書庫2
はやし浩司
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●悪人論

 悪人にこわいところは、悪いことを、面白半分にすること。深く考えない。あるいは自ら深く考
えようとしない。考えたら、悪いことはできない。だから面白半分にする。

 だから罪の意識を感じない。たとえば人をだましても、ヘラヘラしている。またヘラヘラするこ
とによって、自責の念から、逃れようとする。

 今、この静岡県でも、おかしな督促状が、届くという事件が頻発している。「あなたの債務の
〜〜が、債権回収機構に回されました」とか、何とか。

 もちろんインチキ督促状だが、こういうことが平気でできる人は、ここでいう悪人である。こうし
た悪人が、ふつうの人と違うのは、ふつうの人プラス、こうした特殊な能力をもっているというこ
と。「特殊な能力」というのは、自分にとって、つごうの悪い事実を、そのつど、別の世界にしま
いこむことができる能力をいう。

 だからこうした悪人は、会ってみると、ふつうの人。ごくふつうの人であって、私やあなたとど
こも違わない。常識もあるし、判断力もある。しかし、その一方で、冒頭に書いたように、面白
半分で、悪いことをする。

 こうした能力(?)は、だれにでもある。

 たとえば人は、自分にとってつごうの悪い思い出や、事実は、無意識のうちにも避けようとす
る。日本語にも、「とぼける」という言葉があるが、それもその一つ。

 つまりそうすることによって、自分の心をできるだけ正常(?)に保とうとする。よくある例が、
加害者と被害者の関係である。

 加害者は、事件をすぐ忘れるが、被害者は、そうではない。たとえば日本人全体をみたとき
も、戦時中、旧日本軍が悪いことをしたと思っている日本人は、あまりいない。(一方、中国の
人や、朝鮮半島の人たちは、いまでも、執拗に旧日本軍の悪業の数々を問題にする。)つまり
これも、ここに書いたような心理の作用による。

 こうした人が本来もつ特性、それが極端になったのが、悪人ということになる。

 こうした悪人は、人をだましたという不快感よりも、それで得た利益のほうを喜ぶ。そしてその
不快感を、記憶の外に追い出すことによって、自分を正当化する。「だまされるヤツが、悪い」
と。

 だから、一度、悪人になると、そういう人を、説教したり、罰しても、意味はない。脳のCPU
(中央演算装置)の問題だから、である。

 大切なことは、そういう悪人をつくらないこと。つまり、そこに教育の意味がある。

 ところでこの善悪の感覚をつかさどるのが、辺縁系の中でも、扁桃体と言われている。よいこ
とをすれば、ここからモルヒネ様の物質が放出され、その人を快感に導くという。そうした積み
重ねが、その人を善人にする。

 が、何かのことで、その部分が変調すると、この善悪の感覚がマヒするようになる。そしてそ
の状態がつづくと、ここでいうような悪人になる? (悪人になるメカニズムは、あまり解明され
ていない。)

 だから、最近、よく道徳が話題になる。知的レベルで、その人を善人にしようとか考えても、あ
まり意味がないということになる。この問題は、もっと「根」が深い。

その人(子ども)を善人にしようと考えたら、日々の生活の中で、その「快感」を味あわせるよう
にする。その実感が、人(子ども)を善人にする。繰りかえすが、もともとこの問題は、頭で考え
て、どうこうなるような問題ではないのである。

 で、かく言う私も、ヘラヘラと笑いながら、悪いことができるようなところがある。そういう部分
がないとは、言わない。もともと私は、邪悪な人間である。つい先日も、アメリカで、列車が襲わ
れ、金塊が盗まれるという事件があった。ああいう事件を見聞きすると、「ほう、なかなか、うま
くやったな」と、思ってしまう。

 しかしかろうじて、そういう悪人と無縁でいられるのは、(本当にかろうじて、だが……)、周辺
にそういう人たちとのつきあいがないこと。生活がそれなりに、安定していること。家族がいるこ
と。それにこうしてものを書きながら、自分自身を、自制していることなどがある。

 もしこれらの要素の一つでも欠けたら、私は、まっしぐらに悪人になるだろうと思う。

 が、悪いばかりではない。そういう邪悪さがあるからこそ、他人の邪悪さを、即座に見抜くこと
ができる。

 よくサブカルチャ(非行などの下位文化)を経験した子どもほど、おとなになってから常識豊か
な子どもになるといわれている。そういう現象かもしれないが、ともかくも、私は、他人の邪悪さ
を、即座に見抜くことができる。

 だからときどき、私のところにも、あやしげな手紙がきたり、電話がかかってきたりする。しか
しそのつど、即座に、相手の邪悪さを見抜いてしまう。だから冒頭に書いたような督促状がきて
も、私は、まずひかからない。

 そう、以前も、大豆商法、金相場商法、ネズミ講などなど。いろいろな悪徳商法が話題になっ
たが、そういったものでも、私はまだ世間で話題になる前から、それを見抜いていた。そういう
ふうには、役立っている。

 そういう邪悪な私が、ゆいいつ罪滅ぼしができることと言えば、そういう力を利用して、善良な
人たちを、善良な世界で、守ることでしかない。恐らく私がもっている邪悪さは、一生、死ぬまで
消えることはないだろう。だからこそ、そういう形で、利用するしかない。

 ついでに、以前書いた原稿を、ここに再掲載する。 

+++++++++++++++++++++++++++

よい子論

 善人も悪人も、大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ入り口が違っただ
け。ほんの少しだけ生きザマが違っただけ。同じように、よい子もそうでない子も、大きな違い
があるようで、それほどない。ほんの少しだけ育て方が違っただけ。そこでよい子論。

 この問題ほど、主観的な問題はない。それを判断する人の人生観、価値観、子育て観など、
すべての個人的な思いが、そこに混入する。さらに親から見た「よい子」、教師から見た「よい
子」、社会から見た「よい子」がすべて違う。またどのレベルで判断するかによっても、変わって
くる。

たとえば息子が同性愛者になったことを悩んでいる親からすれば、女友だとち夜遊びをする女
の子はうらやましく思えるもの。(だからといって、同性愛が悪いというのではない。誤解がない
ように。)それだけではない。どんな子どもにもいろいろな顔があって、よい面もあれば悪い面
もある。こんなことがあった。

K君(小五)というどうしようもないワルがいた。そのため母親は毎月のように学校へ呼び出さ
れていた。小さいころから空手をやっていたこともあり、腕力もあった。で、相談があったので、
私は月に一、二回程度、彼の勉強をみることにした。

で、そうして一年ぐらいがたったある夜のこと、私はK君と母親の三人でたまたま話しあうことに
なった。が、私はK君が悪い子だとはどうしても思えなかった。正義感は強いし、あふれんばか
りの生命力をもっていた。おとなの冗談がじゅうぶん理解できるほど、頭もよかった。

それで私は母親に、「今はたいへんだろうが、K君はやがてすばらしい子どもになるだろうか
ら、がまんしなさい」と話した。で、それから一週間後のこと。私が一人で教室にいると、いつも
より三〇分も早くK君がやってきた。「どうしたんだ?」と聞くと、K君はこう言った。「先生、肩を
もんでやるよ」と。

 よい子かそうでない子かというのは、結局はその子どもの生きザマをいう。もっと言えば、子
ども自身の問題であって、ひょっとしたそれは親の問題ではないし、いわんや教師の問題では
ない。まずいのは、親や教師が「よい子像」を設計し、それにあてはめようとすることだ。そして
その像に従って、子どもを判断することだ。そんな権利は、親にも教師にもない。

要は子ども自身がどう生きるかで決まる。つまりその「生きザマ」が前向きな方向性をもってい
ればよい子であり、そうでなければそうでないということになる。たいへんわかりにくい言い方に
なってしまったが、よい子、悪い子というのも、それと同じくらいわかりにくいということ。もっと言
えば、この世の中によい人も悪い人も存在しないように、よい子も悪い子も存在しないというこ
とになる。

 ……これが私の今の結論であり、しばらくは「よい子」論を考えるのをやめる。それを考えて
も、意味はない。まったくない。

+++++++++++++++++++++

 この原稿の中で、最後のところで、「しばらく考えるのをやめる」と書いた。で、それからほぼ
一年になる。

 で、この原稿を改めて読んでみて、今、こんなふうに考える。

 今朝(一〇月一日)の朝刊を見ると、何でもC県の住宅供給公社が、土地を相場よりも、七〇
億円近い高額で買い取っていたという。読売新聞は、つぎのように伝える。

「70億円も高く購入…千葉県住宅公社用地買収疑惑

 実質的な債務超過状態に陥っている千葉県住宅供給公社が、1995年から98年にかけて
同県市原市の山林を購入した際、複数の不動産鑑定のうち、倍以上も高額の鑑定結果を採
用していたことが30日、判明した」と。

「相場の、二倍」だったという。常識で考えれば、その陰で、何かの裏取り引きがあったとみる
べき。

 これからこの事件は、詳しく調査されるのだろうが、本物の悪人というのは、そういうこをする
悪人をいう。

 日ごろは何食わぬ顔で、それなりの地位と立場にいて、それなりに善人ぶっている。そして一
方で、税金を食いものにして、好き勝手なことをしている。

 ……とまで考えたところで、急速に疲れを感じた。本当のところ、こういう問題を考えるのは、
疲れる。どうにもならないという無力感もある。だから、この話は、ここまで。

 私のようなものが、いくら叫んでも、どうにもならない。どうにか、なる問題でもない。だから、
この話は、ここまで。
(031001)




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●少子化問題

 少子化が予想外の速さで、進んでいる。

 もう二五年も前から、まず産婦人科が打撃を受けた。
 もう一五年も前から、小児科が打撃を受けた。
 同じころ、私立の幼稚園や保育園が打撃を受けた。
 今は、私立の高校や大学が打撃を受けつつある。

 そこで、たとえば幼稚園や保育園は、あの手、この手を使って、園児集めに必死になってい
る。園児あっての、「園」である。

 それはそれだが、そのため、不況も重なって、園児募集が、ますます低年齢化している。私
がこの世界に入った、三〇年前には、私立の幼稚園でも、二年保育が主流で、何割かは、一
年保育だった。幼稚園へ行かない子どもも、浜松市内で、五%はいた。当時、私が調査した。

 しかし今では、三年保育が主流になりつつある。そして四年保育……!

 共働きがふえるにつれて、幼稚園と、保育園の、熾烈(しれつ)な戦いが始まった。幼稚園
は、保育時間の園長を求めた。当時、幼稚園は、午後二時まで。保育園は四時〜まで、保育
ができた。当然、園児は、保育園に流れる。

 で、今は、どうなったか?

 幼稚園でも、午後五時まで、子どもを預かるようになった。つまりここで幼稚園の保育園化が
始まった。

 一方、保育園は、「保育」から、「教育」へと、幼稚園化を進めた。運動会をしたり、遊戯回を
したり。今では、どこの保育園でも、学習教材をとりそろえ、「教育?」を目ざしている。

 こういう流れの中で、当然、親と子の接触時間が、激減した。保育時間が長くなった分だけ、
接触時間が短くなった。

 そこで問題が起きるようになった。

 乳幼児期は、母子関係が、とくに重要。どう重要かは、いまさら説明するまでもない。この時
期を通して、子どもは人格の「格」のみならず、心の基本をつくる。人間として基盤をつくる。

 簡単なことだが、授乳を、ほんの少しこばんだだけで、子どもの心には、大きなキズがつくと
いうこともわかっている※。つまり、子どもの心は、きわめてデリケートだということ。

 とくに、WHOも勧告しているように、満二歳までは、母親が子どもを育てる。それは子育ての
基本。保育園へ預けるにしても、この基本は、変わらない。

 で、そのあとは、徐々に、親子の関係を薄めていくが、しかし満二歳を過ぎたから、母親が必
要ないというのは、まちがい。今度は、子どもの様子を見て、判断する。

 子どもによっては、満四歳になっても、五歳になっても、母親の濃厚な愛情を必要とするケー
スもある。「よその子はだいじょうぶだから……」という、乱暴な考え方はしてはいけない。絶対
に、してはいけない。

 保育園へ預けるにしても、幼稚園へ入れるにしても、子どもの心の変化を、ていねいに観察
する。

 神経症による症状が出るようであれば、それを黄信号ととらえる。放置すれば、情緒不安か
ら、情緒障害。さらには精神障害へと、発展する危険性がある。年齢が低いほど、子どもに与
えるショックは、大きい。

 たとえばこの時期、母親がほんの数日、入院などで家をあけただけで、分離不安(錯乱性を
ともなった被害妄想)をもつようになる子どもは、いくらでもいる。

 が、だからといって、子どもを包む家庭環境を、変えることはできない。そういうときは、最低
でも、つぎのことを守る。

(1)暖かい無視
(2)ほどよい親
(3)求めてきたら、拒(こば)まない。

 「暖かい無視」というのは、暖かく子どもを愛情で包みながら、無視するという意味。幼稚園に
せよ、保育園にせよ、集団教育の場で、子どもが心身をすり減らして帰ってきたら、こまごまと
したことは言わない。できるだけ子どもが、ひとり、ぼんやりとできる時間と場所を用意してや
る。

 「ほどよい親」というのは、やりすぎない。しかしほどよく手をかけるという意味。この手綱(た
づな)さばきが、親の腕の見せどころということになる。過関心、溺愛、過保護、過干渉がよくな
いことは言うまでもない。

 「求めてきたら、拒まない」は、子どもへの愛情の、大原則。親側からベタベタするのは、避け
る。しかし子ども側から求めてきたら、こまめに、ていねいに応じてやる。その安心感が、子ど
もの心の緊張感をほぐす。

 集団教育は、この日本では、避けては通れない。さらに、共働き、さらにはそのため、幼稚
園、保育園の低年齢化も、避けては通れない。で、そういうときは、ここにあげた三原則を守
り、子どもに与える心的被害を、最小限におさえる。

 本来なら、四歳ぐらいまでは、家庭教育を「柱」とし、週に二、三日。しかも午前中だけという
ような通園方法を繰りかえしながら、少しずつ、子どもの心と体を集団教育になじませていくの
が望ましい。五歳になったら、毎日。さらに六歳になったら、フルタイム……というように。

 それともこの三〇年間で、子どもたちは、またまた進化(?)したとでも、いうのだろうか?
(031002)

※……R・W・ホワイトという学者は、これを「コンピテンス」という言葉を使って説明した。その
つど、親が子どもの要求にていねいにこたえてあげることによって、子どもの中に「自己効力
感」が育つ。この自己効力感が、子どもの主体性を育て、そこから子どもの積極性が生まれ
る。この自己効力感が弱くなると、主体性の確立が遅れ、ナヨナヨとしたハキのない子どもにな
る。




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●子どもの神経疲れ

 マガジンで少し前、子どもの神経疲れについて書いた。それについて、ある読者の方より、質
問をもらった。

 つぎは、その内容を、要約したもの。

++++++++++++++
 
'神経疲れ,のところが気になったのですが、我が家の中一の長男も時々'疲れた,を口にしま
す。

彼は、自分が気に入っていること以外やる気が薄く、勉強もできないわけではないのに嫌いが
先にたち、どの教科もつまらないと言います。

また、子どもには楽しいはずの運動会や、クラスで力を合わせて取り組むようなものなどもつま
らない、面倒くさいなどと言います。

そして、学校から帰ると'疲れた,と言うのです。

小さい頃から喘息があり、精神的な事やいやな事が発作を引き起こすことも多々あり、小二の
とき、二週間だけですが身体的には症状はないのに、本人がどうしてもぜいぜいして苦しいと
言うので環境を変えるために、病院から学校に通ったこともありました。

その後はだんだんよくなり、薬も飲まなくても良いほどになったのですが、中学に入学しまして'
疲れたを言うようになった最近、発作が出始めています。

これは注意すべきレベルでしょうか? またそうであればどんなふうに対処したらよろしいので
しょうか? (北海道・UKより)

+++++++++++++++

●神経疲れ

 神経疲れも、肉体疲労と同じように、前向きに行動しているときは、それなりに処理できる。
自ら進んで、やる気を出して行動すれば、疲れるということが、むしろここちよい快感となる。脳
の辺縁系の中でも、帯状回が、それをつかさどっているとされる。

 しかし服従を強いられ、無理、強制が加わると、そこで自己意識との葛藤(かっとう)が始ま
る。(したくない)という本来の意思と、(しなければならない)という自己意識が、衝突する。

 これが心理的ストレストなり、神経疲れを、加速させる。

 症状としては、

 不安症状(理由もなく、不安に思ったり、ささいなことを気にして、不安になる)や、抑うつ感
(ふさんぎこんで、ため息をはく。元気がなく、同じことをクヨクヨと悩む)、ぐずる(理由を聞いて
もはっきりしない。行動が緩慢になる)、突発的な興奮性(ささになことで、カッとなって、キレ
る)、恐怖症(何でもないことにビクビクする。特定のことに、恐怖感をもつ)、強迫症状(周囲の
ものには、理解できないことで、おののいたり、こわがったいるする)などがある。

 この神経疲れがこわいのは、多くのばあい、神経症を併発し、それがこじれると、情緒不安、
情緒障害、精神不安、精神障害へと、進行していくことである。学校恐怖症(不登校)の、第一
期の症状(前兆症状)として現れることもある。

 ほとんどの親は、神経症による症状が現れてから、子どもの神経疲れに気づくことが多い。

 神経症による症状としては、つぎのようなものがある。

子どもの神経症は、精神面、身体面、行動面の三つの分野に分けて考える。

@精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状
(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、不安症状(理由もなく悩
む)、抑うつ感(ふさぎ込む)など。混乱してわけのわからないことを言ってグズグズしたり、反
対に大声をあげて、突発的に叫んだり、暴れたりすることもある。

A身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、
頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発
熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面で
の神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号とと
らえて警戒する。

B行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面
に表れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無
関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。パンツ一枚で出
歩くなど、生活習慣がだらしなくなることもある。

 相談のケースの、「ぜん息」も、神経症の症状のひとつに考えられている。(ただし、ぜん息
が、すべて神経症によるものではない。)

+++++++++++++++++

●UKさんのケースより……

 UKさんのケースでは、いくつか気になる点がある。

「勉強もできないわけではないのに嫌いが先にたち、どの教科もつまらないと言います」「また、
子どもには楽しいはずの運動会や、クラスで力を合わせて取り組むようなものなどもつまらな
い、面倒くさいなどと言います」と。

 どこか親のほうで、子どもの心を決めてかかっているような点が見られる。とくに「楽しいはず
の運動会」というところ。

 集団行動が苦手な子どもは、約三〇%(推定)はいる。このタイプの子どもには、運動会や遠
足は、苦痛以外の、何ものでもない。「楽しいはずの……」と決めてかかることは、たいへん危
険なことである。

 世間が狭い親ほど(失礼!)、自分の考え方や、価値観を、子どもに押しつけようとする。そ
の無理が、子どもの心を閉ざす。そのため、親のほうが、子どもの心を見失う。

 さらにこういうケースで心配なのは、親は、その状態を、「最悪」と思い、そこを原点として、
「なおそう」と考える。しかし対処のし方をまちがえると、子どもは、さらに二番底、三番底へと落
ちていく。UKさんのケースでは、このまま不登校児になることも、じゅうぶん考えられる。

●対処のし方 

 以前書いた原稿(リヨン社、「子育てストレスが、子どもをつぶす」)から、記事を抜粋する。

……子どもが小学生になったら、家庭は、「体を休め、疲れた心をいやす、いこいの場」でなけ
ればならない。

アメリカの随筆家のソロー(一八一七〜六二)も、『ビロードのクッションの上より、カボチャの
頭』と書いている。

人というのは、高価なビロードのクッションの上に座るよりも、カボチャの頭の上に座ったほう
が気が休まるという意味だが、多くの母親にはそれがわからない。

わからないまま、家庭を「しつけの場」と位置づける。学校という「しごきの場」で、いいかげん疲
れてきた子どもに対して、家の中でも「勉強しなさい」と子どもを追いまくる。「宿題は終わった
の」「テストは何点だったの」「こんなことでは、いい高校へ入れない」と。これでは子どもの心は
休まらない。

 子どもの情緒が不安定になったら、スキンシップをより濃厚にし、温かい語りかけを大切にす
る。叱ったり、冷たく突き放すのは、かえって情緒を不安定にする。一番よい方法は、子どもが
ひとりで誰にも干渉されず、のんびりとくつろげるような時間と場所をもてるようにすること。親
があれこれ気をつかうのは、かえって逆効果。

 ほかにカルシウムやマグネシウム分の多い食生活に心がける。とくにカルシウムは天然の
精神安定剤と呼ばれている。戦前までは、日本では精神安定剤として使われていた。錠剤で
与えるという方法もあるが、牛乳や煮干など、食品として与えるほうがよいことは言うまでもな
い。

なお情緒というのは一度不安定になると、その症状は数か月から数年単位で推移する。親が
あせって何とかしようと思えば思うほど、ふつう子どもの情緒は不安定になる。また一度不安
定になった心は、そんなに簡単にはなおらない。今の状態をより悪くしないことだけを考えなが
ら、子どものリズムに合わせた生活に心がける……。

++++++++++++++++++

●UKさんへ

 メール、ありがとうございました。

 「嫌い」「めんどくさい」「疲れた」という言葉をよく口にするようであれば、気うつ症を疑ってみ
ます。(ふつうは、気うつ症を疑います。症状がこじれれば、うつ病へと進行します。引きこも
り、家庭内暴力へと進行することも、あります。)

 慢性的な抑うつ感が、子どもの心を、むずばみ始めているとみます。(ただし、口ぐせで、そう
言いながら、ストレスを発散させるケースもあるので、必ずしも、子どもの口グセを、真に受け
る必要はありません。)

 それにあわせて、身体的な症状、たとえば、吐く息が臭い、腹痛、頭痛を訴える。動作が緩
慢に(のろく)なるなどが、あれば、かなり警戒したほうがよいかもしれません。

 方法としては、@暖かい無視、Aほどよい親をこころがけることです。(先に書いた、対処法
を参考にしてください。)

 いただいた文面だけでそう判断するのは、危険なことですが、やや過干渉的な子育てになっ
ていないかも、反省してみてください。「〜〜のハズ」とういう、「ハズ論」で、子どもの心を決め
てかかってはいけません。

 ぜん息がすべて、神経症によるものとは言えませんが、神経症によるぜん息は、決して珍しく
ありません。(熱を出したから肺炎ということにはなりません。しかし肺炎になると熱が出ます。
それと同じように考えてください。)

 ご質問の「これは注意すべきレベルでしょうか?」ということについては、私は「YES!」だと
考えます。じゅうぶん警戒して、思い切って、手綱(たづな)を緩めることを考えてみてください。
学習面、進学面で、子どもの過負担になっているようなら、まず親のほうが、思い切って、「あ
きらめ」ます。

 そしてつぎに、「あなたは、よくがんばっている」「よくがんばったね」と、ねぎらいの言葉をかけ
てみてあげてください。先に書いたように、励まし、脅しは、タブーです。

 当然のことながら、ぜん息という症状そのものについては、ドクターの指示に従ってください。

 以上です。また何かほかに症状があれば、ご連絡ください。
(031003)



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●幼稚園と保育園

 幼稚園と保育園の、園児獲得競争が、激化している。幼稚園は、原則として、満三歳から。
保育園は、〇歳から。少し前まで、幼稚園は、一日四時間、保育園は、一日八時間。不況の
時代になって、園児が幼稚園から、保育園に流れた。

 東京都のばあいだが、私立幼稚園数は、1991年の、672園から、1999年の、612園へ
と減少している。(これに対して、公立保育所は、782か所から、781か所へと、減少数は、1
に過ぎない。)

 そこで幼稚園の保育所化。保育所の幼稚園化が、一挙に加速した。

 幼稚園での、夕方五時前後までの「預かり保育」が一般化し、一方、たとえば保育所を運営
する社会福祉法人も、幼稚園を設置できるようになってきた。従って今では、幼稚園でも、保育
所でも、保育士と幼稚園教諭の両方の資格をもつ人材が、求められるようになってきている。

 以前は、文部省が管轄する幼稚園は、「学校教育法77条による教育」。一方、厚生省が管
轄する保育所は、「児童福祉法39条による、保育に欠ける児童のための保育」という、区分が
なされていた。

 しかし近年、保育園の「教育化」は、急速に進んでいる。保育園でも、学習教材を用いて、文
字、数の学習をしている。年間行事(運動会や遊戯会)についても、幼稚園と何ら変わりないこ
とを実施しているところも、多い。

 原則として、三歳以下は、保育所保育指針を基本にし、四、五歳は、幼稚園教育要領を指針
にしているが、実際には、共通プログラムにするなどの工夫も、全体的になされている。

 そこで幼保一元化という考え方が生まれた。

 現実には、幼稚園と保育園を併設している園。施設を一元化し、年齢別に区分している園
(三歳までを保育所預かり。三歳から幼稚園)などがある。あるいは年長組になると、短時間組
と、長時間組に分けているところもある。

 こうした流れの底流にあるのが、少子化の問題である。

 とくに幼稚園児についていうと、1980年の241万人から、1999年の178万人へと、20年
間で、63万人も減少している。そのため先に書いたように、廃園に追いこまれる幼稚園も少な
くない。

●激化する園児獲得競争

 当然のことながら、私立の保育所、私立の幼稚園。さらには幼稚園と保育所との間の、生徒
獲得競争が激化している。(ただし公立保育所については、その一方で、待機児童数の増加
がみられる。)

 園長自らの、家庭訪問は、すでに二〇年前から恒常化している。さらに一一月期を前に、教
師による家庭訪問は、常識化している。

 夏祭り、遠足、遊戯会を利用しての、入園予定の児童の獲得も、恒例化している。親たち
に、案内書を渡したりしている。もちろん幼稚園独自のカラーを鮮明にすることもある。

 知育教育に力を注ぐ。英会話、算数教育に力を注ぐなど。内容は、千差万別で、中には、幼
稚園児に掛け算の九九を教えているところもある。

●疲労する教師たち

 少子化は、同時に、親の過関心、過保護、過干渉を引き起こす。そのため、そのしわ寄せ
が、子どもを預かる教師に集中する。

 そのため、対親との関係において、心を病む教師がふえている。どこの公立幼稚園にも、一
人や二人、精神科へ通っている教師がいる。長期休暇をとっている教師も少なくない。

 幼稚園、保育所については、具体的なデータはないが、学校については、つぎのようなデータ
がある。

 東京都の調べによると、東京都に在籍する約六万人の教職員のうち、新規に病気休職した
人は、九三年度から四年間は毎年二一〇人から二二〇人程度で推移していたが、九七年度
は、二六一人。さらに九八年度は三五五人にふえていることがわかった(東京都教育委員会
調べ・九九年)。

この病気休職者のうち、精神系疾患者は。九三年度から増加傾向にあることがわかり、九六
年度に一時減ったものの、九七年度は急増し、一三五人になったという。この数字は全休職
者の約五二%にあたる。(全国データでは、九七年度は休職者が四一七一人で、精神系疾患
者は、一六一九人。)

さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、うつ病、うつ状態が約半数をしめていたとい
う。原因としては、「同僚や生徒、その保護者などの対人関係のストレスによるものが大きい」
(東京都教育委員会)ということである。

●少子化の問題

 保育所、幼稚園に関して、少子化の問題は、つぎの二つに分けて考えるのが、望ましい。

1)保育園、幼稚園の経営に与える問題
2)親の意識の変化から受ける、育児全体の問題

 混同して考えると、何がなんだか、わけがわからなくなるのでは……?
(031005)




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●記憶のメカニズム

 人間の記憶は、認知記憶(読んだり聞いたりしたことを、頭の中にたくわえる)と、手続記憶
(練習して、意識しなくても、ピアノが自然にひけるようになる)の二つに大きく分けられる。

 さらにその内容によって、短期記憶(一時的に記憶する)と、長期記憶(遠い昔のことを記憶
する)に分類される。

 このうち、短期の、認知記憶は、脳の中の辺縁系にある、海馬(かいば)という組織が深く関
係していることがわかっている。この海馬を損傷したり、手術によって切除されたりすると、短
期の、認知記憶ができなくなることもわかっている。

 (一方、手続き記憶は、海馬とは関係なく。小脳を中心とした神経回路で形成されると考えら
れている。)

 が、海馬だけで、認知記憶をするわけではない。現在では、人間の記憶は、大脳連合野全
体で、蓄えられると考えられている。が、ここで一つの問題にぶつかる。

●記憶の想起

 記憶というのは、(記銘)→(保持)→(想起)という手続きを経て、蓄(たくわ)えられ、必要に
応じて、外に取り出される。

 いくら頭の中に記憶されていても、また保持されていても、(想起)というメカニズムがうまく働
かないと、「忘れてしまう」という現象となって現れる。

 その(想起)をつかさどっているのが、どうやら「海馬」であることも、最近の研究でわかってき
た。健常者を使った事件では、その人にあれこれ思い出させようとすると、海馬が、選択的に
活発になることがわかっている。最近では、リアルタイムに、こうした脳の働きは、PET画像を
使ってそれを知ることができる。

 が、何らかの原因で、この海馬の働きが、損傷を受けると、(想起)そのものが、できなくな
る。脳のどこかに記録はされていても、それをうまく取り出せないという状態になる。手術など
によって切除されたとか、脳に打撲などの衝撃を与えたようなときである。一時的に血流がと
だえたようなときにも、そうなるとされる。

●脳のメカニズムには、個人差がある。

 長野県のGHさんには、折り返し、この点について、質問してみた。「脳に障害が残るような事
故、事件はなかったか?」「乳幼児期に、一時的に、気を失うような事故はなかったか?」と。

 それに対して、「まったくない」とのこと。

 そうなると、つまり脳に機質的な問題がないとすると、今度は、メカニズム的な問題を疑って
みる必要がある。子どものばあい、脳の中で、情報の受け渡しが、うまくできないと、GHさんの
子どものような症状が現れることがある。

 しかしこの先のことは、大脳生理学の分野でも、まだ未開拓な部分であり、「どうしてそういう
現象が起きるのか」、また「どうすれば、そういう現象を回避できるのか」については、まだよく
わかっていない。(これは私の不勉強によるものかもしれないが……。)

 しかし長年、子どもたちと接してきた結果として、つぎのようなことは言える。つまり脳のメカニ
ズムは、決して、一様ではないということ。個人差が大きいということ。さらにこうした個人差
は、脳のメカニズムに起因しているため、指導でどうにかなる問題ではないということ。

 いろいろな例で考えてみる。

【T君、小三の例】

 彼は、ズケズケとものを言う。相手が、そういう言葉で、どのようにキズつくかについては、ま
ったく無関心。無頓着(むとんちゃく)。

 先日も、何かのことで失敗した子どもがいた。それを見て、T君は、「お前、バカだなあ。こん
なこともできないのか。メダカ学級(養護学級)へ行けよ!」と。

 言われた子どもは、学力がかなり劣る子どもだった。私はその言葉に驚いて、かなりはげしく
叱った。しかしT君は、何かにつけて、そういうタイプの子どもである。

 自分のことしか考えず。まわりの者の気持を、ほとんど考えない。視野が狭いというか、気が
回らないというか。そんな感じである。

【私の例】

 この話とは、直接関係ないが、講演(授業)などをしていると、同時に、二つの脳が働くのを感
ずる。

 一つは、話している内容を考えている脳。もう一つは、その上から、自分を客観的に見なが
ら、「あと二〇分だぞ……」「あと一〇分だぞ……」と、自分をコントロールしている脳である。

 こうした現象は、日常的にも経験する。

 たとえば母親から相談を受けていると、話の内容について考えている脳と、「どこまで話そう
か」「どこまで話していいのか」と、自分をコントロールしている脳があることがわかる。

 このとき、もし自分をコントロールする脳が、疲労などによって乱れると、講演などでは、自分
でも、何を話しているか、わからなくなってしまうときがある。(こうし文章を書いているときも、似
たような現象を経験する。)

●自己意識

 自分で自分をコントロールする意識のことを、自己意識という。自意識という人もいる。

 この自己意識が発達してくると、自分で自分を客観的に見ることができるようになる。「こんな
ことをすれば、みなに、笑われるぞ」「こんなことをすれば、先生に叱られるぞ」「こんなことをす
れば、みなに嫌われるぞ」と。

 この自己意識は、だいたい小学三、四年をさかいに、急速に発達し始める。それ以前の子ど
もには、自己意識そのものがない。だからそれ以前の子どもに、「こんなことをすれば、みんな
に笑われるのよ」式の説教をしても、意味がない。

 このGHさんの子どもの例をとると、「忘れ物をすれば、あなたは困るの」式の説教をしても、
意味がないということになる。自分がどういう状況にあり、どう状況に追いこまれるのか、それ
を認識できないからである。

 親(おとな)というのは、どうしても、自分を基準にして、ものを考える。そしてその基準を、子
どもに、あてはめようとする。

 この自己意識についても、そうで、「自分がそうであるから」という理由だけで、子どもに。そ
れを求めたりする。しかしこれは誤解というよりも、無理をすれば、かえって子どもを、より悪い
方向に追いやってしまうことにもなりかねない。

【GHさんへ】

 メール、ありがとうございました。

 いただきましたメールを読むかぎり、この問題は、子ども自身の自己意識では、どうにもなら
ない問題かと思われます。自分に、「忘れ物をした」という意識そのものがないのです。

 メカニズム的には、本文の中にも書いたように、脳の中で、情報の受け渡しが、何らかの理
由で、うまくできないことが考えられます。記憶のメカニズムは複雑で、そのため、(想起)とな
ると、さらに複雑なメカニズムが働きます。そのとき、情報の受け渡しがうまくできないと、ご相
談のような症状が起きるものと思われます。

 つまり、子ども自身の意識では、どうにもならないということです。もちろん、GHさんが、叱っ
たり、説教したりしても、意味がないということです。

 それはたとえて言うなら、ADHD児(多動児)に向って、「静かに視なさい!」と言うようなもの
です。本人自身は、自分では、騒々しいと思っていないのです。

 そこで登場するのが、自己意識です。

 こうした問題では、いかにして、その自己意識を引き出すかが、大切なポイントとなります。つ
まり自分で、自分を客観的に見て、コントロールしようとする意識のことです。

 年齢的には、GHさんのお子さんは、それができるようになる、ちょうどその時期にさしかかっ
ていることになります。つまりこれからだ、ということです。

 逆に言うと、そのため、子どもの問題点が、かえって目立つということにもなります。そして目
立った分だけ、「どうして?」となるわけです。

 こうしたケースでは、つぎのような点に注意すると、よいでしょう。

(1)言うべきことは言いながら、あとは、時を待つ。
(2)「うちの子は、そういう子だ」と、あきらめて、それに合わせた対処をする。
(3)症状を今、以上に、こじらせない。
(4)周囲に迷惑をかけるようであれば、子どもを叱るのではなく、あなたがガードとして、子ども
をカバーする。

 とくに重要なのが、(3)です。この問題は、親が性急になおそとすると、かえって症状がこじれ
てしまい、そのため、その分だけ、立ちなおりが、遅れてしまいます。

 最後に気になる点がいくつかありますので、それについて、書いておきます。

 ひとつは、GHさんが、どうも「家庭(ホーム)」というものを、誤解をなさっているのではないか
ということ。小学三、四年生にもなると、「家庭は、心と体を休める場所」として機能することにな
ります。またそうでなければなりません。

 メールによれば、「トイレの電気を消すことができない」「寝そべってマンガを読んでいる」「風
呂のドアが閉められない」などなど。

 GHさん自身の、過関心が目立ちます。言うべきことは言いながらも、もう少し、手綱(たづな)
をゆるめてみてはどうでしょうか。つまり、GHさん自身が、不安のウズの中で、心配過剰になっ
ている? 「将来、受験票を忘れるのではないか?」と心配なさっておられるのも、その一つで
す。

 やがて子ども自身が、自分の欠点に気づき、自らカバーしながら生きていくようになります。
そういう子どもを信じながら、ここは一歩引きさがってみては、どうでしょうか。つまり子離れの
準備を始めます。

 メールによれば、自ら学級委員に立候補したりする、など、すばらしい面も見られます。何で
も悪いほうに考えないで、「やってごらん。お母さんも応援するから」くらいのことを言ってあげた
らどうでしょうか。

 実のところ、私の二男も、忘れ物のひどい子どもでした。原因は、一歳前後に、歩行器で土
間に落ち、脳を損傷したからではないかと思っています。

 そのため私も、ワイフも、苦労しました。いちいちメモを渡したり、子どもにつけさせたりするな
ど。しかし中学生になるころからは、自分でも、そういう欠陥に気づくようになり、サイフにはヒモ
をつけたりするようになりました。

 で、今は、その二男も、一児のパパです。誠司という孫の父親になりました。

 みんなそれぞれ、何かの問題をかかえておとなになっていきます。問題のない子どもはいな
いし、そのため、問題のない子育てもないのです。またそういう問題があるから、その人を、よ
り大きくします。

 決して完ぺき主義にならないこと、ですね。

 では、また。はやし浩司
(031008)



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●自己犠牲

●子育ては、重労働

 子育てがいかに重労働かは、世の母親なら、みな、知っている。子どもが乳幼児のときは、と
くに、そう。それから生ずる、負担感は、相当なもの。
 
 そこで考える。どうして人間の子育ては、それほどまでに、たいへんなのか、と。ほかの動物
たちの子育ては、もっと楽? 魚の子どもは、卵からかえったとたん、自分でエサを食べ始め
る。犬や、ネコは、数週間から、数か月で、自立する。馬などは、生まれたその日に、立って歩
く。

 しかし人間だけは、最低でも数年。考えようによっては、二〇年以上。

 人間だけが、どこか不自然。子育ての負担が、あまりにも大き過ぎる。つまりその不自然な
部分が、子育てをする母親に、そのまま、のしかかってくる。

 しかし親は、子育てを放棄することはできない。しかも一瞬たりとも、息が抜けない。乳幼児
のばあい、一日だって、母親の世話がなければ、生きることすらできない。

 そこで親は、子育てをする。で、そのときのこと。

●同じ重労働でも……

 望んだ結婚で、望んだ子どもであれば、親は、重い負担を感じながらも、それを前向きに乗り
越えることができる。

 しかし心のどこかに、何かのわだかまりがあると、その重い負担を乗り越えることができな
い。子育てそのものが、苦痛になる。

 実際、約七〇%の若い母親たちが、子育てを苦痛に感じている。また全体の約一〇%の若
い母親は、子どもを愛することができないと、悩んでいる(私の調査より)。

 こうした母親たちは、当然のことながら、自分を犠牲にしながら、子育てをする。そう、ここで
「犠牲」という言葉が生まれる。

 前向きに子育てをしている人は、子育てを、ごく日常的な行為の一つとして、受け入れてしま
う。「子育てをするのが当然」と考えるまでもない。当然とか、当然でないとか、そういうことす
ら、考えない。

 一方、自分を犠牲にして子育てをしている母親は、子育てをしながら、そういう自分と戦わね
ばならない。それはたとえて言うなら、求めてする仕事と、命令されてする仕事の違いのような
ものかもしれない。

 同じ仕事でも、進んでやるときと、イヤイヤやるときとでは、まったく気分が違う。それと同じこ
とが、子育てでも、そのまま起きる。子育てが、どこかうしろ向きになると、親にのしかかる負担
が、何倍も、大きくなる。

●犠牲心

 で、このタイプの母親は、子育てをしながら、「自分が犠牲になっている」という感じから、抜け
出られなくなる。そのため、いつも、子どもに向かっては、「してあげている」という意識をもつよ
うになる。

 印象に残っている女性に、Yさん(六〇歳くらい、当時)がいた。

 もともとYさんは、不本意な結婚をしていた。昔は、親どうしが結婚話を進めるということも珍し
くなかった。Yさんの結婚も、そうして決められた。

 もちろんそれが原因というわけではない。しかし今の若い人たちのように、恋愛し、交際し、
その結果として、結婚したというわけではなかった。そのYさんは、私に会うたびに、こう言っ
た。

 「林さん、息子なんて、育てるもんじゃ、ないですよね。薄情なもんです。あれほどかわいがっ
て、手塩にかけて育ててやったのに、横浜の嫁に取られてしまいました。親なんて、さみしいも
んですわね。大学まで出してやったのに、このザマですわ。私はね、息子が結婚した夜、悔しく
て悔しくて、一睡もできませんでしたわ。林さんもね、息子さんがいるそうですが、どうせ息子な
んてものはね、親を捨てて出ていきますよ。今から、覚悟しておいたほうがいいですよ」と。

 Yさんは、「取られた」という。「薄情だ」という。「親を捨てた」という。

 問題は、なぜ、そういう感情が、生まれるかということ。

 これについては、たびたび書いてきたので、ここでは、話を、もう一歩進めてみたい。

●自分を納得させるための苦労

 おそらくYさんにしてみれば、子育ては、苦労の連続ではなかったかということ。しかしその苦
労というのは、子育てそのものにまつわる苦労ではなく、自分自身の気持ちを納得させるため
の苦労ではなかったかということ。

 不本意な結婚だった。だから不本意な妊娠、出産だった。そのため、子どもはもちろん、子
育てそのものも、いつも、苦痛の連続だった? Yさんはよく、「苦労した」「苦労した」と言った
が、その苦労というのは、自分自身の中の苦痛と戦うための苦労だったとも考えられる。

 前向きに子育てをしている人には、自分が犠牲になっているという意識すら、ない。そういうこ
とすら、考えない。しかしYさんのように、うしろ向きになっている人は、いつも自分が、犠牲にな
っていると感ずる。

●独特の考え方

 このタイプの人は、独得の考え方をするようになる。たとえば子どもに向かっては、「産んでや
った」「育ててやった」「大学まで、出してやった」と言う。つまり子どもに対して、いつも恩着せが
ましくなる。

 ことさら親孝行を息子や娘に強要したり、またそういう面でしか、息子や娘を評価しなくなる。
子育てそのものが、功利的で、打算的になることもある。ある父親は、ことあるごとに息子にこ
う言っていた。「大学を出すために、オレは、お前に、三〇〇〇万円も使ったからな」と。

 そこで私は、こう考えるようになった。「親が子どものために犠牲になるのは、決して美徳では
ない」と。もう一歩進めると、こうなる。「親孝行は、決して美徳ではない」と。

 親は、子どもを育てる。しかしそれは、当然のことではないか。子どもを産んだ以上、それは
親の責任である。その当然のことをしながら、「産んでやった」「育ててやった」は、ない。いわん
や、そのことで、子どもに恩を着せてはいけない。

 一方、親孝行するかしないかは、あくまでも、子どもの問題。親がそれを求めるのも、期待す
るのも、まちがっている。この日本では、親孝行を、ことさら美化する風潮が、いまだに根強く
残っている。「孝行論」を、教育の「柱」に置いている人もいる。

●どうせするなら……

 親子といえども、たがいの間は、純然たる人間関係で決まる。親が子どものために犠牲にな
ったり、子どもが親のために犠牲になったりするのは、美徳でも何でもない。本来、親子関係で
は、(犠牲)という意識すらないのが、ふつう。「犠牲になっている」と感ずること自体、その時点
で、親子関係がすでにおかしくなっていることを示す。

 子育ては、決して楽ではない。まさに苦労の連続。それは冒頭に、書いた。しかしその子育て
を、前向きにするか、あるいはうしろ向きにするかで、その苦労も、軽くなったり、重くなったり
する。

 そこでもし今、あなたが子育てをしていて、どこか重荷に感ずるようなら、まず、自分の中に
潜む、わだかまりをさぐってみる。

 それは勇気のいることでもある。しかしこの問題は、そのわだかまりがわかるだけでも、大半
が解決したとみる。そのあと少し時間がかかるが、その時間が、問題を解決してくれる。

 まずいのは、そのわだかまりに気づかず、いつまでも同じ失敗を繰りかえすこと。ほかの問
題なら、いざ知らず。しかしこの問題だけは、子どもの心に大きな影響を与える。それを避ける
ためにも、まず自分の心の中をさぐる。

●子育ては、自分のため

子育ては、子どものためにするのではない。どこまでいっても、あなたのためにする。あなたが
望んだから、あなたは、妊娠した。あなたが望んだから、あなたは子どもを産んだ。あなたが望
んだから、あなたは子育てを始めた。

 その子育ては、あなたに、うるおい豊かな思い出と、人生のすばらしさを与える。親が子ども
を育てるのではない。子どもが、あなたという人間を育てる。

 いつかあなたの子どもも、あなたから巣立っていく。それはあらゆる動物がもつ、宿命であ
る。しかしそのとき、あなたがここでいうような姿勢を貫くなら、あなたは、きっとこう言うに違い
ない。

 「ありがとう。あなたのおかげで、私は人生を楽しく過ごすことができた」と。

 あの藤子F不二雄の『ドラえもん』にこんなシーンがある(一八巻)。

タンポポの種が、タンポポの母親に、「(空を飛ぶのは)やだあ。やだあ」とごねる。それを母親
は懸命に説得する。しかし一度子どもが飛び立てば、それは永遠の別れを意味する。タンポポ
の種が、どこでどのような花を咲かせるか、それはもう母親の知るところではない。

しかし母親はこう言って、子どもを送り出す。「勇気をださなきゃ、だめ! みんなにできること
がどうしてできないの」と。

 それについて書いた原稿(中日新聞掲載済み)が、つぎである。内容が少しダブるが、許して
ほしい。

+++++++++++++++++

親離れ、子離れ

 子どもは小学三、四年を境に、急速に親離れを始める。しかし親はそれに気づかない。気づ
かないまま、親意識だけをもち続ける。またそれをもって、親の深い愛情だと誤解する。つまり
子離れできない。親子の悲劇はここから始まる。

あの芥川龍之介も、「人生の悲劇の第一幕は親子となつたことにはじまつてゐる」(侏儒の言
葉)と書いている。

 息子が中学一年生になっても、「うちの子は、早生まれ(三月生まれ)ですから」と言っていた
母親がいた。

娘(高校生)に、「うす汚い」「不潔」と嫌われながらも、娘の進学を心配していた父親もいた。

自らはほしいものも買わず、質素な生活をしながら、「あんなヤツ、大学なんか、やるんじゃな
かった」とこぼしていた父親もいた。

あるいは息子(中二)に、「クソババア! オレをこんなオレにしたのは、テメエだ」と怒鳴られな
がら、「ごめんなさい。お母さんが悪かった」と、泣いてあやまっていた母親もいた。

