から、指摘されている。

こうしたことから、J・ボウルビーらは、「母親の愛情は、子どもの精神衛生の基本である」と説
いた。

 さらにR・A・スピッツや、W・ゴールドファーブらは、知的な発育にも、悪影響があることを指
摘している。

 ここで問題になるのは、母子関係は、ここに書いたとおりだが、では、父親と子どもの、父子
関係はどうかということ。

 これについては、母子関係と、父子関係は、平等ではない、つまり同じ親子関係でも、異質
のものであるというのが、通説と考えてよい。

 母親というのは、妊娠期間の間、子どもを、自分の体内に宿す。そして子どもが生まれたあと
も、乳を与えるという意味で、子どもの「命」を育てる。つまり母子関係は、その当初から絶対
的なものであるのに対して、父子関係は、あくまでも「(精液)一しずく」の関係でしかない。

 フロイトも、そうした父子関係を指摘しながら、「血統空想」という言葉を使って、母子関係と父
子関係の基本的な違いを説明している。

 つまり自分と母親との関係を疑う子どもはいない。しかし自分と父親の関係を疑う子どもは、
多い。「私(ぼく)は、ひょっとしたら、あの父親の子どもではないぞ。私(ぼく)は、もっと血筋の
いい父親の子どもかもしれない」と。こうした空想を、フロイトは、「血統空想」と名づけた。

 わかりやすく言えば、母子関係は、その当初から、絶対的な関係で始まる。しかしそれに比
較して、父子関係は、不安定な関係で始まる。だから、ここでいう(さらけ出し)と、(受け入れ)
は、母子の間では、きわめて自然になされるのに対して、父子の間では、そうではないことが
多い。

 (だからといって、母子の関係が絶対であるとか、父子の関係は、そうでないと言っているの
ではない。現実に、約七%の母親は、自分の子どもを愛することができないと、人知れず、悩
んでいる(※1)。一方、母親以上の愛情を、子どもの感じている父親も少なくない。しかし総合
してみれば、母子の関係は、父子の関係より、濃密であり、その絆(きずな)は、太い。)

 たとえばウンチを考えてみる。「自分のクソは、いい臭い」と言ったのは、あのソクラテスだ
が、母親にとって、自分の子どものクソは、(自分のクソのクソ)ということになる。だからほとん
どの母親にとって、赤ん坊のウンチは、自分のウンチと同じということになる。

 しかし父親が、母親と同じ心境になるためには、いくつかのハードルを越えなければならな
い。その「越えなければならない」という部分が、母子関係と、父子関係の違いということにな
る。

●基本的信頼関係

信頼関係は、母子の間で、はぐくまれる。

絶対的な(さらけ出し)と、絶対的な(受け入れ)。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」と
いう意味である。こうした相互の関係が、その子ども(人)の、信頼関係の基本となる。

 つまり子ども(人)は、母親との間でつくりあげた信頼関係を基本に、その関係を、先生、友
人、さらには夫(妻)、子どもへと応用していくことができる。だから母親との間で構築される信
頼関係を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。

 が、母子との間で、信頼関係を結ぶことに失敗した子どもは、その反対に、「基本的不信関
係」に陥(おちい)る。いわゆる「不安」を基底とした、生きザマになる。そしてこうして生まれた
不安を、「基底不安」という。

 こういう状態になると、その子ども(人)は、何をしても不安だという状態になる。遊んでいて
も、仕事をしていても、その不安感から逃れることができない。その不安感は、生活のあらゆる
部分に、およぶ。おとなになり、結婚してからも、消えることはない。夫婦関係はもちろんのこ
と、親子関係においても、である。

 こうして、たとえば母親について言うなら、いわゆる不安先行型、心配先行型の子育てをしや
すくなる。

●基底不安

 親が子育てをしてい不安になるのは、親の勝手だが、ほとんどのばあい、親は、その不安や
心配を、そのまま子どもにぶつけてしまう。

 しかし問題は、そのぶつけることというより、親にその自覚がないことである。ほとんどの親
は、不安であることや、心配していることを、「ふつうのこと」と思い、そして不安や心配になって
も、「それは子どものため」と思いこむ。

 が、本当の問題は、そのつぎに起こる。

 こうした母子との間で、基本的信頼関係の構築に失敗した子どももまた、不安を基底とした
生きザマをするようになるということ。

 こうして親から子どもへと、生きザマが連鎖するが、こうした連鎖を、「世代連鎖」、あるいは
「世代伝播(でんぱ)」という。

 ある中学生(女子)は、夏休み前に、夏休み後の、実力テストの心配をしていた。私は、「そん
な先のことは心配しなくていい」と言ったが、もちろんそう言ったところで、その中学生には、説
得力はない。その中学生にしてみれば、そうして心配するのは、ごく自然なことなのである。

●人間関係を結べない子ども(人)

人間関係をうまく結ぶことができない子どもは、自分の孤独を解消し、自分にとって居心地の
よい世界をつくろうとする。その結果、大きく分けて、つぎの四つのタイプに分かれる。

(1)攻撃型……威圧や暴力によって、相手を威嚇(いかく)したりして、自分にとって、居心地
のよい環境をつくろうとする。
(2)依存型……ベタベタと甘えることによって、自分にとって居心地のよい環境をつくろうとす
る。
(3)服従型……だれかに徹底的に服従することによって、自分にとって居心地のよい環境を
つくろうとする。
(4)同情型……か弱い自分を演ずることにより、みなから「どうしたの?」「だいじょうぶ?」と同
情してもらうことにより、自分にとって、居心地のよい世界をつくろうとする。

それぞれに(プラス型)と、(マイナス型)がある。たとえば攻撃型の子どもも、プラス型(他人に
対して攻撃的になる)と、マイナス型(自虐的に勉強したり、運動をしたりするなど、自分に対し
て攻撃的になる)に分けられる。

 スポーツ選手の中にも、子どものころ、自虐的な練習をして、有名になった人は多い。このタ
イプの人は、「スポーツを楽しむ」というより、メチャメチャな練習をすることで、自分にとって、
居心地のよい世界をつくろうとしたと考えられる。

●子どもの仮面

 人間関係をうまく結べない子ども(人)は、(孤立)と、(密着)を繰りかえすようになる。

 孤独だから、集団の中に入っていく。しかしその集団の中では、キズつきやすく、また相手を
キズつけるのではないかと、不安になる。自分をさらけ出すことが、できない。できないから、相
手が、自分をさらけ出してくると、それを受入れることができない。

 たとえば自分にとって、いやなことがあっても、はっきりと、「イヤ!」と言うことができない。一
方、だれかが冗談で、その子ども(人)に、「バカ!」と言ったとする。しかしそういう言葉を、冗
談と、割り切ることができない。

 そこでこのタイプの子どもは、集団の中で、仮面をかぶるようになる。いわゆる、いい子ぶる
ようになる。これを心理学では、「防衛機制」という。自分の心がキズつくのを防衛するために、
独特の心理状態になったり、独特の行動を繰りかえすことをいう。

 子ども(人)は、一度、こういう仮面をかぶるようになると、「何を考えているかわからない子ど
も」という印象を与えるようになる。さらに進行すると、心の状態と、表情が、遊離するようにな
る。うれしいはずなのに、むずかしい顔をしてみせたり、悲しいはずなのに、ニンマリと笑って
みせるなど。

 この状態になると、一人の子ども(人)の中に、二重人格性が見られるようになることもある。
さらに何か、大きなショックが加わると、人格障害に進むこともある。

●すなおな子ども論

 従順で、おとなしく、親や先生の言うことを、ハイハイと聞く子どものことを、「すなおな子ども」
とは、言わない。すなおな子どもというときには、二つの意味がある。

一つは情意(心)と表情が一致しているということ。うれしいときには、うれしそうな顔をする。い
やなときはいやな顔をする。

たとえば先生が、プリントを一枚渡したとする。そのとき、「またプリント! いやだな」と言う子
どもがいる。一見教えにくい子どもに見えるかもしれないが、このタイプの子どものほうが「裏」
がなく、実際には教えやすい。

いやなのに、ニッコリ笑って、黙って従う子どもは、その分、どこかで心をゆがめやすく、またそ
の分、心がつかみにくい。つまり教えにくい。

 もう一つの意味は、「ゆがみ」がないということ。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさ
む、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。

ゆがみというのは、その子どもであって、その子どもでない部分をいう。たとえば分離不安の子
どもがいる。親の姿が見えるときには、静かに落ちついているが、親の姿が見えなくなったとた
ん、ギャーとものすごい声をはりあげて、親のあとを追いかけたりする。その追いかけている様
子を観察すると、その子どもは子ども自身の意思というよりは、もっと別の作用によって動かさ
れているのがわかる。それがここでいう「その子どもであって、その子どもでない部分」というこ
とになる。

 仮面をかぶる子どもは、ここでいうすなおな子どもの、反対側の位置にいる子どもと考えると
わかりやすい。

●仮面をかぶる子どもたち

 たとえばここでいう服従型の子どもは、相手に取り入ることで、自分にとって、居心地のよい
世界をつくろうとする。

 先生が、「スリッパを並べてください」と声をかけると、静かにそれに従ったりする。あるいは、
いつも、どうすれば、自分がいい子に見られるかを、気にする。行動も、また先生との受け答え
のしかたも、優等生的、あるいは模範的であることが多い。

先生「道路に、サイフが落ちていました。どうしますか?」
子ども「警察に届けます」
先生「ブランコを取りあって、二人の子どもがけんかをしています。どうしますか?」
子ども「そういうことをしては、ダメと言ってあげます」と。

 こうした仮面は、服従型のみならず、攻撃型の子どもにも見られる。

先生「君、今度のスポーツ大会に選手で、出てみないか?」
子ども「うっセーナア。オレは、そんなのに、興味ネーヨ」
先生「しかし、君は、そのスポーツが得意なんだろ?」
子ども「やったこと、ネーヨ」と。

 こうした仮面性は、依存型、同情型にも見られる。

●心の葛藤

 基本的信頼関係の構築に失敗した子ども(人)は、集団の中で、(孤立)と(密着)を繰りかえ
すようになる。

 それをうまく説明したのが、「二匹のヤマアラシ」(ショーペンハウエル)である。

 「寒い夜だった。二匹のヤマアラシは、たがいに寄り添って、体を温めようとした。しかしくっつ
きすぎると、たがいのハリで相手の体を傷つけてしまう。しかし離れすぎると、体が温まらない。
そこで二匹のヤマアラシは、一晩中、つかず離れずを繰りかえしながら、ほどよいところで、体
を温めあった」と。

 しかし孤立するにせよ、密着するにせよ、それから発生するストレス(生理的ひずみ)は、相
当なものである。それ自体が、子ども(人)の心を、ゆがめることがある。

一時的には、多くは精神的、肉体的な緊張が引き金になることが多い。たとえば急激に緊張す
ると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まり、その結果心臓がドキドキし、さらにその結
果、脳や筋肉に大量の酸素が送り込まれ、脳や筋肉の活動が活発になる。

が、そのストレスが慢性的につづくと、副腎機能が亢進するばかりではなく、「食欲不振や性機
能の低下、免疫機能の低下、低体温、胃潰瘍などの種々の反応が引き起こされる」(新井康
允氏)という。

こうしたストレスが日常的に重なると、脳の機能そのものが変調するというのだ。たとえば子ど
ものおねしょがある。このおねしょについても、最近では、大脳生理学の分野で、脳の機能変
調説が常識になっている。つまり子どもの意思ではどうにもならない問題という前提で考える。

 こうした一連の心理的、身体的反応を、神経症と呼ぶ。慢性的なストレス状態は、さまざまな
神経症による症状を、引き起こす。

●神経症から、心の問題

ここにも書いたように、心理的反応が、心身の状態に影響し、それが身体的な反応として現れ
た状態を、「神経症」という。

子どもの神経症、つまり、心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害)
は、まさに千差万別。「どこかおかしい」と感じたら、この神経症を疑ってみる。

(1)精神面の神経症…恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状(周囲の者には理解できないも
のに対して、おののく、こわがる)、不安症状(理由もなく悩む)など。 
(2)身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、
頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発
熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面で
の神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号とと
らえて警戒する。 
(3)行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面
に現れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無
関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。 
●たとえば不登校

こうした子どもの心理的過反応の中で、とくに問題となっているのが、不登校の問題である。

しかし同じ不登校(school refusal)といっても、症状や様子はさまざま(※)。私の二男はひどい
花粉症で、睡眠不足からか、毎年春先になると不登校を繰り返した。

が、その中でも恐怖症の症状を見せるケースを、「学校恐怖症」、行為障害に近い不登校を
「怠学(truancy)」といって区別している。これらの不登校は、症状と経過から、三つの段階に
分けて考える(A・M・ジョンソン)。心気的時期、登校時パニック時期、それに自閉的時期。こ
れに回復期を加え、もう少しわかりやすくしたのが、つぎである。 
@前兆期……登校時刻の前になると、頭痛、腹痛、脚痛、朝寝坊、寝ぼけ、疲れ、倦怠感、吐
き気、気分の悪さなどの身体的不調を訴える。症状は午前中に重く、午後に軽快し、夜になる
と、「明日は学校へ行くよ」などと、明るい声で答えたりする。これを症状の日内変動という。学
校へ行きたがらない理由を聞くと、「A君がいじめる」などと言ったりする。そこでA君を排除す
ると、今度は「B君がいじめる」と言いだしたりする。理由となる原因(ターゲット)が、そのつど
移動するのが特徴。 
Aパニック期……攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりすると、狂った
ように暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日は休んでもいい」などと言うと、一
転、症状が消滅する。ある母親は、こう言った。「学校から帰ってくる車の中では、鼻歌まで歌
っていました」と。たいていの親はそのあまりの変わりように驚いて、「これが同じ子どもか」と
思うことが多い。 
B自閉期……自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりする。暴力、暴言などの攻撃的
態度は減り、見た目には穏やかな状態になり、落ちつく。ただ心の緊張感は残り、どこかピリピ
リした感じは続く。そのため親の不用意な言葉などで、突発的に激怒したり、暴れたりすること
はある(感情障害)。この段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、不安障害(非現実的な不
安感をもつ。おののく)の症状を示すこともある。が、ふだんの生活を見る限り、ごくふつうの子
どもといった感じがするため、たいていの親は、自分の子どもをどうとらえたらよいのか、わか
らなくなってしまうことが多い。こうした状態が、数か月から数年続く。 
C回復期(この回復期は、筆者が加筆した)……外の世界と接触をもつようになり、少しずつ
友人との交際を始めたり、外へ遊びに行くようになる。数日学校行っては休むというようなこと
を、断続的に繰り返したあと、やがて登校できるようになる。日に一〜二時間、週に一日〜二
日、月に一週〜二週登校できるようになり、序々にその期間が長くなる。

●前兆をいかにとらえるか 
 この不登校について言えば、要はいかに@の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をとる
かということ。たいていの親はひととおり病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理を
する。この無理が症状を悪化させ、Aのパニック期を招く。

この段階でも、もし親が無理をせず、「そうね、誰だって学校へ行きたくないときもあるわよ」と
言えば、その後の症状は軽くすむ。一般にこの恐怖症も含めて、子どもの心の問題は、今の
状態をより悪くしないことだけを考える。なおそうと無理をすればするほど、症状はこじれる。悪
化する。 

※……不登校の態様は、一般に教育現場では、@学校生活起因型、A遊び非行型、B無気
力型、C不安など情緒混乱型、D意図的拒否型、E複合型に区分して考えられている。

 またその原因については、@学校生活起因型(友人や教師との関係、学業不振、部活動な
ど不適応、学校の決まりなどの問題、進級・転入問題など)、A家庭生活起因型(生活環境の
変化、親子関係、家庭内不和)、B本人起因型(病気など)に区分して考えられている(「日本
教育新聞社」まとめ)。しかしこれらの区分のし方は、あくまでも教育者の目を通して、子どもを
外の世界から見た区分のし方でしかない。

++++++++++++++++

【参考】

●学校恐怖症は対人障害の一つ 

 こうした恐怖症は、はやい子どもで、満四〜五歳から表れる。乳幼児期は、主に泣き叫ぶ、
睡眠障害などの心身症状が主体だが、小学低学年にかけてこれに対人障害による症状が加
わるようになる(西ドイツ、G・ニッセンほか)。集団や人ごみをこわがるなどの対人恐怖症もこ
の時期に表れる。ここでいう学校恐怖症はあくまでもその一つと考える。

●ジョンソンの「学校恐怖症」

「登校拒否」(school refusal)という言葉は、イギリスのI・T・ブロードウィンが、一九三二年に最
初に使い、一九四一年にアメリカのA・M・ジョンソンが、「学校恐怖症」と命名したことに始ま
る。ジョンソンは、「学校恐怖症」を、(1)心気的時期、(2)登校時のパニック時期(3)自閉期
の三期に分けて、学校恐怖症を考えた。

●学校恐怖症の対処のし方

 第一期で注意しなければならないのは、本文の中にも書いたように、たいていの親はこの段
階で、「わがまま」とか「気のせい」とか決めつけ、その前兆症状を見落としてしまうことである。
あるいは子どもの言う理由(ターゲット)に振り回され、もっと奥底にある子どもの心の問題を見
落としてしまう。しかしこのタイプの子どもが不登校児になるのは、第二期の対処のまずさによ
ることが多い。

ある母親はトイレの中に逃げ込んだ息子(小一児)を外へ出すため、ドライバーでドアをはずし
た。そして泣き叫んで暴れる子どもを無理やり車に乗せると、そのまま学校へ連れていった。
その母親は「このまま不登校児になったらたいへん」という恐怖心から、子どもをはげしく叱り
続けた。

が、こうした衝撃は、たった一度でも、それが大きければ大きいほど、子どもの心に取り返しが
つかないほど大きなキズを残す。もしこの段階で、親が、「そうね、誰だって学校へ行きたくない
ときもあるわね。今日は休んで好きなことをしたら」と言ったら、症状はそれほど重くならなくて
すむかもしれない。

 また第三期においても、鉄則は、ただ一つ。なおそうと思わないこと。私がある母親に、「三
か月間は何も言ってはいけません。何もしてはいけません。子どもがしたいようにさせなさい」
と言ったときのこと。母親は一度はそれに納得したようだった。しかし一週間もたたないうちに
電話がかかってきて、「今日、学校へ連れていってみましたが、やっぱりダメでした」と。

親にすれば一か月どころか、一週間でも長い。気持ちはわかるが、こういうことを繰り返してい
るうちに、症状はますますこじれる。

 第三期に入ったら、@学校は行かねばならないところという呪縛から、親自身が抜けること。

A前にも書いたように、子どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを考えて、子
どもの様子をみる。

B最低でも三か月は何も言わない、何もしないこと。子どもが退屈をもてあまし、身をもてあま
すまで、何も言わない、何もしないこと。

C生活態度(部屋や服装)が乱れて、だらしなくなっても、何も言わない、何もしないこと。とくに
子どもが引きこもる様子を見せたら、そうする。よく子どもが部屋にいない間に、子どもの部屋
の掃除をする親もいるが、こうした行為も避ける。

 回復期に向かう前兆としては、@穏やかな会話ができるようになる、A生活にリズムができ、
寝起きが規則正しくなる、B子どもがヒマをもてあますようになる、C家族がいてもいなくいて
も、それを気にせず、自分のことができるようになるなどがある。こうした様子が見られたら、
回復期は近いとみてよい。

 要は子どものリズムで考えること。あるいは子どもの視点で、子どもの立場で考えること。そ
ういう謙虚な姿勢が、このタイプの子どもの不登校を未然に防ぎ、立ちなおりを早くする。

●不登校は不利なことばかりではない

 一方、こうした不登校児について、不登校を経験した子どもたち側からの調査もなされてい
る。文部科学省がした「不登校に関する実態調査」(二〇〇一年)によれば、「中学で不登校児
だったものの、成人後に『マイナスではなかった』と振り返っている人が、四割もいる」という。不
登校はマイナスではないと答えた人、三九%、マイナスだったと答えた人、二四%など。そして
学校へ行かなくなった理由として、

友人関係     ……四五%
教師との関係   ……二一%
クラブ・部活動  ……一七%
転校などでなじめず……一四%と、その多くが、学校生活の問題をあげている。  

+++++++++++++++++ 

●自己診断

 子育てにおいて、母子関係の重要性については、今さら、改めて言うまでもない。そしてその
中でも、母子の間で構築される「基本的信頼関係」が、その後、その子ども(人)の人間関係の
みならず、生きザマにも、決定的な影響を与える。まさに「基本的」と言う意味は、そこにある。

 そこで子どもの問題もさることながら、親である、あなた自身が、その基本的信頼関係を構築
しているかどうかを、一度、疑ってみるとよい。

 あなたは自分の子どものときから、いつも自分をさらけ出していただろうか。またさらけ出す
ことができたただろうか。もしつぎのような項目に、三〜五個以上、当てはまるなら、ここに書い
たことを参考に、一度、自分の心を、冷静に見つめてみるとよい。

 それはあなた自身のためでもあるし、あなたの子どものためでもある。

○子どものころから、人づきあいが苦手。遠足でも、運動会でも、みなのように楽しむことがで
きなかった。今も、同窓会などに出ても、よく気疲れを起こす。
○他人に対して気をつかうことが多く、敬語を使うことが多い。気を許さない分だけ、よそよそし
くつきあうことが多い。
○ひとりで、静かに部屋の中に閉じこもっているほうが、気が楽だったが、ときどきさみしくなっ
て、孤独に耐えられないこともあった。
○いつも他人の目を気にしていたように思う。そして外の世界では、いい子ぶることが多かっ
た。無理をして、精神疲労を起こすことも、多い。
○夫(妻)や子どもにさえ、自分の心を許さないときがある。過去の話や、実家の話でも、恥ず
かしいと思うことは、話すことができない。
○言いたいことがあっても、がまんすることが多い。その反面、他人の言った言葉が、気にな
り、それでキズつくことが多い。
○自分は、どこかひねくれていると思う。他人の言葉のウラを考えたり、ねたんだり、嫉妬(しっ
と)することが多い。
○子どものころから、親に対しても、言いたいことが言えなかった。どこか遠慮していた。親や
先生に気に入られることばかりを、考えていた。

●勇気を出して、自分をさらけ出してみよう!

 もしあなたがここでいう「信頼関係」に問題がある人(親)なら、勇気を出して、自分をさらけ出
してみよう。

 まず、手はじめに、あなたの夫(妻)に対して、それをしてみるとよい。言いたいことを言う。し
たいことをする。身も心も、素っ裸になって、体当たりで、ぶつかってみる。何も、セックスだけ
が、さらけ出しということにはならないが、夫婦であることの特権は、このセックスにある。

 そのとき大切なことは、自分をさらけ出すのと同時に、夫(妻)の、どんなさらけ出しにも、寛
容であること。つまり受入れること。「おかしい……」とか、「変態とか……」とか、そういうふうに
考えてはいけない。

 あるがままを、あるがままに受入れて、あなたがた夫婦だけの問題として、処理すればよい。

 で、こうした夫婦の絆(きずな)を、伸ばす形で、つぎに精神面でのさらけ出しをする。思った
ことを話し、考えたことを伝える。

 これは私のばあいだが、私は、ある時期まで、講演をするたびに、ものすごい疲労感を覚え
た。そのつど、聖人ぶったりしたからだ。自分を飾ったり、つくったりしたこともある。

 しかしそれでは、聞きに来てくれた人の心をつかむことはできない。役にもたたない。

 そこでは私は、講演をしながら、その講演を利用して、自分をさらけ出すことに心がけた。あ
りのままの自分を、ありのままに話す。それで相手が、私のことを、「おかしい」と思っても気に
しない。そのときは、そのとき。

 自分に居直ったわけだが、そうすることで、私は自分にすなおになることができた。そう、もと
もと、私は、どこかゆがんだ人間だった。(今も、ゆがんでいる?)私のこうした生きザマが、ギ
クシャクした親子関係で悩んでいる人のために、一つの参考になればうれしい。

【注】この原稿は、W小学校区の教員研修会のための資料として書き始めたものです。まだ公
表できるような段階ではないかもしれませんが、マガジンにこのまま掲載します。時期をおい
て、また書き改めてみます。
(031121)

(※1)実際には、人知れず子どもを愛することができないと悩んでいる母親は多い。「弟は愛
することができるが、兄はどうしてもできない」とか、あるいは「子どもがそばにいるだけで、わ
ずらわしくてしかたない」とかなど。

私の調査でも子どもを愛することができないと悩んでいる母親は、約一〇%(私の母親教室で
約二〇〇人で調査)。東京都精神医学総合研究所の調査でも、自分の子どもを気が合わない
と感じている母親は、七%もいることがわかっている。そして「その大半が、子どもを虐待して
いることがわかった」(同、総合研究所調査・有効回答五〇〇人・二〇〇〇年)そうだ。

同じく妹尾栄一氏らの調査によると、約四〇%弱の母親が、虐待もしくは虐待に近い行為をし
ているという。妹尾氏らは虐待の診断基準を作成し、虐待の度合を数字で示している。

妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」などの一七項目を作
成し、それぞれについて、「まったくない……〇点」「ときどきある……一点」「しばしばある……
二点」の三段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待あり」が、有効回答(四
九四人)のうちの九%、「虐待傾向」が、三〇%、「虐待なし」が、六一%であったという。



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12

●ADHD児(第1回)

●この12月に、K市W小学校区、教員研修会のための資料を整理しています。その席で、A
DHD児と不登校児についての、私見を述べることになっています。その資料を、ここに公開し
ます。

●全体で、A4原稿で、70ページ以上ありますので、今回から、何回かに分けて、お送りしま
す。今回(第一回)は、ADHD児の歴史と、診断基準について、報告します。どうか、参考にし
てください。


++++++++++++++++

ADHD児(第1回目)
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ADHD児には、前兆があります。その時期にその前兆をしっかりととらえ、適切に対処すること
が必要です。ADHD治療薬として知られている、「CONCERTA」を発売する、MCNEIL社が
主宰するホームページからの記事を中心に、ADHD児と、アメリカの現状について、レポートし
ます。

                     はやし浩司

アメリカの雑誌「Better Homes」(1)を読んでいた。ごく広く、一般に読まれている、婦人雑誌
である。
その中に、「ADHD児をもつ保護者のためのコマーシャルページ」(2)があった。しかもその間
には、「指導」を申し込むための、カードも挿入されていた。

アメリカでは、ADHD児に対して、広く薬物治療がなされている。
よく知られている薬物としては、つぎのようなものがある。(市販名)

CONCERTA 
Adderall XR
Adderall generic amphetamine salts
Ritalin genetic methylphenidate
Strattera

こうした事実からも、アメリカでは、ADHD児の問題は、学校という閉ざされた世界だけの問題
ではなく、広く、一般世間の問題として認知されていることがわかる。

以下は、その「指導」を主宰する、
MCNEIL FULFILLMENT CENTERが発行する、ホームページからの記事を、翻訳したも
のである。
(転載許可については、MFCに、申し込み中)

+++++++++++++++++++++

       Focus on ADHD 
                 ADHDについて
? McNeil Consumer & Specialty Pharmaceuticals, a Division of McNeil-PPC, Inc.
2000-2003 makers of CONCERTA? (methylphenidate HCl) CII
Ft. Washington PA, USA. All rights reserved.
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History of ADHD Diagnosis and Treatment
 ADHDの診察、および治療の歴史
●100 Years of ADHD History(100年の歴史)
Symptoms of Attention Deficit Hyperactivity Disorder (ADHD) were first observed among 
children in the early 1900s, with the behaviors extensively studied for more than 50 years. 
You may have already heard of Attention Deficit Disorder (ADD). Although ADD may be the 
more well-known name to describe the symptoms associated with the disorder, ADD is 
considered a subclassification of ADHD.
● 
●1902: ADHD "Discovered"(1902年に、ADHDが発見された)
In a paper on the development of treatment models for ADHD, Ian N. Ford, BA, DMS, FRSH, 
explained that much of the early clinical work on ADHD and associated disorders came from 
England. In 1902 British pediatrician G.F. Still first described hyperactive behavior in children 
as a "defect of moral control." However, he also believed that a medical cause, and not a 
spiritual one, was at the root of this yet to be discovered diagnosis.

●1937: Medical Treatments May Help(1937年に医学的治療がなされた)
In 1937, doctors discovered that amphetamines could be used to reduce hyperactive and 
impulsive behaviors. (多動性を抑えるために、アンフェタミンが使われた。アンフェタミンは、食
欲抑制剤として、よく知られている。)

●1950s: Stimulants First Used as Therapy(1950年代に、治療として、刺激剤が使用され
た)
In the 1950s, stimulant medication (i.e., amphetamines, methylphenidate) became used as 
therapy for hyperactivity and impulsive disorders. 

●1960s: Stimulants Became Widely Used(1960年代になると、刺激剤が広く使われるように
なった)
Dr. Ford noted that it was only after researcher Stella Chess coined the term "Hyperactive 
Child Syndrome" in the early 1960s, that stimulants became a widespread treatment. He 
also said that Chess felt the "syndrome" had a biological cause, even though many others 
at the time believed the cause to be anything from poor parenting and food additives to 
environmental toxins.

●1980s: ADHD Officially "Classified" Under its Current Name(1980年代に、ADHDという
名前が、今日のように、一般的な言葉として、使われるようになった)
By 1980, the American Psychiatric Association identified a collection of behavior patterns 
as Attention Deficit Disorder with or without hyperactivity. They named these disorders 
ADHD and ADD respectively.
In 1987, ADD was renamed Attention Deficit Hyperactivity Disorder to include the 
symptoms of hyperactivity-impulsivity as well as inattention. The APA classified ADHD as a 
medical condition that causes specific behavioral problems. They also noted that the 
behavioral problems caused by ADHD are different from behavioral problems that may be 
caused by an upsetting event like divorce, changing schools, or moving to a new area.

●2000: First Once-Daily, 12-Hour Release Medication Available(2000年になって、一日一
度、12時間の治療行為が、政府によって承認された)
In 2000, the U.S. Food and Drug Administration approved the first once-daily 12-hour ADHD 
medication which provided improvements in attention and behavior. Click here for more 
information on this medication.

●2001-2002: New ADHD Treatment Guidelines, Practice Parameters(2001−2002に、新
しいADHDの治療基準が確立された)
In October 2001, the American Academy of Pediatrics published recommendations for the 
treatment of children diagnosed with ADHD in the journal Pediatrics. The guideline is 
intended for use by pediatricians working in primary care settings. Recommendations for 
doctors are as follows:
(以下が、ドクターのための、治療基準である)
●Primary care doctors should establish a treatment program recognizing ADHD as a 
chronic condition. 
●The doctor, parents, and child-working together with school personnel- should specify 
appropriate goals to guide the daily management of ADHD. 
●The doctor should recommend stimulant medication and/or behavior therapy as 
appropriate to improve target outcomes in children with ADHD. 
●When the selected management for a child with ADHD has not met target outcomes, 
doctors should evaluate the original diagnosis, the use of all appropriate treatments, 
whether the treatment plan was followed properly, and the presence of coexisting 
conditions. 
●The doctor should periodically provide follow-up for the child with ADHD. Monitoring 
should be directed to target outcomes and adverse effects (i.e., negative side effects), with 
information gathered from parents, teachers, and the child. 

In February 2002, the American Academy of Child and Adolescent Psychiatry also published 
stimulant medicine practice parameters to aid physicians in the use of stimulant 
medications in children, adolescents, and adults. The guidelines, which were determined 
through extensive, independent reviews of literature and expert consultant interviews, 
provide physicians with evidence-based recommendations for the treatment of ADHD with 
stimulant medications. 

●2002: Non-Stimulant Medication Approved(2002年に、政府は、非刺激性の医療行為を
承認した)
In November 2002, the U.S. Food and Drug Administration approved a non-stimulant 
medication for the treatment of ADHD.

