書庫1
はやし浩司
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●子育てポイント

●買い物グセ

甘い食品、リン酸食品など、そういうものを毎日多量に摂取している子どもは、見た目にも、独
特の症状を示す。詳しくは「過剰行動児」を参考にしてほしい。で、そういう子どもをもつ母親
に、それなりの指導をすると、たいていの母親は、「では……」と言って、私のアドバイスに従っ
てくれる。

しかし長つづきはしない。理由は簡単。こうしたアドバイスは、一時的な効果しかない。やがて
母親は、もとの買い物習慣にもどってしまう。一、二か月もすると、スーパーなどで、また同じも
のを買い始める。つまり元の木阿弥(もくあみ)。

では、どうするか。

私はあわせて、つぎのようにアドバイスしている。

「家の中にある、甘い食品(ジュース、アイスクリーム、ジャムなど)、それにリン酸食品(かまぼ
こ、インスタントうどん、焼きそば、プリンなど)を、思い切って、袋に詰めて捨てなさい。もった
いないと思ったら、なおさら、そうしなさい。もったいないと思う気持ちが、ショックとなって、あな
たの買い物グセをなおします」と。

言うまでもなく、問題は子どもの食生活にあるのではなく、母親の買い物習慣にある。その買
い物習慣を改めないかぎり、子どもの食生活の問題はなおらない。子どもの小食(好き嫌い、
細い、遅い、少ないなど)に悩んだときも、同じように対処する。

●甘いものを食べて、低血糖?

甘い食品(白砂糖の多い食品)を食べると、低血糖になると話すと、多くの母親は、「?」と思う
らしい。しかしそれには、こんなメカニズムが働く。

一時的に、多量の白砂糖をとると、当然のことながら、急激に血糖値があがる。そのとき同時
に、その血糖値をさげようと、体内で、多量のインスリンが分泌される。で、そのインスリンが、
血糖を分解する。それで血糖値はさがるが、しかしインスリンだけは血中に残り、さらに血糖値
をさげようとする。そして結果として、今度は、低血糖にする。

低血糖になると、脳の抑制命令がうまく働かなくなり、行動が、カミソリでスパスパと切るよう
に、鋭くなる。突発的にキーキー声をあげて、興奮しやすくなる。

行動するときは、(思考するときにも)、二つの命令が同時に、脳より発せられる。ひとつは、行
動命令。もう一つは抑制命令。この二つの命令が、バランスよく保たれたとき、人間の行動や
思考は、スムーズになる。なめらかになる。見た目にも、おだやかになる。

しかし血糖値があがると、脳間伝達物質である、セロトニンが、異常に分泌され、脳の機能が
乱される。こうして低血糖児特有の症状が現れる。

私が見聞きした低血糖児に、こんな子どもがいた。

ある病院で、小児糖尿病の患者を見舞ったときのこと。当然のことながら、小児糖尿病の子ど
もは、人工的に砂糖断ちをしている。その結果、ここでいう低血糖児になる。話には聞いてい
たが、その症状のはげしさには、驚いた。

昼の給食時だったが、突発的に暴れて、トレイごと床にたたきつけてしまった子どももいた。そ
の暴れ方が、ふつうではない。まさに突発的。錯乱状態になって暴れた。

そんなわけで、もし、あなたの子どもに、つぎのような症状が現れたら、砂糖断ちをし、合わせ
て、CA、MGの多い食生活にこころがけてみるとよい。具体的には、魚介類、海産物を中心と
した献立に切りかえてみる。

★突発的に、キーキー声(超音波に近い声)をあげて、興奮する。暴れる。
★小刻みにイライラしたり、言動に落ち着きがない。
★精神疲労を起こしやすく、興奮しやすい。感情の起伏がはげしい。

 イギリスでは、『カルシウムは紳士をつくる』という。それについては、すでに何度も書いてき
たので、ここでは省略するが、子どもの心で、「?」と感じたときには、まずCA、MGの多い食
生活にこころがけてみる。

●ダラダラとした姿勢も……
  
 ついでに、ダラダラとした姿勢も、CA,MGでなおすことができる。子どもの学習風景をうしろ
から見ると、それが判断できる。

 子どもをうしろから見たとき、背骨がぐにゃぐにゃと曲がってしまい、姿勢が悪いようだった
ら、まずCA、MG不足を疑ってみる。子どもによっては、筋肉の緊張感が持続できず、机にお
おいかぶさってしまうこともある。

 言うまでもなく、筋肉の緊張感をつくるのは、CA、MGである。正確には、カルシウムイオンと
いうことになる。これが不足すると、筋肉が緊張感を持続できず、ここでいうように、姿勢が悪く
なる。

 よく私の教室でも、姿勢が悪い子どもを見つけると、あとで、「どうしてあなたは、ちゃんと座っ
ておれないの!」と叱っている母親を見かける。しかしこの問題は、叱ってどうにかなる問題で
はない。原因は、かたよった食生活にあるとみる。

 なお、一週間ほど、CA,MGの多い食生活にこころがけ、かつリン酸食品を避け、砂糖断ち
をすると、子どもの姿勢は、劇的になおる。一度、ためしてみてほしい。

 (注)「砂糖断ち」といっても、完全に断つ必要はない。今ではありとあらゆる食品に砂糖が含
まれているので、意識しなくても、子どもはじゅうぶんすぎるほどの砂糖を摂取していることにな
る。ちなみに幼児に必要な摂取量は、一日、一〇〜一五グラムと言われている。意識して与え
る必要はない。

 またよくレストランなどで、子どもの顔よりも大きなソフトクリームを食べている子どもをよく見
かける。それがいかに多い量かは、あなた自身が、自分の顔より大きなソフトクリームを食べ
てみればわかる。

 体重一五キロの子どもが、ソフトクリーム一個を食べる量は、体重六〇キロのおとなが、四
個食べる量に等しい。それともあなたは、四個のソフトクリームを食べることができるとでも言う
のだろうか。それだけの量を子どもに与えておきながら、「どうしてうちの子は、小食なのでしょ
うか」は、ない。
(030914)



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●進学

 よい高校から、よい大学へ。そしてよい就職先へ。しかし人間というのは、そんな単純なもの
なのか? 

 何も考えない。何も疑問に思わない。どこか単純な子どもには、そういうコースもあるのだろう
が、しかしすべての子どもに、それを押しつけてはいけない。

 むしろ自分で考える子どもは、こうしたコースから自ら、はずれていく。それは子ども自身に
問題があるというよりは、そうした多様性に応ずることができない、システムのほうに問題があ
るとみる。

 二男の例を出して恐縮だが、二男は、この地元でも、A、B、C、D、E……ランクの中でも、E
ランクの高校を卒業している。それにはいろいろないきさつがあるが、このクラスの高校になる
と、国立大学へ進学する子どもどもは、数年に、一人いるかいないかという程度になる。

 しかし二男の能力は、私は認めていた。だから二男がEランクの高校へ入学すると決めたと
きも、すべて二男に任せた。

 が、この日本では、このあたりで人生のすべてが決まってしまう。事実、高校を卒業するとき
になって、二男には、進学できる大学がなかった。それでアメリカへ渡ったが、はからずも、私
はここで日本とアメリカの教育システムの違いを、思い知らされるところとなった。

 アメリカでは、やる気と力があれば、人生のどの段階からも、そこを基盤として、前に伸びる
ことができる。二男は、私立大学で二年間学んだあと、今度は、州立大学へ移った。そしてそ
こで学位を得て、卒業した。

 こういうことは、日本では、可能なのか? 答えは、「NO!」

 名もない小さな私立大学へ入った学生は、その段階で、いくら猛勉強しても、すべてそこま
で。そのあと国立大学へ移籍するなどということは、常識で考えてもありえない。その「ありえな
い」という部分に、日本の教育の最大の欠陥がある。

 二男は、幼いころから、自分で考えて行動する子どもだった。私も、意識して、それを助け
た。伸ばした。しかしこういう子どもは、この日本では、損をすることはあっても、得をすることは
何もない。従順に体制に従う子どもほど、この日本では得をする。またそういう子どもほど、生
きやすい環境が、すでにできあがっている。まさに官僚主義国家と言われる理由は、こんなと
ころにもある。

 今、その二男を思いやりながら、ときどき、こんなことを考える。もしあのまま二男が、日本に
いたら、二男はどうなっていたか、と。コンピュータについては、天才的な思考能力をもってい
たが、今ごろは、どこかのパソコンショップで、パソコンの販売をしているのが、関の山ではな
いか、と。

 事実、二男は、小学三年生のときには、すでに自分でベーシック言語使って、ゲームを作っ
て遊んでいた。中学一年生のときには、C言語をマスターし、高校生のときには、アンチウィル
スのワクチンを自分で開発して、どこかのソフト会社に送っていた。

 日本には、そういう子どもを伸ばすシステムがない。同時に、勉強しかしない、勉強しかでき
ないような、どこか頭のおかしい子どもほど、得をする。スイスイと受験競争という階段をのぼ
っていく。こういうシステムの中で、いかに多くの日本人が、社会の底辺にうずもれたまま、損を
していることか。しかしそれは個人の「損失」というよりは、社会そのものの「損失」と考えたほう
がよい。

 教育を否定してはいけない。しかしそれと同じほど、教育を盲信してはいけない。盲信して、
学歴信仰や、学校神話に陥(おちい)ってはいけない。人間は、そんな単純なものではない。ま
た、単純であってはいけない。そしてそれを受け入れる教育システムは、もっと大胆に、多様化
すべきである。でないと、本当に日本の未来は、このまま、終わってしまう。

 たとえばアメリカの小学校では、クラス名(ふつうはその教室を管理する教師名)はあっても、
学年はない。中学校でも単位制度を導入している。学校へ行かないホームスクーラーも、二〇
〇万人を超えたとされる(〇二年末)。また四、五年の飛び級を繰りかえし、大学で学んでいる
子どももいる。

 その大学にしても、入学後の転学、転籍は自由。学科、学部の、スクラップ&ビュルドは、自
由。そうそう公立小学校にしても、学校が独自にカリキュラムを組んで教えている。ほかにチャ
ータースクール、バウチャースクールなどもある。

 ドイツでは、大半の中学生は午前中だけで授業を終え、あとはクラブに通っている。ヨーロッ
パ全域では、大学の単位は、ほぼ共通化された。今では、日本のように出身大学にこだわる
学生は、ほとんどいない。いないというより、こだわっても意味がない。

 世界は、そこまできているというのに、この日本は、いったい、何をしている? いまだに地方
新聞の中には、「我が母校」「母校の伝統」だとか何とか、意味のない記事を連載しているのが
ある。江戸時代の身分制度が、あるいは家元制度が、母校意識に置きかえられただけ?

 ……というのは、少し言い過ぎだが、しかしこれだけは言える。

 生きザマには、コースなど、ない。人間よ、日本人よ、生きる原点にもう一度立ちかえって、
教育システムを、見なおそうではないか。
(030914)

【追記】
 静岡県でもナンバーワンと言われる進学高校でのこと。

 それくらいの進学高校になると、それぞれの部活にも、OB会というのがあって、総会のたび
に、壇上に、そのOBたちが、ズラリと並ぶ。そして言わなくてもいいのに、「私は○○回の卒業
生です」などと、自己紹介をする。

 かわいそうな人たちだ。あわれな人たちだ。自慢するものがないから、学歴をひけらかして、
生きている? 学歴にしがみつきながら、生きている? あるいは士農工商の身分制度が、学
歴制度に置きかわっただけ? いろいろ考えられるが、こうした封建時代の亡霊はまだ、日本
のあちこちに残っている。

+++++++++++++++++
これに関連して、以前、こんな原稿
(中日新聞掲載済み)を書きました。
ここに再掲載します。
+++++++++++++++++

常識が偏見になるとき 

●たまにはずる休みを……!

「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいてい
の人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこ
そ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。

アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもっ
た偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たと
えば……。

●日本の常識は世界の非常識

@学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親が
教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州
政府が家庭教師を派遣してくれる。日本では、不登校児のための制度と理解している人が多
いが、それは誤解。

アメリカだけでも九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人を超えた。毎年一
五%前後の割合でふえ、二〇〇一年度末には二〇〇万人に達するだろうと言われている。そ
れを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は家
庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いた
り、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こ
うした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。

Aおけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ通
う。早い子どもは午後一時に、遅い子どもでも三時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単位
(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。そのクラブ
だが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。

学習クラブは学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が一二〇〇円前後
(二〇〇一年調べ)。こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども一人当たり、二
三〇マルク(日本円で約一四〇〇〇円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、
子どもが就職するまで、最長二七歳まで支払われる。

 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性
に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対
する世間の評価はまだ低い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をも
つが、それ以外には責任をもたない」という制度が徹底している。

そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、親が
先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクーバー市日本文
化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。「そういうときは、まず親が学校に電話を
します。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話がかかってきます」と。

B進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中
高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で七〇校近くあった。が、私はそれを見て驚い
た。どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、は
さんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。

この話をオーストラリアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そ
こで私が、では、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子
も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子ども
は、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。なおそのグラマースクー
ルには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同時にその足で学校へ行
き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。

●そこはまさに『マトリックス』の世界

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことで
も、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身
の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあ
るべきか。さらには子育てとは何か、と。その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではな
い。

学校神話とはよく言ったもので、「私はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにし
ても、結局は、学校神話を信仰している。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」
と。それはまさに映画『マトリックス』の世界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが
仮想の世界だと気づかない。気づかないまま、仮想の価値に振り回されている……。

●解放感は最高!

 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと
動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に
行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育して
いるのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよ
い。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩

 
子育て随筆byはやし浩司(163)

不安

 日本人の八〇%近くが、老後に不安を感じているという。少し前の調査で、そんなことがわか
った。

 私も、実は、その中の一人。そのうちどこかの老人ホームに入るつもりでいるが、かなりのお
金が必要だという。ワイフは、「土地と家を売れば、何とかなるわ」と言っているが、私の感じて
いる不安は、そんなものではない。

 問題は、老後の生活ではない。問題は、どうやって老後の孤独、絶望、疎外、空虚と戦うか、
だ。死への恐怖もある。どう考えても、その方法がわからない。それまでに人生観が確立でき
ればよいが、今のままでは、それも無理だろう。
 
 とくに私のように、戦後の高度成長期を生きてきた人間は、豊かな生活と引きかえに、もっと
大切な「心」を、犠牲にした。すべてを「マネー」に結びつけて生きてきた。今さら、「友だちの数
こそ、真の財産」「我を捨てて、慈悲の心をもて」と言われても、どこでどうすればよいのかさ
え、わからない。

 そう、私たちの生活には、「だからどうなの?」という部分がない。豪華な車に乗って、これま
た豪華なレストランで、おいしいものを食べる。しかしそのとき、ふと、こう考える。「だからどう
なの? それがどうしたの?」と。

オール電化の、便利な家を建てる。風呂の温度も、湯の量も、すべて自動化されている。暑け
ればクーラーをつければよい。しかしそのときも、ふと、こう考える。「だからどうなの? それが
どうしたの?」と。

つまり私たちは、「だからどうなの?」という部分を、置き去りにしたまま、ただがむしゃらに生き
てきた。たとえばそのことは、美術館で巨匠たちの描いた絵画を見たときに、思い知らされる。
「すばらしい絵だ」と思うのだが、「だからどうなの?」という部分で、その絵を、自分と、どうして
も結びつけることができない。そしてあろうことか、「この絵は、一億円の価値がある」「二億円
だ」と、そんなふうに考えてしまう。

私が感ずる老後の不安は、そんなところから生まれる。

 もし生きるだけなら、死ぬまで生きればよい。うまくいけば、ベッドの上で、寝たきりでも何で
も、数年間は生きられる。しかし、そんな人生に、どんな意味があるというのか。もっと言えば、
明日が今日と同じ。あるいは明日は、今日より、もっと悪くなるという人生に、どんな意味があ
るというのか。ただ生き長らえているという人生に、どんな意味があるというのか。

 若いとか、年をとっているとか、そういうことは関係ない。肉体などというものは、ただの入れ
物。パックに入っていようが、グラスに入っていようが、ミルクはミルク。問題は、そのミルクの
味、中身、それに鮮度なのだ。

 今の私には、孤独、絶望、疎外、空虚と戦う自信は、まったく、ない。このまま行けば、やがて
孤独という無間地獄の中で、気が狂ってしまうかもしれない。その可能性は大きい。そこで聖
書をひもとき、仏教の経典を開き、「心」をさがす。しかし頭の中では理解できても、それが実
践できない。実践しても、どうも身につかない。

 昨日も、ある親から、子育てについて、相談があった。二時間近く、電話で話した。このところ
毎日のように、電話がかかってくる。居留守をつかうという方法もあるが、ウソをつくのは、もっ
といやだ。だから電話に出る。

 で、こうした行為が、私の心に何かの「うるおい」をもたらすかというと、そういうことは、まった
く、ない。客観的に見れば、私は人助け(?)をした。よい思いをもって当然なのに、それがな
い。相変わらず、孤独は孤独のまま。絶望感も、疎外感も、空虚感もそのまま。

 私のどこが、どうまちがっているのだろう。おかしいのだろう。何かの見返りを求めているの
だろうか。ノー。感謝されることを願っているのだろうか。ノー。自分の優位性を楽しんでいるの
だろうか。ノー。

 一つ理由があるとすれば、私は、相手の立場になりきっていないということがある。口では、
「たいへんですね」と、同情したフリをするかもしれないが、それはあくまでもフリ。私はいつも、
そのフリだけで生きている。だからそういう相談に答えながらも、いわばハウ・ツー的な知識を
説明しているにすぎない。

 これではいけない。このままでは、さらにいけない。私の老後は、まちがいなく、悲惨なものに
なる。……私が感ずる老後の不安は、そんなところから生まれる。

 さあ、時間がないぞ。私はどうしても急がねばならない。あと五年か。それとも一〇年か。い
や、とても一〇年は、もたないだろう。それまでに、何としても、自分を立てなおさなければなら
ない。
(030914)



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●親子のさらけ出し(自己開示)

 親子で、どこまでたがいに、さらけ出しができるか。その度合いによって、信頼関係が決ま
る。

 子どもも、小学三年生くらいを境に、急速に親との間に距離を置くようになる。いわゆる「親離
れ」が始まる。

 このとき親が、それなりの覚悟と、そして子離れの準備をしていればよいが、そうでないとき、
いろいろな問題が起きる。子どもが幼児のころの親子関係にこだわり、その状態に戻そうとあ
がく親も、少なくない。

 とくに溺愛ぎみの親や、子育てを生きがいにしている親ほど、その傾向が強い。このタイプの
親にとっては、子離れそのものが、考えられない。中には、子どもが親離れを始めたとたん、
その絶望感(?)から、自己否定、自己嫌悪に陥(おちい)ってしまう親もいる。

 親子でも、たがいのさらけ出しが、信頼関係の基本だが、しかしその信頼関係は、子どもの
年齢とともに、質的に変化する。具体的に考えてみよう。

 以前、こんなことを相談してきた母親がいた。

 何でも最近、その母親の息子(小三)が、学校であったことを話してくれなくなったというのだ。
それまでは学校であったことを、あれこれ話してくれたが、それがなくなった。「それで、どうした
らいいか?」と。

 この時期を境に、子どもは急速に交友関係を広める。同時に、親子の関係は、希薄になる。
こうした関係の変化は、子どもの成長期には、よく見られる。が、それをもって、親子の信頼関
係が崩壊したと考えるのは、誤解である。

 この時期を境に、親子の関係は、「親子」から、「一対一」の人間関係に変化する。いつまで
も親が、親風を吹かし、上下意識をもつほうがおかしい。一方、子どもにしても、いつまでも、
「ママ、ママ……」「パパ、パパ……」と甘えるほうが、おかしい。

 そこで問題となるのが、自分の子どもであっても、いかにして、子どもを、一人の人間として見
ていくかということ。そして子どもではなく、一人の人間として、どこまで信頼していくかというこ
と。私が先に書いた、「質的な変化」というのは、そのことをいう。

 そこで自己診断。

【自己診断】

●信頼型ママ……いつも心のどこかで、「うちの子は、すばらしい」と思っている。「うちの子が
できなければ、ほかの子にできるはずはない」と思うこともある。子どもの失敗や、生活態度の
悪さは、ほとんど気にならない。

●不信型ママ……いつも心のどこかで、「うちの子は、何をしても心配だ」と思っている。「何か
失敗するのではないか」とか、「人に笑われるのではないか」と思うこともある。ささいなことが
気になって、それをよく叱る。

少し前も、「食事中、子どもがよく食べ物をこぼす。どうしたらいいか」と相談してきた母親がい
た。その母親は、子どものしつけを心配していたが、問題は、その「しつけ」ではない。母親自
身が、子どもに対して、大きな不信感をもっている。それが姿を変えて、こうした相談になった。
もし子どもを信頼していれば、子どもが食べ物をこぼしても、「あら、だめよ」と、軽くすますこと
ができるはずである。

 そこであなた自身はどうか、少し振りかえってみてほしい。あなたは子どもの前で、自分をさ
らけ出しているだろうか。あなたはさらけ出しているとしても、子どもは、どうだろうか。あなたの
前で、言いたいことを言い、したいことをしているだろうか。

 このとき、たいていの親は、「うちの子は、私の前では、伸び伸びしています」と言う。「言いた
いことも言っています。態度も大きいです。したいことも、もちろんしています」と。しかし本当に
そうだろうか。あるいはひょっとしたら、あなたがそう思いこんでいるだけではないだろうか。

 こういうケースでは、「私の子どものことは、私が一番よく知っている」「私と子どもの関係は、
すばらしい」と思っている親ほど、あぶない。親が傲慢であればあるほど、子どもは、その心を
閉ざす。

 一方、「どうもうちの子のことがわからない」「親子関係は、これでいいのか」と思っている親ほ
ど、子どもに対して謙虚になる。その謙虚さが、子どもの心を開く。このことがわからなけれ
ば、反対の立場で考えてみればわかる。もしあなたが、あなたの親に、つぎのように言われた
ら、あなたは、どのように反応するだろうか。

●「あなたはどう思う? 私は掃除したほうがいいと思うけど、ね。お客さんも来るし」と、相談を
もちかけられる。

●「掃除をしっかり、しなさい。お客さんが来るでしょ。こんなことではどうするの!」と、命令さ
れる。

もしあなたの子どもが、あなたの前で、小さくなっていたり、よい子ぶっていたりしたら、あなた
の親子関係は、かなりあぶない状態にあるとみる。表面的にはうまくいっているように見えるか
もしれないが、それはあくまでも「表面的」。たいていのばあい、あなたという親がそう思ってい
るだけと考えてよい。
(030915)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

自己開示の限界

 徹底した自己開示。それが信頼関係の基本であることは、まちがいない。しかしその自己開
示にも、限界がある。

 たとえばあなたがある男性と、不倫をしたとしよう。何度も密会し、性的関係もある。相手の
男にも、妻子がいる。

 そのときあなたは愛に溺れながらも、一方で、その罪の重さに悩む。苦しむ。あなたがまとも
な女性なら、心苦しくて、夫と顔を合わせることもできないだろう。

 しかしそれで夫との信頼関係が、崩壊するわけではない。あなたはその秘密を、心の奥深く
にしまう。そして何ごともなかったかのように、その場を切り抜けようとする。あなたには、夫も
子どももいる。

そんなやるせない女心をみごとに表現したのが、R・ウォラーの『マディソン郡の橋』である。映
画の中では、主人公のフランチェスカが、車のドアを迷いながらも、しっかりと握りしめる。あの
ワンカットが、フランチェスカの心のすべてを語る。

 そこで問題は、夫婦であるという理由だけで、妻は、夫にすべてを語る必要があるかというこ
と。仮に成りゆきで、ほかの男性と性的関係をもったとしても、だ。だまっていれば、バレない
し、夫も、それによってキズつくことはない。

 つまりここで自己開示の問題が、出てくる。そこでオーストラリアの友人(男性)に、メールで
聞くと、こう話してくれた。

 「ウソをつくのは、まずいが、聞かれるまでだまっているのは、悪いことではない」と。

 何とも微妙な言い回しだが、「聞かれてもだまっていればいい」「またそういうことは、夫や妻
に聞くべきではない」とも。

 仮に自分の夫や妻が不倫をしても、「その範囲」にあれば、それもしかたないのではというこ
とらしい。そこで私が、「君は、不倫をしたことがあるか?」と聞くと、「君と同じだ」と。ナルホ
ド!

 私は自分のワイフのことは知らない。しかし、そういうことは聞かない。信頼しているとか、い
ないかということではない。聞いても本当のことは言わないだろうし、ウソを言われるのは、不
倫より、つらい。

 一方、ワイフも、私には聞かない。反対の立場で、同じように考えているせいではないか。

 世俗的な言い方だが、結婚生活を三〇年もつづけていると、いろいろなことがある、というこ
と。不倫もその一つかもしれないし、そうでないかもしれない。私たちは夫や妻である前に、人
間だ。人間である前に、動物だ。夫や妻になったからといって、人間であることを捨てるわけで
はない。動物であることを捨てるわけではない。

 だからどうせ不倫をするなら、命がけでしたらよい。夫や妻である前に、人間の。人間である
前に、動物の。そんな雄たけびが聞こえるような不倫をしたらよい。恋焦がれて、苦しんで、自
分を燃やしつくすような不倫なら、したらよい。「私は人間だ」と、心底から叫べるような不倫な
ら、したらよい。が、それができないなら、不倫など、してはいけない。

 ……と話がそれたが、夫婦の間でも、自己開示には限界がある。それは「相手をキズつけな
い」という範囲での限界である。いくらさらけ出すといっても、相手がそれによってキズつくような
ら、してはいけない。またそういう限界があるからといって、信頼関係が築けないということでも
ない。

 私はこのことを、最近知った。このつづきはどうなるかわからないが、もう少し、考えて、また
報告する。
(030924)

++++++++++++++++++++++

久しぶりに「マジソン郡の橋」を思い出したました。
以前書いた原稿を、再掲載します。

++++++++++++++++++++++

●母親がアイドリングするとき 

●アイドリングする母親

 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに幸せの
ハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではないが、その充
実感がない……。

今、そんな女性がふえている。Hさん(三二歳)もそうだ。結婚したのは二四歳のとき。どこか不
本意な結婚だった。いや、二〇歳のころ、一度だけ電撃に打たれるような恋をしたが、その男
性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と何となく交際を始め、数年後、これまた
何となく結婚した。

●マディソン郡の橋

 R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。「どこにでもある田舎道の
土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」(村松潔氏訳)と。主人公
のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れていた生命の叫
びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。

つまりフランチェスカは、「日に日に無神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻
に閉じこもって」生活をしていたが、キンケイドに会って、一変する。彼女もまた、「(戦後の)あ
まり選り好みしてはいられないのを認めざるをえない」という状況の中で、アメリカ人のリチャー
ドと結婚していた。

●不完全燃焼症候群

 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のような状態
をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。Hさんはそうした不
満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何が不満だ」「お前は幸
せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるストレスは相当なものだ。

昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、こん
な話をしてくれた。「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わってしまっ
た。だから今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買いに行く」と。「女を買う」
と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということだった。

晩年の今氏は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だった。私は今
氏の「生」への執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そういうものか。その人の人生
の中で、いつまでも重く、心をふさぐ。

●思い切ってアクセルを踏む

 が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がいたが、
下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手伝ううち、
医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさんは、ヘルパー
の資格を取るために勉強を始めた、などなど。

「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、道路を走り出した人は多い。だから今、あなた
がアイドリングしているとしても、悲観的になることはない。時の流れは風のようなものだが、止
まることもある。しかしそのままということは、ない。

子育ても一段落するときがくる。そのときが新しい出発点。アイドリングをしても、それが終着
点と思うのではなく、そこを原点として前に進む。方法は簡単。勇気を出して、アクセルを踏
む。妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それでまた風は吹き始める。人生
は動き始める。
(中日新聞東掲載済み)

●Where there is sorrow, there is holy ground.−Oscar Wilde
悲しみのあるところに、神聖な土壌がある。(オスカー・ワイルド)

●"According to the Buddha, these are all signs of a false identity: fear, attachment, shame, 
compulsion and rigidity. Hmmm. I feel like if I didn't have these things, I'd never clean my 
house. What's up with that?" - Nerissa Nields
「ブッダによれば、恐れ、依存、恥、強制、がんこ。これらはすべて偽の自分自身の兆候だそう
ね。ウム。もし私に、そういうものがないなら、私の家は、掃除しないでしょうね。それがどうした
というの?」(N・ニールズ)

●I hate quotations. Tell me what you know. - Ralph Waldo Emerson
引用は嫌いだ。あんたの言葉で言え。(R・W・エマーソン)

●Do not go where the path may lead instead go where there is no path and leave a trail. - 
Ralph Waldo Emerson

道があるところを行ってはいけないよ。足跡が残るような、道のないところを行きなよ。(R・W・
エマーソン)

●A day without sunshine is, you know, night. - Shannon
サンシャインのない日というのはね、夜だよ。(シャノン)

●My advice to you is to get married: if you find a good wife you'll be happy: if not, you'll 
become a philosopher - Socrates
私からあなたへのアドバイスはね、結婚することだよ。よい妻を見つければ、あんたは幸福に
なるだろう。そうでなければ、あんたは哲学者になるだろう。(ソクラテス)

●The unexamined life is not worth living. - Socrates
吟味されない人生は、生きる価値はない。(ソクラテス)

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(198)

老人観察

 年をとればとるほど、小さくなっていく人がいる。その時期になると、自分の土地でもないの
に、一日中、竹やぶの、竹の子の見張りをしている男性(七五歳くらい)がいる。

 最近でも、こんなことがあった。

 近くの空き地が、今度、貸し駐車場になった。その駐車場に、毎日のようにやってきて、不動
産屋と交渉していたのが、どこかの老夫婦だった。理由はやがて、わかった。道路から一番、
進入しやすい場所を確保するためである。

 私はその光景をかいま見ながら、ふと、こう思った。「もう、それほど長く生きられるわけでも
ないのに……」と。その老夫婦は、そのつど不動産屋の人に、声を荒げて何かを抗議してい
た。

 私のばあい、このところ、何を買うにも、「あと、〜〜年、もてばいい」とか、「どうせ買っても、
老人ホームへはもっていけないし……」と考えるようになった。今、住んでいる土地と家にして
も、「どうせ売るのだから……」と。

 今、こうして自分のことを書きつづけているのも、そういう気持からだ。ワイフでさえ、「こんな
プライベートなことまで書く必要があるの?」と聞く。私は、「笑いたければ、笑え」と答える。「一
〇年後か、二〇年後か知らないが、私はどうせ消えていなくなる」と。

 が、ふと油断すると、先に書いた老人のようなことをしている? 竹の子の見張りのようなこと
はしないが、それに近いことをしているときがある。

 先日も、家の玄関の正面に、イヌの糞がしてあった。どこかのイヌが、散歩の途中でしたらし
い。私は、かなり頭にきた。で、それから数日間。家の前をイヌを連れた人が通るたびに、そち
らのほうが気になってしかたなかった。

 そこで考えてみる。年をとればとるほど、大きくなる人と、小さくなる人がいるのがわかる。
で、その違いは、何か、と。もっとも、大半の老人は、小さくなるが、それでも、大きくなる人もい
る。たとえば近所のKさんという人は、今、老人たちが憩えるような公民館づくりに情熱を燃や
している。

 これは脳の老化と、硬直化と関係があるのだろうか。

 発達心理学というと、成長期の子どもの心理学と考える人は多い。しかしこれは誤解。死に
いたる、老人の心理的変化も、その中に含まれる。「発達」というよりは、「退化」というべきかも
しれない。正確には、「退化心理学」とか? 心理学の世界では、「生涯発達」という言葉を使う
らしい。

 それはともかくも、老人の心理的変化で、一番こわいのは、「喪失感」である。

 体力、気力の喪失。記憶力、感情の喪失。目標、生きがいの喪失など。行動半径が小さくな
り、収入が減少することによる喪失感もある。

 こうした「喪失感」を繰りかえすうち、老人たちは、独特の心理状態になる。その一つが、「竹
の子の見張り」である。

 竹の子が盗まれることを心配するくらいなら、環境汚染によって、澄んだ空気が奪われること
を心配したほうがよい。……ということになるが、視野が狭くなる分だけ、目先の利益にとらわ
れるようになる。が、どうもそれだけではないようだ。

 たとえば竹の子の見張りをしている老人は、その見張りをしている間、動作が、どこか子ども
っぽい。わざとらしく、小さな棒切れをもち、竹やぶへ侵入してきた人を、大声で罵声(ばせい)
したりしている。明らかな、退行現象である。

 つまり年をとることによって、ただ単に、いろいろなものを喪失するだけではなく、精神状態が
幼くなるということもあるようだ。

 そこで「大きくなる人」と、「小さくなる人」の違いはといえば、この二点に集約される。

 ひとつは、視野の広さ。もう一つは、退行の度合い。

 視野は広ければ広いほどよい。そして精神状態は、いつまでもその年齢にふさわしい状態で
あればあるほど、よい。しかし、それは可能なのか。

 そこで私は、第一に、「気力の充実」をあげる。心理学的には、「自己意識の維持」ということ
になるのか。

 肉体に体力があるように、精神にも、気力がある。そして体力が、絶えまない健康管理と運
動によって維持されるように、気力もまた、絶えまない健康管理と鍛錬によって維持される。

 「気力」というと、脳の中の問題であるがゆえに、どうしても安易に考えられがちである。外か
ら見えない。しかしこの気力は、少し油断すると、どんどんと衰えていく。まず私たちは、それに
気づかなければならない。

 方法としては、いつも新しいことに興味をもち、その新しいことに、果敢なく挑戦していく。そう
いう姿勢を、日常的に貫くことによって、気力を維持することができる。たとえて言うなら、それ
は毎日の運動のようなものかもしれない。ジョギングをしたり、サイクリングしたりするように、
だ。

 こうした努力を怠ると、とたんに気力は弱くなる。

 これは私の経験だが、四〇歳になるころ、私は山荘づくりに情熱を燃やした。小さな小山を
譲ってもらい、それをユンボで削り、平らな土地にした。そのため土日のほとんどは、そうした
作業で、つぶれた。

 現在、そういう気力があるかといえば、実のところ、もう、ない。旅行をすることすら、どこかお
っくうになった。自分でもまずいと思っているが、気力というのは、そういうものかもしれない。

 となると、結論は、こうだ。

 年をとればとるほど、大きくなる人というのは、その気力を維持できる人をいう、と。そしてそ
のために、人は、いつも自分を鍛えていかねばならない、と。

 これは大発見というより、小発見。これからの私の指針として、大切にしたい。
(030926)



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●依存性

 人というのは、それがモノであれ、人であれ、はたまた宗教であれ、何かに依存しないと、生
きていかれないものなのか。

 あのK国を見ていると、ときどき、こちらまで頭がヘンになる。ここ数日だけでも、こんなことを
言っている。

 「日本は拉致問題を取りあげて、反K国感情を、かきたてている」「六か国協議で、拉致問題
を取りあげ、協議のじゃまをしたのは、日本だ」と。きわめつけは、こんな意見。

「アメリカは、食糧を一〇万トン援助すると言ったが、まだ四万トンしか渡さない。約束を守
れ!」と。

 K国の論法をまともに耳を傾けていると、「我々は、悪いことをしたくないが、させられている
だけだ」「世界は、我々を助ける義務がある」というふうにも、聞こえる。もしこんなことを、ふつ
うの生活の中で言う人がいたら、まちがいなく、私は、こう言う。「甘ったれるのも、いいかげん
にしておけ!」と。

 で、今日(九月一五日)の朝刊によれば、もしK国が核実験をしたら、日本は、段階的な制裁
措置をとるという。しかしこれも、どこか、おかしい。「制裁」というのは、一方の側が優位に立っ
ているときのみに、使われる言葉。そこでたとえば、「制裁」という言葉ではなく、たとえば「縮
小」「遠慮」「停止」という言葉を使ったら、どうか。

 「貿易を縮小する」「人的交流を遠慮する」「協議を停止する」と。「日本だって、困るのだが…
…」という立場をつくる。K国の金XXは、「制裁イコール、即、戦線布告」と息巻いている。

 さて、依存性の問題。

 子どもというより、老人の問題ということになる。子どもにベタベタ甘えるというより、「子どもは
親のめんどうをみるべき」と、当然のように考えている老人は、多い。「産んでやった」「育てて
やった」という意識が、いつしか転じて、そうなる。このタイプの老人は、独特の人生観をもって
いる。

 親意識が強く、何かにつけて親風を吹かす。
 親は絶対という、権威主義的なものの考え方をする。
 孝行論を説き、親に尽くす子どもイコール、できのよい子と評価する。
 子どもそのものを財産のように考え、たとえば息子の嫁の人格を認めない。
 「家」「モノ」「財産」への執着心が強く、世間体、見栄、体裁を気にする。
 上下意識が強く、ものの考え方が出世主義。過去の栄華にしがみつく、など。

 こうしてあげたら、キリがない。

 つまりこうした考え方をもつことにより、「子どもは親のめんどうをみるべき」という考え方を、
自ら正当化する。よくマザコンタイプの男性(夫)が、自分のマザコン性を正当化するために、
親を必要以上に美化することがある。「私の親は、すばらしい親だ。だから私は、親を大切に
するのだ」と。

 同じように、依存性の強い親は、今度は反対に、権威主義をもちだし、自分の依存性をカモ
フラージュしたり、正当化したりする。このことは、あのK国をみれば、わかる。

 K国の高官たちは、ことあるごとに、「民族の誇り」を口にする。そしてささいなことを、針小棒
大に問題にしては、「侮辱(ぶじょく)した」と騒ぐ。つまりそういう形で、自分たちの依存性をカモ
フラージュし、正当化している。本来なら、頭をさげて、「食糧をください」と素直に言うべきなの
だが、K国の人たちには、それができない。

 こうして考えてみると、(依存性)と(権威主義)は、ちょうど、紙にたとえると、表と裏の関係に
あることがわかる。まったく別のように見えるが、しかしその奥では、たがいにしっかりと結びつ
いている。

たとえば宗教に依存する人は多い。しかしそういう人でも、権威のない宗教には、身を寄せな
い。あるいは身を寄せても、権威を大切にする。K国について言えば、金XXが、その最高権威
ということになる。

 では、人は、何に依存したらよいのか。

 あくまでも一つのヒントとして、こんなことがある。

 私はときどき、どうして自分が、こうした原稿を書いているか、わからないときがある。またど
うして読者が読んでくれるか、わからないときがある。私には、地位も肩書きも、権威もない。
が、そういう私を支えてくれるのは、実は私自身である。

 「私は、ほかのだれもまねできない経験をした。それを信じる」と。

 どこかの肩書きのある人と議論するときも、そうだ。彼らは最新の情報はもっている。しかし
私には、それがない。ないかわりに、私はいつも最前線で戦ってきた。その経験がある。それ
を心のどこかで信じながら、議論をする。つまりは、自分に依存する。

 人は、何かに依存しないと、生きていかれないものなのかもしれない。が、どうせ依存するな
ら、(私自身)ということになる。私自身なら、自分を裏切ることもない。依存先としては、もっと
も確実な依存先ということになるが、ちがうだろうか。
(030916)

+++++++++++++++++++++
この問題に関して、以前、つぎのような原稿を
書きました。参考にしていただければ、うれし
いです。
+++++++++++++++++++++

●子の気負い

 「親だから……」と気負うのを、親の気負いという。それはよく知られているが、「子だから…
…」という気負いもある。これを子の気負いという。

 Sさん(長野市在住・女性)も、その「子の気負い」で苦しんでいる。両親と祖母の問題。それ
に伯父、伯母の問題。こうした問題は、クモの巣のようにからんでいて、一筋縄ではいかない。
ときどき私は相談を受けるが、どこからどう手をつけてよいのか……? 