しかし親子の間に、細くとも一本の糸があれば、まだ救われる。親はその一本の糸に、親子の
希望を託す。しかしその糸が切れると、親には、また別の悲劇が始まる。

親は「親らしくしたい」という気持ちと、「親らしくできない」という気持ちのはざ間で、葛藤する。
これは親にとっては、身をひきちぎられるようなものだ。ある父親はこう言った。

「息子(一九歳)が暴走族の一人になったとき、『あいつのことは、もう構いたくない』という思い
と、『何とかしなければ』という思いの中で、心がバラバラになっていくのを感じた」と。

もう少しズルイ親だと、「縁を切る」という言い方をして、子育てから逃げてしまう。が、きまじめ
な親ほど、それができない。追いつめられ、袋小路で悩む。苦しむ。

 子どもというのは、親の期待を一枚ずつはぎ取りながら、成長する。中には、最後の一枚ま
ではぎとってしまう子どももいる。年ごとに立派になっていく子どもを見る親は、幸せな人だ。し
かしそういう幸運に恵まれる親は、一体、何割いるというのだろうか。

大半の親は、年ごとにますます落ちていく(?)子どもを見せつけられながら、重い心を引きず
って歩く。「そんな子どもにしたのは、私なんだ」と、自分を責めることもある。しかしそれとても
とをただせば、子離れできない親に、問題がある。

あの藤子F不二雄の『ドラえもん』にこんなシーンがある(一八巻)。タンポポの種が、タンポポ
の母親に、「(空を飛ぶのは)やだあ。やだあ」とごねる。それを母親は懸命に説得する。しかし
一度子どもが飛び立てば、それは永遠の別れを意味する。タンポポの種が、どこでどのような
花を咲かせるか、それはもう母親の知るところではない。

しかし母親はこう言って、子どもを送り出す。「勇気をださなきゃ、だめ! みんなにできること
がどうしてできないの」と。

 子どもの人生は子どもの人生。あなたの人生があなたの人生であるように、それはもうあな
た自身の力が及ばない世界のこと。言いかえると、親は、それにじっと耐えるしかない。

たとえあなたの息子が、あなたの夢や希望、名誉や財産、それを食いつぶしたとしても、それ
に耐えるしかない。外から見ると、どこの親子もうまくいっているように見えるかもしれないが、
それこそまさに仮面。子育てに失敗しているのは、あなただけではない。

+++++++++++++++++

同じようなテーマですが、こんな原稿を
書いたこともあります。どうか参考にし
てください。(中日新聞発表済み)

+++++++++++++++++

子育てのすばらしさ

 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。その一つが、至上の愛を教えられ
ること。ある母親は自分の息子(三歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命はどうなっても
いい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。こうした「自分の命すら惜しくない」という至上
の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。

 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。「自分
の中に父がいる」という思いである。私は夜行列車の窓に映る自分の顔を見て、そう感じたこ
とがある。その顔が父に似ていたからだ。

そして一方、息子たちの姿を見ていると、やはりどこかに父の面影があるのを知って驚くことが
ある。先日も息子が疲れてソファの上で横になっていたとき、ふとその肩に手をかけた。そこに
死んだ父がいるような気がしたからだ。

いや、姿、形ばかりではない。ものの考え方や感じ方もそうだ。私は「私は私」「私の人生は私
のものであって、誰(だれ)のものでもない」と思って生きてきた。しかしその「私」の中に、父が
いて、そして祖父がいる。自分の中に大きな、命の流れのようなものがあり、それが、息子たち
にも流れているのを、私は知る。

つまり子育てをしていると、自分も大きな流れの中にいるのを知る。自分を超えた、いわば生
命の流れのようなものだ。

 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何物でもない。死は
すべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死は不条理なり」
とも言う。

そういう意味で私は孤独だ。いくら楽しそうに生活していても、いつも孤独がそこにいて、私をあ
ざ笑う。すがれる神や仏がいたら、どんなに気が楽になることか。が、私にはそれができない。
しかし子育てをしていると、その孤独感がふとやわらぐことがある。

自分の子どものできの悪さを見せつけられるたびに、「許して忘れる」。これを繰り返している
と、「人を愛することの深さ」を教えられる。いや、高徳な宗教者や信仰者なら、深い愛を、万人
に施すことができるかもしれない。が、私のような凡人にはできない。できないが、子どもに対
してならできる。いわば神の愛、仏の慈悲を、たとえミニチュア版であるにせよ、子育ての場で
実践できる。それが孤独な心をいやしてくれる。

 たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子どもをよ
い学校へ入れることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きることに
まつわる、矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。

それを知るか知らないかは、その人の問題意識の深さにもよる。が、ほんの少しだけ、自分の
心に問いかけてみれば、それがわかる。子どもというのは、ただの子どもではない。あなたに
命の尊さを教え、愛の深さを教え、そして生きる喜びを教えてくれる。

いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未来永劫(ごう)にわたって、伝えてくれる。
つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。子どもはそういう意味で、まさに神や仏
からの使者と言うべきか。

いや、あなたがそれに気づいたとき、あなた自身も神や仏からの使者だと知る。そう、何がす
ばらしいかといって、それを教えられることぐらい、子育てですばらしいことはない。

++++++++++++++++++++

さらにこんな経験もしました。
この原稿も、中日新聞に掲載
してもらったものです。
これは連載、第100回を記念
して、書いたものです。

++++++++++++++++++++

無条件の愛

●「子どもの世界」一〇〇回目を記念して

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。「私は自由
だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、もしその恐
怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。

しかしそれは可能なのか…? その方法はあるのか…? 一つのヒントだが、もし私から「私」
をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自分を解放することができるかもしれ
ない。自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をし
た。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカでは、花嫁の居住地で式をあげる習わしになってい
る。式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺
さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声
が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「日本人をやめる、ということか…」
息子「そう」「…いいだろ」と。

私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえ
に、一人の人間として息子を許し、受け入れた。英語には「無条件の愛」という言葉がある。私
が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が
抜けるほど軽くなったのを知った。

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。
「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け
入れるということ。

「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなければ、死をこわがる理由などない。一文なしの
人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。

死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができ
る。そしてそれができれば、私は死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。
その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし
一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。

++++++++++++++++++++

 子どもは今、あなたに何かを教えるために、そこにいる。あなたが子どもを育てるのではな
い。子どもが、あなたに何かを教えるために、そこにいる。それにあなたが気づいたとき、あな
たは、きっとこう言うにちがいない。

 「ありがとう!」と。

 その一言が、あなたの苦労を吹き飛ばしてくれる。そしてそのとき、あなたは自分の過去を振
りかえり、子どもにこう言うようになる。

 「親孝行? バカなこと考えないで、あなたは前だけを向いて、前に進みなさい。お父さん、お
母さんの心配などしなくていい。家の心配? こんなちっぽけな家にこだわってはいけない。こ
の世界は、もっと広い。あなたこの広い世界を、思う存分、はばたきなさい。だって、人生は一
度しかないのだから……」と。

+++++++++++++++++++++

補足として、もう一つ、中日新聞に書いた
原稿を、転載しておきます。
この原稿については、あちこちから反論が
ありました。

どうして反論があったか、マガジンの読者
の方なら、わかっていただけると思います。

++++++++++++++++++++++

親のうしろ姿は見せない

 子育てのために苦労している姿。生活のために苦労している姿。そういうのを、この日本で
は、「親のうしろ姿」という。こうしたうしろ姿は、親が見せたくなくても、子どもは見てしまうもの
だが、しかしそれを子どもに押し売りしてはいけない。

よい例が、窪田聡という人が作詞した、「かあさんの歌」である。「♪かあさんは夜なべをして、
手袋編んでくれた……」というあの歌である。

しかしあの歌ほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。そういう歌が、日本の名曲に
なっているところに、日本の子育ての問題点が隠されている。ちなみに、歌詞は、三番まであ
るが、三、四行目は、かっこつきになっている。つまりその部分は、母からの手紙の引用という
ことになっている。

「♪木枯らし吹いちゃ、冷たかろうて、せっせと編んだだよ」
「♪おとうは土間で、ワラ打ち仕事。お前もがんばれよ」
「♪根雪も溶けりゃ、もうすぐ春だで。畑が待っているよ」と。

 あなたが息子であるにせよ、娘であるにせよ、親からこんな手紙をもらったら、それこそ羽ば
たける羽もはばたけなくなってしまう。たとえそうであっても、親が子どもに手紙を書くとしたら、
「村祭りに行ったら、手袋を売っていたから、買って送るよ」「おとうは居間で俳句づくり。新聞に
もときどき、載るよ」「春になったら、みんなで温泉に行ってくるからね」である。

 日本人は無意識のうちにも、子どもに、「産んでやった」とか「育ててやった」とか言って、恩を
着せる。子どもは子どもで、「産んでもらった」とか「育ててもらった」とか言って、恩を着せられ
る。そしてそういう関係の中から、日本独特の親意識が生まれ、親孝行論が生まれる。

しかし子どもが親のために犠牲になる姿など、美徳でも何でもない。いわんや親がそれを子ど
もに求めたり、期待してはいけない。親は親で、自分の人生を前向きに生きる。そしてそういう
姿を見て、子どもは子どもの人生を前向きに生きる。

親子といえども、その関係は、一人の人間対一人の人間の関係である。一見冷たい人間関係
に見えるかもしれないが、一人の人間として互いに認めあう。それが真の親子関係の基本で
ある。

あのイギリスのバートランド・ラッセル(イギリス・ノーベル文学賞受賞者、哲学者)もこう言って
いる。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれども、
決して限度を超えないことを知っている、そんな両親のみが、家族の真の喜びを与えられる」
と。

++++++++++++++++++++

●終わりに……

 子育ての目標は、子どもをよき家庭人として自立させること。繰りかえすが、「あなたの人生
はあなたのものだから、この広い世界を自由に羽ばたきなさい。たった一度しかない人生だか
ら、思う存分、自分の人生を生きなさい。親孝行……? そんなことを考えなくていい。家の心
配……? そんなこと考えなくていい」と、一度は、子どもの背中を叩いてあげてこそ、親は親
としての義務を果たしたことになる。

親孝行や家の心配を子どもに求めてはいけない。それを期待するのも、強要するのもいけな
い。もちろんそのあと、子どもが自分で考えて、親孝行するとか、家の心配をするというのであ
れば、それは子どもの問題。子どもの勝手。
 
……と書くと、こう言う人がいる。「林、君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。日本には日
本独特の美徳というものがある。親孝行もその一つだ」と。

 ところがどっこい。こんな調査結果もある。平成六年に総理府がした調査だが、「どんなこと
をしてでも親を養う」と答えた日本の若者はたったの、二三%(三年後の平成九年には一九%
にまで低下)しかいない。

自由意識の強いフランスでさえ五九%。イギリスで四六%。あのアメリカでは、何と六三%であ
る。(ほかにフィリッピン八一%(一一か国中、最高)、韓国六七%、タイ五九%、ドイツ三
八%、スウェーデン三七%、日本の若者のうち、六六%は、「生活力に応じて(親を)養う」と答
えている。これを裏から読むと、「生活力がなければ、養わない」ということになるのだが…
…。)

欧米の人ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、大きな転換期にきてい
るとみるべきではないのか。

 子どもを自立させたかったら、親自身も自立する。つまり親の自立なくして、子どもの自立は
ないということになる。そしてそのほうが、結局は親子の絆を深める。
(031011)



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●離婚の危機

 私たち夫婦も、何度か、離婚の危機を迎えたことがある。決して、安穏(あんのん)な結婚生
活ではなかった。

 しかしそのとき、最後の最後まで、どちらかが意地を張っていたら、私たちは本当にそのま
ま、離婚していただろう。しかし一度は、その一歩手前で、私が意地を捨てた。プライド(自尊
心)も捨てた。捨てて、「離婚するのはいやだ」と、今のワイフに、泣いて懇願した。

 私が生まれ育った環境は、ふつうではなかった。父が母に暴力を振るう姿は、何度か、見て
いる。父が暴れて、食卓を足で蹴って、ひっくり返している姿は、ごく日常的な光景だった。

 さらにある夜のこと。祖父が、父の首をつかみ、水道の蛇口の下で、父の頭に水をかけたこ
ともある。そのとき、父は狂人のように暴れ、祖父は、それ以上にものすごい声で、父を罵倒し
ていた。

 私の少年期は、そういう意味で、悲惨なものだった。

 だから私は、当然のことながら、心に深いキズを負うことになった。正直に告白する。結婚し
てから、妻に暴力を振るったことも、たびたびある。しかしそれは私自身がしたというよりは、
(決して、弁解するわけではないが……)、私自身が宿命的にもつ、心のキズが、そうさせた。

 これを心理学の世界では、世代連鎖とか、世代伝播(でんぱ)とかいう。

 今でも、そうした邪悪な部分が、私には残っている。完全に消えたわけではない。私が自分を
みつめながら、もっとも、警戒するのは、自分自身の中の、二重人格性である。私はふとしたこ
とがきっかけで、もう一人の自分になってしまうことがある。

 ふだんの私は、やさしく、穏やかで、さみしがり屋。しかしもう一人の自分になると、破滅的に
なり、孤独に強くなる。「家族なんか、いなくても、平気」という状態になる。

 一度、そういう自分になると、どちらが本当の私なのか、わからなくなる。ただよく言われる人
格障害と違う点は、それぞれのとき、別の「私」がちゃんと横にいて、自分をコントロール、して
いるということ。

 「今のお前は、本当のお前ではないぞ」と。

 そういうこともあって、私は、結婚してからも、「暖かい家庭」を恋こがれる一方、どこかいつ
も、ぎこちなかった。だいたいにおいて、私の中には、しっかりとした父親像すらなかった。

 離婚の危機を迎えたのは、そういう私に原因があった。加えて、私は、昔からの男尊女卑思
想の強い土地柄で生まれ育っている。はじめのころは、ワイフの反論や、反抗を許さなかっ
た。いや、ワイフも必死だった。だから、いつも喧嘩は、「なんだ、その言い方は!」で始まっ
た。

 もし反対の立場なら、私はとっくの昔に離婚していただろう。が、ワイフは、人一倍、辛抱強い
女性だった。それに私の、将来の生真面目さと、それに家族への、人一倍強い、熱望を理解し
ていた。

 かろうじて、本当にかろうじて、私たちが離婚しなかったのは、そういう理由による。いや、そ
れでも、そういう危機を迎えたことがある。

 ワイフが、おかしな新興宗教団体に通い始めたからである。私たちの間には、喧嘩が絶えな
くなった。離婚の危機というのは、そういうとき起きた。そして最終的には、離婚か、さもなくば、
私も入信かという状況まで、追いこまれた。

 そのときのこと。私は、最後の最後のところで、プライドを捨てた。捨てて、「離婚はいやだ」と
泣いた。ワイフは、それで思いとどまってくれた。……と思う。今でも、かろうじて「夫婦をしてい
る」ということが、その結果である。

 実は、今日、ある男性からメールをもらった。その内容については、了解をもらっていないの
で、ここに掲載することはできない。しかし以前、私が迎えたと同じような危機的な状態にいる。

 その男性は、子どもの親権を男性(夫)のものにすることで、離婚に同意したという。(まだ正
式には離婚していない。)私は、そのメールをもらって、いあたたまれない気持ちになった。だ
から、返事には、こう書いた。

「昔、宝島という本を書いた、スティーブンソンという
人は、こう言っています。

『我等が目的は、成功することではない。失敗に
めげず、前に進むことである』と。

スティーブンソンは、ほかに、『ジキル博士とハイド氏』
という本も書き、そのあと放浪の旅に出ます。

実のところ、私も、この言葉に、何度も励まされ
ました。「失敗にめげず、前に進むことだ」と。

どんな夫婦も、そのつど離婚の危機を
乗り越えています。同窓会などで会っても
みな、そう言っています。

で、そのとき、最後の最後で、ふんばるかどうか、
その違いが、運命を大きく変えます。

だからといってYT様が、ふんばっていないと
いうのではありません。それでもふんばりきれない
ときも、あるのです。

しかしいただいたメールから判断すると、
奥様のほうが、もう少し自分を見つめる機会が
あれば、今の危機的状況を回避できるような
気がします。

つまり奥様が、自分自身のトラウマに気づいて
おられないように思います。そしてそれに奥様
が気づけば、このまま離婚に至らなくても
すむように思うのです。

みながみな善良な人達なのですが、どこかで
たがいにキズつけあってしまう……。そんなこと
は、よくあります。

つらいですね。多分、その気持ちはYT様の
ほうが強いのではないかと思います。

そこに幸福があるのに、そしてみなが、ほんの
少しだけ心を開けば、その幸福が、向こうから飛び込んで
くるのに、みなが、どこかで意地を張って、わざと
背を向けてしまう……。

そんな印象をもちました。

どうでしょうか?

一度、あなたのほうから、心を開き、敗北を
認め、頭を地面にこすりつけてみては……。

『お前が好きだ。お前ないでは生きて行かれない』と
です。

まだ夫婦なのですから……。

いらぬお節介かもしれませんが、日本語には
すばらしい格言があります。

『負けるが、勝ち』と。

負けて負けて、負けつづけるのです。
自尊心も、プライドも捨て、裸になって、
自分をさらけだすのです。

その純粋さが、相手の心を溶かします。

……で、仮に、それでも、離婚ということに
なっても、あなたは必ず、すがすがしいものを
感じます。

負けるのです。負けを認めるのです。
それは勝つことより、ずっと勇気がいることですが、
それが夫婦の絆を取り戻します。太くします。

もっとも、あなたのほうが、『愛』を感じないようで
あれば、おしまいですが……。

もしたがいの愛が少しでも残っているなら、
そうしなさい。

女性というのは、勝たせておけばいいのです。
男というのは、負けたフリをしながら、妻(女性)を
自分の支配下におけばよいのです。

まだ最後のチャンスがありますので、あきらめない
でください。

頭を地面にこすりつける。相手がその状態で
足で蹴っても、ただひたすら、懇願する。
プライドなんか、クソ食らえ(尾崎豊)です。

こう書くのは、あなたのためです。

それでも、破綻するなら、それはもうあなたの
責任ではない。あなたの運命です。

やるだけのことをやったという思いが、
そのあと、あなたの立ち直りを早くします。
あなたは過去を振りきって、前に向かって
進むことができます。そのためにも、
負けを認めます。無理にがんばらないで、です。

本当にいらぬ節介をしていますが、
どうか気分を悪くしないでください。

私も、何度か、離婚の危機に立たされた
ことがあります。

一度は、最悪の状態になったこともあります。
しかし私は最後の最後のところで、
頭をさげました。負けを認めました。
いつか機会があれば、別のところで
それについて書いてみます。

みんなそんな危機など、一度や二度は
経験します。どうでしょうか?

もうだめでしょうか。
『子どものため』ということは、この際、あまり
考える必要はないと思います。

あくまでも、あなた自身を見据えて、結論を
出してください。

このつづきは、また今夜、考えてみます。
こうした気持ちが、YT様や、奥様に
伝わればうれしいです。

では、今夜は、これで失礼します」と。

 一〇年も、夫婦をしていれば、一度や二度、離婚の危機はやってくる。二〇年もしていれば、
もっときびしい危機がやってくる。しかし三〇年もしていると、やがてあきらめる。人生の終わり
が近づいてくるからだ。

 そのとき、二つの考え方が生まれる。一つは、「まあ、こんなもの」と、それまでの人生を受け
入れる考え方。もう一つは、「最後の最後だから」と、それまでの人生を清算する考え方。熟年
離婚する人の考え方は、後者の考え方に基づく。

 離婚することが悪いというのではない。あくまでも本人たちの問題だから、本人たちが納得す
れば、それはそれで構わない。ただ世の中には、暖かい家庭を恋焦がれるあまり、それが原
因で失敗していく人も多い。私はこういう人を、「悲しきピエロ」と呼んでいる。

 人を笑わせようとするのだが、少しも、おもしろくない。楽しくない。その人自身が、おもしろい
と思っているだけ。だから演技すればするほど、まわりの人がしらけてしまい、やがて観客はだ
れもいなくなる……。

 あなたや私に、何がある? ごく平凡な生活に、ごく平凡な人生。それ以外に、何がある? 
そんな庶民が、身を支えあいながら、懸命に生きている。大きな幸福なんてものは、ない。噴
水があるような、ガーデンに咲く花など、望むべくもない。道端に咲く、小さな花を、「美しい」と
思いながら、またそう思いこみながら、生きている。

 そんな庶民が、あえて自ら、小さな、小さな幸福に、背を向けてしまう……。

 よく誤解されるが、離婚が離婚になるのは、たがいの関係が、破局するからではない。最後
の最後まで、どちらかが、がんばってしまうからだ。心を開かず、意地を張るからだ。そしてそ
こにある小さな、小さな幸福に、背を向けてしまうからだ。

 愛がなければ話は別だが、まだ愛が残っているなら、勇気を出して、心を開く。空に向って、
心を解き放つ。あとの結果は、自然とついてくる。意地なんて、クソ食らえ! プライドなんて、
クソ食らえ!

 もちろん、それでも離婚する人は、離婚する。運命というのは、いつも、結果として、あとから
ついてやってくるもの。しかしそのときは、そのときで、その運命を受け入れることができる。ま
ずいのは、「こんなはずではない」「こんなはずではなかった」と、ズルズルと、悔恨の地獄の中
に、身や心を、引きずりこまれること。

 そうならないためにも、一度、裸になる。素っ裸になる。そして自分の心と体を、相手にさらけ
出す。白日のもとに、さらけ出す。

 あとのことは、相手に任せばよい。そういうあなたを理解せず、また理解できないで、去って
いくというのなら、それも、人生。それも運命。相手にだって、その人生や、運命がある。離婚と
いっても、ただの紙切れ。ただの制度。あとは、たがいに、前向きに生きていけばよい。
(031014)



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●障害児教育

福井県のKJ氏(男性、教員)から、メールをもらった。その中で、「知的障害児教育」につい
て、どう考えるかという、質問をもらった。ここでは、それについて、考えてみたい。

+++++++++++++++

 はやし様のコラム、楽しく、大変ためになりました。
特に「許して忘れる」は読後、妻が泣いていました。

 「乱舞するイメージ」の中で
三十年前にはこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、
ここ十年、急速にふえた。小一児で、十人に二人はいる。今、
学級崩壊が問題になっている。実際このタイプの子どもが、
一クラスに数人もいると、それだけで学級運営はなりたたな
くなる。
とありましたが、その通りかなと思いました。ところで、以下の問題
について、「今後,大変だね」と言う声を聞いています。

 特殊学級に在籍している生徒児童は、生活の場を一般学級で行う。
在籍も普通学級とする。困難な教科学習のみ通級で特別支援学級で個
別指導を行う。財政的な支援が無く、重度の知的障害者やLD・LD
HDの生徒も健常児と同じように生活することはかなり危険かと思い
ます。(以前、知的障害児の通う学級の仲間から50万円をおごらされた。
他の学級ではストレスのはけ口として知的障害児にプロレス技をかける。)

 また、聾・盲・養護学校も一本化するようですが、聾唖者が1人で
在籍する場合、手話でのコミニュケーションは不可能になります。

はやし様はどのよなお考えでしょうか?
今度のコラム等でお考えをお聞かせ頂けるとありがたいです。

++++++++++++++

【KJ様へ@】

 欧米では、身体障害児については、いっさい差別しない。知的障害児については、軽度のば
あいは、落第。重度のばあいは、特別クラスで、という方式が、定着しているようです。

 ただここで「落第」と書きましたが、アメリカなどでは、日本でいう、「学年」がなく、その言葉か
ら受ける印象は、まったく違うようです。たとえばクラス名は、日本のように、「三年二組」という
のではなく、「MORGAN's Class」とか、など。

 また中学でも、単位制を導入しているところが多く、数学にしても、「中学三年間で……」とい
う考え方をしています。だから親にしても、「落第(ドロップ・アウト)」を、日本より、はるかに気
楽に受け入れているように思います。

 それについて書いたのが、つぎの原稿(中日新聞掲載済み)です。

+++++++++++++++

●学校は人間選別機関? 

 アメリカでは、先生が、「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそれに喜んで
従う。「喜んで」だ。

あるいは子どもの勉強がおくれがちになると、親のほうから、「落第させてくれ」と頼みに行くケ
ースも多い。これはウソでも誇張でもない。事実だ。そういうとき親は、「そのほうが、子どもの
ためになる」と判断する。が、この日本では、そうはいかない。

先日もある親から、こんな相談があった。何でもその子ども(小二女児)が、担任の先生から、
なかよし学級(養護学級)を勧められているというのだ。それで「どうしたらいいか」と。

 日本の教育は、伝統的に人間選別が柱になっている。それを学歴制度や学校神話が、側面
から支えてきた。今も、支えている。だから親は「子どもがコースからはずれること」イコール、
「落ちこぼれ」ととらえる。しかしこれは親にとっては、恐怖以外、何ものでもない。その相談し
てきた人も、電話口の向こうでオイオイと泣いていた。

 少し話はそれるが、たまたまテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた(九九年
春)。ある人がニュージーランドの小学校を訪問したときのことである。

その小学校では、その年から、手話を教えるようになった。壁にズラリと張られた手話の絵を
見ながら、その人が「どうして手話の勉強をするのですか」と聞くと、女性の校長はこう言った。
「もうすぐ聴力に障害のある子どもが、(一年生となって)入学してくるからです」と。

 こういう「やさしさ」を、欧米の人は知っている。知っているからこそ、「落第させましょう」と言
われても、気にしない。そこで私はここに書いていることを確認するため、浜松市に住んでいる
アメリカ人の友人に電話をしてみた。彼は日本へくる前、高校の教師を三〇年間、勤めてい
た。

私「日本では、身体に障害のある子どもは、別の施設で教えることになっている。アメリカでは
どうか?」
友「どうして、別の施設に入れなければならないのか」
私「アメリカでは、そういう子どもが、入学を希望してきたらどうするか」
友「歓迎される」
私「歓迎される?」
友「もちろん歓迎される」
私「知的な障害のある子どもはどうか」
友「別のクラスが用意される」
私「親や子どもは、そこへ入ることをいやがらないか」
友「どうして、いやがらなければならないのか?」と。

そう言えば、アメリカでもオーストラリアでも、学校の校舎そのものがすべて、完全なバリアフリ
ー(段差なし)になっている。

 同じ教育といいながら、アメリカと日本では、とらえ方に天と地ほどの開きがある。こういう事
実をふまえながら、そのアメリカ人はこう結んだ。「日本の教育はなぜ、そんなにおくれている
のか?」と。

 私はその相談してきた人に、「あくまでもお子さんを主体に考えましょう」とだけ言った。それ
以上のことも、またそれ以下のことも、私には言えなかった。しかしこれだけはここに書ける。
日本の教育が世界の最高水準にあると考えるのは、幻想でしかない。日本の教育は、基本的
な部分で、どこか狂っている。それだけのことだ。

++++++++++++++++

【KJ様へA】

 障害児教育の背景には、親たちの意識の問題があります。「落第を喜ぶ、アメリカの親たち」
と、「養護学級をいやがる、日本の親たち」の違いは、そこから生まれます。

 私はやはり、こうした意識の違いを、克服することが、先決かと思います。なぜアメリカではそ
うなのか……? 一方、日本では、そうなのか……?、と。

 なお、アメリカでは、フリースクール(ホームスクール)制度が発達していて、教育そのものに
対する考え方も、大きく違うようです。私の二男の嫁の母親が、その指導員(派遣教員)を、州
政府から依頼されて、現在しています。

 それについて書いたのが、つぎの原稿です。この原稿は、私の本の中で発表したものです。
当初、中日新聞のほうで発表してもらうつもりでいたのですが、編集部のほうで、ボツにされま
した。なぜ、ボツになったか? KJ様なら、その理由がわかっていただけると思います。

+++++++++++++++++

常識が偏見になるとき 

●たまにはずる休みを……!

「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいてい
の人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこ
そ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。

アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもっ
た偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たと
えば……。

●日本の常識は世界の非常識

@学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親が
教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州
政府が家庭教師を派遣してくれる。

日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも
九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人を超えた。毎年一五%前後の割合で
ふえ、二〇〇一年度末には二〇〇万人に達するだろうと言われている。

それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は
家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開い
たり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、
こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。

Aおけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ通
う。早い子どもは午後一時に、遅い子どもでも三時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単位
(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。

そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは
学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が一二〇〇円前後(二〇〇一年
調べ)。こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども一人当たり、二三〇マルク(日
本円で約一四〇〇〇円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職
するまで、最長二七歳まで支払われる。

 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性
に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対
する世間の評価はまだ低い。

ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任をも
たない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら
親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いた
ら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。

「そういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生のほうから
電話がかかってきます」と。

C進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中
高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で七〇校近くあった。が、私はそれを見て驚い
た。どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、は
さんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。

この話をオーストラリアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そ
こで私が、では、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子
も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子ども
は、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。

なおそのグラマースクールには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同
時にその足で学校へ行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。

●そこはまさに『マトリックス』の世界

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことで
も、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身
の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあ
るべきか。さらには子育てとは何か、と。

その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、「私
はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を信仰してい
る。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世
界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかない
まま、仮想の価値に振り回されている……。

●解放感は最高!
 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと
動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に
行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育して
いるのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよ
い。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。

※……一週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後
三時まで学校で勉強し、火曜日は午後一時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めるこ
とができる。

●「自由に学ぶ」

 「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」
を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。

 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて
よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。
それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政
治を行うための手段として用いられてきている」と。

 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社
会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を
破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。

いわく、「民主主義国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始
まっているではないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるというこ
とを忘れてはならない」と。

 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に
は、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率は
むしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくな
い。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所シス
テムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべき
ではないのか」と(以上、要約)。

 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえてい
る。なお二〇〇〇年度に、小中学校での不登校児は、一三万四〇〇〇人を超えた。中学生で
は、三八人に一人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、四〇〇〇人多い。

+++++++++++++++++++

 ついでに、「常識」について書いた原稿を
一作、添付します。

 この原稿(中日新聞掲載済み)は、結構、
反響の大きかった原稿で、そのあと、いろ
いろな意見をもらいました。

 話を先に進める前に、読んでいただけれ
ばと思います。一部、先の原稿と内容がダ
ブりますが、お許しください。

++++++++++++++++++++

●日本の常識、世界の標準? 

 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーンだが、欧
米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。

向こうでは家族ぐるみの交際がふつうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過ごす
ということは、まず、ない。そんなことをすれば、それだけで離婚事由になる。

 困るのは『忠臣蔵』。ボスが犯罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解できる。し
かし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐をするの
か」と。欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任があ
る」ということになる。しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危
害を加えられたわけではないのだから、復讐するというのもおかしい」と。

 まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、あた
かも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、一般の
庶民たちは、極貧の生活を強いられた。もしオーストラリアあたりで、英国総督府時代の暴君
を美化したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。

 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、伝統
的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的なことを教え
るのが、教育ということになっている。

しかもなぜ勉強するかといえば、日本では学歴を身につけるため。欧米では、その道のプロに
なるため。日本の教育は能率主義。欧米の教育は能力主義。日本では、子どもを学校へ送り
出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリカ(特にユダヤ系)では、「先生によく
質問するのですよ」と言う。

日本では、静かで従順な生徒がよい生徒ということになっているが、欧米では、よく発言し、質
問する生徒がよい生徒ということになっている。日本では「教え育てる」が教育の基本になって
いるが、欧米では、educe(エデュケーションの語源)、つまり「引き出す」が基本になっている、
などなど。

同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地ほどの
開きがある。私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになっている」と説明
したら、友人のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこで「では、オーストラリ
アではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてくれた。
 
「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太子も学ん
だことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュラムを学校が
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、と。そういう学校をよ
い学校という」と。

 日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもらいた
かったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。 

++++++++++++++++++++++

【KJ様へB】

 その国の文化の高さは、いかに弱者にやさしい社会かで、決まります。決して、弱肉強食的
な社会を正当化してはいけません。

 身体障害児にせよ、知的障害児にせよ、まさにその社会的弱者です。そういう子どもたちを、
いかに保護し、指導し、援助し、励まし、育てていくかで、教育の高さが決まります。

が、日本では、おかしなことに、「何人、有名大学へ送り込んだか」で、教育の高さ(?)が決ま
ります。夏目漱石の『坊ちゃん』の中にも、進学率が高くなったことを、「実績」という言葉で、表
現しているところがあります。「我が校の実績も……!」と、です。

 日本には、古来より身分制度があり、その身分制度が、明治時代になって、学歴社会に置き
かわったといういきさつがあります。今に見る、学校神話、学歴制度、さらにはそれを支える受
験競争は、そういう流れの中から生まれたものです。

 こうした日本人がもつ意識を変えていくのは、容易なことではありません。ここにあげた私の
エッセーは、それについて、書いたものです。

 ご指摘のように、こうした弱者に対する教育予算を、削減したり、カットしたりするようなこと
は、断じて、あってはならないことです。むしろ、逆なのです。健常児の数倍の手間ヒマがかか
るのなら、それ以上の予算を、つけるべきなのです。

 が、ご存知のように、日本のその層の役人というのは、いわゆる受験勉強をやりぬいてき
た、エリートばかりです。そもそも弱者に対する、理解が足りません。足りないというより、脳ミソ
の中でも、そういう部分が欠けた人間ばかりです。だから平気で、予算の削減をする……?

 たとえば知的障害児は、算数についても、独特の考え方をするのがわかっています。「5引く
3」でも、「引く」という概念を、健常児とはちがった捕らえ方をします。足し算はできても、引き算
ができないケースも珍しくありません。

 こうした「独特の考え方」をすることについて、いったい、どれだけの学者が、理解を示し、体
系化しているでしょうか。現実は、ゼロです。つまりそういった子どもたちは、社会から切り捨て
られたままになっています。「どうせ、教えてもムダ」「できなくてもいい」という、強者に身勝手な
論理ばかりが、先行しています。

 LD児も含めて、知的障害児の指導は、たいへんです。どうたいへんかは、KJ様が、すでに
ご経験の通りです。それこそ、マンツーマンの指導になってしまいます。だったら、マンツーマン
の指導ができるように、する。それが教育なのです。

 みんなで、力をあわせて、弱者にやさしい社会をつくろうではありませんか。子どもたちにして
も、学校の先生が、いかに弱者に暖かいかを見ながら、そのふところの深さを知ります。そして
それが回りまわって、文化の高さへとつながっていくのです。

 息子の一人は、今、知的障害者たちが集まっている会社(授産所)で、指導員として働いてい
ます。その息子が、こう言いました。「みんな、仕事ができるというだけで、喜んでいるんだよ。
毎朝、ニコニコ笑いながら、会社に来るんだよ」と。

 学校だって、そうです。そういった障害をもった子どもが、ニコニコ笑って来るようになって、
はじめて学校なのです。そういう教育を、目ざそうではありませんか。

 私も一時期、進学塾(高校生対象)の講師として、仕事をしたことがあります。しかしその時期
は、自分の生涯で、もっとも、不愉快な時期でした。結果としてみても、何も残っていません。教
育論、一つ、書けなかった。そういう時期です。

 (よく、「こうすれば学力は伸びる、有名大学、攻略法」などという本を書く、進学塾の講師が
いますね。私はああいう人は、本物のバカだと思っています。私だって、書けといわれれば、あ
んな本なら、数日で書けます。しかしそれをしたら、私は、おしまい。)

 日本の教育は、たしかに、おかしい。みんなが、そのおかしさに気づいたとき、日本の教育は
よくなります。子育てのし方も、変わります。がんばりましょう!
(031030)

++++++++++++++++

【付録】

 KJ様からいただいた、資料を、ここにそのまま添付します。

+++++++++++++++++ 

 特殊学級に在籍している生徒児童は、生活の場を一般学級で行う。
在籍も普通学級とする。困難な教科学習のみ通級で特別支援学級で個
別指導を行う。財政的な支援が無く、重度の知的障害者やLD・LD
HDの生徒も健常児と同じように生活することはかなり危険かと思い
ます。(以前、知的障害児の通う学級の仲間から50万円をおごらされた。
他の学級ではストレスのはけ口として知的障害児にプロレス技をかける。)

 また、聾・盲・養護学校も一本化するようですが、聾唖者が1人で
在籍する場合、手話でのコミニュケーションは不可能になります。

はやし様はどのよなお考えでしょうか?
今度のコラム等でお考えをお聞かせ頂けるとありがたいです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

特別支援教育の在り方に関する調査研究協力者会議の最終報告
(3月28日)

 LD等の子どもを含む通常の学級に在籍する特別な教育的支援を必要
とする子どもには、総合的な支援の中心となる特別支援教育コーディ
ネーターを置くとしていますが、新たな人員増は行わず、学校の校務
に位置づけるに止まりました。

これまで多くの障害児が、同じ障害をもつ仲間や先生と学習や生活を
ともにすることで成長・発達してきた障害児学級をなくすとしている
点です。障害児学級で学ぶ子どもたちを含め、小・中学校で学ぶ障害
のある子どもたちはすべて通常学級籍となり、「障害に配慮した特別
の教科指導」や「障害に起因する困難の改善・克服にむけた自立活
動」のみを「特別支援教室」で受けることになります。
 
+++++++++++++++++++

 「特別支援教育」は、国が財政負担を少しでも軽減しようとするもの
ではないのかということです。子ども一人ひとりに手厚い教育支援を
する障害児教育が、通常教育以上に財政を必要とするのは当然のこと
であるにもかかわらず、「特別支援教育」への推進のうらに、国によ
る財政負担の軽減の意図がかくされているとすると、「特別支援教
育」は「特殊教育」の現状を悪化させることになってしまうでしょう。




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●子どものやる気

●静岡県K市のMT氏(父親)から、こんな質問をもらった。それについて、考えてみる。

+++++++++++++++

……2才の娘がいます。

「自発性」は人生を前向きに、また、何かを成し遂げる際に必要な素養として重要であると思い
ます。

今日のお話では幼稚園児の「お花屋さん」と、御自身の高校時代の進路の話をされておりまし
たが、小さい頃に形成されるものと大人になるまでをひとつの話として理解して良いのでしょう
か?

つまり、小さい頃に「自発性」はある程度形成、定着されるものなのか、あるいは大人になるま
でにゆっくりと形成されるものなのでしょうか?

個人的には自発性は自信とともに、ちょっとした事で(たとえ大人になってからでも)失いがちな
ので、長い時間をかけて「育てていく」必要があるかも知れないという思いもあります。

金銭観は思いのほか小さい頃に形成されるという事でびっくりしましたが、本来労働の対価とし
て得られるお金の価値は子どもには理解できないでしょうし、健全な金銭価値を教えるのは大
変難しいと思いました。

お金の大切さを教えると言っても小さいこどもがお菓子を目の前にした時の欲求に対しては難
しいと思いますし、欲求を常に否定するのもどうかと思います。

「金銭感覚」を「欲求コントロール」と捉えると、お小遣いが管理でき計画的に使える(今これを
買うとあれを我慢しないといけないとか)様になるまでお金をあまり意識させない様にしたら(親
がお金の事由でいい/悪いを決めない。高いから/安いからと言わない)などとも考えてしま
いました。

(最近娘は2才にしてお金の存在に気付き、執着している風なので…)

以上、アドバイス等何かいただけたら嬉しいです。よろしくお願いします……。

++++++++++++++++

 こうした質問をもらうたびに、正直言って、講演がもつ限界を、いつも感ずる。「言い足りなか
った」「説明不足だった」という思いである。

 講演というのは、たとえて言うなら、映画で言えば、あらすじだけを話すようなもの。いつも、
結論だけを話し、それで終わってしまう。

 しかしその点、インターネットができて、本当に便利になった。道端で会話をするように、ごく
気軽に、こうして膨大な情報を、簡単に交換できる。……と、考えながら、@子どものやる気
と、A金銭感覚について、考えてみたい。

++++++++++++++++

@子どものやる気

子どもの「やる気」は、かなりはやい時期に、決定される。新生児から、乳児期にかけて、決定
されるというのが、通説である。年齢的には、〇歳から一、二歳前後ではないか。

 この時期、子どもの主体性が育つ。「主体性」というのは、「求めること」。そして「求めて満足
させられること」。この二つで、決まる。

 たとえば空腹になる。そこで新生児は、泣く。その泣いたとき、母親がそれに答え、その空腹
感を満足させる。……子どもは、それで満足する。

 これが主体性のはじまりである。

 この時期に、親が拒否的な姿勢や、態度を示すと、子どもの心には、大きなキズがつく。たと
えばこの時期、もとめてもじゅうぶんな乳が与えられないとすると、子どもの中に、基底的な不
安感が増大すると言われている。そしてその不安感が、生涯にわたって、その人の心のあり方
に、大きな影響を与えると言われている。

 この主体性が原動力となって、子どもは、自分の潜在的能力を、前に引き出すことができ
る。この潜在的能力を、R・W・ホワイトという学者は、「コンピテンス」と名づけた。

 つまり主体性のある子どもは、そのつど、要求し、そしてそれを満足させることによって、自
分の潜在的能力を、自ら、引き出していくというわけである。

 たとえば目の前に、きれいに輝く三つのビンがあったとする。それらのビンは、窓から差しこ
む日光によって、明るくキラキラと輝いている。

 そのとき、主体性のある子どもは、そのビンを手に取ろうとする。これが空腹なとき、泣いて
乳を求める行為である。

 そこでその子どもは、そのビンを手に取り、いろいろな方向から、ながめたり、光の変化を楽
しむようになる。そしてある程度、一連の行動を繰りかえしたあと、満足して、それを手放す。こ
れが母親から、乳を与えられ、満足した状態である。

 このとき、子どもの中から、ビンを通して見た、美しいものへの感性、つまり潜在的能力が引
き出される。

 こうした行為を繰りかえしながら、子どもは、その主体性を、「やる気」へと、育てることができ
る。つまり自分で達成感を、楽しむことができる。

 これをチャート化すると、こうなる。

 (主体的行動)→(満足する)→(達成感を覚える)→(さらなる主体的行動を求める)→……、
と。こうした一連の行為を繰りかえしながら、子どもは、自分の潜在的能力を、自ら引き出して
いく。

 どんな子どもにも、この主体性がある。そしてその主体性は、ちょうど、ループを描いて増大
するように、年齢とともに、増大し、加速する。少年少女期にしても、またおとなにしても、やる
気のある人と、そうでない人は、結局は、この時期の方向性によって決まるということになる。

 言いかえると、この時期に、主体性をつぶしてしまうと、やる気を引き出すのは、(不可能とは
言わないが)、そののち、たいへん困難になる。私は、講演では、それを説明した。

 私が言う、「主体性」と、そののちの、子どもの心理の発達は、別のもの。だからといって、子
どもの自主性が、すべて乳幼児期までに決まってしまうというのではない。つまりそこに「教育」
が介在する余地があるということになる。

 それについては、また機会があれば、説明したい。

++++++++++++++++

A子どもの金銭感覚

子どもの金銭感覚については、以前書いた原稿(中日新聞掲載済み)を、ここに掲載しておき
ます。参考にしてください。

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子どもに与えるお金は、一〇〇倍せよ!