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Childhood ADHD (子どものADHD)
According to the National Institutes of Health, ADHD is the most commonly diagnosed 
behavioral disorder of childhood. In fact, ADHD is estimated to affect up to 5% of school-age 
children. But sometimes it can be hard to know if a child's over-activity or inattention is 
normal for his or her age, especially because children with ADHD do the same things that 
other children do. An evaluation by a doctor can help rule out other possible explanations 
for the symptoms of ADHD, and recommend treatments that can help.
(ADHDというと子どもの問題と考えられている。事実、子どもの5%に、ADHD児が発見され
ている。しかし多動性があるからといって、そうでない子どもとの区別がむずかしい。)

●Diagnosing Childhood ADHD(子どものADHD児の診断)
Diagnosing ADHD can be difficult, and requires information from a number of sources, 
including parents, doctors and teachers. A proper diagnosis depends on the report of 
characteristic behavior and observations, input from the child, and a doctor's evaluation.
A positive diagnosis of ADHD, especially in children, requires:
●Symptoms of inattention and/or hyperactivity-impulsivity have been observed for at 
least six months. With ADHD, these symptoms will be more frequent and severe than 
typically seen in individuals at a comparable level of development.
●Some symptoms have been present before age seven.
●Symptoms have been present in at least two settings-for instance, at school and at 
home. 
The symptoms have affected social or academic functioning. This means above all, the 
symptoms must be interfering with a child's daily functioning

 ●American Psychiatric Association's Diagnostic Criteria for ADHD(ADHD児の診断基準)
The American Psychiatric Association's Diagnostic and Statistical Manual of Mental 
Disorders (DSM-IV), lists the following symptoms for inattention and hyperactivity-
impulsivity: 

●Symptoms of Inattention(注意力散漫の診断基準)
1.Often fails to give close attention to details or makes careless mistakes in schoolwork, 
work, or other activities. 
2.Often has difficulty sustaining attention in tasks or play activities. 
3.Often does not seem to listen when spoken to directly. 
4.Often does not follow through on instructions and fails to complete schoolwork, chores, or 
duties (not due to oppositional behavior or failure to understand instructions). 
5.Often has difficulty organizing tasks and activities. 
6.Often avoids, dislikes, or is reluctant to engage in tasks that require sustained mental 
effort (such as schoolwork or homework). 
7.Often loses things necessary for tasks or activities (toys, school assignments, pencils, 
books, or tools). 
8.Is often easily distracted by extraneous stimuli 
9.Is often forgetful in daily activities. 
1 学校での学習面において、こまかいことに集中できず、不注意なまちがいをしばしば繰りか
えす。
2 勉強や、運動面において、注意力を集中することが、しばしば困難である。
3 直接話しかけられても、しばしば聞いていないように見える。
4 先生の指示に、しばしば従うことができなかったり、学校での勉強や、合唱、すべきことが、
しばしばできない。(ただし反抗的な態度だったり、指示の内容が理解ができなくて、そうなるの
ではない。)
5 勉強や活動をまとめることが、しばしばできない。
6 持続的な集中が必要な作業において、しばしば、それを避けたり、嫌ったり、取り組むのを
いやがったりする。(たとえば宿題など)
7 勉強や活動に必要なものを、しばしばなくしたりする。(おもちゃや、学校の成績表、鉛筆、
本、道具など)
8 しばしば外部からの刺激で、気が散ってしまう。
9 毎日の活動において、忘れっぽい面が見られる。
 ●Symptoms of Hyperactivity/Impulsivity(多動性の診断基準)
1.Often fidgets with hands or feet or squirms in seat. 
2.Often leaves seat in classroom or in other situations in which the child is expected to 
remain seated. 
3.Often runs about or climbs excessively in situations in which it is inappropriate (in 
adolescents and adults, may be limited to subjective feelings of restlessness). 
4.Often has difficulty playing or engaging in leisure activities quietly. 
5.Is often "on the go" or often acts as if "driven by a motor." 
6.Often talks excessively. 
7.Often blurts out answers before questions have been completed. 
8.Often has difficulty awaiting turn. 
9.Often interrupts or intrudes on others (butts into conversations or games). 
1 手や足を、しばしばもじもじさせたり、席に座って、もがく。
2 教室でも、ほかの子どもたちが、座っていられるような状況でも、しばしば席を離れる。
3 そうしてはいけないとわかっているような状況で、しばしば走り回ったり、まわりのものに登
ったりする。(青年期やおとなになってからは、感情が落ちつかないといった様子を見せる。)
4 レジャー活動などを楽しんだり、することについて、しばしば静かにできない。
5 しばしば行動が暴走したり、モーターで動くように、行動が制御できなくなる。
6 しばしば一方的に、しゃべりつづける。
7 質問内容をじゅうぶん聞かないうちに、しばしば唐突に答を言ったりする。
8 しばしば自分の順番を待つことができない。
9 しばしばほかの子どもに割り込んだり、ほかの子どもをさえぎったりする。(会話やゲームに
干渉したりする。)
The first step in getting help for ADHD is making a correct diagnosis. After the diagnosis is 
made, a number of different treatments can offer help for people who have been diagnosed 
with ADHD.

The information on this page is intended to help you identify behaviors and signs that may 
be consistent with ADHD. Talk to your doctor or your child's doctor if you recognize any of 
these symptoms. He or she can guide a proper diagnosis and recommend the right 
treatment. Print the symptoms checklist to help guide your discussion with your doctor.

 ●Diagnosis Subtypes(類似タイプ)
While most people with ADHD experience a combination of inattention and hyperactivity-
impulsivity, in most cases, one symptom pattern may stand out. To make the distinction 
between symptoms, doctors classify ADHD diagnosis into three subtypes. (つぎの3タイプに
分けて考える)

●Predominantly Hyperactive-Impulsive(顕著な衝動的多動性)
A person may be diagnosed "Predominantly Hyperactive-Impulsive" if he or she has:
●Six (or more) symptoms of hyperactivity-impulsivity. 
●Fewer than six signs of inattention, that have lasted at least six months. However, it is 
important to note that inattention may still be a significant feature. 

●Predominantly Inattentive(顕著な怠慢性)
A person may be diagnosed as "Predominantly Inattentive" if he or she has: 
●Six (or more) symptoms of inattention. 
●Fewer than six signs of hyperactivity-impulsivity, that have lasted at least six months. 
 

●Combined Type(複合タイプ)
A person may be diagnosed as the "Combined Type" if he or she has: 
●Six (or more) symptoms of hyperactivity-impulsivity. 
●Six (or more) signs of inattention, that have lasted at least 6 months. 

Most children and adolescents with ADHD are diagnosed as the "Combined Type." ●Four 
Signs(4つの兆候)
Medical help may be needed if inattention or hyperactivity is causing significant problems at 
home, in school, and with relationships. Talk to your doctor if you have observed these 
behaviors. He or she can evaluate your child and determine the right course of treatment. 
In identifying ADHD, doctors often look for four major signs. In their book, The A.D.D. Book, 
New Understandings, New Approaches to Parenting Your Child, William Sears, M.D., and 
Lynda Thompson, Ph.D. talk about the four signs as follows:(つぎのような兆候が見られたら、
ドクターに相談したらよい。)
●Selective Inattention-Instead of maintaining a relatively even attention span, children 
with ADHD fluctuate between inattention and hyperfocusing-showing extended 
concentration on things like video games, TV, or something that is of particular interest to 
them.
●Distractibility-A child quickly jumps from one idea or activity to the next, often without 
completing the thought or task. The child may also "daydream" when you are talking to him 
or her.
●Impulsivity-A child with ADHD often acts without thinking, says things repeatedly, or 
makes careless errors on schoolwork.
●Hyperactivity-Not everyone who has ADHD is hyperactive, but identifying this trait may 
make the diagnosis easier. 
(1)不安定な集中力……ADHD児は、不注意な面が見られる一方、異常なまでの集中力、た
とえばテレビゲームやテレビなど、自分が興味あるものについては、ふつうでない集中力をみ
せるなど、その集中性が一定していない。

(2)散漫性……一つの仕事や考えを完成させる前に、一つの考えや行動から、つぎの考えや
行動にジャンプしてしまう。話しかけても、ぼんやりとうわの空になることがある。

(3)衝動性……ADHD児は、しばしば考えることなしに、同じことを繰りかえしたり、学習面で、
不注意な失敗をする。

(4)多動性……ADHD児だからといって、多動性があるわけではない。しかしこの多動性があ
れば、診断ははやくできる。
+++++++++++++++++++++

Teenage ADHD(ティーンエイジのADHD)
For years, doctors thought that children outgrew ADHD symptoms by the time they 
reached adolescence. But for many teens, this is not the case. In fact, about 70% of children 
with ADHD have problems with impulsivity, problem solving, decision making, and inattention 
throughout their teenage years. 

●From Child to Teen: The Picture Changes(子どもから、一〇代の少年少女へ、変わる様
子)
In an article published in the journal Contemporary Pediatrics, Martin Baren M.D. notes that 
as children with ADHD reach adolescence, the characteristics of the condition typically 
change. During adolescence, some symptoms become less noticeable, including 
hyperactivity, attention span, and impulse control. As a result, many teens who were 
diagnosed with the Combined Type of ADHD no longer meet the criteria. However, 
impulsivity is still a major problem for many ADHD teens, and can cause difficulties with 
school, work, family, and social relationships.
(子どもの時代の症状は、外からはわかりにくくなる。たとえば、多動性、注意力散漫、衝動的
な行動などは、姿をひそめる。しかし一〇代になっても、衝動的行為は、大きな問題として残
る。
Dr. Baren notes that, for ADHD teens, while independence and responsibilities increase, so 
may driving accidents, low self-esteem, drug and alcohol abuse or encounters with the law. 
Issues associated with identity, peer-group acceptance, and physical development can be a 
source of extra stress. In his work with ADHD teens, Dr. Baren has noted that adolescents 
often deny symptoms and refuse to take medication at school because they do not want to 
be 'different.' 
(独立心と責任感が大きくなる一方、交通事故、低い自己意識、薬物やアルコールの濫用、さ
らには犯罪に染まりやすい。そこで自分を認めさせ、同じような仲間の集まるグループでの治
療などを試みるが、しかしこれがうまくいかないケースが多い。子どものときとちがって、自分
がふつうでないことを認めるのをいやがり、しばしばその兆候をこの時期の子どもは否定し、
学校での治療を拒否する。)
Growing older and becoming more independent can be an exciting adventure for teens. 
Especially for ADHD teens 16 and older, learning how to set goals and make good decisions 
will help give them the direction they need to stay on course. But it is important for the 
ADHD teen to learn that managing symptoms is a key part of developing life skills and 
handling everyday situations. 
(この年齢の子どもには、人生の目標を設定することは、重要なことである。) 

●Evaluation and Diagnosis(評価と診断)
Since ADHD cannot be determined by a simple blood test or physical evaluation, the 
diagnosis should only be made after symptoms have persisted over an extended period of 
time, and interfere with a teen's ability to function. At that point, a thorough evaluation by 
a doctor experienced in ADHD diagnosis and treatment may be necessary. Also, a psycho-
educational evaluation can rule out associated learning disabilities and other illnesses and 
identify areas of strength and weakness.
(ADHD児は、血液検査などでは評価できない。そのため、ある一定期間の観察をとおして、ド
クターによる診断が必要である。)


●A Note About ADHD in Teenage Girls(一〇代の少女のついてのノート)
For girls and women, ADHD can be a hidden disorder, ignored or misdiagnosed by the 
educational and medical communities, which may cause these girls and women to suffer in 
silence. 
(少女にとっては、ADHDは、隠された障害となることが多い。そのため、人知れず苦しんでい
る少女や女性がいる。)
In view of the serious consequences of ADHD in adolescence and adulthood, there is an 
urgent need for increased awareness of the prevalence of this disorder in teenagers. 
Adolescent girls, often are not identified until school underachievement has become chronic. 
To prevent this from happening, earlier diagnosis and management are essential. Primary 
care physicians, pediatricians, and psychiatrists all must be able to recognize the symptoms 
of ADHD. 
(少女のばあい、学業不振が長く続いたようなとき、発見されることが多い。そのため初期段階
での適切な診断が大切である。)

Learn more about ADHD in teenage girls at the websites of the National Center for Gender 
Issues and ADHD and the National Women's Health Resource Center.
 ●Getting Help(助けを得る)
According to Dr. Baren, "Parents often incorrectly interpret restlessness and thoughtless 
behavior by teens as malicious, fueling negative reactions and increasing conflict. In the 
case of adolescents with ADHD, parent interaction and response is affected by ADHD 
symptoms. Parents should be guided toward reasonable expectations and accurate 
interpretation of their teens' behavior." 
Teenagers who have difficulties in school, with friends, or have ongoing negative thoughts 
about themselves may benefit from an evaluation. Treatment, including counseling and/or 
medication, may help address difficulties with concentration and attention span. Counseling 
can also help address emotional and social issues, including:
(つぎのような問題について、カウンセリングがなされることが望ましい)
●Anxiety (不安)
●Depression (うつ状態)
●Low self-esteem (低い自己意識)
●Problems with friends, family, and teachers. (友だちや先生との問題)
A few things that may point to having ADHD: 
1.General untidiness, in school and at home. 
2.Consistently late with assignments. 
3.Constantly losing things such as homework. 
4.Easily distracted with a brief attention span. 
5.Regularly running late for school. 
6.Everything with a deadline is done at the very last minute. 
7.An unusual sense of fairness. 
8.Many excuses for things not getting done. 
9.People think you are not listening when they are speaking to you. 
The Diagnostic and Statistical Manual for Primary Care, Child and Adolescent Version has 
formulated a behavioral description that differentiates normal developmental variations 
from behavioral problems and true disorders (ADHD)
傾向としては、つぎのようなことが、見られる。

1 学校や家庭における、一般的なだらしなさ
2 約束ごとについて、いつも遅れる
3 宿題などを、よくなくす
4 注意力が散漫で、短い間でも集中できない
5 いつも学校に遅刻する
6 いつも何かのことで、時間的にギリギリといった行動になる
7 公正さに対するふつうでない、感覚
8 できなかったことについて、言い訳をよくする
9 「君は、私の話をよく聞いていない」と、人から言われることが多い

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(361)

ADHD児(第2回)

●ADHD児の診断基準


(アメリカ・MCNEIL社のホームページより転載・翻訳。これらの記事は、非営利目的のため、
個人が参考文献として使うことは許可されていますが、それ以外の目的で使うことは禁じられ
ています。そのため、転載、引用などは、かたくお断りします。)

+++++++++++++++++++++
あなたの子どもは、だいじょうぶですか?
一度、自己診断してみてください。
+++++++++++++++++++++

 アメリカでは、ADHD児について、以下のような診断基準が、おおむね採用されている。日本
でも、約5%の子ども(二〇人に一人)が、ADHD児とみる。

【Symptoms of Inattention(注意力散漫の診断基準)】

1.Often fails to give close attention to details or makes careless mistakes in schoolwork, 
work, or other activities. 
2.Often has difficulty sustaining attention in tasks or play activities. 
3.Often does not seem to listen when spoken to directly. 
4.Often does not follow through on instructions and fails to complete schoolwork, chores, or 
duties (not due to oppositional behavior or failure to understand instructions). 
5.Often has difficulty organizing tasks and activities. 
6.Often avoids, dislikes, or is reluctant to engage in tasks that require sustained mental 
effort (such as schoolwork or homework). 
7.Often loses things necessary for tasks or activities (toys, school assignments, pencils, 
books, or tools). 
8.Is often easily distracted by extraneous stimuli 
9.Is often forgetful in daily activities. 

1 学校での学習面において、こまかいことに集中できず、不注意なまちがいをしばしば繰りか
えす。
2 勉強や、運動面において、注意力を集中することが、しばしば困難である。
3 直接話しかけられても、しばしば聞いていないように見える。
4 先生の指示に、しばしば従うことができなかったり、学校での勉強や、合唱、すべきことが、
しばしばできない。(ただし反抗的な態度だったり、指示の内容が理解ができなくて、そうなるの
ではない。)
5 勉強や活動をまとめることが、しばしばできない。
6 持続的な集中が必要な作業において、しばしば、それを避けたり、嫌ったり、取り組むのを
いやがったりする。(たとえば宿題など)
7 勉強や活動に必要なものを、しばしばなくしたりする。(おもちゃや、学校の成績表、鉛筆、
本、道具など)
8 しばしば外部からの刺激で、気が散ってしまう。
9 毎日の活動において、忘れっぽい面が見られる。


【Symptoms of Hyperactivity/Impulsivity(多動性の診断基準)】

1.Often fidgets with hands or feet or squirms in seat. 
2.Often leaves seat in classroom or in other situations in which the child is expected to 
remain seated. 
3.Often runs about or climbs excessively in situations in which it is inappropriate (in 
adolescents and adults, may be limited to subjective feelings of restlessness). 
4.Often has difficulty playing or engaging in leisure activities quietly. 
5.Is often "on the go" or often acts as if "driven by a motor." 
6.Often talks excessively. 
7.Often blurts out answers before questions have been completed. 
8.Often has difficulty awaiting turn. 
9.Often interrupts or intrudes on others (butts into conversations or games). 

1 手や足を、しばしばもじもじさせたり、席に座って、もがく。
2 教室でも、ほかの子どもたちが、座っていられるような状況でも、しばしば席を離れる。
3 そうしてはいけないとわかっているような状況で、しばしば走り回ったり、まわりのものに登
ったりする。(青年期やおとなになってからは、感情が落ちつかないといった様子を見せる。)
4 レジャー活動などを楽しんだり、することについて、しばしば静かにできない。
5 しばしば行動が暴走したり、モーターで動くように、行動が制御できなくなる。
6 しばしば一方的に、しゃべりつづける。
7 質問内容をじゅうぶん聞かないうちに、しばしば唐突に答を言ったりする。
8 しばしば自分の順番を待つことができない。
9 しばしばほかの子どもに割り込んだり、ほかの子どもをさえぎったりする。(会話やゲームに
干渉したりする。)

++++++++++++++++++

 日本では、「多動児」という見方で、「注意力散漫」と、「多動性」を、まとめてとらえる。しかし
アメリカでは、「注意力散漫」と、「多動性」を区別して考える。

 こうした項目に、思い当たる点や、該当することが多ければ、ADHD児を疑ってみる。

 その前に、あなたのADHD児に対する、常識をテストしてみよう。

+++++++++++++++++++++++++++
あなたのADHD児に対する理解度は、どれくらいでしょうか。
一度、あなたの理解度を、自己診断してみてください。
+++++++++++++++++++++++++++

Test Your ADHD AQ (Awareness Quotient) 
(あなたのADHD理解力テスト)
Here is your opportunity to separate fact from fiction and test your own ADHD knowledge. 
Answer the questions below, then click "submit" to measure your awareness quotient.
1.Is ADHD just a label used by doctors for difficult children?
(ADHDというのは、困難児に対して、ドクターによって張られるラベルか。)

(YES/NO)
 

2.Can girls have ADHD?
(女子に、ADHD児はいるか。)

(YES/NO)
 
 
3.Does junk food or the environment cause ADHD?
(ジャンクフード、もしくは環境が、ADHDを引き起こすか。)

 (YES/NO)
 

4.Would ADHD behavior problems happen if parents just used "old-fashioned" discipline?
(親が、『古いタイプの主義』を子どもに当てはめたとき、ADHDの問題は起こるか。……子育て
のし方が原因で、ADHD児になるか。)

 (YES/NO)
 

5.Can children who only focus on things they like to do, have ADHD?
(子どもが自分の好きなことだけに集中するとしたら、ADHDが疑われるか。)

 (YES/NO)
 

6.Are children with ADHD as smart as children who don't have ADHD?
(ADHD児は、そうでない子どもと同じくらい、頭はよいbのか。)

 (YES/NO)
 

7.Can ADHD be cured with medication?
(ADHDは、薬で治るか。)

(YES/NO)
 
 
8.Is ADHD just a "phase" children grow out of?
(ADHDというのは、成長とともに消える、ただの『一面』か。)

(YES/NO)
 

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上のテストの結果が、つぎです。8問中、5〜6問以上正解なら
あなたは、よく勉強している人と、みてよいでしょう。
++++++++++++++++++++++++++++


Test Results (テスト結果)
1.Is ADHD just a label used by doctors for difficult children?
(正解はNO)
You selected No. 
No. ADHD has been a recognized disorder for over 20 years. However, because doctors now 
more easily identify and understand the disorder, ADHD diagnoses are more prevalent than 
in the past. In the U.S., ADHD is diagnosed in three to five percent of the population.
Learn more about the history of ADHD diagnosis.
(ドクターだけが診断できるのではない。しかしドクターのほうが、適切に診断できる。)

2.Can girls have ADHD?
(正解はYES)
You selected Yes. 
Yes. ADHD affects both males and females. Boys are diagnosed with the disorder 2-3 times 
more than girls. In fact, for girls and women, ADHD can be a hidden disorder, ignored or 
misdiagnosed by the educational and medical communities which may cause these girls and 
women to suffer in silence. (男子は、女子より、2〜3倍、多い。女子のばあいは、表に現れる
ことが少ない。)

Learn more about ADHD in teenage girls at the Web sites of the National Center for 
Gender Issues and ADHD and the National Women's Health Resource Center. 


3.Does junk food or the environment cause ADHD?
(正解はNO)
You selected No. 
No. Special diets and limiting food additives will not prevent ADHD. 
(食事療法や、添加物を減らしても、ADHDを防ぐことはできない。)
 

4.Would ADHD behavior problems happen if parents just used "old-fashioned" discipline?
(正解はNO)
You selected No. 
No. Research has shown that parenting and discipline styles do not cause ADHD. However, 
like diabetes and other disorders, parental involvement in treatment (behavioral 
management strategies and/or medications) can help manage ADHD symptoms. 
(ADHD児の診断基準は、最近の研究とともに、大きく変わってきている。ここでいう「古い診断
基準」というのは、1990年代に決められた診断基準をいう。以前は、育て方の問題とされて
いた。)
 


5.Can children who only focus on things they like to do, have ADHD?
(正解はYES)
You selected Yes. 
Yes. People who can concentrate some of the time may still have ADHD. People with ADHD 
have difficulty attending to most tasks for periods of time, but they (like many people) can 
concentrate on things that interest them and are stimulating, such as computer games. (た
とえばコンピュータ・ゲームなどの、特別な分野には、並外れた集中力を見せることがある。)

Read Ben's Story to learn more.

6.Are children with ADHD as smart as children who don't have ADHD?
(正解はYES)
You selected Yes. 
Yes. ADHD does not affect intellectual ability. Although just as smart as others, children 
with ADHD may not function as well academically. Your child's school can work with you and 
your pediatrician to develop strategies to assist your child in the classroom.(ADHDは、知的
な部分には、影響を与えない。)
Learn more about the positive side of ADHD.

7.Can ADHD be cured with medication?
(正解はNO)
You selected No. 
No. While no treatment today cures ADHD, treatment programs that include medication and
/or behavior modification help manage symptoms. Decades of research have shown 
stimulant medications improve many symptoms for about 70% of those with ADHD. 
Learn more about treatments for ADHD.
(今のところ、薬物で治療することはできない。治療法はない。薬物治療で、70%の子どもに、
改善が見られたという報告がある。)
8.Is ADHD just a "phase" children grow out of?
(正解はNO)
You selected No. 
No. Children with ADHD may or may not "grow out of it." Between 60% to 80% of children 
continue to have ADHD symptoms as teenagers, and some are affected into adulthood. As 
children grow, hyperactive symptoms appear to decrease. However, attention problems 
often persist. Adults who develop successful coping strategies may find symptoms less 
bothersome as they grow older. (60〜80%の子どもは、10代になっても、ADHDの症状を残
す。しかし成長とともに、症状は軽減される。)
Read Carmen's Story to learn more. 
(031124)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(362)

●よく知られた、ADHDの人たち

エジソンも、チャーチルも、モーツアルトも、ADHDだった!

ADHD児というと、マイナス面ばかりが強調されるが、もちまえの集中力や、固執力、さらに
は、バイタリティなどから、すぐれた能力を示す例も、少なくない。MCNEIL社のGPでは、エジ
ソン、チャーチル卿、モーツアルトの例をあげ、ADHDであることが、悪いことばかりでないこと
を指摘している。大切なことは、いかにしてADHDを「治す」かではなく、その「よさを、指導によ
り引き出すか」である(はやし浩司)。


Famous People and ADHD (ADHD児でよく知られた人たち)

Although not all of the following people have been officially diagnosed with ADHD, they have 
exhibited many of its signs. This list is included here to inspire those facing similar challenges.
つぎの人たちは、公式には、ADHDであったと診断されたわけではない。しかしADHDの多く
の症状を示していた。現在同じような問題をかかえている人のために参考になれば、うれし
い。

●Thomas Alva Edison (トーマス・A・エジソン)is cited more than any other historical figure 
for his classic ADHD behavior. As an inventor, his creative curiosity enabled him to 
constantly explore new ideas. Later in life, Edison showed his tenacity in sticking with things 
that caught his imagination in his many inventions.(エジソンの多動性はよく知られている。し
かし彼のねばり強さは、突出したものであった。)

●エジソンは、他のどんな歴史上の人物よりも、古典的ADHDの持ち主として、注目されてい
る。発明者として、彼の想像的好奇心は、つぎつぎと新しいアイデアを生み出した。晩年になっ
て、エジソンは、多くの発明にかかりきりになるという、ねばり強さを示した。


●Sir Winston Churchill(W・チャーチル卿) was described as hyperactive and naughty as a 
child, and was often sent out of the classroom to run around the schoolyard and get rid of 
his extra energy. In his autobiography "My Early Life," Churchill talks about his impulsivity 
and his difficult school experiences. Interestingly, once out of school and serving in the 
British Army in India, Churchill read crate after crate of history books. His high energy level, 
creative problem solving, and hyperfocus as prime minister of Great Britain during WWII 
inspired his nation and the world. (チャーチル自身が、回顧録で、自分のわんぱくぶりを書い
ている。彼はもちまえの集中力をもって、歴史書をよみあさり、やがて英国の首相となった。)

●チャーチルは、子どものころ、多動性とわんぱくで知られていた。そのためよく教室から追い
出され、そのエネルギーをへらすため、運動場を走らされた。チャーチルは、自分の伝記、「私
の子ども時代」の中で、自分の衝動的行動や、学校での困難な生活ぶりを書いている。興味
深いことは、彼が学校を出て、インドで軍に従事したとき、チャーチルは、歴史書を読みあさっ
たということ。チャーチルの高いエネルギーと、創造力豊かな問題解決の方法、第二次大戦中
の、英国軍の首相としての、並外れた集中力は、イギリスや世界を、鼓舞した。

●Wolfgang Amadeus Mozart(W・A・モーツアルト) is known for his abilities as a brilliant 
composer. During periods of hyperfocus, he could compose an opera in just a few weeks; 
other times he left commissioned work to the last minute, or didn't finish it at all. It has 
been said that his impulsive social behavior kept him from major court positions and great 
financial reward. (モーツアルトは、人並みはずれた集中力で、二、三週間でオペラを完成させ
たりした。)


●モーツアルトは、すぐれた作曲家として、その能力を知られている。モーツアルトは、その集
中力が高揚しているときは、オペラを、ほんの数週間で完成させている。ほかのときは、申し付
けられた仕事を、最後の瞬間までしなかったり、あるいはまったくしなかったりした。一説による
と、彼のこうした衝動的な行動が、宮廷での地位や、財政的な立場を、苦しくした理由だと言わ
れている。

大切なことは、ここにも書いたように、いかにして、「よい面を引き出すか」である。MCNEIL社
のHPにも、つぎのようにある。


●ADHD: A Positive Perspective(ADHDのよい面)
The terms "deficit" and "disorder" in ADHD, by their very nature, may lead people to think 
that ADHD is not a positive condition. But people with ADHD can accomplish great things 
when they properly channel their energy.(「障害」という言葉は、マイナス面ばかりを連想させ
るが、そうではない。)


●Looking on the Bright Side (明るい面を見よう)
Many children with ADHD are very funny, entertaining, and highly creative. In fact, some of 
the brightest and most talented students and business people can attribute much of their 
success to the positive qualities of ADHD. People with ADHD may exhibit:(ADHD児は、愉快
で、高度に創造的である。また学業面において、すぐれた成績を示すことも少なくない。)

ADHD児には、つぎのようなすぐれた面も見られる。こうした面を伸ばすことこそ、大切。

●Spontaneity (自発的行動)
●Creativity (創造力)
●Fast thinking (はやい思考性)
●Hyperfocus (高い集中力)
●Tenacity (ねばり強さ)
●High energy (高い意欲)


It is especially important for children with ADHD to gain self-confidence and a positive self-
image. Recognizing and rewarding positive qualities like the ones described above will help 
focus positive energy in the right direction.(本人に自信を持たせることが、大切である。)
(031124)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(363)

●ADHD児の指導(家庭では……)

Caring for ADHD Children (ADHD児のケア)
You can make it easier for children with ADHD to create friendships and handle stress. At 
the same time, there are simple things you can do for yourself that may make it easier for 
you to deal with the challenges that ADHD caregivers often face. 

ADHD児の子どもが、友情を育てたり、ストレスを処理できるようにしてあげましょう。またその
ために、あなたにも、できることがあります。


●Helping Your Child Make and Keep Friends (友だちをつくれるようにしてあげよう)

Because children with ADHD often get angry when things do not go their way, or have 
difficulty waiting their turn, making and keeping friends may be tough. Below are a few ways 
you can help your child increase their level of success in maintaining friendships.

1.Use language that communicates success and ability. Teach your child about desirable 
behavior by talking about it positively. Show your child you believe he or she can succeed.
2.Structure successful "play dates" with peers. Arrange and supervise a well-structured 
activity for your child and one of his or her friends. Keep the "play date" short. Keep the 
rules of the activity simple and easy to follow. Then compliment and reward your child with 
quality time, or other reinforcements for playing well.
3.Limit electronic games and encourage socially interactive play. The more opportunities 
you provide for your child to play with and relate to other children his or her own age, the 
more chances he or she will have to learn what it takes to make and keep friends. 


1 うまくできたときや、能力を示したら、子どもが理解できる言葉で、ほめてあげよう。前向き
に子どもをとらえ、望ましい行動を教えてあげよう。子どもができるということをあなたが信じて
いることを、子どもに示してあげよう。

2 仲間との「遊び」を、用意してあげよう。友だちとよく遊べるように、遊びを組み立て、指導し
てあげよう。遊びの時間を短くし、規則を簡単にするのが、コツ。励ましたり、ほめたりしなが
ら、その遊びを、強化してあげよう。

3 電子的な遊びを制限し、人との交流をふやしてあげよう。同じ年齢の子どもと交流する機会
がふえればふれるほど、友だちをもつ機会がふえることを、子どもが学ぶだろう。


●Overcoming Negative Feedback(否定的な側面を克服させてあげよう)

Children often interpret negative feedback as being told they are "bad" or "stupid." To help 
children gain a positive feeling about understanding and accepting criticism, as well as 
building a better self-image, consider the following:

このタイプの子どもは、外の世界で、「悪い子」「バカな子」と言われやすい。そのため、つぎの
ようなことを考えながら、よりよい「自己イメージ」をつくることができるように、指導する。

1.Teach your child that behaving poorly or making a bad choice does not mean he or she is 
a "bad person."
2.Cut down on negative feedback by ignoring small behavior problems such as not 
completing chores on time.
3.Build your child's self-confidence be encouraging involvement in sports or activities that 
he or she enjoys or does well.
4.Praise your child when doing well in activities, and offer comfort and support to help 
overcome fears of trying new challenges.
5.Give your child at least four positive comments for each bad one. 

1 たとえおかしな行動をしたり、まちがった選択をしたとしても、それは「悪い子」ということで
はないことを、教える。

2 時間どおりに雑用ができないなど、ささいな行動的問題については無視することで、子ども
の中に、否定的な側面をつくらないようにする。(自分をダメ人間と思わせないようにする。)

3 子どもがうまくできるスポーツなどを通して、それを励まし、自分に自信をつけさせてあげ
る。

4 何かの活動でじょうずにできたら、それをほめ、なぐさめたり、新しいチャレンジをすること
についての恐れを克服できるようにしてあげる。

5 それぞれの一つの悪い面について、少なくともその四つの前向きなコメントを与えてあげ
る。


●Managing Stress at Home(家庭でのストレス対策)
Encouraging children with ADHD to focus on a specific activity or chore can be exhausting 
and frustrating for both of you. You can help yourself to remain calm, patient, and 
understanding if you:

(家庭では、つぎのような点を守る。)
1.Take deep breaths and think about the words "calm down" until you feel better.
2.Count backwards, slowly, from 10, 20, or 100.
3.Listen to enjoyable music.
4.Give yourself a "time-out" from what is upsetting, as a way to come up with other 
solutions for a situation.
5.Imagine a STOP sign to help you slow down and stop before continuing.
6.Use exercise to reduce over-activity. 
7.Ask for a hug when either of you feels like yelling or are getting frustrated. 

1 あなたの気分がよくなるまで、息を深く吸い込み、「落ちつく」という言葉の意味を考える。

2 10、20もしくは100から、ゆっくりと逆に数える。

3 楽しい音楽を聞く。

4 その状況に対処するための方法として、動揺していることについて「時間切れ」と思う。

5 頭の中で、「停止信号」を想像し、今の状態をつづける前に止まる。

6 子どもに対して過剰行動しないように、運動する。

7 あなたのどちらかが叫びそうになったり、爆発しそうになったら、子どもを抱く。

(以上、MCNEIL社のハンドブックから)
(031124)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(364)

●ADHD児の症例

 
(本当は集中しようとしている。しかしできない……)

Ben's Story (事例、ベンのばあい)
No matter how hard Ben tried, it always seemed that the teacher's instructions went by 
too fast. At school and at home, completing homework assignments was a struggle, filled 
with distractions and frequent breaks to sharpen a pencil or just stare at a page. 

どんなにベンが努力しても、先生の指示のほうが、はやく行き過ぎるといった感じ。学校でも家
でも、宿題を完成させるだけでも、たいへん。混乱したり、鉛筆を削ったり、ただページをみつ
めているだけ。

On the flip side, if something interested Ben, his focus was intense. He knew all the words to 
commercials for his favorite toys, but not his math tables. He was great at being a goalie on 
the soccer team, but complained about playing forward. When it came to science projects, 
his creativity and effort were endless, yet report cards often read, "needs more 
consistency."