 そのSさん。今は、毎日、悶々と悩んでいる。祖母のボケが進んでいる。そのこともあって母
親が沈んでいる。うつ病かもしれない。父親とうまくいっていない。実家へ帰っても、父親と会話
をするだけで、疲れてしまう。祖母の介護のことで、伯父が口を出して、困る、などなど。

●相互依存性 

 こうした気負いは、相互的なもの。決して、一方的なものではない。親としての気負いの強い
人ほど、一方で、子としての気負いが強い。「よい親であろう」と思う反面、「よい子どもであろ
う」とする。だからどちらを向いても、疲れる。

 こうした気負いの背景にあるのが、依存性。もう少しわかりやすい言葉でいうと、「甘え」。親
に対しては、しっかりと親離れできていない。一方、子どもに対しては、しっかりと子離れできて
いない。結果として、どこかベタベタの人間関係になる。

 このベタベタの人間関係が、祖父母→親→自分→子へと、脈々とつながっている。だからふ
つう、その中にいる人は、それに気づかない。それがその人にとっては、ふつうの人間関係で
あり、またたいていのばあい、それが「あるべき人間関係」と考える。

●Sさんのケース

 Sさんのケースでは、Sさんが、親のグチのはけ口になっている。とくにSさんの母親は、何か
につけて、Sさんにグチをいう。「望まない結婚であった」「したいこともできなかった」「夫(Sさん
の父親)が何もしてくれない」と。

 こうした母親の不平、不満を聞きながら、Sさんは、ますます悶々と悩む。「両親たちは、見た
感じは、一見、仲のよい、理想的な夫婦に見えるのですが……」「友人がうらやましがることも
ありました」と。

 しかしそういうグチを、母親がSさんという子どもにぶつけること自体、おかしい。仮にぶつけ
たとしても、子どもが悩むところまで、子どもを追いこんではいけない。Sさんは、たいへん生真
面目(きまじめ)な人なのだろう。そういう母親のグチを聞きながら、適当にそれを聞き流すとい
うことができない。

●未熟な人間性

 依存型家庭につかっていると、依存性が強い分だけ、代々、子どもは精神的に自立できなく
なる。自立できないまま、それがひとつの「生活習慣」として定着してしまう。

 たとえば日本には「かわいい」という言葉がある。「かわいい子ども」「子どもをかわいがる」と
いうような使い方をする。

 しかし日本語で「かわいい子ども」と言うときは、親にベタベタと甘える子どもを、かわいい子
どもという。自立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、かわいい子どもとは、あまり言わ
ない。

 また「子どもをかわいがる」というのは、子どもに楽をさせること。子どもによい思いをさせるこ
とをいう。

 こういう子ども観を前提に、親は子どもを育てる。そしてその結果として、子どもは自立できな
い、つまりは、人間的に未熟なまま、おとなになっていく。

●親の支配

 依存型家庭では、子どもが親に依存する一方、親は、子どもに依存する。その依存性も、相
互的なもの。自分自身の依存性が強いため、同時に子どもが自分に依存性をもつことに甘く
なる。その相互作用が、たがいの依存性を高める。

 しかし親が、子どもに依存するわけにはいかない。そこで親は、その依存性をカモフラージュ
しようとする。つまり子どもに依存したいという思いを、別の「形」に変える。方法としては、@命
令、A同情、B権威、C脅迫、D服従がある。

O命令……支配意欲が強く、親のほうが優位な立場にいるときは、子どもに命令をしながら、
親は子どもに依存する。「あんたは、この家の跡取りなんだから、しっかり勉強しなさい!」と言
うのが、それ。
P同情……支配意欲が強く、親のほうが劣位な立場にいるときは、子どもに同情させながら、
結果的に、子どもに依存する。「お母さんも、歳をとったからね……」と弱々しい言い方で言うの
が、それ。
Q権威……封建的な親の権威をふりかざし、問答無用に、子どもを屈服させる。そして「親は
絶対」という意識を子どもに植えつけることで、子どもに依存する。「親に向かって、何てこと言
うの!」と、子どもを罵倒(ばとう)するのが、それ。
R脅迫……脅迫するためによく使われるのが、宗教。「親にさからうものは、地獄へ落ちる」
「親不孝者は、不幸になる」などという。「あんたが不幸になるのを、墓場で笑ってやる」と言っ
た母親すら、いた。
S服従……子どもに隷属することで、子どもに依存する。親側が明らかに劣位な立場にたち、
それが長期化すると、親でも、子どもに服従的になる。「老いては子に従えと言いますから…
…」と、ヘラヘラと笑って子どもに従うのが、それ。

●親であるという幻想

 人間の自己意識は、三〇歳くらいまでに完成すると言われている。言いかえると、少し乱暴
な言い方になるが、三〇歳をすぎると、人間としての進歩は、そこで停滞すると考えてよい。そ
うでない人も多いが、たいていの人は、その年齢あたりで、ループ状態に入る。それまでの過
去を、繰りかえすようになる。

 たとえば三〇歳の母親と、五歳の子どもの「差」は、歴然としてあるが、六〇歳の母親と、三
五歳の子どもの「差」は、ほとんどない。しかし親も子どもも、それに気づかない。この段階で、
「親だから……」という幻想にしがみつく。

 つまり親は、「親だから……」という幻想にしがみつき、いつも子どもを「下」に見ようとする。
一方、子どもは子どもで、「親だから……」という幻想にしがみつき、親を必要以上に美化した
り、絶対化しようとする。

 しかし親も、子どもも、三〇歳をすぎたら、その「差」は、ほとんどないとみてよい。中には、努
力によって、それ以後、さらに高い境地に達する親もいる。しかし反対に、かなり早い時期に、
親よりはるかに高い境地に達する子どももいる。

 そういうことはあるが、親意識の強い親、あるいはそういう親に育てられた子どもほど、この
幻想をいだきやすい。この幻想にしばられればしばられるほど、「一人の人間としての親」、
「一人の人間としての子ども」として、相手をみることができなくなる。

●Sさんのケース

Sさんのケースの背景にあるのは、結局は、親離れできないSさん自身といってもよい。Sさん
は、実家の両親の問題に悩みながら、結局は、その実家にしがみついている。そういうSさん
にしたのは、Sさんの両親、さらにはSさんの祖父母ということになる。つまり大きな流れの中
で、Sさんは、Sさんになった。

 なぜ、Sさんは、「両親の問題は、両親の問題」と、割り切ることができないのか? 一方、S
さんの両親は、「私たちの問題は、私たちの問題」と、割り切ることができないのか? Sさん
は、両親の問題を分担することで、結局は両親に依存している。一方、Sさんの両親は、自分
の問題を娘のSさんに話すことで、Sさんに依存している。

 本来なら、Sさんは、両親の問題にまで、首をつっこむべきではない。一方、親は、自分たち
の問題で、娘を悩ませてはいけない。どこかで一線を引かないと、それこそ、人間関係が、ドロ
ドロになってしまう。

●批判

 こうした私の意見に対して、「林の意見は、ドライすぎる」と批判する人がいる。「親子というの
は、そういうものではない」と。「君の意見は、若い人向きだね。老人向きではない」と言ってき
た人(七五歳男性)もいた。

少し話はそれるが、ここまで書いて、こんな問題を思い出した。親は子どものプライバシーの、
どこまで介入してよいかという問題である。ある母親は、「子どものカバンの中まで調べてよい」
と言った。別の母親は、「たとえ自分の子どもでも、子ども部屋には勝手に入ってはいけない」
と言った。どちらが正しいかということについては、また別の機会に考えるとして、私が言ってい
ることは、本当にドライなのか? このことは、反対の立場で考えてみればわかる。

 あなたは、いつかあなたの子どもが、あなたの問題で、今のSさんのように悩んだとする。そ
のときあなたは、それでよいと思うだろうか。それとも、それではいけないと思うだろうか。Sさ
んは、メールで、こう書いてきた。

 「娘(中学一年)には、今の私のように、私の問題では悩んでほしくありません」と。

 私は、それが親としての、当然の気持ちではないかと思う。またそういう気持ちを、ドライと
は、決して言わない。

●カルト抜き

 こうした生きザマの問題は、思想の根幹部分にまで、深く根をおろしている。ここでいう依存
性にしても、その人自身の生きザマと、密接にからんでいる。だからそれを改めるのは容易で
はない。それから抜け出るのは、さらに容易ではない。

 しかも親子であるにせよ、そういう人間関係が、生活のパターンとして、定着している。生きザ
マを変えるということは、そういう生活のあらゆる部分に影響がおよんでくる。

 これは一例だが、Y氏(五〇歳男性)は、子どものころ、母親に溺愛された。それは異常な溺
愛だったという。そこでY氏は、典型的なマザコンになってしまったが、それに気づき、自分の
中のマザコン性を自分の体質から消すのに、一〇年以上もかかったという。

 親子関係というのは、そういうもの。それを改めるにしても、口で言うほど、簡単なことではな
い。それはいわばカルト教の信者から、カルトを抜くような苦痛と努力、それに忍耐が必要であ
る。時間もかかる。

●因縁を断つ

 そんなわけで、私たちが親としてせいぜいできるここといえば、そうした「カルト」を、子どもの
代には伝えないということ程度でしかない。少し古臭い言い方になるが、昔の人は、それを「因
縁を断つ」と言った。

 Sさんについていえば、仮にSさんがそうであっても、同じ苦痛や悩みを、子どもに伝えてはい
けない。つまりSさん自身は、親離れできない親、子離れできない子どもであったとしても、子ど
もは、親離れさせ、ついでその子どもが親になったときには、子離れできる子どもにしなければ
ならない。

 しかしこと、Sさんの子どもについて言えば、ここに書いたような問題があることに気づくだけ
でも、問題のほとんどは解決したとみてよい。このあと、多少、時間はかかるが、それで問題は
解決する。

 私はSさんに、こうメールを書いた。

 「勇気を出して、自分の心の中をのぞいてください。つらいかもしれませんが、これはつぎの
代で、あなたの子どもに同じような悩みや苦しみを与えないためです」と。




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●人間関係を築けない若者たち

●新潟県M市で、中学三年の少女を、若い男が誘拐するという事件があった。これについて、
静岡県K市の母親から、「どう考えたらいいですか」という、質問をもらった。それを考える前
に、事件の概要について引用しておく。

+++++++++++++++++++++

新潟・少女連れ去り男の素顔に迫る 

 新潟県 M市で中学三年生の女子生徒が連れ去られた事件で、逮捕された26歳の男は、紐
で縛ったり、ナイフで脅すなどして連れ回していた。この26歳の男は、どのような人物だったの
か、その素顔に迫ってみた。

 未成年者略取の疑いで逮捕されたKJ容疑者(26歳)は、新潟県 佐渡にある中学校を卒
業。しかし、学校にはほとんど行っていなかったという。
 
Q.近藤容疑者について
 「内向的で消極的で、いじめられていた。成績は全く良くなくて、家にひきこもっていて、たまに
学校へ行く程度」(中学時代の同級生)
(TBS・news i、より)

+++++++++++++++++++++

●原因と考え方

新生児期から乳幼児期にかけて、とくに母子の関係で、基本的信頼関係を結ぶことに失敗し
た子どもは、そののち、他人との人間関係をうまく結べなくなる。そのため、(密着)と(離反)を
繰りかえすようになる。それをうまく説明したのが、ショーペンハウエルである。

●ショーペンハウエルの「二匹のヤマアラシ」

 寒い夜だった。二匹のヤマアラシは、たがいに寄り添って、体を温めようとした。しかしくっつ
きすぎると、たがいのハリで相手の体を傷つけてしまう。しかし離れすぎると、体が温まらない。
そこで二匹のヤマアラシは、一晩中、つかず離れずを繰りかえしながら、ほどよいところで、体
を温めあった。

 これがショーペンハウエルの「二匹のヤマアラシ」の話である。しかしこれと同じようなことは、
夫婦の間でも、そして親子の間でもある。

 男と女は、結婚する。電撃に打たれるような衝撃を受け、相思相愛で結婚したというケースは
別として、中には、孤独からのがれるために結婚する人も珍しくない。もともとは他人への依存
性が強い人で、心のスキ間を埋めるために結婚する。しかしこのタイプの人は、一方で、人づ
きあいが苦手。結婚はしたものの、結婚生活そのものが、わずらわしくてしかたない。だから、
たがいにつかず離れずを繰りかえしながら、ほどよいところで関係を保つ。

 親子でも、似たようなケースがある。子どもがそばにいないと不安でならない。「ママ、ママ」と
甘えてくれる間は、うれしい。しかしそれが一定の限度を超え、子どもがずっとそばにいると、う
るさくてしかたない。「子どもを愛している」という自覚はどこかにはあるが、しかし一方で、「で
きるだけ早く、子育てから解放されたい」と願っている。そのため親子関係も、どこかつかず離
れずの関係になる。

 奈良県のHYさん(母親)からの相談に、こんなのがあった。何でも夫がそばにいないと、さみ
しく思うのだが、しかしたまの日曜日など、夫が一日中、家の中でゴロゴロしているのを見る
と、わずらわしくてならないというのだ。いわく「ときどき私は、夫なんかいてもいなくても、どちら
でもよいと思うことがあります。しかしそのくせ夫が、そばにいないとさみしくて、気がへんになっ
てしまうのです」と。

 結論を先に言えば、このタイプの人は、乳幼児期の家庭環境に問題があったとみる。ふつう
子ども(人)というのは、絶対的に安心できる、心豊かな家庭環境の中で、心をはぐくむことが
できる。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。そういう環境があってはじめ
て、子ども(人)は心の開き方を学び、そこから、たがいの信頼関係の結び方を学ぶ。が、何ら
かの理由で、その「絶対的に安心できる、心豊かな家庭環境」が阻害されると、子ども(人)は
心を開けなくなり、ついで人との信頼関係を、じょうずに結べなくなる。

ここでいうHYさんは、まさにそのタイプの女性と考えてよい。HYさんは、夫や子どもにすら、心
を開くことができない。つまり信頼関係を結ぶことができない。そしてそれが夫婦関係や、親子
関係にまで影響を与えている。

 一般的に、心を開くことができない子ども(人)は、人と接するのが苦手。表面的には、快活
にふるまい、社交的になることはあるが、その分、精神疲労を起こしやすい。数時間、町内の
人といっしょに活動しただけで、ヘトヘトに疲れてしまったりする。しかしその一方で、心を開くこ
とができないため、孤独。さみしがり屋。ここにも書いたように、もともと他人への依存性も強
い。近くにだれかがいないと、自分の心を保つことさえできない。つまり、ここでショーペンハウ
エルの「二匹のヤマアラシ」の話にもどる。このタイプの人は、孤独(寒さ)から逃れるために人
(温もり)を求める。しかし人に近づきすぎると、自分がキズつく。それを恐れるあまり、今度は
そばには近寄れない。つまりつかず離れずの関係になる。

●「密着」と「離反」

このタイプの子ども(人)の最大の特徴は、そのため人づきあいが、どこかぎこちなくなること。
ほどほどのところで、ほどよい人間関係を築くことができない。あるとき急に接近してきたかと
思うと、今度は、同じように急に離れていく。これを心理学の世界では、「密着」「離反」という。

幼稚園の世界にも、『急速になれなれしてくる親には、要警戒』という言いまわしがある。たとえ
ばある日突然、幼稚園へやってきて、「ここの幼稚園が気に入りました。すばらしい幼稚園で
す。来年からうちの息子をここへ入れます。下にももう一人、子どもがいますが、その子どもも
ここに入れます」などとワーワーと騒ぐ。しかしそういう親ほど、離れていくのも早い。

 つまりこのタイプの子ども(人)は、相手を自分の思わくだけで、引きずりまわしてしまう。引き
ずりまわすほうは、それでかまわないが、引きずりまわされるほうは、たまらない。私も若いと
き、こんな経験をしたことがある。

 ある会社の社内報の編集を手伝っていた。社長じきじきの依頼で、それなりに張り切って仕
事をしていた。が、その社長は、大の電話魔。真夜中であろうが、早朝であろうが、電話をかけ
てきて、あれこれ私に指示してきた。それだけではない。そのつど怒涛(どとう)のように、「君
はすばらしい」「今度香港へ出張してほしい」「私がもっているアパートを君に使ってもらいたい」
「君の作る会報は一級だ。ついては予算を倍増したい」などと言う。

 最初のうちはそれを真に受けて、ワイフと二人で喜びあったが、そのうちどうも様子がおかし
いのに気がついた。私がそれらの話を煮つめるため、社長の自宅へ行くと、今度は、ああでも
ない、こうでもないと私の仕事にケチをつけて、「だから約束は守れない」と言い出した。まさに
私が遠ざかれば、近づいてきて、私が近づいていけば、遠ざかる……という感じだった。

 その社長は、いわゆる心を許さないタイプの社長だった。俗な言い方をすれば、コロコロと気
分が変わる。私の立場からすると、つかみどころがない。その社長は、まさに密着と離反を繰
りかえしていたことになる。
 
●さらけ出す
 
 信頼関係を結ぶためには、自分をさらけ出す。さらけ出しても、平気である。そういう自分へ
の確信をもつ。本来ならこうした信頼関係の原型は、乳幼児期に形成される。それが先に書い
た、「絶対的に安心できる、心豊かな家庭環境」ということになる。子ども(人)は、そういう環境
の中で、とくに親子関係の中で、自分をさらけ出すことを学ぶ。またさらけだしても、安心できる
ことを学ぶ。

 が、それが阻害されることがある。原因はいろいろあるが、その原因はともかくも、子ども
(人)側からみて、自分をさらけ出せなくなってしまう。さらけ出すことに自信がなくなるケースも
あるが、さらけ出すことに恐怖感を覚えることもある。母親に向かって「ババア」と言ってみた。
とたん、母親に殴られたとかなど。そういう無数の経験が積み重なって、自分をさらけ出せなく
なることもある。

 こういうことが重なると、子ども(人)は、仮面をかぶるようになる。自分を隠すようになる。た
いていは「いい子」ぶりながら、無理をするようになる。よくある例は、幼児期に、園の先生たち
に「いい子だ」「いい子だ」とほめられるようなケース。このタイプの子ども(人)は、いい子ぶる
ことで、自分の身の保全をはかる。相手(親や教師)に取り入るのがうまくなり、またその分、相
手の期待にこたえようとする。この無理が無数に重なって、やがて子どもの心をゆがめる。

 そういう意味では、幼児期から少年少女期にかけて、「いい子」で通った子どもほど、心配と
いうことになる。勉強もよくできる。言われたことは、ソツなくやりこなす。園でも学校でも、いつ
もリーダー格で、問題を起こすということもない。もちろん本来的に「いい子」というケースもない
わけではないが、たいていは「無理をしている」と考えたほうがよい。

 しかし問題は子ども(人)というより、あなた自身かもしれない。あなた自身は、夫(あるいは
妻)や子どもの前で、自分をさらけ出すことができるかということ。わかりやすい例では、あなた
は夫(あるいは妻)の前でも、平気でプリプリっと、おならを出すことができるか。あるいは悲し
いときやさみしいとき、自分の心を、すなおにそのまま表現できるか。それができればよし。し
かしそれができないようであれば、当然のことながら、子どももそれができなくなる。

 人というのは、自分がしていることには、寛容になる。していないことには、寛容になれない。
常、日ごろから、自分をさらけ出すことになれている親は、子どもがそれをしたとき、それを自
然な形で受け止めることができる。しかし自分をさらけ出すことができない親は、子どもがそれ
をするのを許さないばかりか、子どもが自分をさらけ出したりすると、それを悪いことだと決め
てかかってしまう。おさえてしまう。そしてその結果として、親が、子どもに仮面をかぶるようにし
むけてしまう。

●チェックテスト

 そこであなた自身をチェックテストしてみよう。

(6)あなたは夫(あるいは妻)の前で、したいことをし、言いたいことが言えるか。
(7)あなたは他人の中でも、それほど気をつかわず、自分をさらけ出すことができるか。
(8)あなたはあなたの親に対して、したいことをし、言いたいことをズケズケと言えるか。
(9)あなたは自分の子どもに対して、したいことをし、言いたいことを言えるか。
(10)あなたの子どもはあなたに対して、したいことをし、言いたいことを言っているか。

 このテストで、四〜五個、「YES」と答えたあなたは、いつもみなに、心を開いている人という
ことになる。信頼関係の結び方もうまく、人間関係もスムーズ。そのため友人も多いはず。

 しかしそうでなければ、まず「心を開く」ことから、始める。あなたの心を取り巻いている無数
のクサリを、一本ずつ解き放していく。根気のいる作業だが、しかし不可能ではない。もしあな
たがこのタイプの子ども(人)なら、夫(もしくは妻)の協力を得て、少しずつ心を開く訓練をす
る。

方法としては、夫(あるいは妻)の前で、したいことをする。言いたいことを言う。自分をさらけ出
してみる。というのも、この問題だけは、決してあなただけの問題ではすまない。そういう心の
開けないあなたといっしょに住むことによって、さみしい思いをしているのは、実はあなたの夫
(妻)であることを忘れてはいけない。さらにあなたという親が、そういう状態であるのに、どうし
て子どもに、「心を開け」と言えるだろうか。

 何でもないことのようだが、心を開くことができる人は、それをいとも簡単に、しかも自然な形
でできる。そうでない人には、そうでない。この問題は、その子ども(人)の乳幼児期までさかの
ぼるほど、もともと「根」の深い問題である。

 夫婦にせよ、親子にせよ、その基本は、ゆるぎない信頼関係で決まる。その信頼関係を結ぶ
ためにも、まずあなたは、あなたの心を開き、その心を空に解き放ってみる。勇気を出して、自
分をさらけ出してみる。自分を飾ることはない。自分をつくることはない。気負う必要もない。あ
なたはあなたのままでよい。そういう自分を、すなおにさらけ出してみる。

 そこはすがすがしいほど、広い世界。青い空がどこまでも、どこまでもつづく、広い世界。あな
たも心を取り巻いているクサリを解き放ち、その広い世界を、思う存分、羽ばたいてみよう! 
もし今、あなたが心の開けない人ならば……。

●攻撃型の子ども

他人との人間関係がうまく結べない子どもは、独特の症状を示すことが知られている。

大きく、@攻撃型、A服従型、B同情型、C依存型に分けられる。

攻撃型というのは、暴力や威圧をつかって、相手を自分の支配下におくというタイプ。ツッパリ
児が、その典型的な例ということになるが、この攻撃型にも、いろいろある。ガリガリの猛勉強
をする子どもも、この攻撃型の一つということになる。他人に対して攻撃的になるか、自分に対
して攻撃的になるかの違いと考えてよい。

 服従型というのは、服従する相手を決めて、その相手に徹底的に服従しようとする。親分、
子分の関係でいうなら、子分の立場ということになる。思考能力や判断力を、すべて相手に渡
す。集団非行を繰りかえす子どもの中に、このタイプの子どもが多いのは、そのためと考えて
よい。

 同情型というのは、弱い自分をわざと演じたり、人前でわざと病弱であることや、けがを強調
することで、自分の立場をつくる。相手が「どうしたの?」「だいじょうぶ?」と声をかけてくれる
のを、待っている。このタイプの子どもは、たとえば先生の前でも仮面をかぶり、よい子を演ず
ることが多い。

 依存型というのは、親や先生に、ベタベタ依存することで、自分の立場をつくる。俗にいう甘
えん坊ということになる。全体に人格の「核」形成が遅れ、見た感じ、その年齢に比して、子ども
っぽくなる。みなに、「かわいい子ね」と、あれこれ手をかけてもらうことを、無意識であるにせ
よ、求める。

 これら四つのタイプの子どもは、こうした環境を自分の周囲につくることによって、自分にとっ
て、居心地のよい世界をつくろうとする。だからたとえばツッパリ児に向って、「そんなことをす
ると、あなたはみんなに嫌われるよ」と説教しても、意味がない。このタイプの子どもは、わかり
やすく言えば、みなに恐れられることによって、自分の立場を作っている。

●冒頭の事件

 さて、未成年者略取の疑いで逮捕されたKJ容疑者(26歳)という男は、ここでいう@攻撃型
ということになる。

 KJ容疑者は、他人とうまく、人間関係が結べない。そのため攻撃的に、中学生を略取した。
そしてその原因は、ここにも書いたように、彼自身の幼児期にある。はからずもTBSのnew・i
は、こう報道している。

「Q.近藤容疑者について、内向的で消極的で、いじめられていた。成績は全く良くなくて、家に
ひきこもっていて、たまに学校へ行く程度だった」(中学時代の同級生)と。

 この一文が、すべてを語っている。
(030916)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

(付記)

●心を開かない子ども

 ほかの子どもたちが、ワイワイ騒いでいるようなとき、その騒ぎの中に溶け込めない子どもが
いる。どこかツンとしている。どこか仮面をかぶっている。どこかカベを作っている。

 心を開くことができない子どもとみる。

 このタイプの子どもは、集団の中に入ると、いつも心は、ある種の緊張状態になる。いい子ぶ
ったり、無理をする。一応、相手に合わせて騒いだりするが、しかしその相手に心を許している
わけではない。許しているフリをするだけ。相手に合わせて、自分をつくったりする。

 そのため、集団の中では、精神疲労を起こしやすい。実際には、集団活動や、集団生活が
苦手。それを、避けようとする。親は、「どうして、うちの子は、集団生活が苦手なのでしょう」と
悩んだりするが、そんな簡単な問題ではない。
 
 よくあるのは、無理に、このタイプの子どもを、集団の中に押し込めるケース。「集団へ押し込
めば、なれるだろう」と、親は考えて、そうする。しかしこうしたやり方は、効果がないばかりか、
かえって症状をこじらせてしまう。

 「簡単な問題ではない」というのは、その子どもの、乳幼児期の母子関係に、原因があること
をいう。この時期に、母子の間で、基本的信頼関係を築くことに失敗した子どもは、ここでいう、
いわゆる「心を開けない」子どもになる。……なりやすい。

H君(小四男児)の例で、考えてみる。

 H君は、みながワイワイと騒いでいるようなときでも、いつも、その集団から、取り残されたよ
うな状態になる。集団のほうから、「H君、おいでよ!」と声をかけられても、はにかんだり、照
れたりするだけ。どこかぎこちない様子で、その場を、やりすごそうとする。
 
 それでいてH君は、常に周囲に対して、神経を張りめぐらせている。自分がどういうふうに思
われているか。またどういうふうにすれば、自分がよい人間に思われるか。さらに優等生とし
て、自分は、どのように振る舞うべきか、など。そんなことをいつも、考えているといった様子。

 だから、先生の受けは、よい。従順で、すなお。先生が指示を与えたりすると、それを満点に
近い形で、やりこなす。先生には、「よく気がつく子」と評価されている。

 しかし一度、このような症状を、四歳前後までに示すようになると、以後、それがなおるという
ことは、まず、ない。先にも書いたように、「うちの子は、集団になれていないだけ」と考えて、親
は、無理に、スポーツクラブに入れたり、サマーキャンプに参加させたりする。が、その効果
は、ほとんど、ない。あるいは集団に対して、さらに、恐怖感をもったり、集団を嫌悪したりする
ようになる。

 さらに無理をすれば、情緒そのものが、ゆがむこともある。大きなショックが原因で、自閉傾
向や、かん黙症に進むことも珍しくない。

 では、どうするか?

 結論を言えば、「あきらめる」。「うちの子は、そういう子どもだ」と、あきらめて、対処する。何
度も書くが、無理をすればするほど、逆効果。情緒障害から、精神障害に進むこともある。

 子育てには、失敗はつきもの。親は、そのつど、よかれと思って、何かをする。しかし失敗す
るときは、失敗する。親の気がつかないところで、また気がつかないまま、失敗することが多
い。

 だから失敗したからといって、自分を責めてはいけない。恥じることもない。大切なことは、そ
の失敗を認めること。

 しかしほとんどの親は、子どもに何らかの症状が現れると、その原因をさぐることもない。知
ろうともしない。そして一方的に、子どもをなおそうとする。こういうケースでも、「どうしてうちの
子は……?」と考えることはあっても、「自分の子育てに原因があるのでは……?」と疑う親
は、まずいない。つまりこうして、子どもの症状を、ますますこじらせてしまう。

 「失敗」と気づいたら、その失敗は、すなおに認める。「そんなはずはない……」「まだ、何とか
なる……」と考えて、がんばればがんばるほど、子どもの症状は悪化する。

【追記】

 こうして子どもの問題を考えているとき、実は、それは私たち自身の問題であることに気づく
ことがある。

 こうした子どもの問題は、当然のことながら、その子どもがおとなになってもつづく。いいかえ
ると、今、幼児期や少年少女期の問題を、そのまま引きずっているおとなも、多いということに
なる。

 他人と接すると、気ばかり使って、疲れやすい。楽しめない。ある母親(三二歳)はこう言っ
た。「同窓会などに出ると、みなは、ワイワイと楽しそうに騒ぐ。しかし私は、どうして人は、ああ
まで楽しめるのかと、不思議に思うときさえある」と。

 その女性も、どこか不幸な家庭に育っていた。権威主義の父親。その父親に、隷属的に仕え
る母親。「私は、子どものころから、優等生でいることだけを求められました」と。

 心の問題というのは、そういうもの。で、あなた自身はどうか? 一度、じっくりと、あなたの心
の中をのぞいてみるとよい。
(031024)



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●引きこもり

●イギリスのBBCが、日本の子どもたちの「引きこもり」を特集して、報道した。その資料が届
いたので、翻訳してみる。イギリス人のM・A氏が、イギリスから、インターネットで送ってくれ
た。

Japan: The Missing Million
(日本、失われた100万人)

By Phil Rees
(日本特派員)

Teenage boys in Japan's cities are turning into modern hermits - never leaving their rooms. 
Pressure from schools and an inability to talk to their families are suggested causes. Phil 
Rees visits the country to see what the "hikikomori" condition is all about. 

日本の都市部の10代の子どもたちが、今、世捨て人になりつつある。部屋から出ようともしな
い。学校からの圧力と、家族と会話ができないことが、その原因と考えられる。フィル・リ−ズ
が、「引きこもり」がどのようなものか、現地で取材してみた。


I knew him only as the boy in the kitchen. 
私は息子を、台所で見かけるだけです。
His mother, Yoshiko, wouldn't tell me his name, fearful that neighbours in this Tokyo suburb 
might discover her secret. 
彼の母親の、ヨシコは、彼の名前すら呼ぼうとしない。近所の人たちに自分の秘密を知られる
のを、恐れているためである。
Her son is 17 years old. Three years ago he was unhappy in school and began to play 
truant. 
彼女の17歳の息子は、3年前、学校でいやなことがあり、学校を怠けるようになった。
Then one day, he walked into the family's kitchen, shut the door and refused to leave. 
が、ある日、突然、彼は家の台所へやってきて、ドアを閉め、そこから出ることを拒んだ。

Families adjust 
家族の適応
Since then, he hasn't left the room or allowed anyone in. The family have since built a new 
kitchen - at first they had to cook on a makeshift stove or eat take away food. 
それ以来、彼は台所から出ようとせず、だれも、その中に入れなくなった。
それで家族は新しい台所を作った。
で、最初のころは、ほかの家族たちは、移動用コンロを使い、テイクアウェイの料理を買ってき
て食べた。
His mother takes meals to his door three times a day. 
子どもの母親が、一日に三度、ドアのところまで、食事を運んだ。
The toilet is adjacent to the kitchen, but he only baths once every six months. 
トイレは、台所の中につくった。しかし彼は6か月に一度しか、風呂に入らなかった。
Yoshiko showed me pictures of her son before his retreat into isolation; he was a plump, 
cheerful young teenager, with no symptoms of mental illness. 
ヨシコは、息子のそれ以前の写真を見せてくれた。その写真では、彼は明るく、ふっくらとした
少年だった。そうなる兆候は、まったく見られなかった。

Bullying tipped the balance 
いじめが、心のバランスを崩した
Then a classmate taunted him with anonymous hate letters and scrawled abusive graffiti 
about him in the schoolyard. 
そのとき彼のクラスメートが、匿名の手紙をわたし、彼をいじめた。そして学校の校庭で、彼を
誹謗する落書きを書いた。
The boy in the kitchen suffers from a social disorder known in Japan as hikikomori, which 
means to withdraw from society. 
その台所の少年は、「引きこもり」として知られる、社会(適応)障害を起こすようになった。つま
り、社会からの引きこもりを意味する。
One psychologist has described the condition as an "epidemic", which now claims more than 
a million sufferers in their late teens and twenties. 
一人の心理学者は、この状態を「流行」という言葉を使って説明している。そしてその流行によ
って、今、10代後半から20代にわたって、100万人の子どもたちが苦しんでいるという。
The trigger is usually an event at school, such as bullying, an exam failure or a broken 
romance. 
その引き金は、学校であったり、いじめであったり、試験の失敗や失恋であったりする。

Unique condition 
特殊な状態
Dr Henry Grubb, a psychologist from the University of Maryland in the United States, is 
preparing the first academic study to be published outside Japan. 
合衆国メリーランド大学の心理学者、ヘンリー・グラブ博士は、日本の外で、最初の学術的研
究を準備している。
He says that young people the world over fear school or suffer agoraphobia, but hikikomori 
is a specific condition that doesn't exist elsewhere. 
彼はつぎのように言っている。若い人たちは、学校を恐れたり、「広場恐怖症」になりがちなも
のだが、日本の「引きこもり」は、ほかの国には、ないものである。
"It's really hard to get a handle on this" he told me, "there's nothing like this in the West." 
「このタイプの子どもへの対処は、たいへんむずかしい。西洋社会には、こうした問題はない」
と彼は、述べている。
Dr Grubb is also surprised by the passive, softly approach followed by parents and 
counselors in Japan. 
グラブ博士は、また日本の親や、カウンセラーの、受動的かつソフトな対応ぶりに驚いている。
"If my child was inside that door and I didn't see him, I'd knock the door down and walk in. 
Simple. But in Japan, everybody says give it time, it's a phase or he'll grow out of it." 
「もし私の子どもが、部屋の中に閉じこもり、もし彼を見なかったとしたら、私はドアをノックし、
中に入るだろう。簡単なことだ。しかし日本では、時間をかけろ。段階がある。やがて子どもは
出てくるだろうと言う」と。
If children refuse to attend school, social workers or the courts rarely get involved. 
子どもが不登校を起こしても、ソーシアルワーカーや、裁判所が、介入することは、めったにな
い。
Most consider hikikomori a problem within the family, rather than a psychological illness. 
日本では、ほとんどの人は、引きこもりは、心理学的な病気というよりは、家族内部の問題と
考えるようだ。
Historical origins 
歴史的な背景
Japan's leading hikikomori psychiatrist, Dr Tamaki Saito, believes the cause of the problem 
lies within Japanese history and society. 
日本の引きこもりの心理学者である、サイトー・タマキ博士は、その原因は、日本の歴史と社
会にあると言う。
Traditional poetry and music often celebrate the nobility of solitude. 
伝統的な詩や音楽は、孤独の尊さをしばしば、めでる。
And until the mid-nineteenth century, Japan had cut itself off from the outside world for 
200 years. 
そして19世紀中ごろまでは、日本は、200年近くも、外の世界から遮断されていた。
More recently, Dr Saito points to the relationship between mothers and their sons. 
ごく最近、サイトー博士は、母と子どもの関係を指摘している。
Most hikikomori sufferers are male, often the eldest son. "In Japan, mothers and sons often 
have a symbiotic, co-dependent relationship. 
ほとんどの引きこもり児は、男の子である。とくに長男である。日本では、母と息子は、象徴的
な、つまりは相互依存の関係にある。
Mothers will care for their sons until they become 30 or 40 years old." 
母親は、息子が30、40歳になるまで、息子のめんどうをみる。
After a period of time - usually a matter of years - some re-enter society. 
そのあとは、それは年数の問題だが、その中のある子どもは、社会復帰をする。

The mystery remains 
謎は残る
Increasingly, clinics are opening, offering a half-way house for recovering sufferers. 
苦しんでいる人を治療するために、「半分ハウス」を提供するクリニックが、このところ、ふえて
いる。
Another sufferer, Tadashi, spent four years without leaving his home. 
タダシ君というもう一人の引きこもり児は。4年間、家から出なかった。
Two years ago, he sought help and now has a part time job making doughnuts. 
2年前、彼は助けを求め、今は、ドーナツをつくるパートタイムの仕事をしている。
Tadashi is slowly re-entering society. 
タダシ君は、少しずつ、社会復帰をしつつある。
He still fears meeting strangers and is petrified that neighbours will find out that he once 
suffered from the disorder. 
彼はまだ人に会うのを恐れている。そして彼は今、彼がその障害児であったことを、近所に知
られるのではないかと、恐れおののいている。
But what bothers him most is not understanding why he lost four years of his life. 
が、もっとも彼を当惑させているのは、なぜ彼が4年間を失ったかを理解できないところにあ
る。
"I want to know the reasons," he told me. "You could say it's related to Japanese 
traditions. 
「ぼくは、理由を知りたい。あなたはそれが日本の伝統に関係していると言うことができるかも
しれない」と、タダシ君は言う。
"I just don't know. I suppose people are still trying to find out what hikikomori is all about." 
「私は、ただわからないだけ。いったい引きこもりが何であるか、人々が、それを知ろうとしてい
るところだと思う」と。
________________________________________

【後記】
 
●引きこもりが、日本独特の現象であるとしても、日本の文化と関係があるというのは、どう
か? S・T博士は、「日本人は、孤独をめでる国民だから」と。ホント?