●年長から小学二、三年にできる金銭感覚

 子どもの金銭感覚は、年長から小学二、三年にかけて完成する。この時期できる金銭感覚
は、おとなのそれとほぼ同じとみてよい。が、それだけではない。子どもはお金で自分の欲望
を満足させる、その満足のさせ方まで覚えてしまう。これがこわい。

●一〇〇倍論

 そこでこの時期は、子どもに買い与えるものは、一〇〇倍にして考えるとよい。一〇〇円のも
のなら、一〇〇倍して、一万円。一〇〇〇円のものなら、一〇〇倍して、一〇万円と。つまりこ
の時期、一〇〇円のものから得る満足感は、おとなが一万円のものを買ったときの満足感と
同じということ。そういう満足感になれた子どもは、やがて一〇〇円や一〇〇〇円のものでは
満足しなくなる。中学生になれば、一万円、一〇万円。さらに高校生や大学生になれば、一〇
万円、一〇〇万円となる。あなたにそれだけの財力があれば話は別だが、そうでなければ子
どもに安易にものを買い与えることは、やめたほうがよい。

●やがてあなたの手に負えなくなる

子どもに手をかければかけるほど、それは親の愛のあかしと考える人がいる。あるいは高価
であればあるほど、子どもは感謝するはずと考える人がいる。しかしこれはまったくの誤解。あ
るいは実際には、逆効果。一時的には感謝するかもしれないが、それはあくまでも一時的。子
どもはさらに高価なものを求めるようになる。そうなればなったで、やがてあなたの子どもはあ
なたの手に負えなくなる。

先日もテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でもその朝発売になるゲーム
ソフトを手に入れるために、六〇歳前後の女性がゲームソフト屋の前に並んでいるというの
だ。しかも徹夜で! そこでレポーターが、「どうしてですか」と聞くと、その女性はこう答えた。
「かわいい孫のためです」と。その番組の中は、その女性(祖母)と、子ども(孫)がいる家庭を
同時に中継していたが、子ども(孫)は、こう言っていた。「おばあちゃん、がんばって。ありがと
う」と。

●この話はどこかおかしい

 一見、何でもないほほえましい光景に見えるが、この話はどこかおかしい。つまり一人の祖
母が、孫(小学五年生くらい)のゲームを買うために、前の晩から毛布持参でゲーム屋の前に
並んでいるというのだ。その女性にしてみれば、孫の歓心を買うために、寒空のもと、毛布持
参で並んでいるのだろうが、そうした苦労を小学生の子どもが理解できるかどうか疑わしい。
感謝するかどうかということになると、さらに疑わしい。苦労などというものは、同じような苦労し
た人だけに理解できる。その孫にすれば、その女性は、「ただのやさしい、お人よしのおばあち
ゃん」にすぎないのではないのか。

●釣竿を買ってあげるより、魚を釣りに行け

 イギリスの教育格言に、『釣竿を買ってあげるより、一緒に魚を釣りに行け』というのがある。
子どもの心をつかみたかったら、釣竿を買ってあげるより、子どもと魚釣りに行けという意味だ
が、これはまさに子育ての核心をついた格言である。少し前、どこかの自動車のコマーシャル
にもあったが、子どもにとって大切なのは、「モノより思い出」。この思い出が親子のきずなを太
くする。

●モノに固執する国民性

日本人ほど、モノに執着する国民も、これまた少ない。アメリカ人でもイギリス人でも、そしてオ
ーストラリア人も、彼らは驚くほど生活は質素である。少し前、オーストラリアへ行ったとき、友
人がくれたみやげは、石にペインティングしたものだった。それには、「友情の一里塚(マイル・
ストーン)」と書いてあった。日本人がもっているモノ意識と、彼らがもっているモノ意識は、本質
的な部分で違う。そしてそれが親子関係にそのまま反映される。

 さてクリスマス。さて誕生日。あなたは親として、あるいは祖父母として、子どもや孫にどんな
プレゼントを買い与えているだろうか。ここでちょっとだけ自分の姿勢を振りかってみてほしい。

++++++++++++++++++++++

参考までに、子どもを伸ばす方法について
考えた原稿を、二作、添付しておきます。

++++++++++++++++++++++

好子(こうし)と嫌子(けんし)

 何か新しいことをしてみる。そのとき、その新しいことが、自分にとってつごうのよいことや、
気分のよいものであったりすると、人は、そのつぎにも、同じようなことを繰りかえすようにな
る。こうして人間は、自らを進化させる。その進化させる要素を、「好子(こうし)」という。

 反対に、何か新しいことをしてみる。そのとき、その新しいことが、自分にとってつごうの悪い
ことや、気分の悪いものであったりすると、人は、そのつぎのとき、同じようなことをするのを避
けようとする。こうして人間は、自らを進化させる。その進化させる要素を、「嫌子(けんし)」とい
う。

 もともと好子にせよ、嫌子にせよ、こういった言葉は、進化論を説明するために使われた。た
とえば人間は太古の昔には、四足歩行をしていた。が、ある日、何らかのきっかけで、二足歩
行をするようになった。そのとき、人間を二足歩行にしたのは、そこに何らかの好子があった
からである。たとえば(多分)、二足に歩行にすると、高いところにある食べ物が、とりやすかっ
たとか、走るのに、便利だったとか、など。あるいはもっとほかの理由があったのかもしれな
い。

 これは人間というより、人類全体についての話だが、個人についても、同じことが言える。私
たちの日常生活の中には、この好子と嫌子が、無数に存在し、それらが複雑にからみあって
いる。子どもの世界とて、例外ではない。が、問題は、その中身である。

 たとえば喫煙を考えてみよう。たいていの子どもは、最初は、軽い好奇心で、喫煙を始める。
この日本では、喫煙は、おとなのシンボルと考える子どもは多い。(そういうまちがった、かっこ
よさを印象づけた、JTの責任は重い!)が、そのうち、喫煙が、どこか気持ちのよいものであ
ることを知る。そしてそのまま喫煙が、習慣化する。

 このとき喫煙は、好子なのか。それとも嫌子なのか。たとえば出産予定がある若い女性がい
る。そういう女性が喫煙しているとするなら、その女性は、本物のバカである。大バカという言
葉を使っても、さしつかえない。昔、日本を代表する京都大学のN教授が、私に、こっそりとこう
教えてくれた。「奇形出産の原因の多くに、喫煙がからんでいることには、疑いようがない」と。

 体が気持ちよく感ずるなら、好子ということになる。しかし遺伝子や胎児に影響を与えること
を考えるなら、嫌子ということになる。……と、今まで、私はそう考えてきたが、この考え方はま
ちがっている。

 そもそも好子にせよ、嫌子にせよ、それは「心」の問題であって、「モノに対する反応」の問題
ではない。この二つの言葉は、よく心理学の本などに出てくるが、どうもすっきりしない。そのす
っきりしない理由が、実は、この混同にあるのではないか?

 たとえば人に親切にしてみよう。仲よくしたり、やさしくするのもよい。すると、心の中がポーツ
と暖かくなるのがわかる。実は、これが好子である。

 反対に、人に意地悪をしてみよう。ウソをついたり、ごまかしたりするのもよい。すると、心の
中が、どこか重くなり、憂うつになる。これが嫌子である。
 
 こうして人間は、体型や体の機能ばかりではなく、心も進化させてきた。そのことは、昔、オー
ストラリアのアボリジニーの生活をかいま見たとき知った。彼らの生活は、まさに平和と友愛に
あふれていた。つまりそういう「心」があるから、彼らは何万年もの間、あの過酷な大地の中で
生き延びることができた。

 言いかえると、現代人の生活が、どこか邪悪になっているのは、それは人間がもつ本来の姿
というよりは、欲得の追求という文明生活がもたらした結果ともいえる。そのことは、子どもの
世界を総じてみればわかる。

 私は今でも、数は少ないが、年中児から高校三年生まで、教えている。そういう流れの中で
みると、子どもたちが小学三、四年生くらいまでは、和気あいあいとした人間関係を結ぶことが
できる。しかしこの時期を境に、先生との関係だけではなく、友だちどうしの人間関係は、急速
に悪化する。ちょうどこの時期は、親たちが子どもの受験勉強に関心をもち、私の教室を去っ
ていく年齢でもある。子どもどうしの世界ですら、どこかトゲトゲしく、殺伐としたものになる。

 ひょっとしたら、親自身もそういう世界を経験しているためか、子どもがそのように変化しても
気づかないし、またそうあるべきと考えている親も少なくない。一方で、「友だちと仲よくしなさい
よ」と教えながら、「勉強していい中学校に入りなさい」と教える。親自身が、その矛盾に気づい
ていない。

 結果、この日本がどうなったか? 平和でのどかで、心暖かい国になったか。実はそうではな
く、みながみな、毎日、何かに追いたてられるように生きている。立ち止まって、休むことすら許
されない。さらにこの日本には、コースのようなものがあって、このコースからはずれたら、あと
は負け犬。親たちもそれを知っているから、自分の子どもが、そのコースからはずれないよう
にするだけで精一杯。が、そうした意識が、一方で、またそのコースを補強してしまうことにな
る。恐らく世界広しといえども、日本ほど、弱者に冷たい国はないのではないか。それもそのは
ず。受験勉強をバリバリやりこなし、無数の他人を蹴落としてきたような人でないと、この日本
では、リーダーになれない?

 ……と、また大きく話が脱線してしまったが、私たちの心も、この好子と嫌子によって、進化し
てきた。だからこそ、この地球上で、何十万年もの間、生き延びることができた。そしてその片
鱗(へんりん)は、今も、私たちの心の中に残っている。

 ためしに、今日一日だけ、自分にすなおに、他人に正直に、そして誠実に生きてみよう。他人
に親切に、やさしく、家族を暖かく包んでみよう。そしてそのあと、たとえば眠る前に、あなたの
心がどんなふうに変化しているか、静かに観察してみよう。それが「好子」である。その好子を
大切にすれば、人間は、これから先、いつまでも、みな、仲よく生きられる。

+++++++++++++++++++

自己嫌悪

 ある母親から、こんなメールが届いた。「中学二年生になる娘が、いつも自分をいやだとか、
嫌いだとか言います。母親として、どう接したらよいでしょうか」と。神奈川県に住む、Dさんから
のものだった。

 自我意識の否定を、自己嫌悪という。自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、絶
望感、不安心理など。そういうものが、複雑にからみ、総合されて、自己嫌悪につながる。青春
期には、よく見られる現象である。

 しかしこういった現象が、一過性のものであり、また現れては消えるというような、反復性があ
るものであれば、(それはだれにでもある現象という意味で)、それほど、心配しなくてもよい。
が、その程度を超えて、心身症もしくは気うつ症としての症状を見せるときは、かなり警戒した
ほうがよい。はげしい自己嫌悪が自己否定につながるケースも、ないとは言えない。さらにそ
の状態に、虚脱感、空疎感、無力感が加わると、自殺ということにもなりかねない。とくに、それ
が原因で、子どもがうつ状態になったら、「うつ症」に応じた対処をする。

 一般には、自己嫌悪におちいると、人は、その状態から抜けでようと、さまざまなな心理的葛
藤を繰りかえすようになる。ふつうは(「ふつう」という言い方は適切ではないかもしれないが…
…)、自己鍛錬や努力によって、そういう自分を克服しようとする。これを心理学では、「昇華」
という。つまりは自分を高め、その結果として、不愉快な状態を克服しようとする。

 が、それもままならないことがある。そういうとき子どもは、ものごとから逃避的になったら、あ
るいは回避したり、さらには、自分自身を別の世界に隔離したりするようになる。そして結果と
して、自分にとって居心地のよい世界を、自らつくろうとする。よくあるのは、暴力的、攻撃的に
なること。自分の周囲に、物理的に優位な立場をつくるケース。たとえば暴走族の集団非行な
どがある。

 だからたとえば暴走行為を繰りかえす子どもに向かって、「みんなの迷惑になる」「嫌われる」
などと説得しても、意味がない。彼らにしてみれば、「嫌われること」が、自分自身を守るため
の、ステータスになっている。また嫌われることから生まれる不快感など、自己嫌悪(否定)か
ら受ける苦痛とくらべれば、何でもない。

 問題は、自己嫌悪におちいった子どもに、どう対処するかだが、それは程度による。「私は自
分がいや」と、軽口程度に言うケースもあれば、落ちこみがひどく、うつ病的になるケースもあ
る。印象に残っている中学生に、Bさん(中三女子)がいた。

 Bさんは、もともとがんばり屋の子どもだった。それで夏休みに入るころから、一日、五、六時
間の勉強をするようになった。が、ここで家庭問題。父親に愛人がいたのがわかり、別居、離
婚の騒動になってしまった。Bさんは、進学塾の夏期講習に通ったが、これも裏目に出てしまっ
た。それまで自分がつくってきた学習リズムが、大きく乱れてしまった。が、何とか、Bさんは、
それなりに勉強したが、結果は、よくなかった。夏休み明けの模擬テストでは、それまでのテス
トの中でも、最悪の結果となってしまった。

 Bさんに無気力症状が現れたのは、その直後からだった。話しかければそのときは、柔和な
表情をしてみせたが、まったくの上の空。教室にきても、ただぼんやりと空をみつめているだ
け。あとはため息ばかり。このタイプの子どもには、「がんばれ」式の励ましや、「こんなことで
は○○高校に入れない」式の、脅しは禁物。それは常識だが、Bさんの母親には、その常識が
なかった。くる日もくる日も、Bさんを、あれこれ責めた。そしてそれがますますBさんを、絶壁へ
と追いこんだ。

 やがて冬がくるころになると、Bさんは、何も言わなくなってしまった。それまでは、「私は、ダ
メだ」とか、「勉強がおもしろくない」とか言っていたが、それも口にしなくなってしまった。「高校
へ入って、何かしたいことがないのか。高校では、自分のしたいことをしればいい」と、私が言
っても、「何もない」「何もしたくない」と。そしてそのころ、両親は、離婚した。

 このBさんのケースでは、自己嫌悪は、気うつ症による症状の一つということになる。言いか
えると、自己嫌悪にはじまる、自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、絶望感、不
安心理などの一連の心理状態は、気うつ症の初期症状、もしくは気うつ症による症状そのもの
ということになる。あるいは、気うつ症に準じて考える。

 軽いばあいなら、休息と息抜き。家庭の中で、だれにも干渉されない時間と場所を用意す
る。しかし重いばあいなら、それなりの覚悟をする。「覚悟」というのは、安易になおそうと考え
ないことをいう。

心の問題は、外から見えないだけに、親は安易に考える傾向がある。が、そんな簡単な問題
ではない。症状も、一進一退を繰りかえしながら、一年単位の時間的スパンで、推移する。ふ
つうは(これも適切ではないかもしれないが……)、こうした心の問題については、@今の状態
を、今より悪くしないことだけを考えて対処する。A今の状態が最悪ではなく、さらに二番底、
三番底があることを警戒する。そしてここにも書いたように、B一年単位で様子をみる。「去年
の今ごろと比べて……」というような考え方をするとよい。つまりそのときどきの症状に応じて、
親は一喜一憂してはいけない。

 また自己嫌悪のはげしい子どもは、自我の発達が未熟な分だけ、依存性が強いとみる。満
たされない自己意識が、自分を嫌悪するという方向に向けられる。たとえば鉄棒にせよ、みな
はスイスイとできるのに、自分は、いくら練習してもできないというようなときである。本来なら、
さらに練習を重ねて、失敗を克服するが、そこへ身体的限界、精神的限界が加わり、それも思
うようにできない。さらにみなに、笑われた。バカにされたという「嫌子(けんし)」(自分をマイナ
ス方向にひっぱる要素)が、その子どもをして、自己嫌悪に陥れる。

 以上のように自己嫌悪の中身は、複雑で、またその程度によっても、対処法は決して一様で
はない。原因をさぐりながら、その原因に応じた対処法をする。一般論からすれば、「子どもを
前向きにほめる(プラスのストロークをかける)」という方法が好ましいが、中学二年生という年
齢は、第二反抗期に入っていて、かつ自己意識が完成する時期でもある。見えすいた励ましな
どは、かえって逆効果となりやすい。たとえば学習面でつまずいている子どもに向かって、「勉
強なんて大切ではないよ。好きなことをすればいいのよ」と言っても、本人はそれに納得しな
い。

 こうしたケースで、親がせいぜいできることと言えば、子どもに、絶対的な安心を得られる家
庭環境を用意することでしかない。そして何があっても、あとは、「許して忘れる」。その度量の
深さの追求でしかない。こういうタイプの子どもには、一芸論(何か得意な一芸をもたせる)、環
境の変化(思い切って転校を考える)などが有効である。で、これは最悪のケースで、めったに
ないことだが、はげしい自己嫌悪から、自暴自棄的な行動を繰りかえすようになり、「死」を口
にするようになったら、かなり警戒したほうがよい。とくに身辺や近辺で、自殺者が出たようなと
きには、警戒する。

 しかし本当の原因は、母親自身の育児姿勢にあったとみる。母親が、子どもが乳幼児のこ
ろ、どこかで心配先行型、不安先行型の子育てをし、子どもに対して押しつけがましく接したこ
となど。否定的な態度、拒否的な態度もあったかもしれない。子どもの成長を喜ぶというより
は、「こんなことでは!」式のおどしも、日常化していたのかもしれない。神奈川県のDさんがそ
うであるとは断言できないが、一方で、そういうことをも考える。えてしてほとんどの親は、子ど
もに何か問題があると、自分の問題は棚にあげて、「子どもをなおそう」とする。しかしこういう
姿勢がつづく限り、子どもは、心を開かない。親がいくらプラスのストロークをかけても、それが
ムダになってしまう。

 ずいぶんときびしいことを書いたが、一つの参考意見として、考えてみてほしい。なお、繰り
かえすが、全体としては、自己嫌悪は、多かれ少なかれ、思春期のこの時期の子どもに、広く
見られる症状であって、決して珍しいものではない。ひょっとしたらあなた自身も、どこかで経験
しているはずである。もしどうしても子どもの心がつかめなかったら、子どもには、こう言ってみ
るとよい。「実はね、お母さんも、あなたの年齢のときにね……」と。こうしたやさしい語りかけ
(自己開示)が、子どもの心を開く。

++++++++++++++++

 たった今、MT氏に、これだけの回答を、メールで送った。時間にすれば、(返信)(コピー)
(送信)で、一〇秒足らずでできたのでは……。改めて、インターネットのすごさに驚く。昔なら、
つまりこんなことを手紙などでしていたら、数日はかかったかもしれない。
(031014)




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10

●かん黙児

子どもの心

●茨城県のWさんより……

 茨城県のWさん(現在四〇歳、母親)から、娘のかん黙についての、相談をもらった。それに
ついて、考えてみたい。

「現在八月で満六歳になった、一人娘のいる四〇歳の主婦です。

数年前、私の母の介護のため 娘(当時、三歳)を保育園に入園させました。
三か月間泣き、四か月間給食を、一切食べませんでした。

そのうち嫌がらず行けるようになりましたが、約半年後くらいから、あまりにも
嫌がるので休ませようとしましたが、園の方は、「必ず連れて来るように」とのこと。
で、一か月間、泣いているのを抱えて連れて行きました。

そのうち様子がおかしくなり(長くなるので内容は省略します)、 
そのあと、保育園から幼稚園に、転園しました。

ここでも三日目から嫌がり 休ませ 小児精神科に連れて行くと、「場面かん黙」との診断。
その時から、各週に箱庭療法と、二か月に一度カウンセリングを受けています。

ドクターは、私と娘との三人のカウンセリングでは 「娘の話す内容、態度を見る限
り、私との適度な距離がとれているので、私から離れられない、幼稚園に行けないと
は考えられない」と言っています。

昨年は休園させましたが、幼稚園の先生の協力と理解のもと、行事など、本人
の興味のある時だけ、私と一緒に参加させてもらい、今年の四月に、年長組になったの
をきっかけに、本人が「毎日行く」と言って、登園するようになりました。
(ほかの子どもたちとは一切話さず、関わりも、なかなかもてないようです)

お弁当は持っていけず、基本的には昼までに、降園していますが、出席シールだけ
貼って帰ったりと、その日に応じて臨機応変にしています。
最近は、部屋の前の靴箱から、なかなか教室に入れません。

私は本人の納得するまで、つまり子どもが、
帰っていいよと言うまで、その場で待っています。
時には降園までそこで待つときもあります。 
私はこれでいいと思っていますが、これでいいのでしょうか?
昨年と比べると、別人のように良い方向に変わっています。

今一番困っているのが、田舎なので年配の方との関わりが多く、なかなか理解されず
「この子は、おかしな子やな」、と娘に聞こえるように言われます。
その時の対処法に困っています。

かばうようなことを言うと私が責められ、それを見て、娘は大泣きします。
こっそり、「何にも悪いことはないよ。今で充分ですよ」と言っても大泣き。
かといって、知らぬ顔で済ますと、傷ついてしまうようで、それも心配です。

みなにからかわれることもあるようです。

絵日記を見ると、 

『いちりんしゃにのれるようになったよ 
いっしょうけんめいれんしゅうして 
のれるようになったよ 
でも どうして あのこはのれないんだろう』

と書いていました。

そんな、心のやさしい子です。
何かアドバイス頂ければ幸いです。

    茨城県M町、Wより」

●Wさんの問題

 一〇年ほど前までは、「学校へ行けない」というのが、大きな問題だった。が、今では、「幼稚
園へ行けない」というのが、問題になり始めている。それも、三歳や四歳の子どもが、である。

Wさんの問題を考える前に、「どうして三歳や四歳の子どもが、幼稚園へ行かねばならないの
か」「行く必要があるのか」「行かなければ、何が問題なのか」ということを、考えなければならな
い。

あるいはあと二〇年もすると、二歳や三歳の子どもについて、同じような相談をもらうようにな
るのかもしれない。「どうしてうちの子は、保育園へ行けないのでしょうか」と。

 Wさん自身が、「保育園は、行かねばならないところ」「幼稚園は、行かねばならないところ」
という、固定観念をもちすぎているところが、気になる。

 私は正直に告白するが、幼稚園にせよ、保育園にせよ、行くとしても、適当に行けばよいと考
えている。「適当」という言い方には、語弊があるかもしれないが、この時期は、あくまでも、家
庭教育が主体であること。それを忘れてはならない。

 ずいぶんと昔のことだが、ある幼稚園の先生方の研究発表会に、顔を出したことがある。全
員、女性。男は、私一人だけだった。

 一人の女性教師が、誇らしげに、包丁の使い方を教えているという報告をしていた。「私は、
ダイコンを切るとき、本物の包丁を使わせています」と。

 で、そのあと、意見を求められた。が、私は、思わず、こう言ってしまった。「そんなことは、家
庭で、母親が教えればいいことです」と。

 会場が、シーンとなってしまったのを覚えている。

●小学校の問題が、幼稚園で 

 Wさんは、こう書いている。「あまりにも嫌がるので休ませようとしましたが、園の方は、「必ず
連れて来るように」とのこと。で、一か月間、泣いているのを抱えて連れて行きました」と。

 当時、その子どもは、三歳である。たったの三歳である。あるいは、あなたは三歳の子ども
が、どういう子どもであるか、知っているだろうか?

 いくら保育園の先生が、「必ず連れてくるように」と言っても、一か月もの間、泣いている子ど
もを抱えて連れていってよいものだろうか。Wさんには悪いが、私はこのメールを読んで、この
部分で、いたたまれない気持になった。

 もちろんだからといって、Wさんを、責めているのではない。Wさんも書いているように、「母
の介護」という、やむにやまれぬ事情があった。それにWさんは、それが子どものために、よ
かれと思って、そうした。そういうWさんを、だれも責めることはできない。

 私が問題としたいことは、Wさんをそのように動かした、背景というか、社会的な常識である。

 私がこの世界に入ったときは、幼稚園教育も、二年、もしくは一年がふつうだった。浜松市内
でも、幼稚園(保育園)へ行かないまま、小学校へ入学する子どもも、五%はいた。

 それが三年保育となり、さらに保育園自身も、「預かる保育」から、「教える保育」へと変身し
ている。

 こういう流れの中で、三〇年前には、小学校で起きていた現象が、幼稚園でも起きるようにな
った。たとえば今では、不登校ならぬ、不登園の問題が、あちこちの幼稚園で起きている。Wさ
んの問題は、まさにその一つということになる。

●もっと、おおらかに! 
 
 はっきり言えば、子どもが、そこまで嫌がるなら、幼稚園や保育園へ、行く必要はない。まっ
たく、ない。

 少し前まで、(今でも、そう言う先生はいるが……)、幼稚園を休んだりすると、「遅れます」と
か、「甘やかしてはダメです」と、親を叱る先生がいた。

 しかしいったい、何から、子どもが遅れるのか? 心が風邪をひいて、病んでいる子どもを、
保護して、どうして、甘やかしたことになるのか?

 乳幼児期は、家庭教育が基本である。これは、動かしがたい事実である。この時期、子ども
は、「家庭」について学ぶ。学ぶというより、それを体にしみこませる。

 夫婦とは何か。父親や母親とは何か。そして家族とは、何か、と。家族が助けあい、守りあ
い、励ましあい、教えあう姿を、子どもは、体の中にしみこませる。このしみこみがあってはじめ
て、自分がつぎに親になったとき、自然な形で、子育てができる。

 それにかわるものを、幼稚園や保育園で、どうやって教えることができるというのか。ものご
とは、常識で考えてほしい。

 だからといって、幼児教育を否定しているのではない。しかし幼児教育には、幼児教育とし
て、すべきことが山のようにある。包丁の使い方をい教えるのが、幼児教育ではない。ダイコン
の切り方を教えるのが、幼児教育ではない。

 現にオーストラリアでは、週三日制の幼稚園もある。少し都会から離れた地域では、週一回
のスクーリングだけというところもある。あるいは、アメリカでは、親同士が、交互に子どもを預
かりあいながら、保育をしているところもある。

 幼児教育は、幼稚園、あるいは保育園で、と、構えるほうが、おかしい。今、この「おかしさ」
がわからないほどまで、日本人の心は、道からはずれてしまっている。

●かん黙児?

Wさんの子どもを、ドクターが、どのようにみて診断したのか、私は知らない。しかしその前提と
して、かん黙児の診断は、しばらく子どもを指導してみないと、できない。

 ドクターの前で、黙ったからといって、すぐかん黙児ということにはならない。ただ単に緊張し
ていただけかもしれないし、あるいは対人恐怖症、もしくは、集団恐怖症だったかもしれない。

 私は診断名をつけて、診断をくだすことはできないが、しかしかん黙児かどうかを判断するこ
とくらいなら、できる。が、そのときでも、数日間にわたって、子どもを指導、観察してみて、はじ
めてわかることであって、一、二度、対面したくらいで、わかるようなことではない。そのドクター
は、どうやって、「場面かん黙」と判断したのだろうか。

 このWさんのメールを読むかぎり、無理な隔離が原因で起きた、妄想性をともなった、集団
恐怖症ではないかと思う。……思うだけで、何ともいえないが、それがさらにこじれて、学校恐
怖症(幼稚園恐怖症)になったのではないかと思う。

 もっとも恐怖症がこじれて、カラにこもるということは、子どものばあい、よくある。かん黙も、
何かの恐怖体験がきっかけで起こることは、よく知られている。かん黙することにより、自分が
キズつくのを防ごうとする。これを心理学の世界では、防衛機制という。

 しかしもしそうなら、なおさら、無理をしてはいけない。無理をすればするほど、症状がこじ
れ、立ちなおりが遅れる。子どもの立場で、子どもの心をていねいにみながら、対処する。

 保育園の先生が、「必ず連れてくるように」と言ったというが、私には、とんでもない暴言に聞
こえる。あるいは別に何か、先生には先生なりの、理由があったのかもしれない。この点につ
いては、よくわからない。

 なお場面かん黙については、つぎのようなポイントを見て判断するとよい。

●かん黙児

(1)ふとしたこと、あるいは、特定の場面になると、貝殻を閉ざしたかのように、口を閉じ、黙っ
てしまう。

(2)気が許せる人(限られた親や兄弟、友人など)と、気が許せる場所(家)では、ごくふつうに
会話をすることができる。むしろ多弁であることが多い。


(3)かん黙している間、心と表情が遊離したかのようになり、何を考えているか、わからなくな
る。柔和な意味のわからない笑みを浮かべて、ニンマリとしつづけることもある。

(4)かん黙しているとき、心は緊張状態にある。表情に、だまされてはいけない。ささいなことで
興奮したり、激怒したり、取り乱したりする。私は、(親の了解を得た上で)、そっと抱いてみるこ
とにしている。心を許さない分だけ、体をこわばらせる。反対に抱かれるようだと、症状も軽く、
立ちなおりは、早い。

 詳しくは、「はやし浩司のサイト」の「かん黙児」を参照してほしい。

 で、こうした症状がみられたら、軽重もあるが、とにかく、無理をしないこと。そういう子どもと
認めた上で、半年単位で、症状の推移をみる。一度、かん黙症と診断されると、その症状は、
数年単位でつづく。が、小学校に入学するころから、症状は、軽減し、ほとんどの子どもは、小
学三、四年生くらいを境に、何ごともなかったかのように、立ちなおっていく。

 ある子ども(幼稚園児)は、毎朝、幼稚園の先生が、歩いて迎えにきたが、三年間、ただの一
度もあいさつをしなかった。その子どものばあいは、先生と、視線を合わせようとすらしなかっ
た。視線をそらすという、横視現象は、このタイプの子どもによく見られる症状の一つである。

 しかしかん黙症の子どもの、本当の問題は、親にある。家の中では、何も問題がないため、
幼稚園や保育園での様子を見て、「指導が悪い」「先生が、うちの子を、そういう子どもにした」
などと言う。私も、何度か、経験している。

 子ども自身では、どうにもならない問題と考える。いわんや、子どもを説教したり、叱っても意
味はない。

 子どもが自分で自分を客観的に判断できるようになるのは、小学三年生以上とみる。この時
期を過ぎると、自己意識が急速に発達して、自分で自分の姿を見ることができるようになる。そ
して自分で自分を、コントロールするようになる。

 かん黙児は、かん黙するというだけで、脳の働きは、ふつうか、あるいはそれ以上であること
が多い。もともと繊細な感覚をもっている。だから静かに黙っているからといって、脳の活動が
停止していると考えるのは、まちがいである。

 反応が少ないというだけで、ほかに問題は、ない。だから教えるべきことは教えながら、あと
は「よくやったね」とほめて、しあげる。先にも書いたように、この問題は、本人自身では、どう
にもならない問題なのである。
 
●Wさんへ

 メールによれば、「昨年と比べると、別人のように良い方向に変わっています」とのこと。私
は、まず、ここを重要視すべきではないかと思います。

 いただいたメールの範囲によれば、かん黙症状があるにせよ、対人恐怖か、集団恐怖が、
入りまざった症状ではないかと思います。一つの参考的意見として、お考えくだされば、うれし
いです。

 ふつうこの年齢では、かん黙症については、「別人のように……」という変化は、ありません。
その点からも、かん黙症ではなく、やはり何らかの妄想性をともなった、恐怖症が疑われます。
もし恐怖症であれば、少しずつ、環境にならしていくという方法で対処します。

 私自身も、いくつかの恐怖症をもっています。閉所恐怖症。高所恐怖症など。最近では、スピ
ード恐怖症になったこともあります。恐怖症というのはそういうもので、中味があれこれと変わ
ることはあります。つまり「恐怖症」という入れ物ができ、そのつど、その中味が、「閉所」になっ
たり、「高所」になったりするというわけです。

 下のお子さん(弟か妹)のことは書いてありませんが、もしいるなら、分離不安がこじれた症
状も考えられます。

 どちらであるにせよ、「別人のように……」ということなら、私は、もう問題はほとんど解決して
いるのではないかと思います。

●最後に……

 心に深いキズを負った人は、二つのタイプに分かれます。

 そのまま他人の心のキズが理解できるようになる人。もう一つは、心のキズに鈍感になり、今
度は、他人をキズつける側に回る人です。よく最悪のどん底を経験した人が、そのあと、善人
と悪人に分かれるのに、似ています。

 ほかにたとえば、はげしいいじめにあった子どもが、他人にやさしくなるタイプと、今度は、自
分も、いじめる側に回るタイプに分かれるのにも、似ています。

 今、Wさんのお嬢さんは、何かときびしい状況におかれていることは、「大泣き」という言葉か
らも、よくわかります。Wさんが、かばうと、また大泣きということですが、遠慮せず、かばってあ
げてください。無神経で、無理解な人たちに負けてはいけません。お嬢さん自身は、何も、悪い
ことはしていないのです。またどこも悪くはないのです。

 お嬢さんは、日記からもわかるように、たいへん心のやさしいお嬢さんです。回りの人に、そ
ういう目で見られながらも、自分をもちなおしています。理由は、簡単です。あなたという親の愛
情と理解を、たっぷりと受けているからです。つまりここでいう善人の道を、すでに選んでいる
わけです。

 事実、『愛は万能』です。親の愛がしっかりしていれば、子どもの心がゆがむということは、あ
りえません。最後の最後まで、その愛をつらぬきます。具体的には、最後の最後まで、「許し
て、忘れます」。その度量の広さで、親の愛情の深さが決まります。

 長いトンネルに見えたかもしれませんが、もう出口は、すぐそこではないでしょうか。いろいろ
つらいこともあったでしょうが、そのつらさが、今のあなたを大きく成長させたはずです。このこ
とは、もう少し先にならないとわからないかもしれませんが、やがてあなたも、いつか、それに
気づくはずです。

 幸運にも、Wさんは、たいへん気が長い方のように思います。よい母親の第一の条件を、も
っておられるようです。「(子どもが私に)、帰っていいよと言うまで、(いつまでも)、その場で待
っています」などということは、なかなかできるものではありません。尊敬します。

 結論を言えば、今のまま、前向きに進むしかないのではないかと思います。まわりの人を理
解させるのも、あるいはその流れを変えるのも、容易ではないと思います。それ以上に、ここに
も書いたように、もう出口に近いと思われます。あと少しのがまんではないかと思います。いか
がでしょうか?

 仮に、かん黙症であっても、率直に言えば、箱庭療法程度の療法で、その症状が改善すると
は、とても思われません。かん黙症について言えば、半年単位で、その症状を見守ります。

 で、このとき大切なことは、無理をして、今の症状をこじらせないこと、です。時期がくれば、
大半のかん黙症は、なおっていきます。

 「時期」というのは、ここにも書いたように、小学三、四年生前後をいいます。それまでにこじ
らせると、かえって恐怖心をいだかせたり、自信をなくさせたりします。「あなたは、あなたです
よ」という、暖かい理解が、今、大切です。子ども自身には、自分が(ふつうでない)という意識
は、まったくないのですから。

 最近、「暖かい無視」という言葉が、よく使われています。お嬢さんを、暖かい愛情で包みなが
ら、そうした症状については、無視するのが一番かと思います。だいたいにおいて、問題のな
い子どもなど、いないのですから、そういう視点でも、一度、おおらかに見てあげてください。

 なお、「幼稚園とは、行かねばならないところ」と考えるのは、バカげていますから、もしその
ようにお考えなら、そういう考え方は、改めてください。決して、無理をしないこと。「適当に行け
ばいいのよ」「行きたいときに行けばいいのよ」と、です。

 ただこれから先、ふとしたきっかけで、学校などへ行きたがらないことも起こるかもしれませ
ん。それについては、私の「学校恐怖症」(はやし浩司のサイト、症状別相談)を参考にしてくだ
さい。そういう兆候が見られたら、むしろ親のあなたのほうから、「今日は、学校を休んで、動物
園へでも行ってみる?」と、声をかけてみてください。そういうおおらかさが、子どもの心に、風
穴をあけます。

 つぎにスキンシップです。このスキンシップには、魔法の、つまりはまだ解明されていない、不
思議な力があります。子どもがそれを求めてきたら、おっくうがらず、ていねいに、それに答え
てあげてください。

 あとは、CA、MGの多い食生活にこころがけます。海産物を中心とした、食生活をいいます。

 またかん黙症であるにせよ、恐怖症であるにせよ、できるだけそういう状態から遠ざかるの
が、賢明です。要するに、思い出させないようにするのが、コツです。あとは、その期間を、少し
ずつ、できるだけ長くしていきます。

 最後に、子育ては、楽しいですよ。すばらしいですよ。いろいろなことがありますが、どうかそ
れを前向きにとらえてください。仮にあなたのお嬢さんが、かん黙症であっても、そんなのは、
何でもない問題です。先にも書きましたが、それぞれの人が、いろいろな問題をかかえていま
す。が、こと、かん黙症については、時期がくれば、消えていく、つまりは、マイナーな問題だと
いうことです。どうか、私の言葉を信じてください。

 ついでに、できれば、私の電子マガジンをご購読ください。きっと、参考になると思います。無
料です。
(031017)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●表情

 豊かで、自然な表情は、子どもの財産である。心がまっすぐ伸びている子どもは、表情が、豊
かで、自然。

 「自然」というのは、うれしいときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔を
する。

 ……そんなことが?、と思う人がいるかもしれないが、実は、今、その表情のない子どもがふ
えている。表情が、とぼしい子どもや、不自然な子どもも含めると、約二〇%が、そうではない
か。

 今週は、その表情をテーマに、演技の勉強をした。顔の運動、動作など。

 私の教室では、大声で笑い、大声で話すことを、指導の「柱」にしている。心が開放されると、
表情は、自然な形で、あとからついてくる。

 しかし……。

 幼児教育の世界でこわいのは、「仮面」。いわゆるいい子ぶる。そのため何を考えているか、
わからなくなる。

 この仮面がさらにひどくなると、心と表情が、遊離する。さらにその遊離が長期化すると、二
重人格性をもつようになり、それにショックが加わると、多重人格という人格障害者になること
もある。

 決して、安易に考えてはいけない。

 レッスンでは、喜怒哀楽の表現、その動作。動物のまねと進む。コツは、教える側が楽しむこ
と。教える側が恥ずかしがったりしていたら、指導はできない。私は、しかし、そういうことが平
気でできる。

 私の得意芸は、有名人のマネ。オカマや暴力団のマネも、うまい。「先生の頭には、スイッチ
があって、こわい先生も、やさしい先生もできるよ」と言うと、子どもたちは、それを本気にす
る。

 そこで頭のスイッチを動かしたフリをしながら、こわい先生や、やさしい先生を演じてみせる。
こわい先生を演じてみせると、子どもたちは、ゲラゲラと笑う。

 一一月から、年中児のクラスを一クラス、ふやすことにした。何かと、たいへんな時期だが、
ここはがんばるしかない。
(031018)

【補足】心の遊離

教師が子育ての宿命を感ずるとき

●かん黙症の子ども

 かん黙症の子ども(年長女児)がいた。症状は一進一退。少しよくなると親は無理をする。そ
の無理がまた、症状を悪化させる。私はその子どもを一年間にわたって、指導した。

指導といっても、母親と一緒に、教室の中に座ってもらっていただけだが、それでも、結構、神
経をつかう。疲れる。このタイプの子どもは、神経が繊細で、乱暴な指導がなじまない。

が、その年の年末になり、就学前の健康診断を受けることになった。が、その母親が考えたこ
とは、「いかにして、その健康診断をくぐり抜けるか」ということ。そしてそのあと、私にこう相談
してきた。

「心理療法士にかかっていると言えば、学校でも、ふつう学級に入れてもらえます。ですから心
理療法士にかかることにしました。ついては先生(私)のところにもいると、パニックになってし
まいますので、今日限りでやめます」と。「何がパニックになるのですか」と私が聞くと、「指導者
が二人では、私の頭が混乱します」と。

●経過は一年単位でみる

 かん黙児に限らず、子どもの情緒障害は、より症状が重くなってはじめて、前の症状が軽か
ったことに気づく。あとはその繰り返し。

私が「三か月は何も言ってはいけません。何も手伝ってはいけません。子どもと視線を合わせ
てもいけません」と言った。が、親には一か月でも長い。一週間でも長い。そういう気持ちはわ
かるが、私の目を盗んでは、子どもにちょっかいを出す。

一度親子の間にパイプ(依存心)ができてしまうと、それを切るのは、たいへん難しい。情緒障
害は、半年、あるいは一年単位でみる。「半年前とくらべて、どうだったか」「一年前は、どうだっ
たか」と。

一か月や二か月で、症状が改善するということは、ありえない。が、親にはそれもわからない。
最初の段階で、無理をする。時に強く叱ったり、怒ったりする。あるいは太いパイプを作ってし
まう。

初期の段階で、つまり症状が軽い段階で、それに気づき、適切な処置をすれば、「障害」という
言葉を使うこともないまま終わる。が、私はその母親の話を聞いたとき、別のことを考えてい
た。

●「そんな冷たいこと言わないでください!」

 はじめて母親がその子どもを連れてきたとき、私はその瞬間にその子どものかん黙症を、私
は疑った。母親も、それを気づいていたはずだ。しかし母親は、それを懸命に隠しながら、「音
楽教室ではふつうです」「幼稚園ではふつうです」と言っていた。

それが今度は、「心理療法士にかかっていると言えば、学校でも、ふつう学級に入れてもらえ
ます」と。母親自身が、子どもを受け入れていない。そういう状態になってもまだ、メンツにこだ
わっている。

もうこうなると、私に指導できることは何もない。私が「わかりました。ご自分で判断なさってくだ
さい」と言うと、母親は突然取り乱して、こう叫んだ。「そんな冷たいこと言わないでください! 
私を突き放すようなことを言わないでください!」と。

●親は自分で失敗して気づく

 子どもの情緒障害の原因のほとんどは、家庭にある。親を責めているのではない。たいてい
の親は、その知識がないまま、それを「よかれ」と思って無理をする。この無理が、症状を悪化
させる。

それはまさに泥沼の悪循環。そして気がついたときには、にっちもさっちもいかない状態になっ
ている。つまり親自身が自分で失敗して、その失敗に気づくしかない。確かに冷たい言い方だ
が、子育てというのはそういうもの。子育てには、そういう宿命が、いつもついて回る。

【参考】

●かん黙児

 かん黙児……家の中などではふつうに話したり騒いだりすることはできても、場面が変わると
貝殻を閉ざしたかのように、かん黙してしまう子どもを、かん黙児という。通常の学習環境での
指導が困難なかん黙児は、小学生で一〇〇〇人中、四人(〇・三八%)、中学生で一〇〇〇
人中、三人(〇・二九%)と言われているが、実際にはその傾向のある子どもまで含めると、二
〇人に一人以上は経験する。

 ある特定の場面になるとかん黙するタイプ(場面かん黙)と、場面に関係なくかん黙する、全
かん黙に分けて考えるが、ほかにある特定の条件が重なるとかん黙してしまうタイプの子ども
や、気分的な要素に左右されてかん黙してしまう子どももいる。順に子どもを当てて意見を述
べさせるようなとき、ふとしたきっかけでかん黙してしまうなど。

 一般的には無言を守り対人関係を避けることにより、自分の保身をはかるために、子どもは
かん黙すると考えられている。これを防衛機制という。幼稚園や保育園へ入園したときをきっ
かけとして発症することが多く、過度の身体的緊張がその背景にあると言われている。

 かん黙状態になると、体をこわばらせる、視線をそらす(あるいはじっと相手をみつめる)、口
をキッと結ぶ。あるいは反対に柔和な笑みを浮かべたまま、かん黙する子どももいる。心と感
情表現が遊離したために起こる現象と考えるとわかりやすい。

かん黙児の指導で難しいのは、親にその理解がないこと。幼稚園などでその症状が出たりす
ると、たいていの親は、「先生の指導が悪い」「集団に慣れていないため」「友だちづきあいが
ヘタ」とか言う。「内弁慶なだけ」と言う人もいる。そして子どもに向かっては、「話しなさい」「どう
してハキハキしないの!」と叱る。しかし子どものかん黙は、脳の機能障害によるもので、子ど
もの力ではどうにもならない。またそういう前提で対処しなければならない。



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11

●許して忘れる

●「許す」ことのむずかしさ

 人を許すことのむずかしさ。それを、私はいつも、実感する。

 で、その先というか、「許しあと、どうするか」という問題もある。許したからといって、そのあ
と、ベタベタつきあうということでもない。許したあと、そのまま、その人と、交際しなくなるという
こともある。また交際しなけばならないということでもない。あとは、自然体でいけばよい。

 問題は、親子や、兄弟。さらには親類である。

 A氏(四五歳)は、弟のB氏(四四歳)と、絶縁関係にある。遺産相続にからむ、金銭問題が
原因であった。弟のB氏が、詐欺師に近い人物で、逮捕歴も一度ある。暴力団とも関係したこ
とがある。

 A氏は、B氏に、一〇〇〇万円近い、お金を貸している。「返してほしい」と言うと、そのつど、
あれこれ、とぼけて、まったく取りあおうとしないという。

 そういうB氏を、A氏は、何度も許した。「恥もかきました」「女房の親戚には、いつも肩身の狭
い思いをしています」と。

 で、A氏は、B氏とかかわりたくないと思っているが、B氏のほうは、そうではない。何かと、実
家の問題にかこつけては、A氏のところにやってくる。母親は、今年、七〇歳になるという。元
気である。

 「こういうケースでも、許さねばならないのか」と。

 しかしA氏は、すでに許している。今でも、兄弟関係をつづけているということ自体、その証拠
である。

 ただその先、つきあうかどうかは、別の問題。許したからといって、つきあわねばならないと
いうことではない。つきあいたければ、つきあえばよい。つきあいたくなければ、つきあわなくて
もよい。無理をしてはいけない。無理をする必要はない。たとえ弟でも、「つきあいたくない」とい
うことであれば、それでよい。

 今でも、親子、兄弟、親類の、つまりはドロドロのしがらみの中で、もがき苦しんでいる人は、
五万といる。関係が、良好な人のほうが少ないのでは? 他人なら、そのまま別れることがで
きるが、血縁関係にあると、それもできない。世の中には、親をだます子どももいるが、子ども
をだます親だっている。決して、きれいごとばかりでは、通れない。

 しかし許すということは、自分の心を掃除するということにもなる。うらみ、つらみは、いわば
心のゴミのようなもの。そういうものが多ければ多いほど、心は腐る。私もある時期、数か月に
わたって、ある人をうらんだことがある。

 しかしそういうときというのは、あとから思い出しても、いやなもの。ワイフに言わせると、当
時、私の顔まで、醜くなったという。

 だから許す。どうせ人生は、短い。あの小泉さんも、ブッシュさんも、金XXも、あと三〇年をま
たずして、この世から、消える。私も消える。この文を読んでいる若い母親にしても、あと五〇
年で消える。みんな消える。

 だったら、「今」というときを、できるだけ充実させて、生きるほうがよい。うらみ、つらみは、そ
ういう人生にとって、マイナスになることはあっても、プラスになることは、何もない。

 ……といっても、人を許すということは、むずかしい。本当にむずかしい。毎日が、その戦い
であるといってもよい。私が望まなくても、問題は、そのつど、向こうから、打ち寄せる波のよう
にやってくる。そしてそのつど、その波に巻きこまれてしまう。

 今日も、がんばるしかない。「許す」というのは、まさに「生きることにまつわる、避けて通れな
い問題」ということになる。
(031019)

【追記】

 この「許す」についで生まれる問題が、「忘れる」ということである。

 許すことはできても、忘れることができないということは、いくらでもある。ここに書いたA氏に
しても、許してはいるが、忘れてはいないということになる。この「忘れる」という部分について
は、また、別の機会に考えてみたい。

+++++++++++++++++++++

これについて、以前、書いた原稿を添付します。
中日新聞に発表したものです。
子育てで行きづまりを感じたようなとき、
どうかご一読ください。

+++++++++++++++++++++

子育てのすばらしさを教えられるとき

●子をもって知る至上の愛  
  
 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。その一つが、至上の愛を教えられ
ること。ある母親は自分の息子(三歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命はどうなっても
いい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。こうした「自分の命すら惜しくない」という至上
の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。

●自分の中の命の流れ

 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。「自分
の中に父がいる」という思いである。私は夜行列車の窓にうつる自分の顔を見て、そう感じたこ
とがある。その顔が父に似ていたからだ。

そして一方、息子たちの姿を見ていると、やはりどこかに父の面影があるのを知って驚くことが
ある。先日も息子が疲れてソファの上で横になっていたとき、ふとその肩に手をかけた。そこに
死んだ父がいるような気がしたからだ。

いや、姿、形だけではない。ものの考え方や感じ方もそうだ。私は「私は私」「私の人生は私の
ものであって、誰のものでもない」と思って生きてきた。しかしその「私」の中に、父がいて、そし
て祖父がいる。自分の中に大きな、命の流れのようなものがあり、それが、息子たちにも流れ
ているのを、私は知る。つまり子育てをしていると、自分も大きな流れの中にいるのを知る。自
分を超えた、いわば生命の流れのようなものだ。

●神の愛と仏の慈悲

 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何ものでもない。死
はすべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死は不条理な
り」とも言う。そういう意味で私は孤独だ。いくら楽しそうに生活していても、いつも孤独がそこに
いて、私をあざ笑う。すがれる神や仏がいたら、どんなに気が楽になることか。

が、私にはそれができない。しかし子育てをしていると、その孤独感がふとやわらぐことがあ
る。自分の子どものできの悪さを見せつけられるたびに、「許して忘れる」。これを繰り返してい
ると、「人を愛することの深さ」を教えられる。いや、高徳な宗教者や信仰者なら、深い愛を、万
人に施すことができるかもしれない。が、私のような凡人にはできない。できないが、子どもに
対してならできる。いわば神の愛、仏の慈悲を、たとえミニチュア版であるにせよ、子育ての場
で実践できる。それが孤独な心をいやしてくれる。

●神や仏の使者

 たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子どもを大
きくすることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きることにまつわ
る、矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。それを知るか知らないかは、その人の問題意識の
深さにもよる。

が、ほんの少しだけ、自分の心に問いかけてみれば、それでよい。それでわかる。子どもとい
うのは、ただの子どもではない。あなたに命の尊さを教え、愛の深さを教え、そして生きる喜び
を教えてくれる。いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未来永劫にわたって、伝え
てくれる。つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。

子どもはそういう意味で、まさに神や仏からの使者と言うべきか。いや、あなたがそれに気づい
たとき、あなた自身も神や仏からの使者だと知る。そう、何がすばらしいかといって、それを教
えられることぐらい、子育てですばらしいことはない。



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12

●バラバラになっていく家族

 家族も、いつか、バラバラになっていく。息子たちも、一人去り、また一人と去っていく……。
気がついてみると、家庭から笑い声が消え、台所のテーブルには冷えたおかずと、食べかけ
たパンが並ぶようになる。

 いくら電気を明るくしても、もうあのころの華やかさは、戻ってこない。しかしいくら「時よ、止ま
れ」と叫んでも、時は、手のひらからこぼれる砂のように、そのまま流れていく。

 私は、必死で、家族を呼び止める。しかしそこにあるのは、秋の乾いた風。いつしか、息子た
ちの心も離れ、私から去っていく。私の知らない歌を歌い始め、私の知らない人物の名前を語
り始める。そして私の知らない世界へと、飛び立っていく。

 生意気になる息子たち。勝手なことし始める息子たち。しかしそんなとき、私は、ただひたす
ら「許して、忘れる」。それだけを、心に念ずる。何を言われても、何をされても……。ただひた
すら、許して忘れる。

 これが家族なのか? これが私が求めてきた家族なのか? 親の愛だけで、家族は守りき
れるものなのか?