反対に、何か、興味があることがあると、ベンは、それに集中する。彼の好きなおもちゃのコマ
ーシャルは、すべて知っている。が、かけざんの九九などは、覚えない。サッカーチームのゴー
ルキーパーでは、すぐれた才能を見せるが、フォワードはいやだという。理科の学習では、彼
の創造力と熱意は、無限のようだが、しかし成績には、しばしば「もう少し、一貫性が必要」と書
かれる。

Ben was exhibiting many of the classic symptoms of ADHD, a condition that according to 
the National Institutes of Health, is one of the most common neuro-behavioral disorders 
among children. Today, ADHD affects approximately 3 to 5 percent of the school-age 
population, with boys diagnosed three to four times more often than girls.

ベンは、「保健省」の基準に従えば、古典的なADHDの症状を示していた。その一つが、神経
行動障害である。今日、就学児童の全人口のうち、3〜5%に、その症状がみられ、男児は、
女児のそれより、3〜5倍、症例が多い。

The symptoms of ADHD affect children in all aspects of their lives, not just academically. 
Without proper attention, a child with ADHD can feel alone, and have difficulty making and 
keeping friends, maintaining family relationships, and participating in activities outside of 
school. Left unmanaged, children with ADHD may have poor academic performance and can 
experience behavioral and emotional problems into adulthood.

ADHDの症状は、学業面のみならず、生活のあらゆる場面で現れる。適切なケアをしないと、
ADHD児は孤立し、交友関係、家族関係、種々の課外活動などをするのがむずかしくなる。放
置されることにより、ADHD児は、学習面でも遅れたり、おとなになってからも、行動面、感情
面で問題を残すことになる。

+++++++++++++++

Symptoms may include, but not be limited to:

●Selective Inattention-Instead of maintaining a relatively even attention span, Ben 
fluctuated between inattention and hyperfocusing. 
●Distractibility-Ben would quickly jump from one idea or activity to the next, often without 
completing the thought or task. 
●Impulsivity-Ben often acted without thinking, saying things repeatedly, and making 
careless errors on schoolwork. 
●Hyperactivity-Ben simply could not sit still. He would often talk excessively, and fidget 
with his hands. 

ベンの症状から(主な症状のみ)

 選択的集中力の欠落……比較的、集中力を維持できるものの、散漫なときと、集中過度の
間をいったりきたりする。

 混乱性……ベンは、その考えや仕事を完成させる前に、つぎからつぎへと、考えや行動を飛
躍させてしまう。

衝動性……ベンはしばしば、考えることになしに、ものごとを繰り返し言う。学校の宿題でも、
不注意によるミスが多い。

 過剰行動性……ベンは、じっとしていることができない。過激に話したり、いつも手をつかって
そわそわする。

++++++++++++++++++

Because everyone shows signs of these behaviors at one time or another, the guidelines for 
determining whether a person has ADHD are very specific. Establishing a diagnosis of ADHD 
is complex and requires reports of characteristic behaviors from multiple sources, such as 
parents, physicians, and teachers. The diagnosis should also include input from the patient 
and a physician's physical examination.
 どんな子どもでも、こうしたサインをそのときどきに示す。そのためどの子どもがADHDである
かを判断するのは、とてもむずしい。ADHDの診断をするのは、むずかしく、両親、医師、教師
など、多方面からの情報が必要である。診断には、患者と医師の検査の報告が、含まれねば
ならない。
(031124)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(365)

●10代の子どものADHD

ADHDは、乳幼児から幼児期にかけて、その症状が現れる。落ち着きがない、集中力に欠け
る、多動性があるなどの症状が、一般的だが、そうした症状は、年齢とともに、変化してくる。

一つには、自己意識が発達し、自分で自分をコントロールするようになるからだが、指導のポ
イントは、この自己意識をどう伸ばし、育てるかにある。

MCNEIL社のハンドブックは、「コミュニケーション、サポート、理解が必要だ」と、説く。

++++++++++++++++++++

Caring for ADHD Teens (10代のADHD児)
When faced with the challenges of ADHD in the teenage years, you and your teen can 
develop new strategies for dealing with social, academic, and personal growth issues. Your 
communication, support, and understanding can help your ADHD teen develop good decision-
making skills that will help him or her handle life's challenges now and in the future.

10代のADHD児と対処するときは、社会生活、個人的な成長に関する問題などを扱う上にお
いて、新しい考えをもたねばならない。あなたのコミュニケーションや、サポート、あるいは理解
が、10代のADHD児の判断能力を伸ばし、未来に向かって、その子どものチャレンジを伸ば
す。
 
●Succeeding at Home(家庭での指導)
●Teens with ADHD often make impulsive decisions that get in the way of parents granting 
them increased freedom and responsibility. Use the strategies below to help establish 
expectations and support productive behavior at home.
(10代のADHD児は、しばしば衝動的な決断をくだしやすい。つぎの方法を、家庭での指導で、
応用してみてほしい。)

1.Use positive incentives, such as earning time with friends, to achieve desired behaviors.
2.Implement consequences for undesirable behavior as soon as possible.
3.Review non-negotiable house rules regularly, including associated rewards and penalties.
4.Discuss which rules can be negotiated and under what circumstances.
5.Help your teen make better decisions by reviewing and evaluating a variety of solutions 
and/or behaviors for a number of situations.
6.Provide regular supervision for younger teens by having them check in after school, limit 
time with friends when adults are not home, schedule times for regular parent-child contact, 
and set a curfew. 

1 友だちとの時間をふやしたり、望ましい行為を達成するために、前向きな動機付けをしてあ
げる。
2 望ましくない行為については、できるだけ早く、結果を出すようにしてあげよう。
3  ほうびとバツなど、交渉不能なハウス・ルールについて、もう一度、みなおしてみよう。
4 どの規則が、どのような状況で、交渉可能なのかを、子どもと話しあってみよう。
5 いろいろなばあいに、いろいろな解決方法があることを示しながら、子どもが、よりよい判
断ができるように示してあげよう。
6 10代前半の子どもについては、放課後の様子を規則正しく監督してあげよう。おとながい
ないときは、家で友だちと会うのを、制限しよう。そして親子のふれあいを、スケジュール化し
て、門限を正しくしよう。

++++++++++++++++++++

 ADHD児が問題なのは、ADHDであることというよりは、家庭での不適切な指導により、症
状がこじれてしまうことである。それについて書いたのが、つぎの原稿である(中日新聞発表済
み)。

++++++++++++++++++++

子どもの多動性を考えるとき

●抑えがきかない子ども 

 集中力欠如型多動性児(ADHD児)と言われるタイプの子どもがいる。無遠慮(隣の家へあ
がりこんで、勝手に冷蔵庫の中の物を食べる)、無警戒(塀の中にいる飼い犬に手を出して、
かまれる)、無頓着(一階の屋根の上から下へ飛びおりる)などの特徴がある。

ふつう意味のないことをペラペラとしゃべり続ける、多弁性をともなう。が、何といっても最大の
特徴は、抑えがきかないということ。強く制止しても、その場だけの効果しかない。一分もしない
うちに、また騒ぎだす。たいていは乳幼児期からきびしいしつけを受けているため、叱られると
いうことに対して免疫性ができている。それがますます指導を難しくする。

 このタイプの子どもの指導でたいへんなのは、「秩序」そのものを破壊してしまうこと。勝手に
騒いで、授業をメチャメチャにしてしまう。それだけではない。

その子どもだけを集中的に指導していると、ほかの子どもたちが神経質になってしまう。私もこ
んな失敗をしたことがある。その子ども(年長男児)を何とか抑えようと四苦八苦していたのだ
が、ふと横を見ると、隣の女の子が涙ぐんでいた。「どうしたの?」と聞くと、小さい声で、「先生
がこわい……」と。

●DSM・Wのマニュアルより

 出現率は、小学校の低学年児では、二〇人に一人ぐらいだが、症状にも軽重があり、その
傾向のある子どもまで含めると、一〇人に一人ぐらいの割合で経験する。

学習面での特徴としては、@ここにあげた多動性(めまぐるしく動き回る)のほか、A注意力持
続困難(注意力が散漫で、先生の話が聞けない。集中できない。根気が続かない)、B衝動性
(衝動的行為が多く、突発的に叫んだり暴れたりする)があげられている(アメリカ、障害児診
断マニュアル、DSM・Wより)。

●「ママのパンティね、花柄パンティよ!」

 能力的には、遅れが目立つ子どもが約七割、ある特定の分野に、ふつう程度以上の能力を
見せる子どもが約三割と私はみている。が、問題はそのことではなく、親自身にその自覚がほ
とんどないということ。

このタイプの子どもは、乳幼児期には、何ごとにつけ天衣無縫。言うことなすこと活発で、その
ためほとんどの親は、自分の子どもをむしろ優秀な子どもと誤解する。これがまた指導を難しく
する。Mさん(年中児)もそうだった。赤ちゃんのときから、柱にヒモでつながれて育った。その
Mさん、参観日のとき、突然、「今日のママのパンティね、花柄パンティよ!」と叫んだ。言って
よいことと悪いことの区別がつかない。

が、Mさんの母親は、遊戯会の日まで、天才児と信じていた。その遊戯会でのこと。Mさんは、
一人だけ皆から離れて、舞台の前で、ほかの子どもたちに向かって、アッカンベーを繰り返し
た。そこで私に相談があったので、私は、Mさんが、活発型遅進児の疑いがあると告げた。も
う二五年近くも前のことで、当時は多動児という言葉すら、まだ一般的ではなかった。その説明
をすると、母親はその場で泣き崩れてしまった。

●教師の経験や技量は関係ない

 脳の機能変調説が有力で、アメリカでは別の施設に移した上で、薬物治療までしている。し
かし効果は一時的。たとえば「リタリン」という薬を与えて治療しているそうだが、その薬にして
も、三〜四時間しか効果がないといわれている。

この日本でも薬物療法をするところがふえてはいるが、現場指導が中心。たとえばこの静岡県
では、現場の教師に指導が任されている。補助教員や学校ボランティアの付き添いを制度化
している市町村もあるが、しかしこの方法では、おのずと限界がある。

仮にこのタイプの子どもが、一クラス(三五名)に二〜三名もいると、先にも書いたように、クラ
スそのものがメチャメチャになってしまう。これには教師の経験や技量は、あまり関係ない。

●もちまえのバイタリティが、よい作用に!

 ……こう書くと、このタイプの子どもには未来はない、ということになるが、そうではない。小学
三、四年生を過ぎると、それ以後は、自分で自分をコントロールするようになる。騒々しさは残
ることは多いが、見た目にはわかりにくくなる。持ち前のバイタリティが、よい方向に作用するこ
ともある。

集団教育になじまないというだけで、それを除けば子どもとしては、まったく問題はない。つまり
そういう視点に立って、仮にここでいうような症状があっても、乳幼児期は、それ以上に、症状
をこじらせないことに心がける。こじらせればこじらせるほど、その分、立ちなおりが遅れる。

+++++++++++++++++++

【日本の診断基準】

行動が幼い
注意が続かない
落ちつきがない
混乱する
考えにふける
衝動的
神経質
体がひきつる
成績が悪い
不器用
一点をみつめる

++++++++++++++

たいへんまたはよくあてはまる……2点、
ややまたは時々あてはまる  ……1点、
当てはまらない       ……0点として、
男子で4〜15歳児のばあい、
12点以上は障害があることを意味する「臨床域」、
9〜11点が「境界域」、
8点以下なら「正常」

【厚生労働省がまとめた診断基準(親と教師向けの「子どもの行動チェックリスト」より)】

++++++++++++++
(031124)

 
●学校拒否症と怠学

 学校拒否症(school refusal)と怠学(truancy)は、分けて考える。

+++++++++++++++

 学校拒否症の主な症状は、以下のようである(アメリカ内科医学会)。

★Severe emotional distress about attending school; may include anxiety, temper tantrums, 
depression, or somatic symptoms.
学校に通うことについて、心配、不安、腹立たしさ、うつ、体の変調などの、苦痛が見られる。

★Parents are aware of absence; child often tries to persuade parents to allow him or her 
to stay home. 
両親がそれ気づいていて、子どもが、「行きたくない」と、親を説得する。

★Absence of significant antisocial behaviors such as juvenile delinquency. 
少年非行などの、顕著な、反社会的行動をともなわない。

★During school hours, child usually stays home because it is considered a safe and secure 
environment. 
学校へ行く時間に、家にいることが多い。そのほうが安全と考えるからである。

★Child expresses willingness to do schoolwork and complies with completing work at home. 
子ども自身は、家庭で宿題をしたり、宿題をすることに応ずる。

+++++++++++++++

 ふつう日本で「不登校」というときは、この「学校拒否症」もしくは、「学校恐怖症」をいう。

+++++++++++++++++

 一方、「怠学(truency)」というときは、以下のような診断基準に当てはまる子どもを、いう
(同、アメリカ内科学会)。

★Lack of excessive anxiety or fear about attending school. 
学校に通うことについて、大きな不安や恐れはない。

★Child often attempts to conceal absence from parents. 
両親の知らないところで、勝手に学校へ行くのを、さぼったりする。

★Frequent antisocial behavior, including delinquent and disruptive acts (e.g., lying, stealing), 
often in the company of antisocial peers. 
(ウソ、盗みなどの)反社会的行動をともなうことが多い。集団非行グループに属することが多
い。

★During school hours, child frequently does not stay home . 
学校へ行く時間でも、家にいないことが、多い。

★Lack of interest in schoolwork and unwillingness to conform to academic and behavior 
expectations. 
学校の勉強そのものに興味を示さず、勉強するのをいやがる。

++++++++++++++++

 怠学については、たとえば、大阪府立M高校などでは、つぎのような対策を立てている(M高
校HPより)。あくまでも参考のため。

+++++++++++++

●怠学指導の方法について

(10ポイント制指導)

1.正当な理由のない遅刻登校、3分以上の授業遅刻、各授業の中抜け、無断早退を各1点と
して合算し、定期考査毎に五分割した期間に10点に達した者を保護者召喚のうえ一日謹慎さ
せ作文課題などを課して指導する。
 
2.この後も引き続き怠学習慣の改善がない者は15点に達したところで保護者召喚のうえ三日
間の謹慎、作文課題などを課す。 

3.定期考査中に10点もしくは15点に達した者は考査終了後に謹慎指導に入る。 

4.定期考査終了後に合算点は全員0点に戻る。 

5.遅刻の理由が正当か否かの判断は各学年の生徒指導担当者と担任で協議し決定する。 

6.生徒及び保護者への申し渡し、解除は各学年の生徒指導担当者(又は学年主任)と担任で
行う。(申し渡し、解除の時間は原則として8時00分とする) 

7.3年生の3学期は4点に達した者を謹慎の対象とする。 

8.この謹慎期間の出欠の取り扱いは通常の懲戒処分と同様に出席停止扱いとする。
(但し、翌日になっても課題等の指導が実行されない場合はその日以降は欠席、欠課扱いと
する) 

+++++++++++++

 要するに、心身に何らかの病変をともなって、学校へ行けなくなる状態を、「学校拒否症」とい
い、サボることを、「怠学」と考えるとわかりやすい。(だからといって、不登校児がみな、何らか
の病変をともなっていることにはならない。念のため。)
(031125)

【参考】

●なお、アメリカ内科医学会は、「学校拒否症」の要因となる、不安障害(Anxiety disorders)と
して、つぎのものをあげている。 

Separation anxiety (分離不安)
Anxiety disorder(不安障害)
Generalized anxiety disorder (不安障害全般)
Social phobia (社会恐怖症)
Simple phobia (孤立恐怖症)
Panic disorder (パニック障害)
Panic disorder with agoraphobia (広場恐怖症をともなうパニック障害)
Post-traumatic stress disorder (PTSD)
Agoraphobia(広場恐怖症) 
Mood disorders(気分障害) 
Major depression (うつ病)
Dysthymia(抑うつ症)

●また同じく、「学校拒否症」の要因となる、破滅行動障害(Disruptive behavior disorders)に
ついては、つぎのようなものをあげている(同)。 

Oppositional defiant disorder (反抗障害)
Conduct disorder (行為障害)
Attention-deficit/hyperactivity disorder (注意力散漫、過集中障害)
Disruptive behavior disorder,(破滅的行為障害) 
Other disorders(他の障害) 
Adjustment disorder (with depressed mood or anxiety) (うつをともなう、適応障害)
Learning disorder (学習障害)
Substance abuse 
Other



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13

●問題の奥

●Kさんからの抗議

 その息子(中学生)は、いつも鼻クソをほじっていた。食事をしているときも、ほじっていた。だ
から、母親は、それを気にして、いつも、その息子を叱っていた。

 こういうケースでは、最初に、疑ってみることは、その子どもの慢性的な耳鼻疾患である。叱
って、なおるような問題ではない。

 しかしさらに疑ってみることは、その母親が、子どもを、心底、受け入れているかどうかという
こと。「子どもを愛する」ということは、「受け入れる」ことをいう。どんなに問題があっても、どん
なに親の思うとおりにならなくても、だ。が、その「受け入れ」ができないというのであれば、心の
どこかに潜(ひそ)む、わだかまりをさぐってみる。

 望まない結婚であったとか、望まない子どもであったとか、など。夫婦問題や家庭問題がこじ
れて、そうなることもある。そういう意味で、この種の問題は、「根」が深い。

 ところで、ちょうど半年前、こんな抗議のメールをもらった。名前は、ローマ字だけで、「K」と
あった。

 「子育て、はじめの一歩」という私の本の中で、私が「学校の先生を信頼しなさい」と書いたこ
とについての抗議だった。「あなたは先生を信じろと言うが、私の子どもの教師のようなものも
いる。それを忘れないでほしい」と。

 Kさんは、こう書いてきた。

 ……私の息子(小三)は、学校で、いじめにあっている。先日も、カバンにチョークで落書きを
されてきた。その翌日も、うちの子のカバンから教科書を抜き、その教科書を、別の子のカバ
ンに入れられてしまった。

そこで学校の先生に連絡すると、「放課後のことまでは、責任がもてない」と。そこで校長室へ
行き、校長とその教師と私との、話しあいになった。そこでも、その教師はノラリクラリと、弁解
にもならない、弁解繰りかえすのみ。そして最後には、「私には、責任はない」と。

 が、その翌日のこと。あろうことか、その教師は、教室で、うちの子どもの名前を出して、「○
○君のカバンから、教科書を抜いたヤツはだれだ!」と。

 それでうちの子どもが、いじめにあっていることが、みんなにわかってしまった。こういう配慮
に欠ける教師の行為で、うちの子どもは、ますますキズついてしまった。そこで私は、再び、校
長室へ。

 校長とその教師は、名前を出したことはわびたが、みなの前で、「だれだ!」と聞いたことは、
まちがっていなかったと弁解。おまけに、「この程度のいたずらは、よくあることです」と。親の
気持ちも知らないで、こういう無神経なことを、ヌケヌケと言う校長や教師を、私は許すことがで
きない!と。

●先生とのトラブル?

 この種の抗議は、よく届く。しかし率直に言って、この種の抗議がくるたびに、私は何とも言い
ようのない息苦しさを覚える。Kさんの気持ちはよくわかるが、それ以上に、その場にいた、校
長や教師の息苦しさが、ヒシヒシと伝わってくる。

 その第一。「先生」というのは、本当にいそがしい。どう忙しいかは、たった一人の子どもでさ
え、もてあましているあなた自身を、ふりかえってみればよい。そういう子どもを、三〇〜三五
人も押しつけて、何から何まで、「しっかり、めんどうをみろ!」は、ない。

 教育はもちろん、しつけ、家庭問題、さらには、交友関係まで。

 それにKさんは別として、本当にいろいろな親がいる。そして一人ずつ、家庭環境が、みな、
ちがう。

 そこでたとえば、カナダでは、学校の先生は、「教室内」のことについては責任をもつ。しかし
教室を離れたところのことについては、まったく責任をもたない。責任を問われることもない。と
くに子どもが学校を離れたところのことは、すべて家庭の問題として、処理される。

 一見、冷たいやり方に見えるが、その分、教師は、教育に専念できる。またそういう、たがい
の意識を、「自由」という。「自由」というのは、もともと「自(みずか)らに由(よ)る」という意味で
ある。

 自分の子どもがいじめられていることを知るのは、たいへんつらい。それはわかる。しかしも
う少し、ほかの方法はなかったのか。校長室で、「責任をとれ」と言われれば、私だって、同じよ
うに答えるかもしれない。「私には、責任は、ない」と。そんなことは、少し冷静になって考えれ
ば、だれにだってわかることではないか。

 そこでたとえば、もう少し穏便に、「こういう問題もありますが……」とか、何とか。先生に笑い
ながら、話しかけてみる。そういう方法は、考えられなかったのか。いきなり校長室……、という
のは、まずい。こうした問題で、一番、先に考えなければならないことは、子どもの世界を守る
こと。子どもが、わだかまりなく、楽しく学校へ通えること。そういう環境を用意してあげること。

 いくら学校と対立しても、子どもの世界は、子どもの世界として、いわば、アンタッチャブルの
世界として、そっとしておいてやる。絶対に、子どもを、トラブルに巻きこんではいけない。それ
は親として、そして教師として、最低限、守るべきマナーではないか。

 そこで私は書いた。『負けるが勝ち』と。その原稿を、ここに添付する。

++++++++++++++++

●船頭は一人

 そうでなくても難しいのが、子育て。夫婦の心がバラバラで、どうして子育てができるのか。そ
の中でもタブー中のタブーが、互いの悪口。

ある母親は、娘(年長児)にいつもこう言っていた。「お父さんの給料が少ないでしょう。だから
お母さんは、苦労しているのよ」と。

あるいは「お父さんは学歴がなくて、会社でも相手にされないのよ。あなたはそうならないでね」
と。母親としては娘を味方にしたいと思ってそう言うが、やがて娘の心は、母親から離れる。離
れるだけならまだしも、母親の指示に従わなくなる。

 この文を読んでいる人が母親なら、まず父親を立てる。そして船頭役は父親にしてもらう。賢
い母親ならそうする。この文を読んでいる人が父親なら、まず母親を立てる。そして船頭役は
母親にしてもらう。

つまり互いに高い次元に、相手を置く。たとえば何か重要な決断を迫られたようなときには、
「お父さんに聞いてからにしましょうね」(反対に「お母さんに聞いてからにしよう」)と言うなど。
仮に意見の対立があっても、子どもの前ではしない。

父、子どもに向かって、「テレビを見ながら、ご飯を食べてはダメだ」
母「いいじゃあないの、テレビぐらい」と。

こういう会話はまずい。こういうケースでは、父親が言ったことに対して、母親はこう援護する。
「お父さんがそう言っているから、そうしなさい」と。そして母親としての意見があるなら、子ども
のいないところで調整する。

子どもが学校の先生の悪口を言ったときも、そうだ。「あなたたちが悪いからでしょう」と、まず
子どもをたしなめる。相づちを打ってもいけない。まず先生を、信頼する。教育は、そこから始
まる。

もし先生に問題があるなら、子どものいないところで、また子どもとは関係のない世界で、処理
する。これは家庭教育の大原則。

 ある著名な教授がいる。数十万部を超えるベストセラーもある。彼は自分の著書の中で、こう
書いている。「子どもには夫婦喧嘩を見せろ。意見の対立を教えるのに、よい機会だ」と。しか
し夫婦で哲学論争でもするならともかくも、夫婦喧嘩のような見苦しいものは、子どもに見せて
はならない。夫婦喧嘩などというのは、たいていは見るに耐えないものばかり。

 子どもは親を見ながら、自分の夫婦像をつくる。家庭像をつくる。さらに人間像までつくる。そ
ういう意味で、もし親が子どもに見せるものがあるとするなら、夫婦が仲よく話しあう様であり、
いたわりあう様である。助けあい、喜びあい、なぐさめあう様である。

古いことを言うようだが、そういう「様」が、子どもの中に染み込んでいてはじめて、子どもは自
分で、よい夫婦関係を築き、よい家庭をもつことができる。欧米では、子どもを「よき家庭人」に
することを、家庭教育の最大の目標にしている。その第一歩が、『夫婦は一枚岩』、ということ
になる。

+++++++++++++++++++

●負けるが勝ち

 この世界、子どもをはさんだ親同士のトラブルは、日常茶飯事。言った、言わないがこじれ
て、転校ざた、さらには裁判ざたになるケースも珍しくない。ほかのことならともかくも、間に子
どもが入るため、親も妥協しない。が、いくつかの鉄則がある。

 まず親同士のつきあいは、「如水淡交」。水のように淡く交際するのがよい。この世界、「教
育」「教育」と言いながら、その底辺ではドス黒い親の欲望が渦巻いている。それに皆が皆、ま
ともな人とは限らない。情緒的に不安定な人もいれば、精神的に問題のある人もいる。さらに
は、アルツハイマーの初期のそのまた初期症状の人も、四〇歳前後で、二〇人に一人はい
る。

このタイプの人は、自己中心性が強く、がんこで、それにズケズケとものをいう。そういうまとも
でない人(失礼!)に巻き込まれると、それこそたいへんなことになる。

 つぎに「負けるが勝ち」。子どもをはさんで何かトラブルが起きたら、まず頭をさげる。相手が
先生ならなおさら、親でも頭をさげる。「すみません、うちの子のできが悪くて……」とか何とか
言えばよい。あなたに言い分もあるだろう。相手が悪いと思うときもあるだろう。しかしそれでも
頭をさげる。あなたががんばればがんばるほど、結局はそのシワよせは、子どものところに集
まる。

しかしあなたが最初に頭をさげてしまえば、相手も「いいんですよ、うちも悪いですから……」と
なる。そうなればあとはスムーズにことが流れ始める。要するに、負けるが勝ち。

 ……と書くと、「それでは子どもがかわいそう」と言う人がいる。しかしわかっているようでわか
らないのが、自分の子ども。あなたが見ている姿が、子どものすべてではない。すべてではな
いことは、実はあなた自身が一番よく知っている。

あなたは子どものころ、あなたの親は、あなたのすべてを知っていただろうか。それに相手が
先生であるにせよ、親であるにせよ、そういった苦情が耳に届くということは、よほどのことと考
えてよい。そういう意味でも、「負けるが勝ち」。これは親同士のつきあいの大鉄則と考えてよ
い。

++++++++++++++++

 たしかに問題のある教師というのは、いる。私も、数多く見てきた。それは事実だ。しかしこの
原稿の中で、私が書きたかったことは、「親どうしのトラブル」について、である。先生とのトラブ
ルではない。そのことは、この原稿を、もう少し、ていねいに読んでもらえば、わかってもらえた
はずなのだが……。

●冒頭の話に

 ではなぜ、私が、冒頭で、「鼻クソ」の話をしたか。

 実は、Kさんの問題も、たがいの信頼関係があれば、もう少し性質のちがったものになった
はずだということ。つまり、Kさんの問題の奥に、もう一つ、別の問題があるのではないかという
こと。実は、私にも、こんな経験(失敗)がある。

 R君(小四)は、もともと多動性のある子どもだった。そのときも、席から離れて、フラフラと歩
いていた。そこで私は冗談ぽく、こう言った。「パンツにウンチがついているなら、席を離れてい
ていい。おしりが、ウンチでかゆい人は、立っていていい」と。

 いつもなら、そこでR君は、席にもどるはずだった。が、ここでハプニングが起きた。隣の席に
いた、別の子どもが、いきなりR君のおしりに顔をあて、こう叫んだ。「先生、こいつの、しり、本
当に臭い!」と。

 R君は、そのときは、照れくさそうに笑っていた。それで終わった。……が、その夜、R君の父
親から、猛烈な抗議の電話がはいった。「パンツのウンチのことで、息子に恥をかかせるとは、
何ごとか!」と。

 ものすごい剣幕だった。しかもその電話が、三〇分以上もつづいた。私は、ただひたすら、あ
やまるしかなかった。

 この事件のときも、もし父親がその場の雰囲気を知っていたら、ああまですごい剣幕にはな
らなかったと思う。つまり私と父親の間には、信頼関係が、まったく、なかった。

●もう一つの失敗

 こんなこともあった。いつものレッスンが終わって、部屋から出ようとすると、E君(年長男児)
が、そこに立っていた。そこで「どうしたの?」と声をかけると、「ぼくの出席表が、ない……」と。

 よくあることである。だれかがE君の出席表を、まちがえてもっていってしまったらしい。そこで
私が、「明日になれば、もどってくるよ。心配しなくていい」と。

 が、その夜、母親から、電話がかかってきた。これも、ものすごい剣幕だった。母親は、電話
口の向こうで、こう叫んだ。

 「あんたは(こういうとき親は、いつも私を『あんた』と呼ぶ。私は、そういう世界に生きてい
る)、うちの子が、泣いて抗議したというのに、『知らない』と言ったそうですね。どうして、もっと
子どもの立場になって考えることができないのですかア!」と。

 この問題は、それで終わったかのように見えたが、そうではなかった。

 E君の母親は、翌日早く、私が出勤する前に幼稚園へでかけ、園長に、「あんな林は、すぐク
ビにせよ」と息巻いたという。この事件も、やはり私と親の間の信頼関係がないことが、原因だ
った。

●いかにして信頼関係をつくるか

いかにして信頼関係をつくるか……? これは教師の問題でもあるが、実は、親の問題でもあ
る。信頼関係というのは、向こうからやってくるものではない。自分で、もちかけて、作るもので
ある。

 そしてそれは同時に、教師自身のためでもあるが、実は、親のためでもある。そしてさらに言
えば、子どものためでもある。

そこで私は、こう書いた。「先生を立てろ」と。

 先生という職業を長くしていると、子どもを介して、親の気持ちが、手に取るようにわかるよう
になる。子どもというのは、そういう意味で、隠しごとができない。まさに親の心が、そのまま子
どもの心となる。

 そういうとき、先生が、「ああ、この子どもの親は、私を信頼してくれている」とわかると、教え
る熱意が、何倍もわいてくる。しかしそうでないときは、その熱意が、消えてしまう。消えるだけ
ならまだしも、苦痛になることさえある。

 しかしこうなると、教育そのものが成りたたなくなる。居なおるわけではないが、先生とて、生
身の人間なのだ。聖人でも、牧師でもない。ただの人間なのだ。あなたや、あなたの夫(妻)
と、どこもちがわない、ただの人間なのだ。

 だからまず、相手を信頼する。その気持を、子どもを介して、先生に伝える。それがここでい
う、「もちかけて、作る」という意味である。

 Kさんの事例は、たいへん残念な事例である。私は「先生の悪口はタブー」「まず、先生を信
頼しなさい」と書いた。しかしKさんは、「一方的に、そういうことを書いてもらっては、困る」と。し
かしこういう、からみ方をされると、何が、正論で、何が正論でないか、わからなくなってしまう。

 教育に熱心になることは、それ自体は、悪くない。しかし神経質になるのは、よくない。過関
心は、さらに悪い。かえって子どもの伸びる芽を、つんでしまうことにもなりかねない。それだけ
は、注意したほうがよい。
(031125)




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14

●萎縮する子ども

親の過干渉、過関心、威圧的育児姿勢、暴力、虐待、育児拒否、冷淡、無視、家庭崩壊など、
子どもの精神を萎縮させる要因は、たくさん、ある。しかしその中でも、親の情緒不安ほど、子
どもを萎縮させるものは、ない。

 機嫌がよいときは、やさしくて、思いやりのあるママ。しかしひとたび機嫌が悪くなると、子ども
をはげしく叱ったりする。叱るならまだしも、子どもがおびえるほどまで、子どもを押さえつけて
しまう。

 神戸の方から、相談のメールが入った。(掲載の了解はもらっていないので、ここでは紹介で
きない。)

++++++++++++++

 五歳の男の子について。幼いころからハキがなく、気弱。ブランコを横取りされても、取りかえ
すことができない。おもちゃを横取りされても、取りかえすことができない。そこで「どうして、や
りかえさないの!」と叱るのが、効果なし。先日も、一時間ほど、そのことで子どもを説教した。

 子どもは、「今度からは、取りかえす」と言ったが、つぎに同じような状況になったときも、私の
ほうを、心配そうに見ながら、ただモジモジしているだけだった。

 保育園へは、三歳のときから通っているが、このところ、何かにつけて、「こわいよ……」を繰
りかえすようになった。階段をのぼるときも、「こわいよ……」。通りを歩いていても、「こわいよ
……」と。

 さらに最近では、死ぬことに対して、ものすごく恐怖感を覚えているよう。「死ぬ」という言葉
が、子どもの口から、よく出てくる。こういうときは、どこかへ、相談に行ったほうが、よいのか。
子どもの心に、キズは、残らないか。(以上、要約)