●引きこもる子どもで、長男が圧倒的に多いというのは、事実である。むしろ疑うべきは、乳幼
児期の母子の間で形成される、基本的信頼関係ではないのか。

●このレポートの中で、引きこもり児をもった親も、また引きこもり児自身も、世間体を気にして
いるのがわかる。日本の文化で問題点があるとするなら、むしろこちらのほうではないのか。こ
うした障害児をもつことを、日本人は「恥」ととらえる。おかしな社会風潮である。

●またグラブ博士は、「ドアをノックして、中に入る」と言うが、これはまったくの認識不足。そん
な問題ではないことは、一人でも引きこもり児を経験した研究者なら、すぐわかる。

●引きこもりは、対人障害の一つとして考えるべきである。その原因は、乳幼児期の母子関係
の不全にある。そしてそれを助長するものとして、息の抜けない家庭環境、家屋構造、ゆがん
だ受験社会、それから生まれる人間関係がある。さらにこうした心の病気に対する、社会の認
識の甘さもある。こうした問題が複合して、子どもの引きこもりが起こる。

(030917)

【子どもが引きこもったら……】

 あれこれするのは、かえって逆効果。引きこもりから立ちなおった子ども(青年)は、みな、異
口同音に、こう言う。「家族が無視してくれたときが、一番ありがたかった」と。

 「暖かい無視」という言葉がある。子どもの心の病気を暖かく包みながら、無視するのが一番
よい。

 なお、このBBCのレポートでは、親側の対処のまずさについては、一言も触れられていな
い。恐らく子どもが引きこもる過程において、はげしい親子騒動があったものと推察される。そ
の騒動が、症状を、こじらせる。

 親は、こうした自分自身の失敗を隠す傾向がある。あるいはその認識すらない。しかしこうし
た子どもの心の病気では、当初の親の対処の失敗が、症状を重くする。たとえば学校恐怖症
(不登校)にしても、第二期のパニック期で、親が無理をすると、症状は一挙に悪化する。

 引きこもりにしても、必ず、なおる。そのとき大切なのは、親がまず子どもを信ずること。親が
不安になればなるほど、子どもは、その不安を敏感に察知して、立ちなおる機会さえ、見失っ
てしまう。

 またこうした心の病気は、恥ずかしいことでも何でもない。世間体が大切か、子どもが大切か
と聞かれれば、子どもに決まっている。世間体など、クソ食らえ! 子どもや子どもの病気を隠
す必要はまったく、ない。こうしたケースでは、親自身が、まずおとなになること。



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●子どものやさしさ

【今週の幼児教室から】

 今週のテーマは、手作業。わかりやすく言えば、脳の中でも、運動野に属する部分の学習。
(少し大げさかな?)

 たとえば(かかし)を、何十個も、描かせてみる。(大きさは、数センチ四方のワクの中に描か
れたかかし。)

 そのとき学習能力の高い子どもは、数個描いただけで、描き順を定型化し、能率よく描きつ
づける。そうでない子どもは、いつまでもその描き順が乱れる。

 また全体をながめて、つぎのように判断する。

 筆圧や形、大きさが、ある一定のリズムで乱れるのは、むしろ正常なことと判断される。しか
しそれが不規則に乱れるようであれば、それだけ気分的なムラのはげしい子どもとみる。

 ……などなど。こうした判断については、その場で、参観している親に説明した。

 そのあと、みんなで、アイロンビーズで遊んだ。「お母さんにすてきなプレゼントを作ってあげ
ようね」と。自分以外の人を喜ばすことを教える。言うまでもなく、やさしい人というのは、それが
自然な形でできる人のことをいう。

 アイロンがけは、もちろん私がした。で、子どもたちは基盤の上に並べたアイロンビーズをも
ってきたが、一人、私の不注意で、こわしてしまった子どもがいる。本当は怒って泣き叫びたか
ったのだろうが、がまんした。気持ちは、よくわかった。私は何度もあやまり、いっしょに、並べ
なおしてやった。
(030918)

+++++++++++++++++++++

やさしい人について、以前、こんな原稿を
書いたので、転載します。
(中日新聞発表済み)

+++++++++++++++++++++

●指示は具体的に

 具体性のない指示には、意味がない。たとえば「友だちと仲よくするのですよ」「先生の話をよ
く聞くのですよ」と言うのは、それを言う側の、気休め程度の意味しかない。「交通事故に気を
つけるのですよ」と言うのも、そうだ。そういうときは、こう言う。

友だちと仲よくしてほしかったら、「この○○を、A君にもっていってあげてね。きっとA君は喜ぶ
わ」と。先生の話をよく聞いてほしかったら、「今日、学校から帰ってきたら、先生がどんな話を
したか、あとで話してね」と言うなど。

交通事故については、一度、事故の様子を演技してみせるとよい。(自動車が走ってくる)→
(子どもが飛び出す)→(自動車が子どもをはねる)→(子どもがもがき苦しむ)と。迫真の演技
であればあるほど、よい。気の弱い子どもだと泣き出してしまうかもしれないが、子どもの命を
守るためだと思い、決して手を抜かないこと。茶化さないこと。こんな子どもがいた。

 その子どもは、母親が何度注意しても、近くの小川で遊んでいた。そこである日母親が、トイ
レの排水がどこをどう通って、その小川にどう流れていくかを、歩きながら順に追って見せた。
以後、その子どもは、その小川で遊ばなくなった。要するに子どもに与える指示には、具体性
をもたせろということ。この方法は、次のようにも応用できる。

 たとえば自尊心。「自分を大切にしなさい」と言っても、やはり意味がない。そういうときは、
「名前を大切にしようね」と教える。さらに具体的には、新聞でも雑誌でも、子どもの名前の出
ているものは、最大限尊重する。切りぬいて、高いところに張りつけたり、アルバムにしまった
りする。皆の前で、ほめるのもよい。そしてそのつど、「あなたの名前はいい名前だ」「すばらし
い名前だ」と言う。子どもは自分の名前を大切にすることによって、自分自身を大切にすること
を学ぶ。それが自尊心につながる。

 たとえばやさしさ。「人に親切にしようね」と言っても、やはり意味がない。そういうときは、そ
のつど、「こうするとパパが喜ぶよね」「これを分けてあげると、○○(妹)が喜ぶわね」と、相手
を喜ばすことを教える。また結局はそれが自分にとっても、楽しいことであることを教える。やさ
しい人というのは、それが自然な形でできる人のことをいう。

 たとえば命の尊さ。「命を大切にしようね」と言っても、やはり意味がない。子どもに命の尊さ
を教えようとするなら、どんな生きものであれ、その「死」をていねいに弔うこと。子ども自身が、
さみしさや悲しみを味わうようにしむける。

たとえばあなたのペットが死んだとする。そのときあなたがその死骸を、紙袋か何かに包んで、
ポイと捨てるようなことをすると、あなたの子どもは「命」というのは、そういうものだと思うように
なる。そして命、さらには生きていることそのものを、粗末にするようになる。どんな宗教でも、
死をていねいに弔う。それは死を弔いながら、その反射的効果として、生きていることを再確
認するためではないか。

そういうことも考えながら、死はどこまでも厳粛に。なお死への恐怖心(地獄論やバチ論など)
をもたせて、命の尊さを教える人もいるが、これは教育の世界では邪道。幼児や年少の子ども
には、決してしてはならない。

+++++++++++++++++++++

もう一つ、以前、書いた原稿を
再掲載します。

+++++++++++++++++++++

●利己と利他

 自分への利益誘導を、「利己」という。他人への利益誘導を、「利他」という。一見、正反対に
見える人間の反応だが、方向性が、違うだけ。「根」は、同じ。利益誘導が自分に向かえば、利
己。他人に向かえば、利他。ここまでは常識だが、しかし、利己は利己のままだが、利他は、
結局は、利己にかえってくる。

 子どもは、成長過程において、乳児期の段階では、利己的な行動パターンが中心。自分へ
の利益を求めて、泣いたり、ぐずったりする。しかしやがて幼児期に入ると、他人を喜ばすこと
を覚え、そしてそれが結局は、自分にとっても、楽しいことであることを学ぶ。たとえばよく、幼
い子どもが、何か新しいことができるようになったとき、母親に向かって、「見て、見て、お母さ
ん、できるようになった!」と言ってくることがある。はじめて自転車に乗れるようになったとき。
はじめて文字が読めるようになったとき、など。

 これは(新しいことができる)→(母親が喜んでくれる)→(母親が喜んでくれれば、自分もうれ
しい)という心理作用による。子どもは、母親を喜ばすこと(=利他)によって、自分を満足させ
ている(=利己)のが、わかる。しかしこの段階で、もし子どもにとって、喜んでくれる人がいな
ければ、子どもは、利己を利他に結びつけることができないことになる。つまり利己の世界だけ
で、自分を満足させることになってしまう。

 ところで人間の美しさは、いかに利他的に生きるかで決まる。他人をいたわり、他人を思い
やり、他人に同情する。そういう自分を離れた行為のハバが広ければ広いほど、その人の生
き方も、充実してくる。神の世界でいう愛、仏の世界でいう慈悲も、その延長線上にある。

 一方、利己的であればあるほど、その人の生きザマは見苦しくなる。どう見苦しいかは、今さ
ら、ここに書くまでもない。が、見苦しいだけではない。その人自身も、孤独の世界で、悶絶す
ることになる。自分を理解してくれる人がいない。自分を喜んでくれる人がいない。さらには自
分を愛してくれる人がいない。それはまさに「無間地獄」そのものということになる。

 で、教育の世界では、子どもたちを、いかにして利他的にするかが、たいへん重要なテーマと
なる。当然のことながら、利他的な人がふえればふえるほど、私たちの住む、この世界は、住
みやすくなる。まわりの人だけではない。その人自身にとっても、住みやすくなる。

 そこで最初の話にもどる。利他的な子どもにするには、どうしたらよいかだが、実は、そのカ
ギを握るのは、母親ということになる。子どもの側から見て、自分の成長を喜んでくれる人がい
てはじめて、子どもはそこで、利己を、利他に転換することができる。園や学校の教師でも、母
親の代用をすることはできるのだろうが、その時期、つまり子どもが利己から利他への転換を
学ぶ時期は、もっと早い段階である。おそらく〇歳〜一、二歳までの時期ではないか。その時
期は、どうしても母親と子どもの関係が、主体となる。

 子どもがはじめて自分の足で立つ。そのとき、母親が(父親も)、喜ぶ。ほめる。子どもがはじ
めて、はう。そのとき、母親が(父親も)、喜ぶ。そういう母親の姿を見て、子どもは、利己を利
他に転換することができる。

 結論は、もうおわかりかと思う。子どもを、利他的な人間、つまり心のやさしい、人の心の痛
みのわかる子どもにしたかったら、方法は簡単。子どもの成長を、そのつど心底、喜んでみせ
る。そういう母親側からの働きかけ(ストローク)があってはじめて、子どもは、利己的な人間か
ら抜け出て、利他的な人間になることができる。

【追記@】
 乳幼児期に、自分の成長を喜んでくれる人が、周囲にいないというのは、その子どもにとって
も、きわめて不幸なことである。利己を利他に転換できないまま、(あるいはその技術を身につ
けないまま)、子どもは大きくなってしまう。

 そういう利己的な子どもがどうなるかは、ここに改めて書くまでもない。そこで今、私たちが周
囲の人たちを見回してみたとき、心の暖かい人もいれば、冷たい人もいる。あるいは話してい
ると、ほっとするような親しみを覚える人もいれば、表面的なつきあいしかできない人もいる。

 で、そういう人が、どのような心理状態が基本になっているかを観察してみるとよい。その一
つの方法が、利己的か、利他的かということ。当然のことながら、利己的な人ほど、年齢を重
ねれば重ねるほど、他人とのつきあいが希薄になる。利他的な人ほど、濃厚になる。(仕事や
商売などの、利害関係をともなう人間関係は、別。)

 さらにその人が、どのような乳幼児期をすごしたかを観察してみるとよい。親の愛情をたっぷ
りと受けて、心豊かな環境で育った人は、当然のことながら、利他的になる。しかし不幸にして
不幸な家庭に育った人ほど、利己的になる。さらに……。

 親自身が無意識のうちにも、子どもを利己的な人間にすることがある。たとえば子どもがせっ
かく文字らしきものを書いたにもかかわらず、「何よ? この字は! もっとじょうずに書けない
の! となりの○○君は、もうカタカナが書けるのよ!」と。親が子どもの成長を喜ぶどころか、
子どもの成長そのものを否定してしまう。そうなれば子どもの心が冷たくなって、当然。こういう
ことは、乳幼児期には、絶対に、あってはならない。

【追記A】
 こうして考えていくと、この問題も、結局は、私たち自身の問題であることに気づく。「では私
は、どうなのか?」と。

 私自身(はやし浩司)は、心の冷たい人間である。利己的であるか、利他的であるかというこ
とになれば、利己的な人間である。少なくとも、若いころは、ずっとそうだった。

 その原因は、やはり、私自身の乳幼児期にあるのだと思うが、記憶がないため、それはよく
わからない。ただそれほど冷たい人間ではなかったように思う。小学生五、六年生のとき、『フ
ランダースの犬』という本を読んだとき、読みながら、オイオイと泣いたのをよく覚えている。

 その私が、きわめて利己的な人間になったのは、あの受験勉強が原因だと思う。そのときは
それがわからなかったが、今、こうして自分の過去を振りかえってみると、それがよくわかる。
私は高校生のころ、ライバルの仲間が病気か何かで学校を休んだりすると、心のどこかで「よ
かった」と思ったのを覚えている。心のゆがんだ、何ともつまらない人間であったことが、こうい
う事実からもわかる。

 さて、このエッセーを読んでいる、あなた自身は、どうか?
(030422)

●子どもの成長は、そのつど、心底喜んでみせてあげよう。あなたの子どもは、心暖かく、やさ
しい子どもになる。
●子どもを、安易に、受験勉強や競争で追ってはいけない。あなたの子どもの心は、そのつ
ど、少しずつ破壊される。

【補足】

●あなたは利己型人間? それとも利他型人間?

つぎの項目のうち、丸が多いほうが、あなたの「型」ということになる。

( )いつも心のどこかで、損得の計算をしているようなところがある。損になることは、できるだ
け避けようとする傾向が強い。
( )他人の失敗や苦労を耳にしても、「自分はだいじょうぶ」とか、「あの人はバカだから」と、
割り切って考えることができる。
( )人にしてあげることより、してもらうことのほうが多い。してあげるときも、心のどこかでいつ
も見返りを期待する。それがないと、怒ったり、不愉快になったりする。
( )他人に心を許すということはしない。「渡る世間は鬼ばかり」というような考え方をすること
が多い。見知らぬ人には、とくに警戒する。
( )孤独を感ずることが多い。ときどき自分が死んでも、だれも悲しんでくれないだろうと思うと
きがある。【以上、利己型人間】

( )近所とのつきあい、自治会やPTAの仕事など、損得を忘れて行動できる。奉仕精神が旺
盛で、見返りなど、最初から期待していない。
( )よく「お人好し」と評されることがある。頼まれれば、何でも引き受けてしまう。そのため結
局は、あれこれと、いらぬ苦労することが多い。
( )他人が喜ぶ顔を見ると、うれしい。他人でも、かわいそうな人がいると、何とかしてあげた
いと思うことが多い。
( )何でも信じやすいほうで、よく人にだまされる。が、だまされても、自分が悪いと思って、あ
きらめることができる。
( )何かと、知人や友人から相談を受けることが多い。年齢とともに、仕事以外で知りあった
同年齢の友人が、ふえてきた。【以上、利他型人間】



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●忠誠心

 相手に合わせて、すぐ自分を作ってしまう。へつらう。媚(こび)を売る。迎合する。歓心を買
う。

 だから自分がどこにいるか、わからなくなる。が、それだけではない。このタイプの人は、外
の世界では、仮面をかぶる。よい人ぶる。善人ぶる。自分をさらけ出せない。だから疲れる。

 ところで子どもの世界には、「愛想」という言葉がある。その愛想のよい子どもは、一見、人な
つこく、できのよい子どもに見える。しかし子ども自身にとって、それがよいことなのかとなると、
疑問が残る。

 ふつう、豊かな愛情に恵まれ、しっかりとした両親のもとで育てられた子どもは、どっしりとし
た安定感がある。態度も大きい。つまりその分だけ、愛想が悪い。何かを話しかけても、「何
だ!」というような態度をとる。

 そこで出てくる言葉が、忠誠心である。

 この忠誠心という言葉には、二つの意味がある。一つは、他人に対する忠誠心。もう一つ
は、自分自身に対する忠誠心。

 約束を守る、規則を守る、信義を守るというのが、他人への忠誠心。これについては、日本
人なら、だれでも知っている。

 一方、自分に対する忠誠心というのがある。たとえばこんな状況を考えてみよう。

 仲間から、何か、悪の誘いを受けたとする。そのときあなたは、(仲間の中でよく思われたい)
という思いと、(悪いことはしたくない)という思いの中で、迷うだろう。そのとき自分の中に、自
分があって、その自分に忠誠なら、そうした悪の誘いを、断る。

 しかし自分の中に自分がなく、その自分に忠誠する心がないと、その悪の誘いに、そのまま
乗ってしまう。いわゆる誘惑に弱い状態になる。

 このばあい、自分に対する忠誠心は、いわば病気に対する抵抗力として働く。抵抗力のある
人は、悪の誘惑から自分を守り、悪をはねのけてしまう。一方、そうでない人は、そうでない。

 そこで最初の話にもどる。

 相手に合わせて、すぐ自分を作ってしまう。へつらう。媚(こび)を売る。迎合する。歓心を買う
というのは、決して好ましい人間像ではない。とくに、子どもにおいては、そうである。

 だから……。幼児でも、ていねいに観察すると、将来、誘惑に強い子どもになるか、弱い子ど
もになるか、それがわかる。もしあなたの子どもが、つぎのようであれば、(誘惑に強い子ど
も)、あるいは、(誘惑に弱い子ども)ということになる。ポイントは、子ども自身がもつ、忠誠心
である。

(誘惑に強い子ども)
○どこか無愛想。相手の気持ちに、自分を合わせない。
○人に嫌われても、自分のしたいことをするといったふう。
○孤独に強い。ひとり遊びができる。何をするにもマイペース。
○正義感が強く、不正に対して、敏感に反応する。

(誘惑に弱い子ども)
●相手に合わせて、よい子ぶる。みんなに好かれようとする。
●集団でいるほうを好む。しかしそのくせ、集団の中では精神疲労を起こしやすい。
●善悪の見境なく、その場の雰囲気で、何でもしてしまうようなところがある。
●気が小さく、その場で、YES、NOが、はっきり言えない。

 こうした違いの原因はといえば、ここにも書いたように、乳幼児期の育て方にある。乳幼児期
に、母子の、相互アッタチメントがしっかりしているかどうかが、カギになる。もう一歩、話を進
めると、たがいの基本的信頼関係がしっかりしているかどうかということ。それがしっかりとして
いれば、ここでいう忠誠心の強い子どもになる。そうでなければ、そうでない。

 これはその一例だが、不幸にして不幸な家庭に育ち、母子関係が不全なまま育った子ども
がいる。生後まもなくから、施設に預けられたとか、保育園だけで育てられたとか。

 このタイプの子どもは、独特の症状を見せる。「施設児」と呼ばれるゆえんは、そんなところに
もあるが、その施設児の特徴の一つが、ここでいう「だれにでも愛想がよい」(長畑氏ら)であ
る。

 さて、あなたの子どもというより、あなた自身はどうだろうか。そういう視点で、一度この問題
を考えてみるとおもしろいのでは……?
(030918)


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●孝行論

●孝行は美徳か?

 日本では、親孝行を美徳と考えている人は多い。また孝行論を、教育論の柱にしている人も
多い。しかし、問題がないわけではない。

 「孝行」というのは、子ども側からの、一方的かつ、献身的な貢献を意味する。またそうであ
ればあるほど、孝行と評価される。そしてその背景には、「親は絶対」という、親絶対論があ
る。

 そこで最初の疑問。本当に、親は絶対なのか?

 江戸時代には、家督制度というのがあった。身分制度が、それを支えた。「家」は、絶対的な
存在であり、「家」を離れたら、身分制度そのものから、はじき飛ばされた。人間としての価値
すら、否定された。実際には、「無宿」とされ、逮捕されれば、そのまま、たとえば、佐渡の金山
へ送りこまれたりした。

(今のK国の社会制度と、よく似ていますね。あの国では、成分(身分)によって、すべてが決ま
るとか。そう言えば、金XXも、「将軍様」と呼ばれているそうで……。ハイ!)

 親絶対論は、こうした歴史的背景から生まれた。私が子どもころでさえ、「勘当(かんどう)」と
いう言葉が残っていた。また今でも、子どもにバツを与えるとき、「(家から)出て行け!」とい
う。そういう言い方が残っている。当時は、家から追いだされるということは、それ自体が恐怖
だった。

 もちろん社会制度の不備もあった。今でいう福祉制度もなかった。もちろん「老人福祉」という
言葉すら、なかった。親たちは一方で子どもを、「家」でしばりながら、一方で、老後は、子ども
たちに依存しようとした。話せば長くなるが、結論を先に言えば、そういうことになる。

 こうした背景から、日本独得の、「孝行」という言葉が生まれた。

●孝行を強要する親たち

 本来、孝行というのは、子どもの側から自発的に始まるもの。しかしそれが長い間、伝統とし
て定着するうちに、親の側から子どもに求めるようになった。

 そして孝行な息子や、娘をもつことが、親としてあるべき姿ということになった。またそういう子
どもを育てることが、子育ての目標になった。だから今でも、息子や娘の孝行ぶりを自慢する
人は、いくらでもいる。

「Aさんの息子さんは、立派なもんじゃ。親を、あの九州のB温泉へつれていったそうな」
「いやいや、Bさんの娘さんは、もっと偉い。何でも二〇万円もする羽ぶとんを、親に買ってあげ
たそうな」
「とんでもない。孝行息子といえば、Cさんの息子さんじゃよ。今度、親のために、床の間つきの
離れを新築したそうな」と。

 こういう話を代々伝えることで、子どもに孝行というものが、どういうものであるかを教えてい
く。そしてそれが子どもとして、あるべき姿だと教えていく。

 私は、こうした孝行を否定するものではないが、しかし一方で、こうした親の呪縛に苦しんで
いる人も多い。親子という、一対一の関係ならともかくも、親戚ぐるみ、地域ぐるみで縛られると
いうこともある。K氏(四八歳、男性)もそうだ。

 「父は、人前ではいい父親を演じていますが、一対一になったようなとき、『親を粗末にする
と、地獄へ落ちるぞ』と、私をおどします。そういう父なんです。それでときどき盆や、暮れに帰
省することを避けているのですが、そうすると今度は、親戚の叔父から電話がかかってきま
す。『どうして、お前は、父親を粗末にするか。正月のあいさつをしろ』とです。父が、叔父たち
に電話をさせているのですね」と。

●形にしばられない人間関係

 親子といえども、基本は、一対一の人間関係。もちろんその間には、親子であるがゆえの、
特殊な感情や思惑が働く。たとえば母と子の関係というのは、母親にとっても、また子どもにと
っても、特殊な関係である。

 しかしそのことと、ここでいう「孝行論」は、別のことである。多くの誤解は、こうした特別な関
係と、孝行論を結びつけるところから起こる。

 たとえばよく議論されるが、(親がいるから、子どもがいるのか)、それとも(子どもがいるか
ら、親がいるのか)という問題。さらに実存主義の世界では、つぎのように考える。

 私たちは生まれた。生まれてみたら、そこに親がいた、と。

 孝行論を説く人たちは、当然のことながら、「親がいたから、子どもがいる」と考える。そして
その返す刀で、子どもに向かっては、「親のおかげで、お前がいる」と教える。産んでくれたの
は、親ではないか。育ててくれたのも、親ではないか。「だから子どもが、親に孝行するのは、
当然のことだ」と。

 ここでいう「母と子に特殊な関係」については、人間対人間という関係をいう。絶対的な信頼
関係というのがそれだが、それについては、もうすでに何度も書いてきた。しかしだからといっ
て、そこから孝行論が生まれるというわけではない。むしろここでいう絶対的な信頼関係と、孝
行論は、相反するものである。

●「だれが、産んでくれと頼んだ!」

 親が「私は親だ」という親風を吹かせば吹かすほど、子どもは、親の前で仮面をかぶるように
なる。いわゆる(わかりあえない親子)は、こうして生まれる。

 このとき、いくつかの悲劇も生まれる。その一つは、親自身が、独善の世界に入りやすいとい
うこと。このタイプの親ほど、「私はすばらしい親だ」「私たちの親子関係は、うまくいっている」と
思いがちになる。

 このとき子どもも、親の価値観と一致すれば、それなりに親子関係はうまくいく。子どもは子
どもで、親に絶対的に服従することで、親子関係をとりつくろう。しかし、このとき、子どもが親
に従わなかったとしたら……。

 ここで親子の間には、大きなキレツが入る。価値観の衝突というのは、そういうもの。どこか
宗教戦争に似ている。たがいに自分をかけて、衝突する。

親「親に向かって何だ! その言い方は!」
子「親だ、親だって、いばるな!」
親「何だ、その口のきき方は!」
子「口のきき方が、どうした!」
親「お前は、だれのおかげで、ここまで大きくなれたか、わかっているのか!」
子「うるさい!」
親「このバチ当りめ! 産んでもらった恩を忘れたか!」
子「だれが産んでくれと、お前に頼んだア!」と。

 昔なら親は、ここで伝家の宝刀を抜く。「貴様のような息子は、今日かぎり親子の縁を切る。
この家から出て行け!」と。

 しかし今は、そういう時代ではない。身分制度は、とっくの昔に廃止になった。「家だ」「親の威
厳だ」と言ったところで、子どもがそれに応じなければ、どうしようもない。

●ご先祖様 

 もちろん、人それぞれ。孝行論を説く人も、否定する人も、それぞれがぞれぞれの立場でハ
ッピーなら、それでよい。外部の人間が、とやかく言う必要はない。また言ってはならない。

 たとえば私の知人の中には、親絶対主義の人が、何人かいる。五〇歳以上の人は、ほとん
どが、そうではないか。A氏(五五歳、男性)もそうだ。他人が、死んだA氏の父親の批判するこ
とすら、許さない。だれかが批判めいたことを言おうものなら、猛然と、それに反発してくる。

 Bさん(六〇歳、女性)もそうだ。ことあるごとに、「ご先祖様」という言葉を使う。「ご先祖様あ
っての、私でございます」「ご先祖様がいたから、こういう生活ができるのです」「ご先祖様が
代々守ってくださった家風を守るのが、私たち子孫の務めでございます」と。

 しかしよくよく観察すると、親や先祖を大切にしろと教えることは、子どもに向かっては、「自分
を大切にしろ」と言っているようにも聞こえる。それがわかったのは、C氏(七〇歳、男性)と話
していたときのことだ。

 C氏は、このところ、「最近の若いものは、先祖を粗末にする」を、口ぐせにしている。C氏が
いうところの「先祖」というのは、自分のことではないか。まさか「自分を大切にしろ」とは言えな
い。だから「先祖」という言葉を使う?

 このことは、たとえば寺の住職が、「仏様を供養してください」と言うのに、似ている。似ている
というより、同じ。寺の住職が「供養せよ」と言うのは、信徒に向かって、「金を出せ」と言ってい
るのと同じ。まさか「金を出せ」とは言えない。だから、「供養せよ」と言う。それとも、仏様が、お
金を、使うとでもいうのだろうか。

 要するに、親だ、先祖だと言う人は、その一方で、自分の立場を守ろうとしているだけ。ある
いは「家」を守ろうとしているだけ。……というのは言い過ぎかもしれないが、それほど的をは
ずれていないと思う。

●孝行は子どもの問題

 孝行するかどうかということは、あくまでも子どもの問題。親は、それを子どもに期待してはい
けない。求めたり、強要してはいけない。親は、どこまでも無条件の愛をつらぬく。

 ……こう書くと、さみしい老後を心配する人もいるかもしれないが、現実は、逆。「孝行」にあ
たる言葉すらない英語国のほうが、むしろ日本的な孝行息子、孝行娘が多い。

こんな調査結果がある。平成六年に総理府がした調査だが、「どんなことをしてでも親を養う」
と答えた日本の若者はたったの、二三%(三年後の平成九年には一九%にまで低下)しかい
ない。自由意識の強いフランスでさえ五九%。イギリスで四六%。あのアメリカでは、何と六
三%である。欧米の人ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、大きな転
換期にきているとみるべきではないのか。

 以上、そんなわけで私自身も、一〇年ほど前に、自分の考え方を、大きく変えた。……という
より、それまで日本や日本人が、全体としてかかえる問題に、気づかなかった。私もそれまで
は、ごく当たり前に、ごく自然なこととして、孝行論を唱えていたように思う。

 もちろん、だからといって、孝行論を否定しているわけではない。孝行している人を非難して
いるわけでもない。親であれ、自分以外の人のために、我を忘れて献身的に尽くすことは、そ
れ自体、すばらしいことである。

 ただ私がここで言いたいことは、だからといって、それに甘えて、今度は他人、とくに子どもに
向かって、それを求めたり、強要してはいけないということ。

孝行論を説く人も、それだけは、忘れてはいけない。
(030918)

++++++++++++++++++++++++++++++

以前書いた原稿を送ります。簡略版は、中日新聞で発表
させてもらいました。

++++++++++++++++++++++++++++++

子どもの心が離れるとき 

●フリーハンドの人生 

 「たった一度しかない人生だから、あなたはあなたの人生を、思う存分生きなさい。前向きに
生きなさい。あなたの人生は、あなたのもの。家の心配? ……そんなことは考えなくていい。
親孝行? ……そんなことは考えなくていい」と、一度はフリーハンドの形で子どもに子どもの
人生を手渡してこそ、親は親としての義務を果たしたことになる。

子どもを「家」や、安易な孝行論でしばってはいけない。負担に思わせるのも、期待するのも、
いけない。もちろん子どもがそのあと自分で考え、家のことを心配したり、親に孝行をするとい
うのであれば、それは子どもの勝手。子どもの問題。

●本当にすばらしい母親?

 日本人は無意識のうちにも、子どもを育てながら、子どもに、「産んでやった」「育ててやった」
と、恩を着せてしまう。子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、恩を着せられ
てしまう。

 以前、NHKの番組に『母を語る』というのがあった。その中で日本を代表する演歌歌手のI氏
が、涙ながらに、切々と母への恩を語っていた(二〇〇〇年夏)。「私は母の女手一つで、育て
られました。その母に恩返しをしたい一心で、東京へ出て歌手になりました」と。はじめ私は、I
氏の母親はすばらしい人だと思っていた。I氏もそう話していた。

しかしそのうちI氏の母親が、本当にすばらしい親なのかどうか、私にはわからなくなってしまっ
た。五〇歳も過ぎたI氏に、そこまで思わせてよいものか。I氏をそこまで追いつめてよいもの
か。ひょっとしたら、I氏の母親はI氏を育てながら、無意識のうちにも、I氏に恩を着せてしまっ
たのかもしれない。

●子離れできない親、親離れできない子

 日本人は子育てをしながら、子どもに献身的になることを美徳とする。もう少しわかりやすく
言うと、子どものために犠牲になる姿を、子どもの前で平気で見せる。そしてごく当然のこととし
て、子どもにそれを負担に思わせてしまう。その一例が、『かあさんの歌』である。「♪かあさん
は、夜なべをして……」という、あの歌である。

戦後の歌声運動の中で大ヒットした歌だが、しかしこの歌ほど、お涙ちょうだい、恩着せがまし
い歌はない。窪田聡という人が作詞した『かあさんの歌』は、三番まであるが、それぞれ三、四
行目はかっこ付きになっている。つまりこの部分は、母からの手紙の引用ということになってい
る。それを並べてみる。

「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」
「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」
「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」

 しかしあなたが息子であるにせよ娘であるにせよ、親からこんな手紙をもらったら、あなたは
どう感ずるだろうか。あなたは心配になり、羽ばたける羽も、安心して羽ばたけなくなってしまう
に違いない。

●「今夜も居間で俳句づくり」

 親が子どもに手紙を書くとしたら、仮にそうではあっても、「とうさんとお煎べいを食べながら、
手袋を編んだよ。楽しかったよ」「とうさんは今夜も居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」
「春になれば、村の旅行会があるからさ。温泉へ行ってくるからね」である。そう書くべきであ
る。つまり「かあさんの歌」には、子離れできない親、親離れできない子どもの心情が、綿々と
織り込まれている! ……と考えていたら、こんな子ども(中二男子)がいた。

自分のことを言うのに、「D家(け)は……」と、「家」をつけるのである。そこで私が、「そういう言
い方はよせ」と言うと、「ぼくはD家の跡取り息子だから」と。私はこの「跡取り」という言葉を、四
〇年ぶりに聞いた。今でもそういう言葉を使う人は、いるにはいる。

●うしろ姿の押し売りはしない

 子育ての第一の目標は、子どもを自立させること。それには親自身も自立しなければならな
い。そのため親は、子どもの前では、気高く生きる。前向きに生きる。そういう姿勢が、子ども
に安心感を与え、子どもを伸ばす。親子のきずなも、それで深まる。子どもを育てるために苦
労している姿。生活を維持するために苦労している姿。そういうのを日本では「親のうしろ姿」と
いうが、そのうしろ姿を子どもに押し売りしてはいけない。押し売りすればするほど、子どもの
心はあなたから離れる。 

 ……と書くと、「君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。親孝行論は日本人がもつ美徳
の一つだ。日本のよさまで君は否定するのか」と言う人がいる。しかし事実は逆だ。こんな調査
結果がある。平成六年に総理府がした調査だが、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた日
本の若者はたったの、二三%(三年後の平成九年には一九%にまで低下)しかいない。自由
意識の強いフランスでさえ五九%。イギリスで四六%。あのアメリカでは、何と六三%である
(※)。欧米の人ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、大きな転換期に
きているとみるべきではないのか。

●親も前向きに生きる

 繰り返すが、子どもの人生は子どものものであって、誰のものでもない。もちろん親のもので
もない。一見ドライな言い方に聞こえるかもしれないが、それは結局は自分のためでもある。
私たちは親という立場にはあっても、自分の人生を前向きに生きる。生きなければならない。
親のために犠牲になるのも、子どものために犠牲になるのも、それは美徳ではない。あなたの
親もそれを望まないだろう。いや、昔の日本人は子どもにそれを求めた。が、これからの考え
方ではない。あくまでもフリーハンド、である。ある母親は息子にこう言った。「私は私で、懸命
に生きる。あなたはあなたで、懸命に生きなさい」と。子育ての基本は、ここにある。

※……ほかに、「どんなことをしてでも、親を養う」と答えた若者の割合(総理府調査・平成六
年)は、次のようになっている。
 フィリッピン ……八一%(一一か国中、最高)
 韓国     ……六七%
 タイ     ……五九%
 ドイツ    ……三八%
 スウェーデン ……三七%
 日本の若者のうち、六六%は、「生活力に応じて(親を)養う」と答えている。これを裏から読
むと、「生活力がなければ、養わない」ということになるのだが……。 




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10

●運命論

 「私は孤独だ」と言えば、「それ、みろ。わかりきったことではないか」と言う人がいるかもしれ
ない。私のような、どこかゆがんだ性格をもった人間は、人に相手にされなくて、当然。つまり、
その分、孤独になる。

 だから私のような人間は、あえて最下層を、静かに生きるしかない。音も立てず、人知れず、
おだやかに……。

 しかし私には、どうしてもそれができない。何かあると、すぐワーッと声をあげてしまう。そして
あちこちに、敵をつくってしまう。バカなのか。それとも、アホなのか。

 ほどほどのところで、ほどほどの人生を歩むほうが、よほど、楽。そう割り切って生きている
人は、五万といる。いや、ほとんどの人が、そうではないか。またそういう人ほど、友人も多く、
家族のきずなも、太い。

 私がかかえている問題のほとんどは、他人からもたらされたものというよりは、自分でもちこ
んだもの。それが一つずつ、よくわかるようになった。これも年の功。あるいは、少しは自分に
謙虚になったためか。

 たとえば一人の女性がいる。夫とは、結婚後半年で離婚。今は、四歳になっている一人娘を
育てている。

 その女性のホームページをのぞく。「いやし系ホームページ」と歌っているが、実は、はげしい
不平、不満の嵐。あっちに不平をぶつけ、こっちに不満をぶつけている。「あれが悪い!」「こ
れがなっていない!」と。

 その女性のホームページを読んでいると、何のことはない。私のしていることは、その女性の
していることと同じ。あるいは、どこが違うのか。そのはげしさゆえに、私でも、仮にその女性と
結婚したとしたら、半年どころか、一か月で離婚するだろう。

 実のところ、ワイフもときどき、こう言う。「私だから、あんたと結婚できたのよ」と。多分に恩
着せがましい言い方だが、このところ、「うん、そうだな」と答えることが多くなった。自分がわか
ればわかるほど、ワイフの言うことが正しいと思うようになった。

 運命というものはあるのか。それともないのか。それは私にもわからないが、しかしこれだけ
は言える。

 自分の進むべき道は、無数の要素(ファクター)が、無数に組みあわさって決まるということ。
あとは確率の問題。もちろんその無数の要素の一つずつを知ることは、不可能。だから結局
は、成りゆきのなかで、進むべき道は決まっていく。

 先の女性にしても、こう書くのは、たいへん失礼なこととは思うが、しかし、なるべくして、そう
なったのではないのか? ただその女性は、まだ若いから、自分の中の自分に気づいていな
い? だから世間を攻撃し、社会を攻撃している。はては、「女一人で生きていく、つらさや、き
びしさが、そこらの人間にわかってたまるか!」(投稿コーナー)と書いている。

 もちろんだからといって、私は、その女性を批判しているのではない。私も、若いときは、そう
だった。自分の姿が見えなかった分だけ、世間を攻撃し、社会を攻撃した。しかし、今は、そう
いう「甘え」は消えた。

 今の私が、今の私なのは、すべて私の責任である。すべて私の中の私が、今の私をつくっ
た。それは世間の責任でもないし、社会の責任でもない。それは近所のゴミ拾いとよく似てい
る。

 近所の空き地には、いつも無数のゴミが散乱している。そういうゴミを見ると、「地主が悪い」
「市役所が悪い」と思うかもしれない。しかし、もしそういうゴミが気になったら、自分で拾えばよ
い。つまり空き地にゴミが散乱しているのは、それを気にした、その人の責任ということにな
る。

 それにかわって、このところ、ほんの少しずつだが、私は生きていることの美しさを感ずるよ
うになった。苦しみも、悲しみも、そういったものが、渾然(こんぜん)一体となって、「美しさ」を
つくりあげている、と。もっと言えば、それぞれの人が、それぞれの立場で、懸命に生きてい
る。そういう無数のドラマが、全体として、「美しさ」をつくりあげている、と。

 そういう視点で、自分自身を振りかえってみる。私も、不完全で、ボロボロの人間だ。「何かを
した」という充足感は、ほとんどない。毎日が、後悔の連続。決して居なおっているわけではな
い。自分自身の限界がわかるようになった。そういう自分が、今、ここで懸命に生きている。

 そういう自分に、「美しさ」の連帯感を覚えるようになった。「孤独?」……よいじゃないの、と。
「失敗ばかり?」……よいじゃないの、と。「敵をつくる?」……よいじゃないの、と。

 この先のことは、まだよくわからない。このまま世間や社会に押しつぶされてしまうかもしれな
い。それとも、何かまた新しいことを発見するかもしれない。どうなるかわからないが、ともかく
も、がんばって生きていくしかない。
(030919)

【約束】
マガジンの読者の方には、お約束します。もし何か、新しいこと発見したら、一番にお知らせし
ます。

It was previously a question of finding out whether or not life had to have a meaning to be 
lived. It now becomes clear, on the contrary, that it will be lived all the better if it has no 
meaning. - Albert Camus
人生には生きる意味があるのか。それを疑問に思ってきた。しかし今、それとは対照的に、つ
ぎのことがはっきりとしてきた。つまり意味がなくても、まったく問題なく生きられるということが。
(A・カムス)

Few are those who can see with their own eyes and hear with their own hearts. - Albert 
Einstein
自分の目でものを見ることができる人は、ほとんど、いない。自分の心で聞くことができる人
も、ほとんど、いない。(A・アインシュタイン)

To be ignorant of one's ignorance is the malady of the ignorant. - Amos Bronson Alcolt
自分の無知に無知なのは、無知な人の病気だ。(A・B・アルコット)

Another way in is the other way out; Never doubt where to exit; it is another entrance out. 
- Andrew S. Pudliner
入り口は、出口。どこから出ようと思うな。それは入り口がもう一つの出口。(A・S・パドライナ
ー)

We are what we repeatedly do. - Aristotle
我々というのは、我々が繰りかえすところのもの。(アリストテレス)

Happiness is something final and complete in itself, as being the aim and end of all practical 
activities whatever.... Happiness then we define as the active exercise of the mind in 
conformity with perfect goodness or virtue. - Aristotle
幸福というのは、それ自体が、最終的かつ完ぺきなもの。そしてそれが何であれ、すべての活
動の目的である。それゆえに、幸福を、私たちは、完ぺきな善と美徳と、心の調和と定義す
る。(アリストテレス)

For example, justice is considered to mean equality, It does mean equality- but equality for 
those who are equal, and not for all. - Aristotle
たとえば正義は、平等を意味する。それはたしかに平等を意味するが、それは平等な人にとっ
ての、平等。すべての人には、そうではない。(アリストテレス)

It's like a finger, pointing at the moon. If you stare at the finger, you miss all the heavenly 
glory - Bruce Lee "Enter The Dragon"
それは月を指さす、指のようなもの。もし指を見つめるなら、あなたは天の栄華を見逃すことに
なるだろう。(ブルース・リー「エンター・ザ・ドラゴン」)

Nothing is ever accomplished by a reasonable man. - Bucy's Law
道理のわかる男によって完成されたものは、何もない。

You have two ears and only one mouth for a reason - Buddhist Belief
あなたには二つの耳がある。しかし道理を語る口は、ただ一つ。(仏教)

To be is to do. - Descartes
生きることは、行動することである。(デカルト)

I think therefore I am. - Descartes
我、思う。ゆえに我、あり。(デカルト)

Learning how to stand up is easy. Learning how to stand up after you've fallen down, that is 
tough. - Dican
立つことを学ぶことは、簡単なこと。ころんだあとに、立つことを学ぶのは、つらいことだ。(ダイ
カン)

You can never lose what you never had. - Dican
もったことがないものを、なくすことはない。(ダイカン)

It is not the brains that matter most, but that which guides them---the character, the 
heart, generous qualities, progressive ideas. - Dostoyevsky
問題は、脳ではない。問題は、何が脳をガイドするか、だ。性格、心情、性質、思想など。(ドス
トエフスキー)

I don't suffer from insanity but enjoy every minute of it - Edgar Allan Poe
私は狂気に苦しまない。私はその瞬間、瞬間を楽しむだけ。(E・A・ポー)

Everything is but a dream within a dream." - Edgar Allen Poe
すべてのものは、夢の中の夢。(E・A・ポー)

Growth for the sake of growth is the ideology of the cancer cell. - Edward Abbey
成長のための成長というのは、ガン細胞のイデオロギーだ。(E・アビー)

There's a part of every living thing that wants to become itself: the tadpole into the frog, 
the chrysalis into the butterfly, a damaged human being into a whole one. That is spirituality 
- Ellen Bass
その範囲で生きるのは、簡単なこと。おたまじゃくしは、カエルになる。毛虫は、蝶になる。そし
てキズついた人は、完成される。それが精神だ。(E・バス)

In a real dark night of the soul, it is always three o'clock in the morning, day after day. - F. 
Scott Fitzgerald
魂の真夜中。それはいつも朝の三時。来る日も、来る日も、(F・S・フィッツゲラルド)

If you want to have clean ideas, change them as often as you change your shirts. - Francis 
Picabia
きれいな考えをもとうとするなら、シャツを替えるように、しばしば考えを変えることだ。(F・ピカ
ビア)

Do be do be do. - Frank Sinatra
生きて、すべきことをせよ(?)(フランク・シナトラ)

I no longer want to walk on worn soles - Friedich Nietzsche
もう破れた靴底の靴で歩きたくない。(F・ニーチェ)

Live simply that other may simply live. - Gandhi
ほかの人が簡単に生きられるように、簡単に生きろ。(ガンジー)

Nonviolence is the greatest force at the disposal of mankind. It is mightier than the 
mightiest weapon of destruction devised by the ingenuity of man. - Gandhi
不服なとき、非暴力は、もっとも強い武器である。それは人間の英知によってつくられたあらゆ
る武器よりも、強いものである。(ガンジー)

If I accept you as you are, I will make you worse; however, if I treat you as though you are 
what you are capable of becoming, I help you become that. - Goethe
あるがままのあなたを受け入れれば、私はあなたをより悪くしていまうだろう。もし私があなた
を、あなたがなれる人として扱うなら、私はあなたがそうなるのを助けることになる。(ゲーテ)

【注釈】
 フランク・シナトラの、「do be do be do」について、ヤフーで検索してみたら、こんな記事を
ヒットした。

Other than Brazilian music, though, Sinatra stayed away from developments in jazz beyond 
swing (unless one counts a quirk like his notorious "do-be-do-be-do" scatting at the close 
of "Strangers In the Night").