 二〇歳をすぎたころから、私とは、ほとんど口をきかなくなった、長男。七年前に、アメリカへ
旅立った、二男。大学へは入ったものの、中退してパイロットになると言い出した、三男。

 それぞれが、私の願いを、どこかで踏みにじりながら、自分の道を歩み始めた。そういう息子
たちを見ながら、「これが私が求めてきた家族か?」と、自分に問いかける。

 昨日、二男の結婚披露パーティを開いた。アメリカ人の嫁さんに、あなたはみんなに歓迎され
ているということを、伝えたかった。それにワイフの兄弟たちが、協力してくれた。で、山荘で、
そのパーティを開いた。兄弟の家族など、二〇名近くが集まってくれた。

 嫁さんと二男は、和服を着た。嫁さんは、振袖。二男は、袴。最初は、「そんなの、いやだ」と
言っていた二男だが、当日は、うれしそうだった。みなが、「すてきだ」「美しい」とほめたから
だ。

 ワイフの兄弟は、みな、心のやさしい人たちだ。お祝いのごちそうを、重箱にして届けてくれ
た人。手作りのプレゼントを作ってくれた人。ケーキを作ってくれた人など。

 庭での会食のあと、部屋で、宴会を開いた。そのときのこと。長男が、ホタテ貝をむいて、私
のところにもってきてくれた。二男は、あれこれとみなに、給仕してくれた。三男は、もっぱら、
接待係。

 そして私たちは、全員で、あの「Sailing」を合唱した。

 一番を、三人の息子が歌い、二番を二男、三番を嫁さん、四番を、ワイフと私。五番を長男
のハーモニカのソロ。三男が、ギターを弾いた。

 そして六番、七番は、全員で合唱。二男と嫁さんが、それにハーモニーを添えてくれた。あの
バラバラだった家族が、あのどうしようもないほど、バラバラだった家族が、そのとき、一つにな
った!

 私はその歌を歌いながら、何度もこみあげる思いで、声がつまった。だから歌が歌えなく、口
だけを動かした。

 ……その夜、寝る前に、ワイフに、「今日は楽しかったね」と言うと、ワイフもうれしそうだっ
た。さらに床についてから、「今日は、ありがとう」と声をかけると、「いざとなったら、みんな、力
になってくれるわよ。だって、私たちは、みんな家族だから」と。

 人生に最良の日があるとするなら、まさに昨日が、そうだった。私は、何度も、ふとんで顔を
おさえながら、鼻歌で、「Sailing」を歌った。

 ワイフよ息子たちよ、ありがとう!
 兄弟のみなさん、ありがとう!
 日本のみなさん、ありがとう!
 アメリカのみなさん、ありがとう!
 世界のみなさん、ありがとう!
 この命をくれた、宇宙のみなさん、ありがとう!

●みなさんへ、

 どんなに、今、家族がバラバラで、その心がバラバラでも、許して、忘れる。決して、あきらめ
ては、いけませんよ。あとは、根くらべです。負けても、負けても、ただひたすら負ける。

 許して、忘れる。ただひたすら、許して、忘れる。その道は、決して楽な道ではありません。し
かし、ただひたすら、許して、忘れる。そのハバの広さが、結局は、親の愛の深さになるのです
ね。そしてその愛は、子どもの、心を、必ず、溶かします。どんなかたい心でも、溶かします。そ
れを信じて、ただひたすら、許して、忘れる。

 がんばりましょう!

+++++++++++++++++++++++++

親が子どもを許して忘れるとき

●苦労のない子育てはない

 子育てには苦労はつきもの。苦労を恐れてはいけない。その苦労が親を育てる。親が子ども
を育てるのではない。子どもが親を育てる。

よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分を育てること」と言う人がいる。まちがっては
いないが、しかし子育てはそんな甘いものではない。

親は子育てをしながら、それこそ幾多の山や谷を越え、「子どもを産んだ親」から、「真の親」へ
と、いやおうなしに育てられる。たとえばはじめて幼稚園へ子どもを連れてくるような親は、確か
に若くてきれいだが、どこかツンツンとしている。どこか軽い(失礼!)。バスの運転手さんや炊
事室のおばさんにだと、あいさつすらしない。

しかしそんな親でも、子どもが幼稚園を卒園するころには、ちょうど稲穂が実って頭をさげるよ
うに、姿勢が低くなる。人間味ができてくる。

●子どもは下からみる

 賢明な人は、ふつうの価値を、それをなくす前に気づく。そうでない人は、それをなくしてから
気づく。健康しかり、生活しかり、そして子どものよさも、またしかり。

 私には三人の息子がいるが、そのうちの二人を、あやうく海でなくすところだった。とくに二男
は、助かったのはまさに奇跡中の奇跡。あの浜名湖という広い海のまん中で、しかもほとんど
人のいない海のまん中で、一人だけ魚を釣っている人がいた。あとで話を聞くと、国体の元水
泳選手だったという。

私たちはそのとき、湖上に舟を浮かべて、昼寝をしていた。子どもたちは近くの浅瀬で遊んで
いるものとばかり思っていた。が、三歳になったばかりの三男が、「お兄ちゃんがいない!」と
叫んだとき、見ると上の二人の息子たちが流れにのまれるところだった。

私は海に飛び込み、何とか長男は助けたが、二男はもう海の中に沈むところだった。私は舟
にもどり、懸命にいかりをたぐろうとしたが、ロープが長くのびてしまっていて、それもできなか
った。そのときだった。「もうダメだア」と思って振り返ると、その元水泳選手という人が、海から
二男を助け出すところだった。

●「こいつは生きているだけでいい」

 以後、二男については、問題が起きるたびに、「こいつは生きているだけでいい」と思いなお
すことで、私はその問題を乗り越えることができた。花粉症がひどくて、不登校を繰り返したと
きも、受験勉強そっちのけで作曲ばかりしていたときも、それぞれ、「生きているだけでいい」と
思いなおすことで、乗り越えることができた。

私の母はいつも、こう言っていた。『上見てキリなし。下見てキリなし』と。人というのは、上ばか
りみていると、いつまでたっても安穏とした生活はやってこないということだが、子育てで行きづ
まったら、「下」から見る。「下」を見ろというのではない。下から見る。「生きている」という原点
から子どもを見る。そうするとあらゆる問題が解決するから不思議である。

●子育ては許して忘れる 

 子育てはまさに「許して忘れる」の連続。昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んでいる
と、オーストラリアの友人がいつもこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ」(※)と。英語では
「Forgive and Forget」という。この「フォ・ギブ(許す)」という単語は、「与えるため」とも訳せる。

同じように「フォ・ゲッツ(忘れる)」は、「得るため」とも訳せる。しかし何を与えるために許し、何
を得るために忘れるのか。私は心のどこかで、この言葉の意味をずっと考えていたように思
う。が、ある日。その意味がわかった。

 私が自分の息子のことで思い悩んでいるときのこと。そのときだ。この言葉が頭を横切った。
「どうしようもないではないか。どう転んだところで、お前の子どもはお前の子どもではないか。
許して忘れてしまえ」と。

つまり「許して忘れる」ということは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るため
に忘れろ」ということになる。そしてその深さ、つまりどこまで子どもを許し、忘れるかで、親の愛
の深さが決まる。

もちろん許して忘れるということは、子どもに好き勝手なことをさせろということではない。子ど
もの言いなりになるということでもない。許して忘れるということは、子どもを受け入れ、子ども
をあるがままに認めるということ。

子どもの苦しみや悲しみを自分のものとして受け入れ、仮に問題があったとしても、その問題
を自分のものとして認めるということをいう。

 難しい話はさておき、もし子育てをしていて、行きづまりを感じたら、子どもは「生きている」と
いう原点から見る。が、それでも袋小路に入ってしまったら、この言葉を思い出してみてほし
い。許して忘れる。それだけであなたの心は、ずっと軽くなるはずである。

※……聖書の中の言葉だというが、私は確認していない。
(031020)




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13

●子どもの職業観

●将来なりたい職業は「公務員」(男子)、「保育士」(女子) 

TBS社が、高校三年生について調査したところ、つぎのような将来像をもっているのが、わか
った(03−10−20)。

 「将来就きたい職業の一位は「公務員」と「保育士」。高校三年生を対象にした進路について
のアンケート調査で、厳しい雇用環境の中、安定したイメージの職種が上位に並んだ。

 アンケート調査は、全国四〇〇人余りの高校三年生と、その保護者を対象に行われた。そ
の結果、「どんな仕事に就きたいか」という質問に対し、一位は男子が「公務員」、女子は「保育
士・幼稚園教諭」となった。以下、教師や看護師など、資格が必要で安定したイメージの職業
が上位を占めた。
 
 三年前の同じ調査では「ゲームクリエイター」「カウンセラー」などの いわゆるカタカナ職業が
目立ったが、今回は少数派。
 
 一方で、「なりたくない職業」には男子の「サラリーマン」などが挙げられていて、 身近な大人
の仕事を、魅力に思えないという現実もうかがえる」(i−newsより、転載)と。

●サラリーマンがいや?

 この調査で気になったのは、「サラリーマンがいや」と答えた高校三年生や、親が多かったと
いうこと。わかるような気もするし、しかし、同時に、「どうして?」とも、思う。公務員にしても、保
育士にしても、サラリーマンであることには、違いない。

 公務員志望が多いということは、要するに、お金はほしいが、働きたくないということか。教職
員のように、忙しすぎて悲鳴をあげている公務員(※)がいる一方で、「毎日、どうやって時間を
つぶすか、そればかりを考えている。パソコン相手にゲームをしていても、だれからも文句を言
われない」(G県、検査課、課長)と言う公務員もいる。

しかし、この日本では、悲しいかな、公務員は絶対、得! 公務員になれるのなら、なったほう
がよい。仕事は楽だし、給料も、よい。少しきつい仕事だと、年収、一〇〇〇万円はふつう。た
とえば清掃作業にたずさわる公務員などは、年収、一二〇〇万円前後にもなるという(週刊誌
情報)。「仕事は、一日、数時間程度。昼過ぎには風呂に入って、毎日、定刻に、家に帰る。残
業など、いっさい、なし」(同記事)と。

 ちなみに、東京都の船橋市は、職員給与を、ホームページ上で公表しているが、それによっ
ても、全職員一人あたりの所得給与は、平均、八〇二万六〇〇〇円(期末、勤勉手当などを
含む)だそうだ(〇二年度実績)。

 大卒の初任給が、二〇万円程度だから、反対に考えると、年収、一〇〇〇万円以上もザラと
いうことになる。もちろんリストラもない。退職金にいたっては、民間平均支給額の数一〇倍以
上(東京江東区)。さらに生涯にわたって、手厚い年金が保証され、加えて、天下り先も用意さ
れている。

 一人ひとりの公務員の方に責任があるわけではないが、こんなことをつづけていれば、日本
の経済は、確実に破綻(はたん)する。いや、旧国鉄の債務問題をみるまでもなく、すでに破綻
している。

たとえば私の近所に住むK氏(八一歳)は、二六年前に、満五五歳で、旧国鉄を退職してい
る。以後、毎月、三四万円の年金を受け取っている。その合計金額だけでも、一億一〇〇〇
万円程度になる。そのせいかどうかは、知らないが、旧国鉄の債務だけでも、とうとう二〇兆円
を超えてしまった! (国家税収の約半分だぞ!)

 K氏は、「私ら、戦争で苦労したし、安い給料でがんばりましたからね。今、もらっているお金
にしても、収めた分を、返してもらっているだけです」と言う。しかし、本当にそうだろうか。いろ
いろ言いたいことはあるが、まあ、この話は、ここまで。

 官僚主義国家と言えば、まだ聞こえはよい。しかしその実態は、旧ソ連の、共産主義国家
と、それほど違わない。日本は、本当に、民主主義国家なのだろうか? 公務員という職種
が、人気職種のナンバーワンになって、もう一〇年以上になる。その話を聞くたびに、私の頭
の中では、「?」マークが、ウズを巻く。
(031021)

※……そのため、ほとんどの自治体では、教職員だけは、一般公務員より、約二〇%ましの
給与体系をとっている。



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14

●園の方針

はじめまして。
はやし先生にぜひご相談したく、メールさせていただいています。

私はH市に住んでいます、EAと申します。

はやし先生のことは中日新聞の連載を読みとても共感でき、勉強にもなり、
S町で、行われた講演会にも参加させて、いただきました。

今は、三年生の二男が、月刊雑誌「ファミリス」をもってきています。

今回ご相談したいことは。幼稚園の園長先生のことなのですが、
私には三人の子が、いますが、上の子が、幼稚園に通っている時と、園の雰囲気が、
あまりにみかけ離れてしまいました。公立の幼稚園にもかかわらず、ものすごく
かたくるしくて、息苦しい感じになってしまい、残念でしかたがありません。

そのため、これで、子どもたちは、大丈夫なのだろうか?、という不安にかられます。

具体的に言いますと、まず、外遊びが、とてもへってしまったこと。
どろんこ遊びなどは、ほとんどなく、砂場も二つあるうちのひとつは日陰で、
今では、物置になってしまいました。

いままで、何年もの間、使えたものが、です。

また、小さな池が作ってあり、水遊びもでできましたが、それも今では
そこも危ないということで、水が抜いてあります。

そのほか、以前は、小動物も何匹か飼っていましたが、それもなくなりました。

プロレスのような遊びも、禁止です。友だちとの物の取りあい、
もちろん喧嘩など、もってのほか。すべて危ないからだそうです。

私はこういったことから、ものすごく大切なものを幼少期時代に
学べると思っているのですが、あれはだめ、これはだめ、とがんじがらめなのです。

不満を感じているお母さんたちもかなり多いのですが、
直接園長先生の話しても結局言い訳ばかりで、何となくはぐらかされてしまい、
話にならないという感じです。

現状をわかっていただこうと息子の学校の先生にも、相談してみました。
こちらの幼稚園にくる前にも、何かと、問題のあった園長のようです。

こちらの方も今年で三年目なのですが、色々な園長先生がいると、
それは、それで、対応していった方が良いのでしょうか?

子どもたちにとって、三年間この園長先生の方針で、園生活を送り、
今経験しなくては、いけないことをしなかったことに
よって、一〇年後の友だちとのかかわり方など、問題はおきないのだろうか、
と真剣に悩んでいます。

そこまで、心配しなくても、他のことで、学んでいくのでしょうか?

もう少しのびのびした園生活をおくらせてあげたいのですが……
突然のメールでながながと愚痴を書いてしまい、申し訳ありません。

ぜひ、はやし先生のお考えを聞かせていただきたいと思います。
よろしくお願いいたします。

++++++++++++++++++++++++

【EAさんへ……】

 家庭教育の主導権は、だれがもつかという問題に、行きつくと思います。「家庭」か、それとも
「園」か?

 EAさんのご質問を読んで、最初に気になったのは、「何でも、幼稚園で……」という姿勢で
す。「その幼稚園が、願ったような教育をしてくれないから、不満」というわけです。

 しかし、ね、EAさん。家庭教育の主導権は、あくまでも、家庭にあります。保育園にせよ、幼
稚園にせよ、その家庭教育を支える、補助的な存在でしかありません。もともと「教育」というの
は、そういう目的から出発しました。

 全体主義国家、軍事国家、貴族国家では、教育は、「民づくり」の道具として使われ、また使
われています。残念ながら、この日本には、いまだにその亡霊が、はびこっています。教育を
受ける側にも、その亡霊が、はびこっています。

 そこでどうでしょうか、発想を、少し変えてみるのです。

 家庭でできないことを、園でしてもらう。園でしないことは、自分でする、とです。これは、欧米
人の発想です。

 アメリカでは、公立の小学校でも、カリキュラムは、その学校の先生と、親たちで決めていま
す。先生を、親たちが雇って、自分で開いている学校も、少なくありません。「チャータースクー
ル」というのが、それです。

 そういう学校を見ていると、「では、日本の学校は、いったい、何か?」ということになります。
事実、私は、そう思いました。

 日本では、いまだに学歴信仰が、ハバをきかせています。それを学校神話が支えています。
「学校は絶対」という考え方です。

 以前は、それが「学校」でした。が、今は、それが低年齢化し、「幼稚園」や「保育園」となった
わけです。「幼稚園は絶対」「保育園は絶対」と、です。EAさんのメールを読んでいると、そんな
感じすら、します。

 つまりEAさん自身が、「幼稚園はそういうところ」と思い込んでいる?、のではないか、という
ことです。まちがっていたら、ごめんなさい。

 こうした依存性は、実は、日本人独特のものと言ってもよいでしょう。「何でも、お上(かみ)に
してもらう」という姿勢です。そのために、お上には、従順に従う。命令なら、何でも聞くというよ
うに、です。

 事実、一方で、砂場の不衛生問題、紫外線問題、いじめ問題など、学校のみならず、園に
も、山積しています。こと野外活動について言うなら、紫外線については、日本人も、もう少し慎
重になったほうがよいのではないでしょうか。紫外線というのは、言うまでもなく、人体にきわめ
て有害な、放射線です。

 オーストラリアでは、その時期になると、紫外線情報を流し、子どもたちに外出禁止命令が出
されます。ふだんでも、ツバの広い帽子をかぶり、サングラスをしています。

 けんかや、いじめについては、先生もたいへん苦しい立場にあると思います。EAさんのよう
な方がいらっしゃる一方で、そういうことを絶対に許さない親たちもいます。先日もある小学校
(I町I小学校)で講演をしましたが、その学校の校長先生が、こっそりと、こう話してくれました。

 「今、現場の先生たちが、みな、萎縮してしまっている」と。

 ささいな暴力事件でも、ことさら大げさに考えて、学校の責任を追及する親たちがいるからで
す。で、その結果、「萎縮してしまっている」と。

 こうした問題の原因は、何かというと、冒頭に書いた、「何でも学校で」という、学校神話です。
話はそれますが、不登校の問題にしても、その流れの中にあります。「学校とは、絶対に行か
ねばならないところ」という発想です。そういうがんじがらめの発想が、不登校の問題を、ことさ
ら大きくしてしまいます。

 EAさんのご意見について、否定的なことばかり書きましたが、そこでどうでしょう。ここは、ほ
んの少しだけ、発想を変えてみられては……。

 「幼稚園でできないことは、自分でしてみよう」「幼稚園でしてくれないことは、自分でしてみよ
う」と、です。

 そうすれば、ずいぶんと、荷が軽くなるはずです。また幼稚園に対する不満も、消えるはずで
す。ドイツやイタリアでは、親たちは、そう考えて、子どもの教育に当たっています。クラブ制度
が発達し、たいていの子ども(中学生)たちは、午前中で授業を終え、それぞれのクラブに通っ
て、好き勝手なことをしています。本来、個性を伸ばす教育というのは、そういう教育を言うの
ですね。

 幼稚園の園長が、何かと、はぐらかしてしまう……というのは、そのあたりに理由があるよう
に思います。つまり一方で、「それを望まない親たちがいる」ということです。しかしそういう親が
いることは、言えない。また批判もできない。そこで「何となく、はぐらかされてしまい……」とな
るのですね。

 多分、私が園長でも、同じような、あいまいな説明をするしかないと思います。

 また、これは私の経験ですが、私は、以前は、よく生徒たちを連れてキャンプに行ったりしま
した。しかし事故が起きたら、それこそ、たいへんです。

 知りあいの先生が、自分の教え子たちを、キャンプに連れていったことがあります。もちろん
無料。ボランティア。しかしそのキャンプをしているとき、がけの上から、大きな岩が落ちてき
て、その中の一人が死んでしまいました。これはG県I村で、実際に、起きた事件です。

 この事件は新聞にも載りましたが、その先生は、当時、三〇〇〇万円も、慰謝料などを請求
されました。二〇年近く前のことですから、今のお金になおすと、一億円近い金額になります。

 ボランティアということで、当然(?)、保険には入っていませんでした。その先生は、そのあと
どうなったか? ここに書くのもつらいですが、自己破産、離婚……など。しかし、その話を聞
いからというもの、私は、生徒たちを、キャンプに連れていくのを、やめました。

 他人の子どもを預かるというのは、本当に、たいへんなことです。園長をかばうわけではあり
ませんが、それこそ毎日、目が回るほどの、忙しさです。相手が幼児となると、さらにたいへん
です。

 私も、この三週間、たった一人の孫(一歳)に、朝から番まで、翻弄(ほんろう)されました。ほ
んの少し目を離したとたん、倒れて、テーブルの角で頭をぶったりします。自分の子どもなら、
こうまで疲れないだろうなというほど、疲れました。

 で、こういう問題は、たとえば教育委員会レベルまでもちあげても、解決はしないだろうと思い
ます。問題の「性質」そのものが、教育委員会で、どうこうなる種類のものではないからです。
そこでその方針を、どうやって、縁側に伝えていくかですが、実のところ、ここにも大きな限界が
あります。私立幼稚園ならまだしも、公立幼稚園となると、なおさらです。

 そこで視点を大きく変えて、では、そういう指導法が、子どもにどのような影響を与えるかにつ
いて、考えてみます。EAさんは、「子どもたちにとって、三年間この園長先生の方針で、園生活
を送り、今経験しなくては、いけないことをしなかったことによって、一〇年後の友だちとのかか
わり方など、問題はおきないのだろうか」と書いておられます。

 人の基本的な人間関係は、母と子の間で、形成されます。しかもその時期は、かなり初期
で、〇歳から一、二歳にかけてです。これは発達心理学の世界でも、常識です。その基本的な
人間間系が、やがてワクを広げて、先生と子ども、子どもと子どもとの関係へと、応用されてい
きます。ですから、この点については、EAさんのご心配は、まったく、無用かと思います。

 つまりこの時期、友人関係が制限されたからといって、交友関係が結べなくなるとか、あるい
は反対に、制限されなかったからといって、交友関係が結べるようになるとか、そういうことは
ありません。子どもの交友関係は、もっと別のところで、別の形で、論じられるべき問題です。

 そこでもう少し深く、「今、経験すべきこと」について、考えてみます。昔、フルグラムという人
は、「人生で必要な知識はすべて砂場で学んだ」と書いています。それについて書いた原稿
を、二作、ここに添付します。少し脱線するかもしれませんが、お許しください。

+++++++++++++++++

●遊びが子どもの仕事

 「人生で必要な知識はすべて砂場で学んだ」を書いたのはフルグラムだが、それは当たらず
とも、はずれてもいない。

「当たらず」というのは、向こうでいう砂場というのは、日本でいう街中の公園ほどの大きさがあ
る。オーストラリアではその砂場にしても、木のクズを敷き詰めているところもある。

日本でいう砂場、つまりネコのウンチと小便の入りまざった砂場を想像しないほうがよい。また
「はずれていない」というのは、子どもというのは、必要な知識を、たいていは学校の教室の外
で身につける。実はこの私がそうだった。

 私は子どものころ毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいた。今でいう帰宅拒否
の症状もあったのかもしれない。それはそれとして、私はその寺で多くのことを学んだ。けんか
のし方はもちろん、ほとんどの遊びもそうだ。性教育もそこで学んだ。

……もっとも、それがわかるようになったのは、こういう教育論を書き始めてからだ。それまで
は私の過去はただの過去。自分という人間がどういう人間であるかもよくわからなかった。い
わんや、自分という人間が、あの寺の境内でできたなどとは思ってもみなかった。しかしやはり
私という人間は、あの寺の境内でできた。

 ざっと思い出しても、いじめもあったし、意地悪もあった。縄張りもあったし、いがみあいもあ
った。おもしろいと思うのは、その寺の境内を中心とした社会が、ほかの社会と完全に隔離さ
れていたということ。

たとえば私たちは山をはさんで隣り村の子どもたちと戦争状態にあった。山ででくわしたら最
後。石を投げ合ったり、とっくみあいのけんかをした。相手をつかまえればリンチもしたし、つか
まればリンチもされた。

しかし学校で会うと、まったくふつうの仲間。あいさつをして笑いあうような相手ではないが、し
かし互いに知らぬ相手ではない。目と目であいさつぐらいはした。つまり寺の境内とそれを包
む山は、スポーツでいう競技場のようなものではなかったか。競技場の外で争っても意味がな
い。

つまり私たちは「遊び」(?)を通して、知らず知らずのうちに社会で必要なルールを学んでい
た。が、それだけにはとどまらない。

 寺の境内にはひとつの秩序があった。子どもどうしの上下関係があった。けんかの強い子ど
もや、遊びのうまい子どもが当然尊敬された。そして私たちはそれに従った。親分、子分の関
係もできたし、私たちはいくら乱暴はしても、女の子や年下の子どもには手を出さなかった。仲
間意識もあった。

仲間がリンチを受けたら、すかさず山へ入り、報復合戦をしたりした。しかしそれは日本という
より、そのまま人間社会そのものの縮図でもあった。だから今、世界で起きている紛争や事件
をみても、私のばあい心のどこかで私の子ども時代とそれを結びつけて、簡単に理解すること
ができる。

もし私が学校だけで知識を学んでいたとしたら、こうまですんなりとは理解できなかっただろう。
だから私の立場で言えば、こういうことになる。「私は人生で必要な知識と経験はすべて寺の
境内で学んだ」と。

+++++++++++++++++

●ギャング集団

 子どもは、集団をとおして、社会のルール、秩序を学ぶ。人間関係の、基本もそこで学ぶ。そ
ういう意味では、集団を組むというのは、悪いことではない。が、この日本では、「集団教育」と
いう言葉が、まちがって使われている。

 よくある例としては、子どもが園や学校へ行くのをいやがったりすると、先生が、「集団教育に
遅れます」と言うこと。このばあい、先生が言う「集団教育」というのは、子どもを集団の中にお
いて、従順な子どもにすることをいう。

日本の教育は伝統的に、「もの言わぬ従順な民づくり」が基本になっている。その「民づくり」を
すること、つまり管理しやすい子どもにすることが、集団教育であると、先生も、そして親も誤解
している。

 しかし本来、集団教育というのは、もっと自発的なものである。また自発的なものでなければ
ならない。たとえば自分が、友だちとの約束破ったとき。ルールを破って、だれかが、ずるいこ
とをしたとき。友だちどうしがけんかをしたとき。何かものを取りあったとき。友だちが、がんば
って、何かのことでほめられたとき。あるいは大きな仕事を、みなで力をあわせてするとき、な
ど。

そういう自発的な活動をとおして、社会の一員としての、基本的なマナーや常識を学んでいくの
が、集団教育である。極端な言い方をすれば、園や学校など行かなくても、集団教育は可能な
のである。それが、ロバート・フルグラムがいう、「砂場」なのである。もともと「遅れる」とか、「遅
れない」とかいう言葉で表現される問題ではない。

 だから言いかえると、園や学校へ行っているから、集団教育ができるということにはならな
い。行っていても、集団教育されない子どもは、いくらでもいる。集団から孤立し、自分勝手で、
わがまま。他人とのつながりを、ほとんど、もたない。こうした傾向は、子どもたちの遊び方に
も、現れている。

 たとえば砂場を見ても、どこかおかしい? たとえば砂場で遊んでいる子どもを見ても、みな
が、黙々と、勝手に自分のものをつくっている。私たちが子どものときには、考えられなかった
光景である。

 私たちが子どものときには、すぐその場で、ボス、子分の関係ができ、そのボスの命令で、バ
ケツで水を運んだり、力をあわせてスコップで穴を掘ったりした。そして砂場で何かをするにし
ても、今よりはスケールの大きなものを作った。が、今の子どもたちには、それがない。

+++++++++++++++++++++

【EAさんへ……】

 そこでどうでしょうか、つぎのように考えてみたら……。

 幼稚園でできること。幼稚園がしてくれること。そして一方、幼稚園でできないこと。幼稚園で
してくれないこと。これらを、しっかりと頭の中で、分けてみたらどうでしょうか。

 一つの参考例を、ここにあげてみます。

 埼玉県にある、ある幼稚園では、親どうしが相談して、子どもを預かりあうという活動をしてい
ます。Aさんが、BさんとCさんの子どもを預かり、一晩、世話をする。つぎに今度は、Bさんが、
AさんとCさんの子どもを預かり、一晩、世話をするという活動です。

 「他人の家の釜のメシを食べさせることによって、自分の家の釜のメシの味が、よくわかるよ
うになる」という、園長の方針で、それが始まりました。

 しかし問題は、すぐ起きました。プライバシーが、筒抜けになってしまうというわけです。「そこ
までプライバシーを開示していいのか」という異論も出ました。生活レベルの違いもあるからで
す。

そこでその幼稚園では、ごく親しい人たちの間で、たがいに納得できる人どうしの間で、子ども
の世話をしあうという方針に変えたそうです。

 しかし方法としては、おもしろいですね。EAさんも、幼稚園から離れたところで、独自の姿勢
と方針で、こうした活動をしてみたら、いかがでしょうか。また最近では、野外活動を積極的に
するクラブも、あちこちに生まれています。そういうクラブを通して、子どもに、いろいろ体験さ
せるという方法もあります。

 最後に、子育ては、親がするものだということ。幼稚園でも、学校でもありません。どこでどの
ように学び、成長していくかは、子どもの問題ですが、それを助け、励ましていくのは、親だとい
うことです。そういう原点に立ちかえって、幼稚園のあり方を、もう一度、さぐってみてください。

 ただし、EAさんのように、子育てや、教育、子どもを包む環境に関心をもつことは、とても大
切なことです。決して、EAさんが、まちがっているとか、そういうことではありません。

 こうした問題意識を、より多くの親たちがもつことによって、日本の教育も、よくなります。私も
ある時期、何でも学校で……、何でも幼稚園で……という発想で、学校や幼稚園を批判したこ
とがあります。しかしそれも一巡すると、そういう発想そのものが、おかしいと、気がつきまし
た。

 そして今は、この回答の冒頭に書いたように、家庭教育の主導権は、だれがもつかという問
題に、行きつきました。「家庭」か、それとも「園」か?……と、です。

 最後に、決して、EAさんのお子さんが通っている幼稚園を擁護しているわけではありません
が、(また擁護しなければならない立場にもありませんが)、こと幼児教育について言えば、あ
る程度の「適当さ」も、大切だということです。

 「行きたければ行けばいいのよ」「適当に行けばいいのよ」「あなたなりに、楽しんできなさい」
と、です。そういうおおらかさが、一方で、子どもを伸ばすのも事実です。こと、人間関係につい
ては、一〇年後のことは、悩まないこと。それを決めるのは、あなたではなく、子ども自身だか
らです。もうすでに、年齢的に、あなたの子どもは、少しずつですが、親離れの準備を始めてい
るはずです。いかがでしょうか?
(031022)




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15

●父子論

 父親は、しょせん、「ひとしずく」。それで、おしまい。

 一方、母親は、子どもをはらみ、産み、育てる。子どもにとって、母親は絶対だが、父親は、
そうでない。ないことは、カトリック教会へ行けば、わかる。母のマリア像は飾ってあるが、父の
ヨセフ像を飾ってあるところは、ない。(いろいろ理由は、あるようだが……。)

 そこで父親というのは、母親と子どもの関係をみながら、横で嫉妬しながら、その間に割って
入ろうとする。しかし、そこには、おのずと限界がある。入ろうしながら、どうしても入りきれな
い、何かがある。子どもたちと接する時間も少ない。

 つまりは、不安定な関係ということになる。

 この不安定さを補うために、父親は、たとえば権威をもちだしたりする。しかしそれとて、いま
では、神通力をなくした。財力や権力のある父親は、それで子どもをしばろうとする。しかしそ
れにも、思ったほどの力はない。

 やがて父親は、家族の中で孤立する。ときには、「お前たちは、だれのおかげで……!」と
も、言いたくなる。しかしそれを口にしたら、お・し・ま・い。

 「父親は仕事、母親は家事」と、だれが言った? だれが決めた? 父親は、その常識の中
で、ただ、もがき、苦しむ。

 父親とは、では、何なのか? そも、生物学的に考えて、人間には、父親が必要なのか? 
動物の中には、種つけだけをして、そのまま雌のもとを去っていく雄は、いくらでもいる。子育て
の間だけ、夫婦の形をする雄もいる。しかし人間は、生涯にわたって、父親は父親でありつづ
ける。それが本来の、生物としての、人間のあるべき姿なのか?

 父親が父親であるのは、その生きザマを示すときかもしれない。とくに息子たちには、そう
だ。息子たちにとっては、父親というのは、「母」を介してのライバルでしかない。こうした心の葛
藤を、心理学では、エディプス・コンプレックス※という。わかりやすく言えば、その生きザマを
示すことができなければ、父親というのは、息子たちにとっては、いてもいなくても、よい存在と
いうことになる。

 それだけに父親の置かれた立場は、きびしい。家族の生活を支えることができなければ、そ
のまま「親失格」のレッテルを、張られてしまう。生きザマを示せなければ、息子たちのみなら
ず、妻にさえ、愛想をつかされる。ある女子高校生は、父親に向かって、こう叫んだ。

 「私を大学へやるのは、あんたの義務でしょ! 借金でもなんでもして、私を大学へやって
よ!」と。

 父親が事業に失敗して、その娘に、「進学をあきらめてほしい」と言ったときのことだ。

 こうしたきびしさは、母親には、ない。ふつうこういう状態になると、母親(妻)まで、父親(夫)
を責める。「あんたが、だらしないからよ!」と。

 しかしほとんどの父親たちは、その現実に目を閉じたまま、「親である」という幻想にしがみつ
く。しかし幻想は、幻想。ある男性(七六歳)は、ことあるごとに、こうこぼしている。「最近の若
いものたちは、先祖を大切にしない」と。

 しかし「先祖」という言葉そのものが、実は、幻想。彼が言う「先祖」とは、自分自身のことであ
るということにさえ、その男性は気づいていない。つまりは、さみしい存在であるということ。

 もちろん父親の中には、息子や娘と、心温かい関係を築いている人もいる。しかし皮肉なこと
に、そういう人に限って、「私は父親である」という、父親意識が、薄い。上下意識をもった「親」
ではなく、「友」として、いつも子どもの横にいる。そうした謙虚さが、子どもの心を開く。よい人
間関係を築く。

++++++++++++++++++++++

エディプス・コンプレックスについて書いたのが、
つぎの原稿です。

++++++++++++++++++++++

※エディプス・コンプレックス

 ソフォクレスの戯曲に、『エディプス王』というのがある。ギリシャ神話である。物語の内容は、
つぎのようなものである。

 テーバイの王、ラウルスは、やがて自分の息子が自分を殺すという予言を受け、妻イヨカスタ
との間に生まれた子どもを、山里に捨てる。しかしその子どもはやがて、別の王に拾われ、王
子として育てられる。それがエディプスである。

 そのエディプスがおとなになり、あるとき道を歩いていると、ラウルスと出会い、けんかする。
が、エディプスは、それが彼の実父とも知らず、殺してしまう。

 そのあとエディプスは、スフィンクスとの問答に打ち勝ち、民衆に支持されて、テーバイの王と
なり、イヨカスタと結婚する。つまり実母と結婚することになる。

 が、やがてこの秘密は、エディプス自身が知るところとなる。つまりエディプスは、実父を殺
し、実母と近親相姦をしていたことを、自ら知る。

 そのため母であり、妻であるイヨカスタは、自殺。エディプス自身も、自分で自分の目をつぶ
し、放浪の旅に出る……。

 この物語は、フロイト(オーストリアの心理学者、一八五六〜一九三九)にも取りあげられ、
「エディプス・コンプレックス」という言葉も、彼によって生みだされた(小此木啓吾著「フロイト思
想のキーワード」(講談社現代新書))。

つまり「母親を欲し、ライバルの父親を憎みはじめる男の子は、エディプスコンプレックスの支
配下にある」(同書)と。わかりやすく言えば、男の子は成長とともに、母親を欲するあまり、ライ
バルとして父親を憎むようになるというのだ。(女児が、父親を欲して、母親をライバル視すると
いうことも、これに含まれる。)

 私も今までに何度か、この話を聞いたことがある。しかしこうしたコンプレックスは、この日本
ではそのまま当てはめて考えることはできない。

その第一。日本の家族の結びつき方は、欧米のそれとは、かなり違う。

その第二。文化がある程度、高揚してくると、男性の女性化(あるいは女性の男性化といって
もよいが)が、かぎりなく進む。

現代の日本が、そういう状態になりつつあるが、そうなると、父親、母親の、輪郭(りんかく)そ
のものが、ぼやけてくる。つまり「母親を欲するため、父親をライバルとみる」という見方そのも
のが、軟弱になってくる。

現に今、小学校の低学年児のばあい、「いじめられて泣くのは、男児。いじめるのは女児」とい
う、逆転現象(「逆転」と言ってよいかどうかはわからないが、私の世代からみると、逆転)が、
当たり前になっている。

 家族の結びつき方が違うというのは、日本の家族は、父、母、子どもという三者が、相互の依
存関係で成り立っている。三〇年ほど前、それを「甘えの構造」として発表した学者がいるが、
まさに「甘えの関係」で成り立っている。

子どもの側からみて、父親と母親の境目が、いろいろな意味において、明確ではない。少なくと
も、フロイトが活躍していたころの欧米とは、かなり違う。だから男児にしても、ばあいによって
は、「父親を欲するあまり、母親をライバル視することもありうる」ということになる。

 しかし全体としてみると、親子といえども、基本的には、人間関係で決まる。親子でも嫉妬(し
っと)することもあるし、当然、ライバルになることもある。親子の縁は絶対と思っている人も多
いが、しかし親子の縁も、切れるときには切れる。

また親なら子どもを愛しているはず、子どもならふるさとを愛しているはずと考える、いわゆる
「ハズ論」にしても、それをすべての人に当てはめるのは、危険なことでもある。そういう「ハズ
論」の中で、人知れず苦しんでいる人も少なくない。

 ただ、ここに書いたエディプス・コンプレックスが、この日本には、まったくないかというと、そう
でもない。私も、「これがそうかな?」と思うような事例を、経験している。私にもこんな記憶があ
る。

 小学五年生のときだったと思う。私はしばらく担任になった、Iという女性の教師に、淡い恋心
をいだいたことがある。で、その教師は、まもなく結婚してしまった。それからの記憶はないが、
つぎによく覚えているのは、私がそのIという教師の家に遊びに行ったときのこと。

川のそばの、小さな家だったが、私は家全体に、猛烈に嫉妬した。家の中にはたしか、白いソ
ファが置いてあったが、そのソファにすら、私は嫉妬した。常識で考えれば、彼女の夫に嫉妬
にするはずだが、夫には嫉妬しなかった。私は「家」嫉妬した。家全体を自分のものにしたい衝
動にかられた。

 こういう心理を何と言うのか。フロイトなら多分、おもしろい名前をつけるだろうと思う。あえて
言うなら、「代償物嫉妬性コンプレックス」か。好きな女性の持ちものに嫉妬するという、まあ、
ゆがんだ嫉妬心だ。

そういえば、高校時代、私は、好きだった女の子のブラジャーになりたかったのを覚えている。
「ブラジャーに変身できれば、毎日、彼女の胸にさわることができる」と。そういう意味では、私
にはかなりヘンタイ的な部分があったかもしれない。(今も、ある!?)

 話を戻すが、ときとして子どもの心は複雑に変化し、ふつうの常識では理解できないときがあ
る。このエディプス・コンプレックスも、そのひとつということになる。まあ、そういうこともあるとい
う程度に覚えておくとよいのでは……。何かのときに、役にたつかもしれない。

+++++++++++++++++++++

●再び父子論

要するに、父親は、あまり「父親」という意識をもたないで、気楽に生きるということ。「私は親
だ」と、親風を吹かすのもよくないし、「親だから……」と気負いすぎるのも、よくない。

 そういう意味では、やるべきことを淡々とやりながら。母親と子どもの関係には、あまり深入り
しないこと。いわんや、母親と子どもの関係に、とってかわろうなどと思わないこと。

 しょせん父親は、父親。ただの「ひとしずく」。腹を痛めたわけでもないし、乳をくれたわけでも
ない。極端な言い方をすれば、母親がいなければ、子どもは死ぬが、父親がいなくても、子ど
もは育つ。その事実を、謙虚に、受け止める。受け止めて、あとは、あ・き・ら・め・る。

 どうやらそれが、父親としての、あるべき姿勢ということになる。
(031022)




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16

●教育の錯覚

 漢字をよく知っているから、国語力があるということにはならない。同じように、計算力がある
から、算数がよくできるということにはならない。

 こうした錯覚は、子どもの学習には、いつもついて回る。たとえばよくしゃべる子どもは、頭が
よく見える。しかしそう見えるだけであって、本当に頭がよいかどうかは、別問題。
 
 しかし最大の錯覚は、勉強がよくできる子どもを、人格的にすぐれていると考えること。頭が
よいからといって、人格的にすぐれているということにはならない。その人の人格は、長い年月
を経て、苦労の中で、熟成される。

 むしろ、勉強があまりできない子どものほうに、人格的にすぐれた子どもが多い? 一方、勉
強しかしない、勉強しかできない、いわゆる「勉強バカ(失礼!)」の子どものほうに、問題があ
る子どもが、多い?