+++++++++++++++

 ほかにもいろいろ書いてあったが、文面からして、母親の、威圧的な育児姿勢が、子どもの
心を、萎縮させてしまった感じがした。その母親は、「私は、いつもひどいことをしていたわけで
はない」と書いていたが、こうした育児姿勢から生まれるショックは、週に一度でも、子どもの心
に深刻な影響を残す。月に一度でも、残す。あるいはたった一度、はげしく叱ったことが原因
で、自閉症になってしまった女の子さえいる。

 その女の子は、二歳のとき、はげしく母親に叱られた。で、そのときをきっかけに、一人二役
の、ひとり言を言うようになってしまった。母親は、「気味が悪い」と相談してきたが、こうした例
は、少なくない。

 一見、タフに見える子どもの心だが、一方で、薄いガラス箱のように、もろい。こわれるとき
は、簡単にこわれる。子どもにもよるが、この時期、「無理をしない」は、子育ての大鉄則。

 で、相談の内容は、「こわれた心は、どうするか?」という問題に、集約される。

 このときでも、親は、「なおそう」と考える。しかし一度、顔についたキズは、消すことはできな
い。心のキズは、さらに、消すことはできない。私は、こうした相談を受けるたびに、「どうして親
は、こうまで身勝手なのだろう」(失礼!)と思う。決して親を責めているのではない。もっと子ど
もの立場で、子どもの心を考えろと言っている。

 幼児でも、「死」への恐怖をよく口にする子どもは、いる。それがある一定の、つまり、だれで
もそうだというレベルを超えたとき、そういう子どもは、不安を基底とした、ものの考え方をする
ようになる。これを「基底不安」という。そして一度、そういう状態になると、残念ながら、生涯に
わたって、つづく。(だから心理学では、「基底」という言葉を使う。)

 この基底不安は、薄められたり、変化することはあっても、消えることはない。程度のちがい
はあるが、生涯にわたって、その不安感から、解放されることはない。それに「死」の問題がか
らむと、ことは、さらに深刻になる。「死」に近い分だけ、何かにつけて、「死ぬ」ことで、問題を
解決しようとする。当然、自殺の問題も、それに含まれる。

 R氏(四八歳、男性)は、こう言った。「私の人生は、いつも、何かに追いたてられているような
感じでした。子どものときも、おとなになってからも、そうです。休みの日にも、心を休めること
ができません。翌日からの仕事が、心配になってしまうのです。ですから私のことを、みなは、
働きバチと言います」と。

 では、どうするか。一般の恐怖症に準じて、できるだけ、その「問題」には、触れないようにす
る。遠ざかって、忘れる。

 そして心のキズについては、あ・き・ら・め・る。冷たい言い方だが、この「あきらめる」ことに
は、二つの意味が含まれる。

 どんな人もでも、何らかのキズをもっている。キズをもっていない人など、いない。だからもし、
あなたがそうであるとしても、またあなたの子どもがそうであるとしても、「みんな、そうなのだ」
という前提で、わ・り・き・る。

 もう一つの意味は、そういう自分、あるいはそういう子どもを、受け入れ、仲よく、つきあうとい
うこと。それは持病のようなものかもしれない。悪いことばかりではない。そういった持病がある
おかげで、体をいたわるようになる。

 私も、子どものころから、扁桃腺炎に悩まされた。しかし今では、その扁桃腺が、健康のバロ
メーターになっている。風邪のひきはじめでは、必ず、まずのどが痛くなる。で、のどが痛くなる
と、「ああ、風邪だな」と思う。体を大切にする。そのおかげというわけでもないが、おとなになっ
てからは、風邪で、寝込むということは、ほとんど、なくなった。

 それぞれ、みんな、どんな親も、懸命に、子育てをしている。しかし完ぺきな親は、いない。い
つも、どこかで失敗する。もともと子育てというのは、そういうもの。

 だから問題は、失敗することではなく、その失敗に気づかないまま、同じ失敗を繰りかえすこ
と。幸いにも、この相談をしてきた母親は、それに気づいている。「キズは残らないか」と、その
「キズ」を認めている。つまり、その母親は、「今」を原点に、もう一度、ここから子育てを始めれ
ばよい。五歳というのは、もう一度、そのやりなおしがきく、年齢である。
(031128)

【補注】
 子どもの性格や性質をいじる時期は、二度ある。一度は、満一歳前後。もう一度は、満五歳
前後である。

 この時期というのは、(乳幼児期から、幼児期)、(幼児期から、少年少女期)への移行期に
あたる。この時期をうまくとらえ、指導すると、その子どもの性格、および、性質を、変えること
ができる。

 しかしこの二度の時期を過ぎると、子どもの性格、性質は定着する。以後、子どもの性格や
性質をいじるのは、たいへん危険なことである。大切なことは、そういう子どもであることを認め
ること。認めたうえで、その子どもに合わせて子育てをすること。「あなたはダメだ」式の、マイ
ナスのストロークをかけてしまうと、子どもは、自信をなくしたり、さらに将来に対して、大きな不
安を覚えるようになる。

●基底不安

心理学の世界には、「基底不安」という言葉がある。生まれながらにして、不安が基底になって
いて、そのためさまざまな症状を示すことをいう。

絶対的な安心感があって、子どもの心というのは、はぐくまれる。しかし何らかの理由で、その
安心感がゆらぐと、それ以後、「不安」が基本になった生活態度になる。たとえば心を開くこと
ができなくなる、人との信頼関係が結べなくなる、など。

そこで子どもは、さまざまな方法で、心を防衛する。@服従的態度(ヘラヘラとへつらう)、A攻
撃的態度(威圧したり、暴力で相手を屈服させる)、B回避的行動(引きこもる)、C依存的行
動(同情を求める)などがある。これを「防衛機制」という。




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15

●生きる意味

 幼児を教えていて、ふと不思議に思うことがある。子どもたちの顔を見ながら、「この子たち
は、ほんの五、六年前には、この世では姿も、形もなかったはずなのに」と。

しかしそういう子どもたちが今、私の目の前にいて、そして一人前の顔をして、デンと座ってい
る。「この子たちは、五、六年前には、どこにいたのだろう」「この子たちは、どこからきたのだ
ろう」と思うこともある。

 一方、この年齢になると、周囲にいた人たちが、ポツリポツリと亡くなっていく。そのときも、ふ
と不思議に思うことがある。亡くなった人たちの顔を思い浮かべながら、「あの人たちは、どこ
へ消えたのだろう」と。

年上の人の死は、それなりに納得できるが、同年齢の友人や知人であったりすると、ズシンと
胸にひびく。ときどき「あの人たちは、本当に死んだのだろうか」「ひょっとしたら、どこかで生き
ているのではないだろうか」と思うこともある。

いわんや、私より年下の人の死は、痛い。つぎの原稿は、小田一磨君という一人の教え子が
死んだとき、書いたものである。


●脳腫瘍で死んだ一磨君

 一磨(かずま)君という一人の少年が、一九九八年の夏、脳腫瘍で死んだ。三年近い闘病生
活のあとに、である。その彼をある日見舞うと、彼はこう言った。

「先生は、魔法が使えるか」と。そこで私がいくつかの手品を即興でしてみせると、「その魔法
で、ぼくをここから出してほしい」と。私は手品をしてみせたことを後悔した。

 いや、私は彼が死ぬとは思っていなかった。たいへんな病気だとは感じていたが、あの近代
的な医療設備を見たとき、「死ぬはずはない」と思った。だから子どもたちに千羽鶴を折らせた
ときも、山のような手紙を書かせたときも、どこか祭り気分のようなところがあった。皆でワイワ
イやれば、それで彼も気がまぎれるのではないか、と。

しかしそれが一年たち、手術、再発を繰り返すようになり、さらに二年たつうちに、徐々に絶望
感をもつようになった。彼の苦痛でゆがんだ顔を見るたびに、当初の自分の気持ちを恥じた。
実際には申しわけなくて、彼の顔を見ることができなかった。私が彼の病気を悪くしてしまった
かのように感じた。

 葬式のとき、一磨君の父は、こう言った。「私が一磨に、今度生まれ変わるときは、何になり
たいかと聞くと、一磨は、『生まれ変わっても、パパの子で生まれたい。好きなサッカーもできる
し、友だちもたくさんできる。もしパパの子どもでなかったら、それができなくなる』と言いました」
と。そんな不幸な病気になりながらも、一磨君は、「楽しかった」と言うのだ。その話を聞いて、
私だけではなく、皆が目頭を押さえた。

 ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の冒頭は、こんな詩で始まる。「誰の死なれど、人の
死に我が胸、痛む。我もまた人の子にありせば、それ故に問うことなかれ」と。

私は一磨君の遺体を見送りながら、「次の瞬間には、私もそちらへ行くから」と、心の奥で念じ
た。この年齢になると、新しい友や親類を迎える数よりも、死別する友や親類の数のほうが多
くなる。人生の折り返し点はもう過ぎている。今まで以上に、これからの人生があっと言う間に
終わったとしても、私は驚かない。だからその詩は、こう続ける。

「誰がために(あの弔いの)鐘は鳴るなりや。汝がために鳴るなり」と。

 私は今、生きていて、この文を書いている。そして皆さんは今、生きていて、この文を読んで
いる。つまりこの文を通して、私とあなたがつながり、そして一磨君のことを知り、一磨君の両
親と心がつながる。

もちろん私がこの文を書いたのは、過去のことだ。しかもあなたがこの文を読むとき、ひょっと
したら、私はもうこの世にいないかもしれない。しかし心がつながったとき、私はあなたの心の
中で生きることができるし、一磨君も、皆さんの心の中で生きることができる。それが重要なの
だ。

 一磨君は、今のこの世にはいない。無念だっただろうと思う。激しい恋も、結婚も、そして仕
事もできなかった。自分の足跡すら、満足に残すことができなかった。瞬間と言いながら、その
瞬間はあまりにも短かった。そういう一磨君の心を思いやりながら、今ここで、私たちは生きて
いることを確かめたい。それが一磨君への何よりの供養になる。」


●あの世は……

 あの世はあるのだろうか。それともないのだろうか。釈迦は『ダンマパダ』(原始経典のひと
つ、漢訳では「法句経」)の中で、つぎのように述べている。

 「あの世はあると思えばあるし、ないと思えばない」と。わかりやく言えば、「ない」と。

「あの世があるのは、仏教の常識ではないか」と思う人がいるかもしれないが、そうした常識
は、釈迦が死んだあと、数百年あるいはそれ以上の年月を経てからつくられた常識と考えてよ
い。もっとはっきり言えば、ヒンズー教の教えとブレンドされてしまった。そうした例は、無数にあ
る。

 たとえば皆さんも、日本の真言密教の僧侶たちが、祭壇を前に、大きな木を燃やし、護摩(ご
ま)をたいているのを見たことがあると思う。あれなどはまさにヒンズー教の儀式であって、それ
以外の何ものでもない。

むしろ釈迦自身は、「そういうことをするな」と教えている。(「バラモンよ、木片をたいて、清浄
になれると思ってはならない。なぜならこれは外面的なことであるから」(パーリ原典教会本「サ
ニュッタ・ニカーヤ」))

 釈迦の死生観をどこかで考えながら、書いた原稿がつぎの原稿である。


●家族の喜び
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむけ
る。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。「私は
ダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。

が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえ
ている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生き
ていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようにな
る。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言っ
た父親もいた。が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが
大きくなり、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったま
ま、口をつぐんでしまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずね
る。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることが
できるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救わ
れた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親を
みると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだでは
ないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかり
ではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。しかしそれでも
巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしかない。

親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつもドア
をあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子先生は手記の中にこう書
いている。

「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれない。が、そ
れでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受
賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残している。「子どもた
ちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決して程度
をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」と。こうい
う家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。」


●生きる目的

 ではなぜ、私たちは生きるか、また生きる目的は何かということになる。釈迦はつぎのように
述べている。

 「つとめ励むのは、不死の境地である。怠りなまけるのは、死の足跡である。つとめ励む人は
死ぬことがない。怠りなまける人は、つねに死んでいる」(四・一)と述べた上、「素行が悪く、心
が乱れて一〇〇年生きるよりは、つねに清らかで徳行のある人が一日生きるほうがすぐれて
いる。愚かに迷い、心の乱れている人が、一〇〇年生きるよりは、つねに明らかな智慧あり思
い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。怠りなまけて、気力もなく一〇〇年生きるより
は、しっかりとつとめ励む人が一日生きるほうがすぐれている」(二四・三〜五)(中村元訳)と。

 要するに真理を求めて、懸命に生きろということになる。言いかえると、懸命に生きることは
美しい。しかしそうでない人は、そうでない。こうした生き方の差は、一〇年、二〇年ではわから
ないが、しかし人生も晩年になると、はっきりとしてくる。

 先日も、ある知人と、三〇年ぶりに会った。が、なつかしいはずなのに、そのなつかしさが、
どこにもない。会話をしてもかみ合わないばかりか、砂をかむような味気なさすら覚えた。話を
聞くと、その知人はこう言った。「土日は、たいていパチンコか釣り。読む新聞はスポーツ新聞
だけ」と。こういう人生からは何も生まれない。

 つぎの原稿は、そうした生きざまについて、私なりの結論を書いたものである。


●子どもに生きる意味を教えるとき 

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからすれば
よい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。

たとえば高校野球。私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの
懸命さを感ずるからではないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがして
いる「仕事」だって、意味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲーム
とは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想的なミュ
ージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはなぜ生まれ、な
ぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。それから三〇年あまり。私もこ
の問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわけではないが、トルストイの『戦争
と平和』の中に、私はその答のヒントを見いだした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、人生の
目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエー
ル。そのピエールはこう言う。

『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること。愛するこ
と。信ずること』(第五編四節)と。つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。

もっと言えば、人生の意味などというものは、生きてみなければわからない。映画『フォレスト・
ガンプ』の中でも、フォレストの母は、こう言っている。『人生はチョコレートの箱のようなもの。
食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』と。

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャーも、
それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みんな必死だ。
命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが
宙を飛ぶ。その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、
そのあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあっ
て、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。いや、あえて言うなら、懸命
に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。

言いかえると、そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘志もな
い。毎日、ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人生の意味はわ
からない。さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われ
たとき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざまでし
かない。

あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、適当に試合をしていた
ら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つまらない。そういうものはいくら
繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。そういう人生からは、結局は何も生まれな
い。高校野球は、それを私たちに教えてくれる。


●「私」の共有

 私も、つぎの瞬間には、この世から消えてなくなる。書いたものとはいえ、ここに書いたような
ものは、やがて消えてなくなる。残るものといえば、この文を読んでくれた人がいたという「事
実」だが、そういう人たちとて、これまたやがて消えてなくなる。

しかしその片鱗(りん)は残る。かすかな余韻といってもよい。もっともそのときは、無数の人た
ちの、ほかの余韻とまざりあって、どれがだれのものであるかはわからないだろう。しかしそう
いう余韻が残る。この余韻が、つぎの世代の新しい人たちの心に残り、そして心をつくる。

 言いかえると、つまりこのことを反対の立場で考えると、私たちの心の中にも、過去に生きた
人たちの無数の余韻が、互いにまざりあって、残っている。有名な人のも、無名な人のも。もっ
と言えば、たとえば私は今、「はやし浩司」という名前で、自分の思想を書いているが、その
実、こうした無数の余韻をまとめているだけということになる。

その中には、キリスト教的なものの考え方や、仏教的なものの考え方もある。ひょっとしたらイ
スラム教的なものの考え方もあるかもしれない。もちろん日本の歴史に根ざすものの考え方も
ある。どれがどれとは区別できないが、そうした無数の余韻が、まざりあっていることは事実
だ。

 この項の最後に、私にとって「生きる」とは何かについて。私にとって生きるということは考え
ること。具体的には、書くこと。仏教的に言えば、日々に精進することということになる。それに
ついて書いたのがつぎの文である。この文は、中日新聞でのコラム「子どもの世界」の最終回
用に書いたものである。


●生きることは、考えること

 毎週土曜日は、朝四時ごろ目がさめる。そうしてしばらく待っていると、配達の人が新聞を届
けてくれる。聞きなれたバイクの音だ。が、すぐには取りにいかない。いや、ときどき、こんな意
地悪なことを考える。配達の人がポストへ入れたとたん、その新聞を中から引っ張ったらどうな
るか、と。きっと配達の人は驚くに違いない。

 今日で「子どもの世界」は終わる。連載一〇九回。この間、二年半あまり。「混迷の時代の子
育て論」「世にも不思議な留学記」も含めると、丸四年になる。

しかし新聞にものを書くと言うのは、丘の上から天に向かってものをしゃべるようなもの。読者
の顔が見えない。反応もわからない。だから正直言って、いつも不安だった。中には「こんなこ
とを書いて!」と怒っている人だっているに違いない。私はいつしか、コラムを書きながら、未
踏の荒野を歩いているような気分になった。果てのない荒野だ。孤独と言えば孤独な世界だ
が、それは私にとってはスリリングな世界でもあった。書くたびに新しい荒野がその前にあっ
た。

 よく私は「忙しいですか」と聞かれる。が、私はそういうとき、こう答える。「忙しくはないです
が、時間がないです」と。つまらないことで時間をムダにしたりすると、「しまった!」と思うことが
多い。

女房は「あなたは貧乏性ね」と笑うが、私は笑えない。私にとって「生きる」ということは、「考え
る」こと。「考える」ということは、「書く」ことなのだ。私はその荒野をどこまでも歩いてみたい。そ
してその先に何があるか、知りたい。ひょっとしたら、ゴールには行きつけないかもしれない。し
かしそれでも私は歩いてみたい。そのために私に残された時間は、あまりにも少ない。

 私のコラムが載っているかどうかは、その日の朝にならないとわからない。大きな記事があ
ると、私の記事ははずされる。バイクの音が遠ざかるのを確かめたあと、ゆっくりと私は起きあ
がる。そして新聞をポストから取りだし、県内版を開く。私のコラムが出ている朝は、そのまま
読み、出ていない朝は、そのまままた床にもぐる。たいていそのころになると横の女房も目をさ
ます。そしていつも決まってこう言う。

「載ってる?」と。その会話も、今日でおしまい。みなさん、長い間、私のコラムをお読みくださ
り、ありがとうございました。」 

++++++++++++++++++++++

みなさんへ、

生きているって、すばらしいことですね。
これからも、そのすばらしさを、このマガジンを
とおして、追求していきたいと思います。
今回は、「おわび号」ということで、その
「生きる」について、書いてみました。

これからも、どうか、マガジンを、お読み
ください。

はやし浩司



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16

●人格障害

 だれにでも、ある程度の「クセ」がある。しかしそのクセが、ある一定の範囲を超えて、対人関
係で支障が出るようになった状態を、人格障害という。

 症状によって、道徳欠如型、自己中心型、狂信型、衝動型、攻撃型、意志薄弱型、怠惰型な
どに分かれるという(鈴木淳三氏)。そしてその原因はといえば、乳幼児期に、母と子の関係が
不全だったことによって、そうなるというのが、常識になっている。

 育児拒否、冷淡、無視、家庭崩壊、虐待など。その中でも、とくに重要なカギを握るのが、ス
キンシップと考えてよい。わかりやすく言えば、この時期、スキンシップが不足すると、子どもの
心には、さまざまな影響が現れる。その一つが、人格障害ということになる。

 それ以前の問題として、スキンシップが不足すると、子どもは、いわゆる心の冷たい子どもに
なる。たとえば、つぎのような症状が見られるようになる。

(1)感情の表現が平坦……喜怒哀楽の表現が、平坦になる。以前、叱られても、ほめられて
も、ほとんど表情を変えない子ども(小四女児)がいた。が、ある日、ふと、その子どもの顔を見
ると、細い涙を流していた。何かのことで、いやなことがあったのだろう。その子どもは、表情一
つ変えないで、泣いていた。あとでその子どもの父親と話すと、こう教えてくれた。「うちは、水
商売で、それでいろいろ事情があって、生まれるとすぐから、保育所へ預けていました」と。

(2)慢性的な不安状態……慢性的な不安状態を基本とした、生きザマを示すようになる。その
ため、何をしても、逃げ腰になる。さらに症状が進むと、自信喪失状態になり、オドオドした様
子や、ビクビクした様子を示すようになる。成長することや、おとなになることに、不安を覚える
ようになる。さらにひどくなると、「死」について、口にするようになる。

(3)情緒の欠落……どこか心が欠けたような様子になる。たとえば飼っていたペットが死んで
も、平然としているなど。N君(小三男児)は、祖母の葬式のとき、葬儀に来た人の間で、楽しそ
うに、ゲームをしていたという。母親は、こう言った。「あんなにかわいがってくれた、おばあちゃ
んなのに、涙をこぼさない息子を見て、心底、ぞっとしました」と。

 こうした状態が、一つの原因となり、こじれにこじれて、人格障害に進むと考えられる。ただこ
の時点で、注意しなければならないのは、本人には、その自覚も意識もないということ。もちろ
ん病識もない。

 だからたとえば、まわりの人が、それを指摘したりすると、かえって、猛烈に、それに反発した
りする。

 私のよく知っている人に、G氏(四五歳、当時)がいた。

 私は、そのG氏が経営する会社で、翻訳の手伝いをしていた。のちに、G氏の会社は倒産
し、そのままG氏は、精神科の病院へ強制的に入院させられたから、G氏は、ここでいう人格
障害者だったと考えてよい。そのG氏のこと。

 私の翻訳した文章が気にいったということで、ある夕方、料亭に呼び出された。行ってみる
と、G氏と愛人の二人がいた。G氏は、「これ、オレのあれね」と言って、小指を立てて見せた。

 そしてG氏は、見たこともないような、ご馳走(ちそう)を、私にふるまってくれた。が、居心地
は、よくなかった。で、ころあいをみて、席を立とうとすると、突然、激怒して、「お前は、オレの
接待を、受けられないのか!」と。

 そこで「すみません」とあやまると、今度は、一転、妙に紳士的になり、「君の能力に投資する
よ」とか言って、その場で、一〇〇万円の札束を、ポイと投げてよこした。さすがの私もこれに
は驚いて、受け取るのを断った。

 G氏から、そういうもてなしを受けると、あとがたいへん。……もうそのときまでに、数か月近
く、G氏の仕事を手伝っていたから、私には、それが、よくわかっていた。そして、こんな事件が
起きた。

 G氏の経営する会社が、テレビコマーシャルを出すことになった。G氏は、テレビタレントのXX
の、大ファンだった。そこでそのコマーシャルに、XXを起用することにした。で、話はトントン拍
子にうまくいって、そのコマーシャルは、S県全域で放送された。

 が、そのあとのこと。G氏は、XXと、親密な友人になったかのように錯覚してしまった。(XX
は、仕事として、G氏の会社のコマーシャルに出ただけだが、G氏には、それがわからなかっ
た。)で、たまたまXXが、地元のテレビに出演することになったときのこと。あろうことか、G氏
は、その収録中に、テレビ局(NHK)のスタジオに、飛び入りして、「やあやあ、XXさん、お久し
ぶりです! 私の○○会社をよろしく」と、やってしまった。

 自分の会社を、宣伝するつもりだったという。

 録画だったからよかったものの、生放送だったら、たいへんな事件になっていたところであ
る。もちろんG氏は、その場で、何人かの守衛に取り押さえられ、外に放り出された。

 そのG氏が、何という病名で、病院に強制的に収容されたかは、私は知らない。しかし私は、
今でも、G氏の、数々の、特異な言動を忘れることができない。G氏の会社が倒産したのも、実
は、ハプニングによるものだったと、あとから、人から聞いた。

 で、こうした方向性というのは、かなり初期の段階で、子どもの中にできる。しかしその段階
で、たいていの親は、「なおそう」と考えて、無理をする。この無理が、さらに症状をこじらせる。
そして一度、そういう状態になると、あとは、底なしの悪循環。「まだ、以前のほうが、症状が軽
かった」ということを繰りかえしながら、最後は、行きつくところまで、行く。

 印象に残っている少年に、F君(中学生)がいた。

 私が最初、F君の家庭教師をするようになったのは、F君が、ちょうど中学一年生になったと
きのことだった。が、そのころのF君は、どこといって、おかしなところはなかった。(私も若かっ
たので、よくわからなかったのかもしれない。)

 が、一年目くらいから、奇妙な言動が目立つようになった。父親は、H湖の近くで、釣具店を
経営していた。F君は、その釣具店から、最高級の釣具をもちだしては、毎日、意味もなく、磨
き始めた。そして、その磨いた釣具を、綿で、二重、三重にくるんで、タンスの一番奥にしまい
始めた。

 症状としては、XX病の初期症状(?)ということになるが、この段階で、父親が、F君をはげし
く叱った。父親のほうが、まだ体力的にも、上だった。しかしこうした強引なやり方が、F君の症
状を、こじらせた。

 F君は、やがて学校へも行かなくなり、私が知らないところで、病院にも通うようになった。し
かしそのころになると、F君の症状は、ますますひどくなり、意味もなくニヤニヤと突然笑い出し
たり、反対に、ふさぎこんで、何日も、部屋から出てこなくなったりした。

 F君が、私にこう言ったことがある。「タンスの前を人が歩くと、その振動で、釣具の微妙な調
整が狂う」と。

 私はそのため、彼のタンスの前を歩くときは、特別なスリッパに履きかえたあと、恐る恐る歩
かねばならなかった。しかし父親は、「そんなバカなことがあるか!」と、何度も、F君を叱った。
あるときは、タンスの中の釣具を、庭へ、すべて放り出してしまったこともある。

 何とか、高校へは入学したが、その後、F君の、ふつうでない言動は、ますますひどくなった。
ひどくなったというか、常識ハズレになっていった。やがて、F君は、「霊」とか何とか、わけのわ
からないことを口にするようになり、さらにおとなになってから、のちに社会問題となる、TK教
団という、あの宗教団体に入信してしまった。

++++++++++++++++

●私は……?

 私は、人格障害者か? ……という視点で、自分を反省してみる。自分のことを知るのは、
本当にむずかしい。「私は正常だ」と思っていても、そうでないケースは、多い。また、人格的に
問題がある人ほど、それを指摘されると、猛烈に反発する。そのため、指導がたいへんむず
かしい。

●道徳欠如的なところは、ないか?(XX)

私は、「盗み」を、大学生になるまでに、二度したことがある。
私は、子どものころ、平気で、ウソをついた。
私はそういう点では、その場の雰囲気に乗りやすく、みなから、ワーワーとはやしたてられたり
すると、そのまま悪いことを平気でしてしまうようなところがある。自制心が弱く、忠誠心も弱
い。

●自己中心的なところは、ないか?(XXXX)

いつも自分が正しいと思っていた。
自分の価値がわからない人は、バカだとよく思ったことがある。
私は、自分でも、ジコチュー(自己中心的)だと思っている。そういう点では、他人の立場になっ
て、ものを考えるのが、苦手。あるいはときどき、他人から見たとき、自分がどんなふうに、見
えるか、わからなくなるときがある。

●狂信的なところは、ないか?(X)

学生のころ、何も迷わず、商社マンの道を選んだ。それが正しい道だと、信じていた。
どとらかというと、信じやすく、一度信じてしまうと、突っ走ってしまうタイプ。

●衝動的なところは、ないか?(XX)

ものを衝動的に買うことがある。ただ見にいったつもりでも、そのとき、ムラムラとほしくなると、
それを止められなくなることが、よくある。
子どもっぽい、いたずらを、今でも、よくする。幼稚なところがある。

●攻撃的なところは、ないか?(XXX)

いつも攻撃的? ときどき相手を、トコトン、やっつけてしまうことがある。
魚をとるときも、釣るよりも、もぐっていって、モリでつくほうが、楽しかった。(おとなになってか
らは、かわいそうで、魚を釣ることができなくなったが……。)

●意志薄弱的なところは、ないか?

それはないと思う。

●怠惰的なところは、ないか?(X)

基本的には、私は、だらしない。怠け者だと思う。しかしやるべきことは、きちんとやっている。
書斎の中でも、使うものは、すべて手が届くところにある。だからまわりは、ゴチャゴチャ。

++++++++++++++++++++

 今の私は、体力も気力もあるから、自分の「障害」を、うまく隠している。が、そのうち、体力や
気力が弱くなってきたら、自分の中の「本性」が、そのまま外に、モロに出てきてしまうかもしれ
ない。人格障害であるかないかは、たいへん微妙な問題であり、そのため、その境界が、わか
りにくい。自分のこととなると、さらに、わかりにくい。

 また人によって、正常な部分もあれば、そうでない部分もあり、その人を見る方向によって、
まったく別人に見えることもある。これは私の印象だが、私のように、家の中に引きこもって、
原稿ばかり書いている人には、意外と、人格障害者が多いのでは? 「もの書き」には、そうい
う意味で、変人が多い?