しかしブラジル音楽のほかに、シナトラは、ジャズ音楽をそれ以上、することはなかった。(「真
夜中のストレンジャー」で、歌われた、あの悪名高い「do-be-do-do」のような、意味のない単語
を並べた気まぐれな歌を、その数に数えないならの話だが……。)

つまり、「do-be-do-be-do」は、意味のない言葉だというのだ。私は「生きて、すべきことをせ
よ」と訳すまでに、かなり考えた。時間をムダにした。




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11

●学習の動機づけ

●楽しませる

 子どもの「勉強」を考えたら、とにかく、楽しませる。「楽しい」「楽しかった」という思いが、子ど
もを前向きに引っぱっていく。

心理学の世界では、こうした前向きに引っぱっていく力を、「好子(こうし)」という。また大脳生
理学の世界では、辺縁系の帯状回が、「やる気」をコントロールしていると、説明する。それだ
けではない。

 子どもはこれから先、いろいろなカベにぶつかる。そのときそのカベを乗り越える原動力にな
るのも、ここでいう「楽しさ」である。「私はできる」「できるはず」「私には、できないことはない」と
いう、前向きのストロークが、子どもを伸ばす。

 たとえば文字学習を考えてみよう。

 子どもは満四・五歳(四歳六か月)を境に、急速に文字に興味をもつようになる。それまで
は、いくら教えても、一見、効果がないように見える。そしてこの時期を境に、見よう、見まね
で、文字らしき文字を書くようになる。

 このとき大切なことは、子どもがどんな文字を書いても、それをほめること。読んであげるこ
と。

 文字の使命は、言うまでもなく、意思の伝達である。意思の伝達に始まって、意思の伝達に
終わる。書き順、トメ、ハネ、ハライなどは、それを大切だと思う人に、任せておけばよい。ある
いは、どうして、そんなものが、大切なのか?

 そしてそれと平行して、「文字は楽しい」という思いを、子どもの心の中に焼きつけておく。具
体的には、子どもを抱いて、本を読んであげる。暖かい息を吹きかけながら、本を読んであげ
る。

 まずいのは、いきなり文字を教え、こまごまとした指導をすること。子どもは文字に恐怖心す
らもつようになる。しかし一度、この時期、そうなると、修復は不可能。いわんや、「勉強」を、子
どもの責め具に使ってはいけない。「毎日、三〇分、勉強しなさい!」と。

 ちなみに、年中児でも、文字に対して恐怖心をもっている子どもは、約半数はいる。中には、
「名前を書いてみようか」と声をかけただけで、体をこわばらせ、涙ぐむ子どもさえいる。こうな
ると、将来的に、文字嫌いのみならず、国語嫌い、本嫌い、さらには勉強嫌いになるのは、
明々白々。

 この日本には、無数の誤解がある。計算力があるから、算数ができるという誤解。よくしゃべ
るから、頭がよいという誤解。ものをよく知っているから、勉強がよくできるという誤解。そして、
きれいな文字を書くから、国語力があるという誤解。こうした誤解が、無数に集まって、日本人
独特の、「勉強観」をつくりあげている。

 では、どうするか?

 子どもを楽しませる。いつもそれに始まって、それに終わる。英語にも、『楽しく学ぶ子は、よ
く学ぶ』という格言がある。まさにポイントをついた格言である。
(030920)

●今、一人気になっている子ども(小六男子)に、S君がいる。彼は幼いときから、書道教室に
通っている。だから彼が書く文字は、まさに一級。きれいである。しかし一方で、作文がまったく
と言ってよいほど、書けない。「作文は大嫌い」と、いつも逃げてしまう。で、何とか書かせて、
励ますのだが、正直に言えば、とても、読むに耐えない内容。いつも的はずれで、トンチンカン
な作文を書く。もちろん本は、大嫌い。ときどき、「この本を読んでみたら」と単行本を貸すのだ
が、受け取ることさえ、拒絶する。どうしたらよいものか。親は、漢字のテストでよい点と取るこ
とや、きれいな文字だけを見て、「うちの子は、国語はだいじょうぶ」と思っている。

●以前、N君という小学生(当時二年生)がいた。彼もまた、きれいな文字を書いていた。が、
書くスピードが、遅かった。みなの二倍以上の時間がかかった。だからいつもひとりだけ、黙々
と文字を書いていた。しかしそのため、いつも、授業が中断してしまった。で、ある日、私はこう
言った。「ていねいに書くときは、書けばよい。しかし今は、黒板の文字を書き写すこと。だから
もっと速く、書きなさい」と。とたん、N君は、ふつうの(?)速さで書き始めた。が、私はN君の文
字を見て、びっくりした。ひどいなんてものではなかった。しかしそれが彼の、オリジナルの文字
だった。




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12

●巣立ち

スズメの放し飼い

 拾ってきたスズメの子を育てる。ここまではよくある話である。しかしそのあと、そのスズメを
放し飼いにする人は少ない。

 しかしこんな人がいる。

 その人は、スズメを拾ってきて、育てた。ある程度、大きくなったところで、外に放した。その
ほうが、スズメにとってはよいと考えた。が、そのあとそのスズメは、毎日、エサを食べるため
に、その人の家に戻ってくるという(Y新聞、投書)。

 ……この話を聞いて、私は、新鮮な驚きを感じた。

 私も、私の友人も、よく子どものころ、スズメの子を拾ってきて、育てた。しかしそのとき、外の
世界へ放してしまう、というところまでは考えなかった。「放し飼い」といっても、人間によく慣れ
させたあと、ぜいぜい部屋の中で放し飼いにする程度である。

 しかしこの違いは、基本的な子育て観の違いといってもよい。

 スズメの子を拾ってきて育てる。そのとき、スズメの子を育てながらも、その自由には制限を
つける。無意識のうちに、そうする。「育ててやる。しかし逃げていくことは許さない」と。

 こうした子育て観は、日本人独特のものと考えてよい。そしてそれが、たとえば子どもの育て
方にも現れてくる。

 今、親たちは、子どもを育てている。しかし外の世界にまで「放し飼い」を許す親は少ない。大
半の親たちは、反対に、外の世界へ逃げてゆかないようにする。意識的な行為というよりは、
無意識のうちに、そうする。長い間の伝統の中で、日本人は、そうしてきた。そういう子育てを、
ほとんど考えることなしに、繰りかえしてきた。

 たとえば「子どもをかわいがる」という言い方がある。このとき親は、自分の子どもを、「かわ
いい子ども」に育てることを、目標にする。そして親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい
子イコール、よい子とする。

 反対に親を親とも思わない子どもを、生意気な子とする。そういう子どものことを、私が生ま
れ育った岐阜のほうでは、「きつい子」、あるいは「鬼の子」とも言う。こんな例がある。

 K君は、岐阜市から車で、一時間半ほどの距離の田舎町に住んでいた。が、中学を卒業す
ると、岐阜市内の高校に通うことを希望した。学力もあった。そういうK君に喜びながらも、それ
に猛反対したのが、実はK君の母親だった。K君の母親は、あの手、この手をつかって、K君
が自分の手元を離れることを阻止しようとした。

 母親はまず、中学の先生のところに話しにいった。そして何とか、岐阜へ行くのを思いとどま
るよう説得してほしいと頼んだ。つぎに、K君の通っていた塾の先生にも、それを頼んだ。岐阜
市にいる叔父(母親の兄)にも、それを頼んだ。しかしK君の前では、何も言わなかった。母親
は、K君に嫌われるのを避けたかったようだ。

 今でこそ、こういう例は少なくなった。が、ないとは言えない。子どもは育てる。しかし最終的
には、自分のもとを離れることを許さない、と。

 この違いが、冒頭のスズメの話である。

 これはあくまでも仮定の話だが、あなたはどちらのタイプに近いだろうか。あなたがスズメの
子を拾ってきて、育て始めたときのことを想定してみてほしい。(もちろんあなたが小鳥が好き
という前提での話である。)

(依存型ママ)拾ってきたスズメを育ててやる。しかし育ててやるのは、私。自分が「かわいい」
と思う間は、外に放してやらない。あくまでも部屋の中で、あるいはカゴの中で育てる。そのほう
がスズメにとっても、安全と考える。勝手に逃げていくことを許さない。

(非依存型ママ)「かわいい」と思っても、やはり野生のスズメは、外の世界に放してやるのが一
番。さみしいと思うが、外に放してやる。育ててやったというような、恩は着せない。スズメにとっ
ては、きびしい世界かもしれないが、それが本来、あるべき姿だと思う。

 私も子どものころ、こんな経験がある。

 何かの映画だったと思うが、野生のライオンの子を育てた人の映画だった。その人はそのラ
イオンがある程度大きくなったところで、そのライオンを野生に帰すための努力を始める。その
映画を見ていたときのこと。私は、こう思った。

 「もったいない」と。「せっかく育ててやったのだから、自分でペットとして飼えばいい」とも。

 実のところ、そう思ったということは、私自身が依存型の子育てを、無意識のうちにも、容認し
ていたことになる。しかしそれは、私自身がそう思ったというよりは、日本がもつ大きな流れの
中で、そういう意識をつくられたといったほうが正しい。私の父も母も、親戚の人たちも、そして
地域の人たちも、みな、そういう考え方をしていた。……今も、している?

 だから私はその投書を読んだとき、新鮮な驚きを感じた。

私「育てたスズメを、外の世界に放してやるという発想は、ぼくの子ども時代には、なかった」
ワイフ「私は、小鳥を飼わなかったから……」
私「手なづけて、ペットとして飼うということは、考えた」
ワ「あくまでもペットね」
私「そう。日本人は、子どもを育てながら、どこかでペットを育てるようなところがある。一人の
人間として自立させるというよりは、自分のそばに置いて、かわいがるというようにね」
ワ「あくまでも自分のためね」
私「そう。子どものためではない。自分のため。ここに日本人が全体としてかかえる、精神的未
熟性がある」と。
 
(030920)

【追記】
いつか子どもは、あなたから去っていく。そのとき、あなたはどこまで無我の境地になれるだろ
うか。ある父親は、息子にむかって、ことあるごとに、こう言うという。「お前には、三〇〇〇万
円も、かけたからな」と。つまり「学費など、三〇〇〇万円もかかった」と。

 その父親は息子にそう言いながら、「だから何とかせよ」と迫っている。その息子氏は、私に
こう言った。「あれくらい、いやな言葉はない。それを言われるたびに、かえって親への感謝の
気持ちが、吹っ飛んでしまう」と。

 しかし父親がそう言うということは、そもそも父親の息子に対する愛情を疑ってみたほうがよ
い。何か、大きなわだかまりがあるのかもしれない。

親が子どもに対して犠牲的になるのはしかたないとしても、それを子どもに押しつけてはいけな
い。いわんや恩の押し売りをしてはいけない。




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13

●いじめ

●いじめに苦しむ中学生
 
ある母親(静岡県K市在住、STさん)から、相談のメールが入った。内容は、中学二年生にあ
る娘が、学校でいじめにあっているという。何をしても無視される。仲間はずれにされる。のけ
ものにされる。そしてそのたびに、娘はつらい思いをしている。だから「娘の心に、キズはつか
ないか?」と。

 こうした相談をもらうたびに、私は大きな無力感を覚える。その母親は、私に救いを求めてき
ている。しかし私には、その母親はもちろん、娘を救う力など、どこにもない。私がせいぜいで
きることと言えば、その母親や娘の立場になって、話を聞いてやることでしかない。

 実は、私も、中学時代のある時期、そして高校時代のある時期、同じような経験をしている。
こんなことがあった。高校一年の終わりか、二年のときのことだったと思う。

 遠足のバスの、その席決めをするときのこと。クラスに一人、リーダー格の男がいて、その男
が、バスの一番うしろに陣取ってしまった。あとはその仲間と取り巻きが、うしろから順に席をと
った。担任の教師が、「話しあって、自分たちで決めろ」と言った。それでそうなった。

 私は、前から二番目の席に座ることになった。となりは、学校ではまったく目立たない、B君
だった。授業中でも居眠りすると、口や鼻から、ダラダラと唾液をこぼす男だった。そのため、
とくに、女子からは嫌われていた。

 私は、だれも座りたがらない、そのB君の横に座った。親しくはなかったが、家が近かった。
それでよく遊びに行ったりは、していた。

 ほかにもいろいろあった。で、そういうときの自分の心理を、思いだしてみると、今でも何とも
言えない重苦しさを覚える。心が空回りしているというか、自分であって、自分でなかったような
……。

 毎日が、そういういじめと、それに対する、虚勢の張りあいの繰りかえしだった。当時の私
は、弱音を吐いたら、負けと思っていた。だからいくらいじめにあっても、それを気にしないフリ
をしていた。反対に、ときには、相手に向かって、殴りあいのけんかをしかけていったこともあ
る。

 私は、そういう点では、決してヤワな男ではなかった。そんな私でも、毎日、学校へ向かうの
が苦痛だった。いつもひとりぼっちだったし、心を許せる友だちはいなかった。私は、みなか
ら、孤立していた。

 今から考えると、その原因のほとんどは、担任のT教師にあったように思う。高校の入学当
時、私はズバ抜けて成績がよかった。だからT教師はいつも、「林に追いつけ」「林を追い越
せ」と、みなにハッパをかけていた。一方、追われる立場の私には、テストごとに、「お前は、こ
の科目では、XXに負けそうだ」「YYに追いつかれるぞ」と、脅した。

 そんなわけで私は、高校一年の夏休みには、すでに転校を考えていた。が、母がそれを許さ
なかった。母は、あの手、この手を使って、私の転校を阻止しようとした。私はやがて、八方ふ
さがりの状態に追いこまれていった。

 私に対する「いじめ」は、そのころから始まった。みなが私には、口をきいてくれなくなった。も
ちろんあいさつもない。そのつど、いろいろなスポーツ大会があったが、私はそれからも仲間
はずれにされた。

 ゆいいつ、私ができたことは、逆に、彼らを無視することだった。本当は無視などできなかっ
たが、気にしていないフリをした。「どうぞ、ご勝手に」と。

●私の経験から

 こうしてあの悪夢のような三年間は終わったが、その結果、私はどうなったか? 孤独に強く
なったというか、そういう生きザマが、身についてしまった。今でも、そのころの生きザマが、基
本になっている。他人に相手にされなくても、かまわないという生きザマ。結局は、生きていくの
もひとり、死ぬのもひとりという生きザマ。ときどきそんな自分を、「風来坊」とか、「無頼(ぶら
い)」とか思うことがある。そういう生きザマを身につけてしまった。

 いじめによる「キズ」は、たしかにある。ないとは言わない。しかし私のばあい、もう一つ大き
な問題があった。

 私が四、五歳のころから、父は酒におぼれるようになり、数日おきに酒を飲んでは暴れた。
私には、まさに地獄のような毎日だった。そのため、当然のことながら、心もゆがんだ。精神も
キズついた。今でも、当時のキズが、私を苦しめることがある。

 だから打たれ強いというか、免疫性ができていたというか、学校でのいじめは、あくまでも私
にとっては、マイナーな問題でしかなかった。学校にいるのも地獄なら、家の中にいるのは、さ
らに地獄だった。

 こうした私の経験が、その相談の人に役だつかどうかは知らないが、こういうことは言える。

 質問にもあるように、「キズつくかどうか」ということだが、キズはつく。まちがいなく、キズはつ
き、そのキズは一生残る。やわらぐことはあるが、決して消えることはない。今の私がそうだ
が、私はいつごろからか、もう消そうとは思わなくなった。そのかわり、キズと、うまくつきあうこ
とだけを考えるようになった。あきらめたというか、居なおったというか……。

 ただ、誤解しないでほしいのは、キズのない人はいないし、また人は、キズまるけになって成
長するものだということ。キズをつくような経験は、だれでもいやだ。しかし人は、キズまるけに
なって成長する。

 こんなことを書くと、その渦中にいる人に、叱られるかもしれない。以前、私に、「あんたはい
じめの本質がわかっていない。教育評論家として失格だ。筆を折れ。大馬鹿野郎!」と、手紙
を書いてきた女性がいた。私が、「いじめによって、子どもが、キズつくことを恐れてはいけな
い」と、何かのコラムに書いたときのことである。その女性は、私の文をしっかりと読まないま
ま、「いじめを容認する発言で、許せない」と怒っていた。私は、そんなことは一言もいないのだ
が……。

 私は何も、いじめを肯定しているのでも、容認しているのでもない。しかし人は、キズつくこと
で、そうでない人にはわからない、心のポケットをつくる。そしてそのポケットが多くなり、それぞ
れのポケットが深くなればなるほど、その人はやさしくなる。人格は重くなる。

 いじめた人は、そのときは、ある種の優越感にひたることができるかもしれないが、長い間の
人生では、確実に損をする。人生の真理から遠ざかった分だけ、時間をムダにする。

 しかし一方、いじめられた人は、そのときは、深い悲しみや苦しみに襲われるかもしれない
が、長い人生の中で、一直線に、真理に向かうことができる。ほかの人が見ることができない
世界を見、そしてその世界が、どんな世界かを、知ることができる。

 私も、もうずぐ五六歳になる。だから今まで、だれにも話さなかったことを告白しよう。

●クビ切りは、立ち話だった

 三年間勤めた進学塾の講師だったが、クビを切られるときは、立ち話だった。ある日、教室
の中で資料の整理をしていると、交代したばかりの塾長がやってきて、私にこう言った。「林
君、君は、来月からは、もう来なくていいから」と。

 そのとき私が受けた衝撃がどんなものであったか。それはともかくも、私はそれから数日間、
夜は一睡もできなかった。体中が熱をおび、息苦しさが、私を繰り返し襲った。ワイフが一晩
中、私を、介抱(かいほう)してくれた。

 で、その結果だが、私は、そのときの悔しさを、バネとすることができた。「いつかあいつをた
たきのめしてやる」と、燃えるような敵意さえ覚えた。もっとも、そのあと私が選んだ道は、決し
て楽なものではなかったが、ともかくも、そのときを境に、私の幼児教育に対する姿勢は、大き
く変わった。

 今から思うと、そのときの反骨精神もまた、あの高校時代につかんだ生きザマからきている
のかもしれない。怒りを、生きるエネルギーにする。悔しさを、生きるバネにする。そして苦しみ
や悲しみ乗り越えながら、ますます強くなっていく。そういう反骨精神である。

 こういう経験から、いろいろなことが言える。

●いじめる側の意識

 私のばあい、高校時代、そうしたいじめにあっているとき、それをだれにも言わなかった。父
はもちろんのこと、母にも、そして担任の教師にも言わなかった。これは余談だが、最近になっ
て、高校の同窓生のY君にその話をすると、Y君は、こう言った。

 「林がいじめにあっていたなんて、信じられない。お前は、いつも明るく楽しそうだった。それ
にお前は、T(担任教師)に、かわいがられていたと思っていたよ」と。

 さらにこんなこともあった。ちょうど三〇歳になったころ。高校の同窓会があった。で、その中
の一人に、私はこう聞いた。X君といって、そのグループのナンバー2にいた男だった。「君は、
高校時代、かなりぼくに敵意を感じていたようだが、どうしてか?」と。

 するとその男は、けげんそうな顔をして、「ぼくがア……?」と。

 まったく覚えていないというか、記憶にないというような様子だった。私は、彼の態度に驚い
た。「私をいじめていたことを覚えていない?」と。

 しかしもしそのとき、そのとき彼が、「ああ、そうだったな」とでも言えば、私はその場でその男
を、殴り飛ばしていたかもしれない。その覚悟をもって、私はそう聞いた。が、その彼が、「ぼく
がア……?」と。

 最初、私は、彼がとぼけていると思った。しかしどうもそうでなかったようだ。どこか狐につま
まれたような気分だった。そしてつぎの瞬間、私は「では、あのいじめはいったい、何だったの
か」と思った。私の思い過ごし? 誤解? それとも被害妄想? わけがわからなくなってしまっ
た。

 で、あの状況の中で、つまり私が高校という場でキズまるけになっていたとき、だれかが私を
救うことができたかというと、それはできなかったと思う。父や母の出る幕はなかったし、担任
の教師の問題ではなかった。いじめるほうはともかくも、いじめられるほうにとっては、いじめの
問題は、どこまでも個人的な問題である。

 本当に助ける力があるなら、相手の子どもを排除するか、さもなければ、私を別の世界へ運
び出す。そこまでしてはじめて、そういうときの私を救うことができる。へたな励ましや、へたな
指導など、何の意味もない。あれこれ外部の人が口を出すと、かえって事情は複雑になる。た
とえそれが親や教師でも、だ。

 こうして考えてみると、最初に感じた無力感は、そのまま親の限界ということにもなる。つまり
親にできることにも、限界があるということ。親はいつも、その限界状況の中で、子育てをす
る。

 親がせいぜいできることと言えば、その限界状況の内側から、子どもの成長を、そっと静か
に見守ることでしかない。それは、とくにこうした問題をかかえた親には、つらくてきびしい経験
かもしれないが、どうしようもない。

 ゆいいつできることと言えば、家庭という場を通して、子どもの心と体をいやす程度でしかな
い。そしてどこまでも子ども立場で、子どもの心を理解することでしかない。「がんばれ」ではな
く、「あなたはよくがんばっているわ」と。

 少し話題を変えてみたい。

 ひとり、印象に残っている高校生に、ヒロシ君という子どもがいた。私は今でも、その子ども
を、尊敬の念をこめて、「ヒロシ君」と、「君」づけで呼ぶ。そのヒロシ君について書いた原稿を、
ここに掲載する。

++++++++++++++++++++++

●ヒロシ君

 ヒロシ君(中二)は、心のやさしい子どもだった。そういうこともあって、いつも皆に、いじめら
れていた。が、彼は決して、友だちを責めなかった。背中にチョークで、いっぱい落書きをされ
ても、「ううん、いいんだよ、先生。何でもないよ。皆でふざけて遊んでいただけだよ」と言ってい
た。 

 そのヒロシ君は、事情があって、祖父母の手で育てられていた。が、その祖父が脳梗塞で倒
れた。倒れて伊豆にあるリハビリセンターへ入院した。これから先は、ヒロシ君の祖母から聞
いた話だ。

 祖父はヒロシ君が毎週、見舞いに来てくれるのを待って、ひげを剃らなかった。ヒロシ君がひ
げを剃ってくれるのを、何よりも楽しみにしていたそうだ。そしてそれが終わると、祖父とヒロシ
君は、センターの北にある神社へ、お参りに行くことになっていたという。

そこでのこと。帰る道すがら、祖父が、「お前はどんなことを祈ったか」と聞くと、ヒロシ君は、
「高校に合格しますようにと祈った」と。それを聞いた祖父が怒って、「どうしてお前は、わしの
病気が治るように祈らなかったか」と。そこでヒロシ君はあわてて神社へ戻り、もう一度、祈りな
おしたという。

 この話を聞いて以来、私は彼を、尊敬の念をこめて、「ヒロシ君(実名)」で呼ぶようになった。
とても呼び捨てにはできなかった。いろいろな子どもがいるが、実際には、ヒロシ君のような子
どももいる。

 今、いじめが問題になっている。しかしいじめられる子どもは、幸いである。心に大きな財産
を蓄えることができる。一方、いじめる子どもは、大きく自分の心を削る。そしていつか、そのこ
とで後悔するときがくる。世の中の人はバカばかりではない。しっかりと人を見る人がいる。そ
ういう人が、しかっりと判断する。ヒロシ君にしても、学校の先生には好かれ、浜松市内のK高
校を卒業したあと、東京のK大学へと進んでいる。ヒロシ君は、見るからに人格が違っていた。

 自分の子どもが、学校でいじめられているのを見るのは、つらいことだ。しかし問題は、いつ
どこで親が手を出し、いつどこで教師が手を出すかだ。いじめのない世界はないし、人はいじ
められながら成長し、そしてたくましくなる。つらいが、親も教師も、耐えるところでは耐える。そ
うでないと、子どもがひ弱になってしまう。

今はこういう時代だから、ちょっとした悪ふざけでも、「そら、いじめだ!」と、親は騒ぐ。が、こう
いう姿勢は、かえって子どもから自立心を奪う。もちろん陰湿ないじめや、限度を超えたいじめ
は別である。

しかしそれ以前の範囲なら、一に様子を見て、二にがまん。三、四がなくて、五に相談。親や教
師ができることといえば、せいぜい、子どもの肩に手をかけ、「お前はがんばっているんだよ」と
励ましてあげることでしか、ない。それは親や教師にとっては、とてもつらいことだが、親や教師
にも、できることには限度がある。その限度の中で、じっと耐えるのも、親や教師の務めではな
いかと、私は思う。

++++++++++++++++++++++

●いじめの背後にあるもの

繰りかえすが、だからといって、もちろんいじめを、私は肯定しているわけではない。容認して
いるわけでもない。しかしこの問題は、親たちが考えているより、はるかに根が深い。

 今のような、つまり、日本のような競争主義の世界では、強者、弱者は必然的に生まれる。
「勉強しなさい」という、親たちが何気なく使う言葉が、一方で、子どもたちの世界で、軋轢(あつ
れき)を生み出す。

 さらに人間という生物そのものが、本来的にかかえる問題もある。弱者を踏みにじりながら、
あるいは弱者を排斥しながら、人間は進化を重ねてきた。理性を超えた、本能の部分で、いじ
めが起こることもある。

 本来なら、社会のリーダーたちが、その弱者の立場で、政治を考え、社会を考えなければな
らない。しかしこの日本では、皮肉なことに、はげしい受験構想を勝ちぬいた、つまりは、勉強
しかしない。勉強しかできないような、いわゆる強者でないと、そのリーダーになれない。もとも
と弱者の視点そのものがない。

 文化の完成度は、弱者にいかにやさしい社会かで、決まる。そのやさしさがある社会を、完
成された社会と呼び、そうでない社会を、不完全な社会と呼ぶ。豪華な劇場や、豪華な道路で
はない。あくまでも、「心の中身」で決まる。

 こうした社会や、人間性の欠陥を補うため、制度として、いじめに苦しんでいる子どもを救う
方法も考えなければならない。たとえばこの日本では、子どもたちには、いつもひとつのコース
しかない。考えてみれば、これほど、おかしな制度もない。いまだにこの日本は、明治時代の
富国強兵策から生まれた学校制度を、かたくなに守っている。

 融通のきかない制度。多様性を認めない制度。実はそういう硬直した世界で、子どもたち自
身が、窒息している。親たちも、窒息している。いじめに限らず、学校教育がかかえるほとんど
の問題は、こうした硬直した制度から生まれる。受験競争しかり。荒廃しかり。校内暴力しか
り。

 いじめの問題を、本当に解決しようと考えたら、こうした部分にまでメスを入れなければならな
い。しかし、それは今の日本では、可能なのか?

●どう接したらよいか?

 そこで、こう考えては、どうだろうか。これは私の経験をもとに、「こうあってほしかった」という
視点から考えた方法である。

(1)徹底して、家庭を、憩いとやすらぎの場にする。……家庭を、子どもが外の世界で疲れた
心と体を休める場所にする。そのために「暖かい無視」を大切にする。子どもの世界を、親の
暖かい愛情で包み、一方、子ども自身が親の目をほとんど感じないほどまでに、無視する。こ
うしたケースで、子どものほうから、何か救いを求めてこない間は、親のほうから、あれこれ、
口を出すのは、かえって逆効果。

(2)あくまでも子どもの立場で考える。……こうしたケースで、「がんばれ」式の励まし。「こんな
ことでは」式の脅しは、タブー。それについては、もう書いた。大切なことは、子どもの苦しみを
共有すること。「あなたはダメになってしまう」式に、不安や心配を子どもにぶつけてはいけな
い。さらに「学校が悪い」「友だちが悪い」式に、怒りやうらみを、他人にぶつけてはいけない。
愚かな人間たちを、あわれんでやる。そういう姿勢が、子どもの心を溶かし、そして豊かにす
る。

(3)コースは一つではない。……幸せになる道は、決して一つではない。近道もないし、回り道
もない。子どもの世界について言うなら、「学校」だけが、コースではない。だからといって、学
校教育を否定しているのではない。ないが、その学校教育には、限界がある。「学校」を絶対
視してはいけない。大切なのは、そうした幻想から、自らを解き放つこと。親が、その幻想にと
りつかれている間は、子どももまた、その幻想から解き放たれることはない。集団に属さない
から、落ちこぼれという考え方は、まちがっている。完全にまちがっている。もしまちがっている
というのなら、では、いったい、この私はどうなのか。私は二〇代のはじめから、集団には、ま
ったく属していない。

(4)高い文化をめざそう。……先にも書いたように、文化の高さは、社会的弱者にいかにやさ
しいかで、決まる。そういう「やさしい社会」を、みんなでめざそう。こうした教育のまつわる最大
の欠陥は、実は、親たち自身にある。親たちは、自分の子どもがその渦中にいるときは、あれ
これ大きく問題にする。しかし子どもが、卒業し、「学校」から離れると、その問題から遠ざかっ
てしまう。逃げてしまう。私が何か、助言を求めても、「私たちは、もう終わりましたから」と。こう
した親の気持ちが、理解できないわけではない。しかしこうした親の「割り切り?」が、問題を順
に先送りしてしまう。むずかしいことではない。ごく日常的な、ほんの身のまわりから、「やさし
さ」を見つけ、それを育てていく。そういう小さな努力が、この日本を変える。

 注意すべきこともある。こうしたいじめを経験した子どもは、そのあと、大きく、二つのタイプに
分かれる。

 ひとつは、いじめの邪悪性に気づき、人間的に自らを昇華していくタイプ。もうひとつは、その
邪悪さに、染まっていくタイプ。後者の子どもは、いじめられた経験をもとに、今度は反対に、い
じめる側に回ることが多い。

 このいじめとは関係ないが、私は、このことを、自分がドン底に落とされたとき、発見した。そ
のことについて書いたのが、つぎの原稿である。話が少しわき道にそれるが、許してほしい。

++++++++++++++++++++++

●善人と悪人

 人間もどん底に叩き落とされると、そこで二種類に分かれる。善人と悪人だ。そういう意味で
善人も悪人も紙一重。大きく違うようで、それほど違わない。私のばあいも、幼稚園で講師にな
ったとき、すべてをなくした。母にさえ、「あんたは道を誤ったア〜」と泣きつかれるしまつ。私は
毎晩、自分のアパートへ帰るとき、「浩司、死んではダメだ」と自分に言ってきかせねばならな
かった。ただ私のばあいは、そのときから、自分でもおかしいと思うほど、クソまじめな生き方
をするようになった。酒もタバコもやめた。女遊びもやめた。

 もし運命というものがあるなら、私はあると思う。しかしその運命は、いかに自分と正直に立
ち向かうかで決まる。さらに最後の最後で、その運命と立ち向かうのは、運命ではない。自分
自身だ。それを決めるのは自分の意思だ。だから今、そういった自分を振りかえってみると、
自分にはたしかに運命はあった。しかしその運命というのは、あらかじめ決められたものでは
なく、そのつど運命は、私自身で決めてきた。自分で決めながら、自分の運命をつくってきた。
が、しかし本当にそう言いきってよいものか。

 もしあのとき、私がもうひとつ別の、つまり悪人の道を歩んでいたとしたら……。今もその運
命の中に自分はいることになる。多分私のことだから、かなりの悪人になっていただろう。自分
ではコントロールできないもっと大きな流れの中で、今ごろの私は悪事に悪事を重ねているに
違いない。が、そのときですら、やはり今と同じことを言うかもしれない。「そのつど私は私の運
命を、自分で決めてきた」と。……となると、またわからなくなる。果たして今の私は、本当に私
なのか、と。

 今も、世間をにぎわしている偉人もいれば、悪人もいる。しかしそういう人とて、自分で偉人に
なったとか、悪人になったとかいうことではなく、もっと別の大きな力に動かされるまま、偉人は
偉人になり、悪人は悪人になったのではないか。

たとえば私は今、こうして懸命に考え、懸命にものを書いている。しかしそれとて考えてみれ
ば、結局は自分の中にあるもうひとつの運命と戦うためではないのか。ふと油断すれば、その
ままスーッと、悪人の道に入ってしまいそうな、そんな自分がそこにいる。つまりそういう運命に
吸い込まれていくのがいやだからこそ、こうしてものを書きながら、自分と戦う。……戦ってい
る。

 私はときどき、善人も悪人もわからなくなる。どこかどう違うのかさえわからなくなる。みな、ち
ょっとした運命のいたずらで、善人は善人になり、悪人は悪人になる。今、善人ぶっているあな
ただって、悪人でないとは言い切れないし、また明日になると、あなたもその悪人になっている
かもしれない。そういうのを運命というのなら、たしかに運命というのはある。何ともわかりにく
い話をしたが、「?」と思う人は、どうかこのエッセイは無視してほしい。このつづきは、別のとこ
ろで考えてみることにする。

+++++++++++++++++++++++

【STさんへ】

 相談のメール、どうもありがとうございました。ここでは、「いじめ」について、少し別の角度か
ら考えてみました。参考になったかどうかは、わかりませんが、今、私が思っていることを、そ
のまま書いてみました。

 お嬢さんが苦しんでおられる様子は、メールの内容から、よくわかります。またよく理解できま
す。しかしこの問題がかかえる、最大の問題は、その怒りや悲しみを、ぶつける先がないという
ことです。だれに、どう訴えたらよいのかわからないまま、袋小路に入ってしまいます。