 昔、印象に残っている子どもに、S君という高校生がいた。私がアルバイトをしていた進学塾
の塾長の息子だったが、いつも、どこか、おかしかった。そのS君、ある日、私にこう言った。

 「林先生、この世界はすべて数学で説明できます。人も、動物も、組織も、社会も、すべてで
す」と。

 彼の頭の中は、そのため、数字だらけだった。難しい公式でも、一度見ただけで、覚えてしま
った。全国の大学の、それぞれの学部の最低合格点も、すべて頭の中に入っていた。私でも、
ウンウンとうならなければ考えなければならないような数学の問題でも、目の前で、スイスイと
解いてみせた。それはまさに、神業(かみわざ)に近かった。

 そのS君が、そののち、どのような人生を送ったか、そして今、送っているか、私は偶然、よく
知る立場にある。が、それは、ここには、書けない。一度は世話になった人の息子である。

 しかしS君は、今、かなり責任の重い仕事についている。私はそのS君のうわさを聞くたび
に、「これでいいのか?」と、疑問に思う。何かしら、この日本の流れを、ゆがめてしまったかの
ようにさえ感ずる。あるいは一時的ではあるにせよ、私は、そのS君を、家庭教師したことがあ
る。そういう自分を、心のどこかで後悔している。

 そこで私は、こう思う。

 学校の教師の仕事の一つに、人格的にすぐれた子どもと、そうでない子どもを見分ける作業
も、含まれるのではないかということ。人格的にすぐれた子どもを、より励まし、伸ばす。

 現に今、この日本には、歴然とした学歴社会がある。そういう社会に、子どもたちを送り出す
にしても、子どもを教える教師は、どこかで方向性をもたねばならない。ただ知恵さえつければ
よいというような、無責任な教育は、許されるべきではない。でないと、結局は、日本は、ここで
いう「勉強バカ」だけが得をするという社会になってしまう。

 これに関連して、以前、こんな原稿(中日新聞掲載済み)を書いた。

++++++++++++++++++++

●生意気な子どもたち

 子「くだらねエ、授業だな。こんなの、簡単にわかるよ」
私「うるさいから、静かに」
子「うるせえのは、テメエだろうがア」
私「何だ、その言い方は」
子「テメエこそ、うるせえって、言ってんだヨ」
私「勉強したくないなら、外へ出て行け」
子「何で、オレが、出て行かなきゃ、ならんのだヨ。貴様こそ、出て行け。貴様、ちゃんと、金、も
らっているんだろオ!」と。
そう言って机を、足で蹴っ飛ばす……。

 中学生や高校生との会話ではない。小学生だ。しかも小学四年生だ。もの知りで、勉強だけ
は、よくできる。彼が通う進学塾でも、一年、飛び級をしているという。

しかしおとなをおとなとも思わない。先生を先生とも思わない。今、こういう子どもが、ふえてい
る。問題は、こういう子どもをどう教えるかではなく、いかにして自分自身の中の怒りをおさえる
か、である。あるいはあなたなら、こういう子どもを、一体、どうするだろうか。

 子どもの前で、学校の批判や、先生の悪口は、タブー。言えば言ったで、あなたの子どもは
先生の指導に従わなくなる。冒頭に書いた子どものケースでも、母親に問題があった。

彼が幼稚園児のとき、彼の問題点を告げようとしたときのことである。その母親は私にこう言っ
た。

「あなたは黙って、息子の勉強だけをみていてくれればいい」と。つまり「よけいなことは言うな」
と。母親自身が、先生を先生とも思っていない。彼女の夫は、ある建設会社の社長だった。ほ
かにも、私はいろいろな経験をした。こんなこともあった。

 教材代金の入った袋を、爪先でポンとはじいて、「おい、あんたのほしいのは、これだろ。取
っておきナ」と。彼は市内でも一番という進学校に通う、高校一年生だった。

あるいは面と向かって私に、「あんたも、こんなくだらネエ仕事、よくやってんネ。私ゃネ、おとな
になったら、あんたより、もう少しマシな仕事をスッカラ」と言った子ども(小六女児)もいた。や
はりクラスでは、一、二を争うほど、勉強がよくできる子どもだった。

 皮肉なことに、子どもは使えば使うほど、苦労がわかる子どもになる。そしてものごしが低くな
り、性格も穏やかになる。しかしこのタイプの子どもは、そういう苦労をほとんどといってよいほ
ど、していない。具体的には、家事の手伝いを、ほとんどしていない。言いかえると、親も勉強
しか、せていない。また勉強だけをみて、子どもを評価している。子ども自身も、「自分は優秀
だ」と、錯覚している。

 こういう子どもがおとなになると、どうなるか……。サンプルにはこと欠かない。日本でエリート
と言われる人は、たいてい、このタイプの人間と思ってよい。官庁にも銀行にも、そして政治家
のなかにも、ゴロゴロしている。

都会で受験勉強だけをして、出世した(?)ような人たちだ。見かけの人間味にだまされてはい
けない。いや、ふつうの人はだませても、私たち教育者はだませない。彼らは頭がよいから、
いかにすれば自分がよい人間に見えるか、また見せることができるか、それだけを毎日、研究
している。

 教育にはいろいろな使命があるが、こういう子どもだけは作ってはいけない。日本全体の将
来にはマイナスにこそなれ、プラスになることは、何もない。
 
+++++++++++++++++++

 ここに書いた子どもについては、後日談がある。

 私が思いあまって、このことを母親に告げたときのこと。そのとき、その母親は、車の中にい
た。が、母親のほうが、先に、私に、こう言った。

 「あんたは、授業中、ふざけて遊んでばかりいるそうですね。息子が言うには、ちゃんと、教え
ていない」と。

 その子どもは、先手を取って、母親には、私の悪口ばかりを並べていたらしい。このタイプの
子どもが、よく使う手である。つまり私が親に、子どものことを話す前に、子どものほうが、私の
悪口を言う。そして悪いのは、自分ではなく、林のほうだと、親に思わせる。

 母親は、車の中から外へ出ようともしなかった。そしてプイと前を向いて、車を発進させた。

 それっきり。本当に、それっきり。以後、音信は、ない。連絡もない。たぶん、今ごろは、優秀
な高校生として、どこかの進学高校に通っているだろうと思う。

++++++++++++++++++++

ここまで書いて、以前書いた原稿(中日新聞掲載済み)を
思い出したので、再掲載します。

++++++++++++++++++++

●先手を取る子ども

 ある朝、通りでAさんとすれ違ったとき、Aさんはこう言った。「これから学校へ抗議に行くとこ
ろです」と。話を聞くと、こうだ。「うちの息子(小四)の先生は、点の悪い子どものテストは、投
げて返す。そういうことは許せない」と。しかし本当にそうか?

 子どもは塾などをやめたくなっても、決して「やめたい」とは言わない。そういうときはまず、先
生の悪口を言い始める。「まじめに教えてくれない」「えこひいきする」「授業中、居眠りをしてい
る」など。つまり親をして、「そんな塾ならやめなさい」と思うようにしむける。ほかに、学校の先
生に、「今度、君のお母さんに、全部、本当のことを話すぞ」と脅かされたのがきっかけで、学
校の先生の悪口を言うようになった子ども(小三女児)もいた。

その子どもはいわば先手を打ったわけだが、こうした手口は、子どもの常套手段。子どもの言
い分だけを聞いて真に受けると、とんでもないことになる。こんな例もある。

 たいていの親は「うちの子はやればできるはず」と思っている。それはそうだが、しかし一方
で、この言葉ほど子どもを苦しめる言葉はない。B君(中一)も、その言葉で苦しんでいるはず
だった。そこである日私は、B君にこうアドバイスした。「君の力は君が一番よく知っているはず
ではないか。だったら、お父さんに正直にそう言ったらどうか」と。

しかしB君は、決してそのことを父親に言わなかった。言えば言ったで、自分の立場がなくなっ
てしまう。B君は、親に「やればできるはず」と思わせつつ、いろいろな場面で自分のわがまま
を通していた。あるいは自分のずるさをごまかすための、逃げ口上にしていた。

 子どもの心だから単純だと考えるのは、正しくない。私の教育観を変えた事件にこんなのが
ある。幼稚園で教師になったころのことである。

 Kさん(年長児)は静かで目立たない子どもだった。教室の中でも自分から意見を発表すると
いうことは、ほとんどなかった。が、その日は違っていた。Kさんの母親が授業参観にきてい
た。Kさんは、「ハイ!」と言って手をあげて、自分の意見を言った。そこで私は少し大げさにK
さんをほめた。ほめてほかの子どもたちに手を叩かせた。と、そのときである。Kさんがスーッ
と涙を流したのである。

私はてっきりうれし泣きだろうと思ったが、それにしても合点がいかない。そこで教室が終わっ
てから、Kさんにその理由を聞いた。するとKさんはこう言った。「私がほめられたから、お母さ
んが喜んでいると思った。お母さんが喜んでいると思ったら、涙が出てきちゃった」と。Kさん
は、母親の気持ちになって、涙をこぼしていたのだ!

 さて話をもとに戻す。Aさんは、「テストを投げて返すというのは、子どもの心を踏みにじる行
為だ」と息巻いていた。が、本当にそうか? 先生とて、時にふざけることもある。その範囲の
行為だったかもしれない。子どもを疑えということではないが、やり方をまちがえると、この種の
抗議は、教師と子どもの信頼関係をこなごなに砕いてしまう。私はAさんのうしろ姿を見送りな
がら、むしろそちらのほうを心配した。

++++++++++++++++++++++++

ついでに、もう一作……。

++++++++++++++++++++++++

●汝自身を知れ(キロン)

 小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中二男児)がいた。どこがどう問題児だったか
は、ここに書けない。書けないが、その子どもにある日、それとなくこう聞いてみた。

「君は、学校の先生たちにかなりめんどうをかけたようだが、それを覚えているか?」と。

するとその子どもは、こう言った。「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくを目のかたきに
して、ぼくを怒った」と。私はその子どもを前にして、しばらく考えこんでしまった。いや、その子
どものことではない。自分のことというか、自分を知ることの難しさを思い知らされたからだ。

ところで哲学の究極の目的は、自分を知ることにある。スパルタの賢人のキロンは、「汝自身
を知れ」という有名な言葉を残している。フランスの哲学者のモンテーニュ(1533〜1592)も
「随想録」の中で、こう書いている。

「各人は自己の前を見る。私は自己の内部を見る。私は自己が相手なのだ。私はつねに自己
を考察し、検査し、吟味する」と。「自分を知る」ということは、一見簡単なことに思えるが、その
実、たいへん難しい。

で、このことをもう少し教育的に考えると、こうなる。つまり自分の中には自分であって自分であ
る部分と、自分であって自分でない部分がある。たとえば多動性児(ADHD児)と呼ばれる子ど
もがいる。その多動児にしても、その多動性は、その子ども自身を離れたところで起こる。子ど
も自身にはその意識すらない。だからその子どもをしかっても意味がない。このことは親につ
いても言える。

ある日一人の母親が私のところにきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好きな
子どうし、並んですわってよい』と言った。しかしうちの子(小一男児)のように、友だちのいない
子はどうしたらいいのか。配慮に欠ける発言だ。これから学校へ抗議に行くから、一緒に行っ
てほしい」と。

もちろん私は断ったが、問題は席決めことではない。その子どもにはチックもあったし、軽いが
吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、「なぜ友だちがいないか」ということの
ほうこそ、問題ではないのか。その親がすべきことは、抗議ではなく、その相談だ。

話はそれたが、自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部
分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに
振り回される。よい例が育児拒否であり、虐待だ。

このタイプの親たちは、なぜそういうことをするかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな
「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のどこかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレ
ーキをかけることができない。「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」という
が、そのゆがみに動かされてしまう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱ
る、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。

自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であって自分でない部分とみてよい。それ
に気づくことが、自分を知る第一歩である。まずいのは、そういう自分に気づくことなく、いつま
でも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことである。
(031025)



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17

●思考と情報

●あやしげな電話

 息子が三人もいると、よく、おかしな電話がかかってくる。たいていは、若い女性の声で、「○
○さん、いらっしゃいますか?」と。

 夕食どきや、真夜中にかかってくることもある。名前を聞いても、名字しか言わない。「こちら
から電話をかけなおさせますから、電話番号を教えてください」などと言うと、そのまま電話を切
ってしまう。

 目的がわからない。意図もわからない。だいたいにおいて、電話のかけ方も知らない連中の
ようだ。いきなり、「○○さん、いらっしゃいますか?」は、ない。発音もおかしい。どこか鼻にぬ
けたような、ネチネチとした言い方をする。

 息子たちに聞いても、「知らないよ」「関係ないよ」と。

 電話という道具は便利な道具だが、しかし私は、あまり好きではない。電話というのは、いき
なり家の一番奥まで、入りこんでくる。遠慮がない。マナーもない。だから私の自宅の電話番号
は、電話帳には載せていない。が、それでも電話がかかってくる。

 そういう電話を受け取るたびに、しかし、私は、ふと、こんなことを考える。「どうして、こんなこ
とで、人生をムダにするのだろうか」と。相手が若い女性だったりすると、「こういう女性でも、い
つかは母親になるのだろうか」とさえ、思う。

 しかしこの世の中、油断もスキも、あったものではない。つぎからつぎへと、あやしげな商売
が生まれては消える。が、それが「あやしげ」とわかるまでに、善良な多くの人たちが犠牲にな
る。

 最近の傾向としては、若い人を中心に、新手のあやしげな商売が生まれるということ。そして
より年配者をねらった商売が、多いということ。よい例が、あの「オレオレ詐欺」。老人から見る
と、若い人たちは、バカに見えるが、若い人たちから見ると、老人は、バカに見えるらしい。し
かし本当のバカは、どちらなのか。が、こんなことは言える。

 人間と、ほかの動物たちは、大きく違う……と思っているのは、実は、人間だけではないかと
いうこと。実は、人間も、ほかの動物たちも、それほど、違わない。脳の構造にしても、ほとん
ど、同じ。ただ人間には、ほかの動物たちにない、脳みそが、少しだけプラスされている。

 だから動物園で、サルの集団などを見ていると、コンビニの前でたむろする若者たちと、同じ
に思えてくる。あるいは、どこが、どう違うというのか。むしろ脳みそが、少しだけプラスされてい
る分だけ、かえって、タチが悪い。それが、冒頭に書いた電話である。

 何かしら腹黒い目的や意図をもっていることは、わかる。しかしそれが何であるか、わからな
い。わからないから、不気味といえば、不気味。そこで息子の一人に相談すると、こう教えてく
れた。

 「そういう電話がかかってきたら、ぼくは、交通事故で死んだと言ってくれればいい」と。

 ナルホド! まじめに考える必要など、どこにもないわけだ。今度から、そう言う。
(031026)

【追記】

 人間には、ほかの動物にない脳みそが、少しだけプラスされている。あとは、どこも、違わな
い。

 だからその「プラスされた脳みそ」を、どう使うかで、人間は、人間になることもあるし、かえっ
て、動物以下になることもある。

 言葉を話す。道具を使う。情報をもっている。……そういうことで、「私は、動物よりも、頭がい
い」と、思う人は多い。あるいは、「人間は、ほかの動物とくらべて、優秀だ」と、思う人は多い。

しかしほかの動物たちは、言葉で、相手をだますようなことはしない。道具を使って、人を殺す
ようなことはしない。核兵器やミサイルを、作ったりしない。

 つまり「プラスされた脳みそ」も、使い方によっては、悪となりうるということ。そこに気がつけ
ば、同時に、人間のもつ限界も、わかるはず。またどうすれば、人間が、人間らしくなれるか、
それもわかるはず。

 言うまでもなく、人間が人間なのは、「考える」からである。考えて、善を追求するからである。
言いかえると、考えない人間は、人間ではないということになる。動物以下とは言わないが、動
物とほぼ同じとみてよい。

 以前、書いた原稿(中日新聞掲載済み)にこんなのが、ある。

++++++++++++++++++++++

思考と情報を混同するとき 

●人間は考えるアシである

パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをなす』と
も。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、
別のことである。たとえばこんな会話。

A「昼に何を食べる?」
B「スパゲティはどう?」
A「いいね。どこの店にする?」
B「今度できた、角の店はどう?」
A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパゲティはおいしいと話していたな」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も
考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出し
ているにすぎない。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の
九九を、ペラペラと言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはな
らない。算数ができるということにはならない。

●考えることには苦痛がともなう

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちに
も、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。中には考えることを他
人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話をしたことがある。私
が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人はこう
言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。

●人間は思考するから人間
 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『われ思
う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まちがっていると
かいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。

ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしている
の?」と声をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中から生ま
れるものだと思っていた。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子ども
なりに、懸命に考えて、そうしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なの
である。

●知識と思考は別のもの

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせる
ことが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。それがムダだとは思わない
が、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にしてしまう。かえって子どもから
考えるという習慣を奪ってしまう。

もっと言えば、賢い子どもというのは、自分で考える力のある子どもをいう。いくら知識があって
も、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わない。頭のよし悪しも関係ない。映画
『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言っている。

「バカなことをする人のことを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここをまちがえると、教育
の柱そのものがゆがんでくる。私はそれを心配する。

(付記)

●もの言わぬ民たち

日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み教
育」が基本になっている。さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の本山教育
である。つまり日本の教育は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画
一的な子どもをつくるのが基本になっている。

もっと言えば「もの言わぬ従順な民」づくりが基本になっている。戦後、日本の教育は大きく変
わったとされるが、その流れは今もそれほど変わっていない。日本人の多くは、そういうのが教
育であると思い込まされているが、それこそ世界の非常識。ロンドン大学の森嶋通夫名誉教
授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で考え、自分で判断する訓練
がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自己判断のできる人間を育てなければ、
二〇五〇年の日本は本当にダメになる」(「コウとうけん」・九八年)と警告している。

●低俗化する夜の番組
 夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっている
のがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話と
して外に取り出しているにすぎない。一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考え
ていない。思考というのは、本文にも書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人に
よっては本当に頭が痛くなることもある。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らな
い。そのため考えるだけでイライラしたり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、
考えること自体を避けようとする。

 ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるということもある。
私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。また文にして残す
という方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。

私にとって生きるということは、考えること。考えるということは、書くこと。モンテーニュ(フラン
スの哲学者、一五三三〜九二)も、「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときの
ほか、考えたことはない」(随想録)と書いている。ものを書くということには、そういう意味も含
まれる。

+++++++++++++++++++++++

「子どもの世界」(中日新聞)の最終回用に書いたのが
つぎの原稿です。

+++++++++++++++++++++++

「子どもの世界」・最終回

●ご愛読、ありがとうございました。

 毎週土曜日は、朝四時ごろ目がさめる。そうしてしばらく待っていると、配達の人が新聞を届
けてくれる。聞きなれたバイクの音だ。が、すぐには取りにいかない。いや、ときどき、こんな意
地悪なことを考える。配達の人がポストへ入れたとたん、その新聞を中から引っ張ったらどうな
るか、と。きっと配達の人は驚くに違いない。

 今日で「子どもの世界」は終わる。連載一〇九回。この間、二年半あまり。「混迷の時代の子
育て論」「世にも不思議な留学記」も含めると、丸四年になる。しかし新聞にものを書くと言うの
は、丘の上から天に向かってものをしゃべるようなもの。読者の顔が見えない。反応もわから
ない。だから正直言って、いつも不安だった。中には「こんなことを書いて!」と怒っている人だ
っているに違いない。

私はいつしか、コラムを書きながら、未踏の荒野を歩いているような気分になった。果てのない
荒野だ。孤独と言えば孤独な世界だが、それは私にとってはスリリングな世界でもあった。書く
たびに新しい荒野がその前にあった。

 よく私は「忙しいですか」と聞かれる。が、私はそういうとき、こう答える。「忙しくはないです
が、時間がないです」と。つまらないことで時間をムダにしたりすると、「しまった!」と思うことが
多い。

女房は「あなたは貧乏性ね」と笑うが、私は笑えない。私にとって「生きる」ということは、「考え
る」こと。「考える」ということは、「書く」ことなのだ。私はその荒野をどこまでも歩いてみたい。そ
してその先に何があるか、知りたい。ひょっとしたら、ゴールには行きつけないかもしれない。し
かしそれでも私は歩いてみたい。そのために私に残された時間は、あまりにも少ない。

 私のコラムが載っているかどうかは、その日の朝にならないとわからない。大きな記事があ
ると、私の記事ははずされる。バイクの音が遠ざかるのを確かめたあと、ゆっくりと私は起きあ
がる。そして新聞をポストから取りだし、県内版を開く。私のコラムが出ている朝は、そのまま
読み、出ていない朝は、そのまままた床にもぐる。たいていそのころになると横の女房も目をさ
ます。そしていつも決まってこう言う。「載ってる?」と。

その会話も、今日でおしまい。みなさん、長い間、私のコラムをお読みくださり、ありがとうござ
いました。






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18

●自発的行動

 自ら進んでやるか。それとも、人に命令されてからやるか。その違いは、当然、大きい。

 たとえば勉強。自分がしたい勉強を、自分でする。学びたいから、学ぶ。その学びたいという
意思がしっかりしている。そういう形で、その人(子ども)の行動を強化することを、「正の強化」
という。

 一方、親にガミガミと叱られながら、勉強する。勉強しなければ、殴られるかもしれない。だか
ら勉強する。こわいから、自分の意思とは無関係に、する。いやいや、する。こういうふうに、外
からの圧力で、その人(子ども)の行動を強化することを、「負の強化」という。

 子どもの行動を強化するためには、二つの方法がある。自発的にさせる方法と、強制的にさ
せる方法の二つである。

 もっとも、こんなことは心理学で説明されなくても、常識。わかりきったこと。

 そこで「正の強化」を、育てるためには、一義的には、前向きな姿勢を育てる。ほめたりして、
自分に自信をもたせる。しかしこのとき、もっと大切なことは、子どもの夢を育てること。そして
その夢を、未来につなげていく。

 今の私の心境を書く。

 もう五、六年前になるだろうか。私はある人から、本を代筆するように頼まれた。若いころ、よ
くした仕事である。そこでその人の仕事を、一度は引きうけた。が、である。いざ原稿を書こうと
する段階になって、手が鉛のように重いのを知った。

 いろいろな思いが、胸をふさいだ。代筆、つまりゴーストライターの仕事というのは、体を売る
女性の仕事(?)に似ている。いわば魂を切り売りするようなもの。いくらその人の気分になっ
て書いても、どこかしこに、自分の思想が混入する。

 そこで「これはお金のためだ」と、何度も自分に言ってきかせた。が、当時は、それほどお金
には困っていなかった。で、結果的に、その仕事は、断ることにした。

 一方、私は、今、こうして少しの時間でもあれば、原稿を書いている。まったくお金にならな
い。雑誌社や出版社から、頼まれたわけでもない。しかし、こうして書いていると、楽しい。本当
に楽しい。

 それは未開拓の原野を、ひとりで歩いているような楽しさである。私が知らないものが、そこ
にあるような気がする。あるいは本当に、それまで私が知らなかったことを、発見することもあ
る。そういうときは、楽しくて、キーボードの上で、手先が、チョウのように軽く舞う。

 この違いがどこからくるかといえば、自発的にそれをするかしないかの違いといってもよい。
ただ私のばあいは、もう負の強化には耐えられない。人に命令されてするのは、大嫌い。実際
には、命令されたら、絶対にしない。

 少し前のことだが、デパートで、エレベーターに乗ったときのこと。うしろのほうに立っていた
男が、「四階!」と叫んだ。「四階のボタンを押せ」という意味である。私は返答するのもいやだ
ったから、その言葉を無視した。すると、その男はこう言った。「あんたが近くにいるのだから、
押してくれてもいいだろ」と。私は、それに答えて、こう言った。「自分のことは、自分でしたら」
と。

 私は決して、不親切な人間ではない。しかしそういう言い方をされると、本能的な部分で、抵
抗する。ここでいう「負の強化」に耐える度量は、もうない。

 子どもを伸ばすことを考えたら、同時に、いかにしてその子どもの中に、自発的な向学心を
育てるかを考える。命令したり、脅したりして、子どもに勉強させるのは簡単なこと。しかしそう
いう方法では、長つづきしない。あるいは子ども自身が、かえって反発してしまう。

 そこであなたの子どもは、今、どのような状態か、自己診断してみてほしい。毎日、やる気に
なって、がんばっているだろうか。それとも、逃げ腰になって、いやいや勉強しているだろうか。
もし後者なら、ここでいう正の強化をいかにつくるかだけを考えて、子どもを指導する。勉強を
する、しないは、つぎの問題と考える。
(031026)




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19

●意識の違い

 今朝、K国の子どもたちが、テレビで紹介されていた。どの子どもも、独得の笑みを浮かべ
て、踊ったり、楽器を鳴らしたりしていた。ワイフは、それを見て、「気持ち悪い」と言った。私も
同感だった。

 で、こうした子どもたちについて、K国から脱出してきた人は、こう言った。「鼻血を出しても、
練習をつづける」と。そういうK国の子どもたちを、すばらしいと思った日本人は、いったい、何
人いただろうか。

 しかしそのとき、である。その脱出してきた人が、ポロリとこう言った。それは私には、衝撃的
な言葉だった。

 「K国では、こうした子どもたちが、政府の宣伝用に使われる。それはちょうど、西側諸国の、
コマーシャルのようなものだ。西側では、モノを売るために、宣伝する。それと同じ」と。

 人の意識というのは、絶対的なものではない。普遍的なものでもない。立場が変われば、そ
の意識も変わる。

 私たちはK国の子どもたちを見ながら、「おかしい?」と思う。しかしその意識は、相対的なも
ので、K国の人たちから見れば、今度は、私たちの国が、おかしく見えるに違いない。その一
つが、「物欲を刺激するコマーシャル?」ということになる。

 たとえば、あのポケモンが全盛期のころ、子どもたちの世界は、まさにポケモン漬けになっ
た。テレビ、雑誌、ゲーム、コミック、商品ほか。あらゆる場面で、子どもたちは、その商魂に乗
せられた。

 その結果、あの黄色いピカチューの絵を見ただけで、子どもたちは、興奮状態になってしまっ
た。一度、私は不用意に、「ピカチューのどこが、かわいいの?」と言ってしまったことがある。
とたん、生徒たちから、猛烈な抗議の嵐。袋叩きにあってしまった。

 こうした異常な現象を、いったい、どれだけの人が、「異常」と感じたであろうか。そこで私は、
一冊の本を書いた。それが『ポケモン・カルト』(三一書房)である。

 しかしこの本に、執拗ないやがらせをしかけてきたのは、二〇歳をすぎた若者たちだった。
「お前は、子どもの夢をつぶすのか」「とんでもない、トンデモ本だ」と。今でも、その団体の人た
ちが、その本や私を、攻撃している。

 こういう現象は、K国の人たちには、どう見えるだろうか。ここにも書いたように、意識というの
は、相対的なものである。私たちが、K国の子どもたちがおかしいと思うのと、まったく同じよう
に、K国の人たちは、日本の子どもたちは、おかしいと思うに違いない。現に、あの金XXは、そ
う言っている。「西側の狂った文化」と。

 私は、K国の子どもたちの映像を見ながら、不思議な感覚にとらわれた。K国がおかしいと思
えば思うほど、自分たちの世界も、おかしく見えた。ただ私たちは今、その(自分たちの国)に
住んでいるから、それがわからない。言いかえると、私たちが、自分の国はふつうだと思ってい
るのと同じように、K国の人たちは、自分たちの国は、ふつうだと思っているに違いない。

 少し話が脱線するかもしれないが、私は、学生時代、こんな経験をしたことがある。『世にも
不思議な留学記』(中日新聞掲載済み)で発表した原稿を、転載する。
 
+++++++++++++++++++

●国によって違う職業観

 職業観というのは、国によって違う。もう三〇年も前のことだが、私がメルボルン大学に留学
していたときのこと。当時、正規の日本人留学生は私一人だけ。(もう一人Mという女子学生が
いたが、彼女は、もともとメルボルンに住んでいた日本人。)そのときのこと。

 私が友人の部屋でお茶を飲んでいると、一通の手紙を見つけた。許可をもらって読むと、「君
を外交官にしたいから、面接に来るように」と。私が喜んで、「外交官ではないか! おめでと
う」と言うと、その友人は何を思ったか、その手紙を丸めてポイと捨てた。

「アメリカやイギリスなら行きたいが、九九%の国は、行きたくない」と。考えてみればオーストラ
リアは移民国家。「外国へ出る」という意識が、日本人のそれとはまったく違っていた。

 さらにある日。フィリッピンからの留学生と話していると、彼はこう言った。「君は日本へ帰った
ら、ジャパニーズ・アーミィ(軍隊)に入るのか」と。私が「いや、今、日本では軍隊はあまり人気
がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の伝統ある軍隊になぜ入らないのか」と、やんや
の非難。当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍人になることイコール、そのまま出世コー
スということになっていた。で、私の番。

 私はほかに自慢できるものがなかったこともあり、最初のころは、会う人ごとに、「ぼくは日本
へ帰ったら、M物産という会社に入る。日本ではナンバーワンの商社だ」と言っていた。が、あ
る日、一番仲のよかったデニス君が、こう言った。「ヒロシ、もうそんなことを言うのはよせ。日
本のビジネスマンは、ここでは軽蔑されている」と。彼は「ディスパイズ(軽蔑する)」という言葉
を使った。

 当時の日本は高度成長期のまっただ中。ほとんどの学生は何も迷わず、銀行マン、商社マ
ンの道を歩もうとしていた。外交官になるというのは、エリート中のエリートでしかなかった。こ
の友人の一言で、私の職業観が大きく変わったことは言うまでもない。

 さて今、あなたはどのような職業観をもっているだろうか。あなたというより、あなたの夫はど
のような職業観をもっているだろうか。それがどんなものであるにせよ、ただこれだけは言え
る。

こうした職業観というのは、決して絶対的なものではないということ。時代によって、それぞれの
国によって、そのときどきの「教育」によってつくられるということ。大切なことは、そういうものを
通り越した、その先で子どもの将来を考える必要があるということ。私の母は、私が幼稚園教
師になると電話で話したとき、電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れてしまった。

「浩ちャーン、あんたは道を誤ったア〜」と。母は母の時代の常識にそってそう言っただけだ
が、その一言が私をどん底に叩き落したことは言うまでもない。しかしあなたとあなたの子ども
の間では、こういうことはあってはならない。これからは、もうそういう時代ではない。あってはな
らない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●肩書き社会、日本

 この日本、地位や肩書きが、モノを言う。いや、こう書くからといって、ひがんでいるのではな
い。それがこの日本では、常識。

 メルボルン大学にいたころのこと。日本の総理府から派遣された使節団が、大学へやってき
た。総勢三〇人ほどの団体だったが、みな、おそろいのスーツを着て、胸にはマッチ箱大の国
旗を縫い込んでいた。

が、会うひとごとに、「私たちは内閣総理大臣に派遣された使節団だ」と、やたらとそればかり
を強調していた。つまりそうことを口にすれば、歓迎されると思っていたらしい。

 が、オーストラリアでは、こうした権威主義は通用しない。よい例があのテレビドラマの『水戸
黄門』である。今でもあの番組は、平均して二〇〜二三%もの視聴率を稼いでいるという。

が、その視聴率の高さこそが、日本の権威主義のあらわれと考えてよい。つまりその使節団
のしたことは、まさに水戸黄門そのもの。葵の紋章を見せつけながら、「控えおろう」と叫んだ
のと同じ。あるいはどこがどう違うのか。が、オーストラリア人にはそれが理解できない。ある
日、ひとりの友人がこう聞いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことをしたら、どうするのか。それ
でも日本人は頭をさげるのか」と。

 この権威主義は、とくにマスコミの世界に強い。相手の地位や肩書きに応じて、まるで別人の
ように電話のかけ方を変える人は多い。私がある雑誌社で、仕事を手伝っていたときのこと。
相手が大学の教授であったりすると、「ハイハイ、かしこまりました。おおせのとおりいたしま
す」と言ったあと、私のような地位も肩書きもないような人間には、「君イ〜ネ〜、そうは言って
もネ〜」と。

しかもそういうことを、若い、それこそ地位や肩書きとは無縁の社員が、無意識のうちにそうし
ているから、おかしい。つまりその「無意識」なところが、日本人の特性そのものということにな
る。
 
こうした権威主義は、恐らく日本だけにしか住んだことがない人にはわからないだろう。説明し
ても、理解できないだろう。そして無意識のうちにも、「家庭」という場で、その権威主義を振り
まわす。「親に向かって何だ!」と。

子どももその権威主義に納得すればよし。しかし納得しないとき、それは親子の間に大きなキ
レツを入れることになる。親が権威主義的であればあるほど、子どもは親の前で仮面をかぶ
る。つまりその仮面をかぶった分だけ、子どもの子は親から離れる。

ウソだと思うなら、あなたの周囲を見渡してみてほしい。あなたの叔父や叔母の中には、権威
主義の人もいるだろう。そうでない人もいるだろう。しかし親が権威主義的であればあるほど、
その親子関係はぎくしゃくしているはずである。

 ところで日本からの使節団は、オーストラリアでは嫌われていた。英語で話しかけられても、
ただニヤニヤ笑っているだけ。そのくせ態度だけは大きく、みな、例外なくいばっていた。この
ことは「世にも不思議な留学記」※に書いた。それから三〇年あまり。日本も変わったが、基本
的には、今もつづいている。

+++++++++++++++++++

 意識の違いというのは、恐ろしい。その意識にどっぷりとつかっていると、ほかの世界が理解
できなくなる。それだけならまだしも、自分がおかしな世界に入っていても、それに気づかなくな
る。

 典型的な例としては、宗教の世界がある。その世界の外にいる人からみれば、「おかしい?」
と思うようなことを、平気で、しかも、ま顔でしている信者は、いくらでもいる。

 そこで大切なことは、いつも、自分の意識を疑ってみること。自分の意識を、ふつうだと思っ
てはいけない。絶対だとは、さらに思ってはいけない。意識というのはそういうもので、またそう
いう前提で、いつも自分の意識を、疑ってみる。

 それは、ものを考えるとき、たいへん重要なことである。……というようなことを、K国の子ど
もたちを見ながら、考えた。
(031027)



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20

●成績を伸ばす

●勉強のリズムを大切に
 
 それぞれの子どもには、それぞれのリズムがある。日単位のリズム、週単位のリズム、月単
位のリズムなど。こうしたリズムを大切に育てる。

 たとえば英語の学習。

 こと英語について言えば、毎日、一〇分でよい。たった一〇分でよい。カセットテープを聞い
て、それをノートに書く。これにまさる英語学習の方法はない。

 もちろん毎日、英語で会話するという方法もあるが、しかしそれができる家庭は、少ない。受
験英語となると、今でも、書いて、読んで、文法を……が、主流である。

 しかしこのリズムをつくるのが、たいへん。それは苗木にたとえていうなら、ひ弱で、デリケー
トな観葉植物を育てるようなもの。あるいは、もっと、たいへん。

 こうしたリズムは、つくるのに、半年。しかしこわすのは、数日でできる。そして一度、こわれる
と、二度目がない。同じ方法が、使えなくなるからだ。

●達成感を大切に

 「やりとげた」という達成感が、つぎの学習意欲を引き出す。

 たとえば子どもが、月刊のワークブックを、やりとげたとする。その間、子どもなりに、黙々と
やったとする。

 このとき、親が丸つけをするにしても、だいたいあっていれば、大きな丸をつけて、すます。
「ここが違う」「やり方がおかしい」「まちがっている」と言えば、子どもは、やる気をなくす。

 だいたいにおいて、あのワークブックほど、いいかげんなものはない。長い間、その制作をし
てきた「私」が、そう言うのだから、まちがいない。

 もちろん、基本的にやり方がまちがっているところについては、なおさなければならない。しか
しそれ以外は、丸をつけて、終わる。このいいかげんさが、子どもを伸ばす。

 発達心理学の世界では、この達成感を、「自己効力感」という。また大脳生理学の分野でも、
こうした達成感を味わうと、脳内で、モルヒネ様の物質が放出され、陶酔感を生み出すというこ
とまでわかっている。

 たかが「達成感」と、安易に考えてはいけない。この達成感こそが、すべて。ほかに子ども
が、はじめて文字を書いたようなときも、その字をほめる。かろうじてでも、読めればそれでよし
とする。このおおらかさが、子どもを伸ばす。

●夢を育てる

 夢のある子どもと、そうでない子どもとでは、学習への取り組み方がちがう。夢のある子ども
は、何をしても、積極的になる。もちろん自分の興味のある分野には、積極的になる。

 その夢を育てるのは、親の役目。たとえ親からみて、つまらない夢でも、それを励まし、伸ば
す。

 大切なのは、その「容器」をつくること。

 夢の内容そのものは、年齢とともに、変わる。変わって当然。たとえば幼児期は、「お花屋さ
んになりたい」と言っていた子どもでも、中学生になると、「砂漠に、木を植えたい」と言うように
なるかもしれない。さらに大学へ入るころには、海外でボランティア活動をしたいと言うようにな
るかもしれない。

 しかしそのとき大切なことは、夢に向って努力するという「容器」。この容器をしっかりと育て
る。その容器の中に、何を入れるかは、子ども自身が決める。親ではない。

 が、親は、その容器そのものを、つぶしてしまう。

 よく誤解されるが、「いい高校」「いい大学」へ入ることは、夢ではない。昔は、エリート意識と
いうものがあった。学歴社会もあった。しかし、今は、そういう時代ではないし、そういうもので
は、子どもを、ひっぱっていくことはできない。

 わかりやすく言えば、「勉強しなさい!」と子どもに命令することは、容器を育てることでも、夢
を育てることでもない。むしろ、その容器や夢を、こなごなに破壊する。

 この浜松市内に、静岡県でもナンバーワンと言われる進学高校がある。その高校でも、上位
一〇%前後の子どもは、本当に頭がよい(?)。しかしそういう子どもたちが、夢をもって勉強し
ているかといえば、それは疑わしい。

 ただ勉強しているだけ? よい成績をとるのが、趣味のようになっているだけ? 勉強しかし
ない。勉強しかできない。そんな子どもたちが、多い。親にしてみれば、夢のような子ども(?)
かもしれないが、本当に、そういう子どもが、よい子どもなのかということになると、ただただ疑
問。あるいは、そういう子ども自身は、どうなのかという問題もある。

 私は、一〇年ほど前までは、高校三年生まで教えていた。しかし正直に告白するが、どこか
ヘンな子どもほど、スイスイと、一流大学の一流学部へ進学していった。

 一方、「この子どもはすばらしい」と思った子どもほど、進学競争になじまず、その途中で挫折
していった。

 そして今。日本の社会は、どこかおかしい。おかしくなってしまった。その原因のほとんどは、
こうしたいびつな学歴社会にあることは、もう疑いようがない。

 子どもが「お花屋さんになりたい」と言ったら、親は、すかさず、こう言う。「すてきね。今度、い
っしょに球根を育ててみましょうね」と。あるいは図書館へ行き、植物の図鑑をながめるのもよ
い。散歩をしながら、花や草を見るのもよい。そういう姿勢の中から、ここでいう「容器」が育
つ。

●親が伸びる

 子どもを伸ばす最大の秘訣は、親自身が、伸びてみせる。

 いつも新しいことにチャレンジし、その道を開拓していく。そういう緊張感(ダイナミズム)が、
子どもを伸ばす。

 親が生き生きしていると、子どもも生き生きしてくる。反対に、親が沈んでいると、子どもも沈
んでくる。これは教育の世界の、常識。ウソだと思うなら、あなたの近くにいる親子を、観察して
みればよい。

 生き生きとしている親の子どもは、生き生きとしている。そうでない親の子どもは、そうでな。

 ただし親が伸びるといっても、親は、子どもとは関係のない世界で、外に向ってのびること。
子どもに向かえば、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまうことにもなりかねない。

 学校での行事に、積極的に参加する。子どもの学習に、かかりきりになる。父母会のリーダ
ーになるなど。それ自体は、悪いことではないが、子どもを意識すればするほど、それはその
まま過関心になり、過干渉になる。……なりやすい。

 子育ては、重労働だし、決していいかげんな気持ちではできない。しかし心のどこかで、「私
は、私。あなたはあなた」という一線を引く。引きながら、「私には私の夢がある」と、子どもを突
き放す。子どもは、そういう親の生きザマを見ながら、自分で伸びることを学習する。

 「あなたが生きがいよ」「あなたが一流大学へ入ってくれるのが、私の夢なのよ」「出世して、
お母さんを喜ばせてね」などとは、決して口にしてはいけない。それが子どもにとっては、いか
に苦痛に満ちた言葉であるかは、反対の立場で考えてみれば、あなたにも、わかるはず。

●先生をほめる

子どもの前で、先生の批判、悪口は、タブー。学校の批判や、教育の批判も、タブー。子どもの
前では、「先生はすてき」「学校はすばらしい」とだけを言う。またそれを口グセにする。

子どもが、先生の悪口を言ったときは、「あなたが悪いからでしょ」と、はねのける。決して相づ
ちを打ってはいけない。

もし先生に問題があるなら、子どものいないところで、また子どもの耳に入らないところで、処
理する。

 子どもの学習を伸ばそうとしたら、先生と子どもの相性をよくする。先生とて、生身の人間で
ある。決して聖人でも、神様でもない。親の熱い思いが伝わったとき、先生のやる気は何倍も
大きくなる。そうでないときは、そうでない。

 親が家の中で言っていることは、どんな形であれ、必ず、学校(幼稚園)の先生に伝わる。も
しあなたが悪口を言っていれば、それも伝わる。そういう意味で、子どもは、隠しごとができな
い。先生も、そんなことを聞き出すのは、朝飯前。

 人間の心というのは、カガミのようなもの。あなたが先生を、よい先生と思っていると、先生
も、あなたのことを、よい親と思う。そういう相乗効果が、子どもの学習環境をよくする。

●あきらめる

 子育ての真髄は、「あきらめる」。

 子どもというのは、不思議なもので、親が、「まだ、何とかなる」「こんなはずではない」「うちの
子はやればできるはず」と、がんばればがんばるほど、伸び悩む。表情も、暗くなる。

 しかし親が、「うちの子は、こんなもの」「あなたは、あなたなりに、よくやっている」とあきらめ
たとたん、そのあとしばらく時間をおいて、子どもは、伸び始める。表情も明るくなる。

 とくに子どもの学習では、あきらめることを恐れてはいけない。『あきらめは、悟りの境地』とも
いう。

 これは私が考えた格言だが、親もやりつくし、行きつくところまでいくと、こういう境地に達す
る。しかし賢明な親は、その前に気づく。

 それは実に、おおらかな世界。広く、ゆったりとした世界。とたん、「子育てが、こんな楽なも
のだったとは知らなかった」となる。

 もしあなたが今、子どもの横にすわっていて、イライラしたり、子育てが苦痛だと思っているな
ら、その原因は、あなた自身の中にある。ひょっとしたら、あなた自身が、学歴信仰というカルト
の、信奉者かもしれない。

もしそうなら、できるだけはやく、そういうカルトとは決別する。へたをすれば、親子関係そのも
のを破壊してしまうかもしれない。もしそうなれば、それこそ、大失敗というもの。あなたは、あ
なたの人生そのものを、ムダにすることになる。
(031029)


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21
●分離不安

はやし先生、分離不安について相談します。    

長男が保育園の年長なのですが、1年前から登園拒否になりました。私は長男を保育園に送
って行った後、友達と駐車場(保育園の)で話をしていました。

その時に長男は園庭から私を呼んでいたのですが私は気がつきませんでした。しばらくすると
長男のお友達数人が、私に長男が泣いていることを教えてくれました。

長男は私を呼んでも気がつかなかったので悲しくなったようです。それから保育園の行くのを
嫌がるようになったのです。

突然の事で驚きましたが無理に行かせることはしないで、自分から行けるようになるまで待つ
ことにしました。原因は私が気がつかなかった事だけなのか、もしかしたらお友達と何かあった
のかなと考えたりもしましたが、やはり私が原因だなと思いました。

それは私が普段から叱ってばかりできっと愛情不足だといつも思っていたからです。そうわか
っていながらもいつも私はイライラしていて叱ってばかり。自分も幼い頃からずっと両親に叱ら
れてばかりで、暴力、無視もありました。

結婚して実家を出るまで自分のしたい事もできず否定ばかりされ、自由がありませんでした。
人と接するのが苦手で友達もあまりいません。長男を見ていると自分の幼い頃にそっくりなの
で、このまま私と同じように苦しんでいくのかと思うとつらくてたまりません。何とか連鎖を絶ちき
りたいという思いです。

去年の2月からほとんどお休みして、時々顔を出したり、一時退園をしたりしてきました。

9月になり保育園に行くとみんな運動会の練習をしていました。長男は運動が好きなので自分
から練習をするようになったのですが、私が何処にいるか見ながら練習していました。

私が少しでも動けば泣き出しそうです。それからは保育園に私がつきっきりならば半日ですが
行けるようになりました。保育園の先生方は理解して下さり、私は教室にお昼までおじゃまして
います。

長男は自分の席には座れず私のいる場所にいつもいました。手を洗いに行くのも私がついて
行く状態でした。最近は私が教室にいれば、自分で手を洗いに行ったり、席に座り作品を作っ
たり、お友達とお話したりしているのですが、私が保育園内ですが移動すると大泣きしたり、あ
せって私の所にきます。

しかし最近になって今まで甘えてくることがあまりなかったのですが、急に「抱っこ」と言い出し
て驚きました。うれしくなってぎゅっと抱きしめました。また弟が産まれてからさみしかったと言
いました。

少しずつ変化はみられるのですが、もうすぐ小学生のなるということもあり私から離れられない
ことにあせりが出てしまう。ちゃんと離れられるだろうかって。

今は意識してスキンシップをとるようにしています。今まで散々「お母さん遊ぼう」と言われても
苦しくなって遊んであげられなかったのですが少しずつ受け入れられるようになってきました。

これからどのようにしていったらよいのか、
先生アドバイスを宜しくお願い致します。(兵庫県A市・TSより)

+++++++++++++++++++++++

【TS様へ】

拝復

いきなり返事だけで、すみません。

分離不安というより、集団恐怖、もしくは対人恐怖
なども考えられます。恐怖症なども考えてください。

発端は、下の子どもが生まれたことによる、
嫉妬と欲求不満、それに「兄だから……」という
突き放しなどが考えられます。

この時点で赤ちゃんがえりが起きていたはずです。
下の子に攻撃的になったり、あるいはネチネチと赤ちゃんぽいしぐさになったりなど。
多くの母親は、そうした変化を見落としてしまいます。

が、今は、時期的には、もうそろそろピークを超えるころですから
あまり深刻に考えないで、つぎのことに注意してください。

(1)求めてきたときは、すかさず、いとわず、今なさって
おられるように、子どもが満足するまで、ぐいと抱いてあげます。
数分から10分前後で満足するはずです。(10秒足らずでよいこともあります。)

子どものほうから放す様子がみられたら、そっと、放してあげます。

(2)兄優先の家庭環境に切りかえます。
子どもが求めるなら、この際、しばらく添い寝、いっしょの
入浴なども、なさるとよいです。手つなぎ、抱っこも有効です。

スキンシップはとくに大切にしてください。

(3)あとは海産物(Ca、Mg、K)を主体とした食生活に切り替え、
甘いもの(白砂糖)、レトルト食品をひかえてください。

(4)園は、「行くべきところ」という考え方ではなく、
今の状態をこじらせないようにして、「途中で帰ってきても
いいのよ」式のねぎらいの言葉をかけてあげてください。

ほかの子どもたちより、何倍も、がんばっているのですから。

よくあることですから、終わってみると、一過性の問題だった
と気づくはずです。

今は今で、子育てを楽しんでください。

あなたは今、あなたとあなたの生まれ育った家庭環境の
問題に気づき始めています。

否定的な家庭環境で育ったということですが、その分、
親像が満足に入っていません。今の子育てがどこか
ぎこちないのは、そのためです。

しかし安心してください。

今、あなたはそれにも気づき始めています。
ですからあとは時間が解決してくれます。

あなたと、あなたの母親の関係を冷静に思い出して
みてください。

あなたは、自分の子どもに対しては、それを繰りかえしては
いけませんよ。
そこだけ気をつければ、問題は解決します。

若い方なのに、ここまで気がついておられるということは、
すばらしい方だと思います。

自信をもって、前に進んでください。

応援します。



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22
●真の自由?