 こうした障害を避けるためには、毎日、できるだけ多くの人と会い、会話をし、交際をすること
が大切。もともと「人格障害」というときは、他人の目から見て……という意味が、含まれる。本
人がそれでよければ、それでよいということになる。つまり「人格障害」というのは、「他人との
接触障害」のこと、と考えてよい。
(031202)

●こうした人格障害の人は、何かにつけて、極端になりやすく、そのため、そのまわりの人が、
迷惑することが多い。同じ町内の、Rさんの家の近くにも、そういう老人が住んでいるという。何
かあると、すぐ写真にとって、警察などに訴えていく、など。偏屈な老人で、奥さんはいるが、ほ
とんど人の出入りはないという。(一年に、数人、いるかいないかということらしい。)

●一般的には、老人になればなるほど、人格障害者的になるのではないか。「じょうずに老い
る」ためには、いつも「では、自分は、どうなのか?」という問いかけを、忘れてはいけない。



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17

●真の親の喜び

いつか、あなたの子どもも、
あなたから巣立つときが、やってくる。
そのとき、あなたの心の中で、
さん然と輝くもののは、何か。

あなたは、あなたの子どもに、こう言う。
「さあ、あなたの人生よ。思う存分、羽ばたきなさい。
この広い世界を、自由に、飛びまわりなさい。
親孝行? ……バカなことは、考えなくていい。
家の心配? ……バカなことは、考えなくていい。
たった一度しかない人生だから、
あなたは、あなたの人生を、思う存分、生きなさい」と。

一度は、子どもに、子どもの人生を手渡してこそ、
あなたは、親として、あなたの努めを果たしたことになる。
親孝行を、子どもに求めてはいけない。
家の心配を、子どもにかけさせてはいけない※。

親孝行にせよ、家の心配にせよ、そんなものは、
美徳でも何でもない。それとも、あなたは、
子どもが、あなたのためや、家のために、
犠牲になるのを見て、それを喜ぶとでもいうのか。

いつか、あなたの子どもも、
あなたから巣立つときが、やってくる。
必ず、やってくる。
そのとき、あなたの心の中で、
さん然と輝くものは、何か。
 
子育ては、苦労の連続。
苦労のない子育ては、ない。
親は、子育てをしながら、
野を越え、山を越え、谷を越える。
そして、そのあとにやってくるもの……。

子どもを信じきったという思い、
子どもを守りきったという思い、
それが、あなたの心の中で、
さん然と、輝き始める。

どんな子どもにも、一つや、二つ、
三つや、四つ。五つや、六つ、
問題がある。問題のない子どもなど、いない。

問題は、問題があることではない。
問題は、あなたが、それを、どこまで受け入れ、
どこまで許すかということ。そして、それを、
どこまで忘れるかということ。
親としての愛の深さは、その度量の広さで決まる。

いつか、あなたの子どもも、
あなたから巣立つときが、やってくる。
必ず、やってくる。
そのとき、「子どもを信じきった」という思い、
「守りきった」という思い、
その思いが、あなたの心の中で、
さん然と輝き始める。
(031203)


※もちろんそのあと、子どもが自分で考えて、親孝行するとか、家の心配をするというのであれ
ば、それは子どもの問題、子どもの勝手。そのときはそのときで、親は、「ありがとう」と言って、
それに応ずればよい。

「林は、日本人の美徳の一つである、親孝行を否定するのか?」という意見を、よくもらう。講
演のあと、そういう抗議をもらったこともある。

しかし私は、一度だって、親孝行を否定したことはない。

日本人は、自らの依存性を正当化するために、「孝行論」をもちだす。親自身が、「孝行息子」
や、「孝行娘」を育てるのを、子育ての目標にしているようなところがある。そして親自身が、子
どもに、それを求める。

「産んでやった」「育ててやった」と。さらには、「大学まで出してやった」という、日本人独特の、
こうした甘ったれた意識は、結局は、自立できない親の、依存性を代弁した言葉と考えてよ
い。

親は親として、どこまでも、気高く、前向きに生きる。そういう姿が、子どもの生きる原動力とな
る。

子育てはたしかに、重労働。しかし子育てを、決して、人生の目標にしてはいけない。親は、子
どもを育て、そして苦労はするが、それは、親としての義務であって、決して、目的ではない。

あくまでも、「あなたの人生は、あなたの人生」「私の人生は、私の人生」と。

それとも、あなたは、あなたの子どもが、あなたのために犠牲になるのを見て、それを喜ぶとで
もいうのか。またそれが子どもとして、あるべき姿だとでも、思うのか。



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18

●親像

子どもに母性や父性が育つとき

●ぬいぐるみでわかる母性 

 子どもに父性や母性が育っているかどうかは、ぬいぐるみの人形を抱かせてみればわかる。
しかもそれが、三〜五歳のときにわかる。

父性や母性(父性と母性を区別するのも、おかしなことだが……)が育っている子どもは、ぬい
ぐるみを見せると、うれしそうな顔をする。さもいとおしいといった表情で、ぬいぐるみを見る。
抱き方もうまい。そうでない子どもは、無関心、無感動。抱き方もぎこちない。

中にはぬいぐるみを見せたとたん、足でキックしてくる子どももいる。ちなみに小三児の約八
〇%の子どもが、ぬいぐるみを持っている。そのうち約半数が「大好き」と答えている。

●男児もぬいぐるみで遊ぶ

 オーストラリアでは、子どもの本といえば、動物の本をいう。写真集が多い。またオーストラリ
アに限らず、欧米では、子どもの誕生日に、ペットを与えることが多い。

つまり子どものときから、動物との関わりを深くもたせる。一義的には、子どもは動物を通し
て、心のやりとりを学ぶ。しかしそれだけではない。子どもはペットを育てることによって、父性
や母性を学ぶ。

そんなわけで、機会と余裕があれば、子どもにはペットを飼わせることを勧める。犬やネコが
代表的なものだが、心が通いあうペットがよい。が、それが無理なら、ぬいぐるみを与える。や
わらかい素材でできた、温もりのあるものがよい。

●悪しき日本の偏見

 日本では、「男の子はぬいぐるみでは遊ばないもの」と考えている人が多い。しかしこれは偏
見。こと幼児についていうなら、男女の差別はない。あってはならない。つまり男の子がぬいぐ
るみで遊ぶからといって、それを「おかしい」と思うほうが、おかしい。

男児も幼児のときから、たとえばペットや人形を通して、父性を育てたらよい。ただしここでいう
人形というのは、その目的にかなった人形をいう。ウルトラマンとかガンダムとかいうのは、こ
こでいう人形ではない。

 また日本では、古来より戦闘的な遊びをするのが、「男」ということになっている。が、これも
偏見。悪しき出世主義から生まれた偏見と言ってもよい。

その一つの例が、五月人形。弓矢をもった武士が、力強い男の象徴になっている。三〇〇年
後の子どもたちが、銃をもった軍人や兵隊の人形を飾って遊ぶようなものだ。どこかおかしい
が、そのおかしさがわからないほど、日本人はこの出世主義に、こりかたまっている。

「男は仕事(出世)、女は家事」という、あの日本独特の男女差別思想も、この出世主義から生
まれた。

●ぬいぐるみで育つ母性と父性

 話を戻す。愛情豊かな家庭で育った子どもは、静かな落ちつきがある。おだやかで、ものの
考え方が常識的。どこかほっとするような温もりを感ずる。それもぬいぐるみを抱かせてみれ
ばわかる。両親の愛情をたっぷりと受けて育った子どもは、ぬいぐるみを見せただけで、スー
ッと頬を寄せてくる。こういう子どもは、親になっても、虐待パパや虐待ママにはならない。言い
かえると、この時期すでに、親としての「心」が決まる。

 ついでに一言。「子育て」は本能ではない。子どもは親に育てられたという経験があってはじ
めて、自分が親になったとき、子育てができる。もしあなたが、「うちの子は、どうも心配だ」と思
っているなら、ぬいぐるみを身近に置いてあげるとよい。ぬいぐるみと遊びながら、子どもは親
になるための練習をする。父性や母性も、そこから引き出される。




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19

●子どもが伸びるとき

●伸びる子どもの四条件

 伸びる子どもには、次の四つの特徴がある。@好奇心が旺盛、A忍耐力がある、B生活力
がある、C思考が柔軟(頭がやわらかい)。

@好奇心……好奇心が旺盛かどうかは、一人で遊ばせてみるとわかる。旺盛な子どもは、身
のまわりから次々といろいろな遊びを発見したり、作り出したりする。趣味も広く、多芸多才。
友だちの数も多く、相手を選ばない。

数才年上の友だちもいれば、年下の友だちもいる。何か新しい遊びを提案したりすると、「や
る!」とか「やりたい!」とか言って、食いついてくる。反対に好奇心が弱い子どもは、一人で遊
ばせても、「退屈〜ウ」とか、「もうおうちへ帰ろ〜ウ」とか言ったりする。

A忍耐力……よく誤解されるが、釣りやゲームなど、好きなことを一日中しているからといっ
て、忍耐力のある子どもということにはならない。子どもにとって忍耐力というのは、「いやなこ
とをする力」のことをいう。たとえばあなたの子どもに、掃除や洗濯を手伝わせてみてほしい。
そういう仕事でもいやがらずにするようであれば、あなたの子どもは忍耐力のある子どもという
ことになる。

あるいは欲望をコントロールする力といってもよい。目の前にほしいものがあっても、手を出さ
ないなど。こんな子ども(小三女児)がいた。たまたまバス停で会ったので、「缶ジュースを買っ
てあげようか?」と声をかけると、こう言った。「これから家で食事をするからいいです」と。こう
いう子どもを忍耐力のある子どもという。この忍耐力がないと、子どもは学習面でも、(しない)
→(できない)→(いやがる)→(ますますできない)の悪循環の中で、伸び悩む。

B生活力……ある男の子(年長児)は、親が急用で家をあけなければならなくなったとき、妹の
世話から食事の用意、戸じまり、消灯など、家事をすべて一人でしたという。親は「やらせれば
できるもんですね」と笑っていたが、そういう子どもを生活力のある子どもという。エマーソン(ア
メリカの詩人、「自然論」の著者、一八〇三〜八二)も、『教育に秘法があるとするなら、それは
生活を尊重することである』と書いている。

C思考が柔軟……思考が柔軟な子どもは、臨機応変にものごとに対処できる。同じいたずら
でも、このタイプの子どものいたずらは、どこかほのぼのとした温もりがある。食パンをくりぬい
てトンネルごっこ。スリッパをつなげて電車ごっこなど。反対に頭のかたい子どもは、一度「カ
ラ」にこもると、そこから抜け出ることができない。ある子ども(小三男児)は、いつも自分の座
る席が決まっていて、その席でないと、どうしても座ろうとしなかった。

 一般論として、「がんこ」は、子どもの成長にとって好ましいものではない。かたくなになる、意
固地になる、融通がきかないなど。子どもからハツラツとした表情が消え、動作や感情表現
が、どこか不自然になることが多い。教える側から見ると、どこか心に膜がかかったような状態
になり、子どもの心がつかみにくくなる。

●子どもを伸ばすために

子どもを伸ばす最大の秘訣は、常に「あなたは、どんどん伸びている」という、プラスの暗示を
かけること。そのためにも、子どもはいつもほめる。子どもを自慢する。ウソでもよいから、「あ
なたは去年(この前)より、ずっとすばらしい子になった」を繰り返す。もしあなたが、「うちの子
は悪くなっている」と感じているなら、なおさら、そうする。まずいのは「あなたはダメになる」式
のマイナスの暗示をかけてしまうこと。とくに「あなたはやっぱりダメな子ね」式の、その子ども
の人格の核に触れるような「格」攻撃は、タブー中のタブー。

その上で、@あなた自身が、自分の世界を広め、その世界に子どもを引き込むようにする(好
奇心をますため)。

またA「子どもは使えば使うほどいい子になる」と考え、家事の手伝いはさせる。「子どもに楽
をさせることが親の愛」と誤解しているようなら、そういう誤解は捨てる(忍耐力や生活力をつけ
るため)。

そしてB子どもの頭をやわらかくするためには、生活の場では、「アレッ!」と思うような意外性
を大切にする。よく「転勤族の子どもは頭がいい」と言われるのは、それだけ刺激が多いことに
よる。マンネリ化した単調な生活は、子どもの知恵の発達のためには、好ましい環境とは言え
ない。



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20

●子どものチック

 子どものチックについて、相談をもらった。「このところ、子どものチックがひどいが、どうした
らいいか」と。

 少し前だが、T君という小五の男児で、チックがひどい子どもがいた。回数を数えてみたこと
があるが、一分間で、一六〜二〇回前後。ほぼ間断なく、不自然な動きを繰りかえしていた。
またT君のばあい、目をバタつかせる、首をギクギクと回す、口を痙攣(けいれん)させながら、
動かすというように、複数のチックが、ランダムに現れていたのが、特徴的だった。

 何か会話をしているときは、チックは出ない。しかしひとりで、何かの作業をさせると、とたん
にチックが出る。

 こうしたチックで注意しなければならないのは、チックが、何か重大な、神経症、情緒障害、さ
らには精神障害の前ぶれとして現れることが多いということ。チックそのものが、神経的な緊張
感をほぐすための、防衛的な症状として現れることもある。

 だから子どもにチックが出てきたら、家庭環境のあり方を、猛省する。子どもを叱っても意味
はないし、叱れば叱るほど、症状は、こじれる。さらに問題が、ある。原因のほとんどは、母親
にある。が、それに気づく、母親は、まずいない。

 家庭教育の基準(スタンダード)そのものが、ちがう。こまごまと、神経質な指導をしながらも、
たいていこのタイプの母親は、「私はふつうだ」と思いこんでいる。T君の母親も、こんなことを
言ってきたことがある。

 生徒が、私の教室からバス停まで歩いていっことについて、「あぶないから、ちゃんと指導し
てほしい」と。
 
 あるいは教室で買ったワークブックについて、「毎日、何ページずつやればよいか、きちんと
指導してほしい」と。そこで私が、「そういったものは、適当にやればいいです」と言うと、T君の
母親は、本気で怒ってしまった。

 ほかの子どもなら話は別だが、T君には、そういう息抜きが、とくに必要だった。だからよくレ
ッスンをさぼって、本屋へ行ったり、図書館へ行ったりした。が、それについても、「目的をしっ
かりと説明してほしい」と。

 つまりT君が、そうしたチックを見せる背後には、親の過関心と過干渉があった。しかしそれ
を伝えるべきかどうか、私は迷った。こうした問題は、母親のほうが先に気づくのがよい。そし
て私に相談してくれるのがよい。そうすれば、私も指導することができる。が、それもなかった。

 で、そのうち、T君は、私の教室をやめてしまった。私のところに、一年もいなかったのでは…
…? 月末になって退会届けが郵送できたが、それは、内容証明付の手紙で、だった。

 こうしたケースは、本当に多い。そして最後は、親は、行きつくところまで、いく。その途中で、
私のような立場のものが、あれこれ言ってもムダ。親自身が、「そんなハズはない」「うちの子に
かぎって……」と、打ち消してしまう。さらに、ここにも書いたように、「自分はまとも」と思いこん
でいる。

 いや、だからといって、親を責めているのではない。どんな親も、懸命に子どもを育てている。
それに必死だ。そういう懸命さを感じたら、私たちがすべきことは、ただ一つ。遠慮がちに、引
きさがる……。

自分を知ることは、本当にむずかしい。五六歳になった今でも、ときどき新しい自分を発見する
ことがある。それくらい、むずかしい。本当に、むずかしい。私は、子どもにそういう問題をみる
たびに、そして、そういう親に会うたびに、そう思う。そして同時に、私はいつも、「では、私自身
はどうなのか?」と、振りかえる。
(031204)

+++++++++++++++++++++++

子どもがチックになるとき

●チックの子ども 

 チックと呼ばれる、よく知られた症状がある。幼児の一〇人に一人ぐらいの割合で経験す
る。「筋肉の習慣性れん縮」とも呼ばれ、筋肉の無目的な運動のことをいう。

子どもの意思とは無関係に起こる。時と場所を選ばないのが特徴で、これをチックの不随意性
という。

たいていは首から上に症状が出る。首をギクギクと動かす、目をまばたきさせる、眼球をクル
クル動かす、咳払いをする、のどをウッウッとうならせるなど。つばを吐く、つばをそでにこすり
つけるというのもある。

上体をグイグイと動かしたり、さらにひどくなると全身がけいれん状態になり、呼吸困難におち
いることもある。稀に数種類のチックを、同時に発症することもある。

七〜八歳をピークとして発症するが、おかしな行為をするなと感じたら、このチックを疑ってみ
る。症状は千差万別で、そのためたいていの親は、それを「変なクセ」と誤解する。しかしチッ
クはクセではない。だから注意をしたり、叱っても意味がない。ないだけではなく、親が神経質
になればなるほど、症状はひどくなる。

●回り道をして賢くなる?

 ……というようなことは、私たちの世界では常識中の常識なのだが、どんな親も、親になった
ときから、すべてを一から始める。チックを知らないからといって、恥じることはない。ただ子育
てには謙虚であってほしい。

あなたは何でも知っているつもりかもしれないが、知らないことのほうが多い。こんな子ども(年
長女児)がいた。

その子どもは、母親が何度注意をしても、つばを服のそでにこすりつけていた。そのため、服
のそでは、唾液でベタベタ。そこで私はその母親に、「チックです」と告げたが、母親は私の言う
ことなど信じなかった。病院へ連れていき、脳波検査をした上、脳のCTスキャンまでとって調
べた。

異常など見つかるはずはない。そのあともう一度、私に相談があった。親というのはそういうも
ので、それぞれが回り道をしながら、一つずつ賢くなっていく。

●原因は神経質な子育て

 原因は神経質な子育て。親の拘束的(子どもをしばりつける)かつ権威主義的な過干渉(「親
の言うことを聞きなさい」式に、親の価値観を一方的に押しつける)、あるいは親の完ぺき主義
(こまかいことまできちんとさせる)などがある。

子どもの側からみて息が抜けない環境が、子どもの心をふさぐ。一般的には一人っ子に多いと
されるのは、それだけ親の関心が子どもに集中するため。しかもその原因のほとんどは、親自
身にある。が、それも親にはわからない。

完ぺきであることを、理想的な親の姿であると誤解している。あるいは「自分はふつうだ」と思
い込んでいる。その誤解や思い込みが強ければ強いほど、人の話に耳を傾けない。それがま
すます子育てを独善的なものにする。が、それで悲劇は終わらない。

チックはいわば、黄信号。その症状が進むと、神経症、さらには情緒障害、さらにひどくなる
と、精神障害にすらなりかねない。が、子どもの心の問題は、より悪くなってから、前の症状が
軽かったことに気づく。親はそのときの症状だけをみて、子どもをなおそうとするが、そういう近
視眼的なものの見方が、かえって症状を悪化させる。そしてあとは底無しの悪循環。

●症状はすぐには消えない

 チックについて言うなら、仮に親が猛省したとしても、症状だけはそれ以後もしばらく残る。子
どもによっては数年、あるいはもっと長く続く。クセとして定着してしまうこともある。

おとなでもチック症状をみせる人は、いくらでもいる。日本を代表するような有名人でも、ときど
き眼球をクルクルさせたり、首を不自然に回したりする人はいくらでもいる。心というのはそうい
うもので、一度キズがつくと、なかなかなおらない。

(参考)

●チックの症状

 チックの症状は、千差万別だが、たいていは首から上の頭部に症状が表れる。ふつうでない
と思われるようなクセが続いたら、このチックを疑ってみる。

+++++++++++++++++++

目の周辺……目をまばたかせる。目を白黒させる。眼球をクルクル回す。慢性的なものもら
い。眉をしかめる。まぶたをけいれんさせる。

呼吸器……のどをつまらせる。ウッウッとうなる。カラ咳を繰り返す。喉の奥をつまらせる。ハッ
ハッとため息をつく。

口の周辺……つばを吐く。ツバを服のそでにこすりつける。つばをためる。口をとがらす。

首、頭……ギクッギクッと首をひねる。首をけいれん状に回したりひねったりする。頭を上下に
けいれん状に動かす。

そのほか……肩から頭部にかけて瞬間的にけいれんさせる。腹部をはげしく上下にけいれん
させる。全身をけいれんさせる、など。胸部がけいれんするケースでは、呼吸困難になることも
ある。



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21
●肥満

++++++++++++++++++++++++

肥満は、つぎの式で求められる(BMI)。

BMI=(体重、Kg)/(身長、m)の二乗

私のばあいは、64キロ、1・66メートルだから、
BMI=64÷(1・66x1・66)=23・1
となる。

BMI値が、25以上を、肥満(WHO)もしくは、
肥満度1(日本)としている。

25を超えると、肥満関連疾患が、急激に増える
という(日経・サイエンス、07年12月号)。

++++++++++++++++++++++++
 
 約8億人の人が、飢餓で苦しんでいる一方、この地球では、肥満関連疾患に苦しんでい
る人も多い。最近の傾向としては、発展途上国でも肥満が増え、肥満への認識が甘いため、
かえって深刻な社会問題を引き起こしているという(同誌、要約)。

 いくつか気になる事実を拾ってみよう。

●350mlで、速歩で、25分、ジョギングで10分 

 何かの健康雑誌に、「おにぎり1個分のカロリーを消費するためには、1万歩、歩かねば
ならない」と書いてあったのを記憶している。

 つまり1万歩、歩かないと、おにぎり1個分のエネルギーを消費できないということ。
同じような内容だが、「サイエンス」誌によれば、

 「体重60キログラムの人が、100Kカロリー消費するためには、速歩で約25分、
ジョギングなら、10分走らなければならない。350ml入りの清涼飲料水のカロリー
を消費するためには、3キロメートル近く歩かねばならない」と。

 が、実際には、先進国では、1人あたりのカロリー摂取量が、どんどんとふえている。
アメリカでは、1日あたり、3200Kカロリー(1980年)だったものが、3900
Kカロリー(2000年)へとふえている。

 みなさんもご存知かと思うが、アメリカに行って、まず驚くのが、太った人。「多い」と
いうよりは、日本人の基準でみると、ほとんどがそうではないかと思えるほど、多い。太
っているといっても、ふつうの太り方ではない。ビア樽(だる)を、さらに一回り太くし
たような太り方をいう。そういう人が、やたらと目につく。

 3200Kカロリーから、3900Kカロリーへ、つまり700Kカロリー増えると、
どうなるか? その結果が、今のアメリカの現状ということになる。

 では、運動をしてやせればよいと、だれしも考える。が、一度摂取したカロリーを燃焼
させるのは、容易なことではない。1万歩、歩いて、やっとおにぎり1個分のカロリーを
燃焼させることができるという。が、実際に、毎日、1万歩、歩いている人は、いったい、
どれだけいるだろうか。

 サイエンス誌は、健康法として、結論として、つぎのように書いている。

(1)太らないこと。すでに太っているばあいは、体重を減らす。
(2)飽和脂肪(牛肉、豚肉類、乳製品)の摂取を減らす。
(3)固形脂より、植物脂を使用するようにする。
(4)主に野菜、果物、無脂乳製品を食べるようにする。
(5)塩と砂糖(精製糖)は、控えめにする。
(6)薬品や、凝った料理法によらない食事法が望ましい。
(7)たくさん運動し、野外のレクリエーションを楽しむ、と。

 1959年、キーズ夫妻という人が提唱した健康法だそうだ。この方法は「今でも生き
ている」(同誌)と。

●リバウンドを防ぐためには、運動しかない

 アメリカには、よく知られたダイエット法として、(1)アトキンズ・ダイエット法、(2)
ゾーン・ダイエット法、(3)低脂肪食ダイエット法、(4)オーニッシュ・ダイエット法
などがあるそうだ。

 いちばん効果的だったのが、(1)のアトキンズ・ダイエット法だったという。が、しか
し「この方法では、減らした体重を維持するのはむずかしい」(心理学者で、減量法の権威、
J・Hill)とのこと。つまりリバウンドが起こりやすい。

 せっかく減量に成功しても、それからは毎日、空腹感と闘わねばならないということに
なる。

 で、サイエンス誌の出した結論は、こうだ。

 「体重維持のカギは、運動」と。肥満の程度にもよるが、毎日1時間程度の運動が好ま
しい、と。しかし実際には、「毎日1時間以上の運動を生活に組み込むのは、難しい」。そ
こで重要なのが、予防ということになる。「予防こそ、大切」と。

 予防のためなら、1日、15分〜20分程度の運動で、だいじょうぶ、ということらし
い。つまり肥満になってから、運動するよりも、肥満になる前に運動するほうが、効果的
ということになる。それに楽。

 ……そのあたりのことは、私にも、よくわかっているのだが……。

 ほかにもいろいろ書いてある。私のように、(太る)→(減量する)→(また太る)とい
うように、「ヨーヨーのように、体重がふえたり、減ったりするダイエットは、不健康」と
いうことらしい。

 私のばあいは、体重が67キロを超えると、あわててダイエットを始め、64キロ前後
まで落ち着くと、また食べ始める。いつも、この繰りかえし。周期をみると、だいたい、
1〜2か月ごとに、それを繰りかえしている。

 運動はしているが、サイエンス誌を読んだところでは、私の運動量では、どうも不足と
いうことらしい。しかしこれ以上運動量ふやせといっても、どこでどうふやせばよいのか?
 それに体力がつづくかどうか?

 とりあえずできることは、食事の量を控えめにするということ。もうすぐ夕食だが、今
夜は、いつも3分の2程度ですませよう。




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22
●砂糖は白い麻薬

++++++++++++

甘い食品になれた子どもから、
甘い食品を取りあげると、
禁断症状に似た症状が観察される。

私はこのことを、すでに30年前
に発見した。雑紙にも、そう書いた。

それが最近、科学的に、証明され
つつある。

++++++++++++

●禁断症状

 アメリカの国立薬物乱用研究所の、N・D・ボルコフ(女性研究者)は、つぎのような
論文を発表している。

 「……過食症ラットのばあい、砂糖を多く含むエサを与えたあとに、ナロキソンという
オピオイド拮抗剤(脳内快楽物質の働きを妨げる薬)を投与すると、禁断症状が起こる。

 モルヒネを注射したあとに、ナロキソンを投与したのと同じく、禁断症状が生ずるのだ。
この結果から、糖分の多いエサを食べつづけることによって、身体的な依存が生じていた
ことがわかる。人間でも同じ反応が起こるなら、禁断症状を緩和する処置が、ダイエット
に役立つかもしれない」(日経・サイエンス・07・12月号・P55)と。

 これはラットについての実験だから、そのまま人間に当てはまるとはかぎらない。しか
し一歩、近づいた! つまり白砂糖でも、麻薬に似た禁断症状が起こる!

 その30年前に書いた原稿をさがしてみたが、見あたらなかった。そのかわり、当時の
原稿をもとに、書き直した原稿が見つかった。中日新聞に、8年前に発表した原稿である。
この中に書いた、U君というのは、今でもよく覚えている。

++++++++++++++

●砂糖は白い麻薬

●独特の動き

 キレるタイプの子どもは、独特の動作をすることが知られている。動作が鋭敏になり、
突発的にカミソリでものを切るようにスパスパとした動きになるのがその一つ。

原因についてはいろいろ言われているが、脳の抑制命令が変調したためにそうなると考
えるとわかりやすい。そしてその変調を起こす原因の一つが、白砂糖(精製された砂糖)
だそうだ(アメリカ小児栄養学・ヒューパワーズ博士)。

つまり一時的にせよ白砂糖を多く含んだ甘い食品を大量に摂取すると、インスリンが大
量に分泌され、そのインスリンが脳間伝達物質であるセロトニンの大量分泌をうながし、
それが脳の抑制命令を阻害する、と。

●U君(年長児)のケース

U君の母親から相談があったのは、4月のはじめ。U君がちょうど年長児になったとき
のことだった。母親はこう言った。「部屋の中がクモの巣みたいです。どうしてでしょ
う?」と。

U君は突発的に金きり声をあげて興奮状態になるなどの、いわゆる過剰行動性が強くみ
られた。このタイプの子どもは、まず砂糖づけの生活を疑ってみる。聞くと母親はこう
言った。

 「おばあちゃんの趣味がジャムづくりで、毎週そのジャムを届けてくれます。それで残
したらもったいないと思い、パンにつけたり、紅茶に入れたりしています」と。そこで計
算してみるとU君は1日、100〜120グラムの砂糖を摂取していることがわかった。
かなりの量である。そこで私はまず砂糖断ちをしてみることをすすめた。が、それからが
たいへんだった。

●禁断症状と愚鈍性

 U君は幼稚園から帰ってくると、冷蔵庫を足で蹴飛ばしながら、「ビスケットをくれ、ビ
スケットをくれ!」と叫ぶようになったという。急激に砂糖断ちをすると、麻薬を断った
ときに出る禁断症状のようなものがあらわれることがある。U君のもそれだった。

夜中に母親から電話があったので、「そのまま砂糖断ちをつづけるように」と私は指示し
た。が、その1週間後、私はU君の姿を見て驚いた。U君がまるで別人のように、ヌボ
ーッとしたまま、まったく反応がなくなってしまったのだ。

何かを問いかけても、口を半開きにしたまま、うつろな目つきで私をぼんやりと私を見
つめるだけ。母親もそれに気づいてこう言った。「やはり砂糖を与えたほうがいいのでし
ょうか」と。

●砂糖は白い麻薬

これから先は長い話になるので省略するが、要するに子どもに与える食品は、砂糖のな
いものを選ぶ。今ではあらゆる食品に砂糖は含まれているので、砂糖を意識しなくても、
子どもの必要量は確保できる。ちなみに幼児の一日の必要摂取量は、約10〜15グラ
ム。この量はイチゴジャム大さじ一杯分程度。

もしあなたの子どもが、興奮性が強く、突発的に暴れたり、凶暴になったり、あるいは
キーキーと声をはりあげて手がつけられないという状態を繰り返すようなら、一度、カ
ルシウム、マグネシウムの多い食生活に心がけながら、砂糖断ちをしてみるとよい。効
果がなくてもダメもと。砂糖は白い麻薬と考える学者もいる。子どもによっては一週間
程度でみちがえるほど静かに落ち着く。

●リン酸食品

なお、この砂糖断ちと合わせて注意しなければならないのが、リン酸である。リン酸食
品を与えると、せっかく摂取したカルシウム分を、リン酸カルシウムとして体外へ排出
してしまう。

とは言っても、今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。たとえば、ハム、
ソーセージ(弾力性を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとし
た粘り気を出し、溶けても流れず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(や
わらかくした上、グニャグニャせず、歯ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味を
つけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味をおだやかにし、特有の味を出すため)、粉末
飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水によく溶けるようにするため)など(以
上、川島四郎氏)。かなり本腰を入れて対処しないと、リン酸食品を遠ざけることはでき
ない。

●こわいジャンクフード

ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分な食
物を生み出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなどという
ことは、不必要なことである」と。

つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化物にさまざまな添加物を加えた食
品(ジャンク・フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジ
ャンクフードは)疲労、神経のイライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコ
ール処理不能、アレルギーなどの原因になっている」とも。

●U君の後日談

 砂糖漬けの生活から抜けでたとき、そのままふつう児にもどる子どもと、U君のように
愚鈍性が残る子どもがいる。それまでの生活にもよるが、当然のことながら砂糖の量が多
く、その期間が長ければ長いほど、後遺症が残る。

U君のケースでは、それから小学校へ入学するまで、愚鈍性は残ったままだった。白砂
糖はカルシウム不足を引き起こし、その結果、「脳の発育が不良になる。先天性の脳水腫
をおこす。脳神経細胞の興奮性を亢進する。痴呆、低脳をおこしやすい。精神疲労しや
すく、回復がおそい。神経衰弱、精神病にかかりやすい。一般に内分泌腺の発育は不良、
機能が低下する」(片瀬淡氏「カルシウムの医学」)という説もある。

子どもの食生活を安易に考えてはいけない。

+++++++++++++

 30年前の当時、『白砂糖は麻薬』と、私は書いた。U君の禁断症状(ほんとうは、麻薬
による禁断症状というのは、知らなかったが)、その禁断症状を目(ま)の当たりに見せつ
けられて、私は、そう書いた。

 U君は、幼稚園から帰るとすぐ、冷蔵庫を足で蹴りながら、「ビスケット!」「ビスケッ
ト!」と叫んだという。そのあまりの異常な様子に母親があわてて、私に相談してきた。

 が、当時、『白砂糖が麻薬』と考える人は、だれもいなかった。私の意見は無視された。
おかしなことに、当時は、「砂糖は、滋養要素」と考えられ、「甘いものを断つと、かえっ
て子どもの情緒は不安定になる」と主張する学者さえいた。

 私はN・D・ボルコフ(女性研究者)の論文を読んだとき、「やはりそうだった」と、確
信を得た。まだラットでの実験段階だから、先にも書いたように、人間にそのまま当ては
めて考えることはできない。先に、「あと、一歩!」と書いた私の気持ちを理解してもらえ
れば、うれしい。

●お母さんたちへ

 ショッピングセンターなどの飲食コーナーなどへ行くと、よく、子どもの頭よりも大き
なソフトクリームや、ジュースを、食べたり、飲んでいる子どもを見かけますね。

 それがいかに危険なものであるかを知るためには、あなた自身が、一度、自分の頭より
大きなソフトクリームや、ジュースを、食べたり、飲んでみることです。

 量は、体重で計算します。体重、15キロの子どもが、ソフトクリーム1個を食べると
いうことは、体重60キロのおとなが、4個食べる量に等しいということです。

 いくらおとなでも、4個は食べられませんね。食べたら、気分(=頭)がおかしくなり
ます。それだけではありません。一時的な血糖値の急上昇が、その直後に、低血糖を引き
起こすことも、よく知られています。「甘いものを食べて、どうして低血糖?」と思われる
人もいるかもしれません。理由は簡単です。血中に大量のインシュリンだけが残り、必要
以上に血糖値をさげてしまうからです。

 突発的に衝動的な行動に移る子どもは、この低血糖を疑ってみます。わかりやすく言え
ば、突発的に、キーッとか、キャッキャッと、甲高い声を張り上げて、(たいていは耳をつ
んざくような金きり声で)、騒ぐようでしたら、まずこの低血糖を疑ってみます。

 『砂糖は、白い麻薬』です。もしどうしても、甘い食品……ということでしたら、精製
していない、黒砂糖をお勧めします。黒砂糖には、CA、MG、Kなどの天然のミネラル
分がバランスよく含まれていますから、ここでいうような(突発的な行動)は起こりませ
ん。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
ボルコフ 過食症ラット 禁断症状)




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23
【溺愛】

●母親の溺愛

 溺愛する親にせよ、ストーカー行為を繰りかえす人にせよ、それは「愛」によるものではない。
「代償的愛」による。代償的愛というのは、いわば、愛もどきの愛。身勝手で、自分本位の愛。
自分の心のすき間を埋めるための愛。子どもや、その相手を、そのために利用しているにす
ぎない。

 この代償的愛は、共通のものと考えてよい。私はこのことを、一人の母親に出会って、知っ
た。

 その母親(五五歳くらい)は、娘(現在、二八歳)を、溺愛した。それは恐ろしいほどの溺愛だ
った。娘が幼稚園児のときは、遠足先まで、見え隠れしながら、自分で車を運転して、ついてき
たという。

 が、その娘は、あるときから、そういう母親の溺愛をうるさく思うようになった。そして事件は起
きた。

 娘が母親の反対を押し切って、一人の男と結婚して、家を出てしまった。母親は、娘夫婦とい
っしょに暮らすことを考えていた。が、その夢は、こなごなに、こわれた。とたん、その母親は、
ストーカーに変身した。

 その話を、その女性(娘)から聞いたままを、ドキュメンタリー風に、書いてみる。あまりにも
生々しい話なので、事実だけを、そのまま書く。

+++++++++++++++++

●娘をストーカーする母親

 ある夕方、H(女性、二八歳)が、食事のしたくをしていると、そこへ電話がかかってきた。そこ
に住むようになって、数日目のことだった。受話器を取ると、母親からだった。母親は、こう言っ
た。

 「あんた、今日はダサイ服を着てたわね。何よ、あの赤いスカート!」と。驚いてHが、「どうし
て知ってるの?」と聞くと、「スーパーで見かけたからよ」と。

 しかしその娘が行くスーパーには、母親は行かないはず。それに実家からは、距離も離れて
いる。母親は、ネチネチとした言い方で、あれこれ話し始めた。

 「あんた、インスタント食品ばかり買ってたでしょ。それにスパゲッティに、ウーロン茶? いっ
たい、どういう取り合わせをしてるの? 体によくないわよね。それとも、あんたのダンナを早
く、殺したいの? ちゃんと、料理してあげなさいよ」と。

 Hは、母が自分のことを怒っていることを知っていた。母の反対を押し切って、結婚した。実
際には、結婚式は、できなかった。今の夫とは、駈け落ちするかのようにして、家を出た。あと
で父に聞くと、その夜、母は、狂乱状態になって暴れたという。そんな負い目があった。Hは、
母親の話をだまって聞くしかなかった。

 が、それは、それからつづく、いやがらせの、ほんのはじめに過ぎなかった。

 電話は、翌日もかかってきた。そして今度は、こう言った。

 「この親不孝者め。親を捨てて家を出るということが、どういうことなのか、あんたにはわかっ
ているの。あのね、親を捨てる者は、地獄へ落ちるのよ。そう、あんたなんか、地獄へ落ちれ
ばいいのよ」と。