 本来なら、「そんなに苦しいのなら、学校なんて、行かなくてもいいのよ」と言ってあげたいで
すね。しかしそれが自然な形で言えるようになるには、親自身、さらには社会全体がもっている
意識を変えなければなりません。

 大切なことは、お嬢さんの「心」を守るということです。いえ、キズつくことから守るというのでは
ありません。こうしたキズには、必ず、二面性があります。キズを、自分の心のポケットにする
子どももいれば、さらに邪悪な心に転化してしまう子どももいるということです。

 その分かれ道は、「やさしさ」で決まります。今こそ、あなたという親のやさしさの、その真価が
試されるときだと思ってください。あなたの愛情と、それから生まれ出るやさしさがあれば、あな
たのお嬢さんの心がゆがむということは、ありえません。どうか、それを信じて、前向きに進ん
でください。

 悲しいことに、いじめる側は、ほとんど無意識のまま、半ば「遊び」の連続として、それをしま
す。本人たちに、いじめているという意識そのものがないのが、ふつうです。言いかえると、こち
ら側が、まじめに考えるのが、アホらしくなるほどです。だったら、無視すればよいのです。とい
っても、それは口で言うほど、簡単なことではないですが……。

 そこでどうでしょう。こう考えては……。

 親は、子どもを産んで親になりますが、真の親になる道は、遠い、です。野を越え、山を越
え、嵐の中をくぐり抜けながら、前に進む。そしてその結果として、親は、子どもによって、真の
親へと育てられる。

 STさんがかかえておられる問題が、決して簡単な問題だと言っているのではありません。し
かしこの問題も、前向きにとらえることによって、あなたはあなたとして、それを自分を成長させ
るための道具とすることができるということです。

 そうです。これは深刻な問題です。先にも書いたように、社会全体、あるいは人間が本性とし
てかかえる問題です。だったら、みんなで、この問題を考えていこうではありませんか。……つ
まり、私がここでいう「前向き」というのは、そういう姿勢をいいます。

 本当に、無力で、ごめんなさい。しかしね、STさん。こうした無力感は、今、始まったばかりで
すよ。これから先、STさんも、親として、無数の無力感を覚えるはずです。どうしようもないカベ
にぶつかりながら、そのつど、「許して忘れる」。子育ては、まさにその連続です。

 一つ、視点を外に向ければ、格差、貧困、不公平社会。さらに外に向ければ、争い、飢餓、
戦争。いやおうなしに、子どもたちは、そういう世界に巻きこまれていきます。

 たとえば、こんなこともあります。私の息子の一人も、タバコを吸っています。それまでははげ
しく禁煙運動をしていた私ですが、以後、禁煙運動はやめました。無力感というか、大きな挫折
感を覚えたからです。

 しかし今、そういう息子を振りかえりながら、息子には息子の、タバコを吸いたくなるような、
心の状態があったことが理解できます。そして一方に、エイズだの、麻薬だの、そういう問題が
あります。今では、「タバコなど、何でもないなあ」と思うようになってしまいました。

 こうした無力感を感ずるうちに、これは私のばあいですが、その怒りを、外に向けるようにな
りました。今、こうして評論活動をつづけているのも、その一つです。で、私たちが、親としてせ
いぜいできることと言えば、キズついて帰ってくる息子や娘たちが、心や体を休める場所を、静
かに提供することぐらいでしか、ありません。「いつでも、疲れたら、もどっておいで」とです。と
てもつらいことですが、そっと暖かく、見守ることでしかないということです。

 何の力にもなれません。たいへん、申し訳なく思っています。ただそれがどんな形であれ、あ
なたのお嬢さんは、今、懸命に、戦いながら生きています。いじめの問題はさておき、私はそう
いう姿の中に、懸命に生きる人間の尊さというか、美しさを感じます。どうかそういう視点で、あ
なたのお嬢さんの成長を、見守ってあげてください。約束します。あなたのお嬢さんが、この問
題を乗り切ったとき、あなたのお嬢さんは、まちがいなくすばらしい人間に成長します。そしてあ
なた自身も、すばらしい人間に成長します。

 どうかそれを信じて、前向きに、ただひたすら前向きに、進んでみてください。

 いっしょに、弱い人をいじめる、アホな連中を、あわれんでやろうでは、ありませんか。
 いっしょに、弱い人をいじめる、バカな連中を、あわれんでやろうでは、ありませんか。
 そんな気持を忘れずに。それが、私たちの、やさしさなのです。
(030922)




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14

●溺愛(でき愛)

●母親の溺愛

 溺愛する親にせよ、ストーカー行為を繰りかえす人にせよ、それは「愛」によるものではない。
「代償的愛」による。代償的愛というのは、いわば、愛もどきの愛。身勝手で、自分本位の愛。
自分の心のすき間を埋めるための愛。子どもや、その相手を、そのために利用しているにす
ぎない。

 この代償的愛は、共通のものと考えてよい。私はこのことを、一人の母親に出会って、知っ
た。

 その母親(五五歳くらい)は、娘(現在、二八歳)を、溺愛した。それは恐ろしいほどの溺愛だ
った。娘が幼稚園児のときは、遠足先まで、見え隠れしながら、自分で車を運転して、ついてき
たという。

 が、その娘は、あるときから、そういう母親の溺愛をうるさく思うようになった。そして事件は起
きた。

 娘が母親の反対を押し切って、一人の男と結婚して、家を出てしまった。母親は、娘夫婦とい
っしょに暮らすことを考えていた。が、その夢は、こなごなに、こわれた。とたん、その母親は、
ストーカーに変身した。

 その話を、その女性(娘)から聞いたままを、ドキュメンタリー風に、書いてみる。

+++++++++++++++++

●娘をストーカーする母親

 ある夕方、H(女性、二八歳)が、食事のしたくをしていると、そこへ電話がかかってきた。そこ
に住むようになって、数日目のことだった。受話器を取ると、母親からだった。母親は、こう言っ
た。

 「あんた、今日はダサイ服を着てたわね。何よ、あの赤いスカート!」と。驚いてHが、「どうし
て知ってるの?」と聞くと、「スーパーで見かけたからよ」と。

 しかしその娘が行くスーパーには、母親は行かないはず。それに実家からは、距離も離れて
いる。母親は、ネチネチとした言い方で、あれこれ話し始めた。

 「あんた、インスタント食品ばかり買ってたでしょ。それにスパゲッティに、ウーロン茶? いっ
たい、どういう取り合わせをしてるの? 体によくないわよね。それとも、あんたのダンナを早
く、殺したいの? ちゃんと、料理してあげなさいよ」と。

 Hは、母が自分のことを怒っていることを知っていた。母の反対を押し切って、結婚した。実
際には、結婚式は、できなかった。今の夫とは、駈け落ちするかのようにして、家を出た。あと
で父に聞くと、その夜、母は、狂乱状態になって暴れたという。そんな負い目があった。Hは、
母親の話をだまって聞くしかなかった。

 が、それは、それからつづく、いやがらせの、ほんのはじめに過ぎなかった。

 電話は、翌日もかかってきた。そして今度は、こう言った。

 「この親不孝者め。親を捨てて家を出るということが、どういうことなのか、あんたにはわかっ
ているの。あのね、親を捨てる者は、地獄へ落ちるのよ。そう、あんたなんか、地獄へ落ちれ
ばいいのよ」と。

 それは前日と同じように、ネチネチした言い方だった。Hは、電話にとまどいながらも、反発す
ることすらできなかった。相手は親だ。しかも自分は、その親に、かわいがってもらった。ほし
いものは、たいてい何でも買ってもらった。

 大学は家から通ったが、家では、一番日当たりのよい、二階の三部屋を自由に使うことがで
きた。学費のほか、毎月一〇万円の小づかいをもらっていたが、そのほとんどは遊興費に使う
ことができた。しかし親は、何も文句は言わなかった。

H「お母さん、ごめんなさい。親不孝者だということは、自分でもわかっているわ」
母「そうよ。あんたなんか、地獄へ落ちるのよ。私が先に死ぬからね。あの世で、あんたが地
獄へ落ちるのを、楽しみに見ていてあげるからね」
H「でも、そんなつもりはないの」
母「そんなつもりって、何だい? 親を捨てたことかい?」
H「捨ててなんか、いないわ。いつもお母さんのことを、大切に思っているわ」
母「ああ、私はね、足が痛いんだよ。年齢も年齢だからね。だれが、病院へ連れていってくれる
のかね」と。

 こうした電話が、ほとんど、毎日、かかってきた。ときには、朝早い時刻に。ときには、真夜中
に。Hは、電話のベルが鳴るたびに、不安感を覚えるようになった。「心の底をえぐられるような
不安感」と、Hは言った。

 しかしHは、母からの電話については、夫には言わなかった。ときどき夫が電話に出ることは
あったが、母は、夫には、別人のように、やさしくていねいな言い方をした。夫は、いつも、H
に、「おまえの母さんは、いい母さんだな」と言っていた。

 そう、母親は、近所では、「仏様」というニックネームをつけられていた。穏やかな顔立ち、そ
れに低い、物腰。何かと小うるさい女性ではあったが、嫌われるということは、なかった。しかし
娘のHには、違った。

 その日は、夫がいない夜に、電話がかかってきた。母は、夫が泊りがけの出張で、家にいな
いことを知っていた。

母「あんたの手料理が食べたいよオ〜」
H「何を?」
母「昨日は、ダンナと、スキヤキを食べたんだろ?」
H「どうして、それを知っているの?」
母「母さんは、何でも知ってるんだよ」
H「どうしてスキヤキって、知っているの? 見てたの? どこで?」
母「そんなのは、私の勝手だろ。私はね、あんたが家を出てからというもの、毎晩、泣いて過ご
しているんだよ」
H「そんな……」
母「あんたも、もうすぐ母親になるんだろ。子どもが生まれるんだろ。だったら、そんな狭いアパ
ートなんかにいないでさ、うちへ戻っておいでよ。あんな風采のあがらないダンナなんかとは、
別れなさいよ」
H[それは、できないわ]
母「どうしてだい。親よりも、ダンナのほうが大切だと言うのかい?」
H「そうではないけど、私には、私の生活があるのよ」
母「じゃあ聞くけど、私の人生は何だったのよ。私の人生を返してよ。あんたには、いくらお金を
かけたか、わからない。あんたがピアノをひけるようになったのも、私が毎週、毎週、高い月謝
を払って、ピアノ教室へ連れていってあげたからでしょ。その恩を忘れたの?」
H「忘れてはいないわ。でも、私は私の生活をしたいの」
母「この親不孝者めが!」(ガチャン)と。

 Hによると、電話での母の声の調子は、毎日のように変わるという。はげしく罵声したかと思う
と、その翌日には、ネコなで声で、甘えるような言い方をするなど。あるいは、怒った言い方を
した翌日は、今度は一転、弱々しい言い方をするときもあるという。一度は、今にも死にそうな
声で、「助けてくれ」と電話がかかってきたこともある。

 あわててHが実家へ戻ってみると、母は台所で、ピンピンしていたという。そしてこう言ったと
いう。「お帰りなさい。あんたが帰ってくると思ったから、おいしいごちそうを用意しておいたから
ね」と。

 Hは夫に、あれこれ口実をつくって、アパートをかえることにした。夫は、それに従ってくれた。
Hは、もちろん母に内緒で、今度は、市内でも、実家からは反対側にある、E町に住居を移し
た。が、電話線を引いたその翌日には、母から電話がかかってきた。

母「引っ越したんだってね。どんなところだい。家賃は、一二万円というじゃないかい。豪勢な生
活だね」
H「……」
母「私に内緒で引っ越しても、ムダだよ。親と神様は、すべてをお見通しだよ」
H「お願いだから、私のことは私に任せて」
母「任せて? よくもまあ、そんな生意気な口がきけたもののね。あんたは、だれのおかげで、
言葉が話せるようになったか、それがわかっているの? 親の私よ。どこに、子どもに言葉を
教えない親がいるもんかね」

 そこでHは、ふりしぼるような声で、こう言った。

H「お母さん……、私に、どうかお願いだから、もう構わないで……」と。

 「構わないで」という言い方は、Hが母親に対して、はじめて使った言葉である。Hが、使いたく
ても使えなかった言葉。いつものどまで出かかっていたが、そこで止まっていた言葉。予想どお
り、その言葉は、母を激怒させた。母は、ヒステリックな金きり声をあげて、こう叫んだ。

「何てこと言うの! 親に向かって! この恩知らずめ!」(ガチャン)と。

 この話は、現在進行形である。私も、最初、この話を聞いたときには、自分の耳を疑った。し
かし、ここに書いたことは、事実。こうした(常識にはずれた話)を書くときは、私はできるだけ
聞いたとおりを、忠実に書く。

 で、この話とは別に、私は一つの事実に気づいた。それが冒頭に書いた、子どもを溺愛する
親が感ずる「愛もどきの愛」と、ストーカーする人が口にする、「愛もどきの愛」とは、同質のも
のである、と。もともと親の身勝手な愛という点で、共通している。

+++++++++++++++++++

●溺愛

 溺愛ママには、いくつかの特徴があります。
それについては、以前にも、いくつかの原稿
を書いてきました。その一つ(子育ての最前
線にいるあなたへ」(中日新聞社・掲載済み)
を、ここに転載します。

+++++++++++++++++++

●溺愛ママの溺愛児

 「先生、私、異常でしょうか」と、その母親は言った。「娘(年中児)が、病気で休んでくれると、
私、うれしいのです。私のそばにいてくれると思うだけで、うれしいのです。主人なんか、いても
いなくても、どちらでもいいような気がします」と。私はそれに答えて、こう言った。「異常です」
と。

 今、子どもを溺愛する親は、珍しくない。親と子どもの間に、距離感がない。ある母親は自分
の子ども(年長男児)が、泊り保育に行った夜、さみしさに耐え切れず、一晩中、泣き明かした
という。また別の母親はこう言った。「息子(中学生)の汚した服や下着を見ると、いとおしくて、
ほおずりしたくなります」と。

 親が子どもを溺愛する背景には、親自身の精神的な未熟さや、情緒的な欠陥があるとみる。
そういう問題が基本にあって、夫婦仲が悪い、生活苦に追われる、やっとのことで子どもに恵
まれたなどという事実が引き金となって、親は、溺愛に走るようになる。肉親の死や事故がきっ
かけで、子どもを溺愛するようになるケースも少なくない。そして本来、夫や家庭、他人や社会
に向けるべき愛まで、すべて子どもに注いでしまう。その溺愛ママの典型的な会話。

先生、子どもに向かって、「A君は、おとなになったら、何になるのかな?」
母親、会話に割り込みながら、「Aは、どこへも行かないわよね。ずっと、ママのそばにいるわ
よねエ。そうよねエ〜」と。

 親が子どもを溺愛すると、子どもは、いわゆる溺愛児になる。柔和でおとなしく、覇気がない。
幼児性の持続(いつまでも赤ちゃんぽい)や退行性(約束やルールが守れない、生活習慣がだ
らしなくなる)が見られることが多い。満足げにおっとりしているが、人格の核形成が遅れる。こ
こでいう「核」というのは、つかみどころをいう。輪郭といってもよい。

子どもは年長児の中ごろから、少年少女期へと移行するが、溺愛児には、そのときになって
も、「この子はこういう子だ」という輪郭が見えてこない。乳幼児のまま、大きくなる。ちょうどひ
ざに抱かれたペットのようだから、私は「ペット児」と呼んでいる。

 このタイプの子どもは、やがて次のような経路をたどる。一つはそのままおとなになるケー
ス。以前『冬彦さん』というドラマがあったが、そうなる。結婚してからも、「ママ、ママ」と言って、
母親のふとんの中へ入って寝たりする。これが全体の約三〇%。もう一つは、その反動から
か、やがて親に猛烈に反発するようになるケース。

ふつうの反発ではない。はげしい家庭内暴力をともなうことが多い。乳幼児期から少年少女期
への移行期に、しっかりとそのカラを脱いでおかなかったために、そうなる。だからたいていの
親はこう言って、うろたえる。「小さいころは、いい子だったんです。どうして、こんな子どもにな
ってしまったのでしょうか」と。これが残りの約七〇%。

 子どもがかわいいのは、当たり前。本能がそう思わせる。だから親は子どもを育てる。しかし
それはあくまでも本能。性欲や食欲と同じ、本能。その本能に溺れてよいことは、何もない。

++++++++++++++++++++++++

同じような内容ですが、「マザコン人間」(失礼!)に
ついて書いた原稿を転載します。

++++++++++++++++++++++++

●マザコン人間

 マザコンタイプの男性や女性は、少なくない。昔、冬彦さん(「テレビドラマ『ずっとあなたが好
きだった』の主人公」)という男性のような例は、極端な例だが、しかしそれに似た話はいくらで
もある。総じてみれば、日本人は、マザコン型民族。よい例が、森進一が歌う、『おふくろさ
ん』。世界広しといえども、大のおとなが夜空を見あげながら、「ママー、ママー」と涙をこぼす民
族は、そうはいない。

 そのマザコンタイプの人を調べていくと、おもしろいことに気づく。その母親自身は、マザコン
タイプの息子や娘を、「親思いの、いい息子、いい娘」と思い込んでいる。一方、マザコンタイプ
の息子や娘は、自分を、「親思いの、いい息子、いい娘」と思い込んでいる。その双方が互い
にそう思い込んでいるから、自分たちのおかしさに気づくことは、まずない。

意識のズレというのはそういうものだが、もっとも互いにそれでよいというのなら、私やあなた
のような他人がとやかく言う必要はない。しかし問題は、そういう男性や女性の周囲にいる人
たちである。男性の妻とか、女性の夫とかなど。ある女性は、結婚直後から自分の夫がマザコ
ンであることに気づいた。ほとんど数日おきに、夫が実家の母親と連絡を取りあっているという
のだ。何かあると、ときには妻であるその女性に話す前に、実家の母親に報告することもある
という。

しかし彼女の夫自身は、自分がマザコンだとは思っていない。それとなくその女性が夫に抗議
すると、「親を大切にするのは子の努め」とか、「親子の縁は切れるものではない」と言って、ま
ったく取りあおうとしないという。

 いわゆる依存型社会では、「依存性」が、さまざまな形にその姿をかえる。ここにあげた「マザ
コン」もその一つ。で、最近気がついたが、マザコンというと、母親と息子の関係だけを想像し
がちだが、母親と娘、あるいは父親と娘でも、同じような関係になることがある。そして息子と
同じように、マザコン的であることが、「いい娘」の証(あかし)であると思い込む女性は少なくな
い。

このタイプの女性の特徴は、「あばたもエクボ」というか、何があっても、「母はすばらしい」と決
めつけてしまう。ほかの兄弟たちが親を批判しようものなら、「親の悪口は聞きたくない!」と、
それをはげしくはねのけてしまう。ものの考え方が権威主義的で、親を必要以上に美化する一
方、その返す刀で、自分の息子や娘に、それを求める。

つぎの問題は、このとき起きる。息子や娘がそれを受け入れればそれでよいが、そうでないと
きには、互いがはげしく衝突する。実際には、息子や娘がそれを受け入れる例は少なくない。
こうした基本的な価値観の衝突は、「キレツ」程度ではすまない。たいていはその段階で、「断
絶」する。

 マザコン的であることは、決して親孝行ではない。このタイプの男性や女性は、自らのマザコ
ン性を、孝行論でごまかすことが多い。じゅうぶん注意されたい。

【追記】ことさらおおげさに、親孝行論を唱えたり、親を絶対視する人は、まず、その人の中に
潜む、ここでいう「マザコン性」を疑ってみるとよい。このタイプの人は、自らのマザコン性を正
当化するために、親を絶対視する傾向が強い。

 親子といえども、そこは純然たる人間関係で、その「質」が決まる。少なくとも親は、「親であ
る」という、「である」論に甘えてはいけない。親は親で、どこまでも気高く、前向きに生きていく。
それが親としての、真のやさしさではないだろうか。





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15

●母親の一貫性

 母親に求められる、第一の条件は、「一貫性」である。まずいのは、母親の子どもへの接し方
が、そのときどきの母親の気分で、変動すること。気分がよいときには、子どもにベタベタし、
そうでないときは、冷淡になる、など。こうした不安定な養育姿勢は、子どもの心に、深刻な影
響を与える。

 よく知られた例としては、パーソナリティ障害(人格障害)というのがある。このタイプの人は、
ものの考え方や、行動が極端になりやすいことが知られている。

 たとえば相手を好きになると、徹底的に好きになる。しかしふとしたことで嫌いになると、今度
は、徹底して嫌いになるなど。行動が極端なため、ときには、自暴自棄になり、それが高じて、
自殺を図ることもある。

 このパーソナリティ障害の原因は、その人の乳幼児期にあるされる(発達心理学者・M・マー
ラーほか)。この時期、母親の接し方がまずいと、子どもは、不安や不信から、心の発達を停
止してしまうとされる。そしてそれが遠因となって、ここでいうパーソナリティ障害を引き起こすと
される。

 Kさん(三八歳・女性)は、パーソナリティ障害かどうかは別として、ときどき、はげしい絶望感
に襲われるという。いやになると、何もかもいやになる、というようにである。生来の完ぺき主義
もあった。こんなことがあった。

 ある日、二人の客が家に泊まった。そのとき、客が聞こえるような位置で、夫と口論をし、夫
に罵声(ばせい)を浴びせかけてしまった。「自分でも、まずいと感じていました。客にそういう声
を聞かれたくなかったのですが、自分をコントロールできませんでした」と。

 はげしい絶望感は、そのあとやってきた。「どうしてそんなことをしたのだろう」という思いが、
やがて胸の中で大きくふくらみ、自分で自分をはげしく、責めたてた。

 夫に相談すると、「どこの夫婦も、似たようなものだ。だれだって、けんかくらいならする」と、K
さんをなぐさめてくれたが、Kさんは、納得できなかった。自分でした行為の愚かさに、それから
数日間も悩まされたという。「心に何かしら不快な紙が張りついたような気分でした」と。

 こうした例は、多い。一般論として、心の変動のはげしい人は、それだけ情緒が不安定とみ
る。が、問題は、その人自身というより、まわりの人たちである。その人に振りまわされているう
ちに、何がなんだか、わけがわからなくなってしまう。

 反対に、これも一般論として、豊かな親の愛情に包まれ、心静かな環境で育った子どもほ
ど、どこかどっしりとしている。態度も大きく、ふてぶてしい。つまりそれだけ、情緒が安定してい
る。だから……。

 子どもの心を伸ばそうと考えたら、まず、親自身が、自分の心を安定させる。そして子育て
に、一貫性をもたせる。子どもが、スキンシップを求めてきたら、そのつど、安定した接し方で、
それに応じてあげるなど。こういう育児姿勢が、子どもの心を、はぐくむ。
 
【不安定なあなたへ……】

 もしあなたが、ここでいうような不安定な親なら、自分の行動に、制限をつけるとよい。すべき
ことと、してはいけないことを分け、そのしてはいけないことについては、夫なり、妻なりに任
す。

 たとえば子どもを叱るのは、夫(妻)に任す。説教するのは、夫(妻)に任す。大切な判断をす
るのは、夫(妻)に任す。子どもの勉強をみるのは、夫(妻)に任す、など。ふつう子どもと接して
イライラするようなことなら、それから遠ざかるようにするとよい。

 こうした制限をもうける接し方は、「制限設定」という名で、心理学の分野でも、治療法の一つ
として確立されている(J・マスターほか)。

要するに、苦手なことはしないこと。だれにも、得意、不得意がある。親だから万能でなければ
ならないと、そういうふうに、自分を追いこんではいけない。自分を改めようと、思ってはいけな
い。無理をしてはいけない。

子育ても、またしかり。苦手なら苦手でよい。大切なことは、そういう自分をすなおに認めるこ
と。認めたうえで、あとは前向きに、進む。得意なことだけをしていけばよい。

 以上、愛知県A市に住んでいる、Kさんからのメールをもとに、考えてみた。
(030924)

++++++++++++++++

これに関連して、以前、こんな
原稿(中日新聞掲載済み)を書
きました。

++++++++++++++++

子育てで親が行きづまったとき

●夫婦とはそういうもの    

 夫がいて、妻がいる。その間に子どもがいる。家族というのはそういうものだが、その夫と妻
が愛しあい、信頼しあっているというケースは、さがさなければならないほど、少ない。どの夫
婦も日々の生活に追われて、自分の気持ちを確かめる余裕すらない。

そう、『子はかすがい』とはよく言ったものだ。「子どものため」と考えて、必死になって家族を守
ろうとしている夫婦も多い。仮面といえば仮面だが、夫婦というのはそういうものではないの
か。もともと他人の人間が、一つ屋根の下で、一〇年も二〇年も、新婚当時の気持ちのままで
いることのほうがおかしい。私の女房なども、「お前は、オレのこと好きか?」と聞くと、「考えた
ことないから、わからない」と答える。

●人は人、それぞれ

 こう書くと、暗くてゆううつな家族ばかりを想像しがちだが、そうではない。こんな夫婦もいる。
先日もある女性(四〇歳)が私の家に遊びに来て、女房の前でこう言った。「バンザーイ、やっ
たわ!」と。話を聞くと、夫が単身赴任で九州へ行くことになったという。ふつうなら夫の単身赴
任を悲しむはずだが、その女性は「バンザーイ!」と。

また別の女性(三三歳)は、夫婦でも別々の寝室で寝ているという。性生活も数か月に一度あ
るかないかという程度らしい。しかし「ともに、人生を楽しんでいるわ。それでいいんじゃ、ナ〜
イ?」と。明るく屈託がない。要は夫婦に標準はないということ。同じように人生観にも家庭観に
も標準はない。人は、人それぞれだし、それぞれの人生を築く。私やあなたのような他人が、
それについてとやかく言う必要はないし、また言ってはならない。あなたの立場で言うなら、人
がどう思おうが、そんなことは気にしてはいけない。

●問題は親子

 問題は親子だ。私たちはともすれば、理想の親子関係を頭の中にかく。設計図をえがくこと
もある。それ自体は悪いことではないが、その「像」に縛られるのはよくない。それに縛られれ
ば縛られるほど、「こうでなければならない」とか、「こんなはずはない」とかいう気負いをもつ。
この気負いが親を疲れさせる。子どもにとっては重荷になる。不幸にして不幸な家庭に育った
人ほど、この気負いが強いから注意する。「よい親子関係を築こう」というあせりが、結局は親
子関係をぎくしゃくさせてしまう。そして失敗する。

●レット・イット・ビー(あるがままに……) 

 そこでどうだろう、こう考えては。つまり夫婦であるにせよ、親子であるにせよ、それ自体が
「幻想」であるという前提で、考える。もしその中に一部でも、本物があるなら、もうけもの。一部
でよい。そう考えれば、気負いも取れる。「夫婦だから……」「親子だから……」と考えると、あ
なたも疲れるが、家族も疲れる。簡単に言えば、今あるものを、あるがままに受け入れてしまう
ということ。「愛を感じないから結婚もおしまい」とか、「親子が断絶したから、家庭づくりに失敗
した」とか、そんなようにおおげさに考える必要はない。

つまるところ夫婦や家族、それに子どもに、あまり期待しないこと。ほどほどのところで、あきら
める。そういうニヒリズムがあなたの心に風穴をあける。そしてそれが、夫婦や家族、親子関
係を正常にする。ビートルズもかつて、こう歌ったではないか。「♪レット・イット・ビー(あるがま
まに……)」と。それはまさに、「智恵の言葉」だ。
 



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16

●黄帝内経

●謎の書物、黄帝内経(こうていだいけい)

 若いころ、東洋医学の勉強をしているとき、私は、こんなことに気づいた。「ひょっとしたら、東
洋医学のバイブルと言われている、『黄帝内経(こうていだいけい)』は、人間によって書かれた
ものではないのではないか」と。言うまでもなく、東洋医学は、この黄帝内経に始まって、黄帝
内経によって終わる。

 とくに、黄帝内経・素問(そもん)は、そうである。しかしもともとの黄帝内経は、そののち、多く
の医家たちによって、原型をとどめないほどまでに、改ざん、加筆されてしまった。今、中国に
残る、黄帝内経は、その結果だが、皮肉なことに、原型に近い黄帝内経は、京都の仁和寺(に
んなじ)に残っている。

 その仁和寺の黄帝内経には、いくつか不思議な記述がある。それについて書くのが、ここの
目的ではないので、省略するが、私はいつしか、中国の「帝王」と、メソポタミアの「神」が、同一
人物でないかと思うようになった。黄河文明を築いた、仰韶(ヤンシャオ)人と、メソポタミア文
明を築いた、シュメール人には、ともに、不可思議な共通点がある。それについて書くのも、こ
この目的ではないので、省略する。

 むずかしい話はさておき、今から、約五五〇〇年ほど前、人類に、とてつもないほど、大きな
変化が起きたことは、事実のようだ。突然変異以上の、変異と言ってもよい。そのころを境に、
サルに近い原始人が、今に見る、人間になった。

 こうした変化の起爆剤になったのが、何であるのか、私にはわからない。わからないが、一
方、こんな事実もある。

●月の不思議

 月の南極の写真を見ていたときのこと。ちょうど南極付近に、きれいな円形の二つのクレータ
ーがある。「きれいな」と書いたが、実際には、真円である。まるでコンパスで描いたような真円
である。

 そこで二つのクレーターの直径を調べてみた。パソコンの画面上での測定なので、その点は
不正確かもしれないが、それでも、一方は、3・2センチ。もう一方も、3・2センチ! 実際の直
径は、数一〇キロはあるのもかもしれない。しかしその大きさが、ピタリと一致した!

 しかしこんなことが、実際、ありえるのだろうか。

 もともとこのあたりには、人工的な構造物がたくさん見られ、UFO研究家の間でも、よく話題
になるところである。実際、その二つのクレーターの周囲には、これまた謎に満ちた影がたくさ
ん写っている。

 そこでさらに調べてみると……というのも、おかしな言い方だが、ともかくも、あちこちのサイト
を開いてみると、こうした構造物があるのは、月だけではないことがわかった。火星はもちろ
ん、水星や、金星にもある。エウロパやエロスにもある。つまりいたるところにある。

 こうした写真は、アメリカのNASAから漏れ出たものである。一説によると、月だけでも、NA
SAは、数一〇万枚の写真をもっているという。公開されているのは、そのうちの数パーセント
にすぎないという。しかも、何かつごうの悪い写真は、修整されたりしているという。しかし、クレ
ーターまでは、消せない。それが、ここに書いた、二つのクレーターである。

【写真に興味のある人は、私のホームページから、(右下・ビデオであいさつ)→(動画コーナ
ー)へと進んでみてほしい。一覧表の中から、月のクレーターを選んでクリックすれば、その写
真を見ていただける。】

●下からの視点、上からの視点

 地球上に、それこそカビのようにはいつくばって東洋医学の勉強をした私。そしてその私が、
天を見あげながら、「ひょっとしたら……」と考える。

 一方、宇宙には、すでに無数のエイリアンたちがいて、惑星間を回りながら、好き勝手なこと
をしている。中には、月そのものが、巨大なUFOだと主張する科学者さえいる。

 もちろん私は、宇宙から地球を見ることはできない。しかし頭の中で想像することはできる。
そしてこれはあくまで、その想像によるものだが、もし私がエイリアンなら、人間の改造など、何
でもない。それこそ、朝飯前? 小学生が電池をつないで、モーターを回すくらい簡単なこと
だ。

 この二つの視点……つまり下から天をみあげる視点と、天から人間を見る視点の二つが、
合体したとき、何となく、この問題の謎が解けるような気がする。「この問題」というのは、まさに
「人間に、約五五〇〇年前に起きた変化」ということになる。

 その五五〇〇年前を境に、先に書いたように、人間は、飛躍的に進化する。しかもその変化
は、メチャメチャ。その一つが、冒頭にあげた、『黄帝内経』である。黄帝というのは、司馬遷の
「史記」の冒頭を飾る、中国の聖王だが、だからといって、黄帝内経が、黄帝の時代に書かれ
たものと言っているのではない。

 中国では古来より、過去の偉人になぞらえて、自説を権威づけするという手法が、一般的に
なされてきた。黄帝内経は、そうして生まれたという説もある。しかし同時期、メソポタミアで起
きたことが、そののち、アッシリア物語として記録され、さらにそれが母体となって旧約聖書が
生まれている。黄帝内経が、黄帝とまったく関係がないとは、私には、どうしても思われない。

●秋の夜のロマン

 あるとき、何らかの理由で、人間が、エイリアンたちによって、改造された。今でいう、遺伝子
工学を使った方法だったかもしれない。

 そして人間は、原始人から、今でいう人間に改造された。理由はわからない。あるいはエイリ
アンの気まぐれだったかもしれない。とりあえずエイリアンたちが選んだ原始人は黄河流域に
住んでいた原始人と、チグリス川、ユーフラテス川流域に住んでいた原始人である。

 改造された原始人は、もうつぎの世代には、今でいう現代人とほとんど違わない知的能力を
もつようになった。そこでエイリアンたちは、人間を教育することにした。言葉を教え、文字を教
えた。証拠がないわけではない。

 中国に残る甲骨文字と、メソポタミアに残る楔形(くさびがた)文字は、たいへんよく似てい
る。形だけではない。

 中国では、「帝」を、「*」(この形に似た甲骨文字)と書き、今でも「di」と発音する。「天から来
た、神」という意味である。一方、メソポタミアでは、「神」を、同じく、「*」(この形に似た楔形文
字)と書き、「dingir」と発音した。星という意味と、神という意味である。メソポタミアでは、神(エ
ホバ)は、星から来たと信じられていた。(詳しくは、私が書いた本「目で見る漢方診断」(飛鳥
新社)を読んでいただきたい。)

 つまり黄河文明でも、メソポタミア文明でも、神は「*」。発音も、同じだったということ。が、こ
れだけではない。言葉の使い方まで、同じだった。

 古代中国では、「帝堯(ぎょう)」「帝舜(しゅん)」というように、「位」を、先につけて呼ぶならわ
しがあった。(今では、反対に「〜〜帝」とあとにつける。)メソポタミアでも、「dingir 〜〜」とい
うように、先につけて呼んでいた。(英語国などでも、位名を先に言う。)

 こうして今に見る人間が生まれたわけだが、それがはたして人間にとって幸福なことだったの
かどうかということになると、私にも、よくわからない。

 知的な意味では、たしかに人間は飛躍的に進化した。しかしここでも、「だからどうなの?」と
いう部分がない。ないまま進化してしまった。それはたとえて言うなら、まさにサルに知恵だけ
与えたようなものである。

 わかりやすく言えば、原始的で未発達な脳の部分と、高度に知的な脳の部分が、同居するこ
とになってしまった。人間は、そのとたん、きわめてアンバランスな生物になってしまった。人間
がもつ、諸悪の根源は、すべてここにある?