 今朝、朝食を終えたあと、ふと私はワイフにこう言った。

 「真理がわかれば、人間は、自由になれるんだってエ※」と。

 それに答えて、ワイフが、「自由って?」と。

 私は、聖書の言葉を、そのまま思い出した。「真理だよ。真理を手に入れれば、真の自由を
手に入れることができるんだよ」と。

 しかし、本当のところ、私には何もわかっていない。わかっていて、そう言ったのでもない。た
だの思いつき。口からの出まかせ。

 が、これだけは言える。もうムダにする時間は、ない、と。この世のありとあらゆるものをしっ
かりと見て、聞いて、知って、自分のものにする。私に残された時間は、あまりにも少ない。宇
宙の星々が、まばたきするほんのつぎの瞬間には、私は、永遠の闇の中に消える。

 こうしてワイフと朝食をともにできるのも、あと何年か?

 何かを残したいと考えたこともあるが、本当のところ、もうあきらめた。それに何かを残したと
ころで、それがいつまでつづくというのか。立派な墓石を建てたところで、それにどんな意味が
あるというのか。

 名声や地位や、名誉にいたっては、さらにそうだ。

 が、だからといって、生きることが虚しいと言っているのではない。

 もし生きることのすばらしさがあるとするなら、私のばあい、どうしても、あの「留学時代」に戻
ってしまう。あの時代が、私の原点であり、すべてであり、今も、あの時代が、私の心の中で、
さん然と輝いている。

 私は、幸福だった。本当に幸福だった。ああいう時代を、生きることができたということは、本
当に幸福だった。そのことをワイフに話すと、「いいわね。あなたには、そういう時代があったか
ら……」と。

 もし明日、死ぬということになったら、私は、あの時代の日々を心に描きながら、目を閉じる。
ほかに何も望まない。求めない。

 しかし「今」という時代も、あの「留学時代」に劣らないほど、幸福なときなのかもしれない。考
えてみれば、あのころはあのころで、さみしかった。

私「もし、ぼくが先に死んだら、一晩だけ、ぼくの横で寝てほしい」
ワイフ「……それでいいの?」
私「それでいい。できれば、手をつないでほしい」
ワイフ「わかったわ」

私「お前が、先に死んだら、その晩は、お前の横で寝てあげる。一晩中、ぼくの体で、お前を暖
めてあげる」
ワイフ「いいわよ、そんなことしてくれなくても……」
私「そうしたら、お前が生きかえるかもしれないし……」
ワイフ「あなたに任せるわ」

私「それに、もう、そろそろ、骨壷をつくっておこうか?」
ワイフ「そうね、早めにつくっておいたほうがいいかもね」
私「小さいのでいい。焼き物か、何かで……」
ワイフ「葬式は、どうするの?」
私「ぼくは、やらないよ。お前だけがそばにいれば、それでいい」
ワイフ「わかったわ」

私「あとは、お前が死ぬまで、その骨を預かってくれればいい。どうせ、ぼくのほうが、先に死ぬ
ことになるから」
ワイフ「二人とも死んだら、あとのことは、息子たちに任せればいいわよね」
私「そうだね」と。

 私のばあいは、友といっても、ワイフしかいない。しかしそのワイフを大切にしてきたかという
と、そうでもない。ひどいことばかりしてきた。若いときは、けんかばかりしていた。殴ってけがを
させたこともある。

 そんな私だから、真理などというのは、夢のまた夢。あと数百年、生きたところで、今と同じだ
ろう。だから、真の自由などいうのも、さらに夢のまた夢。

 いつまで生きても、この生きることにまつわる(さみしさ)から、解放されることは、ないだろう。
現に今、骨壷の話をしたとき、そこに私の限界を感じてしまった。生きることの終着駅のような
ものだが、それをそこに感じてしまった。

私「結局は、ぼくは、自由にはなれそうもないね」
ワイフ「いいじゃない、みんなそうなのだから……」
私「中途ハンパで死ぬということかな」
ワイフ「そういうことね」と。

(この原稿は、ボツにしようと思いましたが、私の一部であることにはちがいないということで、
収録しておくことにしました。)

※……『真理を知らん。而(しこう)して真理は、汝らに、自由を得さすべし』(新約聖書・ヨハネ
伝八章三二節)と。「真理を知れば、そのときこそ、あなたは自由になれる」と。

++++++++++++++++++++++++++

●真理

 イエス・キリストは、こう言っている。『真理を知らん。而(しこう)して真理は、汝らに、自由を得
さすべし』(新約聖書・ヨハネ伝八章三二節)と。「真理を知れば、そのときこそ、あなたは自由
になれる」と。

 私が、「私」にこだわるかぎり、その人は、真の自由を手に入れることはできない。たとえば
「私の財産」「私の名誉」「私の地位」「私の……」と。こういうものにこだわればこだわるほど、
体にクサリが巻きつく。実が重くなる。動けなくなる。

 「死の恐怖」は、まさに「喪失の恐怖」と言ってもよい。なぜ人が死をこわがるかといえば、そ
れは死によって、すべてのものを失うからである。

いくら、自由を求めても、死の前では、ひとたまりもない。死は人から、あらゆる自由をうばう。
この私とて、「私は自由だ!」といくら叫んでも、死を乗り越えて自由になることはできない。は
っきり言えば、死ぬのがこわい。

が、もし、失うものがないとしたら、どうだろうか。死をこわがるだろうか。たとえば無一文の人
は、どろぼうをこわがらない。もともと失うものがないからだ。が、へたに財産があると、そうは
いかない。外出しても、泥棒は入らないだろうか、ちゃんと戸締りしただろうかと、そればかりが
気になる。

そして本当に泥棒が入ったりすると、失ったものに対して、怒りや悲しみを覚える。泥棒を憎ん
だりする。「死」もこれと同じように考えることはできないだろうか。つまり、もし私から「私」をとっ
てしまえば、私がいないのだから、死をこわがらなくてもすむ?

 そこでイエス・キリストの言葉を、この問題に重ねてみる。イエス・キリストは、「真理」と「自由」
を、明らかに対比させている。つまり真理を解くカギが、自由にあると言っている。

言いかえると、真の自由を求めるのが、真理ということになる。もっと言えば、真理が何である
か、その謎を解くカギが、実は「自由」にある。さらにもっと言えば、究極の自由を求めること
が、真理に到達する道である。では、どうすればよいのか。





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23
●意識の変化

内閣府は2月5日、「男女共同参画社会に関する世論調査」結果を発表した。
 それによると、「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきだ」という考え方に反対する人が、92年
の調査開始後、はじめて賛成を上まわり、伝統的な家庭観が受け入れられなくなっていること
が明らかになったという。

 「夫は外、妻は家庭」という考えについては、
「賛成」「どちらかといえば賛成」……計45・2%
「反対」「どちらかと言えば反対」……計48・9%

 「反対」の割合は、20代で56・3%、30代で54・0%だったのに対し、60代では45・1%、7
0歳以上では31・2%と、若い世代に反発が強かった。

 女性の仕事についての考えについては、
「子どもができてもずっと続ける方がよい」……40・4%
「子どもができたらやめ、大きくなったら再び持つ方がよい」……34・9%
「子供ができるまでは持つ方がいい」……10・2%

 また、既婚者と同居者のいる人だけに、家庭内の実権を誰が握っているかについては、
「夫」……48・5%で、2002年の前回調査から7・1ポイント減った。

一方、「妻」は5・8ポイント増の22・7%となり、夫婦の"力関係"も変化しつつあることをうかが
わせたという。
(はやし浩司 内閣府調査 男女意識 男女共同参画社会 意識調査)

++++++++++++++++++

 わかりやすく言えば、こと「仕事」に関しては、男女の差別意識が少なくなったということ。実
際、職場を追い出され、育児に追いこまれることによって、女性が受ける、ストレスには、相当
なものがある。

 それについて書いた原稿が、つぎのものである。
 (中日新聞・投稿ずみ)

++++++++++++++++++

【母親がアイドリングするとき】 

●アイドリングする母親

 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに幸せの
ハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではないが、その充
実感がない……。

今、そんな女性がふえている。Hさん(三二歳)もそうだ。結婚したのは二四歳のとき。どこか不
本意な結婚だった。いや、二〇歳のころ、一度だけ電撃に打たれるような恋をしたが、その男
性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と何となく交際を始め、数年後、これまた
何となく結婚した。

●マディソン郡の橋

 R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。

「どこにでもある田舎道の土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」
(村松潔氏訳)と。

主人公のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れていた生
命の叫びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。

つまりフランチェスカは、「日に日に無神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻
に閉じこもって」生活をしていたが、キンケイドに会って、一変する。彼女もまた、「(戦後の)あ
まり選り好みしてはいられないのを認めざるをえない」という状況の中で、アメリカ人のリチャー
ドと結婚していた。

●不完全燃焼症候群

 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のような状態
をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。

Hさんはそうした不満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何が
不満だ」「お前は幸せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるストレスは相
当なものだ。

昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、こん
な話をしてくれた。「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わってしまっ
た。だから今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買いに行く」と。

「女を買う」と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということだった。晩
年の今氏は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だった。私は今氏
の「生」への執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そういうものか。その人の人生の
中で、いつまでも重く、心をふさぐ。

●思い切ってアクセルを踏む

 が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がいたが、
下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手伝ううち、
医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさんは、ヘルパー
の資格を取るために勉強を始めた、などなど。

「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、道路を走り出した人は多い。だから今、あなた
がアイドリングしているとしても、悲観的になることはない。時の流れは風のようなものだが、止
まることもある。しかしそのままということは、ない。

子育ても一段落するときがくる。そのときが新しい出発点。アイドリングをしても、それが終着
点と思うのではなく、そこを原点として前に進む。方法は簡単。勇気を出して、アクセルを踏
む。

妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それでまた風は吹き始める。人生は動
き始める。




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24
●相談集より

【質問1】

 5歳の子どもです。1、2学期は元気で、幼稚園へ通っていましたが、3学期になってから、教
室へひとりで入っていくことができなくなりました。

 友だちが声をかけてくれても、ダメで、入り口で待っているような状態です。心配ですが、どう
したらいいでしょうか。


【質問2】

 子ども(小5男児)を励ますつもりで、何かを言うと、「お母さんだって……」と言い返します。母
親を、ちょっとバカにしているようなところがあります。どうしたらいいでしょうか。


【質問3】

 2人兄妹の下の子のことです。「泣けば抱っこ」というふうに、何でも許してきました。こまごま
と言わないと、何もしません。春から小学校に入学します。だいじょうぶでしょうか。幼稚園で
は、しっかりとやってくれています。


【質問4】

 小学校へ行きだして、まわりを見ると、みな、親たちが子どもに、「勉強しなさい」「塾へ行きな
さい」と言っているのを聞きます。それを聞くと、あせってしまいます。どこまで親がすればよい
のか、悩んでいます。


【質問5】

 私の子どもは、心の内を表現するのが苦手です。そんな子どものストレスを解消するには、
どうしたらよいでしょうか。サインのようなものは、ありますか。


【質問6】

 一人っ子です。家庭では、いつも子ども中心で、勝負ごとも、私のほうで負けてあげたりして
います。競争する面も少なく、どうしたらよいでしょうか。


【質問7】

 1日中、「早くしなさい」と言っています。のんびり屋で、マイペースです。話すことに夢中になっ
てしまい、それで遅くなるようです。「早くしなさい」と言わずにすむ方法があれば、教えてくださ
い。


【質問8】

 私はずっときびしい母親でした。そのため子どもは、すっかり自信をなくしてしまい。自分を出
せない子どもになってしまいました。私なりに反省し、あきらめてきました。が、このところ、少し
ずつですが、自信をもち始めたようで、母親の私としては、何かと期待がわいてきました。これ
から先、どういうふうに指導したらよいでしょうか。

++++++++++++++

【はやし浩司より、R幼稚園のみなさんへ】


【質問1】

 5歳の子どもです。1、2学期は元気で、幼稚園へ通っていましたが、3学期になってから、教
室へひとりで入っていくことができなくなりました。

 友だちが声をかけてくれても、ダメで、入り口で待っているような状態です。心配ですが、どう
したらいいでしょうか。

【参考意見】

 何らかのこだわり(固着)をもっていることが考えられます。このこだわりが強くなると、恐怖症
などに発展します。考えられるのは、対人恐怖症、集団恐怖症などですが、こうした恐怖症に
よる恐怖感は、安易に考えてはいけません。

 「何でもないのよ」「がんばりなさい」という押しつけには、じゅうぶん、注意してください。要す
るに無理をしないこと。少しずつ、からんだ糸をほぐすように、子どもの立場で、子どもの心を
考えます。

 中に入れないようだったら、それを悪いことと決めてかからず、少しずつ、(実際の指導で
は、暖かい無視を繰りかえしながら)、子どもを中へ引き入れていくようにします。

 こじらせると、心身症、神経症へと発展します。さらに、一度、恐怖症のプロセス(思考プロセ
ス)ができてしまうと、いろいろな恐怖症になりやすくなりますから、注意してください。学校恐怖
症(不登校)も、その一つです。

 家庭では、それを責めたりしないこと。スキンシップを多くし、ほかの原因、たとえば欲求不満
になっていないかなどを、反省します。威圧的な家庭環境、虚圧的な雰囲気、拒否的な態度を
していないかを、反省してみてください。

 なお集団になじめない子について、補足として、少し考えてみます。

(補足)

●集団になじめない子ども

 集団になじめない子どもがいる。全体の10%程度はいるのではないか。集団の中で、つぎ
のような様子を示す。

(1)静かでおとなしい。柔和で、おっとりしている。
(2)従順で、自分の意思をはっきりと表示できない。
(3)いわゆる「いい子」だが、どこかつかみどころがない。
(4)まじめで、先生の指示などには、従順。できも悪くない。
(5)子どもらしい、ハツラツとした表情に欠ける。
(6)自分の感情を押し殺してしまうようなところがある。
(7)みなが大声で笑うようなときでも、それに乗ることができない。

 原因は、話せば長くなるが、新生児期から乳幼児期にかけての、母子関係の不全と考えてよ
い。子どもが、親の威圧的育児姿勢、拒否的態度、あるいは心配先行型の神経質な子育てな
どにより、ありのままの自分をさらけ出すことができなくなってしまったと考える。

 現実に、表情のとぼしい子ども、表情のない子どもがふえている。全体の10〜15%くらいは
いるのではないか。さらに自分の感情をすなおに表現できない子どもも、多い。

 問題は、こうした子どもは、外から受けるストレスを、その場でうまくかわすことができないと
いうこと。いやなことがあっても、それに反発することができない。言いたいことを言うことがで
きない。内へ内へと、それをためこんでしまう。心はいつも、ある種の緊張状態に置かれる。そ
してその結果として、集団に恐怖心をいだいたりするようになる。こじれて、不登校児になるこ
ともある。

 そこで大切なことは、こういうタイプの子どもは、どこかで、(「どこかで」といっても、家庭の中
ということになるが)、緊張状態をほぐすために、ガス抜きをしなければならない。仮に家庭の
中でも、抑えこんでしまうようなことがあると、子どもはさらに行き場をなくしてしまう。

 たいていこのタイプの子どもは、家の中では、まるで別人のように、騒いだり、大声を出した
り、わがままを言ったり、ときに暴力的であったりする。またそうすることによって、自分の心を
調整しようとする。

 家庭で、親の役割があるとすれば、そうしたガス抜きを、じょうずに手伝ってあげること。家の
中で、だらしない態度や、ぞんざいな様子を見せても、「ああ、この子は、外の世界でがんばっ
ているから……」と、大目にみる。

 そして何か、神経症的な症状を見せたら、その状態をそれ以上悪くしないことだけを考えて、
無理をしない。それに徹する。

 見た目の、つまり表面的な従順さや、まじめさに甘えて、過酷な負担を強いたり、過剰な期待
をしてはいけない。引くところは引きながら、「あなたは、無理をしなくていいのよ」というような
姿勢をつらぬく。

 なお小学校入学までに、一度、こうした様子を見せたら、それ以後、そうした様子が、(なお
る)ということは、まず、ない。おとなになってからも、つづくと考えてよい。だから大切なことは、
集団になじめないからといって、それを悪いことだと決めてかからないこと。

 子どもには、それぞれ、特有の特性のようなものがある。あとは、その特性にあわせて、つま
り無理をせず、子どもを伸ばしていくことを考える。


【質問2】

 子ども(小5男児)を励ますつもりで、何かを言うと、「お母さんだって……」と言い返します。母
親を、ちょっとバカにしているようなところがあります。どうしたらいいでしょうか。

【参考意見】

 反抗期ですね。それについて、まとめた原稿を、先に紹介します。

++++++++++++++++

 ●反抗期

 子どもの反抗期は、おおまかに分けると、つぎの3段階に分けることができる。私自身の経
験もまじえて、考えてみる。

【第1期】

 少年期(少女期)から、青年期への移行期で、この時期、子どもは、精神的にきわめて不安
定になる。将来への心配や不安が、心の中に、この時期特有の緊張感をつくる。その緊張感
が原因で、子どもの心は、ささいなことで、動揺しやすくなる。

この時期の子どもは、親に完ぺきさを求める一方、それに答えることができない親に大きな不
満をいだいたり、強く反発したりする。小学校の高学年から、中学校の2、3年にかけての時期
が、これにあたる。

○競争社会の認識(他人との衝突を繰りかえす。)
○現実の自己と、理想の自己の遊離(そうでありたい自分を、つかめない。)
○将来への不安、心配、失望(選別される恐怖。)
○複雑化する友人関係
○絶対的な親を求める一方、その裏切り(親への絶対意識が崩れる)

【第2期】

 親からの独立をめざし、親の権威を否定し始めるようになる。「親が、何だ!」「親風、吹かす
な!」という言葉が、口から出てくる。しかし親の権威を否定するということは、自ら、心のより
どころを否定することにもなる。そのため、心の状態は、ますます不安定になる。

こうした独立心と並行して、この時期、子どもは、自己の確立を目ざすようになる。家族の束縛
を嫌い、「私は私」という生き方を模索し始める。さらに進むと、この時期の子どもは、「自分さ
がし」という言葉をよく使うようになる。自分らしい生き方を模索するようになる。中学校の2、3
年から高校生にかけての時期をいう。

○独立心、自立心の芽生え(家族自我群からの独立。幻惑からの脱却。)
○干渉への抵抗(自分は自分でありたいという願い。)
○自己の模索(どうすればよいのかと悩む。)

【第3期】

 精神的に完成期に近づくと、親をも、自分と対等の人間と見ることができるようになる。親子
の上下意識は消え、人間対人間の、つまりは平等な人間関係になる。子どもが大学生から、
おとなにかけての時期と考えてよい。

 子どもは、この反抗期を経て、家族が家族としてもつ、一連の束縛感(家族自我群)からの独
立を果たす。

○受容と寛容(あきらめと、受諾。)
○社会性の確立(自分の立場を、決め始める。)
○恋愛期(恋をする。初恋。)
○家族への認識と、家庭づくりの準備(結婚観の模索)

こうした一連の流れを、一般的な流れとするなら、そうでない流れも、当然、考えられる。何ら
かの原因で、子ども自身が、じゅうぶんな反抗期を経験しないまま、おとなになるケースであ
る。

 強圧的な家庭環境で、子ども自身が、反抗らしい反抗ができないケース。
 親の権威主義が強すぎて、子ども自身が、その権威におしつぶされてしまうケース。
 家庭環境そのものが、きわめて不安定で、正常な心理的発育が望めないケース。
 異常な過保護、過干渉、過関心で、子どもの性格そのものが萎縮してしまうケース。
 親自身(あるいは子ども自身)の知的レベル、育児レベルが、低すぎるケース。
 親自身(あるいは子ども自身)に、情緒的、精神的問題があるケース、など。

 こういったケースでは、子どもは、反抗期らしい反抗期を経験しないまま、おとなになることが
ある。そして当然のことながら、その影響は、そのあとに現れる。

 じゅうぶんな反抗期を経験しなかった子どもは、一般的には、自立心、自律心にかけ、生活
力も弱く、どこかナヨナヨした生きザマを示すようになる。一見、柔和でやさしく、穏かで、おとな
しいが、生きる力そのものが弱い。よい例が、母親のでき愛が原因で、そうなる、マザコンタイ
プの男性である。(女性でも、マザコンになる人は、少なくない。)

 このタイプの男性(女性)は、反抗期らしい反抗期を経験しないため、自我の確立を不完全な
まま、終わらせてしまう。その結果として、外から見ても、つかみどころのない、つまりは、何を
考えているか、わからないといった性格の人間になりやすい。

 そんなわけで、子どもが親に向かって反抗するようになったら、親は、「うちの子も、いよいよ
巣立ちを始めた」と思いなおして、一歩、うしろへ退くようにするとよい。子どもの反抗を、決して
悪いことと決めてかかってはいけない。頭から、押さえつけたりしてはいけない。その度量の広
さが、あなたの子どもを、たくましい子どもに育てる。

++++++++++++++++++

 子どもは、反抗しながら、おとなになっていきます。反抗することを、「悪」と決めてかかっては
いけません。それともあなた自身は、いかがでしたか。そんな視点で、一度、自分を見つめて
みると、よいのではないでしょうか。


【質問3】

 2人兄妹の下の子のことです。「泣けば抱っこ」というふうに、何でも許してきました。こまごま
と言わないと、何もしません。春から小学校に入学します。だいじょうぶでしょうか。幼稚園で
は、しっかりとやってくれています。

【参考意見】

 要するに依存性の問題ですね。しかし子どもの依存性は、実は、親自身の問題なのです。親
自身が、依存性が強いから、子どもの依存性に甘くなってしまうというわけです。その結果とし
て、子どもに、依存心がついてしまうということになります。

 それだけに、この問題は、やっかいです。あなた自身の「心」をつくりかえなければならないか
らです。もっと言えば、子育ては、リズムの問題です。そのリズムを変えるのは、容易なことで
はありません。あるいは突然変えたりすると、今度は、子どものほうが、それに適応できなくな
ることもあります。

 昨日まで、「抱っこ」とせがめば抱っこしてくれた母親が、今日から「だめ」と言ったら、子ども
は、どんなふうに感ずるでしょうか。

 原因は、あなた自身が、乳幼児期に、どこか不安定な家庭で、依存性の強い子どもに育てら
れたことが考えられます。この問題は、「根」が深いということです。

 ただ幼稚園では、「しっかりとやっている」ということですので、お母さんが心配しているほど、
(心配な子)でないことは、考えられます。あるいは外の世界(幼稚園)でがんばっているから、
家の中で、かえって甘える(依存性)という態度をとるのかもしれません。

 幼稚園でがんばっているようなら、反対に、ほめてみたらどうでしょうか。「あなたは、よくやっ
ているわよ」「すばらしい子よ」と。

 そして母親は母親で、自分の道をさがします。子育てから離れて、自分のしたいことをしま
す。その結果として、子離れをし、子どもに自立を促すようにします。


【質問4】

 小学校へ行きだして、まわりを見ると、みな、親たちが子どもに、「勉強しなさい」「塾へ行きな
さい」と言っているのを聞きます。それを聞くと、あせってしまいます。どこまで親がすればよい
のか、悩んでいます。

【参考意見】

 YESかNOか、決めかねているときというのは、心も緊張し、そのため、たいへん不安定にな
ります。あなたが感じている不安感や、焦燥感も、そのあたりから生まれています。

 そういうときは、どちらか一方にすなおに、ころぶしかありません。ほかの親たちと同じよう
に、子どもには、「勉強しなさい」と言い、何も考えず、子どもを塾へ通わせる。あとは子どもが
もちかえる成績に一喜一憂しながら、子どもの未来を心配したり、あるいはその未来に希望を
もったり……。

 それがいやだというなら、あなた自身が、確固たる、子育て観と人生観を確立するしかありま
せん。「私は私」「私の子どもは、私の子ども」とです。

 そのために、私は、いろいろな情報と知識を提供しています。毎週、子育て通信を無料で配
信しています。(1000号で廃刊になりますので、早い者勝ちですよ!)

 「どこまで親がすればよいか」についてですが、親として必要なことはしまう。しかし必要以上
のことはしない。その限度をわきまえている親が、真の家族の喜びを与えられます(バートラン
ド・ラッセル)。

+++++++++++++++++++

自由な教育について書いた原稿を
添付します。

+++++++++++++++++++

常識は偏見のかたまり
●おけいこ塾は悪?
アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が十八歳のときにもっ
た偏見のかたまりである」と。

●学校は行かねばならぬという常識…アメリカにはホームスクールという制度がある。親が教
材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州政
府が家庭教師を派遣してくれる。

日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも
九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人を超えた。毎年一五%前後の割合で
ふえ、〇一度末には二〇〇万人になるだろうと言われている。それを指導しているのが、「LI
F」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は家庭でこそできる」という理念がそこにある。

地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運動は
世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明している。

●おけいこ塾は悪であるという常識…ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ通
う。早い子どもは午後一時に、遅い子どもでも三時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単位
で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。

そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは
学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が千円前後。こうした親の負担を
軽減するために、ドイツでは、子ども一人当たり、二三〇マルク(日本円で約一四〇〇〇円)の
「子どもマネー」が支払われている。

この補助金は、子どもが就職するまで、最長二七歳まで支払われる。こうしたクラブ制度は、カ
ナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性に合わせてクラブに通う。
日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学外教育に対する世間の評価はまだ低
い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任
をもたない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号
すら親には教えない。

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っていることでも、世界
ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。


【質問5】

 私の子どもは、心の内を表現するのが苦手です。そんな子どものストレスを解消するには、
どうしたらよいでしょうか。サインのようなものは、ありますか。

【参考意見】

 心の内をじょうずに表現できない子どもは、(1)攻撃型、(2)同情型、(3)依存型、(4)服従
型になると考えられています。(混合型もあります。)

 あなたという親の前で、心の内をうまく表現できないというのであれば、あなたとあなたの子ど
もの関係は、かなり危険な状態にあると思われます。親として、威圧的になっていないか、あな
た自身の情緒が不安定になっていないかどうかなどを、猛省してみてください。

 園や学校などで、内にこもるということであれば、自信をもたせるという方法で対処しますが、
簡単なことではありません。

 家へ帰ってきたら、子どもが気を抜き、心と体をのんびりと休めるような家庭環境を大切にし
てあげてください。

 サインとして考えられるのは、心身症(神経症)です。症状は、千差万別です。「うちの子、ち
ょっとおかしい症状をみせるな」と思ったら、この心身症(神経症)を疑ってみてください。

 診断シートを、あとでお渡しします。


【質問6】

 一人っ子です。家庭では、いつも子ども中心で、勝負ごとも、私のほうで負けてあげたりして
います。競争する面も少なく、どうしたらよいでしょうか。

【参考意見】

 一人っ子の問題は、いろいろ論じられていますが、何といっても、大きな問題は、(1)社会性
の不足です。たいていは親子だけのマンツーマンの家庭環境で育っているため、いわゆる温
室育ちになりやすいということです。

 それを補う方法は、いろいろありますので、今の状態を「結果」とは思わないで、これからの
子育てを考えてみてください。いろいろな団体の中で活動させるとか、など。やがて子ども自身
が、自分で、問題を克服していくようになります。


【質問7】

 1日中、「早くしなさい」と言っています。のんびり屋で、マイペースです。話すことに夢中になっ
てしまい、それで遅くなるようです。「早くしなさい」と言わずにすむ方法があれば、教えてくださ
い。

【参考意見】

 親子のリズムが、かみ合っていないとみます。親のほうが、何でも、ワンテンポ速い。それで
子どもが、いつも、ワンテンポ遅くみえます。

 さらにその根底には、子どもへの不信感、子育てへの不安感などが考えられます。そうした
不信感、不安感が姿をかえて、母親を、せっかちにさせます。

 で、実際に、その子どもがのんびりしているかといえば、そうでないケースが、ほとんど、で
す。(神経症による緩慢動作、緩慢行動は別です。)外の世界では、意外と、活発に行動してい
るものです。

 そこでもし機会があれば、外の世界(園や学校、スポーツをしているときなど)を、そっとのぞ
いてみてください。そういうところでも、のんびりしているようなら、また別の問題として考えます
が、まず、そういうことはないと思います。

 親の姿を見たとたん、別人のように、萎縮したり、動作が緩慢になる子どもは、珍しくありま
せん。

++++++++++++++++++++++

子育てリズム論について書いた原稿を添付します。

++++++++++++++++++++++

子育てリズム論
●子どもの心を大切に
 子育てはリズム。親子でそのリズムが合っていれば、それでよし。しかし親が四拍子で、子ど
もが三拍子では、リズムは合わない。いくら名曲でも、二つの曲を同時に演奏すれば、それは
騒音でしかない。そこでテスト。

 あなたが子どもと通りをあるいている姿を、思い浮かべてみてほしい。そのとき、(1)あなた
が、子どもの横か、うしろに立ってゆっくりと歩いていれば、よし。しかし(2)子どもの前に立っ
て、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩いているようであれば、要注意。

今は、小さな亀裂かもしれないが、やがて断絶…ということにもなりかねない。このタイプの親
ほど、親意識が強い。「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」と豪語する。へたに子
どもが口答えでもしようものなら、「何だ、親に向かって!」と、それを叱る。そしておけいこごと
でも何でも、親が勝手に決める。やめるときも、親が勝手に決める。子どもは子どもで、親の前
では従順に従う。そういう子どもを見ながら、「うちの子は、できのよい子」と錯覚する。が、仮
面は仮面。長くは続かない。

 ところでアメリカでは、親子の間でも、こんな会話をする。父「お前は、パパに何をしてほしい
のか」、子「パパは、ぼくに何をしてほしいのか」と。この段階で、互いにあいまいなことを言うの
を許されない。それだけに、実際そのように聞かれると、聞かれたほうは、ハッとする。緊張す
る。それはあるが、しかし日本人よりは、ずっと相手の気持ちを確かめながら行動している。

 このリズムのこわいところは、子どもが乳幼児のときに始まり、おとなになるまで続くというこ
と。その途中で変わるということは、まず、ない。ある女性(三二歳)は、こう言った。「今でも、
実家の親を前にすると、緊張します」と。別の男性(四〇歳)も、父親と同居しているが、親子の
会話はほとんど、ない。どこかでそのリズムを変えなければならないが、リズムは、その人の人
生観と深くからんでいるため、変えるのは容易ではない。

しかし変えるなら、早いほうがよい。早ければ早いほどよい。もしあなたが子どもの手を引きな
がら、子どもの前を歩いているようなら、今日からでも、子どもの歩調に合わせて、うしろを歩
く。たったそれだけのことだが、あなたは子育てのリズムを変えることができる。いつかやが
て、すばらしい親子関係を築くことができる。


【質問8】

 私はずっときびしい母親でした。そのため子どもは、すっかり自信をなくしてしまい。自分を出
せない子どもになってしまいました。私なりに反省し、あきらめてきました。が、このところ、少し
ずつですが、自信をもち始めたようで、母親の私としては、何かと期待がわいてきました。これ
から先、どういうふうに指導したらよいでしょうか。

【参考意見】

 子育ては、試行錯誤のかたまり。失敗することを恐れてはいけません。大切なことは、失敗
に気づくことです。問題は、そうした失敗に気づかないまま、また同じ失敗を繰りかえすことで
す。

 幸いなことに、この相談の方は、自分を見る目を、しっかりともっています。反省もしています
し、子どもへの影響も、自覚しています。つまり、すでにこの母親は、すばらしい母親だというこ
とです。

 ですから重要なことは、今の、育児姿勢を守ることです。「私なりに反省する」「あきらめる」
「何とか期待がわいてきた」など。すばらしい育児姿勢です。

 あとは、前向きに進みます。過去は過去。過去には、こだわらない、です。

 で、そのためにも、親としての学習だけは、つづけてください。手前味噌になりますが、どうか
私のHPを読んだり、マガジンを読んだりしてみてください。みんなでこれからも、ずっといっしょ
に、子育てを考えていきましょう。





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25

●孤独論

昨日も、日本のどこかで、男女3人が、集団自殺したらしい。
その集団自殺の新聞記事を読みながら、ふと、こんなことを考えた。

++++++++++++++++++

この世で、一番、恐ろしいもの。それが、孤独。
だれにも相手にされず、話しかける相手もいない。
病気になっても、心配してくれる人もいない。
仮に、死んでも、その死を悲しむ人もいない。

そんな世界は、想像するだけでも、ぞっとする。

しかし……そんな想像など、あえて、しなくてもいい。
だれしも、すぐそこに、孤独を感じながら、生きている。
その孤独が怖(こわ)いから、毎日をごまかして
生きているだけ。孤独になるのを避けて生きているだけ。

では、その孤独を避ける方法はあるのか。
あるいは、孤独を感じたら、どうしたらいいのか。

いや、人間には、孤独を避ける力はない。孤独に
打ち克つ力もない。孤独は、それほどまでに恐ろしいもの。
仏教の世界でも、孤独を、無間地獄のひとつと位置づけている。

もし人がその孤独に包まれたら、ゾンビのように
ただ街中をフラフラとさまよい歩くか、
さもなくば、自ら、死を選ぶしかない。

数日前も、数人の男女が、車の中で、集団自殺をした。
集団で死ぬことで、孤独を少しでも、いやそうとしたのか。
理由は、わからない。原因もわからない。

絶望? 妄想? 自己否定? それとも心の病気?

ただ私たちが今、できることは、そこに孤独な人がいたら、
やさしい言葉をかけてやること。理解してやること。

その共鳴感が、私たちの心を広くし、心に、温もりを与える。
自らに、孤独をいやす力や、やすらぎを与える。

「あなたは、決してひとりではない」と伝えることで、
はじめて、「私は決してひとりではない」という確信を、
もつことができる。

その「輪」をつくること。その「輪」を広くすること。
この孤独だけは、絶対にひとりでは、立ち向かえない。
みなが、その「輪」をつくって、戦うしか、方法はない。
みなが、力を合わせて、守りあい、支えあうしかない。

今朝、それを発見した。あとは、それを具体的に、どう
考え、どう実行していくか、だ。今日もがんばろう!

(死に急ぐ人たちへ)

 死ぬことは、何でもない。
 だから、死に急ぐことは、ない。
 どうせ、ほうっておいても、
 いつか人は、死ぬんだから。

 死ぬことに、意味はない。
 まったく、意味はない。
 大切なことは、生きること。
 生きて、生きて、生き抜くこと、だよね。

 が、もし生きることに、さみしさを感じたら、
 今、さみしがっている人に声をかけてみよう。
 「私もさみしいんだよ」と。

 気取ることは、ない。飾ることもない。
 みんな、さみしい。
 さみしくない人は、いない。

 みんな元気そうに生きているけど、
 そう見えるだけ。そういうフリをしているだけ。

 ああ、いやだね、この肌寒さ。
 いやだね、このうっとおしい曇り空。

 何かと気が滅入る季節だけれど、
 ここはがんばって生きるしかないよね。
 そのうち、また、何か、いいこともあるだろうし……ね。

 ぼくも自信はないけれど、……つまり、本当のところ
 ぼくも、毎日、さみしくてしかたない。

 だからときどき、だれか、ウソでもいいから、
 やさしい言葉をかけてくれないかなと思うことがある。

 まあ、これはぼくの甘えのようなものかな。
 ともかくも、みんなで力を合わせて、生きていきましょう。

 決して、死に急いではいけませんよ。
 死ぬことには、何も意味はないのだから……。
 




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26
●怒りっぽい母親

●兵庫県にお住まいの、Fさんからのメール

こんにちは、AK市のFと申します。
久しぶりに、はやし先生のHPを拝見しています。

現在、3人の子どもたちがいます。
長男6才、二男・三男3才(双子)です。
少しだけ、話を聞いていただけますか?

最近、自分の感情のままに子どもを叱り、押さえつけたり、脅したり・・最低な母親で
あることに気づいています。

自分より幼い子どもなのに、大切な大切なこどもなのに、少しでも気に入らないこと
や、失敗があると、怒鳴って異常に苛立っています。
時には手も出してしまいます・・。

我慢できないのか、我慢もしていないのか、自分でも分かりません。

先日、とてもショックな出来事がありました。

長男の幼稚園でお別れ会があり、親子で参加し、ゲームをしました。
そのときのことです。

子どもたちが、自分の母親の絵を描くゲームをしました。
正月にする、福笑いのようなゲームです。

しかし長男が並べた私の顔は、とても恐い顔でした。

そしてそのゲームをしながら、

1、料理をたくさん食べろと怒るママ
2、お風呂に入る前にトイレに行くママ
3、弟とばっかり遊んで、僕とは遊んでくれないママ

と言うのです。

正直、恥ずかしかったです。いつも、何か言われても「ちょっとまって!」で後回
し。構ってあげなかったことを反省しました。

でも、会から帰って私の怒りを息子にぶつけてしまいました・・・。

「何で、あんなに恐い顔をかくの?!」
「トイレに行くって、そんなこと言わなくてもいいでしょう!」
「ご飯も多すぎるんなら、もう食べなくってもいい!!」

私は、ものすごい剣幕でした。
その後、子どもも私も泣きました。双子も私が泣いているのを見て泣きました。

すみません、長々と・・。
子どもたちに辛く当たっていること、感情のコントロールができない事、私の全て、直し
たいって本当に思っています。

どうか、アドバイスしてください。
(兵庫県AK市、FSより)

+++++++++++++++++

【Fさんへ】

 いつもの書き方を少し変えて、アドバイスを、箇条書きにしてみます。うまくできるかどうかわ
かりませんが、お役に立てば、うれしいです。

●子育ては、考えてするものではない

 だれしも、「頭の中では、わかっているのですが、ついその場になると……」と言います。子育
てというのは、もともと、そういうものです。そこでいつも同じようなパターンで、同じような失敗を
するときは、(1)あなた自身の過去を冷静に見つめてみる。(2)何か(わだかまり)や(こだわ
り)があれば、まず、それに気づくことです。あとは時間が解決してくれます。


●子育ては、世代連鎖する

 子育ては、世代を超えて、親から子へと、よいことも、悪いことも、そのまま連鎖します。また
そういう部分が、ほとんどだということです。そういう意味で、「子育ては本能ではなく、学習によ
るもの」と考えます。つまり親は子育てをしながら、実は、自分が受けた子育てを、無意識のう
ちに繰りかえしているだけだということです。そこで重要なことは、悪い子育ては、つぎの世代
に、残さないということ。


●子育ての見本を見せる

 子育ての重要な点は、子どもを育てるのではなく、子育てのし方の見本を、子どもに見せると
いうことです。見せるだけでは、足りません。包みます。幸福な家庭というのは、こういうもの
だ。夫婦というのは、こういうものだ。家族というのは、こういうものだ、とです。そういう(学習)
があって、子どもは、親になったとき、はじめて、自分で子育てが自然な形でできるようになりま
す。


●子どもには負ける

 子どもに、勝とうと思わないこと。つまり親の優位性を見せつけないこと。どうせ相手にしても
しかたないし、本気で相手にしてはいけません。ときに親は、わざと負けてみせたり、バカなフ
リをして、子どもに自信をもたせます。適当なところで、親のほうが、手を引きます。「こんなバ
カな親など、アテにならないぞ」と子どもが思えば、しめたものです。


●子育ては重労働

 子育ては、もともと重労働です。そういう前提で、します。自分だけが苦しんでいるとか、おか
しいとか、子どもに問題があるなどと、考えてはいけません。しかしここが重要ですが、そういう
(苦しみ)をとおして、親は、ただの親から、真の親へと成長するのですよ。そのことは、子育て
が終わってみると、よくわかります。子育ての苦労が、それまで見えなかった、新しい世界を親
に見せてくれます。どうか、お楽しみに!


●自分の生きザマを!