 それは前日と同じように、ネチネチした言い方だった。Hは、電話にとまどいながらも、反発す
ることすらできなかった。相手は親だ。しかも自分は、その親に、かわいがってもらった。ほし
いものは、たいてい何でも買ってもらった。

 大学は家から通ったが、家では、一番日当たりのよい、二階の三部屋を自由に使うことがで
きた。学費のほか、毎月一〇万円の小づかいをもらっていたが、そのほとんどは遊興費に使う
ことができた。しかし親は、何も文句は言わなかった。

H「お母さん、ごめんなさい。親不孝者だということは、自分でもわかっているわ」
母「そうよ。あんたなんか、地獄へ落ちるのよ。私が先に死ぬからね。あの世で、あんたが地
獄へ落ちるのを、楽しみに見ていてあげるからね」
H「でも、そんなつもりはないの」
母「そんなつもりって、何だい? 親を捨てたことかい?」
H「捨ててなんか、いないわ。いつもお母さんのことを、大切に思っているわ」
母「ああ、私はね、足が痛いんだよ。年齢も年齢だからね。だれが、病院へ連れていってくれる
のかね」と。

 こうした電話が、ほとんど、毎日、かかってきた。ときには、朝早い時刻に。ときには、真夜中
に。Hは、電話のベルが鳴るたびに、不安感を覚えるようになった。「心の底をえぐられるような
不安感」と、Hは言った。

 しかしHは、母からの電話については、夫には言わなかった。ときどき夫が電話に出ることは
あったが、母は、夫には、別人のように、やさしくていねいな言い方をした。夫は、いつも、H
に、「おまえの母さんは、いい母さんだな」と言っていた。

 そう、母親は、近所では、「仏様」というニックネームをつけられていた。穏やかな顔立ち、そ
れに低い、物腰。何かと小うるさい女性ではあったが、嫌われるということは、なかった。しかし
娘のHには、違った。

 その日は、夫がいない夜に、電話がかかってきた。母は、夫が泊りがけの出張で、家にいな
いことを知っていた。

母「あんたの手料理が食べたいよオ〜」
H「何を?」
母「昨日は、ダンナと、スキヤキを食べたんだろ?」
H「どうして、それを知っているの?」
母「母さんは、何でも知ってるんだよ」

H「どうしてスキヤキって、知っているの? 見てたの? どこで?」
母「そんなのは、私の勝手だろ。私はね、あんたが家を出てからというもの、毎晩、泣いて過ご
しているんだよ」
H「そんな……」
母「あんたも、もうすぐ母親になるんだろ。子どもが生まれるんだろ。だったら、そんな狭いアパ
ートなんかにいないでさ、うちへ戻っておいでよ。あんな風采のあがらないダンナなんかとは、
別れなさいよ」

H[それは、できないわ]
母「どうしてだい。親よりも、ダンナのほうが大切だと言うのかい?」
H「そうではないけど、私には、私の生活があるのよ」
母「じゃあ聞くけど、私の人生は何だったのよ。私の人生を返してよ。あんたには、いくらお金を
かけたか、わからない。あんたがピアノをひけるようになったのも、私が毎週、毎週、高い月謝
を払って、ピアノ教室へ連れていってあげたからでしょ。その恩を忘れたの?」
H「忘れてはいないわ。でも、私は私の生活をしたいの」
母「この親不孝者めが!」(ガチャン)と。

 Hによると、電話での母の声の調子は、毎日のように変わるという。はげしく罵声したかと思う
と、その翌日には、ネコなで声で、甘えるような言い方をするなど。あるいは、怒った言い方を
した翌日は、今度は一転、弱々しい言い方をするときもあるという。一度は、今にも死にそうな
声で、「助けてくれ」と電話がかかってきたこともある。

 あわててHが実家へ戻ってみると、母は台所で、ピンピンしていたという。そしてこう言ったと
いう。「お帰りなさい。あんたが帰ってくると思ったから、おいしいごちそうを用意しておいたから
ね」と。

 Hは夫に、あれこれ口実をつくって、アパートをかえることにした。夫は、それに従ってくれた。
Hは、もちろん母に内緒で、今度は、市内でも、実家からは反対側にある、E町に住居を移し
た。が、電話線を引いたその翌日には、母から電話がかかってきた。

母「引っ越したんだってね。どんなところだい。家賃は、一二万円というじゃないかい。豪勢な生
活だね」
H「……」
母「私に内緒で引っ越しても、ムダだよ。親と神様は、すべてをお見通しだよ」

H「お願いだから、私のことは私に任せて」
母「任せて? よくもまあ、そんな生意気な口がきけたもののね。あんたは、だれのおかげで、
言葉が話せるようになったか、それがわかっているの? 親の私よ。どこに、子どもに言葉を
教えない親がいるもんかね」

 そこでHは、ふりしぼるような声で、こう言った。

H「お母さん……、私に、どうかお願いだから、もう構わないで……」と。

 「構わないで」という言い方は、Hが母親に対して、はじめて使った言葉である。Hが、使いたく
ても使えなかった言葉。いつものどまで出かかっていたが、そこで止まっていた言葉。予想どお
り、その言葉は、母を激怒させた。母は、ヒステリックな金きり声をあげて、こう叫んだ。

「何てこと言うの! 親に向かって! この恩知らずめ!」(ガチャン)と。

 この話は、現在進行形である。私も、最初、この話を聞いたときには、自分の耳を疑った。し
かし、ここに書いたことは、事実。こうした(常識にはずれた話)を書くときは、私はできるだけ
聞いたとおりを、忠実に書く。

 で、この話とは別に、私は一つの事実に気づいた。それが冒頭に書いた、子どもを溺愛する
親が感ずる「愛もどきの愛」と、ストーカーする人が口にする、「愛もどきの愛」とは、同質のも
のである、と。もともと親の身勝手な愛という点で、共通している。

+++++++++++++++++++

●溺愛

 溺愛ママには、いくつかの特徴があります。
それについては、以前にも、いくつかの原稿
を書いてきました。その一つ(子育ての最前
線にいるあなたへ」(中日新聞社・掲載済み)
を、ここに転載します。

+++++++++++++++++++

●溺愛ママの溺愛児

 「先生、私、異常でしょうか」と、その母親は言った。「娘(年中児)が、病気で休んでくれると、
私、うれしいのです。私のそばにいてくれると思うだけで、うれしいのです。主人なんか、いても
いなくても、どちらでもいいような気がします」と。私はそれに答えて、こう言った。「異常です」
と。

 今、子どもを溺愛する親は、珍しくない。親と子どもの間に、距離感がない。ある母親は自分
の子ども(年長男児)が、泊り保育に行った夜、さみしさに耐え切れず、一晩中、泣き明かした
という。また別の母親はこう言った。「息子(中学生)の汚した服や下着を見ると、いとおしくて、
ほおずりしたくなります」と。

 親が子どもを溺愛する背景には、親自身の精神的な未熟さや、情緒的な欠陥があるとみる。
そういう問題が基本にあって、夫婦仲が悪い、生活苦に追われる、やっとのことで子どもに恵
まれたなどという事実が引き金となって、親は、溺愛に走るようになる。肉親の死や事故がきっ
かけで、子どもを溺愛するようになるケースも少なくない。そして本来、夫や家庭、他人や社会
に向けるべき愛まで、すべて子どもに注いでしまう。その溺愛ママの典型的な会話。

先生、子どもに向かって、「A君は、おとなになったら、何になるのかな?」
母親、会話に割り込みながら、「Aは、どこへも行かないわよね。ずっと、ママのそばにいるわ
よねエ。そうよねエ〜」と。

 親が子どもを溺愛すると、子どもは、いわゆる溺愛児になる。柔和でおとなしく、覇気がない。
幼児性の持続(いつまでも赤ちゃんぽい)や退行性(約束やルールが守れない、生活習慣がだ
らしなくなる)が見られることが多い。満足げにおっとりしているが、人格の核形成が遅れる。こ
こでいう「核」というのは、つかみどころをいう。輪郭といってもよい。

子どもは年長児の中ごろから、少年少女期へと移行するが、溺愛児には、そのときになって
も、「この子はこういう子だ」という輪郭が見えてこない。乳幼児のまま、大きくなる。ちょうどひ
ざに抱かれたペットのようだから、私は「ペット児」と呼んでいる。

 このタイプの子どもは、やがて次のような経路をたどる。一つはそのままおとなになるケー
ス。以前『冬彦さん』というドラマがあったが、そうなる。結婚してからも、「ママ、ママ」と言って、
母親のふとんの中へ入って寝たりする。これが全体の約三〇%。もう一つは、その反動から
か、やがて親に猛烈に反発するようになるケース。

ふつうの反発ではない。はげしい家庭内暴力をともなうことが多い。乳幼児期から少年少女期
への移行期に、しっかりとそのカラを脱いでおかなかったために、そうなる。だからたいていの
親はこう言って、うろたえる。「小さいころは、いい子だったんです。どうして、こんな子どもにな
ってしまったのでしょうか」と。これが残りの約七〇%。

 子どもがかわいいのは、当たり前。本能がそう思わせる。だから親は子どもを育てる。しかし
それはあくまでも本能。性欲や食欲と同じ、本能。その本能に溺れてよいことは、何もない。

++++++++++++++++++++++++

同じような内容ですが、「マザコン人間」(失礼!)に
ついて書いた原稿を転載します。

++++++++++++++++++++++++

●マザコン人間

 マザコンタイプの男性や女性は、少なくない。昔、冬彦さん(「テレビドラマ『ずっとあなたが好
きだった』の主人公」)という男性のような例は、極端な例だが、しかしそれに似た話はいくらで
もある。総じてみれば、日本人は、マザコン型民族。よい例が、森進一が歌う、『おふくろさ
ん』。世界広しといえども、大のおとなが夜空を見あげながら、「ママー、ママー」と涙をこぼす民
族は、そうはいない。

 そのマザコンタイプの人を調べていくと、おもしろいことに気づく。その母親自身は、マザコン
タイプの息子や娘を、「親思いの、いい息子、いい娘」と思い込んでいる。一方、マザコンタイプ
の息子や娘は、自分を、「親思いの、いい息子、いい娘」と思い込んでいる。その双方が互い
にそう思い込んでいるから、自分たちのおかしさに気づくことは、まずない。

意識のズレというのはそういうものだが、もっとも互いにそれでよいというのなら、私やあなた
のような他人がとやかく言う必要はない。しかし問題は、そういう男性や女性の周囲にいる人
たちである。男性の妻とか、女性の夫とかなど。ある女性は、結婚直後から自分の夫がマザコ
ンであることに気づいた。ほとんど数日おきに、夫が実家の母親と連絡を取りあっているという
のだ。何かあると、ときには妻であるその女性に話す前に、実家の母親に報告することもある
という。

しかし彼女の夫自身は、自分がマザコンだとは思っていない。それとなくその女性が夫に抗議
すると、「親を大切にするのは子の努め」とか、「親子の縁は切れるものではない」と言って、ま
ったく取りあおうとしないという。

 いわゆる依存型社会では、「依存性」が、さまざまな形にその姿をかえる。ここにあげた「マザ
コン」もその一つ。で、最近気がついたが、マザコンというと、母親と息子の関係だけを想像し
がちだが、母親と娘、あるいは父親と娘でも、同じような関係になることがある。そして息子と
同じように、マザコン的であることが、「いい娘」の証(あかし)であると思い込む女性は少なくな
い。

このタイプの女性の特徴は、「あばたもエクボ」というか、何があっても、「母はすばらしい」と決
めつけてしまう。ほかの兄弟たちが親を批判しようものなら、「親の悪口は聞きたくない!」と、
それをはげしくはねのけてしまう。ものの考え方が権威主義的で、親を必要以上に美化する一
方、その返す刀で、自分の息子や娘に、それを求める。

つぎの問題は、このとき起きる。息子や娘がそれを受け入れればそれでよいが、そうでないと
きには、互いがはげしく衝突する。実際には、息子や娘がそれを受け入れる例は少なくない。
こうした基本的な価値観の衝突は、「キレツ」程度ではすまない。たいていはその段階で、「断
絶」する。

 マザコン的であることは、決して親孝行ではない。このタイプの男性や女性は、自らのマザコ
ン性を、孝行論でごまかすことが多い。じゅうぶん注意されたい。

【追記】ことさらおおげさに、親孝行論を唱えたり、親を絶対視する人は、まず、その人の中に
潜む、ここでいう「マザコン性」を疑ってみるとよい。このタイプの人は、自らのマザコン性を正
当化するために、親を絶対視する傾向が強い。

 親子といえども、そこは純然たる人間関係で、その「質」が決まる。少なくとも親は、「親であ
る」という、「である」論に甘えてはいけない。親は親で、どこまでも気高く、前向きに生きていく。
それが親としての、真のやさしさではないだろうか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 溺愛
 子どもを溺愛する母親 溺愛ママ でき愛ママ)




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24
●ギャグ化する子どもの世界

●やるせない虚脱感

++++++++++++++

多くの教師たちが今、ある種の
虚脱感に襲われている。

何かがおかしい。何かがへん。
しかしそれを声に出して言うこと
すら、許されない。

そんな虚脱感である。

++++++++++++++

 少し前、ある小学校で、一人の子どもが、学校で飼っていたうさぎを、二階のベランダから落
として殺すという事件があった。この事件は、新聞にも報道された。そのため、教育者のみなら
ず、親たちにも、大きな衝撃を与えるところとなった。

 こういう事件が起きると、現場の教師たちは、最初は、はげしい怒りに襲われる。しかしつぎ
の瞬間、今度は、一転して、同じくはげしい無力感に襲われる。「やるせなさ」と言ったらよいか
もしれない。その事件を直接見聞きた、ある先生も、そう言っていた。

 怒り……それは当然だ。問題は、無力感。私にも、何度か、経験がある。

 もう三〇年ほど前になるだろうか。こんな事件があった。そのとき、私はある予備校で、講師
のアルバイトをしていた。そこでのこと。控え室へ戻って、飲みかけたお茶を飲もうと思って、席
に座った。気がつくと、三、四人の中学生が、ニヤニヤ笑いながら、私を見つめているではな
いか。「どうしたの?」と聞いても、ただ笑っているだけ。

 で、一気に、お茶をぐいと飲んだ。おかしな臭(にお)いはしたが、私は、割とそういうことには
無頓着。で、飲んでしまって、茶碗を下に置くと、一人の中学生が、こう言った。

 「先生、へんな味はしなかった?」と。

 とたん、ピンときた。「君たち、ぼくのお茶の中に……」と。そこまで言いかけて、もう一人の中
学生の手を見ると、彼は殺虫剤のスプレー缶をにぎっていた。私は、カーッとなって、こう叫ん
だ。

 「バカヤロー。冗談でしていいことと悪いことがある。お前たちには、それを判断する能力もな
いのか。出て行け!」と。

 あとでマネージャーになだめられたが、私の腹のムシは収まらなかった。「即刻、退塾させて
ほしい」と私は迫ったが、「それは待ってほしい」と。

で、そのあとである。私を、はげしい無力感が襲った。それは虚脱感と言ってもよかった。そう
いうバカ(脳ミソのできふできを言うのではない。常識に欠ける行為をする人間を、バカという)
を相手に、知恵をつけなければならない虚(むな)しさ。相手にしなければならない虚しさ。教え
なければならない虚しさ。そういうものが、どっと私を襲った。

 恐らく、その虚しさは、この世界の外にいる人には、理解できないものだろう。「教育を否定さ
れたかのような虚しさではありませんか?」とわかったようなことを言う人もいるが、そんなもの
ではない。それは自分のしていることを、のろいたくなるような虚しさである。

 で、それでこの種の事件は終わったわけではない。それからも、つぎつぎと起きた。最近でも
起きた。それもその回数が、以前より、多くなった? 子どもたちの「質」が、明らかに変化して
いる。ものの考え方が、ギャグ化し、言動が、ゲーム化している? うさぎを二階のベランダか
ら落として殺したというのも、その一つにすぎない? まじめに考えることを、今の子どもたち
は、「ダサイ」と言う。そういう子どもたちに、いちいち腹をたてていたら、仕事そのものが成りた
たない。

 で、なぜ、こういう非常識な子どもが、ふえつつあるか、である。常識がないというか、道理が
わかっていない。自分で考える力さえ、ない。そのときの気分と、はずみで、メチャメチャなこと
をしてしまう。頭のよし、あしには、関係ない。勉強ができる、できないにも、関係ない。

 えてして親は、教師は、そして世間一般は、勉強がよくできる子どもイコール、人格者と考え
る。学歴のある人イコール、人格者と考える。しかしこれはまったくの誤解。ウソ。デタラメ。は
っきり言えば、幻想。むしろ頭がよい分だけ、タチ(性質)が悪い。有名進学高校ほど、陰湿な
いじめが多いというのは、そういう理由による。

 最近の子どもたちは、何かを見落としたまま、知識や知恵を身につけている。親たちも、その
知識や知恵だけをみて、子どもを判断しようとする。こうしたイビツな教育観が、おかしな子ども
を、どんどんと生産している。

 で、私のばあい、腹を立てることは、少なくなったが、虚しさだけは、どんどんとふくらんでい
る。それはたとえて言うなら、小さな苗を植えたところから、巨大なブルドーザーで、踏み荒らさ
れるような虚しさである。ときどき、この世界から足を洗いたくなることもある。私一人の力で
は、どうにもならない。いや、もし私に、それなりの退職金と年金が入るなら、明日にでも足を
洗うかもしれない。

 こうした現象を防ぐために、子どもには、静かに考える場所と、時間を提供すること。一日、
一時間や二時間では足りない。数時間単位で、ひとりで考えられるようにすること。そのために
は、テレビ、ゲームなどは避ける。少なくとも夕食後は、ひかえる。そしてあとは、自分で行動さ
せ、自分で責任をとらせる。こうした積み重ねが、子どもを常識豊かな子どもにする。

 そう、今、その常識豊かな子どもが、減ってきている。それは事実だ。
(030923)

【ギャグ化現象】

 日本語でも、昔から、「茶化す」「はぐらかす」「おちょくる」「からかう」「とぼける」「ごまかす」な
どという表現がある。要するに、ものの本質から逃げて、相手を煙に巻くことをいう。

●逃避……たとえば「環境汚染が進んで、空気が汚染されたらどうする?」と問いかけると、
「パソコンで、青い空をつくればいい」と答えるのが、それ。
●仰天……相手の言っていることに対して、突飛もないことを言って、その場を、はぐらかす。
「地震がやってくるかもしれないね」と言ったことに対して、「巨大隕石が落ちてくると、地球はこ
なごなになる」と言うのが、それ。
●飛来……思いついたことだけを、ペラペラと言う。「ラーメン、食べたい」「Xメンだ」「からし明
太子(めんたいこ)」と。前後の脈絡がない話を、つぎつぎとつなげていく。
●奇声……「どひゃー」「ウエウエ」「ドギドギ」というような、意味のわからない言葉で、その場を
ごまかしてしまう。「明日の遠足のしたくはできているの?」と聞くと、「ジャジャ〜ン」と答えるな
ど。

 こうしたギャク化現象は、三〇年前には、なかった。こうしたギャクを口にすれば、それだけで
軽薄な人間と思われた。英語にも似たような現象はあるが、質が違う。オーストラリアの友人
に、このことを話すと、その友人は、こう言った。

 「オーストラリア人は、ジョークを言うのが好きだ。しかし日本人は、ジョークを言わない。その
分だけ、ギャク化するのではないか」と。この問題は、また別の機会にほりさげて、考えてみた
い。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 虚脱
感 教師の虚脱感5105)






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25
【教育の自由化】

●バウチャー制度

+++++++++++++++++

まず6年前に書いた、新聞記事
をそのまま紹介する。

この中で、私はアメリカのバウチャー
制度について、少し触れた。

+++++++++++++++++

●教育の自由化

アメリカでもオーストラリアでも、そしてカナダでも、学校を訪れてまず驚くのが、その「楽しさ」。
まるでおもちゃ箱の中にでも入ったかのような錯覚を覚える。

写真は、アメリカ中南部にある公立の小学校(アーカンソー州アーカデルフィア、ルイザ・E・ペ
リット小学校。生徒数三百七十名)。教室の中に、動物の飼育小屋があったり、遊具があった
りする。

 アメリカでは、教育の自由化が、予想以上に進んでいる。まずカリキュラムだが、州政府のガ
イダンスに従って、学校独自が、親と相談して決めることができる。オクイン校長に「ガイダンス
はきびしいものですか」と聞くと「たいへんゆるやかなものです」と笑った。

もちろん日本でいう教科書はない。検定制度もない。

たとえばこの小学校は、年長児と小学一年生だけを教える。そのほか、プレ・キンダガーテンと
いうクラスがある。四歳児(年中児)を教えるクラスである。費用は朝食代と昼食代などで、週
六十ドルかかるが、その分、学校券(バウチャ)などによって、親は補助されている。驚いたの
は四歳児から、コンピューターの授業をしていること。また欧米では、図書館での教育を重要
視している。この学校でも、図書館には専門の司書を置いて、子供の読書指導にあたってい
た。

 授業は一クラス十六名前後。教師のほか、当番制で学校へやってくる母親、それに大学から
派遣されたインターンの学生の三人で当たっている。アメリカというと、とかく荒れた学校だけ
が日本で報道されがちだが、そういうのは、大都会の一部の学校とみてよい。周辺の学校もい
くつか回ってみたが、どの学校も、実にきめのこまかい、ていねいな指導をしていた。

 教育の自由化は、世界の流れとみてよい。たとえば欧米の先進国の中で、いまだに教科書
の検定制度をもうけているのは、日本だけ。オーストラリアにも検定制度はあるが、それは民
間組織によるもの。しかも検定するのは、過激な暴力的表現と性描写のみ。「歴史的事実につ
いては検定してはならない」(南豪州)ということになっている。

アメリカには、家庭で教えるホームスクール、親たちが教師を雇って開くチャータースクール、さ
らには学校券で運営するバウチャースクールなどがある。行き過ぎた自由化が、問題になって
いる部分もあるが、こうした「自由さ」が、アメリカの教育をダイナミックなものにしている。

+++++++++++++

バウチャー券というのは、学校
教育に対してだけしか利用できない、
クーポン券のことと思えばよい。
「商品券」でもよい。

たとえば年間、10万円のバウチャー
券を支給されれば、親は、それを
「学費」として使用することが
できる。

わかりやすく言えば、それにより、
親が国から直接、援助を受ける
ことになる。

「では現金でそれをすればよい」
というふうに考える人もいるかもしれ
ない。

しかし現金だと、それが何に使われるか
わからない。親によっては、遊興費に
流用してしまうかもしれない。

そこでバウチャー券ということに
なる。少し前までは、「クーポン券」
(東京都など)と呼ぶ政治家もいた。

(バウチャー=voucher……
証票、証明書、引換書、商品券のこと
(IMIDAS))

++++++++++++++

 日経ニュースサイトは、つぎのように伝える。

 『政府の教育再生会議(N座長)が検討している「教育バウチャー(利用券)」制度の素案が、
10月27日、明らかになった。保護者が利用券で子供の通う学校を選ぶ仕組みをまず特区を
使って地域限定で導入。小中学校だけでなく高校、幼稚園にも拡大する。公立、私立から幅広
く学校を選択したり、低所得者世帯の私学就学を援助したりする案も検討する。

 同会議は教育バウチャー制度について年末にまとめる第3次報告に盛り込む方針。政府は
早ければ来年度にも導入したい考えだが、詰めるべき点も多く想定通り実現するかどうかは
微妙だ』と。

 このバウチャー制度は、日本の教育にとって、画期的な制度となる。この制度により、従来の
国や自治体による補助金制度が、根本的な部分で、ひっくり返ることになる。

 従来の補助金制度では、(国や自治体)は、(学校や幼稚園などの学校法人)という(法人組
織)に、補助金を交付してきた。けっしてハンパな額ではない。だから学校や幼稚園は、上から
落ちてくる補助金だけを見ていればよかった。

 それがバウチャー制度により、国や自治体の補助金が、一度(子どもをもつ父母)を経由す
ることになる。そのバウチャー券を手にした父母は、学校や幼稚園に対して、バウチャー券と
いう商品券で、学費を支払うことになる。

 つまり親のほうが、学校法人を選択、管理するようになる。当然のことながら、今までは、
(上)だけを見ていればよかった学校や幼稚園は、バウチャー制度によって、今度は(下)も見
なければならなくなる。それだけきびしい環境に置かれることになる。

 だいたいにおいて、今までの補助金制度そのものが、おかしい。国や自治体は、(法人)は助
けるが、(個人)は助けない。これは欧米の常識とは、逆。欧米では、(個人)は助けるが、(法
人)は助けない。

 バウチャー制度は、そうした日本的な常識を、打ち壊す威力をもっている。あるいはその第
一歩となるかもしれない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 バウ
チャー バウチャー券 boucher)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

●小・中9年制

+++++++++++++++

欧米では、教育の自由化は、予想
以上に進んでいる。

学校で教えるカリキュラムすら、
それぞれの学校が独自で決めている。

アメリカでは、公立学校であっても、
入学年度を、自由に決めている。

PTAの権限も、日本のそれとは比較に
ならないほど強い。教師の任命権
すら、もっている。つまりPTAが、
「あの教師は不適格」と判断すれば、
その教師はクビになる。

大学教育にしても、単位の共通化は、
今では、常識。EU(ヨーロッパ)
では、完全に共通化されている。

つまりどこの大学で、どのように勉強
しようが、単位さえ集めれば、それで
大学の卒業資格が与えられる。

こうした流れをみると、日本の教育
改革は、50年は遅れた。

けっして大げさなことを言っている
のではない。

私が学生だった1970年のオーストラリア
においてですら、単位の共通化は、
常識だった。

たとえば、メルボルン大学で、1年、2年を
過ごし、そのあと北京大学で1年勉強すれば、
帰国後は、4年生になれた。

アメリカでは、公立、私立を問わず、
転籍、転学は自由。日本でたとえれば、
1年と2年は早稲田大学で過ごし、3年目
からは静岡大学へ転籍できる。そういうことが
平気でできる。

もちろん学部の変更も自由。法学部で入学
し、そのあと、工学部へ転学するというよう
なこともできる。

教育再生会議は、今度、「小・中9年制」
の検討を答申したが、「今ごろねえ……」という
のが、私の実感。

こうした諮問会議で注意しなければならないのは、
たいてい座長と呼ばれる人は、それなりの権威者。

つづくメンバーは、「どうしてそういう人が
選ばれたかもわからない」(T教授)という、
文科省寄りのYESマンばかり。

議案も進行も、すべて役人のお膳立てによって
進められる。

諮問機関そのものが、お役人の(お墨付き機関)
として機能することが多い。

お役人は諮問機関で出された答申をもとに、
あとは「控えおろう」「下に……!」と、
あとは自分たちのしたい放題。

教育再生会議がそうだとは思わないが、そういう
疑いの目は、じゅうぶんもって見たほうがよい。

そういう中で生まれた、「小・中9年制」である。

つまり「地域の実情に応じて、4・3・2などと、
学年のまとまりを設ける」(日経)と。

この「地域の実情」という部分が、クセモノ。
おかしい。何かヘン。何かを隠している?

それについてはまた別の機会に考えるとして、
数字的な制度だけをいじっても、意味はない。

ほんとうに日本の教育を再生させようとするなら、
たとえばPTAの権限を強化するとか、そういう
内部部分の改革を目指さなければならない。
教師の任命権、解雇権まで踏み込む。

それに日本のような(格差社会)で、いくら
教育改革を唱えても、無駄。親たちは日常的な
生活を通して、その(格差)をいやというほど、
思い知らされている。

この(格差)があるかぎり、たとえば進学競争
はなくならないだろう。つまり、教育改革を
いくら唱えても、親たちは、進学率だけを見て、
学校の優劣を決めてしまう。また進学率が
あがるような制度を求めてしまう。

現に今、中高一貫校は、そういう流れの中で
動いている。

福田首相は会議の冒頭、「注目を集める会議と認識している。
国民全員が関心を持っている話題であり、
建設的な議論をしていただきたい」と求めたという(同)。

ほんとうかな?

子どもをもつ親たちが注目しているのは、
どうすれば自分の子どもが、進学競争に
有利になるかということ。

ついでに、教育再生会議では、大学への
飛び級入学についても議論されているという。

これについても、一言。

たとえばアメリカでは、原則として、
小中学校でも、無学年制。どこの学校へ
行っても、学年という「数字」はない。

教室の前にあるのは、そのクラスの責任者
である、教師の名前だけ。

飛び級を自由化するためには、同時に、
「落第」に対する意識を変えなければならない。

アメリカでは、先生が、「お宅の子を、
もう一度、ヒロシ教室で教えます(=落第
させます)」と言うと、親たちは、喜んで
それに従う。

落第ということが、日常茶飯事になされている。
飛び級というのは、その反射的効果として
浮かび上がってくるもの。

「飛び級」という片輪だけを論じても意味は
ない。

+++++++++++++++

以前、書いた私の原稿(中日新聞
発表済み)を載せる。

+++++++++++++++

家族の心が犠牲になるとき 

●子どもの心を忘れる親

 アメリカでは、学校の先生が、親に「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそ
れに喜んで従う。「喜んで」だ。ウソでも誇張でもない。あるいは自分の子どもの学力が落ちて
いるとわかると、親のほうから学校へ落第を頼みに行くというケースも多い。

アメリカの親たちは、「そのほうが子どものためになる」と考える。が、この日本ではそうはいか
ない。子どもが軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。先日もある母親
から電話でこんな相談があった。

何でも学校の先生から、その母親の娘(小二)が、養護学級をすすめられているというのだ。そ
の母親は電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れていたが、なぜか? なぜ日本ではそうなの
か? 