 ……これが私の考える、秋の大ロマンである。もちろん、ロマン。SF(科学空想)。しかしそん
なことを考えながら天の星々を見ていると、不思議な気分に襲われる。どんどんと自分が小さく
なっていく一方で、それとは反比例して、どんどんと自分が大きくなっていく。「人間は宇宙のカ
ビ」と思う一方で、「人間は宇宙の創造主」と思う。相矛盾した自分が、かぎりなく自分の中で、
ウズを巻く。

 あさって(二七日)も、天気がよければ、望遠鏡で、月をのぞくつもり。山荘から見る夜空は、
どこまでも明るい。
(030925)



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17

●子どもの初恋

●ある少年の恋

A君が、恋をした。中学二年生だ。
ときどき、フーッとため息を漏らす。
「どうしたの?」と聞いても、うわの空。
が、どうしても、その話題になる。

「先生、女の子から見ると、ぼくは、どう見える? どんな男が、女の子に好かれるの?」と。

「男と女なんてものはね、図式どおりには、いかないものだよ。どんな男が好かれて、どんな男
が嫌われるか。そんなこと、だれにもわからないよ」と私。

 私は若いころは、いつも、恋に苦しんだ。もともとモテるタイプの男ではないし、それにムード
がない。若いころ、セックスをするたびに、相手の女性はこう言った。「あんたとしていると、ス
ポーツみたい」と。

 そう、私にとっては、セックスは、スポーツのようなものだった。ゲームに近かったかもしれな
い。とてもフランス映画や、イタリア映画のようなわけにはいかなかった。まねをしたことはある
が、かえって冗談に思われてしまった。

 「相手の心をつかみ、恋を成就させたかったら、真剣になることだ」と私。「おもしろ半分では
いけない。真剣だ。真剣になるんだ。あとは、相手に任せる。それでいい」とも。

 見栄も体裁も捨てる。恥も外聞も捨てる。フラれてもよいと、真剣に相手にぶつかる。好きだ
ったら好きと言えばよい。愛していたら愛していると言えばよい。その真剣さが、相手の心を溶
かす。

 「先生、フラれたら、どうしたらいいの?」
 「そのときは、そのきだ。しかしね、真剣にすべてを出しきると、フラれたとたん、胸の中はす
っきりするよ。一度、ためしてみたら?」
 「しかし、フラれるのもつらいし……」
 「ああ、それじゃあ、だめだ。まだ君は、相手のことを、真剣に好きというわけじゃ、ないな」
と。

 そこで私は提案した。「ラブレターを書いてあげようか。こう見えても、ぼくが書くラブレター
は、一級だよ」と。すると、A君は、その場を笑ってごまかした。ごまかしながら、「どんなふう
に?」と聞いた。

++++++++++++++++++++

K子さんへ、

 心が重いです。重いから、いつも空を見ています。でも空を見ていると、今度はつらいです。
つらいから、下を見ます。でも下を見ていると、涙が出てきます。そうしていつも、あなたのこと
を考えています。好きです。

                                Aより
 
++++++++++++++++++++

 これを読んでA君が、こう言った。「さすがだね。これ、先生の経験?」と。そこで私はこう言っ
た。

 「男はね、いつも恋をしているよ。いつも、ね。いつもだれかに恋をしているよ。そのやるせな
い気持を、楽しむために、ね。今もひとり、恋をしているよ。とってもすてきな人だよ。でも、それ
はショーウィンドウに飾られた花を見るような気持だよ。心のどこかで、『ほしいな』と思いつつ、
『その人の幸福は大切にしよう』と思いとどまるのさ。

 これからも君は無数の恋をするだろうな。でも、大切なことは、どんなときも、自分を飾らず、
ありのままの自分を表現することだ。そして真正面から、先にも言ったように、真剣にぶつかっ
ていく。あとは、相手に任す。相手にだって、人を選ぶ権利はあるからね。相手が『ノー』と言っ
たら、さっと引きさがる。あとは、忘れる」

 「やっぱり、フラれるのがこわいから、今のままでいい」
 「ああ、それならやめときな」
 「まだ、そこまで真剣でないし……」
 「いつか真剣になる人が現れるよ。きっと現れるよ。すてきな人がね。そのときまで、今の気
持を大切にとっておきな」と。

+++++++++++++++++++++

●息子が恋をするとき

 栗の木の葉が、黄色く色づくころ、息子にガールフレンドができた。メールで、「今までの人生
の中で、一番楽しい」と書いてきた。それを女房に見せると、女房は「へええ、あの子がねえ」と
笑った。その顔を見て、私もつられて笑った。

 私もちょうど同じころ、恋をした。しかし長くはつづかなかった。しばらく交際していると、相手
の女性の母親から私の母に電話があった。そしてこう言った。「うちの娘は、お宅のような家の
息子とつきあうような娘ではない。娘の結婚にキズがつくから、交際をやめさせほしい」と。

相手の女性の家は、従業員三〇名ほどの製紙工場を経営していた。一方私の家は、自転車
屋。「格が違う」というのだ。この電話に母は激怒したが、私も相手の女性も気にしなかった。
が、二人には、立ちふさがる障害を乗り越える力はなかった。ちょっとしたつまづきが、そのま
ま別れになってしまった。

 「♪若さって何? 衝動的な炎。乙女とは何? 氷と欲望。世界がその上でゆり動く……」と。
オリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングが演ずる「ロメオとジュリエット」の中で、若い男が
そう歌う。たわいもない恋の物語と言えばそれまでだが、なぜその戯曲が私たちの心を打つか
と言えば、そこに二人の若者の「純粋さ」を感ずるからではないのか。

私たちおとなの世界は、あまりにも偽善と虚偽にあふれている。年俸が一億円も二億円もある
ようなニュースキャスターが、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめてみせる。一着数百
万円もするような着物で身を飾ったタレントが、アフリカ難民の募金を涙ながらに訴える。暴力
映画に出演し、暴言ばかり吐いているタレントが、東京都やフランス政府から、日本を代表す
る文化人として表彰される。

もし人がもっとも人間らしくなるときがあるとすれば、電撃に打たれるような衝撃を受け、身も心
も焼き尽くすような恋をするときでしかない。それは人が人生の中で唯一つかむことができる、
「真実」なのかもしれない。そのときはじめて人は、もっとも人間らしくなれる。もしそれがまちが
っているというのなら、生きていることがまちがっていることになる。しかしそんなことはありえな
い。

ロメオとジュリエットは、自らの生命力に、ただただ打ちのめされる。そしてそれを見る観客は、
その二人に心を合わせ、身を焦がす。涙をこぼす。しかしそれは決して、他人の恋をいとおし
む涙ではない。過ぎ去りし私たちの、その若さへの涙だ。あの無限に広く見えた青春時代も、
過ぎ去ってみると、まるでうたかたの瞬間でしかない。歌はこう続く。「♪バラは咲き、そして色
あせる。若さも同じ。美しき乙女も、また同じ……」と。

 相手の女性が結婚する日。私は一日中、自分の部屋で天井を見つめ、体をこわばらせて寝
ていた。六月のむし暑い日だった。ほんの少しでも動けば、そのまま体が爆発して、こなごなに
なってしまいそうだった。ジリジリと時間が過ぎていくのを感じながら、無力感と切なさで、何度
も何度も私は歯をくいしばった。

しかし今から思うと、あのときほど自分が純粋で、美しかったことはない。そしてそれが今、たま
らなくなつかしい。私は女房にこう言った。「相手がどんな女性でも温かく迎えてやろうね」と。そ
れに答えて女房は、「当然でしょ」というような顔をして笑った。私も、また笑った。
(中日新聞掲載済み)

++++++++++++++++++++ 

 そう。恋は人生の花。あとのすべては、その残りカス。カスの中で、切ない恋をかみしめなが
ら、みんながんばって生きている。心のどこかに、淡い火をともしながら……。人生はすばらし
いですね。
(030924)




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18

●不幸の形

 幸福というのは、なかなかやってこないが、不幸というのは、こちらの都合など、お構いなしに
やってくる。だから幸福な家庭というのは、みな、同じだが、不幸な家庭というのは、みな違う。

 その不幸が不幸を呼び、さらにつぎの不幸を呼ぶ。こういう例は少なくない。

 両親は離婚。兄は長い闘病生活のあと、自殺未遂。母親は、再婚をしたものの、半年でまた
離婚。そのあと、叔父の家に預けられて育てられたが、そこで性的虐待を受ける。その女性
が、一七歳のときのことだった。

 そこで家出。お決まりの非行。そして風俗業。しかし悲劇はここで終わったわけではない。や
っと結婚したと思ったが、夫の暴力。生まれてきた長男は、知的障害。夫は、やがてほかの女
の家にいりびたるようになり、そして離婚。今、その女性は四五歳になるが、今度は乳がんの
疑いで、入院検査を受けることになった……。

 その人はこう言う。「どうして私だけが……?」と。

 一つのリズムが狂うと、そのリズムをたてなおそうと、無理をする。しかしその無理が、さらに
リズムを狂わす。だれしも不幸になると、そこがどん底の最悪、と思う。しかしその下には、さら
に二番底、三番底、さらには四番底がある。

 しかし人というには、皮肉なものだ。今、目の前にあるものを見ようとしない。見ても、その価
値に気づかない。仮に見ても、「まだ、何とかなる」「こんなはずではない」と、自ら、それを打ち
消してしまう。

 だから賢明な人は、そのものの価値を、なくす前に気づく。しかし愚かな人は、そのものの価
値を、なくしてから気づく。健康しかり。人生しかり。そして子どものよさ、またしかり。

 あなたは、本当に幸福か?
 それとも、あなたは本当に、不幸か?

 ある腎臓病だった人が、こんな投書を寄せている。何かの雑誌で読んだ話だが、こんな内容
だ。

 その人は、十年近く、重い腎臓病で苦しんだ。そしていよいよというときになって、運よく、腎
臓提供者が現れ、腎臓の移植手術を受けた。そしてそのあとのこと。はじめてトイレで小便をし
た。たまたま窓から、朝の陽光が差しこんでいたという。その人は、こう書いている。

 「自分の小便が黄金色にキラキラと輝いていた。私はその美しさに、感動し、思わず両手で、
自分の小便を受け止めてしまった」と。

 何気なくする小便にしても、それは黄金にまさる価値がある。その価値に気づくか気づかない
かは、ひとえに、その人の賢明さによる。言うまでもなく、賢明な人というのは、目の前にあるも
のを、そのまま見ることができる人をいう。

 その女性は、「どうして私だけが……」と言う。しかし本当にそうか? 

 だったら、冷静に、見てみろ! 「私は幸福だ」と笑っている、愚か者たちの顔を。抜けたよう
に、軽い顔を。彼らに、人生が何たるか、わかってたまるか! 生きるということが、どういうこ
とか、わかってたまるか!

 見てみろ! 目の前にある青い空を。緑の山々を。白い雲を、その向こうにある宇宙を。もし
この世界に、神々がいるとするなら、そしてその神々に奇跡を起こす力があるとするなら、今、
私がここにいて、あなたがそこにいる。それこそが、まさに奇跡。それにまさる奇跡が、どこに
ある!

 釈迦の説話にこんな話が、残っている。あるとき、ある男が釈迦のところにやってきて、こう
言う。

 「釈迦よ、私は明日、死ぬ。死ぬのがこわい。釈迦よ、どうすればこの死の恐怖から逃れるこ
とができるか」と。

 それに答えて釈迦は、こう答える。「明日のないことを、嘆くな。今日まで生きてきたことを、喜
べ、感謝せよ」と。

 余談だが、釈迦自身は、「来世」とか、「あの世」をいっさい、認めていない。こういうあやしげ
な言葉(失礼!)を使うようになったのは、もっとあとの仏教学者たちで、しかもヒンズー教の影
響を受けた学者たちである。今の日本に残る経典のほとんどは、釈迦滅後、数百年を経て書
かれた経典ばかりである。ウソだと思うなら、釈迦の生誕地に残る原始経典(『スッタニパー
タ』、漢語で、『法句経』)を読んでみたらよい。

 不幸だと思っている人よ、さあ、勇気を出して、目の前のものを見よう。目の前のものを見
て、それを受け入れよう。こわがることはない。恐れることはない。恥じることはない。

 不幸だと思っている人よ、さあ、そういう自分を静かに認めよう。あなたには無数の心のポケ
ットがある。奥深く、心暖かいポケットである。そのポケットを、すなおに喜ぼう。誇ろう。あなた
はすばらしい心の持ち主だ。

 不幸だと思っている人よ、さあ、ゴールは近い。あなたはほかの人たちが見ることができない
ものを見る。ほかの人たちが知らないものを知る。あなたのような人こそ、人生を生きるにふさ
わしい人だ。人の世を照らすに、ふさわしい人だ。

 あなたの夫にいかに問題があっても、あなたの子どもにいかに問題があっても、ただひたす
ら、『許して忘れる』。これを繰りかえす。それは苦しくて、けわしい道かもしれないが、その度
量の深さが、あなたの人生を、いつかやがて光り輝くものにする。

 ……いや、かく言う私だって、本当のところ、何もわかっていない。本当のところ、何一つ、実
行できない。しかしこれだけは言える。私たちが求めている、真理にせよ、究極の幸福にせ
よ、それは遠くの、空のかなたにあるのではないということ。私やあなたのすぐそばにあって、
私やあなたに見つけてもらうのを、息をひそめて、静かに待っている。

 過去がどうであれ、これからの未来がどうであれ、そんなことは、気にしてはいけない。今、こ
こにあるのは、「今という現実」だけ。私たちがなすべきことは、今というこの現実を、懸命に生
きること。ただただ、ひたすら懸命に生きること。結果は必ず、あとからついてくる。

 そう、私たちの目的は、成功することではない。私たちの目的は、失敗にめげず、前に進む
ことである。あの「宝島」をいう本を書いた、スティーブンソンもそう言っている。そういう有名な
言葉をもじるのは、許されないことかもしれない。しかしあえて、この言葉をもじると、こうなる。

 私たちの目的は、幸福になることではない。日々の不幸にめげず、前に進むことだ、と。

 もしあなたが不幸なら、ほんの少しだけ、あなたより不幸な人に、やさしくしてみればよい。あ
なたより不幸な人を、ほんの少しだけ、暖かい心で包んであげればよい。それで相手は救われ
る。と、同時に、あなたも救われる。

 あなたの子どもは、そこにいる。あなたはそこにいて、いっしょに生きている。友よ、仲間よ、
それをいっしょに、喜ぼうではないか。この一〇〇億年という宇宙の歴史の中で、そして百億に
近い人間たちの世界で、今、こうして心を通わすことができる。友よ、仲間よ、それをいっしょ
に、喜ぼうではないか。

 不安になることはない。心配することもない。さあ、あなたも勇気を出して、前に進もう。不幸
なんて、クソ食らえ! いやいや、あなたの身のまわりにも、すばらしいものが山のようにある。
それを一つずつ、数えてみよう。一つずつだ。ゆっくりと、それを数えてみよう。

 秋のこぼれ日に揺れる、栗の木の葉。
 涼しい風に、やさしく揺れる森の木々。
 窓には、友がくれたブリキの汽車の模型。
 そしてその上には、息子たちの赤ん坊のときの写真。

 やがてあなたは、心の中に、暖かいものを覚えるだろう。そしてその暖かさを感じたら、それ
をしっかりと胸にとどめておこう。それがあなたの原点なのだ。生きる力なのだ。

 つぎに、不幸と戦う必要はない。今ある状態を、それ以上悪くしないことだけを考える。あなた
は、ミレーが描いた、「落穂拾い」という絵を知っているだろうか。荒れた農地のすみで、三人
の農夫の女性が、懸命に、落穂を拾っている。どういう心境かは私には、知るよしもないが、し
かし私はあの絵に、人生の縮図を見る。

 私たちは今、懸命に、「今という時」を拾いながら生きている。手でつまむようにして拾うのだ
から、たいしたものは拾えないかもしれない。もっているものといえば、小さな袋だけ。が、それ
でも懸命に拾いながら、生きている。しかしその懸命さが、人の心を打つ。つまりそこに、人生
のすばらしさがある。無数のドラマも、そこから生まれる。

 最後に一言。あなたは決して、ひとりではない。その証拠に、今、私はこの文章を書いてい
る。そういう私がいることを信じて、前に進んでほしい。あまり力にはなれないかもしれないが、
私も努力をしてみる。
(030925)



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19

●不道徳の限界

●殺人の意思

 イノシシだと思って、銃をうったら、イノシシではなく、マツタケを取りにきた、農夫だった。その
ため農夫は、頭に銃弾を受けて死んでしまった。(A)

 一方、燃えるような殺意を覚え、毎晩、近くの神社へ行き、わら人形に、クギを打ちつけた。
相手の人をのろい殺すためである。(B)

 (A)は、過失致死罪に問われる。殺意がなかったからである。一方、殺意はあっても、(B)
は、無罪である。「殺す」という実行行為が、なかったからである。

 これは法学部の学生が、刑法を学ぶとき、そのイロハとして学ぶ、事例である。

●不道徳の限界

 若い新婚ホヤホヤの男が、夜中に、あやしげなサイトを開いて、マスターベーションをしてい
た。これは不道徳なりや、いなや?

 妻子ある経営者が、飲み屋で知りあった若い女性と、金を払い、数時間、ホテルで、セックス
を楽しんだ。これは不道徳なりや、いなや。

 そも、不道徳とは、何か。

 若い美しい女性を見て、頭の中で、あらぬことを想像するのは、不道徳なりや、いなや。もし
不道徳の基準を、きびしくするなら、それも不道徳ということになってしまう。

 しかし不道徳の基準を、ゆるくするなら、あやしげなサイトを見て、マスターベーションをした
り、飲み屋で知りあった女性と、一時の情事を楽しむのは、不道徳ということにはならなくなっ
てしまう。

 さらに、冒頭に書いた、刑法の話を、その上に、重ね合わせると、こうなる。

 不道徳を、心の問題とするなら、心がゆらいだとたん、その人は不道徳ということになる? 
しかしもしそうなら、ワラ人形を打ちつけた人は、、みな、罪に問われる。

 一方、いくらほかの女性とセックスをしても、心さえしっかりともっていれば、不道徳ということ
にならない? しかしもしそうなら、刑法の世界でも、過失致死罪というのは、なくなってしまう。

●結婚によって生まれる束縛

 結婚によって、一組の男女は、愛を誓う。そのとき、たがいに、強烈な拘束力をもって、相手
の自由を奪う。奪うというよりも、奪われる快感を楽しむ。

 仮にどちらか一方が、別の異性とセックスをすれば、即、裏切り行為と、もう一方は、とらえ
る。「不倫」という言葉は、そこから生まれた。

 と、考えると、そもそも、結婚と同時に生まれる拘束力とは、何かということになる。

 ふつう、結婚するとき、「相手を徹底的に自分のものにしたい」という欲求が働く。それが「結
婚」という形になるが、これは、人間が、知的に考えてそうするというよりは、本能に命じられて
そうすると考えるほうが、正しい。

 (自分のものにしたい)という独占欲に、ヒビが入ったとき、(裏切られた)という意識が生まれ
る。

●「性」への欲求

 結婚生活には、同居して、たがいに共同生活をするという目的のほか、セックスを楽しむとい
う重大な要素がある。

 この(セックスをする)という部分が、満たされないとき、その夫婦は夫婦と言えるのか、という
問題がある。

 若い妻がよく訴える事例に、「夫がかまってくれない」というのがある。結婚後、数年目にし
て、セックスレスになる夫婦は、いまどき、珍しくない。

 となると、夫にせよ、妻にせよ、その欲求不満を、何らかの形で、解消しなければならない。
いくら夫婦というワクの中にいても、「性」への欲求は、それ以上のもの。とても個人の理性で、
コントロールできるようなものではない。

 こういうとき、どちらか一方が、ほかの異性とセックスをしたとする。しかしそれも、やはり不道
徳ということになるのか。

●不道徳とは何か

 こうして考えてみると、「そも不道徳とは何か」という問題にぶつかる。

 あるいは、その基準は、どこにあるのか。

 そこで登場するのが、宗教的基準である。ほとんどの宗教では、「セックス」の問題を、厳格
にあつかう。(中に、自由奔放なセックスを奨励する教団もあるにはあるが……。)

 しかし私を含めて、宗教団体に属していない人間は、どうやって、どこに基準を求めたらよい
のか。……ということになる。

●個人の裁量と、事情によって

 私は前提として、宗教的な基準をもうけるのは、まちがっていると思う。それぞれの夫婦に
は、それぞれの事情がある。同時に、それぞれの考え方がある。

 大切なことは、夫婦というワクをこわさないように、その夫婦を、さらに深めること。そのため
の行為なら、それが他人から見て不道徳でも、許されるのではないかといこと。

 いろいろな事例がある。

【Aさん、女性、四五歳】

 Aさんが浮気していることは、みんな知っている。Aさんは、ときどき、料理教室の講師を手伝
っているが、生徒も、みな知っている。Aさんが、それを話すからである。

 相手の男性は、夫と同じ年齢の、B氏。しかも家は、歩いて一〇分も離れていない。

 「夫にバレないのかなねえ?」と、私が心配すると、ワイフは、「ダンナさんも、もう知っている
みたいよ」と。

 (実は、この話は、二、三年前に、ワイフから聞いた話。そこで「最近は、どうなったの?」と聞
くと、「もう別れて、もとのサヤに収まったみたい」とのこと。改めて、「へえ」と感心した。)

【C氏、男性、五〇歳】

 C氏の趣味(?)は、出会い系サイトで、若い女性と知りあって、セックスをすること。「一人若
い女性をつかまえると、あとは、その女性の紹介、紹介で、イモヅル式に(?)、どんどん輪が
広がっていく」とのこと。

 言い忘れたが、C氏は公務員。奥さんも、同じ公務員。「ワイフのほうが、給料がいいよ。ぼく
の給料は、すべて、遊興費に回っている」とも。

【Dさん、女性、五四歳】

 Dさんは、独身。しかし妻子ある男性と月に何度か会って、セックスを楽しんでいる。相手の
男性は、七〇歳だというが、そういう関係が、もう二〇年以上もつづいているという。

 相手の男性の奥さんも、承知の上での交際とか。

 私はDさんから、直接、この話を聞いている。しかしDさんには、まったく罪悪感がないよう
だ。ケラケラと、笑って話してくれた。二〇年もつきあっていると、女性も、そうなるのか。

【E氏夫婦、夫三四歳、妻三二歳】

 E氏夫婦の趣味(?)は、月に一、二度の、スワッピングパーテイ。たいていは東京で。もしく
は名古屋まで出かけていくそうだ。

 全国組織の会にも入っているので、ときどき旅行をかねて行くこともあるという。

 「最初、妻を説得するのに苦労しましたが、今では、妻のほうが、楽しみにしている」とのこ
と。

 同じような集まりだが、「混浴の会」というのもあるそうだ。こちらはセックス抜きだそうだが、
男も女も、その場になると、みんな素っ裸で、泳ぎだすという。E氏も、ときどき参加するという。
「開放感がたまらない」と。

●改めて考える

 大切なことは、その夫婦が、納得の上で、自分たちで考えてするということ。基準を求めるの
も、おかしな話だし、他人から基準を押しつけられるのは、もっとおかしな話だ。

 あるいは世間一般の通俗的な基準で、しばるのもおかしい。

 たいていの男は、そして女は、最初、その通俗的な基準で、自らを苦しめる。罪の意識を感
ずることも多い。

 しかしこんな事例もある。

 ある不倫を一年以上つづけた若い妻が、こう言った。

 「不倫をすれば、たしかに罪の意識は生まれます。最初のころは、夫に顔向けさえできませ
んでした。

 しかしそのうち、その分、夫に尽くすようになりました。申し訳ないという気持ちが、そうさせた
のだと思います。

 おかげで私は、以前よりよい妻になることができました」と。

 どうせ不道徳なことをするなら、このレベルまで、自分をもちあげるような不道徳をすればよ
い。(……といっても、それを奨励しているわけではない。誤解のないように!)

 セックスは、食欲、さらには生存欲と並んで、生きていく上においては、重要な、かつ避けて
は通れない問題である。だからみな、もっと、前向きに考えたらよい。今どき、そういう人は少
ないと思うが、それを「汚いこと」「いやらしいこと」「隠すべきこと」と考えるほうが、おかしい。

●夫婦としての約束

 最後に、この問題には、「誠実さ」の問題がからんでくる。夫婦の約束といってもよい。不倫を
すれば、その約束を破ることになる。

 しかしこれはセックスの問題というよりは、人間対人間の問題である。

 不倫はしなくても、妻や夫に対して、誠実でない人はいくらでもいる。不倫をしながらも、ほか
の面では、きわめて誠実な人もいる。

 セックスには、本能がからんでいるため、理性ではどうにもならない部分がある。たとえば酒
に溺れるように、あるいはパチンコや競馬に依存するようになるように、脳のどこかが狂って、
セックスに溺れる人だっている。

 そういう人をすべて、悪人とすることもできないのではないか。

 それぞれの夫婦が、他人には理解しがたいほど、複雑な事情をかかえている。その事情の
中で、懸命に生きている。その結果としての、不倫もある。こうして考えていくと、何が道徳的
で、何が不道徳的なのか、わからなくなってしまう。

 このつづきは、もう少し、頭を冷やしてから考えなおしてみたい。ここに書いたことが、私の結
論というわけではない。どうか誤解のないように!
(030929)

【追記】

●裸で泳ぐ

 もう二〇年ほど前のことだが、オーストラリア人の友人夫婦を、食事に招待したことがある。
そのとき、夫は、NSW大学の講師をしていた。新婚旅行で、日本へやってきた。

 その夫婦が、食事中、こんな話をした。

 「ヒロシ、日本人は、どうして、そんなにもスケジュールに厳格なのか?」と。

 おかしな話だったので、詳しく聞くと、こう言った。

 車で、箱根をドライブしていたときのこと。美しい川を見つけた。そこで箱根を案内していた日
本人の夫婦に、「みんなで泳ごう」と提案した。

 しかし日本人の夫婦は、「だめだ。一二時までに、○○ホテルへ行くことになっている」と、頑
として譲らなかったという。それで「日本人は、スケジュールに厳格だ」と。

 オーストラリア人の夫婦は、とても残念そうだった。オーストラリアには、日本で見るような清
流がない。だからその清流に感動したらしい。

 そこで、さらに話を聞くと、それはオーストラリア人夫婦の誤解であることがわかった。

 そのとき日本人の夫婦が、「どうやって泳ぐのか? 水着をもってきていない」と言ったらし
い。それに答えて、オーストラリア人の夫婦が、「裸で泳げばいい」と。

 だから私はこう言った。

 「それは日本人が、スケジュールに厳格ということではなく、裸で泳ぐという習慣がないから
だ。それでみんなで泳ぐことを、断ったのだ」と。

 私はそのときほど、日本人の意識と、オーストラリア人の意識の違いを思い知らされたことは
ない。彼らにしてみれば、裸で泳ぐということは、異性がいてもいなくても、私たちが銭湯へ入る
ような感覚に近い。

 「性」の意識というのはそういうもの。考えてみれば、人間はもともと裸だった。全身、毛にお
おわれていたとはいえ、裸だった。

 さらにほんの一〇〇年とか、二〇〇年前には、風呂も混浴だったし、夜這(よば)いなどとい
う習慣も、日常的に認められていた。日本人が、今のような性意識をもつようになったのは、こ
こ一〇〇年くらいのことではないか。よくわからないが……。

 そう言えば、つい数か月前、私の家にホームステイしたオーストラリア人夫婦も、あちこちへ
行っては、混浴を楽しんできた。

 奥さんに、「恥ずかしくなかった?」と聞いたら、反対に、けげんそうな顔をして、「どうして?」
と、聞かれてしまった。私のもつ意識と、彼らのもつ意識は、まったくかみあわなかった。

●所詮、無の世界? 

 「性」の問題には、このように、その人の意識の問題が、深くからんでくる。そしてその意識
は、今、私たちがそうであるからといって、それは普遍的なものでも、絶対的なものでもない。

 昔、今東光氏が、病床にありながら、私にこう言った。

 「所詮(しょせん)、性なんて、無だよ、無」と。

 しかしもし性(男女のセックスの関係)が、無なら、生きることも無ということになってしまう? 
あのフロイトも、「生きることにまつわるすべての、エネルギーの根源(リピドー)」に、「性的エネ
ルギー」をおいている。

 つまり、フロイトは、私たちのあらゆる生きる力は、そこに異性を意識していることから生まれ
るというのだ。

 男が何かに燃えて仕事をするのも、女がファッションを追いかけたり、化粧をするのも、その
根底に、性的エネルギーがあるからだ、と。

 その生きる力が、「無」ということになると、生きていることそのものが、「無」ということになっ
てしまう? あるいは本当に「無」なのかも知れない?

 ただ、こういうことは言える。

私も、キリスト教徒ではないが、禁欲主義的に生きている人を、何人か知っている。しかしそう
いう人は、たとえて言うなら、恋をしたこともない、勉強ばかりしている高校生のような感じがす
る。

 おもしろくもないし、人間的な深みも感じない。生きる力、そのものを感じない。

 むしろ何というか、いつも異性を意識し、それでいて思うようにならなくて、切なさ、わびしさを
一身に背負って生きている人のほうに、私は魅力を感ずる。たとえて言うなら、フーテンの寅さ
んのような人間か。

 ……と考えていくと、わけがわからなくなってしまう。恐らく、読者のみなさんも、そうではない
か。だから、この話は、ここまで。このつづきは、やはり、もう少し頭を冷やしてから、考えてみ
たい。

 本当にまとまりのない文章で、ごめん。この問題は、思ったより、「根」が深いようだ。

+++++++++++++++++

以前書いた原稿(中日新聞掲載済み)を
掲載します。高校生の「性」について
書いたものです。

+++++++++++++++++

●変わった性意識

 うちへ遊びにきた女子高校生たち四人が、春休みにドライブに行くと言う。みんな私の教え子
だ。

そこで話を聞くと、うち三人は高校の教師と、もう一人は中学時代の部活の顧問と行くという。
しかも四人の教師のうち、独身なのは一人だけ。あとは妻帯者。

私はその話を聞いて、こう言った。「大のおとなが一日つぶしてドライブに行くということが、どう
いうことだか、君たちにわかるか。無事では帰れないぞ」と。それに答えてその高校生たちは
明るく笑いながら、こう言った。「先生、古〜イ。ヘンなこと想像しないでエ!」と。

 しかし私は悩んだ。親に言うべきか否か、と。言えば、行くのをやめる。しかしそうすればした
で、それで私と彼女たちの信頼関係は消える。私は悩みに悩んだあげく、女房に相談した。

すると女房はこう言った。「ふ〜ン。私も(高校時代に)もっと遊んでおけばよかった」と。私はそ
の一言にドキッとしたが、それは女房の冗談だと思った。思って、いよいよ春休みという間ぎわ
になって、その中の一人に電話をした。そしてこう言った。

「これは君たちを教えたことのある、一人の教師の意見として聞いてほしい。ドライブに行って
はダメだ」と。するとその女子高校生はしばらく沈黙したあと、こう言った。「じゃあ、先生、あん
たが連れてってヨ。あんたは車の運転ができないのでしょ!」と。

 以来一〇年近くになるが、私は一切、この類の話には、「我、関せず」を貫いている。はっき
り言えば、今の若い人たちの考え方が、どうにもこうにも理解できない。

私たち団塊の世代にとっては、男はいつも加害者であり、女はいつも被害者。遊ぶのは男、遊
ばれるのは女と考える。しかし今ではこの図式は通用しない。女が遊び、男が遊ばれる時代に
なった。だから時折、援助交際についても意見を求められるが、私には答えようがない。私が
理解できる常識の範囲を超えている。

ただ言えることは、世代ごとに性に対する考え方は大きく変わったし、変わったという前提で議
論するしかないということ。避妊教育や性病教育を徹底する一方、未婚の母問題にも一定の
結論を出す。やがては学校内に託児所を設置したり、授業でセックスのし方についての指導を
することも考えなくてはならない。

厚生省の調査によると、女子高校生の三九%が性交渉を経験し、一〇代の中絶者は、三万
五〇〇〇人に達したという(九九年)。しかしこの数字とて、控え目なものだ。つまりこの問題だ
けは、「おさえる」という視点では解決しないし、おさえても意味がない。

ただ許せないのは、分別もあるはずのおとなたちが、若い人たちを食いものにして、金を儲け
たり遊んだりすることだ。先に生まれた者が、あとに生まれた者を食いものにするとは、何ごと
ぞ!、と。

私はもともと法科出身なので、すぐこういう発想になってしまうが、こういうおとなたちは厳罰に
処すればよい。アメリカ並に、未成年者と性交渉をもったら、即、逮捕する、とか。しかしこうい
う考え方そのものも、もう古いのかもしれない。

 かつて今東光氏は、私が東京のがんセンターに彼を見舞ったとき、こう教えてくれた。「所
詮、性なんて、無だよ、無」と。……実は私もそう思い始めている。




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20

●親どうしの交際

●相槌(あいづち)を打つことの恐ろしさ

 たとえばAさんが、あなたに、Bさんの悪口を言ったとする。そういうとき、あなたは、決して、
「私も、そう思う」と言ってはいけない。相槌(あいづち)を打つと、今度は、あなたの言った言葉
として、みなに、広がってしまう。

 ……というようなことは、この世界ではよくある。で、教訓。相槌は打たない。とくに、間に、子
どもがからんでいるときは、打たない。こんなことがあった。

 Aさん(母親)が、Bさん(母親)に、こう言った。

 「Cさん(母親)って、少し、頭がおかしいんじゃない?」と。

 それに答えて、Bさんが、「そうね。私もそう思うわ」と。

 それ以後、Aさんは、ほかの人に、「Cさんは頭がおかしいと、Bさんが言っていたわ」と言い
ふらすようになってしまった。Bさんが、そのあと、いろいろなトラブルに巻きこまれたことは、言
うまでもない。

 ……ということは、私も知っていた。しかし、こうしたトラブルは、思わぬところで巻きこまれ
る。最近だが、こんなことがあった。

 X氏(男性・六〇歳)からある朝、電話がかかってきた。何でも今度、Y氏(男性・四五歳)とい
う男から、共同事業を申しこまれたという。そこでY氏について、何か教えてくれないか、と。

 が、私もY氏については、ほとんど知らない。そこで、「そんなに心配なら、私のほうで、私の
友人に聞いてみましょうか」と提案した。X氏は、それに喜んだ。

 が、数日後のこと。いきなりFAXが、飛びこんできた。見ると、Y氏からのものだった。いわく、

 「私は、こういう人間です」と。見ると、Y氏の経歴が、つらねてあり、最後に、「私はあなたが
考えているようなヘンな人間ではありません」と。ついで、X氏がY氏にあてた手紙まで、FAXで
送られてきた。私は、それを見て、愕然(がくぜん)とした。

 それには、こうあった。

 「Y氏へ。貴殿のことを、私の友人の、林氏が疑っています。一度、貴殿の素性について、調
べたほうがいいと忠告してくれました。それで……。Xより」と。

 私は、そんなことは、一言も言っていない。X氏は、自分の不安や心配を、私の言葉として、
置きかえてしまった。つまり、私がうかつだった。

 話をもどす。幼稚園にせよ、学校にせよ、親どうしのトラブルは、日常茶飯事。しかし間に子
どもがいるため、この種のトラブルは、一度こじれると、とことんこじれる。ほかの世界なら、顔
をあわせないという方法で回避できるが、幼稚園や学校では、それもできない。

 だからほかの親とつきあうにしても、親しくなろうなどとは、考えないこと。コツは、トラブルを
起こさないように、静かにつきあうこと。この世界には、如水淡交(じょすいたんこう)という鉄則
がある。(鉄則といっても、私が勝手に考えたものだが……。)

 「つきあうとしても、淡く、水のようにサラサラとつきあう」という意味である。決して、深入りしな
い。してはいけない。事務的なことだけを、事務的にこなして、それですます。

 はっきり、言おう。

 この世界、その底流では、人間のドス黒い欲望が、渦を巻いている。一〇人のうち、九人ま
でがまともでも、そうでない人が、必ず、一人はいる。その一人にからまれると、それこそ転校
……ということにもなりかねない。

 それでも……ということなら、できるだけ子どもとは、直接関係のない世界で、直接関係のな
い親たちとつきあう。そういう世界で、情報を交換する。あるいはつきあうにしても、慎重の上に
も、慎重につきあう。

++++++++++++++++++++++++++

 以前、書いた原稿を転載します。
 一部ダブりますが、許してください。

++++++++++++++++++++++++++

●親とのつきあいは、如水淡交

 親どうしのつきあいは、水のごとく、淡く交わるのがよい。ほかの世界のことならともかくも、
間に子どもがいるため、一度こじれると、そのまま深刻な問題へと発展してしまうことが多い。

数年前だが、親どうしの「言った」「言わない」がこじれて、裁判ざたになったケースもある。任
期途中で、転校をさせられた教師は、いくらでもいる。転向していく親や子どもは、もっと多い。

 東京のある幼稚園では、「子ども交換運動」をしている。自分の子どもを相手の家に預かって
もらうかわりに、相手の子どもを自分の家に預かるというのが、それ。「他人の家の釜(かま)
のメシを食べることはいいことだ」という教育理念から、それが始まった。

しかしこの方法も、ひとつまちがえると、……? 預かったり、預かってもらったりするなら、でき
るだけ身近でない人のほうが、よい。親どうしが親密になりすぎるというのは、それ自体、問題
がある。理由はいくつかある。

 「教育」と言いながら、その底流では、ドス黒い親たちの欲望が、渦を巻いている。とくに日本
では、教育制度そのものが、人間選別の道具として使われている。少なくとも、親たちは、そう
とらえている。

こういう世界では、「うちの子さえよければ……」「他人を蹴落としてでも……」という、利己主義
的な論理ばかりが先行する。もともと「美しく、清らかな世界」を求めるほうが、おかしい。その
ため親密になることは悪いことではないが、相手をまちがえると、とんでもないことになる。

 一方、それを監督する、園や学校は、どうか? 二〇年前、三〇年前には、まだ気骨のある
教師がいるにはいた。相手が親でも、堂々とけんかをしていく教師もいた。親に説教する教師
もいた。しかしそのあと、学級崩壊だの、いじめだの、教師による体罰だのと問題になっている
うちに、先生自身が、自信をなくしてしまった。

ある小学校(I郡I町)の校長は、こう言った。「先生たちが萎縮してしまっています」と。こういう状
態をつくったのは、結局は、親自身ということになる。つまり園や学校の先生が、それなりに
(?)ことなかれ主義になったからといって、先生を責めることもできない。

私にしても、一〇年前なら、先生のだらしなさを責めたかもしれない。が、今は、むしろ同情す
る側に回っている。忙しいといえば忙しすぎる。「授業中だけが、息が抜ける場所です」と、こっ
そりと話してくれた教師(女性)もいた。しかしそれとて、教育はもちろん、しつけから、道徳、さ
らには家庭問題まで、私たち親が先生に押しつけているからにほかならない。

 ともかくも、親どうしのつきあいは、如水淡交。そうしていつも身辺だけは、きれいにしておく。
これは今の日本で、子どもを育てるための大鉄則ということになる。

(8)学校の行事、親どうしのつきあいは、あくまでもその範囲で。先生やほかの親に、決して個
人的な問題や、相談はしない。

(9)学校の先生の悪口、批判はもちろん、ほかの親たちの悪口や批判は、タブー。相づちもタ
ブー。相づちを打てば、今度は、あなたの言った言葉として、広まってしまう。子どもにも言って
はならない。

(10)子どもどうしのトラブルは、そのトラブルの内容だけを、学校に連絡する。相手の子ども
の名前を出したり、批判したりするのは、タブー。あとの判断は、先生に任す。

(11)先生への過剰期待は、禁物。あなただって、たった一人の子どもに手を焼いている。そう
いう子どもを三〇人近くも押しつけ、「しっかりめんどうをみろ」は、ない。

(12)一〇人に一人は、精神状態がふつうでない親(失礼!)がいると思え。そういう親にから
まれると、あとがたいへん。用心するに、こしたことはない。

(13)子どもどうしのトラブルが、大きな問題になりかけたら、とにかくその問題からは遠ざか
る。見ない、聞かない、話さないに徹し、知らない、言わない、考えないという態度で臨む。でき
れば、どこか「穴」にこもるとよい。

(14)それでも問題が大きくなったら……。時間が解決してくれるのを待つ。この種の問題は、
へたに騒げば騒ぐほど、大きくなる。そしてそのしわ寄せは、子どもに集まってしまう。それだ
けは、何としても避ける。

+++++++++++++++++++++

 さて冒頭の、Y氏とのトラブルだが、こういうケースでは、へたに言いわけをしたり、反論しな
いほうがよい。そんなことをすれば、今度は、X氏と私の関係までおかしくなってしまう。

 こういうときは、静かに時の流れを待つのがよい。あとは時間が解決してくれる。つまり、それ
も解決法の一つということ。

 そう言えば、このところX氏は、どこか「?」になってきた。一〇年前のX氏なら、そんな手紙は
書かなかったはず。これも年齢のせいなのか? これからはX氏とは、如水淡交をこころがけ
ることにする。
(030930)



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21
●反抗期

 子どもの反抗期は、おおまかに分けると、つぎの3段階に分けることができる。私自身の経
験もまじえて、考えてみる。

【第1期】

 少年期(少女期)から、青年期への移行期で、この時期、子どもは、精神的にきわめて不安
定になる。将来への心配や不安が、心の中に、この時期特有の緊張感をつくる。その緊張感
が原因で、子どもの心は、ささいなことで、動揺しやすくなる。

この時期の子どもは、親に完ぺきさを求める一方、それに答えることができない親に大きな不
満をいだいたり、強く反発したりする。小学校の高学年から、中学校の2、3年にかけての時期
が、これにあたる。

○競争社会の認識(他人との衝突を繰りかえす。)
○現実の自己と、理想の自己の遊離(そうでありたい自分を、つかめない。)
○将来への不安、心配、失望(選別される恐怖。)
○複雑化する友人関係
○絶対的な親を求める一方、その裏切り(親への絶対意識が崩れる)

【第2期】

 親からの独立をめざし、親の権威を否定し始めるようになる。「親が、何だ!」「親風、吹かす
な!」という言葉が、口から出てくる。しかし親の権威を否定するということは、自ら、心のより
どころを否定することにもなる。そのため、心の状態は、ますます不安定になる。

こうした独立心と並行して、この時期、子どもは、自己の確立を目ざすようになる。家族の束縛
を嫌い、「私は私」という生き方を模索し始める。さらに進むと、この時期の子どもは、「自分さ
がし」という言葉をよく使うようになる。自分らしい生き方を模索するようになる。中学校の2、3
年から高校生にかけての時期をいう。

○独立心、自立心の芽生え(家族自我群からの独立。幻惑からの脱却。)
○干渉への抵抗(自分は自分でありたいという願い。)
○自己の模索(どうすればよいのかと悩む。)

【第3期】

 精神的に完成期に近づくと、親をも、自分と対等の人間と見ることができるようになる。親子
の上下意識は消え、人間対人間の、つまりは平等な人間関係になる。子どもが大学生から、
おとなにかけての時期と考えてよい。