 子育てをしながらも、親は、親で、自分の生きザマを確立します。「あなたはあなたで、勝手に
生きなさい。私は私で、勝手に生きます」と。そういう一歩退いた目が、ともすればギクシャクと
しがちな、親子関係に、風を通します。子どもだけを見て、子どもだけが視野にしか入らないと
いうのは、それだけあなたの生きザマが、小さいということです。あなたはあなたで、したいこと
を、すればいいのです。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●愛には懼(おそ)れなし

 「愛には懼(おそ)れなし」(新約聖書(ヨハネ・第1書・4・18)とある。つづけて、「全主愛は、
懼れを除く。懼れには苦難あればなり。懼るるものは、愛、いまだ全からず」と。

 愛はすべてであり、その愛があれば、すべての懼れがなくなるという。つまり何かに懼れてい
る人は、いまだ、その愛が完成されていないことを示す、と。

 ……こんな解釈を加えると、キリスト教徒の人たちは、不愉快に思うかもしれない。しかし私
は、私の解釈によってでも、イエス・キリストのこの言葉は、すばらしい言葉だと思う。どうしてか
わからないが、何度も読みかえしていると、心の中が暖まってくる。

 思えば、私の心は、すき間だらけ。ボロボロで、つかみどころがない。何かを求めてずっと生
きてきたはずなのに、その何かの片鱗(へんりん)すら、つかめないでいる。あがいている。

 だからさみしい。だから悲しい。心暖かい家族にめぐまれ、やさしい妻に恵まれ、それなりに
幸福な生活をしながらも、心の中は、すき間だらけ。何を考えても心配だし、不安は、打ち寄せ
る波のように、つぎからつぎへと、容赦なく襲ってくる。

 なぜだろう。何が、足りないのだろう。何が、まちがっているのだろう。

 生きることにまつわる、不安や心配、それらを総称して、「苦難」という。イエス・キリストは、そ
れらにおびえることを、「懼れ」と呼ぶ。ならば私は、その「懼れ」の最中(さなか)にいることにな
る。

 そう、私は、ときどき、生きている意味すら、わからなくなる。「なぜ、私はこんなところにいる
のだろう」と思うことさえある。自分をつかもうと、懸命にもがくのだが、どうしてもつかみきれな
い。

 そういう「懼れ」から逃れる方法は、ただ一つ。イエス・キリストは、「愛」だと説く。「人を愛する
心」だと説く。「なるほど」と思ってはみるが、しかし実際のところ、私には、その「愛」というの
が、何であるのか、よくわからない。

 相手に対する共鳴感のことなのか。相手の立場で、その相手の悲しみや苦しみを、共有する
ことなのか。あるいはまた、いつも私が書いているように、「許して、忘れる」ことなのか。

 ただこれだけは言える。だれでもよい。だれでもよいが、その人に親切にしてやったり、やさ
しくしてやったりすると、自分の心に張りついた孤独感が、ふと、やわらぐのを感ずることがあ
る。

 そういうのを「愛」と言うのだろうか。もしそうなら、そういった親切や、やさしさを、広げていけ
ばよいということになる。が、それは口で言うほど、簡単なことではない。

 が、私は、おかしな人間だ。その一方で、私は、何かに懸命にしがみつこうとしている。抵抗
しようとしているのかもしれない。すなおな気持ちで、人を愛し、愛されることを受け入れればよ
いのに、別の心は、それに反対している。

 なぜ、私は、こうまで「現実世界」に執着するのか。名声や地位、名誉とは、ほとんど決別し
た。しかしそれでもまだ、自分の心にすなおになれないでいる。善人になれないでいる。

 楽な生活をしたい。もっと人生を楽しみたい。お金も、嫌いではない。苦労はいやだし、人に
利用されるのも、いやだ。相手が悪人なら、なおさらだ。

 そういう自分を、どうしても、捨てきれない。もっとわかりやすく言えば、「善人になるのは、そ
れでよいとしても、その善人になったとき、それで生きていかれるのか」という疑問を、どうして
も、払いのけることができない。

 仕事もしなければならない。つまり生活費も稼がねばならない。きれいごとだけでは、私の世
界では生きていかれない。私が支えなければならない扶養家族だけも、現在、5人もいる。

 現実のほうが、まちがっているのかもしれない。それはわかっているが、聖書を読んでいる
と、どんどんと自分が現実離れしていくように感ずる。へたをすれば、私の人格が二分されてし
まう。

 今は、この程度しか、書けない。この先は、もう少し頭を冷やしてから書くことにしよう。まあ、
今日も、やさしい気持ちと、穏かな気持ちだけは、大切にしながら……。

 みなさん、おはようございます。今週も始まりました。2月14日、月曜日。

 そうだ、今日は、バレンタイン・ディーだ! 忘れていた! (私には関係ないが……。)


●時間と空間の共有感

 若いころの自分に、視点を置いてみる。私が、10歳とか、12歳のころだ。そのころも、私の
まわりには、たくさんの人がいた。

 最初に思い浮かんだのは、近所の菓子屋のおやじだった。頭のはげたおやじで、愛想はあ
まりよくなかったが、何かを買うと、いつも、おまけをくれた。菓子屋なのに、おもちゃのおまけ
をくれたこともある。

 つぎに学校の先生だ。Kという先生だ。ニックネームは、「かば」だった。名前が、「カバxx」だ
ったからではないか。
 
 ほかに、体育の先生や、道端で、おもちゃを売っていた男などなど。今から思うと、「かば」と
いうニックネームの先生をのぞいて、みんな、40代とか50代の人ばかり。

 そういう人を、順に頭の中で思い出していくと、やがて、言いようのない切なさを覚える。「か
ば」というニックネームの先生は、若い女性の先生だったが、まもなく、何かの病気で、死んで
しまった。

 で、計算すると、そのころのおやじにせよ、先生にせよ、今、生きていれば、90歳代とか10
0歳代になっているはず。しかし生きている人は、ほとんどいないはず。みんな、それぞれの時
代に、ぞれぞれの人生を懸命に生きたのだろう。が、結果としてみると、まるであとかたもなく
消えてしまっている。

 おかしな話に聞こえるかもしれないが、私は、そこに、人を愛する原点を感ずる。つまりそう
いう(切なさ)の中に、人を愛する原点を感ずる。私たちは、そういう自分の過去を振りかえりな
がら、実は、その時代に生きた人たちは、やがてくる将来の私たちであることを知る。

 私も、(そしてあなたも)、例外なく、やがて、だれかの思い出の中にその片鱗を残すことはあ
っても、そのまま、また消えていく。そこに生きることにまつわる、切なさを感じ、生きる人たち
に対しては、限りないいとおしさを、感ずる。

 それが、そのまま、「愛」につながっていく? 人類愛につながっていく? 結論を先に言え
ば、時間と空間の共有性。それが愛の原点ではないのか。

 たとえば今、1人の幼児に接したとする。年齢は、5歳だ。私との年齢の差は、50歳以上も
ある。そんなとき、私は、ふと、こう考える。

 「この子が、30歳や40歳になるころには、私は、もうこの世には、いないだろうな」と。つま
り、今度は、反対の立場で、今、懸命に生きている自分に、切なさを覚える。そしてその子ども
に対しては、限りない、いとおしさを覚える。

 今、うらんでいる人も、嫌っている人も、例外ではない。憎んでいる人も、さげすんでいる人
も、例外ではない。つぎの瞬間には、私は、そういう人たちもろとも、この世から消える。

 つまり私たちは、「今」というこの時間と、この身近な空間を、たがいに共有しているにすぎな
い。そしてそれから生まれる共有感には、はっきりとした限界がある。いくらがんばっても、命と
いう限界を超えて、私たちは、その先へ進むことはできない。もちろん私が生まれた以前の過
去へもどることもできない。その限界を感ずからこそ、今、時間と空間を共有するものに対し
て、限りない、いとおしさ、つまり、「愛」を感ずる。

 支離滅裂なことを書いてしまったが、もう少し、がまんして、私の話を聞いてほしい。わかりや
すく説明しよう。

 たとえばコンビニの中で、見知らぬ男性をみかけたとしよう。相手も私を知らない。何の関係
もない。

 しかし今、はっきりしているのは、私も、その男性も、「今」というこの時間を共有しているとい
うこと。距離も近い。この無限に広い宇宙という尺度でみるなら、別々の人間と言うよりは、同
じ人間。しかも一体化している。

 しかしそんな男性でも、そして私でも、あと半世紀もすれば、この世から、あとかたもなく、き
れいに消え去る。ともに、そういう運命を背負っている。

 そのことを思うと、その男性が、他人とは、とても思えなくなってくる。仮にその人が、悩んでい
たり、苦しんでいたりすれば、なおさらだ。私がそこにいるのが奇跡なら、その男性がそこにい
るのも、奇跡なのだ。そして「今」というこの瞬間において、時間と空間を共有しているというの
は、さらに奇跡なのだ。

 それがわからなければ、今、静かに目を閉じて、あなたという存在が、消滅してしまった状態
を想像してみればよい。

 あなたの肉体は、もうない。光を見る目も、音を聞く耳もない。心を動かす脳ミソもない。まっ
たくの虚無の世界だ。「私」が消えた状態では、この世界を認識することもできない。

 そういう世界から見ると、あなたがここにいるのも奇跡なら、その男性がそこにいるのも奇
跡。それがわかるはず。「だから、その男性を愛せよ」と、私は言っているのではない。ただ、
その男性との間に、時間と空間の共有性を感じたとたん、私は、その男性が、私とはまったく
無関係の他人とは、どうしても思えなくなってしまう。

 繰りかえしになるが、私は、それが「愛」、しいて言えば、「人類愛」の原点ではないかと思う。




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27
●小児性愛

 NY氏(K大講師)が書いている、「小児性愛とは何か」という記事も、たいへんおもしろかった
(「月刊G・3月号」p104)。

 女性のことは知らない。しかし男性には、それぞれ、固有の(?)性的嗜好性がある。それに
気づいたのは、ある日、私にこんなことを言った男性がいたからだ。私がまだ24、5歳のころ
のことだった。

 従業員が、15人ほどの、電気工事店を経営していた男性だった。いわく、「オレは、尻の大
きな女性が好きだ。そういう女性に、顔を押しつぶしてもらうと、ゾクゾクと感ずる」と。

 ある程度の範囲でのことなら、私にも理解できる。たとえば女性のスカートの下をのぞいてみ
たいとか、風呂屋の番台ごしに、女湯のほうをのぞいてみたいとか、など。私にも、そういう嗜
好性がないわけではない。しかし「大きな女性の尻で、顔を押しつぶしてもらいたい」とは! そ
のときは、「本当?」と思うと同時に、「人、それぞれだな」と思った。

 で、やがて年をとるにつれて、私は、10人の男がいれば、それぞれの人に、10種類の性的
嗜好性があるということを知った。女性の汚れた下着に興奮する男もいれば、ムチで女性に打
たれると興奮する男もいる。

 この世界には、正常も異常も、ない。スタンダード(標準)もなければ、基準もない。同性愛に
しても、いまでは、それを問題にする人はいない。しょせん男と女の世界。たがいに合意の上
でなら、何をしてもよい。が、一つだけ、「困る」というのがある。

 小児性愛である。性嗜好障害の一つと考えられている。

 先日も、N県で、小学生の女の子が誘拐され、殺されるという事件が起きた。犯人は、前科
のある30代半ばの男だった。(その男が、小児性愛者だったと言っているのではない。誤解の
ないように!)どんな性的嗜好性をもとうが、それはその人の勝手だが、相手が、子どもという
点で、問題がある。許せない。

 その小児性愛者については、WHO(世界保健機関)の「国際疾病分類」(ICD−10)の定義
によれば、つぎのようであるという(参考、同・月刊G)。

(1)前思春期(通常13歳以下)に対して強烈な性的衝動を、
(2)少なくとも6か月以上もっていて、
(3)実際に性的行為におよび、
(4)この性衝動のために本人が苦悩している。

 この中で、とくに注意をひくのは、小児性愛者は、子どもに対しては、性的衝動を感ずること
はあっても、成人の女性とのセックスなどでは、満足できないという点である(同、NY氏)。つま
り完成された女性の肉体には、興味を示さないということか。

 ここで私は、「興味」という言葉を使ったが、本当は正しくないかもしれない。たとえば私は、こ
の年齢になっても、いまだに同性愛者の気持ちが、理解できない。少しでも私の中に、その傾
向があるなら、理解できるかもしれない。

 たとえば、よく知られた例に、「のぞき」がある。窃視症ともいう。入浴中の女性に、性的興奮
を覚えるというものだが、私にも、それがあることに、あるとき、気がついた。廊下を歩いてい
て、ふと、ワイフの入浴中の姿が見えたときのこと。私はそれまで感じたことがない、性的興奮
を覚えた。

 だから「のぞき」については、理解できる。「旅館で、女湯をのぞいたよ」と言う男がいたりして
も、それほど違和感を覚えない。(だからといって、それを許しているわけではない。誤解のな
いように!)が、同性愛については、頭をさかさまにしても、理解できない。

 つまりこの性的嗜好性の問題は、白黒の境界が、きわめてはっきりしているということ。興味
があるとかないとか、関心があるとかないとか、そういう問題ではない。ある人にはあり、ない
人には、まったくない。そういう意味でも、性嗜好性障害の問題は、ほかの精神障害とは区別
される、特異な問題と考えてよい。

 そこでつぎの問題は、こうした性嗜好性障害は、その人の自身の努力で、変えられるものか
ということ。たとえば私について言うなら、同性には性的関心をもたない。そういう私でも、何ら
かの訓練や指導によって、関心をもつことができるようになるのだろうか。

 私の印象では、それは不可能ではないか思う。あえて正直に告白すれば、大きな女性の尻
は、私には、グロテスク以外の、何ものでもない。そんな尻に顔を押しつぶされたら、性的に興
奮する前に、嫌悪感に耐えきれず、逃げ出してしまうだろう。相手が男なら、なおさらだ。想像
するだけで、ゾッとする。

 では、小児性愛はどうか。たしかに子どもには、汚れのない美しさがある。しかしそれは「心」
のことであって、「肉体」のことではない。だから子どもに、性的魅力を感ずるということは、私
のばあいは、ない。

 が、小児愛者たちは、一般的な男たちが、成人した女性の胸や陰部を見たときに感ずるよう
な性的快感を、子どもに感ずるという。このときも、「なぜ」「どうして」という質問は、意味はな
い。感ずるものは、感ずるのであって、どうしようもない。同性愛者が、同性に性的な関心をも
つことについて、「なぜ」「どうして」と質問するのと、同じである。

 反対に、ではなぜ、私を含めて、一般的な男たちが、女性の胸や陰部に、関心をもつのか。
それについて、「なぜ」「どうして」と聞かれても、困る。性的嗜好性というのは、そういうものであ
る。

 で、NY氏は、先のN県で起きた女児誘拐殺害事件について、記事の中で、犯人の再犯性に
ついて、詳しく書いている。が、結論から先に言えば、いくら刑罰を科しても、こうした性的嗜好
性は、変えられないということらしい。根が深いというか、原始的な本能に根ざしているためで
はないか。

 そのため、再犯性がきわめて高く、一度犯罪を犯したものは、刑期を終えたあとも、追跡観
察が必要ということになる。

 その小児性愛者の特徴としては、つぎの二つがあるという(同誌)。

(1)小児性愛者は、子ども自身が、それを望んでいると錯覚している。
(2)性的興奮を得る段階で、視覚的刺激による部分が大きい。

 ふつう、男というのは、視覚的刺激だけではなく、女性の声や雰囲気、様子などで性的な興
奮を覚える。しかし小児性愛者は、視覚的な刺激が優勢で、聴覚的な刺激などには、ほとんど
反応しないということらしい。NY氏は、こうした事実をふまえて、「(小児性愛者には)何らかの
動物的な本能が欠落しているためだと考えられる」と結論づけている。

 ただしNY氏も書いているように、小児性愛者イコール、小児わいせつではないということ。

 大半の人は、そうした性的嗜好性をもちながらも、ごくふつうの人として、ふつうの生活を営ん
でいる。結婚して、子どもをもうけているケースも、少なくない。嗜好性の強弱の問題というより
は、その人の自己管理能力の問題ということになる。

 私も、この幼児教育の世界に入るとき、時の幼稚園の園長から、「絶対に守るように」と、き
びしい掟(おきて)を、授けられた。それはどんなことがあっても、女児には、指1本、触れては
ならないという掟だった。

 頭(ほめるときに頭をさわる)と、手(握手など)をのぞいて、以来、35年になるが、私は今で
も、その掟を守っている。その当時から、(当時は、小児性愛という言葉はなかったが……)、
そうした問題が、子どもの世界で起きていたからではないか。園長は、それを知っていた。

 で、何かの事情があって、幼児(女児)を抱きあげるときは、100%、例外なく、近くにいる母
親の了解を求めてからにしている。さらに、女児にかぎらず、女子中学生や、高校生と面を向
って話すときは、かならずポケットに手を入れて話すようにしている。これは掟とはちがうが、気
がついてみたら、いつの間にか、そうなっていた。

 言うまでもなく、不要な誤解をされないためである。

 ただ、NY氏によれば、小児愛者の中には、同性愛者も少なくないという。かならずしも、相手
が異性とはかぎらない。成人の男が、男児に、性的な衝動を感ずるようなケースをいう。こうい
うケースは、同じ性嗜好性障害の中でも、重症だそうだ。

 私のばあいは、相手が男児なら、平気で、抱きあげたり、ときには、プロレスごっこをしたりす
る。(女児とは、もちろん、したことがない。)しかしこれからは、男児との接触も、してはいけな
いということになるのか? 

 最後に、一例だけだが、私には、こんな失敗がある。

 その子ども(小3女児)は、何かにつけて、私に、ベタベタと体をすりよせてきた。イスに座っ
て、雑誌を読んでいるようなときでも、私にとびついてきた。私は、すかさず、その子どもを手で
押して、私の体から、離した。

 で、ある日、かなりきつくその子どもを叱った。

 その子どものためというよりは、参観している親たちに、不要な誤解を与えないためである。
こうした誤解は、私のような仕事をしている者にとっては、決定的に、まずい。

 が、その子どもは、その日を境に、私の教室へこなくなった。そればかりか、ほかの子どもた
ちに、「あの林は、私にエッチなことをした」と言いふらし始めた。

 私は、そのとき、40歳代の半ばごろだったが、これには激怒した。まず、その子どもの親に
電話をした。つづいて、その子どもを、電話口に出した。そして年甲斐(がい)もなく、怒鳴りつ
けてやった。いくらうわさでも、この世界にも、許せることと、許せないことがある。

 で、今でも、ときどき、私に体をベタベタとする寄せてくる子どもがいる。しかし最初の段階で、
きっぱりと、「それは悪いことだ」と子どもに、話すようにしている。この話は、小児性愛とは関
係ないが……。

 ほかにも、窃視症(のぞき)のほか、露出狂、サド、マゾなどの性嗜好性障害がある。原因の
多くは、乳幼児期における、ゆがんだ性意識の形成にあるとされる。「障害」とまでは言えない
にしても、威圧的な母親をもったために、女性に対して恐怖心をもつようになる男児も、少なく
ない。

 大切なことは、親は、子どもに対しては、ほどよい親であるということ。そして子どもは、子ど
もの世界を通して、自然な形で、性意識をはぐくむのが、よい。私の結論は、そういうことにな
る。
(はやし浩司 小児性愛 性嗜好障害 性的嗜好性 性嗜好性 小児愛)

(付記)

日本のK首相は2月15日の閣僚懇談会で、再犯率の高い犯罪で懲役刑を受け、出所した人
物の居住地などの情報を、法務省から警察庁に提供するための体制づくりを急ぐよう、関係閣
僚に指示した。対象犯罪は、性犯罪に加え、放火、麻薬、暴力犯などを想定している。これを
受け、政府は16日、再犯防止に関する関係省庁の局長・審議官級の会議を開催する。(ヤフ
ー・ニュースより)




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28
●夢、希望、目的

 子どもを伸ばすための、三種の神器、それが「夢、希望、そして目的」。

 それはわかるが、これは何も、子どもにかぎったことではない。おとなだって、そして老人だっ
て、そうだ。みな、そうだ。この夢、希望、目的にしがみつきながら、生きている。

 もし、この夢、希望、目的をなくしたら、人は、……。よくわからないが、私なら、生きていかれ
ないだろうと思う。

 が、中身は、それほど、重要ではない。花畑に咲く、大輪のバラが、その夢や希望や目的に
なることもある。しかしその一方で、砂漠に咲く、小さな一輪の花でも、その夢や希望や目的に
なることもある。

 大切なことは、どんなばあいでも、この夢、希望、目的を捨てないことだ。たとえ今は、消えた
ように見えるときがあっても、明日になれば、かならず、夢、希望、目的はもどってくる。

あのゲオルギウは、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅう
えん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』(二十五時)という名言を残して
いる。

 ゲオルギウという人は、生涯のほとんどを、収容所ですごしたという。そのゲオルギウが、そ
う書いている。ギオルギウという人は、ものすごい人だと思う。

 以前書いた原稿の中から、いくつかを拾ってみる。


●希望論

 希望にせよ、その反対側にある絶望にせよ、おおかたのものは、虚妄である。『希望とは、
めざめている夢なり』(「断片」)と言った、アリストテレス。『絶望の虚妄なることは、ま
さに希望と相同じ』(「野草」)と言った、魯迅などがいる。

さらに端的に、『希望は、つねに私たちを欺く、ペテン師である。私のばあい、希望をな
くしたとき、はじめて幸福がおとずれた』(「格言と反省」)と言った、シャンフォールがい
る。

 このことは、子どもたちの世界を見ているとわかる。

 もう10年にもなるだろうか。「たまごっち」というわけのわからないゲームが、子ども
たちの世界で流行した。その前後に、あのポケモンブームがあり、それが最近では、遊戯
王、マジギャザというカードゲームに移り変わってきている。

 そういう世界で、子どもたちは、昔も今も、流行に流されるまま、一喜一憂している。
一度私が操作をまちがえて、あの(たまごっち)を殺して(?)しまったことがある。そ
のときその女の子(小1)は、狂ったように泣いた。「先生が、殺してしまったア!」と。
つまりその女の子は、(たまごっち)が死んだとき、絶望のどん底に落とされたことになる。

 同じように、その反対側に、希望がある。ある受験塾のパンフレットにはこうある。

 「努力は必ず、報われる。希望の星を、君自身の手でつかめ。○×進学塾」と。

 こうした世界を総じてながめていると、おとなの世界も、それほど違わないことが、よ
くわかる。希望にせよ、絶望にせよ、それはまさに虚妄の世界。それにまつわる人間たち
が、勝手につくりだした虚妄にすぎない。その虚妄にハマり、ときに希望をもったり、と
きに絶望したりする。

 ……となると、希望とは何か。絶望とは何か。もう一度、考えなおしてみる必要がある。

キリスト教には、こんな説話がある。あのノアが、大洪水に際して、神にこうたずねる。
「神よ、こうして邪悪な人々を滅ぼすくらいなら、どうして最初から、完全な人間をつ
くらなかったのか」と。それに対して、神は、こう答える。「人間に希望を与えるため」
と。

 少し話はそれるが、以前、こんなエッセー(中日新聞掲載済み)を書いたので、ここに
転載する。

++++++++++++++++++++

【子どもに善と悪を教えるとき】

●四割の善と四割の悪 

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四
割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさない
で、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、
「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をす
る者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマり
やすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生
徒を、プールの中に放り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対しては
どうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびし
いのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強して
いる親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動
物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界にな
ってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の
世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書
についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすく
らいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。
神はこう答えている。「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希
望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それ
がわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世
界だけをどうこうしようとしても意味がない。

たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。問題は、そういう
環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの
仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそ
れと闘っているだろうか。

私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校
生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際を
していたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。

「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手
の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。
こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それ
が問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人

 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけで
もない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社
会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。(中日新聞投稿済み)

++++++++++++++++++++++

 このエッセーの中で、私は「善悪論」について考えた。その中に、「希望論」を織りまぜ
た。それはともかくも、旧約聖書の中の神は、「もし人間がすべて天使のようになってしま
ったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこと
もするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。それ
が希望だ」と教えている。

 となると、絶望とは、その反対の状態ということになる。キリスト教では、「堕落(だら
く)」という言葉を使って、それを説明する。もちろんこれはキリスト教の立場にそった、
希望論であり、絶望論ということになる。だからほかの世界では、また違った考え方をす
る。

冒頭に書いた、アリストテレスにせよ、魯迅にせよ、彼らは彼らの立場で、希望論や絶
望論を説いた。が、私は今のところ、どういうわけか、このキリスト教で教える説話にひ
かれる。「人間は、努力によって、神のような人間にもなれる。それが希望だ」と。

 もちろん私は神を知らないし、神のような人間も知らない。だからいきなり、「そういう
人間になるのが希望だ」と言われても困る。しかし何となく、この説話は正しいような気
がする。言いかえると、キリスト教でいう希望論や絶望論に立つと、ちまたの世界の希望
論や絶望論は、たしかに「虚妄」に思えてくる。つい先日も、私は生徒たち(小四)にこ
う言った。授業の前に、遊戯王のカードについて、ワイワイと騒いでいた。

 「(遊戯王の)カードなど、何枚集めても、意味ないよ。強いカードをもっていると、心
はハッピーになるかもしれないけど、それは幻想だよ。幻想にだまされてはいけないよ。
ゲームはゲームだから、それを楽しむのは悪いことではないけど、どこかでしっかりと線
を引かないと、時間をムダにすることになるよ。カードなんかより、自分の時間のほうが、
はるかに大切ものだよ。それだけは、忘れてはいけないよ」と。

 まあ、言うだけのことは言ってみた。しかしだからといって、子どもたちの趣味まで否
定するのは、正しくない。もちろん私たちおとなにしても、一方でムダなことをしながら、
心を休めたり、癒(いや)したりする。が、それはあくまでも「趣味」。決して希望ではな
い。またそれがかなわないからといって、絶望する必要もない。大切なことは、どこかで
一線を引くこと。でないと、自分を見失うことになる。時間をムダにすることになる。

●絶望と希望

 人は希望を感じたとき、前に進み、絶望したとき、そこで立ち止まる。そしてそれぞれ
のとき、人には、まったくちがう、二つの力が作用する。

 希望を感じて前に進むときは、自己を外に向って伸ばす力が働き、絶望を感じて立ち止
まるときは、自己を内に向って掘りさげる力が働く。一見、正反対の力だが、この二つが あっ
て、人は、外にも、そして内にも、ハバのある人間になることができる。

 冒頭にあげた、「子どもの受験で失敗して、落ちこんでしまった母親」について言うなら、
そういう経験をとおして、母親は、自分を掘りさげることができる。私はその母親を慰め
ながらも、別の心で、「こうして人は、無数の落胆を乗り越えながら、ハバの広い人間にな
るのだ」と思った。

 そしていつか、人は、「死」という究極の絶望を味わうときが、やってくる。必ずやって
くる。そのとき、人は、その死をどう迎えるか。つまりその迎え方は、その人がいかに多
くの落胆を経験してきたかによっても、ちがう。

 『落胆は、絶望の母』と言った、キーツの言葉の意味は、そこにある。

●孤独

 孤独は、人の心を狂わす。そういう意味では、嫉妬、性欲と並んで、人間が原罪としてもつ、
三罪と考える。これら三罪は、扱い方をまちがえると、人の心を狂わす。

 この「三悪」という概念は、私が考えた。悪というよりは、「罪」。正確には、三罪ということにな
る。ほかによい言葉が、思いつかない。

孤独という罪
嫉妬という罪
性欲という罪

 嫉妬や性欲については、何度も書いてきた。ここでは孤独について考えてみたい。

 その孤独。肉体的な孤独と、精神的な孤独がある。

 肉体的な孤独には、精神的な苦痛がともなわない。当然である。

 私も学生時代、よくヒッチハイクをしながら、旅をした。お金がなかったこともある。そういう旅
には、孤独といえば孤独だったが、さみしさは、まったくなかった。見知らぬところで、見知らぬ
人のトラックに乗せてもらい、夜は、駅の構内で寝る。そして朝とともに、パンをかじりながら、
何キロも何キロも歩く。

 私はむしろ言いようのない解放感を味わった。それが楽しかった。

 一方、都会の雑踏の中を歩いていると、人間だらけなのに、おかしな孤独感を味わうことが
ある。そう、それをはっきりと意識したのは、アメリカのリトルロック(アーカンソー州の州都)と
いう町の中を歩いていたときのことだ。

 あのあたりまで行くと、ほとんどの人は、日本がどこにあるかさえ知らない。英語といっても、
南部なまりのベラメー・イングリッシュである。あのジョン・ウェイン(映画俳優)の英語を思い浮
かべればよい。

 私はふと、こう考えた。

 「こんなところで生きていくためには、私は何をすればよいのか」「何が、できるのか」と。

 肉体労働といっても、私の体は小さい。力もない。年齢も、年齢だ。アメリカで通用する資格
など、何もない。頼れる会社も組織もない。もちろん私は、アメリカ人ではない。市民権をとると
いっても、もう、不可能。

 通りで新聞を買った。私はその中のコラムをいくつか読みながら、「こういう新聞に自分のコ
ラムを載せてもらうだけでも、20年はかかるだろうな」と思った。20年でも、短いほうかもしれ
ない。

 そう思ったとき、足元をすくわれるような孤独感を覚えた。体中が、スカスカするような孤独感
である。「この国では、私はまったく必要とされていない」と感じたとき、さらにその孤独感は大
きくなった。

 ついでだが、そのとき、私は、日本という「国」のもつありがたさが、しみじみとわかった。で、
それはそれとして、孤独は、恐怖ですらある。

 いつになったら、人は、孤独という無間地獄から解放されるのか。あるいは永遠にされない
のか。あのゲオルギウもこう書いている。

 『孤独は、この世でもっとも恐ろしい苦しみである。どんなにはげしい恐怖でも、みながいっし
ょなら耐えられるが、孤独は、死にも等しい』と。

 ゲオルギウというのは、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(し
ゅうえん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』(二十五時)という名言を残
している作家である。ルーマニアの作家、1910年生まれ。

+++++++++++++++++++++

●私に夢、希望、目的

 そこで最後に、では、私の夢、希望、目的は何かと改めて考えてみる。

 毎日、こうして生きていることに、夢や希望、それに目的は、あるのだろうか、と。

 私が今、一番、楽しいと思うのは、パソコンショップをのぞいては、新製品に触れること。今は
(2・18)は、HPに音やビデオを入れることに夢中になっている。(いまだに方法は、よくわから
ないが、このわからないときが、楽しい。)

 希望は、いろいろあるが、目的は、今、発行している電子マガジンを、1000号までつづける
こと。とにかく、今は、それに向って、まっすぐに進んでいる。1001号以後のことは、考えてい
ない。

 毎号、原稿を書くたびに、何か、新しい発見をする。その発見も、楽しい。「こんなこともある
のか!」と。

 しかし自分でも、それがよくわかるが、脳ミソというのは、使わないでいると、すぐ腐る。体力
と同じで、毎日鍛えていないと、すぐ、使いものにならなくなる。こうしてモノを毎日、書いている
と、それがよくわかる。

 数日も、モノを書かないでいると、とたんに、ヒラメキやサエが消える。頭の中がボンヤリとし
てくる。

 ただ脳ミソの衰えは、体力とちがって、外からはわかりにくい。そのため、みな、油断してしま
うのではないか。それに脳ミソのばあいは、ほかに客観的な基準がないから、腐っても、自分
ではそれがわからない。

 「私は正常だ」「ふつうだ」と思っている間に、どんどんと腐っていく。それがこわい。

 だからあえて希望をいえば、脳ミソよ、いつまでも若くいてくれ、ということになる。
(050218)




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29
●依存性の強い子ども

 ある母親(京都府・S市のEAさん)から、相談があった。「何かにつけて、リズムが、ワンテン
ポ遅く、心配である」と。転載の許可がもらえたので、そのまま紹介する。

 子どもは男児、小学1年生。家族は、母親のEAさんのほか、4歳と1歳の妹。祖父(相談者
の父)、祖母(相談者の母)、祖祖母(祖母の母)の7人。

+++++++++++++++++++++++

学校では、4時間目が算数の場合、みんなが時間中にできた問題を 給食の時間までしてい
る。他の子とくらべて、問題を解くのが遅いわけではない。(1)今 急がなければならないという
ことがわからない。(2)今、まわりは何をしているか読めない。(3)人より遅くても、気にしな
い。(4)いつもマイペース 

といった具合。

また、2時間続きの図工で 工作をする。先生が 提出するように言うが、2時間 隣のことおし
ゃべりばかりで、全く出できていない。隣の子は、おしゃべりしながら、作品は完成していた。と
いった具合です。 

私は、この子に何を どのように教えたらいいでしょうか? 

++++++++++++++++++++++++ 

 この相談の子どもに、依存性があるかどうかということは、わからない。しかし祖父母との同
居などが理由で、自立的な行動が苦手な子どものように感ずる。そこでまず依存性について考
えてみる。

 (繰りかえすが、だからといって、この子どもに、依存性があると言うのではない。念のた
め。)

 一度、子どもに依存性が身につくと、それをなおすのは、容易ではない。まず、ほとんどのば
あい、親自身が、それに気がついていない。依存性というものが、どういうものであるかさえ、
わかっていない。反対に、親にベタベタ甘える子どもイコール、いい子としてしまう。だから「あ
なたの子どもは、依存性が強い」と告げても、意味がない。

 そういう生活(=家庭環境)が、日常化してしているからである。

 たとえば、子どもが朝、起きる。そのとき母親は、その日に、子どもが着る服を、用意する。
洗濯したものの中から、いくつかを選び、子どもの前に置く。子どものパジャマを脱がせ、服を
着せる。

 子どもは、眠そうな目をこすりながら、母親の指示に従う。手をのばしたり、足をさしだしたり
する。

 そこで、子どもは、こう言う。「このズボンは、いやだ。ぼくは、青いズボンがいい」と。

 すると、母親は、タンスから今度は、青いズボンを取り出して、子どもにはかせようとする。子
どもは、ややその気になって、足を前に出す……。

 この時点で、子どものために、服を用意し、服を着せるのは、親の役目と、親も、子どもも、
考える。それがまちがっているというのではない。しかし同時に、親も子どもも、無意識のうち
に、それが(あるべき親子関係)と、錯覚する。

 衣服だけではない。こうして生活のあらゆる場面で、子どもに依存性が生まれる。

 が、ここで一つ、大きな問題にぶつかる。一般論としては、子どもの依存性に甘い親というの
は、その親自身も、依存性の強い人とみてよい。自分に依存性があるから、子どもの依存性
にも、甘くなる。

 はっきり言えば、子どもに依存しようとする。「あなたは、ママの子よ。だからママがおばあち
ゃんになったら、ママのめんどうをみてね」と。

 さらに親のその依存性は、そのまた親、子どもから見れば、祖父母の代から、連鎖してい
る。つまり代々と、親から子へ、子から孫へと、伝えられている。総じて見れば、日本の子育て
は、この(依存関係)の上に、成りたっている。社会のしくみも、そうなっている。(……いた。)

 たとえば少し前まで、「老いては子に従え」と、老人は、家族に依存しなければ、最期を迎える
ことすら、できなかった。(最近は、介護制度が整備されてきて、事情は、かなり変わってきた
が……。)

 子育ての目標をどこに置くかによっても、子育てのし方も変わってくるが、こと子どもの自立と
いうことになれば、こうした依存性は、子どもの自立にとっては、害になることはあっても、益に
なることはない。

 そこで親は、まず、子どもの依存性に、気がつかねばならない。しかし実のところ、これもむ
ずかしい。子どもの世話をすることを生きがいにしている親も、少なくない。

 さらに、一度、依存関係(反対の立場の人から見れば、保護関係)ができてしまうと、その関
係が、定着してしまうからである。

 (世話をされる人)と(世話をする人)の関係が、できてしまう。親子だけにかぎらない。兄弟、
夫婦、友人、社会など。(世話をされる人)は、いつしか、世話をされるのが当然と考えるように
なる。世話をする人は、世話をするのが当然と考えるようになる。そしてたがいがが、その前提
で、動くようになる。

 印象に残っている子どもに、S君(年中児)という子どもがいた。その子どもについて書いた原
稿を紹介する(中日新聞掲載済み)。

++++++++++++++++

●「どうして泣かすのですか!」 

 年中児でも、あと片づけのできない子どもは、一〇人のうち、二、三人はいる。皆が道具をバ
ッグの中にしまうときでも、ただ立っているだけ。あるいはプリントでも力まかせに、バッグの中
に押し込むだけ。しかも恐ろしく時間がかかる。「しまう」という言葉の意味すら理解できない。
そういうとき私がすべきことはただ一つ。片づけが終わるまで、ただひたすら、じっと待つ。

S君もそうだった。私が身振り手振りでそれを促していると、そのうちメソメソと泣き出してしまっ
た。こういうとき、子どもの涙にだまされてはいけない。このタイプの子どもは泣くことによって、
その場から逃げようとする。誰かに助けてもらおうとする。

しかしその日は運の悪いことに、たまたまS君の母親が教室の外で待っていた。母親は泣き声
を聞きつけると部屋の中へ飛び込んできて、こう言った。「どうしてうちの子を泣かすのです
か!」と。ていねいな言い方だったが、すご味のある声だった。

●親が先生に指導のポイント

 原因は手のかけすぎ。S君のケースでは、祖父母と、それに母親の三人が、S君の世話をし
ていた。裕福な家庭で、しかも一人っ子。ミルクをこぼしても、誰かが横からサッとふいてくれる
ような環境だった。しかしこのタイプの母親に、手のかけすぎを指摘しても、意味がない。

第一に、その意識がない。「私は子どもにとって、必要なことをしているだけ」と考えている。あ
るいは子どもに楽をさせるのが、親の愛だと誤解している。手をかけることが、親の生きがい
になっているケースもある。中には子どもが小学校に入学したとき、先生に「指導のポイント」を
書いて渡した母親すらいた。(親が先生に、だ!)「うちの子は、こうこうこういう子ですから、こ
ういうときには、こう指導してください」と。

●泣き明かした母親

 あるいは息子(小六)が修学旅行に行った夜、泣き明かした母親もいた。私が「どうしてです
か」と聞くと、「うちの子はああいう子どもだから、皆にいじめられているのではないかと、心配
で心配で……」と。それだけではない。私のような指導をする教師を、「乱暴だ」「不親切だ」と、
反対に遠ざけてしまう。

S君のケースでは、片づけを手伝ってやらなかった私に、かえって不満をもったらしい。そのあ
と母親は私には目もくれず、子どもの手を引いて教室から出ていってしまった。こういうケース
は今、本当に多い。そうそう先日も埼玉県のある私立幼稚園で講演をしたときのこと。そこの
園長が、こんなことを話してくれた。「今では、給食もレストラン感覚で用意してあげないと、親
は満足しないのですよ」と。こんなこともあった。

●「先生、こわい!」

 中学生たちをキャンプに連れていったときのこと。たき火の火が大きくなったとき、あわてて
逃げてきた男子中学生がいた。「先生、こわい!」と。私は子どものときから、ワンパク少年だ
った。喧嘩をしても負けたことがない。他人に手伝ってもらうのが、何よりもいやだった。今で
も、そうだ。

そういう私にとっては、このタイプの子どもは、どうにもこうにも私のリズムに合わない。このタイ
プの子どもに接すると、「どう指導するか」ということよりも、「何も指導しないほうが、かえってこ
の子どものためにはいいのではないか」と、そんなことまで考えてしまう。

●自分勝手でわがまま

 手をかけすぎると、自分勝手でわがままな子どもになる。幼児性が持続し、人格の「核」形成
そのものが遅れる。子どもはその年齢になると、その年齢にふさわしい「核」ができる。教える
側から見ると、「この子はこういう子だという、つかみどころ」ができる。が、その「核」の形成が
遅れる。

 子育ての第一目標は、子どもをたくましく自立させること。この一語に尽きる。しかしこのタイ
プの子どもは、(親が手をかける)→(ひ弱になる)→(ますます手をかける)の悪循環の中で、
ますますひ弱になっていく。昔から過保護児のことを「温室育ち」というが、まさに温室の中だけ
で育ったような感じになる。

人間が本来もっているはずの野性臭そのものがない。そのため温室の外へ出ると、「すぐ風邪
をひく」。キズつきやすく、くじけやすい。ほかに依存性が強い(自立した行動ができない。ひとり
では何もできない)、金銭感覚にうとい(損得の判断ができない。高価なものでも、平気で友だ
ちにあげてしまう)、善悪の判断が鈍い(悪に対する抵抗力が弱く、誘惑に弱い)、自制心に欠
ける(好きな食べ物を際限なく食べる。薬のトローチを食べてしまう)、目標やルールが守れな
いなど、溺愛児に似た特徴もある。

●「心配」が過保護の原因

 親が子どもを過保護にする背景には、何らかの「心配」が原因になっていることが多い。そし
てその心配の内容に応じて、過保護の形も変わってくる。食事面で過保護にするケース、運動
面で過保護にするケースなどがある。

 しかし何といっても、子どもに悪い影響を与えるのは、精神面での過保護である。「近所のA
君は悪い子だから、一緒に遊んではダメ」「公園の砂場には、いじめっ子がいるから、公園へ
行ってはダメ」などと、子どもの世界を、外の世界から隔離してしまう。そしておとなの世界だけ
で、子育てをしてしまう。本来子どもというのは、外の世界でもまれながら、成長し、たくましくな
る。が、精神面で過保護にすると、その成長そのものが、阻害される。

 そんなわけで子どもへの過保護を感じたら、まずその原因、つまり何が心配で過保護にして
いるかをさぐる。それをしないと、結局はいつまでたっても、その「心配の種」に振り回されるこ
とになる。

●じょうずに手を抜く

 要するに子育てで手を抜くことを恐れてはいけない。手を抜けば抜くほど、もちろんじょうずに
だが、子どもに自立心が育つ。私が作った格言だが、こんなのがある。

『何でも半分』……これは子どもにしてあげることは、何でも半分でやめ、残りの半分は自分で
させるという意味。靴下でも片方だけをはかせて、もう片方は自分ではかせるなど。

『あと一歩、その手前でやめる』……これも同じような意味だが、子どもに何かをしてあげるに
しても、やりすぎてはいけないという意味。「あと少し」というところでやめる。同じく靴下でたとえ
て言うなら、とちゅうまではかせて、あとは自分ではかせるなど。

●子どもはカラを脱ぎながら成長する

 子どもというのは、成長の段階で、そのつどカラを脱ぐようにして大きくなる。とくに満四・五歳
から五・五歳にかけての時期は、幼児期から少年少女期への移行期にあたる。この時期、子
どもは何かにつけて生意気になり、言葉も乱暴になる。友だちとの交際範囲も急速に広がり、
社会性も身につく。またそれが子どものあるべき姿ということになる。

が、その時期に溺愛と過保護が続くと、子どもはそのカラを脱げないまま、体だけが大きくな
る。たいていは、ものわかりのよい「いい子」のまま通り過ぎてしまう。これがいけない。それは
ちょうど借金のようなもので、あとになればなるほど利息がふくらみ、返済がたいへんになる。
同じようにカラを脱ぐべきときに脱がなかった子どもほど、何かにつけ、あとあと育てるのがた
いへんになる。

 いろいろまとまりのない話になってしまったが、手のかけすぎは、かえって子どものためにな
らない。これは子どもを育てるときの常識である。

++++++++++++++++

 話は少しそれるが、こうした依存性は、地域社会、さらに組織の中でも、生まれることがあ
る。つまりは、人間関係があるところなら、どこでも、ありえるということになる。

 しかもその関係は、複雑に入り組む。たとえばふだんは、自立心の強い人でも、ある特定の
人には、依存するなど。依存性があるからといって、どの人にも依存性があるということではな
い。

 子どももそうで、親に対して依存性が強くても、友だちの間では、親分のように振る舞う子ども
もいる。決して一面だけを見て、それがすべてと思ってはいけない。

 そこで重要なことは、依存性を、安易に、子どもにつけさせないようにすること。あるいは年齢
とともに、親のほうが、子育てから手を抜くこと。親の恩を押しつけたり、親のありがたみを、こ
とさら子どもに見せつけたりしてはいけない。

 子どもの親離れを、うまく誘導する。指導する。手助けする。それも親の役目と考えてよい。

 で、相談の件だが、この子どものばあい、大家族の中で、みなの手厚い保護、世話を受けて
育てられたことが、推定される。基本的には、過保護児に順じて、考えるのがよい。しかしこれ
は子どもの問題というよりは、家族の問題。もっと言えば、家族形態の問題。それだけに、扱
い方をまちがえると、家庭内での騒動の原因となりやすい。

 親も、こと、子どものことになると、妥協しない。最終的には、離婚か、さもなくば、別居という
ところまで、話が進んでしまう。

 そこで親は、こういうケースでは、つぎのように考える。(1)子どもに問題が起きるとしても、マ
イナーな問題として、あきらめる。(2)任すところは、祖父母などに任せて、親は親として、好き
勝手なことをする。そのメリットを生かすということ。

 で、依存性について、(この相談の子どもに、それがあるということではないが)、その内容
は、つぎのように分けて考える。

(1)問題逃避(いやなことがあると、逃げてしまう。)
(2)依頼心(問題が起きると、だれかに頼むことをまず考える。)
(3)責任回避(失敗しても、他人のせいにする。)
(4)無責任(責任ある行動ができない。)
(5)忍耐力の欠落(最後まで、やりぬく力に乏しい。)
(6)野性味の喪失(野性的なたくましさが消える。)
(7)服従性と隷属性(だれかれとなく、服従しやすくなる。)
(8)現実検証能力の不足(自分の姿を客観的に見ることができない。)
(9)未来への甘い展望性(何とかなるさ式のものの考え方をしやすくなる。)
(10)社会的抵抗力の不足(善悪の判断に乏しくなり、悪の誘惑に弱くなる。)

 などがある。当然、人格の「核」形成が遅れ、完成度も低くなる。他人への共鳴性、自己管理
能力、良好な人間関係などの面において、問題が起こりやすくなる。

 ただ誤解してはいけないのは、相互に依存関係のあるときは、それなりに人間関係も、スム
ーズに流れ、当人たちにとっては、居心地のよい世界であるということ。日本型の、「ムラ(邑)」
社会は、そうした濃密な相互依存性で成りたっていると考えてよい。

 白黒をはっきりさせないで、ナーナーで、丸く収めるという、実に日本的な問題解決の技法
も、そういうところから生まれた。

 で、この問題をつきつめていくと、それでもよいのか、という問題になってくる。「それでもい
い」と言う人に対しては、私としては、もう何も言うことはない。ここにも書いたように、相互に依
存しあう、相互依存型社会というのは、それなりに温もりがあり、居心地のよい世界である。今
でも、地方の農村社会へいくと、そういう依存関係を見ることがある。「これこそ、まさに日本人
が守るべき、日本の文化だ」と主張する人も、少なくない。

 たがいに監視しあい、(監視しあうのが、悪いというのではない)、干渉しあい、(干渉しあうと
いうのが、悪いということもでもない)、たがいに助けあう。都会では想像できないほど、濃密な
人間関係で、成りたっている。

 (反対に、都会地域では、人間関係が、あまりにも稀薄になりすぎるというきらいもないわけ
ではない。私などは、心の半分は、昔風、残りの半分は、現代風で、どうもすっきりしない。日
本的なドロドロとした人間関係にも、ついていけない。しかしアメリカ的な合理主義にも、抵抗を
感ずる。)

 つまりこの相談者がかかえる問題は、相談者の問題というよりは、日本の社会全体がかか
える、もっと根の深い問題ということになる。

 孫の世話をする祖父母にしても、孫の世話について、「祖父母のすべき最後の仕事」あるい
は、「生きがい」としているかもしれない。「理想の老後」と考えている可能性もある。

 そういう祖父母に向かって、子どもの自立を問題にするということは、祖父母の人生観を根
底から、ひっくりかえすことにもなりかねない。しかしそれをするのは、相談者のような若い女性
には、少し、荷が重過ぎるのでは?

 私はやはり、ここはあきらめて、祖父母に対して、よい嫁であることに心がけたほうが、よい
のではないかと思う。「おじいちゃん、おばあちゃんのおかげで、息子もいい子どもになってい
ます」と。

 問題がないわけではないが、この問題は、いつか子ども自身が自らの自己意識の中で、解
決できないわけではない。学校に入り、社会生活をつづけるうちに、徐々に修正されていく。そ
ういう子ども自身の力を信ずる。あるいはその手助けをする。

 そしてこうした家庭環境のもつ、メリットを生かしながら、親は親で、親自身の自立を考えてい
く。その結果として、子どもの自立をうなががす。離婚や別居を考えるのは、そのあとということ
になる。

 最後に、子どもというのは、一面だけを見て、判断してはいけない。学校での様子や、子ども
どうしの中での様子を見て、判断する。一度、学校の先生に、子どもの様子を聞いてみるの
も、大切なことではないだろうか。意外と、親の知らない世界では、まったく別の子どもであるこ
とが多い。

【京都府のEAさんへ】

 EAさんのお子さんとは、直接、関係のない(子どもの依存性)について、書いてしまいました。
あくまでも、そういう面も考えられるという前提で、お読みいただければ、うれしいです。(あるい
は、そうなってはいけないというふうに、考えてくださっても結構です。)

 お子さんを直接、見ていないので、何とも言えませんが、メールを読んだ印象としては、(満腹
症状)ではないかと思います。おいしい料理を、おなかいっぱい食べたような感じの子どもをい
います。

 ですから、空腹感、つまりガツガツした緊張感がないのでは、と。印象としては、乳幼児期か
ら、ていねいに、かつ手をかけて育てられた子どもといった、感じがしないでもありません。ひょ
っとしたら、ここに書いた、依存性もほかの子どもよりは、強いのかもしれません。

 つぎのような症状が見られたら、子育てから、少しずつ、手を抜いてみることを考えてみられ
ては、いかがでしょうか。

(1)いつも満足げで、おっとりとしている。
(2)競争心がなく、友だちに負けても平気。
(3)自分のもっているものを、平気で人にあげてしまう。
(4)ほかの子どもに、追従的。
(5)享楽的(その場だけの楽しみに没頭する)で、あきっぽいところがある。いやなことはしな
い。

 こういうケースでも、「なおそう」とか、「何とかしよう」とかは、あまり考えないほうがよいかもし
れません。小学1年生というと、すでに、方向性というか、「核」が、かなりできあがってしまって
いると考えます。

 「あなたはダメな子」式の指導をすると、かえって、症状がこじれたり、何かと弊害が出てくる
ことが多いです。たとえば自信をなくしたり、自我が軟弱になったりするなど。柔和だが、ハキ
がない子どもになることもあります。

 何か、得意分野、たとえばスポーツなどで、積極性を養うとよいかもしれません。この時期の
鉄則は、「不得意分野には、目をつぶり、得意分野をより伸ばせ」です。

 小学3、4年生ごろになってきますと、自我がはっきりしてきます。自己意識も育ってきます。
そういう子ども自身が、本来的にもつ「力」を信じて、そのころを目標に、今の状態を維持しな
がら、進みます。

 あせったところで、すぐに、どうこうなる問題ではありません。

 で、もし、祖父母の手のかけすぎなどが原因であったとしても、(つまりこの年代の祖父母は、
旧来型の子ども観をもっていますので)、今さら、もとにもどるわけではありません。「うちの子
は、こういう子」と割り切って、そこからスタートします。

 先にも書きましたように、祖父母との同居には、デメリットもあったかもしれませんが、しかし
メリットもたくさんあったはずです。

 で、ここが重要ですが、EAさんが心に描いている、理想の子ども像を、子どもに押しつけない
ことです。いろいろ不満もあり、同時に何かと心配な点があるかもしれませんが、何かと思うよ
うにならないのが、子育て、です。(みんな、そうですよ。子どもは親の夢や期待を一枚ずつ、
はぎとりながら、おとなになっていくものです。)

 やがて、もう2、3年もすると、お子さんは、親離れをし始めます。今、ここであれこれしようと
考えると、今度は、あなたとお子さんの、親子関係を、破壊することにもなりかねません。

 今は、何かと問題があるように見えるかもしれませんが、こうした問題には、二番底、三番底
があるということです。どうか、ご注意ください。

 で、お子さんには、「どうして早くできないの!」ではなく、「この前より、早くできるようになった
わね」という言い方をします。あなたの心の奥底に、お子さんに対するわだかまりや、不信感が
あれば、まずそれに気がつくことです。

 それがあると、いつまでたっても、「もっと……」「もっと……」と考えるようになり、いつまでた
っても、あなたに安穏たる日はやってこないと思います。

 マイペースな子どもは、少なくありません。しかしそれは同時に、子ども自身が、防衛的に、
自分を守ろうとしているためと考えます。ひょっととしたら、気うつ症的な部分があるのかもしれ
ません。動作、言動に、緩慢さ(ノロノロとし、とっさの行動ができない)というようであれば、この
気うつ症(心身症)を疑ってみます。

 強圧的な過干渉、威圧など。ガミガミ、こまごまと、もしあなたが子どもに接しているようであ
れば、注意してください。

 最後になりますが、依存性の問題にも気をつけてください。旧来型の子育て観をもっている
人は、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、いい子としがちです。

 子どもが親離れをしていくのを見るのは、親としては、さみしいものですが、そのさみしさに耐
えるのも、親の役目かもしれません。そのさみしさに負けてしまうと、子どもは、自立できない、
ひ弱な子どもになってしまいます。

 子育ての目標は、子どもをよき家庭人として自立させること。すべての目標をそこに置いて、
これからも子育てをしてみてください。

 メール、ありがとうございました。





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30
●子どものウソ

【群馬県O市の、Hさんからの相談より】

+++++++++++++++++++++++

●子供の嘘とのつきあい方について、教えてください。

長女5才は、幼稚園での良いことは話しますが、自分のした悪いことはとくに話しません。です
から、長女の悪事(!?)については、友達の親御さんから聞くことが多いです。

たいがいは、お互い様のようですが、時々一方的に加害者の時があります。

(遊びの中でひとりの友達の背中をみんなではたいた、指図したのは長女……など)、相手の
あることなので親としては詳しく知りたく、話を聞こうとしますが、なかなか言いません。

 はじめは……何か幼稚園であったかな。
 次に……○○ちゃん(相手)と、どうかな。
 それでも言わないので、「○○ちゃんから、聴いたんだけど……」と。

 すると、少しずつ話し始めますが、全部言おうとしない。それでも問いつめると、今度は、△△
ちゃんがやれって言った。などと、人にかづける始末。さすがにこれは許せなくてここまでくる
と、強く叱ってしまいます。      

近所に住む祖母がそばにいると、長女が「何もやってない」と言っただけで、そうよね、と話は
そこで終わり。

長女が話さないのは、私たち親の受容が足りないからだと思いつつ、悪いことは隠せない、悪
いことは叱られて当然……と長女に分からせたくて、つい、つきつめて話そうとしてしまいます。

人のせいにするなんて、それがまかり通るなんて、ほっといたら良くないと思ってしまうのです。

今まで厳しく追及してきましたが、長女が口を割らないのは相変わらずです。(さすがに人のせ
いにすることはなくなりました。)私たちのやりかたは、逆効果? 祖母のように接するべき?