●明治以来の出世主義

 日本では「立派な社会人」「社会で役立つ人」が、教育の柱になっている。一方、アメリカで
は、「よき家庭人」あるいは「よき市民」が、教育の柱になっている。オーストラリアでもそうだ。
カナダやフランスでもそうだ。

が、日本では明治以来、出世主義がもてはやされ、その一方で、家族がないがしろにされてき
た。今でも男たちは「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも「勉強する」「宿
題がある」と言えば、すべてが免除される。

●家事をしない夫たち

 二〇〇〇年に内閣府が調査したところによると、炊事、洗濯、掃除などの家事は、九割近く
を妻が担当していることがわかった。家族全体で担当しているのは一〇%程度。夫が担当して
いるケースは、わずか一%でしかなかったという。

子どものしつけや親の世話でも、六割が妻の仕事で、夫が担当しているケースは、三%(たっ
たの三%!)前後にとどまった。その一方で七割以上の人が、「男性の家庭、地域参加をもっ
と求める必要がある」と考えていることもわかったという。

内閣総理府の担当官は、次のようにコメントを述べている。「今の二〇代の男性は比較的家事
に参加しているようだが、四〇代、五〇代には、リンゴの皮すらむいたことがない人がいる。男
性の意識改革をしないと、社会は変わらない。男性が老後に困らないためにも、積極的に(意
識改革の)運動を進めていきたい」(毎日新聞)と(※1)。

 仕事第一主義が悪いわけではないが、その背景には、日本独特の出世主義社会があり、そ
れを支える身分意識がある。そのため日本人はコースからはずれることを、何よりも恐れる。
それが冒頭にあげた、アメリカと日本の違いというわけである。言いかえると、この日本では、
家族を中心にものを考えるという姿勢が、ほとんど育っていない。たいていの日本人は家族を
平気で犠牲にしながら、それにすら気づかないでいる……。

●家族主義

 かたい話になってしまったが、ボームという人が書いた童話に、『オズの魔法使い』というの
がある。カンザスの田舎に住むドロシーという女の子が、犬のトトとともに、虹の向こうにあると
いう「幸福」を求めて冒険するという物話である。あの物語を通して、ドロシーは、幸福というの
は、結局は自分の家庭の中にあることを知る。アメリカを代表する物語だが、しかしそれがそ
のまま欧米人の幸福観の基本になっている。

たとえば少し前、メル・ギブソンが主演する『パトリオット』という映画があった。あの映画では家
族のために戦う一人の父親がテーマになっていた。(日本では「パトリオット」を「愛国者」と訳す
が、もともと「パトリオット」というのは、ラテン語の「パトリオータ」つまり、「父なる大地を愛する」
という意味の単語に由来する。)「家族のためなら、命がけで戦う」というのが、欧米人の共通
の理念にもなっている。家族を大切にするということには、そういう意味も含まれる。そしてそれ
が回りまわって、彼らのいう愛国心(※2)になっている。

●変わる日本人の価値観

 それはさておき、そろそろ私たち日本人も、旧態の価値観を変えるべき時期にきているので
はないのか。今のままだと、いつまでたっても「日本異質論」は消えない。が、悲観すべきこと
ばかりではない。

九九年の春、文部省がした調査では、「もっとも大切にすべきもの」として、四〇%の日本人
が、「家族」をあげた。同じ年の終わり、中日新聞社がした調査では、それが四五%になった。
たった一年足らずの間に、五ポイントもふえたことになる。これはまさに、日本人にとっては革
命とも言えるべき大変化である。

そこであなたもどうだろう、今日から子どもにはこう言ってみたら。「家族を大切にしよう」「家族
は助けあい、理解しあい、励ましあい、教えあい、守りあおう」と。この一言が、あなたの子育て
を変え、日本を変え、日本の教育を変える。

※1……これを受けて、文部科学省が中心になって、全国六か所程度で、都道府県県教育委
員会を通して、男性の意識改革のモデル事業を委託。成果を全国的に普及させる予定だとい
う(二〇〇一年一一月)。

※2……英語で愛国心は、「patriotism」という。しかしこの単語は、もともと「愛郷心」という意味
である。しかし日本では、「国(体制)」を愛することを愛国心という。つまり日本人が考える愛国
心と、欧米人が考える愛国心は、その基本において、まったく異質なものであることに注意して
ほしい。


++++++++++++++++++++

(資料)(日経ニュースより)

●教育再生会議が福田政権で初会合、「小・中9年制」検討で一致

 教育再生会議(野依良治座長)は10月23日、首相官邸で福田政権発足後初めての総会を
開き、論議を再開した。柔軟な教育カリキュラムを編成できるようにするため、現行の小中学
校の「6・3」制を見直し、9年制の義務教育学校の創設などを検討することで一致した。

 教育再生は安倍晋三前首相が憲法改正などと並んで掲げた重要政策の一つ。安倍氏の辞
任で論議が中断していたが、福田首相は冒頭「注目を集める会議と認識している。国民全員
が関心を持っている話題であり、建設的な議論をしていただきたい」と求めた。

 学校制度の見直しは小中一貫の9年制学校をつくり、地域の実情に応じて「4・3・2」などの
学年のまとまりを設ける案を軸に検討する方向。大学への飛び級入学を促進するため一段の
要件緩和を進める必要があるとの意見も相次いだ。

一方、年末を予定していた三次報告のとりまとめ時期を巡っては「もっと時間をかけるべきだ」
との異論も出た。

Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

●ゆとり教育

+++++++++++++

ときとして外国から日本を
ながめたほうが、日本のことが
よくわかる。

日本の(ゆとり教育)が始まった
とき、それをまっさきに喜んだ
のが、隣の韓国。

そして今回、その(ゆとり教育)が
見直されることになった。

それにもっとも危機感を抱いて
いるのも、隣の韓国という
ことになる。

++++++++++++++

●東亜N報の記事より

 まず、韓国の東亜N報が、書いている記事をそのまま紹介する。日本の実情を、かなり客観
的にながめている。興味深い。参考になる。

+++++東亜N報(10・29日より)++++++++

日本の中央教育審議会(中教審)は、中間報告書で、ゆとり教育が難関にぶつかった原因を
分析し、「授業時間を大幅に削減したため、基礎知識を十分に習得できなくなり、思考力と表
現力も育てることができなかった」などの反省項目を列挙する予定だ。 

中教審は96年から、思考力や表現力、思いやりなど、「生きていく力」を育成することを公教
育の目標として提唱してきた。 

02年から施行された現行の学習指導要領は、詰め込み主義教育を改善するという名分によ
って、小中学校の学習内容を以前より約30%削減し、授業時間も約10%減らした。 

中間報告書の反省項目には、授業時間の削減のほかにも、△「生きていく力」の概念と必要
性を教師と父兄に十分に説明できなかった、△子どもの自主性を尊重したことで、学生指導を
ためらう教師が増えた、△家庭と地域の教育能力が低下している事実を十分に把握できてい
なかったという内容などが含まれるもようだ。 

中教審は、ゆとり教育が難関にぶつかった原因の一つとして、「ゆとり」を強調しすぎたため、
教師が、基礎知識を教えることまで詰め込み主義教育と誤って理解した点を挙げた。 

文科省が提出し、中教審が現在審議中の学習指導要領改正案は、英語、国語、数学などの
主要科目の授業時間を10%増やし、選択科目を大幅に縮小する内容を盛り込んでいる。 

文科省は、このように事実上ゆとり教育を廃棄する方向に政策を旋回しながらも、公式的には
「ゆとり教育の理念は間違っておらず、運用上の問題にすぎない」と主張している。 

にもかかわらず、諮問機構である中教審が「反省文」を発表するのは、誤った点を具体的に説
明しなければ、一線の学校が教育政策を転換する理由を十分に理解できないと判断したため
だ。

+++++++++以上、東亜N報記事より+++++++++++

 ゆとり教育が始まったとき、おおむね、教科内容は、1年レベルがさがった(小学校)。楽とい
えば、楽。教えるのが、ほんとうに楽になった。

 しかしそれも、2年はつづかなかった。3年目に入ると、それが(当たり前)になり、教える側
からすると、その(楽)が消えた。

 が、私の教室では、今でも、ゆとり教育の始まる前のカリキュラムで教えている。たとえばか
け算にしても、小2の夏休み前から、教えている。が、ゆとり教育では、10月から教えることに
なっている。小2の算数だけを見ても、3〜4か月、後回しになったということになる。

 で、その(ゆとり教育)が見直されることになった。当然である。日本を包む国際環境がきびし
さをます中、それに逆行する形での(ゆとり教育)である。当時の韓国は、「これで日本を追い
抜かせる」と喜んでいた。

 が、それでほんとうに子どもたちに(ゆとり)ができたかというと、それは疑わしい。たとえば私
立中・高学校では、文科省の示すカリキュラムを無視した授業が始まるようになった。

 現にこのあたりの私立中学校では、英語にしても、公立中学校よりも、6か月から1年、先取
りの教育を展開している。数学にしても、そうだ。(中学1年生で、関係代名詞の勉強をしてい
るところもあるぞ!)

 それまではというと、私立中・高校は、公立中・高校の受け皿的な存在だった。が、今は、完
全に逆転している。公立中・高校が、私立中・高校の受け皿的な存在になってしまった。つまり
その分、受験競争がはげしくなった。子どもたちは、小学4、5年制から、進学受験予備校に通
うようになった。

 文科省のおかしな制度いじりが、(東京という中央では、それなりにうまく機能していたのだろ
うが)、地方の教育を、今、こうして混乱させている。まずもって、文科省は、それに気づくべ
き。反省すべき。

 さらに学校の教師にしても、忙しさのあまり、悲鳴をあげている。それについて書いた原稿
が、つぎのもの。

++++++++++++++

●忙しくなる、教師の世界

 私たちが中学生や高校生のころには、先生には、「空き時間」というものがあった。たいて
い、1時間教えると、つぎの1時間は、その空き時間だった。

 その空き時間の間に、先生たちは、休息したり、本を読んだり、生徒の作品を評価したり、教
材を用意したりしていた。

 しかし今は、それが、すっかり、様(さま)変わりした。

 このあたりの小学校でも、その「空き時間」が、平均して、1週間に、1〜2時間になってしまっ
たという(某、小学校校長談)。

 だから今では、平日、学校の職員室を訪れても、ガランとしている。先生の姿を見ることは、
めったにない、

 「いわゆる企業や工場の経営論理が、学校現場にも及んでいるのですね。少人数による、習
熟度別指導をする。2クラスを3人の先生で教える(2C3T方式)、さらには1クラスを、2人の
先生で教える(TT方式)が、一般化し、先生が、それだけ足りなくなったためです」と。

 この結果、再び、詰めこみ教育が復活してきた。先生たちは、プロセスよりも、結果だけを追
い求めるようになってきた。が、問題は、それだけではない。

 余裕がなくなった職場からは、先生どうしの交流も消え、そのため、「精神を病む教師が続出
している」(同)という。とくに忙しいのは、教頭で、朝7時前からの出勤はあたりまえ。さらにこ
のところの市町村合併のあおりを受けて、制度や、組織、組織の定款改革などで、自宅へ帰る
のは、毎晩、7時、8時だという。

 何でもかんでも、学校で……という、親の安易な姿勢が、今、学校の先生たちを、ここまで追
いこんでいるとみてよい。教育はもちろん、しつけから、家庭指導まで……。たった1〜2人の
自分の子どもでさえ、もてあましている親が、20〜30人も、1人の先生に押しつけて、「何とか
しろ!」はない。

 さらに一言。

 1995年前後を底に、学習塾数、塾講師数ともに減少しつづけてきたが、それがここ2000
年を境に、再び、上昇する傾向を見せ始めている(通産省・農林通産省調べ)。進学競争が、
激化する様相さえ見せ始めている。

 私の周辺でも、子どもの進学問題が、数年前より、騒がしくなってきたように感ずる。さて、み
なさんの周辺では、どうであろうか?
(はやし浩司 空き時間 2C3T 習熟度別指導 TT 指導システム 激化する進学熱 進学
指導 詰め込み教育)

++++++++++++++++

 バネというのは、ゆるめるのは簡単。しかし一度ゆるんだバネは、もとには戻らない。あるい
は戻すのに、何倍もの時間と努力が必要。「主要科目の授業時間を10%増やし、選択科目を
大幅に縮小する内容を盛り込んでいる」というが、そうは、うまくいくものか?

 教育というのは、20年先、30年先を見ながら組み立てる。今、改革しても、その効果が現れ
るのは、20年後、30年後。

 文科省の改革(?)は、どれも後手後手という感じがしないでもないのだが、そう思うのは、は
たして私だけだろうか。





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26
【人間の絆】

●平凡という罪悪(60歳+4日)

++++++++++++++++

平凡は、それ自体、美徳だが、
その平凡からは、何も生まれない。

あのW・サマーセット・モームも、
『人間の絆』の中で、「幸福に
身を委ねることは、敗北の承認
である」というようなことを
書いている。

その渦中にいる人には、つらい
ことかもしれない。実際、モームは、
若いころ、波瀾万丈の人生の中で、
もがき、苦しむ。が、結局、彼が
得た結論は、こうだ。

「結婚し、子どもをもうけ、
死んでいく」というような、つまり
平凡な人生は、「立派な敗北」である
と。

わかりやすく言えば、人がなぜ
生きるかといえば、そのドラマに
こそ、価値があるということ。

子育ても、またしかり。

何も問題のない子どもをもち、
何ごともなく過ぎていくのも、
ひとつの人生かもしれない。が、
そういった子育てからは、何も
生まれない。何も学ばない。
つまり親自身も、成長しない。

だからといって、苦労するのが
よいというわけではない。だれだって
苦労は避けたい。その一方で、楽を
したい。

それはわかるが、大切なのは、「懸命さ」。
ひたむきな懸命さである。

その懸命さこそが、無数のドラマを産み、
そのドラマが、人生を、心豊かな、
潤いのあるものにする。

++++++++++++++++

 『人間の絆』は、W・サマーセット・モーム(1874〜1965)自身の自叙伝とも言われている。
正直な作家で、ある本(『彩られたベール』)では、実名で書いたため、名誉毀損で訴えられた
りしている。

 もちろん小説だから、細部については、それなりに改変してある。しかし『人間の絆』の中の
主人公、フィリップ・ケアリは、彼自身のことである。

 そのフィリップ・ケアリは、子どものころから、そして最終的にサリという女性に出会うまで、ふ
つうでない苦労に苦労を重ねる。とくにフィリップを悩ましつづけるのが、ミルドレッドという女性
である。もともとはレストランのウェートレスをしていた女性である。日本的に言えば、そのミル
ドレッドとの腐れ縁で、フィリップの生活はメチャメチャに破壊される。『人間の絆』は、フィリップ
とミルドレッドの物語と言っても過言ではない。が、やがてその生活もミルドレッドの悲劇的な終
末で、終止符が打たれる。

サリと知り合ったのは、そのあとのことである。が、モームは、冒頭に書いたような結論に達す
る。「幸福に身を委ねるということは、それ自体が、立派な敗北である」と。

 それはその通りで、平凡な人の平凡な生活からは、小説になるようなおもしろいネタは生ま
れない。その人自身は「私は幸福だ」と思うかもしれないが、その幸福感は、薄っぺらく、中身
のないものである。それがわからなければ、時には新聞に載る投稿記事を読んでみたらよい。

 「庭に、秋の訪れを感ずるススキの穂が咲きました。風に揺れるススキの穂を見ていると、今
は亡き父といっしょに過ごした、楽しかった子どものころを思いだします」と。

 私自身は、ああした歯が浮いたような投稿記事を読むと、時にぞっとすることがある。それは
たとえて言うなら、どこかの役所で、仕事らしい仕事もしないで、のんべんだらりと時間をつぶし
ている、公務員を見たときに感ずるような怒りに似ている。「お前ら、それでも生きていると言え
るのか!」と。

 私は若いころ、モームの書いた『東洋航路』が好きだった。あの本を読んで、……というより
同時進行の形で、私は外国へ飛び出した。またそれがきっかけで、モームの本を、何冊か読
んだ。ほかに『月と六ペンス』がある。英文のほうは、大学でも読んだが、やたらと難解で、翻
訳本を横に置きながら講義を受けたのを覚えている。

 が、やはり何と言っても、W・サマーセット・モームと言えば、この『人間の絆』に行き着く。

 今調べてみたら、1915年発表とあるから、モームが40歳前後の作品ということになる。モ
ームは、この本の中に、それまでの自分をすべてぶつけた。

 もっともその後のモームは、超有名作家として、イギリスで富と名声を自分のものにし、優雅
な(たぶん?)、生活を送っている。皮肉なことに、『人間の絆』の中では、上流階級の夫人たち
を随所で嫌っているが、モーム自身は、やがてその上流階級の世界に埋没していく。『東洋航
路』にしても、当時としては、特別な階級の人のみに許された旅行記であった。

 ……とここまで書いて、さて、私の番。

 これからの10年。私は、どう生きるべきか……? たとえば今まで私は、「はやし浩司」とし
て生きてきたが、実は、「はやし浩司」だけではない。ペンネームでいろいろな世界で、いろい
ろな本を書いてきた。「はやし浩司」に影響があるといけないからという理由で、そうしてきた。

 しかしそろそろそうした遠慮とも、おさらばしたい。敵もできるだろう。不愉快に思う人もいるだ
ろう。しかしこれからは、私は私で生きたい。平凡なんて、クソ食らえ!

 久しぶりにW・サマーセット・モームの『人間の絆』を紐(ひも)解いてみて、今朝は、そんなこ
とを強く感じた。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ヘミングウェイ

+++++++++++++++++

W・サマーセット・モームについて書いたら、
もう1人、どうしても書かねばならない作家
がいる。

E・ヘミングウェイである。
映画を見たこともある。それで私は、
『誰(た)がために、鐘は鳴る』を、英文で
読破した。(英文で、だぞ!)

冒頭の詩は、何度も読んで、暗記
した。

「Anymen's death
deminishes me...
(誰の死なれど……)」という、あの詩である。

幸いなことに(?)、ヘミングウェイ
の書いた英語は、平易で、学生の私にも
ほとんど辞書なしで読めた。

(最初に自信をつけてくれたのが、
『老人と海』だった。それまでは、
英語の本を手にしただけで、おじけついて
しまって、読めなかったのを覚えている。
が、ヘミングウェイに出会ってからは、
一変した。それ以後は、英文の本を、
つぎつぎと読破できるようになった。

ほかに好きだったのは、バートランド・
ラッセルや、オー・ヘンリーの短編小説など。)

このヘミングウェイで特筆すべき点は、
61、2歳の若さで、猟銃自殺を図った
ということ。

記録を見ると、1899年7月21日
生まれ、1961年7月2日、アイダホ
州ケチャムの山荘で猟銃自殺とある。

正確に年齢を計算すると、満61歳で
この世を去ったことになる。今の私と
ほぼ同年齢である。

+++++++++++++++++

 ヘミングウェイに最初に出会ったのは、高校時代だったが、『誰がために鐘は鳴る』に出会っ
たのは、映画のほうが先だったと思う。そのあと英語の原書を買ってきて、自分で読んだ。

 で、当時の自分を振り返ってみて、こう思ったのを覚えている。「どうして鐘が鳴るのか?」と。

 その答は、原書のほうにあった。「toll(=鐘がなる)」という単語は、「弔いの鐘が鳴る」という
意味である。「ring(=鐘が鳴る)」というときの「鳴る」とは、意味がちがう。

 この詩を引用して書いたエッセーが、つぎのものである(中日新聞発表済み)。

+++++++++++++++++

●脳腫瘍で死んだ一磨君

 一磨(かずま)君という一人の少年が、一九九八年の夏、脳腫瘍で死んだ。三年近い闘病生
活のあとに、である。その彼をある日見舞うと、彼はこう言った。「先生は、魔法が使えるか」
と。そこで私がいくつかの手品を即興でしてみせると、「その魔法で、ぼくをここから出してほし
い」と。私は手品をしてみせたことを後悔した。

 いや、私は彼が死ぬとは思っていなかった。たいへんな病気だとは感じていたが、あの近代
的な医療設備を見たとき、「死ぬはずはない」と思った。だから子どもたちに千羽鶴を折らせた
ときも、山のような手紙を書かせたときも、どこか祭り気分のようなところがあった。皆でワイワ
イやれば、それで彼も気がまぎれるのではないか、と。

しかしそれが一年たち、手術、再発を繰り返すようになり、さらに二年たつうちに、徐々に絶望
感をもつようになった。彼の苦痛でゆがんだ顔を見るたびに、当初の自分の気持ちを恥じた。
実際には申しわけなくて、彼の顔を見ることができなかった。私が彼の病気を悪くしてしまった
かのように感じた。

 葬式のとき、一磨君の父は、こう言った。「私が一磨に、今度生まれ変わるときは、何になり
たいかと聞くと、一磨は、『生まれ変わっても、パパの子で生まれたい。好きなサッカーもできる
し、友だちもたくさんできる。もしパパの子どもでなかったら、それができなくなる』と言いました」
と。そんな不幸な病気になりながらも、一磨君は、「楽しかった」と言うのだ。その話を聞いて、
私だけではなく、皆が目頭を押さえた。

 ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の冒頭は、こんな詩で始まる。「誰の死なれど、人の
死に我が胸、痛む。我もまた人の子にありせば、それ故に問うことなかれ」と。私は一磨君の
遺体を見送りながら、「次の瞬間には、私もそちらへ行くから」と、心の奥で念じた。

この年齢になると、新しい友や親類を迎える数よりも、死別する友や親類の数のほうが多くな
る。人生の折り返し点はもう過ぎている。今まで以上に、これからの人生があっと言う間に終わ
ったとしても、私は驚かない。だからその詩は、こう続ける。「誰がために(あの弔いの)鐘は鳴
るなりや。汝がために鳴るなり」と。

 私は今、生きていて、この文を書いている。そして皆さんは今、生きていて、この文を読んで
いる。つまりこの文を通して、私とあなたがつながり、そして一磨君のことを知り、一磨君の両
親と心がつながる。もちろん私がこの文を書いたのは、過去のことだ。

しかもあなたがこの文を読むとき、ひょっとしたら、私はもうこの世にいないかもしれない。しか
し心がつながったとき、私はあなたの心の中で生きることができるし、一磨君も、皆さんの心の
中で生きることができる。それが重要なのだ。

 一磨君は、今のこの世にはいない。無念だっただろうと思う。激しい恋も、結婚も、そして仕
事もできなかった。自分の足跡すら、満足に残すことができなかった。瞬間と言いながら、その
瞬間はあまりにも短かった。そういう一磨君の心を思いやりながら、今ここで、私たちは生きて
いることを確かめたい。それが一磨君への何よりの供養になる。

++++++++++++++++++

 その一磨君が、私に1枚の絵を描いて残してくれた。その絵は、BW教室に、今の今も飾って
ある。一風変わった線画である。それに何日もかけて、色を塗ってくれた。一磨君が亡くなる半
年くらい前のことだった。その絵は、私の宝であり、同時に私自身の命でもある。

 で、当時暗記した英文を、そのままここに書く。(ひょっとしたら、部分的にまちがっているかも
しれない……。)

 Anymen's death diminishes me,
 Because I'm involved in human−beings.
 Therefore never send to know
 For whom the bell tolls.
 It tolls for thee.

誰の死なれど、我が胸痛む。
我も人の子にありせば、それ故に
問うことなかれ。
「誰がために(あの弔いの)鐘は鳴るなりや」と。
汝がために鳴るなり。

 この詩はヘミングウェイの書いたものではない。小説『誰がために鐘は鳴る』の冒頭を飾って
いる詩である。つまりこの詩を書いた人は、どこかで弔いの鐘が鳴るのを聞いた。それを聞い
て、「あの鐘が鳴るのは、だれのためでもない。自分のためだ」と感じた。「なぜなら、いつか、
自分も死ぬのだから……」と。

 ヘミングウェイは、この詩に感動した。だから自分の小説の冒頭を、この詩で飾った。同時
に、その詩は、ヘミングウェイ自身、さらにはその小説を読んだすべての人に、こう伝えた。

 「生きることを大切にしろよ」と。

 しかし……。ヘミングウェイ自身は、猟銃自殺を図っている。すべての富と名声を手に入れな
がらも、彼の心は満たされることはなかった? 私にはよくわからないが……、というより、私
のような者が自殺するというのであれば、まだ話もわかる。「はやし浩司が、失意と失望、孤独
の中で自殺した」と。

 若いころ、ヘミングウェイが自殺していたと聞いたとき、そして彼が61歳だったと聞いたとき、
「あのおじいさんが……」と思ったのをよく覚えている。ヘミングウェイは、風貌からしてジジ臭
かった。

 しかし今、自分がその年齢になってみて、その考え方は、大きく変わった。「ヘミングウェイも
若くして死んだのだなあ」と。

 ところで、私は自殺なんか、しないぞ。富も名声もない。だったら命くらいは大切にしなくちゃ
あ。ハハハ。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ヘミン
グウェイ サマーセット・モーム)



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27
●伸びる子ども

【伸びる子、伸びない子、こんな簡単なテスト法】

+++++++++++++

あなたの子どもが、この先、
伸びるか、伸びないか?

こんな簡単なテスト法があるので
紹介する。

用意するもの。

下のイラストを、印刷して、
子どもに見せる。

+++++++++++++







 最近、「数学マジック辞典」(上野登美夫著、東京堂出版)という本を買ってきた。現在、その
中のいくつかを、私の生徒たちに見せ、楽しんでいる。で、たいへん興味深い事実に気がつい
た。

 たとえば、つぎのイラストを子どもに見せたときのこと。(無断で、転載して申し訳ない。このイ
ラスト自体の著作権は、当の昔に消滅していると思われるので、許してほしい。またイラスト自
体を転載するのが目的ではないので、許してほしい。マガジンでは、HTML版のほうで、紹
介。)

 (同書、P88より)

 上の図を線に沿って、3つに分割し、下のように並び替える。すると、人が6人から5人に減
る。同時に四角い板(私は、「チョコレートだよ」と話しているが……)は、4枚から、5枚にふえ
る。

 この手品というか、マジックを子どもたちの前でしてみせる。そのとき……。

(1)鋭い反応を示し、「どうして?」と真剣に考え込む子ども。
(2)「どうせインチキ」とか何とか言って、まったく興味を示さない子ども。

 もちろんその中間もある。程度の差もある。子どもたちの反応は、さまざま。しかし大きく分け
ると、上の(1)と(2)に分かれるのがわかる。

 全体に大きく評価してみると、学習面で伸びつづける子どもは、おおむね(1)のような反応を
示す。それだけ問題意識も深く、日ごろから、考える習慣を身につけている。

 が、伸び悩み、何かを教えても、ちょうどザルで水をすくうような感触しかない子どもがいる。
このタイプの子どもは、おおむね(2)のような反応を示す。問題意識も浅く、好奇心も弱い。日
ごろから、生活態度も享楽的。どこか、いいかげん。

 で、こうした子どもの反応は、母親の影響によるところが多い。子どもたちに同行してきた母
親たちにも見せてみたが、母親たちの反応も、大きく分けると、上の(1)と(2)に分かれるのが
わかった。

 さらに母親たちが示す反応と、その子どもたちの示す反応が、ほぼ一致するのがわかった!
 つまり(考える習慣)=(伸びる子どもの重要な要素)は、母親の影響によるところが、たいへ
ん大きいということ。

 そこであなたの子どもはどうか? あなたという親自身は、どうか?

 こういう原稿を読んでいるあなたという親は、(読んでいる)ということ自体、(1)のタイプの親
ということになる。問題意識の浅い親は、こういう原稿を読まない。関心ももたない。

 だからあなたの子どもは、まちがいなく伸びるタイプの子どもということになるが、それでも…
…ということなら、一度、このテストを子どもの前でしてみせるとよい。

 「あら、こうすると、6人よね。でもカードを並び替えると、5人になるわね」と。

 対象は、小学2年生前後から、5、6年生まで。それ以下だと、マジックの意味が理解できな
い。またそれ以上だと、似たような手品を、学校でもしているので、簡単にしかけを見抜いてし
まう。

 もし、あなたの子どもが(1)のような反応を示せば、それでよし。もし(2)のような反応しか示
さないなら、この先、あなたの子どもは、かなり伸び悩むことを、今から覚悟しておいたらよい。
(失礼!)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 伸び
る子 伸びない子 伸び悩む子ども)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●伸びる子、伸びない子
                     
 伸びる子どもには、いくつかの特徴がある。

(1)思考が柔軟で、
(2)好奇心が旺盛、それに
(3)生活力(忍耐力)がある。

思考が柔軟ということは、たとえばおとなの冗談が通ずる。反対に頭のかたい子どもは、おと
なの冗談が通じない。こんな会話をする。

私「今日はいい天気だね」
子「雲があるから、いい天気じゃない」
私「雲があってもいい天気だよ」
子「雲があるから、いい天気じゃ、ない!」と。

 好奇心が旺盛ということは、一人で遊ばせておいても、身のまわりから次々と、新しい遊びを
発見したりすることをいう。そうでない子どもは、「退屈だア」とか、「早くおうちへ帰ろうヨ〜」な
どと言ったりする。また好奇心の旺盛な子どもは、新しいことを見せると、「やる! やる!」と
食いついてくる。趣味も多く、多芸多才。友だちも多い。

 そして忍耐力。子どもの忍耐力は、「いやなことをがまんしてする力」のことをいう。たとえば
台所の生ゴミを手で始末できる。寒い夜、回覧板を隣へ届けることができる、など。忍耐力の
ない子どもは、「いやだア」と言って、逃げる。よく「うちの子どもは、サッカーだと一日中してい
ます。そういう力を勉強のほうに向けたい」と言う親がいるが、その子どもは好きなことをしてい
るだけ。サッカーを一日中しているからといって、忍耐力がある子どもということにはならない。

 反対に子どもを伸ばすには、この三つのことに心がける。たとえば頭をやわらかくするために
は、いつも子どもの周囲に何らかの変化を用意する。

ある母親は、娘のために一日とて同じ弁当を作らなかった。そういう姿勢が、その子を伸ばし
た。その娘はやがて女流作家になり、ある都市の教育委員長にまでなった。要するに、生活の
ハバを広くせよということ。その一例というわけではないが、昔から転勤族の子どもは頭がよい
という。つまり転勤という大きな環境的変化が、子どもによい影響を与えると考えられる。

 好奇心を旺盛にするためには、親自身が自分の世界を広めるつもりで努力する。そして子ど
もにいつも、それを体験させる。子どもがある特定のものに執着したり、固執したりするのは、
あまり好ましいことではない。たとえば虫なら虫ばかりに興味をもつとか、あるいは特定のズボ
ンでないと、幼稚園へは行かないとがんばる、など。

 最後に生活力(忍耐力)をつけさせるためには、子どもを使って使って、使いまくる。もう少し
具体的には、家庭の緊張感の中に子どもを巻き込むようにする。「あなたがこれをしなけれ
ば、家族の皆が困るのだ」というような雰囲気を、家庭の中に作る。親がソファの上に寝そべり
ながら、子どもに向かって、「新聞を持ってきなさい」は、ない。

 伸びる子どもは、ほかの子どもたちが伸びを止めるようなときでも、そのまま伸び続ける。そ
していやなことや困難なことがあっても、それを乗り越えていく。そして結果として、ほかの子ど
もより伸びる。

ただしここでいう「伸びる」というのは、学習面で伸びるということではない。勉強ができるできな
いは、あくまでも、その結果でしかない。


+++++++++++++++

●がんこな子ども

 「がんこな子ども」というときは、ふつう、つぎの二つのタイプを考える。(1)自分のカラにこも
り、かたくなな態度や様子を示す。ある男の子(年長児)は、幼稚園で、いつも同じ席でないと
座ろうとしなかった。また別の男の子(年長児)は、毎朝、いつも同じズボンでないと、幼稚園へ
行かなかった。ほかに二年間、毎朝迎えにきてくれる幼稚園の先生に、一度もあいさつをしな
かった子どももいた。

 もうひとつは、(2)「自分が絶対正しい」と、かたくなになることをいう。このタイプの子どもは、
その返す刀で、「相手は絶対にまちがっている」と主張する。そして結果として、自分の思いど
おりにならないと気がすまない。あるいは自分の思いどおりにしてしまう。教える側からみると、
ともに何を考えているかわからないタイプの子どもということになる。ふつう心と表情が遊離す
るため、柔和な表情や、穏やかそうな顔つきになることが多い。

 こうした「がんこさ」は、子どもにとっては好ましくない。子どもの心に何か変調が起きると、子
どもはがんこになる。で、その対照的な位置にある子どもが、「すなおな子ども」ということにな
る。

心と表情が一致している子ども、心のゆがみのない子どもを、すなおな子どもという。うれしい
ときは心底、うれしそうな表情をする。悲しいときは、心底悲しそうな表情をする。親切にしてあ
げたり、やさしくしてあげると、その親切ややさしさが、そのままスーッと子どもの心の奥にしみ
こんでいくのがわかる。なおここでいう「心にゆがみのある子ども」というのは、ひねくれたり、つ
っぱったり、いじけたりしやすい子どもをいう。
 
 子どもにこうしたがんこな様子が見られたら、子どもをなおそうと考えるのではなく、家庭環
境、とくに親子関係を反省する。もちろん生来の問題もあるが、コツは、今の状態をより悪くし
ないことだけを考えて、一年単位で様子をみる。

私はこのタイプの子どもを預かったときには、とにかく大声で笑わせることだけを考えて指導す
る。実際、その「大声で笑う」という行為には、不思議な力がある。もしあなたの子どもが、ここ
でいうような「がんこさ」を見せたら、どんな方法でもよいから、大声で笑わせることに心がけた
らよい。大声で声を出させるのもよい。
(02−9−25)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 がん
こな子ども 子どものがんこ 子供のがんこ がんこな子供)




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28
●親が子育てで行きづまるとき

++++++++++++++++

毎年、新しい親は、同じ失敗を
繰りかえす。

それは海辺に打ち寄せる波のよう。

毎回、どれひとつとして、同じ
「水」はない。

しかしそれが繰りかえし、繰りかえし、
海辺に打ち寄せる。

どうして親たちよ、先人の愚を、
自分の知恵に生かさないのか?

もしあなたが「私だけはちがう」と
思っていたとしたら、それは
とんでもない誤解。まちがい。

……だから私は、再び、同じ
原稿を、ここに掲載する。

+++++++++++++++

●私の子育ては、何だったの?

 ある月刊雑誌の読者投稿コーナーに、こんな投書が載っていた。ショックだった。考えさせら
れた。この手記を書いた人を、笑っているのでも、非難しているのでもない。私たち自身の問
題として、本当の考えさせられた。そういう意味で、紹介させてもらう。

 「思春期の二人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。幼児期から生き物を愛し、大
切にするということを、体験を通して教えようと、犬、ウサギ、小鳥、魚を飼育してきました。

庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向かい、読
み書きする姿も見せてきました。リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も部
屋も飾ってきました。

なのに、どうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんどうがり、努力もせず、
マイペースなのでしょう。旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地
理が苦手。息子は出不精。娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費ばかり。

二人とも『自然』になんて、まるで興味なし。しつけにはきびしい我が家の子育てに反して、マナ
ーは悪くなるばかり。私の子育ては一体、何だったの? 私はどうしたらいいの? 最近は互
いのコミュニケーションもとれない状態。子どもたちとどう接したらいいの?」(月刊M誌・K県・
五〇歳の女性)と。

 多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相談
があった。ある母親からのものだが、こう言った。

「うちの子(小三男児)は毎日、通信講座のプリントを三枚学習することにしていますが、二枚ま
でなら何とかやります。が、三枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。どう
したらいいでしょうか」と。

もう少し深刻な例だと、こんなのがある。これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こ
う言った。「昨日は何とか、二時間だけ授業を受けました。が、そのまま保健室へ。何とか給食
の時間まで皆と一緒に授業を受けさせたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と。

 こうしたケースでは、私は「プリントは二枚で終わればいい」「二時間だけ授業を受けて、今日
はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。仮にこれらの子
どもが、プリントを三枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「四枚やらせたい」「午後
の授業も受けさせたい」と言うようになる。こういう相談も多い。

「何とか、うちの子をC中学へ。それが無理なら、D中学へ」と。そしてその子どもがC中学に合
格できそうとわかってくると、今度は、「何とかB中学へ……」と。要するに親のエゴには際限が
ないということ。そしてそのつど、子どもはそのエゴに、限りなく振り回される……。

+++++++++++++++++++++

●親が子育てでいきづまるとき(2)

 前回の投書に話をもどす。「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も一瞬
ドキッとした。しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエゴではなかっ
たのか。もっとはっきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ?