 子どもは、この反抗期を経て、家族が家族としてもつ、一連の束縛感(家族自我群)からの独
立を果たす。

○受容と寛容(あきらめと、受諾。)
○社会性の確立(自分の立場を、決め始める。)
○恋愛期(恋をする。初恋。)
○家族への認識と、家庭づくりの準備(結婚観の模索)

こうした一連の流れを、一般的な流れとするなら、そうでない流れも、当然、考えられる。何ら
かの原因で、子ども自身が、じゅうぶんな反抗期を経験しないまま、おとなになるケースであ
る。

 強圧的な家庭環境で、子ども自身が、反抗らしい反抗ができないケース。
 親の権威主義が強すぎて、子ども自身が、その権威におしつぶされてしまうケース。
 家庭環境そのものが、きわめて不安定で、正常な心理的発育が望めないケース。
 異常な過保護、過干渉、過関心で、子どもの性格そのものが萎縮してしまうケース。
 親自身(あるいは子ども自身)の知的レベル、育児レベルが、低すぎるケース。
 親自身(あるいは子ども自身)に、情緒的、精神的問題があるケース、など。

 こういったケースでは、子どもは、反抗期らしい反抗期を経験しないまま、おとなになることが
ある。そして当然のことながら、その影響は、そのあとに現れる。

 じゅうぶんな反抗期を経験しなかった子どもは、一般的には、自立心、自律心にかけ、生活
力も弱く、どこかナヨナヨした生きザマを示すようになる。一見、柔和でやさしく、穏かで、おとな
しいが、生きる力そのものが弱い。よい例が、母親のでき愛が原因で、そうなる、マザコンタイ
プの男性である。(女性でも、マザコンになる人は、少なくない。)

 このタイプの男性(女性)は、反抗期らしい反抗期を経験しないため、自我の確立を不完全な
まま、終わらせてしまう。その結果として、外から見ても、つかみどころのない、つまりは、何を
考えているか、わからないといった性格の人間になりやすい。

 そんなわけで、子どもが親に向かって反抗するようになったら、親は、「うちの子も、いよいよ
巣立ちを始めた」と思いなおして、一歩、うしろへ退くようにするとよい。子どもの反抗を、決して
悪いことと決めてかかってはいけない。頭から、押さえつけたりしてはいけない。その度量の広
さが、あなたの子どもを、たくましい子どもに育てる。
(はやし浩司 子どもの反抗 反抗期)

++++++++++++++++++++++

【子どもの反抗期】(2)

子どもの反抗期で悩んでいる、みなさんへ、
子どもの反抗期について考えてみました。

つぎの2つの原稿を読んでくださると、きっと心も軽く
なるはずです。どうか、お読みください。

+++++++++++++++++++++++

以下2作は、先日送った原稿と、ダブります。お許しください。

+++++++++++++++++++++++

●「生きていてくれるだけでいい」
      
 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ
き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、
またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が
助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りを
していて、息子の一人を助けてくれた。

以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」と思い
なおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議である。

特に二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あるいは中
学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なからずあわてた
が、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切ることができた。

 昔の人は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っていた。

人というのは、上を見れば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないも
のだという意味だが、子育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのでは
ない。下から見る。「子どもが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。

朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分
は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生
活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、
すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。もう何度も書いたように、フォ・ギブ
(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・ため」とも訳
せる。

つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るため
に忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、「as you like」と英
語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意味だが、すばらしい訳だと思う。こ
の言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ
らに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、そ
の真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を
越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。

が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談を
してきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授
業についていけない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。

こういう相談を受けるたびに、私は頭をかかえてしまう。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi++++

●「それ以上、何を望むのですか」
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむけ
る。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。「私は
ダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。

が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえ
ている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生き
ていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようにな
る。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言っ
た父親もいた。

が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが大きくなり、そし
て互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったまま、口をつぐんで
しまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずね
る。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることが
できるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救わ
れた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親を
みると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだでは
ないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかり
ではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。

しかしそれでも巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしか
ない。親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつ
もドアをあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。

私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう書いている。

「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれない。が、そ
れでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受
賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残している。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決
して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」
と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。
(*浜松市AB幼稚園元園長)


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●親が子育てで行きづまるとき

 ある月刊雑誌の読者投稿コーナーに、こんな投書が載っていた。ショックだった。考えさせら
れた。この手記を書いた人を、笑っているのでも、非難しているのでもない。私たち自身の問
題として、本当の考えさせられた。そういう意味で、紹介させてもらう。

 「思春期の二人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。幼児期から生き物を愛し、大
切にするということを、体験を通して教えようと、犬、ウサギ、小鳥、魚を飼育してきました。

庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向かい、読
み書きする姿も見せてきました。リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も部
屋も飾ってきました。

なのに、どうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんどうがり、努力もせず、
マイペースなのでしょう。旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地
理が苦手。息子は出不精。娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費ばかり。

二人とも『自然』になんて、まるで興味なし。しつけにはきびしい我が家の子育てに反して、マナ
ーは悪くなるばかり。私の子育ては一体、何だったの? 私はどうしたらいいの? 最近は互
いのコミュニケーションもとれない状態。子どもたちとどう接したらいいの?」(月刊M誌・K県・
五〇歳の女性)と。

 多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相談
があった。ある母親からのものだが、こう言った。

「うちの子(小三男児)は毎日、通信講座のプリントを三枚学習することにしていますが、二枚ま
でなら何とかやります。が、三枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。どう
したらいいでしょうか」と。

もう少し深刻な例だと、こんなのがある。これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こ
う言った。「昨日は何とか、二時間だけ授業を受けました。が、そのまま保健室へ。何とか給食
の時間まで皆と一緒に授業を受けさせたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と。

 こうしたケースでは、私は「プリントは二枚で終わればいい」「二時間だけ授業を受けて、今日
はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。仮にこれらの子
どもが、プリントを三枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「四枚やらせたい」「午後
の授業も受けさせたい」と言うようになる。こういう相談も多い。

「何とか、うちの子をC中学へ。それが無理なら、D中学へ」と。そしてその子どもがC中学に合
格できそうとわかってくると、今度は、「何とかB中学へ……」と。要するに親のエゴには際限が
ないということ。そしてそのつど、子どもはそのエゴに、限りなく振り回される……。

+++++++++++++++++++++

●親が子育てでいきづまるとき(2)

 前回の投書に話をもどす。「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も一瞬
ドキッとした。しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエゴではなかっ
たのか。もっとはっきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ?

(どうか、この記事を書いた、お母さん、怒らないでください。あなたがなさっているような経験
は、多かれ少なかれ、すべての親たちが経験していることです。決して、Kさんを笑っているの
でも、批判しているのでもありません。あなたが経験なさったことは、すべての親が共通してか
かえる問題。つまり落とし穴のような気がします。)

そのつど子どもの意思や希望を確かめた形跡がどこにもない。親の独善と独断だけが目立
つ。「生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、ウサギ、小鳥、魚を
飼育してきました」「旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が
苦手。息子は出不精」と。

この母親のしたことは、何とかプリントを三枚させようとしたあの母親と、どこも違いはしない。
あるいはどこが違うというのか。

 一般論として、子育てで失敗する親には、共通のパターンがある。その中でも最大のパター
ンは、(1)「子どもの心に耳を傾けない」。「子どものことは私が一番よく知っている」というのを
大前提に、子どもの世界を親が勝手に決めてしまう。

そして「……のハズ」というハズ論で、子どもの心を決めてしまう。「こうすれば子どもは喜ぶハ
ズ」「ああすれば子どもは親に感謝するハズ」と。そのつど子どもの心を確かめるということをし
ない。ときどき子どもの側から、「NO!」のサインを出しても、そのサインを無視する。あるい
は「あんたはまちがっている」と、それをはねのけてしまう。

このタイプの親は、子どもの心のみならず、ふだんから他人の意見にはほとんど耳を傾けない
から、それがわかる。

私「明日の休みはどう過ごしますか?」
母「夫の仕事が休みだから、近くの緑花木センターへ、息子と娘を連れて行こうと思います」
私「緑花木センター……ですか?」
母「息子はああいう子だからあまり喜ばないかもしれませんが、娘は花が好きですから……」
と。あとでその母親の夫に話を聞くと、「私は家で昼寝をしていたかった……」と言う。息子は、
「おもしろくなかった」と言う。娘でさえ、「疲れただけ」と言う。

 親には三つの役目がある。(1)よきガイドとしての親、(2)よき保護者としての親、そしてBよ
き友としての親の三つの役目である。この母親はすばらしいガイドであり、保護者だったかもし
れないが、(3)の「よき友」としての視点がどこにもない。とくに気になるのは、「しつけにはきび
しい我が家の子育て」というところ。

この母親が見せた「我が家」と、子どもたちが感じたであろう「我が家」の間には、大きなギャッ
プを感ずる。はたしてその「我が家」は、子どもたちにとって、居心地のよい「我が家」であった
のかどうか。あるいは子どもたちはそういう「我が家」を望んでいたのかどうか。結局はこの一
点に、問題のすべてが集約される。

が、もう一つ問題が残る。それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエゴに気
づいていないということ。いまだに「私は正しいことをした」という幻想にしがみついている! 
「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉が、それを表している。

+++++++++++++++++++++++

 子どもは、小学3年生ごろを境に、親離れを始める。しかし親が、それに気づき、子離れを始
めるのは、子どもが、中学生から高校生にかけてのこと。

 この時間的ギャップが、多くの悲喜劇を生む。掲示板に書きこんでくれたFさんの悩みも、そ
の一つ。

【Fさんへ】

 Fさんの育て方に原因があるわけではありません。またそういうふうに、自分を責めるのは、
正しくありません。

 あなたは親ですが、子どもという(人間)に対して、全責任があるわけではありません。子ども
は、子どもで、すでに自分の道を歩み始めています。(たしかに、あなたが、理想とする子ども
像からは、かけ離れているように見えるかもしれませんが……。)

 理由や原因は、わかりませんが、あなたの子どもは、相当、キズついています。学校で、いろ
いろあるのでしょう。うまくいかないこともあるのでしょう。つらいことや、狂うことも……。

一見、つっぱって見せたり、強がってみせたりするのは、自己表現が、うまくできないからで
す。そのもどかしさを、本人自身が一番、強く感じているはずです。

 ですから、「どうして勉強しないの!」「学校へ行かないの!」ではなく、子どもの立場で、もっ
というなら、あなたが昔、学生だったころ、友人に語りかけるように、語りかけてみることです。

 親風は禁物です。親風を吹かせば、あなたの子どもは、ますます、心を閉ざしてしまうでしょ
う。言うとしたら、「あなたはがんばっているわ」とか、「つらいこともあるよね」とか、「お母さん
も、学校へ行きたくなくて、つらいときもあった」です。

 幸いなことに、たいへん幸いなことに、部活だけは、がんばって行っているようですから、それ
を一芸として、伸ばすことを考えてください。その一芸がある間は、あなたの子どもは、自分の
道を踏みはずすことはないでしょう。またその一芸が、やがてあなたの子どもを、側面から支え
ることになります。

 残念ながら、すでにあなたの子どもは、親離れしています。つまり親として、あなたが子どもに
なすべきこと、できることは、ほとんどありません。また、何かをしようとか、そういうふうに、考
えないことです。

 子どもというのは、親の思いどおりにならないものです。ならないばかりか、親が行ってはほ
しくない方向に自ら進んでいくこともあります。

 では、どうするか?

 最終的には、「子どもを信ずる」しか、ありません。(といっても、あなたとあなたの子どもの間
の不信感は、相当なものと、推察されます。もし、あなたの子育てでどこに問題があったかと聞
かれれば、私は、その点をあげます。つまり親子の信頼関係の構築に失敗したという点で
す。)

 あなた自身が、不幸にして不幸な家庭に育った可能性もありますし、男子という異性というこ
とで、子育てにとまどいがあったのかもしれません。気負い先行型、心配先行型の子育てをし
てきた可能性があります。

 どちらにせよ、今、親子関係がうまくいっている家庭など、10に、1つ、あるいはよくて、2つと
か3つくらいしかないのも事実ですから、「まあ、こんなもの」と納得してください。(みんな、外か
ら見ると、うまくいっているように見えますが、ね。本当は、みんな、問題だらけですよ。外から
は、それが見えないだけ。)

 あなたは自分の子どもの姿を見ながら、子どもの心配をしているというより、あなたの不安や
心配を子どもにぶつけているだけかもしれませんね。あなたの子どもは、それを敏感に感じ取
って、「ウルセー!」となるわけです。

 こういう問題には、今のFさんには、わからないかもしれませんが、まだ二番底、三番底があ
ります。対処のし方をまちがえると、さらに、あなたの子どもは、あなたの手の届かない遠くに
行ってしまうこともありえるということです。

 だから今は、「これ以上、状態を悪化させないことだけ」を考えて、子どもの横をいっしょに、
歩いてみてください。方法としては、(1)友になり、(2)暖かい無視を繰りかえし、(3)ほどよい
親であることです。

 やりすぎず、しかし子どもが助けを求めてきたら、ていねいに応じてあげる、です。

 あなたは何とか、勉強をさせようとしていますが、子どもが、それを望まなければ、それまでと
いうことです。イギリスの格言にも、『馬を、水場に連れて行くことはできても、水を飲ませること
はできない』というのが、あります。

 あとの選択は、子どもに任せましょう。幸いなことに、あなたの子どもは、(部活)で、自分を光
らせています。それを伸ばすようにしてみたら、どうでしょうか。これからは、一芸が、子どもを
伸ばす時代です。

 そして大切なことは、もう子どものことには、かまわないで、あなたはあなたで、自分のしたい
ことをすればよいのです。1人の人間として、です。

 そういう姿を見て、あなたの子どもは、あなたから、何かを学ぶはずです。またそれにまさる、
不安や心配の解消法はありません。あなたの子どもにとって、です。たくましく、前向きに生き
ている親の姿ほど、子どもに安心感を与えるものは、ありません。

 「親をなめきったような態度を許せない」ということですが、Fさん、あなたは、かなり親意識の
強い方ですね。あなた自身がそういう家庭環境の中で、生まれ育ち、そういう意識をつくりあげ
られてしまったと考えるほうが正しいかもしれません。親は、なめられるもの。子どもは、親を踏
み台にして、さらに先へ行くものです。

 子どもなんかと、張りあわないこと。もともと張りあうような相手では、ないのです。

 くだらないから、そんな親意識は、捨てなさい!

 子どもがそういう態度をとったら、「ああ、そうですか」と言って、無視すればよいのです。それ
が親の、つまりは人間としての度量ということになります。

 あとは『許して、忘れる』。相手にしないこと、です。

 この問題は、一見、あなたの子どもの問題に見えますが、実は、子離れできない、もっと言え
ば、子どもへの依存性を断ち切ることができない、あなた自身の問題だということです。あなた
の子どもは、それに敏感に反応しているだけ、です。

 「月に1回ぐらい学校を休む」程度なら、許してあげなさい。「疲れているのね。まあ、そういう
ときは、休みなさい」と。

 ズル休み(怠学)ができる子どもというのは、それなりに、大物になりますよ。そういうときは、
「いっしょに、旅行でもしようか」と声をかけてみてください。(多分、いやがるでしょうが……。)
あなた自身も、大物になるのです。大物になって、子どもを包むのです。

 Fさんのように、親意識の強い人には、ハイハイと親の言うことを従順に聞いて、「ママ、ママ」
と甘えてくれる子どものほうが、よい子なのかもしれません。勉強も、まじめ(?)にやって、よい
成績をとって、人に好かれる子どもです。

 しかしそんな子ども、どこか気味が悪いと思いませんか? 私はそう思います。

 ……とまあ、勝手なことばかり書きましたが、いろいろな問題がある中でも、Fさんのかかえて
いる問題は、何でもない問題のように、思います。形こそ、ややギクシャクしていますが、あな
たの子どもは、今、たくましく、あなたから巣立ちしようとしているのです。そういう目で、見てあ
げてください。
(はやし浩司 子どもの反抗 子供の反抗 反抗期 対処 対処法)





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22
●世間的自己

 少し前、(自己概念)と(現実自己)について、書いた。「自分は、こうあるべきだという私」を
(自己概念)といい、「現実の私」を(現実自己)という。

 これら二つが近接していれば、その人は、落ちついた状態で、自分の道を進むことができ
る。しかしこれら二つが遊離し、さらに、その間に超えがたいほどの距離感が生まれると、その
人の精神状態は、きわめて不安定になる。劣等感も、そこから生まれる(フロイト)。

 たとえば青年時代というのは、(こうであるべき自分)を描く一方、(そうでない自分)を知り、
その葛藤に(かっとう)に苦しむ時代といってもよい。

 そこで多くの若者は、(そうであるべき自分)に向って、努力する。がんばる。劣等感があれ
ば、それを克服しようとする。しかしその(そうであるべき自分)が、あまりにもかけ離れていて、
手が届かないとわかると、そこで大きな挫折(ざせつ)感を覚える。

 ……というのは、心理学の世界でも常識だが、しかしこれだけでは、青年時代の若者の心理
を、じゅうぶんに説明できない。

 そこで私は、「世間の人の目から見た私」という意味で、(自己概念)と(現実自己)にほかに、
3つ目に、(世間的自己)を付け加える。

 「私は世俗的他人からどのように評価されているか」と、自分自身を客観的に判断すること
を、(世間的自己)という。具体的に考えてみよう。

+++++++++++++++++

 A子さん(19歳)は、子どものころから、音楽家の家で育ち、持ち前の才能を生かして、音楽
学校に進学した。いつかは父親のような音楽家になりたいと考えていた。

 しかしこのところ、大きなスランプ状態に、陥(おち)いっている。自分より経験の浅い後輩よ
り、技術的に、劣っていると感じ始めたからだ。「私がみなに、チヤホヤされるのは、父親のせ
いだ。私自身には、それほどの才能がないのではないか?」と。

 ここで、「父親のような音楽家になりたい」というのは、いわば(自己概念)ということになる。し
かし「それほどの才能がない」というのは、(現実自己)ということになる。

 しかしAさんは、ここでつぎの行動に出る。自分の父親の名前を前面に出し、その娘であるこ
とを、音楽学校の内外で、誇示し始めた。つまり自分を取り囲む、世間的な評価をうまく利用し
て、自分を生かそうと考えた。「私は、あの○○音楽家の娘よ」と。

 これは私がここでいう(世間的自己)である。

+++++++++++++++++++

 少し話がわかりにくくなってきたので、もう少しかみくだいて説明してみよう。

 世の中には、世間体ばかりを気にして生きている人は、少なくない。見栄、メンツに、異常な
までに、こだわる。名誉や地位、肩書きにこだわる人も、同じように考えてよい。自分の生きザ
マがどこにあるかさえわからない。いつも他人の目ばかりを気にしている。

 「私は、世間の人にどう思われているか」「どうすれば、他人に、いい人に思われるか」と。

 そのためこのタイプの人は、自分がよい人間に見られることだけに、細心の注意を払うよう
になる。表と裏を巧みに使い分け、ついで、仮面をかぶるようになる。(しかし本人自身は、そ
の仮面をかぶっていることに、気づいていないことが多い。)

 これは極端なケースだが、こういう人のばあい、その人の心理状態は、(自己概念)と(現実
自己)だけは、説明できなくなる。そもそも(自己)がないからである。

++++++++++++++++++++

 そこで(私)というものを考えてみる。

 (私)には、たしかに、「こうでありたいと願っている私」がいる。しかし「現実の私はこうだとい
うことを知っている私」もいる。で、その一方で、「世間の人の目を意識した私」もいる。

 これが(自己概念)(現実自己)、そして(世間的自己)ということになる。私たちは、この三者
のはざまで、(私)というものを認識する。もちろん程度の差はある。世間を気にしてばかりして
いる人もいれば、世間のことなど、まったく気にしない人もいる。

 しかしこの世間体というのは、一度それを気にし始めると、どこまでも気になる。へたをすれ
ば、底なしの世間体地獄へと落ちていく。世間体には、そういう魔性がある。気がついてみた
ら、自分がどこにもないということにもなりかねない。

 中学生や高校生を見ていると、そういう場面に、よく出あう。

 もう15年ほど前のことだが、ある日、1人の男子高校生が私のところへやってきて、こう聞い
た。

 「先生、東京のM大学(私立)と、H大学(私立)とでは、どっちが、カッコいいでしょうかね。
(結婚式での)披露宴でのこともありますから」と。

 まだ恋人もいないような高校生が、披露宴での見てくれを心配していた。つまりその高校生
は、「何かを学びたい」と思って、受験勉強をしていたわけではない。実際には、勉強など、ほと
んどしていなかった。その一方で、現実の自分に気がついていたわけでもない。

 学力もなかったから、だれでも入れるような、M大学とH大学を選び、そのどちらにするかで
悩んでいた。つまりこれが、(世間的自己)である。

+++++++++++++++++++++++

 これら(自己概念)(現実自己)(世間的自己)の三者は、ちょうど、三角形の関係にある。

 (自己概念)も(自己評価)も、それほど高くないのに、偶然とチャンスに恵まれ、(世間的自
己)だけが、特異に高くなってしまうということは、よくある。ちょっとしたテレビドラマに出ただけ
で、超有名人になった人とか、本やCDが、爆発的に売れた人などが、それにあたる。

 反対に(自己概念)も(自己評価)も、すばらしいのに、不運がつづき、チャンスにも恵まれ
ず、悶々としている人も、少なくない。大半の人が、そうかもしれない。

 さらにここにも書いたように、(自己概念)も(現実自己)も、ほとんどゼロに等しいのに、(世
間的自己)だけで生きている人も、これまた少なくない。

 理想的な形としては、この三角形が、それぞれ接近しているほうがよい。しかしこの三角形が
肥大化し、ゆがんでくると、そこでさまざまなひずみを引き起こす。ここにも書いたように、精神
は、いつも緊張状態におかれ、ささいなことがきかっけで、不安定になったりする。

++++++++++++++++++++++

 そこで大切なことは、つまり親として子どもを見るとき、これら三者が、子どもの心の中で、ど
のようなバランスを保っているかを知ることである。

 たとえば親の高望み、過剰期待は、子どものもつ(自己概念)を、(現実自己)から、遊離させ
てしまうことに、なりかねない。子ども自身の自尊心が強すぎるのも、考えものである。

 子どもは、現実の自分が、理想の自分とあまりにもかけ離れているのを知って、苦しむかもし
れない。

 さらに(世間的自己)となると、ことは深刻である。もう20年ほど前のことだが、毎日、近くの
駅まで、母親の自動車で送り迎えしてもらっている女子高校生がいた。「近所の人に制服を見
られるのがいやだから」というのが、その理由だった。

 今でこそ、こういう極端なケースは少なくなったが、しかしなくなったわけではない。世間体を
気にしている子どもは、いくらでもいる。親となると、もっといる。子どもの能力や方向性など、
まったく、おかまいなし。ブランドだけで、学校を選ぶ。

 しかしそれは不幸の始まり。諸悪の根源、ここにありと断言してもよい。もちろん親子関係
も、そこで破壊される。

 ……と話が脱線しそうになったから、この話は、ここまで。

 そこであなた自身は、どうか。どうだったか。それを考えてみるとよい。

 あなたにはあなたの(自己概念)があるはず。一方で、(現実自己)もあるはず。その両者
は、今、うまく調和しているだろうか。もしそうなら、それでよし。しかしもしそうでないなら、あな
たは、今、ひょっとしたら、悶々とした毎日を過ごしているかもしれない。

 と、同時に、あなたの(世間的自己)をさぐってみるとよい。「私は世間のことなど、気にしな
い」というのであれば、それでよし。しかしよくても悪くても、世間的自己ばかりを気にしている
と、結局は、疲れるのは、あなた自身ということになる。

 (私)を取りもどすためにも、世間のことなど、気にしないこと。このことは、そのままあなたの
子育てについても、言える。あなたは自分の子どものことだけを考えて、子育てをすればよい。
すべては、子どもから始まり、子どもで終わる。

 コツは、あなたが子どもに抱く(子どもの自己概念)と、子ども自身が抱く(現実自己)を、遊離
させないこと。

その力もない子どもに向かって、「もっと勉強しなさい!」「こんなことで、どうするの!」「AA中
学校へ、入るのよ!」では、結局は、苦しむのは、子ども自身ということになる。
(はやし浩司 現実自己 自己概念 世間的自己 世間体)





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23
●平和教育

 人格の完成度は、その人が、いかに「利他」的であるかによって決まる。「利己」と「利他」を
比較してみたばあい、利他の割合のより大きい人を、より人格のすぐれた人とみる。

 同じように国家としての完成度は、いかに相手の国の立場でものを考えることができるかで
決まる。経済しかり、文化しかり、そして平和しかり。

 自国の平和を唱えるなら、相手国の平和を保障してこそ、はじめてその国は、真の平和を達
成することができる。もし子どもたちの世界に、平和教育というものがあるとするなら、いかに
すれば、相手国の平和を守ることができるか。それを考えられる子どもにすることが、真の平
和教育ということになる。

 私たちは過去において、相手の国の人たちに脅威を与えていなかったか。
 私たちは現在において、相手の国の人たちに脅威を与えていないか。
 私たちは将来において、相手の国の人たちに脅威を与えるようなことはないか。

 つまるところ、平和教育というのは、反省の教育ということになる。反省に始まり、反省に終
わる。とくにこの日本は、戦前、アジアの国々に対して、好き勝手なことをしてきた。満州の植
民地政策、真珠湾の奇襲攻撃、それにアジア各国への侵略戦争など。

 もともと自らを反省して、責任をとるのが苦手な民族である。それはわかるが、日本人のこの
無責任体質は、いったい、どうしたものか。

 たまたま先週と今週、2週にわたって、「歴史はxxxx動いた」(NHK)という番組を見た。日露
戦争を特集していた。

その特集の中でも、「どうやって○○高地を占領したか」「どうやってロシア艦隊を撃滅したか」
という話は出てくるが、現地の人たちに、どう迷惑をかけたかという話は、いっさい、出てこなか
った。中国の人たちにしてみれば、まさに天から降ってきたような災難である。

 私は、その番組を見ながら、ふと、こう考えた。

 「もし、今のK国が、日本を、ロシアと取りあって、戦争をしたら、どうなるのか?」と。

「K国は、50万人の兵隊を、関東地方に進めた。それを迎え撃つロシア軍は、10万人。K国
は箱根から小田原を占領し、ロシア軍が船を休める横須賀へと迫った……、と。

 そしてそのときの模様を、いつか、50年後なら50年後でもよいが、K国の国営放送局の司
会者が、『そのとき歴史は変わりました』と、ニンマリと笑いながら、得意げに言ったとしたら、ど
うなるのか。日本人は、そういう番組を、K国の人たちといっしょに、楽しむことができるだろう
か」と。

 日露戦争にしても、まったく、ムダな戦争だった。意味のない戦争だった。死んだのは、何十
万人という日本人、ロシア人、それに中国人たちだ。そういうムダな戦争をしながら、いまだに
「勝った」だの、「負けた」だのと言っている。この日本人のオメデタサは、いったい、どこからく
るのか。

 日本は、歴史の中で、外国にしいたげられた経験がない。それはそれで幸運なことだったと
思うが、だからこそ、しいたげられた人の立場で、ものを考えることができない。そもそも、そう
いう人の立場を、理解することさえできない。

 そういう意味でも、日本人がもつ平和論というのは、実に不安定なものである。中には、「日
本の朝鮮併合は正しかった。日本は、鉄道を敷き、道路を建設してやった」と説く人さえいる。

 もしこんな論理がまかりとおるなら、逆に、K国に反対のことをされても、日本人は、文句を言
わないことだ。ある日突然、K国の大軍が押し寄せてきて、日本を占領しても、文句を言わない
ことだ。

 ……という視点を、相手の国において考える。それが私がここでいう、平和教育の原点という
ことになる。「日本の平和さえ守られれば、それでいい」という考え方は、平和論でもなんでもな
い。またそんな視点に立った平和論など、いくら説いても意味はない。

 日本の平和を守るためには、日本が相手の国に対して、何をしたか。何をしているか。そし
て何をするだろうか。それをまず反省しなければならない。そして相手の国の立場で、何をす
べきか。そして何をしてはいけないかを、考える。

 あのネール(インド元首相)は、こう書いている。

 『ある国の平和も、他国がまた平和でなければ、保障されない。この狭い相互に結合した世
界では、戦争も自由も平和も、すべて連帯している』(「一つの世界を目指して」)と。

 考えてみれば、「平和」の概念ほど、漠然(ばくぜん)とした概念はない。どういう状態を平和と
いうか、それすら、よくわからない。が、今、平穏だから、平和というのなら、それはまちがって
いる。今、身のまわりで、戦争が起きていないから、平和というのなら、それもまちがっている。

こうした平和というのは、つぎの戦争のための準備期間でしかない。休息期間でしかない。私
たちが、恵まれた社会で、安穏としたとたん、世界の別のところでは、別のだれかによって、つ
ぎの戦争が画策されている。

 過去において、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えていたか。
 今、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えているか。
 さらの将来、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えるだろうか。

 そういうことをいつも、前向きに考えていく。またそれを子どもたちに教えていく。それが平和
教育である。
(はやし浩司 平和教育 平和 平和論)




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24
●共存依存症

 少し前、「共存依存症」について書いた。相手の男性(もしくは女性)と、共存することについ
て、病的な依存関係をもつことを、共存依存症という。(少しわかりにくいかな?)

 わかりやすい例で説明しよう。話の内容はフィクションで、少し誇張してある。

 内縁の夫は、45歳。内縁の妻は、44歳。夫には定職はなく、夫はパチンコと競馬に明け暮
れる毎日。生計を支えているのは、妻。昼間は、スーパーで店員をし、夜は、近くのスナック
で、働いていた。

しかし夫は、妻に対しては、暴力を平気で振るった。酒ぐせも悪かった。「態度が悪い」「稼ぎが
少ない」と言っては、毎晩、妻を殴る、蹴るの繰りかえし。そのくせ夫自身は、浮気をし放題。借
金もあちこちにあった。

 見るに見かねて、近所の人まで、「あんな男とは、すぐ別れなさい」と、アドバイスをした。しか
しその女性は、いつも柔和な笑みを浮かべながら、こう答えていた。

 「あの人には、私が必要なのです」「私が支えてあげなければ、あの人は、生きていかれない
のです」と。

 周囲の人たちは、その女性に同情しながらも、あまりにも献身的なその女性の態度に驚い
た。

 ……というような話は、昔は、よく聞いた。夫がヤクザ崩れか何かで、妻が、その夫に献身的
に尽くすという話である。(昔は、美談風の語られることが多かったように思うが……。)

 さらに、本当かウソかは知らないが、売春をしながら、夫の遊興費を稼いでいた女性もいたと
いう。

 こうした女性は、(男性の中にも、たまにいるが)、一見、すばらしい女性に見える。夫に対し
て、かぎりなく深い(?)愛情をもっているかのように見える。

 しかし実際には、こうした異常なまでに献身的な行為は、愛情に基づいているのではない。自
分の心のスキマを埋めるために、(妻という立場)を守っているにすぎない。つまり夫に依存す
ることによって、自分の心のスキマを埋めている。

 こういうのを、共存依存症という。「依存症」という言葉からもわかるように、買い物依存症、
パチンコ依存症と同じように考えてよい。つまり何かに依存することで、心のスキマを埋めよう
とするのが、依存症。その対象が、(人)になったのを、共存依存症という。

 が、こういうのは、もともとあるべき、夫婦の姿ではない。少なくとも、正常な人間関係ではな
い。

 ……という話が、今日、ワイフとの会話の中で、話題になった。

私「ぼくは、お前に依存しすぎているよね」
ワイフ「そう言えば、そうね。私もそうだけど、あなたも、ひょっとしたら、共存依存症かもね」
私「いや、お前のほうが、共存依存症だよ。ぼくのようなおかしな夫のそばにいて、離れられな
いから……」
ワイフ「そうかもね。あなたは、かわいそうな人だから、私がいなければ、生きていけそうもない
からね」
私「そう、そこなんだよ。お前は、ぼくに依存しすぎているよ」と。

 夫婦も、長く夫婦でいると、ここでいう共存依存症の関係になるのかもしれない。少し前だ
が、こんなメールをくれた女性(40歳)がいた。

 その女性の両親は、今でも、毎日のように夫婦喧嘩ばかりしているという。年齢は、ともに70
歳近い。(父親は、若いころは、浮気ばかりしていたという。)

 そこでその女性は、若いころから、母親に、「離婚したら」と勧めている。が、最近になって、
その女性の母親は、その女性に、こう言ったという。

 「あんなお父さん(夫)でも、いないよりはいたほうがいい。ひとりで、孤独な生活を送るより、
いい」と。

 そういう考え方もある。共存依存症といえば、共存依存症ということになる。しかし反対に、た
った一人で、たくましく生きている人など、本当にいるのだろうかということにもなる。

 心のスキマにしても、多かれ少なかれ、みな、もっている。そしてそのスキマをたがいに埋め
あいながら、生きている。共存依存症も、度を超せば、それは問題だが、しかし、悪と決めてか
かることもできない。

 ここに書いた、買い物依存症にしても、パチンコ依存症にしても、だれだって、同じような環境
の中で、同じような状況に置かれれば、そうなるかもしれない。だれでも、油断をすれば風邪を
ひくように、だ。

 ただ、その依存症が、極端になってきたら、心のどこかでブレーキをかけなければならない。
そのためにも、まず自分の心の弱さを、自分で知る。それを知らないまま、それに溺れてしま
えば、結局は、自分の人生をムダにすることになる。

 いくら相手に尽くすといっても、その価値もない人のために、自分の価値を犠牲にしてはいけ
ない。わかりやすく言えば、銀行強盗に、専門的な知恵を貸すようなものである。(あまりよい
たとえではないかもしれないが……。)

 たがいに依存するにしても、たがいに高めあうように依存する。励ましあい、慰めあい、教え
あい、守りあうように、だ。共存依存といっても、「共存」そのものが、悪というわけでない。念の
ために……。

(補記)

 夫や妻への献身性というのは、本当に美徳なのだろうか、という問題もある。子どもへの献
身性もある。さらに親に対する献身性の問題も、ある。

 今日も、頭のボケた兄を連れて、近くの回転寿司屋へ行ってきた。その帰り道、兄が、私にこ
う言った。「かたい寿司を食べると、胃に悪い」と。

 そこで私は、兄にこう言った。

「あのな、お前。お前のような、頭のボケたヤツが長生きすると、みんなが迷惑するんだよな。
お前のようなヤツは、何も役にたたないだろ。だからあまり長生きしないで、さっさと死んだほう
が、いいんだよ。わかるか?」と。

 するとあの兄が、ハハハと笑った。冗談が通じたらしい。横で会話を聞いていたワイフも笑っ
た。

 「お前が、オレの兄に、そう言うことは許されないが、ぼくらは、兄弟だからね」と。一応、どこ
か弁解がましいことを、ワイフに言うと、さらにワイフが笑った。

 話はそれたが、献身的であることは、決して美徳ではない。このことは、反対の立場で考えて
みれば、わかる。だれかが、(あなたの親でも、夫もでも、子どもでもよいが)、あなたのために
自分を犠牲にしてまで、尽くしてくれたとしたら、あなたは、それを喜ぶだろうか。

 私なら、こう言う。「私の人生のことはかまわなくていい。お前たちは、お前たちで、自分の人
生を大切に生きろ」と。献身的に尽くされるほうだって、心苦しい。

 が、例外がある。それが夫婦ではないか。私もいつかそのときがきたら、ワイフにだけは、献
身的に尽くすだろうと思う。今はまだ笑い話の段階だが、そのうち、ワイフの尿瓶(しびん)の始
末をしたり、尿取りパッドを交換してやるようになるかもしれない。あるいはウンチのついたお
むつを取りかえてやることになるかもしれない……。

 少しずつだが、そういう覚悟を、心のどこかでし始めている。

 「献身的である」ということには、そういう問題も、含まれる。





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25
●逃避

 いやなことがあると、人は、それから逃げようとする。その逃げ方には、いろいろある。子ども
のばあいで、考えてみる。

(1)現実逃避
(2)現実回避
(3)代償的逃避
(4)自己逃避
(5)引きこもり、など。

 最近では、占い、まじない、超能力がある。こうしたものを信じたり、頼ったりすることによっ
て、子どもは、現実の不安や心配から逃避しようとする。

 その傾向が強くなるのは、受験期を迎えた小学校の高学年から、中高校にかけて。これを
「現実逃避」という。「超能力をさずかって、テストで、100点を取りたい」と言った中学生がい
た。

 つぎに、たとえば定期テストが押し迫っているというのに、友だちと、街をブラついてみたり、
コンサートに出かけてみたりすることがある。現実を忘れるために、そうする。これを「現実回
避」という。

 また逃避は、逃避だが、勉強をしなければいけないときに、スポーツの練習に励むというの
も、ある。私も、高校生のとき、日本史(日本史が苦手だった)の勉強をしなければならないと
き、得意の数学や英語の勉強ばかりをしていたときがある。つまり私は、数学や英語の勉強を
代償的にすることで、日本史の勉強から逃避していた。

 さらに自分自身を、その社会から逃避させてしまうこともある。ある日、ブラッと旅に出るな
ど。子どもでいえば、学校をサボって、街に出るというのが、それにあたる。

 で、その状態が、内にこもったのを、「引きこもり」という。(子どもの引きこもりは、これだけで
は、説明はできないが、症状としては、これで説明できる。)

 「逃避」という行動は、自分自身の精神的苦痛をやわらげるためのものと考えてよい。反対に
「逃避」を押さえこんでしまうと、そのひずみは、心のひずみとなって、さまざまな方面に現れ
る。逃避することを、「悪」と決めてかかっては、いけない。

 大切なことは、逃避と、うまくつきあうこと。ときに、夢想して、超能力の世界にひたるのも、よ
いかもしれない。ときに、学校をサボって、街をブラつくのも、よいかもしれない。一見、ムダな
行動のようにも見えるが、子どもは(そして人は)、そういう形で、自分の心を調整する。

 さらに大切なことは、そういう行動が見えたら、何が、子どもをそうさせているかを、早めに判
断すること。何か、原因があるはずである。昔から、『親の意見と、ナズビの花は、千に一つも
ムダがない』というが、これをもじると、『子どもの行動には、千に一つも、ムダがない』となる。

(補記)

 今、気がついたが、私が、日本の封建時代に、大きな反発を覚えるのは、それは私が、高校
生のとき、日本史に苦しめられたからではないか。反発を覚えたから、日本史が嫌いになった
のか、嫌いだったから、反発したのかは、わからない。

 しかしまったく関係ないとは、思えない。

 とくにあのころの日本史は、(今でも、そうだが)、まるで暗記科目のような科目だった。いくら
頭の中で、ストーリーが理解できていても、その言葉(単語)が出てこなければ、点は取れなか
った。英語も、似たような科目だったが、しかし英語には、まだ夢があった。「いつか、外国へ
行く」という夢だ。

 こうして考えてみると、今、私たちが、無意識のうちにも、「好き」とか「嫌い」とか言っているも
のでも、そのルーツをたどってみると、そこに何かがあることがわかる。

 そういう意味では、人間の心というのは、自分でつくっていく部分もないわけではないが、その
大半は、その環境の中で、(つまりは運命という無数の糸のからみあいの中で)、つくられてい
くものかもしれない。





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26
●子どものほめ方

 昔、自分の孫(年長児)に、こう言っていた祖母がいた。「あんた、もっと、しっかり勉強しなさ
いよ。あんたができないから、先生は、ああしてわざとほめてくれるのよ。わかているの!」と。

 とんでもない言い方である。孫を伸ばすどころか、伸ばす芽を、祖母自身がつんでしまってい
る!