子供の言葉を信じること(受容)、でもさとすこと、なかなかうまくいきません。

幼児の自分を取り繕う嘘は、きびしく追求しないで聴いてあげるべきでしょうか。ケースバイケ
ースだとは思いますが、何か良いアドバイスがありましたらお願いします。

++++++++++++++++++++++

●子どもの世界

 子育てをしていると、つぎつぎと、問題が起きてくる。それは岸辺に打ち寄せる波のようでも
ある。小さな波がつづいたかと思うと、大きな波がやってくる。ときには、体をのみこむほど大き
な波がやってくることもある。

 で、そういうとき、つまり問題にぶつかるたびに、(当然のことだが)、親は、ときとして右往左
往し、混乱する。

 そこで重要なことは、そうした問題の一つ一つには、それなりに対処していかねばならない
が、もう少し大きな目で、問題解決のための思考プロセスを、頭の中に用意しておくということ
である。

 相談者の方は、子どものウソについて、悩んでいる。この時期、子どものウソは、珍しくない。
しかしこうした意図的なウソは、それほど大きな問題ではない。私たちおとなだって、日常的
に、ウソをついている。

 心配なウソとしては、妄想や、空想的虚言がある。それについては、すでに何度も書いてき
たので、それはそれとして、こうした問題は、つぎからつぎへとやってくる。私は、それを岸辺に
打ち寄せる波のようだという。

 そこで思考プロセスを、用意する。箇条書きにすると、こうなる。


●問題のない子育てはない

子育てをしていると、子育てや子どもにまつわる問題は、つぎからつぎへと、起きてくる。それ
は岸辺に打ち寄せる波のようなもの。問題のない子どもはいないし、したがって、問題のない
子育ては、ない。できのよい子ども(?)をもった親でも、その親なりに、いろいろな問題に、そ
のつど、直面する。できが悪ければ(?)、もっと直面する。子育てというのは、もともとそういう
ものであるという前提で、子育てを考える。


●解決プロセスを用意する

英文を読んでいて、意味のわからない単語にぶつかったら、辞書をひく。同じように、子育てで
何かの問題にぶつかったら、どのように解決するか、そのプロセスを、まず、つくっておく。兄弟
や親類に相談するのもよい。親に相談するのも、よい。何かのサークルに属するのもよい。自
分の身にまわりに、そういう相談相手を用意する。が、一番よいのは、自分の子どもより、2、
3歳年上の子どもをもつ、親と緊密になること。「うちもこうでしたよ」というアドバイスをもらっ
て、たいていの問題は、その場で解決する。


●動揺しない

株取引のガイドブックを読んでいたら、こんなことが書いてあった。「プロとアマのちがいは、プ
ロは、株価の上下に動揺しないが、アマは、動揺する。だからそのたびに、アマは、大損をす
る」と。子育ても、それに似ている。子育てで失敗しやすい親というのは、それだけ動揺しやす
い。子どもを、月単位、半年単位で見ることができない。そのつど、動揺し、あわてふためく。こ
の親の動揺が、子どもの問題を、こじらせる。


●自分なら……

賢い親は、いつも子育てをしながら、「自分ならどうか?」と、自問する。そうでない親は親意識
だけが強く、「〜〜あるべき」「〜〜であるべきでない」という視点で、子どもをみる。そして自分
の理想や価値観を、子どもに押しつけよとする。そこで子どもに何か問題が起きたら、「私なら
どうするか?」「私はどうだったか?」という視点で考える。たとえば子どもに向かって「ウソをつ
いてはダメ」と言ったら、「私ならどうか?」と。


●時間を置く

言葉というのは、耳に入ってから、脳に届くまで、かなりの時間がかかる。相手が子どもなら、
なおさらである。だから言うべきことは言いながらも、効果はすぐには、求めない。また言った
からといって、それですぐ、問題が解決するわけでもない。コツは、言うべきことは、淡々と言い
ながらも、あとは、時間を待つ。短気な親ほど、ガンガンと子どもを叱ったりするが、子どもはこ
わいから、おとなしくしているだけ。反省などしていない。


●叱られじょうずな子どもにしない

親や先生に叱られると、頭をうなだれて、いかにも叱られていますといった、様子を見せる子ど
もがいる。一見、すなおに反省しているかのように見えるが、反省などしていない。こわいから
そうしているだけ。もっと言えば、「嵐が通りすぎるのを待っているだけ」。中には、親に叱られ
ながら、心の中で歌を歌っていた子どももいた。だから同じ失敗をまた繰りかえす。


●叱っても、人権を踏みにじらない

先生に叱られたりすると、パッとその場で、土下座をしてみせる子どもがいる。いわゆる(叱ら
れじょうずな子ども)とみる。しかしだからといって、反省など、していない。そういう形で、自分
に降りかかってくる、火の粉を最小限にしようとする。子どもを叱ることもあるだろうが、しかし
どんなばあいも、最後のところでは、子どもの人権だけは守る。「あなたはダメな子」式の、人
格の「核」攻撃は、してはいけない。


●「核」攻撃は、禁物

子どもを叱っても、子どもの心の「核」にふれるようなことは、言ってはいけない。「やっぱり、あ
なたはダメな子ね」「あんたなんか、生まれてこなければよかったのよ」などというのが、それ。
叱るときは、行為のどこがどのように悪かったかだけを、言う。具体的に、こまかく言う。が、子
どもの人格にかかわるようなことは言わない。


●子どもは、親のマネをする

たいへん口がうまく、うそばかり言っている子どもがいた。しかしやがてその理由がわかった。
母親自身もそうだった。教師の世界には、「口のうまい親ほど、要注意」という、大鉄則があ
る。そういう親ほど、一度、敵(?)にまわると、今度は、その数百倍も、教師の悪口を言い出
す。子どもに誠実になってほしかったら、親自身が、誠実な様子を、日常生活の中で見せてお
く。


●一事が万事論

あなたは交通信号を、しっかりと守っているだろうか。もしそうなら、それでよし。しかし赤信号
でも、平気で、アクセルを踏むようなら、注意したほうがよい。あなたの子どもも、あなたに劣ら
ず、小ズルイ人間になるだけ。つまり親が、小ズルイことをしておきながら、子どもに向かって、
「約束を守りなさい」は、ない。ウソはつかない。約束は守る。ルールには従う。そういう親の姿
勢を見ながら、子どもは、(まじめさ)を身につける。


●代償的過保護に注意

「子どもはかわいい」「私は子どもを愛している」と、豪語する親ほど、本当のところ、愛が何で
あるか、わかっていない。子どもを愛するということは、それほどまでに、重く、深いもの。中に
は、子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいと考えている親もいる。これを
代償的過保護という。一見、過保護に見えるが、その基盤に愛情がない。つまりは、愛もどき
の愛を、愛と錯覚しているだけ。


●子どもどうしのトラブルは、子どもに任す

子どもの世界で、子どもどうしのトラブルが起きたら、子どもに任す。親の介入は、最小限に。
そういうトラブルをとおして、子どもは、子どもなりの問題解決の技法を身につけていく。親とし
てはつらいところだが、1にがまん、2にがまん。親が口を出すのは、そのあとでよい。もちろん
子どものほうから、何かの助けを求めてきたら、そのときは、相談にのってやる。ほどよい親で
あることが、よい親の条件。


●許して忘れ、あとはあきらめる

子どもの問題は、許して、忘れる。そしてあとはあきらめる。「うちの子にかぎって……」「そんな
はずはない」「まだ何とかなる」と、親が考えている間は、親に安穏たる日々はやってこない。そ
こで「あきらめる」。あきらめると、その先にトンネルの出口を見ることができる。子どもの心に
も風が通るようになる。しかしヘタにがんばればがんばるほど、親は、袋小路に入る。子どもも
苦しむ。






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31
●the Rights og man(人間憲章)

●民主主義の原点(The Principle of the democracy?)

++++++++++++++

国あっての民なのか、民あっての
国なのか。

(Should the people be existed before the government?
Or should the government be existed before the people?)

日本では、国あっての民と考える。
しかしそれは民主主義の原点では
ない。

In Japan we think people are existed because the government is existed.
But this is not a common sense of the world.

トーマス・ペインの有名な文章を
紹介する。

Here I introduce Thomas Paine's artcle about the Democracy.

++++++++++++++

Thomas Paine said it best.

"It has been thought," he wrote in The Rights of Man in 1791, "…that government is a 
compact between those who govern and those who are governed; but this cannot be true, 
because it is putting the effect before the cause; for as man must have existed before 
governments existed, there necessarily was a time when governments did not exist, and 
consequently there could originally exist no governors to form such a compact with. The 
fact therefore must be, that the individuals themselves, each in his own personal and 
sovereign right, entered into a compact with each other to produce a government: and this 
is the only mode in which governments have a right to arise, and the only principle on which 
they have a right to exist."

1791年にトーマス・ペインは、「人間憲章」の中で、つぎのように書いている。

「政府(=国)は、統治するものと、統治されるものの協約であると考えられてきた。しかしこれ
は事実のはずはない。なぜなら因果関係が、逆だからである。人間は、政府が存在する前に
すでに存在していた。政府が存在しなかった時代が、必然的にあった。このような協約のある
統治者はもともといなかった。それゆえに、それぞれが不可侵の権利をもった個人そのものが
存在し、それがそれぞれに協約を結び、政府を生み出した。そしてこのようなムードの中で、政
府は立ち上がる権利を擁し、またそれだけが政府が存在する権利をもつところの原則である」
と。

しかしいまだに、「国にあっての民」と考えている人は多い。さらに引き下がって、「家あっての、
家族」と考えている人も多い。ついでに言えば、「親あっての、子」と考えている人も多い。よい
例が、一家心中である。

(In Japan, even still now many people think that we can exist because the government 
existes before people. Similarly at the same time families can exist because the "House" 
exists before the families. And also children can exist because Parents exist before the 
children. Take up "Family Suiside".)

死にたければ親だけが死ねばよい。子どもを巻き添えにするとは、卑怯だ! 子どもには子ど
もの人生がある。命がある。

(Why should children be involved in the Family Suicide in Japan? If you want to kill yourself, 
you only kill yourself. Don't get children be involved in the Family Suicide in any case, since 
children themselves have right to live and life and the right to exisit?)

家族にしても、そうだ。江戸時代という封建時代ならいざ知らず、今どき、「家」のために家族が
犠牲になるなんて、バカげている。さらに言えば、民あっての、国である。それが民主主義の原
点である。

(Also as the the "House", we are not living in the world of feudal age called "Edo-Period" 
and therefore it may be stupid for each member of the families sacrifice for the house. 
Moreover the government can exist because we, the people, exist before the government. 
This is the principle of the democracy.)

それとも日本は、今、この場に及んで、王政復古を成し遂げようとしているのか? 「武士道こ
そ、日本が誇るべき、精神的根幹である」と説く人がいる。そういった内容の本が、100万部
単位で売れている。

(Or are we about to repeat again the Restoration? It is very sad thing to know that more 
people worship the Knight-ship (Samurai soldiers) and their spitits, saying "This is Japan",. 
Millions of books on this are being sold in Japan.)

それはそれで結構なことだが、封建時代の負の側面、負の遺産に目をくれることなく、一方的
に武士道なるものを礼賛するのも、どうか? こうした動きは、むしろ、民主主義の後退を招く
だけ。

(We should pay attention also together on the dark side of the feudal age and its spitits at 
the same time when we worship them. Or it would slow down the pace of Democracy.)

改めて、トーマス・ペインの「人間憲章」を読みなおしてみたい。

(Here again we would like to make sure what Thomas Paine writes in the "The Rights of Man
".
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist Democracy in Japan the 
principle of the democracy Samurai Spirits samurai soldiers)


(追記)

●「国」とは何か?(What is "Kuni"?)

What is "Kuni" in Japanese?
In English "Kuni" is translated into "country", but it doesn't mean "Kuni". It means "Land". 
Also when they say "Patriotism", it means "to love our Father's Land". How about "Nation
"? When they say "Nationalism", it is not at all praised or rather despised because in most 
cases nationalism causes unwanted and cruel wars.

In the orienatal world, "Kuni" means "My land with my people for the Leader". It is one of 
the most difficult word for the western people to understand.

Here again I would like to quote Thomas Paine's "the Rights of Man" to think about the 
democracy.

By the way when I searched my name with Yahoo's search Engine, I found some blogs in 
which they say, "Hiroshi Hayashi is a communist" or, in another blog, "Hiroshi Hayashi did a 
sexual abuse to two girls while he was researching his studies at K. University in Hyogo pref.
" Of course these are lies! I am not a communist or I have never been to K. University 
before for my study.

Why are the people criticized like this in Japan, when we talk about the democracy? Do we 
really want "the Restoration" again? The government can exist because we exisit as 
Thomas Paine said like this "for as man must have existed before governments existed".

Which will you take, "the Government for People" or "People for the Gopvernment"?

We say "Japan is a country of Democracy". But the democracy we know is quite different 
one from the democracy they say in the western world. This is the point.

++++++++++++++++++

英語で、「国」というときは、「Country」と
いう言葉を使う。

しかし「Country」というときは、「領土」を
意味する。

また英語で、「愛国心」というときは、
「Patriotism」という。

しかし「Patriotism」という単語は、「父なる
大地を愛する」というラテン語に由来する。

さらに英語には、日本語で言う「国」に近い
単語として、「Nation」がある。しかしこの
「Nation」に、「Nationalism」と、「-ism」が
つくと、狭小な民族主義を意味するようになる。

「Nationalism」というのは、軽蔑されるべき
ものであって、決して賞賛されるべきものでは
ない。

では、日本を含めて、東洋でいうときの「国」
とは何か。

そこで昨日、トーマス・ペインの「人間憲章」
(The Rights of Man)を取りあげてみた。

「国あっての民なのか」「民あっての国」なのか。

同じ民主主義と言いながら、西洋でいう
民主主義と、東洋(日本を含む)でいう
民主主義には、大きなちがいがある。
日本では、「国あっての民」と、ほとんどの
人たちが考えている。

なおこの「人間憲章」が、1791年という年に
なされていることに注目してほしい。今から、
ほぼ200年以上も前のことである。

+++++++++++++++++++

 驚いたことに、ほんとうに驚いたことに、昨日、「幼児教育家」で検索してみたら、この私が、
共産党員(?)と書いてあるBLOGを発見した。いわく「共産党員とは確認されていないが……
その疑いは、濃厚である」と。

 さらに驚いたことに、この私が、「K大学で、幼児研究をしている際、2人の女児にわいせつ
行為を働いた」※というのもあった。

 これらのBLOGには、コメント欄があったので、私は、即刻、削除するよう書いておいた。

 念のため申し添えるが、私は共産党員ではない。選挙のたびに支持政党が変わるので、自
分では、「浮動票の王様」と呼んでいる。自民党にも、公明党にも、民主党にも票を入れる。率
直に言って、共産党に票を入れることは、めったに、ない。

 K大学での研究中に、2人の女児にわいせつ行為を働いたというのは、事実無根もよいとこ
ろ。だいたいK大学(兵庫県、国立大学)には、一度も行っていない。15年ほど前、その大学
から、講師にならないかという話はあったが、それは、断った。

 その上で、もう一度、考えてみたい。

 どうしてこの日本では、民主主義を訴えると、共産党員ということになるのか? 封建主義を
否定し、王政復古に反対すると、どうして共産党員ということになるのか? 何か、まずいこと
でもあるのか? 

 「民あっての国(Governmnet=政府)」などということは、何も、トーマス・ペインの言葉を引用
するまでもなく、当たり前のことではないか。

 日本でいう民主主義は、西洋でいう民主主義とは、まったく異質のものと考えてよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist democracy nationalism 
patriotism)

(注※)私のHPのいちばん下、(Hiroshi Hayashi)で検索すると、数ページ目に、この問題のBL
OGがある。興味のある人は、読んでみたらよい。プラス、笑ってほしい。




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【子どもとテレビ】(アメリカ。OHIO州、ARKON 子ども病院・HPより)

 アメリカの子どもたちは、平均して1日、4時間、テレビを見ている。この時間は、アメリカ小児
科医学会(AAP)が提唱している、最大時間の2時間の2倍である。平均的な子どもは、学校
で900時間を過ごすが、一方、テレビの前で、1023時間を過ごしている。
Most children plug into the world of television long before they enter school: 70% of child-
care centers use TV during a typical day. In a year, the average child spends 900 hours in 
school and nearly 1,023 hours in front of a TV.

AAPによれば、合衆国の子どもたちは、1日平均、4時間のテレビを見ている。AAPの示した
ガイドラインによれば、質のよいテレビ番組にしても、1〜2時間ということになっている。
According to the American Academy of Pediatrics (AAP), kids in the United States watch 
about 4 hours of TV a day - even though the AAP guidelines say children older than 2 
should watch no more than 1 to 2 hours a day of quality programming.

同じガイドラインによれば、2歳以下の子どもは、TV、DVD、ビデオ、コンピュータ、ビデオゲー
ムも含めて、「画面時間(Screen time)」をもつべきではないとなっている。最初の2年間という
のは、脳の発育に関して、たいへん重要な時期なのだが、テレビは、探索したり、学んだり、両
親と交流したり遊んだりすることにじゃまになる。こうしたことを通して、認識力や、体力、社会
性、情緒を発達させる。
And, according to the guidelines, children under age 2 should have no "screen time" (TV, 
DVDs or videotapes, computers, or video games) at all. During the first 2 years, a critical 
time for brain development, TV can get in the way of exploring, learning, and spending time 
interacting and playing with parents and others, which helps young children develop the skills 
they need to grow cognitively, physically, socially, and emotionally.

もちろんテレビは、適度であれば、よいものである。就学前の子どもたちは、公共のテレビを通
して、学ぶ助けを得る。あるいは就学後は、自然番組を通して、野生生活を学ぶことができ
る。あるいは親たちは、夕方のニュースで最近のできごとを知ることができる。テレビは、疑い
もなく、すばらしい教育者であり、娯楽者である。
Of course, television, in moderation, can be a good thing: Preschoolers can get help learning 
the alphabet on public television, grade schoolers can learn about wildlife on nature shows, 
and parents can keep up with current events on the evening news. No doubt about it - TV 
can be an excellent educator and entertainer.

これらの利点にもかかわらず、テレビの見過ぎは、有害である。
But despite its advantages, too much television can be detrimental:

●たとえば常に1日4時間以上テレビを見ている子どもは、肥満傾向が見られる。
●誘拐番組や殺人などの暴力番組を見ている子どもは、世界とは恐ろしいところであり、何か
悪いことが起きるのではないかと考える傾向が強くなる。
●テレビは、ジェンダー(性差別)や人種偏見を助長する。

"Research has shown that children who consistently spend more than 4 hours per day 
watching TV are more likely to be overweight. 
"Kids who view violent events, such as a kidnapping or murder, are also more likely to 
believe that the world is scary and that something bad will happen to them. 
"Research also indicates that TV consistently reinforces gender-role and racial 
stereotypes. 

こうした中、子どもの保護者たちは、解決策を求めて、二分される。もっと教育的な番組をふや
せと考える人がいる一方で、テレビがないのが、いちばんよいと考える人もいる。また両親が
テレビをコントロールして、子どもにテレビとは、娯楽のためのものであり、現実逃避のための
ものではないと教えるのがよいと言う人もいる。
Children's advocates are divided when it comes to solutions. Although many urge for more 
hours per week of educational programming, others assert that no TV is the best solution. 
And some say it's better for parents to control the use of TV and to teach children that it's 
for occasional entertainment, not for constant escapism.

それ故に、あなたが(親として)、子どもが見ているテレビ番組をモニターし、視聴時間を制限
し、そのことによって、ほかの子どもとの活動や遊び、運動や読書に過ごされるべき時間を、テ
レビを見ることによって過ごさせないようにすることが重要である。
That's why it's so important for you to monitor the content of TV programming and set 
viewing limits to ensure that your child doesn't spend time watching TV that should be spent 
on other activities, such as playing with friends, exercising, and reading.

Violence(暴力)

アメリカの子どもたちが、どれだけ暴力番組を見ているかについてだが、平均的なアメリカの
子どもたちは、18歳までに、テレビで、20万の暴力シーンを見るだろうということ。テレビの暴
力は、ときとして、子どもたちによって模倣される。なぜなら、そうしたしーんは、しばしば、おも
しろく、かつあなたがしたいことをするための効果的な方法として示されるからである。
To give you perspective on just how much violence kids see on TV, consider this: The 
average American child will witness 200,000 violent acts on television by age 18. TV violence 
sometimes begs for imitation because violence is often demonstrated and promoted as a 
fun and effective way to get what you want.

AAPが指摘するように、多くの暴力行為は、「善人」によって、なされるということ。そのため、
子どもはそれを競うように教えられる。いくら親が、他人を殴る権利はないと教えても、テレビ
は、あなたが善人なら、かみついたり、殴ったり、蹴ったりしてもOKと教える。「悪人」は、そうさ
れてもしかたないと教えられる。
And as the AAP points out, many violent acts are perpetrated by the "good guys," whom 
children have been taught to emulate. Even though children are taught by their parents 
that it's not right to hit, television says it's OK to bite, hit, or kick if you're the good guy. 
And even the "bad guys" on TV aren't always held responsible or punished for their actions.

子どもたちが吸収するイメージは、トラウマ化され、心のキズとなる。研究によれば、2〜7歳の
子どもは、グロテスクなこわく見えるものに対して、とくにおぼえるということがわかっている。こ
の年齢の子どもに、「これは作り物である」と教えても、なぐさめにはならない。なぜなら、この
時期の子どもは、(現実)と(ファンタジー)の区別がつかないからである。
The images children absorb can also leave them traumatized and vulnerable. According to 
research, children ages 2 to 7 are particularly frightened by scary-looking things like 
grotesque monsters. Simply telling children that those images aren't real won't console 
them, because they can't yet distinguish between fantasy and reality.

8〜12歳の子どもは、それがフィクションであれ、ニュースであれ、現実に起きたことであれ、
暴力、自然災害、子どもが犠牲になる事件によって、おびえる。この年齢の子どもには、理由
づけが大切である。つまり、子どもたちのおそれをやわらげるため、再検討してみたり、正直な
情報を与えることが大切である。が、あなたは、子どもたちがおびえるよな番組を見るのを避
けたいと願っているかもしれない。
Kids ages 8 to 12 are frightened by the threat of violence, natural disasters, and the 
victimization of children, whether those images appear on fictional shows, the news, or reality
-based shows. Reasoning with children this age will help them, so it's important to provide 
reassuring and honest information to help ease your child's fears. However, you may want 
to avoid letting your child view programs that he or she may find frightening.

Risky Behaviors(危険な行為)

テレビには、セックスや薬物乱用などのような危険な行為を、楽しく、エキサイティングなものと
描写する番組やコマーシャルが満ちている。そしてアルコールを飲むことの結果、薬物やタバ
コを使用することの結果、あるいは婚前セックスの結果について、議論がなされない。
TV is chock full of programs and commercials that often depict risky behaviors such as sex 
and substance abuse as cool, fun, and exciting. And often, there's no discussion about the 
consequences of drinking alcohol, doing drugs, smoking cigarettes, and having premarital sex.

たとえば、性的な番組をたくさん見ている10代の子どもたちは、そうした番組を見ない子ども
たちよりも、性交を主導し、他の性的行為に参加する傾向が見られる。
For example, studies have shown that teens who watch lots of sexual content on TV are 
more likely to initiate intercourse or participate in other sexual activities earlier than peers 
who don't watch sexually explicit shows.

テレビでのアルコールの宣伝は、過去数年間、増えつづけ、未成年の子どもたちは、それらに
より、さらされている。the Center on Alcohol Marketing and Youth (CAMY=アルコール・マー
ケティングと若者センター・ジョージタウン大学)の調査によれば、10代の子どもたちが見る番
組の上位15の番組は、アルコールのコマーシャルを流していた(2003年)。
Alcohol ads on TV have actually increased over the last few years and more underage 
children are being exposed to them than ever. A recent study conducted by the Center on 
Alcohol Marketing and Youth (CAMY) at Georgetown University found that the top 15 teen-
oriented programs in 2003 had alcohol ads.

テレビでのタバコの宣伝は禁止されているが、子どもや10代の子どもたちは、テレビで流され
る映画番組の中で、たくさんの人たちがタバコを吸っているシーンを見ている。こうした番組を
見ることによって、子どもたちは、タバコを吸ったり、アルコールを飲むことは、許される行為だ
と知る。事実、1日に5時間以上テレビを見る子どもは、推奨される2時間以下しかテレビを見
ない子どもたちより、ずっとタバコを吸う傾向が強いことがわかっている。
And although they've banned cigarette ads on television, kids and teens can still see plenty 
of people smoking on programs and movies airing on TV. This kind of "product placement" 
makes behaviors like smoking and drinking alcohol seem acceptable. In fact, kids who watch 
5 or more hours of TV per day are far more likely to begin smoking cigarettes than those 
who watch less than the recommended 2 hours a day.

Obesity(肥満)

専門家たちは、テレビの見過ぎと肥満の関係を指摘している。これが今日、もっとも重要な健
康上の問題である。テレビを見ている間、子どもたちは不活発になり、その間、スナック類を食
べる。そしてその間、たとえばポテトチップスや、スナックを求めるようなソフトドリンクなどのよ
うな不健康な食品を食べるようにしむける、宣伝メッセージを爆弾のように見せられる。
Health experts have long linked excessive TV-watching to obesity - a significant health 
problem today. While watching TV, children are inactive and tend to snack. They're also 
bombarded with advertising messages that encourage them to eat unhealthy foods such as 
potato chips and empty-calorie soft drinks that often become preferred snack foods.

多くの教育的な番組ですら、子どもの健康に、間接的な影響を与える。1日に、質のよいテレビ
番組を4時間、見ている子どもにしても、その間、そういう子どもたちは、運動もせず、社会活
動もせず、かつ野外活動もしない。
Too much educational TV has the same indirect effect on children's health. Even if children 
are watching 4 hours of quality educational television, that still means they're not exercising, 
reading, socializing, or spending time outside.

研究によれば、テレビを見る時間を減らすことによって、体重を減らし、BMI値を低くすること
がわかっている。
But studies have shown that decreasing the amount of TV children watched led to less 
weight gain and lower body mass index (BMI - a measurement derived from someone's 
weight and height).

Commercials(コマーシャル)

AAPによれば、子どもたちは、1年間に4万ものコマーシャルを見ている。土曜日の朝のマン
ガの中の、ジャンクフードからおもちゃのコマーシャルにはじまって、小麦食品の宣伝まで、あ
らゆる年齢の子どもたちを、宣伝が子どもたちを水漬けにする。そして子どもたちにとっては、
それを食べなければならないかのようなものとして、そうしたものをとらえる。それらはすべて、
それが実際そうであるよりも、ずっと、魅力的なものであるというふうに、聞こえる。
According to the AAP, children in the United States see 40,000 commercials each year. 
From the junk food and toy advertisements during Saturday morning cartoons to the 
appealing promos on the backs of cereal boxes, marketing messages inundate kids of all 
ages. And to them, everything looks ideal - like something they simply have to have. It all 
sounds so appealing - often, so much better than it really is.

8歳以下の子どもにとっては、コマーシャルが、ものを売るための方法であるということが理解
できない。6歳以下の子どもたちは、番組と、コマーシャルの区別すらできない。とくに子どもた
ちが好きなキャラクターが、その製品の販売促進をしているようなときは、そうである。それ以
上の年齢の子どもにしても、宣伝の意味を教える必要がある。
Under the age of 8 years, most children don't understand that commercials are for selling a 
product. Children 6 years and under are unable to distinguish program content from 
commercials, especially if their favorite character is promoting the product. Even older 
children may need to be reminded of the purpose of advertising.

こうしたコマーシャルを、子どもの前から消すのは、不可能である。子どもがそれを見る間、テ
レビを消すことはできる。しかしチャンネルをかえるたびに、子どもたちは、それを見たり聞い
たりする。
Of course, it's nearly impossible to eliminate all exposure to marketing messages. You can 
certainly turn off the TV or at least limit kids' watching time, but they'll still see and hear 
advertisements for the latest gizmos and must-haves at every turn.

あなたができることは、子どもがテレビを見ている間、子どもたちがそれについてどう思い、考
えているかについて、教えることはできる。「あれをあなたはどう思うか」「あの宣伝ほど、あれ
はほんとうによいものだと思うか」「あれは健康によいものだと思うか」とかなど、考えることを
刺激することはできる。
But what you can do is teach your child to be a savvy consumer by talking about what he 
or she thinks about the products being advertised as you're watching TV together. Ask 
thought-provoking questions like, "What do you like about that?," "Do you think it's really as 
good as it looks in that ad?," and "Do you think that's a healthy choice?"

子どもがその宣伝されたものについて質問をしたときには、人々がかならずしも必要としないも
のをほしがらせるようにするものだということを、子どもに説明する。そしてこうしたコマーシャ
ルが、こうしたものが、私たちを幸福に思わせるように作られているということを説明する。現
実にはどうであるかを子どもたちに説明することは、子どもに、それがそういうものであることを
教えるのに役立つ。
Explain, when your child asks for products he or she sees advertised, that commercials and 
other ads are designed to make people want things they don't necessarily need. And these 
ads are often meant to make us think that these products will make us happier somehow. 
Talking to kids about what things are like in reality can help put things into perspective.

子どもたちの世界から、テレビコマーシャルを制限するため、AAPは、つぎのように推奨する。
To limit your child's exposure to TV commercials, the AAP recommends that you:

●子どもには、コマーシャルがほとんどない、公共放送を見せる。
●コマーシャルのない、テープ番組を見せる。
●子ども向けのビデオやDVDを見せる。
"Have your kids watch public television stations (some programs are sponsored - or "
brought to you" - by various companies, although the products they sell are rarely shown). 
"Tape programs - without the commercials. 
"Buy or rent children's videos or DVDs. 

Understanding TV Ratings and the V-Chip(テレビ評価と、V−チップス)

Two ways you can help monitor what your child watches are:

TV Parental Guidelines. (テレビのガイドライン)。Modeled after the movie rating system, this 
is an age-group rating system developed for TV programs. These ratings are listed in 
television guides, TV listings in your local newspaper, and on the screen in your cable 
program guide. They also appear in the upper left-hand corner of the screen during the first 
15 seconds of TV programs. But not all channels offer the rating system. For those that do, 
the ratings are:
"TV-Y: suitable for all children 
"TV-Y7: directed toward kids 7 years and older (children who are able to distinguish 
between make-believe and reality); may contain "mild fantasy violence or comedic violence
" that may scare younger kids 
"TV-Y7-FV: fantasy violence may be more intense in these programs than others in the TV
-Y7 rating 
"TVG: suitable for a general audience; not directed specifically toward children, but contains 
little to no violence, sexual dialogue or content, or strong language 
"TV-PG: parental guidance suggested; may contain an inappropriate theme for younger 
children and contains one or more of the following: moderate violence (V), some sexual 
situations (S), occasional strong language (L), and some suggestive dialogue (D) 
"TV-14: parents strongly cautioned - suitable for only children over the age of 14; contains 
one or more of the following: intense violence (V), intense sexual situations (S), strong 
language (L), and intensely suggestive dialogue 
"TV-MA: designed for adults and may be unsuitable for kids under 17; contains one or more 
of the following: graphic violence (V), strong sexual activity (S), and/and crude language (L) 

V-chip (V is for "violence"). This technology was designed to enable you to block television 
programs and movies you don't want your child to see. All new TV sets that have screens 
of 13" or more now have internal V-chips, but set-top boxes are available for TVs made 
before 2000. So how exactly does the V-chip work? It allows you to program your TV to 
display only the appropriately-rated shows - blocking out any other, more mature shows.
The Federal Communications Commission (FCC) requires that V-chips in new TVs 
recognize the TV Parental Guidelines and the age-group rating system and block those 
programs that don't adhere to these standards.
For many, the rating system and V-chip may be valuable tools. But there is some concern 
that the system may be worse than no system at all. For example, research shows that 
preteen and teen boys are more likely to want to see a program if it's rated MA (mature 
audience) than if it's PG (parental guidance suggested). And parents may rely too heavily on 
these tools and stop monitoring what their children are watching.
Also, broadcast news, sports, and commercials aren't rated, although they often present 
depictions of violence and sexuality. The rating system also doesn't satisfy some family 
advocates who complain that they fail to give enough information about a program's 
content to allow parents to make informed decisions about whether a show is appropriate 
for their child.
So even if you've used the V-chip to program your TV or a show features the age-group 
ratings, it's still important to preview shows to determine whether they're appropriate for 
your child and turn off the TV if the content becomes inappropriate for your child.

Teaching Your Child Good TV Habits(子どもに、よいテレビ習慣を教える)

家庭で応用できる、よいテレビの見せ方
Here are some practical ways you can make TV-viewing more productive in your home:

"Limit the number of TV-watching hours: (時間制限)

○テレビのある部屋に、テレビ以外のたくさんのものを置く。(本、子ども雑誌、おもちゃ、パズ
ル、ボードゲームなど。)テレビを見ること以外に、子どもができることを、多く用意する。

○子どものベッドルームからテレビを除く。

○食事中は、テレビを消す。

○宿題をしているときは、テレビを消す。

○テレビを見るのは、何かの作業をしたあとの特権であるというように扱う。たとえば、雑用や
宿題をしたあとにだけ見られるようにする。

oStock the room in which you have your TV with plenty of other non-screen entertainment 
(books, kids' magazines, toys, puzzles, board games, etc.) to encourage your child to do 
something other than watch the tube. 
oKeep TVs out of your child's bedroom. 
oTurn the TV off during meals. 
oDon't allow your child to watch TV while doing homework. 
oTreat TV as a privilege that your child needs to earn - not a right to which he or she is 
entitled. Tell your child that TV-viewing is allowed only after chores and homework are 
completed. 

"Try a weekday ban. (終日の禁止)Schoolwork, sports activities, and job responsibilities 
make it tough to find extra family time during the week. Record weekday shows or save TV 
time for weekends, and you'll have more family togetherness time to spend on meals, games, 
physical activity, and reading during the week. 

"Set a good example by limiting your own television viewing. 


"Check the TV listings and program reviews ahead of time(あらかじめ、テレビ番組をチェック
する)for programs your family can watch together (i.e., developmentally appropriate and 
nonviolent programs that reinforce your family's values). Choose shows, says the AAP, that 
foster interest and learning in hobbies and education (reading, science, etc.). 

"Preview programs (番組を前もって見る)before your child watches them. 


"Come up with a family TV schedule(見てよい番組を、あらかじめ選ぶ) that you all agree 
upon each week. Then, post the schedule in a visible area (i.e., on the refrigerator) 
somewhere around the house so that everyone knows which programs are OK to watch and 
when. And make sure to turn off the TV when the "scheduled" program is over, instead of 
channel surfing until something gets your or your child's interest. 

"Watch TV with your child. (子どもといっしょにテレビを見る)If you can't sit through the 
whole program, at least watch the first few minutes to assess the tone and appropriateness, 
then check in throughout the show. 


"Talk to your child about what he or she sees (子どもが見ている番組について、話しかける)
on TV and share your own beliefs and values. If something you don't approve of appears on 
the screen, you can turn off the TV, then use the opportunity to ask your child thought-
provoking questions such as, "Do you think it was OK when those men got in that fight? 
What else could they have done? What would you have done?" Or, "What do you think 
about how those teenagers were acting at that party? Do you think what they were doing 
was wrong?" If certain people or characters are mistreated or discriminated against, talk 
about why it's important to treat everyone equal, despite their differences. You can use TV 
to explain confusing situations and express your feelings about difficult topics (sex, love, 
drugs, alcohol, smoking, work, behavior, family life). Teach your child to question and learn 
from what he or she views on TV. 

"Talk to other parents, your child's doctor, and your child's teachers(子どもの医師や先生
に、話す)about their TV-watching policies and kid-friendly programs they'd recommend. 


"Offer fun alternatives to television.(テレビ以外の楽しみを提供する)If your child wants to 
watch TV, but you want him or her to turn off the tube, suggest that you and your child 
play a board game, start a game of hide and seek, play outside, read, work on crafts or 
hobbies, or listen and dance to music. The possibilities for fun without the tube are endless 
- so turn off the TV and enjoy the quality time you'll have to spend with your child. 


Hiroshi Hayashi++++++++JAN 08++++++++++はやし浩司

Although news gleaned from television, radio, or the Internet can be a positive educational 
experience for kids, problems can arise when the images presented are violent or news 
stories touch on disturbing topics. Recent news about Hurricane Katrina and the 
earthquake in South Asia could potentially make a child worry that a natural disaster is 
going to hit home, or be fearful of a part of daily life - like rain and thunderstorms - that he 
or she never even thought about before.
Reports on subjects such as natural disasters, child abductions, homicides, terrorist attacks, 
school violence, or a politician's sex life can teach kids to view the world as a confusing, 
threatening, or unfriendly place.
How can you deal with these disturbing stories and images? Talking to your child about what 
he or she watches or hears will help your child put frightening information into a more 
balanced and reasonable context.
How Kids Perceive the News(子どもは、ニュースをどうとらえるか)
Unlike movies or entertainment programs, news is real. But depending on your child's age or 
maturity level, he or she may not yet understand the distinctions between fact and fantasy. 
By the time a child reaches 7 or 8, however, what he or she watches on TV can seem all 
too real. For some youngsters, the vividness of a sensational news story can be internalized 
and transformed into something that might happen to them. A child watching a news story 
about a bombing on a bus or a subway might worry, "Could I be next? Could that happen to 
me?"
Natural disasters or stories of other types of devastation can be personalized in the same 
manner. A child in Massachusetts who sees a house being swallowed by floods from a 
hurricane in Louisiana may spend a sleepless night worrying about whether his home will be 
OK in a rainstorm. A child in Chicago, seeing news about an attack on subways in London, 
may get scared about using public transportation around town. TV has the effect of 
shrinking the world and bringing it into your own living room.
By concentrating on violent stories, television news can also promote a "mean-world" 
syndrome, which can give children a misrepresentation of what the world and society are 
actually like.

Talking About the News(ニュースについて話す)
To calm children's fears about the news, parents should be prepared to deliver what 
psychologists call "calm, unequivocal, but limited information." This means delivering the 
truth, but only as much truth as the child needs to know. The key is to be as truthful, yet 
as inexplicit as you can be. There's no need to go into more details than your child is 
interested in.
Although it's true that some things - like a natural disaster - can't be controlled, parents 
should still give children space to share their fears. Encourage your child to talk openly 
about what scares him or her.
Older children are less likely to accept an explanation at face value. Their budding 
skepticism about the news and how it's produced and sold might mask anxieties they have 
about the stories it covers. If an older child is bothered about a story, help him or her cope 
with these fears. An adult's willingness to listen will send a powerful message.
Teens also can be encouraged to consider why a frightening or disturbing story was on the 
air: Was it to increase the program's ratings because of its sensational value or because it 
was truly newsworthy? In this way, a scary story can be turned into a worthwhile discussion 
about the role and mission of the news.

Tips for Parents
Keeping an eye on your child's TV news habits can go a long way toward monitoring the 
content of what he or she hears and sees. Here are some additional tips:

"Recognize that news doesn't have to be driven by disturbing pictures. Public television 
programs, newspapers, or newsmagazines specifically designed for children can be less 
sensational - and less upsetting - ways of getting information to children. 
"Discuss current events with your child on a regular basis. It's important to help kids think 
through stories they hear about. Ask questions: What do you think about these events? How 
do you think these things happen? These questions can encourage conversation about non-
news topics as well. 
"Put news stories in proper context. Showing that certain events are isolated or explaining 
how one event relates to another helps a child make better sense of what he or she hears. 
Broaden the discussion from a disturbing news item to a larger conversation: Use the story 
of a natural disaster as an opportunity to talk about philanthropy, cooperation, and the 
ability of people to cope with overwhelming hardship. 
"Watch the news with your child to filter stories as he or she watches them. 
"Anticipate when guidance will be necessary and avoid shows that aren't appropriate for 
your child's age or level of development. 
"If you're uncomfortable with the content of the news or if it's inappropriate for your child's 
age, turn off the TV or radio. 
"Talk about what you can do to help. In the case of a news event like a natural disaster, 
your child may gain a sense of control, and feel more secure if you find out about donations 
you can make or other ways that you can help those who you have heard about are in 
need. 
Reviewed by: Mary L. Gavin, MD
Date reviewed: September 2005
Originally reviewed by: Steven Dowshen, MD, and Jennifer Shroff Pendley, PhD
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子育て アドバイス アドバイザー 子供の悩み 子どもの悩み 子育て情報 ADHD 不登校 学校恐怖症 怠学 はやし浩司 はやし浩
司 タイプ別育児論 赤ちゃんがえり 赤ちゃん言葉 悪筆 頭のいい子ども 頭をよくする あと片づけ 家出 いじめ 子供の依存と愛着
 育児ノイローゼ 一芸論 ウソ 内弁慶 右脳教育 エディプス・コンプレックス おてんばな子おねしょ(夜尿症) おむつ(高層住宅) 
親意識 親の愛 親離れ 音読と黙読 学習机 学力 学歴信仰 学校はやし浩司 タイプ別育児論 恐怖症 家庭教師 過保護 過剰行
動 考える子ども がんこな子ども 緩慢行動 かん黙児 気うつ症の子ども 気負い 帰宅拒否 気難しい子 虐待 キレる子ども 虚言
(ウソ) 恐怖症 子供の金銭感覚 計算力 ゲーム ケチな子ども 行為障害 心を開かない子ども 個性 こづかい 言葉能力、読解力
 子どもの心 子離れ はやし浩司 タイプ別育児論 子供の才能とこだわり 自慰 自意識 自己嫌悪 自殺 自然教育 自尊心 叱り方
 しつけ 自閉症 受験ノイローゼ 小食 心的外傷後ストレス障害 情緒不安 自立心 集中力 就眠のしつけ 神経質な子ども 神経症
 スキンシップ 巣立ち はやし浩司 タイプ別育児論 すなおな子ども 性教育 先生とのトラブル 善悪 祖父母との同居 大学教育 体
罰 多動児男児の女性化 断絶 チック 長男・二男 直観像素質 溺愛 動機づけ 子供の同性愛 トラブル 仲間はずれ 生意気な子
ども 二番目の子 はやし浩司 タイプ別育児論 伸び悩む子ども 伸びる子ども 発語障害 反抗 反抗期(第一反抗期) 非行 敏捷
(びんしょう)性 ファーバー方式 父性と母性 不登校 ぶりっ子(優等生?) 分離不安 平和教育 勉強が苦手 勉強部屋 ホームスク
ール はやし浩司 タイプ別育児論 本嫌いの子ども マザーコンプレックス夢想する子ども 燃え尽き 問題児 子供のやる気 やる気
のない子ども 遊離(子どもの仮面) 指しゃぶり 欲求不満 よく泣く子ども 横を見る子ども わがままな子ども ワークブック 忘れ物が
多い子ども 乱舞する子ども 赤ちゃんがえり 赤ちゃん帰り 赤ちゃん返り 家庭内暴力 子供の虚言癖 はやし浩司 タイプ別育児論
はじめての登園 ADHD・アメリカの資料より 学校拒否症(不登校)・アメリカ医学会の報告(以上 はやし浩司のタイプ別育児論へ)東
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