(どうか、この記事を書いた、お母さん、怒らないでください。あなたがなさっているような経験
は、多かれ少なかれ、すべての親たちが経験していることです。決して、Kさんを笑っているの
でも、批判しているのでもありません。あなたが経験なさったことは、すべての親が共通してか
かえる問題。つまり落とし穴のような気がします。)

そのつど子どもの意思や希望を確かめた形跡がどこにもない。親の独善と独断だけが目立
つ。「生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、ウサギ、小鳥、魚を
飼育してきました」「旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が
苦手。息子は出不精」と。

この母親のしたことは、何とかプリントを三枚させようとしたあの母親と、どこも違いはしない。
あるいはどこが違うというのか。

 一般論として、子育てで失敗する親には、共通のパターンがある。その中でも最大のパター
ンは、(1)「子どもの心に耳を傾けない」。「子どものことは私が一番よく知っている」というのを
大前提に、子どもの世界を親が勝手に決めてしまう。

そして「……のハズ」というハズ論で、子どもの心を決めてしまう。「こうすれば子どもは喜ぶハ
ズ」「ああすれば子どもは親に感謝するハズ」と。そのつど子どもの心を確かめるということをし
ない。ときどき子どもの側から、「NO!」のサインを出しても、そのサインを無視する。あるい
は「あんたはまちがっている」と、それをはねのけてしまう。

このタイプの親は、子どもの心のみならず、ふだんから他人の意見にはほとんど耳を傾けない
から、それがわかる。

私「明日の休みはどう過ごしますか?」
母「夫の仕事が休みだから、近くの緑花木センターへ、息子と娘を連れて行こうと思います」
私「緑花木センター……ですか?」
母「息子はああいう子だからあまり喜ばないかもしれませんが、娘は花が好きですから……」
と。あとでその母親の夫に話を聞くと、「私は家で昼寝をしていたかった……」と言う。息子は、
「おもしろくなかった」と言う。娘でさえ、「疲れただけ」と言う。

 親には三つの役目がある。(1)よきガイドとしての親、(2)よき保護者としての親、そしてBよ
き友としての親の三つの役目である。この母親はすばらしいガイドであり、保護者だったかもし
れないが、(3)の「よき友」としての視点がどこにもない。とくに気になるのは、「しつけにはきび
しい我が家の子育て」というところ。

この母親が見せた「我が家」と、子どもたちが感じたであろう「我が家」の間には、大きなギャッ
プを感ずる。はたしてその「我が家」は、子どもたちにとって、居心地のよい「我が家」であった
のかどうか。あるいは子どもたちはそういう「我が家」を望んでいたのかどうか。結局はこの一
点に、問題のすべてが集約される。

が、もう一つ問題が残る。それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエゴに気
づいていないということ。いまだに「私は正しいことをした」という幻想にしがみついている! 
「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉が、それを表している。

+++++++++++++++++++++++

 子どもは、小学3年生ごろを境に、親離れを始める。しかし親が、それに気づき、子離れを始
めるのは、子どもが、中学生から高校生にかけてのこと。

 この時間的ギャップが、多くの悲喜劇を生む。掲示板に書きこんでくれたFさんの悩みも、そ
の一つ。

【Fさんへ】

 Fさんの育て方に原因があるわけではありません。またそういうふうに、自分を責めるのは、
正しくありません。

 あなたは親ですが、子どもという(人間)に対して、全責任があるわけではありません。子ども
は、子どもで、すでに自分の道を歩み始めています。(たしかに、あなたが、理想とする子ども
像からは、かけ離れているように見えるかもしれませんが……。)

 理由や原因は、わかりませんが、あなたの子どもは、相当、キズついています。学校で、いろ
いろあるのでしょう。うまくいかないこともあるのでしょう。つらいことや、狂うことも……。

一見、つっぱって見せたり、強がってみせたりするのは、自己表現が、うまくできないからで
す。そのもどかしさを、本人自身が一番、強く感じているはずです。

 ですから、「どうして勉強しないの!」「学校へ行かないの!」ではなく、子どもの立場で、もっ
というなら、あなたが昔、学生だったころ、友人に語りかけるように、語りかけてみることです。

 親風は禁物です。親風を吹かせば、あなたの子どもは、ますます、心を閉ざしてしまうでしょ
う。言うとしたら、「あなたはがんばっているわ」とか、「つらいこともあるよね」とか、「お母さん
も、学校へ行きたくなくて、つらいときもあった」です。

 幸いなことに、たいへん幸いなことに、部活だけは、がんばって行っているようですから、それ
を一芸として、伸ばすことを考えてください。その一芸がある間は、あなたの子どもは、自分の
道を踏みはずすことはないでしょう。またその一芸が、やがてあなたの子どもを、側面から支え
ることになります。

 残念ながら、すでにあなたの子どもは、親離れしています。つまり親として、あなたが子どもに
なすべきこと、できることは、ほとんどありません。また、何かをしようとか、そういうふうに、考
えないことです。

 子どもというのは、親の思いどおりにならないものです。ならないばかりか、親が行ってはほ
しくない方向に自ら進んでいくこともあります。

 では、どうするか?

 最終的には、「子どもを信ずる」しか、ありません。(といっても、あなたとあなたの子どもの間
の不信感は、相当なものと、推察されます。もし、あなたの子育てでどこに問題があったかと聞
かれれば、私は、その点をあげます。つまり親子の信頼関係の構築に失敗したという点で
す。)

 あなた自身が、不幸にして不幸な家庭に育った可能性もありますし、男子という異性というこ
とで、子育てにとまどいがあったのかもしれません。気負い先行型、心配先行型の子育てをし
てきた可能性があります。

 どちらにせよ、今、親子関係がうまくいっている家庭など、10に、1つ、あるいはよくて、2つと
か3つくらいしかないのも事実ですから、「まあ、こんなもの」と納得してください。(みんな、外か
ら見ると、うまくいっているように見えますが、ね。本当は、みんな、問題だらけですよ。外から
は、それが見えないだけ。)

 あなたは自分の子どもの姿を見ながら、子どもの心配をしているというより、あなたの不安や
心配を子どもにぶつけているだけかもしれませんね。あなたの子どもは、それを敏感に感じ取
って、「ウルセー!」となるわけです。

 こういう問題には、今のFさんには、わからないかもしれませんが、まだ二番底、三番底があ
ります。対処のし方をまちがえると、さらに、あなたの子どもは、あなたの手の届かない遠くに
行ってしまうこともありえるということです。

 だから今は、「これ以上、状態を悪化させないことだけ」を考えて、子どもの横をいっしょに、
歩いてみてください。方法としては、(1)友になり、(2)暖かい無視を繰りかえし、(3)ほどよい
親であることです。

 やりすぎず、しかし子どもが助けを求めてきたら、ていねいに応じてあげる、です。

 あなたは何とか、勉強をさせようとしていますが、子どもが、それを望まなければ、それまでと
いうことです。イギリスの格言にも、『馬を、水場に連れて行くことはできても、水を飲ませること
はできない』というのが、あります。

 あとの選択は、子どもに任せましょう。幸いなことに、あなたの子どもは、(部活)で、自分を光
らせています。それを伸ばすようにしてみたら、どうでしょうか。これからは、一芸が、子どもを
伸ばす時代です。

 そして大切なことは、もう子どものことには、かまわないで、あなたはあなたで、自分のしたい
ことをすればよいのです。1人の人間として、です。

 そういう姿を見て、あなたの子どもは、あなたから、何かを学ぶはずです。またそれにまさる、
不安や心配の解消法はありません。あなたの子どもにとって、です。たくましく、前向きに生き
ている親の姿ほど、子どもに安心感を与えるものは、ありません。

 「親をなめきったような態度を許せない」ということですが、Fさん、あなたは、かなり親意識の
強い方ですね。あなた自身がそういう家庭環境の中で、生まれ育ち、そういう意識をつくりあげ
られてしまったと考えるほうが正しいかもしれません。親は、なめられるもの。子どもは、親を踏
み台にして、さらに先へ行くものです。

 子どもなんかと、張りあわないこと。もともと張りあうような相手では、ないのです。

 くだらないから、そんな親意識は、捨てなさい!

 子どもがそういう態度をとったら、「ああ、そうですか」と言って、無視すればよいのです。それ
が親の、つまりは人間としての度量ということになります。

 あとは『許して、忘れる』。相手にしないこと、です。

 この問題は、一見、あなたの子どもの問題に見えますが、実は、子離れできない、もっと言え
ば、子どもへの依存性を断ち切ることができない、あなた自身の問題だということです。あなた
の子どもは、それに敏感に反応しているだけ、です。

 「月に1回ぐらい学校を休む」程度なら、許してあげなさい。「疲れているのね。まあ、そういう
ときは、休みなさい」と。

 ズル休み(怠学)ができる子どもというのは、それなりに、大物になりますよ。そういうときは、
「いっしょに、旅行でもしようか」と声をかけてみてください。(多分、いやがるでしょうが……。)
あなた自身も、大物になるのです。大物になって、子どもを包むのです。

 Fさんのように、親意識の強い人には、ハイハイと親の言うことを従順に聞いて、「ママ、ママ」
と甘えてくれる子どものほうが、よい子なのかもしれません。勉強も、まじめ(?)にやって、よい
成績をとって、人に好かれる子どもです。

 しかしそんな子ども、どこか気味が悪いと思いませんか? 私はそう思います。

 ……とまあ、勝手なことばかり書きましたが、いろいろな問題がある中でも、Fさんのかかえて
いる問題は、何でもない問題のように、思います。形こそ、ややギクシャクしていますが、あな
たの子どもは、今、たくましく、あなたから巣立ちしようとしているのです。そういう目で、見てあ
げてください。
(はやし浩司 子どもの反抗 子供の反抗 反抗期 対処 対処法)




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29
【子どもとゲーム】

++++++++++++++++++++

07年12月12日、東京大学にて、
東京大学大学院情報学環歴史情報論研究室と
IGDA東京が運営する「東京大学ゲーム研究
プロジェクト」の、第1回公開講座が開催
された。

講師は社会心理学が専門の、阪元章氏。その
報告が、ヤフーに載っていた。

++++++++++++++++++++

●ゲームは、危険か?

 テレビゲームが子どもたちにどのような影響を与えるか。それについて、今までにも、さまざ
まな機会で、論じられてきている。

 今度(07年12月12日)、東京大学にて、東京大学大学院情報学環歴史情報論研究室とIG
DA東京が運営する「東京大学ゲーム研究プロジェクト」の、第1回公開講座が開催された。

 講師は社会心理学が専門の、阪元章氏。その氏の報告によれば、おおむね、つぎのような
内容だったという。結論だけを、ヤフー・ニュースから、いくつかを、かいつまんで列挙してみ
る。

★『……続いて、ゲームによって暴力的な傾向が強まるかについて。これは結論から言ってし
まえば、暴力的なゲームをプレイした場合に、子どもが暴力的な傾向を持つことが認められる
方向の研究結果がある。ちなみにこれは、テレビ映像についても同様とのこと。暴力シーンに
よって欲求不満が解消されるという説もあったが、現在はこの説は否定されているという』

★『この理由について坂元氏は「ゲームが暴力を学習させる」ことが大きな理由であると説明。
暴力を学習するというのは、暴力によってヒーローが問題を解決したりすることで、暴力がよい
解決手段だと認められてしまうことが挙げられる。特にゲームにおいては自分自身を反映した
キャラクターが相手を倒すことで、ストーリー展開や未知の映像などを含めた報奨を得る構造
になっているため、テレビよりも影響力が強いのではないか、という説もある。

 また、ゲームの中で暴力を振るうことで、実際に暴力を振るうことにも慣れてしまう。例えば現
実に怒りを感じた場合、我慢する、逃避するなどさまざまな選択肢があるが、暴力への回路が
開かれやすい状態になるというのだ。

 その他、技術が進歩することによって、ゲームがより現実に近づいている点が触れられた。
そのため、学習された暴力が現実世界でも出てしまう傾向が強まっているという』

★『ゲームによって学力低下が引き起こされるかという点については、明確な関係は今のとこ
ろはっきりしていない。研究も少なく、悪影響の可能性があるのではないか、というレベルなの
だそうだ。ただし、ゲームが図形把握能力など視覚的能力を向上させるということは明らかに
されており、先日米サイエンス誌でもこの点に関する研究結果が掲載されたという』

★『また、日本大学の森教授の著書「ゲーム脳の恐怖」が、発表当時に一大センセーションを
巻き起こしたことは記憶に新しい。これは、ゲームプレイによって繰り返し前頭前野の活動が
低下することで、ゲームから離れても、前頭前野が機能しなくなってしまうという説を述べた本
だ。

 この「ゲーム脳の恐怖」の調査内容に関しては、Webサイトや書評によって調査方法の不備
などが指摘されている。また、ゲーム中に前頭前野の活動が低下することは10年以上前から
研究結果として報告されていることでもある

 ただし、脳医学の領域において発達に対する影響がどうなのか、という調査結果は今のとこ
ろない。ゲームによって前頭前野の活動が低下するという経験を繰り返すことで、ゲームから
離れても前頭前野が活動しなくなるかどうかということは明らかにされていない』(以上、「ヤフ
ー・ニュース・レポートより」07年11月21日)


+++++++++++++++++

 このレポートを読んで、まず気になるのが、(1)直観的なゲーム論には、意味がないという趣
旨の内容が目立つこと。(2)レポーター自身が、たいへんな権威迎合主義者で、(たぶん?)、
教授が言うことはすべて正しいという前提で、ものを書いている点である。

 『子どものことは、子どもに聞く』。それが大鉄則であり、大原則。ゲームにハマっている子ど
もが、どこかおかしくなるという印象は、直接、子どもと何日も、接してみてわかること。その変
化については、何年も接してみてわかること。しかも多人数の子どもたちと比較してみて、はじ
めて、わかること。

 直感が不完全で、信頼性がないというのなら、(レポートの中では、「直観」となっているが)、
ならば「教育とは何か?」ということになってしまう。

 私はこうしたレポートを読むたびに、「この研究者は、どの程度、子どもに接しているだろう
か」という視点で、内容を判断する。阪元氏が、そうではないと言っているのではない。しかしレ
ポートを通して知るかぎり、子どもの臭いが、どこにもない。ないのが、気になる。

 暴力番組の影響で、子どもが暴力的になることは、幼稚園の現場では、すでに30〜40年も
前から指摘されていることである。当時、それまでにはなかった遊びが、大流行した。いわゆる
「キック」である。

 K・ライダーの動きにまねて、相手の子どもや先生に、キックを繰りかえす子どもが続出した。
相手が子どもでも、まともにキックされると、大のおとなでも、うずくまってしまう。それほどまで
のパンチ力がある。子どもの足でも、おとなの男の腕ほどの太さがある。

 ゲーム漬けによって、子どもが暴力的になるかどうかという見方は、それ自体が、きわめて
一面的でもある。

 むしろ心配されるのは、「心の破壊」であろう。

 私の調査では、大きなぬいぐるみなどを、子どもたちが通る玄関先に置いてみたばあい、
「かわいい」と言って、ぬいぐるみに好意的な反応を示す子どもが、約80%。反応を示さない
子どもが、20%。そのうち何割かは、否定的な反応を示し、ぬいぐるみに対して、キックをした
り、ぬいぐるみを、投げ飛ばしたりする。

 これが私たちの「直観」である。

 もちろんこうした子どもの心が、すべてゲームの影響によって決まるとは思わない。「心」とい
うのは、たいへん複合的なもので、それこそDNAのように、複雑にからみあっている。その結
果として、「暴力的であるか、ないか」が、決まる。

 ゲームが子どもの心に影響を与えているかどうかということについては、「ある」と考えるの
が、当然である。ゲームが暴力的であれば、あるほど、そうである。しかしゲームだけで、暴力
的になるとも考えられない。

 その子ども自身のもつ「質」の問題も、からんでくる。「家庭環境」の問題もからんでくる。親の
冷淡、無視、不適切な育児姿勢があれば、なおさらである。

 こうした論議を重ねる前に、まだどこかに幼児性を残す子どもが、無表情のまま、「殺せ」「や
っつけろ」「やったア!」と、声を出しながらゲームを繰りかえすことの異常さを、まず知るべき
である。

 否定的なことばかりを書いたが、阪元氏らの研究が、ムダであるとか、そういうことを書いて
いるのではない。森氏の書いた、『ゲーム脳の恐怖』については、おおいに参考になった。これ
からもこうした分野での研究は進むと思われる。また進めてほしい。

 私の「直観」によれば、この『ゲーム脳の恐怖』に書かれていることは、現場の子どもたちの
現象を、うまく説明している。レポートは、『この「ゲーム脳の恐怖」の調査内容に関しては、
Webサイトや書評によって調査方法の不備などが指摘されている。また、ゲーム中に前頭前野
の活動が低下することは、10年以上前から研究結果として報告されていることでもある』と、ど
こか否定的な見解を述べている。

 この部分を読んで、まず思い出したのが、「タバコ無害キャンペーン」。若い人は知らないか
も知れないが、私が20〜25歳のころは、どこの駅前でも、旗を立てた一群が、「タバコ無害キ
ャンペーン」なるキャンペーンを展開していた。

 「タバコが有害であるということは、科学的に実証されていません」と。

 子どもの世界では、『疑わしきは、罰する』。それが原則。危険確認まで待っていたら、その
間に、子どもの世界は、どこかへ行ってしまう。ゲームについても、しかり。もし私が言っている
ことに疑問をもつなら、あなたも、一度でよいから、ゾンビを相手に、刀で切りまくるゲームをし
てみることだ。

 そのあと気分が爽快になり、すがすがしくなる人は、ぜったいに、いない!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もとゲーム ゲーム 子供とゲーム)





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30
【三つ子の魂、百まで】

●乳児の善悪判断

+++++++++++++

乳児にも善悪判断ができると
いう。

そんなおもしろい研究結果が、
ヤフー・ニュースに載って
いた。そのまま紹介させて
もらう。

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(時事通信・11・23)

生後6か月の赤ちゃんも善悪を区別し、道徳的な判断もできる……。22日付の英紙デーリー・
テレグラフによると、アメリカ・エール大学のカイリー・ハムリン氏らの研究チームがこうした実
験結果を明らかにした。

3つ子ならぬ「6か月児の魂も、100まで」ということになる。

 同紙によると、実験では12人の6か月の赤ちゃんに、

(1)丸いおもちゃ「クライマー」が丘を上ろうとするが、失敗する。
(2)三角のおもちゃ「ヘルパー」が、クライマーを丘の上まで押し上げる。
(3)四角のおもちゃがクライマーを、丘の下まで押し戻す……という3つの映像を見せた。

その後、赤ちゃんにおもちゃを選ばせると、全員が三角に「好意」を示したという。

+++++++++++

 この中で、「三つ子の魂、百まで」を読んだとき、30年前に、私が書いた記事のことを思い出
した。

 当時、『幼児のがくしゅう』(学研)という雑誌があった。その雑誌の付録に小冊子があって、
それにコラムを書かせてもらっていた。

 その中で、私は、この『三つ子の魂、百まで』について書いた。内容はともかくも、この『三つ
子の魂、百まで』という格言が、「差別にあたる」というのだ。雑誌が発行されたあと、ある団体
から、猛烈な抗議を受け取ったのを覚えている。

 いわく、「三つ子までに性格が決まるというなら、3歳まで、不幸にして不幸な乳幼児期を過ご
した子どもは、その後、立ちなおることはできないというのか。その後の努力で、立派に更生し
た人も多い」と。

 抗議の内容はよく覚えていないが、当時は、まだそういう時代だった。雑誌といっても、姉妹
紙の『なかよしがくしゅう』と合わせて、月に、40〜50万部も売れていた。影響力も大きかっ
た。

 で、しばらく……というより、40代に入って自分の本を書くまで、私は、意識的に、この格言を
避けてきた。が、今では、ここで見るまでもなく、同じ格言が、堂々と使われている。

 ……となると、あのときのあの抗議は、いったい、何だったのかということになる。一部の団
体の、一部の人たちの過剰反応だったのか?

 この『三つ子の魂、百まで』について書いた原稿を、ここに添付する。

+++++++++++++

●飼い犬考察(「自分」発見のために)

 私は二匹の犬を飼っている。一匹は保健所で処分される寸前のものを、もらってきた犬。こ
れをA犬とする。もう一匹は、親の愛をたっぷり受け、愛情豊かな家庭で生まれた犬。これをB
犬とする。これらA犬とB犬は、まったく性格が違う。

 まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、一二年
にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛想はいいが、
決して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしま
う。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならない。見知らぬ人が庭の中に入
ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らんぷりして、そのまま
寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。おかげで植木
鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその割には、人間には忠
実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入ってこようものなら、けたた
ましく吠える。

 人間も犬と同じと言ったらいいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったらいいのか、同じような
ことが人間の子どもにも観察される。いろいろ誤解を生ずるので、ここでは詳しく書けないが、
性格というのは、一度できあがると、その後、なかなか変わらないということ。

A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、冷淡を経験した犬だ。心に大きなキズを負って
いる。一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った。一見、愛想は悪いが、人間に心を許
している。だから、そういうことができる。つまり人間を信頼している。幸福か不幸かということ
になれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬だ。

 人間も成長とともに、自分のことがよくわかってくると、自分という人間が、遠い昔にできあが
ったということがわかる。高校生や中学生のときではない。もっと前だ。小学生のときでもな
い。しかし四、五歳を境に急激に記憶が薄れていく。ちょうどモヤのかかった闇に吸い込まれ
ていくように、記憶が薄れていく。

つまりそれから以前は、はっきりしない。「自分」という人間は、どうやらそのあたりで完成した
ようだ、と。「だから幼児教育は重要だ」と、ここで書けば、私が犬の話を持ちだした意図が、見
え見えになってしまう。事実、その通りだと思うが、しかしあまりにもはっきりとそう書くと、この
世の中、反発を買う。「三つ子の魂、百まで」と書くだけでも、抗議が殺到する。だからどう書い
たらいいのか、わからないが、そういうことだ。

 ただ人間の場合、経験や知識で、自分の姿を客観的に見ることができる。そして自分の努力
で、自分自身を変えることができる。私はそういう可能性まで、否定しているのではない。どん
な人も幼児期の暗い思い出の一つや二つは背負っている。完ぺきな家庭で愛情豊かに育った
人のほうが、少ない。そういうことも考えながら、あなた自分自身の心の中を旅してみてほし
い。きっと新しい「あなた」を発見ができると思う。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

●スパルタ方式への疑問

 スパルタ(古代ギリシアのポリスのひとつ)では、労働はへロットと呼ばれた国有奴隷に任
せ、男子は集団生活を営みながら、もっぱら軍事教練、肉体鍛錬にはげんでいた。そのきびし
い兵営的な教育はよく知られ、それを「スパルタ教育」という。

 そこで最近、この日本でも、このスパルタ教育を見なおす機運が高まってきた。自己中心的
で、利己的な子どもがふえてきたのが、その理由。「甘やかして育てたのが原因」と主張する評
論家もいる。しかしきびしく育てれば、それだけ「子どもは鍛えられる」と考えるのは、あまりに
も短絡的。あまりにも子どもの心理を知らない人の暴論と考えてよい。やり方をまちがえると、
かえって子どもの心にとりかえしのつかないキズをつける。

 むしろこうした子どもがふえたのは、家庭教育の欠陥と考える。(失敗ではない。)その欠陥
のひとつは、仕事第一主義のもと、家庭の機能をあまりにも軽視したことによる。たとえばこの
日本では、「仕事がある」と言えば、男たちはすべてが免除される。子どもでも、「宿題がある」
「勉強する」と言えば、家での手伝いのすべてが免除される。

こうした日本がもつ特異性は、外国の子育てと比較してみると、よくわかる。ニュージラーンド
やオーストラリアでは、子どもたちは学校が終わり家に帰ったあとは、夕食がすむまで家事を
手伝うのが日課になっている。

こういう国々では、学校の宿題よりも、家事のほうが優先される。が、この日本では、何かにつ
けて、仕事優先。勉強優先。そしてその一方で、生活は便利になったが、その分、子どもので
きる仕事が減った。私が「もっと家事を手伝わせなさい」と言ったときのこと、ある母親は、こう
言った。「何をさせればいいのですか」と。聞くと、「掃除は掃除機でものの一〇分ですんでしま
う。料理も、電子レンジですんでしまう。洗濯は、全自動。さらに食材は、食材屋さんが届けてく
れます」と。

こういうスキをついて、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。で、ここからが問題だが、ではそういう
形でドラ息子、ドラ娘になった子どもを、「なおす」ことができるか、である。

 が、ここ登場するのが、「三つ子の魂、一〇〇まで」論である。実際、一度ドラ息子、ドラ娘に
なった子どもをなおすのは、容易ではない。不可能に近いとさえ言ってもよい。それはちょうど
一度野性化した鳥を、もう一度、カゴに戻すようなものである。戻せば戻したで、子どもはたい
へんなストレスをかかえこむ。

本来なら失敗する前に、その失敗に気づかねばならない。が、乳幼児期に、さんざん、目いっ
ぱいのことを子どもにしておき、ある程度大きくなってから、「あなたをなおします」というのは、
あまりにも親の身勝手というもの。子どもの問題というより、日本人が全体としてかかえる問題
と考えたほうがよい。だから私は「欠陥」という。いわんやスパルタ教育というのは! もしその
教育をしたかったら、親は自分自身にしてみることだ。子どもにすべき教育ではない。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

●三つ子の魂、百まで

 『三つ子の魂、百まで』というのは、その人の基本的な性格や方向性は、三歳ごろまでに決ま
るので、それまでの子育てを大切にしろという意味。しかし教育的には、つぎの四つの意味を
もつ。

(1)この時期の子どもをていねいに見れば、その後、子どもがどんなふうになっていくかについ
て、おおよその見当がつくということ。
(2)この時期までに、何か心にキズをつけてしまうと、そのキズは、一生つづくから注意しろと
いう意味。
(3)この時期をすぎたら、その子どもはそういう子どもだと認めたうえで、子どもの性格や方向
性はいじってはいけないということ。
(4)そしてもう一つは、子どもが大きくなってから、いろいろな問題が起きたときには、この三歳
までの育て方に原因を求めろということ。

 ただ念のために申し添えるなら、この格言は、公式の場(公の雑誌や新聞など)では、使えな
いことになっている。「差別につながる」ということだそうだ。私も一度、G社から出している雑誌
に、この格言を引用して、抗議の電話をもらったことがある。いわく、「三歳までに不幸だった子
どもは、おとなになってからも不幸になるということか」と。

 しかしそういった抗議はともかくも、この格言は、たしかに真実を含んでいる。「三歳」と切るこ
とはないが、幼児期の子どものあり方は、その子どもの基礎になることは、もうだれの目にも
明らかである。

 さて本題。よく親は、子どもの性格は、変えられるものと思っている。しかし実際には、そうは
簡単ではない。子どもの性格は、乳児から幼児期にかけての時期。私は性格形成第一期と呼
んでいる。そして幼児期から少年少女期にかけての時期。私は性格形成第二期と呼んでい
る。これら二度の時期を経て、形成される。

とくに大切なのは、幼児期から少年少女期(満四・五歳〜五・五歳)の時期である。この時期を
経るとき、子どもに、人格の「核」ができる。教える側からすると、「この子はこういう子だ」という
つかみどころができてくる。それ以前の子どもは、どこか軟弱で、それがはっきりしない。が、こ
の時期をすぎると、急にその形がはっきりとしてくる。言いかえると、この満四・五歳から五・五
歳の時期の、幼児教育が、とくに大切ということ。冒頭にも書いたように、この時期にできる基
本的な性格は、その子どもの一生を方向づける。

 またこの時期というのは、自意識がそれほど発達していないので、子ども自身が、自分を飾
ったり、ごまかしたりできない。その分、その子どもの本来の姿を、正確に判断することができ
る。「この時期の子どもをていねいに見れば、その後、子どもがどんなふうになっていくかにつ
いて、おおよその見当がつく」というのは、そういう意味である。

 が、何よりも大切なことは、この時期をとおして、子どもは、子育てのし方そのものを、親から
学ぶ。子育ては本能でできるようになるのではない。学習によってできるようになる。しかし学
習だけでは足りない。子どもは自分が親に育てられたという経験があって、もっと言えばそうい
う体験が体の中にしみこんでいてはじめて、自分が親になったとき、今度は、自分で子育てが
できるようになる。そういう意味でも、この時期は、心豊かな親の愛情や、心静かで穏やかな家
庭環境を大切にする。またそれにまさる家庭教育はない。
(02−11−7)

●三歳までの家庭環境を、大切にしよう。
●幼児期をすぎたら、性格をいじってはいけない。あるがままを認め、受け入れてしまおう。

++++++++++++++++++++++++++++++++++
この原稿に関連して書いたのが、つぎの原稿です(中日新聞にて発表済み)
++++++++++++++++++++++++++++++++++

教育を通して自分を発見するとき 

●教育を通して自分を知る

 教育のおもしろさ。それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。たとえば、私の家
には二匹の犬がいる。一匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらってきた。これ
をA犬とする。もう一匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。生後二か月くらいしてからも
らってきた。これをB犬とする。

 まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、一二年
にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛想はいいが、
決して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしま
う。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならない。見知らぬ人が庭の中に入
ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、そのまま
寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。おかげで植木
鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその割には、人間には忠
実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入ってこようものなら、けたた
ましく吠える。

●人間も犬も同じ

 ……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったら
よいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。いろいろ誤解を生ずるの
で、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ以後、なかなか変わ
らないということ。A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、親の冷淡を経験した犬。心に
大きなキズを負っている。

一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。一見、愛想は悪いが、人間に心を許すこ
とを知っている。だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。つまり人間を信
頼している。幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬だ。人間
の子どもにも同じようなことが言える。

●施設で育てられた子ども

 たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子どもをい
う。このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られている。感情の
動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつ
きやすい(長畑正道氏)など。が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるということ。相手
にへつらう、相手に合わせて自分の心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、など。一
見、表情は明るく快活だが、そのくせ相手に心を許さない。許さない分だけ、心はさみしい。あ
るいは「いい人」という仮面をかぶり、無理をする。そのため精神的に疲れやすい。

●施設児的な私

実はこの私も、結構、人に愛想がよい。「あなたは商人の子どもだから」とよく言われるが、どう
もそれだけではなさそうだ。相手の心に取り入るのがうまい。相手が喜ぶように、自分をごまか
す。茶化す。そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほうから離れてしまう。

つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。当時は戦後の混乱期で、皆、そうだったと言
えばそうだった。親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もない時代だった。…
…と書いて、ここに教育のおもしろさがある。他人の子どもを分析していくと、自分の姿が見え
てくる。「私」という人間が、いつどうして今のような私になったか、それがわかってくる。私が私
であって、私でない部分だ。私は施設児の問題を考えているとき、それはそのまま私自身の問
題であることに気づいた。

●まず自分に気づく

 読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。家庭崩壊、家庭
不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。しかしそれが問題で
はない。問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかないことだ。
たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回されてしまう。そ
して同じ失敗を繰り返す。それだけではない。同じキズを今度はあなたから、あなたの子どもへ
と伝えてしまう。心のキズというのはそういうもので、世代から世代へと伝播しやすい。

が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。私のばあいも、ゆがんだ
自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロールすることができるように
なった。「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をしているぞ」「仮面をかぶって
いるぞ」「もっと相手に心を許そう」と。そのつどいろいろ考える。つまり子どもを指導しながら、
結局は自分を指導する。そこに教育の本当のおもしろさがある。あなたも一度自分の心の中
を旅してみるとよい。
(02−11−7)

●いつも同じパターンで、同じような失敗を繰り返すというのであれば、勇気を出して、自分の
過去をのぞいてみよう。何かがあるはずである。問題はそういう過去があるということではな
く、そういう過去があることに気づかないまま、それに引き回されることである。またこの問題
は、それに気づくだけでも、問題のほとんどは解決したとみる。あとは時間の問題。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 三つ
子の魂、百まで 3つ子の魂 3つ子の魂、100まで)







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まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし 静岡県 浜松幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒
 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論
家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ. writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武
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動 考える子ども がんこな子ども 緩慢行動 かん黙児 気うつ症の子ども 気負い 帰宅拒否 気難しい子 虐待 キレる子ども 虚言
(ウソ) 恐怖症 子供の金銭感覚 計算力 ゲーム ケチな子ども 行為障害 心を開かない子ども 個性 こづかい 言葉能力、読解力
 子どもの心 子離れ はやし浩司 タイプ別育児論 子供の才能とこだわり 自慰 自意識 自己嫌悪 自殺 自然教育 自尊心 叱り方
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はじめての登園 ADHD・アメリカの資料より 学校拒否症(不登校)・アメリカ医学会の報告(以上 はやし浩司のタイプ別育児論へ)東
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