 グラハムという学者は、帰属理論※という理論の中で、こう説明している。

 「幼児期は、能力がすぐれているから、ほめられると子どもは考える。しかしおとなのばあい
は、努力がほめられるイコール、能力が劣っているから、ほめられると考える」と。

 冒頭にあげた祖母は、「能力が劣っているから、孫は、わざとほめられた」と思った。なぜそ
の祖母がそう感じたかは、グラハムの理論で説明できる。

 実際の例で考えてみよう。

 たとえば2人の中学受験生がいる。Aさんは、能力的には、それほど恵まれていない。一方、
Bさんは、能力的には、たいへん恵まれている。

 Aさんは、努力家。が、Bさんは、自分の能力を過信するあまり、どこか勉強のし方がいいか
げん。

 さて、いよいよ合格発表の日がやってきた。

 ケースとしては、つぎの4つが考えられる。

(1)Aさん、Bさん、ともに合格
(2)Aさんは、合格、Bさんは、不合格
(3)Aさんは、不合格、Bさんは合格
(4)Aさん、Bさん、ともに不合格

 さて、それぞれのばあい、あなたは、Aさんと、Bさんに、何と言って、言葉をかけるだろうか。

 実は、こうした事例は、よく経験する。ケースに応じて、ほめ方も、なぐさめ方も、ちがう。あえ
てここでは、答を書かないでおく。(たまたま現在は受験シーズンということもあり、企業秘
密!)しかしあなたなら、それぞれのケースでは、Aさんと、Bさんに、何と言うだろうか、少しだ
け、頭の中で考えてみてほしい。

 あえて(1)のケースについて言えば、Aさんに向っては、「ヤッター! おめでとう!」と言う。B
さんに向かっては、「受かって当然だから、心配していなかったよ」と言う。(多分?)

 つまり幼児期というのは、親や先生が子どもをほめると、子どもは、「自分はすばらしいから、
ほめられる」と思う。しかし年齢を経ると、その感じ方も変わってくるということ。そういう微妙な
心理も理解していないと、ほめるといっても、子どもをうまく、伸ばすことはできない。

 (子どものほめ方といっても、奥が深いぞ!)

 しかし一般論として、これだけは覚えておくとよい。

 子ども(幼児)をほめるにしても、努力と、やさしさは、どんどん、ほめる。遠慮なくほめる。
が、顔やスタイルは、ほめない。頭のよさは、微妙な問題を含んでいるので、時とばあいを考え
て、慎重にする。とくに集団教育の場では、そうである。

 「微妙な問題」というのは、たとえば頭のよい子どもは、それほど努力しなくても、スイスイと、
よい成績を示したりする。そういう子どもをほめると、努力そのものを、軽視するようになる。

 そしてその一方で、いくら努力しても、よい成績を出せない子どもには、劣等感をもたせてし
まうことがある。

 ほめ方、叱り方は、まさに教育の要(かなめ)と言ってもよい。

※帰属理論……すべての結果(表象に現われた症状)には、その帰属すべき原因があるとい
う考え方。日本的に言えば、因果応報論ということか。
(はやし浩司 S・グラハム 帰属理論 叱り方 しかり方 叱りかた 子供の叱り方)

+++++++++++++++++++++++

子どものほめ方、叱り方について書いた原稿を
添付します。(中日新聞発表済み。)

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子どもを叱る法

親が子どもを叱るとき

●叱るときは恐怖感を与えない

 子どもを叱るとき、最も大切なことは、恐怖感を与えないこと。『威圧で閉じる子どもの耳』と
覚えておく。中に親に叱られながら、しおらしくしている子どもがいる。が、反省しているから、そ
うしているのではない。こわいからそうしているだけ。

親が子どもを日常的に叱れば叱るほど、子どもはいわゆる「叱られじょうず」になる。頭をさげ
て、いかにも反省しているといった様子を見せる。しかしこれはフリ。親が叱るほどには、効果
は、ない。叱るときは、次のことを守る。

●叱るときの鉄則

 (1)人がいるところでは、叱らない(子どもの自尊心を守るため)。

(2)大声で怒鳴らない。そのかわり言うべきことは、繰り返し言う。「子どもの脳は耳から遠い」
と覚えておく。話した説教が、脳に届くには、時間がかかる。

(3)相手が幼児のときは、幼児の目線にまで、おとなの体を低くする(威圧感を与えないた
め)。視線をはずさない(真剣であることを示すため)。子どもの体を、しっかりと親の両手で固
定し、きちんとした言い方で話す。にらむのはよいが、体罰は避ける。とくに頭部への体罰は、
タブー。体罰は与えるとしても、「お尻」と決めておく。

(4)子どもが興奮状態になったら、手をひく。あきらめる。そしてここが重要だが、(5)叱ったこ
とについて、子どもが守られるようになったら、「ほら、できるわね」と、ほめてしあげる。ちなみ
に私が調査したところ、相手が幼児のばあい、約50%の母親が何らかの体罰を加えているの
がわかった(浜松市にて調査)。

げんこつ、頭たたき、チビクリ、お尻たたきなど。ほかに「グリグリ(げんこつで頭の両側をグル
グリする)」「ヒネリ(げんこつで頭をひねる)」など。台所のすみで正座、仏壇の前で正座という
ものもあった。「どうして仏壇の前で正座なのか?」と聞いたら、その子ども(中一男子)はこう
話してくれた。「お父さんが数年前に死んだから」と。何でもとても恐ろしいことだそうだ。体罰で
はないが、「(家からの)追い出し」というのも依然と多い。
●ほめるときは、おおげさに

 次に子どものほめ方。古代ローマの劇作家のシルスも、『忠告は秘かに、賞賛はおおやけ
に』と書いている。子どもをほめるときは、人前で、大声で、少しおおげさにほめる。そのとき頭
をなでる、抱くなどのスキンシップを併用するとよい。そしてあとは繰り返しほめる。

 ただ、一つだけ条件がある。子どもの、やさしさ、努力については、遠慮なくほめる。が、顔や
スタイルについては、ほめないほうがよい。幼児期に一度、そちらのほうに関心が向くと、見て
くれや、かっこうばかりを気にするようになる。実際、休み時間になると、化粧ばかりしていた女
子中学生がいた。また「頭」については、ほめてよいときと、そうでないときがあるので、慎重に
する。頭をほめすぎて、子どもがうぬぼれてしまったケースは、いくらでもある。

●励まし方

 叱り方、ほめ方と並んで重要なのが、励まし方。いつもプラスの暗示をかけるようにして、励
ますとよい。「あなたはこの前より、すばらしくなった」「去年よりずっとよくなった」など。またすで
に悩んだり、苦しんだり、さらにはがんばっている子どもに向かって、「がんばれ!」はタブー。

意味がないだけではなく、かえって子どもを袋小路へ追い込んでしまう。「やればできる」式の
励まし、「こんなことでは!」式の脅しも、タブー。結果が悪く、子どもが落ち込んでいるようなと
きはなおさら、「あなたはよくがんばった」式の前向きな姿勢で、子どもを温かく包んであげる。



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27
●親の希望 vs 現実の子ども

 親が、心の中で希望として描く、子ども像。これを(子ども概念)と呼ぶ。一方、そこには、現
実の子どもがいる。それを(現実子ども)と呼ぶ。心理学でいう、(自己概念)と、(現実自己)と
いう言葉にならった。

 そこで私は、この(子ども概念)と(現実子ども)のほかに、もう一つ、(世間評価)を加える。こ
れも、(自己概念)と(現実自己)のほかに、もう一つ、(世間評価)を、加えたことに、まねる。他
人から見た子ども像ということで、「世間評価」という。

 親が、「うちの子は、こうであってほしい」と願いながら、心の中に描く、子ども像を、(子ども概
念)という。

 勉強がよくできて、スポーツマンで、よい性格をもっていて、人にも好かれる。集団の中でもリ
ーダーで、できれば、ハンサム。自分という親を尊敬してくれていて、親の相談相手にもなって
くれる……、と。

 しかし現実の子どもは、そうでないことが多い。問題だらけ。園でも学校でも、何かとトラブル
をよく起こす。成績もかんばしくない。できも悪い。性格もいじけているし、反抗ばかりしている。
このところ、勉強、そっちのけで、遊んでばかりいる。

 しかし子どもの姿というのは、それだけでは決まらない。親が知らない世界での評価もある。
家の中では、ゴロゴロしているだけ。生活態度も悪い。親を親とも思わない言動。しかしスポー
ツクラブでは、目だった活躍をしている、とか。

 こういうケースは、よくある。

 そこで、(子ども概念)と、(現実子ども)が、それなりに一致していれば、問題はない。(子ども
概念)と(世間評価)も、それなりに一致していれば、問題はない。しかしこの三者が、よきにつ
け、悪しきにつけ、距離を置いて、遊離すると、そこでさまざまな問題を引き起こす。

【例1】(以下の例は、すべてフィクションです。実際にあった例ではありません。)

 ある日、小学1年生になったS君のバッグの中を見て、私は驚いた。そうでなくても、これから
先、たいへんだろうなと思っていた子どもである。今でいうLD(学習障害児)であったかもしれ
ない。そのバッグの中には、難解なワークブックが、ぎっしりと入っていた。

 このケースでは、親は、S君に対して、過大な期待を抱いていたようである。そのため、「やら
せれば、できる」という信念(?)のもと、難解なワークブックを、何冊も買いそろえた。そして毎
日、S君が学校から帰ってくると、最低でも、2時間は、勉強を教えた。

 このS君のケースでは、ここでいう親が心の中で描く(子ども概念)と、(現実子ども)が、大き
くかけ離れていたことになる。

【例2】

 B君は、中学1年生。勉強は嫌い。ときどき、学校もサボる。しかし小学生のときから、少年
野球クラブでは、ずっと、レギュラー(ピッチャー)を務めてきた。その地区では、B君にまさるピ
ッチャーはいなかった。

 年に4回開かれる、地区大会では、B君の所属するチームは、たいてい優勝した。市の大会
で、準優勝したこともある。

 しかし母親との間では、けんかが絶えなかった。「勉強しなさい!」「うるさい!」と。あるとき、
母親は、「勉強しなければ、野球チームをやめる」とまで言った。が、B君は、その夜、家を出て
しまった。B君が、6年生のときのことである。

 中学生になってから、B君は、部活に野球部を選んだ。しかしその直後、B君は、監督の教
師と衝突してしまい、そのまま野球部をやめてしまった。B君が、グレ始めたのは、そのときか
らだった。

 このB君のケースでは、(子ども概念)と(現実子ども)は、それほど遊離していなかったが、
親が子どもに対してもっている(子ども概念)と、(世間評価)は、大きくズレていた。

【例3】

 私の実家は、以前は、いくつかの借家をもっていた。その中の一つは、表が駐車場で、裏が
一間だけの家になっていた。

 その借家には、父と子だけの二人が住んでいた。母親は、どうなったか知らない。が、その
子というか、高校生が、国立大学の医学部に合格した。父親は、酒に溺れる毎日だったとい
う。

 しばらくしてその父子は、その借家を出たが、私は、その話を、母から聞いて、心底、驚い
た。借家を訪れてみたが、酒のビンがいたるところに散乱していた。

 私が、「どんな子どもでしたか」と近所の人に聞くと、その人は、こう言った。「本当にすばらし
い息子さんでしたよ。毎日、父の酒を買うために、自転車で、酒屋へ通っていました」と。

 この父子の関係では、父親に、そもそも(子ども概念)があったかどうかは、疑わしい。放任と
無責任。しかしその子どもの(現実子ども)は、父親のもっていたであろう(子ども概念)を、は
るかに超えていた。(世間評価)も、である。

【例4】

 新幹線をおりて、バスで、友人の家に向かうときのこと。うしろの席で、あきらかに母と娘と思
われる二人が、こんな会話を始めた。母親は、45歳くらいか。娘は、20歳そこそこ。母親とい
うのは、どこかの大病院の院長を夫にもつ、女性らしい。どうやら、娘の結婚相手をだれにす
るかという相談のようだった。

母親「Xさんは、いい人だけど、私大卒でしょう。出世は望めないわね」
娘「それにXさんは、もう30歳よ」
母親「Yさんは、K大学で、4年間、講師をしていたそうよ。でもね、ああいう性格だから、お母さ
んは、薦めないわ」
娘「そうね。同じ意見よ。あの人は、私のタイプじゃないし……」
母親「Zさんは、どう? 患者さんの評判も、いいみたいだし……」
娘「そうね、一度、Zさんと、食事をしてみようかしら。でもZさんには、もう恋人がいるかもしれな
いわ」と。

 話の内容はともかくも、二人の会話を聞きながら、私は、いい親子だなあと思ってしまった。
呼吸が、ピタリとあっている。

 最後のこのケースでは、母のもつ(子ども概念)と、(現実子ども)は、一致している。大病院
の後継者を、二人でだれにするか、相談している。このばあいは、(世間評価)は、ほとんど、
問題になっていない。

 ふつう、この三者が、ともに接近していれば、親子関係は、スムーズに流れる。しかしこの三
者が、たがいに遊離し始めると、先に書いたように、親子関係は、ギクシャクし始める。

 何が子どもを苦しめるかといって、親の高望み、つまり過剰期待ほど、子どもを苦しめるもの
は、ない。

 一方。その反対のこともある。すばらしい子どもをもちながら、「できが悪い」と悩んでいる親
である。こういうケースは、少ないが、しかしないわけではない。

 そこであなた自身のこと。

 あなたは今、どのような(子ども概念)をもっているだろうか。そしてその(子ども概念)は、(現
実子ども)と一致しているだろうか。もし、そうならあなたは、今、すばらしい親子関係を築いて
いるはず。

 が、反対に、そうでなければ、そうでない。やがて長い時間をかけて、あなたの親子関係は、
ギクシャクしたものになる。気がついてみたら、親子断絶ということにもなりかねない。一度、
(世間評価)も参考にしながら、あなた自身のもっている(子ども概念)を、修正してみるとよい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●産んでくれて、ありがとう!

 R社の掲示板に、こんな書きこみがあった。以前から、私のマガジンやHPを、励ましてくれて
いる読者の方からのものだった。その方は、ご自身と、ご自身の親との関係で、長く苦しんでい
る。

「こんにちは。公私共に、お忙しそうですね。

実は、また私自身の親子関係で、悶々としているのですが、
親との関係に悩んでいると友人に相談したところ、その友人も幼い頃、
親に「お前などいらない子だった」というような言葉の虐待を受けて
いたそうです。

その友人は、親に対して本当の自分を出せずに生きてきたけれど、
結婚するときにそれまでの自分の中のわだかまりを話したら、
親も謝ってくれたそうです。

友人自身も「一番言いたかった」「私を産んでくれてありがとう」
という一言を言えた、という話をしてくれたのですが……

私は、今、二人の子ども達に恵まれ、「生まれてきてくれてありがとう」
とは思っていますが、親に対しては「産んでくれてありがとう」
なんて思えないのです。

私の意見を、どう思われますか?」

+++++++++++++++++++++

 ふつう、「産んでやった」「産んでいただきました」という言葉は、ペアの関係にある。

 親は「産んでやった」と言い、子どもはそれを受けて、「産んでいただきました」と言う。しかし
その関係は、どこか、あのK国の人たちの関係に似ていると思いませんか。

 将軍様とやらは、何かにつけて、民衆に恩を売る。それを受けて、民衆たちは、何かにつけ
て、「将軍様のおかげです」と答える。一見、すばらしい関係に見えるが、どこか(?)。

 少し前だが、何かの宗教団体の大会で、こんなことを言う子どもがいた。

 「私は、五体満足で、生まれました。これも、お父さん、お母さんのおかげです。ありがとうご
ざいました」と。

 私はその言葉を聞いたとき、やはり(?)と思ってしまった。「もし、五体のどこかに問題があ
ったら、この子どもは、何と言うのだろうか?」と。

 だからといって、親に対して、感謝の念をもつことがおかしいと言っているのではない。私が
言いたいのは、親が、親側から、それを子どもに求めてはいけない。いわんや、期待したり、
強要してはいけないということ。

 親は、無条件で子どもを産み、育てる。無償の愛ともいう。「親だから……」「子だから……」
と気負うことはない。そうでなくても、親子の関係は、特殊なもの。ロレンツが発見した、(刷り込
み)のような刷り込みが、人間にもなされるということが、最近になって、わかってきた。

 卵からかえって、すぐ歩き始めるような鳥類は、最初に見たものや、聞いたものを、「親」と思
いこんでしまうという。そしてそのときできた、(親像)は、生涯にわたってつづくという。

 これは鳥の話だが、その刷り込みに、親は、甘えてはいけないということ。ある時期がきた
ら、親はしっかりと子離れをしなければならない。また子ども自身が、親離れするように、しっか
りとしむけなければならない。

 いつまでもベタベタの関係が、好ましいというわけではない。

 むしろ、親子であるという(しがらみ)、これを「家族自我群」というが、そのしがらみの中で、
悶々と悩んだり、苦しんだりしている人は、多い。切るに切れない、親子関係というわけであ
る。

 親子といえども、そこは純然たる人間関係。つまり、親は、親である前に、1人の人間。子ど
もも、子どもである前に、1人の人間。決して「親である」「子どもである」という関係に、甘えて
はいけない。

 きびしいことを書いたが、親であるということは、それくらい責任が重いということ。たとえば子
どもにすばらしい人間になってほしかったら、まず、その見本を、親が子どもに見せる。それく
らいの気構えがあっても、なかなかむずかしい。それが親子の関係である。

 さて、このメールをくれた女性は、いわゆる「幻惑」に苦しんでいる。家族自我群から発生する
悩みを総称して、幻惑という。その幻惑から、逃れるのは、容易なことではない。つまりは、そ
れくらい、この親子の(しがらみ)、つまり、家族自我群というのは、強烈であるということ。

 脳ミソの奥深くに、あたかも本能のように、しみついている。

 だから私としては、こう思う。「あまりこだわらないで、前だけを向いて進みなさい」と。

 人は、人。私は、私。その人がそれでハッピーなら、それでよいのです。「ああ、そうですか」と
笑ってすませたら、よいのです。家庭の事情というのは、まさに千差万別。だからあなたは、あ
なたで自分のことを考えればよいのです。

 またこれから先も、いっしょに考えていきましょう。
 書きこみ、ありがとうございました。




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28
●学力調査

●文部科学省の「学力調査」

 このほど文部科学省が、子どもの学力調査をした。それによると、「勉強が好き」と答えた高
校3年生は、20%だったという。

 ちなみに、01年の調査だが、それによると、

 「勉強が好き」と答えた、小学6年生……34%
             中学3年生……18%、だそうだ。

 学年を追うごとに、「勉強が好き」と答える子どもが減るということ。

 また学校以外での勉強について、

 「まったく勉強しない」と答えた高校生は、41%もいるという。約半数の子どもは、家では、ま
ったく勉強しないということか。

 同じように、

 「勉強をしない」と答えた、小学6年生……11%
              中学3年生…… 9%、だそうだ。

++++++++++++++

 こうした数字をみるとき注意しなければならないことは、「だから……」という解釈を、安易に
加えてはならないということ。

 だいたいにおいて、「勉強」とは何か。その意味を、はたして子どもたちは、わかっているのか
という問題もある。わかっていて、そう答えているのか。

 もちろん科目によっても、ちがうだろう。英語が好きでも、数学が嫌いという子どももいる。同
じ科目でも、ときに好きになったり、ときに嫌いになったりすることもある。

 さらに子どものばあい、先生との相性で、勉強が好きになったり、嫌いになったりすることが
多い。「先生が好きだから、理科が好き」と。

 また学校でする勉強だけが、勉強というわけでもない。E君(中2)は、2段式のペットボトルロ
ケットを作ったが、彼はそのため、夏休み一か月、その研究に没頭した。そういう勉強も、あ
る。

 で、中学生と高校生で、「勉強が好き」と答えた子どもが、18〜20%いたということは、私に
とっては、驚きである。少ないから驚いたのではなく、多いから、驚いた。20%もいたというの
は、驚きである。私はもっと、少ないかと思っていた。

 というのも、現在の教育体制の中では、子どもたちは、「上」から一方的に、勉強を与えられ
るだけ。それは、馬の前につりさげられたニンジンのようなもの。いくら前に走っても、子どもた
ちは、そのニンジンに追いつくことができない。

 もともと「勉強を好きになれ」というほうが、おかしい。

 そこで多くの教育者は、「勉強」に、夢と、目的と、希望を添えようとする。またそれがないと、
子どもを指導することはできない。
 
 (もう一つ、受験でおどすという方法がある。「いい高校へ入れ」「大学へ入れ」「しかし勉強し
ないと、いい大学へ入れないぞ」と。しかしこれは、本来、邪道。)

 そこで子どもを勉強嫌いにしないためには、どうするか。一つのコツは、子どもを、受動的な
立場に置かないということ。

 勉強というのは、子どもの立場でみると、一度、受動的になると、勉強そのものが、苦痛の種
となる。あまりよいたとえではないかもしれないが、子どもは、借金に追われる多重債務者のよ
うな立場になる。

 勉強しても、しても、いくらしても、追いつかない……。そんな状態になる。

 親が、子どもをそういう状態に追いこむこともある。子どもが、80点を取ってきたりすると、
「何よ、この点は! もっと、いい点を取りなさい」と言う。そこで子どもが、90点を取ってきたと
する。すると今度は、「どうして100点が取れないの」「あんたはやればできるはずだから」と言
う。

 ……と書き出したら、キリがない。この問題は、実は、底がたいへん深い。

 子どもを勉強好きにするというのは、教育がもつ、究極的な目標と考えてよい。好きにすれ
ば、それがどんな分野であれ、あとは子ども自身が、自分で伸びる。何も、学校で教える勉強
だけが、勉強というわけでもない。

 まあ、高校3年生になったとき、「私は勉強が好きだ」と言える子どもは、本当に幸福な子ども
と考えてよい。(勉強ができる・できない)はさておき、子どもの勉強を考えるとき、結局は、そ
れが教育の目標と考えてよい。

 よい大学(本当に、こういう言い方は、不愉快だが……)へ入るかどうかは、あくまでも、その
結果でしかない。
(はやし浩司 文部科学省 学力調査)




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29
●フランスの教育事情

フランスの「ラクロワ」という新聞が、こんな興味深い世論調査結果を報告している。

 フランス人の母親の43%が、毎日、子どもに向かって、「きょうのテストは何点だった?」と聞
いているという。

 同じ質問をする父親は、23%。「過半数の親が、テストの点に応じて、子どもに、ほうびを与
えたり、バツを与えたりする」そうだ。

 それについて、「親の75%が、テストの点数を気にしすぎていると意識しつつも、68%が、学
業成績を評価する貴重な指標」と、とらえているという。

 これは親の意識のちがいというよりも、教育システムのちがいによるものと考えてよい。欧米
では、生徒の成績はそのまま、教師の力と判断される。それだけに、教師側も、よりシビアな
立場に立たされる。フランスのことはよくわからないが、アメリカでは、教職についても、スポー
ツ選手と同じように、1年ごとの契約更新制になっている学校も、少なくない。教え方がへたな
教師は、1年で、クビになるということ。

 オーストラリアの語学校でも、毎週金曜日の最後の授業で、テストがなされる。そして冷酷な
までに、客観的に、その週の成績が評価される。

 欧米では、教師のほうが、点数をより気にしているということになる。(日本では、反対に、教
師自身が、学校間差別につながるとして、点数を公表することに、消極的になっている。)

 意外な記事だったので、ここに紹介した。





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30
●反動形成

●仮面

 昔から、1人、とても気になる女性がいる。よく知られた女性だが、もちろん、ここで名前を書く
ことはできない。その女性がだれかとわかるようなことも、書くことはできない。そのヒントも、ま
ずい。それを書けば、その女性の名誉を、ひどくキズつけることになる。

 その女性の名前をXX女史としておく。もともとは別の仕事をしていたが、ある日、何かのきっ
かけで、今の仕事をするようになった。年齢は、私より、上。それしか、書けない。

 その女性は、ときどきテレビなどにも出てきて、レポーターのインタビューを受けることがあ
る。見た感じは、たいへんおだやかで、やさしい。始終、笑みを絶やさない。話し方も、甘ったる
い言い方だが、相手を気づかう思いやりに、満ちあふれている。

 しかし、だ。

 どこか、へん。ぎこちない。不自然。大げさ。わざとらしい。何よりも気になるのは、「いかにも
私は聖人です」というような話し方をすること。視線を相手に合わせない。一方的に、しゃべる。
慈悲深い言葉を、相手に語りつづける。

 私が最初、その女性が気になったのは、ここにも書いたように、ジェスチヤが大げさだったか
ら。ときに、その場にいた人に、抱きついたり、頬ずりしたりしていた。どこか演技ぽい。「初対
面の人なのに、そこでするのかな?」と、そのときは、そう思った。

 反動形成の特徴は、ここにもあげたように、その言動が、どこか不自然で、ぎこちないこと。
大げさで、わざとらしい。話し方まで、まるでマリア様か、観音様のようになる。もう一つの特徴
を、つけ加えるなら、心がどこにあるかわからないような話し方をする。つかみどろこがない。
何を考えているか、よくわからない。

 私は、世間での評判とはちがって、そのXX女史の人間性(?)を、疑ってみるようになった。
その人の人間性は、その人自身の内側から出ているものではなく、反動形成によってつくられ
たものではないか、と。

 つまり、はっきり言えば、仮面。

 その仮面が、仮面をかぶり、さらにつぎの仮面をかぶる。やがてその仮面をかぶっているこ
とすら、自分でもわからなくなってしまう。そうした振るまいや、態度、姿勢、言い方すべてが、
その人のものとして、定着してしまう。

 恐らく、自分でも、どこからどこまでが、本当の自分で、どこから先が、仮面なのか、わかって
いないのではないかと思う。

 言うまでもなく、本当の(自分)は、醜い。その醜さを隠すために、反動形成としての仮面をか
ぶる。私はそのXX女史がテレビに顔を出すたびに、そのXX女史の顔を食い入るように見つめ
た。あれほどまでに、化けの皮を、分厚くかぶっている女性を、私は、ほかに知らない。

 ……という例は、少なくない。XX女史のような著名人は別として、あなたのまわりにも、似た
ような人が、1人や2人は、いるはず。

 見分け方は、簡単。

 ざっと頭の中でその人を思い浮かべてみる。そのとき、(1)どうも心が、つかめない。(2)何
を考えているか、わからない。(3)しかしいつも態度が大げさで、わざとらしく、ぎこちない。(4)
無理に自分をよい人間に見せようと、無理をしているようなところがある。そしてよく観察してみ
ると、(5)表の姿と裏の姿のちがいが、きわだって、はげしい、など。

 もちろん程度の差もある。ばあいもある。軽い人もいれば、そうでない人もいる。今でも、人
は、そういう人を、「タヌキ」と呼ぶ。表ヅラと、裏ヅラが、大きく違うからである。

 私の知人の中にも、そういう女性がいた。もう亡くなってから10年ほどになるが、近所では、
「マリア様」と呼ばれていた女性がいた。細くて、色白の顔をしていた。体つきも、きゃしゃだっ
た。

 その人と街で、出会ったりすると、さも私は人間のできがちがいますというような表情を見せ
たあと、「お子様は、元気ですか?」「お母様は、いかがですか?」と、私に話しかけてきた。た
しかに上品な顔だちをしていた。

 最初のころは、「ああ、私の家族のことを気にかけていてくれるのだな」と思っていたが、会う
たびに、そう言う。またどの人にも、そう言う。それがわかってからは、その女性を、疑ってみる
ようになった。

 「この女性は、自分をいい人間に見せるために、わざと、そう言っているのではないか」と。
が、それを確信させるようなことを、その女性がなくなってから、数年後に聞いた。

 何と、その女性が、その昔、寝たきりになっていた義祖母を、虐待していたというのだ。

 表では、つまり他人の目の届くところでは、義祖母思いの、やさしい嫁を演じながら、その裏
で、義祖母を虐待していたという。わざとおむつを取りかえてやらなかったり、わざと消化の悪
いものを食べさせたりするなど。

 その女性は、その義祖母の実の娘を、だれよりも警戒していたという。実際には、絶対に、二
人だけにはしなかった。そして義祖母の耳のそばで、いつもこう言っていたという。

 「いいこと、私の悪口を言ったら、もうあんたなんかのめんどうは、みないからね」と。

 実の娘は、その嫁の虐待を薄々感じてはいたが、しかしそれ以上は、介入できなかった。寝
たきりの老人の介護をするのは、たいへんな重労働である。実の娘だったが、その重労働を
引きうける自信がなかった。

 一方、その義祖母にしても、嫁のその女性を怒らせたら、それこそ、何もしてもらえなくなる。
他人の目の届くときだけでも、親切にしてもらえれば、それでいい。……というふうに考えてい
たのだろう。義祖母は義祖母なりに、「いい嫁です」と、人には言っていた。

 私はこの話を、聞いたとき、「あの人が……!」と絶句してしまった。その女性は、まさにマリ
ア様のような感じの女性だったからである。

 で、今から思うと、その女性の目的は、義祖母の残した財産ではなかったかと思う。義祖母
がなくなったあと、1億円近い遺産を、自分のものにしている。

 さて、冒頭に書いたXX女史だが、たしかに不気味な女性である。その派手な行いとは別に、
いつもテレビカメラのほうばかり気にしているといった感じ。「聖人というのは、私のような人間
をいうのです」というような態度を、これ見よがしに、演じて(?)見せることもある。

 その立場と地位、世間的な評価を気にしているうちに、別の(自分)をつくりあげてしまったの
かもしれない。「すばらしい人というのは、こういう人という」と、である。

 しかし仮面は仮面。ほかの人は欺(あざ)けても、私は、できない。この文章を読んだ、あなた
も、できない。反動形成というものが、どういうものか、そして、その仮面の見破り方を知ってし
まったからである。

++++++++++++++++

(追記)

 子どもの世界にも、この反動形成は、よく見られる。やはり、どこか不自然で、ぎこちない。大
げさで、わざとらしい。たいていは、その奥で、嫉妬や、ゆがんだ欲望とからんでいるとみる。

 その子どものモノを隠しながら、表面的には、親友を演ずる、など。そして最後の最後まで、
その子どものモノをいっしょに、さがすフリをしてみせたりする。

 私も、そういうケースを何例か経験しているが、「ふつうなら、そこまで協力しないのに……」と
思うようなことまで、してみせる。真っ暗になるまで、いっしょになくなったモノをさがしたりするな
ど。ここでいう「不自然さ」というのは、そういう不自然さをいう。

++++++++++++++++

反動形成の問題ではありませんが、以前
こんな原稿を書きました。思い出しましたので
ここに掲載します。
(中日新聞、投稿ずみ)

++++++++++++++++

●いじめの陰に嫉妬

 陰湿かつ執拗ないじめには、たいていその裏で嫉妬がからんでいる。この嫉妬というのは、
恐らく人間が下等動物の時代からもっていた、いわば原始的な感情の一つと言える。それだけ
に扱いかたをまちがえると、とんでもない結果を招く。

 市内のある幼稚園でこんなことがあった。

その母親は、その幼稚園でPTAの役員をしていた。その立場をよいことに、いつもその幼稚園
に出入りしていたのだが、ライバルの母親の娘(年中児)を見つけると、その子どもに執拗ない
じめを繰り返していた。手口はこうだ。

その子どもの横を通り過ぎながら、わざとその子どもを足蹴りにして倒す。そして「ごめんなさい
ね」と作り笑いをしながら、その子どもを抱きかかえて起こす。起こしながら、その勢いで、また
その子どもを放り投げて倒す。

以後、その子どもはその母親の姿を見かけただけで、顔を真っ青にしておびえるようになった
という。

ことのいきさつを子どもから聞いた母親は、相手の母親に、それとなく話をしてみたが、その母
親は最後までとぼけて、取りあわなかったという。父親同士が、同じ病院に勤める医師だった
ということもあった。被害にあった母親はそれ以上に強く、問いただすことができなかった。

似たようなケースだが、ほかにマンションのエレベータの中で、隣人の子ども(三歳男児)を、や
はり足蹴りにしていた母親もいた。この話を、八〇歳を過ぎた私の母にすると、母は、こう言っ
て笑った。「昔は、田舎のほうでは、子殺しというものまであったからね」と。

 子どものいじめとて例外ではない。Tさん(小三女児)は、陰湿なもの隠しで悩んでいた。体操
着やカバン、スリッパは言うに及ばず、成績表まで隠されてしまった。しかもそれが一年以上も
続いた。Tさんは転校まで考えていたが、もの隠しをしていたのは、Tさんの親友と思われてい
たUという女の子だった。

それがわかったとき、Tさんの母親は言葉を失ってしまった。「いつも最後まで学校に残って、
なくなったものを一緒にさがしていてくれたのはUさんでした」と。

Tさんは、クラスの人気者。背が高くて、スポーツマンだった。一方、Uは、ずんぐりした体格
の、どうみてもできがよい子どもには見えなかった。Uは、親友のふりをしながら、いつもTさん
のスキをねらっていた。そして最近でも、こんなことがあった。

 ある母親から、「うちの娘(中二)が、陰湿なもの隠しに悩んでいます。どうしたらいいでしょう
か」と。先のTさんの事件のときもそうだったが、こうしたもの隠しが長期にわたって続くときは、
身近にいる子どもをまず疑ってみる。

そこで私が、「今一番、身近にいる友人は誰か」と聞くと、その母親は、「そういえば、毎朝、迎
えにきてくれる子がいます」と。そこで私は、こうアドバイスした。

「朝、その子どもが迎えにきたら、じっとその子どもの目をみつめて、『おばさんは、何でも知っ
ていますからね』とだけ言いなさい」と。

その母親は、私のアドバイス通りに、その子どもにそう言った。以後、その日を境に、もの隠し
はウソのように消えた。




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31

●子どものオナニー(自慰)

 受験をひかえた受験生が、毎晩(毎日)、オナニーにふけることは、珍しくない。

 財団法人、「日本性教育協会」の調査(1999年)によれば、

 マスターベーションの経験者  中学生……41・6%
                高校生……86・1%
                大学生……94・2%(以上、男子)

                中学生…… 7・7%
                高校生……19・5%
                大学生……40・1%(以上、女子)

 ということだそうだ。この割合は、近年増加傾向にあるが、とくに若年化が進んでいることが
知られている。

 たとえば男子中学生のばあい、マスターベーション経験者は、87年には、30・3%だったの
が、99年には、41・6%に増加している。性交経験者も、男子高校生だけをみても、11・5%
(87年)から、26・5%(99年)へと、増加している。

 そのオナニー(自慰、マスターベーション、手淫などとも呼ばれている)について、ある母親か
ら、相談があった。「中学3年生になる息子が、受験をひかえ、オナニーばかりしているようだ
が……」と。

 オナニーをすると、脳内で、麻薬様物質が放出されることがわかっている。現在、数10種類
ほど、発見されているが、大きく分けて、エンドロフィン系と、エンケファリン系に大別される。

 わかりやすく言えば、性的刺激を加えると、脳内で、勝手にモルヒネ様の物質がつくられ、そ
れが陶酔感を引き起こすということ。この陶酔感が、ときには、痛みをやわらげたり、精神の緊
張感をほぐしたりする。

 問題は、それが麻薬様の物質であること。習慣性があるか、ないかということになる。

 モルヒネには、習慣性があることが知られている。しかしエンドロフィンにしても、エンケファリ
ンにしても、それらは体内でつくられる物質である。そのため習慣性はないと考えられていた。
が、動物実験などでは、その習慣性が認められている。つまり、オナニーも繰りかえすと、「中
毒」になることもあるということ。

 その相談のあった中学生も、受験というプレッシャーから、緊張感を解放するため、オナニー
にふけっているものと思われる。そして相談のメールによれば、中毒化(?)しているということ
になる。

 オナニーの害については、「ない」というのが、一般的な意見だが、過度にそれにふけること
により、ここでいう中毒性が生まれることは、当然、考えられる。

 男子のばあいは、手淫(しゅいん)ということからもわかるように、好みの女性の裸体を思い
浮かべたり、写真やビデオをみながら、手でペニスを刺激して、快感を覚える。

 女子のばあいは、好みの男性に抱きつかれる様子を想像しながら、乳首や、クリトリス、膣を
刺激しながら、快感を覚える。

 男子のばあい、中に、肛門のほうから前立腺を刺激して、快感を得る子どももいる。

 さらに病的になると、依存症に似た症状を示すこともある。中学生や、高校生については、知
らないが、セックス依存症のおとな(とくに女性に多い)は、珍しくない。「セックスしているときだ
け、自分でいられる」と言った女性がいた。

 しかしこうした、エンドロフィンにしても、エンケファリンにしても、オナニーだけによってつくら
れるものではない。

 スポーツをしたり、音楽を聞いたりすることでも、脳内でつくられることが知られている。善行
を行うと、脳の辺縁系にある扁桃体でも、つくられるこも知られている。スポーツをした人や、ボ
ランティア活動をした人が、そのあと、よく「ああ、気持ちよかった」と言うのは、そのためであ
る。つまり、同じ快感を得る方法は、ほかにもあるということ。

 私のばあいも、夜中に、自転車で、30分〜1時間走ってきたあとなど、心地よい汗とともに、
気分がそう快になる。さらに翌朝、目をさましてみると、体中のこまかい細胞が、それぞれザワ
ザワと、活動しているのを感ずることもある。

 こうした方向に、子どもを指導しながら誘導するという方法もないわけではない。しかし中学
生ともなると、親の指導にも、限界がある。私の意見としては、子どもに任すしかないのではな
いかということ。

 こと、「性」にまつわる問題だけは、この時期になると、もう、どうしようもない。子ども自身がも
つ自己管理能力を信ずるしかない。現在の私やあなたがそうであるように、子どももまた、この
問題だけは、だれかに干渉されることを好まないだろう。
(はやし浩司 マスターベーション 自慰 オナニー 子どもの自慰 子供の自慰)
9873




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て評論家 子育ての悩みはやし浩司 教育評論 育児論 幼児教育論 育児論 子育て論 はやし浩司 林浩司 教育評論家 評論家 
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まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし 静岡県 浜松幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒
 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論
家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ. writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武
義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド
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